らくりんバンバン

〈 落 鱗 板 々 〉



投稿者
メール
題名 
[ ヘルプ ]
内容

URL

[iモード / J-スカイ 対応]

今日、弟と話をしていて... 投稿者:Zazie  投稿日: 4月14日(土)00時32分12秒

 差別用語というと、何かふだん使われない言葉を、重箱の隅を突つくように批判される傾
向がつよいような気がします。一方で「ハゲ」、「デブ」、「チビ」といった言葉は日常的
に使われています。弟は4歳の時に円形脱毛症になり(原因はわかりません)、今日まで頭
髪がありません。私自身子供の頃、兄弟喧嘩で「ハゲ」と罵りました。

 ごく普通に使われる「ハゲ」という言葉に対する痛みを、弟は淡々と語りました。

もっと日常的に自分達が使っている言葉に、痛みをおぼえる事が大事ではないでしょうか?


ファイナル・アンサー 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月14日(土)00時28分21秒

><だいたい、

単語は言葉ではないとも申したとおりで、
気品のある文体の中で使われる敬称「氏」は、
気品のある言葉となることでしょう。

><人名>は解説3で、

的外れですので、拙文を精読されて誤解を解消されたいと思います。

>「猛氏」と「人名」に「氏」をつけてられおります。<引用ママ>

父親の新村出には、「先生」という「敬称」を使っても、
ご子息の猛さんには、「先生」と「敬称」を使いたくなかったのでしょう。
「さん」では、親しみの感情を表してしまい、
「様」では、丁寧すぎると考えての窮余の一策かと思われます。
執筆者と猛さんの関係を勘ぐりたくなるのは、私だけでしょうか。

>「氏はもはや家名ではなく個人の呼び名となった」

「氏(うじ)」は、家のものではなくなり、
個人のものになったと言えると思っています。
ですが、特定の一人だけの個人を表すのではなく、
「同氏」(氏を同じくする)という概念は存続していますし、
「入籍」とか「復籍」とかの手続きも存続しています。
個人の名と個人の氏(うじ)は別のものです。

昔、羽仁五郎の「都市の論理」という本が、
ベストセラーになったことがありました。
都市では、人間が個人としての市民となり、家族は消滅する
という恐るべき主張が述べられていたかと思います。
くわしくは存じませんが、ヤマギシ会とか
カンボジアのポルポトと共通性があるかと思われます。

>「板坂元・竹内美智子両氏」という表現は、
>明らかに、「敬称」としての「両氏」です。
(4月12日(木)22時09分12秒)

「板坂元氏・竹内美智子氏」と表記するのを
簡略化した表記法であると言われているのかと思います。
「敬称」としてこのような表記が可能ならば、
他の「敬称」でも可能なはずです。
確かめてみましょう。
1 板坂元・竹内美智子両様
2 板坂元・竹内美智子両殿
3 板坂元・竹内美智子両さん
4 板坂元・竹内美智子両ちゃん
5 板坂元・竹内美智子両氏
6 板坂元・竹内美智子両名
7 板坂元・竹内美智子両君
8 板坂元・竹内美智子両先生
1から4までは使われないと思います。
では、なぜ5から8は使われるのでしょうか。
それは「代名詞」だからだと思います。
「両」は2人ですが、3人以上の多数の場合を考えてみてください。
「以上の各氏」とか言うこともあるでしょうが、
ふつうは「の方々」と言うかと思います。
「方々」は「代名詞」ですね。
この話題は、これで5回目ですが、
林遊さんも飽きられているようですし、
もう止めませんか?

ともかく、私は、
「氏」は「氏」であり、
「氏」は「氏名」であることもあるが、
「氏」は「名」ではない
と申しているだけなのですから。


(無題) 投稿者:愚っ朕  投稿日: 4月13日(金)13時24分24秒

 >私は、機動隊導入を大学の自治、自浄能力放棄の象徴として、
 >免疫不全症候群にかけて、「エイズのごとく」と大学新聞の
 >見出し語で堂々書いた事があります。その折に、@「ごとく」
 >「ようだ」というのは差別の典型表現だ。A差別を意図した
 >のではないというのは了解するが、それを読んだ血友病患者の
 >方の気持ちを踏まえての表現か?と問われ、なるほどと思った
 >ものです。
  確かにこの部分は,曽我量深さんの「異なるを歎く」を
 思い起こさせます。で,三吉さんの謝罪される行為も理解できます。
 >目の前にある「痛み・傷」と向き合うことはとてもつらい。
 >自分がその傷に責任がある時はなおさらです。それはある種の
 >「こわさ」と言ってもいいと思います。糾弾というのは、この
 >「こわさ」を認識するための共同作業で〈なければならない〉と
 >思います。
 で,私のいいたいことも尽きました。



出かける前に 投稿者:らくりん  投稿日: 4月13日(金)11時30分28秒

痛い人が「痛い」と声をあげる
大して痛くないけれど、たいそうに痛いふりをする

「痛み」や「傷」を受けた人を目の前に見る。
「痛い人がいるはずだ」と解釈し、説明する。
「痛い人がいるかも知れないから、それは言わない方がいい」と感じたり、言う
あるいは「快く思わない」と表明する。

「相手がほんとに痛がっている」「自分は相手を深く傷つけた」と痛感する
「痛がる人がいるかもしれない」と想像する

目の前にある「痛み・傷」と向き合うことはとてもつらい。自分がその傷に責任があ
る時はなおさらです。それはある種の「こわさ」と言ってもいいと思います。糾弾と
いうのは、この「こわさ」を認識するための共同作業で〈なければならない〉と思い
ます。
この「こわさ」と、暴力や威嚇もしくは疑似暴力によって生み出される恐怖感を混
同したりはきちがえてしまうと、糾弾は糾弾にはならないだろうと私は思います。

差別問題を考える際には想像力、特に相手の痛みや傷に対するそれが不可欠です。
それはとても重要です。
しかし、想像力は時に大いなる幻想(妄想)を生みだすことがあります。
それを逆手にとって悪用することも可能です。

批判(糾弾・教誡)の正当・不当という問題は
『親鸞の教行信証を読み解く』第5巻の最も重要なテーマの一つです。

この掲示板は、ご随意にご利用下さい。

では


もひとつ 投稿者:愚っ朕  投稿日: 4月13日(金)09時51分09秒

 まあ,殴りかかった青年さんは単に「殴る」という
ストレートなにいちゃんじゃなくて大分屈折した世渡り
テクニックをお持ちのよう。でも,それじゃ彼のしんどさは
しんどいままなんだろうと思う。まあ,それが私の乏しい
想像力ですわ。


三吉さんへ 投稿者:愚っ朕  投稿日: 4月13日(金)09時29分15秒

 >私は糾弾したとは思ってませんが、「ほのめかし」は
 >そうかもしれないと思ってます
 それでは,そうなんですよね。
 >その「きずき」の機縁が被差別者の指摘であれ、代弁者であれ、
 >一体なんの本質的な差があるのか私には不明である。もっといえば、
 >差別者が「私は差別はしてない」と否定することを他人が見て、
 >その他人の姿の中に「自分の差別性」をきずかせるものがある場合すらある。
 >他者の指摘など「糾弾」であれ、「ほのめかし」であれ、「きっかけ」に過ぎない。
 というのが,三吉さんのおっしゃりたいことのようだと私には思いますので,
 意見が違うと申しておきます。




実践上の矛盾は。。 投稿者:三吉  投稿日: 4月13日(金)07時52分22秒

「人権」「人権」という側が、批判される方の「人権」を無視しているのではないかという点にあると思います。
例の課長のような立場にある方は多く、あるいはノイローゼになって辞職された方も現実におられ、決して少ない数ではありません。暴力は論外ですが(ただ私は論理的には暴力支持)、言葉の暴力、団体の圧力、長時間交渉の疲労。。。などなど。批判もあり、最近は噂では穏やかになってきていると聞きます。(交渉に当たられる行政職員の中では教職員組合が一番ひどいと嫌われているという噂もあります。事実は未確認)
それは事実としてある(あった)のでしょうが、課長の話しを書いた氏に私は意図的な「解放同盟=暴力=怖い」というイメージを増幅しようとする作為を感じております。

雑感でした。


愚っ朕さんへ 投稿者:三吉  投稿日: 4月13日(金)07時17分25秒

>三吉さんは,「代理糾弾」したわけでも「ほのめかし」をしたわけでもない<

と私は思ってないのですが、これは私のどの部分からそう読まれましたか?
(糾弾という語はらくりん氏と意味ニュアンスが違いますが、便宜的に議論のために使用してる場合はありますが、展開はしてませんが、私は糾弾したとは思ってませんが、「ほのめかし」はそうかもしれないと思ってます)

「架空の他者への謝罪」とは想像力ではないでしょうか?
私は、機動隊導入を大学の自治、自浄能力放棄の象徴として、免疫不全症候群にかけて、「エイズのごとく」と大学新聞の見出し語で堂々書いた事があります。その折に、@「ごとく」「ようだ」というのは差別の典型表現だ。A差別を意図したのではないというのは了解するが、それを読んだ血友病患者の方の気持ちを踏まえての表現か?と問われ、なるほどと思ったものです。

ただ。。。うまくいえませんが、私は心臓に毛が生えてますから謝罪すべきほどのことでもないと思ってますが、大願氏はデリケートな方なのではないかと思います。

第一、課長の恐怖は理解できますが、共感しませんし、「弱いな」と思うほど私は倣岸不遜な人間です。私が課長の立場なら「冷たい暴力」の時点で「勝った」と思うことでしよう。。。
支部の長にこういう脅迫をわざとやらせているのか。と厳しく追及し、怒り(振りです)、
こういう脅迫は対話拒否である。容認できない。話し合いは終了すると席を立つと思います。


確認 投稿者:三吉  投稿日: 4月13日(金)06時58分14秒

<だいたい、人を「氏」呼ばわりするのは、呼び捨てするのは気が引けるけど、対等もしくは優位さをしめそうとする尊大さ、傲慢さ、もったいぶりを語感として感じます。「氏」という敬称を使うという共同幻想に基づく差別意識を感じます。>
というお立場はまだかわってませんか?

広辞苑には「用例」は載ってます。
>「鈴木―」「両―」「無名―」「―は関西出身の実業家で」(5の用例も同じ)<と、人を氏呼ばわりしても、それは敬称もしくは、代名詞的用法で、<尊大さ、傲慢さ、もったいぶりを語感>を感じさす語ではないと用例からわかるのではないかと思います。

<人名>は解説3で、それを解説1から解釈されるのは適当ではないと私は思います。
語釈の区分には語義が分かれる場合、区分を明らかにするために@ABと区分をあきらかにした
とあります。しかも番号が若い方が原則として語源に近いのですから、語源に近い@から、転化したBを解釈するのは誤解のもとではないかと。。。
広辞苑5版の<人名>の項には「人の名」とだけあり、「苗字」をさすとありません。
で、第5版の序を書かれている寿岳章子氏も「猛氏」と「人名」に「氏」をつけてられおります。

おそらく「氏はもはや家名ではなく個人の呼び名となった」とは、それまで家父長制によって、苗字の名告りに個人に自由がなかったのが、選択権は個人にありとなり、家父長制的な「いえ」が解体されたことをさします。昔は、直系3代とか、叔父叔母が同一戸籍でありましたが、これは戦前から、農村の次男三男が都会の労働者になることで解体していたのですが、新民法は婚姻と同時に新戸籍を作りますので「親子2代の戸籍」まで「いえ」は解体し、「核家族化」が法制上も支配的になりました。
こういう背景が「氏」の用法にまたもや変化をもたらし、「その通用は誤用」という立場がうまれたと思います。
貴兄の立場から「その通用は誤用」と云われるのは根拠あると思います。
ただ、私の使用法とは「理念」が違うのではないかと思います。
そこに「齟齬と混乱」があります。


らくりんさんへ 投稿者:愚っ朕  投稿日: 4月13日(金)04時03分02秒

 すいません。いくら薬があるとからといって頭痛のタネばかり
書き綴ってしまって。痛いといわれる方がおられるのですから,
即座にどけます。


ネパールの空へ 投稿者:愚っ朕  投稿日: 4月13日(金)03時52分44秒

>よく言われることだが、足を踏んでおいて、踏むつもりではなかったと言った所で
>踏まれて痛いといっている人がいるのであれば、踏んでいる足を即座にどけて
>謝罪せずにはおれないというだけのこと
 大願さんにはとっても申しわけなかったと思うのですが,(話がそれてしまったこと)
けれど,この辺の発言はどうして?と思ってしまいます。一体何読んでいるのでしょうと。
三吉さんは,「代理糾弾」したわけでも「ほのめかし」をしたわけでもない
とおっしゃてるのに,何故謝られるのでしょうか?で,私およびらくりんさんがえんえん
書いていたあとで,この発言ですか。まあ,向いてる関心が違っているなら別ですし,
意見が違っているのならばしょうがない。でも,どういうお育てをこうむっておら
れるのかなあ。こういう発言を私は,「架空の他者への謝罪」と呼ばせていただきたいの
だけど。誰が痛いといってるんでしょう。踏んだのは薄氷か地団駄ではないのでしょうか?


お詫びと訂正 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月13日(金)00時26分56秒

すみませんでした。
間違えて引用してしまいました。
「氏(し)」のつもりで引用した広辞苑第4版
>近世、武士階級の間で、多く同輩以下に対して
>苗字に添えて用いた敬称。
というのは、「氏(うじ)」の解説です。
電子辞書なので、「し」と入力して「氏」に変換して、
検索すると「氏(うじ)」になってしまうのでした。
ところで、「氏(し)」の方の4は、
>人の名に添えて敬意を表す語。
>転じて、代名詞的に話題の人を表すのに用いる。
>「鈴木―」「両―」「無名―」「―は関西出身の実業家で」
となっています。
「人の名」とありますが、解説の1は、
>血族の系統を表示するために称する名。
となっていますので、この「名」は「氏名」の「名」ではなくて、
普通に言う「名前」「名称」の意味であることが分かります。

「氏(うじ)」を敬称として用いる例をうっかりしていましたが、
「氏(うじ)」でも「氏(し)」でも、
「名」の敬称には用いないと言うことに変わりはありません。

>広辞苑に用例や説明は載ってますので
と言われるが、
><けれども「名+氏」の用例は、殆どありません。>ですね、
>私もたまにしかみかけません。
とも言われるように、「名」のみに「氏(し)」をつける
「用例」が広辞苑に載っていないから謝罪を要求しているのです。

>「氏はもはや家名ではなく個人の呼び名となった」
と言われるのは、意味をすり替えていると思われます。
離婚の際のように「氏(うじ)」の選択権は、
個人にあるようになりましたが、
個人を「氏(うじ)」と「名」の組み合わせで表し、
特定することに変わりはありません。
「名」は「個人の呼称」で、
「氏(うじ)」は「複数人の呼称」であることに変わりはありません。
夫婦も親子も別姓になり、共通の「氏(うじ)」がなくなれば別ですが。
「氏(うじ)」も「名」もなくなり、
数字の組み合わせになれば、同姓同名もなくなり、
完全に個人の呼称となり、合理的で便利かと思われます。
そのときには、「氏(し)」とか「氏(うじ)」とか
「様」「殿」「さん」「君」「ちゃん」とかの敬称や呼び方の別も
なくなることでしょう。


ちょっと気になること 投稿者:林遊  投稿日: 4月12日(木)23時43分03秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。


帰路私は、殴るふりをした青年の心理というより、その青年の行為を見ていた部落の人人の絶望の深さを推し量り、私のなかの細かい震えを止めることが出来なかった。
>(改行位置変更)

「ぐちゃぐちゃ言う奴は殴ったら終いやんか」
という林遊に
「それで旦那様、殴れば本当の問題の解決になるの?」
と、家内にいつも言われて反省と慚愧の日々の小生です(笑)。

物語、または提示されたストーリーを読むか、
文章の文脈に表現されている内面の「人」を読むかでは
大きな違いがあるのかもしれませんです。

で、カテゴリーという概念を導入しますが、
「部落の人人の絶望の深さ」という表現に、「お留守居役様」さん提示の

<差別の言語論 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月 8日(日)07時32分34秒 >
>  
「AはAである」というのは、
「Aは非Aではない」ということです。

を援用すれば、部落民であるというカテゴリーに属するアイデンティティ(自己の存在の再確認)を、課長の「同和はこわい」という、もう一方のカテゴリーからの否定に依ってしか成り立たない「反差別」なるものに対する「絶望」表現が、
「絶望の深さ」という表現じゃなかろうかと愚考していたりしますです。
他者の「恐怖感」、「人格的倫理観」を基底にする「反差別」闘争なるものは
はたして真の解放なるものを目指した水平社の理念なんじゃろかい、というのが
越前の林遊さんの疑問だったりします。

もっとも、コウモリ男のように、状況によって右顧左眄する「代理糾弾者」なる
真宗門徒を名乗るアホたれは問題外ですが、「差別」なるものを、
いま少しく考えてみるのも面白いとは思っていますです。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


う〜ん、勉強になるなあ 投稿者:林遊  投稿日: 4月12日(木)22時43分10秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

で、勉強という語は明治になってから使われだした語である、
と聴いたことがあったのですが(マキビシ、マキビシ(笑))、
漢字(真名)+ひら仮名orカタカナで構成されている日本語ちゃあ
難しいもんじゃなあと思っていたりしますですね。

もちろん言葉は時代とともに変遷するものですが、
日本語は漢字という「象形文字」と
カタカナorひらがなという「表音文字」とが組合わされている分だけ
ややこしい言語なのかもしれませんです。

もちろん、漢字という象形文字には
山ほどの多義的な概念がごっちゃりくっついているのですが、
このような多義的な概念の中に、
言語という、何やらよおわからんモノを解消してしまうのが
「日本語」なるものやもと思っていたりします。
(もっとも日本語なる概念はメチャ難しいですが(笑))

で、漢語の「信心」なる語を、
タスケタマエトタノムなる語に置き換え、
覚りの領域である浄土を「人格仏?」なる如来への信(まこと心=無義心)に
信順する語に置き換えた蓮師(蓮如上人)は、
仏陀と小生のような凡愚が対話可能な回路を開いてくださったという意味で
たいした御仁じゃと思うていたりするのですが、
大谷派では流行らんそうなので困ったものです(笑)。

ところで、名ということであれば、○○の三郎とかいう、
名田の持ち主にも言及した方が面白いですね。熊谷の次郎直実などという
所領(墾田?)の名を名乗る人もいたりして
いやはや言語談義は面白いですね、と林遊は思いますです(笑)。

ps
それにしても図書館ごっこは、あまり面白くないんじゃないかなぁなどと
林遊は思っていますが、まあ御両人ともお好きになさいましませです。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


恫喝的発言? 投稿者:三吉  投稿日: 4月12日(木)22時09分12秒

<恫喝的発言を訂正され、謝罪されることを要求>とのことですが、なぜでしょうか?意味が把握できません。どうも誤解があるようです。
<だいたい、人を「氏」呼ばわりするのは、呼び捨てするのは気が引けるけど、対等もしくは優位さをしめそうとする尊大さ、傲慢さ、もったいぶりを語感として感じます。「氏」という敬称を使うという共同幻想に基づく差別意識を感じます。>と、あなたは、人に対して「氏」呼ばわりするのは、<尊大><傲慢>で、<差別意識>があるとまず論難されました。それに対し、私は、<B人名に添えて敬意を表する語。転じて、代名詞的に話題の人を表すのに用いる。>を広辞苑からあげました。「氏」という敬称を用いるのは、普通の感覚であるという反論です。それに対しあなたは、<氏の誤(ママ)の言うのは情けない><用例または説明がなければ辞書として役に立たないのです。>とされました。それに対し当該のあなたが恫喝とされる<広辞苑の用語例を確認されての発言か>になります。広辞苑に用例や説明は載ってますので、役に立たないというあなたの論は、どうかと感じおる次第です。その載っている用例からは、あなたのご主張の「<尊大><傲慢>で、<差別意識>がある」に反する例として充分だと私は思っております。

少し前に大反響のあった岩波新書「日本語練習帳」大野晋著に「敗戦によって、日本の戦前の天皇制、あるいは家父長制が否定され、一人一人の個人の自由が・平等に最高の価値をおくという転換が生じました。老人層は昔の人間関係、つのまり上下関係を中心とするとらえかたになじんでおり、どうしてもそれにもとづく敬語を使おうとする。ところが中年層から若者へと人間関係のとらえ方がみるみる変わってきてます。若者は人間関係について、年長者とは異なる理念のもとで言葉を使う。そこに生じる齟齬によって、現在の敬語表現のむずかしさ、またある意味での混乱が引き起こされているといえるでしょう」とのことです。
私達の齟齬と混乱の遠因はここにあるのかもしれませんね。

両氏について、広辞苑第五版のP4新村出氏の自序、「板坂元・竹内美智子両氏」という表現は、明らかに、「敬称」としての「両氏」です。P8寿岳章子氏の「ひたすら両氏のご冥福。。。」は、一旦「氏」と出した上での「代名詞的」用法ですが。。
「呼び捨てにした上で、その二人を指して2回目から「両氏」と言ったのです」との意見を客観的と言われてますが、おそらく主観的だと思います。。。私はその用法をしりません。
そうそう、ちなみに、「伊藤整氏の生活と意見」(1951)という著作もあります。(余談です)

<けれども「名+氏」の用例は、殆どありません。>ですね、私もたまにしかみかけません。ちなみに先のP8寿岳章子氏に、「新村猛氏」とあげた上でですが「猛氏」という表現があります。

「氏」は、先にもあげたように、日本ではまず貴族だけに用いられてました。それがすべての家に転用されました。目下のものを呼ぶというのはまず古代ではなかったのじゃないかとの印象をもってます。大野晋氏によれば、「敬語」の起源は、日本では、「近いか」「遠い」かという人間関係を基本において考えていたと語源推測されてます。古墳時代以後、漢字導入に伴い、上下関係という発想が根づき、社会の階層化が一層進展し、家父長的社会制度の成熟と関係があるのではとされてます。「うじ」が目下の者にというのは近世の武家の風で、講談社学術文庫の江戸用語辞典にも、私は未確認ですがあなたによると広辞苑の第4版にもみられる見解です。


言葉の用法は変わってきている 投稿者:三吉  投稿日: 4月12日(木)22時07分08秒

鏤々の述べましたのは、「言葉の用法は変わってきている」ということです。HNに氏をつけて敬意を表する用法は勿論、私風です。以前に見られない用法であるから「誤用」というスタンスはありうると思います。ただネット上では、氏名を匿名にしてHNで個人を表現しております。「氏」と「名」があるにもかかわらず、「名」のみに「氏」をつけて表現しているのではないということは、ご理解いただけるのではないかと思います。で、私の理解によると「個人」に対して「氏」をつけるということです。一般にHNはネットで個人を表す「すべて」でありますから、それに「氏」をつけているということです。
「中村太郎」と「鈴木花子」が結婚し、太郎が死んだ場合、「花子」は、「中村」姓のままでも、「鈴木」姓に復することも自由に選べます。しかも、「花子」は、「中村」家と縁を切ってもよくその場合も、「中村」姓を名乗れます。「鈴木」姓に復して、「中村」家と姻族関係を維持するのも可能です。あるいは、離婚した場合は「花子」は、「鈴木」姓に復さなければなりませんでしたが、76年6月の民法改正で、「中村」姓のままというのもOKになりました。「夫婦同氏の原則」は、前代の名残です。「氏はもはや家名ではなく個人の呼び名となった」(有斐閣ブックス34「テキストブック法学」水本浩他)とは、新民法解釈の常識的見解ですが、両性の平等的見地からみて前代の遺風が残存している部分もあります。西欧諸国では徐々に「夫婦同氏の原則」は崩れつつあり、かつて法制審議会身分小委員会でも別姓を認めよという見解が有力になったこともあるそうです。「氏は個人の呼び名」という思想性を推し進めれば、選択権は「家」にはでなく「個人」にあるというのは当然の帰結だと私は思います。
この「氏はもはや家名ではなく個人の呼び名となった」が、新聞や書籍に見られ、ある種の辞書の用例(講談社学術・角川最新など)にさえ掲載されている「苗字+名+氏」の用法の成立基盤なのかもしれません。
「蒙古語」については、丁寧にするなら<引用ママ>とするという手もありますね。言い換えよりよいかもしれません。岩波書店は一時期、不適当と思われる語をすべて言い換えたそうですが、それが適切であったと私は思いません。


単語は言葉ではない。 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月12日(木)15時56分25秒

>辞書を持ちだしてきて、言語学的に差別語かいなかを
>とやかく言うことの次元の問題ではない。

違うと思います。
辞書を持ち出すまでもなく、言語学的に言うまでもなく
差別語でない語は、差別語ではないのです。
差別語ではない語を差別語だと言われたら差別語になるのでしょうか。
また、差別語は単語です。
言語学的には、単語は言語の要素ではあっても、
最小単位ではないと考えられています。
言語は、人間の認識を表すものであり、
人間の認識の最小単位は、単語ではなくて、文節だからです。
たとえば、「あっ」という語も言語となる場合もありますが、
ふつうは、単語一語では、言語を形成しないと考えられています。
つまりどのような認識を表しているかどうかで、
差別かどうかを判断すべきだと思います。

「朝鮮」という言葉があります。
長らく差別的に使われてきました。
盆栽で使う苔で「チョーセンゴケ」と言われるものがありました。
本物の山苔ではない、偽者の苔という意味です。
「朝鮮碁」というのもありました。
変則的な五目並べのことで、ウソ碁というニュアンスがありました。
英語でも「インディアン・サマー」という言葉があります。
小春日和のことです。
日本語でも、春のように暖かい秋の晴天のことですが、
英語でも秋の晴天をインディアンの夏と言いました。
秋なのに人をだまして夏かと思わせるという意味で、
インディアンは人をだますという偏見からきています。
昔のCMで「インディアン、ウソつかない」というのがありましたが、
偏見をもとにした差別的表現だと思います。

「朝鮮」という文字をよく見ると
とても美しい言葉であることが分かります。
この言葉を美しい言葉として使い続けることが、
差別を解体する一つの方法になると思います。
しかし、「朝鮮」は、漢字と共に
古代中国から押しつけられたものとも言えるので、
難しい問題だと思います。
我が国では、漢字を輸入して良かったと思いますけど。

女性タレントが書いた
「みにくいあひるの子」だった私
という本がありますが、
実は白鳥だったのだという優越感を感じて、
手にしていませんが、どうでしょうか。
努力して白鳥になった
というのと
生まれつき白鳥だった
では、だいぶ違うと思います。


「著者氏」はありかなあ 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月12日(木)15時50分02秒

「著者」もハンドルネイムですから「名」でしょうけど、
「著者」を職業と見なせば、
職業は「氏(うじ)」のようなものだから
「著者氏」はありかなあと思いつきました。
服を作る人「服部(ふくべ)」が「服部(はっとり)」となったようにです。
ただし、著者というと、本を書く人という意味に一般化されますから、
「親鸞の教行信証を読み解く」の著者に限定されなくなってしまうと思います。
しかし、職業としてではなく、
「著者さん」と個人名で呼べば、ここでは特定の人のことになると思います。

らくりんさんを肴にして楽しんでいるようですけれど、
実は、きのう職場の歓送迎会でして、やや二日酔い気味で、
お休みしています。
本を読むのが困難なので、こんなことを考えているというわけです。


辞書の読み方 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月12日(木)15時42分21秒

>広辞苑の用例

広辞苑の巻頭にある「見出し語、解説、用例」などの説明を読まれて、
「用例」とは何かを確認された上で、かつてなされた、
>広辞苑の用語例を確認されての発言か。
との恫喝的発言を訂正され、謝罪されることを要求します。

>「両氏」「無名氏」は、(中略)「苗字の下につける敬称」以外の用法ですね。
(中略)
>「中村元、鈴木大拙両氏」という用法がります。

この「両氏」というのは、「敬称」ではありません。
代名詞です。
「中村元氏、鈴木大拙氏」と「氏」を2度書くことを省略して、
「敬称」をまとめて「両氏」としたのではありません。
尊敬する両先生(代名詞的用法)を面倒だからといって、
「敬称」をひとまとめにして「両氏」と言うはずがありません。
この場合は、学者として客観的に
「中村元、鈴木大拙」と呼び捨てにした上で、
その二人を指して2回目から「両氏」と言ったのです。
ですから普通は「中村元先生、鈴木大拙先生の御両氏におかれましては」
というふうに使うと思います。
「両先生」とか「御両先生」とかに違和感があるからです。
広辞苑の「用例」ではなくて、「解説」に、
>人名に添えて敬意を表す語。
>転じて、代名詞的に話題の人を表すのに用いる。
とあります。
つまり、「敬称」が転じて「代名詞」にもなるということです。
言うまでもなく、代名詞は人名に添えて使いません。
独立して人を表します。
例えば、「中村さん、あなたは、」と言ったとき、
「さん」は「敬称」で、「あなた」は「代名詞」です。
これで「代名詞的用法」について教えてあげるのは4回目です。
これが最後になると嬉しいです。

