らくりんバンバン

〈 落 鱗 板 々 〉



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福永放言 投稿者:ぐっちん  投稿日:11月 9日(金)12時50分18秒

  >MANUさんインソムニアさんへ

 どのあたりから読めば流れが掴めるのかわかりませんでした。

 >自問自答

 以前、ヨガや太極拳は心身の鍛練および痩身効果などの目的なら
許されるのかと問いを提出しましたが、それについて。
 
 佐保田鶴治みたいな思想家からみれば、「やせるヨガ」なんてのは
邪道でしょうね。気功師の先生なども独自の東洋哲学をお持ちでしょうし
健康ブームなどの時流に乗って流行るのは苦々しい思いをお持ちだと
思います。

 やっぱ野口体操のような宗教色のないものに留めておこう。
ぐっちんにとっては、12月は偉大なる宗教家、イエスを特に
念う月です。ローマカトリックではない、東方正教会のミサ曲は
声明に雰囲気が似ているものもあってBGMとしてグッド。


インソムニアさんへ 投稿者:MANU  投稿日:11月 9日(金)11時48分22秒

よければ、私の掲示板にも書き込んでください。
歓迎します。
入りづらかったら、まずはメールでもいいですよ。

>「らくりん」さん
お気遣いありがとうございます。
私も肝に銘じるべきことですので。

欲を言えば、これを機会に私のHPに興味をもってくれる人が居られれば、
これもうれしいことです。

では、お邪魔致しました。

http://homepage1.nifty.com/MANU/


m(_ _)m 投稿者:インソムニア  投稿日:11月 9日(金)10時27分15秒

仰る通りです。すみませんでした。


ネチケット 投稿者:らくりん  投稿日:11月 9日(金)09時20分52秒

>インソムニアさん
初めての掲示板にはなかなか書き込みづらいかもしれませんが、
別の掲示板のことを、なんの前フリもなく別の掲示板で話題にするのは
あまり感心できないことだと思います。
両方を見ていない人にはなんのことだかわかりません。
両方見ていないという前提で書くようにこころがけて下さい。
特に今回のように、内容に対する直接的なレス・感想になっている場合は
なおさらです。

掲示板は、なるべくそこを見ているだけで話の流れがわかるように
していきたいと思います。


クリスマスツリーは来なかったが。。。 投稿者:流れ星狂信 ☆彡  投稿日:11月 9日(金)08時31分08秒

話題が拡がって、ごめんなさい。
「クリスマスツリーがやってきた」の感想です。
というか、ミネさんの書き込みのなかの「真宗に出会って変わりつつある時」
という言葉と連動して書きたくなりました。
      
こどもたちが物心つく頃、クリスマスをどうするかということが、
漠然と話題になりまして、ツリーは買わないことにしたことを思い出しました。
しかし、その話し合いがあったことはいつの間にか、忘れてしまいまして、
私は、自主的にサンタさんの仕事をするようになってしまっていました。

キリスト教は日本には定着しなかったといわれていますが、
西欧文化との接触、そして痛ましい敗戦の虚無感のなかで、
アメリカの生と富の象徴として広く受け入れられたと思います。
このイメージが、キリスト教そのものでは
ないのでしょうが、一つの大きな価値観としてもあると思います。
ですから、神道とはまた違った、拒絶しがたい面もあるのではないか。

クリスマスを祝う事に、
まったく無自覚であることは、おかしいのだなと。

下の女の子が、今年、得度を受けました。
プレゼントより大切なものがあるということを、昨年までのサンタが、
家族に、プレゼントするとはおこがましいですが、
なんとか伝えられないものか。ぐじぐじ、考えております。


「仏の部屋」 投稿者:インソムニア  投稿日:11月 9日(金)01時36分23秒

>MANUさん
「MANU」さんの仏の部屋の、阿弥陀岳さんとのやり取りを読んで、私に対して言われている様な気がして、辛くなりました。どういう経緯で今のような話になっているのかは、よく分かりませんが、私も、自分の先生や、仏法について話をしている方々から、こんなふうに思われている様な気がします。自分が、なぜ仏法と関わっているのか(何のために仏法を聞くのか)はっきりしていないところもあるし、聞きたいという気持ちはあるのに、知識を取り入れて(本を読む)それで少し真宗というものが分かった気になっている様なところがあると思うのです。本当の自分とはどんなものか、よく分かっていないから、これからどうしたらいいかも分からない。どん底まで落ちて、もうどうしようもなくなれば、分かるのだろうか?


バックアップ、もう一手 投稿者:らくりん  投稿日:11月 8日(木)15時56分52秒

WINDOWSについているブリーフケースの機能を使うと
二つのハードディスクとかリムーバブルディスクとの間で
完全にシンクロしたデータフォルダを二つ作ることができます。

私は、Lanでつないだノートパソコンとデスクトップとの間で、
文書データをシンクロさせて、データの携帯に使っています。
ブリーフケース機能は本来こういう使い方をするために用意されている
みたいです。

二つのフォルダ間を照合したりするので、コピーの操作よりも若干トロイですが

普通バックアップ用のフォルダにはどんどん要らないものが蓄積されていて、
元のフォルダよりもサイズも大きくなり、中味もごちゃごちゃしてくるので
すが、常にまったく同じフォルダが別媒体に存在するというのは安心です。
リカバリーの際もまったく元通りに復元できます。

ブリーフケースの使い方はWINDOWSのヘルプで調べて下さい。


バックアップのバッチファイルコマンド 投稿者:らくりん  投稿日:11月 8日(木)15時42分24秒

>ダラブチさん
過去ログから、再カキコ、です。

テキストスタイルで例えば[bak.bat]という新規ファイルを
用意して、(半角8文字以内で、拡張子が[bat]であればファイル名は何でもいい)
[.bat]という拡張子は単なるテキストファイルを実行ファイルに変身させる
すぐれ物です。

そのファイルに以下のコマンドラインを記入します。

  xcopy c:\aaa\*.* d:\ddd\ /e/m/s
  exit

このバッチファイルを、
C:¥WINDOWSのフォルダに移動してやります。
それで[スタート]→[プログラム]→[MSーDOSプロンプト]を起動して
[bak]と入力して、エンタキーを押してやると上のコマンドラインが実行されます。

ちなみに、私はこの[bak.bat]にショートカットキーを設定して、
デスクトップからマウスクリックで実行させています。

各コマンドの意味は
・xcopyオプション指定をして複数のファイルをコピーするコマンドです。
・c:\aaa\バックアップの対象となるフォルダの指定です。
 (私は自分で作ったデータはすべてこのフォルダ内に格納するよう
にしています。aaaにしてあるのは、フォルダ一覧で先頭にくるから)
 データフォルダがあちこちに分散している場合は、\aaa\の部分だけを
 当該フォルダ名に書き換えて、行を改めて同じことを書けばいくらでも
 指定できます。
・*.*指定フォルダ内のすべてのファイルという意味
・d:\ddd\コピー先のフォルダの指定(使用状況に応じて適宜)
・/e/m/sオプションスイッチ
 /eコピー先にフォルダが無ければフォルダの自動作成
 /s下層のサブフォルダの中味もすべてコピーする
 /mアーカイブチェック(新旧比較して変更ファイルのみをコピー)
・exitバッチ処理を終了してDOS窓を閉じる

ただし、これは98機のMSーDOSでやっている操作で、
DOS/V機では使ったことがありません。(たぶん大丈夫でしょう)
(インターネット専用でバックアップをとっていないので)

もう一つただし、MSーDOSのコマンド機能が用意されているのは
WINDOWS98まででだそうで、
Meでは切り捨てられたとか言われていますので、
こうしたバッチファイルが動くかどうか保証の限りではありません。
すべて自己責任で試みて下さい。


件のHD 投稿者:らくりん  投稿日:11月 8日(木)15時34分08秒

再インストールはついにだめだった。
別のHDからシステムをコピーしたら、起動はできるようになって一応
使える状態にはなったが、
どうもスキャンディスクや、クラスたサイズの変更など
ハードディスク回りのユーティリティを使ってみると、これも一応クリア
されるのだが、ときおり不審な挙動をみせる。
このままでは、大切なデータを入れて使うわけにはいかない。
機会相手であっても
一度、疑心暗鬼になるとなかなか、信頼感は取り戻せない。

機会ですらそうなのに、まして人間においておや
と、あらためて思い知らされました。

やっぱHD換えようっと。機会相手だとこれができるからいいですよね。


なぞかけ 投稿者:ぐっちん  投稿日:11月 8日(木)15時21分43秒

 ほんとは山崎ピュア・モルトのCMコピー。
子供のころ飲んだデルモンテは食塩が効いてた。

 何もたさ(せ)ない。何もひか(け)ない。
無添加。成分無調整。 あ、こんなことやってると
バチ当たる。。。


バックアップ 投稿者:ダラブチ  投稿日:11月 8日(木)15時09分17秒

>らくりんさん
・・・の話題が出たところで、申し訳ありませんが、更新されたデータファイルを別のHDDに
コピーさせるバッチファイルをもう一度書いていただけませんでしょうか。
ウィンドウズが不安定になって、思い切って入れ直したときそのバッチファイルを消してしまい
ました。前の投稿を見ようとしたら、既にアクセスできない昔になっていました。

そういえば今夜お会いしますね。


ネタ元 投稿者:らくりん  投稿日:11月 8日(木)09時07分56秒

>ROCKさん
ようこそ、again。
おっしゃる通りあれは『歎異抄』です。
三吉さんから、浄土教系についての蘊蓄をだいぶん聞かされた
のではないかと推察します。
ここらあたりの掲示板は三吉さんのネタ元の一つになっているかも。


HDが……(∞;) 投稿者:らくりん  投稿日:11月 8日(木)09時03分25秒

ネット専用に使っているパソコンが、ある朝突然起動できなくなった。
ネット関係以外の大切なデータは入っていないとはいえ、
近々数日分のメールとかダウンロードデータはまだバックアップをとっていない。

とりあえず、もう一つHDをつないで、その辺のデータだけは取り出しておいて、
HDを物理フォーマットからやり直して、インストールすることに。
ところが、それでもWINDOWSインストール後の環境設定のための再起動
の途中で固まってしまう。
いろいろ変えて、何度かやり直してもほとんど同じ症状が繰り返されるだけ、
HDが物理的にやられているみたいだ。寿命か。
でも、どうして……?

もう少し、ねばってみてダメなら、HDを取り替えるしかないかな。

みなさん、大事なデータはこまめに二次媒体にバックアップしましょう。


らくりんさん、こんばんわ。 投稿者:ROCK@立正佼成会  投稿日:11月 7日(水)23時16分06秒

久遠凡夫のなんたら...うちにも来ました。

>「念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」

親鸞聖人の歎異抄のお言葉ですね。

たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に
おちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。(歎異抄)

【現代語訳】
たとえ法然聖人にだまされて、念仏によって地獄に落ちたとしても、
けっして後悔することはない。

これこそが確固たる信仰でありましょうね。
信仰者がもつべきはこれだと思うんですね。

http://green.jbbs.net/study/339/hyuman.html


またまた、珍客 投稿者:らくりん  投稿日:11月 7日(水)17時12分49秒

久遠の凡夫慈悟朗さん
初めまして、

「無間地獄に堕ちるぞ」という言葉を他者に投げかけて、
それで何らかのおどしになると考えらておられるような精神性では、
残念ながら、
「念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」
というような念仏の教えの「そこはかとない深み」は
なかなかご理解いただけないだろうと思います。


(無題) 投稿者:狂信  投稿日:11月 7日(水)08時17分23秒

それにしても、グットタイミング。。。


>ミネさん 投稿者:流れ星狂信 ☆彡  投稿日:11月 7日(水)08時07分16秒

この掲示板で、うだうだ書いてきたことが、
おっしゃった「法執」という言葉でしっくりしたということでここに書きました。
それについて、教えられるご縁をいただけたというだけでも、
私はお念仏でよかったナと、思っています。


トマトジュース 投稿者:お留守居役様  投稿日:11月 6日(火)17時58分46秒

トマトジュースや野菜ジュースは飲めますが、
生のトマトが食べられません。
生臭くって変な味で、甘いとか辛いとかはっきりしないし。。。。
でも、トマトケチャップは食べてます。
こんなσ(^^)は変でしょうか?


トマトジュース 投稿者:Maro  投稿日:11月 6日(火)11時32分27秒

「親父が何時も美味そうに飲んでた。飲んで見たら美味かった。」
私は、こうでした。
 でも、私の子どもは飲みません。美味そうに見えないのかな?

 ちょっと、タイミングはずしてすいません。


念仏無間 投稿者:久遠の凡夫慈悟朗  投稿日:11月 6日(火)11時21分34秒

 念仏は無間地獄の業因なり、法華経は成仏得道の直路なり、早く浄土宗を捨て法華経を保ち生死を離れ菩提を得べき事。
 法華経第二譬喩品に云く「若人此の経を信ぜずして毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん、其の人命終して阿鼻獄に入らん、一劫を具足して劫尽きなば更生れん、是くの如く展転して無数劫に至らん」云々 此の文の如くんば方便の念仏を信じて真実の法華信ぜざらん者は無間地獄に堕つ可きなり。
 この文は日蓮大聖人の書かれた「念仏無間地獄抄」の冒頭の文です。釈尊は様々な衆生の機根に適した法を説いていきました。そして出世の本懐に法華経を説いたといわれます。方便である念仏に執着して真実の法華経を誹謗し捨てることはかなり危険なことです。
 法然房、親鸞の邪義によって日本国中に、浄土宗、浄土真宗が広がり、生き生きとした本来の仏教を死の宗教にしてしまったのが歴史の事実だと思われます。
 僕の友人は念仏にはまり、聴聞会に行ったり教学に励んだりしています。しかし彼は以前よりも暗くなり生気が殆ど感じられなくなっています。これが念仏を深く信じ実践した現証です。
 僕は法華経に帰依しました。大歓喜に溢れました。苦しみや悲しみも一つ一つ喜び幸福に変革していくことができました。これからも悩みは尽きないでしょう。そのたびに戦って乗り越えていくことでしょう。何とすばらしいことか!
 あなた方も末法の御本仏日蓮大聖人の仏法に帰依することを祈ります。
追伸 娑婆世界を浄土に転じて行きましょう!自身の胸中の仏界を開いて!


法執について 投稿者:ミネ  投稿日:11月 6日(火)10時41分41秒

流れ星狂信さま
「美川の会」では会話が中途半端になってしまい、気になっていたのですが、このHPであなたの言葉を
みつけたので、言い足りなかったことを書きます。あの時「宗教の話ができない」と嘆いていた私の友人の話をしましたね。
(詳しくは下の私のHPへ) 

あのHPの文章を書いた後に、私が彼女に感じたことを「美川の会」で「法執」と私は言いましたが、法執自体を否定するつもりで
言ったのではないのです。真宗に出会った感動があればある程、「真宗でなければならない」というこだわりをもつものだ
という意味なのです。私の昔の苦い経験をひとつ。大学時代の友人が、クリスマスカードを送って来てくれました。私はその頃、
真宗に出会って変わりつつある時だったので、「なぜキリスト教を信じていない日本人が、クリスマスを祝ったり、カードの
やりとりをするのか。私が勉強している真宗はすばらしい」というような返事を長々と書いた記憶があります。
その後、彼女からは謝りの手紙が来たんだけれど、「私はあなたより真剣に宗教や人生について考えている」みたいな
傲慢さで彼女をやり込めてしまったのではないかと、ひどく落ち込みました。もう15年も前のことですが、いまだに忘れ
られません。法執があるからこそ学んでいけるという思いと、排他性の両方を感じています。

http://www80.tcup.com/8055/ymine.html


なぞかけ2 投稿者:お留守居役様  投稿日:11月 6日(火)10時17分56秒

念仏とかけまして、固いスルメととく。

そのこころは?

