らくりんバンバン

〈 落 鱗 板 々 〉



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世間への発信 投稿者:なまぐさ  投稿日: 8月 5日(日)22時43分14秒

初めまして。大谷派の一教師です。愛知県在住で35歳。
今までROMでしたが今回は愚痴というか、フゥというかなんというかご意見賜りたく御邪魔します。
YAHOOの掲示板で政治>選挙>創価学会大好き!に、書き込んでおりまして戦争責任に話が及びまして、大谷派は戦争荷担の反省の弁を述べているかと聞かれ、述べてます。(1995.6.13宗議会不戦決議)答えました。
 ここで、はたと私に中に疑問が起こり
”いくら、意見や声明を出しても広く社会に知られなければ、意味成さないのでないかな?。
 声明出して、自分が満足すればいいわけでなし、もっと世間に発信しなければいけないのでないかなぁ?”
と思いまして、ここで私の思考は現在停止状態です。
ご意見下さい。


金沢の暑い夏 投稿者:らくりん  投稿日: 8月 5日(日)15時48分42秒

昨年の8月4日、石川県の護国神社参道に、高さが12メートルもある石碑が建立
されました。
正面には「大東亜聖戦大碑」そして裏面には「八紘為宇」という文字が刻まれて
います。
除幕式は、1000人以上の人が集まり、軍服を着た「軍装隊」が見守る中、神
道の儀式で執り行なわれました。

当初、碑が建てられた場所は、護国神社の境内地であると思われていたために、にが
にがしく思いながらも手をこまねいていましたが、その土地は石川県が借り受けて、
都市公園として管理している地所であることが判明し、遅まきながら、石川県住民が
中心となって、「大東亜聖戦大碑」の撤去を求め戦争の美化を許さない会(「聖戦大
碑」撤去の会)が結成されて、県当局との交渉を行なってきました。

そして今年の8月4日、つまり昨日のことですが、午前10時から、
「大碑」の前で「第一回 大東亜聖戦祭」という儀式が執り行なわれました。
朝からそれを見学に行って来ました。
最初、軍装隊と呼ばれる、軍服に剣や銃を持った人たち10人ほどが、隊列を組んで
入場し、本殿の前で敬礼したのち、「大碑」の前に整列・敬礼。
そのあとは、神主さんが登場して、神道の儀式が粛々と執り行なわれました。
参加者はざっと目算したところ約500人。
国家神道が軍事と深い関係にあることを具象化した儀式で、
祝詞や来賓のあいさつの中に飛び交うなんとも勇ましい言葉に拍手が沸き起こり
なんとも異様な雰囲気でした。

午後、〈8月4日「大東亜聖戦大碑」の撤去を求める全国集会〉を開きました。
こちらは約180名の参加。金沢のこの手の集会としては異例の多さでした。
沖縄から元「ひめゆり学徒隊」の宮良ルリさん、そして昨年の「女性国際戦犯
法廷」の代表者の松井やよりさんの講演がありました。
大陀羅弗”痴さんがおっしゃったのは、この集会のことです。


問題は純度かな? 投稿者:らくりん  投稿日: 8月 5日(日)10時05分06秒

>本願寺派にはガチガチしたタイヤがあり(よく知りませんけど)、
>大派にはまことにファジーなタイヤがある、ということでしょうか

大谷派は、儀式について細かいことまで決まっていても、
その通りにやらなくてもけっこう通ってしまうようなルーズさがあるように思います。
もちろんうるさい人もいますが……。

儀式のように形式があるものの変化は、
それが目に見えるだけに変わったことがすぐにわかる。
そういうものは「変えやすい」とも言えるし、
逆に非常に「変わりにくい」ということもある。

本願寺派のことはよく知りませんが、教学にしても儀式にしても、
決まっていることについては、大谷派ほどルーズじゃないような気がします。

「考え方(教学)」そのものの違いということも、問題の一つではあると思いますが
それを教団としての統一性あるものとして確立しようとする指向の程度とか
仮に、統一的な見解があったとして、それをどの程度尊重しようとするかという
ことも含めて「考え方(教学)」というものがあるのでは。
つまり、決定事項を無視してもあまり問題にされないか/大問題になるか

少なくとも大谷派では「異安心」という語は、教団レベルでも個人レベルでも
ほとんど「死語」であろうと思いますが、本願寺派ではかなりまだ幅をきかしている
語であるような印象を受けます。

大谷派は何事においてももたもたして、いつまでたってもきちんとした結論が
でないようなことになるのは、
タイヤが勝手にあっちこっちに動いてしまうようなもんで、
ガソリンの純度が低くいとか、ムラがあるんじゃないですか、
きっとなんか混ぜ物があるにちがいない。
まあ、あまりに純度が高い燃料というのは、それはそれで危ない。
あまりにも、スピードが出過ぎて、ブレーキの効きが悪くなるから。
ちょっと、もたつくぐらいの「不純さ」が心地好かったりして。

最近大谷派の教学研究所の所長が「大谷派の教学のスタンダードが必要」など
ということ言いはじめていますが、私はそういう発想には大いに???、です。


きっと 投稿者:らくりん  投稿日: 8月 5日(日)10時00分34秒

沖縄の語り部として何百回も同じ話をされてきたのだろうと思います。


あるいは、 投稿者:大陀羅弗”痴(ダラブチ)  投稿日: 8月 5日(日)07時48分54秒

「両輪」論は教団についての比喩として考え、「燃料ータイヤ」論は個人の姿の比喩として考え
るのがいいのかもしれないと思います。本願寺派にはガチガチしたタイヤがあり(よく知りませ
んけど)、大派にはまことにファジーなタイヤがある、ということでしょうか。

個人の内では儀式が教学を生み出しているかもしれないです。オウムが多用したサブリミナル効
果がまさにそれじゃないかと。(「教義」という語の受け取りように拠りますが)

話は変わりますが、「ひめゆり」の語り部、宮良さんのお話のなされ方に驚きました。
原稿が完璧に頭に入っている朗読、という印象でした。


(無題) 投稿者:らくりん  投稿日: 8月 5日(日)00時32分54秒

「これが大谷派の教学だ」
というものがないのが、私としては大谷派の、とてもいいところだと思っております。
そんなものがないから、私のような人間がまだ生きておれるわけで、
もしも、本願寺派で今私が言っているようなことを言ったら、
どううなるんだろう(∞;)
よくわかりませんが、ただじゃすまんような気がします。

エネルギーは動きを生み出す源泉であって、
それ以外の形あるものはすべてそこから生じる。
エネルギーがなければ何も動かない。動いているものが見えるということは
その活力源が必ずあるということです。

教学は儀式を生み出すことはあるけれども、
儀式から教学が生まれることはない。
しかしながら、
教学・思想・教義・考え方だけでは何も生まれて来ない、
教学・思想・教義・考え方は必ず何か形あるものを生み出します。


東京の真宗会館 投稿者:ぐっちん  投稿日: 8月 4日(土)15時38分44秒

 で戦没者法要に行ってきました。チャリで10分のとこにある
この建物、ようやく最近になって通い出しました。

 ご講師のF島K人せんせい、あいかわらず大谷大学建学の父、
清沢満之のことすきやなあ。
最近びっくりしたのが、社会哲学の今村仁司さんが、清沢さんの
ファンになってますねえ。インテリには自慢できるでしょうね、
谷大のせんせたちも。

 F島K人せんせい、現代の視点から「歴史をさばくことは
愚かだ」風の発言をされてました。また曽我せんせの『世界
日本論』でしたかをコピーしてせんせの信心第一主義をもち
あげてました。いわずもがなやなあ。
 批判的という視点がないなあ。ナニもぼろかすに言えという
意味じゃないけどなあ。
 
 このあと、近所のしゃぶしゃぶ屋でうちあげがあり、もぐり
こめばしゃぶしゃぶにありつけたのですが、あんまりつまらん
のでお邪魔しませんでした。

 ちくま書房からN塚T道せんせの本も売ってます。メジャーな
出版社から真宗の本が出るようになったけど、内容はうち向け
やなあ。教団はやっぱり社会的発言能力がないなあ。で、今度の
純ちゃんのお参りにも教団あげて、反対ナノダとはいえないのだなあ。

 朝まで生テレビ久しぶりに最後まで見ました。ヤスクニ参拝問題が
テーマでした。
 辻元清美は上沼恵美子みたいにようしゃべる大阪のおばちゃん
やなあ。でも、りくつは通ってるなあ。でもリクツ言いは嫌われやすい
かもなあ。
 姜尚中(かん・さんじゅん)はあいかわらずソフトな外見とソフトな
モノゴシ。かっこええなあ。好きやなあ。
 西郷隆盛はなぜ祭られていないんでしょう、国難に殉じたのに(玉を
味方につけてる)明治政府から逆賊だと評価されたからでしょ?こんな
のが日本の伝統の神道的考えかな?とつっこんだら「みぎ」の人は答えられ
へんかった。

 スーパーのライフの会長とか、話にならんなあ。國學院のせんせも
神道わかっとんのかなあ。まともな神道学者は出てこんのかなあ。
鎌田東ニあたりでも、ヤスクニがそれ以前の神道とは趣が違うとは
立場上よういわんやろなあ。つくる会の西尾幹二は見ててあわれさを
さそいました。濡れ落ち葉とはこういうおっさんのことやろうなあ。。。

 さて視聴者はやっぱり、参拝賛成の方が多かったです。
反対の方もヤスクニが宗教的軍事施設だからという理由では
反対しておられませんねー。弁護士遠藤誠が出てましたけど、
もうちょっと仏教者としての発言せえよと思いましたけど。。。


教学と儀式 投稿者:大陀羅弗”痴  投稿日: 8月 4日(土)11時35分40秒

「これが大谷派の教学だ」というものが、現在あるのでしょうか?
大谷大学、同朋大学の教授方の御説を以て当派の教学というのでしょうか?

突き詰めると、僧分各人が持っている「・・・・主義的な考え方」があるとしか言えない
のが現状ではないでしょうか。そしてその僧分個人個人が、権威主義的な儀式作法と知り
つつ、旧来の形を踏襲しているとすれば、結果としてそれがその人の教学なのだと言わざ
るを得ないと思います。

儀式作法に限らず、その僧分の生きている姿が教学の具象だと、らくりんさんは言ってお
られると受け取りましたが、私は高校でその教学という言葉を「宗教」という言葉に置き
換えて生徒達に説明しています。

「燃料とタイヤの1本」・・・・・スイマセン、私にはこの比喩、分かりませんでした。
燃料がエネルギーに変化して、外界に働きかける動作を生み出す、ということですか?


「両輪」説 投稿者:らくりん  投稿日: 8月 4日(土)07時37分59秒

先の書き込みの最初に「考え方(教義・思想)」
と書きましたが、
>権威主義的な「考え方」/差別主義的な「考え方」
という場合の「考え方」というのは「教学」とイコールの意味で書いています。

「……主義的な考え方」=「教学」と言っても言いわけです。
ですから、Zazieさんの言う
>権威主義的な「考え方」の人たちが作り出す教学は、権威主義的な形を持ち
というのは、この場合「権威主義的な教学を持つ人たちが作り出す教学は」という
同語反復になってしまいます。

「考え方(教義・思想・教学)」というのは、判断とか行動を生み出す原理
ですし、儀式というのは生み出されて来るものの一つで、
具体化・定式化された様式を持つ。

「考え方(教学)」が生み出すのは必ずしも儀式ばかりではありません、
言葉(話、本)や、生活様式、判断……もっといろいろなものを生み出します。
儀式はその中の一つです。

「考え方(教学)」がないところから儀式が生まれることはありません。
つまり儀式があるところには必ず「考え方(教学)」がある。
その意味では儀式と教学の関係を「両輪」に譬えるのは、てきかくではないかも
知れません。
私の感覚では、車に譬えるなら「燃料とタイヤの一本」ぐらいかもしれません。
エンジンに当たるのはさしずめ「聞法」か。


すみません、追記です。 投稿者:Zazie  投稿日: 8月 4日(土)00時54分36秒

>権威主義的な「考え方」の人たちが作り出す儀式は、権威主義的な形を持ち、
>差別主義的な「考え方」の人たちは、差別を絵に画いたような儀式を生み出す。



>権威主義的な「考え方」の人たちが作り出す教学は、権威主義的な形を持ち、
>差別主義的な「考え方」の人たちは、差別を絵に画いたような教学を生み出す。

という方向は無いのかと思ったのです。


『「声明作法」と「教学」は両輪だ』 投稿者:Zazie  投稿日: 8月 4日(土)00時45分49秒

はい、らくりんさん。

私の師匠は言わば「権威主義の声明」にどっぷりな方だったので、そういう世界が嫌で(ご自分を含めて)、「声明作法に溺れてはいかんよ」と(自戒を含めて)言われたのかなと思ってます。コンプレックスもあったのかな、と思ったり。

>権威主義的な「考え方」の人たちが作り出す儀式は、権威主義的な形を持ち、
>差別主義的な「考え方」の人たちは、差別を絵に画いたような儀式を生み出す。
〜な考え方な人達は〜な儀式を持ち出す、と偏っていないでしょうか。

「声明」もまた口伝ですし、「南無阿弥陀仏」と同じく後に伝えていく価値があるのではないかと私なんかは考えてしまいます(青臭いのは承知の上です)。私は「声明」に関しては、あるポジションに居たので、嫌な部分をたくさん見てしまいました。それでも、一部の「声明」を伝えようとする方たちの気持ちは分かるような気がするのですね。

明日、もう今日ですが多分、らくりんさんと連れ合いのY子にお会いできると思うので、もし時間があれば、そういうお話が出来れば嬉しいです。

そう言えば前回のカキコ「どちらが大切なのですかね?」というタイトルに問題がありました。「どちらも大切でしょうね?」という意味合いで書いたつもりが全然違うじゃん。文章力の問題です。お気に障った方すみません。
私も二元論は好きじゃないです>ごめんなさい、愚っ朕さん。 


新しい皮袋 投稿者:愚っ朕  投稿日: 8月 3日(金)20時09分15秒

 あの〜、ゼロの発見でおなじみインドの人々は
数学的論理的な思考がお得意のようで、最近
日本でもIT関連の会社で働いておられるのを
お見かけするんですが、
OSでインドウズXPというのを開発したって
本当でしょうか?


中古ノート 投稿者:らくりん  投稿日: 8月 3日(金)14時02分17秒

たぶん9821シリーズのノートの最晩年型だろうと思うんだけど
Aile(?)の中古を見つけた。
CPU150Mhz、HD1.4G、メモリ32Mで4万8千円
CDドライブベース着脱タイプ(定価53万円だったそうな)、
なんとかWINDOWS95が使えるスペック。

DOS/V機ならこの程度のものは見向きもしないだろうけど、
MSーDOSソフトを後生大事に使っているらくりんにとっては、
9821機でこのハードは垂涎の掘り出し物。
去年の今ごろならきっと買っただろうけど、
もうノートパソコン持ち歩いて使う元気もなくなったし、今さらなぁ〜。

となりには、
600Mhz、HD10G、メモリ64Mのダイナブックノート
(CD内蔵、FD外付けのB5ファイルサイズ)が11万円だと
(付属のOffice2000のCDがないので割安に)
こちらもなかなかの掘り出し物かな

なんか世の中、癪にさわることばかり。

掲示板にはまったおかげで、日本語変換Win松茸をWINエディタにも
かなりなれてきたから、ベタ打ちならあまりストレス感じなくなったし、
そろそろ、DOS/Vに全面的に乗り換えてもいい時期かなぁ〜

いや、ワープロソフトはやっぱ変えたくない、
まだまだ9821機でがんばるぞぉ〜。


消息不明 投稿者:らくりん  投稿日: 8月 3日(金)13時33分41秒

姿を見せなくなってなって久しい林遊さんですが、
昨年の記録を振り返りますと、5月末から8月20日頃までは、
消息不明。
どうも聴聞三昧でお忙しいようです。

そのうちふらっと舞い戻ることでしょう。


林遊さん、どこいった (ノ_・。) 投稿者:Vita  投稿日: 8月 3日(金)12時56分23秒

法をきく みちにこころの さだまれば 南無阿弥陀仏と となえこそすれ

 なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


(情景3 参詣席にて) 投稿者:Vita  投稿日: 8月 3日(金)12時26分19秒

「今日真ん中に出てるのは、○○寺の若い人じゃないかいね」「ほんとや、お歴々の御住職らの
中であそこに出るなんて、よっぽど位が高いんかねえ」「それに比べて、△△寺のごえんさん、
後ろの隅っこで、なんもさせてもらえん。かわいそうやねえ。」「しかし、あの若い人、いやいややってんの丸見えやな」「なんでや?」「顔見りゃ、わかる」

ヘイ、お後が宜しいようで・・・


オオゲサ 投稿者:愚っ朕  投稿日: 8月 3日(金)12時22分33秒

 親鸞や蓮如の絵像を見て下さい。
威儀という袈裟をつってるヒモは白く、
その袈裟は今でゆう「スミゲサ」
 手には数珠しかお持ちじゃない。

 
 門跡になって「信長の野望」にも
登場する有名人、本願寺光佐(顕如)の
絵像を見て下さい。
 紋入りのイロゴロモを着て、頭の後ろには
三角形の僧ごうエリを立たせ、袈裟は
これも紋入りの五条袈裟。
 手には檜扇をお持ち。これを貴族趣味といわず
して何という。
 
 熊皮の御影の親鸞精神から
これほど離反している姿もありますまい。


温故知新 投稿者:愚っ朕  投稿日: 8月 3日(金)11時50分10秒

 先の私の発言、「二項対立」には蓮如さんに対して甘すぎるな〜。
蓮如さんは実際は、かなり経営に辣腕をふるったおぼうさん。
そうカトリックのカルロス・ゴーンみたいな人!
 名号いがいにも絵像もかなり下付しました。その裏書によって
本願寺ー手次寺ー弟子ー門徒のヒエラルキーをつくってます。
共産党の細胞(ふるいな〜)みたいやな〜。

 絵像は流行っていました。なぜなら絵解き説教というのが
布教の手段としては一般的であったから。
 そして江戸時代は節談説教です。

 岐阜県の真桑というところには、『肉おどしのお面』の文楽(人形浄瑠璃)を
やるひとびとがいます。いっこく堂の腹話術がはやるくらいだから、子供たちには
人形劇は受けると思うけどな。
 これを古い演出じゃなくてそれこそ新しい解釈で上演する。それくらいの頭ないの
かな本願寺の経営陣は。

 蓮如の五百回忌にあわせて、旭堂南北さんという講談師が『蓮如上人御一代記』を
やったけど(戸次さんが仕掛けた)彼は広島生まれで、あとバナナの叩き売りを
やったり反戦原爆講談(?)なんかもネタがある。ちゃんと育ててやらなあかんやんか
と思ったりする。

 桂米二さんという米朝一門の落語家さんも仏教落語をウリにしてはる。また
彼は「胎教落語」なるママさんに向けてのマーケットにも食い込んでいる。
 たぶんわかりやすい、ソフトな噺がきけるだろう。

 前にも書いた三河万歳には真宗用に「六条万歳」というものがあって、これは
まだやっている人がいるらしい。なんとか例えばらくりんさんみたいな新世代の
教学者の考えが反映された新しい芸能が「儀式」(法要)に組み込まれて復活
しないものかなあ。


うひゃあ〜 投稿者:大陀羅弗”痴(ダラブチ)  投稿日: 8月 3日(金)11時49分33秒

書価の点の位置で目が点になりました。マルが一つ多いんじゃないですよね。岩田先生はその
お名前だけ存じ上げておりました。多分当方の教区の大きなお寺の声明好きのご住職さんが持
っておられるでしょうから、当たってみようかな。

ええと、さっきの饅頭問答ですが、僧分の間でどれだけ儀式の意味についてのコンセンサスが
あっても、参詣の方々にもそれがなければ結局同じ事、という意味です。そもそも登高座を指
名される僧分とそんなところには声もかからない僧分という序列があることを無視したわけで
はありません。


>ダラブチさん 投稿者:愚っ朕  投稿日: 8月 3日(金)11時29分14秒

 声明・儀礼資料年表 法蔵館 岩田宗一編 1.4000円
 声明の研究     法蔵館 岩田宗一  1.3000円
 仏教音楽辞典    法蔵館 天納傳中・岩田宗一・播磨照浩・飛鳥寛栗編  24272円

 とまあなんと高価なこと!私はてっとりばやく1983年に法蔵館から出た
声明体系というレコードの付録、声明辞典というのを重宝しておりました。
 他宗の儀式・装束関係の本(藤井正雄・浄土宗、大山公惇・真言宗、
久間慧忠・曹洞宗など)も参考にしましたが。
 播磨照浩という方が、お西の方で特に装束に強い。岩田さんはお東の方。


饅頭問答 投稿者:大陀羅弗”痴  投稿日: 8月 3日(金)09時26分21秒

とあるお寺の報恩講にて

(情景1 僧侶の控えの間で)
「今日の登高座はどなたが?」「年寄りばっかりで、狭い台の上で立ったり座ったりも危ないか
ら、若いところで、○○さん、あんたやんなさい」「えっ、ではそちらは何をなさるんですか?」
「後ろでなあんもせんと、楽させてもらいます」「いいなあ、長老はそういうわがままが言えて
・・・」

(情景2 参詣席にて)
「今日真ん中に出てるのは、○○寺の若い人じゃないかいね」「ほんとや、お歴々の御住職らの
中であそこに出るなんて、よっぽど位が高いんかねえ」「それに比べて、△△寺のごえんさん、
後ろの隅っこで、なんもさせてもらえん。かわいそうやねえ。」

「意味は受け取る側に生ずる」 ヘイ、お後が宜しいようで・・・

>愚っ朕さん

「作法や声明や装束の歴史が知りたくなって調べたら・・・」とのことですが、例えば「登高座」
の諸作法の意味、所作の由来、などを知ろうとしたら何を見ればいいのでしょうか?


