らくりんバンバン

〈 落 鱗 板 々 〉



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だからといって 投稿者:らくりん  投稿日: 6月23日(土)09時33分19秒

「自然科学は鬼神だ」と決めつけて、敵視するのは、またこれも逆の方からの
決定論的因果の絶対化になってしまいます。
問題は「科学」それ自体の善悪にあるのではなく、いつの時代でもそれを
「利用」する側の問題に帰する。
ただその議論も「殺すのは銃ではない。だから銃に罪はない」という、まるで
『涅槃経』の六師の詭弁のようなアメリカの銃規制の議論みたいになってしまう。

それはさておき、
安倍晴明があやつる「式神(しきがみ)」みたいなのが2、3匹(?)いたら
さぞかし便利だろうな、と思うのはわたしだけでしょうか。
(知らない人で、知りたい人は岡野玲子画・夢枕獏原作『陰陽師』白泉社をどうぞ。
言っときますが、これはマンガです。全部で10巻ぐらいになるじんゃないかな)


鬼神力 投稿者:らくりん  投稿日: 6月23日(土)09時17分12秒

>科学が鬼神となっていると言えるでしょうか。

「鬼神」というのは「人を縛るため(の道具として使われ得る)の概念装置」の
総称の様なものですから、現代の「自然科学」というのは充分その資格があると
思います。
とにかく人が「信じやすい」ものほど、その「鬼神力」もパワーアップする。
「信じた」人間ほどコントロールしやすい存在はない。
その辺が「宗教」「信仰」のとってもこわい一面。


追加へのお返事 投稿者:大陀羅弗”痴  投稿日: 6月23日(土)08時56分44秒

 「引き金だけを問題にしても根本的な問題解決にはならない」。ハイ。よおくわかります。諫早湾と有明海の関係についてもそうなんだろうと思っています。防潮堤の水門を開ければそれで海苔が採れるようになって一件落着、とはならないだろうと思います。因果関係を単純化してしまうというのは、納得を焦る思考回路が起こす早漏現象(オ下品?)なのかもしれない。ひょっとして今日は、科学が鬼神となっていると言えるでしょうか。

 自然科学に限りませんが、人間が自分達とその周囲の諸現象を説明しようとして発達させた学問(医学、心理学、社会学、経済学、etc )のほとんどは、その知見が操作されることによっていつでも人間を縛る鬼神になり得るのですね。

 フムフム、すると罪福信と鬼神は切っても切れない関係、表裏一体ということか。


おはようございます 投稿者:大陀羅弗”痴  投稿日: 6月23日(土)07時25分11秒

皆様、新参者を暖かいレスで迎えて下さってありがとうございます。夜が弱いので、書き込みが朝になりました。

>しんさんへ

 平野先生の言葉、ありがとうございました。ただ、件の言葉にある「納得」とはその後に出てくる言葉「不満」と対義になっているように思います。つまり、この世とこの身に満足することなどあり得ない、ということではないでしょうか。この世とこの身に満足するというのは、「おかげさま」の世界であって、そんなところに落ち着いていてはいけない、ということがあると思います。
 私も自分の中で言葉が先走って「自分に納得」と表現したのですが、その中味についてもう少し厳密に考えてみなければならないと思っています。ひょっとしてそれは機の深信という言葉で言われていることに他ならないのではないか、あるいは清沢満之の「自己とは他なし・・・・現前に落在せるものこれなり」の「これなり」の部分ではないかとか、今日の逮夜参りの正信偈をあげている最中にあれこれ考えたりもしておりました。他でもない、私が自分に納得できていないものですから。
 平野先生の件の言葉の中の「納得」ですが、どのような文脈で使われていたのでしょうか。

>愚っ朕さんへ

 いろいろ考えをお聞かせ下さい。ところで「天上の問題」、「地上にとどまる」、「限界すれすれのとこ」という表現がなにを意味するのか、先回のレスからは測りかねております。例えば「地上にとどまる」という言葉は、現実社会での因果関係を広く深くとことん追求する態度、と受け取ればいいのでしょうか。

>らくりんさんへ

 「陰陽道に幻惑されているのでは」とのことですが、その点は大丈夫だろうと思ってます。私も安倍晴明にまつわる伝説の中味は彼の暗示能力によるものだろうと思いますし、陰陽道が実際に私達の世界内事象を説明する原理になり得るとはサラサラ思っておりません。陰陽道に限らず、占星術や卜占・祭祀、前世見についても、その説得力は、その術が本来持つ科学的妥当性によるものなんぞではなく、受け取る側(だまされる側?)の被暗示性による部分が大きいと思います。

 余談ですが、マンガの「陰陽師」を見ると、蓮如さんが「吉日良辰」と言っていたことの内容がわんさか出てきますね。ああいったことに通じている人が「ものしり」であり、だから門徒は「ものしらず」と言われるわけですね。

 前の段落で「科学的妥当性」と書きましたが、考えてみれば私達現代人は逆に、「科学的妥当性がある」と言われると信じてしまうんですよね。そのあたりは先日らくりんさんが(この掲示板とは別の場所で)言っておられたように、役人が公表する環境アセスメントを鵜呑みにしてはいけないことに関係しますでしょうか。

 しかし、「納得」・・・・・ウ〜ム。納得できないことに納得・・・・・。よくよく納得したいんですね。

http://www.jcss.net/~gokuraku/teraisan/


追加 投稿者:らくりん  投稿日: 6月22日(金)22時38分32秒

決定論的因果の絶対化・実体化というのは、
一つの病源や病因を病気の決定的な要因と考えて、
悪いものや悪い部分があればそれ取り除けば治る、
あるいは足りないものを補えば治るという医療思想などにも似ています。

どんな病気だって、単一の原因によって引き起こされているということは
ないのであって、さまざまな要因が累積し絡み合ったところへ、
ある要素が引き金のような役割を果たして発症するのではないか。
その引き金だけを問題にしても根本的な問題解決にはならない
場合も少なくないのではないでしょうか。
西洋医療と東洋医療というような形で単純化してしまうつもりはありませんが、
そうそう物事は単純な因果では割り切れるものではないでしょう。


大陀羅弗”痴さん 投稿者:らくりん  投稿日: 6月22日(金)21時44分52秒

ずっとお待ちしていたのですが、ついに登場ですね。ようこそ

しんさんと愚っ朕さんの問題はとりあえず、お二人にお任せすることに
して成り行きを楽しみにしています。

陰陽道の問題で、私が一番問題だと思うのは、過去のある特定の事象(因)と
現在の(多くの場合悩ましき)事象(果)を因果関係として一対一に固定的・
決定論的に決めてしまうことにあるのではないかと思います。
それ以外の要素を、かなり意図的に切り捨ててしまい、聞く人の意識をそこに
集中させてしまう。そうすることによって、その一対一の因果関係をきわめて
実体的に受け入れてしまう(強い暗示を受け入れた状態)。そうなってしまうと
その因を取り除く/取り除かれたと思わせることは、比較的容易にできるので
はないかと思います。
どんな現象でも、特定の原因と特定の結果だけが直結しているのではなくて、
それいがいのさまざまな要素が縁として複雑にからみあっているわけで、
そうした複雑な事象の絡み合いを、単純化することによって、ある種の説得力を
生み出すことができるのではないでしょうか。

きちんとした応答になったかどうかわかりませんが、
大陀羅弗”痴さん自身が、ちょっと陰陽道の〈からくり〉に幻惑されている
ようなところもあるかも知れないかな、などと思っています。


それでは 投稿者:しん  投稿日: 6月22日(金)19時18分22秒

愚っ朕さん。ご意見にたいしてですが、あの教科書は公民と歴史の二冊でワンセット
であると言われました。歴史教科書が注目されるのですが歴史教科書では
戦争というもの理由を付けて、正当化していきます。また、天皇を中心にした
歴史物語として歴史教育を展開しようとしています。
さらに公民においては自衛隊の必要性と、「公」という国民国家のための「民」
として、国家の利益という公共の福祉のもとにおいて武力というものが当然の
こととして教えられていきます。
どの程度右翼的かどうかより、もし自分のいる自治体、学校で採択される事を
考えると、後一ヶ月という時間はそう呑気にしていられる時間ではないように
思います。

さらに、外国の教科書云々ですが、私は歴史教育自身がどの国であっても
国民国家の統合を前提にされているなされるものであると思っていますので、
他の国がどうのと言うことは、あまり参考にならないと思いますがどうでしょうか?

>大陀羅弗”痴さんへ
 平野修さんの言葉に
「この世において この身において 納得など あり得ないと 
 真実に知った人は 不満を超えて 歩き出す」
 と言うのがあります。
 なにか響いてくるものがありませんか?



訂正 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月22日(金)13時59分05秒

 了義師のおとうさん、了悟師のあやまり。

 >しんさんへ

 あえてイヤミな意見をいわしていただきます。現在産経新聞紙上で韓国の教科書で歴史がどう
教えられているかが連載されています。中国・韓国は教科書が国定で一冊であります。一度、
かの国の歴史観を見てみるのも悪くはないと思いますよ。
 「つくる会」の教科書はいわれてるほど、右翼的ではないと私には読めました。期待してたほど
たいしたことない。まあ、私はこれだけ情報が透明化した時代、ヒットラーみたいな指導者は
出にくい状況にあると思います。小泉さんをはじめとする政治家が、依然靖国参拝にこだわって
いることからは目が離せませんが。
 いろんな意見が競えるのが民主主義だと思います。これは松原隆一郎が読売紙で書いていたこと
ですが、あの教科書が検定に通るのと、検定中に外国に内容がもれるのとどちらが民主主義の危機
だろうかと。

 >大陀羅弗”痴さんへ

 はじめまして。横レス失礼します。おもしろい問題提起ですね。「前世療法」なるあやしげな退行催眠をやるセラピストもいますね。まあ、夢の分析も象徴を解釈するのですから似たようなもんですが。私は、「わからん世界のことは、わからん」とつっぱねます。天上の問題はなんとでも
言えますから。「あくまでも地上にとどまりつつ、限界すれすれのとこまで行く」私が書いてるのもその方法論でやってます。  


告解 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月22日(金)13時21分14秒

 という制度をカトリックは持つ。話を一方的に聞く神父はたまらんのでアルコール依存症に
なる。(もちろんカトリックはミサでぶどう酒を使うのでアルコールはご法度ではない)
 アメリカには神父専用のアル中リハビリ施設がある。そこいらも、キリスト教がアディクション
問題と深くかかわっている原因であると思う。
 藤元せんせの本を読み返していたら、こんなエピソードがあった。色紙を書くのが好きな大河内
了義師が「仏なり」と書いて佐々木蓮麿師にわたした。佐々木師は「師なり 友なり」と続けて
宮城智定師にまわした。で、「一緒におちていくなり」と書いて大河内師が大喜びしたとか。
 悪人になりそこねているのが、今の私たちだろう。


子羊たちの沈黙 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月22日(金)13時05分05秒

 遠藤の『沈黙』を25年ぶりに読む。文学のチカラはすごいものだ。現況のカトリック教会を批判することは今の私にとっては簡単だ。四半世紀にわたって哲学や神学の知識の断片をごちゃごちゃ頭に入れたからナンボでもいちゃもんつけよう思たらつけられる。ずいぶんエラクなったもんだ。けど遠藤の問題意識にはあらためて考えさせられた。
 「首の飛ぶような念仏」と部落解放家の米田富さんだったかが、いっておられた。今ごろ念仏となえてもなんともおまへん。落語には、びっくり念仏・ふろ念仏・こごと念仏何でもアリ。受け
念仏ってぇのもあった。昔、京都で学生運動やってた時も、先輩の手引きで入った下宿の大家
が公安につながってるおっさんやったことがあって、ずいぶん先輩もお気楽な共産主義者やなあと思って拍子抜けした思い出がある。
 生まれながらに年貢をしぼりとられる水のみ百姓として存在し、死んでも仏教の戒を守れぬといわれなお地獄行きでしかない生。そこに、罰する神・怒る神(それはとりもなおさず規範を与える神だが)が地上を支配する権利はない。その者たちを許す神、愛する神でなければならない。
 けど、この豊かで間延びした時代にはたらいておられる神とはどんな方だろう。その神は、いったい誰を必要とされているのだろうか。
 


え、なんで? 投稿者:大陀羅弗”痴  投稿日: 6月22日(金)12時03分48秒

申し訳ありません。
初めての投稿でなにやら失敗。
妙なリンクが付いてしまいました。なぜだろう。アドレスだけご参照下さい。

http://www.jcss.net/~gokuraku/


よく読んでから・・・ 投稿者:大陀羅弗”痴  投稿日: 6月22日(金)12時00分26秒

と思ったら・・・(http://www.jcss.net/~gokuraku/yybbs/yybbs.cgi をご参照下さい)、「読み解く」を基にした火花散る論戦は、一休み中なのでしょうか。

はじめまして(ン? 挨拶の順序が変かな)。久しぶりに掲示板を見ました。

先日、別院横のお寺での学習会でお聞きした質問ですが、改めて私の問題意識も含めてここでらくりんさんに聞いていただきたいのです。

いま、「陰陽師・安倍晴明」がいささかブームのようです。もちろんマンガでエラく美男子に描かれたということもあるでしょうが、それだけではないと思います。自分の現状や運命全体を全く別のフェイズの事象が司っているという考えは私達の文化に根深くあると思います。占星術や卜占・祭祀、前世を見るということがそれを表していると思います。

それは私達の中に、「今の自分がこのような者として在る理由を説明して欲しい」という欲求があるということだと思います。そしてそのことをもう少し考えると、私達は「自分自身に納得したい」ということを根元的欲求として持っているのではないかと思います。安倍晴明ブームは古来からの陰陽道がその欲求に答えているという思いで盛り上がったものではないでしょうか。

で、自分の前世を教えられて今の自分を納得する(「前世がそんなんだったら、今の自分がこうあることはしかたがないか」)ということも、仏教で言う「宿業の身」というような言い方に納得するということも、「今の自分はこうあるより他ないものである」という納得には変わりがないように見えます。

しかしそこに大きな違いを見いだしているのが化身土巻なのでしょう。阿弥陀如来に帰依する、ということで私達に与えられる自分自身への納得と、「鬼神に事え」ることによって与えられる自分自身への納得は中味が全然違うのだ、と。ただ、その違い目がよく分からないもので、先日学習会のあとに「どう違うんでしょう」とお聞きしたのです。

鬼神に事えれば、これから先もお伺いを立てなければならなくなるということ、あるいはそれに振り回され支配される、ということは分かるのですが、そうでない自分自身への納得というのはどんな世界を私に開いてくれるのでしょうか。

どうにもならんのだから、安んじて泥の中を泳げ、ということなのでしょうか。

イエイエ、答をくれ、とは言いません。しばらくこの方向で読んでみます、ということです。

以上、「安倍晴明ブームを出発点に考える化身土巻」でした。

http://www.jcss.net/~gokuraku/


暇つぶしに書いてみた話題 投稿者:らくりん  投稿日: 6月22日(金)11時50分32秒

おっ、大悲さんが食いついてきた。

さすが「広報」担当。
私は画像処理はほとんど使いませんで、文章専門です。

で、結局一番使用頻度の高いソフトは、実はIMEだったりして。

文章加工・編集ソフト(いわゆるワープロ)は、けっきょくそれほど
重要な問題ではないのかもしれません。

ワープロやパソコンの使い手が珍しい頃は、何かと重宝がられて
本とかビラの版下を作るような仕事が回ってきましたが、
最近は「猫杓子」状態ですから、どうやらそういう仕事から解放されつつ
あるたみたいです。


エディタ 投稿者:大悲  投稿日: 6月22日(金)11時12分45秒

私の場合、Wordユーザーなのですが、Wordで作った書類をそのままつかうことより、DTPなどデータのやり取りをするので.txtで保存。この頃は、ワードパットで済ませちゃうことの方が多い・・・。こうなりゃ、ソフトに関係ない。
完全にソフトがないとお手上げなのは、画像加工のPhotoShop6.0とレイアウトソフトillustrator9.0ですね。
officeがバージョンアップするようですが、いらなーーい。5年経って、私にとって必要なものといらない物がやっと解ってきました。


最近の傾向 投稿者:らくりん  投稿日: 6月22日(金)09時41分00秒

このところ、添付書類で送られてくる文書が、ほとんどワードになってきた。
自分一人で使うワープロはまだ「松」を使っているけれど、
WINDOWSでものを書く時は、エディタか一太郎を使ってきました。
IMEは、MSーDOS時代の延長でこれまた超マイナーな松茸
一太郎は、義理立てしなければならないほど使い込んではいないので、
そろそろワードに乗り換えるかな。
また一からおぼえなきゃならないかと思うとうんざり。
まあ、IMEを変更しなければどうってことないかな。


浜田では 投稿者:しん  投稿日: 6月21日(木)21時44分02秒

今日、浜田地区歴史教科書を考える会主催で俵 義文さんを
講師に「危ない教科書から子供を守ろう」というテーマで
講演会がありました。つくる会の教科書の問題点を指摘しながら
戦争ができる国づくりのための教育が始まろうとしていると。

後一ヶ月ほどで、教科書の採択が行われるというせっぱ詰まった状況
というなかで危機感をもっての講演となりました。
採択の予定としては首都圏(特に東京都)ではかなり危機的な
状況であることが知られました。
今回採択されると4年間はその教科書が使われるため
戦争を美化し、正義をたて、戦争ができる国、国のために死ねる国民作り
を教育現場で再び繰り返していくことを許してはならない。
いろいろと考えさせられる会でした。


あ、いかんまた怒りが。。。 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月21日(木)20時03分55秒

 竹田青じさんは「自分によせる心、社会によせる心」この二つをつなぐ言葉は
ないのだろうか?といわれる。
 竹田さんと仲良しで、私の知人でもある西 研は哲学ファンタジー
『ソフィーの世界』で有名なヨースタイン・ゴルデルさんと対話したあとこういってた。
「存在への驚き、感謝が哲学へのはじまりだと彼はいう。でも、存在への呪詛を持つ人も
いる。ぼくは、このふたつの立場に届く言葉はないのかと思う」
 
 私は、家が真宗ではなく九州であったが出家になった。けど、真宗のお坊さんもいったんは
家から逃げ出したいと思いながら、「選びなおして」か「阿弥陀さんが離さん」といったのか
知らんがお寺を継いだのであろう。
 なら、出家も在家もないはずだ。坊主がいわれない批判にさらされ続けるとええ加減にせんかい
!と思う。で、ええ加減な坊主が多いことは確かですが。。。

やめたいと


浪花恋しぐれ 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月21日(木)19時27分17秒

 昔、うちの近所に年がら年中「店じまい、在庫一掃セール」を謳い文句にやってた洋服屋さんが
ありましたが。。。
 らくりんさん、Vitaさん有り難う御座います。定席もできつつありますので、勝手にやらしてもらいます。でも、お世辞抜きでご本おもしろかったです。私も、「あれか、これか」でなく「あれもこれも」でなく、これでいくしかないと芸風が定まってきました。
 
 (せりふ)そりゃ、わいはアホや。酒もあおるし、女も泣かす。そやけど、それもこれもみんな
芸のためや。今に見てみぃ、わいは日本一になったるんや。日本一やで、わかってるやろ、お浜。
なんやその辛気臭い顔は。酒や、酒、酒買うて来い!
 (せりふ)好きおうて、一緒になった仲やない。あんた遊びなはれ、酒も飲みなはれ。
あんたが日本一の噺家になるためやったら、うちはどんな苦労にも、耐えてみせます。
 
 じっさいのところ、春団治のおかみさんは家を出て行ったのですが。。。
 アルコール依存症者のセルフヘルプグループAAのはじまりは、1935年6月10日、
アメリカでの出来事です。
 禁酒法が吹き荒れるなか、それは外科医のビルと証券屋のボブというふたりのアル中が出会った
ことによって始まりました。そして、この日はビルが、お酒をやめた日(バースデイという)
であります。けれど、20歳から39歳までアル中だったビルは、この後40歳から55歳
まではひどい抑うつ症状に悩まされました。「喜びが神の摂理なら、抑うつもまた神の恵み
のひとつであろう」とビルが思うまでに更に15年かかりました。
 ビルが酒をやめるきっかけは、妻のひとことでした。「私は貴方を愛しています。素面
だった時の貴方が好きでした。でもアル中の貴方とはもうこれ以上一緒にいられない」 
 この究極の愛情にあふれながら、究極のキビシ〜ぃ言葉がコンフロンテーションといわれます。
お前はアル中だから、酒をやめろといっても効き目はないのだということに一般の人々は、
なかなか気付きません。本人は「おれは、自分でいつでも止めることができる。おれはアル中
じゃない!」と思っているようです。

 「落語とは人間の業を肯定する芸である」とは、立川談志のテーゼであります。忠臣蔵で
主君の仇を討って見事切腹するやつらは、講談で描かれる。だが、落語とは吉良邸に討ち入り
しないで逃げ出したやつを描くんだとも。遠藤周作の『沈黙』が読みたくなった。

 


 


らくりんさん、愚っ朕さん、レスありがとー 投稿者:Vita  投稿日: 6月20日(水)11時26分22秒

 私自身、時々ネットゲームが止められなくなって、暴走してしまうことがあります。そういうとき、愚っ朕さんが書いていた「抱擁を求めている」という言葉が浮かんできます。そっかなーって。

 妙好人の中には、お酒がやめられなかったという経歴を持つ方が、いらっしゃいますネ。社会的な地位をもちつつ、お酒で失敗してしまう。もう、やめたと思いつつも、また恥をかいてしまう。

「予てより我をむかひの火の車 めくりもあはて参る極楽」

己の凡夫性を真摯に見つめざるをえない。そういう人が罪悪深重の凡夫を真っ先に救うという弥陀の教えに帰依していくという形で、救われていく。それは同時に、煩悩と仲良しになっていく事なのでしょうけど、しかしながら、想像しただけでも、辛い歩みなのでしょうね。

 救いとは何か、どうなれば救われたことになるのかということを考えたりしますが、この問題のなかに、そういうことを垣間見る事ができるように、思っています。


「話が聞けない男」 投稿者:らくりん  投稿日: 6月20日(水)11時17分37秒

「地図が読めない」なんてことは、日常的にそんなにしょっちゅう
トラブルのもとになるってことはないけれど、
「話が聞けない」ということは、意思疎通が一方的なものになってしまうわけで、
これは、相手にとってはけっこうつらいもんがあると思います。

今の時代、らくりん自身も含めて「しゃべりたい人」「しゃべりたいこと」は
みんな一杯、一杯かかえこんでいるのに、「聞ける人」がいない。絶滅危惧種
ちゃんと聞くことは忍耐がいるし、テクニックも必要だし、
とってもストレスが溜まっていく。
わくりんは、口先3寸で世渡りしているばかりで、
同じことをなんべんも繰り返されると、すぐにイライラしてきて、
「話が聞けない男」と言われると、グーの音もでません。

「聞いてくれる人」に出会えるかどうかは、今の世を生き抜いていく上では
けっこう重要な分かれ目になったりしているかも……。


りえちゃんの激やせ 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月20日(水)10時24分42秒

 懐かしの宮沢りえちゃん。拒食・過食の摂食障害に悩んでいたのはみなさんご承知の通り。あの背後にはりえママの存在がとても大きかった。摂食障害もやはり嗜癖の一種です。
 ママはステージママ。自分が憧れ・望んでいた芸能界で活躍することを娘に託したのでありま
した。ママの欲望をりえちゃんは忠実に生きようとして大変なことになりました。
 激やせ・激太りは、誰かにあやつられていることに反発して、自分の身体は自分がコントロールできるんだという意志がそのようにさせるのだという解釈がなされます。しかし、本人にはこの自覚はまったく無いことが多いそうです。
 