>世間一般の著作には、「苗字+名+氏」の用例は、山ほどあります

誤用が転用して通用となったのでしょう。
けれども「名+氏」の用例は、殆どありません。
先に挙げた「漱石氏と私」以外は存じません。

>「下位者が上位者の「名」を呼ぶことは、失礼とされています。」
>との論の根拠は、
>近世武家社会で使用されていた武士間の「うじ」の用法に
>起源かあるところから由来するものだろうと想像します。

私の考えでは、古代以前から「名」を呼ぶことは、
支配することとされていたことに起源があると思っています。

>上位者に対し下位者が「氏」をつける用法は散見します。

このあたりでは混乱していて、
「下位者が上位者の「名」を呼ぶことは、失礼」
ということから、
「下位者が上位者に「氏」をつけることは、失礼」
と言われているように読みとれます。
>上位者に対し下位者が「氏」をつける用法は
当然のことですから、
散見どころではありません。常に見られます。
なぜなら、広辞苑もいうとおり
>人名に添えて敬意を表す語。
だからです。


芸風向上支援のついでに 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月12日(木)15時41分31秒

気になることや、誤解、錯覚と思われることが散見されますので、
ご指摘させていただきたいと思います。

>蒙古語の「うるくuruk(親戚)」、満州語

原文をそのまま引用されたので、やむを得ないとは思われますが、
モンゴル語、中国東北地方語などと修正した上で、
引用に当たっては、その旨ことわられるのが、
お立場上、当然為されるべき配慮ではなかったでしょうか。

>「氏」は(中略)新民法上は「個人の呼称」である。

これは完全な誤りだと思います。
例えば、民法第750条には、
>夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、
>夫又は妻の氏を称する。
とあります。
新民法では、「氏」は、夫婦、親子を単位として称しています。
もし「氏」が「個人の呼称」であるのなら、
「夫婦別姓」運動の起こりようもありません。
この場合でも、親子は同一の氏とすると言われているようです。
つまり、「氏」は「個人」のではなくて「複数人」の呼称なのです。
夫も妻も子も同一の「氏」なのです。
九州地方は、男尊女卑の風潮が強いと言われていますが、
その故に「同氏の妻」としての女性を無視なされたのでなければ幸いです。
ちなみに、「同一の氏」とは、「同一戸籍内にある者の氏」を言います。
旧法では、戸主制度が採られていましたから、
戸主(夫)、妻、父、母、祖父母、孫、兄弟姉妹、甥姪も同一戸籍でした。
この「戸主権」を譲ることを「隠居」と言いました。
現在の戸籍法では、親・子・孫の三代戸籍が禁止されていますから、
夫婦と子だけが同一の戸籍に記載されています。
子が婚姻したり、子を持ったりすると別戸籍になります。
この場合、法律上、厳密に言えば、文字が同じでも、
同一の戸籍内ではないので、別氏となります。
このことが問題になる例として、「襲名」があります。
歌舞伎界や老舗でおこなわれている何代目とかの「名を継ぐ」ことです。
同一の戸籍内では、親と同一の名を名乗る「襲名」ができませんが、
婚姻するなどして別の戸籍であれば、家庭裁判所の許可を得て、
親の名に変えることができます。
「名」は「個人の呼称」ですから、比較的容易に変えられますが、
「氏」は「複数人の呼称」ですから、変更は困難です。
社会生活上の混乱が予想されるからです。
言うまでもないことですが、戸籍法では、
「氏」と「名」は厳密に区別されています。
法律ですから当然と言えば当然ですけども。


芸風向上支援 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月12日(木)15時39分33秒

若干の反省をされて芸風を変えようとされているとのよし、
その一助となった者として嬉しく思っております。

さて、縷々述べられていることの結論としては、
「氏+名」に「氏」を付ける用法があるということかと思われます。
このことは、つとに私が申したことと同じです。
>1 中村氏
>2 中村元氏
>3 元氏
>4 はじめちゃん氏
>このうち1だけが正解で、2以下は誤用です。
>2の用法は新聞でもときおり見かけますので、
>誤用ではあっても通用しつつあるのでしょう。
問題は、3と4のように、「名」のみに「氏」を付けることが
正しいかどうかです。
このことは、いまだに論証されていないと思われます。
「氏」は「苗字+名」でもあるだけでなく、
「氏」は「名」でもあることが示されなければならないと思います。


ありがとうございました 投稿者:keko  投稿日: 4月12日(木)00時45分51秒

たいへん中身の濃いお話で感激しております。

廣崎さんの車でのドライブ、ほんとに桜がきれいでした。
この時期の研修会は母親としてはつらいものもありますが、無理をしても出かけて行ってよかった。
今後ともよろしくお願いします。


ただいま 投稿者:らくりん  投稿日: 4月11日(水)20時14分49秒

一応帰ってきましたが、今日はちょっとお疲れと、たまった郵便物とメールに目を通し
必要な対応をし、掲示板を一通り回っておしまい。
家には二晩泊まって、また出かけます。

頭が痛くなるような、書き込みは、さっと目を通しただけで、そっとしておきます。

では、いましばらく。


まだまだ続く酔っ払いの独り言 投稿者:愚っ朕  投稿日: 4月11日(水)03時43分53秒

 私の父は前回カキコしたように日雇い労働者でしたが,
「土方」と言う言葉を聞いてもいちいち目くじらたてるほどの
ものでもないときの方が多いですけど。
 それは,その人が「夏,金ためよ思て,どかちん(土方)
やってきたわ。おもろいおっちゃんに酒おごってもろた。」
とか「まあ,自分の一代記を語って,ほんまの話とも妄想とも
つかんけどファンキーなおっさんやった」などと直接交渉があって
彼らの発言からは机上の偏見などなくなってしまっていたことが
多いからです。
 だから,百戦の議論より人に出会うことが大切だと私は思いますね。
 でもそんなオヤジも「上見てくらすな下見て暮らせ」とずっと
言ってた。差別視線の内面化なんでしょうね。少なくとも自分は
屋根のある家で妻と子を養っていると言うのがおやじの誇りなんでしょうね。
 そういえば,よく飲みにいった歌舞伎町のバーで仕事を終えた
風俗のお姉さんたちの話に耳を傾けてました。ピンサロのお姉さんは
SM嬢みたいな変態相手の仕事よくやるわといい,SM嬢のお姉さんは
ピンサロ嬢みたいによく男のナニをしゃぶれるわとお互いを差別化してました。
う〜ん。アイデンティティというのは人を排除しなきゃ成立しないもの
なのかしらねえ。で,誰の哀しみや怒りや遣る瀬無さに同一化するもの
なのかなあ。難しいなあ,娑婆というものは。


祝一周年!芸風は変わりませんが…。 投稿者:大願  投稿日: 4月11日(水)01時41分52秒

差別語か否かの問題でなく、やはりそこに「共に生きる」ということが親鸞思想ではないかと思う。
私が発した不注意の書き込みで皆さんのおこころをわずらわせてもうしわけない事です。
こうしたご指摘により、気付かされてお育て頂くのだと思います。
よく言われることだが、足を踏んでおいて、踏むつもりではなかったと言った所で
踏まれて痛いといっている人がいるのであれば、踏んでいる足を即座にどけて
謝罪せずにはおれないというだけのこと。
辞書を持ち出して、言語の解釈でどんなに繕っても、痛いものは痛いというしかない。
石原慎太郎が発する差別用語を彼がどんなに強弁をふるって弁解しようとも
それはますます多くの人々を傷つけているということなのではないのか。

三吉さんが軽く婉曲に指摘くださったことは、私の気付かない部分に気付けと示して
下さったものです。繰り返すが、辞書を持ちだしてきて、言語学的に差別語かいなかを
とやかく言うことの次元の問題ではない。そう思います。
議論して相手をねじ伏せる類の問題ではないということです。

ただ、残念なのは、私の一つの失言が墓穴を掘って、当初言いたかった本題をうまく
肩透かしを食ってしまったということですが、前回、最後と言ったので、また話をぶり返す
ことは止めますが…。
図らずも一年まえ、開設直後のこの掲示板でかなり議論させてもらいお育て頂き、
一周年の今また同様に皆様からお育てを頂いています。
らくりんさん、また面授の機会をお待ちしています。
この掲示板開設一周年記念の12日早朝から10日間、ネパールの風に吹かれてきます。


HNと、転化=誤用 投稿者:三吉  投稿日: 4月11日(水)00時00分28秒

もう一つの論点として「HN」の問題があります。これは、「うじ」は「苗字」だけに限定されるというスタンスからも、「苗字+名」という現行の通例からも漏れます。「苗字」も「名」も一般的に知らないもの同志で為されるコミニケーションに、現行の通例の根拠におれる「氏」は、「個人特定」であるというスタンスから、私になり解釈して使用してますので、現行の通例を超えてます。というのもネットはまだ始まったばかりの双方向メディアであり、言葉はその本来の意味から転化して現在にあるように、これからも転化していくものであると私は考えているからです。それを「誤用」と判断されるスタンスは了解いたしますが、「誤用」という場合、「正解」があらかじめ予定されており、問題は「どの時代の用例を正解とするのか」「それは何を根拠にそういいうるのか」という議論が必要ではないかと思います。
あるいは「正解」があるというスタンスそのものも問われるのではないかと思います。理由の一つとして「ことば」は、「転化」=「誤用」の連続の上に現在に至っているからです。


上位者と下位者 投稿者:三吉  投稿日: 4月10日(火)23時59分34秒

確かに私はこの掲示板で一番歳下ですし、その意味では<目下>のものです。しかも「らくりん氏」と私との関係は、「先輩後輩」であり、事実上「先生と生徒」と言っていいほどの恩恵を私が受けているは事実なので、私を下位者に位置づけ、「らくりん氏」を上位者と考えられるのは、まことに「自然な感覚」だとは思います。私が「らくりん先生」「らくりん様」と書いたところで、読む方はさほど違和感を感じられないのではないかと思う。「さん」よばわりでは不遜すぎるのかもれませんね。「さん」の語源はこれは想像で根拠はありませんが「様」からではないかと。。。そうではなくても、「様」よりくだかけたフランクな敬称ですからね。らくりん先生の慧眼、その洞察力の鋭さと思考力深さを鑑みるにあるいは、「らくりん師」と呼ぶと、あなたは満足されるのかもしれない。
そのセンスは明確にではありませんが、朧げに想像できるような気がします。さて、「下位者が上位者の「名」を呼ぶことは、失礼とされています。」との論の根拠は、近世武家社会で使用されていた武士間の「うじ」の用法に起源かあるところから由来するものだろうと想像します。武家社会の常識はそうであった。それは、旧民法時代までは民間にまで広がり存続していたかもしれませんが、一般に、通例として現行の用法としては深く残っているとは感じません。例えば解放同盟の方の書いた文章を見ても上位者に対し下位者が「氏」をつける用法は散見します。(「浅田善之助氏と出会い、その門下生となっていった」「部落解放1999年7月号」P48−選び取った「部落民」−大賀正行)しかしながら、これも誤用だと見なされる立場ありうると思います。

門下生の大賀正行氏が、浅田善之助氏を「氏」と呼称しても私は失礼な奴だとは思わないのですが、江戸時代の感覚からすれば「不敬」にあたるのではないかと愚考します。
それはともかく、「人間は関係を生きる生き物」ですから、社会的立場を意識して振る舞います。かくいう私も、リアルで、遇うときは、「本名」だけの呼び捨てをしたりしませんし、「本名+さん」が普通に使用している呼称です。あるいは、私より年長の方私との対話の中で「先生」と呼称されていたら、私もつきあって「先生」というでしょう。ところでそれでもかつ、「氏」と呼ぶ場合はありえます。「氏は堅苦しい表現」とご指摘されましたが、それに一理はあり、客観性を付与する場合、そういう使い方をします。
例えば、一般社会でも上司を掴まえて呼び捨てする場合があります。部外者に対していう場合です。これは「謙譲」のニュアンスを含むと思うのです。一対一の関係では「上位」である場合でも、そこに第三者が入り組めば、敬称は控えられる場合があります。
さて、「氏」を殊更使用する私の意図は本来の関係であれば「上位者」であるが、対話の場では対等である。「対当を保証されなければ議論は閉じる」という想いが基底にあります。その上で私の「氏」用法を精査していただければ、その傾向が窺い知れると思うのですが、(最近このご指摘お受けしてからは意図的に用法をずらしている)誰某と対話中、第三者人として語る場合に使用しています。一般的にその人に対して呼びかけるときは「さん」「様」です。
「第三者人」は、中村元氏のような、偉い学者さんから、HNしか知らない無名の個人までいっしょくたに「氏」と表現しております。さて、この呼び方はあなたが本来とされる「上位者禁止」に抵触し、「失礼」の批難は免れないことは了解しますが、私は戦後民主主義教育の影響下に通例として使用されている用法に書物などを通して自然に慣れ親しんでおりますので、これもまた、スタンスのちがいと申し上げます。


新民法上の「氏」 投稿者:三吉  投稿日: 4月10日(火)23時56分02秒

さて、古代の話しはともかくとして、「氏」は旧民法上は、家族制度を基調としていたため、「家の名」を意味したが、新民法上は「個人の呼称」である。そこから、もともと「氏」は「中村元」で論ずると「中村」だけをさしたが、個人特定として「中村元」を指すと考えうる根拠が出てくるのです。そのスタンスからすると「中村元氏」という表現は間違っているとは言えない。
「家の呼称」を指す「うじ」のみに限定して「氏」を使うべきで、「個人の呼称」を指すのはあやまりだという立場は、家族制度を基調とした旧民法風のスタンスではないかと私は拝察します。
広辞苑の用例に御不満のご様子であるが、少しわかりにくかったと反省しています。あそこで、私が指摘したかったのは「両氏」「無名氏」は、「苗字のみを指す以外の用法」もあるのだという点が主です。この二つの場合は「人」を指しているのです。「二人の方」「名のわからない人」という意味です。「苗字の下につける敬称」以外の用法ですね。「個人に対する敬称」ですね。「両氏」は、書籍に親しんでおられるのでよくご存知だと思うのですが、著者が出版社に当たって関係者に対して謝辞を書く場合、よくみかけます。「中村元、鈴木大拙両氏」という用法がります。(ただ、この場合も中村・鈴木両氏が正しいとご主張されると思いますが、それはおきます)
「無名氏」は、明らかに、「苗字がわからない人」ではなく、「個人名がわからない人」。論拠としましては、「元」という名がわかって、「中村」という苗字がわかっている人を、その逆の場合も「無名氏」とは使いません。(用法としては、世の中に名前をしられていない人という語法もあり、この場合は氏名ともにわっているが、その個人が世に知られていない人という意味であり、その苗字が世に知られていないという意味ではない)
さてしかし辞書の用例を挙げたわけではなく、世間一般の通例ではご満足いただけないでしょうから、講談社学術文庫の「国語辞典」を参照下さい。そこに「苗字+名+氏」の用例は載っております。ちなみにあなたがその用例を誤まっていると判断されるのはありだと思います。辞書が正しいとは限りませんから。(世間一般の著作には、「苗字+名+氏」の用例は、山ほどあります)


祝一周年。記念して芸風を少しいじりましょう 投稿者:三吉  投稿日: 4月10日(火)23時54分05秒

「氏」=「うじ」説の根拠は、この語が元々氏族集団を指したところからの展開だと思います。これの元々の語源は「象形文字」としては、「匙」と同系統で、「先の鋭いさじを書いたもの」からという説がある。ただし古来より「電逓」の「逓」にあて、次々に伝わるという意味が付与され、ここに代々伝わっていく「血統」を指す語としての意味が成立しました。
さて漢字は中国から伝来したのですが、中国では、部族集団(姓・かばね)は、同じ女性先祖から出たと考えがあり、それは「女+生」というところからも知られる。これは女系の先祖の「名」や先祖が住んだ地名にちなんだりしたものが多いらしい。一方「氏」は、その部族集団(姓)のうち、住地・職業・兄弟の序列などで分化した「小集団」を意味し、その「小集団」の下につける言葉でした。しかし「漢」代以降は、「姓氏」を混同し、あわせて「姓」といったり、あるいは、「女性」に対し「氏」という語法が出たりした。(これは結婚した女性の実家の姓の下にそえて、出身を表した)
日本では古代においては、「うじ」は、元々貴族の家柄のみをさした。「かばね」は、世襲の職業指し、朝廷から賜るものであった。「かばね」の語義は、もと「骨」でことで、父系の血筋は骨に宿るというところからうまれた語であるという「説」がある。のちに日本でも「かばね」と「うじ」は混同され、「うじ」は、貴族のみならず、すべての「家の血統」の下につける言葉として使われるようになります。
「氏」の他の使い方として、王朝名・国名の下につける言葉としての用法もあります。これは王朝や国名を立てた家の名の下につけるところから出たのであろうが、転じて王朝名や国名そのものにつけたりもしました。
他にも「うじ」には、「うじがみ」という同じ氏族の神を祭るところからでたのにもかかわらず、転化して、その土地の神社に奉祀する共同体の仲間を指す「語」としての用法は一般に使用されています。(氏子)
さて「氏」という漢字ではなく、そもそも大和言葉の「うじ」という語の起源は何かを探ると諸説入り乱れていて確定してない。@「うち(内)」であるという説<拾芥抄・氏族考>A「いず(出)」と同義で「出自」をあらわすという説<倭訓栞>B「うみじ(生路)」「うみすじ(産筋)」と同義であるという説<大言海>C「うみぢ(生血)」であるという説<大勢三転考>D朝鮮語の「うるul(種族)」、蒙古語の「うるくuruk(親戚)」、満州語の「fufe(種)」と同根であるとする説<大野晋「日本語の黎明」>などがあげらます。

いずれにせよ、「うじ」=「血族集団」が元来の意味であるということは、語源的には明らかであると思う。元々これは縄文時代に見られる「住居址群」から推定すると、原始的共同体を指す語としての意味があったのではないだろうか、魏志倭人伝には「其法を犯し軽き者は其妻子を没っし、重きものは其門戸及び宗族を滅す」とあり、血族集団の共同体が、「連帯責任」であったことがわかる。我々の時代と「血族集団」の「おもみ」は決定的に違う。そういう社会的な構造の変化が言葉に「意味」「用法」の変化を生んだりもする。
<うじ>自体が社会的に大きな役割を果たしたのは大化の改新以前のことなのだが、資料は、古事記・日本書紀など以後のものがおもになり、そこからの推定となる。そこからすると、<うじ>とは、祖先を同じくするか、同血族と確信している人の集団といえる。<新撰姓氏録>によると、具体的には、神別(アメノミナカヌシノカミ以下の天神系、アマテラスオオミカミ以下の天孫系、そのた、地祇系)、皇別(天孫系のうち神武天皇以下の系統)、諸藩(帰化人系)、に分けられる。



伊東家の食卓 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月10日(火)23時02分07秒

東京では毎週火曜日の午後7時から放送されています。
生活に役立つ裏技を紹介する番組です。

結婚式場の案内板は、中村家・鈴木家ご両家結婚式場とか書きますね。
日本国憲法では、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」
と定められていますが、現状は家と家の関係になっているようですね。
また「両性の合意」とあるので、
男性と女性しか結婚できなくて、
男性と男性、女性と女性は結婚できないことになっています。
これも対幻想と共同幻想の矛盾と言えるでしょう。
閑話休題
伊東家とは言っても
伊東四朗家とも四朗家ともシロウ家とも言うことはありません。
理由は言うまでもないですよね。
同様に、伊東氏とは言っても、
伊東四朗氏とも四朗氏ともシロウ氏とも言うことはありません。
理由はさんざん言いましたよね。


切れたままで、つながっていない。 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月 9日(月)23時30分04秒

辞書は「見出し語」「解説・語釈」「用例」でなりたっています。
広辞苑第5版の見出し語「氏」の「用例」には、
「−は関西出身の実業家で」
「鈴木氏・両氏・無名氏」
が挙げられています。
「名」に「氏」を添えた例は挙げられていません。
>広辞苑の用語例を確認されての発言か。
と大見得を切ってましたけど、
切れてて、つながっていないからしかたないけど、
ちゃんちゃらおかしいと笑わずにはいられません。
まさかとは思いますが、
「人名に添えて敬意を表する」とか
「代名詞的に話題の人」
を「用語例」と思っているのではないでしょうね。
これらは、「解説」で、「用語例」ではないと思うのですけども。。。
まあ、「解説」にしろ「用語例」にしろ、
「氏」を「名」に付けて使用するとは書かれていません。
また、代名詞的に使うというのは、「用例」のとおり、
「氏」を一文字で使う使い方です。
「氏」を「氏(うじ)」に付けて使う以外の使い方を示したのであって、
「名」に付けるという使用法を示しているのではありません。
代名詞的使用について教えてあげるのは、
これで3回目ですので、いい加減にしてください。
もしかしたら、「代名詞」をご存じないのでしょうか。

中村元氏とか鈴木大拙氏とか普通に使われているとのことですが、
誤用です。
1 中村氏
2 中村元氏
3 元氏
4 はじめちゃん氏
このうち1だけが正解で、2以下は誤用です。
2の用法は新聞でもときおり見かけますので、
誤用ではあっても通用しつつあるのでしょう。
「○○氏」というのは、形式的で堅苦しい言い方です。
「名」は、親しい者の間での呼び名です。
ですから「名」に「氏」はそぐわないのです。
善し悪しは別にして、下位者が上位者の「名」を呼ぶことは、
失礼とされています。
親は子の名を呼びますが、子が親の名を呼ぶことはまずありません。
「お父さん」とか「父上」とか「親爺」とか言います。
「氏」は、広辞苑の「解説」にもあるように
「敬意を表す語」です。
つまり、「名」に「氏」を付けるのは、ちぐはぐでおかしいのです。

そもそも、「氏(し)」は「氏(うじ)」にしか付けないのは、
「氏(うじ)」だけが「氏(し)」だからです。
「平氏」「源氏」とは言っても、
「清盛氏」「頼朝氏」と言わないのは、
「平」という「氏(うじ)」、「源」という「氏(うじ)」という意味だからです。
ですから、「中村氏」は、
「中村」という「氏(うじ)」の人という意味です。
ですから、「中村元氏」は間違いなのです。
ましてや、「元氏」は大間違いで、
「はじめちゃん氏」に到っては、以ての外のことになるのです。

さて、この「氏」に「氏」を重ねるように、
同じ意味の語を重ねる用法について、
考えがありますが、とりあえずここまでとします。


閑話付題 投稿者:愚っ朕  投稿日: 4月 9日(月)19時18分07秒

 白熱した論争です。話の発端をつくった一人として,
水入りの間,自分のささやかな直接経験を記させてください。
私がお坊さん養成学校に行ってたとき,ある女性と付き合ったの
ですが,その方の叔父さんにあたる人が私と彼女が交際することを
妨害しました。その女性のお兄さんは山谷の労働者の運動などに
関わっていたらしく私の父も大阪の釜が崎で日雇い労働者をしていた
のでよもやそういう発言をされるとは思いませんでしたが。
 私は代々木の党派にいたんですが,その叔父さんは代々木の理論部隊の
最高幹部でした。その方が「付き合ってる男は,浮浪者の息子で
妹が小児麻痺だ」といわれました。なお,私には妹はおりません。
左翼の最高幹部,まして真宗のお寺に育った人の発言とも思えませんでしたが
「しょせん世の中などこんなものか」と絶望とも諦めともつかない気持ちで
それから過ごしました。私にはまあ「闘う政治的仲間」みたいなものが
なかったのですが,らくりんさんが引用された「課長に殴りかかった青年」には
自分はなれないなあと思います。立場が違うのかな。
 私はそんな人がいる「代々木」ではあっても理論的には融和論にかたむいたまま
ですので解放同盟の糾弾は行き過ぎなところがあるものだといまも思っています。


過ちへのおののき 投稿者:らくりん  投稿日: 4月 9日(月)10時06分13秒

>「差別問題」ではありませんが、新聞社が「原発賛成」の論を載せたとき、どれだ
>けの批判があり、その批判を聞く場を開いたら、50人くらいの学生・職員が集ま
>り、どれだけ厳しい批判を受けましたか。ほぼつるし上げに近い状況だった
その記事を書いて大谷大学の学生新聞に掲載したことで、誰をどのように傷つけたと
いうのですか。私が言っている、「糾弾のこわさ」というのは、個人の人格を深く傷
つけてしまったことに対する、許されようのない過ちの深さに対する「底知れないお
ののき」のようなものであって、その過ちに向き合わざるをえないことに対する「こ
わさ」です。吊るし上げられたことによって生ずるこわさなんてものではありません。
学生新聞の記事に対する批判として吊るし上げをくった「こわさ」と並べて考えよう
とする無神経さでは、この議論も、かみ合わないのも当然かも知れません。

>差別問題としては、機動隊導入時、「エイズのごとく」という表現をし、私は具体
>的にあなたから、糾弾を直接お受けしたではないですか。あなたはもうお忘れにな
>られているのかもわかりませんが、私ははっきり覚えてますよ。
1987年の頃は、私のエイズ問題に関する認識は今よりははるかに甘かったから、
そういう発言はしたかも知れません。しかし私は記憶していません。ということは、
その「糾弾」は「糾弾」になっていなかったということでしょう。あなたの指摘は
私の心に突き刺さっていなかった。しかもそれを「糾弾受けただろう」と私を主語に
して受け身形にして表現してしまう思い上がりはなんとも小賢しい。その程度の「疑
似糾弾」なら数え切れないほど経験しています。そして、「読みたくない」発言には
それと同じような小賢しさを私は感じています。
私が言いたいのは、そんな記憶の底に残らないようなものではなく、する側も受ける
側も忘れようにも忘れられない記憶として残ってしまうようなものです。
中途半端な糾弾ほど質(たち)が悪いものはないと思います。だから、糾弾するなら徹
底的にやらなければならない。大谷大学の糾弾会、そして89年東本願寺の糾弾会で、
あの時に「自らの過ちへのおののき」を抱いていた出席者がどれほどいたですか。
三吉さんあなたはどうですか、私はそんなものはほとんどなかったですね。せいぜい
「学習会」気分だったのかもしれません。
ささやかな糾弾は、前のもありますし後のもあります。ただ私は、大谷大学と東本願
寺の糾弾会以外にも、大谷大学と縁が切れてからも、解放同盟との縁は細々と続いて
いますので、その後も糾弾会にも確認会にも何度も立ち会っています。
解放同盟の集会に参加したり、開催のお手伝いをしたこともあります。解放同盟の出
版物も、組織に批判的な立場の人たちの刊行物もずっと講読(もちろん読むという意
味で)しています。15年前の議論をそのまま引きずっているわけではありません。

お留守居役様さんをまきこんでの、白熱したやりとり、この掲示板の発足当初の熱気
を思いだします。しかし三吉さんの博識と記憶力には敬服しますが、小賢しさと目の
前にある議論にかける執念、そしてそれが醸し出す鼻持ちならなさは相変わらずです
ね。もったいない。
私も、他人様のことは言えた義理じゃありませんが。

そういえば、4月12日はこの掲示板発足の1周年です。

また、しばらく失礼します。


付言 投稿者:三吉  投稿日: 4月 9日(月)07時37分06秒

<何をのんきなことを粋がって言っているんですか。>
あなたのささやかな糾弾体験とは、あの糾弾会以後なのでしょうか。
私達は「糾弾に学ぶ」ということを考える過程で「糾弾怖い論」批判もあの時したのではないでしょうか。
「差別問題」ではありませんが、新聞社が「原発賛成」の論を載せたとき、どれだけの批判があり、その批判を聞く場を開いたら、50人くらいの学生・職員が集まり、どれだけ厳しい批判を受けましたか。ほぼつるし上げに近い状況だったと思いますよ。どれだけの「いたたまれさ」を私たち新聞社の者たちが、感じてたことか。
<自分の発言の重大さを知るが故に、責任を感ずるが故に、自分の足下が根底から揺らぐようなあの感覚>は、あなたはプロですから、私以上にそのことを深く考えられているとは思いますが、我々新聞社もものを書くものも端くれでした。甘さはありましたが、それでもその重圧は、重く、私が入部する以前に一人はそのことで新聞社をやめてますし、原発賛成を直接書いた担当者は、やめはしなかったが、書くことの恐怖と、皆さんの批判に対するやりきれなさに、「やめる」と口にしそれは引きとめられたが、しばらくは記事を書かなくなりました。
あるいは、差別問題としては、機動隊導入時、「エイズのごとく」という表現をし、私は具体的にあなたから、糾弾を直接お受けしたではないですか。あなたはもうお忘れになられているのかもわかりませんが、私ははっきり覚えてますよ。
あるいは、「嬢」という表現を女性差別だととの指摘を他大学の新聞部の方から頂いたこともあります。それ以来私は、男女共に「氏」を使用しています。

その<いたたまれない気持ち>というのはわかりますが、あなたや他氏の方々の批判が<回復・ 修復しがたい傷>を私に遺したとは私は思っていない。それは「学習の場」であった。それが私のスタンスです。


切れてないって。楽しんでいるだけです。 投稿者:三吉  投稿日: 4月 9日(月)03時05分48秒

<とっとと間違いを認めて、謝ってしまえばいいのにと思います。>

悪いけど、間違っていると思ってません。
<すべて「氏」ではなくて、「名」だと思われます。>のが、あなたの論だが、
私は当該箇所から「氏」の用法に「個人」を特定する使用法があると読んでいるわけね。
それが私の使用法と同じだと私は思っているのね。

「人名に添えて敬意を表する」とかね「代名詞的に話題の人」を指すとはね、<苗字に添えて用いた敬称>以外の使用方法として「個人を特定」した使用法もあるわけね。
「漱石氏と私」もその例だし、中村元氏とか鈴木大拙氏とかも普通に使われているのね。
だったらHNだけで「個人」を表しているネットで、「個人特定」に使用してもね、私にはさほどおかしいと思えないのね。使っている人あまし見かけないけどね。(爆)
あなたはその場合も「中村」氏、「鈴木」氏が正しく、「人名」に「氏」を添えて敬称を使うのは、<困りものですけど、誤用>で<だいたい、人を「氏」呼ばわりするのは、呼び捨てするのは気が引けるけど、対等もしくは優位さをしめそうとする尊大さ、傲慢さ、もったいぶりを語感として感じます。「氏」という敬称を使うという共同幻想に基づく差別意識を感じます。>と、「差別意識」をそこに感じられているのか。(笑)
私は感じないけどねぇ。。(笑)

<とっとと間違いを認めて、謝ってしまえばいい>との発言のほうにおかしみを禁じ得ません。
あなたは頭の中では自分の解釈が絶対的に正しいと思い込まれているのですね。
それがありありと感じられるお言葉です。
でね、私はあなたと違う解釈で使用しているのね。そこに注目してね♪


reずれ 投稿者:三吉  投稿日: 4月 9日(月)02時37分47秒

<私は、大願さんの最初の「片手落ち」発言にも、それに対する三吉さんの「読みたく
ない」発言にも、まこさんの「片手落ちは差別語じゃない」発言にも、それほど強い
関心があったわけでもありません。>
でしょう。そこをまず認識して下さい。あなたの関心はそこにはさしてなかったのです。
<だから、その発言について、もう少し議論が煮詰められると面白いなと思って、「フ
ォローが必要なのでは」と促しました。……その辺の問題意識がかみ合わないみたいですね>
そうです。それをずっーと指摘している。
<差別問題に仕立てて「問題視している」ことは、言い掛かりにすぎないとおっしゃろうとしているように私には感じます>
そうです。それをあなたは「弁明」と言われますが、<極め付きの差別言辞ではないけれども、あまり不用意に使わない方がいいのではないかという意識>があるから、「読みたい表現ではない」と、殊更に差別問題と分離した指摘表現をしたのがなぜ、あなたには理解できないか、疑問を覚えます。私はまこ氏の指摘に「差別発言とも、削除せよとも言っていない」と明言してます。安易に「差別語」であるという理解を批判した上で、差別語ではなくても、不用意に使用しない方がいい言葉はあるのではと展開したのです。
この語が「差別表現」かどうか、この掲示板で俎上にあがったのは、まこ氏の指摘があったからです。まこ氏はそれは「差別表現ではない」ないという立場でしたが、問題は、「私が差別表現として問題視したという批判」にあります。
<差別問題だという意識のかけらさえなかったと言い張れば言い張るほど「まさか」という気持ち>のことですが、逆です。この語を安易に「差別問題」と結び付けて議論する方が混乱すると私は思っています。あなたは「ほのめかし」と分析しましたが、その「ほのめかし」は私は大願氏の「お詫び」と「発言撤回」を意図してのものと、まじに思われているのですか?