口にはしてみるものの、なかなか飲み込めない。

口先だけでもよいとの説もありますが。。。。


トマトジュース 投稿者:ダラブチ  投稿日:11月 6日(火)09時13分49秒

「最初口にするまで一大決心が要るけれど、口慣れするとどこか憎めない味」

生まれて初めて飲んだとき、「なんじゃ、こりゃ〜(松田優作ふうに)」と吐き出した。
今は、二日酔いの朝のお友達です。

私もやはり「カゴメ」が気に掛かる。他のメーカーじゃダメなの?


(無題) 投稿者:流れ星狂信 ☆彡  投稿日:11月 6日(火)09時10分16秒

宮崎駿「魔女の宅急便」で、オソノさんが、魔女見習いキキに
インスタントコーヒーを入れてあげるシーンがある。
これが、実に、旨そうなのよ。
作った人の気持ちが見えると、インスタントでも、というか、
本物よりも、美味しいものかもしれないネ。

いゃー、朝から、爽やかさんw


気になるナ 投稿者:流れ星狂信 ☆彡  投稿日:11月 6日(火)08時52分11秒

本物のトマトジュースじゃないけれど、
阿弥陀さんの功徳濃縮・還元というお仕事が詰まってて、
コンビニで買える。

固くて御免。「カゴメ」ってとこが、気になるな。。。。


Re:なぞかけ 投稿者:MANU.  投稿日:11月 6日(火)01時16分42秒

口にしてみなきゃ
その妙味は味わえない。

缶のデザインや成分をいつまでも眺めてたり分析してても、
味はわからないでしょうにねぇ

http://homepage1.nifty.com/MANU/


なぞかけ 投稿者:ぐっちん  投稿日:11月 5日(月)21時39分16秒

 念仏とかけまして、カゴメトマトジュースととく。
そのこころは?


他人のフンドシ 投稿者:ぐっちん  投稿日:11月 5日(月)20時49分12秒

 ふーむ。藤元せんせの『願心を師となす』には
泣けちゃいました。...どだい、人間ちゅうのは、困ることは
あっても苦悩せんもんやと。阿弥陀さん以外の仏さんは確かに
悟ってはいるのやけど、苦悩しとらん。

 困ることしかせん人間が、苦悩し続ける阿弥陀によって
苦悩する存在になる。一切衆生の苦悩を我が苦として
荷うものとなる。

 確か、こんな感じですが、詳しくは本山から取り寄せて
お読みください。

 これっ、なんかエエなあ。末永直海の(よしりんのゴー
宣に出てきたピャーポ嬢とはこの人のこと)『薔薇の鬼ごっこ』
にこんなくだりがあるんです。

 。。。この世の中には、涙って二種類しかないと思うの。
何かを背負ってしまった悲しみと、何かを失ってしまった悲しみと。
この二種類に人間の涙がおさまってしまうんだったら、私、
なんだか心が軽くなってしまったの。。。


dakara 投稿者:MANU.  投稿日:11月 5日(月)09時44分35秒

自分の言葉ではなかなか書けないけれど、人の言葉をかりると書けてしまいます。
文才がないのは辛いですね。

「流れ星狂信 ☆彡 」さんが書かれたところをいただいて、
>この言葉は、
>「かならず浄土へ行くから、地獄は問題にならん」とか
>「死んだ後のことは、わからんのだから」とか
>そういうことではないですよね。
かならず浄土に行くとも思ってないし、地獄は嫌だし問題だし、
死んだ後のことはわからんのだけど、
地獄へ行くのは必然だと思い知らされている。
だから、地獄があるとかないとか、怖いとか怖くないとかに
固執する事はなくなった。
これが
>「救済願望」そのものから解き放たれたこと
という言い方をされたらピンときますね。

南無阿弥陀仏


レス 投稿者:流れ星狂信 ☆彡  投稿日:11月 5日(月)08時15分24秒

>ぐっちんさん

「地獄」の恐怖というと、以前にぐっちんさんがここで書いていた、
学生への死にたいする恐怖みたいなことになると思いますが、
「なんでじゃ」で書いたのは阿闍世、親鸞聖人の
「地獄に堕ちても」という言葉に対する私の中の戸惑いというか
恐れのような事柄です。

この言葉は、
「かならず浄土へ行くから、地獄は問題にならん」とか
「死んだ後のことは、わからんのだから」とか
そういうことではないですよね。

そこを、らくりんさんは
「「救済願望」そのものから解き放たれたことを表わしている表現」
と形容されるのでしょうが、言葉としては理解できても、
この、なんつうか、その、ウーン、どうもうなずけないというか
そこを、つけ込まれるんでしょうけれど。
なんつうか、ま、そんなところです。

それから、昔の自分は、はずいっす。忘れたいです。ダメですねぇ。。。

>小白水さん

お久しぶりです。
「御本典研鑽集記」では、勝手ながら、申し訳なかったと思っております。
「法執」で聖典をグリップしてみましたら、「選択集」にて
「我法執着」という言葉がヒットいたしました。
先人の言葉の中にすでに、自分の思いが語られていたということを知ると、
その流れの中に自分もいるのだなと、妙に安心したような気持ちになるんだから
不思議で、つくづく気分屋です。
ご指摘、ありがとうございました。


「ぐっちん」さん、どーもです。 投稿者:MANU.  投稿日:11月 5日(月)01時07分26秒

>MANUさんや狂信さんの思っておられる
>「地獄」という言葉はどういう状態をさしていわれているのだろう。。。

迷いの世界の極まりの世界(?)
過去おこなってきた「罪悪」の果(?)
今の私につながっているところ(?)

・・・説明できないですねぇ(困)
私にとってどうかって考えているよりも、「地獄一定」だと言われて「そうでしかない」と
思い知らされたとしか言い様がないですか・・・
なんせ、知識も行もせずに、疑問なく「南無阿弥陀仏」と称えさせていただいてますので・・・

「往生要集」に描かれているのは「今のわしのことや」っていうのは同感ですね。
 
すいませんねぇ、うまく理屈で答えられなくて
その分、楽に聞かせてもらってますけど。
(だから感覚的に伝わってくる「ぐっちん」さんの書き込みは好きです)

http://homepage1.nifty.com/MANU/


珍客、来訪。 投稿者:らくりん  投稿日:11月 4日(日)22時55分10秒

ROCK@立正佼成会さん、
初めまして、どもです。
よくこの三吉さんの秘密の花園がわかりましたね。

お気にめすかどうかわかりませんが、てきとーにお楽しみ下さい。



ふっふっふっふっ...み〜つ〜けったでぇ〜(微笑) 投稿者:ROCK@立正佼成会  投稿日:11月 4日(日)22時35分40秒

三吉っつあん見っけ(微笑)

http://green.jbbs.net/study/339/hyuman.html#1


昔の名前で 投稿者:らくりん  投稿日:11月 4日(日)19時05分45秒

小白水さん、
あの怒涛の「御本殿研鑽集記」で、お目にかかったお名前ですね。
昔のことではっきり思いだせませんが、ここは初めてでしたかね。

「ぼちぼち」なと、「バンバン」なと、「ガンガン」なと、
ご随意にお楽しみ下さい。


あとちょっと 投稿者:ぐっちん  投稿日:11月 4日(日)18時34分28秒

 狂信さんのお話ですが。。。

 だいたい人間は大人になったら子供時代の
ことを覚えてることもあるし、忘れてることも
いっぱいある。

 自転車がのれるようになったら、泳げるように
なったあとは、なかなかおぼれかかった時とか、
こけた時のことを再現しろといってもムズカシイ。

 ぐっちんは、意識的に「自分がお念仏に出会って
うれしかった」という感覚は何なんだろうという
作業をごちゃごちゃ書いています。

 ハイスペックのマシンを使いながら、基本スペックの
ものに対する愛着とウンチクみたいなものか。。。

 「結果」だけをあれやこれや、論議するから例えば
おじきさんに「真宗やなけりゃ救われん」式の発言を
した人みたいになるのではないかいな。

 「あなた」が今に至ったプロセスをたどりなおせば、
「わたし」にもそれはそれなりに「わかる」と思うんですが。。。


唯識もたまには必要? 投稿者:小白水  投稿日:11月 4日(日)18時19分42秒

 おさがわせしてます。小白水です。
唯識は自分の愚かさを理論的にといてるような。
言葉を尽くして自分の救われないことを
といてるように思います。
唯識の最後に念仏が出てきても言いように思うんですが・・・!
我執、法執について唯識はこれでもかっというように
といてます。


質問 投稿者:ぐっちん  投稿日:11月 4日(日)18時15分56秒

 MANUさんや狂信さんの思っておられる
「地獄」という言葉はどういう状態をさしていわれているのだろう。。。

 往生要集や大経下巻を20代半ばまともに読んで、
ぐっちんは震え上がったことがあります。「こりゃ、自分の周りの
あっちこっちで見聞きする現世のことやないか。で、おのれの心や
やってることをのぞきこんだらまさにオレの姿に他ならん!」

 で、ぐっちんは小学校に上がる前、アリんこをはじめとする昆虫観察と
昆虫イジメが趣味でした。「でも、アリにとったら迷惑な話やろな。
突然、宙から手が伸びてきて、そいつに水攻めにあったり手足を
もがれたり。こんな理屈のつかんこと、いったいどう考えてるんやろ」
と思ってました。(ほんならイジメるな!)

 ぐっちんはこの世の不条理に対してはお手上げです。「なんで、わいが
こんな目にしょっちゅうしょっちゅうあわなあかんのや」とか何とか。でも、
その原因にたいする「傾向と対策」なんてないんじゃないか。所詮この世は
不可解。

 「地獄」は、肉体的な苦痛ですか?それとも精神的なもの?「罪」に
たいする「罰」とお考えの何ものか、なのですか?


法執 投稿者:流れ星狂信 ☆彡  投稿日:11月 4日(日)08時16分05秒

昨日、美川の会に参加。らくりんさんのお話のあと、
【YY-Y's】のミネさんと、少しお話をした。
「法執ということもあるんじゃないか」。にゃるほど。

念仏こそ大切。親鸞聖人は素晴らしい人。
そこに自是他非という「執」ということもでてくる。

そして、それは私の場合「教団への執着」であり、遡れば「自分自身の執着」
とまで、なっていく。

ネット上で色々な方と話してきたが、どうしても念仏の大切さを認めない人。
聖人を侮辱する人。そんな人と不毛の議論をして別れたこともあった。
そんなときは、心の奥底で教えに縁がなかった人だったのだ。
「無宿善」という言葉が響いたこともあった。

しかし、念仏への執着を捨てることはできるのか。
捨てようとして、捨てられるものでもないとは思うが。
あるいは、捨ててよいものだろうか。

自分で自分のことは分からない。さあ、どっちの料理ショー。
美味しく料理してくださいマシ。


書く道具 投稿者:らくりん  投稿日:11月 3日(土)09時57分54秒

先日、
ワゴンセールで投げ売りしていたバージョン落ちワープロソフトを買って試用
してみたらけっこう使い勝手がよかった。
95年ごろの古い製品でしたが未開封品だったのでユーザー登録をして、
バージョンアップ版への権利を確保して、ネットで最新版を探したら見つか
りました。単独の製品版は、店頭販売は終了していましたが、ネット上から
ダウンロードする形と、日本語変換ソフトにバンドルされたものを入手できる
ようになっていました。
ところが、私の買ったやつは古すぎて最新版へのバージョンアップ優遇の対象に
なっていないという「トホッ」な話で……。

メーカーに電話して、古くて高い製品の新規の正規ユーザーであることを訴えて、
なんとか、バージョンアップの優遇を認めてもらいました。
昨日送金して、製品が届くのを待っています。

私が欲しいのは、とにかく軽快で、文章を書くことに主眼を置いて設計されて
いるソフトです。しかも、キーカスタマイズの自由が大きく、なおかつ私が必要
とする編集・レイアウト機能を備えていて、それが勝手がよいこと。
これまで一太郎、ワード、オーロラエース、松風、ワードパーフェクト、
WZエディターを試してみましたが、もう一つ帯・タスキで全面的に乗り換える
気にはなりませんでした。

さて、今回はどうでしょうか。期待半分というところです。
ちなみに、そのソフトはMSーDOS時代には物書きのユーザーの中で
定評のあったVJE Penと言います。
だれか、使ったことがある人がいますでしょうかね。


与えられた条件の中の出来事 投稿者:らくりん  投稿日:11月 3日(土)09時30分38秒

PC界で一世を風靡したNECPC98機にこだわっている私ですが、
私の場合は、手放したくないワープロソフトがその機械でしか動かない
という実用上の問題が最大の理由です。
もう一つの大きな理由であったキーボードの配列の違いをコンパートする
アダプタがみつかりましたので、WINDOWS上で動く使い勝手のいい
ワープロソフトが見つかれば、DOS/V機、乗り換えることにやぶさか
ではありません。

最近、その98系の専門サイトに入り浸って、98機にこだわり続けている
人たちの会話を覗き見て、それぞれにこだわりの理由があるみたいです。

98機は、本体は製造中止ですし、周辺機器も対応する製品は少なくなってきて
しかも、対応機器は値段がかなり割高。進化が止ってしまった世界です。

そんな限られた条件の中で、
手に入れにくいパーツや機器をどうやって手に入れたか、
いかに安く本体や機器を手に入れたか、
手に入らないパーツの穴をどのように工夫して乗り越えたか

低い基本スペックのマシンをどこまでパワーアップできるか。
しかもそれをいかに安く仕上げたかを、えんえんと書きつらねている
人がいます。そういう人は、実用的に使っているのは案外ハイスペックの
自作機だったりします。

私から見たら、ハードもソフトもすみずみまで知りつくしたような人たちが
わんさかいるという感じです。

限界がきわめてはっきりしているということが、それはそれでおもしろい
楽しみ方を生みだしてくるようです。そこにはやはり一つの世界がある。


価値観が合わなくなるとき 投稿者:流れ星狂信 ☆彡  投稿日:11月 3日(土)08時44分13秒

ネットゲームにて仲間と会話をしていると、ギャップを感じるときが、このところかなりある。
それは、難易度の高いスキルを持っていたり、高額の家を所有していたり
レアなアイテムを持っているということが、尊敬されるということだ。
しかしながら、それは結局、ながい時間をかけてゲームに集中してきたということ。
であるから、ゲームをすることに罪悪感を少々持ち合わせ、家も柵だと売ってしまった私には
「それだけのことじゃん」ということは言いたくもなるのだが、口には出さない。
実は、最近までその高いスキルを手に入れるために、必死に修行してきた身だったりするw

共同幻想のなかでの意味づけは、その場所での幻想にすぎないということなのかな。
(言葉の使い方まちがってたら、御免)

その幻想に振り回されている、無明の人間を見越して、聖道の諸行ではなく
称名念仏という単純、簡素、空っぽの行を選択されたと。
空っぽであるから、そこに意味を見いだしにくく、ただ、そこに意味が生まれてくる
という働きに注目しやすいのかな。

であるから、念仏には意味があるんだと、どうだ、これで、堂々巡り。hehehe


好きで地獄行きと言いたい訳じゃない 投稿者:MANU.  投稿日:11月 2日(金)18時35分05秒

>阿闍世のように親鸞聖人のように「地獄一定」とは、
>私は申すことはできない。やっぱり地獄は恐い。

地獄行きを恐れる恐れないということと
地獄一定と知らされることは違うのでは、と思ったりします。

私も地獄は怖いけど、「こういう種を持ってるじゃん」と気付かされたら、
地獄一定でしかない・・・

私が申そうと申すまいと、事実として横たわっているなら、
「地獄一定」という機でもって法に向かうしかないのでは・・・

http://homepage1.nifty.com/MANU/


お穢土でござる 投稿者:ぐっちん  投稿日:11月 2日(金)16時39分35秒

 宗教学者に岸本英夫というひとと堀一郎というひとがいました。
彼らは、一時代前の学者なので学問は中立的に研究する(特に
何教の信者としてでなく)という態度をとっていました。

