らくりんバンバン

〈 落 鱗 板 々 〉



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あぁ三吉さんだ! 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月21日(月)19時47分07秒

三吉さん、こんにちは。

ヤフー掲示板「歎異抄トビ」ではお世話に成りました。
yellow_maedaで御座います。

此方でも宜しくお願い致します。


コミュニケーション何とかかんとか 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月21日(月)19時11分42秒

昔も今も伝えたいのは「自分のおもい」

一〇万億土の阿弥陀様の思いを受け取れる人が、
何で身近な人の思いが「伝えられない、受け取れない」
と言うのでしょうか。

伝わらないもどかしさを感じたら「直に会えば良いじゃないの」
それが長屋@爺さん流コミュニケーションです。


ご苦労さま 投稿者:らくりん  投稿日: 5月21日(月)18時46分41秒

「お前に何がわかるか」(と言われなくても)、
と言われているような感覚は、つらいもんがありますね。

共感できるかどうかよりも、
第一、共感・共有できたと思ったって誤解・思い込み・幻想と大差ないかもしれない

できるかどうか、できたかどうかよりも、
共感・共有しようとするか、あるいは共感・共有したいと思うか
そこのところが大事なんじゃないかと私は思います。

呼びかけに応じた人の存在は、呼びかけた者にとって一番心強いのでは?

マザーテレサじゃなかったっけ「愛情の反対は憎しみではなく無視だ」
とかなんとか言ったのは。
この言葉まったくその通りだと思う。
「無視されることが一番つらい」

とにもかくにも、身体をそこまで運ばせる何かがあった
ってことは事実でしょう。


首相官邸前に行ってきた 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月21日(月)17時45分02秒

 東京に来て国会議事堂を見たことがないので、今日ハンセン病
訴訟の決起集会をのぞいてきた。衣姿のお坊さんはチラホラ。
けど、どうも苦手であるこの雰囲気。やじうまでしかない自分が
いたたまれなくなって30分ほどで帰ってきた。
 10年前、長島愛生園に足を運んでた時期も、自分の中にずっと
引っかかるものがあったが……
 午前中、このところ視聴率の高い国会中継を見ていた。小泉さんに
ついては、私はなかなか良い印象をもっていた。が、同じ自民党
議員の馴れ合い質問の中で、ヤスクニ参拝の話題が出ていて、
やっぱり彼は私的に参拝することをはっきり表明している。
 いろいろ改革には着手するのだろうが、国家とは「隔離」
や「処刑」や「鎮魂」を通じて「くにづくり」という原初体験の
再現をするところに本質をもつ祝祭機構なのだろう。私がいた
時間、首相官邸の扉は開かれることはなかった。
 当事者でないものが、どれほど他者の問題に踏み込めるのか。
いつも、自分の中で繰り返すこの脅迫的な問い。私は、他者と
何を共有できているのだろうか?ある人に問うたところが、
「同じ位相」という言葉が返ってきたが。構造的に同型なら
ともに闘えるということであろうか……
 国会議事堂も首相官邸もどれも、すでにTVで見たまま、
既視感の中の世界にあった。
 行きしに買った『遺伝子改造社会、あなたはどうする』という
新書を電車で読みながら、「いつか見た世界」というコトバが
頭の中をグルグル駆け巡っていた。


続々、ネットコミュニケーション雑感 投稿者:らくりん  投稿日: 5月21日(月)14時01分45秒

【コミュニケーションの直接性――多様な非言語情報】
直接相手が目の前にいる場合には、その場で何らかの反応が返ってきます。反論や質
問という言語による反応である場合もあります。
無言であっても、ずっと目をそらさなかったり、メモを取ったり、資料や本に目を移
したり、うなづいたり、首をかしげたり、あくびをしたり、眠ったり、お喋りを始め
たり、飲み食いをしたり、タバコに火をつけたり、トイレに立ったり、出ていってし
まったり、エアコンを調節したり、窓を開けたり閉めたり、マイクの調子を気にした
り……、そうした聞き手の様々なリアクションはそれぞれに意味や必然性があること
なので、非常に重要な非言語情報です。
ネットコミュニケーションではこうした非言語情報は非常に少なく、画面に現われた
言葉だけがすべてと言っても過言ではありません。
と言っても、まったくないわけではありません。レスが返ってくるまでの時間とか、
カウンターのヒット数の増え方、あるいは、やり取りが行なわれてきた掲示板ではな
く別の掲示板にレスらしきことが掲載されるとか、またレスが返ってこないというこ
とも非言語表現の一つでしょう。こうしたことなどから多少の非言語情報が得られる
ことは得られますが、それは直接対面のそれとは比較になりません。

【コミュニケーションの1対1性/相い対性】通常の対話の場合は、1対1が基本に
なります。座談会などのように複数がその場に居ても、対話としてのやり取りが成立
していくのは1対1です。
メール交信の場合は、その基本があてはまります(メールではやり取りがエスカレー
トしていく経験は私は一度もなかったように思います)。この1対1性・相い対性が、
やり取りの節度を保つ上でかなり重要なはたらきを有しているのではないかと思いま
す。

ところが、ネットコミュニケーションは、「あなた」に対して、つまり二人称で発言
していると同時に、不特定多数の読者・受け手を想定せざるを得ません。
個別的な対応をと同時に常に「公性」「一般性」も持たせる必要があります(そんな
こと関係ないねと言う人がいるかも知れませんが、私は考えるべきだと思います)
となると、二人称では可能な表現もあるいは、問題がない表現でも、ネットではでき
ないあるいはしてはならない表現がある。このことはエスカレートに対するブレーキ
の効果になるはずです。
ところが、現実は必ずしもそうはなっていない場合があります。
1対1のメール交信とか対面コミュニケーションの場合ならば、まず言わない表現や
内容、あるいはできない表現や内容でも、掲示板には書いてしまうことがあります。
これは掲示板の持つ見世物的な部分(劇場性)がそのような行動をさせてしまうこと
があるのだろうと思います。自分が書くことを多くの人に見てもらえる(かも知れな
い)という快感には、興奮剤としての作用があるのかも知れません。

【コミュニケーションの一方向性――言い放し可能/限定された人】
見世物とか劇場性ということならばテレビ・ラジオ・新聞や出版物などによる、
いわゆるマスコミュニケーションがあります。
これらは非常に多くの不特定多数の人々の中から、自分が勝手に想定した相手に向
かって発言すればいい。通常は受け手の側から、その場で反論されることはない。
ある意味で言いっ放しでも構わない無責任さがある。にもかかわらず、目も当てられ
ないようなやり取りが延々と続くことはない。たまにそれに近い泥沼現象が起こるこ
ともありますが、かなり例外的な現象だと言えると思います。
しかしそういう場が与えられるのは、編集者やプロデューサーなどの眼鏡に叶った人
間だけ。つまり表現者としての一定以上の訓練を積み一定のレベルに達していると評
価を受ける者にしかそういう機会は与えられない。

一方向性ということでは、
講演・講義・お説教なども似たような側面があるが、事情はかなり違う。
やはりなんと言ってもこれらには、対面しているという同時性と直接性があります。

こんな一般論的なことを書くつもりじゃなかったのに、なんでこんな話になってしま
ったんだろう。
そうだ「自分の言葉がどのようにでも「解釈」を受ける可能性がある」に反応してい
たらこうなったんだ。
一休み


誕生日を祝う習慣 投稿者:らくりん  投稿日: 5月21日(月)13時16分12秒

昔の年齢の数え方は、現在のように誕生日を起算にして零歳から勘定する「満年齢」
ではなく、生まれた時に1歳として、以後正月をむかえる毎に年を重ねていくという
「数え年齢」でしたから、何月何日に生まれたということはあまり重要な意味を持っ
ていなかったのだろうと思います。正月に皆が一斉に歳が増えるわけです。
だから大晦日に生まれた子どもは、次の日にはもう2歳になる。
数え年が1歳から始まるのは、十月十日母のお腹にいたのを勘定に入れるからだとい
う説明を聞いたことがありますが、私は、「ゼロの観念」がない文化においては、最
初の数は「1」とする以外になかったからではないかと思います。

そもそも、昔は太陰暦を使っていたわけですから、年齢の観念を生み出す元になる
〈暦〉が違います。
私のおります寺には総法名軸がありまして、大きな掛け軸に亡くなったご門徒の法名
と命日を列記してあります。江戸時代から明治の初めごろまでの記載を見ると、「七
日 釈(尼)○○」という具合にしか記してありません。男女の違いだけはわかります
が、亡くなった年どころか月も書いてないのです。俗名も書いてありませんからどこ
の家の人かもわかりません。

それから古い時代の文書を読んでおりますと、時々「閏月(うるうづき)」というの
がありまして「閏三月」などという記述が出て来たりします。それも何月と何月の間
と決まっている感じじゃなくて、けっこういい加減としか思えない出現の仕方です。
「最初はなんじゃこりゃ」です。これは月の満ち欠けを暦の基本にしている太陰暦で
は通常は一年を354日(1ヶ月が平均29.5日)としており、30日の大の月と
29日の小の月を作って調整するだけでは、一年の日数がそのうちにあわなくなって
しまうので、時々「13日」で1ヶ月というような「閏月」を作って辻褄をあわせた
ようです。ですから、一年に13ヶ月ある年もあったりするわけです。

こういうのを見ておりますと、もしかすると「何月か」ということは、一年のうちの
いつごろか(「節」を分ける)という一応の目安としての意味はあっても、日にちを
特定する役割としては今日ほど重要な意味がなかったのではないかという気がします。
日にちの特定よりも、むしろ「十五夜は必ず満月」というようなことの方が重要な生
活指標だったのではないかと思います。


(無題) 投稿者:Vita  投稿日: 5月21日(月)11時36分17秒

どういう事を書かれるのが、また、楽しみにしていますが、

個人的に少し。。。
私は、学生時代、らくりんさんと話をしたことはほとんどなかった。
で、ここのところ、お話を聞かせて頂いたり、お会いする機会はぼちぼちあります。
もちろん、「読み解く」も読んでます。
しかし、掲示板がなかったら、ここまで深く会話をするということもなかったし、
影響を受けるということもなかったと思います。

林遊さんとは一度もお会いしたことはありません。
わたしがネットに入っていった、ニフティのパソコン通信から存じ上げるようになったのですが、
そのころから感化を受け、注目しています。

この世界でのお二人は、わたしにとって仮想の存在であります。
しかし、お二人が様々な方と話し合いっている様子を、ROMしていることが、
私を動かしているということがあります。

メールとか手紙とか、そういう個人的なやりとりだけでは成立しない
ネット上の仮想存在とでもいうのでしょうか。

こうした出会い方の、不思議なことよと、思っています。


続 コミュニケーション雑感 投稿者:らくりん  投稿日: 5月21日(月)09時54分26秒

そう、
>「わたし」によって語られる言葉はいわば、どのようにでも「解釈」を受けるとい
>う可能性に開かれている

こういうことなんです(私はこれを「往還二回向」の問題として考えようとしている
のですが、それは今回は深入りしません)。
自分の言葉がどのようにでも「解釈」を受ける可能性がある、ということは日常のあ
らゆるコミュニケーションにおいて当てはまることですし、実際にそれがもたらす、
理解のすれ違いは日常茶飯事として発生している。
ただ、これまでの日常では、

【コミュニケーションの同時性】
直接に対面している場面では、その場で当事者間の反応(非言語情報も含めて)で、
そのすれ違いに気づくことができる。その場で気づかなかった場合は、ずっと気づか
ないままになってしまったり、気づくにしてもだいぶん時間が経って、それを相手に
伝えられなくなってしまってから。そして、たいていの場合はそれは大した問題じゃ
ないから、そのまま放っておかれてしまい、忘れ去られる。
たまに忘れ去られない重大なすれ違いが問題があると、深刻な関係不全を引き起こす
ことになる。
こういう相方向の直接的なコミュニケーションが無理なく成立するのは、少人数、私
の経験的印象ではせいぜいで15人ぐらいまでかなという気がします。それでも参加
者の集中力が下がっていくと2〜4ぐらいの小グループに分かれていく。ということ
は4〜5人が最適規模ということなるのかも知れない。
ネットコミュニケーションにおいては、言い放しではなく、何らかの反応があること
を想定してなされる。しかし、そこでは数分から数日の範囲での多様な時差がある。
それと、相手が意思して反応を示さない限り、何の情報も返ってこない。一旦表現さ
れたことは、その時点でそれに反応するかしないか、いつどのように反応するか等々、
すべて相手側に委ねられてしまう。反応があるまでの間、表現者は自分の発言が相手
にどのような意味を与えたのか、知る術はまったくない。その間にさまざまな想像・
妄想が膨らんでいくことがある。

このことは、次の【コミュニケーションの直接性――多様な非言語情報】の問題に密
接な関係があります。
ここで一休み。あれ、こんな事を書くつもりじゃなかったのに、愚っ朕さんに反応し
たら、書く前に考えていたこととは話が別の方向に進んでしまった。まあ、いいか。
どうせこれも考える必要があることなんだし。


追記 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月21日(月)06時11分49秒

 ロボットのようなハードな人工生命と
コミュニケーションが成立した場合。
 ネットアイドルのようなヴァーチャル
・ソフトな生命と双方向性を持った場合。
 生身の生命。恋愛がスムーズに成立するのは、
どの関係においてだろう。


魂のダウンロード 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月21日(月)05時00分01秒

 らくりんさんの話題は面白い。お留守居役様は西洋哲学を
深く学ばれたようで「他我問題」についておうかがいして
みたかったのですが。
 「どうせ他人なんて私のことは、わかってくれないのよ」と
いった場合、少なくとも彼女のいらだってることはわかる。
別にケーブルでつないだように、他者のデータをすべて
共有できなくったっていいのだと思う、他者と共に生きていくのに。
 けど、ほんとにアイボのようなロボットが精巧になっていったとき、
彼といわゆる「有情」とのあいだに区別がつくのだろうか?


お誕生日雑感 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月21日(月)04時34分32秒

 5月21日は、親鸞聖人のお誕生日だそうです。お釈迦さまのお誕生日は
花祭り。私らみたいな普通の個人の誕生日を祝うようになったのは新しい
風習だと思うのですが。
 七五三とか元服式とか還暦とか米寿とか特定の年にお祝いしてたのも武士
階級だけだった気がするのですが。どなたかご存知ありませんか。
 宮家準という人によれば、冠婚葬祭のうちこの世を担当したのが神道で、
あの世を仏教が受け持ち、この補完体制によってサイクルとして人の魂の
行方は閉じたものになっているそうです。(初七日とお七夜、三、七回忌と
七五三のような対称性がみられるという)
 神道の教義は「祭りを絶やすな」ということだと、國學院の窪田ナントカ先生
がおっしゃっていたと思うんですが。ほんらい祭りは、個人の為になされるのでなく
共同体を結びつける役割を果たしました。で、たとえばユダヤ教の過越しの祭りなどは、
出エジプトを記念するというか、民族にとって大事な原初経験みたいなものを再現
することです。
 神の国という発言が問題になったことがありましたが、神をいただく中心の周縁には
まつろわぬものが作りだされます。けれど、祝祭にはこの、まつろわぬものの存在に
よって中心が活性するという特徴がみられます。ある種の宗教儀式の中にも排除した
原理によって「救い」があるものもみられます。(アウトカーストの女性と墓場で性交
する密教の一部など)
 「王国」は神話をもち、それを反復する。いわばそこでは時間がとまっています。
時間には流れていくイメージと、断ち切るイメージをもつものがあります。日本語
でも、「時」は流れていくもので、「秋」という字は「日米決戦の秋」みたいに、
特別の意味をもった「とき」です。
 時がとまっていて、神話が固定している。つまり、自足していて、悪く言えば
自閉された空間の中は、「意味」が発生します。けれど、その意味を逃れていこうと
するものには「制裁」がくわえられます。自由とは、固定した意味をとらないという
ことだと思います。
 「わたし」の経験はどこまでいっても、他人とまじわることがないのでしょうが、
ことばによって意識の言語化がおこなわれると、「ことば」はいやでも他者に指し
向けられる性質をもっています。真宗の「信心」とは、常に私を破ってくるもの、
いわば「わたし」の同一性をやぶるものだと思われるのですが、この掲示板を
読んでいるうち「わたし」によって語られる言葉はいわば、どのようにでも
「解釈」を受けるという可能性に開かれているのだと思うようになりました。


あっ! 投稿者:Zazie  投稿日: 5月21日(月)01時04分26秒

見事に無視されてる(笑)。

ここは、怖いおじさん(おばさん?)がいるので、普段はROMオンリーです。

買い物は、MTBを見に行ったはずが、DVDソフトを2本買いました。


さて、 投稿者:らくりん  投稿日: 5月21日(月)00時21分39秒

三吉さんも復活してきたことだし、続きを考えてみよう。
「緊張感」が面識の有無だけにに由来しているとは考えません。やっぱり、三吉さん
は「難しく」表現していますが、ある種の「手強さ」ですよ、それは。その意味では
三吉さんはそれほど「手強く」ないということなのかなぁ。「手の内」が見えるせい
かな。
いま考えていることは、ただ単なる「面識」の有無とかいう問題だけで考えようとし
ているわけではありません。もちろん面識の有無は重要な要素ですが、今回はそのこ
とは除外して考えようと思っているから、たまに顔を合わせるVitaさん、Zazie さん、
しんさんなんかは外しているわけです。

まったく面識がない、あるいはほとんどないに等しい、林遊・お留守居役様・大悲・
愚っ朕の4方に素材になっていただいているわけです。(ご迷惑でしょうが、お許し
いただけるだろうと思い使わせていただきます)

私もまだ、今考えていることには結論があるわけではありません。そもそも、ネット
上のコミュニケーションの成立の問題については、ネットに参加し始めて、以来ずっ
と考え続けている問題です。

ネットの付き合いを通じて、林遊さん、お留守居役様さんの考え方とか、話題への食
いつき方の発想やパターンは、私なりにですが、だいぶん飲み込めてきているつもり
です。
ただしかしながら、どうもこのお二人については、「像」が結ばれてこないというか
人間像というか具体感が結ばれてこないんです。林遊さんは結構自分のことについて
書いていらっしゃるんですが、どうももう一つ私には見えてこないんです。このお二
人のことですからもしかすると、意図的にそれを出さないようにしているのかも知れ
ませんが……。意見や考え方の違いという意味ではなくて、なんか存在としての距離
感がずっと変わらないんですよね。離れてもいかないし近づきもしないし(これは書
き込みが多いとか少ないとかという意味ではなく、私にとってのお二人の存在感、あ
るいはリアリティといってもいいかも知れません)。
それと比較すると愚っ朕さんと大悲さんにはかなりリアリティがあるんです。もちろ
んそれは私の勝手な思い込みに過ぎないのですが、それにしても、ほとんど掲示板を
通じてしかつきあっていないのに、私の側に生じるこの感覚の差は何なんだろうか。