あなたが「弁明」と感じられるのは、「差別問題」という認識にあるからです。私は、「差別的言辞」と「不用意に使わないほうがいい語」を分けて考えていて、前者は「差別問題」ですが、後者は批判するほどの「差別問題」ではありません。「注意喚起」でよいとの認識です。
「注意喚起」は、相手によってやり方は変わります。
あなたの誘導をはねのけ、延延とご説明申し上げているのは、この分離が私にとっては重要だからです。

<三吉さんは「それこそが不当な差別意識なんだ」だと言い切ってしまうのかもしれませんが、私は「課長」がいだいたであろう気持ちには充分共感できるものがあります。>

ですね。言い切るかどうかはともかく、ここに対する「ずれ」があります。
私は課長よりも、糾弾した青年のスタンスに想いを馳せ、「課長の恐怖」「屈辱」が生じたとして、青年はそれ以上の「恐怖」「屈辱」を日常的に経験していたからこそではないかと、まずは思います。(それが本当かどうかはその資料からはわからない。目線は課長の恐怖側です)

<三吉さんは私たちがそうやって手に入れてきた資料をどのような気持ちで見ていたんですか?>
何をおっしゃっているやら。私が解放同盟に資料閲覧を要請にいかなかったとでもおもっておられたのですか。あなたたちには解放同盟は見せたかもしれませんが、私は拒否された。解放同盟は、私には大学から公開を勝ち取るのが筋だろうと怒られましたよ。(勿論、あなたたち院生から見せて頂いたのは感謝と、自分の交渉能力の無さに対する情けなさはありました。あなたの集められた情報量は私よりはるかに多く正確でしたが、私はあなたよりは方方を動き回っていたと思いますよ。あなたは私が院生方の後ろだけをついていただけとでも思われていたのですか。)

<不当と言えば不当なんです>そうです、不当です。その「緊張感」は私も経験しましたし、あまっさえ、私は延延、数時間に渡って説教された。君たち学生はなぜ、学校から公開を勝ち取らないかと。それを内緒で見せてくれとはなんだと。それでもその「緊張感」は不当だと私は思いますし、院生に見せて私には見せてくれなかったのは、口惜しくて、腹も立ちましたが、私の感情は筋違いです。
<三吉さんは「お前は差別者だ」と言って、厳しい追及>は、一度もないですね。個人としてされたことはない。軽いのなら何度かあります。
<一歩間違えれば、回復・ 修復しがたい傷を残してしまうからです。>それはそのとおりです。しかし、「恐怖」が残ったとして、その「恐怖」ゆえに、すべての「糾弾」「批判」が間違っているとも私は思わない。

それとお忙しいのでしょうから、あまり無理はしないで下さい。
私の方はいそぎません。


無限責任の恐怖 投稿者:林遊  投稿日: 4月 8日(日)23時36分33秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

気持ちが通じないという隔絶した感じによる恐怖と絶望。
このことの原因は、なんども言いますけど、
共同の幻想は個人の幻想に逆立するからです。


うん、仰るとおりなんでしょうけど、幻想を描き出している主体にとっては自らの幻想からの離脱は恐怖以外の何者でもないと林遊には思われます。自らの根拠、我でないものを我とする幻想から解き放たれた釈尊が、依るべきもの無き故(非我)に入滅(自殺)しようと思われたのと同じような想いが、共同幻想からの離脱にはあるのかもしれません。

おなじような感覚は、突然「差別者」として告発された側には、らくりんさんが仰るような<自分の足下が根底から揺らぐようなあの感覚>がおそうのでありましょう。関係性としての幻想を根底から「否定」される、思いがけない処からの指弾に自らの論理は破壊され、いわば一個の裸の人間として「差別者」としての無限ともいえる罪悪感に叩き込まれるのでしょう。「差別は悪である」という倫理観から、被糾弾者は絶対者の前の子羊のような立場に追い込まれ、または追い込まれることによって事態の展開を計ろうとするのでしょう。

このような関係から生み出されるものが「同和はこわい」という恐怖体験のみであるならば、「差別」というものに対するお互いに不幸な経験を回想するだけで終わってしまうものなのかもしれませんですね。

で、面白いページを見つけたのでネタ用に参考までにURLを記しておきますです。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続

http://jinbun1.hmt.toyama-u.ac.jp/Socio/satoh/ronbun/ronbun.htm


対幻想も 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月 8日(日)21時58分58秒

対幻想も共同幻想に逆立します。
対幻想は、人と人、男と女の性的な関係が生み出す幻想ですから、
生理的な肉体に近い現実的な幻想と言えます。
吉本さんは、逆立というのは、
精神(幻想)が肉体(現実)になり、肉体(現実)が精神(幻想)になることだ
と言われたことがあります。
神憑りになる巫女さんは、対幻想の対象に
現実の男性ではなくて、共同幻想を選んだ者というわけです。


差別問題における代理 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月 8日(日)21時42分17秒

共同幻想論では、「代理」を「代表」に置き換えられるかと思います。
個人が個人の「代理」となるのではなくて、
個人が共同体を「代表」するという現象と考えられるかと思います。
個人の幻想に共同体の幻想が同致すること。
「雨乞い」や「お告げ」や憑依現象などがこれにあたります。
政治的な「転向」を「憑き物が落ちること」と言われるのはこのためです。
糾弾会を直接見聞したことはないので、机上の空論になりますが、
糾弾は、差別する人の共同幻想を批判し解体することと思われます。
しかし、逆に糾弾する被差別者に共同幻想が宿ると、
恐怖を感じさせるのではないでしょうか。
肉体的にだけでなく、
気持ちが通じないという隔絶した感じによる恐怖と絶望。
このことの原因は、なんども言いますけど、
共同の幻想は個人の幻想に逆立するからです。

問題の所在をハズしていたら、ごめんなさいです。


氏の誤の言うのも六七しいが。 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月 8日(日)20時35分33秒

これほどまでも理解が不自由な人だとは思いませんでしたので、
驚きあきれています。
とっとと間違いを認めて、謝ってしまえばいいのにと思います。
他人に間違いを指摘されると切れてしまうというのは、
最近では多いことなのでしょう。

広辞苑には、「名」に「氏」を付ける用語例はありません。
そもそも
>代名詞的に話題の人を表すのに用いる。
ということが「名」に「氏」を付ける論拠になっていないのは、
前に説明したとおりです。
この部分を引用したということは、
この程度の読解力もないのかと思わざるをえません。
広辞苑にある用語例に「無名氏」とあるので、
これが「名」に「氏」を付ける用語例と誤解したのだろうか。
言うまでもなく、「無名」は「有名」に対する言葉です。
「無名」「有名」も「人名」も、通常は、文字どおりの「名」のことではなくて
「氏(うじ)」のことです。
野球で「有名」な人を、「長嶋」「王」とは言っても、
「茂雄」に「貞治」なんて言わないでしょう。
「イチロー」という例外もありますが。
また、カール主義では何のことか分からないでしょう。
マルクス主義って言ってますね。

共同幻想論についての理解も無茶苦茶ですが、
勉学のために一例を示しておきましょう。
ガリレオの宗教裁判における、
天動説は、共同幻想であるが、地動説は、個人幻想である。

また、共同幻想論は、哲学的には、
「認識論」ではなくて「意志論」に分類されると思います。
ですから、共通認識は、必ずしも共同幻想であるのではなくて、
個人幻想である場合もあります。

ところで、師弟関係が生み出す権威や親和感を
共同幻想と誤解しているようですが、
これは「対幻想」です。


ささやかな被糾弾経験 投稿者:らくりん  投稿日: 4月 8日(日)19時54分55秒

差別された者が糾弾する権利は非常に大切です。ただ、糾弾がどんな場合においても
正当性をもつわけではないということも、言うまでもないと思います。

『同和はこわい考』の「こわい」の意味は、単に糾弾会がこわいとかそういう意味で
はなかったはずです。たしかあれは「無限責任に対するおそれ」というような言い方
をしてあったかと思います。
一度か二度立ち会った経験で、「こわさ」はないと軽々に結論づけられるものではあ
りません。大谷大学と東本願寺の糾弾会では、私も「こわさ」なんか微塵も感じませ
んでした。大谷大学の時は、私はほとんど応援するような気持ちでその場にいたし、
東本願寺の時だってその感覚に近かったように思います。そんな人間がこわさなんか
感じるはずがないじゃないですか。何をのんきなことを粋がって言っているんですか。

今問題になっているのは、三吉さんが糾弾会の場にいて「こわさ」を感じたかどうか
ではなく、私が引用した文章の中の「課長」がそれを感じていたかどうかじゃないで
すか。その「課長」が感じたであろう「こわさ」は、まったく問題にする必要がない
のかどうかでしょう。
三吉さんは「それこそが不当な差別意識なんだ」だと言い切ってしまうのかもしれま
せんが、私は「課長」がいだいたであろう気持ちには充分共感できるものがあります。

大谷大学の差別ビラ事件の時、大学当局に資料の閲覧ないしは公開を請求してもなか
なか手に入らなかった時、私はK君と二人で、解放同盟の事務所に大学から解放同盟
に提出された資料を見せてくれと頼みにいきました。あの時、事件を起こした大学の
学生として、解放同盟の事務所を尋ねることは私には非常に勇気が要りました。
その最初の時私は、えも言われぬ緊張を覚えました。あの緊張感は「こわさ」と言わ
れてもそれほど的外れではないと思います。そしてその気持ちは、「課長」の感覚に
通じていくものであろうと思います。
三吉さんは私たちがそうやって手に入れてきた資料をどのような気持ちで見ていたん
ですか?そんな気持ちを持つ必然性なんかほとんどないに等しい私が、事務所を尋ね
る時に抱いたあの気持ちは不当なものだったのか。
不当と言えば不当なんです。でもそんな感覚が生じてきたのは事実です。それは私個
人に起因する特殊な経験にすぎないのか。
三吉さんは「お前は差別者だ」と言って、厳しい追及を受けたことがありますかね。
私は、解放同盟から糾弾された経験はありませんが、三度、個人的な糾弾を受けたこ
とがあります。
自分の発言の重大さを知るが故に、責任を感ずるが故に、自分の足下が根底から揺ら
ぐようなあの感覚(そういうのが無限責任へのおそれというようなことなのかもしれ
ない)は、今思い出しても身体が熱くなってきます。
もちろん誤りました。しかし謝ってすむもんじゃない、発言を取り消して撤回してす
むもんじゃない。どうしたら自分の犯した過ちを「償う」でもない、「許してもらう」
でもない、なんて言えばいいんだろう……
非常に冷静な糾弾とも言えないような糾弾でしたが、私は、いたたまれない気持ちで
その場にいました。その気持ちも「こわさ」という言葉が的外れだとは思いません。
正直に言うと、そのうちの二人とは今でも何かわだかまりが残っているような感じが
して、冷静な気持ちで向き合うことができません。(今はほとんど会うこともありま
せんが)
私のささやかな被糾弾経験だけでも、何年も経った今でも、胸痛む思い出として残っ
ています。
被糾弾者が「こわくない糾弾」なんて「糾弾」としての値打ちは半分以下だと私は思
います。
糾弾は相手に「こわさ」を感じてもらわなければ話にならない。そうであるが故に糾
弾をする者は、その「威力」を正当に使わなければならない。使い方を誤っていない
か常に厳しく点検しなければならない。一歩間違えれば、回復・ 修復しがたい傷を
残してしまうからです。その点においては部落解放同盟も例外ではありません。


二つのズレ 投稿者:らくりん  投稿日: 4月 8日(日)19時53分04秒

私は、大願さんの最初の「片手落ち」発言にも、それに対する三吉さんの「読みたく
ない」発言にも、まこさんの「片手落ちは差別語じゃない」発言にも、それほど強い
関心があったわけでもありません。
ただ、それらを受けて、愚っ朕さんが説教師と基幹運動中央教師のやりとりに着目し
て提起した問題に関心を引かれ、またその指摘は非常に重要な提起だと思いました。
だから、その発言について、もう少し議論が煮詰められると面白いなと思って、「フ
ォローが必要なのでは」と促しました。
  ……その辺の問題意識がかみ合わないみたいですね。

ところが三吉さんは、どうも「片手落ち」発言も「読みたくない」発言も、当初の意
図としては何も「差別問題としてなされたわけではない」いのに、まこさんや、愚っ
朕さんや私が、差別問題に仕立てて「問題視している」ことは、言い掛かりにすぎな
いとおっしゃろうとしているように私には感じます。だから、自分の「読みたくな
い」発言についてとやかくいわれる筋合いはない、という「弁明」に私には聞こえる
のです。

「片手落ち」については、私自身はどうしてもその言い方でしか言えない場合いにし
か使わないようにしていますが、この語を使うことが決定的な差別発言に不可避的に
つながっていくとは考えていません。
しかし同時に、「片手落ち」という語については、まこさんも書いているように「障
害者差別である」という指摘はしばしば耳にします。あるいは私自身の発言としては
「話が見えない」という表現について「視覚障害者に対する差別につながるのではな
いか」 と指摘されたこともあります。でも、今でもときどきこの表現は使います。
そのことの是非はともかく、
何がいいたいかというと、三吉さんが承認しないと言っていますが、私は三吉さんの
「読みたくない」発言は、やはりどうしても、この語をめぐるそのようなやり取りを
知った上での発言だと思います。
つまり、「片手落ち」という表現は、極め付きの差別言辞ではないけれども、あまり
不用意に使わない方がいいのではないかという意識が三吉さんにはあったんじゃない
ですか?その意識が「読みたくない」発言を生みだしたのではないか、と私は見てい
るのですが。
少なくとも私自身は「片手落ち」についてはそういう意識を持っており、使用上は注
意を払っている言葉です。だから三吉さんが、最初は差別問題だという意識のかけら
さえなかったと言い張れば言い張るほど「まさか」という気持ちが強くなります。
その点に関する共通認識が持てないのであれば、これ以上やり合ってもしょうがない
かなという気がします。

私が、ポイントがずれていると感じているのは、
「読みたくない」発言の意味の評価と、
もう一つは、愚っ朕さんの提起に対してちょっと受け止め方が違うなぁという意味と、
この二つの意味です。後者については、関心が重ならなければそれまでですが、
前者については、やはり三吉さんは「弁明」に終始している、と私には見えます。


あたりまえではないか。 投稿者:三吉  投稿日: 4月 8日(日)14時32分03秒

<だから、三吉さんの「反論・弁明」は、どうも私にはポイントがずれて
いるように感じてしまいます。>

はじめから私はあなたと関心が違うから、あなたの整理を承認しないと申し上げている。
それを「弁明」といわれるならば、対話に対する熱意を急速に失ってしまいす。

<私の問題関心を、私自身の言葉で整理しておれないし>ならば、1ヶ月後でも1年後でもあるいは、10年後でも、あなたが整理されて発言されるのをまっておきます。

<「代理糾弾」の問題>については、私はレスしてます。
藤田敬一さんの『同和はこわい考』の<「差別・被差別の垣根を両側から越える」>というテーゼはしっております。氏は被差別部落外出身者で<体験したものではないとわからない>つまり<反差別運動の同伴者も被差別部落出身者でないから、存在自体が、差別者であると、被差別者の側みずから作る「壁」がある」それを互いに乗り越えようという議論であると私は思うが。
ここでいうと、林遊氏が、非信仰者である私がいう「ただ念仏」は念仏者の言う「ただ念仏」とちゃうという提起と本質的同様の問題ですね。藤田氏は同伴者といい、私は同朋という。

それと引用の箇所について、私の体験からすると「糾弾会」はこわくなかった。学習の場であった。それは大谷大学・東本願寺における両者についていえると思う。
東本願寺における89年の糾弾にあなたがどういう評価をされているかしらないが、
私は糾弾=怖い論は、変だと思う。
さて雇用者側の問題で言えば世は、リストラと言う名の「解雇」が経営者の責任を問うことなく、経営の健全化の美名の下に積極的に勧められている。その「静かな暴力」側は安全な位置からなされている。両者はそもそも対等な関係ではない。その課長はそもそも雇用する権限を有するのに、なぜ正職員としてその人をこようしなかったのであろうか。私はまずそこに疑問を感ずる。
その中でその正式雇用しない論理の「理由」を問うことなく、一方的に生起した「暴力」のみに焦点をあてて論理展開する手法は、代弁者の一人が大願氏にやったのと同じ手法である。と私は思う。

その「冷たい暴力」が「不信感」「閉ざした心」を生むので、解放同盟の側も、大願氏のようなクレームをつける者も、笑顔でスマイリーに語れということをあなたは「ほのめかし」ておられるのか?私はそー思わないのだが、確認しておく。


広辞苑の用語例を確認されての発言か。 投稿者:三吉  投稿日: 4月 8日(日)13時34分18秒

<共同体の名を借りて相手を攻撃するということです>
<共同体が決定したこと=共同幻想に個人を従わせようとすることも批判されるべきです。>

といいつつである、<氏の誤の言うのは情けない>とおっしゃっているのは、あなたの「個人的解釈」で、つまりあなたの中の「共同幻想」で、他人を従わせようとする行為と尾きづきになっていないらしい。(笑)自己破綻しています。(笑)。
<正しい使い方を知らなければ使わない方が良いのです。>
<理解もしなければ、感謝もしないで居直るなんて、まるで駄々っ子ですね。>
これは、あなたが正しい解釈を教えてあげたのだから、感謝すべきなのである。
でないで居直るなんてと「駄々っ子」と侮辱してる(笑)
<共同幻想に個人を従わせようと>として、従わないものを「大人ではない」と排除しているわけね。(笑)
それと、らくりん氏の著作を出し、ご丁寧に「教誨」の語をだし、<教誨(教え諭)してあげたわけですが>としたうえで<これ以上「らくりん氏」と言い続けると、師であり友人であるらくりんさんに恥を掻かせることにもなるんだよ。>と、らくりん氏の権威に依拠して、「従わせようと」と論理展開されている。わはは。
断言しますが、あなたの発想の中に、あなたの定義する「差別の本質」はあるのです。

それと、「らくりん氏」と私がいうことで「らくりん氏」は私がらくりん氏に恥をかかせているとは思わないと思うよ。
それと、<師であり友人である>ですが、事実上、師に近いのかもしれないが、だからあなたがらくりん氏と私を師弟関係とみなされておかきでしょうが、正式に師弟関係を結んだことはない。
つまりらくりん氏は私を弟子とは認定してないでしょうし、私にも師というならば真宗大谷派において他氏がいる。
なんかあなたを見ていると「妄想」が自己完結しているようにみえる(笑)。


私の関心 投稿者:らくりん  投稿日: 4月 8日(日)11時56分47秒

 この問題で私が、重要だと思っていることは、私は「片手落ち」とか「犬食い」が
差別語であるかどうかとか、それを使ったこの掲示板での発言が問題発言であるかど
うかということではありません。私の関心の中心は愚っ朕さんの「代理糾弾」の問題
にあります。だから、三吉さんの「反論・弁明」は、どうも私にはポイントがずれて
いるように感じてしまいます。
私の問題関心を、私自身の言葉で整理しておれないし、おそらく私がかけるものより
もはるかに事柄を的確に表わしていると思いますので、最近読んだ文章から引用しま
す。

「同和はこわい」再考  山本尚友(こぺる 2001年4月号所収)
>私はその後じかに被差別部落に接する機会を持つようになり、その中でも「こわ
>い」という意識は払拭されず、当初はむしろ深められたといわざるをえない。……
>しかも、それを増幅するような経験も少なくなかった。解放同盟がおこなう差別糾
>弾や行政闘争の現場は、やはり私には衝撃的であった。私はそれまでに、大学闘争
>での集団交渉と称した大学幹部教員へのつるしあげ現場や、労働運動での団体交渉
>などの席に立ちあった経験をもっていた。七十年安保闘争という時代背景のなかで、
>それらは激しくそして暴力的におこなわれていた。それらを経験した私の眼からみ
>て、解放同盟のそれは激しいものであるというより、計算された効果的な威嚇であ
>った。
>ある支部でおこなわれた行政交渉の席、支部の要求は嘱託として採用されていた青
>少年指導員を正式の職員として採用せよというものであった。採用を拒否する課長
>は長い間一人で立たされていたが、交渉が膠着化のきざしを見せようとした時、突
>然一人の青年が課長に向かって突進し、殴りかかるとみせて頬の皮膚のまぎわでげ
>んこつを止めた。その思いがけぬ光景に私は極度に混乱したのを覚えている。課長
>の態度に怒って殴ってしまったというのなら、暴力の当否は別にして了解できる。
>しかし、ここにあるのは冷たい暴力であった。同時に、要求を認めまいとがんばる
>課長が、表面の態度とは裏腹に恐怖していることを感じ、その恐怖感の深さにも困
>惑した。
>私が部落と非部落のあいだの壁をもっとも実感したのが、この瞬間であった。この
>後ほどなくして、支部の要求を認めた課長は放心した状態で、部下の職員に身体を
>抱えられるようにして帰っていった。課長が自らの恐怖感がこの結果を招いたと、
>自覚する日が来るのだろうか。おそらくは、青年の暴力に屈したという思いから抜
>けることは出来まい。そして、この課長が被差別部落との間で信頼関係をきづく時
>がありえるのだろうか。暗澹たる気持ちで、その後姿をながめていた。
>帰路私は、殴るふりをした青年の心理というより、その青年の行為を見ていた部落
>の人人の絶望の深さを推し量り、私のなかの細かい震えを止めることが出来なかっ
>た。
この問題は三吉さんもご存じだと思いますが、藤田敬一さんの『同和はこわい考』
(阿吽社、1987)によって提起された「差別・被差別の垣根を両側から越える」という
テーゼから続いている議論です。
おそらく、愚っ朕さんが問題にしたかったこともこのようなことではないかと愚推し
ているのですが。


質問の仕方を変えます 投稿者:らくりん  投稿日: 4月 8日(日)11時25分15秒

では、三吉さん
「読みたくない表現」というのは、「片手落ち」という語を指しているのだと思いますが、
その点は間違いないですね。
そうだとして、
「あなたは、大願さんの文脈の中で、なぜその語を〈読みたくない〉のですか?」
そして、
「なぜあなたのその感情を大願さんに知らせたかったのですか?」






差別の言語論 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月 8日(日)07時32分34秒

>「言語は必ず否定を根拠とするものである」
というのは、寡聞にして存じませんが、
サルトルが「存在と無」で取り上げて有名になった
スピノザのテーゼ
「あらゆる規定は、否定である」
と同じ意味かと思います。
あるものをAと規定することは、
A以外のものを非Aとして否定することになる
ということです。
「AはAである」というのは、
「Aは非Aではない」ということです。
また、ソシュール以降の構造主義言語学では、
「言語とは、差異である」と言ってます。
AがAであるのは、BでもなければCでもないからだ、と。
「あいうえお」に始まって、語と語の差異が、
言語となり、意味となると考えるわけです。
思考も言語の文節的差異によって進歩してきたと言えます。
(思想的には、親鸞聖人よりも進歩しているとは言えないとしてもです。)
林遊さんとは、このように話題がずれて先へ進むので楽しいです。

差別の本質は、共同幻想であるというのは、
個人と個人の争いにおいても、
民族差別のように共同体の名を借りて相手を攻撃するということです。
また、基幹運動や語感運動のような共同体が決定したこと=共同幻想に
個人を従わせようとすることも批判されるべきです。
私どもの原則は、共同幻想は消滅すべきであり、
共同体は開かれるべきであるということです。
集会の入場制限というのは、共同幻想ですから、
経済的、物理的に可能で、混乱が予想されないのならば、
出入り自由とすべきであると考えます。
融通を利かせるのは、個人幻想であり、
制限するのは、共同幻想ですから、
天と地ほど次元が違います。
共同幻想は、個人幻想と逆立する
という原理に大願さんは遭遇したというわけです。

これで振り出しに戻ったわけで、
これがらくりんさんにもまねのできない私の芸風というやつです。


氏の誤の言うのは情けない。 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月 8日(日)06時12分36秒

あわてて広辞苑などを開いてみたようですが、
用例または説明がなければ辞書として役に立たないのです。
三省堂の大辞林には、「吉田−」と用例が載せてあります。
広辞苑も第4版には、
>近世、武士階級の間で、多く同輩以下に対して
>苗字に添えて用いた敬称。
との説明があります。
高浜虚子に「漱石氏と私」という著書があるのは、
困りものですけど、誤用です。
「氏」という敬称は、明治期以降に英語のミスターに倣って
用いられるようになって普及した言葉であり、
誤用も見られると言うことなのでしょう。
言葉は時代によって変化するものです。
しかし、「木村氏」とは言っても
「キムタク氏」とは言わないでしょう。
愛称に敬称を付けると侮辱したことになると思います。
つまり、手紙で「前略」と書き出して、「敬具」と結ぶようなもので、
正しい使い方を知らなければ使わない方が良いのです。
広辞苑第5版に
>代名詞的に話題の人を表すのに用いる。
とあるのは、
最初は氏名を書いて、2回目以降「氏」と表すという意味です。
たとえば、
「山田太郎さんは、東京で生まれました。
 現在、氏は、大阪で活躍しています。」
というふうに用いるという意味です。