教義が必然する儀式の創出 投稿者:らくりん  投稿日: 8月 2日(木)22時20分52秒

Zazieさん、
>『「声明作法」と「教学」は両輪だ』
というのは、私も時々聞いたことがあります。
そして、私が聞いた範囲では
それをおっしゃる人は、多くの場合「現状の声明作法は」という意味で言っている
のではないかという気がしますが、いかがでしょうか。
現状のあり方を是認して、それをもっと大事にしなさい、きちんと修得しなさい
という意味で。

私も「儀式」と「教学」は非常に重要だと思いますが、その場合の「儀式」と
いうのは必ずしも「現状のそれ」を指しているわけではありません。
むしろ、「現状のそれ」については非常に疑問、あるいは問題を感じております。

「儀式」というのは「考え方(教義・思想)」が表現される形だと思います。
ですから、儀式の上に、それをやっている人間の「考え方」が現われているわけです。
権威主義的な「考え方」の人たちが作り出す儀式は、権威主義的な形を持ち、
差別主義的な「考え方」の人たちは、差別を絵に画いたような儀式を生み出す。
「儀式」と「教学」がそのような関係にあるからこそ、私はその両方が
大事だと考えるのです。

現状の大谷派の儀式は、非常に細分化され、序列化されています。
多くの場合、きわめて権威主義的な要素を含んでいるように思います。
そして、執行者とそれ以外の参加者が明確に分離された儀式も多いです。

そのような儀式が生み出され、継続しているのは、私たちの「考えか(教学)」
が、それをおかしいと感ずることがないようなものでしかないということになって
しまうのだと思います。

私は、現状の大谷派の儀式については、私はあまり自慢できない。
というよりもむしろ、ちょっと恥ずかしい。

「現状のそれ」に研きをかけるのではなく、やっぱり自分たちの「考え方」が
必然的に要求するような形を追求していきたい。
むずかしいし、めんどうだし、たいへんだけど。


儀式を大切にするということ 投稿者:Vita  投稿日: 8月 2日(木)15時13分04秒

 先の書き込みの続きだと思ってください。

 「唄」というものは、作った人の喜びや悲しみ、そして願い、作られた場所の空気が込められているとお聞きしています。歌うこと、聞くことはそういうもの全部をそこに蘇らせるという行為ということです。

 儀式は人が作り出したものですから、同じように、始めた人々の想いが込められていると思います。本当に儀式を大切にすると言うなら、その初源を知ろうとすることは大切なことだと思うんです。

 そして、作った人たちの想いを尋ねて、一生懸命勤めること。
 あるいは、彼らの想いをさらに実現させるような儀式へと変えていくこと。
 想いと今の現実が乖離していれば、その歴史を周囲の人々と共有して論義し、止めることも大切だと思います。登高座についても。


二項対立 投稿者:愚っ朕  投稿日: 8月 2日(木)14時06分24秒

 として考えるのがへんだというのが私の一貫した主張でありまして。
社会派/信心派、戦後民主主義/国民国家主義、声明/教学、エトセトラ。。。

 各項目の光と陰を十分にあきらかにするというのが大切だと思います。
仏光寺派では、蓮如より先に正信げと和讃というおつとめスタイルを
確立していたようですが、本願寺では往生礼賛と法事讃中心のおつとめでした。

 室町末期になって貴族趣味化してきた本願寺が、法要の軽重によって
正信げの唱和法に区分をつけるようになって江戸初期には10種類になっていた。
これ、同朋教団といえるでしょうか?いなかのご同朋がいっしょにお勤めするんでは
なくて「じっとガマンの子」であるようにしたのじゃないでしょうか?
 
 平座でお講を開き、天台の仏像を風呂の焚きつけにしてしまい、名号軸のみを
もちい、改まった色であった黒の素絹(裳付あるいは色衣と考えていいでしょう)を
見て不機嫌になった蓮如さんの精神からはだんだん遠くなっていった思いがしますが。

 いい加減にお経を唱え、無作法にやれといってるんじゃありませんよ。私、いっしょう
懸命ご門徒さんに喜んでもらおうと声明うまくなろうと思ってカセット・テープ集める
うちに作法や声明や装束の歴史が知りたくなって調べたらどんどんおかしなとこが
目についてきたということであって。。。


雑感 投稿者:ootubo  投稿日: 8月 2日(木)13時03分30秒

安田理深先生は無理やり僧籍を取らされたと聞いております。
声明作法は教えが形となったものと聞いております。
経典(三部経)は暗記して勤めてはいけない、常にいただいて(見て)
お勤めしなくてはいけないと教えられました。
関係ないかもしれませんが、声明作法も教学もどちらも重要なんでしょうね。


(無題) 投稿者:Vita  投稿日: 8月 2日(木)10時00分29秒

断定するような書き方をしましたが、考えすぎでしょうかネ。


登高座 投稿者:Vita  投稿日: 8月 2日(木)07時58分21秒

真宗が最重要にする報恩講という行事において、
登高座が行われ、三宝に帰依、式文、嘆徳文が読み上げられる。

倩、平生の化導を案じ、閑に当時の得益を憶うに、祖師聖人は直也に匪、すなわち是権化の再誕なり。已に弥陀如来の応現と称し、また曇鸞和尚の後身とも号す。皆是夢中に告を得、幻の前に瑞を視し故なり。況や自ら名のりて親鸞と曰う、測り知りぬ、曇鸞の化現なりということを。しかればすなわち聖人、修習念仏の故に、往生極楽の故に、宿命通をもちて知恩報徳の志を鑑み、方便力をもち有縁無縁の機を導きたまわん。願わくは師弟芳契の宿因によりて、必ず最初引接の利益を垂れたまえ。よりて各他力に帰して仏号を唱えよ。

儀式には「結界」とでもいうようなものを成立させるような、強い意味合いがあります。見ている者には何をやっているのかよく分からないとしても、本願寺教団の理念が、儀式のカタチをとって、示現されています。

様々な教団論が論じられようとも、御影堂とは肉身の弥陀である親鸞聖人のおはしますところであるという理念は、不動であるということではないでしょうか。

大仰な物言いですけど。


どちらが大切なのですかね? 投稿者:Zazie  投稿日: 8月 2日(木)00時24分46秒

私の声明の先生は『「声明作法」と「教学」は両輪だ』とおっしゃってました。確かに「声明」
に熱心な方は「教学」を軽んじるし、「教学」に熱心な方は「声明」を軽んじる傾向があるよう
な気がします(簡単に「声明」「教学」とカテゴライズするな、と思う方にはすみません)。

私はどちらも不勉強で中途半端な状態です。

ただ、私が関わっている聞法会などで、最初に簡単なお勤めをするのですが、そのお勤めが終
わったころにみえる方がいらっしゃいます。「お話」のついでのお勤めなのか、と思います。
最後の『恩徳讃』もエンディング扱いのような気がして、考えてしまいます。


女性の声明 投稿者:keko  投稿日: 8月 1日(水)23時03分46秒

お久しぶりです
女性の声明の話が出ていたので、一言
私も合わすのに苦労してきました
低い方で合わすようにしていますが、それでも高くなってくる
女性住職もいることだから、これから考えていってほしいと思いますが、
そのような動きがないですね
混声の時はハモるのもいいのでは、なんて思ってしまいます


参考 投稿者:愚っ朕  投稿日: 8月 1日(水)22時49分21秒

http://www3.justnet.ne.jp/~tanahara/odake11.html

 は本願寺派の方の装束に関する問題提起。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/9109/

 は神官さんなのかお公家さんの生き残りの方なのか、
衣冠束帯に関するページ。


どひゃあ〜 投稿者:愚っ朕  投稿日: 8月 1日(水)22時05分50秒

 Vitaさんって任天堂大学出身じゃなかったの?

 袈裟ってようするにサリーであって、偏だん右肩という
右肩を出す着方が一般的。で、座禅する時と托鉢する時と
寝る時は通肩という両肩を被う着方をする。(京都嵯峨野
の清涼寺の釈迦如来像にみられる)

 で、ガンダーラ仏に見られる僧祇子という汗取り用の下着が
中国で上半身用の「ほう」と下半身用の「も」になる。
 浄土真宗では、上下に分かれていない法衣が一般的。

 ほんで、袴ですが、これは表袴(おもてばかま)と
差貫(さしぬき)がお東、切袴(きりばかま)をお西が
用いるのですが。
 これ、平安時代以来公卿の束帯を着る時にはくもの
から影響されたわけであって(中啓という扇子もそう)
真宗原理主義からみれば、もったいぶったもんで
着用するのはへんなのでは?

 でも私は儀式はお坊さんの火葬行列、もしくは
コスプレだと思っていますから、これでいいのだ!
(いいことないか?)

 で、登高座ですが、あれは論議法会をやる時に
演るもの。日本で論議といえば病気平癒の祈願とか
坊さんの位階昇進の時とかこれまたもったいぶった
問答をやる時の儀式。

 昔昔、お坊さんになり立ての時、教義よりも
仏壇・仏具とか習俗とか建築とか仏像彫刻とか
造園とかの方に興味があって調べた。

 お経の読み方の歴史もえんえん調べて
問題提起をちょこっと戸次さんの新聞に書いたことも
あったけど、まったく反応なかったなああ。


金沢大学能楽部出身ですw 投稿者:Vita  投稿日: 8月 1日(水)19時49分49秒

大谷派は中央にあんまり期待していなくて、自分たちでなんでもヤルというところが
あるような気もしますw。

声明もお荘厳ですから、教えをカタチに現しているものと思います。
あらゆる価値の意味づけを無効にするために、徹底的に念仏以外の
行を排斥してきたのが浄土教の歴史であると、頂いてきました。
ですから、差異をこえて、「バラバラでいっしょ」にできる声明になって
いく傾向を望みたいのですが。これがねぇ。。。

>大悲さん

和服の場合、帯の位置が、男性(腰骨の上)と女性(ウェスト)とちがいます。
袴は帯の上に付けますから、長さが足りないのはその問題は関連ないですか。

声明をする場合、喉への負担も含めて、腹式呼吸が望ましいですから、
男性と同じように腰骨の上に帯を巻くことをオススメします。
そうすると、女性は乳房をお持ちですから、胸元がはだける。
そこで、ウエストにゴムのひもを巻くとか、襟元を閉じるリボンをつけるとか
そういう工夫が必要になるということです。

8月の後半に班担でいきますから、お渡しできるものがあれば、後ほど郵送いたします


蛸足 投稿者:愚っ朕  投稿日: 8月 1日(水)17時14分10秒

 インドでは、生き方として
プラヴリッティ・マールガという促進の道と
ニヴリッティ・マールガという寂滅の道というのがあった。
 
 前者は世俗的繁栄をもたらし、
後者は精神的至福をもたらすという。

 あるいは人生の目的としてインド人は
ダルマ(名声)アルタ(富)カーマ(愛、異性)
およびモークシャ(解脱)の四項目をあげる。

 ダルマ、アルタ、カーマを世俗的繁栄とし
モークシャを精神的至福とするとわかりやすい。

 前者を求めるのが家にある人で、
後者を求めるのが家を出た人。

 学生期、家住期を経て、林住期という準備期間を
おいて、遊行期で精神的至福を求めるという生き方も
俗人にも開かれていたけど。

 真俗二諦論というのとこういう話は関係ないんだろうか?
真俗二諦は戦争をささえたアカン考え方やと聞かされるけど、
「現実」を無視して暴走した「赤軍」や「オウム」に対して
批判できへんやないかと思う。

 私、東アジア反日武装戦線の死刑囚の反省文読んでも
何も感激しません。木村さんや藤波さんには遠く及ばないと思う。
 あんな奴らには「われわれ」感などみじんも感じない!


女流狂言師 投稿者:愚っ朕  投稿日: 8月 1日(水)16時24分35秒

 『時宗』を演じている和泉元彌の狂言和泉流には
史上初という女流狂言師和泉淳子と三宅藤九郎
(和泉祥子)がいる。

 お経の本には節譜(せっぷ)という西洋の
五線譜にあたるメロディーをあらわす記号が
ある。あれは謡曲(能や狂言の音楽)のものと
同じだ。だから、何か参考になるかも知れませんね。

 さて、宗教とは「もうひとつの現実」と現実を
生きる行為だと思う。もうひとつの現実を
ひとが求めるその動機とは何か。
 ひとつには、
人生の与えられた事実でしかない部分を抜け出して
もっと充実した理想的なものに向かおうとする動機。
(これを翼を持つというコトバであらわしたい)

 もうひとつは、にもかかわらず自分の経験のすべて
である所与の事実にこだわりそれに意味を与えたい
という動機がある。(こちらには根を張ることという
コトバであらわしたい)

 ある事柄を事実であるとしか考えられない場合には
そもそもそれを「信じる」とはいわない。
 自分が人間であることを信じるだとか、自分が生きている
ということを信じるだとか。

 人間がもつ世界像には3つのレベルがあると思います。
ひとつは直接経験による世界。ふたつめは伝聞・情報による
世界。(TVで地球の裏にはブラジルという国がある。でも
行ったことはないとか。。。)みっつめは宗教・神話のような
世界。

 三つ目がいわゆる「物語」の世界。でも『痛快!経済学』とか
『経済のニュースが面白いほどわかる本』とか読むと市場が
万能であるという市場至上主義が語られていて何か宗教書
みたいだ。


慈悲の無知 投稿者:愚っ朕  投稿日: 8月 1日(水)15時34分52秒

 いつのまにか、な、なんと専門的なネタへ!
 
 東本願寺は同朋学園として、名古屋音楽大学をもってる
のに何でもっと活用せーへんのかいな?
 
 その大学がつくった五線譜による正信偈
(親鸞がつくった詩に節をつけて唱和するもの)とか
伽陀(中国の浄土教の坊さん、善導の法事用の詩の
一節など)とか集めてた時期があるけど。

 邦楽には邦楽のよさがある。謡曲や都々逸、端唄に
小唄、長唄などなどに最近異様に関心が深くなってきたのだけど。

 宗教とは必ずしも自明でない前提に基づいて行動する
一群の人々の活動の全体をさすというのが橋爪大三郎の
定義。

 で、どんな宗教も必ず何らかの宗教儀礼をそなえているが、
それは自分たちが何を信じているかを自他に明らかにすることを
目的としているという。(竹中智秀という坊さんの学校の
先生に教えてもらったのは、坊さんは儀式の執行と教義の
宣布をするひとだということです)

 宗教は現実以外に「もうひとつの現実」を作り出す。それは
言語の力/言語以外の力をつかうという。

 うちの師匠、戸次さんがつくった現代語訳での法事を
やったら「聖書みたいやなあ。わかりやすくてええわ」という
反応(これが9割くらいを占めた)と「こんな誰でも読める
ようなもんにして!有り難味がなくなるわ!」とお叱りを
受けたことがあります。

 まあ、真宗は仏法を聞くということを第一義としているから
儀式はつけたしと思います。伝統芸能と考えるのなら、四天王寺の
舞楽くらいのことやらな、金もらわれへんと思うけど。 


バチあたり 投稿者:らくりん  投稿日: 8月 1日(水)13時41分49秒

土地・財産をしこたま持っていた「御大坊(房?)」ならいざしらず、

在所の道場に専属の坊さんがいたとしても、
だいたいが、「道場守り」ではあっても、いわゆる「出家」ではない。
せいぜいが「出家の真似事」にすぎない。
真宗の「坊さん」は、皆さんの「施し物」「余り物」を頂戴して糊口をしのぐか、
自作・小作の農業か、兼業・副業・出稼ぎで自分の食い扶持ぐらいは稼いできたん
じゃないかね。

豊かな土地で村全体として余裕があるようなところでは、道場の専従を家族ごと
「丸抱え」できたかもしれないけれど、貧しいところではなかなかそうもいかな
かった。
それでも、自分たちが食べるのを我慢してでも道場を支えてきた。
しかし、
「門徒衆が支える」のは道場であって、「住職とその家族の生活」を保証する
わけではないんだろうと思う。
間違ってもそれを要求する権利なんかはないんじゃないかな。

その分のわきまえを見失って、坊さんが「偉く」なりすぎた。

その「偉さ」を演出する道具立ての一つとして「儀式の特殊技能」を
利用しているのが業界の実態、
などと言ったら、嫌がられるのはあたりまえやわなぁ〜それは。

でも、まあ、そのぐらいの「自覚」ぐらいは持っていても罰はあたらんやろ。


「登高座」ですか 投稿者:らくりん  投稿日: 8月 1日(水)12時22分28秒

まあ、
本尊に相い対して、参詣者を代表して「香」をささげて特別な敬意をあらわす行為
とでも言ったところじゃないですか。

ただ、そうは言ってみても
やっぱあれはどう見ても、桐山靖雄がやっている「護摩」を焚く動作
と大差がないように思うんですが。
あんなに派手に大々的にやらないだけで……。


儀式、声明・作法 投稿者:らくりん  投稿日: 8月 1日(水)12時14分01秒

報恩講で、参加する僧侶が皆さん指貫(さしぬき:袴)を着けるんですか?
うちがつきあっている範囲とか、見聞きした範囲では、登高座(とうこうざ)
する人だけしか着けないみたいです。
指貫(袴)が必要なのは、稚児行列があるような特別な法事とか葬式の時だけ。

私は儀式・作法の「決まり事」についてはあまり詳しくないのですが、
装束に袴が必要なのは、元をたどればたぶん、歩くことが行事自体に組み込まれ
ている場合なのではないかという気がします。
だから、稚児行列とか行道散華(ぎょうどうさんげ:本尊の周りを回って、
花びらに模した紙片を撒く)があるような法事とか葬式など。
私の村では、私が小学生の頃までは火葬場まで行列しましたから、時々袴を着ける
ことがありました。(もっとも、その場合の袴にはぜんぜん別の意味がありましたが)

私は、儀式・作法は、ほとんど自分で勝手にやらせてもらっている
「無作法者・無礼者」ですから(近隣の同業者からは嫌がられる)、
「正式な」声明・作法のことについては、私が言うことは
あまり信用しないで下さい。
その辺が得意な方、どなたか大悲さんの疑問に応じて下さい。
  ※声明(しょうみょう):儀式の中で主に「声」とか「音」に関する領域
   作法:荘厳、装束、立ち居振る舞い、道具の扱いなど

たしかに、女性の調声では、男性には低すぎると感じます。
逆の場合は女性にとっては高すぎるんでしょうね。
  ※調声(ちょうしょう):キーの高さとかテンポを決める最初の発声

これまで、儀式執行の主導権をあまりにも男性が独占して反動が、今になって
ようやく出はじめてきているわけで、今後しばらく調整が必要だと思います。
と同時に儀式そのものの「あり方」とか「やり方」も、ゼロから考え直す
よい機会かも知れません。

>特殊は必要か。すべて、共有できるものにすればよいのか。
「特殊」技能というのは、それを保有している者にとっては大きな「既得権益」
を伴いますから、なかなか簡単には手放さない。
わが業界の趨勢としては先を争って「特殊」技能を修得しようとする人が増えて
いる状況でしょう。
ハウツーの問題は、知っているかいないか、できるかできないかですから、
話が非常にはっきりしています。それはそれで「魅力」的な世界なんでしょうね。

>固定観念を捨てて、声明とは何か、議論していくことになるでしょね
そうなればいいですけどね。
「儀式」とは何か、どう考えるかということについては、なんとか機会あるごとに
言っていきたいとは思いますが、
なんせ、「声明作法」の「決まり事」については私は素人同然ですので、
具体的な問題になると、「専門家」はどこ吹く風……。


男声女声 投稿者:大陀羅弗”痴  投稿日: 8月 1日(水)12時06分01秒

らくりんさんの投稿を読んで自分の投稿を書いている間に Vita さんと大悲さんの投稿が入っていました。

そうですね、そもそも混声声明なんて発想はなかったんでしょうね。当方の組内でも女声僧侶の方はずいぶん苦労してらっしゃいますよ。どうなんでしょう、いっそのこと音楽に通じた人達で混声声明なんかを作ってみては。・・・結局それは、音楽法要ということになるのかな。


「業界人」 投稿者:大陀羅弗”痴  投稿日: 8月 1日(水)11時51分50秒

ウ〜ム、これはらくりんさんに突っ込まれたのかな? まあいいや、語注をありがとうございました(ついでに「登高座」もお願いします、なんて言ったらぶん殴られるかな?)。

私が住職の代わりに各お在所の報恩講に伺うようになった10年くらい前までは、僧俗ともに真四句目下げの大合唱でした。皆さん一張羅の着物を着て顔を真っ赤にして唱和しておられました。あれはあれで、あの季節の楽しみだったのでしょう。急速に廃れてきましたけど、道場一杯に響きわたる真四句目の大合唱は感動モノでした。