 嗜癖はいっぱんに、医療では治らない病気といわれています。それは、薬とか注射でなおす
ものではない。カウンセリングしながら、同じ病にかかった人々の集まり・自助グループに
参加することがポイントです。ちょっと回復しかけた「先を行く人」の話を聞いて、仲間を
見出し、自分も自分史を語っていくという方法がとられます。
 そこでは、真宗とちょっと違って「いいっぱなし、ききっぱなし」ということが原則です。
嗜癖者は、自己処罰をしていることが多いので批判されると、落ち込んで下手すると自殺しか
ねないからです。
 齊藤さんは、伊藤比呂美という摂食障害だった女性と本を出していますが、その中に面白い
なと思ったフレーズがあります。「しっかり食べて、しっかり吐こう」という文句です。過食とは、やけ食いという型と、食べてそれをゲーゲー吐くという型があって、後者のジレンマをぶっとばすおまじない(?)です。
 何にせよ、嗜癖は必要な時期には、しっかりと嗜癖しようというのです。あなたの成長にとって
嗜癖は必要なのだよ、嗜癖を退治しようというんではなく、仲良しになるくらい、ゆっくりいこうねというメッセージです。
  


Re:お久しぶりです etc. 投稿者:らくりん  投稿日: 6月20日(水)09時49分33秒

>愚っ朕さん、
ご無沙汰です。おかえりなさい。
仕事が入って何よりです。
それから、『読み解く』喜んでいただけて何よりです。


>Vitaさん
安田先生の本は、ほぼ出そろって、最近出てきたものは、弥生書房の講義集と
相応学舎(安田先生の住まわれていたところの号)がたまに出すことがあります。
これから欲しいと思っても、なかなか入手できない自費出版的なものもありますし、
講義録・選集・全集にいたるまでたくさんあります。
どれがどうということは私にはいえません。
それに、Vitaさんのところの書棚には、
安田物はすでにいくらでもあるんじゃないですか、
手あたり次第に読んでみて、いろいろと見当をつけてみてください。


お久しぶりです 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月20日(水)07時51分07秒

 三日間のご無沙汰でした。つれの家に泊まって、そっから書き込んでます。
人間持つべきものは、友ですね〜。ビッグな仕事が舞い込んで来ました。ナント月いちで居酒屋
の二階の和室10畳で、仏教落語がやれることになりました。しかも二時間ワク。博多生まれで
限界しらずの、ママとマスター。さすがキップがよろしいようで。
 (あと、つれがやってる喫茶伝道でも一席設けてもらいまして、これは歌声喫茶風に恩徳讃や
五木寛之作詞の歌などを皆さんと歌うつもり。また山谷の身寄りの無い高齢者の方のグループホームからもお呼びが掛かり、こっちは笑いと涙のぐっちん一代記を浪曲風にやりたいと思います)
 もちろん、落語は単なるネタ振りでして、お近くにお住まいの飲んだくれの住職さんが毎回見えられるそうなので、咄の中に出てきた仏教語とかの質問は全部そっちまかせ。
 まあ、百戦錬磨のつわものどもの酔っぱらい達だけに、おいそれとはいかないでしょうが。
あ、そうそう、そのつれからついにらくりんさんの『読みとくW』を寄付してもらいました。
や、やばい。こんなやらかい言葉で、化身土巻のお話しをされとる方および読者に向かって
私ごときの腐れ外道が、戯れ言を垂れ流していたなんて。。。なんとイノチ知らずなのだろう。
 
 >VITAさん
 レスありがとうございます。人間は大なり小なり、嗜癖者であるようです。元妻が通っていた
齊藤学さんの著書。『魂の家族を求めて』日本評論社や新宮一成の『ラカンの精神分析』講談社
新書がネタ本です。よろしければお読み下さい。


安田先生の本 投稿者:Vita  投稿日: 6月20日(水)07時31分29秒

オススメ、教えてください。


のんびりとした一日 投稿者:らくりん  投稿日: 6月19日(火)20時53分02秒

今日一日ブラブラしていました。
と言っても貧乏性なもんで、何もしていない、ということができない。
昨日帰りがけに京都で入手してきた、平雅行『親鸞とその時代』法蔵館
を読みました。
講演録に大幅に手を加えたものだそうですが、口語調で楽に読めました。
『読み解く』と同じスタイルの作り方です。
基本線は昔の『日本中世の社会と仏教』の延長上にありますが、
「悪人正機説」(顕密仏教がすでに言っていた)と「悪人正因説」(親鸞の独自思想)
との違いを(著者のつもりでは)もう少しわかりやすくしたものだそうです。
わかりやすいと言えばわかりやすいのかもしれませんが、けっこう込み入った説明
です。
今までの学者の通説は、誤解の上に成り立っているということを明らかにした上で、
本当の意味での親鸞の独自性を強調したい筆者の気持ちはよく伝わってきます。
ただ、いわゆる歴史研究者の親鸞論争としてはかなり踏み込んだもので、
それなりに興味深い本ですが、
私自身の個人的な感想としては、やっぱり曽我先生とか
安田先生のものの方が〈刺激的〉です。

聖覚法印が嘉禄の法難の際には弾圧した側に立っていたという見解についても
さらに詳細な検討が加えられ、いっそうパワーアップしていました。
この見解は、ちょっとやそっとではゆらぎそうもなく、
私ととしてもちょっとまじめに考えてみる必要がありそうな問題提起です。

同時に求めてきた安田理深講義集2『親鸞における主体の問題』弥生書房
これは、ちょっと大事に読もう。


一夜明けて 投稿者:らくりん  投稿日: 6月19日(火)11時50分20秒

やっと読み終えた。

そうですか、愚っ朕さん、さびしくなります。
おったっしゃで。

とかなんとか言っているうちにまたすぐにやってきたりなんかして。

とにかく、なにわさておき〈なりわい〉を確保して


今帰ったぞー 投稿者:らくりん  投稿日: 6月18日(月)23時32分27秒

「チカリタビー」なんてギャグが昔あったなあ。


ありり 投稿者:Vita  投稿日: 6月18日(月)20時56分32秒

「嗜癖」のお話をもっと読みたいー


それではさようなら 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月18日(月)17時58分26秒

 失業して二ヶ月。パソコンも持っていない私は、マンガ喫茶のインターネットを利用して
今まで書き込んで参りましたが、マジやばいっすよ〜このままでは。貯金がなくなる。
 アホな真宗理解を書き込んで、正直しまった!と思ったので、勉強しようと久し振りにちゃんとした仏教書(末木文美士)を読んでみました。目からうろこ。本覚思想とはそういうものだったのですね。フムフム、なかなかこの人読ませる文を書かはる。
 まあ、私のカキコは一人よがりのレスできない文体で書いてきましたので、罵倒も批判も共感も
今まで特にありませんでした。ええ、関心分野が違うのだというのは薄々気づいていましたが。。
 で、最後に書きたいのは酒井あゆみという人のことです。この人、あらゆる風俗を経験した
今年三十の女性。幻冬舎の「眠らない女」は特に良かった。あの殺された東電OLさんと同じ
昼は普通の仕事をし、夜は風俗をやる女性たちのレポートです。
 東電事件では、佐野眞一などの男性の文章を読んだが全然かゆいところに手が届かないなあと思った。で、あとイメクラのフロントをやった男性のルポを読んだ事があるんですが「女性を非人間扱いする、風俗業は二度と、働けないし遊びにもいけない」というものだった。
 酒井が描く、女性の側からの視点はちょっとチャウ。女性はそんなヤワではないということ。
もちろんインタヴューに答えるぐらいだから、その点は割り引かなアカンけど。酒井は後書きで
「久し振りに人間の声を聞いた」といってるが私も、そう思った。詳しくは、読みたい人は、
読んでもらったらいいのだけど。(まあ、いてない)いつか、私を本当に必要として愛してくれ
る人と出会えるんじゃないか、でも風俗に来るような男でそんなのいるはずないよな、でも
ひょっとしたら。。。ってな具合にほとんどの女性が思っている。
 では、うまく職にありついてパソコン買えたら、もどってくるやも知れません。その時は、
もちょっと皆様とお話ができるようコミュニケーションスキルと仏教をお勉強しておきます。
じゃあね。
 


ラカンと羅漢 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月18日(月)12時13分16秒

 ラカンの「大文字の他者」というのは、神さまともとれるが、言葉の世界という意味らしい。私がもっとも感銘を受けたお坊さんは、お東の藤元正樹というひとだが、「人間はこっから上で覚るけど、こっから上で迷う」といっておられた。こっから上とは、頭のことである。知性といってもいいし、言語といってもいいだろう。
 ジョアキンは、仏語仏語とわめいているが、言語というのは仏教では戯論といわれているのでは
なかったか。まあ、言語の恣意性、ルールをもったゲームのようなものであることがわかっちゃいないのではないか。
 大衆は、論理言語より物語で救われてきたのだ。Vitaさんがいわれていたが、真宗は法蔵
菩薩の神話をもっている。「もし誰それさんが○○しないなら、私は仏さんになりません」という
形で、法蔵菩薩は「私をいつまでも待っていてくださる」のである。物語という言語の世界で
私が必要とされているのである。つまり、現実の親や教師や上司以上に私を無条件で受け入れ
離さないといってくださるのである。
 私が信じてやまないのは、この「親さま」である。


不在者投票に行ったあ〜 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月18日(月)11時29分03秒

 「原始仏教経典の成立史研究」は前田專学だったか恵学だったか。テークラとヤメールという
バラモンの兄ちゃんがお釈迦さまに文句をいった。「あの低カーストの者たちが雅語を使わないで
お釈迦様の教えを広めておりますが。。。」と。お釈迦さん、「別にええやん!何語でも」
 あと、お釈迦さまが使ったことばは古代マガタ語とかで、パーリ経典でさえ、編集者の恣意的な
解釈が含まれているんではないんですか?渡辺宏照だったか、お釈迦さま在世時にすでに、上座
部的な傾向と大乗的な傾向があったとか。こういうのは待機説法というのかいな?水野弘元だったか、梶山雄一だったか忘れたけど、弟子が喋ったことも、パーリ経典に含まれているとかなんとか。
 じゃあ、どれがお釈迦様のオリジナル思想か根本思想かなんて果たして分かるのかなあ?お釈迦さまのDNA飲んだり、ヘッドギアつけて脳波を一致させるかでもしないと無理なような。アメリカにはイエスセミナーという聖書学者のグループがあって、面白い新約聖書を売ってる。赤、ピンク、グレー、黒で刷り分けられていて、イエスの言葉のホンモノ度がわかる仕組みになっている。
 ジョアキンの本はお釈迦さんの思想をいくつかのポイントを挙げているがそれだって恣意的だろう。
 恣意的で思い出したが、共産党の志位和夫。知ってるつもりに出て来た荒俣宏と区別つかへんぞ。京都選出の穀田恵二あたりのおとこまえと委員長交代しろ! 


だめだこりゃ〜 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月17日(日)01時04分51秒

 370円のモーニングを食べながら全紙に目を通すのがこの頃の習慣になりました、もったいない
ことです。宅間容疑者のノートを読みました。上智の福島章が分析していました。いわく「粗暴
で、欺まん性にあふれていて、ゆがんだ人格」南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
 小田晋といい、このおっさんといい、こういうトンデモ犯罪心理学者こそがスーパービジョンが
必要じゃないの?専門家のくせに誰もが感じること、わざわざ言うな!顔洗てもういっぺん出直して来い、もったいないことです。私は凡夫です。この宅間くん、。。。すべき、とか 。。。であるのが当然といったような観念にとらわれ過ぎだというのが私の印象です。
 論理療法のエリスは、誤った信念という10カ条をあげていますが、これは「ゆがんだ認知」
とでも言ったほうが適当な例でしょう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
 さてNHKで「隔離政策はなぜ続けられたか」を見ました、もったいないことです。戦争で若い男子が必要なのに、伝染すれば困る病気なので「民族浄化」のため隔離したということらしい。恐ろしいことだ。医師という治療の専門家であってもイデオロギーに引っ張られるのだということ
が、よく解った。
 元患者だった島比呂志さんの本に出てくる小笠原医師という、隔離に反対した医者がいたのがなんだか救いだった。もったいないことです。隔離政策をリードした光田医師の言い分は、患者をふるさとに返しても受け入れられないからという理由だったようだ。
 これは、岩井克人や柄谷行人らの、なぜお金は流通するのかということを分析した議論がヒントになる。いわくお金自体には、価値がない。けれど、お金を受け取ってくれるはずの、後続する他者を想定するから、お金は流通することができるのだと。「私は、医師というこの病気の専門家である。偏見も差別ももっていない。しかし、この患者を受け入れないで差別する人々がいるのだ」実はこの専門家の信念が、差別と偏見を固定化させてしまう原因ではなかったか。


インテリゲンチャンの箸休め 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月16日(土)06時40分30秒

 さてと。G・ベイトソンを知ったのは中村雄二郎という人の「魔女ランダ考」という本です、
南旡阿弥陀仏。彼は「臨床の知」ということを言ってて@相互主観、相互交流を重視するA物事が置かれている場所を重視するB総合的、直感的、共通感覚を重視するという三つをあげている。
 彼に触発されて河合隼雄は「神話の知」ということをいってたネ?「科学の知」は自分を棚上げ
して客観を追及するが「神話の知」は自分を含み、限定的かもしれないが別の種類の知であると、もったいないことです。
 中村さんは西田幾多郎がお好きだし、いわゆるネオ京都学派といっていいでしょう(笑)。
愚っ朕はですね「近代の超克」とかいうムズカシイ話はよくわからんが批判仏教派は、こんなん
目の仇なんでしょうな。(笑)
 ところで、精神科医、斎藤学は、嗜癖者はアルコールなりクスリなりギャンブルなりにのめり
込むが、それはある人間にとって根源的な欲求を満たされないから、その代用品として嗜癖するのだといっているネ?で、その欲求とは「抱擁される欲求」だという、南旡阿弥陀仏。斎藤が念頭に
おいているのは、おそらくフロイトをソシュールで読みなおしたといわれるジャック・ラカンの「大文字の他者から認められる欲求」であろう、もったいないことです。
 薬物依存者の自助グループ施設、ダルク(ドラッグ・アディクション・リハビリテーション・
センター)を全国につくっている近藤恒夫は、自身の経験を振り返って、将来に対する不安、
目標の喪失、何かに追い立てられる焦燥感などの「痛み」を忘れようとしてクスリにはまったと
いっている。近藤もまた機能不全家族(家が家としての場所になっていない混乱した家庭)
で育っている。南旡阿弥陀仏、南旡阿弥陀仏。 


なんたら三昧 投稿者:林遊  投稿日: 6月15日(金)15時07分12秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

当たり!。新しいコンテンツ作成のためプログラム三昧の日々です。おか
げでOSぶっ飛ばしてデータがどこかへとんでいってしまいましたです(笑)。

それにしてもデータは失われる事があっても、口に称えられるなんまんだぶ
つは林遊の癖にまでなって下さってますから失われることはないでしょうね。

で、何をして遊んでいるかは下記をクリックしてみてください。なお開発途
中のプログラムですから何が起きても知りませんです。ヘルメットを用意して
クリックしたほうがいいみたいです(笑)。

たぶん非難ごうごうだと思いますので24*3時間ほど公開しておきますが、
けっして林遊に石は投げないでくださいまし。>all

あくまで、林遊が私的に使用しているプログラムであって、決して誰かさん
のHNを○○に置き換え、××の語句を△△に置き換えているようなことは
していませんです、と思う(笑)。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続

http://access-jp.net/cgi-bin/test?http://www60.tcup.com/6011/fujiba.html?seq=6011&id=fujiba


ジョアキン批判 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月15日(金)13時59分52秒

 欠席裁判決行!社会学者にしてお西の反動教学者といわれる大村英昭によると救いは
ざっと四種類にわけられるそうである。@自我のとらわれからの解放A意味からの解放
B集団への溶解C宇宙への溶解 である。詳しい説明は仏教に造詣の深い皆様には不要
でしょう。(分け方に疑問、あるいは分ける事そのものに対する疑問はおありでしょうが)
 また津田真一(密教学)や服部正明(インド哲学)らに拠るとインドにおける悟りへの
アプローチはおよそ次のようなものである。@儀式A身体技法(ヨーガなど)Bバクティ
(信愛、神様への熱烈な信仰)C利他行 等を通じて達成するものと私には読める。あと
色々あるでしょうが。
 ジョアキンは真宗を@選択真宗とA和靜真宗の二つにわける。で、@のみが正しい真宗
でAは天皇制につながる悪しき教えであるといっている。で、Aは如来蔵やら本覚思想を
後ろ盾にしているということだろう。大村の救いの分類ではBとCはそもそも仏教では
ないということになるだろう。
 私的にはなんだかな〜という感じである。うちの学校では個人から衆生へという信国淳
という先生の本を読まされる。それは、私というものが他から切り離されてあらかじめ
あって、その外に阿弥陀仏という仏がいてそれに向かって「南無阿弥陀仏」と念仏するん
じゃない。阿弥陀仏の南無せよとの呼びかけに、南無せんという応えるところに南無阿弥
陀仏が成立して救いとなるといったようなことらしい。「関係の救い」とでもいったら
いいのか。
 アルコール依存症の自助グループ、AA(アルコール・アノニマス)と接点をもった
グレゴリ―・ベイトソンは「精神の生態学」という本の中で西洋的な自己という認識論
=存在論の誤りをついている。それは彼が1980年にカリフォルニア禅センターというところ
でこの世を去っているようにカリフォルニアの仏教好きのアメリカ人の影響を受けたから
である。(竜樹の中論を思わせるような議論があるが省略)
 ようするに彼がいいたいのは、世の中という客観の中に、自分という主観が向きあっていて、
他者という別の主観と対抗的(競争的)な人間関係をもつこと、プライド争いにはまることが
問題だと指摘するのである。社会学的にはシステム論という関係を問題にするアプローチが
ある。アル中の妻もまた問題をもっている、そこで家族療法という治療法も生まれるのである。
 私は、仏教が(真宗が)内輪だけで、何やら難しいパズルを解いているのに終始しているの
が疑問だ。ジョアキンらの批判仏教とはようするに正しい仏教と間違った仏教をより分けられる、理性を持っている個人のみが仏教徒なのでしょ?
 私には、「孤高を誇る」というのが好きな傾向を持つ人たちとしか思えないな。普通の人の
救いにまったくあずからないような理論はさしあたって、「意味ないじゃ〜ん」と思う。
 



輪廻を断つ 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月14日(木)12時49分02秒

 。。。かかるあさましき罪業にのみ朝夕惑いぬる我ら如きのいたづら
もの。。。芸人は三日やったら、やめるにやめられまへんなあ。
 さて、相変わらずTVは宅間容疑者を悪魔に仕立ててます。上野千鶴子が
「強者は一貫した物語を生きることが出来るが、弱者は矛盾した物語を
生きざるを得ない」といってるが、まさしくその通りだ。このおっさんは、
いったい何がやりたいんかわからん。それに比べ、被害者の子供達は未来の
ある、天使だ。こういう風に見せられたら、誰でも子供達に感情移入して
泣いちゃうわな。
 それにしてもあのオヤジが問題でしょ。飯星景子が「親からやればできると
いわれてプレッシャーを感じたって、この男いってるけど、誰でもそのくらい
言われますよね?」とコメントしていた。けど、お前のおとっつぁんは、娘が
カルトに入ったら断固闘うといって守ってくれたやろ?守容疑者の親父は、息子を
完全に見捨ててるやおまへんか。
 虐待というものの一種にネグレクト、育児放棄というのがある。子供時代、この
宅間容疑者はすてられてたんとちゃいますか。もっとも、このオヤジも捨てられてた
から、息子をどう扱ってええんかわからんのとちゃうかなあ。
 以前、世代間連鎖と言う言葉を紹介しましたが。輪廻というのは、あるんかないんか
わかりまへんが、親に似るというのは確実にありますなあ。顔、格好もそうやけど、
性格というか、問題が引き継がれる。
 五木寛之が書いてたけど、シェークスピアのことばに「人間は泣いて生まれてくる」
というが、笑ってこの世を去っていきたいと。せやけど、泣いたまま、泣かせっぱなしで
死んでいく人もおるなあ。この世に生まれても、喜ばれへんし迷惑がられ、厄介者扱い
される。五木はこうもいう。人間は生きてるだけで存在価値があるんですよと。
 でもたいがい我々は、○○ができる、あるいは○○ができへんといって存在価値がきめ
られますなあ。無条件にその存在が許されているというメッセージが広く行き渡れへん
かったら法律をいじっても、精神障害者を隔離治療しても、無関係に殺されてしまう、
8人の児童は浮かばれませんよ。


お知らせ 投稿者:らくりん  投稿日: 6月14日(木)09時13分23秒

第二回 聞響の集い

「真宗の救い」  阿満利麿 さん
         柿原 勧 さん

6月30日(土) 午後7時
場所 勝光寺 (小松市東町 小松駅から徒歩5分)

   会費500円            主催 聞響の会


ごぜ:一度でいいから聞きたかった 投稿者:らくりん  投稿日: 6月13日(水)10時58分22秒

私は、「ごぜ」と聞くと有馬稲子の「はなれごぜおりん」の舞台を思い出します。

しかし、ちょっと前に「知ってるつもり」かなんか「最後のごぜ」の番組をやって
いましたが、やっぱ〈本物〉の迫力は、お芝居とか真似事とは
まったく別もんですね。テレビを通してでもあの「声」のすごさは伝わりました。
障子の紙がビリビリ振るえたという〈本物〉は、どれほどだったか。
今となっては、もう永遠に〈本物のごぜ〉に接することはできない。

これから小松の「お座敷」に出かけます。


愚っ朕さん 投稿者:らくりん  投稿日: 6月13日(水)09時06分04秒

お気遣いありがとうございます。

>お客様が芸人さんを育てます
らくりんも、これはその通りだと思います。
最近の寄席では、自分が笑うことばっかり考えて、
「芸人を育てよう」という厳しい視線とか、
「育ってほしい」というやさしい眼差しを持って、
楽しんでいる人が少なくなって来ているように思います。

どうも、スポーツ選手でもタレントでも
すぐ「結果」がうんぬんというテレビやら新聞に踊らされているようでね。

でも、芸人さんはいつも、
一発必中、即断即決、五里霧中、我等哀愍、度脱一切、十方衆生……
その場ですべればあとがないって感じで、
瞬間芸の連続技で決めていかなければならないから大変なんでしょうけどね、
これもテレビの影響か。

愚っ朕さん
林遊さんは、この時季は「聴聞三昧」か、さもなくば「プログラム三昧」か
なんかなんじゃないかと思います。
心配しなくても、そのうちひょこっと現われて、にくまれ口叩き始めますよ。


林遊さ〜ん、 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月13日(水)05時16分30秒

 らくりんさん、出稼ぎご苦労様です。しんさん、お客様が芸人さん
を育てます。よろしくです。
 そういえば、らくりんさんのお寺は北陸なのですねえ。北陸は
出稼ぎの伝統がありますね。お豆腐やさんと銭湯のご主人は新潟県の
人を筆頭に北陸出身者が多いようです。たいへん、勤勉さを要するのに
もかかわらずあまり儲からなさそうな仕事です。そういえば、岩下志麻の
「ごぜ」もひばりの「角兵衛獅子」も薬売りも北陸だ。
 雪が降って大変なのは、東北も同じなのに大工・左官・女中・看護婦
などの縁の下の力持ち的職業は北陸出身者が多いようです。
 真宗王国と呼ばれる、北陸門徒のエートスなのかもしれませんね。
 うちのご門徒でお風呂やさんの手塚さんも富山の方だった。お元気
ですか〜。