 けれどある日、堀の方だったかが親父さんの命日に仏壇の香炉に
タバコをくべていたのです。それを岸本が見て、「お前先祖供養
しとるのか。殊勝な宗教心をもっているのだな」といいました。
すると堀は「わしはこんなん信じとるわけやない」と苦笑いしたとい
います。

 個人的な信念のレベルでは、中立的(科学的・無神論的)であろうと
しても他者から見た行為のレベルでは、堀は日本教徒とみなされてしまいます。

 無人島に言葉を知らない女がいました。彼女はある日、「生類を食べる
のは可愛そうだから、これからは肉食を禁止しよう」と思いました。
(ことばを持っていないからこれはあくまで、仮定のはなし)

 しかし、彼女の戒律は哺乳類は食べないが、魚は食べるし、晴れの日は
食べないが、雨の日は食べているといった、われわれ第三者の目から見れば
支離滅裂ないったい何に従っているのか解らないものでした。

 言葉が意味を持つというのは、共同体の中で使用方法を覚えるからであります。
ひととひとが、はじめて出会ったとき「コ・ン・ニ・チ・ワ」と発音するんだと
、大人たちはしつけ赤ん坊は覚える。

 出会ったときに「ゴ・シュ・ウ・ショ・オ・サ・マ」と言い出したら、大人たちは
慌ててその子の言葉使いを正します。

 「なむあみだぶつ」という言葉、字、音、それ自体に何か、意味やパワーが潜んで
いるのではない。これを称えるというところに、仲間を見出すことができる。そして、
仏になるという時間として、自分の一生を過ごすことができる。 


「救済願望」 投稿者:らくりん  投稿日:11月 2日(金)09時00分37秒

>「私は地獄行きです」とそれらしく申す
ことが、往々にして「執」の再表現にすぎないことがあるから、
変に聞こえるんじゃないですか。
「執」というのは「救われたい」という思いそのもです。
「救われるためにには、地獄さえも厭わない」という、
ちょっと屈折した「救済願望」表現を生みだしてしまう。

阿闍世の表白は、
「救済願望」そのものから解き放たれたことを表わしている表現であって、
「救済願望」表現とは方向が違うように思います。


なんでじゃ? 投稿者:流れ星狂信 ☆彡  投稿日:11月 2日(金)08時06分56秒

信巻の後半。阿闍世の廻心。地獄に堕ちることを恐れ、
心身ともに自傷していた彼が、釈尊に出会い、
「世尊、もし我審かによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、我常に阿鼻地獄に在りて、無量劫の中にもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もって苦とせず。」
と発言する。

「私は地獄行きです」とそれらしく申す人は多いが、
自分で自分を意味づけることは、なんだかおかしい。
といって、「私は信心を得たから浄土へ行きます」
と言うのも、やっぱりおかしい。それは一人の中で意味づけをしているから、
独り言であるからということもあるのではないか。

「有無の見を破す」
物事に意味はある。意味はない。人生に意味はある。意味はない。
両方とも間違っている。
人間が考える意味づけは不完全であり、
自分で自分を意味づける事は不可能。
そこまでは、分かる気がする。では、それから先はどうしたらいいのか。

そこから先が宗教の領域と言えるのかもしれない。
「人はパンのみに生きるにあらず。神の言葉によって生きるなり」

自分のやる、意味づけは間違っていて、不完全、不可能としても
やっぱり人間は、なにか意味がないと生きていけない。

浄土の教えは、娑婆のあらゆる意味を、念仏にすべて集中させること
により、有無の見を越えていく道だという。

阿闍世のように親鸞聖人のように「地獄一定」とは、
私は申すことはできない。やっぱり地獄は恐い。

しかし、先人の歩んだ道は、確かに、どういうわけか、
有無の見を破り、大乗菩薩道(不取正覚)を
実践していく歩みになっていると思う、なんでこういうことになるんじゃろ。

どないだ。


よくわからんけど 投稿者:ぐっちん  投稿日:11月 1日(木)17時10分38秒

 個人の中に、ぽつんと存在する意図・目的なんかないのじゃ
ないだろうか。教えられ、育まれ、受け継いだもの。他者と
共に生きる、あるいは生きているというその事態の中に「意味」は
生じるのではあるまいか。

 それは確かに「虚構」かもしれない。しかし、「世界」の中で
生きる人間はそれから逃れるわけにはいかない。

 枯葉が木の上から舞い落ちるというのは、行為ではなく、自然法則に
したがった現象である。つまるところ、この論理で世界を覆い尽くす
言説が科学(事実確認文の体制)である。人の「行為」もすべて自然法則に
従うものと捉える。そこには、「意味」や「意図」の入り込む余地はない。

 「豚を食べてはいけない」というコーランの教えには何の根拠もない。
(当時、豚で食中毒を起こす人が頻発したのでムハンマドが禁止したと
いう説があるが)
 今の日本で牛を食べないという人は、狂牛病を恐れてという事情で説明の
つく事柄である。しかし、神の命令は無根拠で理不尽である。この「虚構」
によって、ひとびとの「行動」を適切/不適切に分別することが生じる。
つまりそこにはじめて「規範」が生じることになる。

 自然法則にしたがうのであれば、そこには「自由」や「選択」もない。
豚肉を食べるなという根拠のない原的な否定性、禁止があってはじめて
行動には適切・不適切を判定することができる。これが行為執行文の
体制である。

 したがって仏教においても「仏の捨てたもうことを捨てる」という
行動が「選択」という行為になる。そして、阿弥陀如来が本願の精神を
「名号」に託したというのも「根拠」がない。それは、その意図を
それ以上遡ることはできない原的な禁止なのである。で、その仏語に
従いおのれのでたらめ勝手な主観によって行動を行為にしない人々が
「念仏者」といわれるのである。


空過せず 投稿者:ぐっちん  投稿日:11月 1日(木)16時33分14秒

 人はひとりで、まったくの無から意味を作り出すことが
できるのだろうか。

 ギリシャ神話にシジフォスの話がある。オリンポスの神々との
戦いに敗れた巨人族は奴隷となる。そのひとりシジフォスは高い
山上に巨大な岩を毎日運ぶように命令される。しかし、やっとの
思いで運んだ岩も不思議な力の作用で下まで転がり落ちる。
そしてシジフォスのいつ終わることも知れない無意味な作業・
行為という苦がはじまるのだ。

 源信の『往生要集』に地獄のひとつとして、刀葉林というのが
あったなあ。木の上にきれいなおねーちゃんがいて、私を抱いてと
いう。やっとの思いで登りきると、おねーちゃんは木の下。どうした
のよんっとかいって木の下に下りると、また上にいる。でその木には、
鋭い刃物がついてて罪人の体を切り刻むと。あーおっとろしー。

 自然現象と生理現象と行為の違いは、主体の意図・目的により区別が
つけられると以前書き込みました。しかし、その意図とはすでに他者が
つくりあげたものの焼き直しではないでしょうか。その主体者が属する
共同体の言語や風習や習慣や文化が持つ価値観の中にあったもの。

 親や先生や友達やTVや本や映画の中にすでにあったもの。


おしらせさせてください 投稿者:流れ星狂信 ☆彡  投稿日:11月 1日(木)15時13分26秒

らくりんさんが著者である「親鸞の教行信証を読み解く」の読書会が終了し、
新たに「みんなで教行信証を読み解こう(仮)」と表題で、本日、再スタートいたしました。
よろしくお願い申し上げます。

http://www.tcup4.com/444/masaho.html


懐かしい名前がでてきました 投稿者:流れ星狂信 ☆彡  投稿日:11月 1日(木)15時03分44秒

学生時代、J.L.オースチン「言語と行為」の読書会をやってました。
本棚を整理してみましたら、でてきました。
さっぱり、分かりませんw もう、こんな本、読めないな。

宗教に関わる言葉は、基本的に主観的な事件なのでしょうが、さらに。
真宗では、言葉を意味づけをする主体はあくまで阿弥陀如来という他者にある。

教行信証、行巻は、第十七願をモチーフとして、
あくまで行者・称える者が主役ではなく、諸仏・七高僧が主体となっている。
行者が主役になるのは信巻であり、弥陀如来からの呼びかけに
行者が応答していく事、浄土へ生まれたいという心(一心)の大切さ、純粋さが
表現されている。

「なむあみだぶつ」という言葉を発することは、
一心の表示ですから、聞く人がいても、いなくても
ちゃんと、行為遂行的発言になっている。それが往相。

で、聞く人がいればいるで、
発声者の意図を越えて、影響を及ぼし、
そこに行為遂行という意味合いが生じてくる。それが還相。

なんて、ぐっちんのマネをして、遊んでみましたw


小まとめ 投稿者:ぐっちん  投稿日:11月 1日(木)14時45分42秒

 ここまでの議論をまとめると、「客観」世界なる
対象の方にあらかじめただ一通りの「秩序」なり
「意味連関(意味のつらなり)」があるとは現代思想では
考えられていないようすです。

 科学者がどれだけ、自分は中立に自然の法則を「真理」と
して取り出そうとも、その知見は応用や実用という「人間社会」
の利用可能性という観点に収斂されていくイデオロギーにすぎない。

 で、宗教をこの「科学」の言説あるいは方法論の類比物として
捉えるというのはカテゴリーエラーなのではあるまいか。

 三吉さんや狂信さんは真宗門徒であるとともに哲学徒でも
あられるようですし、お留守居役様も哲学に詳しいので
何をいまさら初歩的なことを書いとるんじゃとおしかりを受けそうですが。。。


そのB 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月31日(水)18時25分59秒

 J.L.オースチンという人はおよそ文には
二種類あるといった。事実を確認する事実確認文と
言語を使うことによって命令や約束をする行為執行文である。

 @雨が降る日は天気が悪い。A隣りに蔵たちゃおのれは腹立つ。
などなどは外部の事実を記述するもので真か偽の判断ができる
命題である。@は真なる命題。Aはひとそれぞれ。

 @明日、六時にアルタの前で待ってるね。
 A私の民をエジプトから救い出しなさい。
などなどは、適切か不適切かによって判断される。
約束や命令が守られれば適切で守られなければ
不適切である。

 さて「自然科学」の扱う領域は当然、@の事実確認文の
世界である。で、宗教を含む「文化生活」の領域はAの行為
執行文が関わっているのは見てとれるだろう。

 「死後の世界」だの「十劫安心」だのいう話は、
@の領域の問題ではなく、Aの範囲にある。だから、私(主観)が
他人の死後の行方だとか、他人が往生したかしないかあるいは
私自身が往生するかどうかなどを真であるとか偽であるとか判断
できるわけはない。


『読み解く』を読む 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月31日(水)17時54分41秒

 で、阿難にもお釈迦さまが「仏様」として
長い間見えなかった。
 でもそれじゃ佛(ぶつ)に会うという出来事
は極めて「主観的」な事柄じゃあないか。

 A自分の意識の外にある超越と自分の意識の
  内にある内在

 目の前にドラエもんがあらわれて、竹コプターを
くれたとします。それを頭に乗っけてまず滑り台の
上から飛んでみた。見事墜落。

 意識によっては消せない(無視できない)
ものを現実と定義し、現れたり消えたりしてしまう
ものを空想(や夢)と名づけて区別しているようです。

 身をもつ私にとって有無をいわさず「外」であるものを
哲学用語では「超越」というそうです。で、「物質」も
超越ですが、「他人の意識」というのも「超越」には
違いない。だって、うちの子は私のいうことは聞かないんですもの。 


現代思想で『読み解く』を読む 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月31日(水)17時32分07秒

 親鸞が真実経(教)を決定したことについて

@身の丈サイズにより「世界」は違った風に顕れる

 光の人を見たという経験が真実経として
大経を選んでおられるのですが、私たちは
とかく「真実」と聞くとこの世にただひとつだけ
何時でも何処でも誰にでもあてはまる「普遍」があると
いうことを前提に物を考えている。

 これに対して言語学者丸山圭三郎が私に教えて下さった
のは以下の通り。

 観察者、あるいは認識者の身の丈具合で「客観」はいろんな
相貌をあらわす。

 囚人にとっては抜けられない鉄格子も、ノミには
自由をさえぎるものとは映らない。マイコプラズマあたりに
なると鉄分子も人間にとっての空気みたいなもんだったりして。
(ってウソ)

 あと言葉(文化)によっても同じ物が違った風に分節される。
七色の虹が消えてしまったの。。。ロスプリモスは歌うが、
仏教では青・黄・赤・白・黒と見えたらしい。出世魚などという例もある。
すしネタのハマチもその成長によってモジャコ、ワカナ、ツバス、
ハマチ、ブリと関西では呼び名が変わる。数詞をいち、に、たくさんの三種
しか持ってない民族がいる。彼らの目には、世界はどううつるのだろう。 


(無題) 投稿者:流れ星狂信 ☆彡  投稿日:10月31日(水)14時43分46秒

私は、十劫安心というのは、根源的に往生はすでに定まっているのだから、
もはや念仏する必要はないのだ、という考え方であると理解しています。

10月28日の書き込みが、三吉さんの言われるように読めるのでしょうが、
私は十劫安心の人が「本願に分別される」なんていうようなことではないと、
表現したくて、「アカン」あとの部分を書いたつもりです。

自分でも、この怒りがどこからでてくるのか、分からないのです。
だだ、この私のために念仏という手だてを用意してくださった阿弥陀さまに
申し訳ない、お念仏に申し訳ないとしか、今は表現しようがない。
その怒りが、間違っているとは思えません。

この気持ちが、整理出来ましたら、また、書かせてください。


そうか 投稿者:らくりん  投稿日:10月31日(水)09時31分22秒

やっと流れがわかった。

三吉さんは、狂信さんにからんでいるのか。
なんで、三吉さんが息まいて、蓮如さんをひっぱりだしてきたのか、
その筋道が読めなかったんです。すんません。

気のすむまで、どうぞ。


善知識・悪知識そしてMC 投稿者:三吉  投稿日:10月31日(水)06時26分43秒

非常に単純なことだがカリスマを批判すると、MCにはまっているものの中には
哀しい思いをされる方がいる。
現代で例証すれば、創価学会の池田大作さんを批判すれば中傷されたと、学会の
婦女子は傷つく。大悲さんが蓮如どんを庇った気分と同根かも。。。
庇いはされぬが、らくりんさんが蓮如どんに抱かれているであろう<思慕>も。。。

池田氏、蓮如どんとも大衆化に成功した偉大な宗教家であることは私も認めるが、
だからといって、すべてが正しいわけでも、仏教的に見て逸脱がないわけでも
ないと私はおもっていまする。


おはよ 投稿者:三吉  投稿日:10月31日(水)06時17分50秒

<そんなことは、凡夫の妄想にすぎない。>

そう。無宿善と宿善があると思い込めるのも、あったとして、この人は宿善、無宿善と
分別できると思い込めるのも、オバカな蓮如どんの妄想にすぎない。
そのオバカを根拠に、<十劫安心は念仏者が念仏いらんと言うことだ>と決め付けるのも、
妄想かもしんないね。
<絶対だめ>なんて凡夫の妄想で本願を分別して恥ずかしくないのだろうか(笑)


我々は、救主でも、教主でもない 投稿者:流れ星狂信 ☆彡  投稿日:10月30日(火)21時50分47秒

称名は、浄土に生まれたいという思いをカタチで表現するだけのこと。
条件なんかじゃない。本願文を読みなさい。
対象が自分自身であれ、他人であれ、
こうすれば、称えたことになるか。称えたことにならないか。
私は救われるか。あの人は救われるか。
そんなことは、凡夫の妄想にすぎない。


手話落語 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月30日(火)16時09分30秒

 上方落語家に桂福団治という人がいる。
もう随分前から(79年から)、手話落語をやっている。

 私の場合、 咽喉のポリープをバッサリ切って三ヶ月間 
声を出すのはご法度ということになってしまった。
声が出ないということで人間と人間のコミュニケーションの糸が
突然プッツリと切れてしまうことの恐ろしさ、辛さ、哀しさ、
情けなさを骨のズイまで味わうと同じに、なんとかして声を出さずに
意志を伝達する方法は無いものかと考えた時、ふと思いついたのが
手話だったわけです。


     福団治手話小咄より

 音声本尊ということで、聾唖者は「唯除」されるのだろうか?
手話声明、手話念仏ではダメなのか?