ご法事の時後ろでお経を聞いている人達が何を思っておられるのかは、常に気になるところです。金子大榮先生だったか誰かが「まずお経の響きに身を浸す」とか言っておられましたが、それが成り立つためには僧侶の声明のウデと参詣者の耳が揃わないといけないですね。一度ご法事をなされるお宅のご主人に「お経はどうしましょうか」と聞いたところ、「とにかく短くて有り難い奴を頼む」という返事でした。「響き」も「身を浸す」もへったくれもなくなったご時世です。「お経の有り難さ」って、なんなのさ。その辺りからまず、おかしい。

正信偈を勤める節に「草」と「真」の違いが立てられているのは、日常生活の中での時間的・労力的に簡便な賛嘆と、年に数度の心おきなくたっぷりする賛嘆の違いかと思うのですが、以前は誰でもがやれたんでしょうね、両方とも。今は「真」が特殊技能になりつつあり、念佛和讃も淘(ゆり)のあるものまではなかなか身に付きません。

在家の方の間で真四句目下げまで習おうという人がなくなったというのは、一つにはそんな時間的余裕がないということもあるでしょうが、そもそも関心がない、つまり念佛の教えからそれほど強烈な感動を得たことがない、ということの方が大きいんじゃないでしょうか。


女性の声明 投稿者:大悲  投稿日: 8月 1日(水)11時23分02秒

私は、音痴です。それなのに、声が大きいです。
気をつけているのは、節をそろえることと、細い声にならないようにということだけです。
普段の声ではお勤めすることは出来ません。だから、小さい声でお勤めすることは出来ません。
キー下げるだけではあかんやろか。
組内の方は、もう諦めてます。はははは。
音域は、まあまあ広い方なので、宝塚の男役のような声を目指してます。♪\(*_*)
ところで、女性は、どんな袴はけばいいんでしょうか。
報恩講などは、住職の袴借りてます。住職は背が低いので、かなり下で、白帯を締めなければなりません。おとなりの若坊守さんが、女性用の切り袴といって、法衣店に注文したら、巫女さんの紅い袴を紫にしたようなのが届き、長くてひらひらで扱いにくいとぼやいてました。
具体的な作業の内容を是非教えて欲しいです。お願いします


共なる声明 投稿者:Vita  投稿日: 8月 1日(水)10時59分18秒

大谷派の教師修練スタッフをさせていただいていますが、
ここ数年、声明についての議論がありました。
その中で、女性の声明について、スタッフの間で
具体的な作業が進んでいます。

装束の着付け(これは発声法に大きく関わります)
などについての女性のノウハウが、大谷派の声明に関して、
全くなかったと言っていい。
そして、現在の高音を張り上げるお勤め。
男性と女性の音域の違いが考慮されていない。

これから、何らかの形で提言がされることと思います。

特殊は必要か。すべて、共有できるものにすればよいのか。
固定観念を捨てて、声明とは何か、議論していくことになるでしょね。


「真四句目下げ」 投稿者:らくりん  投稿日: 8月 1日(水)09時29分10秒

なんて語を、「さらっと」書いてしまうのは、
大陀羅弗”痴さん、かなり「業界人」してますね。

語注
真四句目下げ(しんしくめさげ)=「正信偈」の勤行の節回しの一つ。
主にお寺での報恩講の際に用いられる。
報恩講(ほうおんこう)=親鸞の命日を縁として、毎年お寺や自宅でとり行なわれる、
真宗ではもっとも重要な法要。


私のところでは、報恩講でも通常と同じやり方で参詣の皆さんと一緒に勤行してい
ます。やり始めた最初の頃は、他の僧侶の方から「物足りない」とか「在家の報恩
講みたい」だとか「楽なもんやね」などと皮肉られたこともありましたが、
ずっとやっていると、それなりに定着してくるもんです。

あの、高音を張り上げて僧侶だけでやっている儀式は、それなりに見せ場があります
が、やっぱ、私はどこか坊さんたちの自己満足的なものを感じてしまいます。
それを見て、「報恩講は華やかでいい」とおっしゃる参詣者も少なからずいますが、
なんかやっぱそれは、古典芸能ショーの演者と観客の関係のような感じがします。
先日、ある機会に僧侶の読経を、何もしないでただ後ろに座って聞くだけという
「貴重な」経験をしました。あれって、やっぱとっても「退屈」なもんですね。
発音の羅列をただぼーっと耳にしているというのは、けっこう忍耐力を必要とします。
ちなみにその時は『観経』でしたが、私自身はほとんど発音されていることの意味は
わかったのですが、そんなことはなんの「足し」にも「退屈しのぎ」にもなりません
でした。あれは、発音されていることの意味がわかるとかわからないという次元の問題
じゃないような気がします。

「真宗の儀式」に対する私の考え方では、演者と観客という形で分離する
ことはできるだけ避ける方がよいと思っています。
「参加者がすべて同じことができる」、すなわち全員参加という点を最も重視する
ことが大切なのではないかと思っています。
もちろん、
信仰というのは、自らの「選び」と「名告り」を根拠にして成り立つという
原則が大前提ですから、「イヤ」な人に強要はしません。
ですから、「日の丸」「君が代」の強要と同列に論ずるような
ヤボでヘボな反論はご免こうむりたいものです(念のため)。


東は東、西は西? 投稿者:大陀羅弗”痴  投稿日: 7月31日(火)17時23分27秒

>それにひきかえ、大谷派の儀式はなんと細分化され、複雑化していることでしょう。
>ほとんどの儀式がきわめて特殊な技能を持った人たちだけの専有物になり下がっている。
>これはもう古典芸能保存会の世界。

だからもう少しすると、声明は重要無形文化財になり、儀式に精通した人は人間国宝と呼ばれるようになるかも。それを狙ってンじゃないかと思う人も、いないでもない。

私が登高座し始めた頃、参詣席でこんな声が聞こえました。「どこのゴボさんや。でこうて、阿弥陀さんが見えンがいね」。

この夏休み第一週を「朝のお参り会」として近所の子供を集めて正信偈教室をしたところ、30人近くの児童が集まってくれました。みんな1週間目にはゆっくりした正信偈ならついてこれるようになりました。私自身はお東の草四句目下の節も、お西の(どういう呼び方かは知りませんが)節も、どちらもそれらしくて面白いなあと思います。

お西の節は何か雅やかというか、宮中のお歌がルーツという気がします。対してお東は力技じゃないかと思います。ただ聞いているだけならドッチでもいいんでしょうが、いっしょに勤めるとなると、高い声を張り上げなければならないお東の真四句目下げなんかはそのうちみんな嫌がるようになるんじゃないでしょうか。報恩講の伝統のあるお在所でも、若い世代の人達に真四句目下げのできない人が急速に増えてます。


「つながり」感 投稿者:らくりん  投稿日: 7月31日(火)09時33分18秒

もう10年以上前のことになりますが、フィリピンからきた人を日曜日の礼拝のために
カトリックの教会へ連れていったことがあります。
その人が何の違和感もなく、日本の教会の礼拝に融合しているのを見て
「おぉ、〈世界〉宗教だなあ」と妙に感心してしまいました。

本願寺派(お西)の勤行の場面に出くわすと、同じ「正信偈」でも、微妙な節回しの
違いに、どこかなんか違和感を覚えます。

儀式というのは、共同性を実感するにはとても重要な役割を果たしていると思います。

「日の丸」「君が代」にあれだけこだわるのは、
象徴としての旗と儀式としての歌(起立とか斉唱という共同行為)
に、日本人としての共同性を染み込ませようとしているのでしょう。ほぼ強制的に。

儀式は単純なほど、広範に受け入れられる。

それにひきかえ、大谷派の儀式はなんと細分化され、複雑化していることでしょう。
ほとんどの儀式がきわめて特殊な技能を持った人たちだけの専有物になり下がっている。
これはもう古典芸能保存会の世界。


自治って何? 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月31日(火)02時20分29秒

 百姓のもちたる国。。。

 私が死んでも家は代々続いていくという考え方が
先祖供養の背景にあります。
 私が死んでも国民は永遠に生き続けるというのが
ナショナリズムであるとベネディクト・アンダーソンは
いいます。またそれは極めて、宗教的だとも。

 活版印刷術の発明によって「出版資本主義」が起こった
ことは画期的でした。つまり、貴族たちは自分の所領の
ひとびとよりも、よその邦の貴族にシンパシーを感じて
いました。さらにヨーロッパのインテリ層はラテン語を介して
「われわれ」意識を共有していたのをひっくり返しました。
各国語による聖書の翻訳は、「国」別に「われわれ」意識を
編成することにひとやく買ったことでしょう。

 パーリ語で上座部仏教のお坊さんたちは東南アジア
ブッディスト・ネットワークをもっているとか何とか。。。
 親鸞さんは和讃をひろめたり、蓮如は手紙という
俗語の言語をつかって「われわれ」意識をひろめようと
してたのかな?

 ひと・カネ・モノ・情報が国家を超えて広がってく
グローバリズム。市場経済を本質とする資本主義はいやでも
国を超えて世界をひとつにしていきます。

 それに反対するのにナショナリズムしかないのでしょうか。
いや、ルールを守れば誰でもプレイヤーといった市民社会原理が
ある。ネチケットを守れば誰でも来るものは拒まないという
掲示板があるじゃないか!(あんまり続けて書くのはルール違反
のような気がしますが要するに私、甘えてるんです。もっと私に
愛のムチを下さい。。。)


1段落 投稿者:らくりん  投稿日: 7月29日(日)01時06分20秒

3月から始った研修会シーズンも、夏本番を向かえてようやく終息に近づいています。

あと、暁天講座とか戦争犠牲者の追悼法要というのがいくつかありますが、
超繁忙期は乗り切ることができました。ほっと一息、です。

当然のことながら月例の会は通常通りにあります。


帰って来たトラブルマン 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月28日(土)15時40分39秒

 インド料理屋に行くと箸休めにダイコンなんかの
漬物があります。アチャールです。
 日本にも酸っぱい漬け物、「あちゃら漬け」
があります。
 要するにぐっと踏みとどまって「あちゃら」
漬けにならないことではないでしょうか。
 ♪帰ってコイヨ、帰ってコイヨ、帰って
コ〜イヨォ〜


宗教を選ぶということ 投稿者:Vita  投稿日: 7月28日(土)09時42分39秒

「物語」という言葉を村上氏は、宗教だけではなく、
もっと広い意味合いで使っていることはおいといて、

私が宗教を選ぶ、ということでは、疑わしい私が判断をしていることになる。
疑わしい私以上のものに出会うことはできない。
宗教に踏み込むということは賭けであり、飛び降りること。
「辻褄」が合わなくなってきたら、宗教に問題があるのではなく、
その物語に合わせられない私に問題があるという事になる。

ここで分からなくなる。正しい宗教とは、誤った宗教とは何を
基準にして言い得るのだろうか。

「読み解く」の今読んでいるところで、聖人は示しているということでしょうか。


辻褄合わせ 投稿者:らくりん  投稿日: 7月28日(土)08時43分15秒

残念なことに、
他人のところで合った辻褄というのは、
自分のところでも合うということはなかなかないもんです。

けっきょく自分ところでしか合わないのが辻褄ってもんではないか。


村上春樹「アンダーグラウンド」 講談社 2500円 投稿者:Vita  投稿日: 7月28日(土)08時05分04秒

村上春樹「アンダーグラウンド」 講談社 2500円

後書きから少し引用

>「こちら側」=一般市民の論理とシステムと、「あちら側」=オウム真理教の論理とシステムは、
>一種の合わせ鏡的な像を共有していたのではないかと。

その共有していた「自分自身の内なる陰の部分」がこの「アンダーグラウンド」という題なわけです。
もちろん、この表現の微妙さについては、筆者が言葉を尽くして表現なさっています。

 そして、麻原が「あちら側」で「この世界で個であることの孤独を癒す」「物語」与えていたと位置づけた上で、読者に提起される問題は

>あなたは誰か(何か)に対して自我の一定の部分を差し出し、
>その代価としての「物語」を受け取ってはいないだろうか?
>私たちは何らかの制度=システムに対して、人格の一部を預けてしまってはいないだろうか?

と、いうものです。

自分がどういう物語を生きているのか。
それは選べるものなのか。

らくりんさんは
「この物語があったから、すべての辻褄があってきた」と
以前、そう、語っていらしたように思います。

わたしはまだ、ボンヤリしています。


ども、です。 投稿者:らくりん  投稿日: 7月27日(金)15時55分33秒

crevotunさん、はじめまして。

時にはヒートアップすることもありますが、
みなさん、てきとーに自分の言いたいことを書きまくってますので、
てきとーに楽しんで下さい。


同感! 名古屋は暑い 投稿者:crevotun  投稿日: 7月27日(金)11時52分57秒

23、24日と名古屋で通夜、葬儀。
七条着てたら、アセモが出来た。
火葬場は、まさに暖房中。
たまらん ワサ!?


こんにちは 投稿者:crevotun  投稿日: 7月27日(金)11時45分04秒

初めまして。
いろんなサイトで、ここの HP の話が出てくるので 覗いてみました。
「らくりん」とは、「目から鱗が・・・」のことですか。 フムフム!

なんか 難しい話題がいっぱいで どっと疲れそうですが、

つまるところ、人は自らの立脚地をどこに置くかで、
その後の人生が決まると謂う事。 カナ?

また来ます。


物語 投稿者:らくりん  投稿日: 7月27日(金)09時34分52秒

私たちは、「物語」を非現実的とバカにするが、
人間は、結局何か一つでも自分がその中に入りこめる「物語」がないと
生きていけないんじゃないかって気がする。

「物語」を失った時、けっこう生きづらいんじゃないかなぁ〜。



記憶に残る経験 投稿者:らくりん  投稿日: 7月27日(金)09時31分17秒

子どもの時にお寺お御堂の中を駆け回った記憶って、けっこう長く残るみたいですよ。
けっこういい年こいたおっちゃんたちが懐かしそうに話します。

そういう私自身も、友達が来てお御堂の中や外縁、迎拝の所で遊んだことは
懐かしい記憶です。

今の子どもたちって、
歳をとってからどんなことを懐かしく思い出すんだろう……


夏休みのはずが・・・ 投稿者:大陀羅弗”痴  投稿日: 7月27日(金)08時33分33秒

なぜか妙に忙しげな私。おかしいなあ、やたらと御用に追っかけ回されている。

私の経験則から行くと、暑い盛り寒い盛りのお葬式は少なく、季節の変わり目に多い。なのに、このところやたらお葬式が多い。ひょっとしていまが季節の変わり目だとすると、この先どれだけ暑くなるんじゃあ?

今年から、「夏休み・朝の子供会」を始めたら、けっこう近所の子供達が来てくれた。来週はお泊まり会ですが、子供達ってお寺に来るとやたら走り回るんですよね。柱によじ登ったり。お寺が壊れなきゃいいんですけど。


それにしても 投稿者:らくりん  投稿日: 7月26日(木)20時16分22秒

名古屋と京都は暑かった。
35度をはるかに越えて、40度近かった。
脳味噌が沸騰しそうな感じでした。

名古屋にも京都にも棲めないかも。

らくりんはちと暑気あたり気味、ちょっとペースを落とそう。
あちこちの掲示板がけっこう賑やかにやってるみたいで、
ここは夏休みモードというのも悪くないかも。

(もちろん「書くな」という意味ではないので、念のため)


なんと深いヨミ 投稿者:らくりん  投稿日: 7月26日(木)19時37分07秒

わたしゃ、ただ愚っ朕さんの多彩かつ膨大な読書量に、単純に感嘆している
だけなんですが。
なんと、皆さんは「深いヨミ」をするんだろう。
そんなに、気にしないでてきとーにやって下さい。

大願さんのお近くまで行って来ましたが、お目にかかる機会はありませんでした。

その足で、京都まで行って廣瀬先生の安居の講義を、1回分だけ聴講して、
先ほど帰って来ました。


(無題) 投稿者:Vita  投稿日: 7月26日(木)13時28分03秒

〉香山リカ

エッ あの人って、芸能人じゃないの。。。


幅の広い守備範囲 投稿者:ootubo  投稿日: 7月26日(木)07時38分54秒

 同じ言葉でも、様々な伝わりかたがあります。
 一つの言葉にも多数の要素があり、その中で受け手の思いに一番響いた
ものが感覚として意識される。

 私は、
ありとあらゆる情報を求めて、生きることを問うているのだなあ。
その熱心さには感心する。
と、感じました。


すみません。 投稿者:Zazie  投稿日: 7月25日(水)22時04分35秒

感情的になって、無茶苦茶書いてしまいました。

本当に申し訳ありません>愚っ朕さん。

 以後、気をつけます。


>Zazieさんへ 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月25日(水)20時43分22秒

 うん?らくりんさんがいっておられるのは、
「そんなに根掘り葉掘り、(自分)を語り尽くさなくても」という
 (過剰)について発言されているのであって(自分というモノが
 欠ける)読書について語ってはるんとはちゃうと思いますが。
 でも「意味」は読み手に生ずるんですから、ま、いっか〜。
しばらく黙っときます。


恐ろしいですね。 投稿者:Zazie  投稿日: 7月24日(火)23時38分33秒

>香山リカというラカンなどのポスト・モダン思想家にかぶれている精神科医が
『テレビ・ゲームと癒し』という本を書いています。

本を読むという楽しい行為に、自分というモノが欠けると、こんな恐ろしい事に
なるんですね。自戒します。

>それにしても、なんとまあ幅の広い守備範囲だこと “!”。
たくさんの本を読む事が、良い事だとは限らないんだぁ。機械と一緒か、受け取
り方しだいでどうにでもなるんですね。


追加:「私」というレベル 投稿者:らくりん  投稿日: 7月23日(月)14時58分35秒

C浄玻璃鏡レベル
――知る人ぞ知る地獄の閻魔大王が、地獄行きと極楽行きを
  判定する、「私」のすべてを洗い晒い映し出す究極のレベル。
  わたしゃそんな鏡の前には絶対に立ちたくない。


(無題) 投稿者:らくりん  投稿日: 7月23日(月)13時58分50秒

愚っ朕さん
「ガイア」の高木善之、
「脳内革命のおっさん」は船井幸雄が仕掛人だとか、

それにしても、なんとまあ幅の広い守備範囲だこと “!”。
本屋の店先を片っ端から読んでいるみたい。

ところで明日、行くところは、
もしかしたら大願さんが「手ぐすね」引いて待っているかも。
フタを開けてみてのお楽しみ……、どうなることやら (∞;)

恵比須〜新宿〜四ツ谷、人の波(一人あたり100ワット電球1個分の発熱量)、
それにしても東京は暑かった。「蒸し人間」になりそう。
わたしゃもうあの町には棲めないなぁ。


高木善之 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月23日(月)12時54分29秒

 という船井幸雄系のひとがいます。いとこがこの手の思想にはまっているので
知ったのですが。。。(あの脳内革命のおっさんもこの手の人)

 なんでも、人はやっぱり輪廻転生するのだそうです。そして、その輪廻先の
未来の地球が「住めない環境」にあっては困るから「地球を救おう」という
太田竜まっつぁおのオカルト・エコロジーを布教しておられる。

 何でもアリの世紀頭です。もうマジメに考えるのはバカバカしいような気分に
させられる。まあ、ootuboさんが触れておられた生命科学をはじめ最近の「科学」
というのも何でもアリのような気もしますから。。。

 らくりんさんの本にも「科学」の装いをすれば信じてしまう現代の危うさみたいな
ことが書かれていたけれど。山梨大の構造生物学の池田清彦(よく出てくる)は、『科学は
錯覚である』という本を書いてます。

 そこまで極端でなくてもカトリック信者で長く東大教養部で教えていた科学史の
村上陽一郎の本を読むと「科学とは科学者集団内のイデオロギーである」ということが
わかりますが。

 ようするに科学とは@再現性とA厳密な法則性をもつ説明体系。でも結局のところ、
数式でもなんでも「言語」(というか記号)の一種ですから、「○○は○○である」という
トートロジー的説明になってしまうのは明らか。例えば核物理学にしても究極の粒子を発見!
した後もまたまた「究極の要素子」がえんえんと発見されつづけるのでしょう。

 「物質は究極の○○という粒子から出来ている」のくり返し。つまり科学とは、
「(暗々裏に人間の資源利用可能性に基づいた見方に基づく)自然現象を対象とする
真理発見の解明ゲーム」なんでしょう。

 「いのち教」の疑似科学的ファッションにはこういう「胡散臭さ」が
つきまとうと思います。 


梅原猛 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月23日(月)12時20分16秒

 さんがこんなことをいっている。「わたしは、もうすぐあの世へ行くが
子供たちなどに私の遺伝子が受け継がれているかと思うと、これが輪廻転生かと
思う」と。

 えーそうなんですか?梅原さんの本はなぜか10代の頃、6つ違いのあねさんから
勧められて読んでからのつきあいですが、いやはやなんとも。鋭い視点をもってるなあ
と思いつつ、歴史にシロートの私でさえ間違いを発見した本もあった。老境にいたって
これかいな。。。

 瀬戸内海の島で役僧をしていたとき、あるおばあさんが、私は死ぬのはこわくないと
言っておられた。なぜですかと聞くと、こどもが四人、孫が十人いるからと梅原発言と
同じことをおっしゃっていた。子供のいない人は、どーすりゃいいのーさ、こーのー
わーたーしー♪