浜田でまた 投稿者:しん  投稿日: 6月12日(火)22時52分23秒

昨年に引き続きお世話になります。
二日間の講義、しっかりと聞かせてもらおうと思っています。
しかし、連日の疲れがたまっておられるようですね。
頭がスポンジ状態とはだいぶん酷使されているのでしょう。
夜は有福温泉に宿泊のようですのでしっかり休養してください。
しかし、京都での教行信証の講義の頃が懐かしい今日この頃です。


遊煩悩林 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月12日(火)11時52分52秒

 相手のスケベ心をくすぐるというのも芸の要でした。

 ロジェ・カイヨワの「遊びと人間」という本がある。
彼は遊びの要素を四つ取り出している。
@競争A偶然B模倣Cめまい で、複数の要素が重なることに
よって遊びがある。@はスポーツとか。また仕事や勉強も入るだろう。
Aは、言い換えれば運。賭け事の類である。Bはモノマネとか
おしゃれとか、ごっこ遊び。コスプレとか。演劇もそう。
Cは、絶叫マシーンとか、アルコールとかクスリによる酔い。
失神すること。
 遊びは、カタギの息抜きとしてあるが、職業にしている人もいる。
スポーツ選手、パチプロとか役者はもちろん、失神のプロは
シャーマン(イタコやユタ)だ。野田秀樹は、役者は舞台の上で陶酔
しなければいい芝居はできないが、醒めたもうひとつの視線も必要で
あると日経紙で書いていた。
 だから、酔っ払いとカラオケに行くと困るのだ。プロは、この遊びを
制御するのに長けた人なのであろう。よくみると、この遊びは嗜癖のジャンル
と一致している。遊び馴れない人は、嗜癖という病にかかるのだ。
 京都の博愛会病院の医師で、塚崎直樹さんという人が「行と精神療法」と
いう論文を書いていたが。私が思うに「行」というのも、エスカレートしてコント
ロールが効かなくなると「修行嗜癖」になるのではないか。
 白隠は「夜船閑話」で、禅のやりすぎで病気になり、京都北白川の山中で
白幽というおっさんにナンソの法というイメージ療法を習ってこの病を癒した。
 パワーレスに気づくというのが、嗜癖治療である。そういえば、
競争というアホらしさに気づかせてくれたのが、赤色は赤い光、青色は青い光を
輝かせたらええんですわという教えだったなあ。


そういえば 投稿者:らくりん  投稿日: 6月12日(火)09時41分08秒

愛媛玉串料訴訟で有名な、あのAさんが、
当世、右を向いても左を見ても「作文教学」と「お座敷研修」ばっかりだ、
と嘆いておられた。

そこで一節

   笛吹くついでに大法螺も、
   タイコ叩いて、持ち上げて、
   ヘタな鉄砲も数打ちゃあたる、
   十・百・千に二つ三つ、
   それだけウケれば、よしとしょう

宝くじとええ勝負というところですかな。

明日から、またお座敷が二つ三つ……と、しがない渡世の旅が続きます。

今度は、某掲示板の謎の実名登場人物「某山口真一」さん
とか「しん」さんとの大接近も。
しかし弱ったもんだあの芸風は、どうしたらウケ取れるかなぁ。


「楯」を「斜め」から読む 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月12日(火)02時46分43秒

 「カッコイイ」「オモロイ」と思わせて、
相手の弱み(うしろめたさややましさ)に
上手につけこんで、銭を巻き上げる。
そういう芸や技を磨く。で、手の内明かすのは
野暮で、無粋だろうな。


林遊さんいづこへ 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月12日(火)01時37分30秒

 お元気ですか〜。三吉さんからインテリってほめられちゃったー!
うれしいなあ。林遊さんもいわれてまっせー。坊主の悪口書いたら
出てきてもらえますかー? 私が女性なら、艶っぽい踊りでも披露
してお篭りから出て来てもらうんですが。。。
 ところで、玉光さんの話は相変わらず、かいじゅうやなあ、ガオッ〜〜。
まあ、死刑廃止の時さんざん聞かされたのは今風にいうと「マインド
コントロールから解き放たれましょう」というメッセージであった
みたいですけど。。。私のようなハナタレ小僧には、五劫もごぼうも
マッタケもみな擦り切れてしまいまんがな。
 さて、芸能のはじまりは、祝福と祓えだそうです。つまり、おめでたい
言葉を相手になげかけて銭をもらう、あるいは悪魔祓いなどをする
ことから発展したようです。今年は、稲の実りはどうだろうとか、
家族が病気になりませんようにという相手の弱みにつけこむんですね。
真宗からみたら、下級の雑宗教者ですなあ。拝み屋さんとかイタコさんとか
社会のはみだしものは、そうして生きていく他なかった。
 勧進聖というのが、昔いた。カンパ集め坊主とでもいうのだろうか。
彼らはたとえば念仏踊りとか施浴とか、なんか芸をもってた。あるいは
土木・建築技術者集団とつきあいがあった。今の坊さん、芸がない。
檀家という会員制クラブになったから、辻説法せんでも食えるもんね。
 いかがわしい存在、というのがええなあ。昨今ヘアヌードみせられても、
この猥らさというか艶っぽさがなくて、援助交際のマグロ女子高生みたいで。。。
 骨質という言葉もあるらしいけど、まあ、「面受口決の相伝の教え」
か何かお持ちだそうなので、「会員限定」の集会があるんとちゃいますか。
もっとも、私にとってもうそんなんどうでもええけど。。。 


ootubo様、他皆様へ。「皮肉」です♪ 投稿者:三吉  投稿日: 6月11日(月)21時41分19秒

数日連続ワンセットの聞法会があったとします。一回きりしか参加できない方がおられました。親鸞は、その方に対し、「席に座るな」と云うのかしらんということだと思います。大願さんも私もそー思わない。「ただそれだけ」です。論理以上に感覚の問題です。<道場にはりぶみをして、なむなむのことしたらんものをば、道場へいるべからず>なんて親鸞はいわないでしょうから。譬えそれが<僧侶>対象、<坊守>対象であったとしても、聞きたいという人がいれば開放するのに何の問題がありましょうか。。。私にはわかりませぬ。それは親鸞の考えではなく、主催者の都合ではないでしょうか。それなら推測できます。デパートが休館日にお得意様御優待セールを催してたりします。会員しか入館できません。それは世間の論理でありましょうや。浄土の論理ではないように思います。
<『正しい』人><「まじめに」できちゃうからこわい。>なるほど、そのとおりですね。賛成です。ただらくりんさんとの見解の相違はそーいう方こそ、阿弥陀さんの正客であろうということです。センスのいい人は聖道門で修行されたらいいのではと皮肉をかましておきまする(笑)。
らくりんさん、愚っ朕さん、御留守居役様さん、林遊さん、ootuboさんなどのインテリ諸氏が、弥陀の大悲いるのですかね。自力で大丈夫なんじゃないかなぁ。。(笑)
私は、大願さんの聞法したいという熱意に、なにかしら大事なものも感じますけどね。。。
その問題点以上に。。。危うさ以上に。。。
朝早くから夏安居に聞法に参集される市井の爺さん婆さんの丸まった背中に、この現代でよくもまあと感動を禁じ得ませんがね。。。頭が下がります。
私もたぶん、戦前に生まれていたら真面目に戦争してた思索力の足りない、騙されやすいタイプです。様々な偏見が沁み込み他人を傷付け、加熱しすぎて煙たがられ、善意は所詮、顛倒の結果にしか帰結しない愚か者です。センスのよい方々の卓見には唸りつつ、「をひをひ。それは、わかりにくいよ」「なにか違う」「大事な点をはずしてる」となにかしらの「ずれ」を感じまする。。。さてさてこれも愚かな地平の「蒙」なのでしょうか。。
<「まじめに」できちゃうからこわい。>と聞いた時、これはわたしには「俺のことジャン」と思えてしまうのですか、諸賢におかれては<他人事>なのでしょうか。。。要素は自分にないと。
なるほど、それじゃあ、あなた様は<凡夫じゃないジャン>と感想を抱きまする。。。
またもや賢しらに言葉がすぎたようです。。。嗚呼。。(笑)
なにがなんでも、この問題に関して、この掲示板上に限定しわたしは<大願さんを庇う>と宣言しておきます(笑)。なんて私ってしつこいんだ(爆)。できれば蒸し返してくれるな。。。(笑)


読まない理由 投稿者:お留守居役様  投稿日: 6月11日(月)19時00分14秒

『愛される理由』は、
吉本隆明さんが誉めていたので読みました。
フランスでブランドもののバックを買うときの話がよかったです。
大勢の日本人客が並んで待っているのに、
店員が売るのを止めようとしたときに、
「なぜ売るのを止めるのか。
 休憩なら交代する人に引き継ぐべきではないか」
と啖呵を切ったそうです。
(手元に本がないので記憶をもとにしています)

すっきり、さわやかな女性像を描いていたのですが、
結婚相手のキザな芸人も嫌いでしたし、
逆ファザコンの父親も嫌いでしたので、
新作は読んでいません。


あえて硬直した意見です。 投稿者:お留守居役様  投稿日: 6月11日(月)18時57分39秒

らくりんさんから新しい著書が出たと言われたからといって、
書店からこっそり持ってきたりはしないつもりです。
万引きは犯罪です。
旧国鉄破綻の理由の一つが「キセル」と聞いています。

友人の歌手から「コンサートに来て」と言われたからといって、
コンサート会場にもぐり込んだりはしないつもりです。
出演者は、演奏するという義務を負っている債務者で、
演奏をさせるという権利を持っているのは、
債権者である主催者だからです。

聴聞だから許されるのではというのは、
「目的は手段を浄化するか?」
という問いを思い出します。
革命運動において、
大衆に訴える手段としての破壊活動は是か非か?
大衆の不幸を解消するためのテロルは許されるか?


(無題) 投稿者:大願  投稿日: 6月11日(月)15時01分39秒

>自らを明らかにしてくれる教えを聞法したい人は、喧嘩腰になれるのでしょうか。
と、言いながら、先回十分喧嘩腰の書き込みをここにしたのは、私ともう一人居ましたが
それってootuboさんでしたよね。(^^;)
ootuboさんのお言葉を、そのまま丸ごとお返しします。
人を評する前に、自分はどうなのか。他の人がおっしゃるのであればともかく
ootuboさんから言われると笑ってしまいます。そうした僧侶がいるのも
最近の傾向でしょうが……。
先回の議論の堂々巡りを、ぶり返すつもりは毛頭ありません。


また「丸写し」ですが 投稿者:らくりん  投稿日: 6月11日(月)14時59分36秒

「光明寺通信」2001年6月号 玉光順正

 「らい予防法」意見国家賠償請求訴訟は、先月11日、当然といえば極めて当然、
それだけに逆に驚くほどの画期的な判決で原告側の全面勝訴となった。そして被告側
も余りの当然さに控訴を断念した。
 控訴の断念という「極めて異例の判断」をした小泉総理の株が上がったかの報道も
ある。しかし、私はその「極めて異例の判断」という表現にこだわりたい。この言葉
は23日夕方、小泉総理が控訴断念を記者会見で発表した時にも使ったし、それを
25日の「ハンセン病解決への首相談話」でも「熊本地裁判決への政府声明」でも
使っている。それらのことは、この控訴断念ということが小泉総理をはじめ被告側に
とっては「極めて遺憾な判断」ということを物語っているようである。
 そして同時に、この「極めて異例の判断」という言葉の持つ意味を充分に意識した
表現だといっていいだろう。それは、一つには小泉だからこそやれたのだという人気
取りであるが、まあそれはそれどおいておくが、しかしもう一つある。そのもう一つ
の方は、私には或る意味では控訴以上の価値をもつものであったかもしれないとさえ
感じている。ということは、この言葉によって、今回の裁判の持つ意義を矮小化させ
てしまったのでは、と思っている。
 6月2日東本願寺での公開シンポジウム「ハンセン病国倍訴訟を受けて」の席上で、
大谷藤郎(ふじお)さん(藤楓協会理事長)は、自らも又被告であるとした上で、今回
の裁判は病気だということで生涯その人間(ひと)を拘束するというようなことが果
たして許されるのか、ということが問われた。つまり人間の尊厳とはどういうことな
のかが問われた裁判であって、単に医療水準が何年の状況ではどうだった等というこ
とが問われたのではないということを明確に述べられた。
 「極めて異例の判断」という言葉によって、国側はこれらのことを帳消しにしてし
まうことをねらい、ほぼそれに成功したようにも思われる。
 長年にわたってこんなにひどいことをしてきたのだから、ハンセン病だけはしかた
がない、本当に気の毒だったと、哀れみの対象にしてしまったのではないだろうか。
そこでは、国民といわれる私たち一人ひとりがそのことについて責任がある、つまり
被告であるということを見えなくさせてしまった、いわば第三者にしてしまったので
はないだろうか。
 そうではなくて、この裁判が問うたのは、日本という国全体のことである。司馬流
にいえば、この国のかたちそのものを問うたのである。原告は原告自身を問うたので
あるし、同時に原告ではない患者、元患者、そしてその家族を問い、又加害者である
全ての被告、国民といわれる人々を問うたのだる。
 うかつなことであるが、私は今回の判決がでて改めてこの裁判の意義を教えてもらっ
たような気がしている。この判決をかいた裁判官の名前は杉本正士(まさし)という。


……「何を言いたいのか、もっとはっきり言え」と言いたくなるような、もってまわ
った言い方ですが、この辺がこの人の持ち味と言えるわけで、なんともこの人らしい
文章です。
にもかかわらず、この人の提起には、いつもどこか意表をつかれるところがあります。


よくわかりません 投稿者:ootubo  投稿日: 6月11日(月)13時02分01秒

 参加者の都合で全期間出席できない研修会があって、参加できないのは主催者の閉鎖性なのでしょうか。 
 仮に、坊守対象の研修会なら、男女差別反対と訴えればいいのでしょうか。
 自らを明らかにしてくれる教えを聞法したい人は、喧嘩腰になれるのでしょうか。
 


コメント分だけはみだした 投稿者:らくりん  投稿日: 6月11日(月)11時04分46秒

……これほど「その本」を読みたい気にさせない書評というのもめずらしい。
                   ̄ ̄ ̄ ̄
ボソボソ
「まじめ」で「正しい(自分が正しいと思っている)」人は、ケンカもセンソウも
「まじめに」できちゃうからこわい。


「本の」ではなく「書評の」紹介 投稿者:らくりん  投稿日: 6月11日(月)10時51分35秒

毎日新聞(2001年6月10日)今週の本棚
  評者 小西聖子  「こういう『正しい』人っているよなあ」
  評されている本  二谷友里恵著『楯』文藝春秋
 皆さまご存知の著者の前作『愛される理由』(朝日文庫)、前夫郷ひろみの離婚の記
『ダディ』(幻冬舎)に続く、妻側からみた離婚の記。
 こんな風に有名人がそれぞれ一つの不幸について両側から本を書くなんてことは、あ
んまりないことだから、それだけでも興味をそそる。しかも両者ともまじめで完全主義
らしく、文章にもインチキがなさそうである。
 そう思って三冊まとめて読んだのだが、これが大変、なんだか疲れた。
 ひとりの女性が離婚の顛末をつづった作品として普通に『楯』を評するならば、この
本のできは決してよろしくない。
 まず文章がよくない。著者が観察眼を持ち、ある程度の語彙も持っている人であるこ
とはわかる。でも「自分のいちばん蒼(アオ)い時代の拙(ツタナ)さと、失った輝きを、溢れ
る懐かしさで許し、慈(イツク)める時間が来るのかもしれない」なんて表現はちょっとね。
自分のキャパシティを超えたがんばりはよくないと思うなあ。
 彼女が結婚して書いた『愛される理由』が売れたわけのひとつに、著者の文章がけっ
して表面的ではなく、いわゆるタレント本の域を脱しているということがあげられてき
た。それは今回もそうなのだが、うーん、こういう方向に文章が発展してはいけないと
思ううのですね。
 もう一つ内容についていえば、自分のことを書きながら、自分と距離がなさすぎる
のも困る。もちろん前作だって距離はないのだが、起こってくる出来事が山あり谷あ
り、すてきな小道具が登場し、感動的な結末。井上ひさしが文庫版の解説で『愛され
る理由』は「売れる三文小説の手本」と皮肉なもの言いで誉めている。
 今回は著者は怒りでいっぱいである。夜中に著者は激しい腹痛に急に襲われて救急
車を呼ぶ。夫はベッドから起きようとせず、翌朝も病院にいる妻をほったらかして予
定通りゴルフに行ってしまう。このエピソードが別れのきっかけになるのだが、現実
的だけれど暗い話である。
 こんな風に言われたら著者本人は憤慨するだろうなと思う。自分の事情を知ってほ
しくて真剣にメッセージを書いただけであって、娯楽作品を提供しているつもりはな
いと言われるだろう。「最後にたった一度だけ、ある覚悟をもって世界に向けて公表
する、出血の真実の記録だ。」とあるけど、もちろんその言葉に嘘があるとは思って
ない。けれど、本は手紙じゃないし、批評されるんだよね。
 高学歴の女性のなかに、ときどきこういう「正しい」人っているよなあ、というのが
私のもう一つの感想である。PTAの集まりでいつも正しいことを言うタイプ。辟易す
る気持ちと共に、痛々しいと思う。だって、傷ついていたり孤独だったりするからそう
なるのだ。男ならひねくれたり権力指向になったりするところを、女は「正しさ」に頼
ってしまう。そして「子どものため」という言葉ほど、世間に簡単に女の正義を納得さ
せるものはないから、どうしてもこういう場合は「愛する子どもの幸せのため」のオン
パレードになりがちである。
 でも、その主張をそのまま文章にすると、傷つきやすさより潔癖さや冷徹な感じが先
にたつ。頭がいいから余計そうなる。なんだかピカピカに磨いたステンレスの壁みたい
で、やさしくない人だという印象を与える。怒る時に、このやり方は実はすごく損なの
に。
 読んでいるうちに、私はこの本に対してどういう態度をとったらいいのか、よくわか
らなくなってくるのである。たいしたことのない本だという気持ちと、こんなに傷つい
ている人に冷たいことを言うのはひどことだし、なによりめちゃくちゃ怒られそうでこ
わいという気持ちの両方がせめぎあって苦しい。
 この本がもっている二重性と言うか欺瞞―個人的な真摯なメッセージであると書きな
がら、あきらかに前作を読んだ不特定多数の人たちに読まれる有名人の曝露本として出
版されていること―に私は惑わされている。この欺瞞は著者が仕組んだのではないだろ
うが、著者はそれに乗っている。そしてその欺瞞によって著者自身も傷つけられている。
 『ダディ』とこの本は著者がすごく正直で真剣なのに、結果としては欺瞞的という点
でよく似ている。『ダディ』も読んでいると息苦しくなる。いやはやこの男性の吹っ切
れない律儀さもなかなかだと思わせる本である。基本的には女は自分を飾るコレクショ
ンの一つでしかないという自己中心的なタイプなはずなのに、努力家で善良で向上心が
強い。
 表面的な幸福で満足するには二人とも内省的過ぎるし、本当に自分を見つめるほどに
は内省が足りない。
 いつも正しくて不幸だと『愛されない理由』になってしまう。間違ってもいいから幸
福なほうがいいですよ。


三吉さん 投稿者:大願  投稿日: 6月11日(月)03時04分08秒

またまた、深夜に的確なアドバイスを頂きありがとうございます。
喧嘩腰にならないように努力するより、三吉さんの作戦(?)は
まさに親鸞思想、仏教思想にかなっているように思います。
その手で行ってます。
100人、千人は無理ですが、3、4人なら何とかなりそうです。


訂正 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月11日(月)03時02分28秒

 柴田篤弘とあるのは柴谷篤弘の誤りでした。

 あと、これは私の課題。らくりんさんや三吉さんへ。
私は正当に銭がとれる仕事をしたいと思っています。
銭をもらうのに値する芸(?)を追及していきたい。
文句なく面白い。これは「いい!」と肯いてもらう。
自分が楽しめることをやって、他人にも喜んでもらえる。
うしろめたさや、やましさに訴えて
他人の同情を買うような真似はしたくない。
(大概ここのカキコでケンカを売ってヒンシュクを買ってるかも。。。)


茶漬けえんま 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月11日(月)02時19分59秒

 あの世へいった男とエンマさんとの
対話。ちょっとだけ、お見せしてます。
 てらさんプロジェクト掲示板です。よろしく。
  

http://www.terra-sun.com/


時代〜遅れの〜男に〜なり〜たい〜 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月11日(月)00時55分18秒

 「死」に人称があるといったのは、柳田邦男だったか。
一人称は自分の死。二人称は親しい「あなた」の死。
三人称は「かれら」の死。
 阪神大震災が起こったとき、久米宏が「死者が5千人を
超えて、これはもう大惨事です」といった。大阪坊主バーの
Yマスターは「自分にとって大事な人ひとりが死んだら大惨事やないか」
と即座にいってのけた。そうそう。
 「死刑にしてほしい」といって大惨事を引き起こした宅間。
自己肯定感、自尊心の低い人だと見た。ニュースでも、実の親父にTVが
インタビューしていたが「あいつは17の時勘当した」とか
「お前が結婚できる人間か!とどなってやった」とか言ってた。
あんな親父が親では、人間関係結ぶの下手になってしまうやろなと思った。
 私もプライドが高く自尊心が低いので、臓器バンクに次々入って「自分を抹殺したい」
と常日ごろ思っていたが、またまた世論は「死刑は必要」とか「精神病者は隔離せよ」
とあおられるんだろうな。ほんとやり切れない。
 被害者の人権が守られるのは当然だし、遺族に補償も必要。けど、臭い者にフタする
という以外、人智は何か発明できないのだろうか。
 あ、それと昔、私は左翼であった。それは、自分の良き心によって行動したわけ
ではない。親に恨みをもち、社会に不満をもっていた心情が反体制、反権力、反国家
という言葉にエロスを感じたのだ。そこに自分が、身を寄せることによって
「オレは社会に関心を持たないやつより上なのだ」という根拠のない
優越感をもっていた。このことが、自覚できるようになるまでも時間がかかったが。
 それでも、みなさん、ちょっとは「悪人」の気持ちも考えてやってよ、
と思う。


ゲバ字 投稿者:三吉  投稿日: 6月10日(日)15時40分20秒

「ゲバ字」の伝承をそーいえば、1回生のとき受けた。(笑)
あれは「かっこいい」と活動家は思っていたのだろうが、一般学生の受けは悪かった(笑)
流行は去りぶり返しまた過ぐる。まぁ無常ですな。。。
他人様の視線を気にするのも作戦上ありだと思うが。。。本質的じゃないかも。
「俺がやりたいようにやる」そしてそれが時代とあうかあわないかは、また別の問題で
あろう。
「自己満足」か「迎合」か。。。はたまた。。
<いかにかっこよく見てもらえるか>とあれこれ悩んでる様は。。。
あまりに<カッコ悪く>思う。。

それと坂本さんってカッコイイのかな。見解の相違だぁ(笑)


かっこいいのは、かっこいいんだけど 投稿者:らくりん  投稿日: 6月10日(日)15時18分47秒

>「かっこいい」んだと人を魅きつける。
> この戦略に学ばなあきませんよ

「かっこつける」のと「かっこよくみえる」というのは、紙一重の差で
とんでもなくかっこいいのと、とんでもなくみっともない
ってことがありますんでね。

問題は、いかにかっこよく見せるかではなく、いかにかっこよく見てもらえるかなんで、
〈ええかっこしい〉と〈かっこええやんけ〉との
差をうめることは、これはとんでもなく難しい。


一人つっこみ 投稿者:らくりん  投稿日: 6月10日(日)10時12分44秒

>恥かしながらこのらくりん、
>「保身」も「ミシン」も使っちゃうことがありますんで

「お前はミシンを使うことは恥ずかしいこと」だと思っているのか。
そういう言葉が出てくるということは、
「ミシン」を使うことを無意識のうちに見下げているに違いない。

とかなんとかって、誰も言わないですね。


坂本龍一 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月10日(日)06時33分42秒

 教授が呼びかけて『ZERO LANDMINE』と
いう曲を世界の30組のミュージシャンが歌っている。
おお、ミスチルだドリカムだ、グレイだ。。。
 世界にある対人地雷をなくそうキャンペーンだ。
 龍一さんは、去年もJUBILEE2000という
世界の債務国の借金をチャラにしましょうという、
運動に賛同していた。かっこいいな。
 私、ボディ・ショップという量り売りの(希望すれば)
化粧品屋さんをはじめた、イギリスの女の人もすごいと
思う。地球環境を平和を人権を考えろ!と運動をおしつけ
るんじゃなくて、「かっこいい」んだと人を魅きつける。
この戦略に学ばなあきませんよ。宗教家も、運動家も。


こんな朝焼けに。。。 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月10日(日)06時09分00秒

 私、ニセ学生で津田真一とかひろさちやとかの授業に
もぐって人気ものです。それとはちょっとちゃうか。

 構造生物学の池田清彦おもしろい。構造主義の生物学者
では柴田篤弘せんせならお東にもよばれて差別論を語ってたなあ。
 進化心理学という分野があって、生物学から人間を考える。
 例えば、単為生殖なら♂はお払い箱。また、単細胞のライフサイクルは
どこまで個体かわからんから自我もなけりゃ、個体の死もない。
 で、多細胞有性生殖すなわち、♂と♀というややこしい関係が
できて「恋愛」や「死」について悩まなあかんようになった。。。
ああ、神よ!我を雌雄同体のうなぎとかに変えたまえ!(自家発電?)