西の彼方に。 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月30日(火)14時57分36秒

 ♪ さーむえー、オーヴァー、ざ・レーンコート。。。
 
 たとえ人と人がどれだけ分かり合えなくて、
平行線をたどり、すれ違ってばかりいたとしても。

 もしも地上が平面でなく、球体だったなら
西の彼方の空遠く、平行線は交わる点を持つ。

 倶会一処という極がある。
 我らの行く手を導く場所が。

 もちろん地上に子午線がペンキで引かれていないのと
同じように、この極は、目には見えない。

 けれど、見えぬけれどもあるんだよ、
      見えないものでもあるんだよ


見合いと恋愛 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月30日(火)14時44分13秒

 鏡は毎朝覗き込む。けれど、いつ見たって髪ははねてるし、
目やにはこびりついてるし、まったくイヤになっちゃう。。。


 (自由)恋愛と見合い。恋愛に不倫(背教)や離婚(棄教)が
ないわけではないし、見合いに恋愛(信仰)が生じないわけでもない。
昔から、馬には乗ってみぃ、人には添うてみぃというではないか。

 むしろ見合いに付き物の封建制が、おいやなのだろうか。
恋愛にもドロドロは欠かせないと思うけど。

 >らくりんさん

 どうぞお気遣いなく。地獄は一定、すみかぞかし。


無宿善について 投稿者:大悲  投稿日:10月30日(火)14時38分34秒

仏法に出遇うというご縁の無い人は、どうやったって、仏法に出会わない。<出会えないのではなく、出会わない。>仏法にご縁があるからこそ、外国にいようが、病床にいようが、老少善悪なく法を聞かせていただける。
この人は「無宿善」だとどうしていえるの?宿善があるからこそ、仏法に出遇ったんじゃない。
五重の義については、どの一つが欠けても、遇わせていただくことが出来なかったものを、有名無名の念仏者のご縁を頂いて、私までお念仏が至り届いてくださった感慨だと思っています。
その中のお一人が、蓮如様だというだけで、あかんところがあるからといって、アカンといえないんじゃないかな、ッて言うのが私の気持ち。
私の、祖母は、喧嘩っ早くて、自己チューで、自分が絶対正しくて、ずいぶん母は泣かされたけど、それでも、やっぱり、祖母の称える念仏の声は、私のバックボーンなのです。
蓮如さんも同じ、ッて言ったら、また怒られるかな。


と、言われても 投稿者:らくりん  投稿日:10月30日(火)13時23分03秒

>三吉さん
「掟をまもっとんのか」と言われても、まもらんなん掟だと思っていなかったり
するんで、なんともお答えのしようがないですね。
むろん、弁護せんなんとも思いませんし……。

>狂信さん
本尊にならんかったら、せんとけばいい。
「ならんと思うもんを」無理にしようと思たら、しんどいだけじゃない?
本尊を「ねばならぬ」式発想で考えようとしていったら、
キュークツでしょうがない。
それでは
「方便法身」と言われた「よさ」が台無しになってしまう。

私は、基本的には「共有」と「伝達」が可能なら、何でもいいのではないか
という考え方をしています。
善導が「口称」ということにこだわったことには、善導自身がどこまで
意識していたかはわかりませんが、
私は、けっこう重要な意味があるのではないかと思います。


掟を守っているのかい?>みなさん 投稿者:三吉  投稿日:10月30日(火)07時24分08秒

この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいた
すこと、もってのほかの当流の掟にあひそむけり

とのことだが、これを現代社会で弁護しきれる方はおられるのか?


三帖目第十二通 投稿者:三吉  投稿日:10月30日(火)07時20分04秒

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙
汰すべし。さればいかに昔より当門にその名をかけたるひとなりとも無宿善の機は信心をと
りがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへに
おいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもといとなるべきなり。この宿善
・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、も
ってのほかの当流の掟にあひそむけり。されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本
不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過此難」ともいへり。また善
導は「過去已曽 修習此法 今得重聞 即生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈に
よるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をば
あたふべしときこえたり。このおもむきをくはしく存知して、ひとをば勧化すべし。ことに
まづ王法をもって本とし、仁義を先として、世間通途の義に順じて、当流安心をば内心にふ
かくたくはへて、外相に法流のすがたを他宗・他家にみえぬやうにふるまふべし。このここ
ろをもttw当流真実の正義をよく存知せしめたるひととはなづくべきものなり。あなかし
こ、あなかしこ。          


蓮如よりは罪は浅い 投稿者:三吉  投稿日:10月30日(火)07時13分05秒

>十劫安心は念仏者が念仏いらんと言うことだから、私は絶対アカンと思う。

<十劫安心は絶対だめ>という狂信は、蓮如のMCにスギナイト思うが。
五重義相の方がもっと、根本的にだめだろう。

お西の勧学寮によると(http://www3.justnet.ne.jp/~tanahara/14kgaku.html)
<『御文章』二帖目第十一通に、十劫安心と善知識だのみの邪義を破し、獲信の相状の始終
を詳らかにして、「これによりて五重の義をたてたり。一には宿善、二には善知識、三には
光明、四には信心、五には名号、この五重の義成就せずぱ往生はかなふべからずとみえたり。
」等という。 >
だそうだが。。。宿善。(過去世からの善根によって、今生に人界に生をうけて善知識に遇
い、仏の光明の照育を蒙って、信心を獲得する)だそうである。
宿善のない奴には、真宗を語るな、どーせ理解できんという差別思想が蓮如のだめなとこだ
ろう。
カルト野郎は困る


(無題) 投稿者:らくりん  投稿日:10月29日(月)21時57分28秒

おじきさん、
「弱っちゃいます」と言っても、マジに弱っているわけではないんで、
そんなに気を使われるとその方がよけいに「弱っちゃいます」

ぐっちんさん、
私、ぐっちんさんのとこの住職さんの本坊の方は2度ほどお邪魔したことあるんですが、
実は東京の方のことはほとんど知りません。
昨日、以前今のぐっちんさんの「現住所」にいたぐっちんさんの先輩のお寺の
報恩講に行って来ました。
東京の支院の状況とか設立の経緯について聞かせてもらいました。
それで、けっこう大変なところなんじゃないか、と心配になったりしました。
あんまり無理とかしんぼうとかはせんといて下さい。


連発すいません 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月29日(月)20時03分20秒

 昔(昔の話ばっかりや!)尾畑文正さんの
お説教で心に焼き付いている話があります。

 何でも尾畑さんは墓地をぶらぶらするのが
ご趣味だそうで、ある日キリスト教のお墓の
碑文を見て変な表現だけど「負けた!」と
思ったそうです。
 
 それは「我らの国は天にあり」というものです。

 「浄土」というのは本籍地。「娑婆」は現住所。
だから「居場所」といっても名告ったゆえに
「娑婆」では苦労が待ち構えてるかも知れない。

 されど「我らの国は浄土にあり」


龍馬がいく 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月29日(月)19時40分50秒

 「知ってるつもり」を見る。
やっぱ竜馬はイイ。

 佐幕/勤皇とか開国/攘夷とか
二分法によって「正解」を「覚えこむ」
のでなく柔軟に時勢を読み、人物を見る。

 「部落問題」における「差別者の自覚」とか
「靖国問題」における「加害者責任」とか
そんなものを「答え」として暗記していても
な〜んも始まらない。

 その場が要求している「正解」を総持していて
なんのご利益がありますか?

 らくりんさんの本でも序で菱木氏が
「結論は無戒・神祇不拝・国王不礼」と総括
しておられるが「そうか、時代のトレンドは
これかっ!」って覚えておくのは、おかしいん
じゃないでしょうか。

 善導さんのゆうがごとく、教えの説かれている
お経さんは、時代と社会、そこに生きる「わたし」を
映す鏡じゃなかろうか。


生活 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月29日(月)19時28分54秒

 ということから離れたら、それは
全部、ただのお話で終わるのではないだろうか。
 
 名号がただの取り決めだとしても
それを「称え」て生きるということから始まる
「何事」か。

 ぐっちんは昔、聖書を読んで、そこに
生き生きと働くイエスという「人格」を知った。

 歴史の教科書にのっている自分とは縁も
ゆかりもない「神様の使い」ではなくて
信仰者の胸の中に文字通り「生きて働く」イエス。
それが「復活」ではなかろうか。


あれ 投稿者:Maro  投稿日:10月28日(日)17時08分14秒

二重投稿ゴメンナサイ。


取り急ぎ 投稿者:Maro  投稿日:10月28日(日)17時07分19秒

狂信さん「狭さ」ありがとうございます。
 皆さんの書きこみと合わせて読ませていただきます。
 ちょっと、『読み解く』の紐もほどいてみます。


取り急ぎ 投稿者:Maro  投稿日:10月28日(日)17時06分22秒

狂信さん「狭さ」ありがとうございます。
 皆さんの書きこみと合わせて読ませていただきます。
 ちょっと、『読み解く』の紐もほどいてみます。


如来は他力 投稿者:お留守居役様  投稿日:10月28日(日)13時49分38秒

宗教学者の脇本平也先生は、
>親鸞の如来は、創造者ではない。
>嫉みの神・審きの神・怒りの神ではない。
>人間との間に、愛し愛されるという関係の結ばれるほどの
>人格的存在ではない。
(中略)
>如来は他「力」ではあるけれども
>他「者」にはなり切れない。
と言われています。

キリスト教の神は、他者であるが、
阿弥陀如来は、他者ではなく、人格性のない他力である。
如来は、「者」でも「物」でもない。
実体でも物体でもない「力」である、
ということかと思います。
ハイデガーの言う「存在者の『存在』」に近い感じがして、
納得しています。
つまり、如来は、人を救う「者」ではなくて、
人を救う「力」であることになるのでしょう。


疑問 投稿者:流れ星狂信 ☆彡  投稿日:10月28日(日)08時08分49秒

方便法身はモノでないと、いけないんじゃないだろか。
本尊は自分ではなく、他者であることが明確になるのだから。

読み解く3、p102に「音声本尊」とあるが、
実体ではない音は、本当に本尊になりうるだろうか?


(無題) 投稿者:流れ星狂信 ☆彡  投稿日:10月28日(日)08時02分59秒

化土往生というなら、オレも化土往生だけど、
十劫安心は念仏者が念仏いらんと言うことだから、私は絶対アカンと思う。

ナンマンダブツ、称えなさい。

「死んだらだれでも、仏さまになる」と言う人は、小泉さんをはじめ、
このにっぽん国にはたくさんいらっしゃる。
死んだ後のこたぁ、わしゃ知らん。阿弥陀さんに、おまかせじゃ。
でも、念仏も信心もしらなんで、親鸞聖人もしらなんで、虚しくないんかいのぅ。


そうそう 投稿者:おじき  投稿日:10月28日(日)06時56分02秒

  「心配するな!我にまかせよ!必ず救う!」
  素直に「はい」と言えればもれなく「居場所」
  がプレゼントされます。応募資格は「はい」
  と言えるかだけです。


ロイヤルストレートフラッシュ 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月28日(日)06時35分14秒

 ファイブカードの方が強いか。。。

 「わたし」はとかく、万人をひれ伏させる
印籠のようなものを欲しがる。それさえあれば
何でも叶うかのごときもの。

 でも無人島にいけば、トランプをやる相手も
いなけりゃ、助さん格さんもまして越後屋という悪人もいない。

 どこに出しても恥ずかしくないものを求めるという心情は、
裏返せば「わたし」はよほどうしろ指をさされるのがコワイということ
ではないか。仲間はずれ、居場所を失うこと。

 だから阿弥陀如来は、念仏するものは必ず居場所があるんだという
ことを願われているのじゃないですか?


(無題) 投稿者:おじき  投稿日:10月28日(日)06時25分22秒

デート・マニュアル見て、彼女とのいろんな妄想
かきたててる時「も」楽しいんですけどね。


いらいら 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月28日(日)05時37分18秒

 「え〜と次の日曜、彼女とデートなんやけど
  何着て行ったらええのかな?やっぱアルマーニの
  スーツで三つボタンで。。。」
 
 「無理せんと自分に似合う普段着で行ったらええやんけ」
 
 「まず映画見に行くんやけど、え〜とアカデミー賞とったのは
  エリン・ブロコビッチやったっけ?」
 
 「グラディエーターやろ。けど彼女が見たいんは千尋やったん
  違うんか?
   お前、似合いもせん服着て、分かりもせん映画見に行って
  何がおもろいん? え? デート・マニュアルに書いてあった?
  お前見栄はりたいんか、彼女と一緒に楽しい時を過ごしたいんか、
  どっちやねん!はっきりせーや」 


皆様ありがとうございます 投稿者:おじき  投稿日:10月28日(日)04時25分02秒

>らくりんさん
弱らせるような質問をして申し訳なかったです。
「一人の救い」が「万人の救い」になるんやと思ってるんですが、
「救い」は個々の問題で他人がとやかく言うことではないのですね。
「正解」を求めた僕がアホでした。
>ぐっちんさん
一番ええ泳ぎ方は変な力抜いてプカプカ浮いてることでしたよね。
簡単そうで一番難しいなぁ、泳ぎながらいっつも要らん事考えて、
要らん力入ってますわ。♪身体に悪いから辞めなっていわれてるのにね。


キューサイの鼻汁 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月28日(日)01時52分43秒

 死んだと思ったのに意識が戻った。目の前には
扉があった。開けてみるとそこにゲートらしきものが
あった。

 通り過ぎようとしたらブザーが鳴って、まるで
入国管理官のような男がパスポートを見せろという。
で、ポケットを探ったら出てきた。
 だがそこには「十劫正覚」というスタンプが押して
あった。男はそれを見るなり首を横に振った。。。

 とまあ、こんな「最期の審判」みたいなものがあるのかどうか。
そのゲートの先に果たして「楽園」が待っているのだろうか。
 そして、どこへ行ったら確実にそのゲートを通過できるパスポートが
発行してもらえるのか?