 「私」というレベルは
@遺伝子レベル・・・R・ドーキンスみたいに「私」が「情報」のかたまりとすれば
          コンピューターにダウンロードできるでしょう。
A免疫レベル・・・脳死・臓器移植問題で多田富雄さんの本を読んで知った。「自己」と
         「自己ならざるもの」を識別するT細胞など免疫系のみなもとは「胸腺」
B脳レベル・・・中枢神経系が自我のありかだと強烈に主張する澤口俊之みたいな唯脳論は、
        パラサイト・イブの瀬名秀明も一役買っている。

 でも、どれもこれも「擬似科学」でだまされているような。。。マルクスは
『経哲草稿』で「人間は個として生まれるが、類として死ぬんだ」というような
ことを言ってたが。また、「人間をつくっている元素は分解されて、それがまた
要素となって新たないのちになる」みたいなエコロジー的輪廻観はちょっと前にも
あったぞ。    


勝手にクロクマ 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月23日(月)11時56分54秒

 いやーらくりんさん、どっかの党首なみのハードスケジュールですね。
夏のツアー、健康に留意してください。いずれどこかで、お目にかかることでしょう。。。
(おっかけできるほど、カネありません。あしからず)

 >Vitaさんへ
 香山リカというラカンなどのポスト・モダン思想家にかぶれている精神科医が
『テレビ・ゲームと癒し』という本を書いています。熱狂的なゲーマーらしいVita
さんにもひとつ『ゲームにおける物語と真宗の救い』(仮)なる論文を書いて
もらいたいです。愚っ朕のお願いでした。


あちゃー、閉まってた。 投稿者:らくりん  投稿日: 7月23日(月)08時58分44秒

坊主バーの場所がわからなくて店に電話したら、誰も出ない。
イヤな予感を抱きながらモ、何とか店の場所だけでも確認しておこう、と思い
狭い路地をうろうろしながらようやく探し当てました。わかりにくいところ。
残念。
郵便受けをのぞいてみましたが、あれはここしばらく誰も来ていない雰囲気
「本日休業」じゃなくて「当分休業」か「永久休業」というような感じでしたが……、
もしかしたら愚っ朕さんとか死生さんあたりが、「こそっと」来てるんじゃないかな
とか期待して行ってみたんですが、そういうわけでした。

翌日義父の13回忌を勤めて、昨夜帰って来ました。


藤沢法瑛という人は、日韓合同歴史教科書を作ろうとしていたころは、
金沢大学にいたんですが、最近名前を聞かないと思ったら、早稲田に
行っちゃったんですか。

明日から、また巡業です。


まだ教科書問題 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月22日(日)19時27分15秒

 中央公論を読む。早稲田の教授で藤沢法瑛という人の文が面白かった。
藤沢さんの専攻は、「ドイツの政治教育事情」らしい。ドイツがナチスを
どう教えてるかから出発しておられるようだ。いわゆるオーソドックスな
「左」の出版社から本を出しておられる。

 十年前に日韓で合同の歴史教科書をつくろうと尽力されたようだ。
しかし、協力者が一人去り二人去りして頓挫した。いろんな原因があったけども
韓国の歴史学者の頭の固さも大きかったらしい。「左」寄りの学者さんたちでさえ
辟易してしまうのだから相当なもんだろう。

 六月に放送した「朝生」では、韓国や中国の教科書修正要求は「内政干渉だ」と
いう視聴者が6割を超えていた。こういう番組を夜中までみている人の傾向といって
しまえばそうなのだけど、考えなきゃいけないのは「つくる会」がちゃくちゃくと
進めてきたその情熱である。

 反対派に奮起を促したい。あなたたちは何を創造してきたのか?
自由や平等は、所与のものではなくつくっていくものである。
「人間は自由だ」でも「人間は自由であるべきである」でもなくて
「人間は自由を求める」ではないのでしょうか?


もっと勉強せねば 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月22日(日)19時05分23秒

 アメリカは共和党と民主党の二大政党がある。共和党はちいさな政府をめざす。
民主党はおおきな政府である。共和党は市場主義で自由放任、共和党は政府の
役割を重視する。共和党は保守といわれ、民主党はリベラルといわれる。
共和党は金持ち支持。民主党は貧乏人支持といわれてきた。
 けど大きい政府は金がかかる。税が高くなる。あたりまえ。

 競争原理で経済を活性化させた代償として所得格差が拡大、公的医療や
教育が荒廃したイギリスにはブレアが出て、第三の道というのを提唱した。
そのブレーンがアンソニー・ギデンズだ。こいつを研究しなきゃと思う。
 なんせ私の政治・経済知識の出どころは、宗教との関連でわかりやすく
解説してくれる橋爪大三郎などのコムロ・ファミリーぐらいしかないから。。。

 ところで、しんさんやまこさんや大願さんは、いったい何党支持者なんだろう?
日本以外のどの国の政治をよりまし政権と考えているのだろう。
この地上にある、あらゆる政権、国家は穢土だから一切反対なのでしょうか? 


まちぶせ 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月22日(日)17時31分10秒

 こっそりらくりんさんを見ようと四谷の坊主バーへ足を運んだところが、
な・なんと閉まっていた!

 >大陀羅弗”痴さん
 教祖は青木雄二ですか?


ダラブチの汎宗教説 投稿者:大陀羅弗”痴  投稿日: 7月22日(日)10時03分30秒

 教行証がそろえば宗教なんじゃないかと私は考えています。だから、いわゆる宗教(創唱宗教、自然宗教)だけではなく、アムウェイやヤマギシにも限らず、個々の政党、会社、クラブ・運動部、地方自治体の役所、町内会、みんな宗教団体みたいなもんです。いずれも隠れた本尊がどこかにあります。
 今日の日本全体もゼニを本尊としている宗教団体みたいなもんじゃないでしょうか。この宗教団体の「教」は「お金を持てば幸せになれる」で、「行」は「金儲け(経済活動)」で、「証」は「ああ、けっこうな人生や」です。ただし、実際にその証が手に入っているとは言えないのですが、それは行を修し足りないからだとみんな納得しているのでしょう。


単純なんですね。 投稿者:Zazie  投稿日: 7月22日(日)01時46分34秒

 自分の力でどうしようもない事が、たくさんの人のおかげでなんとかなってるんだ。
と気づかされました。そんな事が嬉しい今日この頃です。

 また、最近、合理主義的な世の中に、特に秘匿性ばかりが強調されるネットの世界に
疑問を感じていたりしたのですが、そんな中、一人の友人が送ってくれたメールに救わ
れたりしました。


根が単純なので、そんな事が明日を引き受ける力になります。


阿満利麿 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月21日(土)14時37分11秒

 さんの本をお留守居役様さんが紹介しておられたけど。私も得意の
立ち斜め読みした。後半、ひろさちやさんを司会に三田誠広さんと対談が
あったけど、阿満さんもっと余裕もってよと思った。

 全共闘世代で、十代のころから作家になってイエスとお釈迦さんの伝記を
書いてやろうと思っていた三田さんのモチーフは何なのか知りたかった。
 阿満さんは、三田さんの「がんばる」とか「しあわせ」とかいう言葉に
いちいち反論というかねじ伏せていた。ちょっと大人気ない。

 差別語もそうだが、言葉はその置かれた文脈から判断しなきゃと思う。
最近真宗では「いのち」とか「ありのまま」とか「癒し」とか評判の悪いことばが
多い。けど、こういう言葉にバッテンつけてまわってもしゃあないのとちゃうでしょうか。

 新しい言葉が出てきてもそれも、手垢にまみれたら使えなくなる。デノテーション(表層の
意味)じゃなくてコノテーション(深層の意味)を読まなくちゃ。

 そういうんだったら、阿満さん。六角堂の夢告を性欲と結びつけて解釈しちゃいかん
なんていってるけど、人間にとって男にとって「性」の問題ははずせないよ。逃げちゃいかん
ぜよ。

 ホンで宗教を@創唱宗教という教祖の居る宗教とA自然宗教という教祖の居ない宗教に
わけてるけど、古〜いセンスですねー。オウムの戦犯、島田裕巳の先生柳川啓一さんあたりは
およそ宗教学はゲリラになって新しい分野に突撃しなきゃいかんといっていた。
 で、島田は「ヤマギシ会」みたいな有機農業コミューンから「アムウェイ」みたいな
ネズミ講あきないなんかまでも「宗教」と規定してフィールドワークしていた。

 このセンス大切だと思う。真宗を世界宗教としての真宗と、民族宗教としての真宗と
いうのに分けている学僧さんもいるようだけど、これまた古いな。宗門内では、受けるかも
知れないけど、一般のひとびとには「開かれていない」教えだ。


ちょっと松本モーメント 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月21日(土)14時03分00秒

 5ヶ月ほど前ここの掲示板をにぎわしていた松本史朗さんのいいたいことを
要約するとこうなる。

 0仏教の「無我」の教えからすると次のような結論となる。 
 @自分自身を愛さない
 A絶対的他者である仏のみを愛する
 B自我の延長線上にある日本という国を愛してはならない

 と。(先にあげた『禅と戦争』の孫引き)わたし的には???である。
昨日わたしは、葛飾柴又にある寅さん記念館に友達と行った。とってもよかった。
寅さんの商売は「タンカバイ」という口先三寸で商う、大道商売である。

 若いカップルもたくさん来ていた。そして、古き良き日本を偲ばせる
下町情緒あふれる物語にたっぷり浸っていた。寅さんには、水戸黄門と同じく
諸国漫遊というテーマが含まれている。放浪にあこがれる人は多い。山下清
・芭蕉・一遍・山頭火。。。マドンナに憧れながら(マドンナも寅さんの
気持ちに気づき、寅さんに少なからず好意を寄せるにもかかわらず)
実らぬ恋というテーマもまた人気のあった要素のひとつだろう。
 しかし、仏教徒である松本氏はこういう寅さんまでも否定するのであろうか。

 「おくに」と「国家」は違うという声が聞こえてきそうである。だが、
仏教の本流は「おくに」も厳密に考えると愛してはならないのではないだろうか?
(まあ、愛するという表現がそもそも間違っているのでしょうが)


らくりんさんがやってくるヤァヤァヤァ! 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月21日(土)13時34分43秒

 ということで。私の別れて死んでしまったつれあいは、アダルトチルドレンでありました。
ACとは、アルコール依存症の親の下で育った大人という意味だったのですが、だんだん拡張
されてワーカーホリックなどのあらゆる嗜壁をもつ親のつくる機能不全家族(家らしさつまり
無条件に安全な居場所のない)の下で育った大人という意味になりました。
参考までにACの特徴とは

 1 ACは何が正常かを推測する(「これでいい」との確信が持てない)
 2 ACは物事を最初から最後までやり遂げることが困難である
 3 ACは本当のことを言った方が楽なときでも嘘をつく
 4 ACは情け容赦なく自分に批判を下す
 5 ACは楽しむことがなかなかできない
 6 ACはまじめすぎる
 7 ACは親密な関係を持つことが難しい
 8 ACは自分にコントロールできないと思われる変化に過剰に反応する
 9 ACは他人からの肯定や受け入れを常に求める
10 ACは他人は自分と違うといつも考えている
11 ACは常に責任をとりすぎるか、責任をとらなすぎるかである
12 ACは過剰に忠実である。無価値なものとわかっていてもこだわり続ける
13 ACは衝動的である。他の行動が可能であると考えずにひとつのことに自らを閉じこめる

 ところで、この言葉は精神科医の下す病名ではありません。自分の生き難さが親との
関係によって生じているということを自己認識することば、いわゆる名告り(?)です。

 大村英昭さんは80年に『非行の社会学』という本を書いて、いわゆる「非行」少年
たちはおちこぼれとか、不良であるとかいう他者のまなざしによって「予言の自己成就」
をしてしまうのだといっていた。あんたらがオレをそうよぶなら、本当に不良になって
やるさ!というようなメカニズムがあるという。

 法然や親鸞がいた時代は旧仏教から「救いようのない人間」とさげずまれ見捨てられた
人々がいっぱいいた。生きても「罪」、死んでも「地獄」行きの彼らには、あきらめしか
なかった。かれらは、自分を自身をもって名乗ることのできる「名」を持っていなかったろう。
「やあやあ、我こそは。。。」といった「名」を。

 うちの学校では、南無阿弥陀仏とは、「われアミダブツに南無するものなり」との名告り
だという。名前をもつこと。自分から名告れる名をもつことは「救い」であったでしょう。


やまあらしのジレンマ 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月20日(金)21時12分16秒

というのがある。冬の寒い日。やまあらしが肌を寄せ合おうと
近づいたらお互いのトゲで相手をちくちくやってしまう。

ラドクリフ・ブラウンなんかの人類学者が発見したのが冗談関係。
まともに付き合ったら破滅的になってしまう人間関係をさけるため
わざとふざけあって、相手の悪口をいったりエロティックなジョークを
交わすこと。

折口信夫がいってた。宴会芸というのは、征服した方が見物人となって
被征服者が演じる芸をみることから始まったと。
被征服者が、滑稽に征服者のものまねを演じるのが「もどき」という芸だ。
正統派をパロディー仕立てにするのだ。これぞ、笑いのレジスタンス!

まじめに当たり前のことをいうのが、太夫。
それをまぜっかえし、ちゃちゃをいれるのが、才蔵。
この二人が演じるのが「万歳」という芸能だ。

大阪人は「アホ」ということばを親しみを込めて使う。
「アホ」の相互確認をするのが、あいさつなのだというは鶴見俊輔だ。


なぜ生きる 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月20日(金)20時24分57秒

という親鸞会系の本がある。書店でパラパラめくった程度なので
断定できないが。むしろ親鸞会の人と激論している三吉さんに聞いた
方が早いかもしれないが。

五木寛之の本に『人生の目的』というのがあって五木さんは結論として
人生に目的はないといってる。まあ、一般解はなくひとりひとりの特殊解
しかないといってるんだと思うが。また、人生の目的を探すそのプロセスが
「生きる」ということだ(それが大切なんだ)といってるようにも思う。

坊さんの学校で、中川皓三郎というひとが、まことを求めるところに
まことはあるといってたことを思い出す。

ところが、親鸞会さんは「人生の目的」はあるという。それは、「往生極楽の道」
であり「後生の一大事」なのだという。で、それはどうやら「死後」に「極楽」に
往生することだということらしい。

カルトはあまりにも結論を早急に出しすぎると思う。もっと道草くってもいいんじゃ
ないか。で、あの世には「地獄」と「極楽」の二つしかなくて「極楽」行きの切符、
指定席はうちらの宗教の窓口でしか、買うことしか出来ません!といってるように聞こえる。

私は10代の頃オカルト少年であって、『日本霊能者名鑑』という本を穴のあくほど
読んでいたことがある。でも、へんなアンケート欄があって「次のような仏さま、神様は
霊界にいらっしゃるでしょうか?そしてその霊位に順位があるとしたらどのようなものですか」
というのに霊能者が答えていた。

こんな仏や神はまったくいないと答えるひとがいるかと思えば、仏様神様に順番はつけれない
と解答する人もいる。あるいは、大日如来が一番霊格が高いという人はやっぱり真言系の拝み
屋さんで、あの世に誰もが納得できる秩序や構造なんかないんではないかと思ったら白けて
本を投げ出してしまった。

オウムをはじめカルトは人は死ぬという恐怖心をあおることで商売が成り立っている。
私はあの世はあってもいいと思っている。でも、当日券も売ってることだろうし自由席で
いいや。立ち見でも雑魚寝でもいい。そんなにあせることはないや。


幇間 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月20日(金)19時33分10秒

とは、「たいこもち」ということだけど、いまや絶滅しかけている
芸人さんです。誰かさんの提灯持ち、鞄持ち。。。

 らくりんさんの本あいかわらず面白いヒントがいっぱいつまっている。
「仏弟子」とは、自ら名告るという以外根拠はない。(取意)

 名前とは大事ですね。創氏改名とか夫婦別姓とか。。。あと、名前を
なげかえすとか。
たとえば、行政からは「愛隣地区」とよばれてもあくまで自分たちは
「釜ヶ崎」の名前にこだわったりとか。

でも命名とはひとつの暴力、世界に裂け目を走らせる行為です。あい
まいなものを切り捨ててインとアウトを決めるのですから。
たとえば「額」という言葉があります。どこから額でどこまでが頭か?

「子ども」。どこからが子どもで、どこからが大人かの線引きが難しい。
「いのち」。どこからがいのちのはじまりで、どこまでがいのちのおわり
なのか?「わたし」「日本人」とかについても思考実験すると。。。


(無題) 投稿者:らくりん  投稿日: 7月20日(金)08時36分35秒

どうやら出立できそうです。
しばしのおいとまを。


万人芸人論 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月19日(木)20時33分30秒

 マルチンルターは万人司祭主義をとなえました。
それは、神様の絶対性を保証しようとするといかなる空間における
いかなる行為にも神の優位性があらわれるのでないといけなくなるからです。

 つまり修道院という聖なる場所で、修道士という聖なる人間が
おこなう聖なる修行というものが成り立たなくなります。

 お賽銭の額で神様が願いをかなえるか、かなえないかになると
神様が、お賽銭にふりまわされてます。そんな日本の神様と
ユダヤキリスト教の神様は違う。だから世俗の中に宗教の場がひらかれている。

 「ひとはどこからきてどこへいくのだろう」というような
ティリッヒとか、ゴーギャンの絵のタイトルは、人生を旅に例えてます。
人類学者、ギアーツなどは、世界を劇場に例えます。みんながパフォーマーです。
純ちゃんばかりが、役者じゃない。みんなが、自分の役どころで芝居をしている
というのです。(あとおもしろいのがウイトゲンシュタインの言語ゲーム論です。
あらゆることが、ゲームに例えられる)

 芸能史の視点からはますます、玄人と素人の境目がなくなっているのが
今の時代です。それは、それでいろいろ問題があるのですが。
みるものとみられるものの区別が無くなる傾向にあるのは確か。
劇場型犯罪が多くなるのも無理ない。

 けど楽屋はのぞかない方が華だったりして。。。


白色白光←→無色透明 投稿者:らくりん  投稿日: 7月19日(木)12時10分21秒

単に「開かれた」というだけなら、ホテルのロビーなんかが一番開かれている。
誰でも入りやすいという、ホテルのロビーのような開放性には
少なくとも二つの要素が必要です。
一つは、そのば自体ができるだけ主張性をもたないということと、
もう一つは、出入りする人間が一定していない(常連がたむろしていない)という
流動性によって保たれている。

お寺に求められている「開放性」というのは、明らかにホテルのロビーのそれとは
意味が違うと思います。

誰に対しても「開かれている」ということは、誰が来ても来なくてもそうだという
ことでしょう。
だから、「扉が開いている」というだけでは人が来るかどうかは決まらない。
それから、人が集まり始めると、どうしても何らかの「カラー」ができてきますから、
その色合いに馴染めない人は近づかなくなります。
そうすると、以前と同じように扉が開いていても、ある種の「閉鎖性」が生じてしまう。

ネット掲示板は原理的にはもっとも開かれているはずですが、やはり人の出入りは
その板のカラーによって自ら決ってきます。
カラーというのは、場合によっては「入りにくさ」、すなわち排他性を意味すること
になります。

結局、お寺も掲示板も、
  1、つまらん所は誰も来ない
  2、カラーを気にいった人しかやってこない
  3、何の主張もカラーもなければつまらん
というようなことになるのではないかと思います。

だから、何のかんのいったって、大悲さんは大悲さんのお寺を大悲色に染めていくしか
道はないんじゃないかなと思います。それがイヤな人は遠ざかる。
その上で、来る者は拒まず、去る者はできるだけ追ってみて、それでも去るなら
黙って見送り、またやってくるのを待つしかない。

多くの人に受け入れられようとして、色合いを薄めていくことは、ホテルのロビーに
なっていくようなもので、お寺としては本末転倒。
らくりんは大悲さんの色には輝けないし、大悲さんはらくりんの真似はできない。


どうでもいいけど、いやどうでもよくないか、単なる変換ミスならいいんだけど
「内陣」←に対して→「外陣」です。
「げじん」という音とか、内陣が一段高くなっているお寺の構造上、
「下陣」の方がピッタリくる感じがしてしまいますが。

語注
「外」は呉音(ごおん:仏教式の発音は呉の読み方がベースになっている)
では「げ」。例:外道(げどう)


閑話休題 投稿者:大悲  投稿日: 7月19日(木)11時24分06秒

「開かれたお寺」ってなんでしょうね。
門徒=維持費・諸経費のご負担をお願いしている方、信徒=その場にだけ来て頂ける方
と分けると、ウチの場合、きれいに分かれます。
ご門徒さんが、おいでになるのは、年回法要の時と、維持費の支払いの時。あと報恩講の二日目に数人。
信徒の方は、夏の朝法座、報恩講二日間、毎月の親鸞講座。
これらのお座への、ご門徒の参加は、数年間ゼロです。コレって開かれてるっていえるのかなあ、決して、閉ざしてるとは思わないけど、いつも複雑になるの。やっぱり。

ご近所に、報恩講でも、下陣での、黒衣出仕を貫いていらっしゃるお寺があります。それはそれで尊いことですが、内陣にだーーれもいない中でのお勤めは「易往爾無人」の言葉を思い出さずには居られない。うち?下陣に出仕スペースが無いのです。
私が修練行った頃は、「女性は内陣出仕はありませんから覚えなくて結構です」って言われて、「誰が覚えるもんか」と思ってたけど、二、三回教えてもらっただけじゃ、時々やってないと忘れてしまいますね。作法をちゃんと知らないので、しょっちゅう恥かいてます。


>お留守居役様さん 投稿者:らくりん  投稿日: 7月19日(木)09時31分43秒

この目まぐるしい展開の中で、あの数行の書き込みにお気づき下さって
お気遣いいただいたようで恐縮です。
どうぞお気遣いなく。

ただ、お一人急に容体が悪化されている方がおられるので、
家を空けられるかどうか予断をゆるさない状態になっております。
この仕事をしていると、こういうことはしょっちゅうです。


生の「味わい」と「こわさ」 投稿者:らくりん  投稿日: 7月19日(木)09時07分06秒

同じ本を2度読んで、同じだと感じたことは私にはあまりないなあ(もっとも、
2度、3度と読みたくなる本はそうざらにはないが)

同じネタの落語でもテレビで観るのと小屋で観るのはまた味わいが違う。
小屋が変わっても、客層が変わってもぜんぜん別物になる。
そんな何度も寄席へ行ったことはないが……
第一、同じネタをどんな条件でもまったく同じに演ることができる落語家はいない
だろう。
同じ歌をいつどんなときでも同じに歌える歌手もいないんじゃないかな。

同じでいいんだったら、ビデオとか映画で充分。
生は、客と演者の間合い・駆け引きがあるから、生の味が出る。

生ではなくても、映画でもビデオでも、1度目と2度目と5度目は味わいが違う。
画面に映し出されることはまったく同じはずなのに、いつも一緒なんてことは
ない。

同じ本が、同じ落語が、同じ映画が、何度味わっても「同じ」味わい
になるということはない。なぜなら、意味は受け手に生ずるから。
受け手が置かれている環境がいつも同じであることはないし、
同じ心理状態であることもない。

大事なことは3度でも4度でも繰り返す。
そして、もしかしたら5度目になったら伝わるかもしれないと思ってまた
繰り返す。
同じネタを何度繰り返しても、それが「同じ話」になったことは一度もないなぁ。
「いつもどんな時でも同じ話」ができたらどれほど楽だろうと思うことはしばしばある。

なんてったって、客の「ノリ」が「デキ」を大きく左右する。
生は、やっぱり生物(なまもの/いきもの)。だからこわい。


仏に帰依すれば 投稿者:ootubo  投稿日: 7月19日(木)07時47分43秒

>ただ、一つ、心配なのは、大方の所では同じ方向に親鸞を求めているのに、ボタンの
>掛け違いから、泥仕合を展開していることが、それを喜ぶ人たちに利するということです。

>例の岡崎での出来事の事を問題にして、意見交換と言うか喧嘩をしているのをお忘れでした?