林遊・お留守居役様さんと愚っ朕・大悲さんとで、一つ大きく違う点はリアル世界で
共通の知り合いがいるかどうかということがあります。これはたぶんかなり大きい要
素だろうと思います。共通知人との関係の持ち方とか、その人たちに対する評価など
によってずいぶん非言語情報を得ていることはおそらく間違いありません。
だから、これを言ってしまえばもうおしまいのような気もします。

それから、愚っ朕さんは直接話し合った経験は少なくても、名前はけっこう聞いたり
見たりしていますから結構既知感あったりもします。ということは、あまり今考えて
いることに相応しい素材じゃないのかも知れない。

ちょっとまだ、うまく整理がついてきませんが、
考えたいことは、ネット上のコミュニケーションが、どこまで人と人をつなぐ道具し
てどこまでリアルなものとなり得るのだろうかということです。

どうも、このとてつもない流動性は、同じ議論を何度も繰り返さなければならなかっ
たり、話を無限に拡散させる。さもなければ非常に小さい同趣味の人間のタコツボを
無数に作り出すしか能がないんじゃないか。だから、遊びとか暇つぶしの種になるだ
けじゃないか、少なくとも私にとっては。(まあ、私にとっては、こういうコミュニ
ケーションの成立という問題を考えるための大切な場であるという意味はあります)

ネットというのは情報交換道具としての威力は抜群のものがあります。
今回のハンセン氏病の、情報が伝わっていくのにも大きな威力を発揮したようです。
しかし、意思疎通という意味では、一年間半やってみてかなり大きな疑問が出てきて
います。むしろ、感情的なもつれを生み出したり、それを増幅するのはしごく簡単だ
けれども、納得しあう前に離れてしまえますから、それを鎮静化するのはとてつもな
く骨が折れる、ほとんど奇跡にちかい。この一年半、この掲示板だけでも何度もそん
なことがありました。その意味ではネットのやりとりというのは、意思疎通の面では
逆効果になっているかなと思う時さえあります。

今日のところはこのへんで。続きがあるかどうかはわかりません。
なんかリアクションがあれば、それに触発されることがあるかもしれません。
よろしく。


緊張感 投稿者:三吉  投稿日: 5月20日(日)22時29分54秒

らくりんさんの感じ方はなんとなく想像できるように思いますが、それはさておき、私の
感じ方をばらしておきましょう。

らくりんさんとは旧知ですし、気心しれているのですが、一番掲示板ではやりにくいで
す。(笑)なぜか「しっぽ」を捕まれているという感覚が。。嗚呼(笑)
一種の緊張感があります。。。(笑)理屈だけじゃ逃してくれないなと(笑)

大悲さん、Vitaさんは大学の先輩ですので、実はある種の甘えがあります。(笑)
お二方とも面識はないのですが、面識ある先輩の先輩になりますので、間接的な先輩ですし、
特定はしてませんが、大悲さんはあの方でろあうと大体の目星はついています。

林遊さん・お留守居役様さんとはネットのだけでの付き合いですが、長いですので、
私としては大体の傾向はわかったようなつもりになってます。
お二方にはたぶん、私の意見は苛立ちを感じられていると思うのですが、その辺も
楽しい反応であったりします。

愚っ朕さんはおそらく同年代なんでしようが、ネットの付き合いが浅いので、まだ
傾向を探っている観があります。(笑)小手調べ、出方を伺っているとでも申しま
しょうか。そーいうレスをしております。(笑)その意味では緊張感をもってます。

長屋@爺さんはほとんどしりませんが、大体の傾向はわかるようなきがしております。

私はらくらんさんとは違い面識云々に「緊張感」の有無があるのではなく、
第一義的には、本質的な反論、突っ込み、意見が思いも寄らないところから
出てくるだろうと予想される時に緊張を感じますが。。。
まあ勉強にもなるのですが。。。(笑)


ちょっと気になってたこと 投稿者:らくりん  投稿日: 5月20日(日)18時54分14秒


だいぶんしたの方になりますが、たしか昨日、
>林遊さんやお留守居役様さんとネットづきあいももう一年以上になりますが、いま
>だに「こいつらなにもんじゃ」という感じがあります。
>まあ、三吉さんとは以前からの知り合いですので、そんな感じはあまりありません。
>実は、愚っ朕さんともそれほど深い付き合いではないのですが、以前に何度か顔を
>合わせています。直接経験よりも、尊敬すべき共通の知り合いが多いのでなんとな
>く、安心感があります。
という、書き込みをしましたが、これがちょっと気になってます。

一つには「なんでこんなしょうもないことを書いたんだろう」という思いと
もう一つには「なんか、このことからもう少し大事なことを言わなければならない
ような気がするのに、ここから先が出てこない」という「もやもや」感です。
もう少し、展開できそうな気がしてきましたので、続けてみます。

林遊さん・お留守居役様さんとは、昨年の1月以降にネットの上で知り合い、ネット
の上でしか交流がありません。いろいろな問題で、かなり激しいやりとりや、突っ込
んだやり取りを私との間でも、他の人との間でもやってきましたし、おそらくお互い
にそれを読んできただろうと思います。

三吉さんとは、15年ほど前のことになりますが、2年間ほどの短い期間ですが、
かなり緊張感のある状況の中でいろいろ議論したりしましたので、
その後プライベートな付き合いはまったく途絶えていましたが、気心が知れた旧知の
仲という親近感のようなものがあります。掲示板で顔を見ないでやり取りしていても、
何か表情が見えるような感じがしております。

愚っ朕さんは、おそらく何かの学習会とか集会の際に2〜3度同席したことがある程
度で、申し訳ないのですが、お顔もあまりはっきりとは思い出せません。メールをい
ただいて、ああそんな名前の人いたなぁ、と思い出した次第です。ですから、大谷派
の学習会とか集会か何かで出くわせば、「あの人だれだったかな」という程度には思
い出すかも知れませんが、道で突然出会っても、気がつかないかも知れません。だか
ら、気心が知れた仲というほどの印象は私の方にはありません。

ですから、三吉さんは別として、林遊・お留守居役様・愚っ朕の三方はほとんどネッ
トの上だけでしか尽き合っていないと言ってもいいのではないかと思います。

そうそう、もう一人大悲さんもあげた方がいいかもしれません。
大悲さんとは、おそらくあと1週間以内に対面できるはずですが、いまのところまだ
面識がありません。この方ともネットの上で知り合い、ネットの上だけでしか付き合
いがありません。

それでですね、何が言いたいかと言いますと、リアル世界では4人ともほとんど知ら
ない人という点では大差ないはずなのに、林遊さんとお留守居役様さんに対して覚え
る感覚と、愚っ朕さんと大悲さんに対してのそれとがずいぶん違うんです。林遊さん
とお留守居役様さんに対してもの言う時は、今でもちょっとばかり緊張感を覚えます。
愚っ朕さんと大悲さんにはそれがないのです。
この違いが、それはなぜなんだろうと思うのです。

あとの予定が迫ってきましたので、一旦ここで一休み、です。
この問題について何かご意見お考えがありましたら、どうぞ遠慮なく書いて下さい。


こちらこそ 投稿者:らくりん  投稿日: 5月20日(日)18時18分10秒

よろしくお願いいたします。


有り難う御座います。 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月20日(日)16時12分13秒


>長屋@爺さん さんが書いた程度のことは、ここの掲示板に出入りする人や長く見守って
きて下さっている人にとっては、別にどうという内容ではなかったように思います。
だから、私も紹介したのですが、それが長屋@爺さん さんには「嫌み」か何か
のように受け取られてしまったのかも知れません。

ここの住人には、軽いジャブ程度のあいさつでも、始めて来る人にはちょっと衝撃が
大きいのかなぁ〜

自己流の仏法解釈で「井の中の蛙」に成って居るのかも知れません。
是からも宜しくご教示お願い致します。


ごめんなさい 投稿者:らくりん  投稿日: 5月20日(日)15時45分56秒

偏屈@爺さん こと 長屋@爺さん さん大変失礼いたしました。
消えていません。
私が、言っていたのは
>004 5月19日(土)12時25分22秒 偏屈@爺さん   大経に生きる生活 この一週間色々な処
>で(ネット上の.. yokohamaipconnect-ppp-210-253-126-86.interq.or.jp(210.253.126.86)
の書き込みのことです。
これは完全に私の早とちりです。大変失礼なことを書いてしまいまいた
すみません。


あー、忘れてたぁ! 投稿者:Zazie  投稿日: 5月20日(日)15時10分13秒

 今日はらくりんさんのお寺での講義でした。忘れてたー。

 第3日曜日の午前中という坊主に対する嫌がらせのような(笑)時間。久しぶりに
今日は行ける筈だったのになぁ。

 さて、今日はお買い物に行こう。


私の読解力を疑うのですが。  投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月20日(日)14時10分05秒

先程から気になって仕方有りません。

>長屋@爺さん さんがここでのやり取りを含めた最近1週間ほどの経験をご自分の
掲示板にアップされて、それを目にして、ここの読者にも読んでいただきたいと思って
URLを紹介しました。翌朝(今朝)その文章を個人的に保存しておこうと思い、
見にいったら削除されていました。これは昨晩から今朝にかけて私が経験したことです。

どちら様かへ、私の掲示板を紹介して頂いて、私のURLを書き残して頂いた物が、
「こんな物はいらん」と言われて削除されて居た。と言う事でしょうか?

>長屋@爺さん さんが書いた程度のことは、ここの掲示板に出入りする人や長く見守って
きて下さっている人にとっては、別にどうという内容ではなかったように思います。
だから、私も紹介したのですが、それが長屋@爺さん さんには「嫌み」か何か
のように受け取られてしまったのかも知れません。

この段に成ると、
私の掲示板でらくりんさんが、何方かを紹介してくださって、
URLを書き残して置いたのに、私が「嫌み」と思って削除してしまった
と読めるのですが、私には削除の記憶は御座いません。


もう一度確認します。 投稿者:長屋@爺さん    投稿日: 5月20日(日)10時21分55秒

>URLを紹介しました。翌朝(今朝)その文章を個人的に保存しておこうと思い、
見にいったら削除されていました。

URLを紹介して、と有りますが「どちらを紹介」していただけたのでしょうか。


最近の記録です。 投稿者:長屋@爺さん    投稿日: 5月20日(日)10時13分00秒

001 5月20日(日)09時14分13秒 偏屈@爺さん   悲心さん、毛坊.. >悲心さん、.>法味受楽、長屋の・. yokohama-ppp-210-253-117-90.interq.or.jp(210.253.117.90)
002 5月19日(土)22時15分55秒 毛坊主      10÷3= ?  数学や、算数の試験では、10÷3.. pee7424.aicint01.ap.so-net.ne.jp(202.238.116.36)
003 5月19日(土)21時46分08秒 悲心       学問研究     いつもお世話になっています。.こ・. 210.151.134.97(210.151.134.97)
004 5月19日(土)12時25分22秒 偏屈@爺さん   大経に生きる生活 この一週間色々な処で(ネット上の.. yokohamaipconnect-ppp-210-253-126-86.interq.or.jp(210.253.126.86)
005 5月13日(日)21時51分17秒 偏屈@爺さん   大無量寿経には、 「一切の荘厳、応に随いて現ず。微.. yokohamaipconnect-ppp-210-253-127-118.interq.or.jp(210.253.127.118)
006 5月13日(日)18時21分29秒 毛坊主      野に咲く花にも  野に咲く花にも、仏は宿る。・・・.. p78baec.aicint01.ap.so-net.ne.jp(61.120.186.236)

昨日は昼の書き込み以降、今朝まで掲示板のカキコはしておりませんし、
削除もして居りません。


Re:ネットコミュニケーション雑感  投稿者:長屋@爺さん    投稿日: 5月20日(日)10時04分27秒

らくりんさん、おはよう御座います。

私の掲示板に来て頂いて有り難う御座います。

>長屋@爺さん さんがここでのやり取りを含めた最近1週間ほどの経験をご自分の
掲示板にアップされて、それを目にして、ここの読者にも読んでいただきたいと思って
URLを紹介しました。翌朝(今朝)その文章を個人的に保存しておこうと思い、
見にいったら削除されていました。これは昨晩から今朝にかけて私が経験したことです。

>皆さんにはぜひあの書き込みを読んで頂きたかったのですが、消されてしまってはそれも
せんないことです。

昨夜から今朝に掛けて、自分の書き込みや人様の書き込みを削除した事は有りませんし。
商業目的以外の人様の書き込みを削除したことは、私が掲示板を初めて以来したことは有りません。

昨晩から今朝とは、何時頃ですか、昨夜は悲心さんと、毛坊主さんが書き込んで下さいましたが、
私は昨晩はカキコもレスして居りません。


追伸 投稿者:らくりん  投稿日: 5月20日(日)09時12分35秒

林遊さんやお留守居役様さんとネットづきあいももう一年以上になりますが、
いまだに「こいつらなにもんじゃ」という感じがあります。
まあ、三吉さんとは以前からの知り合いですので、そんな感じはあまりありません。

実は、愚っ朕さんともそれほど深い付き合いではないのですが、
以前に何度か顔を合わせています。直接経験よりも、尊敬すべき共通の知り合いが
多いのでなんとなく、安心感があります。


ネットコミュニケーション雑感 投稿者:らくりん  投稿日: 5月20日(日)08時59分26秒

久々のネットコミュニケーション論です。

長屋@爺さん さんがここでのやり取りを含めた最近1週間ほどの経験をご自分の
掲示板にアップされて、それを目にして、ここの読者にも読んでいただきたいと思って
URLを紹介しました。翌朝(今朝)その文章を個人的に保存しておこうと思い、
見にいったら削除されていました。これは昨晩から今朝にかけて私が経験したことです。

皆さんにはぜひあの書き込みを読んで頂きたかったのですが、消されてしまってはそれも
せんないことです。

ネットコミュニケーションがしばしば、すれ違いに終わったり、過剰なまでに
エスカレートしてしまうことはしばしばあります。私も何度か当事者として経験しました。

どうしてそうなってしまうのか、いつも気になっています。
以下は、昨晩、長屋@爺さん さんの、件の書き込みを見てから、床に入って思い
ついたことです。
掲示板などのやり取りをしているといつも感ずることなのですが、自分の言いたいことが
半分も伝わっていないというもどかしさがあります。半分どころか2〜3割かもしれませ
ん。ところが、自分の方は相手の方の言い分を、全部とは言いませんが悪くとも7〜8割
は理解したと思ってしまう。
自分のことは相手に2〜3割しか伝わっていると思えないのに、相手の言い分は7〜8割
伝わってきていると思ってしまう。
そして、「自分は理解されていない、誤解されている」と感じ、
そして逆に「相手はこんな考えだ、この程度の人間だ」と評価し、あるいは決めつけ
てしまう。この認識の出・入りのギャップがネットコミュニケーションをエスカレート
させてしまう大きな要因なのではないかという気がします。

少なくとも、「自分のことが相手に伝わっていない」と同じ程度に
「相手のことは自分に伝わっていない」という謙虚さというか慎重さが必要なのだろう
と思います。だからネット上では軽々に相手を評価したり決めつけてしまわないで、
臆病なくらいに気長に構えていないと、神経がまいっちゃいます。
私も時々イヤになっちゃって、もう止めようかと思うこともあります。

長屋@爺さん さんが書いた程度のことは、ここの掲示板に出入りする人や長く見守って
きて下さっている人にとっては、別にどうという内容ではなかったように思います。
だから、私も紹介したのですが、それが長屋@爺さん さんには「嫌み」か何か
のように受け取られてしまったのかも知れません。

ここの住人には、軽いジャブ程度のあいさつでも、始めて来る人にはちょっと衝撃が
大きいのかなぁ〜。


あらあら 投稿者:らくりん  投稿日: 5月20日(日)08時33分52秒

せっかく、偏屈@爺さん こと 長屋@爺さん さんの「総括」?の書き込み掲示板を
ご紹介したのに消えてしまっていました。
一応、お知らせまで。


なんか懐かしい名前が 投稿者:らくりん  投稿日: 5月20日(日)08時31分27秒

そうですか、それならそれでいいんですけど。
入院でもしたんじゃないか、とかそれとも「不慮の……」
とかまで、思っちゃいましたよ。


元気です(汗) 投稿者:三吉  投稿日: 5月20日(日)03時36分46秒

決別宣言をしたつもりもないです^^;
今、五巻を読んでる最中。。。


ところで 投稿者:らくりん  投稿日: 5月20日(日)00時58分19秒

どなたか、どこかで三吉さんをお見掛けしませんでしたか。
最近とんと姿をお見せにならないので、ちょっと気になっております。
元気ならそれでいいんですが。

お見掛けした方は、ご一報頂ければ幸いです。

彼の掲示板に書いたのにレスなしです。あんなに律儀にレスしてきた人が
彼からは一方的に「訣別」宣言されるとは思っていないのですが。
ちょっとオフで連絡とってみようかと思い始めています。


今晩のお座で 投稿者:らくりん  投稿日: 5月20日(日)00時53分33秒

コーヒーを頂き過ぎたせいか、眠くならない。
眠気を誘うために一杯飲みながら、
一旦オフにしたPCに再び向かっています。明日、化身土巻の講義があるというのに……。

と、訪ねた掲示板で、あっと驚きです。
・・
あの「saijihidemaro」さんが、いよいよネットデビューです。
(内輪受けの話題ですみません)
まこさんの掲示板で見かけました。
またまた、お騒がせな人が一人増えそうです。
ただ、まだまだキーボードがイマイチのようですから、
もうしばらくは、ここも静謐が保たれるのではないか、
と、タカをくくっていることにしよう。

お誘いはして来ませんでしたが、そのうちに嗅ぎつけて来るかも。
いやきっと来るだろう。


紹介 投稿者:らくりん  投稿日: 5月20日(日)00時39分21秒

偏屈@爺さん こと 長屋@爺さん さんが
本掲示板でのやり取りを含めて、最近経験されたことの総括を下記掲示板で発表して
おられます。興味がある方はご一読を。
本掲示板のやり取りにも多少関係があるようですので、一応お知らせいたします。

http://www81.tcup.com/8101/minamiku_maeda.html


しんさん、 投稿者:らくりん  投稿日: 5月19日(土)23時54分14秒

お久しぶり。


さようなら??(∞;) 投稿者:らくりん  投稿日: 5月19日(土)23時53分27秒

まだ出合ってもいないのかも知れないのに、もう、お別れですか。

こっちとしてはなんだかよくわからないうちに見切られて、
一方的に「訣別」宣言されちゃったみたいですね?!?!