 染色体の減数分裂の段階で、つまりナニしたことによって
遺伝子を修復して、完璧な遺伝子を残すことができる。
 ほんで、遺伝子をシャッフルして多様性を増し環境の変化に
対応できる種を残すことができる。
 ♂は、せやからグリコのおまけみたいなもんとちゃいますか。
♂は市場で商品が長く売れるようにくっついてるだけ。
 ♀はキャラメル。本体。現実的。♂は、おもちゃですから
バラエティに富み奇行に走る。自殺に走るのも、殺人に走るのも
♂が多い。
 老人ホームでもおばあさんはおしゃべりで、友だちできるけど
おじいさんは孤立していてコミュニケーション下手。
 ♂は生物学的にも弱いから、男尊女卑の社会をわざとつくって
いばってたんでは。。。
 立岩真也という倫理学の先生も『私的所有論』でいうんやけど
ジョン・ロック以来自分のいのちや体は自分の所有物であるという
考え方がいっぱんだけど、そうちゃうでしょうと。
 芥川の『河童』を持ち出すまでもなく、自分という存在は
自分で意思決定して生まれたのでもなく、いのちや体は所与のものと
してある。「自我」なんてものも脳の機能の問題。
 ここから、池田は自殺はいのちを自己のものと錯覚しているんだと
説く。面白い見方だ。で、臓器移植にも反対している。
 昨今の、「人権」主義者たちはこのイギリス・ジョンロック風の
個体の身体に人権が宿っているものとみなしているけど、
フランスあたりの、生命倫理では人権はおおやけ性を帯びているので、
個人に必ずしも帰属するものではないといった感じ。
 みなさん、この辺のこと知ってたら教えて下さい。


こんな夜更けに。。。 投稿者:三吉  投稿日: 6月10日(日)04時19分23秒

らくりんさんへ

どもども、おつきあいサンクスでした。
わたしは暇人です。。。ちと「ふり」しただけです(笑)

大願さんへ

知らん顔して潜り込んでいるのに、がたがたいう人おれば、無視しましょう(笑)
むきにならず。。。笑わすというのもいいかもしれない。。
相手の間隙をつくのです。
互いにムキになれば、沽券とかなんたらややこしいのがでてき。。
ひくひにひけなくなる。本心はどうでも、ムキにならずにおれない。。
泥沼です。。。
道俗時宗共同心です。僧侶っていったてそれって何です。
「親鸞さんが夢枕に立って聞きに来いっていったんです」とかなんとか。。(笑)
「ありがたいことです。。なむなむ」など(笑)
「聞きたいという心を大切にせよと親鸞さんはわたしにいつも語りかけておられます」
「あなたは駄目とおいいですが、親鸞さんと出遭ってしまった私は、聞かずにおれない
のです。。。申し訳ない。ご迷惑かけますが、責任は親鸞さんにとって頂きます」とか。。(笑)
「阿弥陀さんが座れとおっしゃるのです」(笑)
で、できれば。。。ワンコのようなキラキラ輝く瞳で、相手を信じきった態度で。。
やり過ごしましょう。。あくまでフレンドリーに♪
決して。。挑発的態度、喧嘩腰、など熱くならずに。。
健闘祈ってます。。。

この現代に招かざる念仏者が100人、千人参集すれば。。教区は
たぶん、大喜びするのではと。。。(爆)
嬉しい悲鳴です。。。(笑)


re:なんだかねぇ〜 投稿者:お留守居役様  投稿日: 6月10日(日)01時54分51秒

らくりんさんの態度は、いわば縦割り的だと思います。
決定権限に関して分権的だからです。
信楽先生は、横割り的と言えるかと思います。
権限に関して横断的だからです。
カントが考えた倫理学に、
同じことを多数の人が行った場合を想定して、
正しいかどうか判断するという考え方があります。
大願さんと同じことを3人くらいの人が行っても
大目に見られるでしょう。
では、100人、千人になった場合はどうでしょうか。
縦割り的になら対応可能です。
選別、排除して人数を限るか、または、
規模を拡大して、全員を受け入れる態勢を作るかできるからです。
横割り的には、対応できないのではないかと思われます。
信楽先生に、仲間を募って、
100人もで押し掛けてもよろしいかと尋ねてみたいものです。

前にも言いましたけど、
この問題は「共同幻想論」を学ぶよい機会かと思っています。


うれしいです 投稿者:keko  投稿日: 6月 9日(土)22時45分40秒

掲示板の書きこみありがとうございます

ROM専門だから直接お会いしたくなかった、というのが本音です
でも一方的に知ってるのは不公平かな、というのもあって覚悟はしたんですが

http://homepage1.nifty.com/keko-housennzi/housennzi.htm


これから 投稿者:Vita  投稿日: 6月 9日(土)21時31分22秒

忙しい時期ですし、ご自分で区切り、区分を付けて、休まれるのもいいとおもいますヨ。


なんだかねぇ〜 投稿者:らくりん  投稿日: 6月 9日(土)11時17分58秒

「保身的」ねぇ〜
「言い訳」がましいことを言ってもせんないことでしょうし……
一旦表現されてしまった言動を、後からどう解釈されてもしゃーないですし、
「解釈・誤解、勝手にしやがれ」ってのが私のモットーみたいなもんですから。

それにしても、そんな言葉を人に向かって言える人は、
きっとそんな「姑息な処世術」とは無縁なんでしょうね。
  ――なんと嫌みなヤツなんだ、らくりんってのは――

それに、言い訳めいたことを言おうとすれば、ついつい勢い余って
「無礼者、やせても枯れてもらくりんは〈保身〉などという姑息なこととは無縁だ」
と言い張るような不粋な言葉を重ねなければならなくなっちゃいそうですから。
甘んじて聞いておくことにします。

恥かしながらこのらくりん、
「保身」も「ミシン」も使っちゃうことがありますんで。
見栄はってあんまり大きな口はたたかないのが身のためというところでしょうか。
  ――これこそが「姑息な保身」の最たるもんかもしれません――

お粗末

  管理人のつぶやき、面白半分・真面目半分でやっていくの程度が
  精神衛生上何かと具合がよろしんですが、全マジのストレートを
  がんがんぶつけらられちゃうとやっぱ疲れちゃいますね。
  「和蝋亭南畝」の芸風、ちっとは見習わなくっちゃ。
  


仮面の告白 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月 8日(金)21時39分07秒

  伊達屋粋狂でやってんじゃあねえよ。
 和蝋亭南畝のこの世界。


僧侶対象の夏期講習会(7月) 投稿者:大願  投稿日: 6月 8日(金)13時14分04秒

三吉さん、だいぶ以前でですが、アドバイス有り難うございました。
今度は同じ岡崎教区の豊橋別院僧侶対象夏期講習に信楽先生が講師で2日間来られます。
信楽先生から直接招待を受けたのですが、事前に教務所に了解を取ったりすると、また
らくりんさんの時のような問題が起きるかも知れないので、今回は三吉さんの先般の
アドバイスに従って、黙って潜り込んで、知らん顔して席に着いてしまおうと思います。
先回と違うのは、信楽先生から直接お声が掛かっているという違いはあるけれど、
再度教務所権限でロックアウトを食らったら、この教区の閉鎖性を再度問わねばなりませんね。
招待する講師はらくりんさんや信楽先生他、開放的な方が多いのに、聴講者を限定する
教務所のアンバランスは何とかならないものか?と。
今度の講師は「私には権限がないから、事務局に訊いてくれ」などと、保身的な言葉は
投げかけられないといますが……。
結果はまたお知らせします。


そうそう 投稿者:らくりん  投稿日: 6月 8日(金)10時49分48秒

三吉さん、遅ればせながら。
忙しい(忙しそう)なところ、時間を割いていただきましてありがとうござい
ました。

このところ、「仕事」で出向いたところに、一人、二人この掲示板の書き手や
ROM者に出合うことが多くなったと書きましたが、
三吉さんとそんな話をしていて、なんかもやもやしていたことが
整理がついてきました。
結局、私にとって、この掲示板は単なる「お遊び」ではなくなっているんですよね。
ハンドルネームと実名表記というようなことが話題になったこともありますが、
ネットの匿名性というのは、「お遊び」を許される面白さなんじゃないか

ところが、行く先々でネッ友とリアルで、しかも私は「お仕事」モードで出向いて
いるような場でお目にかかることが多くなってくると、
ネット上では、オフの顔がチラつくし、オフではネットのイメージがチラついて
目が合うと吹き出しそうになる。(ootuboさんで経験済み)

オフの顔合わせもいいもんだけれど、
やっぱ、ネットの楽しみには「会わぬが花」の部分もありますよね、

で、結局私は「らくりん」を名のっている以上、いつも半分「お仕事」モードが
残ってしまうんです。らくりんバンバンで半分ぐらいは「お仕事」しているわけで、
ちょっと気楽な「お遊び」を楽しもうかと思った当初の目論見は、無残にも
打ち砕かれて、ほとんど息抜きになっていない。

それはそれでいいんですが、とは思いながらも、

これって、なんかちょっと不公平だなぁ〜。

やっぱ、誰にも知られていない名前もう一つ考えて、仮面の楽しみも
やってみようかな。(しかし、それも疲れそうだなぁ〜)


いや〜ん、愚っ朕のいじわる 投稿者:らくりん  投稿日: 6月 8日(金)09時12分43秒

  惚れさせ上手なあなたのくせに 
    諦らめさせるの下手な方

いいね、いいね
こんなセリフ、一度でいいから、言われてみたい。

今夜もまた、「お泊まり」のらくりんです。


海綿隊 作 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月 8日(金)04時30分22秒

 惚れさせ上手なあなたのくせに 
 諦らめさせるの下手な方


そろそろ 投稿者:らくりん  投稿日: 6月 7日(木)09時34分29秒

[愚っ朕バンバン]に改名しなければかなぁ〜
気にせず、どんどんぱんぱんどんぱんぱん〜

脳味噌がスポンジ状態に近づきつつあります。


ただいま 投稿者:らくりん  投稿日: 6月 6日(水)23時32分27秒

いまほど帰ってきました。


神谷美恵子の詩 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月 6日(水)21時30分05秒

ゆるしてください らいの人よ

浅く、かろく生の海の面に浮かび漂い

そこはかとなく 神だの霊魂だのと

きこえよいことばをあやつる私たちを


これをもじれば

ゆるしてください 死刑囚よ

浅く、かろく生の海の面に浮かび漂い

そこはかとなく 如来だの菩薩だのと

きこえよいことばをあやつる私たちを


本当の自分を生きたい 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月 6日(水)07時33分55秒

 という本がインパクト出版会から出ています。著者は95年に死刑
執行された木村修治という人によって書かれたものです。
 木村さんの文章は90年に出版された『死刑囚からあなたへ』という
本で目にしていました。(この本には玉光順正師が死刑廃止論を寄せて
おられる)
 が、当時の私の読解力は鈍かった。彼は、被差別部落出身ですが、
「被差別者における差別者の視線の内面化」に言及しておられた。また、
以下に引く嗜癖者とおなじく「底つき」という、いわば偽りの優越感を
捨てる作業をなしとげておられた。
 彼は、いわば妻と愛人の板ばさみになってギャンブルにより、借金を
つくり女子大生を殺す事になったのですが、それを生きて償いたいとい
っておられた。
 アルコールや薬物やニコチンやセックスや仕事や買い物や過食・拒食
に嗜癖する病にかかった人のプログラムに次のものが用いられる。

 1, 我々はアルコールに対して無力であり、生きていくことがどうに
もならなくなったことを認めた。
 2, 我々は自分より偉大な力が、我々を正気に戻してくれると信じる
ようになった。
 3, 我々の意志と命の方向を変え、自分で理解している神、ハイヤー
・パワーの配慮にゆだねることを決心した。
 4, 探し求め、恐れることなく、生き方の棚卸し表を作った。
 5, 神に対し、自分自身に対し、もう一人の人間に対し、自分の誤り
の正確な本質を認めた。
 6, これらの性格上の欠点全て取り除くことを神にゆだねる心の準備
が完全にできた。
 7, 自分の短所を変えてくださいと謙虚に神に求めた。
 8, 我々が傷つけた全ての人々の表を作り、その全ての人たちに埋め
合わせをする気持ちになった。
 9, その人たち、または他の人々を傷つけない限り、機会あるたびに
直接埋め合わせをした。
10, 自分の生き方の棚卸しを実行し続け、誤ったときは素直に認めた。
11, 自分で理解している神との意識的触れあいを深めるために神の意
志を知り、それだけを行っていく力を祈りと黙想によって求めた。
12, これらのステップを経た結果、霊的に目覚め、この話をアルコー
ル依存症者に伝え、また自分のあらゆることにこの原理を実践するように
努力した。
 お東の山陽教区の仏青は大阪のダルク(薬物依存からの回復を求める
セルフ・ヘルプグループ)の代表を招いて勉強しておられるそうです。
これはある仏青会員のひとりの方の発言。
 「「認めて・信じて・まかせる」これは、自分が負けたことをを認め、
ありのままで救われていくと信じ、すべてをお任せするということだと
思います。」



般若湯は智慧の泉 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月 5日(火)03時27分29秒

 土曜日、日比谷公会堂で東京教区の同朋大会に参加した。講演
は文化人類学者上田紀行だった。そこで感じたのはお坊さん(と
いうよりは仏教圏内の思考)の射程距離の短さだ。
 二部は芹沢俊介を加えてパネル・トークという形をとったのだ
が、せっかくの上田氏の刺激的な問題提起に司会もパネラーの
一人の住職も「歎異抄」や「観経」のどこがどうのとか「自分を
棚上げした思考(森岡正博)」を展開するのに終始しておった。
 どうして、問いを深めることをせず優等生的模範解答ばかりを
喋るのだろうか。君たち、学問とは問いに学ぶと書くのだぞよ。
 
 '57年生まれの西研は『実存からの冒険』(1989・ちくま
学芸文庫)でニーチェとハイデガーを論じているが、彼らを教祖
とはしない自由な「読み」を展開している。
 例えば「人間は死を恐れる存在だが、そのひとの中核となる存
在可能性を失うことを恐れるのではないか」という。簡単にいう
と、バレリーナをめざしているなら足首とか、ピアニストなら指
とかを気遣って、ピアニスト生命が絶たれることを恐れているの
ではないかと読み替えるのである。
 大会で真宗伝導ブックスなるものをもらって読んだが『生と死
をみつめて』という大分のお医者さんがかかれたものだが、いわ
ゆるビハーラもの。田代俊孝のものも読み返したが「死」を「実
存の死」と読み替える西研ほどの鋭さはない。
 '58年生まれの上田は『癒しの時代をひらく』で、キューブ
ラー・ロスのいわゆる死に行くひとの5段階説は失恋という経験
にもみられるのではないかと卓見を述べる。@否認A怒りB取引
C抑うつD受容がそれであるが。私は、例えば障害児を生んだお
母さんもこのような心境を経るのではないかと思ったりもした。
 私のバイト先で知り合った医療ソーシャルワーカーさんは、療
育センターから老人医療センターに移った人だがこう言われてい
た。「母親で自分の子供が何らかの障害を抱えた人は、中には見
捨てる人もいるがたいてい、必死に子供の行く末を案じます。け
れど高齢者の場合は親戚一同責任のなすりあい、たらいまわしに
される例が多いです」と。
 



今夜は酔っ払ひ♪ 投稿者:三吉  投稿日: 6月 4日(月)23時13分09秒

酒を飲むと普段でも鈍い思考が一段と麻痺する。。。
ほろ酔いで鼻歌気分で正信偈♪
楽しいひとときをすごしたのだが。。。らくりんさんは明日は大丈夫だろうか(爆)
さて、私は明日の営業会議のために、今から書類を2,3でっちあげなくては。。(笑)

しかし妹尾義郎とはまたまた懐かしい(笑)

今夜は何時に寝るのだろうか。。。


唐の芝居を見ました! 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月 4日(月)20時24分58秒

 >三吉さん
  「早く、目を覚まして下さいっ!」(UFOの小川直也より)

 ゆうべ、雑司が谷の(あの妹尾義郎率いる新興佛青の本部
があった土地だ!)鬼子母神の境内で唐十郎劇団のテント掛
け芝居を見た。タイトルは『闇の左手』
 主人公の田口は解体業。壊れ行く部屋の中で、ひび割れた
鏡台の後ろから「左手の義手」を見つける。その部屋の住人
でスタントマン(代行業!)の片岡を追ってライブハウスを
訪ねるがそこで彼の前に部屋に住んでいた左利きの女「ギッ
チョ」に出会う。
 義手・義足工場で働いていた「ギッチョ」はそれを自殺願
望のある女性たちのリスト・カットの代行に使っていた。
「ギッチョ」の義手に対する深い愛情に触れ、いつしか田口
もその義手にモノ以上の想いを寄せていく。
 町も建物も人間も、あらゆるものが交換可能なパーツに還
元されていく中で、それとは違う物と記憶が織りなす物語が
展開される。だがそこは、決して自閉的な他者の存在しない
世界ではない。なぜなら自己こそが、もともとこうした他者
の肉体と、その事物の記憶の寄せ集めに他ならないからであ
る。代行されるその物の中に代行しえないものがある。
 田口のセリフにこうある。「もし、僕にたぎり立つ見知ら
ぬ半身、半分があるのなら、それがこの左手の義手とともに
生きだすだろう」


オフ 投稿者:らくりん  投稿日: 6月 4日(月)09時02分49秒

三吉さんが、とある「まじめ」系??掲示板で、
  >眠い(_ _)zzz  投稿者:三吉  投稿日: 6月 4日(月)03時36分20秒
こんな時間にカキコしている。
これは「おはよう」なのか「おやすみ」なのか。
いくら早起きの三吉さんでも、この時間に起きることはないかな?

今夕は、三吉さんと二人だけのオフ会の予定、
ちょっとアルコール入ったら、箸をくわえながら寝るんちゃうか?

というわけで、おあとをよろしく……。


>大悲さん 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月 4日(月)04時52分30秒

 どうも、ありがとうございます。私が読んだ本では、
一般的には名家のことを指すという説明が出ていました。
で、お金持ちのお家は財産が散在しないように、同族結婚
するのでよけいに病気が発生するのだということでした。

 あと、恩徳讃T作ったのは清水脩さんでした。

 20年ほど前、何かよいことをせねばならないという
強迫観念に襲われ、自己評価の低い私がしたことは、片
っ端から臓器バンクに入ることでした。アイバンクから
始まってイアバンク、下垂体バンク(脳下垂体ホルモン
の異常で巨人症や小人症になる、現在は治療が出来るよ
うになって廃止)腎臓バンク。。。まさに『どろろ』の
逆ヴァージョンです。
 その後、嵐のような「脳死・臓器移植問題ブーム」が
やってきました。けど、自分を大切にしなかった私は今
では内臓ボロボロ。で、私が持ってる臓器提供意思表示
カードに○印がついているのは、心臓停止後の臓器の欄。
盲腸とイボ痔と書いておきました。


「どろろ」 投稿者:大悲  投稿日: 6月 3日(日)23時16分14秒

2、3年前にNHKのBSでアニメを放送してました。その後で、文庫を買いました。
四十八の妖怪を倒して、体の部分を再生していくってだけで、気になりますね。
最後の一体は倒せなかったんじゃないかな。
ウチの娘たちは、手塚治虫氏の最高傑作は「どろろ」だといいます。
ホンマに変わった娘たちに育ってしまった。

あとお気に入りは「火の鳥・太陽編」です。


>愚っ朕さん 投稿者:大悲  投稿日: 6月 3日(日)08時11分42秒

>>
たとえば宮沢賢治。東北地方の方言で
宮沢マキと蔭で噂されたようですね。「マキ」とは病気家系?
という隠語らしく、
>>

につきまして、補足させていただきます。「マキ」は津軽弁で「オヤグマキ」略して「マキ」この「キ」の発音は鼻濁音のghi(^.^)
オヤグは親類、マキは血族、を示す言葉です。
弘前では「何処にオヤグいるかワガンネハンデ、よげしゃべりせばマイネ」(どこに親戚の人がいて聞いているかわからないから、余計な事をしゃべってはいけない)とかいいます。
あとは、「鈴木マキだば、えの檀家ダンだがなあ、そした墓所はねごせぇ」(鈴木さんの一族ならウチの檀家なんですが、そういうお墓はございませんねえ)

もちろん、病気の体質を言う事もありますが、それのみを示す事ではなく、ごく一般的な言葉ですので、補足して説明させていただきました。


今夜の準備もせず 投稿者:らくりん  投稿日: 6月 2日(土)12時00分01秒

手塚治虫『どろろ』全3巻読破しちゃいました。
「読破」というほどのことではありませんで、
途中で止められなかった意思の弱さを、かっこつけてるだけだったりして。

さてと……。


駄レス 投稿者:Vita  投稿日: 6月 2日(土)09時12分07秒

それにしても、マスター落鱗のカウンターパンチ
「自分で自分を裁くのは、全部、八百長なのだよん」。
腹立つくらい、綺麗に、決まります。
これ、ホント。


お気遣いなく 投稿者:らくりん  投稿日: 6月 2日(土)08時51分26秒

愚っ朕さん、
私の方は何も問題ありませんので、というよりも良いお留守番がいてくれる感じで、
むしろありがたく思っています。

>お留守居役様
『日本霊異記』は、何ヶ所か拾い読みしました。時間があればゆっくり読んで
みたいと思っているのですが、なかなか……(∞;)


自前でHPひらかな。。。 投稿者:愚っ朕  投稿日: 6月 2日(土)06時21分31秒

 >お留守居役様さん
 司馬さんはそういえば、恩徳讃を作曲した大阪の清水洪さんと
お友達で、自坊にもお見えになってお話されていました。東大阪
でお通夜の晩たまたまお家の前を通りました。浄土真宗でした。
合掌。