 ボタンの掛け違いなら、掛け直しましょう。
 喧嘩をしているなら、お互いを理解し話し合う場に戻りましょう。
 もちろん私自身を含めてです。

 大願さんの悔しい気持ちを否定する人は誰もいないと思います。


乱れ打ち 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月19日(木)04時27分53秒

  ふるさと大阪が五輪招致に漏れた。ほんま財政破綻日本一という不名誉な経済
都市です。五輪といえば「オリンピックの顔と顔。。。」の故・三波春夫を思い出す。
さすが、「国民」歌手。万博の歌も歌ってた。「こんにちは、こんにちは。。。」

 7月9日のスーパーテレビに「史上初の身体障害者のお笑い芸人」といわれるホーキング
青山が出ていた。公式ホームページの掲示板はちょっとしたブームで沸いている。けど彼、
はたして「史上初」なのかな?親の因果が子に報い。。。の口上で始まる見世物小屋は
障害者が出演することで有名だったが。
 室町時代に放下や蜘舞などの勧進芸から始まって江戸時代に最盛を極めた見世物小屋だ
けど、確かにさまざまな芸能のうち万歳などの「お笑い」はなかったかも知れない。

 7月13日から16日まではヤスクニ神社でみたままつりというのが行われている。
ここで、三年ぐらい前までは、この見世物小屋も掛かっていたけれど。今年はたぶん
お化け屋敷が出ていたようだが、本職のお盆まいりで見に行けなかった。鳥居や本殿が美しく
ライトアップされ、カラオケや生バンドの伴奏によるのど自慢大会もあるこの「ハイカラ
でキッチュ」な祭りは、99年に新潮社から出た坪内祐三の『靖国』で知った。

 この本、イデオロギーから離れたヤスクニを描いたことで好評だった、が騙されて
はいけない。
 ここは国内外の著名なサーカス団の公演の場として使用されたり、競馬、物産会
(博覧会)、相撲、力道山のプロレス大会など、およそ統一感のない雑多なイベントが
立て続けに開催される祝祭空間だった。

 さらに太平洋戦争敗戦から1年も経たない時期に、靖国神社とその周辺を30を超す映画館、
飲食店街、商店街、ホテル、国技館、能楽堂、劇場、各種教育文化施設を備えた、一大アミ
ューズメントパークにする計画もあったようだ。はやくも庶民の中に「ヤスクニ」を宗教色
を抜いて定着させようとのねらいがあったのだろう。

 そもそも明治国家は私の大好きな大道芸や見せ物の規制などを通して、民衆の参加と交渉に
より、五輪や万博などの国家イベントにこれらの芸能を囲い込んで行った歴史を持つ。

 明治からさまざまな博覧会の会場であった上野が「勧業」(富国)を軸にした文明の
博覧会場ならば、九段は「強兵」を軸にした博覧会場であったことは明々白々なのだ!


民主主義の原則 投稿者:お留守居役様  投稿日: 7月18日(水)23時51分22秒

民主主義の原則は、主権在民ですから、
決定権限は、主催者にも講演者にもなく、
出席した一般大衆にあります。
みなさん、お門違いですと前に申したつもりです。

それにしてもootuboさんの自制心はすばらしい
とRESいたします。


取り巻きかい? 投稿者:お留守居役様  投稿日: 7月18日(水)23時39分45秒

この週末にらくりんさんが東京に来られるとのこと。
「親鸞の教行信証を読み解く」完結記念をお祝いして、
取り巻く会または取り囲む会を開催したいと思いましたが、
なにせ東京の取り巻きは私一人なもので、
取り巻くことも囲むこともできません。
あしからず。

会わぬが華ということもありますから。。。


ありがとうございました 投稿者:Vita  投稿日: 7月18日(水)19時12分46秒

らくりんさんからは、これまで、テキストに沿ったお話を聞くことが多かったのですが、
今回は概論というような形になりました。それがけっこう新鮮でした。

念仏、浄土というものはずばらしい、大切な「モノ」だと聞かされ、
学んできました。
だけど、念仏も、浄土も、いわゆる御利益ということがない。
だからこそ、すばらしい「コト」なのだと。
そして、教巻において、教えということを、人と人との出会いという形で表現するのも
あらゆる条件をうち消すためなのだと(ここは違うかな)。

というふうに初日の講義を受け取りました。

わたしは二つ質問をしました。

そこまで、話を進めるなら、
もはや「往生を願う」という形を取る必要もなくなってしまうのではないか。
答えは、形をとらないと、つかみ所がなくなるということでした。
何となく、自分でも答えを想定した問いだったなと。

もうひとつは、なぜ「出会い」という形を取らなくてはならないのか。
それには、一人では悟れないからという答え、でしたが、
わたしは一人では教えに出会ったということが
分からないからではないかと思いました。「関係」を大切にしているというか。

二日目

善導は観経の三心の成就を、観経下品下生の称名念仏に見た。
さらにそれを大経第十八願の念仏に見ていった。

親鸞は念仏を、世親の「世尊我一心帰命尽十方無碍光如来」に見た。

そこを背景として教行信証の問答がある。

世親の一心は大経第十八願の三心と同じといえるだろうか。
それは本質的に同じである。
観経の三心と大経の三心は同じといえるだろうか。
親鸞は違うと言った。

しかし、観経の三心が破れて生まれる念仏は、大経第十八願の念仏との
区別はつかないということになる。。。。。 こんな所でしょうか。
その意味では親鸞は善導の考えを継承している、ということだったのかな。

バラバラに学んできた用語を、私のなかで再構築していただいたような。
ハッピーで、ラッキーでした。ありがとうございました。


>愚っ朕さん

拙文を取り上げてくださり、ありがとうございました。
OCRにて、誤字だらけで恐縮です。
書いたのは10数年前ですが、寺に生まれたこと、寺を継いだことを
どこかで恨みに思っていたような頃に書いたものです。
「乗り越えた」というようなことが書いてありますが、実際には
らくりんさんの教えに出会うことができて、やっと「大審問官伝説」を
やっと乗り越えられたような。ただ否定するばかりの場所ではなく、
「現場」として寺で生活できるようになれたと思っています。

それにしても、こういうこと(らくりん讃仰的なこと)を書くと、
大願さんがプレッシャーを感じられるとしたら、本意ではありません。とても残念です。


ただいま 投稿者:らくりん  投稿日: 7月18日(水)14時42分22秒

Vitaさんお世話さまでした。


>大願さん
あの先の長い文章で、あの出来事に関して私が申し上げたいことはほとんど
出つくしておりますので、繰り返すのはイヤですから、その中から探して下さい。

新しい問題にだけ簡単ですが、

「取り巻き」や「応援団」(お許しを、大願さんがこの表現を使われたので)
が多いこの場に議論を持ち込んだのは誰だろう?
この場で起こった議論をこの場で解決しようとするのは、卑怯なことだろうか?
らくりんは、この場以外で解決しようとすることの方が不誠実だと思って、
ここでお相手したいと思っています。

釈尊は『阿弥陀経』で直接「大衆よ」とは語りかけずに、舎利弗を相手に選んだ。
その構図に「大衆へ」のメッセージを読んだのは私です。
だから、あれは私が大衆へのメッセージだと読んだのであって、
受け手に生じた意味です。
意味は受け手に生じる、これは私の鉄則の一つです。。
仏にそんな意図があったかどうかは私にはわかりません。

どうもらくりんは、大願さんの「お気にめす」ようには
なれ(or ら)ないかも知れません。
「お見限り」下さってもけっこうです。
もうすでにそうなさっているかも知れませんが。

でも、ここまで親切に説得しようとして下さっているのですから、
「見限ってはいない」ということなのかもしれませんが。
マザーテレサも、
「愛情の敵は、憎しみではなく無関心」と言っているように
「見限ったら」普通は「無視」しますからね。


帖外乱闘 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月18日(水)04時31分15秒

 >大願さん

 「価値あるじぶんでありたい」というのは誰しもが持っている
欲望であると思うのですが(だから凡夫というのかな?)
「価値あるじぶん」というものへの固執が、自分の生をかえって
貧しくさせる場合もあるのじゃないでしょうか?

 「かくあらねばならない」との思いが他人との関係の悦びを豊かに
育んでいったり、じぶんの感覚と素直につきあっていくということを
妨害しているのじゃないでしょうか?

 あなたとらくりんさんの書かれるものを読んでいて思いました。
あなたのいわれる「排除」だの「開かれる」だのという言葉が
「自分を認めて欲しい」という欲望から持ち出されていると感じられます。

 そんなにがんばらなくてもいいんじゃないの?
やっぱ「オトコの意地」とか「メンツ」にかけても、論破するってわけです?
あなたが悔しいと思った事情は、もう充分、伝わったけどなあ。。。


7月14日(土)への反論 投稿者:大願  投稿日: 7月18日(水)03時03分25秒

>15時01分02秒 好むところではないが
「宗門の姿勢」という抽象的な質問だったため、するりと逃げられてしまいました。
私の知っているいくつかの寺は「開かれた寺」を目指して汗しておられる。
そうした方々を見て大谷派の寺にはまだ人がいると感動しています。
らくりんさんが宗門の回しものとはゆうてない。「開かれた寺」を目指す僧侶と
同じ宗門に身を置く僧侶としてあなたはどうかとお聞きしたい。
揚げ足取りばかりでなく、それぐらい推量されたい。私の推量が足りないと批判されて
いるが、大して変わりはないような…。

>「大衆、大衆」と大声をはりあげるヤツが、一番「大衆の敵」だったなんてことは
>歴史上ざらにありますからね。
「大衆、大衆」は私が言い出したのでなく、これは再三に渡ってらくりんさんが阿弥陀経の説かれた場面を
説明される時に使われたものですよ。「大衆と倶なりき」を重視すべきと。舎利弗に説くと
いいながら、実は目当ては「大衆」だったと。釈尊の弟子や菩薩や諸天以外の諸々を大衆として。
そして真宗は大衆の宗教であったのでは?。らくりんさんの真宗って僧侶だけのもの?
私が言う「大衆」は否定するが、らくりんさんがいうこの掲示板ROM諸氏「第三者」の
判断は重視するとは。これまた勝手な論理ですね。
ちなみに多数決が真実ではないと言う事も過去の歴史が物語っています。今の小泉人気
同様に。実は小泉が一番大衆の敵であるようにわたしには感じられます。また叱られそうですが。
掲示板上で小泉人気のように、らくりん人気に酔っていませんか?

>「あなた達」と複数で言っておられますが、これは「どなた達」のことをおっしゃ
>っているのかわかりません。

とぼけですか?。それともぼけですか。いま話題になっているのは、例の岡崎での
出来事の事を問題にして、意見交換と言うか喧嘩をしているのをお忘れでした?
お忘れで有るならば(疲れるな (¨;))らくりんさんや教務所の担当者らの対応のことを
言っているのです。ま、私も良く忘れるので人の事は言えませんが、本題まで忘れないで
頂きたい。

>らくりんは、僧侶が目の前にいる時には、僧侶に向か
>って物を言いますし、僧侶でない人がいる時には僧侶でない人に向かって物を言いま
>す。

だから、私は傍聴と言う事であなたに申し入れたのもお忘れですか。
僧侶研修であるのだから、ひとりぐらい外野がいてもいなくても、それは予定通りの話をするのが
通常ではないか。では、昨日のお座に聞きに来た人が、ひとりだけでも次に別の場所に
来ていたらお話の内容を変えるのか。そうではなかろう。げんにらくりんさんの
阿弥陀経の話は西尾でも岡崎でも名古屋でもほぼ同じ内容の事を聴いている。
と言う事は、そこに一人二人の同じ顔ぶれがいたとしても、それは意にせず
話を進めるのは、他の布教使同様らくりんさんもなのだ。
にもかかわらず、あの時だけを特別に私独りがいるかいないかで話が変わるとは
これまたいなことを。
そうであるなら「私の権限ではないから、主催者に聞け」とはおかしな発言だったのでは?
「今日は僧侶対象の話をするから駄目」というべきではなかったのか。
ここらの矛盾をどう説明されるのか?
僧侶向けと門徒向けで話を変えるというのも、門徒蔑視で実に気分が悪いし、それが寺族意識と
居直られれば返す言葉もないけれど。
聴衆に条件をつけるのはもっと問題であるという所が今回の論点の一つである。
門徒のいる公開講座で、「この件は重要だから夜の部で詳しく話す」という発言は
どういう意図のものであったのか?あるいは単なる不注意からの機密漏洩発言であったのか。
僧侶が50人いて僧侶以外が一人いると、話を変えることこそむしろ異常です。
比較すると叱られますが、私の尊敬する先生は、僧侶でも学生でも男でも女でも
若くても老いていても、講題が同じなら、そうコロコロと話しの内容を変えられません。
らくりんさんはコロコロ変えて話ができるほど能力に長けておいでで釈尊同様「対機説法」ができる
ことを自慢したい気持ちも判りますが、今回の言い逃れにはあたりませんよ。

>それでも、らくりんがこの掲示板の議論を恣意的に、止めようとしている
>などと言うことをおっしゃるおつもりなんですか。

これを聞いて安心しました。書き込みを先読みせずに順番に読んでいますので、
その都度順次意見を述べていきます。今日は眠くなったので
続きは後日。明日は出かけるのでアクセスできませんが後日また。


とりあえず少しづつ 投稿者:大願  投稿日: 7月18日(水)01時38分41秒

Vitaさんの「読みたくもない」とのご意見尤もですが、らくりんさんは学者でもあり文才豊かだから
話し合いより、ここで文章で論破したいということと受け止めて、反論もここで行います。
ただ、最後には管理人権限で、一括削除という切り札もあるし、ロックアウトという手も残って
いるし、取り巻き」の応援団も多いし…。そうした地の利(?)を生かして
行いたいのでしょうが、そういう卑怯な手は使わないで貰いたい。
すぐに「無礼だろう」と怒鳴るどこかの知事と同じく臆病な方なのでしょうが。
ただ、一つ、心配なのは、大方の所では同じ方向に親鸞を求めているのに、
ボタンの掛け違いから、泥仕合を展開していることが、それを喜ぶ人たちに利すると
いうことです。東西本願寺共同行動もハンセン病も死刑制度反対も、親鸞思想を求めて
せずにはおれないところから発しているのに、それらを悉く批判中傷する伝統教学ども
から、「ざまあみろ」と嘲笑されるのが残念ではある。

>7月14日(土)なんだか目が冴えて
京都・大阪と旅に出ていて、読んでいなかったので、私へのレスに少しづつお答えしたい。
らくりんさんの奥さんには、らくりんさんをかいさないと挨拶もするなとお叱りのようだが
私は、演劇「再会」の件で、あちらこちらでお名前をお聞きしているし、あの場所では
私の友人から、挨拶をしてきたらとすすめられてしたのです。らくりんさんの礼儀は
厳しいものですね。そんなに奥さんが心配なら旅にはあまり出ないほうが良いのでは?
どこで無礼な奴が勝手に話をするか判りませんよ。


結語 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月18日(水)01時27分39秒

 「見たくもない」下着を見せられるのは
「かなわん」


イノセント・ワールド 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月18日(水)01時18分11秒

 私たちは、最初無力な存在として生まれ、両親の庇護のもとにある。
親にほめられたい、親にきらわれたくないということから、親の価値観
が「イエ」の中で伝わっていく。そして、親から与えられた禁止や望ましい
自我像が自分の欲望の対象となっていく。いわゆる「よい子」になること。

 学校にいくようになると、「勉強ができる」「スポーツができる」という
公的な価値観がある。これが獲得できるとみんな一目をおいてくれる。
 でもまあ、「可愛い」とか「美人だ」とか「カッコイイ」といったみてくれ
の方が最近は大きいかもしれない。「勉強ができる」以外に取り得がない
オトコの子の苦しさが生む犯罪が多いからね。

 しかし、勉強もできなきゃスポーツもダメとか、かといって歌がうまいわけでも
ダンスがうまいわけでも笑いがとれるわけでもない。などなどの三重苦、四重苦を
背負うひともいるだろう。「世界は自分をありのままで受け入れてくれない」という
感覚で生きるのはツライことだ。

 そんな時、「魔」に魅入られやすくなる。つまり、他人とあるいは自分とうまく
関係がとれないとき、「内なる優越意識」や「絶対なる真理」を自分を支える手段に
する。「世界はオレを認めないバカなやつばっかりだ」とか「あんな汚いことできる
かよ」とか。いわゆる「孤高を誇る」っちゅうやつです。

 私も随分長い間、こういう美意識で生きてきたし、そういう構えをとっていることに
気付かなかった。まあ、気付いてもあいかわらずということもあるが。
 真宗の教えに絡め取られている方たちにも、こういうのを感じることが多々あるなあ。
孤高を誇る「絶対ロマン主義」。
 
 『ライ麦畑でつかまえて』の中でこんなセリフがあったっけ。「未熟な子供は、崇高な
死を選ぶ。しかし成熟した大人はみじめな生を選ぶ」と。竹田青嗣さんは「狼のロマン主義」
と面白いことを言っていた。人は小さい頃は「ロマン」というか理想主義に生きているのだが
大人に連れてだんだん「ロマン」をかみ殺して「リアリスト」になると。

 けれど、「世の中、どうせこんなものだよ」とスポーツ新聞の大人のページをよんだり、
バーゲンで人を押しのけて買い物するしかないようなおっちゃん、おばちゃん以外になり
ようがないのか。そこで、「羊」から「狼」に成長したあとも「ロマン」が生き延びるような
方向に生きること。それを「狼のロマン主義」と呼ぶ。

 「世界を受容し、なおかつ世界を拒絶すること」。なかなかむつかしいもんだ。
宮台真司風にいえば「汚れてもなお、この世界を受け入れず、憧れを持ち続けること」
その視点から見れば、「孤高を誇る」のや「コスモポリタンを気取る」のは見苦しい。
そういう輩を私は「コスモポリタン日本版」とラベリングしてあげる。


魅せられて 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月18日(水)00時40分24秒

 「透明な存在であるボク」とはいかにも「男らしい」表現だなあ。
「見てもらえない」オトコたちの悲鳴が聞こえてきそうだ。

 こないだ駅のエスカレーターを上ってたら、前に立っている娘さんの
ジーパンからパンツが見えていた。そうそう、最近ズボンを買いに
行ったらどれもこれも股上が短い。出っ腹でとめないとズボンがずり
落ちるのにええ加減にせえよと思ってたら、これは流行なのだそうだ。
おへそがちらちら見えるためなのだ。

 脚のキレイな子はスリットの入ったスカートをはく。胸の大きい子
は大胆に胸の谷間を見せる。見せてもいいブラのひも。そして、私が
見たパンツは「見せてもいい下着」らしい。女性はかくも自由にエロスを
身体性を肯定する。それに比べオトコたちのなんと肩身の狭いことよ。

 動物や昆虫をみてると、孔雀だってカブト虫だって、華麗で豪華に装う
のはオスなのに、人間界だけはオトコを特徴づけるのは、かつては「社会性」
だった。一家の大黒柱や、稼ぎ手がオトコ達の役割であった。しかし、オンナ
たちの社会進出によってオトコたちの「社会性」はさして魅力ではなくなった。
ああ、それなのにそれなのに、まだ「社会」か?