それにしても、ここの常連さんたちの歓迎は手荒いし、
芸風がちょっとばかりひねくれているから、
なかなかその「厳しい暖かさ」や「親しみをこめた表現」が伝わらないのかも知れません。
まあ、こんなことでめげずに「ご精進」ください「聞光の先輩」殿。


再度 投稿者:らくりん  投稿日: 5月19日(土)23時22分10秒

緊急の呼びかけ
【転送歓迎  多くの方々にFAX、メール、電話でお知らせください】


ハンセン病訴訟  5月21日緊急総決起集会
   「国に控訴はさせない、今こそ全面解決を」


「これでようやく人間になれる」(原告)。5月11日の熊本判決は多くの国民からも
支持された判決内容でした。しかし、その判決が今、国によって踏みにじられようと
しています。国はこの勝利判決に「問題がある」として「控訴してすみやかに和解」
する方針を固めたと報道されています。控訴することは、判決で断罪された国および
国会の責任をうやむやにすることです。和解は「金は払うが、国に責任はない」と
言っているのと同じことなのです。これこそが国がこの訴訟に至るまで90年間一貫し
て変えなかった“隔離は患者の福祉のためにやったのだ”という詭弁ではありません
か。また「すみやかに」といいつつ、控訴すれば最低1年以上の時間が流れます。平
均年齢74歳。年間200人の人が亡くなっています。もう時間がないのです。
 このような国の動きを絶対に認めることはできません。各界からも批判の声がいっ
せいに上がっています。「本当に反省しているなら控訴などできるわけがない」 
「元患者らはいずれも高齢で時間的な余裕がない」また元患者・原告からも「国は死
ぬのを待つつもりか」(高瀬重二郎)「控訴は新たな人権侵害だ」(志村康) 「死
ぬ覚悟で座り込みをしてでも控訴を断念させたい」(堤夫妻)そして国会議員を含め
た多くの国民が判決を支持し、「国は控訴すべきでない」と主張しているのです。
 私たちの力を総結集する時が訪れました。控訴させてはならない。そして、一刻も
早く全面解決を!
 5月21日月曜日、東京霞ヶ関。ここに全国のハンセン病訴訟の原告が集結します。
かつて療養所の人々がむしろ旗を掲げて人間回復を叫んだ予防法闘争がありました。
当時無関心であった私たちも、今回は参加させていたださたいのです。長い間隔離さ
れてきた人に対して、冷たくしてきた私たちの罪を抱えて、今こそ国に責任を認めさ
せ、人間回復への道を切り開いていきたいのです。それが私たちの責任の取り方で
す。
 人の世に熱のあること、そして人間に光のあることを目指して、今こそ結集を呼び
かけます。

5月21日(月) く22日以降の行動ば流動的です>
   12:00〜3:00 厚生労働省前(地下鉄「霞ヶ関」下車)
   3:30〜5:30 首相官邸前(国会議事堂裏・地下鉄「国会議事堂前」下車)
   6:30〜8:00 日比谷高校星陵会館(国会議事堂裏・参議院議員会館裏)
        ※21日は東京都内の寺院にて宿泊の準備があります(申込不要)

【呼びかけ人】
朝比奈高昭・石川玄雄・五百井正浩・羽向貴久子・羽向智洋・大場正信・大屋徳夫・
小川正幸・尾畑潤子・尾畑文正・加藤久晴・加賀田晴美・蒲池治・清沢雅章・熊谷彰
・小松博子・酒井義一・須賀力・玉光順正・旦保哲夫・旦保立子・旦保雅人・中杉隆
法・中杉有為子・二階堂行寿・菱木政晴・平松正信・日野詢城・藤井恭子・藤永五雄
・本多知子・本田雅章・北條義信・北條良至子・北條親善・堀秀隆・真野正志・山内
小夜子・和田至紘・本間義悦・中村薫

【緊急連絡先】
酒井(090ー4546ー7381)旦保(090ー2407ー3450)
平松(090ー9964ー2941)堀(090−2235ー7129)


聞光の後輩 投稿者:悲心  投稿日: 5月19日(土)22時37分52秒

らくりんさん、いろいろご迷惑かけてお許し下さい。
私は昭和五十九年、聞光卒業ですから、らくりんさんは私の後輩でした。
年も頭もすべてあなたの方が上ですが、あなたの先輩として恥ずかしくない行動を
していきたいと思います。
掲示板は苦手ですから、いつかお会いいたしましょう。さようなら。


REまったく、もう 投稿者:しん  投稿日: 5月19日(土)21時02分39秒

今朝の新聞で、驚いた一人です。
こんなに国家って間違ったということを認めたくないんだなあと
強く思いました。国家とはなんなんでしょうね?


さあ、 投稿者:らくりん  投稿日: 5月19日(土)11時47分15秒

昼飯のそうめんでも茹でようか。
どうしちゃったんだろう、ってか?

心配ご無用


まったく、もう 投稿者:らくりん  投稿日: 5月19日(土)11時45分18秒

「控訴をした上で元患者全員との和解を図る」だと?
「前例がない」「悪しき前例になる」……こんな理由で、自分たちの過ちや非を
糊塗してしまおうとするなんて。なんたる「猥りがわしさ」であろうか。

日本の政治家とか官僚というのは、
血も涙もないふりをしなければ勤まらないんだろうか。
「あわれというもなかなかおろかなり」(こういう使い方は間違っているかもれないけど、
間違ってもこんなとこへは突っ込まないで下さいよ、皆々様)

間違っていたことがわかったら素直に「間違っていました」と認める。
そういう当たり前のことができなかったら、何一つ思い切って言ったりやったり
できないじゃないですか。
完璧な人間なんてどこにもいないんですから。間違うのは当たり前。
「間違わないようにしよう」「自分(たち)は間違うはずがない」「間違いはあってはな
らない」こんな観念に縛られていたら、窮屈で身動き一つできない。
どんどに縮こまって、無難な選択しかできなくなってしまう。
その「無難な選択」というのが、関係者すべてにとって最悪の事態を招いたりする
ことがあるんですがね。


無題 投稿者:らくりん  投稿日: 5月19日(土)09時19分02秒

「我が身」語りの我が身知らず。

人はどうして「自分はこういう人間だ」と語らずにはおれないのだろう。
そんな「評価」が自分を的確に言い当てることなどあり得ないのに。

にもかかわらず、自分を評価するだけでは飽き足らず、
他人までをも評価しレッテルを貼り続ける、
「つまらんことだ」と知りつつ、言いつつ。

もちろん、私自身も例外ではありません(為念)。


>まこさん 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月19日(土)00時40分06秒

 申し遅れました。ご回答ありがとうございます。
平和行進ですか……外国のこの手のデモ行進(反原発
かな?)見てると不吉なガイコツのかっこうした人って
いますよね。
 いっそ、お坊さんは夏だし白衣のみで、一般の方は
弔問ルックで縁起悪そうにやってみるくらいの、
芸というか茶目っ気たっぷりなものにしたら
アピール度もちがって、いいんじゃないかなあなんて。
そしたら、私も行ってみたいという気が起こりますが……


訂正 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月18日(金)13時57分40秒

 下記のカキコ中、「九段の母」の
モデルになった息子さん存命とありますが、
「岸壁の母」のモデルの息子さんの
誤りでした。関係者の皆様にはご迷惑
おかけしました。


新井英一さんはいいですよ 投稿者:らくりん  投稿日: 5月18日(金)09時14分03秒

新井英一さんはいいですよ。
大きなホールのコンサートもいいんですが、

'98年の7月に、私のお寺でコンサートをやってもらいました。
畳の上でヒザつきあわせて目と鼻の先で
あの声、あの声量、あの歌詞、あのメロディー、あの伴奏……
すべて初めての経験でした。なんかしびれちゃいました。

つれあいはファンクラブにも入っていて、一時追っかけをしているような感じでした。
私も、県内公演はもちろんのこと、福井とか名古屋までつきあったことがあります。


訂正 投稿者:まこ  投稿日: 5月18日(金)07時38分10秒

 新井新一ではなくて「新井英一」でした。どうも申し訳ありません。


東西本願寺を結ぶ非戦平和共同行動 投稿者:まこ  投稿日: 5月18日(金)05時02分22秒

(転載歓迎)

 既にご存知の方もいらっしゃると思いますが、7/8はぜひ都合をつけて下さい。

 京都にて、7月8日(日)に2001年東西本願寺を結ぶ非戦平和共同行動とし
て、当日は午後2時西本願寺大門前集合、午後2時半ミニ集会、午後3時平和行進出
発(西本願寺→堀川通り→四条通り→川原町通り→五条通り→烏丸通り→東本願
寺)、午後5時平和行進到着、午後5時半開場(大谷婦人ホール)、午後6時新井新
一コンサート開演、という計画なのですが、新井新一コンサート実行委員会に若い
方々を募集中なので、もしできるなら京都の若者に声をかけていただけるとありがた
いです。

 この非戦平和共同行動にはどなたでも参加できますから、平和行進、在日シンガー
の新井新一コンサート(前売り3000円で、チケットピアでも取り扱いで、私も預
かっています)にご自身が仲間を誘ってご参加いただくだけでなく、知り合いの京都
の大学生にはコンサート実行委員として仕事をしてみませんかと、ぜひ連絡をとって
いただけるとありがたく存じます。

 もし可能ならば私のメールアドレスまで連絡していただけると嬉しいです。どうか
よろしくお願いします。

 なお、コンサート終了後には交流会も予定されていて、宿泊も数十人規模で確保し
ています。この予約は6月上旬に共同行動ニュースに同封される申し込み葉書で確認
する予定になっています。直接には、事務局に申し込んで下さい。

 事務局は、〒515−0501 伊勢市有滝町 本覚寺(西寺 英麿)
      TEL&FAX 0596−37−3462 サイジ

まこ こと 三浦 真智
miura.makoto@nifty.ne.jp
http://www.mirai.ne.jp/~makotom/


広島の全戦没者追悼法要の件 投稿者:まこ  投稿日: 5月18日(金)04時59分50秒

 愚っ朕さんかららくりんさんへの質問ですが、回答を横取りします。

>十年前、広島護国神社の境内で戦前から続いている
>お西さんの仏式法要が真宗遺族会の告発で問題に
>なってたと思うのですが。
 真宗遺族会の働きかけがあって、数年前?(今は手元に資料がないの
で、正確な時期は調べてみます)から、広島別院での全戦没者追悼法要
に変わっています。


あらみてたのねパート2 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月17日(木)21時13分42秒

 >らくりんさんへ。やだ見ちゃ、いや〜ん。
 
 >林遊さん、ありがとうございました。
話しが面白くなりますね、人生経験の豊富な
お方々に囲まれると。新聞の片隅にこの
「九段の母」のモデルになった息子さん、
実は生きているのですが、この歌がヒットした
ため、中国から帰れなくなったとありました。
 あと、らくりんさんあれ、どうなったのですか。
十年前、広島護国神社の境内で戦前から続いている
お西さんの仏式法要が真宗遺族会の告発で問題に
なってたと思うのですが。


ブリッコ!?!? 投稿者:らくりん  投稿日: 5月17日(木)19時39分04秒

久しぶりに東京の真宗会館のサンガネットをのぞいてみたら、愚っ朕さんが
ご活躍の様子で。あちらではずいぶん「いい子」してるんですね。


九段の母 投稿者:林遊  投稿日: 5月17日(木)15時45分20秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。


 いろんな神社仏閣へ行かれても、拍手うたれたり
おみくじ引かれたりすることなく、ただ「南無阿弥陀仏」
とごあいさつされているものと察します


おもわず、「♪おがむはずみのぉ おねんぶつぅ」などと、
「九段の母」の一フレーズを思い出してしまいました。

TVでこの歌が入ると、TVに向かって合掌し、
おねんぶつを称え、涙ぐんでいたばあちゃんがいましたが、
万感の想いを込めてのおねんぶつだったのでしょうね。

同朋会の席上、ヤスクニをかたる教師に、
「こんな話をするんなら、わたしゃあ二度と別院には来ん」と
拳を握りしめ、涙ながらに語っていたご婦人がいらっしゃいましたが、
否定ばかりで、プラス面に目がいってなかった運動の実体を
垣間見たように思いました。

たしかに、小生のような者を相手の凡愚のご法義でありますから、
凡情に流されやすいのは事実です。しかし、あれはダメこれはイカンと
否定ばかりでは、まるで「らっきょの皮むき信心」でありましょうね。
ところ天でも突かにゃあ出んぞ、と仰った和上がおられましたが、
プラスのご本願の話が、夾雑物を排除するのでありましょう。

日本人は重層信仰である、などとしたり顔で語る坊主に限って、
如来の選択したもうた、なんまんだぶつの話が、仏願の生起本末が
すっぽり抜け落ちていたりするのが、困ったものですね。

何でもかんでも無原則に包摂すればよい、というわけではありませんが、
弥陀一仏のプラスの信仰であるからこそ、(悪しき)習俗や、神をも
相対化できるのでは、と思っていたりします。

「九段の母 3番」

両手あわせて ひざまづき
おがむはずみの おねんぶつ
はっと気づいて うろたえました
せがれゆるせよ 田舎もの

歌詞参照url ↓

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続

http://member.nifty.ne.jp/odasan/midi/9dan.html


ありがとう御座います 投稿者:毛坊主  投稿日: 5月17日(木)13時44分27秒

30年ほど前に、田中久夫さんの校注で、深く読んだとは言えませんが、見た
記憶があります。貞慶の、新仏教への排斥にかける、一向(ひたむき)な、
情熱・熱弁の論理構成に感心した記憶がありますが、具体的な詳細(条項)に
ついては、覚えてません。
日本思想体系と古典体系は、大部分購入しましたが、当時は、これ予約出版で
なかったか?。そんな気がしてます。恥ずかしながら大部分読んでいません。
親鸞・日蓮・中世説話集鎌倉旧仏教・沙石集などは、息子に譲ってしまい。
手元にないのですが、折りあらば、新規に購入して読んでみます。そう言えば
最近は、雑文の本の類しか読まなくなったし、根気もなくなった気がします。
細かい文字の活字が、見づらくて。単なる弁解に過ぎないかも。
ありがとう御座います。またお教え願います。


『興福寺奏状』 投稿者:らくりん  投稿日: 5月17日(木)09時21分29秒

長屋@爺さん さん、毛坊主さん、

一度『興福寺奏状』をお読みいただいたらいいのではないかと思います。

法然や親鸞の時代に専修念仏者たちの姿が、当時、他の人々の目にどのように
映っていたかが、非常によく浮き彫りになっているように思います。
岩波書店の日本思想大系15『鎌倉旧仏教』に出ています。

全文をどこかに掲載できればいいのですが、この掲示板に載せるには長すぎるし、
掲示板は流れていきますので、そういうものを掲載するには適切な場ではありません。
さりとて、私はここ以外にHPを持っていませんので、ご紹介できません。
どこかにあるかもしれませんが……。
こう書いておけば、お留守居役様さんあたりが、探し出して下さるかも、
と期待したりして。

『興福寺奏状』を読むと、法然や親鸞と、南都北嶺の仏教者たちとの仏教観の違いが
きわめてはっきりしてきます。
その食い違いがあったからこそ、法然や親鸞、そしてその同朋たちは死罪や流罪に
合わなければならなかったのです。

法然や親鸞はなぜそこまでして「専修」ということにこだわったのか、
そこがはっきりしなければ、浄土教の意義は半減どころか皆無になっていく
のではないか、と私は思っています。


皆様有り難う御座いました。 投稿者:長屋@爺さん    投稿日: 5月17日(木)07時55分34秒

らくりんさん、愚っ朕さん、お留守居役様、林遊さん、
貴重なお話を伺う事が出来ました、皆様から一通りお話を伺った処で、
自分のホームグラウンドに帰ろうと思います、
皆様も気が向いたら、私共の掲示板に起こし下さい、
数々の言いたい放題の事を言い大変失礼致しました、
又寄らせて頂きます、有り難う御座いました。    


私も追記 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月17日(木)04時23分36秒

>いろんな神社仏閣へ行かれても、拍手うたれたり
おみくじ引かれたりすることなく、ただ「南無阿弥陀仏」
とごあいさつされているものと察します。

前と後ろに
「こんにちは、依らせてもらいますよ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、はい、さようなら」
と付けてご挨拶して居ります。


あらあら見てたのね。 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月17日(木)04時12分23秒

家も飲み屋をしていますので、
お祭りは稼ぎ時です、何しろ「お客様は神様」ですからね。

寄付もお付き合いと言うより、宣伝費みたいな物です。

こんな気持ちじゃ駄目ですかね。


またまた追記 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月17日(木)03時31分18秒

 私、坊さんですが池袋のモスクに通って
ムスリムの人にイスラム教の教えを聞きに
いったりなんかもしました。
 確かにムスリムの人々には敬意を払います。
でも私はメッカの方角に向かってお祈りしない。
断食しない。いやできないか、くいしんぼだから。
豚しゃぶも牛しゃぶも食べちゃう。モスクの前を通る
(代々木上原)ことがあってもきれいだなあと
思うだけ。四谷のイグナチオ教会のステンドグラス
見ても同じ。イエスの復活祭(イースター)に出ることは
今後もないでしょうね。
 


すでに拝見しました 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月17日(木)03時08分32秒

 長屋@爺さんさんへ

 ええ、知ってますって。わざわざ、ご教示
いただかなくったって。
 よその掲示板では「町内のお祭りにも積極的に
参加」しておられるようだし「お地蔵さん」や
「道祖神」にも「ご挨拶」なさるようで。
 いろんな神社仏閣へ行かれても、拍手うたれたり
おみくじ引かれたりすることなく、ただ「南無阿弥陀仏」
とごあいさつされているものと察します。


愚っ朕さんへ  投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月17日(木)01時57分29秒

私の掲示板からのリピートに成りますが。

大無量寿経には、

「一切の荘厳、応に随いて現ず。微風徐く動きてもろもろの枝葉を吹く
に、無量の妙法の音声を演出す。その声流布して諸仏の国に遍ず。その声を聞けば深
法忍を得、不退転に住せん。仏道を成るに至りて、耳根清徹にして、苦患に遭わず。
目にその色を覩、耳にその声を聞き、鼻にその香を知り、舌にその味いを嘗め、身に
その光を触れ、心に法をもって縁ずるに、一切みな甚深の法忍を得、不退転に住せ
ん。仏道を成るに至るまで、六根清徹にして、もろもろの悩患なし。
阿難、もしかの国の人天、この樹を見るもの、三法忍を得。一つには音響忍、二つに
は柔順忍、三つには無生法忍なり。これみな無量寿仏の威神力のゆえに、本願力のゆ
えに、満足願のゆえに、明了願のゆえに、堅固願のゆえに、究竟願のゆえなり。」

と、
「目にその色を覩、耳にその声を聞き、鼻にその香を知り、舌にその味いを嘗め、身
にその光を触れ、心に法をもって縁ずる」
を味わって居るのです。


長屋@爺さんさんへ 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月17日(木)01時46分02秒

 あ、だいぶ話がずれてきた。
「自然を大切に」ですよね。「自然」
の中にいる昆虫や動物はエコロジー運動も
自然崇拝もしません。
 人間が「自然」を崇めるのは「自然」
じゃなくて「文化」だと思います。
 で、自然を愛でるのに「ケチ」つけてるわけ
じゃないですよ。「真宗」のご信心を頂いて
おられる方々が、わざわざ「神道」風の
意味付けられた「自然」をご信心されるなんて
必要ないじゃあ〜りませんかという
お話でございます。


らくりんさんへ 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月17日(木)01時28分53秒

 はあ、そうですか。すんません。
吉川英治さんは「自分以外はみな師」
っていってはって「私も見習おう」と
思ったのですが……
 安手の酒場にいくと誰でも「シャ
チョウさん」「センセイ」ですからねえ……
大阪なら「タイショウ」ですわ。


私も、 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月17日(木)00時26分42秒

「狂行信証」でも書いて「立宗宣言」をすれば、
異端者では無くなるのかしら。

でも、そんな智慧もないしな〜!