 らくりんさんがいうように「本願」という物語、ベストセラーでなくても
書評欄にのってなくても自分がええなあと思ったら、その感動を人にも
伝えたくなったり紹介したくなったりせえへんかなあ。

 で、相手が気に入れへんかったら薦めるのやめたらいい。 


いや 投稿者:流れ星狂信 ☆彡  投稿日:10月28日(日)00時04分58秒

かなりだねぇ


かな 投稿者:流れ星狂信 ☆彡  投稿日:10月28日(日)00時02分18秒

「狭さ」は悪くない 投稿者:らくりん  投稿日:10月 8日(月)21時15分43秒

チョット、受け取り方にズレがあったかもナ。。。


聞き(読み)逃した? 投稿者:Maro  投稿日:10月27日(土)22時18分24秒

>狂信さん
 らくりんさんの「狭さ」もう少し教えてください。
 そこまでの文章はうなずけるんですけど、
 ああ〜なんか、一番大切なとこがわかんなくて気持ち悪いです。

 あの、どこか「ここを読め」でも結構ですので・・・。


イメージの詩 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月27日(土)21時42分13秒

 キリスト教のお師匠様である高尾先生が
おっしゃっていたのだけど、神という言葉を聞くと
人はすぐ白髪の頭に輪っかを乗っけてるヒゲのお爺さんと
いうイメージを持ってしまう。

 阿弥陀さんとかも、ぐっちんには眠たそうな目の
パンチパーマの二重アゴが目に浮かんできてキモい。

 なんとかならんもんか。。。


ホンダラ行進曲 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月27日(土)20時25分01秒

 いや、そやからいつまで準備体操とか
イメージトレーニングやってんねんちゅうに。

 バタフライなんかでけへんねんし
古式泳法でみんなをあっといわすとか
そんな場合やないっちゅうねん。

 今まさに水がそこらそんじゅうに流れ込んで
きてるやんけ。
しかも煙までモクモク。。。

 けど泳ぎながらでも鼻歌ぐらいは歌えるかなー。

 ♪ ひとつ山越しゃ ホンダラッダ ホーイホイ
   もひとつ越ーしても ホンダラッダ ホイホイ
   越ーしても越ーしても ホンダラッダ ホーイホイ
   どうせこの世は ホンダラッダ ホイホイ
   だからみんなで ホンダラッダ ホイホイ  


プリンタは問題ないはず 投稿者:らくりん  投稿日:10月27日(土)19時09分11秒

インソムニアさん
とうとう新しいPCゲットですか、しばらくは楽しめそうですね。

プリンタは、何をお使いかはわかりませんが、古いのが使えないということは
まず考えられません。
おそらく、設定がうまくいっていないだけだと思うんですが……。


ほろ酔い気分 投稿者:らくりん  投稿日:10月27日(土)17時34分34秒

まぁ、んなとこですかね。
なんのこっちゃ。


林遊さん、ありがとう 投稿者:流れ星狂信 ☆彡  投稿日:10月27日(土)16時48分44秒

「金魚すくいじゃあるまいし」ってのは、林遊さんの名台詞。

浄土教というのは、自覚の道の上に、救済の道を設てている教えだとは思うんですよ。

でもね、林遊さんが言っていたのは、
「救い」という言葉もまた、自分に都合のいいように作り上げているのが
人間の根源的意識というか、本能的構造なのだ、
ということだったなと。

そりゃ真宗以外にも、様々な救いの道があるとして、選択することを否定する人は
多いけれど、その実は、自分にとって都合のよいとこを集めてるだけで、
イヤになれば次々とお洋服を変えてる。そうじゃない?

自分が救主、教主、基本的に救う側、救われる側に立ちたいんだよね。人間は。

その意味で、最近らくりんさんが言っていた「狭さ」、
自分を一つの枠ににはめて、そのなかの問題性、
大谷派なら、念仏を旗頭にしている教団が、
戦争に協力し、差別問題、教団問題を起こしてきたのか、
じくじく考え続ける事で、深いお念仏のお味わいができるんだなと。
このごろになって、ある意味選んだ道ではなかったが、寺に生まれて、
自由でなくて、ここにいてよかったなと思うようになった、
流れ星ならぬ、手前味噌狂信であった。


救いということ 投稿者:インソムニア  投稿日:10月27日(土)11時39分10秒

おじきさんの言われているような事を、私も人に聞いたことがあります。
信じるという事は、何を根拠にそう言っているのか、救われるという事がどういうことなのかも、未だ分かっていないのだと(私自身が)思います。自分はこの教えを信じていると思っていても、人の言葉や、本に、それとは違った事が出てきたりすると、また迷ってしまう。そして、同じ事の繰り返しで、結局真実にたどりつけない。信じるということは、今は少し分かるのですが、救いという事になると、どのように解釈したらいいのか分かりません。

>らくりんさん
パソコン新しくしました。NECバリュースターVT1000J/6FDです。60GBで、メモリ128MB+256(増設)です。でも、昨日、印刷しようとしたら出来ないのです。どうしてかな?以前のプリンターだと使えない場合があるということなのですが、だからなのでしょうか?


言い逃げ。。 投稿者:三吉  投稿日:10月27日(土)11時33分56秒

らくりんあにぃは、天の邪鬼だから。。。その捻くれたものいいにあにぃの<体臭>を感ずると
はいえ、いらぬ心配をしてしまう。諸刃であろうと。
おじきさんを私はしらぬが、こーいう問い掛けが出る発想は、あにぃに満点の答えを貰って納得
しょうとされているのではないだろうと思う。
自分がどう考えるが、なにか違和感を感じた問題について自分がどう応えるか、<参考>にされ
るのか。あるいは単に自分の信仰観と他者の偏差を知り、自分を深めようとされているのではな
いだろうか。ご託は大概にして、自分の素直に信仰観を吐露されたらと思うのだが、そこに扉を
立てるのは批判を恐れているのか、ただ一つの正解を求める資質を大谷風に解体されようとされ
ているのかはしらぬが、「嫌われるぞー」といらぬ心配をする。
現代真宗系で、時宗が十劫安心だから云々を云うのは、お西は伝統教学系石頭連中のおばかさん
野郎か、そのご隣山さんから派生した親鸞会の子羊達くらいでろあうと思う。
(経典的の文上的解釈的に十劫安心はともかく十劫弥陀は間違っていない。親鸞は久遠弥陀とい
っており、私は経証ないにせよ、この受け止めは好きだ。深いと思う。覚如が後づけで久遠弥陀
の経証をしているが、その引用について他宗からは批判があるようだ)
私は<救われたいとあまり思わない>という、現代的感覚に共感するというか、私もそーおもっ
ている。こーおもっているのに、仏教に惹かれ、接すると、行派の仏教と信派の仏教があり、私
は信派にシンパシーを抱いてしまうのだ。さしたる根拠のない私の感覚では、法然・親鸞の仕事
は、仏教を<行の迷路>から<信の隘路>へと開放したことだ。
だが、親鸞は<信>そのものを突き詰め、その我をその主体ではなく、客体と位置づけたところ
に、突き抜けた観があるのだが。。。その思想的意味が私には掴まえきれない。なぜだと。
私は、愕然とし立ち尽くすばかりであるのだが。。。客体としたことは、<隘路>を<大道>へ
と昇華したというこなのかと、漠然と感ずる。
<化土往生>云々を、平雅行さんが、<宗教的罰>と受け止めたことは私には印象的であった。
わたし的には、<金鎖の牢獄>とはいえ、これは、<救いのうち>という感覚が在る。親鸞は救
いを三段階で考え、蓮如は、一つの救い以外は結局、堕獄と二元論に堕したとおもっているのだ
が、私の平さんや蓮如への違和感はここにある。蓮如の克服なしに真宗、その存在意義は現代に
ないのではないかと私などは漠然と思っているのだが、とはいえ。。。


受け売り 投稿者:らくりん  投稿日:10月27日(土)09時58分17秒

狂信さん
「自分で自分は持上げられない」は私のオリジナルではありません。

どこかで聞いたか読んだかで、記憶の底に残っている言葉です。
誰が言ったのかも覚えていません。
たぶん、こんなことは、どこかのじいちゃんやばあちゃんの語録だったり、
お説教の中なんかにもよく出て来たんじゃないかと思います。
狂信さんはたまたまそれを私の口から聞いた、だけです。

物事の本質を言い当てていて、なおかつ視覚的、体感的にすっきりと
得心がいくような言い回しというのは、
きっと誰でも、簡単に記憶に染みついちゃうんじゃないかと思います。


救いを求める心の行方 投稿者:らくりん  投稿日:10月27日(土)09時50分52秒

おじきさん、どうもです。
こういう質問は弱っちゃいます。
言いたいことはたくさんあるんですが、どう言えばいいのか。

▼まず、仮に私が、
「時宗でも浄土宗でも、みな救われますよ」
とここで書いたとしたら、おじきさんあなたはそれで私の言葉を信用して
安心するのですか?それほど私を信頼しているのですか?
その程度だったら、誰かもっと権威のありそうな人が違うことをおっしゃったら
また、迷いだすだけではないかと思います。
お知り合いとらくりんのどちらを信頼するか、おじきさんがそれを選ぶ根拠
は何なのでしょうか。

率直に言いますと現在の私には「救われたい」という意識は
あまりないんです。
つまり、私の場合は、私自身については、そのことはあまりどうでもいい。

うまく言えないんですけれど、
問題は、「すくわれるかすくわれんか」とか「どっちが本物か」いうこと
なんでしょうか。そんなことを他人が決めたって何にもならないのでは?

たとえば、
>「一遍の時宗は十劫安心やから救われへんし、浄土宗は自力念仏やから
>化土往生。だから浄土真宗でしか救われへんねん」
とおっしゃっている、お知り合いの方は、
  ・何のためにこんなことを言いたいのだろう、
  ・なんでこんなこと言わなければならないのだろう、
  ・そう言ってどうなるのだろう。
ヘソ曲りな私などはこう言うことをおっしゃっている人に出くわすと
「あなた自身は救われてるのか」と尋ねたくります。
「救い」というのは、昔から「一人いちにんのしのぎ」と言われているように
きわめて主体的なもので、「○×宗の救い」「×◇教の救い」とかいうように、
十把一からげでまとめてしまえるものではないと思います。
ですから、私は、こういう自画自賛的な形で他の信仰をけなしたり、
ご贔屓の宗派を自慢する人は、「救い」という事柄を根本的に勘違いしているか、
そのように言うことによって信仰というものを冒涜しているような気がします。

そして、おじきさん自身は
>時宗や浄土宗は真宗からみると、救われないのですか
と、問いを立てていますが、
ちょっと視点を変えて、
「真宗は、真宗からみると救われるのですか」という問いにしたならば、
おじきさんは、どうお答えになりますか。


教えて下さい 投稿者:おじき  投稿日:10月27日(土)02時53分04秒

知り合いが「一遍の時宗は十劫安心やから救われへんし、
浄土宗は自力念仏やから化土往生。だから浄土真宗でしか
救われへんねん」と言ってました。
僕は「あらゆる衆生が救われない限り、私は仏にならない」
というのがアミダさんの本願やと思ってるんですが、
時宗や浄土宗は真宗からみると、救われないのですか?
また、本願のはたらきを無視したり、否定する者は救いの対象外なんですか?


不合理と信仰 投稿者:お留守居役様  投稿日:10月27日(土)01時41分27秒

こうしてみると、
らくりんさんは、信に力点を置かれていて、
狂信さんは、救済を重視されていて、
私は、不合理を凝視続けたいという
それぞれの資質が図らずも表れているかと思いました。


Credo,quia absurdum 投稿者:お留守居役様  投稿日:10月27日(土)01時18分18秒

『不合理ゆえに吾信ず』といえば、
「神が人となった」とか「処女が懐胎した」とか
「人の罪を贖うために神が死んだ」とかを
信じますというキリスト者の信仰告白のことですが、
埴谷雄高さんの初期の作品である、アフォリズム(箴言)集
『不合理ゆえに吾信ず』を思い出します。
分かりやすい一例を引けば、

>他に異なった思惟形式があるはずだとは誰でも感ずるであろう。
>何処に?
>私は、その頭蓋を打ちわっている狂人を見ているかのような表象をつねにもつ。

http://www.bookclub.kodansha.co.jp/Scripts/bookclub/bookslink/bookslink.idc?isbn=ISBN4-06-268051-3


(無題) 投稿者:流れ星狂信 ☆彡  投稿日:10月27日(土)00時31分13秒

らくりん語録、いろいろあれど、「自分で自分は持ち上げられない」もまた、印象深いんだな、これが。

自分の存在に、自分の人生に、自分で意味づけしたって、
自分の範疇以上のことはできない。
結局は、八百長と自己欺瞞でしかないのさ。

重なるけど、「持ち上げる」ということで、自覚の道か、救済の道かという問いも
含んでいる。

人間が行う意味づけというものに、確固とした根拠はないというのが仏教なら、
ニヒリズム、虚無主義とはどこか違うのか。
そいういう問いに対して、根拠付けのありかたを、方便法身を使って、
弥陀、浄土を本尊としてたて、他者による救済の道をたてて、ひっくり返したのが浄土教であると
七高僧の歩みから、さらにはっきりさせたのが親鸞さんなんだなと。

そういうことで、はっきりと、ご本尊の顔を見て念仏することを意識し、
全然まじめにしてこなかったお朝事を、
今頃になって、なんとなくはじめつつある、このごろの狂信でした。


信ずる理由 投稿者:らくりん  投稿日:10月26日(金)09時31分21秒

どこでどう遭遇したのか忘れてしまいましたが、
昔、「不条理なるがゆえに我信ず」という言葉に出会ったことがあります。
妙にインパクトがある言葉なので、記憶の底に染みついて離れません。

だれでも「○×△だから、私は信ずる」という「○×△」の理由の部分
が欲しいのではないでしょうかね。

「科学的に証明可能だから」というのは、私たち現代人を強烈に縛っている。
これは、「信仰」と言ってもいいレベルにまで、私たちの発想の根に浸透している。
それに対して「往生が約束されているから」なんてのは、まったく説得力に欠ける。

「聖書に書いてあるから」はキリスト者にとって、
そして
「釈尊が言ったこと(仏説)だから」というのは、仏教者とって、
それぞれ一応それらしき理由になると思えますが、
たとえそれが聖書に書いてあろうと経典に書いてあろうと、
それを「解釈する」のは「私」であるという視点を外してしまうならば
この立場はいわゆる「原理主義」に行き着くことになると思います。
つまり、私の解釈、私の考えにすぎない事に、あたかも〈真理〉とか〈真実〉
であるかのような効果を持たせようすることになる。

そうした顛倒に対する歯止めは「如是我聞」「かくのごとく我聞けり」でしょう。
「自分がそう聞いた」ということによって、その責任は私一人において生じる。
その立場からすれば、「私が信じる/あるいは信じない」理由は、
他人がそれに納得するかしないかとは無関係になる。
だとすると「不条理だから」というのは、りっぱな「信ずる理由になる」

「往生が約束されているから」信じると言い張らなければならない理由はまったく
なくなるのでしょう。
「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、
地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。
たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからずそうろう」
私は「だされても後悔しない」という、この〈信じ方〉が好きですね。

そう言えば、
「如来ましますがゆえに我信ず」なのか
「我信ず、ゆえに如来まします」なのか
という問を立てた先達もいました。


真言陀羅尼と念仏 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月25日(木)15時49分13秒

 ということが気になって空海の『声字実相義』を
読んだことがあります。ぐっちんのCPUではよくわからん
かったけど。(いろんな解説書を頼りに読んでみた)

 空海は一種の宇宙語みたいなのを考えているのでは
ないでしょうか。なんか宇宙のバイブレーションと
響き合うのが陀羅尼。で、仕組みはわからんけど
ご利益がある。陀羅尼は言霊(ブラックボックス)みたい。

 念仏は一種の約束事(取り決め)のように思う。
念仏を合言葉にして人々(同朋)がそのことで何かを伝え合う
という言語ゲーム(言語実践)が行われるというイメージ。

 空海は根本聖典『般若理趣経』を漢音で読むことを定めた。
漢音はその頃の中国・唐の都、長安の人々の発音だ。
 呉音が蘇州の地方なまり(?)で、時代遅れの発音という
ことだろう。(漢籍を学ぶ役人たちはこれに改めた)

 密教は当時の、科学思想だと思う。あやしげなことを
やっているようで意外と経験科学的なところもある。
(金の精錬には水銀が必要で、高野山のある場所は
水銀の鉱脈で知られていた)

 中世の錬金術師たちのあやしげな実験の試行錯誤から近代の
化学が誕生したように。

 だからオウムの密教に、大学の理学部や工学部の出身者が
引かれたのもむべなるかなである。 


教相判釈 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月25日(木)15時22分02秒

 『読み解く』T、U熟読完了。で、そこから。。。

 以前、阿満さんの宗教の二分法にケチをつけました。
民族宗教/普遍宗教(世界宗教)という分け方。
 世界宗教が問題をおこしている昨今、これはどうか?