欲望論 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月18日(水)00時21分46秒

 人はさまざまなものを求める。おいしいものも食べたいし、ファミコンの
新しいソフトも欲しい。ライブにも行きたいしカレシも欲しい。温泉にも行き
たいし、いい仕事をしたい。

 でもこれらの対象を通して何を得ようとしているのだろうか。たとえば、
温泉に行きたいのは「ホッとしたい」から。新しいファミコンソフトを手
に入れたいのは「わくわくしたい」から。

 ヘーゲルは人間の精神には二つの根本的な特性があると考えた。
@人間は経験を通じて、それまでの価値観や世界観を改めていく存在である。
A人間は「じぶん」というものを持っていて、それを価値あるものとして
 他人にも自分にも認めさせようとする。    という。

 横浜の寿町で長くソーシャル・ワーカーを勤めた野本三吉はいわゆる「非行
少年」たちが起こす犯罪は、「彼らの自己表現であり、そういう形でしか他人
と関われなかった」のだといっている。
 不登校や帰宅拒否やら、「関わる」ことが面倒になっている時代ではある。
「関わら」なくても暮らせる時代でもある。けれど、人はそういう状態は
「苦しい」のではないか。「閉塞感」から犯罪に走るのは悲しいものがある。 


また敗戦後論 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月17日(火)23時55分26秒

 村上龍は80年代に書いたエッセイでこの時代を「ポップとエロスの勝利」と
呼んだ。喉が渇いたらビールを飲みたい。いいオンナがいたら抱きたい。
いいオトコがいたら食っちゃう!でも、そもそもこんな当たり前のことを
何故いわなけりゃならなかったのか。
 それは、それ以前の時代が「私はどのように社会に貢献すべきか?」と
いうモラルを持っていたからだ。いわゆる、広い意味での左翼思想、戦後
民主主義が隠し(顕かに?)もっていた倫理だ。この倫理は敗北したの
だ!

 ニーチェにならえば国民国家主義も戦後民主主義も死んだ!のであって
こんな思想には早いとこ引導渡さなきゃと思う。それなのに、ああそれなのに。
亡者たちがいつまでもこの世を徘徊している。坊さんたちは、お亡くなりにな
った思想たちを弔う仕事があると思うのだけど。
 そしてそれができるのは、わたし的には真宗だと思うのだけども。


「伝える」と「伝わる」 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月17日(火)13時12分28秒

 という問題も大問題やなあ〜。
これ、どっかに書き込んだことがあるんですけど、お東のスローガンは
「家の宗教から個の宗教へ」で、お西のスローガンは確か
「念仏の声を子や孫へ(世界へ)」でしたか。

 お西は「イエ」を教線のひとつに考えてるけど、お東は全面的ではないに
しろ多分に「イエ」の呪縛を問題にしている。
 確かに「イエ」は大きな問題です。らくりんさんは、ご著書の中で
「イエ」を通じて教えが伝わってきた事を評価なさっていた。私もその意味では
評価します。

 でも「家族」はいよいよ危機にあるなあと思う。社会学者、大澤真幸は
『虚構の時代のはて』という秀逸なオウム論の中で、オウムと連合赤軍と
イエスの方舟の「イエ」からの離脱に関する比較考察を行ってて面白いと
思ったことがあるけど。。。

 飯島愛の『プラトニック・セックス』は、「セックス」が「イエ」を
出ることと関係があること(「イエ」と「セックス」をめぐる攻防)
を示唆してくれた。
 「AVに出ることはいいけど、TVに出ると親バレしてしまう」という
のは、「セックス」が生殖と結びつき「イエ」の呪縛を離れられない時代を
よく反映していたと思う。

 けれど、「時代」はセルフ・ヌードでありネット・アイドルの時代だ。
スケベな親父の思惑で「娘」たちはカメラの前に立つのでなく、自分が
自分にみせるために脱ぐ、そのついでに見せてるようにも思う。まさに
「美」も「快楽」も「イエ」から離れて「個」の時代を娘さんたちは
生きている。不自由な親父たちを、置いてけぼりにして。 


サマーな夏ですね〜 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月17日(火)12時34分39秒

 らくりんさん、申し遅れました。法務ご紹介ありがとうございました。
これでなんとか夏を越せそうです。で、大阪の四天王寺前の本屋で『読み解くX』を
見つけて立ち読みしていたら、著者割引で安くなるとは知りつつ思わずその場で
買ってしまいました。いましばらく、これを読ませていただきます。

 仏道のさまたげをなす「魔・鬼神・邪」、世俗の権力・肉親の情実・宗教的権威。。。
ですか。う〜ん、またまた思い出すなあ大審問官の章を。
 ここはVitaさんの力作をお読みになってない方にぜひおすすめします。

 お寺の手伝いをするにあたって、こういう問題は避けて通れないからなあ〜。

http://member.nifty.ne.jp/vita/ore/98/dai.html


出かける前に、一言・二言……ですむかな? 投稿者:らくりん  投稿日: 7月17日(火)09時17分55秒

>最前線の営業担当者を集めての研修会のようなものであって、
>一般向けの講習会ではなかったということでしょう。
まあ、そんなところかもしれません。

>宗門からの回答を抽象的な国会答弁でない、
>ということでは、お二人の意見が一致しているところです
何を指してこのようにおっしゃっているかよくわかりません。
私は、大願さんが「国会答弁」云々と書いたのは、
「あいまいな表現で言を左右している」という意味の、
私自身のこの掲示板の書き込みに対する揶揄だと受け止めました。

三吉さん、
「聞法したいという純な一点」があれば、
このような衆目の集まるところで、あんな表現で人を侮辱してもいいのか。
人のミス(ある時点では決して悪意の結果ではないことがわかっていたと
思うのだがからも)を、あそこまで問題を広げてあげつらってもいいのか。
しかも一再ならず。

どんな研修会でも「抜け道」はあってもいいと思います。しかし「抜け道」は
「抜け道」であってどうどうと権利を主張するようなものではない。

それで、大願さんの主張が多くの人に受け入れられると思いますか?
あのように言われたら、多くの坊さんが「よしわかった、これから自分も寺を開こう」
と立ち上がると思いますか?

自分の言葉が、自分の願いとするところに対してどのような意味、どのような効果
を生み出しているか思い至らない「純な言動」なるものは、時として反感を生み出し、
継続的に行なわれればそれを増幅していくだけではないか。

私は、大願さんが向けた鋒先は、まったく方向違いであると思います。


つづき 投稿者:三吉  投稿日: 7月17日(火)02時52分46秒

表の変更の理由が<「残された2回の全日程に参加できない」という点が判断の変更の理由>だったのは事実なのでしょう。しかし、大願さんからすれば一旦OKしておきながら、<つまらぬ>理由をこじつけて、拒絶する。本当の理由は<僧侶でないから>なのであろうと邪推してしまったとしても、仕方の無いことなのではないでしょうか。あるいはやり取りの中で、<元々僧侶の為の。。。>と趣旨説明された部分を、聞き間違えられた可能性もあります。

<今回の出来事では、一旦正式参加者として受理された後で、(残りの)全日程参加が
あできないことを理由にお断りするという、主催者としてのもう一つの失態>

私が思うのは途中参加を認めた時点で、<企画した研修会に対する認識と責任>とか<限定条件>は<無化>されているのです。
当然の論理的帰結として、<一旦、無化された条件>を理由に参加を断るのは、どうかと思います。ですから、途中参加を例外措置で認めたのならば、途中不参加も例外措置で容認すべきでしょう。大願さんの参加を一旦認めた時点で、<「残された2回の全日程に参加できない」>は、参加拒否の理由になりません。

私はいかなる講義・座談会にも<「例外措置」「抜け道」>はあって良いと思います。

それと大願さんの書き込み読んで、私は豊橋が岡崎より頑張っているとは思いませんでしたし、大願さんがあのような書き込みをしてしまったのは、やはり、岡崎の件がショックであったからだろうと思います。
そのショックあるいは怒りは、「聞法したい」という純な一点からのものだろうと思います。
そこに嘘や違和感を私は感じません。
そしてそれに応えようとしたOさんや豊橋の方々は素晴らしいと思います。
しかし不幸にもらくりんさんの云われる企画の趣旨との狭間で逡巡し、結果的にややこしい選択をされた。それが発端です。
最初から、あれは悪かった。判断ミスやと誰かが大願さんに謝罪していればここまで引き摺らなかったのではないだろうかと、第三者でリアルでは責任の無い私などは感想を持ってしまいます。

何はさておき、大願さんのような方にこそ教団・教区は開いていく<べき>ではないかと思います。そのことがついには私の様なおろかものにまで教団・教区がひらいてくると。




雑感 投稿者:三吉  投稿日: 7月17日(火)02時51分17秒

限定講座」はありだと私は思います。
ただ、「限定講座」しかも<間衣・輪袈裟>とか聞くと、在家で門徒でもない私など、趣旨を見ると面白そうだなと思いますが、断念しますね。率直に言って敷居が高いと感じます。
さて私ならば、簡単に断念してしまう「限定講座」に大願さんは、「出たい」と思われたその心情は、わたし如きからすると、まこと尊いものに思えます。
「限定講座」はありだが、<対象外>の方を排除する為の限定ではなく、ポイントを絞る為の方便の<限定>ではないでしょうか。<対象外>にもかかわらず、<出たい>との心情、有意義な影響を会全体に与えるかもしれません。
例えば私のような在家で信仰も無く、思索力もなく、生意気なものでも、もしかすると、そこに出たならば、違う視点で物を言い、多くは的外れでしょうが、何かしらの意味を参加者に与えるかもしれません。ましてや大願さんみたいに頼まれもしないのに自主的に「出たい」と思われる方が闖入すれば、それはその講座を深みを与える可能性大ではないかと愚推いたします。

「好意的な措置を講じた」は了解します。というか、元々私は最初から認めてます。
<三番目の点については、確かにOさんのミスだと思います。この点はOさんは大願さんに謝らなければならないと思います。>
善意。それが貫徹できずに、大願さんの期待が大きかっただけにショックも深かったのだと思います。勿論、Oさん(ここの掲示板の情報で見る限りです。私は面識はありません)は、大願さんの心意気に打たれて何とかしようと思い、一旦受理されたのでしょう。素晴らしい方だと思います。大願さんは、最初から必ず出席できるかどうか不安であったのでしょう。だから許可を主催者に求めた。勝手を云いますが、先の講義の続きを聞きたいと。聞法したいと申し出られた。その会がどういう会で、如何なる願いを込められて運営されているのか、そこまではご存知なかったのでしょう。だから許可を求められた。そして一旦どういう形にせよ(ここは微妙なニュアンスがもしかしたらあるかもしれない。OさんはOKしたのではなく前向きに検討すると言っただけかもしれない。しかしレジメを渡すなどの行為から大願さんは受理されたと受け止められたのでしょう。この部分推測・未確認)、認められて、喜んでおられた。ところが、40分後、やっぱり駄目となったのです。天国から一転地獄に突き落とされた気分でしょう。怒られるのは無理はないと私は思います。それに事情があったにせよ、形としては追い討ちをかけるごとく、レジメの返却を求めた。。。絶句でしょうや。。。


夏風邪をひいてしまいました。 投稿者:Zazie  投稿日: 7月17日(火)00時46分38秒

ootuboさん、お留守居役様さん(重複)、らくりんさん、大陀羅弗”痴さん、
私の、問いというより、愚痴に対して、ご指導ありがとうございました。

参考にさせていただきます。


危機意識の有無 投稿者:お留守居役様  投稿日: 7月17日(火)00時27分31秒

研修会に参加資格の制限を設けたたででなく、
服装までも規定されたのは、
危機意識の現れかと思いました。
平成大不況のさなかの、
最前線の営業担当者を集めての研修会のようなものであって、
一般向けの講習会ではなかったということでしょう。

ところで、疑問を感じたのは、
宗門からの回答を抽象的な国会答弁でない、
ということでは、お二人の意見が一致しているところです。
お二人とも宗門の回答を尊崇しているようなので驚いています。
真摯な回答の意味で宗門を持ち出したのでしょうが、
言葉の誤用でしょう。
宗門も国会も共同幻想であり、個人の幻想と乖離します。
もし、宗門の回答と自分の考えが一致したら、
共同幻想に個人幻想を乗っ取られてしまった
憑依現象であるので、大変に危険な状態と言わざるを得ません。
また、国会答弁を揶揄し軽んじていますが、
マスコミの受け売りで、言葉に対する思慮が足りないと思われます。
国会答弁を舐めてはいけません。


以上です。 投稿者:らくりん  投稿日: 7月16日(月)21時32分14秒

明日は、Vitaさんとこの1泊研修会ですので、留守にします。

願わくば、私の方からは岡崎問題についてはもう書きたくないと思っています。

書きたい人は止めませんので、煮るなと焼くなと、どうぞご自由に。

ただし、一つだけお願いがあります、掲示板読者の理解を得られるような
書き方をしてほしいと思います。
それでは、後はみなさんの方でよろしく。


岡崎の伝道研修会顛末 その7 投稿者:らくりん  投稿日: 7月16日(月)21時27分12秒

ここまでのことは、この掲示板の3月のやり取りの時にしなければならなかった
整理であるかもしれません。
少なくともその時には出そろっていた内容ばかりです。
3月の段階ではかなり感情的な面もあったかとは思いますが、一応双方とも
鉾を納めたはずです。

私が「昨年、豊橋の研修会に出講した」と書きましたのは、豊橋の研修会は
岡崎のように、趣旨や問題意識、研修方法などについて事前に練り上げられた
研修会ではなかったと言いたかったのです。

豊橋の研修会は、かなり伝統があるもので、もともとは夏休みで帰省している
学生などに勉強する機会を用意しようとして始ったものと聞いております。
今はそれが、若手育成ということにはなっていますが、講師を呼んで希望者が
聴講するという、ごく一般的なスタイルの研修会です。
「僧侶対象」と言っても、おそらく案内を僧侶にしか送らないという程度の
話ではなかろうかと思います。
私が依頼を受けた時は、講題はお任せしますという、いわゆる「お任せ研修」に
近い感じでした。
一応若い人を主眼に置いた企画だということでしたので、私は、せめて一度でも
いいから皆さんで話し合って、問題意識を確認する機会を持ってほしいと逆に
注文をつけました。

このような感じですから、豊橋の研修が「僧侶対象」ということになっていても、
それは一応そうなっているという程度であって、私は、岡崎のそれとはまったく
意味が違うものだと思います。
実際にその場に臨んだ印象でも、研修会にかけるスタッフの意気込みや姿勢は、
豊橋と岡崎ではかなり違うものだと感じました。(豊橋がだめだという意味では
ありません。企画の趣旨自体が違うのですから)
その辺の事情を知ってか知らず、「僧侶対象」を謳っているという
うわべの条件だけで、同列にならべて、しかも自分が受け入れられたか、
受け入れられなかったかという一事をもとに判断して、ここぞとばかりに
一方を極端に持ち上げ、もう一方を極端に貶め、しかも関係者に必要以上に侮辱的
な言葉を執拗に投げつけ続けることを、私はどうしても看過することができません。

3月の時のこの掲示板でのすれ違いは、勢いとか行きがかりがありましたから、
あのようないささか残念な形になってしまったことは悔やまれますが、
私は、今回再び大願さんがOさんやootuboさんに投げつけた言葉はやはり
本当に心外に思います。
お二人に対してだけではなく、ああいう心ない発言がこの掲示板に載ってしまったこ
とは、一生懸命に研修会をみのりあるものにしようと試行錯誤している岡崎のスタッ
フに対して、掲示板の管理人として申し訳ないと思っています。だからといって削除
して済まそうという気はありません。
こうなってしまった以上、大願さんご自身に理解していただけるかどうかは
ともかくとして、私が考えているところの事柄の本質を、この掲示板の読者に
だけでも納得のいくような形で明らかにしておきたいと思います。
そうすることによって、岡崎のスタッフが今回の出来事で委縮したり消沈したりする
ことがないように願う気持ちを伝えたいと思います。
自信をもってみなさんが思い立った志を大切にしていって下さい。

豊橋の皆さんも、豊橋の伝統ある研修会を大事にして欲しいと思います。
そして、願わくば、皆さんご自身がもっともっと主体的にあの行事のあり方
についても考えていっていただけたらと思います。


岡崎の伝道研修会顛末 その6 投稿者:らくりん  投稿日: 7月16日(月)21時26分29秒

こういう対象や資格が限定された研修会は必要(意味)があるかないか。
私は、必要性も意義もあると思っております。

主催者としてはその必要性を確認して企画したのでしょうから、対象・資格
の限定をした以上そういう限定において意義ある研修として運営する必要が
あると思います。
結果論でしかありませんが、私は途中参加の申し込みを一旦でも正式参加者として受
け付けてしまったことが担当者としてのOさんの「甘さ」だったと思います。

たとえばこの企画の座談会に一人でも僧侶以外の人がいたら、座談会の展開はまった
く違ったものになっていくことは容易に想像がつきます。若い僧侶たちが日頃自分が
やっていることに意義を感じられなくて「もんもん」としている気持ちを、ご門徒さ
んがいる前ではなかなか素直に吐露できないと思います。
もちろんそういう問題をご門徒さんと一緒に考えるという機会があってもいいとは思
います、しかし同じ悩みを抱えている者、あるいはそのような経験を潜ってきた、同
じ立場の者同士であるから話し合えるという機会も必要であると思います。

あるいは「伝道」という言葉一つをとってみても、僧侶がこの言葉によって
背負わされてしまっている問題と、僧侶以外の人がこの言葉に期待している
問題はなかなか重なって来ない場合があります。
そして、私は浄土真宗においては教えが「伝わる」ことはあっても
「伝える」ことはできないという具合に考えていますから、どちらの問題
意識ともちょっと視点がずれている話に聞こえるかも知れません。
この問題に限ってみても、僧侶だけ、僧侶以外の人だけ、両者の混合という
場合で、かなり問題の確かめ方、話の展開の仕方が違ってくる可能性があります。

他にもいろいろありますが、とにかく私は、この岡崎の「伝道研修会」の趣旨や目的
を考えあわせるに、「全日程可能、教区内、有教師・若手僧侶」という三条件は適切
な条件設定であると言ってもいいと思います。

したがって、
途中参加の申し出に対して、事情をキチンと説明してお断りせずに、一旦受け付けて
後にお断りするというミスを犯して、相手に不愉快な思いをさせてしまったことにつ
いては、Oさんは責任があると思います。この点は謝らなければならないと思います。

だからと言って、そのミスを理由に「閉鎖的だ」とか「排除の論理だ」など
と非難されなければならない理由はないと考えます。
ミスはミスであって、ミスの責任以上の責めを負わせるべきではない。
いわんや、その間の経緯を目撃して、なんとか理解してもらおうと試みた
ootuboさんに対しておや、です。

そして、研修会の主催者の意図を大切にしようと考えていた私が、
途中参加の申し出について、自分で判断せずに事務局に任せたことを
「保身的だ」言われることを甘受するつもりはありません。


岡崎の伝道研修会顛末 その5 投稿者:らくりん  投稿日: 7月16日(月)21時24分07秒

岡崎の「伝道研修会」は、事前の連絡段階から、
電話口やメールを通して気合いの入り方が伝わってきました。

講義を引き受けた私としても、この「案内文」を事前にいただきまして、この研修会
の開催趣旨、運営方法などを参考にして、どのように三回の講義を展開していこうか
考えました。三回通しで組み立てしました。
これは日程的には3回に別れていても明確に全日程を通してワンセットとして考えら
れている研修会なのです。

実際に研修会に足を運んでからも、当初いだいていた印象はそれほど
外れていませんでした。むしろ想像以上の主体的で誠実な取り組み姿勢が
感じられました。(ひねくれ者の私がこんなに誉めるのはめずらしい)

講師である私との事前打ち合わせも、スタッフミーティングを兼ねて
毎回スタッフが全員集まって行なわれました。
9時半ごろに講義と座談会が終わってからも、スタッフミーティングが召集され
反省会が持たれました。そのあと懇親会がありますが、始るのはいつも11時を
まわっていました。
私の見る限りでは、それらのすべてが20〜30代のスタッフたち手で
自主的に事が運ばれておりました。
スタッフ以外の人で懇親会への参加を希望する人は、その時間まで待って
おられました。
ここまで自主的にしかも丁寧にやっておられる研修会は、私は他ではあまり
経験したことがありません。

今回の一連の中で、主催者側に落ち度があったとすれば、途中参加申しこみに
対して、事情を説明してキッパリとお断りにならなかったことではないかと
思います。そこで一旦なりとも途中参加の申し出を正式な参加者として受理して
しまったことは、主催者としては、「対象を限定して」研修会を持つという自分
たちの企画に対する認識の「甘さ」だったと思います。
途中参加を認めるということは「全日程可能な」という条件は必要ない
ということになりますし、岡崎教区以外の非教師の非若手僧侶の参加を認める
ことは「教区内有教師」「教区内若手僧侶」という件の否定になります。
これは研修会の閉鎖性とか開放性の問題ではなく、自分たちが企画した研修会
に対する認識と責任の果たし方の問題です。