「親鸞の教行信証を読み解く5」14頁に
>間違ったことをしたり、言ったりしている人を、
>黙殺してしまったら、相手は自分が肯定されたと錯覚し続けて
とあり、これ以上恥を掻くのはおやめなさいと
教誨(教え諭)してあげたわけですが、
理解もしなければ、感謝もしないで居直るなんて、
まるで駄々っ子ですね。
これ以上「らくりん氏」と言い続けると、
師であり友人であるらくりんさんに恥を掻かせることにもなるんだよ。


氏について 投稿者:三吉  投稿日: 4月 8日(日)02時28分07秒

広辞苑第5版P1127参照
B人名に添えて敬意を表する語。転じて、代名詞的に話題の人を表すのに用いる。

私は、他人様が嫌がってもだ、変じゃないと思えば、使用しつづけるのだ。(笑)
<相手の感情を無視、逆なでした言葉>であってもだ、相手の感情そのものを容認できない
場合があるのだ。

で、氏に関して言えば誰に対してもつけているのだ。
誰か特定の一人をはずしているのならば、「おかしい」と思うが、みなさんに同様に
コミニケーション上私が適当と思う敬意を表しているわけだ。
勿論、呼び捨てでも親密さを感じれる「場」では私は「敬称」を使わないけどね(笑)
「親鸞」「日蓮」などの歴史的人物は敬称略でいきたいのだが、信仰者から呼び捨てのクレームが
あった場合、あるいは予想される場合は私は「さん」を使う。
「上人」「聖人」「大聖人」は使用しない。
それをもって、あなたとは議論しないと言われたことがあるが、それはそれで構わない。


つづき 投稿者:三吉  投稿日: 4月 8日(日)02時12分22秒

さて大願氏に生じた意味ですが、その後、らくりん氏は、この語を無視され、まこ氏が「その表現は差別ではないという形で、私が「差別問題として論じた」と思い込まれ、その問題をピックアップした形で論ぜられ、それに対し私は、<「差別用語」だとも「差別用語だから削除せよ」とも言ってません。>と反論した上で、<不快感>の問題として論じ、まこ氏はクールダウンされた。で、愚っ朕氏が、<代理糾弾>云々を関連問題として論じられるのですが、だれもそれに乗りませんでした。で、大願氏の発言となるわけです。
「謝罪」と「取り消し」は<傷付く人々がおいでなのは事実です>と、これはおそらく、私のまこ氏へのレスを基にそう思われたのであろうと思います。ですから、<私も指摘されるまで気づきませんでした。>とは、最初の私の指摘では、「謝罪」につながる<傷付く人々がおいでなのは事実です>は生じなかったのであろうと思います。傷つく人がいるのではないかとIFを使用し私が論じたのはまこ氏へレスですからね。
私はそのこと自体より、主たる関心は、
<今後の対応が後退(閉鎖)でなく、前進(開放)の方向へ進んでくれることを念じます><今回の研修会の企画自体は大いに賛同しますし、それをひっぱて来られたスタッフの方々のご苦労を知っているだけに、今後も賛同し続けていきたいと思います。>との大願氏の押さえに満足し、この問題は終了したとの認識です。
で、愚っ朕氏が、私の関心からずれたところで、「中途半端はやめて」と言われ、「架空の代弁」「当事者性」とかと論じられていましたが、それに対してフォローの必要性は感じませんでしたね。ところがらくりん氏が名指しでフォローせよとのことなので、何を見落としていたのだ、よーわからんとなったわけです。

<何しらばっくれてるの>とのことですが、私は大願氏に生ずるであろう意味を意識したのは、まこ氏のレスからですって(笑)。あなたは忙しいのできちんと過去ログを読まれていないのではないか。あるいは、しらばっくれておられるのか。。。(爆)


らくりん氏へ 投稿者:三吉  投稿日: 4月 8日(日)02時11分19秒

<わざわざコメントつけたの?>私は、まず「雑感」という形で50行に及んで、大願氏の「怒り」を擁護し、宗務役員の対応の問題点を指摘した上で、つまり、大願氏擁護派という旗幟を鮮明にしたうえで、大願氏にメッセージを送ったわけです。第一点は、大願氏の「怒り」は正しいのだが、その正しさだけを素直に主張するだけでいいのかという点。第二に、「怒りの対象のずれ」に対する指摘です。三点目が、講演会からの「排除」を「排除の論理」という観点から怒りを感じ抗議する者がその怒りを表現するときに使用した言葉が、私には「読みたい表現ではない」という点です。4点目が、排除された者は「不信感」を抱くものだが、その「不信感」から惹起する「勘繰り」は「邪推」という点。
第三点目だけをわざわざを問題にしたわけではない。逆に表現としては、私のレスの中では、意図的に小さく扱っている。付け足し的な印象を狙っている。つまり、大願氏へ「伝えたいこと」の中では、まずは擁護派であるということに主な精力を使用し、第3点目は、さらっと流している。全体として大願氏の怒りは正しいが、その怒りが「不信感」を惹起し、その不信感が、「邪推」をまねている。不信観をもってしまうのは当然なことなのであるが、そして邪推したくなる気持ちもわかるのであるが、その「ずれ」はまずいじゃないのかなという意図を込めているのが主要なテーマです。
その中で、第3点目は、1)一旦違う表現をして書いた。2)私には珍しく、一旦削除した。3)考え直して、リライトして、短文で「私の感じ方」という形で「一行」で表現した。
主たる目的は、自身を<かんしゃく持ち>と表現される大願氏が、「怒り」で、「不信感」を増幅させているように私には見え、冷静になっていただくために一つの「きっかけ」として出したにすぎません。
私は大願氏の「片手落ち」発言は、「一方に偏った判断」批判が主旨で、「差別」を意図していないと思います。あるいは、大願氏の意識に隻腕の方への蔑視があったとも思ってません。<排除された側の痛み>に敏感なはずの大願氏も、「肉体的特徴、あるいは病気をマイナスイメージと結び付けて表現する一般的な語」を自然に使っておられるが、私はその表現を気持ちのよいものと思わない、と。


共同感情論の幻想 投稿者:林遊  投稿日: 4月 7日(土)23時29分23秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

差別とは、感情である。
自らにとって不快な言葉が差別語であり、批判の対象になる
読み手にとって好悪を伴わない言葉、記号の羅列に差別はない。
もともと言葉とは、言葉の受け手の内部に発生した意味を指すのであり
言葉そのものには、差別はない。
相手を不愉快な好悪の感情に陥れようとして言葉を使うこともある。
言葉そのものには差別を現成させる力はあり得ないが、
紛らわしいのは、相手に対してそのような力があると予測して使う場合がある。
言語に力があるという言霊思想の悪用である。
この場合は批判されるべきである。

他者の内面を自らの体験へと錯覚に陥れる言説は、
差別を好悪なるむき出しの感情論の位置まで引き落とす場合が多い。
しかし、自己内対話や宗教言語のように一人称で語られる要素の強い立場では
語が差別語と同じであっても感情論にとどまることはない。
だから、個人として述べたことが他者の感情に好悪の感情を与えたと批判されたときは
1 相手の感情を無視、逆なでした言葉は謝罪して取り消すべきである。
2 自己内対話による表現の一形式である場合には、
  表現の根拠をその旨説明すればよい。
3 言語の語源は、あなた/わたしという相容れない二者の差別的存在の上に
成り立つものである旨説明すればよい。

「言語は必ず否定を根拠とするものである」
といわれるように、多義的な概念の中に解消され得ない言語は実在しない。
必ず否定を媒介とすることに基づいて言語は存在するのである。
ある言説は自らの言葉の否定を通してこそ本来の意味を指し示すのであろう。
ここに宗教言語としての表現、自らを語る困難さがある。

で、真面目とか真剣とか命懸けなどという虚妄の言説は、言語の自己内在化に迷うたアホたれじゃと林遊は思うていますが、「それと「片手落ち」というのはあまり読みたい表現ではありません」などという好悪の感情論で真宗義を語るのは林遊は好かんですね(笑)。「共同幻想論」と差別における「感情論」を論じようと思ったのですが、うまくいかんですねぇ。

ps
一方的にお留守居役様 の論ずる「幻想論」を曲解してるかもしれませんが、ゴメンですね。越前の酔っぱらいの戯れ言ですちゃ。すまんことです、ごめんしてね。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


らくりん氏って? 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月 7日(土)13時21分41秒

「らくりん」「林遊」「大願」「まこ」などは、
すべて「氏」ではなくて、「名」だと思われます。
個人を特定する「名」称だからです。
「法名」とか「いみな」とか「あざな」とか
詳しくは知りませんが、いろいろな「名」があります。
「親鸞」も「名」だと思います。
で、これらの「名」に
敬称としての「氏」を付けるのはおかしいと思います。
「平氏」「源氏」とは言っても
「清盛氏」「頼朝氏」とは言いません。
ですから「らくりん氏」などと言う人が、
語感として不愉快などと言っても
それこそ、
ちゃんチャラおかしいと笑うべきでありましょう。
だいたい、人を「氏」呼ばわりするのは、
呼び捨てするのは気が引けるけど、
対等もしくは優位さをしめそうとする
尊大さ、傲慢さ、もったいぶりを語感として感じます。
「氏」という敬称を使うという共同幻想に基づく
差別意識を感じます。


差別の共同幻想論 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月 7日(土)12時46分31秒

差別とは、共同幻想である。
共同幻想としての差別だけが差別であり、批判の対象になる。
対幻想には、差別はない。
もともと男女の間では全てが許されているからである。
また、個人は自由であるから、個人として、
言ってはいけないことや使ってはいけない言葉などはない。
相手を不愉快にしようとして言葉を使うこともある。
個人が個人として差別語を使うことは、原理的にありえないが、
紛らわしいのは、個人が共同幻想としての差別用語を使うことがある。
共同幻想を借りて相手を傷つけようとすることがある。
この場合は批判されるべきである。

大衆小説は、大衆の共同幻想に沿って書かれるので、
差別用語も共同幻想としての差別となる場合が多い。
しかし、純文学や現代詩のようにきわめて個人的要素の強い文学では、
語が差別語と同じであっても共同幻想としての差別として使われることはない。
だから、個人として述べたことが差別に当たると批判されたときは、
1 共同幻想としての差別の意味があった場合は、謝罪して取り消すべきである。
2 共同幻想ではなくて、個人幻想に基づく場合には、
  差別ではないとその旨説明すればよい。
3 語源的などの理由により共同幻想としての差別用語
  でない場合は、誤解である旨説明すればよい。

「言語は必ず国語である」
といわれるように、抽象的な言語そのものは実在しない。
必ず共同体の共通認識に基づいて国語とか民族語として実在する。
言語は、特定の共同体の共通認識、共通の約束に基づいている。
ここに個人幻想としての表現、文学などの困難さがある。


意図と意味 投稿者:らくりん  投稿日: 4月 6日(金)21時08分09秒

三吉さん
一つだけ聞くけどさぁ

掲示板の上には「読みたくない」表現や言葉なんて山ほど出てくるけど、
なんで、大願さんの書き込みから「片手落ち」を取り上げて
わざわざコメントつけたの?


そのように書いたらどういう意味を生じてくるか
それを知らないあなたではないでしょう。
少なくとも私が知っている三吉さんは、
そんな「うかつ」な人じゃないと思うんだけどなぁ。
そこに生じる意味にとっては、三吉さんの「つもり」なんか
何の関係もないってことも、あなたはよく知っているはずなのに。
何しらばっくれてるの、ってカンジかな?


もうしわけない 投稿者:らくりん  投稿日: 4月 6日(金)20時18分44秒

>らくりんさんにもママチャリに乗って道路に飛び出してきて欲しいのですが

愚っ朕さん
講義が続くと、ママチャリ操業で手一杯、交通整理が関の山。
まだしばらくは、それどころじゃないってカンジ。
申し訳ない。

三吉さん、こんな時間にカキコして仕事してんの?
ノルマ達成したから、いいのかな?


くやしい〜! 投稿者:愚っ朕  投稿日: 4月 6日(金)14時21分27秒

 林遊さんと三吉さんは掛け合い漫才やってるみたいだ。
らくりんさんは交通整理のおまわりさんみたいだけど,
らくりんさんにもママチャリに乗って道路に飛び出してきて
欲しいのですが。


ありゃま、三吉さんだ 投稿者:林遊  投稿日: 4月 6日(金)12時01分44秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

どうやら同時書き込みのファイルロックの相手は三吉さんだったようですね。

>で、あなたは誰を指したのですか?

もちろん林遊自身を指し示している「言葉」です。モノローグじゃかっこわるいからダイアローグのスタイルを取ったんだけど、時々自己内対話を「言葉」にしてみたくなるのは困ったものではありますね。どっちにしても「そらごとたわごと」なんでしょうけんど(笑)。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


おお、林遊さんだ 投稿者:三吉  投稿日: 4月 6日(金)11時30分44秒

>誰を指しているんでしょうね。

で、あなたは誰を指したのですか?
ここのやりとりを見てそう意識したのでしょう。
まずはお尋ねします。


捕捉 投稿者:三吉  投稿日: 4月 6日(金)11時27分40秒

<大願さんが謝罪と発言を撤回した(自覚した)ことから、
差別問題としての議論が始まっていると思いますが。>

というのは、らくりん氏の立場である。
私はらくりん氏のフォロー発言より、再思考しはじめたのであって、
私の中では、らくりん氏のフォロー発言の以前と以後で2期に分かれている。


Re:おはよ 投稿者:林遊  投稿日: 4月 6日(金)11時25分15秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

林遊氏の「頭の悪そうなやからはらからが差別なる「虚構」を論じている」というのは、頭の悪い奴は黙れということなのか?あなたは「虚構」とわかっているから賢いのか?


越前の門徒はみんな蓮如さん好きだけど、御開山の方がもっと好きだったりします。で、お文の五ー二を聴く度に思うんですが、「頭の悪そうなやからはらから」って誰を指しているんでしょうね。

差別じゃ、と声を挙げ得る「権利」と「正義」は差別されている側に属するのであって、暇つぶしのネット上で、当事者抜きで論ずる事じゃないと思ってたりしますですね。
もっとも日常生活の中で自らの「差別性」に鈍感なので、「言葉」だけのネット上で「言葉」だけの差別性を指摘して欲しいというなら別ですが(笑)。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


よし、契約ゲット。休憩中。 投稿者:三吉  投稿日: 4月 6日(金)11時23分33秒

2001年度の新規獲得目標額つまり、ノルマを果たしてしてまった。
上方修正だな。(笑)

<「ごめん,気わるしたやろ。ホンマごめんな」と率直にあやまりますけど。>
うんうん。それでええやん、と私は思う。
別に差別問題ちゃうやんと、私の最初の大願氏の発言もそう思うのだ。

まこ氏の<5、まこさんの指摘(語源的に「差別用語」ではない)  ――語源的に問題なければ、「差別」ではないか>は、大願氏の謝罪と撤回の以前である。
過去ログを再確認されたし。

布教使と講師のやりとりに関し<代理糾弾、過剰反応、当事者性の欠如>を大願氏の受け止めから論ずるのはどうかと私はまず思う。その点を私は指摘したはずだ。
事実関係をどれほど大願氏が抑えているのか、まずその点が疑問だ。
両者ともここにいない。

私の<読みたくない>発言が誘発の一因になっているのはそのとおりだと思います。
だが、誘発は、私のまこ氏への応答とかも影響しているのではないかと想像してます(笑)
全部じゃないよ、タブンネ。


議論の発端と今の焦点 投稿者:らくりん  投稿日: 4月 6日(金)09時31分17秒

>この問題はまこ氏の提起により、差別問題の様相を呈し始めたのであって
そうですかね?

まこさんの発言は、大願さんの謝罪と発言撤回に対する反応であると思います。
ですから、私は、
大願さんが謝罪と発言を撤回した(自覚した)ことから、
差別問題としての議論が始まっていると思いますが。
大願さんの謝罪と撤回を「誘発」したのは、三吉さんの意図いかんに関わらず
明らかに三吉さんの「読みたくない」発言だったと思います。

愚っ朕さんの発言は、大願さん、三吉さん、まこさんの3人の間のやり取りとは直接的には関係
ない部分、説教師さんと基幹運動中央教師のやりとりという問題に焦点が移っています。
だから、「片手落ち」とか「犬食い」が差別語であるか否か、
あるいはその発言が差別発言であるか否か、という次元の問題ではなくなっています。
もちろんそれも深くか変わっていますが、愚っ朕さんの提起の核心部分ではない、
と私は思います。
三吉さんの「読みたくない」発言が「代理糾弾」であるか否かも中心焦点ではありません。


「2」が抜けたのは、編集ミスです。

「布教使」は、マイ辞書に登録していますが、私の辞書に「布教師」はありません。
今試してみたところ、簡単には「布教師」にはならないんですが?!
変換ミスか、カットアンドペーストした際のチェック漏れではないかと思います。

失礼しました。


使いなれていません 投稿者:愚っ朕  投稿日: 4月 6日(金)09時25分52秒

 なんか読みにくいカキコになってしまいました。すいません。
ほとんどが三吉さんに向けてのメッセージです。
 私は間違えるたび,少しづつ少しづつ訂正していきたいと
思っています。私が本質的に差別者であれ,自分に向き合い
他者と出会いたいな,共に生きていく道はないのかなと今日も
模索しています。」


ぎょえっ〜 投稿者:愚っ朕  投稿日: 4月 6日(金)08時40分21秒

 「それでは畜生と同じ」といった布教「使」さんは
えらい時代がかった言葉つかわはるなあ。「そんなことしてたら
サーカスにつれていかれるよ」みたいな死語の世界やなあというカンジ。
らくりんさんにはえらくまとめられたなというカンジ。見透かされている
カンジ。親鸞さんの時代の例えは,当時の社会に与えた親鸞さんの教えの
インパクトの大きさという話しですか?そのような歴史を背負って
被差別者の哀しみはあるというお話しですか?ようわかりません。
「世界ウルルン滞在記」かなんかみてると「世界にはいろんな民族がいてん
ねんなあ」と目からうろこが落ちますけど,私は。
>あるいは、もし私が「隻腕」で、健常者と同じに作業はできないが、そのことを不便だと思っ>ていても不幸だと考えていず、これは私の個性と思っている場合、「片手落ち」=「配慮が一>方にだけかたよること」という意味に使われることに、不快感を感じ表明したとして、何が問>題なのでしょうか?
 で,この場面私に向かっていわれる具体的な場面が想像しにくいのですが。
その方が作業所につとめていて私が同僚かあるいは,職員だったら
「ごめん,気わるしたやろ。ホンマごめんな」と率直にあやまりますけど。
 会社で何か食べに行く場面で「なんかグルメもあきたし,今日は変わったもん
たべにいこか」と誘われていわゆる「ゲテモノ料理」に連れて行かれて,
女子社員が「あんな気色わるいもんよう食べん」と言ったとき,三吉さんは
その女性に対して何といい,何と思うんでしょうか。(挑発しちゃいました!)



訂正 投稿者:三吉  投稿日: 4月 6日(金)07時38分53秒

もっといえば、被差別者が「私は差別はしてない」と否定することを他人が見て
             ↓
もっといえば、差別者が「私は差別はしてない」と否定することを他人が見て


おはよ 投稿者:三吉  投稿日: 4月 6日(金)07時36分04秒

「人がある文化圏に人がある文化圏に所属していて習俗や習慣を身に付けるそのこと自体に問題がある」と私は思うのですがね。例えば、親鸞の時期の文化は仏教の不殺生戒とかにより、殺生を生業にする猟師・漁師に対して「せんだら」差別があったのではないでしょうか。あんたらは、自力では堕獄の悪人と。あるいは、仏教の教説から女性は男性より罪深く救われがたいと。
「言い返せない場合」という「力関係」は大事な指摘だと思います。その時に顕在化するということではないかと思いますね。
<「おれはあいつと違ってちゃんとやってるわい」>と、誰しも自然に思う。中身がどうあれね。
その意識を「自力の執心」と親鸞さんは批判したのかなと思ったりもします。
<。。。思いで生きている>悪くないと思います。
でも「本音」というのはなかなかむつかしいものですね。(笑)

らくりさん。2がないのはわざとか?単なるミスか?
それとあなたの整理を私は承認しない。
この問題はまこ氏の提起により、差別問題の様相を呈し始めたのであって、
それは私の意図よりずれている。その点をあなたの整理はわざとか無自覚かしらないが
抜かしている。
更に、私の発言に依りまこ氏はクールダウンした。一端はここで終わった。

愚っ朕氏は<三吉さんが「代理糾弾」をしているという含みはありません>と断ってから、この問題を論じ始められているのであって、あなたのフォローせよという指摘から第2戦が始まっているのです。私は「ずらして」と言っているので6の「・三吉さんへに対する意味(自分の指摘が、代理糾弾であると受け止めた)」は、ちと違うように思う。


・誰かが決めることができるのか←自覚の問題ではないのであろうか。つまり差別した(している)当事者であろう。その「きずき」の機縁が被差別者の指摘であれ、代弁者であれ、一体なんの本質的な差があるのか私には不明である。もっといえば、被差別者が「私は差別はしてない」と否定することを他人が見て、その他人の姿の中に「自分の差別性」をきずかせるものがある場合すらある。
他者の指摘など「糾弾」であれ、「ほのめかし」であれ、「きっかけ」に過ぎない。

林遊氏の「頭の悪そうなやからはらからが差別なる「虚構」を論じている」というのは、頭の悪い奴は黙れということなのか?あなたは「虚構」とわかっているから賢いのか?
あなたの大好きな蓮如さんは「語れ語れ。語れば仲間が間違っている部分を指摘してくれる。黙ってては何を考えているかはわからん。つまり間違えていてもその間違いは自分じゃあ、発見しがたい」と指摘されていたように思うが。。。

まこさんへ指摘ありがとう。「布教使」ですか、法華経の「如来使」に似てますね。(笑)


布教使と布教師 投稿者:まこ  投稿日: 4月 6日(金)01時15分37秒

 らくりんさんの整理でフォローすべき問題を鮮明にしていただけたと思います。
 私自身の考えの書き込みにはもうしばらくオフラインの時間を下さい。
 一言だけ気がついた点ですが、本願寺派では「布教使」が公式な呼称であり、
この「養成」にずいぶんと力を入れています。「布教師」とは呼称しないことに
なっています。大谷派ではいずれにしろ死語なんでしょうが?
 らくりんさんの書き込みでも混在しているので、布教使と布教師とではどう違
うのかの議論は今のスジと離れたことになりますから、取り急ぎの紹介?です。


差別と排除 投稿者:林遊  投稿日: 4月 6日(金)00時54分05秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

差別が何故問題視されるか、という事は「排除」の論理が「差別」の根底に内包されているからだと小生は思います。異質なものを「排除」していくという事は、臓器移植をされた方が自らの肉体にとって「異物」である他者の臓器を免疫抑制という方法で押さえていかなければならないというように、人間に組み込まれプログラミングされていることなのかもしれませんです。人が「そこに存在する」ということは、他者が「そこに存在する」ということの否定によってしか成り立たないのだと思っています。

そして、他者が「そこ」に「同時に」存在しえないように、力あるものが、「そこ」(空間)から弱者を「排除」し自らが他者の占有していた空間を占めるのでありましょう。
このような、他者を「排除」する事が「差別」の根底にあるという事を抜きにして、無邪気な「言葉狩り」をするアホたれが「差別」を語るのは、邪気がないだけ(自覚がない)に困ったものです(笑)。

で、「片手落ち」なる、手のない方を表現する言葉なんですが、何でこの言葉が問題になるのかよお判りませんです。「犬食い」なる言葉が、何で手がない方の食事方法とリンクされるのかが小生はよおわかりません。ひょっとして「片腕が無い」とか、「脊椎損傷」で首から下は動かし得ないという、御開山さまの御同行をこの娑婆から「排除」しようという頭の悪い「愛見の大悲」にとち狂っているアホたれが言っているんでしょうか。

「覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪」と、どうにもこうにも手の打ち所がない「有情」のために、「我が名を称えよ」と、あらゆる価値を私の口先に<称えられる、なんまんだぶつの「名号」>に解消し無化してくださったのが、阿弥陀仏、如来、親さまだと小生は領解していますですね。

ps
しっかし、酔っぱらって書き込みするのはスマンことじゃと、今少しくは思うていますが頭の悪そうなやからはらからが差別なる「虚構」を論じているのは、御同行の面々にはゴメンしてくださいましませです。

で、「なんまんだぶつ」と仏徳(ちょっと理屈)を讃嘆してますかぁ、御開山のご法義を曲げて領解していると、林遊には思われる<あなた>ですね。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


「差別」とは何か 投稿者:らくりん  投稿日: 4月 5日(木)21時10分11秒

なんかちょっとまだおちつかないのですが、取り急ぎ今思いつくポイント
だけ羅列しておきます。

【発言者の指摘の整理】
1、大願さんの最初の発言
  ・「片手落ち」という言葉自体の問題性の有無
  ・大願さんのこの語の使い方には問題があるか否か
3、三吉さんの指摘
  ・代理糾弾であると言えるか否か(示唆・ほのめかし:私はこれはけっこう巧みな
   糾弾、あるいは相手に気づかせる行為だと思います。実際に大願さんにはそうい
   う意味が生じたと思います。)
  ・三吉さんの意図の有無は、大願さんにおいて生じた意味と関係あるか
  ・代理糾弾には問題があるか否か
4、大願さんの対応(指摘を受けて、謝罪・撤回)の妥当性
  例として紹介された布教使さんの「犬食い」発言(大願さんは自分の発言と
  この方の発言とは同じ過ち=指摘されるまで気づかなかったと重ねて見ている)
  それを差別だと指摘した人の発言(愚っ朕さんはこれを指して、代理糾弾であり、
  おそらく過剰反応だと言いたいのではないか)
5、まこさんの指摘(語源的に「差別用語」ではない)
  ――語源的に問題なければ、「差別」ではないか
6、愚っ朕さんの指摘
 ・三吉さんへに対する意味(自分の指摘が、代理糾弾であると受け止めた)
 ・大願さんへに対する意味(おそらく基幹運動中央教師の指摘を妥当だと考えておら
  れるのでしょうから、愚っ朕さんはその評価に疑問を呈しているはず)
 ・大願さんの説明の中に登場する布教師さんの発言に対する意味
  (愚っ朕さんはこの程度の発言は、許されるのではないかと考えているのではな
  いか――糾弾は過剰反応)
 ・布教使さんを批判した基幹運動中央教師の「それは、犬食いしかできない人に
  対する差別発言である」との発言に対する意味(愚っ朕さんは主に、ほとんど
  これを問題にしている―代理糾弾、過剰反応、当事者性の欠如―、が誰もその
  点をフォローしない)
>以前のカキコで「当事者性」という言葉を私は使いましたが,これは自分がその立
>場にいるという意味ではなく,自分の直接経験と意識に問い訪ねるという方法です。
>(つまり竹田さんのいう「現象学」の方法ですが。)
> 水戸黄門の印籠じゃあるまいし,「これは差別だ。傷つく人がいる」などといっ
>て鬼の首を取ったみたいにいう輩に対しては「おのれが差別しとるんじゃ」といっ
>てやりたくなります。自分がひとりで食べれなければ「介助者の力を借りて食事を
>する」。そういう生活者をさして「犬食いしか出来ない人」とはなんと想像力の欠如
>した教師か!
  「それは差別だ」と叫んだ者の前で沈黙してしまう、ことに問題はないか。
7、お留守居役様さんの発言(まこさん発言と同じ趣旨として括れると思うので、
  今回はちょっと無視させていただこう)

【差別とは何か】
・「差別」であるかないかはどうやって決まるのか。
・誰かが決めることができるのか(該当被差別者)
 ――だとすれば誰が決めることができるのか(被差別者の痛みを他者が斟酌すること
 は可能か。できたとしてその妥当性・正当性はどうか)
・該当被差別者の判断は絶対か?(差別の痛みは被差別者にしかわからない、か?)
 一人がそれは差別だと言い、別の人がそんなことはなんでもないと評価が分かれた
 らどうなる(特定の例が決定の根拠となるか)
・「〈差別だと叫ぶ者〉に対する沈黙や畏縮」を利用する行為(いわゆる「エセ同
 和」行為)などとの違いどうやって見分けるか

私が、フォローが必要だと言いたいのは、愚っ朕さんの指摘の趣旨をあまり的確に
受け止められていないのではないかと思うからです。
愚っ朕さんの指摘の意味がはっきりしないと、大谷派で言えば、「同和」推進本部の
取り組みと部落解放同盟との関係に対して的確な判断や評価ができなくなる可能性
があります。その関係が的確に判断・評価できないと、教団の取り組みは、
解放同盟の「お先棒かつぎ」にすぎないような、主体性のないものになっていく
危険性があります。組織としても個人としても起こり得る問題です。