 一神教/多神教という分け方。これも一神教は喧嘩っぱやくって
多神教は平和主義かという疑問もあります。インド人民党という
ヒンズー(教)至上主義の政党はインドのキリスト教徒を弾圧してます。

 信じ込み(思い込み)の宗教と目覚め(気づき・自己啓発セミナー
みたいやなあ)の宗教という考え方がある。

 親鸞好きの坊主嫌いということわざ(?)があるように、
ぐっちんはイエス好きのキリスト教嫌いです。

 ちなみにキリスト教のニカイア信条というのは
 
 わたしたちは、唯一の神、全能の父、天と地、見えるものと
見えないものすべての、造り主を信じます。
 わたしたちは、唯一の主、神の独り子、イエス・キリストを
信じます。
 主はすべての時に先立って、父より生まれ、
光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、
父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。
 主は、わたしたち人間のため、またわたしたちの救いのために、
天よりくだり、聖霊によって、おとめマリアより肉体を取って、
人となり、ポンテイオ・ピラトのもとで十字架につけられ
苦しみを受け、葬られ、聖書に従って、三日目によみがえり、
天に昇られました。
 そして父の右に座し、生きている者と死んだ者とをさばくために、
栄光をもって再び来られます。その御国は終わることがありません。
 わたしたちは、主であり、命を与える聖霊を信じます。
聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、あがめられ、
預言者を通して語ってこられました。           
 わたしたちは、唯一の、聖なる公同の、使徒的教会を
信じます。
 わたしたちは、罪のゆるしのための唯一の洗礼を、
信じ告白します。
 わたしたちは、死人のよみがえりと来るべき世の命を
待ち望みます。

 ぐっちんは、これはとても信じられない。かといって
真宗が目覚めの宗教だともいえない。
 自分のドグマを固めてばかりいるのだったら、それは
思い込みの宗教だ。(ぐっちんもその一人だけど) 


Re:生らくりんさん 投稿者:らくりん  投稿日:10月24日(水)11時45分25秒

“こだわり”というのは、講義の後、
Zazieさんが、質問なさったことを指しています。

>ああいう形でお話を聴くのは初めてのような
定期的な会合と常讃寺で話す以外、教区内で話す機会はほとんどありませんので
そういうことになるかも知れません。


生らくりんさん。 投稿者:Zazie  投稿日:10月24日(水)00時37分08秒

に久しぶりにお会いしました。

よく考えたら、ああいう形でお話を聴くのは初めてのような。楽しかったです。


下の”こだわり”って、自分ではよく分りません。


こだわりのゆくえ 投稿者:らくりん  投稿日:10月23日(火)23時17分42秒

久しぶりにZazieさんの顔を見て来ました。
そこがZazieさんのこだわりなんですね。


ごたく 投稿者:らくりん  投稿日:10月23日(火)23時12分42秒

横綱のラーメンもいいですね。
でも、京都で一番のお気に入りは「一番星」、専修学院岡崎学舎以外の人なら
知っている人がいるかもというお店ですが、いつもタクシーの運転手が
たくさん来ている、知る人ぞしる、知らない人は知らないという
お店です。
ここのスープは冷めると匂うという、そのあたりが「ほんまもん」かなと
思えるスープでした。
別に、グルメ指向なわけじゃなく、ただの思い出の店自慢です。
食い意地がはったおっさんの、ごたくにすぎません。


やまと 投稿者:くまごろう  投稿日:10月23日(火)18時33分43秒

やまとのおばさんは石川県の人だと思います。
私が初めていって注文したときに、あんた石川県やろうと言われてしまった。
焼きそばの大盛りを食べるのに、ソースをかなり使ったことを思い出す。

ラーメンといえば、私は横綱ラーメンがお気に入りでした。ネギをたっぷりかけていただくのが好きでした。いつも行っていた店ではネギを使い切るともう一杯出てきました。
たまに食べたくなって京都に行きたくなります。


おもろいもん 投稿者:らくりん  投稿日:10月23日(火)13時06分13秒

98村を散歩していたら、おもろいもんが見つかりました。
98のキーボードでDOS/V機を操作できるというコンバータ。
いまだに98機にこだわる大きな理由は、MSーDOSワープロソフト
とキーボード。

キーボードなんてもんは、指が自然に動いていくもんだから、
一つ配置が違うだけで作業の流れが中断して、ストレスが溜まっていく。
(特にCTRLキーの位置。DOS/V機はどうしてあんなに押しにくい
ところにあるんだ。他の人はあまり使わないんかなぁ)

ものは試しと、早速注文して取り寄せてみました。

なるほど。ちょっと妙な気分がしますが、
やっぱりなれ親しんだキーボードはいい。

これなら、ちょっとDOS/V機に乗り換えてみようかなという気にならん
でもない。
これで、ワープロソフトで本当に使い勝手のいいのがあったらなあ。


寝て暮せる噺 投稿者:らくりん  投稿日:10月23日(火)12時53分08秒

ご隠居「与太郎、いつもごろごろしとらんと、ちったぁ精だして仕事でもせんかい」
与太郎「あ〜、だれかと思たら、ご隠居かいな。仕事せぇて、仕事したらなんかいい
   ことおまっかぁ?」
ご隠居「精だし仕事したら、よおけ銭がたまるがな」
与太郎「そりゃそうかも知れん。けど、銭がようけたまったらなんかいいこと
   おまっかぁ?」
ご隠居「銭がよおけたまったらかぁ。そしたら一日中寝て暮せるがな」
与太郎「なぁ〜や、そんなことか。そんならわて今でも一日中ごろごろ
   して暮してまんがな」


人間回復の一例 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月23日(火)12時36分58秒

 妻「あなたってお酒さえ飲まなかったら
   腕のいいホントに立派な職人なのにねぇ」
 夫「ああまた嫌味か。うるさい、うるさい」

 男、泥酔して隣家の窓ガラスをこわす。
 警察と救急車が出動。検査の結果、男、入院。

 医師「このまま飲みつづけて死ぬか、それとも酒をやめるか」
 男 「女房にも子供にも随分迷惑かけました。先生、なんとか
    治してください」
 医師「この病気は医者でも治せん」
 男 「どうしたらいいんですか?」

 男、断酒会に顔を出す。酒を飲まずにしらふでやっている
 男たちの話を聞いて、身につまされる。

 男A「自分で酒をやめようといろいろ試しました。徐々に
    量を減らそうとしたり、高級ワインだけにしてみたり。
    おれはアル中なんかじゃない。酒は飲んでも酒に飲ま
    れてるわけじゃない。いつでもやめられると。そう
    自分では思ってました。でも結局無理でした。
    自分でなんとかしようともがいても大変です。
    もっと自分に正直に、ゆったりとかまえて、なんか
    大きなものに身を任してみる。それからです、
    家族と少しずつ会話が出来るようになって来たのは」 


世間様教の一例 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月23日(火)12時03分03秒

 父「高校ぐらいは出とけ。悪いことはいわん」
 子「いやや。学校なんか行きたくない!」
 父「お前が苦労するだけや」
 子「自分がやりたいようにやる!」
 父「世間はお前が思うようなそんな甘いとこやない」
 子「世間って誰やねん!」
 父「お前は親のゆうことが聞かれへんのか!」
 子「おとんは自分がなんかいわれるのがいやなだけや。
  おれのためやとか何とか言うなや!
  不登校児で結構。社会の脱落者で結構。人でなしで結構。
  人間のくずで結構です。お説ごもっとも!」 


見えない戦争 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月23日(火)11時32分13秒

 とにかく昔(いつ頃か特定できない)は、「宗教」が
社会に埋め込まれていたというか、覆っていたというか
そういう時代。

 ちょっと前にカリスマ××というのが流行った。
カリスマ美容師とかカリスマ主婦とか。(カリスマ美容師が
国家資格を持っていないことがのち発覚したのが興味深い)

 メディアにひんぱんに露出、あるいはそれを利用するやりかたがあると
思えば「出し惜し」みしてその神秘性を高めるやり方もある。
 大黒摩季とか倉木麻衣はそんな売り出し方だった。

 今年の夏、盆の手伝いのついでに佐賀の吉野ヶ里遺跡に足を伸ばした。
 大君(?)はめったやたらに人の前に姿をあらわさないで、高床式の
住まいに閉じこもっているらしい。

 権力と権威があって、表に出てくるキツネはトラのご威光を借りる。
権威はなんだか台風の目のようにからっぽだ。

 ダラブチさんも以前、指摘していたように汎宗教論をもってすれば
この世の中、なんでも宗教とみなすことができる。
 ファッションリーダー、浜崎あゆみだってコギャルのカリスマ・教祖だ。

 グローバルとか情報化とかなんとかいっても、生の人間が接することの
できる相手には限りがある。細分化された社会に、細分化された作法、
掟・ルールが生じている。電車の中で化粧し座り込んでる女子コーセーは
乗客の視線は自分の身体を呪縛しない。仲間から浮かないかどうかだけが
関心事だ。

 親鸞の時代は神道的な善悪浄穢、儒教的な豪貴卑賤、道教的な吉凶禍福
などの価値基準と対決しなければならなかったのでしょうが、現代人は
それぞれの学校社会や会社社会の中でのつかえる/つかえない、いけてる/
いけてない。。。等の二分法におびえなけりゃあいけなくなっているのでは?


ご麺ください 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月23日(火)11時01分04秒

 讃岐うどんは汁のないやつが好きです。
おろし生姜ときざみネギを薬味にお醤油を
あつあつにかける食べ方。

 「ハイライト食堂」わー懐かしいなあ。
なんかやたらヴォリュームあったなあ。
ミックスフライ定食をよく注文した。

 「たぬき」の意味が、
京都と大阪と東京では違うところが
面白い。


京の胃袋 投稿者:らくりん  投稿日:10月23日(火)09時38分41秒

私は、はちみつやのちょっと南の、やまと(つじい製麺)によく行きました。
よく食べたのは、焼きそば、カレー丼、天とじ丼。
ほとんどこの三つローテーションでした。
玉を3つ使った大盛り焼きそばのボリュームは強烈(並が玉2つ、小が玉1つ)。
大食の私でも満腹になりました。

初めての人が「焼きそば大」を注文すると、
おばさんが「玉3つだけど、食べられる?」と聞いていました。
私は、それを聞きながら、並を玉1つにして、大が2玉、特大が3玉にすれば
わかりやすいのになどと思っていました。

それにしても、ここの天とじ丼は旨かった。カレー丼も特別どうということは
ないけれど、好きでした。
今でも時々大谷大学に行くと食べますが、どちらにしようか迷います。

そういえば、学生割引をしてくれていたみたいで、50円ほど安くしてくれました。


追記。 投稿者:Zazie  投稿日:10月23日(火)02時50分49秒

私が通ってたのは「天一」北山支店。店に入るとほのかにドブのかほり、歩かなくても床の
油で滑って移動可能。お気に入りでしたが突然潰れました。

そのテナントに入ったラーメン屋さんも比較的美味しかった。

ここの方は、青春時代を京都で過ごされた人も多いと思うので懐古すると、御薗橋通り「サカ
イ」は焼き飯の大盛りが強烈。新大宮「紅華」は”眠らない紅華”として朝4時まで営業が嬉
しい。その日の余りモンをぶち込んだ紅華丼が暴力的に美味。そして京都の学生を支える「ハ
イライト食堂」御薗橋店にはお世話になりました。今でも食べに行きたくなる。
それから、私の父も通ってたという大谷大ならびの一膳飯屋「はちみつや」は、私も通ってて
親子二代でひいき。特に豚汁が美味しかったんですが、数年前に無くなったそうです。残念。


天一は、 投稿者:Zazie  投稿日:10月23日(火)02時31分43秒

とんこつ系ではないのでは?

それにしても学生の頃食べた味と違うんですよね。「天一」は金沢にもあるし、「郵パック」の
通販でも買えるし、いつでも食べられるんですけど、なんか違う(友人多数同意)。
京都の北白川本店がうまいってのが定説だったんですが、2年ほど前に食べに行ったら、やっぱ
違う。あれは学生の頃の”こってり”がすべてだった若さの味だったのかな。

個人的には、「衛生的な綺麗な店では美味しいラーメンはできない」説を支持。北白川本店も改
装して綺麗なお店になってたし。


ちなみに 投稿者:らくりん  投稿日:10月22日(月)21時44分35秒

誤解なきように、一言申し添えておきますが、
私は、麺類には目がありませんで、
久留米のラーメン、讃岐のうどんは言うまでもなく、
名古屋のちょっと塩っからいきしめんも、東京の甘くどい蕎麦ツユも
愛して止まない麺類大好き人間です。

先のコメントは、「惜しむらくは」という意味での感想です。

そういえば、
最近の久留米のとんこつには「匂い」がなくなった、と言っている人が
何人かいました。

久留米ラーメンと言っても、店によって全然違いますしね。

この間久留米で行ったお店、
名前は忘れましたが、カウンター席が一人分ずつ仕切られていて、目の前には暖簾が
下がっていて、自動券売機でチケットを買って注文する。追加注文は箸袋に書いて
渡すというシステムのチェーン店がありました。
仕切や暖簾にはそのシステムについての能書きがいっぱい書いてありました。
つまるところ、「食べることに集中して味わってもらいたい」ということである
ようです。
しかし、店に入ってから注文して食べて出るまで、隣で食べている人の顔も
店の人の顔を一切見ないこのシステムは、私はちょっと?マーク。
ラーメンを食べている自分が、何かブロイラーになったような気分でした。
でも、けっこう流行っている感じでした。
「他人はうっとうしい」だけ、という人にはこういうシステムはけっこう
ウケるのかな?


駄見 投稿者:三吉  投稿日:10月22日(月)21時29分02秒

<アナクロが今の真宗>だとして、現代風に<煩わしい個>を<脱臭>し、<アク抜き>して
ないのだとすれば、その臭さは、私の好みに合っているかもしれない。

蛇足。久留米ラーメンは、とんこつ系ではあっさりだと思う。
京都の天下一品などに比すれば。。。


「めん類の射程」 投稿者:らくりん  投稿日:10月22日(月)21時13分25秒

私は
こってりコクのある久留米ラーメンも、
すっきり透明感が肝心な東京のラーメンも、好きだなぁ〜。
旨ければどっちも、あり、かな。
不味いのは、どっちも御免こうむりたい。

むろん、腹が減っていれば贅沢は言いません。

ところで、
讃岐のうどんは、麺は申し分ない、というか絶品。
が、ダシというかツユが、もう一つという感があるなぁ〜。
あの麺で、ダシが関西風だったら言うことないのに。

それにしても、
名古屋のきしめんはどうしてあんなに塩っからいんだろう。
名古屋の味付けは、私にはどれもがかなり塩気がきつい。


五木寛之を肴に。。。 投稿者:三吉  投稿日:10月22日(月)20時43分26秒

五木寛之で思い出すのに、以下の文章があります。

渡辺京二「ことばの射程」葦書房P13

五木寛之という大変な流行作家がいる。この人は売れっ子といい条、また大変なインテリで、
文章もうまければ話題も適当に高級である。私はこの人に悪感情を抱くいわれは何ひとつない
のであるが、その上手な文章にいつも違和感めいた感じを与えられて来た。何とも水みたいな
文章で、コクというものがない。内容はともかく、言い廻わしひとつが堪能させるということ
があって、それが文章の濃度というものだと思うのだが、この人の文章には、ほとんど言い廻
しの癖みたいなものがないのである。
私など、もの書きの文章は、たった一行にも、書き手の偏りと体臭がこもっているものだと考
えている人間には、こういう水のように通りのいい機能的な文章が、実に不思議なものにみえ
ずにはいない。それは文学者の文章というよりジャーナリスト、いやより正確にいえばコピー
ライターの文章なのである。コピーライターの文章が一種の美文であることはいうまでもない。
なぜならそれは恰好よさ、つまり一種の美をめざしているからである。だが、その美のなかに
は、生臭い個が棲んでいない。これが文学との決定的な違いなはずなのに、コピーライター風
の文章感覚は、いまや文学の世界でも大手を振ってまかり通っているようである。私見では、
コピーライターの文章を文学にもちこんだ人物はかの開高健であった。
五木寛之は代表例にすぎぬのだが、いましばらく犠牲になってもらうと、五木の個というもの
は、文章全体の主張や結論の中には存在しても、文章の一節一節には存在しないように、私に
は感じられる。これは実はたいそう異常なことで、文学本来の考えかたからいえば、文章の末
節から追放されて、主張や結論として抽象化されてしまった個とは、いわば個の機能化にほか
ならぬのである。
こういう事情は、たとえば松本清張と森村誠一の対照にも現れている。この二人の推理作家は
その多作の仕組みにおいて大変似ているが、決定的に違う点がある。清張の文章にはやはり、
彼の生臭い個の全屈折が現れているのに、森村のそれは大量生産の利くソーダ水である。彼の
場合、文章のふしぶしから消散した個は、物語のかたちに疎外されているわけだろう。私は個
性の話をしているのではない。個性なんて一種のデザインであって、そういうデザインの誇示
は個の放散の裏返しなのである。
文章が清涼飲料水のように軽くなり薄くなって来たというのは、表現の世界で個がお荷物にな
って来たというこだろう。個とはその人間のアクであり、偏りであり、したがってしんどく煩
わしいものである。表現が客観的な情報の包装紙であったりエンタテインメントであったりす
ることで十分な現代では、伝達上の障害となりがちなそういう煩わしいものは、アク抜きをほ
どこすにしくはない。