対象をここまではっきりと限定したのですから、原則として正式参加として途中参加
を認めてはいけなかったんです。にもかかわらず担当のOさんは大願さんを正式参加
者として受け入れようとした。それは好意的判断であったけれどもやはりミスであっ
たと言わざるを得ません。

とは言うものの、
途中参加の希望に対しては、講義の聴講のみなどの、限定的な参加を黙認するという
ような、ある程度の融通は利かせてもいいかも知れない。しかし、このような企画の
場合は、それとてもあくまでも「例外措置」「抜け道」にすぎない、それを認めなか
ったからと言って決して責められるべきことではない。
今回の出来事では、一旦正式参加者として受理された後で、(残りの)全日程参加が
あできないことを理由にお断りするという、主催者としてのもう一つの失態が、話を
ややこしくしてしまいました。

そして、結果的に、
「抜け道的」な方策を模索する前に、双方が大きな声を出すような事態に突入して
しまったことが不幸であったと思います。

私も最初からこのように整理できていたわけではありません。
この掲示板での議論を通して考えてきた現在だから言えることです。
(当時その場でこのように考えられたかどうかとなると「否」です)


岡崎の伝道研修会顛末 その4 投稿者:らくりん  投稿日: 7月16日(月)21時22分22秒

  ――明日のVitaさんとこの準備もそこそこに一挙掲載――

大谷派の場合「僧侶対象研修」と言っても普通は案内状を対象者だけにしか送らない
というような形式的なものである場合が少なうありません。時には案内状「僧侶対
象」謳ってある場合もありますが、そうした場合でも、大谷派では僧侶以外の聴講の
申し出があった場合は、ほとんど問題なく受け入れられるのではないかと思います。
つまりあってもなくても同じというような「条件」にすぎない場合がほとんどです。

では、岡崎の「伝道研修会」はどうでしょう。

先に挙げました「案内文」を見て、おわかりいただけるかと思いますが、
開催趣旨文は三段からなっており、
第一段では、自分たち(スタッフ)が日頃抱えている悩みや自信のなさが述べられ、
第二段ではそれを真宗の教えと大谷派が取り組んできた同朋会運動の枠組みの中で考
えようとし、そして第三段では「伝道」という課題に結びつけようとされています。
このように問題意識と、問題の領域、そして課題の設定がかなりはっきりしています。

研修会の時間配分にしましても、講義よりも座談会に比重が置かれていること
がわかります。そして座談会は3回とも同じ班分けでした。
実際にはいろいろな事情で、毎回同じ顔ぶれというわけにはいかないのですが、
これは原則としては、毎回同じ顔ぶれで、問題を煮詰めていきたいという意図
であろう、と私は考えます。このことだけでも、参加者の途中での出入りはで
きれば避けたいところで、これが「全日程可能」という参加条件がついた理由の
一つではないかと思います。

参加対象については、三つの条件が示されています。
 (1)全日程可能(部分的な参加は認めない)
 (2)教区内(地域限定)
 (3)有教師/若手僧侶(資格限定)
これだけの条件を明記するのは、よほどはっきりした目的意識があるはずです。

簡単な案内文ですが、
  問題意識(なぜ)
  問題領域(何を)
  対象領域(誰が、誰と)
  目的意識(何をめざし)
  どういう方法で
取り組もうとしているかが、一応はっきりと出てきています。
こんなことは、一般の会社の企画書では当然のことなんですが、

これらのことがきちん出ていない、
いつ(日時)/どこで/誰が(講師の名前)/何を(講題)
というような情報が書かれただけの案内文がこの教団ではけっこう
飛び交っているんです。

こういうのは、たいてい予算があるからとか、本山からの指示で何かをやらなければ
ならないとか、毎年恒例になっている行事だからというような理由でいわば「こなす」
ために企画されているように感じられるものが少なくありません。
趣旨文が書いてあっても、いわゆるあたりさわりのないもっともらしい言葉が
並んでいるので、意気がどの程度であるのかだいたい心想像がつきます。
その手の企画の依頼を受けると、「講題はお任せします」と言われることが多い。
私は、そういうのを「お任せ研修」などと一人でブツブツ言っています。


岡崎の伝道研修会顛末 その3 投稿者:らくりん  投稿日: 7月16日(月)21時20分42秒

ことがこじれてしまったのは、私の記憶では、
大願さんご都合で、第3回目に参加できないということが判明したために、
担当者であるOさんが、一旦受け付けたにもかかわらず参加をお断りする
ことになったわけです。
そして、大願さんがその変更に腹を立てて、その場を立ち去ってしまわれた。

後から整理して考えればこういう事実経過であったわけです。

その事は大願さんも3月27日の書き込みで
><その後参加資格がないことがわかり参加を拒否された>のは身内の都合です。申
>込者は、申し込み受理者を「参加資格」に関して騙して、偽って申し込んだのでは
>ない。申し込み受理時に確認しなかった担当者の「不手際」です。
と書いていらっしゃる通りです。
また、今回の議論の再燃に際しても7月6日の書き込みで、
>私は、僧侶対象の研修会開催がけしからんと言っているのでなくそこに来た門徒も
>聴聞の申し出があれば、拒まないで貰いたいと言う意味のことを言った記憶してい
>る。
>しかも、一旦受理しておきながら、40分後に取り消すと言う対応を問題にしてき
>たのです。問題をすりかえないで頂きたい。
と書いておられます。

だとすると、私は問題は3〜4点に絞られるのではないかと思います。
 @対象限定の研修会を開催することの問題性
 A対象限定の研修会に、対象外の人から申し出があってお断りすることの是非。
 B担当者Oさんの一旦受理して、後にそれを取り消したことの問題。
であるはずです。
そしてもう一つあげるとすれば、
 C大願さんをお断りした判断が、僧侶ではないことが理由であったかどうか
という点の確認も必要だろうと思います。

一番目の、対象限定の研修かを開催すること自体には問題がないという点では
大願さんご自身も、すでに異義はないとおっしゃっていると思います。
二番目の点については、あとで詳しく触れたいと思います。
三番目の点については、確かにOさんのミスだと思います。
  この点はOさんは大願さんに謝らなければならないと思います。
四番目の点については、
私が知る限りでは、あのときOさんの判断が後から変更になったのは、
「残された2回の全日程に参加できない」という点が判断の変更の理由
であったと聞いております。
その点について、大願さんの記憶あるいは認識ではどうでしょうか。

大願さんが「教区内有教師」「教区内若手僧侶」ではないという理由では
なっかったはずです。そのことは、大願さんとは以前から面識があって、
大願さんが大谷派の僧侶ではないことを知っていたOさんが、一旦は大願さんの
参加を認めたことから考えてもはっきりしています。
Oさんは「教区内の僧侶ではない」ということは問題にしなかったのです。

つまり、もともと門徒か僧侶かという枠組みの問題ではなかったのでは
なかったにもかかわらず、
大願さんは一貫して「門徒差別だ」「教団の閉鎖体質だ」「開かれた寺に
逆行する」……と、「門徒と僧侶の間の問題」の枠組みで主張し続けています。
大願さんをお断りしたのは大願さんが「岡崎教区の僧侶ではない」という
理由ではなかったのですから、この主張は今回の問題と論点がずれていると思います。
もし、関係があるとすれば、先ほど触れなかった2番目の問題点
 A対象限定の研修会に、対象外の人から申し出があってお断りすることの是非
です。


岡崎の研修会 その2 投稿者:らくりん  投稿日: 7月16日(月)13時41分41秒

大願さんの意図としては、「聴講・傍聴だけを求めたつもり」であったのに、
担当者は、「正式な参加者としての途中参加の申し込み」として受け止め
そして一旦は正式参加者として受け付けてしまったことに端を発します。

この時の判断は、意図としては、限定条件を満たしていない人の途中参加を
認めようとする、ある意味では特例的に「好意的な措置を講じた」ものと言える、
と私は思います。

大願さん、三吉さん、
ここまでは理解していただけるでしょうか。


re:人と人との間  投稿者:Vita  投稿日: 7月16日(月)13時24分00秒

動物は自分の領分に他者が入ってこない限り、攻撃を仕掛けない。
領分から出ていけば、あとは追いかけない。具体的な事実のところだけで争う。
でも、ヒトは洞察力というものを持っているから、他者に下心があるのではないかと
不安に駆られ、思いを膨れ上がらせ、思いに縛られて、どこまでも残忍になっていく。
ヒトの心の闇。。。

ああ、忘れていましたが、そう書いている私も、ヒトの端くれでしたw。

だから、自分を映す鏡が必要になる。
それが、掲示板だと、らくりんさんのおっしゃるところの「第三者」になるのかな。

恐縮です。読ませていただいています。


くどいかな? 投稿者:らくりん  投稿日: 7月16日(月)09時24分37秒

わざわざ「教区内若手僧侶」という条件が付け加えられているのは、
私の推測では「教師資格を持っていない僧侶」にも呼びかけたいという意図が
込められているのではないかと思います。


蛇足ながら 投稿者:らくりん  投稿日: 7月16日(月)09時19分46秒

教団関係者以外のための用語説明、
といえば実質的にはお留守居役様さんのための説明のようなものかも知れませんが、

「有教師」(ゆうきょうし)というのは、「教師資格を有するもの」という意味ですが
この場合の「教師資格」というのは、学校の先生になるための資格ではなく、
簡単に言ってしまえば「寺の住職になるために必要な資格要件です」

宗議会(国会に相当する)議員の選挙権はありますが、被選挙権はありません。
被選挙権は、今のところまだ現役の「住職」だけにしかありません。

「間衣・輪袈裟にて」(かんえ・わげさ):いわゆる「お坊さんのかっこうで」
という意味です。


気を取り直して、再度 投稿者:らくりん  投稿日: 7月16日(月)09時09分34秒

なんだか、だれも例の問題に触れなくなっちゃいましたが、
このままでは、「わだかまりの火種」が残ったままになってしまいそうなので、
もう一度最初から少しずつ順を追って問題を整理しながら、
私がなぜ岡崎別院の研修会にこだわっているのかを確かめていきたいと思います。

このまま終わってしまっては、近ごろではめったにお目にかかれないくらいに
マジメにそして誠実に研修会を企画して運営しようと努力されていた岡崎の
スタッフに申し訳ないと思いますので、なんとか私の考えだけでもはっきりと
伝えたいと思います。私は皆さんの試みは、それがうまくいっているかどうかは
ともかくとして、やろうとしていること自体は評価しています。
ですから今回の出来事に委縮することなく、皆さんの最初の志をしっかりと
持ち続けて欲しいと思います。

大願さんご本人に納得いただけるかどうかはまったく自信がありませんので、
この掲示板で「大願さんの側にたつ」と公言していて、少しは冷静に判断して
もらえるかもしれない三吉さんに理解していただけるかどうかというあたりを
目標・指標にしていきたいと思います。
三吉さん、ご迷惑でしょうが、よろしくお付き合いのほどを。

どのぐらい続くかわかりませんが、この試みは私が「研修会」というものを
どのように考えようとしているか/考えたいかということにもつながっていく
かもしれません。
とても1度や2度では終わらないし、まだしばらくは断続的に旅烏がつづきます
ので、気の長い話になるかと思います。
「読みたくない」人は飛ばして下さい。
他の話題が、どんどん間に挟まっても構いませんので、それはそれで
勝手にやって下さい。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

そもそも問題になっている岡崎教区の研修会というのは
「伝道研修会」という名称でした。
その「開催のご案内」には、趣旨文と、要綱の概略は以下のようなものです。
   私は、お寺に生活し毎日法務に精励しています。しかし、ご門徒と接しても
  何を語りかけていいのか迷い、世間話でお茶を濁してしまいます。その法務で
  さえも意味を見失い、ついむなしくなってしまいます。その「むなしさ」を抱
  えつつ、相談相手もなく、それでも僧侶の顔をしなくてはならず、今の生活か
  ら逃げ出したいと思っています。
   そんな私にお念仏は一体何を教えてくださるのでしょうか。「真宗同朋会運
  動」には何が願われてきているのでしょうか。
   現代を生きる真宗僧侶として、「親鸞聖人のお念仏の教え」をどう教えに聞
  き、伝えていくのか。流されがちな日暮らしの中で、今、“伝道”の二文字の
  重さを確かめ合いませんか! 是非とも、ご参加ください。
◆テーマ:真宗に出遇う/テキスト:『現代の聖典』『真宗聖典』
◆講師の名前/場所/参加費 等
◆三回の日取り
◆研修日程
  講義約1時間
  班別座談会1時間20分
◆注意事項:講義中は、間衣・輪袈裟にて受講のこと。
◆対象  全日程可能な教区内有教師。教区内若手僧侶

これだけの情報で、まず最初に確認したいと思います。
大願さん、三吉さん、
おそらくお二人は、この「案内文」なるものをご存じなかったと思いますが、
このような「趣旨」このような「限定的な対象」で
研修会が企画されること自体については「閉鎖的でけしからん」と考えますか、
それとも「それはあり」と考えますか。

このような企画そのものを、否定するのか、是認するのか
まずその点をはっきりして下さい。


大陀羅弗”痴さん、 投稿者:らくりん  投稿日: 7月16日(月)08時44分59秒

深読みしたければしても構いませんが、
少なくとも私の中では、本当に
あの上下2段の二つの書き込みは無関係です。

昨夜は、昼間の暑さで消耗していたせいなのかなんだかわかりませんが、
皆さん肩の力がぬけていてなんかしっとりと落ち着いた雰囲気でしたね。

昨日の話し合いの中で、私がもっとも印象に残っているのは
件の副住職さんが言った、
「現場というのは、自己矛盾が起こってくる場」というヤツです。
ちょっとかっこよすぎるけど、「座布団一枚」という感じでした。


生命とは 投稿者:ootubo  投稿日: 7月16日(月)06時25分17秒

 報道によると、オーストラリアのモナシュ大学で、マウスの精子を使わずに、
卵子に雄や雌から採った皮膚などの体細胞を入れた結果、培養液の中で受精卵の
ように分割し、受精させる実験に成功していたことが11日、明らかになったそ
うです。
 無精子症の男性のほか、理論的には女性の同性愛カップルも子供を持てるよう
になるかもしれないという。
 クローン人間もですが、生命の神秘とか不可侵とかが侵されそうです。(すで
に侵されたのかも)
 科学は大事なものを無くしただけでいいのでしょうか。
 人身受け難し、一度限りの人生などが否定されるとしたら・・・・・。


大陀羅弗”痴流「行動する仏教」 投稿者:大陀羅弗”痴  投稿日: 7月16日(月)06時14分42秒

 う〜む、意味深ならくりんさんの書き込み(?)。イエイエ、無関係なんですね。

 実は帰宅してから座談で出た発言を考え直していたのですが、私が「現場」という言葉で表現しようとしたことを発題の中でうまく伝えられていなかったように思っています。
 私が言いたかったのは、「坊主は世間に疎いからもっと社会勉強する場所を持たなければならない」などということではなくて、「仏教徒としての自分が社会(他者)と関わりを結び続けていく場所を意識することが大切」ということだったのですが・・・・そんな風に伝わっていたでしょうか、らくりんさん?
 会所の副住職さんが「南無阿弥陀仏を証(あかし)していく場所」という表現を使ってくれてましたけど、自分が生きている社会領域(例えば経済活動の現場、教育現場、布教の現場、家庭や地域社会)で、私達はそれぞれが仏教徒として何を為すべきかを考えていかないといけないと思うのです。そして「仏教徒として」という言葉の中味は、「ナムアミダブツに出遇った者として」ということです。
 あるいはひょっとして、私の発題は受け止めてもらえたけれど、後の座談で出た発言の中味を私がちゃんと捉えられていないという可能性もある・・・ややこしいなあ。

 だから暑いのは嫌いなんだ。


(無題) 投稿者:らくりん  投稿日: 7月15日(日)23時51分44秒

舎利弗の智慧 : 一を聞いて十を知る。
似て非なる愚 : 一を知って十を決める。――これってほとんど
                       「こんにゃく問答」の世界

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

大陀羅弗”痴さん、お疲れ様。(上記とは無関係です)


聞響の会 投稿者:大陀羅弗”痴  投稿日: 7月15日(日)15時37分28秒

「聞響のつどい」で頭が終わっていて、今日が月例会だということを会所の副住職が忘れていたんです。で、「今日の発題は誰にお願いしたんだっけ?」と問い合わせたら「エ・・・・?!」という返事。結局、今日は私が発題します。テーマは「現場」です。


講義終了 投稿者:らくりん  投稿日: 7月15日(日)12時35分16秒

大陀羅弗”痴さん、ども。
そういえば今夜は、大陀羅弗”痴さん、聞響の月例会でしたね。
安宅の三人娘とは連チャンです。


お暑うございます 投稿者:大陀羅弗”痴  投稿日: 7月15日(日)12時13分57秒

生徒さん達には一足お先に、夏休みをいただいてます。でも、暑いですね。ダラブチは体力に自信がないので、暑い夏は勘弁していただきたい。

>Zazie さん
 「人によるな」という言葉も100%真に受けちゃあいけないんじゃないでしょうか。宗祖も「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と仰ったと言われてますから。
 でも、私も考えていてわかんなくなりました。私はいつ、誰の言葉(誰との出会い)によって、念佛を選んだんだろう。私は念佛を選んだのかな? 「それしか知らない」ってのもあるなあ。

>愚っ朕さん
 宮崎駿さんの作品で好きなのは、愚っ朕さんが言われたように「白黒つけず」「迷いの中に救いがある」というような部分です。私達はそれぞれの内に既に矛盾を抱え込んでいるわけですし、白黒はっきりつけてしまうと自分自身が分裂してしまうわけです。ナウシカの原作では、ナウシカ達は腐海がなければ生きられないように作られた人類であったということが出てきますし、もののけ姫も人間を嫌いつつ、山犬にもなりきれず、という存在でした。自分自身の存在について、自分の頭で納得できることなんてほんの僅かしかないが、そんな納得が出来ようが出来まいがここに私は私として既に存在しているわけです。
 まあ、怪しげな解釈は抜きにして、「千と千尋の神隠し」も楽しみです。
 


(無題) 投稿者:らくりん  投稿日: 7月15日(日)08時09分28秒

これから、自坊で化身土巻講義です。

来週末、所用で東京方面に行きます。
かねがね寄ってみたいと思っていたので、
もしかしたら21日の夜、坊主バーに出没するかもしれません。
その日夕食を一緒にする予定の連中とのその後の展開次第ではどうなるか
わかりませんが……。


好むところではないが 投稿者:らくりん  投稿日: 7月14日(土)15時01分02秒

>これは宗門の姿勢を問うものとしてもお答え頂きたい。
>「隣の芝生」もやはりなのか、どうなのかを、今一番知りたい。
>これは、レッテル貼りでなく、親鸞思想を今後どこの誰に求めて行くかの帰路でも
>ある。
>この回答によっては、あなた達の説く親鸞思想がわれら大衆向けのものか、あなた
>達僧侶のみのものなのかが明確に示されるものと考える。
>抽象的な国会答弁でなく、分かりやすく返答して頂きたい。
ずいぶんとまた大上段に構えた「物言い」ですね。
まず、総じて言えば、どうなりとお好きにして下さい、お好きに判断して下さい。
別して言えば、
▼らくりんは宗門の回し者ではないつもりだし、宗門はらくりんが動かせるものでも
ない。だから、らくりんに対して宗門の姿勢を問うだとか、らくりんの姿勢によって
宗門の姿勢を問うというのは、お門違いもはなはだしい。
まあ、いっしょにそれをやれと言われるのはごめん蒙りますが、大願さんが大谷派宗
門の姿勢を問いたければどうぞご自由に、大歓迎します。
ただし、これは三吉さんにも口が酸っぱくなるほど言ってきたことですが、問うとい
うことは責任の表明であります。大願さんがそれほどまでに大谷派宗門に責任を感じ
て下さっているとは思っても見ませんでした。問うたら問うた者の責任が生じて来ま
す。大谷派の問題については、らくりんはらくりんの責任と判断において、
問いたいと思います。
▼大願さんが、どこの誰に親鸞思想を求めるかは、私の関知するところではありません。
それは「汝自ら当に知るべし」です。
▼「あなた達」と複数で言っておられますが、これは「どなた達」のことをおっしゃ
っているのかわかりません。おそらく、らくりんもその中に含まれているのだろうと
思いますので一言言わせてもらうならば。
少なくともらくりんの言うことが誰に向けられたもであるということは、らくりんが
決めることではないと思っています。話し手がだれに向けて発信しているつもりかと
いうこととはあまり関係なく、それは「誰に受け止められたか」という結果によって
決まってくることです。
誰かが、いくら大願さんの言うところの「大衆」に向けて発しているつもりでも、
「大衆」がそっぽを向けば、それは大衆に向いていたとは言えませんからね。
大願さんが「大衆」の代弁者であるかのような口振りでおっしゃっていることは
はたして「大衆」向けであるかどうか、そして「大衆」に受け入れられるだろうか。
そしてこれは逆にお尋ねしたいのでづが、それは大願さんご自身が決められること
なのでしょうか。
「大衆、大衆」と大声をはりあげるヤツが、一番「大衆の敵」だったなんてことは
歴史上ざらにありますからね。
▼話す側の意識として言えば、らくりんは、僧侶が目の前にいる時には、僧侶に向か
って物を言いますし、僧侶でない人がいる時には僧侶でない人に向かって物を言いま
す。両者がいる場合には両者に向かって物を言うこともありますし、どちらかに焦点
を絞ることもあります。
同じことを伝えようと思っていても、出てくる表現は必ずしも同じであるとは限りま
せん。
参加者の存在は必ず私の話に影響を与えます。
極端な場合、大願さんが聴衆の中にいるかいないかでも話が変わってくる可能性
(あくまでも可能性ですよ、念のため)があります。
だからと言って、らくりんは自分で聴衆に条件をつけたり、主催者に言って制限を
設けさせようと思うことはありません。
与えられた条件で、演台に立った時に目の中に入った人に向かって話すだけです。
その話が、受け入れられるなと感じらることもあれば、
拒絶されていると感ずることもあります。
誰向かの話かなんてことは、最終的には話す側が決めることじゃない。

この程度で「国会答弁ではない」程度にご理解いただけるでしょうか。

▼議論の終息とは、管理人が何時どんなときでも議論を終息させようと思ったら
終息させられるもんじゃないでしょう。
それはちょうどころ合いがよいと思ったから、みんなが引いたんじゃないんですか。
らくりんが、ここの管理人として他人様の書き込みを削除したのはたった一回しか
ありませんです。それは大願さんの書き込みでしたよね、
そしてその判断は大願さんあなたから「感謝された」はずです。
それでも、らくりんがこの掲示板の議論を恣意的に、止めようとしている
などと言うことをおっしゃるおつもりなんですか。
それから、この一年3ヶ月の間に、
らくりんが、どなたかに対して書き込みをやめろなどと言ったことが、
一度でもありますか?
第一やめろと言ったら、おやめになるんですか?