ようやく熱気が 投稿者:愚っ朕  投稿日: 4月 5日(木)20時29分40秒

 出てきたのでもう少しだけ(といいながら引っ張る私)。布教師の方は
「箸があるのだから,箸つかって食べなさい。行儀悪い。」とでもいって
しかっていたらよかったのではないかなと思いました。人がある文化圏に
所属していて習俗や習慣を身に付けるそのこと自体に問題があるとは私には
思えません。「差別」とは,共同体どうしの力関係がはっきりしていて,
発言を受けたほうが容易に言い返せない状況のときに問題が発生するのだと
思うのだけど。
 人は何らかのセルフイメージ,自己理解とも自己了解とも「わたし物語」
とでもいっておきましょう,それを常にもっていると思われます。
私はええ年になったのだからちゃんと働いているとか,きちんと税金おさめてる
とか。親から独立して一人暮らしやとか。このセルフイメージをもっていること
そのものが例えばパラサイトシングルは人でなし,ホームレスのおっちゃんは人でなし,
失業者はもしくはフリーターはもしくはプー太郎は人でなしなどといった思い上がった
傲慢な意識に即直結しているものとは私には思えません。私は,私の信念とか世間体とか
親にたいする負い目とかいうもので,私なりの生き方を右に左に揺れながらそれでもなお
貫いているのだから,他人を見下して傲慢になっているのとはちょっと距離があるのでは?
 言葉の表現か意識か。この辺になってくると口業とか意業とか身業とか仏教の基本的
認識にも及ぶのではないかなあ。学問が苦手なわたしは,こういう問題に仏教学が
どこまで成果をあげたのか聞いてみたいなあ。
 それで,三吉さんに言いたいのは,私も「おれはあいつと違ってちゃんとやってるわい」
みたいなプライドというかアイデンティティみたいなもんで生きてるんですけど,
そこには当然誰かを踏んでいるのではないかという後ろめたさにさいなまれていた時期が
あったのだけど,そんな意識で生きていても誰をももちろん自分自身をも勇気つけたり
励ましたりしないと思って自覚的にやめました。
 それよりも,いろんな人に出会おう,そしていろんな人に自分をさらけだそう,本音で
語ろう,そして相手と対等に付き合いたいという思いで生きているのですけどね。


さて。。。 投稿者:三吉  投稿日: 4月 4日(水)23時50分06秒

布教師の主旨は、「健常者の子供に対する食事作法の躾に関し、茶碗に顔の方を近づける食べ方は、マナー違反である」というものでろあう。この主旨は、日本一般の文化に基づくものであり、家庭で保育園で自然になされているものである。当該の問題ではないのであるが、たとえば文化が違えば、箸文化でない地域もある。手で掴んで食べる文化を持つ地域もある。日本文化を空気の様に吸って育ってきた私は、「カリーライス」を手で直接掴んで食べるやり方は、生理的に野蛮と感ずる感性を身に纏っているのであるが、これは異文化にたいする傲慢さであろうと思う。「傷つく」とは、「のけ者、仲間はずれにされたことに対する哀しみ」とすれば、私は、文化的な人類から、「手掴みの食べ方」をする文化を「のけ者、仲間はずれ」と根拠なくみなしているのであろう。私がそうみなしたとして、みなされた方は、「哀しむ」とは限らない。「哀しむ」ものもいるかもしれないし、その「哀しみ」は時には人を自死に追い遣ることもあるかもしれないし、あるいは、単に私の傲慢さを逆に「あきれられたり」あるいは「憐れまれる」かもしれないし、あるいは怒られる方もいるかもしれない。
さて、私の持つ傲慢さと近似したものを布教師は自然に持たれていて、「犬食い」=「畜生」、つまり「野蛮」であるという感覚を持たれているのかもわからない。
布教師の譬えは<不適切な用語,発言,例え>というのが、ことの本質なのであろうか。つまり表現がまずいか、そうではないかのことなのであろうか。<茶碗に顔の方を近づける食べ方>が、「野蛮」であるという意識を自然に纏っていているところが、本質的な傲慢さなのではないだろうか。で、その「野蛮さ」の譬えとして、たまたま<「犬食い」=「畜生」>という語を使用されただけなのであるまいか。ならば本質的な問題は表現ではなく、傲慢さなのではあるまいか。
基幹運動中央教師の指弾は、「表現」がまずいというのが主旨なのであろうか。大願氏による受け止めからの表現によるとそこのところは明確に読み取れないが、意識を問題にしたのか、言葉を問題にしたのか。
何か、まこ氏、大願氏、愚っ朕氏、留守居役氏の論を読んでいると、「差別」=表現の問題というような印象を受けるのだが、私の誤読であろうか。

「しかできない人」とはなるほど、その人間理解に問題があるように思う。できる人の方が偉いという意識が混入しているところからくる表現のような気がする。
ただ、この指摘が「子供に食事マナーを躾けるにあたって、<茶碗に顔の方を近づける食べ方>を「犬食い」と表現し、「畜生」と同じだとの発言は、<茶碗に顔の方を近づける食べ方>が野蛮であると一段低く見なす意識に呪縛されての発言であるゆえに、<茶碗に顔の方を近づける食べ方をする人>に対し、その個性を無視する傲慢さをもっている。(同時に犬や畜生を人間より低く見ている傲慢さを持っている)」との指弾であったら、その代理糾弾は傲慢なのであろうか。私の疑問である。


片手落ち 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月 4日(水)20時15分32秒

いまさらですけど、
「片手落ち」は、「片手・落ち」ではなくて、
「片・手落ち」ではないでしょうか。
「片手・打ち」とは別の言葉かと思うのです。
広辞苑は、どちらも載せていますが。

同じく「片手間」は、「片手・間」ではなくて、
「片・手間」だと思います。

手のない方を連想させて不愉快にさせる、
あるいは、差別することになるので、
手落ちや手間がダメとなると、
着手や手段などもダメということになります。
手のない方を排除することになるから
「手紙」もダメということになると、
河田光夫先生の名著「親鸞からの手紙を読み解く」
もダメということになるのでしょうね。


差別論雑感 投稿者:愚っ朕  投稿日: 4月 4日(水)19時57分21秒

 人は言葉をやりとりしているのだけれど,
それは決して絶対に動かしえない客観的世界とかを
写し取っているのではないと思う。
 言葉をやり取りすることによって不断に共通
世界を創り上げているのだと思う。それによって
人がそれぞれに生きる力を育む「希望」や「愛」
を生み出すのだったらいいのになあとも思う。
「憎悪」や「不幸」を残念ながら創りだすことも多いのだけれど。
 で,私が批判したのは大願さんが引かれた基幹運動中央教師の発言です。
これはもう,明確に「糾弾」であったようですし,しかも私が言う
代理糾弾ではないかと。最初の布教師の方の発言は私も確かに不適切な
用語,発言,例えであると思う。しかしそれは,どこに問題点があるか
誠意をもって話し合われるべき問題だと思う。犬食い「しか」できない
人というのは,あまりにも一面的な人間理解ではないのかと。
『五体不満足』の乙武氏は健常者といわれる人は障害者に対する
「慣れ」が必要だといわれていた。ようするに健常者や障害者という
垣根をこえるのに,障害者の方も過剰な被害者意識を克服することが
ポイントだし,健常者も「慣れ」によって彼ら・彼女らもまた
どこにでもいるフツーの人間なんだという脱聖化を必要とするのでは
ないでしょうか。被差別者といわれている人たちにも「差別の内面化」が
あってそれを克服する課題があるし,差別してしまった人にも
弱い・直視できないコンプレックスを相手に投影しているという自覚も
必要だし。だから,「群もうは打たれ強い」のでしょうし「傷つく」と
言っても「かすり傷」なんじゃないのかなあ。


今夜は酔っ払い。 投稿者:三吉  投稿日: 4月 4日(水)00時31分57秒

なんで、ますますよーわからんのだが。。。

愚っ朕氏が絡んでないのはよくわかっている。が、誰に対してのメッセージなのかがよくわからん。
差別と云ったらそれで終わるという感覚がよーわからん。
私が真宗を学んでいる契機は「差別事件」が契機なのだが。私の中では一向に終わっていない。

「ばかりやない」というのはそのとおりだと思う。「傷つく」というのはよーわからんが、
一方で不快感を感ずるものがいるのも事実かもしれない。
「ばかりでない」から、つまり受け止めが多様であるから、「不快感を述べるな」ということであればおかしいと思うのだが、そういう主張ではない様だ。
「ばかり」と一方的に根拠なく思い込むのは不遜だということなのだろうが、私はそう思い込んでいるのであろうか。何かしら的を外しているように思う。
「あんまりええ例えやないと思うよ」とのことだが、なぜでしょうか?
あの例からは、「ばかり」と受け止められるからだろうか。「もし」という仮定があるにもかかわらず?よーわからん。

議論ね。。。とことんつきあいますよ。

<三吉さんは気持ちが良くないという指摘をされただけで差別発言であると指摘した訳ではないとされているし>に対してはついでだから、クレームをつけておく。
まこ氏は私の発言が、何を根拠に大願氏の発言を差別発言とみなしたとされるのか?
それはあなたの思い込みなのではないか?
あなたがなぜ私の発言を見て、「差別発言と指摘」したと判断されたのか?
その根拠をお聞かせ願いたい。
あなたの文脈では、私は「差別発言と指摘」したのに、「感情」の問題へと摩り替えていると
読める。
もう少し突っ込んで下さい。お困りのようですが、せっかくですから。


フォローと言われても 投稿者:まこ  投稿日: 4月 3日(火)23時06分40秒

 フォローをと言われても困ってしまうのが正直なところです。
 発端の大願さんはあっさり謝罪されているし(差別用語ではないという
私の定義からすればこだわりがなさすぎるが)、三吉さんは気持ちが良く
ないという指摘をされただけで差別発言であると指摘した訳ではないとさ
れているし(私は差別用語というよりは不適切用語というべきであったろ
うが)、愚っ朕さんはその用語を使われた側に想像力をもとうと提起され
ているし(共感します)、議論としては終わりつつあるのではないでしょ
うか。
 問題があるとすれば、差別発言であるとして「差別用語」をとりあげる
方にこそ差別性があるのではないかという私の自省ですが、この考えを変
えるつもりはありません。差別発言を恐れるあまりの「言葉狩り」がいか
に日本語を貧しくしているか、それでもって現実に弱者に優しい社会が実
現されているのかどうかは疑問です。それは不適切発言ないし不適切用語
についても言えることでしょう。かといって、私自身は差別用語や不適切
用語をすべて是認している訳ではありません。
 現実に言葉でもってやりとりする以上、その発言がどこかで弱者を傷つ
ける可能性は常に存在します。強者にはもちろん批判的であるべきですが、
弱者への想像力を欠いた発言をしないように各自で努力していくより他に
ないのではないでしょうか。
 らくりんさんの期待?はどういうところにあるのでしょうか?


あんまり相手にされないのでもうやめます 投稿者:愚っ朕  投稿日: 4月 3日(火)19時27分23秒

 は〜物言えばくちびる寒し春の宵。そうです。
何も三吉さんにからんでるわけじゃないのです。
まあ、誰かがそれは差別だといえばそこで終わりというのは
本当に差別を考えることにならないという問題提起なのですが。
つまり、ここにいない第三者に失礼やないかというのですが、
どっこい名指しされた人は、毎度毎度傷つきしょぼくれている
ばかりやないということです。それこそ、人間をなめていると
いいたいのです。そんなヤワな存在やおまへんでといいたい。
あんまりええ例えやないと思うよという
発言を封じるというのではないですよ。
 私はまた、差別発言する人は自分に何かコンプレックスがあって
それを見たくない、そのよわい部分を他人に投影して自分の
アイデンティティを確保するのだと思う。だから、あやまったらしまい
なら議論は進展しないということがいいたいのだけど。


フォローせよとのことだが。 投稿者:三吉  投稿日: 4月 3日(火)08時00分46秒

考え中ですね。
「当事者性を欠く」「架空の代弁」というのは、ある意味そうなのかもしれないが、
私が、<あまり読みたい表現ではない>と感じたのは事実だし、その感じた事実からすれば、
当事者なのだ。まこ氏によるとその意識が差別者らしいのだが、よーわからん。

ただ愚っ朕氏の提起からすると、私は身体的特徴や病気をマイナス的意味を付与して使う表現に
<あまり読みたい表現ではない>と感じるにもかかわらず、すべてではなく、一部である。
同質の表現もあるものには強く反応するが、あるものには無頓着でもしかすると気軽に
私も使用しているなというのはきづいた。

明確に名指しに指摘されてないのでよくわからんが、ある種の表現に私的に、読みたい表現ではないと感じ、それを伝えるのは、鬱陶しいとのことなのか?余計の世話だということか?
「言葉狩り」なのであろうか?よーわからんが、ならばそれもまた言論封じなのでは?
まぁ、私に対してではないとのことなので、あれだが、少しずらして、それを差別表現と感じ、
代理告発して何が問題なのかよーわからん。

個人と個人の資格で為される掲示板において、それはイコール言葉狩りになるのであろうか?


遅ればせながら(亀レス) 投稿者:大悲  投稿日: 4月 3日(火)01時53分52秒

らくりんさんが、講義録についてのご自身の考え方についてお話下さっていました。
今、平野先生の講義録がどんどんでてますね。あちこちでお話くださった講義を読ませていただけるのはありがたいけれど、読むのも買うのもとても追いつきません。
けれどもこの中には、平野先生にとっては、世に出したくないものもあるかもしれない。言葉を補足したり、削除したり、世に出すなら推敲してからにしたいものもあるかもしれない。
ふと、そんなことを思ったりしました。

富山の月愛苑には、曽我先生を中心に膨大なオープンリールのテープが保存されているそうです。テープが劣化しないうちにデジタル保存するか、文字化しなくてはならない。ということを聞いた事がありますが、今はどうなっているでしょう。

生きているうちなら、加筆校正も出来ますが、死んだ後で不本意なモノが出版されたらやだろうなあ。


ありがとうございます 投稿者:らくりん  投稿日: 4月 2日(月)23時41分21秒

3日ほど留守にしてました。
いろいろとありがとうございます。

メールも入ってましたし、行きつけの掲示板もあちこちで急転回です。
とりあえず、一回りして、テキストにはりつけて回っただけでまだ読んでいません。
今日はこれから、メールの返事を書いて休みます。
もうしばらく、ほったらかしになりますが、悪しからず。

愚っ朕さんの問題提起、大事なポイントだと思います。
まこさん、大願さん、三吉さん、もうちょっとフォローが必要なのでは
ないかと思います。


やはり未入荷でした 投稿者:まこ  投稿日: 4月 2日(月)16時57分41秒

平和シンポジウムの後に法蔵館に寄ってみたけれど、まだ並んでいませんでした。出版社は出ているそうけどネ!


私が刺激を受けた本 投稿者:愚っ朕  投稿日: 4月 2日(月)00時36分16秒

 放送局では○○屋という言葉もダメだそうで。都はるみは自分を「歌屋」とよび,
椎名林檎は「新宿系自作自演屋」と名乗っていますが。成駒屋!もたま〜屋〜も
あかんのかいな。
 いつから,親鸞さんのみ教えは「差別者の自覚」になってしまったので
しょうか。らくりんさんの本もいいですが,私の推薦図書をあげさせて
もらいます。
『弱者とは誰か』小浜逸郎・著 PHP新書
『ちびくろサンボよすこやかによみがえれ』灘本昌久・著 径書房 


え?もう終り? 投稿者:愚っ朕  投稿日: 4月 2日(月)00時28分21秒

>この言葉に付いて、基幹運動中央教師から、「それは、犬食いしかできない人にたいする
>差別発言である。」と糾弾を受けられました。
>布教使は差別意識ではなかったのですが、気づくひとには気づきました

 「中途半端はやめて」という歌を奥村チヨが歌っていましたが…
私はちなみに交通事故で脊髄損傷になり,首から下が動かない中途障害者の
おにいさんの介護をやって四年になるのですが,ためしに「この言葉で
あなたのことが引き合いに出されていて,侮蔑されていると思う?」と聞いて
見ました。彼の返事は「ノー」です。哲学や文芸評論をされている在日二世の
竹田青嗣さんはこのようなケースを「架空の代弁」という言葉で表現されていますが。
以前のカキコで「当事者性」という言葉を私は使いましたが,これは自分が
その立場にいるという意味ではなく,自分の直接経験と意識に問い訪ねるという
方法です。(つまり竹田さんのいう「現象学」の方法ですが。)
 水戸黄門の印籠じゃあるまいし,「これは差別だ。傷つく人がいる」などといって
鬼の首を取ったみたいにいう輩に対しては「おのれが差別しとるんじゃ」といって
やりたくなります。自分がひとりで食べれなければ「介助者の力を借りて食事をする」。
そういう生活者をさして「犬食いしか出来ない人」とはなんと想像力の欠如した教師か!
ええ加減にせんかい!そんな理屈が通るならいまや,アニマル・セラピーといって
ワンちゃんが活躍しているし,ペット・ロス症候群という長いあいだ生活をともにして
家族同様となったワンちゃんを亡くしたことによって精神的ショックを抱く人がいる時代
です。「犬食い」とか「犬死に」という言葉も愛犬家にとって「差別発言だ」という
ことになりやしませんか?


名古屋のマナハウスで購入しました。 投稿者:悲心  投稿日: 4月 1日(日)20時14分46秒

早速、第二十一講を読み終えました。
私は、正直いって「読み解く」というタイトルに自力的な感じがして、おこがましいのではないかと思っていました。
しかし、化身土巻に関しては、真・仮・偽を読み解いていかなくてはならないと、タイトルの意味がわかってきました。宗祖の教えをここまで読み解いている本もないと敬服しました。
私も、教行信証・真仏土巻の方で、らくりんさんに負けないように(笑)頑張ります。
これから先が楽しみです。


法蔵館には未入荷 投稿者:まこ  投稿日: 4月 1日(日)18時21分37秒

今日からの法要と東西共同行動運営委員会への参加を目的に京都に来ましたか、法蔵館にはまだ並んでいなくて明日が発売予定らしいので入手できるかどうか?


同時購入した 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月 1日(日)00時29分38秒

宮内勝典「善悪の彼岸へ」を先に読んでいます。
オウム真理教の批判です。
作家が書く文章なので、読みやすく、文体に情緒があります。
「親鸞の教行信証を読み解く」5の基礎知識にもなると思います。


『親鸞の教行信証を読み解く』第五巻 投稿者:Vita  投稿日: 3月31日(土)23時18分58秒

最終巻の出版に心からお祝いを申し上げます。
そして、この本を書いてくださったことに心から御礼を申し上げます。

4月5日より、拙掲示板にて、第五巻を読みすすめます。
読者の方々のご参加を、呼びかけます。

らくりんさん、本当に、ありがとうございました。

http://www.tcup4.com/444/masaho.html


親鸞の教行信証を読み解く5巻 投稿者:しん  投稿日: 3月31日(土)16時30分48秒

本日、届きました。5巻全部が無事に世に出たこと、とくにこの第5巻が
出版されたことに何とも言えない感動が。
これからが顕浄土真実の始まりでしょうか?


「親鸞の教行信証を読み解く」5 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月30日(金)22時17分30秒

↓明石書店のホームページで目次が読めます。

http://www.akashi.co.jp/ASP/details.asp?isbnFLD=4-7503-1406-4


書き込みの謝罪と取り消し 投稿者:大願  投稿日: 3月30日(金)14時11分29秒

不注意な書き込みで、皆さんに御迷惑をお掛けしました。
「片手落ち」という言葉に、傷付く人々がおいでなのは事実です。
お詫びして、取り消させて頂きます。

本山のおあさじで「犬食い」をテーマにして、【子どもに「両手も指も総てあるのに、
茶碗を置いたまま、箸を使わず犬食いをするものでない。それでは畜生と同じ。」と、
自分の子どもをいつも叱っている。】という言葉がありました。
この言葉に付いて、基幹運動中央教師から、「それは、犬食いしかできない人にたいする
差別発言でる。」と糾弾を受けられました。
布教使は差別意識ではなかったのですが、気づくひとには気づきました。
恥ずかしながら私も指摘されるまで気づきませんでした。
言う方は、水に描くごとき軽くすぐ忘れるがのだが、聞いた方は石に刻むごとく深く重く
傷付くことを忘れてはならないと、肝に銘じた筈なのに、申し訳ないことでした。

以前、「啓蒙」について、この掲示板で指摘しておきながら、自らが同質の過ちを犯して
いることに、弁解の余地はありません。

研修会の参加資格云々について、私もこれ以上継続せず、最後の書き込みとさせて頂きます。
らくりんさんのおっしゃる「『阿弥陀経』を聞く大衆」の一人として、耳をダンボにして
靖国思想と親鸞思想についての学ばれている方々のやりとりをお聞きしたかったという、
ただそれだけのことであったことを最後に付け加えて。これをご縁がなかったからと、
泣き寝入りするのでなく、このこと自体を親鸞思想に問いたく、書き込みました。
教務所の担当者は、いつも前向きに対応してくださっている人と言うことを存じ上げているだけに
余計残念であったわけです。
これが見ず知らずの初対面の方であったら、また違った対応もあったかも知れませんが
「れば」「たら」論になるのでやめます。彼の逡巡は、いままでそうした研修会に
外部から申し込みがなかったことで、後出し条件など様々にボタンの掛け違いが
始まったのではないかと、いまになって思われます。今後の対応が後退(閉鎖)でなく、
前進(開放)の方向へ進んでくれることを念じます。
釈尊が「阿弥陀経」を説かれた、あの手法は実に民衆に真実を伝える有効な方法でした。
若き僧侶達が、自らも進んで聞法しようというその姿勢を、実は門徒も、まして部門外の人は
知りません。たまたま知ってしまって、たまたま聞いて、そこに一つの真実が、一人の傍聴者へ
奇しくも伝わっていくこともあっていいのでは。高い席から建前の法話だけでなく、
(らくりんさんの法話はそうではありません。念のため)
「これは別の席で詳しく」と知ってしまったら、それこそ耳ダンボになってしまうものです。
本来真宗の道場とはそんなところではなかったかと。
「聞け聞け」と勧める僧侶の多くが聞いていない現在の東西宗門の中にあって、
今回の研修会の企画自体は大いに賛同しますし、それをひっぱて来られたスタッフの方々の
ご苦労を知っているだけに、今後も賛同し続けていきたいと思います。


∞√☆☆★★☆☆〆 投稿者:松田 幸造  投稿日: 3月30日(金)05時54分55秒

 あそびが、クラッチでは、必要ですね。オウム(電気抵抗)


らくりんさんへ 投稿者:松田 幸造  投稿日: 3月30日(金)05時47分02秒

 蛍さんどうしているのでしょうかね。蛍さんにした 法話 の法がありがたいのですがね。
どんな紋でしょうか?。


らくりん@管理人 投稿者:らくりん  投稿日: 3月29日(木)18時12分02秒

月末から、4月の中旬頃までバタバタいたしますので、
あまり書き込めないかも知れません。
ご自由に、ご活用下さい。


お待たせいたしました。 投稿者:らくりん  投稿日: 3月29日(木)18時08分18秒

『親鸞の教行信証を読み解く』第五巻が仕上がりました。
私の方へご注文いただいている方は、早ければ明日(3月30日)
遅くとも明後日(31日)には届くと思います。
  前回のような、間一髪の回収騒ぎがなければですが……(∞;)。


自問自答 投稿者:愚っ朕  投稿日: 3月29日(木)09時55分06秒

 えー言葉はやっかいなものですねえ。ということはそれを
使用している人間がやっかいなものなのですが。
 まー三吉さんとこの掲示板に私自身は「骨粗しょう症」なる
言葉を使って,ある方の信の姿勢を揶揄したのですが,
これに「群もうは打たれ強い」と自ら言われる方が
「あざけり」を受けたとこの掲示板でいわれています。
「骨粗しょう症」で困っておられる方を引き合いに
出して例えるというのはほんとよくないですね。
 でも信の姿勢を例えるのに「おんな・こども」は
黙ってひっこんどれみたいな例えを使うのもあまり
気持ちのよくないものだ。で,また自嘲のことばで
自らを「アホ」と例えるのは果たして「知的障害者」
や「精神障害者」を侮蔑することになるのかな。
むずかしいところです。


新しい教団構想を創出する会の新刊本 投稿者:まこ  投稿日: 3月28日(水)23時08分18秒

 思わぬ一言にひっかかって、かっての過敏になっていた私を思い出して
失礼しました。
 本来は、以下の本の紹介をしようとしていたのにすっかり忘れていて、
オフラインで用意しておきます。まだ全文を読了した訳ではないので、単
なる紹介で申し訳ありません。
 「新しい教団構想を創出する会」では、これまでに2冊の本を発行され
てきてきていますが、昨日、3冊目の『いま、五濁悪時悪世界 群生の責
任と使命を問う』が送られてきました。もくじは以下の通りです。

開会挨拶・・・・・・・・・・・・「娑婆を諦める運動論」 西寺 英麿
基調報告1・・・・・・・・・・・・誓の教団、願の教団  梶原 敬一
基調報告2・・・・行動する仏教−アジアの念仏者に学ぶ  尾畑 文正
基調報告3<摂取不捨の論理>と<選別・排除・強制の論理>藤場 俊基
座談・討論
編集者統一テーマ所感・・・・・・・・・・・20世紀に書き遺すわが信心

 なかなか刺激的な本で、当然、藤場さんは大幅に手を加えておられます。

 単価は1000円(送料別)で、連絡事務局は西寺さんになっています。

 〒515−0501 伊勢市有滝町2075−2 本覚寺内
 tel&fax 0596−37−3462   さいじ英麿


割り込んじゃおっ〜 投稿者:愚っ朕  投稿日: 3月28日(水)18時35分08秒

 「片手落ち」との表現ですが,大願さんがまず使用され,
それを三吉さんがあまりいい思いはされないと表明され,
まこさんがそれは別に差別的な表現を含んでいないのでは
ということのようですね。
 三吉さんにまずお断りしますが,三吉さんが「代理糾弾」
をしているという含みはありません。そこで話しを進めます。
で,まこさんがおっしゃりたいことは,なんとなくわかります。
(私の理解のおよぶ範囲で)
 Aさんにとって,Bさんが使用した言葉が不快である時
踏まれたものは「痛い!」といえば踏んだものはすみませんといって
あやまると思います。で,痛いということを表明できることが
充分に保証されるべきです。でも,たとえば私の知り合いに
片目がほとんど見えない知人が「「めくら」は私にとって
差別語ではない。それは目が暗いという意味から来ている。」
といってましたが,私はやはりその言葉には侮蔑的表現が込められた
歴史があるから普段は使いません。
 しかし,その知人と私が気のおけない関係で,また彼も私の
ある特徴をさす差別語をつかって「ふざけあう」時はたまにある
ものですが。
 けれど,大谷派で修練を受けた人と話している時に,私が
「おれは部落差別なんかせえへんけどな」といったら
「自分がしているにもかかわらず自覚がないことが問題なんや」
と機責めみたいなことをいわれたことがありました。
 しかし,私はある被差別部落出身の女性とつきあっていたことがありましたが,
彼女に「被差別部落出身」だという特別の気持ちなんかはいだいてはいませんでした。
あらゆる差別を私がしていないといってるのではないにもかかわらず。また,
彼女に惚れた弱みで特別に見える(他の被差別部落出身者に比して)わけでもありません。
このような「代理糾弾」は当事者性を外したもので「もうええ加減にしてえな〜」という
ことがあります。まあ,当事者でなくとも知人や親戚に当事者にあたる人がいて
義憤を感じる場合もあるでしょうが。時に「なんであんたにそないいわれんな
あかんねん」と思う時もあるような今日この頃です。


補足 投稿者:まこ  投稿日: 3月28日(水)03時36分49秒

 片腕のない方が「片手落ち」という表現に現に不快を感じておられるのなら、そのことを
否定することはできません。そのような実例に私自身は遭遇していないことの不明を恥じま
す。
 一方的で片よっているということについての適切な表現がありましたらご教示下さい。


差別と感じることの差別性 投稿者:まこ  投稿日: 3月28日(水)03時27分55秒

「片手落ち」を不快と感じられることは三吉さん自身がが感じられることがらですから、それを
とやかくいうのは筋違いと言われればそれまでです。三吉さんが「片手落ち」表現を不快に感じ
られる理由として、片手が欠損した方がそのことでもって不利益を被ることになる場合のあるこ
とに限らず、そもそも「片手落ち」になること自体が望ましくないという意味でしょうか?
私自身の差別性に気がついたというのは、身体的な特徴でもって人を差別することを無理に意識化
して、語源的に差別性をもたない「片手落ち」を過剰反応して差別用語として糾弾していたことに
気がついたという意味です。「片手落ち」による差別を実体化していたということになり、厳しく反省しているところです。


まこさんへ質問。 投稿者:三吉  投稿日: 3月28日(水)00時49分34秒

<それと「片手落ち」というのはあまり読みたい表現ではありません。>との感想を私が懐き、その感情を書くのになにか問題はありますか?
別段、私は「差別用語」だとも「差別用語だから削除せよ」とも言ってません。

反論とのことだが、例えばもし私が「隻腕」の者で、「隻腕」ながら健常者に伍して
日常作業をしている自負があり、語源が「片手打ち」にもかかわらず、今や「片手落ち」と
なっていて「隻腕」を私にイメージさせ、その意味が「配慮が一方にだけかたよること」ならば、
それを見るたびに自尊心を傷つけられるとしても、語源的にいうと問題のないので使うとあなたは
言われますか?