坂東本の展示 投稿者:らくりん  投稿日:10月22日(月)17時27分05秒

東本願寺の報恩講にあわせて、坂東本『教行信証』その他が展示されるようです。
3年ぶりの公開です。京都にいく機会があったら、ぜひどうぞ。

期間 2001年10月31日〜12月2日(月曜休館)
場所 京都国立博物館(三十三間堂の近く)
主な展示品 (1)『教行信証』(坂東本)親鸞聖人筆 六冊
      (2)紙本着色 本願寺聖人伝絵(康永本) 四巻
      (3)紙本着色 本願寺聖人伝絵(弘願本) 四巻


盆栽いじり 投稿者:らくりん  投稿日:10月21日(日)19時10分23秒

PC98使いのらくりんは、中古のお買い得品を漁ったり、
知り合いの98ユーザーに「見限る時は一声かけて」と頼んでおいて、
廃棄処分寸前の98機を譲っていただいております。
98コレクターという感じになってきました。

誰も見向きもしないようなジャンク品にも、時には98用メモリやそこそこの
HDが入っていたりします。
98用品は、最近では希少価値が出始めて、単品で買おうとするとかえって
値が張るような状況になってきました。
4.3GのHDが1万5千円とか、DOS/V機では考えられないような値段
でしょう。でも、悲しいかな、いろいろな制約がある98機ユーザーでは、
これが必要なんです。だから、ジャンク機なんかでも要チェック。
それと、どうしても欠かせないのが、CPUアクセラレーター。
98機のCPUはハイエンドで200〜300Mhzで生産終了。
私のコレクションは75〜200Mhzが各種。
アクセラレータを付けても300〜500Mhzぐらいまでしか上げられません。

手持ちのPCの箱をあけて、用途別にアクセラレーター、メモリ、HDやその他
周辺機器などの組み合わせをあれこれ考えてせこせこやっています。

先日の讃岐からの帰りに、大阪は恵美須町に道草して中古ショップめぐりを
してきました。
お目当てはCPUアクセラレータと4.3ギガHDですが、めぐりあえませんでした。
MSーDOSで使える液晶ディスプレイがあったのですが、価格とにらめっこして
悩んだ末断念。
収穫は、某中古店で、附属品全部ありの完品内蔵SCSI接続CD−RW。
5480円の値札。たまっていたポイントカードを使用して3447円でゲット。
ちゃんと動きました。
今どき、3500円で何が買える? 信じられない時代になったもんです。

ネット回線をADSLにしたおかげで、200MhzのCPUでもサクサク
快適にネット生活がおくれるようになりました。インターネットはCPUの
早さよりも回線容量が決め手だということであるようです。

そんなこんなで、ほとんど盆栽いじりの境地です。


報恩講のご馳走 投稿者:らくりん  投稿日:10月21日(日)17時51分09秒

ダラブチさんが行ったのは白峰、私が生まれ育ったのは桑島。

同じ白峰村内で、5キロメートルシか離れていない隣村なのですが、
文化的にはかなり違っている部分がありました。
まず、方言が全然別物です。桑島はだいたい小松とかダラブチさんの寺井
あたりと似通っています。たぶん川下から、川沿いに遡って伝わって来た
のでしょう。
ところが白峰の言葉はその筋とは異質で、かといって峠の向こうの福井と
似ているかというとそうでもない。近辺にはそれらしき方言を話す人々は
見当たりません。言語学的には完全に離れ小島になっているそうです。

で、報恩講の料理は似ている部分もありますが、違いもあります。
桑島の場合、お斎が豪華なのは、お寺の報恩講ではなくて、
各家々のお内仏の報恩講の時です。報恩講用にわざわざ取って置いた
最上の山菜や作物でご馳走を作って、親戚を招待して振る舞いました。

その報恩講の料理にも隣の村どおしで大小違いがありました。
小さな違いは堅豆腐のかたさ。桑島の方がもっと堅い。
お汁は大きな違いがあります。白峰は大根や人参、里芋などの根菜を
中心とした具だくさんの、いわゆるさんぺい汁のようなお汁ですが
(とは言うものの私は話に聞くだけで、実は実物をいただいたことがない。
同行も親戚もなく、行き来がないもので)、
ところが、桑島はなめこ汁(orくずし汁)が主流です。
特産のなめこ(缶詰を使う方が美味)と、型枠に入れないで水中で
凝固させた堅豆腐、その名も「くずし豆腐」と、ささがきごぼうのお汁です。
くずし豆腐は特注なので、この汁はお内仏の報恩講の場でしか口に入りま
せんでした。
なめこ/くずし汁でない場合は、あざみ汁。春先に採って乾燥しておいたあざみ
をもどして、打ち豆と豆腐などとお汁にしました。これも一風変わった風味が
あり美味。

で、堅豆腐をちぎって具なしの味噌汁に入れて温めて食べるのは、桑島の場合は
いわゆるお内仏の報恩講ではなく、また別の仏事の時の食べ方でした。白峰は
知りません。


訂正 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月21日(日)15時33分10秒

 。。。だから「救い」として強烈な光を
放っていたのだけれど、今はそんな時代状況じゃない。

 >ダラブチさん

 お久しぶりです。スローフード文化は大切に守りたいものです。
(教えは現代にアレンジすべきだと思いますが)


真宗は何故現代人に影響力がないのか 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月21日(日)15時11分54秒

 ある文化(言説・常識・宗教等々)が強く社会に根を張っているとき
その主張に同調できない人々がいるとその人たちは生きていくのが
とても困難である。

 2001年の日本では、何でも「アリ」の社会のように見える。
でもよーく目を凝らせば(凝らさなくても)人々を呪縛する
ものがいっぱい見えてくる。

 もっとも卑近な例を挙げる。
 知り合いの女の子は「やっぱり男の人って巨乳が好きなんでしょう」
 とか「やっぱり痩せてる娘が好きなんでしょう」とばっかり言っていた。
 
 で、ひどく悩んでいた。これなどは根拠のない風説の一般化によって
(女性は男性に気に入られなければ価値が見出せないなどという信念)
 呪縛されている例であります。で、当たり前ながらこれらの信念があるから
 エステや整形外科などの商売が成り立つと言っていいのだけど。

 真宗の教えは、現代の言葉に翻訳されていないし、
 消費者(?)の実情を把握していない。

 「念仏」を称えることが危険を伴うことだったり
 「仏教者」を名告ることがおこがましいことだったら
 それが「救い」になるのだけど、そんな時代状況じゃない。

 魚をとったり猪を狩ったりすることが、「手を汚している」
 という罪の意識につながらないならなんらその行為は
 その人を呪縛はしない。

 ユニクロならぬアナクロが今の真宗だと思う。
 


お山は雪か? 投稿者:ダラブチ  投稿日:10月21日(日)14時48分39秒

らくりんさんの生まれ故郷に近い村の真○寺さんに新しい住職が誕生し、その継承式と報恩講の
席へ招かれて行ってきました。村長さんまでが来ておられて驚いたけど、そのお寺の総代さんの
お一人だったとか。

お斎に堅豆腐が出ていたのですぐにかぶりついたら、お隣に座っておられた隣寺の御住職が、
「その豆腐はそうやって食べちゃいけませんよ」と言われるのです。なんでも汁碗に入れて適当
な大きさに箸でくずし、そこに味噌汁を張って食べるのが作法だそうで。空腹で焦っていたので
食べ方の説明を聞いていなかったんですな。あれ、どういう名前のお汁なんだろう。


芸人列伝 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月21日(日)14時43分59秒

 日本では長い間米づくりが政府の誘導により
 基幹産業だった。
 もちろん租庸調という税制の中では布を収めるという
 手段もあったけど。だいたいは(近世に入ると)石高(こくだか)
 が今のGDPやGNPに相当した。

 だから、農業従事者以外はいわゆるカタギではなかった。
 中世にはカタギではない流浪する被差別芸能民たちがいた。
 その中に熊野比丘尼やスタスタ坊主、願人坊主なんて人たちもいた。
 (絵解き説教をしながら時に売春までもしたであろうといわれるのが
 熊野比丘尼)

 下級宗教者といってもいいでしょう。この人たちは例えば熊野神社や
 鞍馬寺とつながりを持ったりしていたようですが、中にはもぐりの
 芸能民もいたことでしょう。名告る資格もないものが、「宗教」や
 「仏教」をメシの種にする。私は、この人たちが「外道」であっても
 阿弥陀さまはお許しになると思います。だってどの宗派の坊主だって
 似たり寄ったりダモン! 


私的言語の不可能性 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月21日(日)14時23分42秒

 「しんらんに惚れた」のではなく「しんらんの心意気(法蔵魂)に
惚れた」にしときます。

 さて「行為が限りなくゼロに近づく」という 『読み解く』の文章から
 徒然に。。。

 雪が降る。は自然現象。
 犬が尻尾を振る。は生理現象。
 男が日の丸の旗を振る。は行為。と一般には考えられる。

 この三つの違いは何だろう?
 主体が意志や意図をもってるか否かで決まるかのようだ。

 だが本当に、雪や犬が意志を持ってないと言い切れるのか。
 確かめようがないだけではないだろうか。
 「天」が意志をもっていると考える文化圏では(アニミズム)
 雪と犬と男の例は何の違いもなくすべて行為なのではないだろうか。

 「自由な行為」という言葉がある。
 右を選べるにもかかわらず左を選ぶと、
 「選択した」と呼ばれる。

 そもそも左を選ぶ可能性はあるが、
 選んだあとは、選択した「右」は必然であり、
 運命であり決定されていて、「自然」であった。。。

 親鸞は何故われわれの行為をゼロに近づけるのか?
 なんらかの「良い行為」によって
 自分を他者(阿弥陀さんも含む)に認めさせることを
 禁じるのか?

 「結果の平等」ということと「機会の平等」という
 考えがある。
 また人間一人一人の資質や能力には違いがある。
 機会を平等に与えても、努力によって結果に違いが生じる。

 親鸞の時代にはやはり、死後の世界(あるいは生まれ変わり)が
 強く信じられていてお布施をする金もなく、経典を読んで理解する
 教養もなく、修行をする根性と体力とヒマもない人々は生きてる価値も
 ないし、死んでからもエエとこ行かれへんという言説というか常識というか
 文化というか価値観が流通していたのだろう。

 だから「名告りの背理」が救いになったのではないか? 


うどん腹 投稿者:らくりん  投稿日:10月19日(金)23時33分53秒

讃岐でうどんを堪能してきました。

藤元先生から「真宗には盗作ということはない」と聞きました。
真偽のほどは知るよしもないが、五木さんが「真似?」しているんだとしたら、
それはそれで「光栄」と言うべきなのかも。


そして誰もいなくなった。。。 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月19日(金)17時11分39秒

 第三次世界大戦勃発によって人類が滅亡した。。。

 それでも夕焼けは赤いだろうか。。。

 ダニは明るさとニオイと温度にしか反応しないと言う。
ダニに「こっらー、ワレの血ィ吸うなー、あほんだれーっ!」と
いくら叫んでも通用しない。ダニの辞書に「音」は無い。

 だったら地球に生き残った生き物が、仮に赤色スペクトルを緑色と
識別するものならば、「夕焼けは緑」なのではないだろうか。。。

 ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ。。。
と綴っていくとだんだん、日本語のひらがな、ナ行の三番目の
文字では無くなっていくような気がする。文字から「意味」が
抜け落ちてくる。

 で、文字であることすらも解らなくなっていく。。。
単なるシミ、いやシミということすら判別できない。

 一体、「客観」などあるのだろうか。「事実そのもの」なんて
あるのだろうか。「事実にもとづく客観報道」などこの世にあるのだろうか。。。

 あの娘が、俺の言葉に頬を赤らめたのを、俺はホの字と勘違いして
どエライ目に遭った!あの娘は、実は怒ってたのだ。。。
  
 でも俺があの娘っ子に惚れたのは紛れも無い事実だ。。。
このドキドキ高鳴る胸。それとおんなじように、この世が全部
つくりものだったとしても、俺がしんらんに惚れたのはウソじゃない。。。  


幻想から妄想へ 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月19日(金)16時38分41秒

 >お留守居役様さん

 吉本さんの本は数が多い。で、ぐっちんは主著は読んでません。
吉本さんに影響を受けた(と思われる)人の本によってこの人は
だいたいこういうことを言ってるんだろうと推測してます。

 むしろ、娘さんの小説を読んだことのほうが多いです。でも、
去年出た『老いの現在進行形』という痴呆の症状を呈し始めた
吉本に介護の職人、理学療法士・三好春樹が挑んだやつが面白かったです。


レッテル貼らレッテル 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月19日(金)16時20分07秒

 >らくりんさん

 「光を求めて影を見出したひと」というらくりんさんの文章を読んだけど
どっかでこれに似たような文章に出会った。そうだ、ミネさんが掲示板で
映画『大河の一滴』を見てきましたと書かれていますが、五木寛之!

 『ひとはみな大河の一滴』という五木寛之が、講話をしている12枚組の
カセットもしくはCDの宣伝パンフに、これと似た話が載っている。
 発売時期から見て(2000年?月)五木がらくりんさんの文章を掲載した
『同朋』を読んでいる可能性の方が大きい。

 もう、有名人はこれだから困る。勝手に文章パクラレテまっせ!