 >らくりんさん
 おっしゃる通りです。たとえば宮沢賢治。東北地方の方言で
宮沢マキと蔭で噂されたようですね。「マキ」とは病気家系?
という隠語らしく、「ドシのマキ」といえばハンセン病筋の家
ということだそうです。38で死んだ賢治が、独身だった原因
はそういう問題があったようです。
 私もご幼少のみぎり「隔世遺伝」なんて言葉を耳にし、「僕
は一生子供もつくれず、結婚もできず、恋愛もしてはいけない
んだ」と悩んでました。自分でいうのも何ですが、ええ男やの
に惜しいなあ。。。更に輪をかけて20過ぎておたふく風邪に
かかったので、当時流行った世良正則とツイストの曲が「♪お
いらはタネなし〜」に聞こえたんですよ←宿なしや!笑いの
ネタには事欠かないんですけど…)

 >Vitaさんへ
 お久しぶりです。このお祈りは、アディクション(嗜癖しへき)
つまり、アルコールやギャンブルやセックスや買い物や仕事など
に耽溺し依存する病を持つ人たちの自助グループ(セルフヘルプ
グループ)で唱えられています。
 大阪に野田俊作というお医者さんでがいてアドラー心理学で
カウンセリングをしておられます。(お東の去年亡くなられた
F師の娘さんを大変気にいっておられた)
 その理論に「課題の分離」というのがあります。その問題は誰
の課題なのか。たいがいのお母さんは子供の登校拒否とか、夫の
浮気とか他人の問題で悩む。他人は変えられないというものです。
 『脱常識の部落問題』を書かれた灘本昌久さんは挑発的にこう
いわれる。「痛いといっているが、踏んでいるのは自分の右足で
はないか」と。つまり被差別者は差別者の視線を内面化している
と。
 また竹田青じさんは、人間の不安の源泉は自己の死と他人の視
線であろうと。(ここはお勉強されている十地経の怖畏という問
題とつながると思います)いってみれば、目の前にいる人間がど
んなに運動に理解があってもその背後の無数の無関心な他者の視
線を被差別者はどうすることもできない。
 そこで、被差別者の内面ではあるふんぎりが必要なのでありま
しょう。
 蓮如さんは「わがこころにまかせず、こころをせめよ」?でし
たか。親鸞さんもさかんに「わがこころのよしあしをば沙汰せず
して」といわれる。心のもちようといえば、身もふたもないです
が…
 被差別者にしろ、嗜癖を病む人にしろ、「自己処罰」をやって
いる。「生まれてすいません…」「♪誰のせいでもありゃしない、
みんなオイラが悪いのさ」てな具合に。この自分で自分を裁くジ
レンマから解放されなきゃ、目の前の差別者を殴っていても問題
は解決しないと私は思います。


司馬遼太郎「空海の風景」から 投稿者:お留守居役様  投稿日: 6月 1日(金)21時51分05秒

『日本霊異記』に奈良時代の私度僧=乞食僧の様子が書かれているそうで、
無戒苗字の比丘の様子を実感するのに役立ちそうです。
私は、このてのものとしては、恥ずかしながら
『一言芳談』しか読んでませんですけど。。。


衝動買い 投稿者:らくりん  投稿日: 6月 1日(金)21時04分27秒

久しぶりに金沢の大きな古本屋さんをのぞく
「要らんものは買わんぞ」と思い定めて入ったものの、ついつい
あれこれと手がのびてしまった。

豊田有恒『長屋王横死事件』講談社
中沢希男・渋谷玲子『漢文訓読の基礎』教育出版
松林靖明注『新訂 承久記』現代思想社
   (もしかしたらこの間注文してまだ届いていないやつかも知れない)
手塚治虫『どろろ』1〜3(完結)秋田書店
石田瑞麿『日本仏教史』岩波全書
福永光司『道教と古代日本』人文書院(あちゃー、これはすでに持っていた)
名和弓雄『拷問刑罰史』雄山閣
ビデオ『道』(イタリア映画:「いまを生きるための歎異抄入門」に出ている)
もう一冊あったはずだけど、本棚のどの位置に収めたかわからなくて、見つからない
以上11点、今回はけっこう硬派な選択、しめて1万と50円也でした。


「伝染」よりも「遺伝」 投稿者:らくりん  投稿日: 6月 1日(金)08時58分01秒

先日の研修会に来てくださった元患者さんの、
  病気の問題で訴訟をおこしたり、闘っている場合は、
  たいていは○○病「家族の会」というのができるが、私たちの場合は
  それがないんです。
という言葉がとても印象に残っています。
もっとも身近な人間から見捨てられる。
それは「伝染病」であることが判明する前は、「遺伝病」だと考えられていた
ということが大きな理由ではないか。感染力が非常に弱いため、成人間での感
染はほとんどなく、乳児の時に保菌者と濃密な接触をした人にしか感染がない
そうです。ですから、他家から嫁にきた人には発症しないわけで、血筋に関わ
る病気、すなわち「遺伝病」だと考えられたわけです。
その結果、その家の血を引く人間すべてが差別を受けることになり、兄弟姉妹
の縁談にも大きな影響が出てきた。だから、なんとしても発症者がいることは
隠してしまいたいということになった。

家族や血縁者という、もっとも頼りにしたいはずのつながりを断たざるを得な
くさせられてしまったところが、この病気のもっとも深刻な部分の一つではな
いかと思います。


愚っ朕さん、レスさせていただきます 投稿者:Vita  投稿日: 6月 1日(金)08時45分14秒

お読みかもしれませんが、佐々木正さんが「今を生きるための歎異抄入門」平凡社新書にて、歎異抄第4章「聖道の慈悲、浄土の慈悲」とラインホルト・ニーバー「祈り」を重ねるようにして読んでいらっしゃいますです。
どちらの「慈悲」のあり方も、ただ、否定できるものではないのでしょう。
そして、「物語」という仕組みは、直接、真宗では法蔵菩薩の物語として在るわけですが、
現代でも、習俗、理念、イデオロギーとか、民主主義とか天皇制といった形で機能している。
だから、慎重に大きく考えていくべき事柄ではないでしょうか。
実はこの本のこの部分がよく分からなかったのですが、書き込みを読ませて頂いて、有り難かったです。
それだけ、申し上げたかった。なお、シツコイことは考えられないので、ツッコミはしないでネw
ではでは。


どうもすいません! 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月31日(木)19時48分17秒

 林家三平です。公共の建物に落書きしている感じです。でも、よう
やくわがままを貫いて自分の問題が整理されてきました。
 ハンセン病問題に関しては、「強いられた定住=隔離」それ以前の
「強いられた漂泊」ということ。ひとびとの間に根強い不浄観があり、
業病や天刑病とよばれた歴史があること。加えて近代はそれが科学的
衣裳をまとって恐ろしい伝染病という過剰なラベリングが施された事。
 そして「近親者からの拒絶」ということが大きいのではないのでし
ょうか。
 説教節「しんとく丸」ははやい話が継子いじめです。後妻さんの呪
詛によって盲目となりハンセン病にかかったしんとく丸が数々の苦難
を乗り越えて病気から回復、恋人と父親と仲良く暮らすというストー
リーです。何か蓮如さんの一代記とも重なるような。
 ここでは、私が前近代的と認識している観念装置が救いに変換され
ています。差別観の根底にある不浄観には「恐れと畏れ」という心理
があります。コワくてきもいんだけど、不思議でスゴイという両義性。
 どうしようもない、変えられない現実を目の当たりにして、昔の人
は「物語」をもってこの世の不条理に納得つけていたというか、魂を
鎮めていたのですよね。麻原彰晃に感じたのはこっちです。
 一方、近代が用意しているのは「人権」というものをもって法的手
段に訴えて賠償金といった形で謝罪を引き出して行く。あるいは世論
を喚起していく。そういう決着をつけるという手法。
 従軍慰安婦にしてもハンセン病の元患者の方も、この名乗りをあげ
て(カミングアウトして)訴訟という方向に行かれない方もいる。そ
れぐらい傷が深くて癒されていないということでしょう。「人権」は
万能ではない。「人格」がないがしろになっているではないか。とは
佐伯啓思という人の発言ですが。差別と偏見と断固闘っていく、それ
が被差別部落に生まれた私のいきざまだというのが、小森龍邦の立場
です。
 「神様私にお与え下さい。変えられないものに対する落ち着きと、
変えられるものに立ち向かう勇気を、そしてその二つを見分ける智慧
を」というお祈りを以前ここに書きこんだのはそういう問題意識があ
ってのことです。真宗の救いとはいかなるものなのか。あの前近代思
考でもなく、近代思考でもないとしたら。みなさまのご批判をあおぎ
たいものです。

 


お構いもしないで 投稿者:らくりん  投稿日: 5月31日(木)09時16分00秒

ちょっと出たり入ったりで、落ち着かなくて、失礼しています。
愚っ朕さんの一人舞台の様相を呈してきました。

電車の中に乗っている時間が長いもんで、『自尊心泥棒』、『少年サバイバルノ
ート』、佐々木正『いまを生きるための歎異抄入門』(平凡社新書)の3冊と
「週刊金曜日」の最新号が読めました。

このところ、どこに行っても一人や二人はこの掲示板を読んでいる人が
いる感じです。
昨日は、めずらしく一人もいませんでした(名乗り出てこられる人がいなかった)。

2日(土)に美川の会があって、来週は三吉さんに大接近です。


訂正 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月31日(木)01時02分48秒

 受戒とあるのは授戒のまちがい。
 盲人云々とあるのは長血(出血がとまりにくい)
を患う女のあやまり。(マルコ伝5章34節)

 視覚障害児は盲学校へ行く。その他の障害児は
擁護学校へ行く。(たんぽぽ学級へ行く方法もある)
なかなか普通校、普通学級に通うために必要なヘル
パーさんは見つからない。または待遇は悪い。
 精神障害の軽い症状のひとは、病院を出て地域に
もどってグループホームで生活し働きに行こうとす
る。でも世間の目は厳しい。メンタルフレンドとい
う話相手を募集してもなかなか人は集まらない。
 「隔離」というんなら、同じ位相の問題はあちこ
ちに見られる。(それぞれ個別の課題を抱えている
のはいうまでもない)要は自分達の身近なところに
ある問題に取り組めばいい。
 民放TVをみていると不快だ。何かがニュースに
なるたび以前からさも関心があったかのようにコメ
ントし深みのある突っ込みも無いまま、次の話題へ
移る。無責任もはなはだしい。
 仏法と生活の二本立て。現場無き教学、教学無き
現場という言葉が思い出される。 


呪術からの解放 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月30日(水)06時47分07秒

 スーザンソンタグは「隠喩としての病気」というこ
とをいっている。ある特定の病気が神の呪いや穢れと
いう宗教的意味を付与される事によって「支配の力学」
が生まれると。
 キリスト教を具体的にみると旧約聖書のレビ記には
呪われた病気が列挙されている。(ハンセン病も含ま
れる)古代ユダヤにおいては最高法院を通して医療行
為の権限を祭司が一手に握っていたのである。
 イエスが登場した時代、守旧派のパリサイ派が律法
(いましめ)を強化する方向に動いた。イエスとその
弟子たちは、そうした状況の中で病人に近づき「わざ」
を行う事によって彼等の社会復帰を促した。まっこう
からユダヤ教の支配の論理を無効にしてしまったのだ。
権力者がイエスを磔刑にしたのも無理ない。
 新約聖書にみられるおびただしい病気治しの記事を
読んで私は「まひかりさんみたいな話しやなあ」と思
ってましたが違うんですね。
 法然上人の「一四五箇条問答」を見ると、教義の質
問以外に酒を飲んだらイカンのかとか生理の時経を読
んだらあかんのかなどと「恐れの体系」となった物忌
み関連の質問がいっぱい出されている。こんなのいち
いち守ってたら神経症になるわな。法然上人はもちろ
んこう答える。「そんなん仏教と関係おまへん!!」
 また法然上人は九条兼実などのリクエストに答えて
受戒つまり病気治しに呼ばれたりしてもいる。そこで
念仏の話しをしたのはもちろんです。けど法然さんが
庶民に病気治しを行ったかは知らないけど。
 江戸中期の儒学者太宰春台が、ご門徒さんは病気の
時でも護符(まじないふだ)なんか使わない。これは、
親鸞さんの教えが効いてるからやといったのは有名な
話し。
 板橋のお医者さんの新聞を読んでいたら、こんなコ
ラムがあった。日本精神病史。なんでも江戸時代に今
から見ると精神病にあたる病気を漢方薬で治そうと治
療が試みられた。それがおこなわれたのが真宗寺院で
あった。
 これが何で特筆に価するかというと、当時精神病な
どは特に悪霊のしわざにされていてご祈祷しか治療は
考えつかなかったのだ。それを、薬を用いるなんて!
何と近代的なことなの?ということ。
 イエスは盲人の目を見える様にしてこういった。
「あなたの信仰があなたを救ったのだ!」と。信仰と
いう言葉はコイネーギリシャ語で「誠実・まことのこ
ころ」という意味だそうだ。
 「あなたの生きる事へのひたむきさが、あなた自身
を解放したのだ!」
 


かめさんの掲示板から。 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月30日(水)04時17分24秒

みなさんありがとう 発言者:かめ (5/30<水>02:31) 
こんばんは、前田さん。

みんなの謝罪の意味をこめてこんなときこそ税金を使ってほしいですね。

Fax,メールには身延山大学の学生さんもたくさん応援してくれました。
彼らにもお礼を言いたいと思います。そしてこの掲示板を見て協力してくださった皆さん
ありがとうございました。

補償は国家がしてくれます。でもお詫びは私達一人一人がしなくてはいけないことだと思います。


6/9教科書集会 投稿者:まこ  投稿日: 5月30日(水)02時32分22秒

*私の掲示板と同一内容ですが、重要な集会ですので、チラシから転載します。

「子どもに渡しちゃだめ!こんなにあぶない教科書/6・9集会」

「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史・公民教科書が文部科学省の検定に合格し、いま国内外から大き
な批判がまきおこっています。また、最近やっと教科書にのるようになった「慰安婦」など日本のおこ
なった戦争でアジアに与えた被害の事実は、「つくる会」だけでなく多くの教科書から消されてしまいま
した。
 とりわけ、間違いだらけの「つくる会」教科書の戦争賛美ぶり、ひとりよがりの歴史観は目にあまりま
す。こんな教科書で子どもたちが学んだら、日本は世界から孤立するだけです。
 このあぶない教科書の実態と「つくる会」のねらいを知り、この教科書を子どもたちに渡さないために
どうすればいいのか、みんなで考えましょう。

 日   時 6月9日午後2時〜(1時半開場)
 場   所 日本教育会館一橋ホール(地下鉄 神保町・竹橋から徒歩5分)
 プログラム お話:大江健三郎 井上ひさし(交渉中)
        韓国からの報告
        「つくる会」教科書はあぶない教科書:君島和彦 沖村民雄 西野瑠美子
        「つくる会」教科書で授業したら:丸浜江里子
        中学生・高校生からの発言
        あぶない教科書を渡さないために:東京・神奈川ほか各地からの発言
 司   会 平田朝音(俳優座)ほか
 資 料 代 1000円

主催
6・9集会実行委員会
「教科書に真実と自由を」連絡会
子どもと教科書全国ネット21
社会科教科書問題懇談会世話人会
「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク
全国民主主義教育研究会
高嶋教科書訴訟を支援する会
地理教育研究会
日本出版労働組合連合会
日本の戦争責任資料センター
日本民間教育研究団体連絡会
ピースボート
歴史科学協議会
歴史学研究会
歴史教育者協議会
歴史の事実を視つめる会

連絡先:子どもと教科書全国ネット21
102-0072 千代田区飯田橋2-6-1-201
Tel 03-3265-7606  Fax 03-3239-8590

以上、チラシからの転載です。私も岐阜から頑張ってできれば参加したいと思って水道橋のビジネスホテ
ルをとりました。集会終了後、オフ会を希望していますので、よろしくお願いいたします。


地獄へ道連れ 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月30日(水)00時05分20秒

 あ、聖書の個所はマタイ伝25章35節〜40節です。
『聖書の奇跡物語〜治癒神イエスの誕生』山形孝夫著
朝日文庫という書物が参考になります。

 ETVの続き見ました。自分にも一万分の一(?)ぐ
らいはハンセン病の元患者の方の置かれている立場がわ
かります。私の父は土方でありましたので親戚は、非常
につきあいを嫌がっていました。
 また、母が知的障害者だったので、父方の祖母は幼い
私に「あんたとこの家は世間様に顔向けができない。あ
んたは世の為人の為に働いて○○家の汚名をすすぎなさ
い」みたいなことを言ってた。この言葉がいかに自分に
重くのしかかったことか。他人様に監視され、身内に監
視されおまけに、自分の内側にパノプティコンをもたさ
れてしまう。
 「アダルトチルドレン」というのをヤフー検索してB
BSを見ていただくと、いかに現代も連綿と親たちが子
供達の生きる勇気をくじいているかがわかる。
 らくりんさんに読んでもらってる本の著者、共同通信
社の西山明記者は長く子供たちのインタヴューを続けて
いて、「自尊心」「自己肯定感」を奪われて子供たちが
育っているかを訴えている。父や兄から性的虐待を受け
る女の子も多い。男に生まれてきた私も、これらの文を
読んでいると自分の原罪におののいてしまう。
 おとうさん、おかあさん、おじいさん、おばあさん、
先生たち。「あんたなんか産んだおぼえない!」とか
「誰に似たんでしょうね」とか「こんなこともできない
のか」とかお子さん達に言ったことは、閻魔庁の浄玻璃
の鏡(今は液晶化されたらしい)にたっぷり映ってます
から、ちゃ〜んと罪をつぐないましょうね。
 部落問題も在日問題もハンセン病者問題も戦争責任も
関係ないと言い切るあなた。あなたが地獄の正客ですよ。

 


お西に喧嘩うってません 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月29日(火)17時56分44秒

 >まこさんへ
 
 ○ビハーラ云々の話は関東のS大学のU・E先生です。
号はhideが死んだあたり98年かその前ですか。確か
「福祉思想における仏教の可能性」というタイトルで上下
二回の論です。題からして、もうオチがわかる。
 
 ○興正菩薩叡尊のマンガは、のらくろタッチの古い本で、
西大寺が直接発行していたような。今はマンガでなくとも
旧仏教側の宗教改革を簡単に読める本も出ているようですね。
NHKの『時宗』に忍性(良観)は出てくるのだろうか。
原作を読んでないからわからない。日蓮さんと雨乞い対決を
したそうな。

 ○叡尊の拠った経や聖書にあることは、世界に広く見られる
「異人歓待」という話で、ほんらいのお釈迦さんやイエスの
思想ではないと思います。「日本霊異記」や昔話などにも似た
例が出てきます。これを前述の浄土教に立っておられるU・E
先生が持ち上げるのがよくわかりません。
 
 NHKのETV2001を見る。隔離政策には、元長島愛生
園の園長・光田健輔の影響力が大きかったようだ。しかし、
強いられた定住=隔離の時代以前は、「強いられた漂泊」を余
儀なくされたのがハンセン病患者であった。(「砂の器」はこ
のお遍路さん、ほかいびととしての姿が描かれている)
 
 この背景にひとびとの間に根深くある浄穢観が横たわってい
る。神道の成立に仏教が影響を与えたと高取正男の本にあった。
で、横井清という人は浄土教の影響で、水垢離などで落ちるも
のだったケガレが物忌みしなきゃいけないほどひどくなったと
いった。これを池見澄隆が、他者に見ていた穢れを自己に見出
したのが浄土教だといった。この論争の行方を不勉強な私は知
りません。また他の学者さんの間でどのような研究がすすんだ
のかなあ?誰か教えて下さいよ。


ビハーラについては同感です 投稿者:まこ  投稿日: 5月29日(火)05時01分56秒

> 説教節の「小栗判官」は市川猿之助のスーパー歌舞伎で
>も上演されるし、「しんとく丸」は寺山修二がいじったの
>を蜷川幸雄が演出、武田真治や藤原竜也(藤竜也ではない
>!)が演じて若い子にもうけました。演出次第だなあ。
 いずれも未見ですが、見てみたいですね。

> で、仏教福祉みたいな本を読むと、叡尊と忍性のことが
>必ず出て来る。以下の内容は吉川弘文館から出ている本と、
>真言律宗の本山、奈良西大寺で買ったマンガ本だけの知識
>に基づくのですが。
 マンガ本の題名と出版社がわかるとありがたいです。

> 彼らは権力者を後ろ盾に「非人救済」を行った。「非人」
>たちは、叡尊のことを「生き仏さまじゃ〜」とあがめた。す
>ると叡尊は「文殊支利般涅槃経」(?)に基づき「あなたら
>こそが、文殊様、私らのようなものに功徳を積ませていただ
>きましてありがとう」とのような事をいってる。
 そうなんですか(@@)

> 聖書にも似たような話が出てくる。「いちばん小さい者
>(弱い者?)に施すものこそ、私(キリスト)に施している
>のだ」云々。
 聖書の該当部分を教えて下さい。そういえば、今は手元に聖書がない(--)

> う〜ん、助けられた方はいつ助かるのだろう。私、ずっ
>〜と疑問なんですが福田(ふくでん)思想というか天に財
>をつむでもいいですけど、ナンか見返りないと宗教者は動
>かないのかなあ。この叡尊の話は、お西のビハーラの機関
>紙にとりあげられていて、これぞ仏教福祉の原点!という
>風にある学者さんが書いておられる。
 機関紙?の何号ですか? ある学者?とは誰ですか?

> ビハーラが提唱されたとき、その手の本を読むと「今こ
>そ仏教者はこの問題に取り組み、伝統仏教の巻き返しをは
>からなきゃ」という論旨が多かった。そうかな〜。仏教栄
>えて人滅ぶなんてことを私は思った。仏教人気を回復する
>んじゃなくて人間を回復するのに仏教は何かお役に立てる
>かもわからへんということじゃないのかなああ。
 同感です。

> 「困ったときはお互い様」とか「君の元気〜はぼくの元
>気〜さ、ファイト!」の方がよっぽど、健全なような気が
>する。
 そうですね。

 西の上からのビハーラと比べると、下からのビハーラを積み上げて
こられた同朋大学の田代俊孝さんの「仏教とビハーラ運動」が参考に
なるかと思います。皆さんにお薦めの本です!
 