親鸞聖人も、 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月17日(木)00時21分11秒

「顕密体制下」の時代には「異端者」と言われて居たのでは無いですか。
親鸞さんは、間違って居たのでしようか。


re:でも、 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月17日(木)00時09分52秒

異端者というのは、間違えている人のことですから、
間違えていないのに異端者を名乗るのも間違いですね。


浄土は 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月16日(水)23時41分35秒

恋しからず候。

異端者結構、異安心結構、地獄一定のこの私です。

蓮如さんより、一休さん、良寛さん、が好きです。

日蓮宗の方達とも「異宗派の友」としてネットで良くお話させて頂いて居ります。


でも、 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月16日(水)23時29分04秒

間違いだとは思って居りません。


re:だから私は、 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月16日(水)23時14分55秒

誤りを素直に認めていただけてうれしいです。


だから私は、 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月16日(水)23時09分33秒

「異端者、異安心、化土人」と言われて居ります。


大は小を含まない。 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月16日(水)21時46分03秒

浄土門は大道で、聖道門は小路であることは、
林遊さん、ご指摘のとおりだと思います。
大道と小路は別物で、大道の中に小路は含まれていないと思います。
大学生の中に小学生はいないでしょう。

浄土門と聖道門のことを易行道と難行道とも言われます。
易行道と難行道は、大いに異なると思われます。

選択本願念仏という言葉があります。
念仏だけを本願として選ぶという意味かと思います。
念仏以外の諸行は本願ではないということですから、
聖道門は本願ではないことになります。

長屋@爺さんは、勘違いしているとしか思われませんです。


あたりまえのことですか。 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月16日(水)01時26分19秒

>娑婆であたりまえの事を、あたりまえに出来ないんですかねぇ。
なんだかなぁ・・・・・・。

あたりまえの事があたりまえに出来るなら宗教はいりません。

 


智愚の毒を滅す 投稿者:林遊  投稿日: 5月16日(水)00時24分24秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

○ 本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ
  二乗・三乗、万善諸行の小路なり。(東234/西244)

○ 万行諸善の小路より
   本願一実の大道に
  帰入しぬれば涅槃の
   さとりはすなはちひらくなり(東494/西587)

「在家も出家」も無い、「悪人も善人」も無い、「浄土門も聖道門」も無い、のでは。


このような一元論的平和な娑婆ならば、何故、わざわざらくりんさんは、
掲示板にアピールの文言を書き込まねばならないのですか。

で、本願一実の大道とは、「ただ念仏」という
「安養浄土の往生の正因は念仏を本とす」(尊号真像銘文)
という、往生浄土門の用語でありましょうに。

しかし、「本願一実の大道」という語に依らなければ、
娑婆であたりまえの事を、あたりまえに出来ないんですかねぇ。
なんだかなぁ・・・・・・。

  なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


本願一実の大道  投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月15日(火)22時17分47秒

「本願一実の大道」と言う言葉が有りますね、
大道と言うからには、広々とした大きな道と言う事だと思います。
「在家も出家」も無い、「悪人も善人」も無い、「浄土門も聖道門」も無い、のでは。

先ほどのらくりんさんの転載記事を読むに付け、
私は仏説の論理的、実践的把握に付いて、
「浄土門も聖道門」もさほど異なる処は無い様に思います。
因みに私の掲示板にも転載し、FAXも入れて置きました。

親鸞聖人が言われた「信心の智慧」を持って、自分は如何に生きるべきか、或いは人々の幸せの為には自分は何が出来るかを問い続ける事が仏教者としての大道だと思います。

 智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり
 信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし

この言葉を常に思い興し、
私の「大道」を歩んで行きたいと思って居ります。


新しい本願の道 投稿者:林遊  投稿日: 5月15日(火)21時28分18秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

本願に、二つも三つもあるのではありません。
新しいという修飾語は行じて証する、
「聖道門」に対する「浄土門」の意味で使用しました。
このことは自明だと思っていたのですが、
長屋@爺さん さんを誤解させたのならすんませんです。

親鸞聖人は、「聖道の諸教は行証久しく廃れ」(後序)と、
釈尊と同じような覚りを獲る道を否定され、
「浄土門」という本願力廻向の道に入られたのではないですか。
浄土門こそが、
○〈正道の大慈悲は出世の善根より生ず〉といふは、平等の大道なり。
と「論註」を引文して仰られた平等の大道だと小生は領解しています。

なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


下記そのまま転載しておきました。 投稿者:毛坊主  投稿日: 5月15日(火)21時08分20秒

お役に立てば・・


転載です。よろしくお願いいたします。 投稿者:らくりん  投稿日: 5月15日(火)20時48分57秒

友人から下記の依頼が送られて来ましたので、この掲示板に転載いたします。
よろしくお願いいたします。
(実名の表示についてはご本人に了承を得ております)
なお存明寺さんのHPは http://www2s.biglobe.ne.jp/~zonmyoji/
です。

>緊急のお願い (転送歓迎)
>
>酒井義一(ハンセン病訴訟を支援する会・存明寺住職)
>
> マスコミでの報道でもご承知の通り、5月11日、熊本地裁においてハンセン病国賠
>訴訟の歴史的かつ画期的な勝訴判決がでました。
>国(厚生省)の責任は勿論、国会の責任も認める内容でした。
>
>国(厚生労働省・法務省)に控訴しないよう要請をお願いします。
>控訴は裁判の長期化を意味し、高齢の元患者さんにさらに苦しみを強いることにな
>ります。
>国が真摯に判決を受け入れ、ハンセン病問題に対しての全面解決の道を歩むよう要
>請して戴きたいのです。
>
>全国13園に住む入所者は4450人、平均年齢は74歳、毎年約 200人の人が亡くなって
>います。
>もう時間がないのです。
>
>控訴期限は2週間ですから、5月25日までです。
>お願いです。 5月21日までに、以下の方々に、FAX、電報、メールなどで、控訴をし
>ないようメッセージを寄せてください。
>この時をのがすと、解決はまた何年も先になってしまいます。
>どうぞよろしくお願いします。
>
>内閣総理大臣 小泉純一郎殿千代田区永田町2-3-1 内閣総理大臣官邸FAX 03−
>3581−3883

厚生労働大臣 坂口力殿
千代田区霞が関1−2−2 中央合同庁舎5号館 厚生労働省
FAX 03−3595−2020
メール www-admin@mhlw.go.jp

法務大臣 森山真弓殿
千代田霞が関1−1−1 法務省
FAX 03−5511−7210
メール webmaster@moj.go.jp


マルキシズム風階級概念 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月15日(火)19時02分08秒

なんて関係有りません。

親鸞さんは、かみさんを持ち、子供も多く作りましたね。
その事自体も決して親鸞さんが始めてでは無いでしょう。
普通に飯を食い、かみさんの愚痴を聞き、夫婦喧嘩もしたでしょう。
夫婦間の営みも我々と何ら変わる処は無いはずです。

階級概念が有るとすれば、親鸞さんの意志を知ってか知らずか、
新しい本願の道を選び取り、の旧仏教を棄て切った・・??
これを「離脱宣言」と呼びます。

本願の道は「久遠」の昔から有ったのではなですか。
「新しい本願の道」だとか「顕密体制下」だとか言われる事の方が、
「階級概念」から抜け切れて居ないと私は思います。


三願転入 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月15日(火)18時41分02秒

がホップ、ステップ、ジャンプに喩えるなら。

>師を棄て同輩を棄て、自らの二十年の仏道修行を棄てて、法然聖人の選択
本願の道へ飛び込まれたのが親鸞聖人だと思います。

は、私には合点が行きません、師なかりせば、叡山での20年の修行がなかりせば、
法然上人に出会って居なかったでしょうし。

捨てたと言うならば何故、「三部経」以外の他の仏説を引用するのでしょうか。
他の仏説なかりせば、「信証」は存在しえたのでしょうか。


自業自得 投稿者:林遊  投稿日: 5月15日(火)16時12分26秒

林遊さん、何で当時越後におられた「恵信尼」さんが、いくら「ちくぜん」
という宮仕えの名を持っていたとしても、奉公に出たりするんですか。
「覚信尼」さんの間違いじゃありませんでしょうか。

いつも思うのですが、あなたのシッタカブリッコの書き込みは嫌みですよ。


またまた訂正 投稿者:林遊  投稿日: 5月15日(火)15時58分02秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

>投稿者:林遊  投稿日: 5月15日(火)15時40分36秒
親鸞聖人は、「願文」の「破戒」という語に自らの存在意義を


「破戒」を「無戒」に訂正します。破戒じゃ市中に虎が出そうですし、
御開山の思想が判りにくくなりますね。すんませんです(笑)。

なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


でかすぎる!!。 投稿者:林遊  投稿日: 5月15日(火)15時49分52秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

「願文」のデータが大きいので書き込みできません。
で、「阿弥陀さまがご一緒」のbbsに置いてあり
ますから、お暇なときどうぞ。

なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


雑行を棄て本願に帰す 投稿者:林遊  投稿日: 5月15日(火)15時40分36秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

いわゆる近代教学で、マルキシズム風階級概念で親鸞聖人を理解しよう
とした亡霊の弊害がいまだに残ってるんですね。

『教行証文類』の切り貼りから、御開山は貧乏で紙も満足に入手できな
かったとか、食べていく為に末娘の恵信尼さんを奉公に出さなければな
らなかったとかいう、貧乏物語をでっちあげ、親鸞聖人を階級闘争の道
具に仕立て上げたのでしょうね。

親鸞聖人が貧乏でなかったという事は、お使いになっているた紙・筆・墨
が極上の物を使っておられたそうです。紙は綸旨紙といって天皇の綸旨に
使用された五位以上の人でなければ使えないものを使っていたり、中国製
の良い筆と良い墨を使っておられたおかげで、七百年以上経っても墨跡鮮
やかな『教行証文類』が残ったと聴いた事があります。
(ここいらはたしか、らくりんさんが著書の中で感動しておられましたね)

親鸞聖人は中流とはいえ貴族出身者でありますし、流罪地を奥様の実家の
領地がある越後に選定された背景には、同族の一門のとりなしがあったの
だろうと小生は推察しています。(結婚時期については諸説あり)

なんでも「流罪」という刑罰は、同族から引き離す、という事が目的の刑
罰だったらしいのですが、鹿ヶ谷の変で鬼界島に流された俊寛さんの狂お
しいまでの望郷の念を思う時、現代の我々とは違う精神構造があったのか
もしれませんね。

で、「雑行を棄て本願に帰す」という語にもう少し着目してもよいと思う
のですが、本願の前には、「僧俗」というカテゴリーは無化されるのでは
ありませんでしょうか、と小生は思います。

師を棄て同輩を棄て、自らの二十年の仏道修行を棄てて、法然聖人の選択
本願の道へ飛び込まれたのが親鸞聖人だと思います。勿論、流罪という外
的要因が直接的には「非僧非俗」という語になったのでしょうが、愚禿と
いう名乗りが最澄大師の「願文」からだとすれば、「願文」の「破戒」と
いうと語と合わせて考察するのも面白いですね。
親鸞聖人は、「願文」の「破戒」という語に自らの存在意義を確かめ「非
僧非俗」という新しい本願の道を選び取り、顕密体制下の旧仏教を棄て
切ったのだと小生は思います。これを林遊は「離脱宣言」と呼びます。

ps
ついでですから、「願文」をupしておきます。

なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


Re:葬儀について 投稿者:林遊  投稿日: 5月15日(火)14時24分57秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

葬儀屋と施主との会話

葬>ところで、葬儀はどの御宗旨で執り行いますか?
施>えっ?、宗旨って・・・・。

葬>あの〜、葬儀を行なうお宅様の宗教のことですが。
施>はあ、よく判らないので田舎に電話してみます。
・・・・・・・
施>判りましたッ!!。田舎の兄に叱られましたが、
  南无阿弥陀佛を称える宗教らしいです!。

葬>南无阿弥陀佛にも、浄土宗とか浄土真宗があるのですが・・・?。
施>う〜ん、何やらややこしいんですね。もう一回田舎へ電話してみます。
・・・・・・・
施>今度は間違いありません(キッパリ)。浄土真宗という
  ゴカイサンという人が拓いた宗教らしいです!。
葬>その〜、申し訳ありませんが、浄土真宗にもお東とかお西とか、
  真宗十派といわれるのがあるんですが、どのご宗旨でしょうか?
施>へッ?????。

などという話を某寺の報恩講で一緒に酒を酌み交わした、東京で
定年後役僧をしているという方に聴いたことがありましたです。

「東京の人間は宗教音痴のあほばっかりじゃのぉ」と言う小生に、
「そのあほの出身地が、ほとんどあなたの住む北陸出身者なんです」
と、言われて○▲@★☆●◇■になった事があります(笑)。

全国の念仏者諸君!。東京へ出る娘/息子にはせめて懐中名号を
荷物の中に忍ばせてやって下さいましね。

なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


補追 投稿者:らくりん  投稿日: 5月15日(火)10時10分26秒

訂正:林遊さんの書き込みを読みなおして
「佐土院」(前二つとは別筆)―→「佐土院」(前二つとは別筆/別時筆)

古田武彦さんの説を紹介するのは、絶対にこう解釈しなければならないというわけでは
ありませんが、今のところ、私にとって最も説得力のある考証であるからです。
特に「今上」は「執筆時点でその地位にある「現任の天皇」にしか用いられない
というのは、動かしがたいと思います。

愚っ朕さん、
あまり気持ちがいいわけじゃないので、「師匠」呼ばわりすることは、
冗談だろうが本気だろうが、できればごめん蒙りたい。
「やめろ」と強要はしませんが


「読書会」用カキコかも知れないけど 投稿者:らくりん  投稿日: 5月15日(火)09時19分25秒

林遊さんフォローありがとうございます。
「佐渡(土)院=順徳院」は1242年、「後鳥羽院」に諡号が改められた
約2ヶ月後に亡くなっています。そして「順徳院」の諡号が定められるのは、
林遊さんがおっしゃるように1249年です。つまり、皇族としての没後の正式呼称
が、亡くなってから7年も定められなかったわけです。

この辺の研究・議論は大正時代から戦後の、親鸞論争や『教行信証』成立年代
論争で盛んに言及されていた問題です。
ただ、私自身の現在の関心は、そうした歴史家によってなされた『教行信証』成立史
研究の視点とは少し違っておりまして、おそらく初めの『教行信証』の構想の中には
含まれていなかったにもかかわらず後から追加で加えられたのではないかと思われる
『大集経』の書写の筆跡が、親鸞70歳頃のものだと推定されていることです(重見
一行氏『教行信証の研究』法蔵館)。

つまり、「後の鳥羽の院と号す」と「土御門院と号す」(この二つは同筆)、そして
「佐土院」(前二つとは別筆)がいずれも親鸞70〜77歳の間に書かれたと考えら
れるこれらの補追と、『大集経』の書写はほぼ同時期になされているということです。
この時期に、30年以上も前に因縁があったこれら三上皇に関わる問題に関心を寄せ
ていたことがわかるわけで、『親鸞の教行信証を読み解く』第五巻の私の解釈はそれ
ほど的を外していないかなという意を強くしている次第です。


「したい」了解 について 投稿者:らくりん  投稿日: 5月15日(火)09時04分59秒

ですから、古田武彦さんの非常に厳密な考証の結論として、
いわゆる「後序」の「非僧非俗」「愚禿」という記述は、佐渡への流罪が決まった
親鸞35歳の直後に記されたと考えざるを得ず、どんなに遅くとも38歳になる
前にしか書けないのだそうです。

そして、古田さんによれば
あの部分は、朝廷に提出するための公式文書としての体裁がきちんと整っている文書で
おそらく、流罪の決定に対する奏上文として作成されたものを、
『教行信証』を撰述する際にあの位置に「文類」の一つとして「引文」されたのではな
いかということです。

ですから、「非僧非俗」も「愚禿」も越後での生活が板につく前に書かれている
ことになるのだそうです。

長屋@爺さん さんが、そのように了解されたいのなら、
それでもかまわないと思いますが、
一応現在の歴史の研究者(私は歴史が専門ではないので、そうした研究に依拠す
るしかできません)においてはそのような見解が定着しているということを踏まえて
おいてもいいのではないかと思います。


俗に浸りきっている私には、 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月15日(火)03時52分05秒

流罪の地での生活を思えば、女房子供を抱え、
かみさんからは「明日食べる採が無いけどどうするの」等と愚痴られて、
自身の生活や周りの農民達の姿に、何とかしなければと「いっさい教」を読もうとしたり、
そして途中で辞めたり、
「僧にも成りきれず、俗にも成りきれず」に居たのでは無かったのではと思うのです。

永い信仰生活を経た後に「決別」だとか「離脱宣言」等と言う確信を得たのでは無いでしょうか?