吉本さんと私 投稿者:お留守居役様  投稿日:10月17日(水)23時49分03秒

吉本さんを30年以上愛読しています。
共同幻想「論」は、「マチウ書試論」で発見した
真理の基準である「関係の絶対性」に応えたものです。
人間が作り出す幻想は、現実に対して独立しているとみなすことができ、
幻想には、「共同」「対」「個人」という「構造性」がある。
この「構造性」ということが共同幻想「論」の要かと思います。

「共同幻想論」は角川文庫に入っていますが、
http://www.trc.co.jp/trc/book/book.idc?JLA=82-01920
「序」を読まれれば概要を知ることができます。


遊び場 投稿者:らくりん  投稿日:10月17日(水)16時12分14秒

ぐっちんさん、
どうも ↓ あたりが、お留守居役様さんの遊び場の一つのようですよ。

http://shomon.net/


風紀委員 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月17日(水)14時59分47秒

 学生時代。瑣末なことに難癖をつける御仁らがいました。。。

 >お留守居役様へ

 お留守居役様はよく「共同幻想」ということばを
使用されるようにお見受けしますが、吉本さんのファンなのですか?
吉本を通じて親鸞に興味を持たれたのですか?最近、愛猫および
オーディオの写真集により哲学コーナーが割愛されてますが。。。

 私は、人間はなんらかの「幻想」は持たざるを得ないと考えます。
エドモンド・リーチは人間間のコミュニケーションのレベルに
@信号A記号B象徴を考えてます。

 猫が総毛立ちで尻尾を立ててたら、受けては「威嚇」のサインと
みなすでしょう。(仲間の猫、あるいは哺乳類にとっては)
 犬が仰向けになって尻尾を振ってたら「甘え」乃至は「歓待」の
サインだと人間は思います。

 が、未知の惑星に不時着したとして、生物か無生物かわからないものが、
「手」らしきものを動かしたとします。これは、「歓待」のサインか
はたまた「威嚇」なのか。

 「意味は受け手に生じる」とはらくりんさんのテーゼですが、
「意味」を共有するものが、「仲間」であると思います。

 で、「意味」とは多かれ少なかれ根拠のない「幻想」であると思われます。
なぜなら「事実(現実)」は「手らしきものが動いた」だけですから。

 「意味」は現実以上の「解釈装置(文化)」であると思います。
ですから、言語ならびに非言語によってコミュニケーションを
おこなう人間はいかなるものも解釈装置(文化)という象徴から
逃れられない。

 で、同じ誤解が六回も七階も生じる。

 本願という「物語」を共有して、念仏を称える
「仲間」を信じて生きる。そういう「幻想」から
私は一歩も出られません。


「人」を語ることは難しい 投稿者:らくりん  投稿日:10月17日(水)12時16分05秒

サラリーマンをしていた頃、同僚たちと呑みにいったとき、一番盛り上がる話題は、
そこにいない人のうわさ話でした。
業種がまったく変わった最近でも、業界人が寄るとさわると出てくるの話は似たり
よったりです。
ことほどさように、とかく人は「人」について語りたがるものですが、
「ほめる」にしても「けなす」上手にそれをするのは難しい。

贔屓の引き倒しとか、「ほめればほめるほど」鼻持ちならないというほめ方
にでくわすことがあります、提灯持ち、幇間紛い、小判鮫のたぐいとでも
言いますか。(幇間、いわゆるタイコモチは、それはそれでりっぱな「芸」です
から「紛い」としておきます)
あるいは、「けなせばけなすほど」見苦しいけなし方があります。
「目に触るるにみなこれなり」なんて文言が『論註』にありました。

逆に、
ほめられている人の人柄がにじみ出てくるようなほめ方に出会うと、自分がほめられ
ているわけでもないのに、それだけで嬉しくなります。
これが極めて稀です。
あるいは、言われた当人が「まいった、一本とられた」と言わざるを得ないような
切れ味みごとな「けなしかた」があります。そういうのは「ほめ・けなし」どちら
にしても、聞いてもすがすがしいものを感じることがあります。
しかし、これもまた天然記念物もの。

それにしても、この違いはどこから出てくるんでしょうね。

思うに、
一方的に、特定のカテゴリーにあてはめて、それで何かを言ったつもりになって
いるような場合、いわゆるレッテル貼りというやつですが、これは「ほめ・けなし」
どちらにしても、多くはとても見苦しく・鼻持ちならなくなってしまうような気が
します。
あるいは、自分の好き嫌いを語るに終わっているような場合もそうですかね。

「ほめ・けなし」いずれにしても、気持ちよく人を語ることは難しい。


海老フライと海老天 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月15日(月)16時42分41秒

 ×『介護ビジネス総覧』
 ○『介護保険ビジネス総覧』でした。自分の書いた本の名前、
間違うなヨナ。。。

 イスラーム女性といえば、ヴェール(ブルカとかシャロワーズ)。
近代化を進めていた時代のイランでは、ヴェール着用禁止の時代も
あったという。ヴェールを被っていたら、警官に剥ぎ取られるという
今では信じられない光景が見られたという。

 西側の女性が「見せる」ことによって自己表現してきた結果、
常に「見られる」存在であることを強いられていると考えれば、
イスラームの女性は「隠す」ことを強制された代わりに「見られる」
窮屈さから解放されたとみることもできる。

 鷲田清一の『悲鳴をあげる身体』にちょっと面白い話が載っていた。
夏の時期。着物で「絽」や「紗」というのがある。本人は着物をひとつ
余計に身につけるのだから涼しいはずがない。が、その透き通った黒が、
すれ違う人の眼を涼ませる。

 キモノには、そういった自己表現とは違ったオシャレ心がある。
他者の視線への気遣い、配慮、ホスピタリティ、ケア。

 そういえば、汗取りといって、籐や竹でできた輪っかを
袖口にはめておられるご院さんもおられる。
 来年の夏。そういう気持ちでお盆まいりしよう。

 でも、人間じたいが暑苦しいことに変わりないか。。。


完全復活 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月15日(月)15時52分51秒

 梶原さん。。。どんなお話だったのカナ。。。
 昔むかし、ふじもっさんとカニバリズムが
 どうとかこうとか お話になってたのを
 横から盗み聞きしてさっぱりわからなかった苦い思い出が。。。
 
 ところで
 ナガレボシキョー・シンも隠れシーク教徒だったりして。。。

 で、旅行会社も航空会社も、カメラ屋さんも牛丼屋さんも
大変ダ。政府の雇用創出プランも労働問題の危機管理といえるの
だけどまったくデタラメだ。
 サービス業を中心に考えてるけど、530万人も雇えません!

 介護分野はパート雇いで女性中心。医療分野も、夜学でOT(作業療法士)
やPT(理学療法士)になれる道がおっちゃんに開かれてあるのでしょうか?
病院関係には清掃・給食・医療事務。。。と関係出入業者はあるけれど。。。

 実はぐっちんにも幻の著書がありまして、
『介護ビジネス総覧』という本の「これから伸びるビジネス」
という章を仕事がらみで書かされました。

 おのれが首になるくらいやから、そんな分野あるんやったら
こっちが転職してるわ!って感じ。

 結局はワークシェアリングに頼るしかない。
サービス残業やめて、5%の時短で120万の雇用を生み出そう。
ダラブチさんが、どっかで書いていたけど、組織には
遊びやゆとりの人員も必要です。(アリの話。詳しくは郡中舎)


98村 投稿者:らくりん  投稿日:10月15日(月)15時37分56秒

ここのところ、PC98村の掲示板に頻繁に出入りして、いろいろと教えを請うており
ます。
不慣れなもんで、OSやソフトの使用許諾条件に抵触するような質問を不用意に書いて
しまったりしておしかりを受けて冷や汗をかいたり、謝ったりしながら、仲間に入れて
もらっています。

いやぁー、それにしてもいるところにはいるもんですね、まだ98機にこだわって
いる人が。
過去ログを読んでも、私などから見たらとんでもなくマニアックな質問にも、
どんどん的確なレスがついていたりして、98機ユーザーとしては心強い限りです。


冬支度 投稿者:らくりん  投稿日:10月15日(月)09時48分29秒

常讃寺の報恩講、ほぼ満堂のお参りをいただき、お勤めすることができました。

梶原さんのお話、深みがあり、皆さん真剣に聞き入っておられた感じです。
ちょっとややこしい部分もありまして、退屈そうなお顔も見えましたが……
私自身としては、よい縁をいただきました。

報恩講が終わると、気分はもう冬支度です。


とばっちり 投稿者:ダラブチ  投稿日:10月13日(土)08時05分25秒

私が非常勤を勤める高校も修学旅行を「取りあえず中止」にしました。その学年の授業を担当して
いる講師は皆、旅行期間中に休みがもらえると思っていたので、中止の連絡を受けて「やれやれ」
という顔をしていました。やっぱ先生もあんまり授業はしたくないんですなあ。私も報恩講前の慌
ただしい時期だから、よけい休みが欲しかったのに。

でもこの中止も危機管理の一貫なんでしょうか。旅客機テロを心配しているようですが、200
人以上の生徒が移動するんだからチャーター便を頼めるようにも思うのですが、無理なのかな。

観光地にとっては大打撃ですよね。日本は観光旅行(による)援助国なんですから、チェックを
厳重にした上で、どんどん海外にお金をばらまかなければいけません。それが筋金入りのお上り
さんというものです。

ダラブチの高校は私立ですが、こういう場合国公立の高校には国や県から「海外への修学旅行等
は自粛するように」という通達でも出てるんでしょうか。でもダラブチが校長だったら・・・
チャーター便を頼めなければ中止かな。


危機感? 投稿者:らくりん  投稿日:10月12日(金)11時06分24秒

私の知り合いが教員をしている小学校にオーストラリアから大学生が研修に
きていたそうですが、
まだ期限が2週間ほど残っているのに突然帰国するようにとの支持が届いて、
急遽帰国したそうです。
この先何があるかわからないと言えばそうなのですが、
そこまで事態は逼迫しているのかと、
ちょっと、驚いています。
日本がオーストラリア以上に特別危険に晒されているという感じはないですからね。

もっとも、日本でも
海外への修学旅行の中止・延期・行く先変更とか、海外旅行の取り止め
という話をよく聞きますからそれと同じことなのでしょうが。


報恩講 投稿者:らくりん  投稿日:10月12日(金)10時54分29秒

明日(13日)明後日(14日)は、常讃寺の報恩講です。

お勤めは、外陣で「草四句目下げ・三淘・六首引き」という、
普段と同じ次第で同朋唱和します。

14日には、姫路から梶原敬一さんにお越しいただき、
午前・午後とお話いだだきます。
法話三昧の報恩講です。


http://web2.incl.ne.jp/fujiba/hondo.htm


なぜ人を殺してはいけないかV 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月11日(木)14時53分41秒

 ちっともタイトルには迫れないけど。。。

 675年だったか、日本では「肉食禁止令」が
発布されてます。牛・馬・犬・猿・鶏を4月から
9月頃まで食べちゃいけませんという。

 なんで期間限定、種類限定なんだろう?
お米を作る時期は、ちゃんとお米つくりなさいという
ことなのだと、原田信夫だったかが解説してた。

 まあ、いのちあるものを、殺しまた食べる。
そのことをめぐっていろんな人間の思惑が見え隠れする。

 正しい殺し方。正しい食べ方。。。。


なぜ人を殺してはいけないかU 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月11日(木)14時45分48秒

 池袋に南アジアのムスリムが集まるビルがあって、
ぐっちんもそこのモスクでイスラームの初歩を手ほどきを
うけたことがあります。

 で、ビルの三階にはムスリムショップがあって、そこに
ハラールというお祈り済みのお肉が売ってあったので
買って食べたことがあります。もちろん、何も変わりありません。

 彼らにとっては、動物を殺すことは罪ではなく、苦痛を
与えることがいけないという論理のようです。だから、家畜を
殺すときは鋭利な刃物で喉元の血管三本をえいやっとばかり
掻ききるそうです。

 真宗聖教全書の宗祖部には、「三種の浄肉」という仏教者が
食べてもいいお肉のことが載っています。これ、親鸞の覚書き
なんだろうか? なんか、北条政子だったか法事でお呼ばれして
酒魚のもてなしがあった時、親鸞は袈裟を脱がなかったとか言う
「伝説」みたいなのもあったなあ。。。

 山川草木悉皆成仏とか一切衆生悉有仏性とかいって、
あらゆるものに仏が宿るという思想を持っているから
仏教は「生き物にやさしい」平和な教えだとかのたまうお方が
多々いらっしゃるけど、さてどうだか。あらゆるものが、仏と
成り得るのに「殺さなければならない」のなら、よけい悲しく
痛ましいことではないだろうか。
 
 インドにいったおり、テント掛けのチベッタンレストランで
めしを食ったけどチベット僧はヤクの肉を食べていた。
 彼らにとっては、魚のような「小動物」を殺すことのほうが
罪深いという。それは、一つのいのちを奪っても、ヤクのような
家畜ならたくさんの人が恩恵に預かるからなのだと。

 タイなどの上座部でも、布施されたのなら肉は食べるでしょう。
大乗が中国を経た時に、儒教の親孝行思想と結託して、生き物が
輪廻転生するなら、ご先祖の生まれ変わりを食することになるから
肉食は罪になるのだということだと思うのですが。

 で、如来蔵思想は仏教か否かという純学問的問いよりも
ぐっちんはこんな絡みで「仏性」を考えてしまう。 


なぜ人を殺してはいけないか 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月11日(木)14時21分58秒

 むかし筑紫哲也の番組だったか、NHKの番組だったか。
一連の少年殺人事件をテーマにトークが交わされていました。
 
 確か作家の柳美里がゲスト出演してました。参加者のひとりの
若者が「なぜ人を殺してはいけないのですか?」と問い、その場に
居合わせた大人たちが絶句し問いに答えられ無かったというのがありました。

 で、このテーマでその後いろんな論客が持論を述べていました。
私が面白いと思ったのは、社会学者・宮台真司のものです。

 人類の社会は、一度も「人を殺してはいけない」という命題を
生きた事実はない。「仲間を殺してはいけない」というルールで
社会を形成してきたのであって、敵とみなせば殺していたのだ
と発言していました。

 で、現在の少年事件は、例えば「人間を壊してみたかった」とか
怨恨でも物取りでもない不条理な理由なき殺人で特徴付けられる
のだと発言していました。

 そういえば、昔は近親者を殺すと尊属殺人とかいって罪が重かった
ような。

 ぐっちんは、法律にまったく疎いのですが、国際法では「戦争」は
ありなんですよね。で、民間人とか殺すというようなルール違反を
すればお叱りがあるのではないでしょうか。


やはり変なのは 投稿者:お留守居役様  投稿日:10月10日(水)00時03分55秒

いましがた、筑紫哲也さんが、
血を流すことに関して発言するには、覚悟を持つべきである
と言っていました。
言って欲しくない、恥ずかしい言葉だと思います。
かつて、安田講堂闘争の時に見物していた東大教授が、
一人くらい飛び降りて死ぬ者はいないのか、
と言ったのと同じ感覚かと思われます。


何か変なのは 投稿者:お留守居役様  投稿日:10月 9日(火)23時32分26秒

戦争や報復に反対することは理解できます。
恩讐を越えるということは崇高なことであると思います。
けれども「反米」というのは変だなと思います。
戦争に対しては、平和的解決、報復に対しては、許しといえますが、
反米に対しては、親米ということになるでしょうから
レベルが違うと言えます。
反米も親米も実質のない空虚な概念だと思います。


そういやぁ 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月 9日(火)20時55分32秒

 「インドの狂虎」といえば、タイガー・ジェット・シン。
インド人といえばメタル・インドカレーの影響からか、ターバン
巻いてるイメージがあるけど。ターバン巻いてるのはシーク教徒。

 カーストを否定し、「男は女から生まれ、女は男から生まれる」
と意味しんな男女平等思想が説かれる聖典グラント・サーヒブを持つ。

 シーク教徒もパンジャブ州独立問題でテロリストのイメージが強いけど、
リングの上でのタイガーはサーベルの柄でしか相手をどつかなかった。

 で、ザ・シークはなぜ、「アラビアの怪人」なんだろうと思っていたが、
彼はヨルダン出身。元首のことをスルタンもしくはシークというそうです。
納得。

 ジャン・レノが出てた映画で、メキシコの神父レスラー・フライトルメンタ
という人もいました。孤児院を経営するのにリングに立つ神父さん。

 みんなルールを守って闘おうぜ!

 坊さんでレスラーっていないのかな。グレート・菩薩とか。。。
(俳優かつ賀来千香子のダンナの宅麻伸はシーク教か?)


昔Gファン 投稿者:らくりん  投稿日:10月 9日(火)20時20分37秒

そんなえげつないことを言うのは、
評論家じゃなくて、某コ球団の某N監督しかいない。
もっとも某N監督も以前は評論家だったか。

長嶋さん、昔はなんか知らんけどカッコよかったなぁ。


また三連発 投稿者:ぐっちん  投稿日:10月 9日(火)17時46分38秒

 広沢(現阪神)は「考えない」
 池山(ブンブン丸)は「考えたことがない」
 長嶋は「<考える>ということすら知らない」
 と昔ある評論家がいってた。非想非非想処の先を行くチョーさん。
 お疲れ。


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