管理人さんのお許しも出た! 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月28日(月)18時08分10秒

 やや訂正
 説教節の「小栗判官」は市川猿之助のスーパー歌舞伎で
も上演されるし、「しんとく丸」は寺山修二がいじったの
を蜷川幸雄が演出、武田真治や藤原竜也(藤竜也ではない
!)が演じて若い子にもうけました。演出次第だなあ。
 で、仏教福祉みたいな本を読むと、叡尊と忍性のことが
必ず出て来る。以下の内容は吉川弘文館から出ている本と、
真言律宗の本山、奈良西大寺で買ったマンガ本だけの知識
に基づくのですが。
 彼らは権力者を後ろ盾に「非人救済」を行った。「非人」
たちは、叡尊のことを「生き仏さまじゃ〜」とあがめた。す
ると叡尊は「文殊支利般涅槃経」(?)に基づき「あなたら
こそが、文殊様、私らのようなものに功徳を積ませていただ
きましてありがとう」とのような事をいってる。
 聖書にも似たような話が出てくる。「いちばん小さい者
(弱い者?)に施すものこそ、私(キリスト)に施している
のだ」云々。
 う〜ん、助けられた方はいつ助かるのだろう。私、ずっ
〜と疑問なんですが福田(ふくでん)思想というか天に財
をつむでもいいですけど、ナンか見返りないと宗教者は動
かないのかなあ。この叡尊の話は、お西のビハーラの機関
紙にとりあげられていて、これぞ仏教福祉の原点!という
風にある学者さんが書いておられる。
 ビハーラが提唱されたとき、その手の本を読むと「今こ
そ仏教者はこの問題に取り組み、伝統仏教の巻き返しをは
からなきゃ」という論旨が多かった。そうかな〜。仏教栄
えて人滅ぶなんてことを私は思った。仏教人気を回復する
んじゃなくて人間を回復するのに仏教は何かお役に立てる
かもわからへんということじゃないのかなああ。
 「困ったときはお互い様」とか「君の元気〜はぼくの元
気〜さ、ファイト!」の方がよっぽど、健全なような気が
する。

 


やっぱり〜 投稿者:らくりん  投稿日: 5月28日(月)16時06分48秒

おおかたそんなこったろうと思いました。
私は、翌日は午後からでしたからもう1軒ぐらいはOKかな、
でしたが、
一緒にいたFさんが、けっこう気を遣っていましたし(何を、か知りませんが)、
初めての地でしたから、ちょっと大人しくしようかな、と退散しました。


お疲れ様でした 投稿者:大悲  投稿日: 5月28日(月)12時51分44秒

実は、あのあと、ついもう1軒ひとりで入ってしまった(*_*)
すっかり、見抜かれてますねえ・・・。
アイカタの話なんぞ出したもんで、変な酔い方をしてしまいました。


ただ今 投稿者:らくりん  投稿日: 5月28日(月)09時13分47秒

先ほど帰ってきました。
慣れない夜行列車で、夜中に何度も目が覚めました。
これからちょっと寝ます。

どんどん勝手におしゃべりして下さい。


勝手におしゃべり 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月28日(月)03時03分10秒

 すいません。けれど、浄瑠璃や歌舞伎や説教節がなぜ
民衆に受け入れられたのか。その答えは、「物語」が
自分達のまわりで営まれる生活をリアルに映し出して
いたからでしょう。そして、その生活にひとつのまとま
った解釈をあたえたのが「親の因果が子に報い」式のこ
とばであったのでしょう。
 このことをどう考えればいいのでしょう。現代の家族
問題をずっと考えてきてひとつのコトバに出会いました。
世代連鎖です。世代連鎖とは、「例えば、親の世代に何
か問題があって、子供が、親のようになりたくないな、
と思いながら、親と同じような問題を出してしまうとい
うこと」(信田さよ子/臨床心理士)

 世代連鎖の顕著な例としてあげられるのが『アルコー
ル依存症』それは、アルコール依存症の父親を持つ娘が、
結婚した相手もアルコール依存症になる確率が非常に高
いというデータが物語っている。父親がアルコール依存
症でない場合に比べ、その割合は2倍以上。
 あまりひとりごとが続いたので皆さまのご意見も伺い
たいと思います。


追記の追記 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月28日(月)00時46分53秒

 あ、それから関西の芸人さんは自分が離婚したこと
とか借金したこととか、タクシーの運転手さんをなぐ
ったとか、少女に淫行を働いたこととか、自身の「犯
罪」までをネタとして舞台にかけてしまいます。
 芸人さん用語でとちった(失敗談)というやつで
す。これは、ある意味すごいことやなあ。
 で、伝統芸のことですが、例えば浪花節・浪曲の源流
となった説教節。(三味線をバックに物語にフシ付けて
語る芸です)ひと時代前の平曲(琵琶をバックに平家物
語を語る芸)が、仏教思想の影響を受けた無常観を根底
にもっているのと比較すれば、こちらは因果応報思想です。
「しんとく丸」「刈萱」「山椒太夫」など。これは、今
このまま再現しても、若い人にはまず受けないし、問題も
多い。同様の理由で、いま節談説教をそのままやっても
まずいとこがいっぱいあります。
 ヒトゲノムの解析が終わった時代またぞろ、「宿命論」
「運命論」「決定論」が幅を利かせてしまいそうな気配
です。あのオウムの麻原彰晃が当時の部落解放同盟の書記
長小森龍邦と対談していて、自分の目の問題は「前世の業」
だと捉えていたのが印象に残っています。「新しい装いを
して、結局ふるーい思想やなあ」と思ったものです。
 けれど、20歳を少し越えた女の子としゃべっていて自分が
ブスで男の子にもてないのはお母さんに聞くと「前世の
因縁だ」といわれたというような話をきいて「ええ?」って
思ったけどその後自分の経験内ではそういう娘さんって結構
いるんですよ、これが。こういう、大衆芸能がひろめた思想
というのは学者さんの難しい書物よりやっぱり影響力がある
のだ。
 どうでもいいけど、松本清張原作の『砂の器』って映画に
もなって加藤剛や加藤嘉や緒方拳や丹波哲郎が出てたけど
みなさんご覧になったのでしょうか?


追記 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月27日(日)05時21分25秒

 「笑い」とはおのれ(たち)の愚かさを暴露する
異化作用をもつものなのかもしれない。


笑いと差別 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月27日(日)05時16分01秒

 コミュニケーション論が話題となって落語なんぞを
書きこんだんですが、『こんにゃく問答』はともかく
『亀佐』の方は幾分問題を含んでいます。
 それは、いわゆる「ハゲ」の方を差別というか気分
悪くさせる内容であるからです。ですから、ここで
少し弁明しておく必要があろうかと思います。
 落語とは『緊張の緩和である』と故桂枝雀は喝破さ
れました。「おや、なんだろう」という緊張のあとに
「なーんだ」という緩和がくることによって笑いが生ま
れるのであると。いわゆる下ネタがなぜ面白いのかも
ここから説明できます。タブーであるものを白日の下に
さらすということで、緊張を解いてしまうからです。
 かつてビートたけしは、「笑いとは金持ちが貧乏人を
笑い、貧乏人が金持ちを笑うことだ」といってました。
つまり「王様は裸だ」ということなのでしょう。だから
差別ネタが笑いをさそうことも理解できます。
 笑いは、このように本来毒を含んでいるものです。落語
にも身体的特徴を笑いのネタにしたものが多々あります。
 しかし、例えば吉本のお笑いでは芸人さんがこの肉体
的特徴を逆手に取られる事が多い。典型的な例は「池乃
めだか」でしょう。カミング・アウトというとおかしい
のですが「背が低い」というみんなが感じている記号を
あえて強調して笑いに変えてしまう。
 関西の笑いと関東の笑いの違いをかつて三宅裕二が指
摘していました。関東の芸人は客を笑わそうとするが、
関西の芸人は自分のケツを出してでも客に笑われようと
すると。うん、なるほど。坂田利夫にしても間寛平にし
てもしかり。「アホ」を売り物にしてしまう。
 私は差別を乗り越える一つの手段としてこの「カミング
アウト」が有効である事を疑いません。ただし、全ての
人にこれをすすめるわけにはいきません。
 某所のBBSで私は「伝統芸と笑いによる仏教の再生」
という可能性を探るという途方もない試みをはじめてい
ますが、そこでは私は「ダジャレ」という芸としてはあ
まり高級ではないボケを多用していますが、取り上げら
れている対象は芸能界の方です。最近、暴露本の出版が
ラッシュですが、芸能人の方は「下半身スキャンダル」
までも商売に使われますからある程度は勘弁してもらえ
るものと思っています。
 今回のハンセン病の問題も、元患者の方々が自分の
姿を白日の下カメラにさらして訴えられた。これは、
すごいことだなと私は思いました。『小島の春』という
これは1938年(?)に出版され1982年頃長崎出版(?)と
いうところから手に入れた小川正子という女医さんが
書かれた本があります。(これ以前角川文庫から北條
民雄という人の『いのちの初夜』という本を読んだこと
がありましたが)今は手元にないこの本のエピソード
で印象的なシーンがありました。岡山・長島愛生園で
働いていた著者は患者を連れてタクシーに乗ります。
そこで、運転手にいやがられないように、著者は患者に
包帯をまき、粗末な手袋をはめさせるというものです。
 結果的に隔離政策に荷担した著者はそれでも、良心
的に働いていたのです。そこが、なんとも哀しい時代
でありました。


re:平雅行さんの新刊 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月27日(日)00時45分39秒

『歎異抄』の悪人正機説に興味のある方は、ぜひお読みください。


平雅行さんの新刊 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月25日(金)20時55分51秒

衝撃的な『日本中世の社会と仏教』の著者が、
一般向けの『親鸞とその時代』が刊行されました。
松本史朗先生の批判に答えるという意味もあるようです。
らくりんさん同様、読みたい本が溜まる一方です。
かといって、怠け者の私は、休みの日には、かえって読めないんですね。

http://www.trc.co.jp/trc/book/book.idc?JLA=01024648


訂正 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月25日(金)18時50分59秒

 下記のカキコ中「外性器」は「外部生殖器」に
「内性器(生殖腺)」は「内部生殖器(生殖輪管等)」に
訂正します。なかなか、ここらは私みたいなトーシロー
にはわかりづらい。図をのせるのが、はやいけど。


転載 ご報告と所感(御礼にかえて) 投稿者:らくりん  投稿日: 5月25日(金)17時07分07秒

「祝・控訴断念」
  ー人間回復への歩みを共にー
このたびは再度にわたって一方的なお願いを致しまして、
大変失礼致しました。
21日から23日まで行われた首相官邸周辺での
ハンセン病訴訟の「控訴断念・全面解決」への動きには、
全国から多くの方々が参加されました。
弁護士・政治家・学者・医師・マスコミ・宗教者・市民等々・・・・。
皆、長い間この問題に無関心だったことへの
「いたみ」を胸に参加されているかのようでした。

そのようなうねりを生み出したのは、
いうまでもなく「人間でありたい」と願って止まない原告の方々の
心の底からの「さけび」があったからにほかなりません。
そのような「さけび」が首相官邸に集まった人のみならず、
全国の多くの人々に伝わっていったのだと実感しています。

霞ヶ関・弁護士会館での「控訴断念」の瞬間は実に感動的なものでした。
人々が互いに抱き合い、固く握手をし、会場は歓声に包まれました。
原告の方々は、涙を流しながら体全体で喜びを表現されていました。
「本当によかった!!」 強くそう思いました。

しかしながら、ハンセン病だった方々のことを考えると、
残された時間はあまりないことに変わりはありません。
ハンセン病だった方々の呼吸を感じながら
家族との再会、里帰り、社会復帰など、
具体的な人間回復への歩みを共にしたいと思っています。

今回の呼びかけに対し、様々なお力添えを頂戴したことと思います。
しかし、そのことに対して御礼を申し上げる立場にもございませんので、
ご報告と所感をもって御礼にかえさせて戴きます。
未熟者ゆえ、今後ともご指導の程、どうぞよろしくお願い致します。
末筆ながら、おからだ、どうぞご自愛下さい。
             2001年5月25日
                ハンセン病訴訟・熊本判決確定の日 
                        酒井義一
追伸
 ハンセン病訴訟に関するホームページがあります。
 ご紹介致します。
支援する会のホームページ
http://www03.u-page.so-net.ne.jp/ca2/nanya50/
弁護団のホームページ
http://www.hansenkokubai.com/


愚っ朕さん 投稿者:らくりん  投稿日: 5月25日(金)09時16分16秒

に教えていただいた本のうち、
とりあえず
西山明『少年サバイバル・ノート』(集英社新書)、
西山明『自尊心泥棒』―子どもを理解できない大人たち―(三五館)
赤坂憲雄『排除の現象学』(筑摩学芸文庫)
の三冊がようやく届きました。
今夜の、夜行列車の中でどこまで読めるかな?
23時58分発だから、バタンキューかも、です。

「読んでくれ」と待っている本たちの山がどんどん高くなっていきます。


いきなり 投稿者:らくりん  投稿日: 5月25日(金)09時09分28秒

「武内了温」さんが登場しても何のことやらという人も多いかも知れませんが、
真宗大谷派の部落差別問題の思想・取り組みの両面において原点のような存在です。

私、十数年前に東本願寺内のとある研究所でバイトしてました頃、いろいろややこ
しい時代でもありましたし、あまりこれと言って仕事もなかったりしましたもんで、
現在は『真宗』となっている教団機関誌を1冊ずつ1頁ずつめくって(読んだわけ
ではありません、文字通りめくっていっただけです)「武内了温」の名前を探して
その部分をコピーするという、作業をしていたことがあります。当時はなんと退屈
な作業かと「ブツブツ」言っていましたが、今思うにけっこう大事な仕事してたん
じゃないかと思ってます。
その時に1931(昭和6)年、この年は先にも記しましたように「らい予防法」が
成立した年ですが、大谷派に「光明会」という会が組織されました。この会は「らい
予防法」の発足にともない、教団挙げて国策に「協力」するために作られたような
会です。その武内了温はたしかその会の会長もしていたはずです。
光明会の活動を紹介するための記事として、ハンセン病患者向けの説教が掲載されて
いました。記憶のかなたにかすかに残っている糸をたぐると、
「今我が国は、国家存亡を賭けた時期にある。ライ病患者の諸君が療養所に入ること
は、国内の憂いを少しでも小さくすることになり、そのことがお国のためになる」
というような趣旨がありました。けっこう衝撃を受けましたので、そのことは今でも
覚えています。
その辺が、私がハンセン病問題を意識し始めた最初のきっかけです。


性同一性障害 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月25日(金)02時39分53秒

 性転換した人などが、家裁に戸籍の性も変えて欲しいと
訴えたとニュースにあります。私らのまわりで、よく
「おかまっ!!」って冗談に使って差別してますけど、
これはいただけませんねえ。で、性同一性障害に悩む人で
あまり目立つのが好きじゃない人は、仕事がないんですよね。
みんながみんな「ニューハーフ」みたいにショウビジネスが
好きなわけじゃないんです。
 私、学校で児童虐待について調べていた時、おかあさんじゃ
ない虐待者、つまりお父さんが何故虐待にはしるかの仮説で
「男という生き難さ」をあげたんです。小さい時から、「男」
という生き方を強要されると、組織全体に責任が及ぶのを
避けて黙って自殺するタイプていますよね。まさしく、あれに
典型的にあらわれている。
 性って文化的に多様であると同時に、医学的にも2種類だけとは
必ずしも言いきれない。
染色体の違いで、性は決定されるのだけど、外性器は男性でも
内性器(生殖腺)が分化して行くときホルモンシャワー(血液中に
放出される性ホルモン)が充分でなくて、女性というのもあるのだ。
 社会的差別以外に、エロス的差別も視野に是非入れて欲しいものだ。
 


>大悲さんへ 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月25日(金)00時46分12秒

 そうでしたか、大悲さんのご出身地でしたか、伊吹山のふもとは。
奇遇ですね。もちろん、元歌はこうです。

♪ ご〜〜しゅう いぶきやまのほとり

       ♪ かしわばらほんけ〜〜 かめや〜〜さきょう

          ♪ く〜すりもぐさよろ〜〜〜し

 大石内蔵助が芝居では、大星由良助になるがごとく、この落語も
パロディですから、佐兵衛さんという架空の人物をもってきているのですが。
なんだか、上方落語のページやんか、これ。

 でも、よかったな、ハンセン病訴訟。大谷派には、らくりんさんも
言及されたように光明会というのがあったしね。あの、部落解放で
先駆的な仕事をなしとげた武内了温さんにしてからが、「ナ、何ですか?」
というようなトンチンカンな理解でしたからね、ハンセン病に対しては。

 


大悲さん 投稿者:らくりん  投稿日: 5月24日(木)19時44分09秒

今年は、8月から12月まで連続して長浜別院大通寺へお邪魔することになって
いますので、大悲さんを生み出した地を訪ねてみたい気分になってきております。

明日は夜行列車「日本海」、そして明後日はいよいよ大悲さんに急接近ですね。

はてさて、どんな顔をして向き合えばいいんだろうか。
なんか照れちゃいそうです。


らくりんさん、有り難うございます。 投稿者:長屋@爺さん    投稿日: 5月24日(木)17時26分37秒

らくりんさんのお話良くわかりました。

後段の部分

>それは真宗の教えを汚すことになる行為なのでしょうか。
「外道の相善は菩薩の法を乱る」と悠然と腕を組んでいるのでしょうか。
少なくとも、私は、そうは思いません。もしそんなことで乱れてしまうような「法」
であるのなら、その程度の「法」でしかないということです。
その程度で乱れる「法」ならば、こちらから願い下げです。少なくとも私が出遇わせ
ていただいたと思っている教えは、そんなことではびくともしないと、ありがたくい
ただいております。そうだからこそ一切を託することができるはずなのではない
でしょうか。
そして、バカだとお嗤いになるかも知れませんが、私はこうした人と人とのつながり
にめちゃ弱いんです。私が最も心を動かされてしまうのはこういうことです。
でも結局、いつも大したことはできないし、ほとんど何もしなかったりのことも
多いのですが、こんな感じで呼びかけられた時に、無視だけはしないでおこうと
思っています。

日頃の私の思いと同じではないか!
と、嬉しく成りました、私も先日の呼びかけに「無視だけはしないでおこう」と、
宗派は違えど「かめさん」の掲示板に転載させて、頂きました。
日蓮宗でも「ハンセン病」問題には色々取り組んで居たようですね。

宗旨宗派の垣根を取り払って、色々な社会問題に、取り組んでほしいと思います。


訂正 投稿者:大悲  投稿日: 5月24日(木)16時41分39秒

柏原宿歴史館のHPによると、柏原宿の「もぐさや」さんは、みんな「亀屋」を名のってたそうです。で、現在も営業してるのは左京さんのみ、という事だそうで・・・

詳しくは、柏原宿歴史館へどうぞって宣伝してどうする。
他は変わっても、ココだけは全然変わらない・・旧中山道をそのまま舗装しただけの狭い道、昔ながらの家並み。喫茶店ナシ、飲み屋ナシ、パチンコ屋ナシ、本屋ナシ、食堂ナシ、タクシーナシ、大型店勿論ナシ、寺院36・・・

そういうところで大悲はお育て頂きました

http://www.biwa.ne.jp/~habiro/


続 見苦しい身内自慢かも知れませんが 投稿者:らくりん  投稿日: 5月24日(木)16時21分47秒

▼法話会や座談会を通じて顔と顔が見える関係ができた人たちが、声を出して積年の
思いを外に向かって訴えるために立ち上がった時に「それは政治的な活動だから」と
知らん顔をできるでしょうか。訴訟に立ち上がる前に、患者・元患者さんたちの間で、
賛否どれほどの議論あったか、そして何百人もいる中から最初の提訴に声をあげるこ
とができたのがなぜたった十数人でしかなかたのか、そうした状況を間近で見てきた
友人たちが、裁判の行方に無関心でいられるでしょうか。
私は、真宗僧侶全員がこうした裁判に関心をもち積極的に支援しなければなら
ないと強要するつもりは毛頭ありません。
しかし、止むに止まれぬ思いで立ち上がった人々、そして縁あってそうした経緯に立
ち会った友人たちがその熱意に動かされたこと、そしてそうした仲間たちからの発信
を受けた者たちが、それぞれの場それぞれの立場で、助け合ったりつながろうとする
ことがそんなにいけないことなのでしょうか。
それは真宗の教えを汚すことになる行為なのでしょうか。
「外道の相善は菩薩の法を乱る」と悠然と腕を組んでいるのでしょうか。
少なくとも、私は、そうは思いません。もしそんなことで乱れてしまうような「法」
であるのなら、その程度の「法」でしかないということです。
その程度で乱れる「法」ならば、こちらから願い下げです。少なくとも私が出遇わせ
ていただいたと思っている教えは、そんなことではびくともしないと、ありがたくい
ただいております。そうだからこそ一切を託することができるはずなのではない
でしょうか。
そして、バカだとお嗤いになるかも知れませんが、私はこうした人と人とのつながり
にめちゃ弱いんです。私が最も心を動かされてしまうのはこういうことです。
でも結局、いつも大したことはできないし、ほとんど何もしなかったりのことも
多いのですが、こんな感じで呼びかけられた時に、無視だけはしないでおこうと
思っています。
悲しいことに、それでも無視してしまうこともありますが……。
やっぱり「みぐるしい内輪自慢」になってしまいました。しかし、私は自分自身や自
分の属する教団を自慢したいのではなく、私が知り合った友人たちの地道な取り組み
がこういう形で報われたことを、心から素直に喜んでいます。そして私自身が顔の見
える関係を結んでいる友人たちが、患者・元患者さんたちを支えた人たちの輪の中に
少なからずいたことを、誇らしく思っています。


見苦しい身内自慢かも知れませんが 投稿者:らくりん  投稿日: 5月24日(木)16時20分50秒

>ハンセン病 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月24日(木)04時26分39秒
>政治を批判するよりも、宗教者は真宗は、どうの様にこの問題に向かい会って居た
>のか、総括すべきです。
▼はじめに
この書き込みは、大悲さんの[さんぽみち]という掲示板
http://www.tcup4.com/439/m38miharu.html]に書き込まれたものです。
本来なら、そちらでレスすべきところですが、よそ様を荒らすようなことになりかね
ないので、こちらでレスしたいと思います。

▼言い訳がましい前置き
私は、林遊さんや長屋@爺さん さんなどからの僧侶批判については、
私自身に向けられたお言葉であると思って、たいていのことは甘んじて受ける
つもりでおります。しかし、なんでもかんでも「お説ごもっとも」と頭を下げて
ばかりいるつもりもありません」
これから書くことは、「みぐるしい身内自慢」になりかねないので、
書こうかどうか大変迷いまいした。しかし、あえてここに記して少しばかり内情を
お知りいただきたいと思います。

▼ハンセン病訴訟のマスコミ報道ではまったく触れられていませんが、
今回の提訴にあたっては、真宗大谷派の友人たちが少人数ながら関わってきました。
彼らは訴訟の何年も前から、療養所の法話会や、訪問交流などを地道に続けてきて、
患者・元患者さんたちと顔と顔が見える固有名詞の付き合う関係を築いてきました。
あるいは、里帰りしたい患者・元患者さんたちと故郷を結ぶ仲介になれないかと
苦心している人もいます。
そして、長い間実質的に外との交流を閉ざされていた患者・元患者さんたちにとって、
そうした友人たちは数少ない療養所の内と外をつなぐパイプのひとつとなっていたと
言えます。
そのような交流の中から明らかになってきた問題を、折にふれ大谷派の在野的な
ネットワークを通じて発信し続けてきました。私自身もそうした呼びかけに触発され
る形で、関心を引き付けられました。恥かしながら、私自身は直接的には何もしてき
ませんでしたが、彼らからの呼びかけを無視するようなことだけはしないでおこうと
思い、必要とされた時や、できることがあった時には及ばずながら協力もしてきまし
た。
彼らの地道な取り組みは、やがて教団組織までをも動かし、政府に対する要望や患
者・元患者さんたちへの謝罪文を発表するに至りました。また、数年前からは全国各
地の患者・元患者さんたちを本山にお招きして交流会を持つことが始まっています。
こうした動きは、近年になってようやく実を結んだもので、半世紀以上の苦難を強い
られた患者さんたちにとっては本当に遅かった、遅すぎたと言わざるを得ません。
しかし、それでもなお地道な関係を築き上げてきた彼らの存在は、今回の訴訟におい
ても、患者・元患者さんたちにとっても大きな励ましであり支えとなっていたはずで
す。


伊吹もぐさは亀屋左京 投稿者:大悲  投稿日: 5月24日(木)16時14分53秒

伊吹もぐさネタが出たところで、

亀屋左兵衛ではなく、亀屋左京ではないでしょうか。
伊吹もぐさの「亀屋万年堂(左京)」さんは、安藤広重の中仙道六十三次にも描かれております、滋賀県坂田郡山東町柏原(私の出身地)にほとんどそのままの店構えで営業しております。
現在の御当主は、うちの父と同級生。司馬遼太郎の「街道シリーズ」の「近江の道編」にも登場します。
江戸時代、江戸見物に行って吉原で豪遊した帰りぎわに、遊女たちに「中山道は柏原宿、伊吹もぐさは亀屋の左京」という歌を歌ってくれと頼んで行って、このフレーズが大流行、CMソングの第1号ということになっているそうです。
下の話はしらなんだけど、近江商人のバックボーンは真宗にありとは、よく言われることですね。
で、山東町のHPが↓です。
http://www.biwa.ne.jp/~santo-1/
亀屋の左京の写真も有りました。
http://www.biwa.ne.jp/~santo-1/kanko/shiseki.htm#KASHIHARASYUKU


Re:ハンセン病「国策」の基礎知識  投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月24日(木)14時39分19秒

らくりんさん、詳しいお話有り難う御座います。
早速「かめさん」にコピーして教えて上げます。

らくりんさんの「文中」でかめさんの見解に?符付けられて居りますが、
中西“Chie”智鏡 さんが言われた如く多くの国民は「はんせん病」或いは
「国策としての隔離政策」等「かめさん」の認識程度しか無かったと思います。
私自身、先日呼びかけ以前には「はんせん病」問題そのものも知りませんでした。

死刑は是か非とか、臓器移植、遺伝子操作とか、の医療と倫理、
或いは、「オーム真理教」の問題、或いは「部落問題」の人論と宗教の関わり、
等に宗教者は率先して発言していくべきだと思います。

以前にも出た「平和」に付いても、言える事だと思いますが、
「教育者・宗教者」は「為政者・権力者」とは対極に有るべきで、
世の中のチェック機能としての「宗教者」に期待する物です。


 


中西“Chie”智鏡 さん 投稿者:らくりん  投稿日: 5月24日(木)14時06分14秒

はじめまして。

今春から本掲示板に、はなばなしくデビューした愚っ朕さんがご縁を取り持って
下さったようですね。
ここはいろいろな意味で、けっこうシビアな常連さんがいますが、
書き込みなりとROMなりとお楽しみ下さい。


ハンセン病の基礎知識・・・ 投稿者:中西“Chie”智鏡  投稿日: 5月24日(木)12時52分53秒

初めて投稿いたします。
らくりんさま、Terra Sun HPへの投稿ありがとうございます。

ハンセン病について。
ボクには全く知識がなく、何十年もの患者さんの苦しみについても
やっと「なるほど・・」と思った次第です。

昨夜のニュースで原告側の代表者が「やっと人間になれました」
と言って万歳を叫んでいたのは,なんの知識が無くても
ああ、よかったんだ!
と思えたのですが,文章を読ませていただいて、もっと納得できました.