すいません 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月15日(火)03時18分24秒

 下記のカキコ中、林遊さんに敬称が抜けてしまった.


葬儀について 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月15日(火)03時15分38秒

 らくりん師匠もご存知の私の大師匠。とってもユニークな方で
ありました。(ってまだ死んでへんちゅうに)
 檀家さんのお宅に亡くなられた方があると「お葬式しますか?」
とまず尋ねられ「(そんなん当り前やろ)」といった顔のご家族に
対して「故人が生前信仰しておられた宗教ありますか。モルモン教、
天理教、立正佼成会……もしあるんならそっちの方に頼まれたら。
また真宗ゆうても色々出来ますけど」といわれる。檀家さんはいっ
そう怪訝な顔されて「ふつうのんでええです」といわれる。
(『仏教・葬式を考える』法蔵館1992)
 お寺では、毎月寺報を発行され、一人芝居・コンサート・映画会
・落語会など様々なイベントを企画され、毎月の定例法話の他、
「教行信証」「大経」の学習会。阿弥陀経や正信げなどのお勤めの
稽古などなど、またその合間を縫って全国各地のお寺・学習会に
出向され精力的にこなしておられた。
 また、大阪の日雇い労働者の町、釜が崎にも足を運ばれ、
「行き倒れ」になった仲間を弔って欲しいという労働者の為、
カンパ程度で立派なお葬式をしておられた。
 現代語に訳したお経で法事を勤められたりもした。私も
やっていたが檀家の中に「こんな誰でも読める様にして」と
怒られた事もある。林遊みたいに熱心なご門徒さんばっかり
やったらええけどそうじゃない方のほうが圧倒的に多い。
いわば無関心派。こんな熱心なお坊さんもいるのですよ。
なんやかんやいうてもこの私の書きこみを許してはる
らくりん師匠も太っ腹ですよ。


資料編  投稿者:林遊  投稿日: 5月15日(火)00時48分45秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

ちなみに、赦免のことを述べてある「佐土(渡)院」は、
建長元年(1249)に順徳院の諡号が定められるまで用い
られていたそうです。
とすると宗祖70〜77歳までの間に、三天皇の註記の
部分がなされたことになるのでしょうね。もっとも「佐
土院」の註記は別時筆or別筆だそうですが。

で、小生はここいらへんはさっぱりわかりませんので、
(素人の手におえん)専ら本派の「真宗聖典編纂委員会」
を信用していたりします。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


re:人間のくず 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月15日(火)00時25分28秒

仏教は、ヒューマニズムではないですから、
林遊さんのお説ごもっともと思います。
とりわけ、浄土真宗は、他力主義ですから、
人間主義であるはずがありません。


訂正 投稿者:らくりん  投稿日: 5月15日(火)00時10分30秒

(誤)親鸞は、承元の法難から25年も経ってから

(正)親鸞は、承元の法難から35年も経ってから


「後序」あれこれ 投稿者:らくりん  投稿日: 5月15日(火)00時05分39秒

古田武彦さんの『親鸞思想』(冨山房/明石書店から復刻)第二篇第三章によれば親
鸞が「後序」の「竊に以みれば……五年の居所を経たりき」の部分を実際に書いたの
は承元の法難直後のことだそうです。
古田さん最も基本的な論拠は「今上諱為仁」の「今上」という表現は、その文章を書
いている時点の「現任の天皇」を指してしか用いられないということです。古田さん
は、当時の文献をしらみつぶしに検証してそのことを論証しています。天皇為仁(土
御門天皇)が退位したのは1210(承元4)年、親鸞38歳の歳です。承元の法難は
1207(承元1)年、親鸞35歳の時です。ですから「非僧非俗」も「愚禿」の表現も、
遅くとも38歳の時までには書かれているということです。

ついでに、このところこの辺の問題にかなり関心が集中しているのでいろいろなこと
に気づきました。その中でも非常に興味深いことを一つ報告しておきます。
坂東本の「後序」の「太上諱尊成」「今上諱為仁」の横には、後から「後の鳥羽の院
と号す」「土御門の院と号す」という補記がされているのですが。「後鳥羽」も「土
御門」も生前にはこのように呼ばれることはありませんでした。これらは死後に「謚
号:しごう/おくりな」として贈られるものです。たとえば、昭和天皇は生前は「昭
和」天皇と呼ばれることはありませんでした。現在の天皇も「平成」天皇と呼ばれる
ことはありません。
逆に現在から昭和の時代に起こったことを思い出して書く時に、「当時の〈今上〉天
皇」という表現もないということです。
「後鳥羽」上皇が亡くなったのは1239(延応1)年親鸞67歳の時で、最初は「顕徳
院」という諡号が贈られますが、怨霊説が巻き起こり3年後の1242(仁治3)年にあ
らためて「後鳥羽」という諡号が贈られます。親鸞は70歳。それ以前は「後鳥羽
院」と称されることはなかったわけです。土御門院はもっと前に亡くなっています。
つまり親鸞は、承元の法難から25年も経ってから、後鳥羽院が亡くなって、「後鳥
羽院」という諡号与えられして、後々彼がこの諡号で呼ばれることが確定してからあ
らためて、この人物を特定する書き込みを追加しているということです。そこまで親
鸞がこの人物を特定し、後代に伝えようとされたのではないかと思います。


訂正 ゴメンです。  投稿者:林遊  投稿日: 5月14日(月)23時38分05秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

>投稿者:林遊  投稿日: 5月14日(月)00時45分45秒
五劫という気の遠くなるほどの間、喚びずめの親さまじゃったんじゃなあと、


五劫という気の遠くなるほどの間、考え抜いて建てられたご本願じゃなあと、

に訂正します。親さまは塵点久遠劫より喚びずめでありましたです。

で、何のこっちゃという方へ
浄土真宗の葬儀では、宗祖親鸞聖人のお作りになられた『正信念仏偈』を
読誦しますが、「五劫思惟之摂受」のところだけは導師のみが読誦します。
この後に葬儀屋さんが、お焼香の案内をするのですが、浄土真宗の葬儀に
参列する機会がありましたらよ〜く観察しましょう(笑)。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


人間のくず  投稿者:林遊  投稿日: 5月14日(月)23時23分20秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

え〜、人間のくずとか人非人や人でなしは、
林遊の十八番(おはこ)だったりします。
で、あまり喧しく言われてばかりいるので、
そんなに人間が偉いんかいぃと開き直っていますです(笑)。

「人倫」という言葉がありますが、得体のしれない「人間」という
概念が、人の心の根底に巣くっていそうですね。

たいぶ昔のことですが歎異抄の一節をタイトルにした、
「我が心のよくて殺さぬにはあらじ」?とかいう本を読んで、
文中に突然表われた人間としてというフレーズに、頭に来て本を放
り投げた事があります。作者は「人間」というあやふやな平均的人
間像の上に、「歎異抄」の論理をちりばめたのでありましょう。
抜きがたき「人間教」(林遊は神道という)の上で、往生浄土という
ご法義を理解しているのでありましょうや、アホラシ。

で、小生は浄土真宗という往生浄土を期するご法義は、
平均的人間の上で論ずるご法義ではないと思っていたりします。
教育も訂正も不可能な、縁がもよおせば何をしでかすかわからない、
どうしようもない、我らのご法義だと密かに思っていますですね。

 ありがたや 六字の縄にしばられて 
  こころのままに ならぬうれしさ

などと家のじいさんが示してくれましたが、なるべく親さまに
ご心配をかけないようにと思う今日この頃です。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


だいぶ盛り上がってきました 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月14日(月)21時06分45秒

 >愚っ朕さん江  by林遊さん

 あ、この話ですか。前段はお東の葬儀関係のパンフレットに
よく見られる言葉。後段はお西の坊さんの友達がもってた築地
の東京仏教学院のテキストからの言葉。
 ま、あんまりお坊さんをいじめるのもどうかなと思うこの頃。
葬儀の現状がそうではないから、僧侶の仕事したくなくなった
のですけど。なんぼ、自分だけの努力だけで変えようと思っても
なかなか難しい。さて、今会社のリストラにあって失業中。友達
からは「人間のくず」というありがたい称号をいただいておる私です。 


なるほど 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月14日(月)19時35分59秒

有り難う御座いました。

一つ質問が有ります。
親鸞聖人が「非僧非俗」とか「愚禿」と言う言葉を使われ始めた時と、
信証で語られた時では、可成りの時間差が有ると思うのですが、
聖人は初めから「決別」だとか「離脱宣言」等と言う確信に満ちた物だったのでしようか?
その辺りを教えて下さい。


長屋@爺さん さんへ 投稿者:らくりん  投稿日: 5月14日(月)19時03分49秒

「真宗 ブックレット」のシリーズはどれを見ても玉光順正さんの名前が出ていますから、
不思議に思われたのかもしれませんが、兵庫県の大谷派の光明寺というお寺の住職です。
このブックレットシリーズの仕掛人ですので、どれにも名前が出てきます。
彼の名前がたくさん出てくるのはこのような理由です。

死刑制度の問題や、先日熊本地裁でハンセン氏病の国家賠償訴訟の判決が出ました
が、これらの問題でも、大谷派ではいち早く取り組んだ人です。
私がつきあっている人の中では、めずらしく蓮如上人を高く評価している人です。
伝統的な蓮如観とはちょっと違った視点から、ユニークな蓮如論を展開しています。

私は個人的にもお付き合いがありますが、一見ちょっととっつきにくいタイプに
見えますが、私にとってはとても魅力的な先達の一人です。

『親鸞の教行信証を読み解く』の第一〜五巻は明石書店から出ておりますので、書店
から注文できます。私宛てに、送り先住所、電話番号、必要な巻と冊数をメールを
いただければ直送いたします。『エイズという時代』もあります。

「名古屋御坊」は真宗大谷派名古屋別院の月刊紙です。
今年4月にお話しさせていただいたものの抄録です。この時は、毛坊主さんもご来場
なさっていたとの書き込みがあったかと思います。「非僧非俗」云々の書き込みは
その話の内容に対するコメントだったのではないかと、私は受け止めております。
名古屋別院のHPはhttp://www.ohigashi.net/index.html
です。ここの教化センターe-center@ohigashi.net
に問い合せればいいと思います。


玉光順正さん、てどんな人? 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月14日(月)17時50分09秒

お留守居役様に紹介された「トモネット」を見て居て、
「レッドブックス」の著作者で「玉光順正」と言う方の名前が、
多く出て居りますが、どんな方なのでしょうか。


愚っ朕さん江 投稿者:林遊  投稿日: 5月14日(月)00時45分45秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

>投稿日: 5月13日(日)20時24分23秒
「亡き人をご縁にして仏法にあう。とか亡き人に代わって最後の勤行」
というのが意味付けでありましょう。
>(改行位置変更)

うっそだ〜。まじにこのような事を信じているわけ?。じゃ亡き人が
生きていた時、一体坊主は何してたのねんのんねん。

死人に口なしとばかり、死人を差別してるんじゃあ〜りませんですか。

せめて、「五劫思惟之摂受」の処で、
この棺桶の中にいる奴にも、百万円の袈裟つけて
殊勝な顔してオットメしている私にも、
五劫という気の遠くなるほどの間、喚びづめの親さまじゃったんじゃなあと、
よよと泣き崩れるのが真宗坊主たる者ではありませんでしょうか、と、思う。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


林遊さん、こんにちは。  投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月13日(日)23時52分51秒

初めまして、宜しくご教示お願い致します。

「非僧非俗」に付いてのお話、昨日のらくりんさのお話と合わせて、
「成る程、そう言う意味なのか」と解りました。


母の日 投稿者:林遊  投稿日: 5月13日(日)23時41分02秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

日本人の子供に聞くと、お母さんはご飯を作ってくれるからありがとう。
いつも洗濯をしてくれるからありがとう。

某国の子供に聞くと、私を産んでくれてありがとう、というと聴いた事
があります。

林遊はへそ曲がりですから母の日にプレゼントなんかしたことがありま
せん。しかし小生の誕生日に、ワシ産んでくれてありがとなと言ってお
りましたです。

「我、誕生の日は 母苦難の日」であったのでしょう。
そんなお袋も、いまはもう十方微塵世界に満ち満ちている、なんまんだ
ぶつになってくださいました。ありがたいこってす。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


Re:平和について 投稿者:林遊  投稿日: 5月13日(日)23時00分48秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。


あいもかわらずレトロなロマンの源泉「日本的」
なるものにつながるお祭りになぜ郷愁を感じておられる
のだろうか。


西洋人は、一人ひとりの個人というものが確立し石のようなものである。
積み上げればピラミッドのようなものが出来る。それに較べれば日本人
は没個性的で、社会的協調性を大事にする。放っておいても自然に粘土
のように固まりあう、と聴いたことがありますね。
ちなみにロシア人は砂のような国民性で、積むことも固めることも出来
ないから、何らかの枠に入れておかなければバラバラになるとの事。

で、現代日本人も西洋の真似をして、石のような個性の確立を目指した
のでしょうが、宗教抜きでやっちゃった為、砂粒のような個性(ある意
味の利己主義)になっちゃったんでありましょう、と思う。

このような砂粒が、不安に駆られて粘土に戻ろうとしているのが、保守
化であり、単細胞なノスタルジーでありましょう。素朴な「日本的」死
生「感」のなれの果てだと思いますです。浄土真宗風に言えば、自らの
煩悩を見つめる「力」が日本的個性確立の源泉なのですが、現代人は煩
悩を見つめる力が劣化しているんでありましょう。

まさに、人の世は 地獄の上の花見かな、でありましょうね。

なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


Re:非僧非俗 投稿者:林遊  投稿日: 5月13日(日)22時59分53秒

ども、長屋@爺さん はじめまして、林遊@なんまんだぶつです。

言葉というものはどの様な文脈で、またいなかる思想を基底として語ら
れたかのかを無視することは出来ません。まして一人の人間が二十数年
の長きにわたって、自らの「聞くところを慶び、獲るところを嘆ず」を
書きついできた書物にあってはいっそうその感を強くします。

「非僧非俗」なる漢語は『教行証文類』の後序の文言ですが、歎異抄の
後序にも流罪の記録の後に和語で「親鸞、僧儀を改めて、俗名を賜ふ。
よつて僧にあらず俗にあらず、しかるあひだ、禿の字をもつて姓となし
て・・」とあります。また流罪に関しての記録は横曽根門徒に伝持され
た「血脈文集」末尾にも記されています。
面白いことに、「本願寺の聖人親鸞伝絵の上」(高田派専修寺の聖人で
はないのがみそ)で始まる、親鸞聖人の門弟を自らの教団に統率しよう
と企図した、いい意味でも悪い意味でも策師であった覚如上人の「御伝
鈔」にも、ほぼ後序の文面が引用されています。

家のじいさんやばあさんは、「御開山は、流しモン(流罪者)におうて
まで、娑婆ではどもならんウララの為になんまんだぶつ一つでお浄土へ
やって下さるって言うてくださるんにゃなぁ」と申していました。

既存の秩序体系や倫理体系ではなく、まったく異質な新しいコスモロジ
ーを、<往生浄土>を真宗とする体系の中に見ていたのでありましょう。

で、ここまでが前置きです(笑)。


「決別」だとか「離脱宣言」等と言うのは、思い上がりであり自力だと思います。


○ 主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗
  興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に
  坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。
  しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす。

◎ 天皇も臣下のものも、法に背き道理に外れ、怒りと怨みの心を抱いた。そこ
  で浄土真宗の一宗を興された祖師源空聖人をはじめ、その数人について、罪
  の内容を問うことなく、不当にも死罪に処し、あるいは僧侶の身分を奪って
  俗名を与え、遠く離れた土地に流罪に処した。私もその一人である。だから、
  もはや僧侶でもなく俗人でもない。このようなわけで、禿の字をもって自ら
の姓としたのである。(本派聖典現代語訳)
  
「非僧非俗」という語(ことば)は、「僧儀を改めて姓名を賜うて遠流
に処す。・・・・しかればすでに僧にあらず俗にあらず」とあるように、
直接的には為政者による僧籍剥奪という事態から考察された語でありま
しょう。しかし、「雑行を棄てて本願に帰す」と自ら「官僧」の地位を
棄て、一介の隠遁者として法然聖人の門下へ入られてしまわれたのが親
鸞聖人です。そのいわば非僧である聖人があえて「非僧非俗」と仰った
背景は、当時の顕密体制下の仏教界との訣別であり僧・俗という二項対
立の否定であり、釈迦仏教からの離脱宣言である、と小生は思います。
『教行証文類』の信巻には、有名な四不十四非があげられていますが、
僧俗や善悪などという二項対立を超えた世界を、みていらっしゃたのか
もしれません。

「人生は如来にあわせていただく道場である」という言葉があります。
親鸞聖人は、世俗の権力によって「僧儀を改め」られたことを逆転し、
かえって自らの選びとして本願を聞く道場とされたのでしょう。自らを
「非僧」であると位置づけることにより、強制された状態を逆に自らの
選びとした生き方に転じられたのでありましょう。また、「このゆゑに
禿の字をもつて姓とす」と仰るのは最澄さんの「願文」の「愚が中の極
愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄」から、「愚禿」の名乗り
をなされたというのは定説ですが、愚かな禿比丘(破戒僧)として、そ
れでも「非俗」として、如来の真実義を聞き拓くのだという矜持が「愚
禿」という名乗りなのでしょう。(ここいらへんは一度「願文」をお読
みになると面白いです。)

愚禿(非僧、破戒僧)として如来に背きながら、世俗の煩悩に呻吟しな
がらも、それでも「汝は如来の子である」という教説の前に、人生を如
来にあわせていただく道場であるとされ、往生浄土を期していかれたの
が親鸞聖人だと思います。

で、これを「思い上がりであり自力だと思」われるのか勝手ですが、ど
うも自力という概念が小生と長屋@爺さんさんでは違うようですね。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


宗教の歴史の中で 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月13日(日)22時42分33秒

争い事は何処にも付いて廻って居ります。

日本に限って見れば、むしろ「神道」の方が平和主義の様に思えます。

私の拙い知識ですが、「自然神」を敬う「神道」と「皇室神道」「神社神道」とは
別物だと思います、明治の時代に軍国主義者達に依って、「皇室神道」を国教として、
「国家神道」成る物が出来たと、聞き及んで居ります。


お祭りと国家神道を、  投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月13日(日)22時08分07秒

どうして結びつけるのでしょうか。

先ほど私の「掲示板」に毛坊主さんが書き込みされました、
私のコメントも有ります。

其方を一度見てください。

>「真宗」は戦前、戦後どう「平和」に対応してきたのか?そして「国家神道」に
いかなる態度をとってきたのか。

私も知りたいのです。

PS.
お留守居役様、ご教示有り難う御座います。  

http://www81.tcup.com/8101/minamiku_maeda.html


『エイズという時代』 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月13日(日)21時49分41秒

私は下記で入手しました。

http://www.tomo-net.or.jp/book/pub_08.html


平和について 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月13日(日)21時41分04秒

 私など門徒の家で育ったものではないので
長屋@爺さんにこそお尋ねしたいです。
「真宗」は戦前、戦後どう「平和」に対応
してきたのか?そして「国家神道」に
いかなる態度をとってきたのか。そして
門徒の方々はそれをどう受け止めてこられたのか。
またぞろ小林よしのりさんの漫画等によって
「元気の出る」歴史が語られ若者に受ける時代に
あいもかわらずレトロなロマンの源泉「日本的」
なるものにつながるお祭りになぜ郷愁を感じておられる
のだろうか。昔、僧侶だった頃門徒のおばあさんが
提灯行列が懐かしいといわれていたが、それに
似タモノダラウカ。


やらない勇気とやる勇気 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月13日(日)21時07分42秒

どちらも大切だと思います。


愚っ朕さんへ   投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月13日(日)21時03分16秒

愚っ朕さん、こんにちは。

>みんな楽しいにお祭りやってんねんからお前も半被着てみこしかつげいわれた
って私はかつぎません。
>いややゆうのにやりたくない人を異端視するのが
「へん」だし極端にいうとお国のために駆り立てるのも一緒やないですか?
>ちなみに私不登校で中学校から学校いきませんでしたが、いまや同調者が増えて
非常にうれしい。
>やりたくなかったらやりたくないことを保証する世の中の方が平和です。

混ぜ返す様ですが、
やりたい事を保証する世の中でも有ると思います。
私も「異端者、異安心、化土人」と言われて居ります。

「平和」と言う事に関しては、「真宗」はどう対応して来たのでしょうか?