あるいは、もし私が「隻腕」で、健常者と同じに作業はできないが、そのことを不便だと思っていても不幸だと考えていず、これは私の個性と思っている場合、「片手落ち」=「配慮が一方にだけかたよること」という意味に使われることに、不快感を感じ表明したとして、何が問題なのでしょうか?

つまり、あなた「片手落ち」という表現に不快を感ずる「隻腕」の者に対しても、その言葉は語源的には問題ないということを正当な理由として堂々と使われますか?

あなたのお気づきになられた「自身の差別性」とはなんでしょうか?


片手落ち 投稿者:まこ  投稿日: 3月28日(水)00時11分53秒

広辞苑によると”配慮が一方にだけかたよること。かたてうち。「−な判定」”
とある通り、差別用語ではありません。語源は剣道の型にあると聞いています。
反論があればしてください。(私も一時期、差別用語だと思っていた時があり
ましたので、思い違いというか、私自身の差別性に気がついたのは最近のこと
です)


もう一つ 投稿者:らくりん  投稿日: 3月27日(火)10時57分59秒

講義録については、たいていの場合はそのまま不特定多数の方に配っていただいても
かまわないようなものですし。今回のものも、大願さんに読まれたくないわけではあ
りません。もしそれが回収されなかったとしても文句を言うつもりはありません。

ですから、研修会参加者に配付する資料として作成配付することに同意したつもりで
すから、厳密に聞いていたかいないかということにそれほどこだわるわけではありま
せん。絶対門外不出と確約せよというようなものではありません。
こんなことは、あらためて言うまでもないのですが、その約束にどの程度配慮して運
用していただくかについては、またそれがその後どういう形で使われることになって
いくかについてもとやかく言うつもりはありません。
研修会の参加者がコピーして、友人に渡すとかそういうことがあることはあるかも知
れない程度のことは思っています。

しかしながら、一般的な意味でのテープ起こしから生ずる問題もありますが、
私は、時にいろいろな意味で軽はずみなことを口走っていることがありますので、
(うろおぼえの引用をしたり、出典をまちがえていたり、講義会場のような閉鎖空間
の話題としては許されても活字にすべきではない特定の個人の名前とか、活字にまで
はしたくないプライベートな話題とか……などなどです。そういうことは言わなけれ
ばいいのかも知れませんが、口が動いてしまうときもあります)
そういうことをチェックしないまま、広く出回ることには「こわさ」を感じるのです。


この出来事への思い 投稿者:らくりん  投稿日: 3月27日(火)10時23分03秒

できれば、私の方からは今回の出来事に関する書き込みはこれで最後にしたいと思います。
(展開次第ではそうならないかもしれませんが)

いろいろな経過を経て、感情的なやり取りになってしまったのですから、
大願さんの、腹の虫がおさまらないという気持ちはわからないではないですが、
それに何よりも、そこまでして私の講義に関心を寄せて下さった気持ちは
私としてはとても有り難いことです。
そのことに対するお礼を述べるのが遅すぎたかも知れません。

お断りしておきますが、(後だしぎみですが)
私個人の判断と、教務所職員の判断は違っています。
しかし、職員の判断は私には許容範囲内です。
このような場合は私としては求められない限り口を挟むことは差し控えるようにして
います。
最初の場面で、大願さんは私に対して聴講の許可を求められましたが、私は自分では
お応えせずに、その場にいた職員に尋ねるように促しました。その時点で、私はどん
な判断が下されても、それを受け入れるつもりでした。

最終的な結論が、好判断・好対応だったというつもりは毛頭ありません。かといって
それを全面的に否定し、その後の仕事をキャンセルしようと思うほど、ひどい判断だ
とは思わないということです。
これまでの発言は、私が、彼の判断を許容できる理由を述べたつもりです。

自分の意にそわない判断を下した者に対して、一方的に裁断し執拗にその非を責める
のを見るのはあまり気持ちがいいものではありません。
大願さんは「当然のことをしているまで」だと思っていらっしゃるのかも知れません
が私には、「そこまでおっしゃらなくても」という思いがあります。

こういうやり取りを始めてしまうと、大願さんの発言の目的が「らくりんの講義を聞
きたかった。前回の講義録を読みたかった」という、おそらく当初はそうであったで
あろう思いが雲散霧消してしまい、教務所職員の断罪にかける執念ばかりが浮き上が
ってきてしまいます。
後者にエネルギーを注ぎ始めた今となっては、すべては興ざめして、後戻りは難しい
かもしれませんが、とても残念なことです。

感情を害されてしまった大願さんには、まことに申し訳ない結果になったと申し上げ
る以外に言葉はありませんが、その一方で私としては、この問題提起は今回の研修ス
タッフにとってはとてもいい課題・教材を投げかけて下さったと思って、感謝したい
くらいです。
なぜなら、うまくいった企画や運営からは学ぶことはあまりありませんが、
失敗やトラブルからは学べることがいくらでもあると思うからです。
そして、この研修会のスタッフたちはそれができる、あるいはしていこうとできる
人たちだと期待しています。
これは私の勝手な思いにすぎませんから、大願さんにははた迷惑な話でしょうが、私
はこういうことの全体が研修になっていってほしいと考えています。


大願さんへ 投稿者:三吉  投稿日: 3月27日(火)07時57分22秒

傍聴とか聴講という形の「(募集基準にあてはまる)正式な受講者」としてではない参加希望であれば、職員としてももう少し違った対応はできたかも」というのは、一つには、これが、例えば大願氏でなく私であれば、「拒否されたあと」の対応とかねばりの差異にあります。貴兄はそこで怒られて、粘り強く抜け道を探さなかった。若い宗務役員の「だめ」という意見を逆に言うとまじめに聞かれた。私ならば、もっと話しの分かる担当者を探したかもわかりませんし、ずるして、だまってもぐりこんだかもしれません(笑)。ある意味、貴兄は真面目すぎます。それはいけないことはないのですが、真面目と真面目がぶつかるから揉めてしまうのかもしれません。

講義録に対する講義者の頑固な姿勢は一般原則としては、ありえます。私は何度か別件でテープ起こしをしたことがありますが、「あら起こし」の時、いつも感じるのはそのまま起こすと、文章にならんのです。「あら起こし」の時にも「編集」を入れます。講義者の生の声から変わりますから、「げら」を講義者にチェックを必ずして頂いてから、印刷物にします。それはある意味当然のことです。ここでの問題は、「講義者の頑固な姿勢」ではありません。取り上げた担当者が、講義者に内緒であなたに渡したままにしなかった「真面目さ」です。それは「内部の論理」としては「責任感ある」「褒められるべき」ものですが、外部にたいしては「がき論理」です。なぜならば「内輪の都合」を、外部に押し付けたからです。外部よりも内部の論理を優先した点です。つまり、受講拒否した者の気持ちよりも、講義者の気持ちを大事にした姿勢です。

それと「片手落ち」というのはあまり読みたい表現ではありません。

「これが本音で、あれこれ後付けの理由をつけているのではないですか?
門徒や外部のものは、「寝ていて欲しい」というのが本音で、いかに眠らせるかを
談合しているのではないかと勘繰りたくもなります。」
とのこと邪推だと思います。私は大谷派そういうことは感じないですね。
眠り込ませたかったら、教区はらくりん氏を講師に選ばないと思います。


つづき 投稿者:三吉  投稿日: 3月27日(火)07時56分03秒

<その後参加資格がないことがわかり参加を拒否された>のは身内の都合です。申込者は、申し込み受理者を「参加資格」に関して騙して、偽って申し込んだのではない。申し込み受理時に確認しなかった担当者の「不手際」です。
担当者の立場に立てば「受理しようとした」点は、褒められるべきだと思いますが、「やっぱりだめだ」と結論した時点で、それで申込者を拒否できると考えた点に「甘さ」があります。あまっさえ、講義者のスタンスから来る「レジュメ返却」まで強要したのは、やりすぎです。それは、主催者側の都合にしかすぎません。自分らの都合だけを押し付けようとする点が甘いし、それを納得されずに感情的になられたのに、問題ないと思い込める点が世間の感覚とずれてます。
断るならば断るで、担当者は、理解を求め、謝罪し、納得してもらう必要性があるはずです。
私は営業マンですが、一旦お客さんの要望を受理して、断らざるえない状況の時に会社の内部基準だけならば、内部基準を曲げるように上司を説得します。内部基準外の外的条件ならば、これは、おそらく私は上司を連れての詫びと、最悪の場合は、申し込み金の倍返しが普通でしょう。つまり、「怒り」を解くことに全力をそそぎます。
それと相手が大谷派の身内ならば、「ごめん。やっぱ参加条件満たしてないから今回遠慮して」で通るのかもしれませんが、まったくの一般だからこそ、もっと慎重に対応すべきだったのかもわかりませんし、内部にだけ通用する論理を外部に押し付けようとする点の不明をもっと恥ずべきでしょう。
「なぜ怒れるか」ということにもっと注目していただきたいと思います。


雑感 投稿者:三吉  投稿日: 3月27日(火)07時55分47秒

大願氏と研修会主催担当者側代弁者との情報が錯綜しているので、事実がどうであったか、私には不明確であるが、大願氏側からすれば、<この事をわかりやすく言えば、「研修会に参加を申し込んで、一旦は参加を許されたがその後参加資格がないことがわかり参加を拒否された。講義録も返さざるをえなくなった。」ということですが。このことに関しては、何か問題があるのでしょうか。>等といわれたら、怒られるのは御尤もだ。問題があるから怒られているのです。
断わられた方からしたら<一旦受理されたにもかかわらず、後出しで条件はこうだからと拒否されたのです>で、講義者は<自分の都合で非参加者には講義録を配られることを拒否してます>が、その論理を一般の場合にいうのは講義者の思想的立場なので問題ありませんが、こういう特殊な場合でも研修会主催担当者側を代弁されることを目的にだされれば、「がきの論理」であって「大人の論理」ではない。坊主社会では学生のような青臭い「論理」がまかりとおるのかもしれませんが、一般社会で糊口を凌いで者からすれば「がきの論理」に思えます。
代弁者方は「一旦受理」したという既成事実を軽視し過ぎです。はじめから「資格を条件」に拒否していたら問題は起こらなかったのです。
ですから代弁者の一人が云われたように、担当者が逡巡もあっただろうが、「参加していもよい方向でものを考え、一旦受理した姿勢」は、「真宗」からすれば、褒めてよい姿勢です。で、この姿勢が不幸にも貫けなかったところから、問題が惹起しているのです。
一般に非門徒さんが、何気なく大谷派系の聞法会に参加すると、まず受付で「どこのお寺さんですか?」と聞かれ、坊主じゃないというと、「どこのお寺のご門徒さんですか?」と聞かれます。受付にはまったく悪気はないのですが、これは聞かれる方は自分の立場説明するのに、途方に暮れたりような感情を懐いたりします。うまく言えませんが、これを非常に嫌がる非御門徒さんは多いのです。何か門徒じゃないことを責められているような気分になるものなのです。
と説明してもお坊様方にはこの心情は伝わらないだろうと思いますが。(私の場合は、大谷大学OBです。といえば受付は納得されますので、特殊です。ただ、従兄弟が西で坊主をしているのですが、東の末寺の娘さんと結婚されたおり、聞法会でよく顔を合わすお坊さんもご出席されていて、ご挨拶したところ、「なるほどね」と云われておりましたので、「寺族」意識というのはまことに深いと感じた次第です)
さて、非門徒という何かしら「うしろめたい」心情にさせられる雰囲気が明確にはではありませんが、ちらほら感じさせられる環境下で聞法に参加されている中で、「受け入れ」て貰ったら、喜びます。一旦受理されたという「喜び」にあるものが、「拒否」されたら一転して地獄に突き落とされような気分になるのは当たり前です。この地獄は、色々と「邪推」を生みます。当たり前です。しかも、「参加資格」は「後出し」です。その上「お西のご門徒さん」でしょうとは、わざわざわざと神経を逆なでしているようなものです。「排除の論理」と感じるなという方が無理でしょう。で、代弁者の一人は、後から「参加条件がないとわかったのだから問題ない」と、私にはどうも火に油を注いでいるようにしか見えません。


ootuboさんへ 投稿者:大願  投稿日: 3月27日(火)02時00分37秒

>このことに関しては、何か問題があるのでしょうか。大願さんを拒否するように参加資
>格を新たに設定したのなら問題ですが、参加資格は当初のままであります。

当初参加資格など聞いていません。私は傍聴のみを申し入れたのに、正式でなければ駄目と
頑なに申込書を書かせたのは教務所です。「らくりんさんへ」で書いたとおり、最初から
彼は私が大谷派僧侶でないことは知っていたのに、正式受理したのです。
この時に連続参加が条件とも聞かされていません。すべて公開講座が終わって帰る時に
聞かされたものです。

>私へのレスなら、大願さんと岡崎教務所との口論の内容は取り上げていません。
ootuboさんへのレスではありません。スタッフ会で教務所がスタッフに説明したくだりに
対してです。ootuboさんは私と教務所の口論を最初から最後まで聞いて居られたのですか?
松の廊下の裁定のような片手落ち裁定をされていることには異論が勿論ありますが。

>私は教務所を身内とは思っていませんし、大願さんを部外者と思ってもいません。
これって、差別者が被差別者に対して使う常套句ですよね。
自分は差別(排除)されない安全地帯で、論説委員的に奇麗事を言うのって。
教区の僧侶が、教務所と密接な利害関係にあることは自明ですよ。

>何とかわかってほしいように話していましたが、大願さんは感情的になっていて、対話が
>出来ていないようでした。
だから、そこまで行く話の経緯を十分確認されてからそうした裁定を下してくださいな。
少なくともootuboさんは公開講座に遅刻して、休憩時間に私が申し込みした時の経緯には
まだ教務所に来ていなかった人が、どうして一部始終わかったようなことが言えるのですか。
その手で「極楽を見てきたように嘘を言」って、法話もしているのですか?


らくりんさんへ2 投稿者:大願  投稿日: 3月27日(火)01時28分21秒

講義録の件、一部は、らくりんさんのおっしゃる通りです。
それは多くの講師の方々が異口同音におっしゃることです。
ですから、直接聴聞や面授の形を取ることが重要であるというのも解ります。
よくらくりんさんが、親鸞思想さえ様々な捉え方で、さまざまな親鸞が
伝えられていることを、あの差別ビラ事件をひいてお話しされている通りです。
確かに様々な親鸞像が行き交っていますね。
しかし、今回の講義録の場合はちと違うのでは?。
らくりんさんの懸念を末とおらせるならば、仮に大谷派の僧侶であっても、少なくとも
第1回の席に居なかった人には配布すべきではないし、遅刻者にも早退者(そういう人が
いる、いないは別にして)にもやはりニュアンスはつたわら無いわけですから、
配布できないはず。
らくりんさんの場合だけでなく、世の中には講義録なるものはたくさん出回っています。
勿論正式な出版物になったものは講師の許可のもとに発行されていますが、講師以外の
第三者の個人から個人へ渡されることも頻繁にあります。
テープのダビングもしかりです。テープでもその場の雰囲気は伝わりにくいものですが、
これも一般に行われています。岡崎教務所ではテープの貸し出しを行っています。
講義録もテープもまた出版物さえも完璧に発言者の意図を伝えることなどできません。
できないけれどそうして仏法に遇う機会があればそれが出発点であっていいと思います。
聞き間違い、思い間違いを恐れて何もしない、やらないのでなくそこに誤解曲解があれば
お互いに確かめ合っていくことが僧侶、門徒を問わず必要な営為では?
それから、忘れていましたが、僧侶もまた一門徒ではなかったのですか?
聞き間違いかもしれませんが、そんなことも聴いたことがあります。
僧侶が門徒でなくなった時から、真宗は親鸞の真宗でなくなったのですね。
いずれにしても一度渡した講義録を腕ずくで取り上げることが、御同朋のとる
やり方でしょうか?


らくりんさん 投稿者:大願  投稿日: 3月27日(火)00時54分53秒

>ただ、傍聴とか聴講という形の「(募集基準にあてはまる)正式な受講者」としてで
>はない参加希望であれば、職員としてももう少し違った対応はできたかもしれないと
>推測しているだけです。
私は最初、傍聴とか聴講という形で申し込みました。それはらくりんさんもご存知では?
それに教務所のOさんとは昨年、靖国研修会(?)で大阪堺市の「世界こども人権センター」
へもごいっしょし、私がお東の僧侶でなく西の門徒であることも重々ご承知のはず。
教区通信寄稿も頼まれ、寄稿もしましたので。
正式なメンバーとして登録し、連続研修を強要しようとしたから、話がこじれたのです。
大谷派僧侶と認めろなどと誰が言いましたか?
そうではないから末席で聞かせてもらうだけでいいという申し出であったことを
再度繰り返します。


大願さんへ 投稿者:ootubo  投稿日: 3月27日(火)00時13分40秒

今回の大願さんの発言に対して私が思ったことを発言させていただきます。
まず、大願さんが夜の研修会に参加できると聞いて、私は喜んで前回の講義録をお見せいたしま
した。そして、参加されるなら講義録をいただくように助言もしました。そして講義録も手に入
りましたが、その後大願さんは参加できなくなって、講義録も返すように要求された。
この事をわかりやすく言えば、「研修会に参加を申し込んで、一旦は参加を許されたがその後参
加資格がないことがわかり参加を拒否された。講義録も返さざるをえなくなった。」ということ
ですが。このことに関しては、何か問題があるのでしょうか。大願さんを拒否するように参加資
格を新たに設定したのなら問題ですが、参加資格は当初のままであります。

靖国は強制されるですが、伝道研修会は任意参加ではないですか。このことはらくりんさんが述
べられているので他も含めて発言は控えさせていただきます。

>私との口論の内容を次回4月欠席のみを取り上げて、後は不問にしていることがよく解りません。
私へのレスなら、大願さんと岡崎教務所との口論の内容は取り上げていませんのでご確認を。

>>大願さんは感情的になっているようでしたし、
>>教務所は何とかわかってほしいようでした。
>身内に甘く、部外者を裁定していませんか?
私は教務所を身内とは思っていませんし、大願さんを部外者と思ってもいません。
私は第三者として冷静に判断したつもりです。
逆の立場で教務所が感情的になっていて、大願さんが冷静に理解し合えるように話されていたな
らそのように発言しました。
身内に甘いとはどういうことでしょうか。
この場合、身内に甘いことで何か利益でも、また不利なことを守ることがあるのでしょうか。
また私が発言した趣旨は、大願さんが自分の都合のよいことのみを書き込まれたからです。
教務所とのやり取りを、公平に書かれたら納得できたのですが。
私が少し離れたところから、大願さんと教務所とのやりとりを第三者として見ていて、教務所は
何とかわかってほしいように話していましたが、大願さんは感情的になっていて、対話が出来て
いないようでした。相手を尊重し、認め合えばその場で解決したであろうことを、何故その場で
理解しようとせずにインターネットの場に持ち出したのでしょうか。怒りにまかせては相手を傷
つけることしか出ないのではないでしょうか。                 称名念仏


言葉に対する畏怖と敬意 投稿者:らくりん  投稿日: 3月26日(月)12時04分10秒

講義録の非公開については
>内輪のみの秘め事ということですか。大谷派僧侶以外には漏れては
>困ると、まして門徒なんぞには漏れては困ると?
はっきり言いまして、自分の講義のテープ起こしが生の形で講義を聞いた人以外に
伝わることは、私はいやです。
常々この掲示板でも書いているように「受け手には誤解する自由がある」と考えてい
ます。大願さんが、今回の書き込みで大願さんが私の講義内容として紹介されている
ことも、すべて大願さんの「理解」を経由したメッセージです。そのことは、この掲
示板の読者においては、説明する必要もないほど当然の文脈として通じていると思っ
ています。
しかし、この掲示板の文脈と切り離して、大願さんが、「らくりんは講義でこういう
ことを言った」と印刷して配ったとすれば、それは大願さんのバイアスがかかった言
葉であることがどこまで伝わるかわかりません。講義録は、「引用」ではありません。
引用は書き手の責任においてなされますが、講義録はすべて話者の責任になります。

話を聞いた人でも本を読んだ人でも、自分の理解しやすいように理解し、自分の考え
に都合のいいように受け止めることは避けられません。そのままのテープ起こしとい
っても正確なテープ起こしになっていないこともあります。誤字脱字のたぐいの単純
ミス、それもとんでもない当て字になっている場合、もありますし、聞き間違いや聞
き取り者の思い込みに起因する間違い、趣旨の要約や予断として一部がカットされる
ような編集が加わっている場合もあります。

仮にそうしたミスや意にそわない改訂がまったくなかったとしても、まだ問題があり
ます。
講義のお話で、受け手の表情やしぐさに現われる反応を見ながら話している、そして
聞いている方も私の表情や間、板書など言葉以外の情報を得ながら聞いている言葉、
講義は対話です。その対話の中で発せられている言葉と、言葉以外の情報が遮断され
た中で表現されている活字情報や電網上の表現では自ずと意味が違ってきます。
同じ言葉でも、にやにや笑いながら言った場合と、真剣な表情で言った場合では、生
じるメッセージは正反対になる場合があります。講義録ではそれは単なる文字として
しか現わされません。
講義の現場ではそういう多様な伝達手段がトータルされてメッセージが伝わります。
私も、その場の文脈と切り離してしまえばぜんぜん違う趣旨なる「不穏当」と受け取
られてもしかたがないような表現を使うこともあります。しかし、そういう場合でも
その場で聞いている人には全体として、私が言いたいことの趣旨が伝わるように話す
ことに努めているつもりです。
ですから、不特定多数の人に手渡される場合は、私はやはり自分で納得のいくまで加
筆訂正をしたいと思います。時には講義で言ったことを削除したり、言っていないこ
とを付け加えたりもします。講義録と言うよりも書き下ろしに近いものになってしま
うこともあります。
ですから、私にとっては顔が見える関係で行なわれている講義と、非言語情報と分離
された表現物である講義録はぜんぜん別物です。講義録の公開には講義録としての表
現形態を整える必要があると私は思っています。少なくとも私の話は、話した言葉を
そのまま文字にしてしまっても講義で伝えたいことの中身が伝わるような話し方には
なっていないと思います。これは何度か私の話をテープ起こししてもらって感じてい
るところです。
ですから、今のところ私自身が手直ししていない文章が不特定多数に手渡されること
には私は同意しません。
これは〈言葉〉というものに対する私の〈畏怖〉であり〈敬意〉であります。


「不当」とは何か 投稿者:らくりん  投稿日: 3月26日(月)11時51分50秒

あの研修会は、その基準に該当する対象者に参加を強制していたわけではありません。
私は、
「靖国の思想は、恣意的な基準によって選別し、非該当者は排除し〈かつ〉該当者に
は受け入れを強要する」ということを話したつもりです。
そして、靖国問題においては、前者の排除の部分よりも、後半の強要の部分により深
刻な問題が孕んでいます。その強要の論理がやりたくないことをやらせる、つまり靖
国問題の場合は、国民を戦争に強制的に動員する原理になっていく危険性があるから
からです。
ですから、大願さんが私の講義を引き合いに出されて仰ろうとしていることは、私の
言いたかったことの半分を引いて、ご自分の主張の根拠になさろうとしてるように私
は思います。

排除の部分が深刻になるのは差別問題においてです。
それは「正当な理由がないのに、正式な構成員としての権利や権限を与えない」つま
り正式な構成員ならばだれでも参加できるところから排除するということです。
「基準」や「条件」をもうけて何らかの「選別」をすることは、日常的にいくらでも
あることで、それ自体は何も問題があることではありません。そうした選別・排除行
為のすべてを「差別」というわけにはいきません。
問題はその「基準」や「条件」の立て方が不当であるか否かです。
いわゆる「寺族」といわゆる「門徒」という分け隔てをすることは、私は基本的には
「不当」であると思います。
しかし、研修を企画する場合に、資格や立場を基準にして対象者を限定するというこ
とはあってもいいと思いますし、それが全面的に不当であるとは思いません。
大願さんが今回の研修会に申し込みをいわば「(募集基準にあてはまる)正式な受講
者」としての参加を求めた形になっているわけですが、大願さんは基準・条件に当て
はまらなかったわけです。それを不当だと言うことは、大願さんは、この研修会の担
当者は「自分を大谷派の教師資格を持つものと認めなかった」と言って非難している
ことになるのではないかと思います。基準条件を立てた企画の参加希望者の条件を見
極めるのは、主催者としては必要かつ当然な判断です。
その基準・条件自体が不当であるという大願さんの指摘は、原則的には「正しい」主
張です。大谷派の教師資格を持つものが、自分たちだけのための研修会を開くこと自
体が差別的であり不当であるとおっしゃりたいのではないかと思います。
しかし、私は基準や条件を立てて研修会を企画・運営することはいけないとは思いま
せん。それはそれほど不当なことだとは思いません。
狙いや目的をはっきりさせなければ研修は非常に散漫なものになります。大谷派では、
「研修会のような会合」がたくさん開かれていますが、意図や目的があいまいなあつ
まりが目につきます。
どういう人間を対象として、どういう課題・テーマで、どういうプログラムを組み、
どのように運営していくか。そういうことをもっともっと考える必要があると思いま
す。

>>もし、大願さんが何も言わずに、夜の会場に座って聴講されていたとしたら、おそ
>>らく何の問題も生じなかっただろうと思います。
>これってどういう事ですか? なぜそう言えるのですか?そうなる可能性があるので
>すか?
これは単なる仮定と想像ですから、これ以上申し上げることはありません。
ただ、傍聴とか聴講という形の「(募集基準にあてはまる)正式な受講者」としてで
はない参加希望であれば、職員としてももう少し違った対応はできたかもしれないと
推測しているだけです。


らくりんさんへ 投稿者:大願  投稿日: 3月26日(月)03時30分29秒

ご丁寧なレスありがとうございます。
でも、結局ootuboさん同様、当事者というか、利害関係のあるウチワを弁護することだけに
終始していますね。

>少々の不手際や落ち度があっても、できるだけ彼らの判断を判断を尊重
>したいと思っています。

そうではなくて、私が聴きたいのは、らくりんさんのお話しの中にあった靖国思想的な
「排除」に該当するのかしないのかです。恣意的な排除がケシカランと靖国思想を非難し、
自らの排除体質は不問にするということなのかどうか教えて頂きたいのです。
ですから講義のための講義、教義は教義、現実は現実という所に立脚して「排除」している
教務所職員の判断を、らくりんさんは「尊重する」ということですか?
「開かれた寺」を目指して、悪戦苦闘しておられる末寺のご苦労をご存知でしょう。
「ようこそようこそ」と、笑顔で迎えることをどれだけ敷居を取り払っても、なかなか
「開かれた寺」になれないと、悩んでおられる僧侶を何人も知っています。
今回も、「夜の部」への私の聴講を快く歓迎してくれたHさんはじめ何人かの方々も
そうした方々です。
そうかと思えば、自分達特権階級(?)だけで「当流大事の聖教」を学び、来た者を
門前払いする教えは、親鸞のどこの記してあるのですか。
記してなくても、どの部分でそれを是認する読み方ができるのですか。
そして「彼らの判断を判断を尊重したい」と思っているのは、親鸞思想のどの部分
故なのですか。らくりんさんのためになることだから尊重するのでは、よもやありますまい。
まあ、普段から、このようにへ理屈をならべて詰問する輩を排除した功績故に尊重したいと
言う気持ちも分からないではないけれど…。

>もし、大願さんが何も言わずに、夜の会場に座って聴講されていたとしたら、おそら
>く何の問題も生じなかっただろうと思います。

これってどういう事ですか? なぜそう言えるのですか?そうなる可能性があるのですか?
時には排除し、時にはしないということなのですか。
げんにそういう人がいたということですか?
理由によってはそれこそ問題ではないのですか?
語るに落ちていませんか?
講義録の件については、「三吉さんへ」で述べた通りですが、

>私も自分が責任をもてない文章が、私の発言として不特定多数の人に
>手渡されることになるのは不本意です。

ということは、内輪のみの秘め事ということですか。大谷派僧侶以外には漏れては
困ると、まして門徒なんぞには漏れては困ると?
「わが弟子、ひとの弟子という相論」でもしているのですか?