はずかしながら投稿。
また来ます・・・


遅ればせながら 投稿者:らくりん  投稿日: 5月24日(木)12時11分17秒

愚っ朕さん、「こんにゃく問答」ありがとう。

これ、ずっと前になんかの本で読んで以来
ずっと探していたんです。
でも、見つからなくてあきらめていました。
ずっと、うろ覚えで「ネタ」にしていました。

サンキュー、です。


ハンセン病「国策」の基礎知識 投稿者:らくりん  投稿日: 5月24日(木)11時00分09秒

長屋@爺さん さん 「かめさん」の意見の転載ありがとうございます。
たまたま、22〜23日と、ちょうどハンセン病の元患者さんをお招きして開催
された真宗大谷派の北陸三県の合同研修会に参加してまいりましたので、
そこで学んだことも踏まえて、即席の付け焼き刃ながら、もう少し正確だろう
と思うことを述べます。

▼まず、今回提訴された患者・元患者さんたちはすべて国立療養所においてなされ
 てきたことについて訴えています。つまり「国策」としてなされたことに対して
 です。そして患者さんたちのほとんどは、国立の療養所に収容されました。
 現存する国立療養所は13ヵ所、私立は2ヵ所です。

▼現在に至るまでのその「国策」の経緯を簡単に記しますと。
1907年に後の「らい予防」の原形になる法律が成立しました。
1931(昭和6)年に患者の強制隔離が含まれた「らい予防法」に改正されて、
  その後、国策として大々的に患者の隔離が実施されます。
1943(昭和18)年に、特効薬のプロミンが発見され、ハンセン病は完治する
  病気の一つになりました。日本でプロミンの使用が開始されたのは戦後2年の
  1947(昭和22)年からです。
1953(昭和28)年に、「らい予防法」は改正されましたが、「隔離」条項は
  そのまま残され続けました。
そして、「らい予防法」が廃止されたのは、その43年後1996(平成8)年の
ことです。

▼元来、ハンセン病は極めて感染力が弱く、成人の間で感染することはほとんど
 ありません。その事実は7〜80年ほど前から判明していました。
 現に日常的に患者さんたちと接していた、療養所の職員の中から発症したケース
 はありません。
「かめさん」は
>その時代の必要な現状であったのではないか
と考えておられるようです。「その時代」というのをどの辺でお考えかわかり
ませんが、
 7〜80年前の時点から「強制隔離」の必要性はなかったわけです。
 特効薬が発見され、日本国内においても治療法が確立した1947年以降は、
 通院治療で充分であったはずですし、
 どんなに遅く考えても48年前の、1953年の法改正の時には
 「隔離」政策は撤廃されなければならなかったのです。
何の罪もないのに、「島流し」にされ続けたようなものです。

>知識が無いので一般論で考えますが。彼らには帰る家が無かったという現状も
>あったのではないか
知識がないのであれば、まず知識を得てほしいと思います。
仮に、一般論として語るにしても、例外的なケースを一般化するのではなく、
もう少し事実を確かめてから論ずるにする必要があるのではないかと思います。
「家がなくて帰れない」人のことが問題になっているわけではありません。
肉身と会うにしても、隣近所や、親戚に遠慮して、遠くの町で会わなければならない
という方が大半です。それでも、肉身が会ってくれるだけましな方なのであって、
家や肉身があっても、縁を切られてしまっていたり、敷居をまたがせてもらえない
どころか、村の中にも入れない、親の墓参りさえさせてもらえない。

>隔離について、患者さんたちはどのように考えどのような改善運動を展開してきた
>のか、もっと良く知らなければ、ただ政府だけを責めるわけには行かないのではな
>いか
真宗大谷派の仲間たちは、「遅き失したとは家」十数年前から、患者・元患者さん
たちとの交流を進めてきて今回の訴訟の支援にも関わっています。そうした仲間た
ちから、ことあるごとにいろんな訴えを聞いてきました。しかし、私自身も含め、
なかなかこの問題の本当の深刻さには思い至りませんでした。それでも、元患者さ
んたちの生の声に接する機会を何度か持つうちに、固い頭もだんだんほぐれていき
ました。
今回の訴訟が「国家賠償請求」という形をとらざるをえなかったのは、そういう形を
とってしか訴えられなかった事情があったので、国だけが訴えられていたわけでは
ありません。この訴訟は、本質的には私たち一人ひとりが「被告席」座らされていた
のだと言わなければならないのではないかと思います。
明日にでも、元患者さんが自分の家の隣に引っ越してくるかも知れません。その時
あなたは、そして私は、その人を後ろから指さしたり、いじめたりする側に立とう
とするのか、普通に近所付合いをしたり、力及ばずとも陰ながら応援したりする者
になろうとするか、そういうきわめて具体的な問題なのではないかと思います。


ハンセン病支援をしてきて 投稿者:まこ  投稿日: 5月24日(木)06時01分11秒

 おはようございます。今朝は本当に清々しい気分です。外は雨模様ですが、
心は晴々としています!
 昨夜は原告団記者会見並びに野党3党記者会見をその場で見学できて、正
に歴史的瞬間に立ち会えたことを喜びました。
 帰りの新幹線での500ml缶のビールがおいしかったです(^^)v
 ご支援いただいた皆さん、心からありがとうございました!


ハンセン病 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月23日(水)22時15分39秒

国がハンセン病裁判の控訴断念を決めた様ですね。

日蓮宗の「かめさん」から以下の様な問い掛けが有りました。

−以下引用−

身延山には昭和の初期からハンセン病の病棟がありました。
また名古屋日蓮宗法音寺の開山上人その師である安立大法尼(杉山先生)も深くハンセン病と関わり,その経験や戦災孤児の救済が現日本福祉大学の設立の基になったと聞いております。

身延山の隔離病棟は、テレビなどで報道されている他の隔離病棟などのような悲惨な現状はなかったとおもいます。町の人たちを招いての植木の展示会とか盆踊り大会なども行われていました。
隔離政策に対しては私は、その時代の必要な現状であったのではないかと思っております。

ただそれが平成8年まで続いていたことはおどろきでした。
でも、彼らには帰る家が無かったという現状もあったのではないかしらなどとも考えます。

知識が無いので一般論で考えますが、隔離について、患者さんたちはどのように考えどのような改善運動を展開してきたのか、もっと良く知らなければ、ただ政府だけを責めるわけには行かないのではないかともおもいます。

地域の責任、ハンセン病にかかわった個人の思いやりの責任みたいなものも考えなくてはならないのではないかと思います。また人を救うべき教えである仏教のあり方の問題です。
大勢の人が平安に暮らすためには、決まり(法律)は必要なものです。
その法律を血の通ったものにするか、悲惨なものにするかはそれに関わる人間の心の温かさの問題だと思います。

言うなれば、人間の本質の問題です。

法華経は「願えばかなう」をときます。
でもただ願ってばかりいても,それに対する努力が伴わなければ願いもかないません。
ハンセン病の方々が隔離政策に対し、どのように願いどのように自分達を主張してきたの
か、またその人々を仏教はどのように支えてきたのか、もう少し詳しく知りたいと思います。

−引用終わり−


この程度では 投稿者:らくりん  投稿日: 5月23日(水)22時10分04秒

怒ったりはしませんよ。ご心配なく。

私は、掲示板に書かれたことにいちいち腹立てたりするようなことは
あまりありませんので。
そんなことなら、わざわざ掲示板を維持したりしません。


怒られまっせ!!こりゃ!! 投稿者:毛坊主  投稿日: 5月23日(水)19時32分41秒

鬼にいない間に!何とか!!・・・『こんにゃく』より、味がありまっせ!
(座布団3枚)。落語と言おうか。話芸は、説教に原点がある。そんな感じ
を持ちます。経典も、独特の節譜があるから、暗記していられるのかも知れ
ません。台本も無しで、中世の盲僧が『平家物語』を、語る事が出来る訳も
そんなところかも知れません。『じゅげむ』の落語も、五劫思惟之攝受から
【オチ】ですネ。・・それにしても、愚っ朕さんの博学には、感服します。  


毛坊主さんへ 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月23日(水)18時04分48秒

らくりんさんに怒られへんかなあ‥‥

 『亀佐』
 もぐさというのは「灸(やいと)」をすえる薬草です。この熱さを知ってい
る方は多分私と同年代以上やと思います。別に病気を治す目的ですえられた
わけではなく、子供の頃、度が過ぎる悪さをしたらもぐさと線香が待ってい
たのです。多くの場合それは威嚇のためやったのですが、時としてホンマにすえられ
ました。両親に押さえつけられ、おばあちゃんが火を付けます。泣こうがわ
めこうが徐々に火はもぐさ全体に回って……最後はギャ〜〜〜〜〜!! 今
なら幼児虐待でつかまります。
 最近また灸(やいと)が復活しているようです。いいましてもじかに火を付
けるものや無く、温熱灸、ツボを程よい熱で刺激するという穏やかなものと
か。スタイルはモダンになりましたが、中味はやっぱりもぐさが使われてい
るそうです。
 この噺はもぐさ屋の老舗、伊吹山の「亀屋」さんが主人公となっていま
す。ちょっと色の変わった噺で、さっきの売声がキーポイントになります。
文字だけ見てたんでは辛気臭いだけかもしれません。
 お坊さんが前に大勢の人を集めて、お説教をやってなはるところから始ま
ります。
 南無阿弥陀仏を唱えるということは、これはもうどなたでもおっしゃるこ
とじゃ。しかし、ただ唱えりゃえぇというもんではないぞ。念仏衆は南無阿
弥陀仏さえ言ぅてりゃ救われるとおっしゃるが、それはちと心得違いじゃ。
 ある老婆がおりましてな、このお婆さんが朝起きると南無阿弥陀仏、ご飯
を食べる後先に南無阿弥陀仏、道を歩いてても南無阿弥陀仏、腰を下ろして
南無阿弥陀仏、腰を上げても南無阿弥陀仏、日が暮れると南無阿弥陀仏、毎
日朝から晩までお念仏を唱えておった。
 この老婆があの世へ参ります。ついに寿命が尽きて冥土へ赴いて、閻魔大
王の前でお裁きを受けることになったなぁ。閻魔さんが「これ老婆、そちの
罪はどうじゃ?」と言うと「わたくしは生涯にどれほどのお念仏を唱えたか
分かりません。その念仏の功徳(くどく)によって、どうぞ極楽へ送ってくだ
され」と言ぅたなぁ。
 そこで閻魔大王が「それっ」と合図をすると、鬼が、この老婆が生涯に唱
えた山のようなお念仏を車に乗せて運んできましたなぁ。
 「こりゃ、老婆。お前が生涯に唱えたお念仏は斯く山の如しじゃが……」
と通しを持ち出して、これをふるいに掛けたなぁ。と、山のようなお念仏は
ことごとく網の目から下へ落ちて、後に残ったは今際(いまわ)の際に唱えた
「南・無・阿・弥・陀・仏」ただ一つであったという。
 グァォ〜〜〜〜 グァォ〜〜〜〜
 数さえ多ければよいというものではないぞ グァォ〜〜〜 グァォ〜〜〜
 心のこもらぬお念仏が山ほどあろうとも グァォ〜〜〜〜 グァォ〜〜〜 
 かなんなぁ、説教の合間合間に鼾(いびき)が入るじゃないかいな。講中の
皆さん何をしてござる。鼾が有っては邪魔になる、説法の邪魔になるで気ぃ
付けてもらわんと困る。
「おっすぁさん。鼾かいてるのん、講中の一人だんねん」「えぇ、誰じゃいな?」
「亀屋佐兵衛が鼾かいてまんねや」「亀屋佐兵衛さんちゅやぁ、頭はげらかし
てえぇ歳やないかいな、そんな人が念仏の邪魔をしてはいかん。お説教の邪
魔になりますで、早よ止めなされ。」

「ちょっと、佐兵衛さん。亀屋佐兵衛さん。念仏の邪魔なる言ぅてはりまっ
せ」「グァォ〜〜〜〜 グァォ〜〜〜〜」「あんた、講中やろ。頭はげらかして、
鼾が邪魔んなる言ぅてはりまっせ」「グァォ〜〜〜〜 グァォ〜〜〜〜」
「難儀やなぁ……」
 ♪ こぉ〜〜じゅう〜〜 いびきじゃまのあたり

       ♪ かしらはげほんけ〜〜 かめや〜〜さへえ

          ♪ ゆ〜すりおこすえ〜〜〜ぇ

「おっすぁん、まだ起きまへんがなぁ……」
「今ので一つ、すえたげなはれ。」



 と、さげの前のパロディも節回しが分らないと何のことやら? この伊吹
もぐさの売声は、当時かなり流行ったそうで、大阪はもちろんのこと、遠く
江戸まで伝わって子供たちまでが歌ったといいます。桂米朝師匠で、上方落語
です。


新ネットワーク論? 投稿者:林遊  投稿日: 5月23日(水)15時44分28秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

毛坊主さんの仰ることは何となく判るつもりです。小生のネット歴は
300bpsのモデム時代(ほとんど化石時代)からなのですが、実
は浄土真宗というご法義には数百年の伝統を持つネット社会がありま
した。いわゆる門徒聴聞ネットワークがそれです。

所属寺院、宗派に囚われず、布教使または在家の聴聞のベテランのば
あさまやじいさまを核としたネットワークが越前にはありました。
ご法話の後などには、このような、じじばばを取り囲んで車座になっ
て、布教使の品定めやらご法話の上手下手を談合していたものです。
当然このような場では、法座の場所、日時などの情報が交換されてお
りましたですね。

もちろんご法義に関する情報の濃度も緻密な会話がなされ、もし中核
になるじいさまばあさまの不得手な問いに関しては、じじばばネット
ワークを駆使して、その事ならどこどこ村の誰それに聞いたほうがよ
い、等とのアドバイスもなされておりました。また嫁姑問題などの生
活に密着した悩み事や愚痴話も、人生経験豊富なじじばばによる助言
がなされておりましたです。

このようなネットワークは、仲間ごっこによって内向きになり排他的
になりやすい弊害もありましたが、そこはそれ、各人のご法義の領解
の程度に合わせて適当に離合集散を繰り返していました。いわゆる各
人の持ち合わせのままでご法義を談合しておりました。そして、この
ような場で学んだ人がまた中核になって新しい集団を形成していった
ものです。もちろんこのような集団は組織論などという考えはハナか
らありませんから、いつまでたっても5〜15人くらいの単位の集団
でしたですね。

しかし、いつの頃からか、変に宗門やお寺が目覚めてしまい、自分の
寺の門徒に寺への所属意識や宗門への所属意識などを訴え、わけの判
らない運動論を展開しだしてからこのような組織は崩壊の道をたどり
始めました。じじばばネットワーク経由ではなく、アカデミックなご
法義解釈とやらの影響が、個人と寺、個人とご法義の関係にすり替え
られ、じじばばネットワークの崩壊に輪をかけました。寺を中心とし
た運動論の失敗でしょうね。

小生の住む田舎でも、昔は何処にでもいたメダカがもうおりません。
小生の家でもコンクリートの池にメダカを飼っていますが、昔はたく
さんあったじじばばネットワークが、今ではせいぜいお寺のコンクリ
の池の中で飼われているのが関の山なのでしょう。

で、ここから林遊の考える、インターネットを利用した新しいネット
ワーク論なのですが・・・・・・・・・・・・誰も関心ないだろうし、
めんどくさいのでヤメタ(笑)。

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


声なき声(2) 投稿者:毛坊主  投稿日: 5月23日(水)01時17分59秒

【半角4000字以内に・・・・エラーが出たので分轄しました】

教区会で、別院や教区の教化事業で、講演会を開催する。それにお越し
願うご門徒の方々が、途中で、交通事故などに、遭われた場合の、何か
サポート体制があるのですか?。そう質問した事がありますが、答えは
教務所長も、色々理由は、官僚的答弁で弁解しますが、結論はそんな体
制は、何も、無い。目に見えない気配りや、暖かみが、同朋教団を自認
する宗門には、必要ではないか?。
せめて、教区や別院に、門徒会員として登録された、ご門徒さんぐらい
には、年間365円ぐらいの、交通傷害保険の保険料などは、負担して
も良いのではないか、話しが、すぐ脇道になってしまい。本論からそれ
てしまいましたが。

CS放送だったか。本山も番組を提供しているのですが、自坊では、ビ
ルの陰で受信できません。どのくらいの寺院僧侶・門徒さんが観ておら
れるのか知りませんが・・・

教化の1つの手段として、こうしたネットの可能性を考える時期に来て
いるのでは、そんな気もしてます。そう言えば、昨年の宗議会予算案で
3000万円だったかな、『観経』のVTRを製作する予算承認された
が、あれ完成したのですか?。蓮如物語の前例があるので、慎重に事を
構えているのかも知れませんが・・・・インターネットだけなら5〜
6万円も出せば、PCも買えます。3000万円でしたら500台のPC
を、小中学生に、希望者には、無償で提供する。できれば本山で自作製
作組み立てれば、もっと安くなる。(いかんどこかのカルト教団と同じ
か?)。その方が、夏休みに一日研修で別院で、奨学金として数万円提
供するより、なんぼか効果的な教化ではないか?。そんな馬鹿な事を連
想したりしますが・・・・。又話しが、飛んでしまう。

結論は、目に見えない(書き込まない)方々の視線や、思い。考え方。
感想は?どうんな風に、写っているのか?。そんな事を、ふと思った次
第ですが。同時に従前のレポートとか座談会。講演会そうした教化の手
段から、発想の転換を、時代にあった方法で、それにはインターネット
で何か出来る様な気がしている。そんな事言いたかったです。


声なき声(1) 投稿者:毛坊主  投稿日: 5月23日(水)01時15分40秒

食堂や蕎麦屋を営んでいる友人が、言ってました。
たまたま、ミスをして、丼などに、卵の殻のか欠片が、入ってしまった
丼などを、お客さんに出してしまう事が、希にある。

その場合
(1)丼に卵の殻が、入っていると、直ぐに指摘して、変わりの丼を
   下さいと言うお客さん。店主は、「不注意でと・・謝る。
   お代は、結構です。・・・・」
(2)何食わぬ顔で、出された丼を、食べて。その卵の殻を、食べた
   丼に何気なく置いて、お金を払い、何も苦情を言わずに帰る人。
どちらが、お店にとっては、大切なお客さん?。答えは(2)番だそう
です。(1)番のお客さんは、お店に、再度来るそうです。(2)番目
のお客さんは、(一度目は、まだ大丈夫ですが、2度目に同じ事あれば
又何も言わずに、スート消えてしまい)もう二度とお店には、来ないそ
うです。・・【店にとっては、本来は、一番大切なお客さんなのだが】
この話しを聞いて、示唆に富む話しでは・・・そんな気がしました。ネ
ットや掲示板で、色々な意見や話題を、簡単に見る事ができる時代。何
も語らない(書かない)多くの人達、その人達の思いは?。もしかして
そうした人達こそ、大切にしなければ、あるは、親鸞に出会う事も求め
ている人かも知れない。・・・・・・。

林遊さんが、以前「ヤスクニを語る講師に出会われ。憤慨して、もう二
度と来ない・・と言って帰られた門徒さんの事例を紹介されていました
が・・」。
「2度と来ないのは、何も語らないで、消えていってしまう人」では、
ふと、そんな気がしました。さよならと言って帰る人は、また戻ってき
ます。いつも乍、お念仏の話しでなくて【俗】の話しばかりで申し訳あ
りません。

随分前の、総理大臣が、「声なき声に、耳を傾ける・・」そう言った
記憶があります。なかなか坊さまは、声なき声を、聞き取れません。あ
るいは、門徒(檀家)の方も、ごく親しい(同級生)人は、ずけずけと
言いますが、大部分の方々は、何も語らず。語る人も、「ご縁さんの
(僧侶の事)お願いだから、本山・別院のご懇志も、付き合わせてもら
います・・・」。その言葉の裏には、重要なキーワードが潜んでいる気
がします。

ここの書き込みされる方々(管理人さんもふくめて)は、真面目で、時
には、少し感情論に走る事もありますが・・・(笑)
でも、何も言わない(書き込みしない)人達は、どんな眼差しで見られ
ているのか?。ふと考えてしまいます。仲間内の話題や議論でしたら、
メーリングリストでも良い気がします。あえて、らくりんさんが、こう
した掲示板を主催(公開)されてるのは、何かを試行錯誤されているの
ではそんな気がします。

教区や別院で、熱心にご参加して下さる。ご門徒の方も少なくありませ
ん。そんな方に、こうした掲示板がありますよ!。そう申し上げると、
いや機械は、インターネットなどは・・・・返事が来ます。でもほとん
どが、60代以上の方で、80才近い人もみえます。人生経験を踏まえ
た貴重な話しが、聞けるのでは、そんな気がしてますが。
国の予算でも、ITの指導などの、予算も計上されています。教団とか宗
門の単位で、こうした門徒さん対象にしたITの指導の場などを設ける事
できないのか?。ふとそんな気がしました。昔は、お寺で定例法話も、
多くありました。名古屋の都会部では、そうした寺院もめっきり少なく
なりました。小生の自坊も例外ではありません。過疎化で、住民が少な
いくて、来年小学校に入学する児童予定人数は、6人です。徒歩で自坊
に来れる、門徒さんは、ほんの数人です。大部分は、公共交通機関を利
用しなければなりません。地下鉄の階段で事故でも起こされたらどうな
るのか?。そんな心配が先に立ってしまいます。