「親鸞の教行信証を読み解く」読書会 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月13日(日)20時44分02秒

を、「お気に入り」に追加致しました。
過去ログを「ゆっくる、じっくり」拝見致します。
何分にも教学には疎い者ですから、時間を掛けて読ませて頂きます。

私の手元に有る「教行信証」は、
昭和27年発行の、
山辺習学・赤沼智善、共著 「教行信証講義」2巻 法蔵館版
昭和36年発行の、
普通社版 「しんらん全集」10巻の内6〜8巻が教行信証に関する、
「現代語訳・原典講座」です。

らくりんさんの著作なさった、
>『親鸞の教行信証を読み解く』第5巻 第二十一講
『エイズという時代』真宗ブックレット4(東本願寺刊)
「名古屋御坊」第419号、2001年5月10日(真宗大谷派名古屋別院発行)
2,3番目はなかなか入手が難しいもので恐縮です。

も、読ませて頂きたいものですが、一般の書店で取り寄せて頂けるのでしょうか。


>長屋@爺さん 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月13日(日)20時24分23秒

>是自体「私の感じた物」ですが、今の世界各地での紛争や、宗教を巡る争いも、
>毛坊主さんの様な宗教家が多く居れば「殺し合う」様な争いは無くなるのでは、
>と感じました。

 こんにちは。私この「>」という記号で人の発言引用して論評するのあまり
好まないんですが、(なんか難癖つけてるみたいで。実はつけてるんですが)
「暖かみ」や「親しみ」ですか?よその掲示板での発言ですけど、毛坊主さん
かなり神道的行事がお好きな様子。で、半僧半俗といわれるのですよね。
私、初詣もいかないし、七夕もしないかわりに報恩講もでない!花祭りもし
ない困ったさんなのですが、およそ習俗的なものは意味をかえてしまう換骨
奪胎がポイントではないでしょうか。苦し紛れといえば苦し紛れ。ラディカル
な仏教者の方々はお釈迦さんが葬式は在家のひとにまかしといたらええという
のを真に受けて「葬儀廃止論」を唱えることもありますが「亡き人をご縁に
して仏法にあう。とか亡き人に代わって最後の勤行」というのが意味付けで
ありましょう。真宗門徒は○○したらあかんというのは教条主義みたいですが
みんな楽しいにお祭りやってんねんからお前も半被着てみこしかつげいわれた
って私はかつぎません。いややゆうのにやりたくない人を異端視するのが
「へん」だし極端にいうとお国のために駆り立てるのも一緒やないですか?
ちなみに私不登校で中学校から学校いきませんでしたが、いまや同調者が増えて
非常にうれしい。やりたくなかったらやりたくないことを保証する世の中の
方が平和です。


追伸 投稿者:らくりん  投稿日: 5月13日(日)09時44分45秒

昨夜眠れなかったのは、「長屋@爺さん」さんのせいではありません。
その点はお気遣いなく。

それから、
「長屋@爺さん」さんの掲示板はときどきROMしています。
ヤフーの方は見たことがありますが、あまり訪れることはありません。

「僧侶・在家」云々の問題は、「僧侶」の方のネットの発言に妙な
「自嘲」というか「遠慮」というか「慇懃(無礼)」のようなものを感ずることがありま
して、気になっております。そういう「ふがいなさ」とでもいうようなものに対する
私自身の苛立ちであるような気がします。
ですから下記の書き込みは、「長屋@爺さん」さんに対して述べるべきことではなかった
という意味での「反省」です。


反省 投稿者:らくりん  投稿日: 5月13日(日)09時34分05秒

朝起きて
「長屋@爺さん」さんの「在家の門徒」という自己紹介に対して、
しょうもないことを書いてしまいまったと反省しています。
言うべきではないことだったと思います。すみません。

管理人の特権で消してしまおうかとも思いましたが、それはちょっとフェアじゃない
かなと思い、このまま残しておくことにします。


ネット上に於ける私 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月13日(日)07時00分14秒

らくりんさん、おはようございます。
私の不躾な書き込みで「眠れない夜」にしてしまったのでしようか。

顔が見えな、声が聞こえない、ネット上のコミニュケーションでは、
文章だけの世界ですので、思い込みや誤解が解けにくいということもあるのでしょうが、

私はどの様な場合でも、(ヤフーやライコスの掲示板等でも)
自分の依って立つ場を明らかにして、お話の場に入らせて頂いて居ります。
それは私自身の思いからであり、よそ様に「それを求める」積もりは御座いません。

現実の人生では、まるで試されているかのように、様々なことが起こります。
せめて 掲示板の中では、現実の匂いの無い居場所を求める人もいれば
自分の現実を分かち合いたいという人も居る事でしょう。

私は自前の掲示板を二つ持って居ります。

皆で語ろう好きな事(車と鉄道の掲示板)
http://www64.tcup.com/6410/yellowmaeda.html

野末の花と仏様
http://www81.tcup.com/8101/minamiku_maeda.html

の二つですが、私の思いは「自分の現実を分かち合いたい」と言う思いです。
ですから「オフ会」もしばしば開催して居ります。

>なぜならネット上では「長屋@爺さん」さんが「在家」であるかそうでないかは確か
めようがないにもかかわらず「在家」であると書くことによってある種の「僧侶に対
する優越性」 を「有するかのような立場」を演ずることが可能になってしまうから
です。

上記私の掲示板を覗いて頂ければ、私がどんな人間か、少しは理解して頂けると思います。
「僧侶に対する優越性」 を「有するかのような立場」を演ずる事等、思った事も御座いません。
私は何時も「私の日常」を語り「私の思い付く儘」を書かせて頂いて居ります。

>リアル世界では不幸で不自由な関係を生きざるを得ないのですが、
せめてネットの上だけでも対等な立場で関わりましょうよ。

私は、どの様な場面でも(リアル世界やネット世界でも)信仰を語り、
親鸞を語る時は、対等な立場だと思って居ります。
「差別即平等」が仏教では無かったでしようか、
又如来より賜りたる信心は、総てに平等では無かったのではないですか。


眠れない夜。でもこれで寝ます。 投稿者:らくりん  投稿日: 5月13日(日)03時31分21秒

>横浜在住の在家の門徒で御座います
いくつかの掲示板で存じ上げております。よろしくお願いいたします。

いつも思うのですが、「長屋@爺さん」さんに限らず、ネットの上で「在家である」
とか「僧侶ではない」ということを断ることに何かいつも理不尽なものを感じてしま
いますし、あまり意味のあることだとは感じておりません。
なぜならネット上では「長屋@爺さん」さんが「在家」であるかそうでないかは確か
めようがないにもかかわらず「在家」であると書くことによってある種の「僧侶に対
する優越性」 を「有するかのような立場」を演ずることが可能になってしまうから
です。
私は「らくりん」または「著者」を名のる限りにおいて、ネット上では、ほぼ本名で
投稿しているに等しい立場ですから、その名を用いる限りにおいて「僧侶」であるこ
とは隠すつもりはありません。
それと同時に「林遊」「お留守居役様」「愚っ朕」「三吉」さんなど、いわゆる「在
家」を名のっている登場人物が「らくりん」と同一人物ではないという保証はどこに
もありません。同様に「長屋@爺さん」が「らくりん」ではないという根拠もどこに
もない、というのがネット上の約束事です。私も、「バーチャル在家」を演ずること
ができるのがネットの世界です。ということは、「林遊」「お留守居役様」「愚っ朕」
「三吉」、そして「長屋@爺さん」さんがそういう演技者ではないという保証もない
のです。
私は、法話とか講演とか講義をすることによって「お布施」頂戴することがあります。
そのことについては、非常な「責任」も、また「僭越さ」も感じております。
しかし、ネット上においてはそういう立場とは、一線を画して関わろうと思っていま
す。少なくともネット上の発言によって、私は一銭の「お志」をも頂戴しておりません。
ですから、ネット上では「在家」だろうが「僧侶」だろうが、あまり関係ないのでは
ないかと思います。にもかかわらず、ことあるごとにネット上で「在家」を名のるこ
とにある種の「甘え」と「おごり」あるいは「威圧」といってもいいいうようなもの
感じてしまいます。
「僧侶」だと言っている人は、それによって自らが「問われる窮屈」な立場になるわ
けですから、基本的には「ウソ」をつくことは考えられませんが、「在家」という名
告りはかなりの気ままさを楽しむことができることになってしまうのがネットの世界
です。
このように書いたからと言って、「長屋@爺さん」さんが「在家」と名のっているこ
とをウソだと言っているわけではありませんが、そういうことを断るのはネット上で
はあまり意味がない、というよりもリアル世界とは逆転的な意味を振りかざすことに
なってしまうのではないかと言いたいのです。
リアル世界では不幸で不自由な関係を生きざるを得ないのですが、せめてネットの上
だけでも対等な立場で関わりましょうよ。

私は、
>毛坊主さんの言われた、「暖かみ」と「親しみ」の言葉に、
>「中途半端」の「暖かみ」と「親しみ」
を感じました。

>歎異抄は著者の「思い上がりであり自力」でしょうか。
歎異抄の著者は、嘆いているのであって、〈「嘆き」だと言っている〉わけではあ
りません。この誤解をされたくなくて、カッコ内のただし書きをつけたのですが……

「非僧非俗」についての私の領解は、
「非俗」は、世間的な価値観とか常識のようなものと一線を画することであり、
「非僧」は、朝廷の承認や教団の承認などのような外的な保証の上に成り立っている
ような、いわゆる「制度上の僧の身分」と一線を画するという意味であると考えてい
ます。このことは、親鸞聖人が僧籍を剥奪された事件から、自らの仏弟子であること
の根拠を確かめられたのだと思います。
これだけの記述ではまったく不十分なのですが、これについては、
もう少し詳しい形で、下記のようなものに公表しております。
『親鸞の教行信証を読み解く』第5巻 第二十一講
『エイズという時代』真宗ブックレット4(東本願寺刊)
「名古屋御坊」第419号、2001年5月10日(真宗大谷派名古屋別院発行)
2,3番目はなかなか入手が難しいもので恐縮です。
『親鸞の教行信証を読み解く』読書会  http://www.tcup4.com/444/masaho.html
の過去ログのどこかにもたしかあったと思います。


不躾なのは此方でした。  投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月13日(日)02時17分37秒

私は、横浜在住の在家の門徒で御座います。
宜しくお願い申し上げます。

>「中途半端」では無い、「暖かみ」とか「親しみ」
を求めている人はたくさんいると思います。

宗教と居はず人間の求めて居る物は、
究極的には、「中途半端」では無い、「暖かみ」と「親しみ」だと思います。
仏の教える中道思想は、「中途半端」と言うこととは違うと思います。

>親鸞聖人の教えは、非常に厳しいものとしての出遇いでした。

厳しい儘で終わっていたら?、「中途半端」では無い、「暖かみ」と「親しみ」
を感じて、

>それが私にとっては何ものにも代え難いことで、有り難いことでした。

に成ったのでは無いですか?。

>ただ、その場合は、あまり〈「暖かみ」とか「親しみ」〉という表現では語られること
は極めて稀だと思います。

おっしゃる通りだと思います。

>〈「暖かみ」とか「親しみ」〉を求めるとおっしゃる人が、
「中途半端ではないそれを」求めていることはまずないと思います。

毛坊主さんの言われた、「暖かみ」と「親しみ」の言葉に、
「中途半端」の「暖かみ」と「親しみ」とかは感じませんでした。
是自体「私の感じた物」ですが、今の世界各地での紛争や、宗教を巡る争いも、
毛坊主さんの様な宗教家が多く居れば「殺し合う」様な争いは無くなるのでは、
と感じました。

>>僧にも成りきれない、俗にも成りきれない、と言う嘆きの言葉では、
>>無かったのではないですか。
>という理解は、私は初めて聞きました。
>私はそのようには領解しておりません。(あくまでも私の領解にすぎませんが)

らくりんさんの「領解」をお聞かせ下さい。

>〈「嘆きである」と言う〉のも、相当に「思い上がりであり自力」なのではないかと
愚考する次第です。(「嘆き」が、「思い上がりであり自力である」という意味ではあ
りませんので誤解なきよう)

歎異抄は著者の「思い上がりであり自力」でしょうか。

>私は、自分が考えたり言ったりしていることを、自分で「思い上がりでない」とか
「自力ではない他力だ」などと言うほどうぬぼれてはいないつもりです。
(これも「つもり」にすぎませんが……)

私も「自惚」れては居ないつもりです。(これも「つもり」にすぎませんが……)
無断引用失礼いたしました。


ハンセン病国家賠償裁判原告勝訴 投稿者:らくりん  投稿日: 5月13日(日)01時54分16秒

このニュース、久々に胸すく思いで新聞を見ました。
眠れぬ夜、このことは一言書いておきたいと思いPCのスイッチを入れました。
願わくは、この判決がこのまま確定せんことを。
しかし、まだまだ油断できません、この国で起こることは。
大谷派では、1931(昭和6)年に「光明会」という会を作って、住職が率先して
「ライ病患者」を収容所送りするように勧めて、隔離政策に、かなり積極的に協力し
たようです。
本願寺派にも同じような会ができたんですが、名前はちょっと思い出せません。


不躾ながら 投稿者:らくりん  投稿日: 5月13日(日)00時21分05秒


自分の思いや価値観が破られるということが教えに出遇うということだと思います。
自分の思いや価値観が破られるということは、私の語感では「暖かみ」とか「親しみ」
という言葉では言い当てられていないと思います。
私にとっては、親鸞聖人の教えは、非常に厳しいものとしての出遇いでした。
それが私にとっては何ものにも代え難いことで、有り難いことでした。
ですから、
>「中途半端」では無い、「暖かみ」とか「親しみ」
を求めている人はたくさんいると思います。
ただ、その場合は、あまり〈「暖かみ」とか「親しみ」〉という表現では語られること
は極めて稀だと思います。〈「暖かみ」とか「親しみ」〉を求めるとおっしゃる人が、
「中途半端ではないそれを」求めていることはまずないと思います。

>僧にも成りきれない、俗にも成りきれない、と言う嘆きの言葉では、
>無かったのではないですか。
という理解は、私は初めて聞きました。
私はそのようには領解しておりません。(あくまでも私の領解にすぎませんが)

>「決別」だとか「離脱宣言」等と言うのは、思い上がりであり自力だと思います
以前は「お前の思い上がりだ。自力だ」などといわれると「ひるんでしまう」かわゆ
いころもあったのですが、いろんな人に鍛えられて、だいぶんへそが横の方へ曲がって
しまったようで、どうも「ああ言えばこう言う」というのが習い性になってしまいま
した。お腹立ちになることと思いますが、
〈「嘆きである」と言う〉のも、相当に「思い上がりであり自力」なのではないかと
愚考する次第です。(「嘆き」が、「思い上がりであり自力である」という意味ではあ
りませんので誤解なきよう)

私は、自分が考えたり言ったりしていることを、自分で「思い上がりでない」とか
「自力ではない他力だ」などと言うほどうぬぼれてはいないつもりです。
(これも「つもり」にすぎませんが……)


非僧非俗 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月12日(土)20時05分55秒

親鸞聖人の「非僧非俗」のこの私、と言われているお心は。
僧にも成りきれない、俗にも成りきれない、と言う嘆きの言葉では、
無かったのではないですか。

「決別」だとか「離脱宣言」等と言うのは、思い上がりであり自力だと思います。

>らくりんさん
>私は、親鸞聖人には生ぬるい「暖かみ」も「親しみ」も感じませんし、
そんなものを親鸞聖人の教えに求めようとも思いません。

それは貴方の感じ方であり、思いでしょう。

>「暖かみ」とか「親しみ」というのも、
中途半端じゃ、かえって質が悪いということもあったりしますんで……。
考えもんだと思います。

誰も中途半端等といって居りますか?
僧籍に有り法を語る方々には「中途半端」では無い、
「暖かみ」とか「親しみ」を求めて居るのですよ。


ファーストアンサー 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月11日(金)15時22分56秒

>Bあるお坊さんは衣を着ているときは「仏教」の話をし、
> 脱ぐと檀家にやおら「生命保険」の契約を迫る。

Bだけが僧侶として、仏教徒として、人間として正しいありかたです。


独占愚っ朕の時間です 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月11日(金)15時12分17秒

 林遊さんに誤読されるので、出題しておきました。
 
 ケーススタディ
@あるお坊さんは魚を買うときも「お念仏の心」で買う
 と言われる。
Aあるお坊さんは反原発集会で「仏教徒として」を
 やたら連発される。
Bあるお坊さんは衣を着ているときは「仏教」の話をし、
 脱ぐと檀家にやおら「生命保険」の契約を迫る。