三吉さんへ 投稿者:大願  投稿日: 3月26日(月)02時33分13秒

>そういう論理が説得の論理として思わずでてくるところが、日頃からそーいう意識で
>宗務役員がおるとの証左ですし、全世界に解放するといって、その実、
>門徒向けにしか考えてない現実があるとのことですやん。

ありがとうございます。若い宗務役員に対して、一般門徒は「先生、先生」と持ち上げて
御無理御尤もが通るので、驕慢になるのも解ります。
門徒で僧侶に向かってアグレッシブに噛み付く変わり者はあまりいないと思いますよ。
にらまれて、葬式を断られでもしたら大変だから。
ま、「お東よ、おまえもか」と変に納得してしまいます。

>別段、大谷派外には漏れたらまずい話しをするわけでもなし。。。

いえいえ、これが本音で、あれこれ後付けの理由をつけているのではないですか?
門徒や外部のものは、「寝ていて欲しい」というのが本音で、いかに眠らせるかを
談合しているのではないかと勘繰りたくもなります。
講義録も門外不出というのは、蓮如の「無宿善の機においては、左右なく、これを
許すべからざるものなり」ですか?
らくりんさんが、講義録を渡さない理由を言われていますが、私の一番嫌いな
蓮如のこの言葉を思い出してしまいます。


みなさんありがとうございます。 投稿者:大願  投稿日: 3月26日(月)02時00分54秒

即時に削除されるのかとおそるおそる書きましたが、冷静にかつ真摯にレスを頂き
ありがとうございました。

らくりんさんの公開講座で、
「選別・排除・強制」の論理
を拝聴した直後、そうした事件にであったので、かんしゃく持ちの私は、確かに感情的になって
そうした「排除」が親鸞の言う真宗か。それは詐欺ではないか等と、彼(職員)に言い返しました。
「声を荒げないで下さい」という、職員自身がもっと声を荒げて言うので笑ってしまいましたが …(¨;)。

>私は伝道研修会を「排除の論理」でなく「対象者限定」と思っています。(ootuboさん)

「靖国思想は、恣意的な基準で選別し、満たせば強制し、満たさなければ排除する。
選別の理由は何でもいい。男か女か、成人か未成年か、健常者か障害者か、尊師への
帰依の有無か、寄付金の額とか…。」
これはらくりんさんのお言葉です。

ootuboさんのおっしゃることに事実誤認がありますので、申し添えます。
ootuboさんのおっしゃる「対象者限定」とは、一つの恣意的な「選別」では有りませんか。
私は単純にらくりんさんのお話しを最後尾で傍聴するだけでよかったですし、
当日の講義が靖国思想の排除の論理を聴いた直後の「排除」であったから、余計に
憤りを感じたのです。
それと、3回連続参加でなければ駄目ということは、あの休憩時間の申し込み時は不問でした。
その他参加資格等の項目も不問でした。どういう訳か、後半の講義が終わったあと、
「あなたは西の門徒でしょう?」という言葉から始まったのです。
次回4月の参加確認は、参加資格を再度説明された時、説明事項の一つでした。
「対象者限定」であるのであれば、らくりんさんの面前で申し込んだ時、その場で
即座に「対象者限定」だから駄目といえばいいのに、何故そこではOKだったのですか?
あるいは、次回参加が条件というならば、それもそこで言えばそれほど物議を醸すことも
無かったのではないでしょうか?
私との口論の内容を次回4月欠席のみを取り上げて、後は不問にしていることがよく解りません。

それと、私も、私の意見だけで、判断を仰ごうと思いません。この件に関してインターネット掲示板に書き込むので
回答して頂きたい旨を、くだんの教務所職員に申し入れましたが、そんなものは「無視する」と明言され、
取り合って頂けませんでした。

>大願さんは感情的になっているようでしたし、
>教務所は何とかわかってほしいようでした。

これって、どこかの国の警察か、裁判所みたいに、身内に甘く、部外者を裁定していませんか?
私同様に教務所職員も感情的になっていたと少なくとも私には思えましたが。
それが寺族意識というか、教区僧侶同士の八百長裁定の意図が見えみえですよね。
差別する側は、被差別の側の痛みは解らないといいます。排除されない安全な所にいる
ootuboさんに、排除された側の痛みを解ってくださいとは言わないが、
そうした人が親鸞の教えを語り、「仏法を自らを主体として聴け」と、偉そうに
門徒に説教する偽善だけは止めてほしいなと思います。
以前、お東の教えの親鸞思想に引かれて書き込んだら、らくりんさんから、
「隣の芝生は青く見えるもの」と忠言を頂きましたね。お東にもいろんな親鸞を伝える僧侶が
いるということだったのですね。いまごろやっと解りましたよ。らくりんさん。
西にも、僧侶対象の講習会があり、門徒には案内がないのですが、傍聴を申しこめば
拒否はされません。会費は取られますが。 (¨;)
ただ、最近の僧侶対象の講習会はろくな講師を呼んでくれないので、参加していません。
これって、やっぱり、靖国思想の「選別」でしょうか?
「選択本願」の「選択」のつもりですが…。そんな訳で、いずれにしても、らくりんさんの
講義でなければ、今回の気まずい事件も起きなかったのに、これも不思議なご縁ですね。


大願さんへ 2 投稿者:らくりん  投稿日: 3月25日(日)01時10分53秒

講義録については、先月の講義をテープ起こしして、翌月に参加者に配付するという
タイトなスケジュールで作成されたものです。私の方の事情で、送っていただいたテ
キストを私自身が事前に充分に目を通すことができませんでした。私も自分が責任を
もてない文章が、私の発言として不特定多数の人に手渡されることになるのは不本意
です。
そこで、スタッフの方からの申し出で研修会参加者に限って配付するということで、
用意されたものです。職員はそのことを踏まえた上で、参加を見合わせていただくこ
とになった大願さんにはその講義録をお渡しできなかったわけです。ですからその職
員の立場からすれば、この判断についても、その講義録の性格を踏まえた上で、彼は
彼なりの責任感から誠意ある判断をしたと言えるのではないかと思います。責められ
るべき判断ではないと思います。

私は、彼らの判断が必ずしも私の考えと同じだとは思いませんし、私が意見や判断を
求められたら、何か言ったかも知れません。もしかしたらそれによって違った結果
になったかも知れません。
しかし、私はこの研修会については、スタッフの皆さんが、自分たちで考え判断して
研修会を自分たちのものにしていこうとする意欲や熱意はとても重要だと感じていま
す。ですから少々の不手際や落ち度があっても、できるだけ彼らの判断を判断を尊重
したいと思っています。


大願さんへ 1 投稿者:らくりん  投稿日: 3月25日(日)01時09分00秒

大願さんが書かれている件について、私はスタッフから、意見や判断を求められたわ
けではありませんが、スタッフ会議に同席して、対応された職員からスタッフに対し
てなされた説明は聞きました。私は、最初に大願さんが最初に職員に申し入れた場面
には同席していましたが、その後の経緯についてはその時に聞いたことだけしか知り
ません。
私が知り得た範囲でスタッフ会議で説明されたことを、彼らに代わって紹介しておき
たいとます。それを読んでいただいて、ご判断は、本掲示板の読者にお任せします。

今回の研修会は、ootuboさんが述べておられるように〈対象は「全日程受講可能な教
区内有教師、教区内若手僧侶」です〉という限定がついた上で募集さました。
大願さんの申し出は、その第2回目への参加を希望されたわけですが、職員は途中参
加であっても残りの2回目3回目に参加していただけるならばということで、申し出
に応じようとしたわけです。それで、3回目も参加していただけるかどうかの確認を
したところ、大願さんは3回目については都合がつかないと言われたそうです。
そこで、「それではちょっと」と職員が難色を示したところ、大願さんが感情的にな
られて、帰られたということでした。その時に本願寺派のご門徒であるということに
も触れていましたが、そのことがどの程度、見合わせていただく判断の理由になって
いたかは述べておりませんでした。

以前はこの会も公開で行なわれていたそうですが、焦点があいまいになり、若手僧侶
を主たる対象にして、問題意識に焦点をあてた企画にしようということでスタッフが
話し合って、昨年度から現在の形が始まったそうです。そして、毎回同じ班分けで問
題を詰めて話し合い、深めていこうとする日程が組まれています。ベテランの方もた
くさん申し込まれて参加されています。

日程が明記された三回の会合に出ることを前提にした募集であったのですから、その
日程に参加できないために申込を見合わせた方もいたかもしれないわけです。
今回の大願さんのように、たまたまその日の午後の公開講座に出席されて、その夜に
も研修会があることを知って、その日だけ参加したいという大願さんの申し出を受け
付けてしまったら、「全日程参加条件」によって、参加を見合わさざるを得なかった
かもしれない方に対してアンフェアになってしまう、という判断がはたらいても、そ
の判断は一方的に非難されなければならないような質のものではないと思います。
ですから、あの職員にとっては、とっさに判断を迫られた状況で、途中参加の希望に
対して一旦は受け付けようとされただけでも思い切った判断であったと私は思います。
そしてその判断に対する逡巡もあっただろうと思います。その時に、次々と募集条件
に当てはまらない点があることがわかってきた時に、やはり見合わせていただいた方
がいいかもしれないという判断をされたのだろうと思います。

もちろん、その日の講義だけを聴講していただくことは、話をする私にとっても、他
の参加者にとってもなんの支障もあるわけではありませんから、聴講だけをしていた
だくという選択肢もあり得たとは思います。しかし、この企画に最初から関与してい
た人のあの職員が、大願さんの申し出に対して最終的に見合わせていただくという結
論を出した判断を頭から「けしからん」といってしまうわけにもいかないだろうと思
います。
もし、大願さんが何も言わずに、夜の会場に座って聴講されていたとしたら、おそら
く何の問題も生じなかっただろうと思います。


なんだかなぁ。 投稿者:林遊  投稿日: 3月25日(日)00時37分53秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

あなたの価値基準は、「自己を抜きにして客観的立場のみで信仰を語る」を、「ただ念仏」に関して、「する」か「しない」かというところで「裁断」されている主体的立場だと私は感じます。


このような誤解を恐れるが故に、客観的なる概念に対して主体的なる語を(否定的な意味でしか)使用しなかったのですが、どうやら三吉さんは誤解なさってしまわれたようですね。
たしかに三吉さんの仰るように<そこに差異があるのは、「聞いてきた」ことの「差異」ではないでしようか>でありましょう。しかし、<そこにまず信仰の実践者が偉いという思い上がりと、非実践者の中の宗教や信仰に関心・興味を持つものにたいする軽蔑を私はちらちらと感じてします。>については如何なものでしょうか。

家のじいさんは「知者や学者は詣れん浄土、愚痴な私が正客じゃ。愚痴じゃけれども学者でござる、一切経を皆読んだ。一切経をどう読んだ。そのまま来いと皆読んだ」などとよく言いますが、このような立場が思い上がりや、他者に対する軽蔑なのでありましょうか。

泥田んぼでの農作業に綿のように心身疲れ果てても、なお、ご法座へ足を足を運び、睡魔をこらえるため自らの太股を捻り上げ青痣になってしまい、貰い湯に恥ずかしくて行けなかったのが、小生を育て、育んでくださった越前の門徒でありました。で、このような御開山親鸞聖人の門徒は、蓮師の、五帖十三通目の「六字名号・無上甚深章」なる、なんまんだぶつを称えることが、<信仰の実践者が偉い、軽蔑を私はちらちらと感じてします>ということになるんですかね。群萌の我らには、<信仰の実践者が偉いという>思いすら持ってはいけないのでありましょうか。社会的関心なきゆえに、主体性なき凡愚であるが故に「お母さんの体内にいるにもかかわらず骨粗鬆」というあざけりを甘んじて受けなければならないのでしょうか、と林遊は思います。

少なくとも林遊は、小生を育ててくれた、じいさまばあさま方のいまします在所の十五軒の十日講の御同行の為に、この御同朋・御同行の思いを。あらゆる論難に対しうる為にお聖教を学んでいるつもりです。

で、このような意から出る小生の書き込みが、他者を愚弄するように思えましたらゴメンです。

ps
「行動」なる「是非」の論理と、生きるという「生活」なる「善悪」なるものと、果してどちらに重点を置かれて宗祖親鸞聖人はこのご法義を顕開なさったのでありましょうかねぇ、と思っていたりしますですが、判る人だけにわかってもらえればいいやと思いますです。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


ootuboさんへ 投稿者:三吉  投稿日: 3月24日(土)10時08分38秒

<一旦了解してもらい、会費は前回欠席でも同額と告げられて申し込み受付も完了した後で、
更に前回の講義録もくれた後で、帰り際になって結局、一転、講義録も取り上げられ、
傍聴も駄目、参加も駄目となりました。>

確かに一方の当事者からの情報のみで判断するのは危険ですが、
一端参加してよいとなって、あとからやっぱり駄目では感情的になるなと言う方が
おかしいでしょう。いずれにせよ教務所の対応はまずかったと私は思います。

<お東の僧侶でないこと。ましてお東の門徒でもないこと。>とかというならば、
僧侶でなくてもご門徒ならば、配慮はあるかもしれない、ということでしょうし、
そういう論理が説得の論理として思わずでてくるところが、日頃からそーいう意識で
宗務役員がおるとの証左ですし、全世界に解放するといって、その実、
門徒向けにしか考えてない現実があるとのことですやん。

「対象者限定」はあっても良いとおもいすますが、希望者を排除するために限定しているんじゃなくて、人集めをしやすいようにしているのでしょうし、あるいは話しをしやすいように
しているのでしょうから、希望者があれば席の許す限り、喜んで向かえ入れたらいいじゃない。
別段、大谷派外には漏れたらまずい話しをするわけでもなし。。。

まぁでも、講演者は、迷惑な話しだ。参加の可否は主催者側の判断ですからね。。。


つづき 投稿者:三吉  投稿日: 3月24日(土)09時53分58秒

あるいは「自己を抜き」にして語るとは、いかなることなのか。語るとは自己の領解を言葉を模索して、言葉に仮託して他者に向き合おうとすることではないしょうか。
某所で某氏が<「阿弥陀仏の本願には「三心と念仏」が誓われています。「ただ念仏して」の「ただ」は三心です。三心のない念仏は地獄行きですよ。気をつけてください。」>と「ただ念仏」を喜ばれている方々を云い脅かされていた。私が聞いてきた親鸞さんを通した本願は「ただ念仏」です。その私の聞いてきた事実を私なりに私が語る。私が「自己を抜き」にしているとは私には到底うなづくとはできません。私が語る背景にも、本願の促しがあると思います。
そこに差異があるのは、「聞いてきた」ことの「差異」ではないでしようか。如何に聞いてきたか。称名をしているといつて、完璧に聞いてきたことの保証になりません。信仰あると自分で自認したところで、それがいかに深く聞きうなづいてきたかの保証とはなりません。
自分の領解を言葉にして放ち、その言葉の一人歩きするかもと、一人歩きのの危険を畏れ、黙るのは私などは本願に対する不信だと思ってします。何を畏れる必要があるのでしょうか。
一人一人が意識するかの如何にかかわらず、あるいはどれだけ深く意識できているかを問わず、個々が煩悩の泥田に沈んでいるのは、仏教的な事実です。「本願の仕事」というのは、「本願のはたらき」を感ずるゆえに私はだしておるつもりです。
「なまんだぶぅ」と共に紡ぎ出し言葉でないというのは事実ですが、本願に感動し、それゆえに、あなたの前にまで私は言葉で登場しているのも紛れもない事実です。


林遊氏へ 投稿者:三吉  投稿日: 3月24日(土)09時52分00秒

私に向き合って下さってありがとうございます。あなたの想いは伝わりました。
ところで、私はこう思うのです。主体性とは、「関わる」ことだと。「関わり」には、「信」という関わりも、「疑」というかかわりも、その信と疑が、入り交じった状態のかかわりもあるのではないかと考えてます。
非主体的というのは、「無関心」ではないでしょうか。あるいは「思考停止」です。これはこういうものだと決め付けて、あるいはわかった気になっているということが、非主体的ではないかと。ですので、自己を抜きにして信仰を語ることなど不可能だと思います。
それは信仰を認めるにしても、批判するにしても自ずと語るスタンスはあります。
そのスタンスこそ問われるとは思います。
あなたの価値基準は、「自己を抜きにして客観的立場のみで信仰を語る」を、「ただ念仏」に関して、「する」か「しない」かというところで「裁断」されている主体的立場だと私は感じます。
信仰を語る場合、<「する」or「しない」>が、<「主体的=実践者」or「客観的=評論家」>という判断基準にされているのは、廣瀬杲氏のような偉い学者さんや、あなたのような模範的な念仏者から、創価学会や親鸞会などの信仰者中の熱狂的な部分までに共有されているスタンスとしてあるように思います。そこにまず信仰の実践者が偉いという思い上がりと、非実践者の中の宗教や信仰に関心・興味を持つものにたいする軽蔑を私はちらちらと感じてします。
多くの信仰の実践者が「しなくてはわからない」と、誘います。カルトしかりです。常套句だと言っても良いと思います。
「なんまんだぶつを称えている処で<のみ>成り立つ言葉だ」もその常套句と同じところに立つ思い上がりの様に感じます。
私は、「しなくてもわかる」とカルトに感じますし、念仏にもそう思います。しなくても、カルトは熱狂的だから危険だとわかると思います。しなくても「ただ念仏」その願いはわかると思います。
親鸞は、確かに「信仰は必ず名号を伴う。称名はかならずしも信仰をともなわないが」と云ってますので、本願成就の実証は、ある一人に事実として「称名」が実現するところにあるのは賛成いたします。「ただ念仏というのを実践しても、必ずしも信仰はあるとは限らない」というのは事実としてありえるように思います。ならば「信仰はなくても、ただ念仏というのがわかる」という立場もありえるようにおもいます。


岡崎おつかれさまでした 投稿者:ootubo  投稿日: 3月24日(土)08時40分00秒

 大願さんがいろいろ書かれていますが、大願さんの話だけでは誤解が生じると思います。
 岡崎教務所の話も聞かなければ公正な判断ができないと思います。
 岡崎教務所がここで話されるかわからないので、少し説明させていただきます。

 「夜の部」とは、「伝道研修会」という名の研修で、
 対象は「全日程受講可能な教区内有教師、教区内若手僧侶」です。
 講義中は、間衣・輪袈裟にて受講です。
 内容の抜粋は、「現代を生きる真宗僧侶として、「宗祖親鸞聖人のお念仏の教え」をどう教え
  に聞き、伝えていくのか。流されがちな日暮らしの中で、今、"伝道"の2文字の重さを確か
  め合いませんか。」です。

 ここで問題は、「全日程受講可能」と「教区内有教師」(実際には聴講者もいました)だと思
います。この2点がクリアできなかった人もいたのでは。
 私は少し離れたところから、大願さんと教務所とのやりとりが部分的に目に入りました(内容
は知りません)。大願さんは感情的になっているようでしたし、教務所は何とかわかってほしい
ようでした。

 私は伝道研修会を「排除の論理」でなく「対象者限定」と思っています。
 対象者を限定しない公開学習会も同日の午後に開催されました。


「選別・排除・強制」の論理 投稿者:大願  投稿日: 3月24日(土)02時03分05秒

靖国の公開講座ありがとうございました。
つたない質問にもご丁寧にありがとうございました。
もっと多く質問したくて、夜の部を申し込みましたが
これがまた大変な物議を呼びました。
らくりんさんのお話しと絡めて矛盾と思いますので、教えて下さい。
その出来事が,まだ怒りが収まらないほどにかんしゃく持ちの私を苦しめてい
ます。

藤場さんの話の一部は
靖国は、「選別・排除・強制」の論理。
真宗は「摂取不捨」の論理。
基準を満たせば強制的に神に祭られ、合わなければどれだけ頼んでも祭ってはくれない。
そしてこの基準は恣意的なものでもなんでもいい。
親鸞が対決しようとしたのはこうした考えであった。

こうしたお話しの中で、詳しい教学の話は「夜の部」で話したほうが良い部分との旨を
藤場さんがつい口を滑らせてコメントされました。「夜の部」の意味をいつも親しく
お話しさせてもらっているHさんにお尋ねしたら、
「夜は僧侶対象の勉強会だけど、傍聴している人は先回もおいでだったから
僧侶でなくても大丈夫ですよ」という、寛大なアドバイスを頂きました。
らくりんさん経由で教務所の担当職員O氏に頼んだら、紆余曲折して、
一旦了解してもらい、会費は前回欠席でも同額と告げられて申し込み受付も完了した後で、
更に前回の講義録もくれた後で、帰り際になって結局、一転、講義録も取り上げられ、
傍聴も駄目、参加も駄目となりました。
その理由は、お東の僧侶でないこと。ましてお東の門徒でもないこと。
次回4月に参加できないこと。(4月はネパール行きと重なったためですが)
と次々と恣意的な「排除の論理」を畳み掛けて来ました。
さきほど聴いたお話しの「靖国体質」をまざまざとその職員の言動に見ました。
寺族意識、教化者意識丸出しの教務所職員のこうした対応が親鸞の教えを貶めていませんか。
これでは親鸞をかたる詐欺師呼ばわりされてもたしかたないのでは。
口論して帰ってきました。反面教師としたいのですが、心有る各寺々が「開かれた寺」を
めざして様々な企画や働きかけをして下さっているのに、これではそうした苦労
が台無しです。建前と本音がこれほど違っては…。
真宗僧侶も様々ですが、別院の窓口や事務局にこうした対応をされると本当に情けなくなります。
「寺は僧侶だけのもの」という意識が僧侶側にある限り、真宗の前途は暗いですね。
こうした僧侶や事務局職員ばかりではないことは知っていますが…。
尤も中央実習を僧侶だけの研修として、門徒を傍聴もさせない本山基幹運動も
五十歩百歩といったところですが。
火を起こす方法を、僧侶だけが密室で学んで、僧侶以外を排除している意識だけでなく
現実の行動にも現れてきていることに寂しさを感じます。ここに親鸞不在を感じます。
皆さん、この点、どう思われますか?


らくりんさんごめん、もう止めます。 投稿者:林遊  投稿日: 3月22日(木)19時36分28秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。


あるいは、私は「自己を抜きにして客観的立場のみで信仰」を論じているのか?
そう、林遊氏が断定する根拠は?


根拠になるかどうか判りませんが、小生が、ご指摘の件で三吉さんの書き込みで気になるのは<ただ念仏>という語を、「自己を抜きにして客観的立場のみで信仰」を語る立場で使っていらっしゃるのではないかと思うからです。まさか信仰なき「教化者」に自己を措定していらっしゃるのでもありますまい。

<ただ念仏>という言葉は「本願を信じ念仏を申さば仏になる」を受け容れて、なんまんだぶつを称えている処で<のみ>成り立つ言葉だと小生は思います。ご法義用語のTPO という表現はおかしいですが、ある状況下でしか成立しない言葉というものがあるのかもしれませんね。たしかに思想用語とか教学用語は便利ですが、使う場所、状況を間違うと危ないのかもしれません。殊に信仰というものは自己の全存在を委ねるものですから、そのような言葉が一人歩きをしだすとわけの解らないものが出てくるのかもしれませんです。

<結果は本願の仕事であって私のビジネスではない>と、不用意に仰る言葉が、煩悩の泥田んぼでもがき苦しんでいる<状況>を離れて語られるとき、容易に造悪無碍論に陥りやすい危険性があるのでしょうや。少なくとも三吉さんが語られる<結果は本願の仕事であって私のビジネスではない>云々は、煩悩の中から、なんまんだぶつとともにつむぎ出された言葉ではないと小生は思いますです。

「結果は本願の仕事であ」る、という言葉は、罪業の中で苦しんでいる人の口から語られた時<のみ>意味があるのではありませんでしょうか。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


RE:「と」と「が」 投稿者:林遊  投稿日: 3月22日(木)19時31分08秒

林遊@なんまんだぶつです。


正確に言うと、松本氏が林遊さんを直接批判することはないと私は思うが、氏の如来蔵批判の思想性からすれば、「と」が「が」であっても、その批判は変わらないというのが私の主旨です。
>(改行位置変更)

何をもって仏教というのか?、というのが問題でありましょうね。
自らの中に真実はない、ということで真実を立証した、と小生には思われる親鸞聖人のお立場からすれば、必然的に<信心>の仏教にならざるを得ないと思っていたりします。

自らは如来の胎児であることを<信ずる>のが如来蔵仏教でしょう。自らは如来の子である。しかし、母親のお腹の中の胎児のように、母親に一番近いところに居ながら、如来を知ることが出来ない、真実の如来にあう事が出来ない。実は如来の子でありながら、如来の胎児でありながら、如来の子であることがわからない。
お前は如来の子であると、如来となるべく願われている。必ず当来に如来になるべき子である、と告げるのが如来蔵であろうと思います。

そのように、お前は如来の子である、ということを告げられ時、同時に如来の子らしからぬ生き方をしている自分に気づくのでしょう。如来の子でありながら如来に背き、自らが如来の言葉を覆い隠していたことに気づいていく、如来の子らしからぬ生き方を慚愧していく。そして、その慚愧が如来の子らしい生き方をしようと決断していくのでしょう。これが如来蔵なるものだと聴いたことがあります。

浄土は死後である。そして、その浄土を目指し、浄土へ生まれる者として生きていくのですよというご法義は、このように、お前は如来の子である事を、繰り返し繰り返し告げているのでしょう。お前は必ず浄土へ生まれ如来に成るものである、と告げるのがご本願の言葉であるのでしょうね。
バカは死ななきゃ直らないと言いますが、死ななければ直らない程の煩悩を持ちながら、なおかつお前は如来の子であるという教説に、慚愧し信順して往くのが浄土真宗というご法義だと思います。浄土を死後とするご法義は、死んでからの話ではなく、煩悩にのたうち回りながらも、死ぬまで煩悩を燃やし続けるしかない凡夫でありながら、それでもお前は如来の子であるという教説に、如来の子らしからぬ生き方を慚愧していく生き方なのでしょう。

越前のこの道の先達は、阿弥陀さまを、親さま親さまと呼称し、日常生活の中で煩悩が燃え立つ時にも、親さまが泣きなさるでウラ我慢する、とよく言っていましたが、如来蔵ということがこのような所にも言えるのかもしれませんです。

で、蛇足ですが、阿弥陀さま「が」ご一緒は、自らにはわかり得ない如来に包含されている如来蔵的表現であり、阿弥陀さま「と」ご一緒は、自らの内の当来である仏性としての<信心>を表現するものかもしれませんですね。家の家内が三吉さんの、阿弥陀さまとご一緒も有り難いねと言うものですから(笑)。

もちろん、親鸞聖人の仰ることは、このような意味も含んでいるのでは?という意味で、これが全てでないことは言うまでもないことですね、為念。
小生は、三吉さんのように、近代教学、教理史的勉強をした事がないので、御開山のお書き遺し下さった物はサッパリわかりません。しかし、わからないなりに、ありがたいこっちゃなあと思いながら読ませていただいていますです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


ボツにした書き込み、ぐすん。 投稿者:林遊  投稿日: 3月22日(木)18時25分51秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

聡明な三吉さんはお分かりでしょうが、宗教/信仰というものは危険な部分を持っています。ある意味では両刃の剣で、全人格を破壊することも可能です。また、科学が恐いとか言いますが、本当に恐いのは宗教/信仰だと思います。宗教/信仰は平気で人を殺します、平然と他者を地獄に叩き込みます。
ある線引きをして、その線の内側以外の者を地獄へたたき落とし、そして、そのことに全く一分の疑念をも抱いていません。宗教/信仰いうものには、このような否定的な面があり、害毒を流し続けるものであるやもしれません。しかし、それを否定する事も、ある基準に依って、他者を「異義者」とする観点、裁断者の立場に立ち、同じような排除という過ちを免れ得ないのだと思います。多分、某所での三吉さんの対論者は他のメンバーから罵倒され、排除されていくでありましょう。当初よりもより強固に構築された「信心」をもって。

宗教/信仰を論じるにはそういう所がありますね。人を救うものが宗教なのか、自分以外のものを排除していくのが宗教/信仰なのか。危険きわまりない危ないものだと思います。仏の十号に調御丈夫というのがありますが、よほど正確にコントロールして宗教言語は語らないと危ない、という意味もあるのだと思いますですよ。

で、当然、林遊へのアホバカ発言への糾弾になるんですが、少なくとも小生は排除の意味では使用していないつもりです。林遊の在所の悪ガキ仲間では、親愛を表現する日常語なんですが、不快を感じられたらゴメンです。すんませんです。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


訂正 投稿者:三吉  投稿日: 3月22日(木)01時13分20秒

もっといえば、その「自己を抜きにした非主体的立場」に「見落としたもの」は何か?
             ↓
もっといえば、その「自己を抜きにした非主体的立場」が「見落としたもの」は何か?