またまた誤字で 投稿者:毛坊主  投稿日: 5月23日(水)00時40分31秒

生きを引き取るは、【息】です。申し訳ありませんでした。
追伸 引き取るは、これで良かったのか?。自信が喪失。


リクエスト「こんにゃく問答」 投稿者:毛坊主  投稿日: 5月23日(水)00時33分24秒

いつも、何をしても、なまんだぶ とお念仏を唱えているお婆ちゃんが、
亡くなって、閻魔様の前で、自分は生前、あれだけお念仏を唱えていた
から、さぞ極楽へ行くに違いない。閻魔王さんに尋ねたら、リヤカーで
念仏の束を、持ってこさせて。篩(ふるい)にかけて、選別したら、1
枚しか残らなかった。残った1枚は、お婆さんが、生きを引き取る間際
に唱えた、念仏の1つだけだった・・・そんなあらすじの落語てありま
したか?。題が思い出せないし、内容も不確かですが・・・ご存じでし
たら、お教え下さい。


こんにゃく問答 投稿者:愚っ朕  投稿日: 5月22日(火)23時43分27秒

 え〜いっぱいのお運びありがとうございます。おあとお楽しみということで
しばらくの間お付き合いを願うのでございます。
 昔は地方に行きますと、一番困るのがお寺の住職がいなくなったときでございます。
土地の人にも読み書きできる人はいるのでしょうが、そういう人だと村のものも子供の
ころの事を知っています。ありがたいお経を読んでいましても、あれは子供のころ鼻水
たらして、俺の庭の柿を盗んでいたなんてことを思い出されると、ありがたみはどこかに
すっ飛んでいってしまいます。
 そういうわけで、なるべくどこの誰か分からない人を和尚にしようと、こういうことで
ございまして、修行をつんだとか、そういうことはあまり気にしなかったのだそうです。
 さて、この小さな村の和尚もそういった類の人でして、元は江戸でこんにゃく屋を
営んでいたのですが、いろんな事情から流れ流れて、この村の和尚になって、かれこれ10年。
その間、つつがなく過ごしてきて、村の人からも話のわかる気さくな和尚と、そこそこ人気が
ありました。
 そんなある日、旅の僧がこの寺を訪れ、ぜひ和尚と問答をしたいと申し出ます。この時代、
問答をして破れたほうがお寺を去るという決まりになっていたから、さぁ大変。
もちろん、和尚は問答なんてしたことはございません。なんとか不在を決め込もうとするの
ですが、そういうわけにもいかず、とうとう問答をするハメになります。
 村のものが見守る中、まず旅の僧が「東海に魚あり、尾もなく、頭もなく、中の支骨を
断つ。法華経五字の説法は八遍にとじ、松風の二道は、松に声ありや松また風をうむや。
有無の二道は禅家悟道の悟りにして、いずれが理なるや、いずれが非なるや。これ如何!」
と切り出します。
 そんなこと言われても、和尚には何を言っているのかさっぱりわからないわけで、黙っていると、旅の僧は無言の行に入っておられるのだと勘違いします。それでは、ということで両手をおなかにもっていき、小さな円を作ります。和尚はこれに応じて空に大きな円を描きます。すると旅の僧が平伏して、今度は両手を開いて前に差し出します。和尚はそれに対して、片手を差し出します。また旅の僧は平伏して、3本指だけを前に差し出します。和尚が、あかんべぇをすると、すっかり恐れ入った旅の僧はそそくさと逃げ出します。
 どうなることかと心配して見守っていた村の者は、この結末にほっとしつつ、一体何が起こったのか不思議に思い、寺を出ようとした旅の僧に事情を聞きます。すると、旅の僧は、
「当寺の和尚は博学多識。拙僧の及ぶところではございません。私が『貴僧のご胸中は』(と言って、小さな円を作る)と伺ったら、『大海のごとし』とお答え、『十方世界は』と問えば、『五戒にて保つ』さらに『三尊の弥陀は』と聞けば、『目の前にアリ』とのお答え。まことにすばらしい方でございます」
 そんなすごいやり取りがあったのかと感心し、和尚を見直して問答のことをたずねると、和尚答えて曰く。
「あれは、俺の昔の商売を知っていてからかいに来たに違いない。おまえのところのこんにゃくは、こんなに小さかった(と言って、小さな円を作る)と言い出したので、そんなことはない、こんなに大きかったと言い返すと、10丁でいくらだと値を聞いてきた。『500だ』と言うと、『高い!300文に負けろ』と値切り出したので、『あかんべぇ』……」
 お後がよろしいようで……
























先頭へ





おやまあ 投稿者:らくりん  投稿日: 5月22日(火)10時28分07秒

「そうそう」をちょこちょこっと書き足して、消す前に下の方に画面を流してみた
ら下の方にいつの間にか大悲さんが割り込んでいるではありませんか。
さっきは、気づきませんでした。

>その中で、特に親しみを感じる、と言うのは、私にとっては、会ったとか会ってな
>いとかや共通の知り合いよりも、原風景が共通であることが大きいのではないかと
>思います。読んだ本に林遊さんのお父上のお話が出てきてて思わずメールしちゃっ
>たりなんかして、なんか「ナントカの輪!」みたいですけど。
そう言えば、最初は、こんなことを言おうかと思って、下の一連の長文を書き始めた
ような気がします。書いているうちにどんどん話が展開してしまいました。
では、では。


そうそう 投稿者:らくりん  投稿日: 5月22日(火)10時20分32秒

毛坊主さんには少なくとも一回は話を聞かれているみたいだし、
悲心さんとは一度電話で話しましたから、
このお二人は私にとって純バーチャル存在ではなくなってしまっています。

といっても一方的に見られ聞かれているだけだったり、
声だけしか聞いていないのだから
まあ、順リアルというような存在かも、です。

電話で声を聞くだけでも、これがまた、うんとイメージができてきちゃうもんです。


みなさん 投稿者:らくりん  投稿日: 5月22日(火)10時05分11秒

それぞれに、なかなか的確かつ、一筋縄ではいかんぞというレスポンス。
さすがです。

ネットというのは、とにかくレスがないと何もわからない世界です。
目の前に相手がいれば、何も言わなくてもいろいろな情報が本人から発せられている。
これまで言語・非言語表現と言って来ましたが、
それはもしかしたら「意思された表現」あるいは「意図された表現」と
「非意思表現」あるいは「非意図的表現」と言った方がいいかも知れません。

一回りしたネット世界の中ではとてもお近づきになりたくないところもありますし、
付いて行けないところもありましたし、時間と気力維持という制約がある中で、
つきあう領域を限定せざるを得ません。

このところカウンターのヒット数は100人/日以上のハイペースが続いています。
リピーターが多いでしょうから、トータルでもここで出会っている人はたぶん
200人ぐらいまでではないかと思っています。
リアル世界でも何らかの形で出会っている人もかなりいるはずで、
私にしとってここはネットだけの付き合いの人の方が少ないかも知れません。
どこかでお目にかかる人から、突然「読んでますよ」と言われる
ことがまれではなくなってきました。
ですから、ここはネットだけの交流の場としては私は考えることができなくなって
しまっています。
そういう感じで、ここは私のバーチャル交流ととリアル交流が交錯しています。

ここで出会っているであろうおよそ200人という数は、
私がリアル世界で一月に出会う人よりは少ないかも知れません。
(出会い方の形式はかなり違いますし、いちいち数えているわけではありませんから
だいたいの印象的感覚でしかありませんが)

そういう状況ですので、林遊・お留守居役様・長屋@爺さん・毛坊主・悲心…… さん
などは私にとっては貴重なバーチャル交流だけ存在です。
(会ってしまったら実もふたもなかったりして)
何かとお気に召さないこともあるかと思います(こちらからもないとは申しません)が、
それなりに、よろしく。

では、これから留守がちモードに切り替わります。

まずは、今日の午後Vitaさんとオフモードです。
これがまた、Vitaさんは照れ屋の恥ずかしがりやですし、
私も妙にかっこうつけちゃったりしますんで、
オフだとあまり話がはずまなかったりするんですよね、おもしろいことに。


呼んだ〜? 投稿者:大悲  投稿日: 5月22日(火)09時58分47秒

えーー、ちょっとサボっただけで、このすごい量・質。
読むだけで精一杯で、考えられなかったりします。
私は、ココの掲示板の方々とは、殆ど面識がございません。
あ、悲心さんとは、学生時代会ってるけど、ネットで再会した時、すっかり忘れてて誤解を生むことになってしまいました。そうそう、まこさんは、昨年いらして下さいましたね。
で、何が言いたいかというと、オンラにしろ、オフにしろ、出遇うっていうのは、一筋縄ではいかないご縁に引っ張られてるんだなぁってこと。
ネットがなかったら会ってなかった人と、思いがけない娑婆付き合いがあったりして・・・
その中で、特に親しみを感じる、と言うのは、私にとっては、会ったとか会ってないとかや共通の知り合いよりも、原風景が共通であることが大きいのではないかと思います。読んだ本に林遊さんのお父上のお話が出てきてて思わずメールしちゃったりなんかして、なんか「ナントカの輪!」みたいですけど。

リヤカー引っ張りながら、お念仏してるバアチャン。嫁と喧嘩して、お内仏に愚痴って、おまえの世話には死んでもならんと言いながら、車椅子押してもらって散歩するのが楽しみで話し好きだったバアチャン。たぶんそういう「ジョッパリ」で「キガネクテ」「エフリ」「アルフリ」「オベタフリ」ってバサマにワもなってまるんだおん。
(強情で、人の意見に耳を貸さないで、ええカッコしぃで、持ってる振り、知ったかぶりのばあさんに私もいつも間にかなってしまうんだろうなあ、って津軽弁です)


ホンマ難しい漢字は飛ばして読みたくなる性格ですので、なかなかレスできませんが、呼ばれたような気がしたので・・・
  なまんだぶつ なまんだぶつ


「ピン」とくる 投稿者:三吉  投稿日: 5月21日(月)22時50分06秒

には色々な筋があり、個人によっても差があるのだろうと思いますが、
私は大願さんの論点に一番親近感、ぴんとくるものを感じます。
それはやはり「立場性」だろうと思います。

視点、視座が違うものが語り合うから、そこに意味を生ずるのではないでしょうか。。。
「論破」というより、あなたの視点とは別視点で見ると「こう見える」ということでしょうし、
私はこういう視点に立つということでしょう。
そこに感動したり反発したり、あるいは反発を感じつつもその視座を包摂したりして
自分の視点を深めたり広げたりするということでいいのじゃないかと私は現時点で
思っています。
いわずもがなですが、「一つの正しい解答」を共有するために掲示板でやりとりしている
わけじゃないでしょうし。。。

とりとめなく、雑感です。

捕捉;ちとした「ずれ」を大きく掘り下げるのも時には必要かと思います。
普通に生活していればきずかないほどのささいな「差」であっても、その「ささいさ」は、
極めて重要かもしれません。
少なくともそのことは私にとって「モノを考える契機」になっているのではと思います。

余計なことですが、らくりんさんのその感じ方は極めて限定されたネットのある特定の場でしか
体験のない狭さからの考察のようなきがします。(深くはあるのでしょうが)
ネットでの議論の場全体からすると、大勢から見ればここはかなり穏やかなほうです。
もう議論にも何もならない場はもあるし、中傷・誹謗目的の場もあります。
(単に誹謗目的な方を注意喚起し、普通の会話できただけで喜ばしいこともあります)
あるいはコミニケーションという点からすれば、出逢い系の方が人は多いですし、
掲示板ではなく、チャットという即時性あるメディアもあります。
(出逢い系では、ネットで知り合って共感して結婚まで至るというカップルを何組かしってます)

らくりんさんには「伝えたい何か」が明確に意識されているから「伝達上の制約」に
深い関心をお持ちなのでしょうが、ネットにある数ある「場」ごとに暗黙のルールといいます
か、「場ごとにのもつ共通前提」「お約束」のようなものが、時には固定的に、多くの場合は、
参加者の動向に左右され変化されあるように思います。

例えば全く宗派の違う日蓮系の方々と「仏教とは何か」をネットでとある掲示板で
論じられてみてください。
それでも「ぴん」としたものはあるのかどうか。。。
「制約」は乗り越えられるのかどうか。。。

あるいは、ネットで出遭い、恋愛結婚出産も一般的になってきてますし、
あるいはそれを悪用した様々な事件も社会をにぎわすようになってきてます。
らくりんさんにとっての「意味」以上に現実はいやもおうもなく、ネットに巻き込まれ
飲み込まれつつあります。その現実の中でらくりんさんにおけるネットの意味は
何かではないでしょうか。。。そういう視点もあるように思います。


透明な日本のわたし(笑) 投稿者:林遊  投稿日: 5月21日(月)22時15分03秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

ペースが速いので乗り遅れて原稿2つもパーにした、ぐすん(笑)。

ネットでは相手の「顔」が見えない、という表現が屡々されますが、顔とい
う表現で他者の存在感、他者の存在のリアリティを表現したものでしょう。
顔が広い、顔を利かす、顔色を窺う、顔に泥をぬる等々という「顔」という
語で、他者の人格を理解する枠組みとしてきたのが人間なのでしょう。

顔は、自己のものでありながら、常に他者の方にしか向いていないという、
不思議な性質を持つ、自己の外部に開かれたモノですが、同じように他者
の顔もまた自己に対して開かれたモノです。その意味では、一番原初的な
コミュニケーションが、顔と顔であるのかもしれません。演歌風にいうな
らば、俺の目を見ろなんにも言うなの世界です。

しかし、ネットでは相手の顔が見えない。インターフェイスとしての相手の
顔が見えないことから、対話者としての代わりの顔を用意し得ざるを得ない。
その代替としての顔が、自己の想念が投影した自己の投影になりやすいとい
うのが意志の疎通を阻害している一因かもしれませんね。
(この相手の顔が見えない、または顔の意味が見失われているという事が、
現代の若者の社会でも問題になっているそうですが、これは別問題です)

らくりんさんの仰る、「直接経験の共有」という事ならば宗祖と小生達の間
には、どうしようもない時空の壁があります。にもかかわらず宗祖の書物を
拝読しながら宗祖との間に共感を感ずることもあったりするわけです。

コンピュータのプログラミングの世界には中間言語というものがある/ありま
した。コンピュータ言語は、コンピュータと意志の疎通をする為の一種の言
語ですが、直接cpuに分かる形ではなく、一旦「中間言語」というものに
変換しておいて、随時cpuの分かる形に翻訳してに命令を実行させるもの
です。このような方法をとる事によって違う形式のcpuでもプログラムが
動作するようにとの発想で考えられたものです。

人は誰でも自己の内面世界と、それを外部世界に表現する言語を持っています。
外部世界の情報(言葉)を、概念化してデータとして蓄えることが、内面世界
を構築するわけです。この概念化された内面世界を、外部世界に表明するのが
言語という道具、または道具化された言葉であるのでしょう。

しかし、自己の内面世界と外部世界の間にもう一つの中間言語を持つ立場もあ
ります。外部世界の情報を、一旦中間言語に翻訳して概念化し内面世界を構築
する方法です。このような立場では、前者では単なるコミュニケーションの道
具としての言葉が、自己内対話言語になります。つまり内面世界の概念と中間
言語との間での自己内対話が行なわれます。また、外的世界の情報が、中間言
語というフィルターを通して、言語情報を、知識、知恵に代えるのでしょう。
情報は知識、知恵ではあり得ませんが、このような中間言語が、道具としての
情報を、知識、智恵に変える作業なのだと思っていたりします。

このような中間言語が、実は「宗教言語」なるものではないのか、と思ってい
たりするのですが、共通の中間言語を有する間だけで成り立つ会話もあるのか
もしれませんね。


文学の初源 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月21日(月)22時13分58秒

昔、吉本隆明さんが言ってたことですけど、
あの時、ああ言えば良かったとか思うこと、
人と争ったり、誹られたときにうまく言い返せなくて、
あとで、こう言えば良かったと思うこと
を書くのが文学の初源である、と。
また、文学は25時間目に書くものである、とも。
つまり、非日常の言葉ということですけど、
今ではバーチャルなどという言葉がありますが、
当時30年前にはなかったので、
虚構の世界へ越えていく境界線を
『仮構線』なんて呼んでいました。
らくりんさんは、現実生活での関係(言葉ではなく)を重視されているので、
私とは二重に反対になるかと思います。
なのでかえって、一致するところがあるとも。
在家と僧ということに関しても、私は在家とすら思っていません。
布教しないからです。
単なる、親鸞愛好者にしかすぎません。
ですから、らくりんさんの圏外にいるので、
しっくりしないのかと思っています。
サルトルは「言葉」という自伝で、
子どもの頃から言葉が現実だと思っていたと書いています。
つまり、虚構の言葉の世界といっても、
筋金と年季が入っているのです。


わかっていながら 投稿者:三吉  投稿日: 5月21日(月)21時54分22秒

わざとはずしておりました。(つもりです)
あるいは、<此の辺をいわしたいのだろう>と思いつつ、ずらしておりました。
つまり出方を伺っている部分が在りました。
その「前提」「筋」を私は認めないと発言した通りです。


なるほどね。 投稿者:長屋@爺さん  投稿日: 5月21日(月)20時42分11秒

「意志の表明」と「討論を前提」にするのかでは、
向かい会う姿勢が違って来るのでは。


続けて、も一つ 投稿者:らくりん  投稿日: 5月21日(月)20時35分42秒

愚っ朕―らくりん、大悲―らくりんの関係で見れば多少はそういう共有されている直
接経験はあると思います。ところが、愚っ朕―大悲関係で共有されている部分となる
とかなり少なくなってくるのではないかと思います。大谷派の有名人を知っているか
どうかとか、同じ本を読んだことがあるかないかという程度の話ではなく、感化・影
響を受けるという意味の直接経験の共通性です。おそらく重なる部分は小さいと思い
ます。
(お二人の関係については詳しくは知りませんし、お二人の間でお互いからどのよう
な印象を受けているかも私の関知するところではありません。またお二人がらくりん
の発言からそれぞれどういう印象を受けているかも、この際あまり関係ありません。
あくまでも私の側に生じている感じの問題です)。

しかしながら、お二人と似たような程度の直接経験を共有している人はいくらでも存
在します。それに、VitaさんやZazieさんのように直接その人本人を知っている
ような場合は、もっと持っている情報が多いわけです。さらにはネット上の付き合い
ではなく毎日のように会って人もいます。そういう人たちとの間には誰とでも「ピ
ン」を感ずるかと言えば、そんなことは決してありません。
ですから、直接経験の有無、大小はコミュニケーション成立の絶対的条件だとは言え
ないような気がします。

一方で、
そういう直接経験の共有と言えそうなものは、林遊さんやお留守居役様さんとの間に
はほとんどありません。お二人から出てくる人物の名前は、まったく知らない人であ
ったり、本でしか知らない人である場合がほとんどです。
共有する直接経験の少なさがネットコミュニケーションにおける意思疎通にもたらす
影響の有無、その大小、そしてその質です。

直接経験の共有が少ない人間の間でのネットコミュニケーションは、その少なさは制
約となるのか。もしそれが制約となるのだとすれば、その制約を乗り越えることがで
きるのか。どの程度まで乗り越えることができるのか。
もし乗り越えることが不可能、あるいは非常に難しいのだとしたら、今、行なわれて
いるネット上のやり取りは一体何になるのだろうか。

「意味とは、それが生じた者のところにおいてしか意味がない」
当たり前の事ですが、ネット上では、この当たり前の事を無視した書き込みの応酬が
あまりにも多い気がします。つまり、対論の相手本人を何とかして論破したり、
やり込めようとする行為が頻繁に見られるということです。

とりあえず、ここまでかな


続々コミュニケーション雑感 投稿者:らくりん  投稿日: 5月21日(月)20時33分46秒

久々にはじけて、「看板に偽りなし」状態になっていますが、なんで急にこんなにテ
ンションが高くなってしまったのか自分でもよくわかりません。
この一週間ほどは近場の仕事ばかりだったもので時間的に余裕があったこともありま
すが、そればかりだとは思えません。
明日から、また留守がちモード入りますので、あまりレスできないかも知れませんが
例によって、「鬼の居ぬ間に」存分にご活用下さい。

「受け手には誤解する自由がある」
これは、『親鸞の教行信証を読み解く』にも出てきますが、
私がこの掲示板のネットコミュニケーション考において再三繰り返して来た命題です。
これはどんなコミュニケーションにもあてはまると思います。ただ、そのすれ違いの
気づきやすさ、修正のしやすさなどの違いに各手段の差があるのだろうと思います。
ネットは手軽で双方法ですから、比較的それがやりやすいはずなのに、
妙にすれ違いを増幅する作用が強いように思います。それはなんでだろう。

そもそも、今回ネットコミュニケーション考にまたまた思いが至り始めたのは、この
掲示板で3月末から4月はじめにかけて巻き起こったいわゆる「片手落ち」問題のや
り取りからです。(もう消えてしまっているし、過去ログを掲示するHPを持ってい
ないので、読んでいない人はごめんなさい)愚っ朕さんの問題提起に対して、私は
「ピンとくる」ものがありましたし、ちょっと「そそられる」ものがありました。そ
れで、そのつもりでフォローを促したり、議論の展開や深まりを期待したのですが、
どうも思うような展開にはなっていきませんでした。どう言ったらいいのか、「何が
言いたいのか」、「何を言わせたいのか」、いわば「手筋」のようなものが見えた気
がするのです。これは三吉さんとの場合に生じる「手の内」が見える感覚とはちょっ
と違うんですよね。
最終的に私が「ピンときた」ことは、おそらく愚っ朕さんが提起したかったことから
大きく外れてはいなかったのではないかと思っています。ところが、どうも他の参加
者が、なかなか愚っ朕発言の意図・狙いだと私が思っていたこと(それは私のうなが
しのそれでもあるのですが)がうまく伝わっていないのではないかと思われる発言が
かなり続いたように思います。すれ違いが原因で外れているように感じたのか、他の
人たちがわかっていながらがわざと外していたのかはわかりません。私は、前者
だったのではないかと思っています。。

愚っ朕さんとネット上で「再会」したのはこの3月ごろからで、それ以前は名前を
思い出すこともほとんどなくなっていたいわば「あかの他人」状態だったのですが、
その時の「ピン」の他にもここでも他の掲示板、そしてメールのやり取りでもどうい
うわけか「ピン」「ピン」きちゃったり「そそられる」ことが多いんですよね。
問題意識の所在や領域、問題の立て方、枠組みの設定の仕方などに非常な親近感を
覚えるのです。この点では、大悲さんからも似たような感じを受けます。

これっていったい何なんだろうか。
愚っ朕さんと大悲さんとは、面識がなくても、共有しているバックグラウンドがかな
りあるように思います。尊敬あるいは信頼している人、いわゆるお育てをいただいた
人に少なからず共通性があるように思います。繰り返しになりますが、これは非常に
大きな要素です。そうであるがゆえに、このことが、ネットコミュニケーションの可
能性を意味しているのか限界を意味しているか。
なぜなら、ネット上でしか交流したことがない人から受ける「ピン」が、そうしたリ
アル世界の直接経験に依存するものであるならば、それはネットの限界を意味するこ
とになるのではないかと思うからです。


ちょっと話がずれているかな? 投稿者:らくりん  投稿日: 5月21日(月)20時11分32秒

会わなければわからないのなら、ネットコミュニケーションの意味はかなり小さな
ものになるということなのではないかと思うわけでありまして、

会わないでどこまで意思が疎通できるかということを考えてみようとしているんです。
「伝えたい」ことと「伝わっている」こととのギャップ、
「伝えたい」ことがあるのに「伝わっていかない」ことを問題にしているのです。

会うには会うことのよさもありますが、数と機会が限られますし、
会ったからといって、必ずしもうまく通じ合うとも限りません。
それに、目の前にいる人に「伝えたいこと」が伝わらないもどかしさを感じることも
しょっちゅうです。

直接会えない人、会わない人とのコミュニケーションを可能性を段違いに広げた
ところにネットの大きな意義があるわけですから。
今の場合、
長屋@爺さん さんのおっしゃるように、会って話せば済むというものではない
問題があると思っています。


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