レッテル貼りの心得
@自治寮仏教…文字通り自治寮の中だけで語られる革命仏教
A書 斎仏教…文字通り書 斎の中だけで語られる書生仏教
Bお御堂仏教…文字通りお御堂の中だけで語られる外陣仏教


娑婆という作業領域 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月11日(金)06時10分54秒

 シャバダシャバダバビーシャバダバ
ウッウッ〜ワー


入れ替えゲーム 投稿者:林遊  投稿日: 5月11日(金)00時57分14秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。


差別者=絶対悪=絶対強者、被差別者=絶対善=絶対弱者


差別者=絶対善=絶対弱者、被差別者=絶対悪=絶対強者

う〜ん、入れ替えても変に納得させそうな等式ではありますですね。
差別者は自らを善であると見なす弱者であるから差別に陥りやすい。
被差別者は悪の立場に開き直れるから強者である。

何ちゅうか、善/悪・強/弱という相待概念を絶対でくくるとおか
しなものが出てきそうですね。
相対というのはぶつかり合い闘争であり、相待というのはお互いが
待ち合う関係、相手があって自己があるということだと聴いたこと
がありましたが、日本語ってややこしいですね。


「神様、わたしにお与え下さい。変えられないものに
対する落ち着きと、変えられるものに対する勇気を。そしてその二つを
見分ける智慧を」というお祈りをそっと唱えるのだ。


世俗の事は世俗で解決すべきだと思いますです。なんでもかんでも
祈られたら神様は迷惑なんじゃないかなぁ。「くそ忙しいのに暇つ
ぶしで祈るんじゃないわい」なんてね。

で、味噌も糞も豚も蓋も一緒に考える真宗学者にゃほとほとあいそが
つきてたりしてね。お前ら『教行証文類』持ち出さにゃあ娑婆の人間
やってられんのかい。責任者出てこいってね(笑)。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


完全にビョ−キモード 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月10日(木)14時31分38秒

 まいど、人生幸朗です。Maroさん、そう遠慮なさらず。
苦労がないならないという言葉も聞きたいなあ。ともかく、
「はじめに答えありき」はまずいんでないの?私だって
これでも(?)戦争や差別にモロ手を挙げてるわけぢゃ決して
ないのだ。でも、あまりにも誰もが反対できない正論と
して問題を立てられるといろんな点が見落とされるといいたいん
ですけど。だから、「んなこといったって」って感じで無知に
もとづくんではない「知識ある差別」発言が後を絶たないんでしょ?
まあ、個人個人が「自由からの逃走」をやってエネルギー使い
たくないんでしょうね。今風に言うと何でもかんでも「自己決定」して
意見をもったりいったりするのって大変だからね。長いものには巻かれろだ。
で、権威ある人の意見に従い、あるいは時流に乗っておくのだ。(これは、
林遊さんが指摘されていたことだ!)
 でも何を基準にして決めてよいやらワカラン。その時はラインホルト・
ニーバーだったか。「神様、わたしにお与え下さい。変えられないものに
対する落ち着きと、変えられるものに対する勇気を。そしてその二つを
見分ける智慧を」というお祈りをそっと唱えるのだ。おっと、やっぱり
あちきは隠れキリシタンでやんした。


ぼそっと 投稿者:Maro  投稿日: 5月10日(木)01時07分49秒

 人の不幸で飯食っとる。
いやホントそのとおりって時々思います。
その飯でこんなに大きくしていただきました。
 えっと、ややこしいので以下略?


>愚っ朕さん  投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月 9日(水)23時00分50秒

 まいど、人生幸朗です。すいません。舌好調です。
差別者=絶対悪=絶対強者、被差別者=絶対善=絶対弱者
為政者=絶対悪=絶対強者、被支配者=絶対善=絶対弱者
という構図と書き換えます。
 で、君はどっち側につくのだ?と踏み絵というか
リトマス試験紙があるわけです。
 まあ、私からいわせりゃ進歩的良心的仏教者の方の
メッセージはこう言う風にしか聞えない。
「お上のやるこたあ、なんでもムカツク」
どの問題を語っても答えは決まっている。
死刑制度=反対、お上がいのちを奪ってはならない
脳死・臓器移植=反対、お上が必要・不必要ないのち、
        いのちの終わりを決めてはならない
天皇制=反対、お上がいること自体まちがい。たとえ女帝でも。
以下、あまりにしつこいので省略。
でも私、むちゃくちゃ書いてますけど、お坊さんも
ええ加減ぼろくそいわれてますけど、いろいろ葛藤あるんちゃいますか。
何で俺が継がなあかんねんとか。女のひとは「好きでもない」人、
養子にとらなあかんとか。坊主まる坊主とか、人の不幸でメシ食うて
とか。いっぺん、坊さんも一にんげんとして愚痴んってもろたら
人間味あるねんけどな。ええやん、何でもありの時代なんやから。


愚っ朕さん 投稿者:らくりん  投稿日: 5月 9日(水)20時27分34秒

なんか、絶好調って感じのボヤキっぷりですね。


訂正および追記 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月 9日(水)13時56分43秒

まいど、人生幸朗です。
下記のカキコ中「漫談」とあるのは「慢談」の誤記。
おねーちゃんをボカスカ殴っておいて「ごめん。痛かった
だろう。どうかしてたんだよ、オレ。オレには○○子が
必要なんだ!!」とかなんとかいって相手のおねーちゃんを
「私がいなきゃ、彼はダメなんだわ」とか思わせるヤクザな
兄ちゃんってまだいるんだよなあ。
「これくらいのことが何なの?私なんか女手ひとつで
あんたを育てて……」とかいって娘さんに不幸自慢をして
真綿で首を締めるような愛情で娘をがんじがらめにする母親。
こんな「弱さ」でもって相手を「支配」することなんて世間ではざら。
ブータン国王が自分の権限を制限しようとしたら議会の方で
否決したり、国王じゃないが宗教的・政治的指導者ダライ・ラマが
「転生活佛制」は「自分の代でおわりにしたい」ともらしたりする。
ある教会ではクリスマスはイエスの誕生日でもなんでもない(当時
キリスト教より流行っていたミトラス教の冬至祭)ので今年から
取りやめにしようといったら近所のクリスチャンでもなんでもない
人たちから「クリスマスにキャンドルサービスがなかったら寂しい」
とかなんとかいわれたそうだ。自分とか信仰主体とかがなく、空虚な
聖なる中心が欲しいという願いをもつ人は多い。それは、善知識だのみ
とか知識帰命とかいう言葉でさんざん聞いてきたことだ。
かつてジョアキンさんは和田師の「天皇に人権を!」という発言に激しく
反発。その後和田師が何と反論されたのか、お東ではどういう議論が
巻き起こったのかは、知りません。けれど、どこぞの国の後継者のおっさんが
お妾さん連れて天下大変国家日本に物見遊山に来られるように「王様」
やってんのも大変だろうし、まわりの人間が自分の責任みたいなん放棄して
ひとりの人間に重いもん背負わすのが「ヘン」という問題提起やなかったんかいな。
差別者=悪、被差別者=善
為政者=悪、被支配者=善とかいう二元論以外発想はないんかいな。
みなさん、頭ええんだっしゃろ?





Re:Re:今ごろわかった!   投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月 8日(火)17時26分59秒

まいど、人生幸朗です。富士のお山のふもとには
弘願寺というお寺があって「知的障害者」の
僧侶の方がおられる。どの程度仏教を勉強されたの
かは寡聞にして知りませんが、「ギャーテーズ」
なるバンド活動や絵画の制作にはげみ、主に托鉢に
よって生計をたてておられるようです。
まあ、らくりん師匠には当分のあいだ漫談を耳に
入れていただけないようですが、モノローグが好きな
私からジョアキンさんへもうひとことふたこと。
「支配」とか「権力」とかいう言葉を使って「天皇制
仏教」を批判しておられるが「弱さ」を使って相手を
振りまわすことも「娑婆世間」では常套手段になっているのでは?
これは、当の私も自分の不幸物語を語って相手に同情させて
おいて何も言えなくさせるという作戦に出たりなんかする
のであるよ。いわば甘えによる相手への支配、自分への服従だ。
「痛い!痛い!」っておおげさに叫んだりしてね。
頭がいいのだったら、たとえばミシェル・フーコーとか
マルクス以降のポスト・モダンの思想家の「権力」論の最新の
成果を駆使して仏教と「人権・民主主義」やら「社会契約説」と
折衷したニュー・ブッディズムを展開して欲しいな。この掲示板見てよ!


Re:今ごろわかった!  投稿者:林遊  投稿日: 5月 7日(月)17時12分21秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

彼にとっては「仏語」による正邪の分別智が重要なようだが、
知的障害児(者)のレスパイト(一時預かり)というボランティア
という現場を持つ私には「仏教の知的理解」の出来ない人は
「悟り」(?)の対象外だなどということは「課題」にならない!!


言葉は便利なもので、「知的障害児(者)」という語で各人の障害の
程度や個性をひっくくってしまいますね。そして何か「障害者」なる
者が存在するかのように思わせてしまいます。一人ひとりのかけがえ
のない「いのち」が存在するだけなのでしょうにね。

そのような一つひとつの「いのち」に対して、南无阿弥陀佛と名前を
付けて、そっと、心の中だけでもなんまんだぶつと呼び掛け称え聞い
てみることも、このご法義には用意がされているのかもしれませんね。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


Re:非僧非俗と半僧半俗  投稿者:林遊  投稿日: 5月 7日(月)16時57分17秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

半僧半俗などと聴くと半農半漁とか半農半サラリーマンなどという
農業形態を考えてしまうのですが、ここいらへんが田舎者ですね。


田畑や海川で働く俗人ではないが、
働かない者ではあっても僧ではない。
けれども、仏の教えを知る者である、と。


僧とは、元来が複数形であり僧伽のメンバーを表わす意が本当だと
思っていたりします。僧になることを出家と言いますが、世俗の倫
理(家)を離れ仏・法・僧の倫理に従うのが僧という者です。
つまり一般社会の有象無象に対して一切の世俗的発言力を持たない
のが僧なる存在だと思っていますが、出家してより大きな教団とい
う家に入ることを出家という意味だと勘違いしている僧がいたりす
るのは困ったものですね(笑)。

で、僧侶とは何らの世俗の生産的活動、経済活動をしない方たちを
呼称する言葉だと思っています。しかし、儀式を執行したり経を誦
んだりする事が、僧伽の論理ではなく世俗の経済活動のように思い、
思われてしまっているのが現状でしょうね。
このことはどっちもどっちなんですが、「坊主丸儲け」などという
言葉が生まれてきたのも、僧侶の存在価値が、世俗の経済活動と混
同されているからなのでしょう。

本派第四代能化の日渓法霖師に「対食の偈」というのがあります。

 粒粒皆是檀信 (粒々みなこれ檀信)
 滴滴悉是壇波 (滴々悉くこれ壇波)
 非士農非工商 (士農に非ず工商に非ず)
 無勢力無産業 (勢力なく産業なし)
 自非福田衣力 (福田衣の力に非るよりんば)
 安有得此飯食 (いずくんぞこの飯食を得ることあらんや)
 (中略)
 願以此飯食力 (願わくば此の飯食の力を以て)
 長養我色相身 (我が色相の身を長養し)
 上為法門干城 (上は法門の干城となり)
 下為苦海津筏 (下は苦海の津筏となり)
 普教化諸衆生 (普く諸の衆生を教化して)
 共往生安楽国 (共に安楽国に往生ぜん)

*粒粒(お米の一粒一粒)*檀(ダーナの音写、布施)
*滴滴(汁物の一滴一滴)*福田衣(袈裟)

スッタニパータ(77)にも同意の句がありますが、世俗のしがら
みにアクセクしている者にとって、道を求める真の「僧侶」なるも
のの存在は希有で有り難い事だと思います。

その意味では、お留守居役様 さんのおっしゃる

僧以上であり、俗以下である、
と言うべきかと考えています。
つまり、ありうべき知識人としての私ということであると。

人間社会で当然である生産活動をしないという事で「俗以下」であり、
真に法に生きるという意で「僧以上」ということも「非僧非俗」という
語の意味なのかもしれませんね。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


お葬式続き 投稿者:らくりん  投稿日: 5月 5日(土)21時01分15秒

先週、叔父(父の弟)が亡くなりました。
歳相応に具合も悪かったし、からだも弱ってもいましたが、誰も今日明日のこととは
思っておらず、、思いがけない「とりこみ」になりました。
とは言え、誰もが遠からずと思っていましたから、淡々と事が運ばれました。
ちょっと頑固で、親戚付き合いなんかもあまり好まない人でしたが、
いろんなところにに足を運んで、熱心に聞法をした叔父でした。
数百本(千本以上かも)のテープが残っているそうで、いずれ整理しなければならない
と思います(たぶん私が)。

5月1日の初七日で一段落したので、3日から車で東京のつれあいの実家に行って
いました。
そこで少しはのんびりできるかと思っていたところ、
4日の朝、お葬式の報せが入り、予定を切り上げて私だけ帰宅。
今、お通夜から帰ってきたところです。私とあまり齢が違わない若いお医者さんです。
去年から、病状などについても聞いていましたし、
お葬式のことについても前々から頼まれていました。
とうとうその時がやってきたかと……。
ご自分で進行状況がよくわかっておられたわけですから、
ご本人もご家族も覚悟していたとはいえ、お通夜の席で奥さんの姿を見ると、
これまでの一年ほどの日々をどのような気持ちで過ごされたのだろうかと思い、
何とも言えないものがあります。

そんなこんなで、愚っ朕さんのボヤキにもお尽き合いしている気分になれない日々が
続いています。悪しからず。


今ごろわかった! 投稿者:愚っちーん(^人^)、ナムナム 合掌  投稿日: 5月 5日(土)17時15分07秒

 大阪のインターネットカフェより。つれが持ってた
ジョアキンモンテイロさんの『天皇制仏教批判』三一
書房(1998)を読む。
うわ〜っ、実際に知ってる人から、知識人までジョアキン
さんの「正しい仏教」という観点からみなさんめった切りに
されている。で、私の仏教および真宗理解がめちゃめちゃで
あるのがついでに解って心地よかった。彼を通じて袴谷せんせ
とか松本せんせ、伊藤せんせのゆうてることがやっと一部
飲み込めた。
まあ、私は今は儀式の執行者としてのお坊さんをやっている
訳でもなけりゃ説教師でもないしもちろん、真宗学徒でも
ありゃしない。自分の信奉している仏教が「まちがって」いて
もいっこうにかまわーしない。自分の生きてる現場から
「あ〜でもない、こ〜でもない」と悩んでいるのでそれでよい。
それになぜ彼が、「正しい」仏教の本質を「反天皇制」と「反差別」に
置くのかよくワカラン。今、ホンマに天皇制によって多くの
人々が苦しめられていてその呪縛から「解放」されることが
急を要する課題なのか、そのリアリティーを感じない私などは
さしづめ仏教とは「縁無き衆生」であっておよそ度し難しなんだろうな。
彼にとっては「仏語」による正邪の分別智が重要なようだが、
知的障害児(者)のレスパイト(一時預かり)というボランティア
という現場を持つ私には「仏教の知的理解」の出来ない人は
「悟り」(?)の対象外だなどということは「課題」にならない!!



非僧非俗と半僧半俗 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月 5日(土)00時53分04秒

非僧非俗ということが分かりません。
非僧は分かります。
既存の僧という身分ではないということかと理解しています。
ところが、非俗というのは、俗人ではないという
選別された者(エリート)のことでしょうか。
そこで考えたのですが、
非僧非俗は、僧と俗の中間ということではなくて、
むしろ、僧以下であると同じく俗以下であるということかと。
田畑や海川で働く俗人ではないが、
働かない者ではあっても僧ではない。
けれども、仏の教えを知る者である、と。
いまのところは、このように理解しています。
ですから、
非僧非俗と半僧半俗とは大違いと思っています。
半僧半俗というと、半官半民や半農半漁のように
両方に属する中間者になると思います。
非僧非俗ということは、
僧でもあって俗でもあるのではなくて、
僧でもなければ俗でもないということで、
僧以下であり、俗以下であるか、または、
僧以上であり、俗以上である、
と言うよりもむしろ、
僧以上であり、俗以下である、
と言うべきかと考えています。
つまり、ありうべき知識人としての私ということであると。


Re:非僧非俗への道 投稿者:林遊  投稿日: 5月 3日(木)01時33分36秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。


小生は、むしろ、親鸞以前の【ひじり=半僧半俗】系譜につながる、非僧非俗の意味に
暖かかみと、親しみを覚えるのだが??。


ここんとこはよほど気を付けないと、否定なき似非浄土真宗になってしまうと
思います。先祖帰りしちゃいけないのではと思っていたりしますですね。

何の節操もなく、軍国主義になればほいほい協力し、戦後、平和主義ときけば仏
教は元来平和主義だと前衛を気取り、ヒューマニズムが流行れば便乗し、いのち
が大切とマスコミが騒げば「生かされているいのち」などというキャッチフレー
ズをでっち上げ、今またこころの時代といえば仏教は「こころ」を大切さを教え
るものですと迎合する。

で、門徒はあまりの節操のなさにほとほとアイソが尽きていたりしますですね。
あっ、つい愚痴です。他意はありませんです。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


釈迦仏教という共同幻想 投稿者:林遊  投稿日: 5月 3日(木)01時07分46秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

非僧非俗ってのは、面白い発想ですね。親鸞聖人は、最澄さんの『願文』から語を取り「愚禿」という名を自らの名乗りとなされたわけですが、非僧非俗という語は僧・俗という世界からの離脱宣言であるやもしれませんです。最近のお留守居役様さん風の用語を転用すれば、共同幻想からの逃走ですね。

御開山は主著である『教行証文類』の後序で、かなりハイテンションに法然聖人の吉水入室の感慨を「雑行を棄てて本願に帰す」と仰有っています。小生はこの「棄てる」という語が好きなのですが、御開山は「非僧非俗」という言葉で、僧侶(複数形)という世界と世俗という世界の両方を棄てしまったのだと思います。