「と」と「が」  投稿者:三吉  投稿日: 3月22日(木)01時10分32秒

「いきがかり上、わざと反発しているように」ですか、なるほど。

正確に言うと、松本氏が林遊さんを直接批判することはないと私は思うが、氏の如来蔵批判の
思想性からすれば、「と」が「が」であっても、その批判は変わらないというのが私の主旨です。

で、この場合の氏の「批判」は、他者の信仰を「仏教ではない」と「裁断」するものだと私は
思うのですが、林遊氏の「裁断」批判は、信仰的姿勢ならば、その「裁断」を容認し、
非信仰的姿勢である者ならば、「バカ学者」となるのか否か。
なるのならば、「自己を抜きにして客観的立場のみで信仰を論ずる」とは如何なる意味なのか?
あるいは、私は「自己を抜きにして客観的立場のみで信仰」を論じているのか?
そう、林遊氏が断定する根拠は?

無信仰を公言するものが「信仰」を語ったら、あるいは「真宗」を語ったら、それは無条件に
「自己を抜きにした非主体的立場」となぜ脈絡できるのか?
あるいは具体的な根拠が在るのか?
もっといえば、その「自己を抜きにした非主体的立場」に「見落としたもの」は何か?


RE:「と」と「が」 投稿者:MANU.  投稿日: 3月21日(水)18時38分07秒

あいかわらずROM中心ですが、興味もって拝見してます。
>「阿弥陀さんといっしょ」と「阿弥陀さんがいっしょ」は、
>私はけっこう違う感じがします。
のお話、すごく身に染み込みました。
目で見たら些細なことなんですが、そのタイトルをつけられた
「林遊」さんの思いはしっかり伝わってきますもん。

まあ、オープンな場に出した物をどのように受け止めるかは
それぞれの問題なんでしょうけど、私は「阿弥陀様がごいっしょです」
という言葉は意味を持って受け止めさせていただきます。
その辺を「らくりん」さんの書き込みで再確認させて頂きました。

このご縁を下さった、「林遊」さん、「らくりん」さん、「三吉」さんに
お礼を申し上げます。
(他の件は私が申すことは今はございません)
南無阿弥陀仏

http://homepage1.nifty.com/MANU/index.htm


「と」と「が」 投稿者:らくりん  投稿日: 3月21日(水)09時24分15秒

他のことには口を出す気はありません(どうぞ気のすむまで、ここをお使い下さい)

「阿弥陀さんといっしょ」と「阿弥陀さんがいっしょ」は、
私はけっこう違う感じがします。

「と」は、並列同格、「が」の場合は主体の主客に違いがあるのでは。
「友達といっしょに遊んだ」、「友達がいっしょに遊んだ」
「Aさんといっしょに行った」、「Aさんがいっしょに行った」

「阿弥陀さんと私がいっしょにいる」は、阿弥陀さんと私は対等同格ですから、
前後を倒置して「私と阿弥陀さんがいっしょにいる」としても
意味はほとんど変わりません。
「阿弥陀さんが私といっしょにいる」の場合は、
「いっしょにいてくれる(下さる)」というニュアンスが入ります。
倒置して「私が阿弥陀さんといっしょにいる」としたら、ずいぶん違います。

英語でこのニュアンスの違いをあらわそうとすれば[and]と[with]を使うことに
なるだろうと思います。

この「と」と「が」の用法の違いが同じだといってしまったら
曽我量深先生が「法蔵菩薩は我なり、されど我は法蔵菩薩にあらず」と
仰った、この違いがわからなくなってしまうのではないでしょうか。

こういう助詞の使い方は、日本語を母語としない人が日本語を学ぶ時に
最後までうまく使い分けられないところです。
しかし、日本語を母語とする人はほとんど無意識に使い分けています。
ということは、この語感のわからない人に言葉で説明することはかなり難しい
ということだろうと思います。

三吉さん、あなたもその違いは感じておりながら、
いきがかり上、わざと反発しているように、私には思われます。


林遊 氏へ 投稿者:三吉  投稿日: 3月21日(水)05時50分03秒

つまり、嫌いだから文句は言うが、まともに対話するのはあほらしいということですか?

なんかその斜に構えられるところはスタイルなんでしょうが、非主体的にだと思うな。。。

<某所での何処かの酔っぱらいの書き込みに対する応答>
意味不明です

<ただ念仏>は称える者の独占物と思われているところが、私からすれば。。。
仕入れ先はあなたと同じです。

いや私は折伏しているつもりはない。なんだかな。。。
「折伏」=相手を認めないというあなたのイメージが、誤解あるいは、私の受け止めと
ちゃうともうしあげているだけです。

<廃立とか折伏というものは相手に真実を認めない、
相手の中に全く真実を見ないところから起こるのかもしれません。>
というあなたの発言が、<「廃立」という語を他者に対する折伏用語と勘違いしてやしませんですか。>と思っての私の発言です。

<共有基盤を持たない>とはあなたの<廃立・折伏>解釈に対して、私はそういうイメージは持たない。私は日蓮さんや法然さんからこういう理解してますよとのことです。
あなたはあなたのイメージを何を根拠に抱かれているか説明されれば、いいじゃないですか。
おんなじ、解釈を共有しないもの同志ならば対話は成立しないのでしょうか?

<このような立場こそ本願を利用し、本願の名を借りて他者を愚弄する似非インテリ、名聞の似非哲学の輩である>というあなたの解釈が私からすれば、あなたは本願を冒涜されている、あるいは
そのわざを信じられてない証左だと思います。
私はなぜ「本願を利用しているのか?」
私はいかに本願の名を借りて他者を愚弄しているのか?
信仰さえ自分にあると思っていたら、なぜその二つの罪を免れるとあなたは思い込めるのか?
で、その信仰あると、なぜ自分は思い込めるのか?
更に私は無信仰と語っているが、真に信仰あるものからすれば、私は果たして信仰ないように
見えるのか?

<小生には信心なるものは完全に無い>のならば、私といっしょの<他者を愚弄する似非インテリ、名聞の似非哲学の輩>で、つまり林遊 氏は私と対話でなく、私を愚弄されているだけなのですか?よーわかりませんが。。。
あるいは<完全にない>ならば、<無信仰>と名乗る私といっしょじゃないですか。

共同の意を表す助詞「と」と主格の助詞「が」に私は特に差を感じないのだが、
わざわざ訂正されるところをみるとあなたには凄い差があるわけだろうと思い、
尋ねたわけです。辞書以上の意味の差はないのですか?
では、「共に」ではなく、阿弥陀さんが「主体」ということですか。それだけ?

まああなたからは嫌われているようですが、私はあなたのように他人様を嫌ったりしませんが、
嫌いならば、わざわざ血圧の上がるようなことはされなくても。。。ご自愛下さい。


ふ〜ん。 投稿者:林遊  投稿日: 3月20日(火)23時49分17秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

なんですかかねぇ、某所での何処かの酔っぱらいの書き込みに対する応答を、当掲示板で論じられても少しく困惑してたりするんですが、文脈無視ってのはありなんですか(笑)。

で、じっちゃまー>林遊氏ー>あなた、への昇格はありがたいんですが、信仰なきを自称する三吉さんは「ただ念仏」というキーワードをどこから仕入れて論じていらっしゃるんですか。真宗門徒にとって具体的とは、まさに私の口先に称えられている、なんまんだぶつを指すのではありませんか。「順彼仏願故」(かの仏の願に順ずるが故に)の「故」ちゃあ何を指し示しているんですか。仏果(覚りの界)に至るには「行」は必須でありましょう。その「行」が、なんまんだぶつと凡夫の口先に称えられるものが「行」であるという事を論証なされたのがこのご法義の先達でありましょうや。

で、三吉さんは、ネット上で折伏をなされているんでありましょうか。100%の「可能性」なるものがよく判らないんですが、無差別如来蔵思想=仏性論を論じていらっしゃるのですか。それとも常不軽菩薩の、<汝を軽しめず当来において必ず仏果を得る故に>の我以外皆菩薩であるを論じていらっしゃるのでありましょうか。(ここいらへんは林遊は法華経を読んだ事がないので幾ばくかの誤解・錯覚が混じっています。ごめんです)


廃立というのも、法然さんから類推すれば、「廃」というのは人間の自力の執着心に添って経に説かれているのでしょうから、筋道として、あるいは「てだて」として意味があるのでしょうから、あなたの「相手に真実を認めない」というイメージは私とは共有基盤を持ちません。


う〜ん、共有基盤を持たないと一方的に宣言される三吉さんと、小生との間に、どのような対話が成り立ち得るんですか?。「廃立」という語を他者に対する折伏用語と勘違いしてやしませんですか。あげく信仰がないと自称する三吉さんが「結果は本願の仕事であって私のビジネスではない」と仰る。これこそ本願を愚弄している言辞であると思った事はありませんですか?。このような立場こそ本願を利用し、本願の名を借りて他者を愚弄する似非インテリ、名聞の似非哲学の輩であるのかもしれませんね。(まぁ、どうでもいいけど、あほらし(笑))。

で、主体的立場云々ですが、小生には信心なるものは完全に無いのですからそれに随伴する妄想なるものも全くありません。お示しの廣瀬某なる人物は全く知りませんが、もし信心の上での主体性なる、ありもしないものを論じているのなら、単なるアホです。こういうじいさま?は二・三発殴りつけると主義も主張もコロッと見事に変わりますから、一度おためしあれ(笑)。

ところで小生にとっては、松本氏なるものの著作及び人間を見たことがないのですから、<私の批判に腹を立てない人は、本当に主体的に仏教を信じているのか>などと言われてもなんじゃらほいではあります。で、文明論云々の言に含意されていることを次下の文に提示したつもりだったのですが、三吉さんに判らなかったのならばごめんしてです。

>「が」でしたか、失礼しました。で「と」との思想差異をご教示下さい。

で、三吉さんは辞書持ってないんですか。助詞くらい辞書引け。それとも思想差異なるアカデミック風用語で林遊を脅かそうとしてるんですかい。小生はあなたのこういう姿勢が大嫌いだったりしますです。

う〜ん、結局、好き嫌いの感情論になってしまいましたが、御開山親鸞聖人様、ごめんして下さいましませ。すまんことです、もったいないことです。慚愧慚謝。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


どうもです。 投稿者:三吉  投稿日: 3月20日(火)20時59分18秒

不二門をきどりきれないとこが、あなたらしくていいのではと思います。(笑)

「私に何を告げているのか?という視点が欠けているように小生には思えます。」とのことですが、これは某氏からも指摘のあることですから、あるいはそうなのかもしれません。が、あなたの意見は「抽象的」すぎて、「どの文章」にそう感じられ、そこに「どういう見落とし」があると具体的に論じていただけませんと私にはわかりませんし、対話はすすみせん。
総論に対しては反論はございませんが、何かしら隔靴掻痒の感でございます。
「折伏」を日蓮さんの言葉より類推すれば、不軽菩薩のごとくとのことですから、どういう相手に対しても必ず仏になる人だと言いづけるのが「折伏」ですので、100%相手を、あるいはその可能性を認める姿勢じゃないかと私は考えてます。反して「摂受」は安楽行ですので、変なやつには近寄らないという姿勢で、あなたのおっしゃる「放っておいた方が親切」という姿勢を彷彿とさせます。親鸞さんは安楽行の差別的表現に絶望して法華経無視したのかもしれません。(根拠亡き憶測ですが)
廃立というのも、法然さんから類推すれば、「廃」というのは人間の自力の執着心に添って経に説かれているのでしょうから、筋道として、あるいは「てだて」として意味があるのでしょうから、あなたの「相手に真実を認めない」というイメージは私とは共有基盤を持ちません。

「何を言っても無駄だ」といのうは、行為の結果としては的を得ているかもしれないと思いますが、私はそもそも、「結果」を求めて対話しているのではありません。私の伝えたいことを、私が本願にお聞きして、語らざるえないことを申し上げているに過ぎません。結果は本願の仕事であって私のビジネスではない。

「自己を抜きにして客観的立場のみで信仰を論ずるバカ学者」というのは、真宗にどっぷりマインドコントロールされてはります。そういう発言は廣瀬杲さんも誰某先生もいわれますし、耳にたこです(笑)。「悪しきセクト主義」に毒されているのはどちらでしょうか。疑問です。私は思うのですが、信仰をあると自分を見なすのが、主体的立場なのでしょうか?

<一体これがどうかしたんですか>とのことですが、お伝えしたいことは、松本氏はあなたの信仰それ自体を「批判」されているということです。松本氏は、私の批判に腹を立てない人は、本当に主体的に仏教を信じているのかというスタンスです。

「各文明に受容され涵養され発展してきた事に真価がある」とのことだが、私はちと違います。私は発展、思想深化してきたとは思いますが、各文明云々は疑問をもちます。糞も味噌もいっしょにしている感がします。親鸞さんはきっちり、糞を「世間の善」と批判したように想います。

他力に関しては、私は松本氏の説は言葉遊戯だと思います。つまり他力=本願力ではないかと。「仏の願力」「仏力」「仏法の不思議の力」「念仏の力」「仏の本願大悲願力」など法然さんは使用されてます。

「が」でしたか、失礼しました。で「と」との思想差異をご教示下さい。


誤解されっぱなしはちょっとしゃくだから(笑)  投稿者:林遊  投稿日: 3月20日(火)19時09分04秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

小生が松本氏を誤解していたというのは、自己を抜きにして客観的立場のみで
信仰を論ずるバカ学者だと思っていた事を指して、誤解していたと言うのです。
どうも三吉さんは悪しきセクト主義とやらにおかされてやしませんですか。

で、市川雷三だか如来蔵だか、始覚や本覚とかは存じませんけど、一体これが
どうかしたんですか。仏教、特に大乗仏教とやらは伝播の途中で、各文明に受
容され涵養され発展してきた事に真価があるのであり、法だけがあって「得道
の人」なき仏教などというものはあり得ないと小生は思います。このことを示
すのに御開山は、

「この五濁・五苦等は六道に通じて受けて、いまだなきものはあらず。つねにこれに逼悩す。もしこの苦を受けざるものは、すなはち凡数の摂にあらざるなり」
(この五濁の世に生まれ、生老病死の苦しみや愛別離苦などの苦しみにさいなまれるのは、あらゆる迷いの世界に通じることであり、これらの苦しみを受けないものはいない。すべてのものは常にその苦しみに直面して悩まされているのである。もし、この苦しみを受けないものがいるなら、そのものは凡夫ではないのである。)ー本派現代語訳ー。

と「観経疏」から信巻に引文されているのだと思いますよ。凡数の摂であるご
法義であるから、聖道門から浄土門へ転向した、機の深心なきの往生者を語を
「法事讃」から採り、釈尊になぞらえて「双樹林下往生」と言われたのかも、
と小生は思っています。

で、法然聖人の選択本願というキーワードこそまさに「利他力」を表現してい
るのでありましょう。証巻末尾で親鸞聖人の仰る他利・利他の深義をいいかげ
んにすっ飛ばしてしまうから「他力」なる語が、どのような領域を表現してい
るのか、判らなくなっているだけなんでしょうね。もっとも、善導大師の教学
から法然聖人を見れば鎮西派の見方になるのかもしれませんが、親鸞聖人は法
然聖人を通して善導教学を見ていらしたというのが正しいのでありましょう。

なお、阿弥陀さまとご一緒ではなく、阿弥陀さま「が」ご一緒なので間違わな
いでね。ま〜た偉そうなことを書いちまったぜ、困ったものだな(笑)。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


何の話かわからない人のために 投稿者:らくりん  投稿日: 3月20日(火)15時00分40秒

林遊さんと、三吉さんのやりとり、
ここだけを見ている人にとっては「なんのことやら」という感じでしょう。
どうでもいい人は、無視して下さい。
気になる人は、下記URLの「浄土教」とか「歎異抄について話し合いましょう」と
いうような掲示板を覗いてみたら、話が見えてくると思います。
一応管理人として、ビジターの便のためでした。

http://messages.yahoo.co.jp/?action=topics&board=1835217&type=r&sid=1835217


Re:林遊氏へ 投稿者:林遊  投稿日: 3月20日(火)14時29分12秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

維摩居士の一黙をきどってたんだけど、ダメ?(笑)。

それにしても、他者の認識の中に投影された自己を見るというのは
楽しいですね。三吉さんの脳内に構成された林遊像を垣間見せて下
さるのは、小生にとっては結構面白い事だったりします。

で、お聖教の引文合戦も面白いのですが、そのお聖教の引文によっ
て、他者を分析するのではなく、同じ手法で自らの内面世界を内観
してみる手もありそうですね。

例えばよく練り上げられた小説などを読むときにも、ストーリーを
追うだけでなく、小説の作者の内面世界を垣間見ることによって、
自らの内面世界を知らしめてくれるという事もあるのでしょう。
三吉さんの対論を拝見していると、どうもストーリーを追うのに熱
心なあまり、自らが引文したお聖教の文言が、私に何を告げている
のか?という視点が欠けているように小生には思えます。

小生は対論と対話は少しく違うように思っているのですが、対論と
は対者に一分の真実をも認めない、まさに勝った負けたの勝負事で
ありましょう。廃立とか折伏というものは相手に真実を認めない、
相手の中に全く真実を見ないところから起こるのかもしれません。
感情で言えば結局、快/不快しか残さない不毛なものであるかも知
れませんね。

で、対話とは相手の中の真実を発見していく行為なのかもと思って
いたりします。他者の中に真実を見ていく、たとえ邪偽といわれる
ものの中にでも真実を見つけようとしていくのが対話なるものだと
思います。真実が邪偽の中にまで自らを貶め、真実へとはたらきか
けているということを「教行証文類」化巻は表現したのではなかろ
うかと愚考していますです。
人は何を喜び何を悲しむべきか、ということを教えて下さったのが
親鸞聖人であると聴いたことがありましたが、他者との対話でこの
ようなことを自らに聴いていく道もあるのでしょう。

ps
墜地獄という言葉は、必ず、摂取不捨という語と対(つい)で語ら
れる言葉なのですが、少し遅めのはしかに罹った方々には何を言っ
ても無駄だと思います。自らの不信を対外的な論難によって、より
確実な、信愛(自己愛)、時に狂信にまで高めようとしているので
すから、真に相手の事を思ってあげるならば放っておいた方が親切
なのかもしれませんね。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


林遊氏へ 投稿者:三吉  投稿日: 3月20日(火)04時45分33秒

一時投稿を控えてましたが、御返事がないので、あちらへの投稿を続行します。


成功 投稿者:らくりん  投稿日: 3月19日(月)22時33分36秒

ルーターなしで複数PC同時ネット接続実験に成功。
共有ファイルなし。常時接続なしです。

明日はお彼岸の中日、彼岸法会。


悲心さんへ 投稿者:三吉  投稿日: 3月18日(日)20時20分01秒

私はわざと、林遊氏のご意見を曲げて受け止めて、氏を挑発しているのですが、
氏の論旨は「裁断」にあります。「自由に思索したり意見を言う姿勢」を批判されているので
はなく、他人様の信仰を「理非・善悪の判断をもって裁いている」点が、真宗の法義からすると
あまりに、間抜けすぎるというご意見だと思います。「何様のつもりか!」と。
ならば、これはそのとおりです。信仰とは生き様であれば、ごく主体的なものですし、
自分の受け止めを自由に語るのはいいでしょうが、他人様の信仰をあれこれ斟酌して、あまっさえ
それはおかしいと批判してしまうのは増上慢でしょう。私もそう思います。

しかも私は信仰者じゃないと公言しているのですから、林遊氏のスタンスからすれば、
知識だけ教養だけでモノを言う氏が殊に批判してやまない立場です。

応援してくださるお気持ちは嬉しいのですが、林遊氏のご指摘は私にとっては
極めて大事な点を、ご教示されようとしているのではないかと思います。


松本氏の如来蔵批判については、私なりに批判点を思索したいと思います。
ただ、なかなか。。。大乗起信論については、ちらっと読んでますがまだまだです。


如来蔵思想には自己否定がありません。 投稿者:悲心  投稿日: 3月18日(日)18時06分20秒

これは、高崎直道氏、玉城康四郎氏の見解ですが、煩悩具足という疑問に応えようとしたのは、唯識と浄土教だけだと言っています。ですから、唯識でも初期の如来蔵思想を認めたもの、大乗起信論あたりを勉強すべきです。華厳経もしかりです。真宗では、法蔵菩薩論になってきます。
親鸞は、仏性を仏のあり方、仏そのもの、と表現しています。これは三明氏が聞光で論文を書いてます。
ところで、真宗学は自由に思索していってよいのではないかと思います。だから、三吉さん、どんどんやって下さい。私は応援します。


なんか似てますね。。 投稿者:三吉  投稿日: 3月18日(日)02時47分50秒

親鸞会の方は高森氏の解釈を絶対だと讃仰されているのでしょうし、林遊のじっちゃまも、
「あほが真宗を論じたら裁断している」とお感じになる(笑)。論じてええのは偉い先生さま
だけなのでしょうね。あほは聞法だけして論ずるべからず。(笑)
たぶん、安居講師のえらい先生さまたちとの「受け止めの差異」が「あほ度」なんでしょうね。
そらぁ。。私は「大馬鹿者」だぁ。間違いない。

それと、あれですわ、松本さんを誤解してたとかなんとか言われてましたけど、(笑)
松本さんの「如来蔵批判」は道元最高を証明するための信仰的姿勢ですわ。法華経の一切皆成だ
けが仏教の本道で、悉有仏性、如来蔵は「非仏教」だという論です。
松本さんからすればあなたの真宗理解は間違いなく「如来蔵で非仏教」です。
「阿弥陀さんといっしょ」なんてそう判断されると思うな。。(笑)
で、法然親鸞論ですけど、親鸞は浄土教に善導・法然が意図してはずした「他力」という語を
曇鸞から復活させて、「造悪無碍派」で、現実肯定だから如来蔵思想で「非仏教」というのが
主旨ですわ。法然を正しく継いでいるのは一念義に属する親鸞などではなくて、鎮西派との立場
ですね。法然を親鸞的に理解した平雅行氏を批判して、法然=他力の袴谷憲昭氏を批判して、
「後世物語」とかも親鸞さん作だと論じ、「造悪無碍批判」の「広本」を本願寺のでっちあげと論じているんですわ。余談でした。


しかし。。 投稿者:三吉  投稿日: 3月18日(日)02時23分01秒

>どうも単なるアホがこのご法義を論じているのでは
>ないかと思えてしかたがありません。

しかし、法義を論じてよいのは、安居の講師みたいな偉い人だけだという意味なのかな。
さすが、西で聞法を深められた模範的なご門徒さんだ。うんうん。
ごめん。私はあなたの好きな先生方にちとっも感動しないんだ。
だって、安心論題黴臭いんだもの。。私には。まだおこちゃまだからかもしれないが(笑)。
たぶん、「あほ」だからモノをいうのね。するとあなたみたいなご立派な大人が批判してくれる。
そうやって大きくなっていくだね、たぶん。蓮如さんも「ものいえ。ものいえ」と云っていることだしね。せっかくですので色々と言わせていただきます。楽しみ♪

こういうことを書くから、らくりんさんから怒られてしまうのだろうな。(笑)


林遊さん。質問の背景をお尋ねします 投稿者:三吉  投稿日: 3月18日(日)02時04分39秒

yahooの浄土系(浄土系板と歎異抄板)に投稿しているが、
あなたが私の如何なる投稿をもって「裁定」と断定しているのかが私には不明確であります。
まず、その辺をご教示下さい。
本人は「裁定」している「つもり」はないんでね。
でも「つもりはない」とはいえ、している可能性はありますね。あほですから(笑)

親鸞会の方あるいはその影響下にある方の「堕獄実在論」を親鸞さんの解釈とちゃうとは言ってますがね。
で、無信仰者が真宗を語るなという「ニュアンス」をお含みの批判でしたら、「拒否」します。
信仰者あるいは、自分が信仰者と思い込んでいる方のみが語る資格があると私は思ってません。
現状、真宗は無信仰者にも開かれてますやん。
無信仰者は聞法したら駄目とも感想述べたら駄目とも、習ったおぼえはない(笑)。

で、あなた様は「地獄実在派」なんですか?死後の地獄落ちを心底畏れていて、そこから逃れる
「すべ」として「念仏」をされているとか?
あるいは「蓮如=親鸞」ではないという私の真宗理解が「哺乳びん」なんですか?(笑)
そんなの「世間の常識」ですやん。お西の若手の「蓮如の誤解」シリーズでもいってますし、
東に至っては、覚如以下の師の論は聖教から解釈に宗憲改正ではずされましたやん。
その時代にあった解釈に過ぎないと。
最近では、東でも「白骨の御ふみ」は葬式で好んで読まれるようになりましたけど、一時期は、
控えめでしたやん。蓮如さんのご遠忌にあわせて蓮如さんの本をつくらなあかんと云うときに、
90年に東の出版部じゃあ、蓮如の専門家が一人もいない。困った困ったという状況でしたやん。
それで外部の方が真宗に投稿した御一代記の講義を纏めて第一弾にしましたやん。
あなたも大谷派のご門徒ならばご承知でしょうに。そんな雰囲気がいやでお西にシンパシー感じられているかもしれませんが、別段それを誰もとめたりしないでしょうに。。
あなたも御自分の責任で御自由にされている。私もしている。どちらも「あほ」でしょうに。
まぁ、「裁定」についてははずしているかもしれません。
私のどの発言かわかりませんから(笑)。
で、私と喧嘩したいならば、あなたがあきられるまでつきあいます(笑)
まあでも年長者の苦言、その意図が奈辺にあるか、まずしりたいと思います。

で、具体的にあほな真宗理解とは「どの投稿」なのか、アップして下さい。
私の真宗理解はあなたの真宗理解と差異はあると思いますが、あなたがどの辺に
「あほさ」をお感じになられているか、しりたいと思います。

で、不信仰者は「生意気」云うなとのことですが、あなたは信仰者を自認されているから、
「生意気」いうのはありなんですか?(笑)まぁ、あほ同志ですんで仲良くやりましょう♪


三吉さんに質問   投稿者:林遊  投稿日: 3月18日(日)01時19分47秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

で、あなた様はいつから浄土真宗というご法義の「裁定者」になられましたの
ですか?。(なんのこっちゃと思う人はyahooを見てね(笑))

誰が信心なき事を自称するあなた様に浄土真宗というご法義の安心裁断権を与
えたのですか。若いということはあらゆるタブーに挑戦するという意味で、素
晴らしい事ではありすが、どうも単なるアホがこのご法義を論じているのでは
ないかと思えてしかたがありません。

なんちゅうか、いいかげんにほ乳瓶くわえて、アホな真宗理解を振りまくのは
おやめなさいまし、と、林遊は思いますです(笑)。

ところで林遊の手元には「全国アホバカ分布」なる書があったりするんですが
アホとかバカって「言霊思想」と関係があるんじゃろかというのが目下の悩み
です。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


なるほど。2発 投稿者:らくりん  投稿日: 3月17日(土)20時41分26秒

「異義なーし」ですか、なつかしい響きですね。

これが「ナンセーンス」の反対語だとは、う〜ん、なるほど。納得。

古田先生、去年会って呑んだ時、もうすぐ定年だとはおっしゃってましたが、
そんな「老後」の話があったとは。う〜ん、なるほど。いいかも知れない。


ぎょええぇぇぇぇ(@_@) 投稿者:三吉  投稿日: 3月17日(土)13時04分43秒

古田和弘氏はこの4月から九州大谷短期大学の学長になられるみたいです。。。
うーん、楽しそうな予感♪悪戯ごころが騒ぎまする。
とりあえず、公開講座(初回10/9)を持たれるみたいですので、早速申し込みます。

ローカルニュースでした。


松本史朗『チベット仏教哲学』 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月17日(土)11時48分18秒

ご存じかも知れませんが、仏教と如来蔵思想の概要があります。

http://page.freett.com/mishima/tibetph1.htm


変換ミスでした。 投稿者:お留守居役様  投稿日: 3月17日(土)00時37分45秒

誤:ナンセンスの反対は、意義なーし!

正:ナンセンスの反対は、異議なーし!

でした。


Re:ナンセンスの反対用語 投稿者:林遊  投稿日: 3月17日(土)00時17分22秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

う〜ん、時々いるんだよねぇ、こういう手合いってのが・・・・。

論理も情念も、はたまた浄土を期する我ら凡愚の想いをも理解しえ
ないというか、単なるアホですけど、こんなアホを育てる為に浄土
真宗門徒は頑張ってきたんじゃないんでしょうけどねぇ。

何ちゅうんですかねぇ、世俗の落ちこぼれを救うほど阿弥陀仏は暇
じゃないのかもしれませんですよん。何でこんなに世俗主義の坊主
は頭が悪いんじゃろ。よおワカランですね(笑)。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


ナンセンスの反対用語 投稿者:まこ  投稿日: 3月16日(金)23時49分51秒

 「ナンセンス」は意義なしを意味して、反対用語は「異議なし」ではなかったかな?


以上は、新着順121番目から150番目までの記事です。これ以下の記事はありません。

lycos homepage
ウェブを検索:

[ TeaCup Free BBS ] [ Level1 BBS ] [ BBS Ranking ] [ 24h Chat! ] [ 前ページへ ]


パスワード


管理者:fujiba@yu.incl.ne.jp

TeaCup AUTO BBS Level 1