御開山は九歳で比叡山に登り、三五歳まで「僧」の世界で生きてこられ、僧/俗という、教える者vs教えられる者という二元論の世界で生きておられた訳ですが、流罪という経験が御開山に新しい境地を開かせたのかもしれません。「非僧非俗」という言葉は、流罪という結果から自己の置かれている現状を確認するような意味ではなく、僧・俗という世界観からの離脱宣言の言葉のように思われますね。

釈尊を中心とし釈尊の「教え」に従うだけの仏教界を棄て、その仏教界をとりまく世俗をも棄ててしまったのが「非僧非俗」という文言が表わすものだと思います。釈迦仏教という共同幻想からの離脱が「非僧」という意味かもしれませんですね。

『教行証文類』を読めば猿でもわかることですが、釈尊を十方世界の諸仏として、阿弥陀如来を讃嘆する一仏にしてしまう事により、釈迦仏教を棄ててしまわれたのでしょう。「教を説く者」と「教そのもの」を分離することにより、初めて釈尊の「教え(如来の本願)」の真意を領解しうると思われたのかもしれませんです。

家のじいさんは、「人間以上の智慧を覚り、人間以上の慈悲を覚った方がお釈迦さまで、人間以上の智慧を持ち、人間以上の慈悲を持っているのが阿弥陀さまじゃ」などと言ってましたが、うまい事言うものだと感心した事があります。御開山は十八願を「念仏往生の願」と浄土へ往生させるのが本願だと仰有いましたが、どうも最近は変な夾雑物を本願の上で語る方が多いので困ったものです。

で、御開山に、具体的に「非僧非俗」とは何ですか?とお尋ねすれば、自らを浄土へ生まれる者として位置づけ、阿弥陀如来の秩序の中にあることを確認していく事が「非僧非俗」です、と仰有るかもしれませんね。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


無題 投稿者:らくりん  投稿日: 5月 2日(水)13時35分03秒

「非」は、やはり訣別のことばでしょう。
正体を見てしまった以上、いずれにも「与(くみ)」しない。
どちらとも一線を画する。

私は、親鸞聖人には生ぬるい「暖かみ」も「親しみ」も感じませんし、
そんなものを親鸞聖人の教えに求めようとも思いません。
「暖かみ」とか「親しみ」というのも、
中途半端じゃ、かえって質が悪いということもあったりしますんで……。
考えもんだと思います。


>毛坊主さん 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月 2日(水)12時12分02秒

 あーたの話も難しいですな。
「僧にあらず、俗にあらず」
今の大半の坊さんは
「僧であって、俗である」。
関西の漫才師でいまおもろいのが
ちゃらんぽらん。そのギャグが
「ちゅ〜とはんぱな」ってやつです。


非僧非俗への道 投稿者:毛坊主  投稿日: 5月 1日(火)22時56分54秒

1月ほど前名古屋で、らくりんさんの講演を聴きました。正確には、記憶してませんが、
小生が理解した講演の趣旨は「親鸞が、あえてこの非僧非俗を語る(用いた)必然性は
、彼の内面から、わき出る、宗教的信念・心意・思いを託した言葉・・・」そんな感じ
を、小生は受けました。
奈良時代には、行基や重源などの私度僧の事を「半僧半俗」と言う言葉(語彙)があり
ますが・・・・うがった見方では、親鸞さんは、単に「半僧半俗」とは違う意味を込め
て、非僧非俗と言ったのか?。
小生は、むしろ、親鸞以前の【ひじり=半僧半俗】系譜につながる、非僧非俗の意味に
暖かかみと、親しみを覚えるのだが??。

http://www.jiin.or.jp/


らくりんさんへ 投稿者:愚ッ朕  投稿日: 4月28日(土)23時50分29秒

ども、ルサンチ慢のぐっちんです。「全共闘教学」粉砕。
先に紹介しました高尾利数先生の「キリスト教を知る事典」より。
「ユダヤ・キリスト教の思考の枠組は罪責意識・死の恐怖・虚無感や
苦難などの人間の「限界状況的な」諸問題に対して歴史の試練を
経てきたそれなりに有効な解決を提供できる観念体系である。
一旦その観念体系に身を委ねてしまえばあらゆる疑問や矛盾が
少なくとも個人的にはそれも一挙に解決されてしまうように
思えるのである。(中略)しかし、民衆には現実逃避的な、そして
個人主義的・私的な慰めを与えるという「阿片」的な機能をキリスト教は
果たしてきた」といっておられる。しかし、しかしである。竹田青嗣さんの
「自分を知る思想入門」でこう彼は言われる。「ところで、私は自分が
たまたま「在日朝鮮人」であり「全共闘世代」であったところから、
いわば社会的な問題から出発して物事を考えてきた。わたしがそこから
考えざるを得なかったのはわたしなりの理由があったように今の多くの人が
そこからではなく、まず自分のことから考えようとするのにはそれなりの
理由がある」と。ここを解放教学はおざなりにしてますね。
お東の和田しげし師は「最近の若者は宗教心は持っていてもそれが
既製宗教に向わず音楽に向かっている」と喝破されました。う〜ん、気が若い。
たぶん、中島みゆきや尾崎豊をさすのでしょう。もう7.8年前に聞いた言葉
だから。今は、浜崎あゆみなどでしょう。そしてちょっと前私が気に入って
いたのはミスターチルドレンでした。「名も無き詩」で桜井和寿はこう歌う。
「なりゆき任せの恋に落ち 時には誰かを傷つけたとしても
そのたび心痛めるような時代じゃない 誰かを思い遣りゃアダになり自分の胸に突き刺さる
だけどあるがままのこころで 生きようと願うから人はまた傷ついていく
しらぬまに築いてた自分らしさの檻の中で もがいているなら誰だってそう
僕だってそうなんだ」と。ここまで歌われりゃ坊主用なしですよ。


大願さんの経験 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月27日(金)20時43分47秒

余計なことかもしれませんけど、
個人的な好意が、集団としての決まりに阻まれたが、
家族の方との触れ合いで融和されるという、
個人幻想−共同幻想−対幻想にあい渡る経験をされたことは、
西田何某の言う純粋経験などより格段に意義のあることと確信しています。


ネパールから帰りました。 投稿者:大願  投稿日: 4月27日(金)14時27分58秒

な、な、何と、不思議なご縁で、先月岡崎教務所で物議をかもした教務所の職員の実のお母さんが
おんなじツアーのメンバーにおいでだったのです。そのお母さんに経緯をお話ししたら、平謝りに
謝られてしまい、こちらこそ申し訳ない事でした。記念写真も何枚か撮らせて貰いました。

最初は、姓が違うので全く気が付きませんでしたが、
お話ししている間に別に身元調査したわけではないのですが、判って驚きでした。
「つい先日喧嘩してしまいましたよ。」
「そう、ようこそ、喧嘩するほど仲がいいのですね」
「最初OKして後でNGにするなどは、きっと上の誰かに言われてやむなくだったのでしょう。
融通の利かないところは有るけれど、聴聞は申し出が有ればオープンにすべきと私も思う。
26日に行くからよく叱っておきます。」と実に気さくなお母さんでした。
勿論、ネパールの旅は終始フレンドリィに談笑しながら過ごすことができました。
これは、日本にはもはや失われてしまった懐かしい風景が、私にくれたプレゼントの一つのような
気がします。こうした風景の中にいて、忌憚なく話せば誤解も霧散するものかも知れない。
九州と愛知の出会いがこのようなところで有ったのですから、実に
世の中は廣いようで狭いと言うことを実感しました。


口から活仏(いきぼとけ) 投稿者:林遊  投稿日: 4月22日(日)00時19分59秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

> ええ,さすが林遊さん。亀の甲よりなんとやら。

そりゃあ鼈甲よりは(ワシントン条約たらで禁止かい。花魁はどうなるんじゃい(笑))
人間やってた方が面白いとは思ってますがね。
仏伝に「一眼の亀」というエピソードがありますが、この話を読んで遇い難きご法義
に遇いえた幸せを感じたことがあったりします。で、鶴亀セットの谷派の御荘厳が有
り難かったりするのですが、いまの若い人には何のこっちゃいでしょうね

> 私もはやく流転生活から抜け出して「人間宣言」を
 出さなきゃと思ってるところです。

うん、プロシャじゃなかった、ドイツ観念論の体系の中で「自己」とはなんぞやとい
う哲学的課題を追求しちゃうと、「現人神」などという名で祭り上げられて、あげく
「統帥権」などという、化け物の跳梁する近代国家なる亡霊の世界を流転するなんて
つまらんじゃないですかねぇ。

で、ピカドンという音より光が早い事を、如実な擬態語で日本語に遺した、大量無差
別殺戮兵器でしか小生達の「人間宣言」は出来ないのかもしれんですね。
帰命尽十方無碍光如来ちゃあ、あのピカのようにあらゆる差別を無化する「新兵器」
なのかもと林遊は思っていたりしますです。

で、たぶん罵詈雑言の雨霰が降りかかるんでしょうが、「いのち」の意味ちゃあ何で
すかいと林遊は思うていたりしますです。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


転生・活仏より 投稿者:愚っ朕  投稿日: 4月21日(土)02時26分40秒

 >らくりんさん

 お帰りなさい。相変わらず憎まれぐちのぐっちんです。

 >あるいは「行動」という様式と「生活」
 >という原理を混乱しちゃうと、すくなくとも
 >「往生浄土を真宗」とするご法義
 >が見えなくなるような気がしてます。

 ええ,さすが林遊さん。亀の甲よりなんとやら。
 私もはやく流転生活から抜け出して「人間宣言」を
 出さなきゃと思ってるところです。
 
  大谷派の真宗ブックレット「高木顕明」読みました。
 >「高木顕明が語られなかったということは同時に、
 >清沢満之の中にあった高木顕明の側面、いわば、
 >信心の社会的展開に関しては全く語られなかった、
 >あるいはふれようとはされなかったと思われる」
  高木さんはほんま,あの時代の人として尊敬できます。
 でも現在,高木というか信心の社会的展開とやらを「語る」というのは
 具体的に何をすることでしょう。イエスを「語る」人は多い。
 でもイエスを(に?)「生きる」人は数少ない。
 でも,要するに「自分」を「生き」たらいいんとちゃうんでしょうか。
 被差別部落の多い地域のお寺に入られて,その収入の低さに
 お布施を取ることができずに按摩の技術を習得する顕明さん。
 そこに時代の生活に立脚した誠実な人間が見える。だからこその
「大逆事件の連座」であって,何も「反体制」だの「造反有理」
 だのスローガンが先走り,空回りしてたわけじゃないでしょうがね
 といいたいな,今ごろ高木を持ち上げる「政治的な」人々に
 対しては。



 
 高木顕明が語られなかったということは同時に、清沢満之の中にあった高木顕明
の側面、いわば、信心の社会的展開に関しては全く語られなかった、あるいはふれ
ようとはされなかったと思われる


ただいま 投稿者:らくりん  投稿日: 4月20日(金)22時13分38秒

2時間ほど前に帰宅しました。
とりあえずたまっていた郵便物を開封して、処理して、
メール読んで、必要に応じて返事書いて、
掲示板巡回して、眺めて、てす。
〈読書会〉はなんだか、まあ、ほんとなんと言いましょうか……です。
思考回路が回復するまでにはちょっと時間がかかりそうです。
もしかしてずっともどらなかたりして。

あっちこっちの行き帰りの車中、『定家明月記私抄』続編とか、
井沢元彦『逆接の日本史2』(小学館文庫)などを読んでいました。井沢元彦は
まだ途中ですがちょっと奇抜な視点で歴史界の常識をひっくり返しているので、
全部が全部まともに受け取れるわけではありませんがけっこう面白かった。
以前別の巻を立ち読みしかけた時はぜんぜん興味がわかなかったんですけどね。
2巻の目次に後鳥羽上皇の字を見つけて買っちゃいました。よい旅の友でした。

『定家明月記私抄』とか井沢元彦を『親鸞の教行信証を読み解く』の講義の前に
読んでいたらもっともっと踏み込んでいけたかもしれません。
Vitaさんには受けなかったみたいだけど、
第5巻を読んで「面白い」と感じていただけた方はこの2冊ぜひお薦めです。


うん、暇ですから(笑) 投稿者:林遊  投稿日: 4月19日(木)23時32分29秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。


 階級や階層という切り口は社会科学用語なので
その視点だけで「差別」問題をとらえるのは「仏教」の
方法論じゃないように私には思えるんですよね,ずっと前から。


賛成票一票。小生の持論なんですが、who am i という自己存在の確認方法が
根本的に間違っているのかもですね。あるいは「行動」という様式と「生活」
という原理を混乱しちゃうと、すくなくとも「往生浄土を真宗」とするご法義
が見えなくなるような気がしてます。

で、秦の始皇帝だか熊沢天皇だか知りませんですが、「愚っ朕 」さんてかなり
ややこしいい生き方なさってるんですね。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


お久し振りです林遊さん 投稿者:愚っ朕  投稿日: 4月18日(水)21時02分47秒

 えー最近あまり聞かないですけど「解放のうんぬん」は
私が現役のお坊さんだった頃,私の周りの大谷派の方々のあいだで
少し流行っていたのですが。靖国問題にしても
部落差別問題にしても取り上げ方はあまり変化していないなあ
と思います。あれから12年くらいたったけど。
 部落に生まれることと,「美人」に生まれなかったこと
とは選べないということでは同じように思うんですが,
どうにもならないということを「苦」というんですよね。
 階級や階層という切り口は社会科学用語なので
その視点だけで「差別」問題をとらえるのは「仏教」の
方法論じゃないように私には思えるんですよね,ずっと前から。


解放の真宗学 投稿者:林遊  投稿日: 4月18日(水)20時18分29秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

で、どこにこの「解放の真宗学」たらいう、エウロッッパ猿まね教義学があるんですかい、と越前の田舎門徒は思うていたりするのですが、このあいだ植えたジャガイモの芽が
やっと出て嬉しいなと思っていたりしますです。もちろん、御開山親鸞聖人はジャガイモの味は知らなかったでしょうが、芋植えて「芋」が出来る「仏願の正起本末」は知ってござったかもですね」。

それにしても「都会」のコンクリの中でいのちの意味を考えるのは、図書館ごっこの
他人事のなるのかもしれないと思う今日このごろです、はい。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


また出ます 投稿者:愚っ朕  投稿日: 4月15日(日)20時19分03秒

 >Zazieさんへ
 うむ。私,真宗の人々が私の用語で言う「大文字問題」ばかり
しゃべるのにうんざりしていましたので共感します。政治的な
あるいは社会的なことばかり。以前,著書を紹介した小浜
逸郎さんの言葉では社会的弱者の他にエロス的弱者もあるんだという
指摘に,はっとしました。ハゲ,デブ,チビ,ブス,メガネ,ネクラ,
貧乳,おたくなどなど。これらの問題に解放教学(私いうところの
全共闘教学)はいかに立ち向かうのでしょうか。
 
 仏教の基本に生老病死の四苦が人間における問題だとおさえられて
います。でもあんまり,生そのものの苦は語られない。
評論家の芹沢俊介さんはこの世に自分の意志で人間は生まれてこない
という根源的受動性を「イノセンス」という言葉で押さえられて
現代の少年犯罪を読み解いている。この世を引き受けられない
という免責性を受け止められなかった少年たちはそれを暴力と
言う形で表出すると。これひょっとすると生苦の問題かな。
児童虐待や高齢者虐待あるいはDVという主に夫が妻に向かうもの
などなど,家族という密室で行なわれる「暴力」については,
あまり解放の真宗学の方々の間で問題にならないのはどういう
わけなのでしょうか。


歴史的国名 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月15日(日)09時43分47秒

以下は思いつきです。
間違っていたら、お詫びしします。

蒙古来襲をモンゴル来襲と言い替えるべきかどうか。
「蒙古」のような野蛮な国なら他国を攻撃するだろうが、
モンゴルのような平和な国は、他国を攻撃しない。
だから、モンゴル来襲と言う方が失礼である、
とも言えるかと思う。
同様に、「日本」による中国、朝鮮などへの侵略も
「大日本帝国」によると言うべきかとも思われる。
日本人戦死者も「大日本帝国」による被害者なのだから。

蒙古とモンゴル、大日本帝国と戦後日本のように、
一体性や連続性に切れ目が生じうるのは、
国家や民族が、共同幻想だからだと思います


ココデハキモノヲ 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月15日(日)09時42分09秒

ここでは、着物を脱いでください
と解して、水泳場の下駄箱(靴箱?)の前で
裸になる人はいない。
周囲の状況から、
ここで、履き物を脱いでください
と理解できるからです。


敬語・語彙・言葉考えさせられます。 投稿者:毛坊主  投稿日: 4月14日(土)22時32分34秒

なかなか小生などは、ここの論義には、参加できませんが、ロムして少し考えさせられました。
講演会などで、講師の紹介や挨拶で・・・・

司会者(特に若い教務職員)が、開催に先立ちまして、『教務所長さんから一言ご挨拶を・・』
などと、役職名に さん を付けて紹介される事例を、時折耳にします。
これも、随分おかしな言い方と思いますが・・・・

真宗教学は、特に親鸞の言葉や、語彙を、色々な意味で、大切にしている気がしますが・・・
なにげなく、聞き流してしまう言葉にも、注意が必要。『床屋』と言う言い方も、差別用語
と聞きましたが。・・・・
大谷派でも 『戦没者追弔会』と戦没者 と言う語彙を使っていますが、戦没者・戦歿者
何か意味が違うのか?・・・・名古屋の平和展などでは、戦争犠牲者の語彙を使っている
と思います。
『宗教研究』327号に、「”戦死者”の表象をめぐって」川村邦光氏が、政府主催の無宗
教方式の毎年の「全国戦没者追悼式」を、『戦死者』をめぐる『弔いの政治学』と指摘され、
『戦没者』と言う言葉(語彙)が、キーワードになっている。・・そんな見解がありました。

宗門の正式な行事として、『全戦没者追弔会』などの言い方が、はたして良いのか、一度
検討する必要があるのでは、そんな感想を持ちました。


http://www.jiin.or.jp/


らくりん氏(うじ)ならありか? 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月14日(土)00時43分30秒

だいたい「らくりん」というのは、
キリスト教の「使徒行伝」にある「目からウロコが落ちる」
を出典とし、漢字では「落鱗」と書き、
「ウロコ」を「りん」と読むのは、
お侍さんっぽいとも言えるかなあなんて思います。

ほんとうは、呉音で、仏家読みなのでしょうけども。。。


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