「うんざり」したことは何度かありますがね……。


カモシカはなかなか逃げない 投稿者:らくりん  投稿日: 7月14日(土)12時20分43秒

カモシカは非常に好奇心が旺盛な動物のようで、
一本道で突然人間に遭遇しても、あわてて逃げ出すようなことはしません。

本当はパニクって固まっているだけなのかも知れませんが
じっと相手を見つめて、観察しているかのように見えます。
それで、時としてお見合い状態になってしまうことがあります。

こちらが一定の距離以内にどんどん踏込んで行こうとするとか
手を挙げて脅かすとか少し攻撃的な態度を見せると、
「悠然と」薮の中に入っていきます。
あれはどう見ても「逃げていく」というような姿ではありません。

先の書き込みでカモシカに対して
>相手が逃げ出すか
という、カモシカの悠然たる立ち去り方に対して、
誤解を招くような失礼な書き方をしたので、訂正してお詫びいたします。


人と人との間 投稿者:らくりん  投稿日: 7月14日(土)11時24分57秒

Zazieさんの質問にうまく当たっているかどうかわかりませんが
その意味もこめて

人間には、いや動物にも、快適な関係が保てる距離感とか
間合いがあります。
これは人種、民族、個人によって大きな差があります。
もちろん本人の性別、相手の性別によっても大きく違ってきます。

距離が相当離れている時には、どんな相手とも平静さが保てます。
その距離はライオンと兎ではかなり違います。私は山の遊歩道を歩いている時に
何度かカモシカに遭遇したことがありますが、10メートル以内には近づけま
せんでした。両方が固まる、相手が逃げ出すか、私が踵を返すかです。

自分が相手との間に予期・想定している距離感をはるかに越えて踏込んで
来た場合は不安・不快・危険などを感じます。山道の曲がり角で突然
熊に出くわすと相手も、こちらもパニクってしまうので非常に危険です。
職場で上司が親しみをこめてした言動が、部下である異性にとっては
完全なセクシャルハラスメントであるというようなケースだとか、
あるいは、一方的な愛情の告白なんかのように、相手の想定を踏み越えた
親しみの表現は、時としてかなり相手に困惑を生じさせます。

逆に、
もっと距離を近づけたいと思っているのに、相手との距離が一定以上狭まらない
時には焦燥感を覚えます。
時にはその焦燥が暴走して、極端に攻撃的になるようなことがあります。
獲物を狙う肉食動物がしびれをきらして、無理に走り出し獲物を逃がして
しまうとか、
片思いが高じて、横恋慕とかいやがらせ、あるいはストーキングとか逆恨みの
ような、かえって相手の気持ちを遠ざけてしまう行動に出るようなことも
そうでしょう。

相手が人であれ動物であれ、あるいは〈法〉であれ、
対象との距離感(〈法〉は対象とは言えないかも知れないが)の食い違いや
見込み違いは、あまり双方にとって幸せな結果をもたらすことはないだろう
と思います。


ところでVitaさん
掲示板でのやり取りというのは、メールとは異なり
直接やり取りしている相手の他のに、それを読んでいる第三者がいます。
掲示板での議論が水掛け論のようになってしまった時には、議論の相手本人を
説得しようとすることよりも、掲示板を読んで下さっている第三者に理解して
もらえるかどうかの方を6:4か7:3ぐらいで強く意識するようにしていま
す。Vitaさん、私はそういう意識でこの掲示板に書いております。
私は、掲示板というのはそういうものだろうと思っています。

誉める時には手放しでベタ誉めし、
逆に貶す時には、これまた極端に貶す。
こういうやり方が、その議論の相手本人に理解をもたらすことはまずありませんが、
それを見聞きしている、第三者にも理解や好感を持っていただけることもまず
ないだろう、と私は考えます。

私は、三吉さんに対して「失礼そうに見える」ことを書いても三吉さんとの
距離感は見誤っていないつもりです


人か、法か 投稿者:お留守居役様  投稿日: 7月14日(土)10時22分17秒

仏教という法を知りたければ、
諸行無常と書いた文字を穴の開くほどにらんでいれば分かると思います。
「教行信証」も「親鸞の教行信証を読み解く」も読む必要はないでしょう。
「人」である親鸞聖人や藤場先生たちが、どの様に「法」を読んだのかを
知りたいからこれらの本を読むのだと思っています。
「法」を知りたいから読むのですけど、それだけではないということです。

なにをかくそう、元実存主義者としては、
実存は本質に先立つ、と考えますから、
人は法に先立つ、と考えています。
仏教は実存主義かという問題がありますが、
仏教は無我説ですし、縁起説は関係論ですから、
少なくとも、イデア論ではないと思います。
イエスも
安息日のために人があるのではない。
人のために安息日があるのだ。
と言っています。

ところで、
「罪を憎んで人を憎まず」ということがあります。
「人によるな法によれ」と同じ意味かと思われます。
さて、どのように考えたらよいでしょうか。。。


総体的批判 投稿者:お留守居役様  投稿日: 7月14日(土)09時49分30秒

秘密の集会を開くなというのと
秘密の集会に参加させろというのは
矛盾していると思います。
で、参加・不参加にこだわるあまり、
会の内容、講師がどの様なお話をされたのかの紹介がなされていません。
歓迎されたとはしゃいでいますが、
自分が歓迎されるような人物であることを
自慢していることにもなって、嫌味に感じます。
文章が下手だからそうなってしまったとも言えますが。

排除の論理を先験的に不当なものとお考えのようですが、
選択念仏も他力本願も強烈な排除の論理だと思います。

ここには民主主義的な方々が大勢いらっしゃるはずですが、
集会の民主主義の原則をどなたも述べられないのが不思議です。
集会の主役は、主催者でもなければ、講演者でもありません。
主役は、会の会員であり、参加者です。
決定権は、参加者にありますから、ことの是非は参加者に問うべきです。
かの偉大な大衆芸能人も言っていました。
「お客様は、神様である」と。


re:ちょっと、質問を。 投稿者:ootubo  投稿日: 7月14日(土)07時57分58秒

拝読しまして、なにか恋愛感情みたいな感じを受けました。
恋は盲目といいますが、感情におぼれてしまっている状態ではないでしょうか。
悩み苦しむ中で、好きな人の言葉に出会って納得ができた。
その人の言葉だから納得できる、その人を否定されるのはつらい。
しかし、伝わってきた言葉とは何でしょうか。
人格や特性、個人的努力でなく、その人が法に出会い、出会った法を語られた
のではないでしょうか。
自己を意識し、自分に苦しんでいるあなたに自己の意味を問えと法が語ってい
るのではないでしょうか。
見当違いならごめんなさい。


ちょっと、質問を。 投稿者:Zazie  投稿日: 7月14日(土)03時10分23秒

馬鹿みたいで、ごめんなさい。

私はよく周囲の人たちに「人によるな法によれ」と言われます。でも私は、今のところ、人
によることでしか教えに会う事ができません。自分では善智識頼みとかも思いません。本当
に好きな人(惚れた人と言っても良いかもしれません)、の言葉は伝わってきます。それは
切ないほどに。

その人を崇拝するような状況は問題外だとは思うのですが。あの人が好きで、あの人の言葉
が私にとって大切だと思う事が、「人によるな」と言われる事に痛みを憶えます。

ここの掲示板には、おっかない大きい大人の人が多いので、黙殺されるか、厳しい意見をい
ただけるのか、分りませんが思いきって書きました(あっ、らくりんさんも他人事にしない
で下さいね)。よろしくお願いします。


なんだか目が冴えて 投稿者:らくりん  投稿日: 7月14日(土)02時21分31秒

「読みたくもない」でしょうに、どうもすいません。

>私は、京都で、らくりんさんに「まあ、いっぱいどうぞ」と、媚びを売った覚えは
>有りません。
>世間一般、社交儀礼の挨拶をしただけです。それが礼儀・常識に反するならば謝り
>ます。
「まあ、いっぱいどうぞ」云々というのは、仮に酒席でその程度の儀礼的な
挨拶をされたとしても気持ちよく受けられない程度には心証を害していると
言おうとしたまでで、譬喩的な意味です。
大願さんの、あの時の私たちへのアプローチの仕方は、
その程度のものではなかったのではないですかと言いたかったのですが、
そういう遠回しの言い方では通じなかったみたいですね。

あの時、大願さんは
コンサート会場で私たちが座って開演を待っているところにいきなり後ろから
声をかけてきて私に声をかけるより先に、私の紹介も受けずに、
隣にいる連れあいの方に、
「藤場さんの奥さんですか、よろしく。藤場さんにはいつも掲示板で、
厳しくお教えをいただいております」というようなことをおっしゃいました。
私には、あれは「世間一般の社交儀礼の挨拶」の仕方だとは思えません。
もっとぶしつけな馴れ馴れしさだと思いました。
正直に言いまして「なんなんだこの人は、いきなり」と思いました。

その上に、この掲示板でのいきさつが重なっていたわけですから、
大願さんの態度には途惑いと不快感を覚えました。
それが、私の反応があのような「失礼な」ものになってしまった理由です。
それが、大人気ないと言われれば、確かにそうです。
ですから、大願さんのこの掲示板の書き込みに対して、
私はその程度には気分を悪くしているということです。

だから、私は一生懸命にそのことが伝わるように書いているつもりなんですが
あのいわゆる「世間一般、社交儀礼の挨拶」で、
「ああ、この人は、この掲示板の私の書き込みがまったく身にこたえて
いないんだなあ。」と、ちょっとア然とした次第です。

「いっぱいどうぞ」発言は、
大願さんのちょっと非常識な馴れ馴れしさを、言挙げするようなことは、
自分の方からは言いたくもなかったから、そこまでは書かなかっただけです。


ただいま、です。 投稿者:らくりん  投稿日: 7月14日(土)00時24分43秒

とりあえず、読むだけは読みました。


(無題) 投稿者:Vita  投稿日: 7月12日(木)13時21分49秒

>今、一番お忙しいときなのに、らくりんさんはこの掲示板で受け止めるとおっしゃって下
>さったことですし。曖昧な私なんぞには、絶対できないことです。ヤスパース語録に拝。

私の書き込みに、言葉を足します。
私は、管理人として運営している掲示板から、ある方を排除したことがあります。
そして今も、書き込みができないようにブロックしています。
私なりに相互理解のために、努力をしたつもりです。
しかし、報恩講の忙しさと、意志疎通の難しさに疲れ、とうとう匙を投げました。
ですから「できない」と同時に、私にはできなかった
らくりんさんはそれをやろうとおっしゃっているという事を書いたつもりです。
懺悔します。

それでも大願さんに申し上げます。
相手のすべてを否定するということは、ここで、絶対にやってはいけないことです。
いまそうしていらっしゃるということではありませんヨ。
ですから、掲示板での話し合いには、相手の論理を冷静に
読んでいくことが必要であるということを申し上げたかっただけです。

念仏の教えはだれのものか?
聞こうという意思のある人の為です。
この回答で、満足ですか、大願さん。
念仏を我がモノにして。

らくりんさんと大願さんの両者に申し上げます。
もう話し合いが成り立たない、
そういう努力もされないつもりなら、売るも買うもない。
リアルで喧嘩しなさい。
公の場で読みたくもない。


「忙しい」という言い訳? 投稿者:大願  投稿日: 7月12日(木)01時57分37秒

>今、一番お忙しいときなのに、らくりんさんはこの掲示板で受け止めるとおっしゃって下
>さったことですし。曖昧な私なんぞには、絶対できないことです。ヤスパース語録に拝。

忙しいという言い訳は、優先順位をどこに、あるいは何においているかです。
あくまで、掲示板でおとしまえをつけろといわれれば、再度私の主張を繰り返す事で
暇な私は、喧嘩を買っていこうと思います。
私は、京都で、らくりんさんに「まあ、いっぱいどうぞ」と、媚びを売った覚えは有りません。
世間一般、社交儀礼の挨拶をしただけです。それが礼儀・常識に反するならば謝ります。
ここで、世俗の常識論として、「教化者に被教化者は問答無用で従え」という僧侶の論理に
どうしても従えないので、とことんみなさんの喧嘩を買っていきます。
「おとしまえをつけろ」など、○○○の世界のごとき脅しにくじけては、親鸞に顔向けできません。
「主上臣下背法違義」と、権力・天皇までも批判された宗祖の思想を生きたい思いを
ここであなた達教化者にどこまでも問うていきたい。
VITAさん。
私の読み方が間違っているならば、再度分かり易くご説明されたい。
傍聴を申請した一門徒をロックアウトして密室で自己満足な仏法を語る必要性はどこに有るのか。
らくりんさんは、あの阿弥陀経は、僧侶にでなく、むしろ大衆に向けて説かれたと言われた。
ならば、あなた達のおっしゃる「大衆」とは誰か。かんえ・わげさを纏った人たちだけが大衆なのか。
そうではないのか。どうなのか。これは宗門の姿勢を問うものとしてもお答え頂きたい。
「隣の芝生」もやはりなのか、どうなのかを、今一番知りたい。
これは、レッテル貼りでなく、親鸞思想を今後どこの誰に求めて行くかの帰路でもある。
この回答によっては、あなた達の説く親鸞思想がわれら大衆向けのものか、
あなた達僧侶のみのものなのかが明確に示されるものと考える。
抽象的な国会答弁でなく、分かりやすく返答して頂きたい。


re:まだこんな事を言っているんですか 投稿者:大願  投稿日: 7月12日(木)01時25分08秒

これって、お褒めですか。
それは、最初から私の主張が終始一貫しているというお褒めと敢えて受け取ります。
そうではないと思いますが、敢えてです。
>人に理解して欲しい発言とは思えません。
ありがとう。
私は、あなた達の「人に理解して欲しい発言とは思え」ない書き込みに合わせて
売られた喧嘩をとことんここで買っているだけです。


Vitaさんの掲示板をのぞいていたら 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月11日(水)22時39分30秒

 龍樹の本には、ひとが身体を持っている事実を押さえている云々と
いう話が載っていた。真宗立川流家元としては、おおいにそそられる。。。

 からだ/谷川俊太郎

男が男のからだのかたちでしか

生きることのできないのはくやしい

かたちのないこころだけであったなら

もっと自在にあなたと交われるものを


だがことばよりくちづけで伝えたいと

そう思うときのこころのときめきは

からだなしでは得ることができない

いつか滅ぶこのからだなしでは


こころがどこをさまよっていようと

こころがいくつに裂けていようと

女がただひとつのからだのかたちをして

いま私のかたわらにいるのはかなしい


ねじれの構造 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月11日(水)16時02分08秒

 市民運動に疑問があります。すなわち
 
 靖国問題 @靖国神社という装置    死刑問題 @死刑という制度
      A「英霊」という戦死者        A加害者=死刑囚
      B戦争被害者(死者)         B被害者(死者)
      C戦争被害者(生者)         C遺族
                
  と置きます。すると靖国問題では、BC(アジアの)戦争被害者の立場から
A英霊および@靖国(という軍事装置)が批判されます。

 で、現今の死刑廃止運動では、A死刑囚の人権を拠り所に@死刑制度を
必要とする国家を撃つという構造になっています。

 まあ、左翼やアナーキストならそれでいいのでしょうけど私はいっつも
なんかヘンだなあ〜と思ってました。菱木政晴さんは「われわれは浄「土」
真宗であって、浄「心」真宗ではない」といっておられましたが。

 批判原理としての浄土から、この和国という「穢土」を斬る!のじゃあ〜
ということなのでしょうけど。。。

 私は、死刑問題における被害者と遺族、あるいは靖国における(強制連行された)
兵士たちは、なんでないがしろにされるんやろ?と思います。

 私はすくなくとも「僧籍」をもつ、仏教者ですから、「何が何でもおかみにたてつくぞ!」
が第一義的なものになるのに、疑問です。亡くなっていった方の「悲しみやうめき」を拠り所
に考え直したい思っています。それらの声が私に、「出る」ことを願ってくれている声と
受け止められ始めたからです。

 先に述べたように、「英霊」たちを「免責」するのではありません。ハンナ・アーレント
が示してくれたように(いまいち読み込みが足りませんが)赦しとしての処罰を求めます。
 また、「死刑囚」には「生きて」償うことを求めます。
 
 彼ら(彼女ら)が、「人間を回復」すること、また私たちが同じく「人間」を失っている
状況から立ち上がることが「国に地獄・餓鬼・畜生なからん」という願に応えることなのでは
ないでしょうか。
 
 どうもいつものギャグが冴えず、優等生的作文となってしまっちゃったけど。。。


reヤスパース語録 投稿者:ootubo  投稿日: 7月11日(水)06時35分03秒

今回の共通点てなんでしょうかねえ。


まだこんな事を言っているんですか 投稿者:ootubo  投稿日: 7月11日(水)06時21分50秒

大願さん
もう一度今までの発言をよく読んでください。
自分の都合のいいことだけをうったえても、人は納得できません。
人に理解して欲しい発言とは思えません。


イイコチャンプル 投稿者:Vita  投稿日: 7月11日(水)06時15分44秒

>大願さん

どもでした。

お会いしてオヤッと思ったことがあります。
私がずっとこだわって、大切にしてきた、修練における外陣出仕の問題についての貴方の文章を、貴方はすっかりお忘れになっていた。わたしはそれを支えにしてきたのに。
そして、この掲示板において大願さんが疑問に思っている、らくりんさんの書き込みを、失礼ながら私はすっ飛ばして読んでいた。
当たり前といえば、当たり前のことなのですが、人間の記憶というものは恣意に基づいている、「我」の固まりが自我であるということを、改めて感じていました。話し合うということは、その意味で、大切なのでしょうネ。

勝手ながら、大願さんには、らくりんさんの書き込みをじっくり読んでいただきたい。今、一番お忙しいときなのに、らくりんさんはこの掲示板で受け止めるとおっしゃって下さったことですし。曖昧な私なんぞには、絶対できないことです。ヤスパース語録に拝。


ヤスパースさんと加藤典洋さん 投稿者:お留守居役様  投稿日: 7月10日(火)22時09分01秒

ヤスパースさんは、昔、少しだけ読みました。
内容はほとんど憶えていませんが、
理性と関心の共通性とか、
暖かな理性という印象を持っています。
ただ、鋭さや深さに物足りなさを感じて、
サルトルやハイデガーに移ってしまいました。

加藤典洋さんは、凡百の評論家の中で、
ましな方だと思っています。
その戦争責任論にしても
真っ当なものだと思っています。
ここで論じられるほど読み込んでいませんが。

この程度の反応しかできなくて、すいません。


ヤスパース語録 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月10日(火)19時32分24秒

 「われわれは語り合うという事を学びたいものである。
つまり自分の意見を繰り返すばかりでなく、相手方の
考えているところを聞きたいものである。…反対者は、
真実に到達するする上からみて、賛成者より大事である。
 
 反対論のうちに共通点をとらえることは、互いに相容れ
ない立場を固定させ、そういう立場との話し合いを見込みの
無いものとして打ち切ってしまうよりも重要である」


新興佛青 投稿者:愚っ朕  投稿日: 7月10日(火)19時22分04秒

 の元委員長であったお方からは待てどくらせど何の返事も
ありませんでした。何度も何度もしつこく手紙を出すべきか?
それとも実際に会って直接弟子入りするか?
 結局私が選んだ道は、「あきらめ」ることでした。
あんだけのお偉いさんになってしまうと、雑魚に会う気もないん
やろなという「捨て鉢」な気持ちでした。

 加藤さんの先の本にドイツの哲学者ヤスパースの『責罪論』の話が出てきます。
(おそらくこれはお留守居役様のほうが得意分野でしょう)
敗戦経験とは何か?にヤスパースはこう答えています。

 「(罪に関しては)身を投げ出すか、横柄に構えるか」の
どちらかの態度が敗戦国民の対応になる。
「非難に対しては敏感なものは、奇妙な事には、とかく心機一転して
自己の罪を告白する衝動にかられることがある」

 左翼のひとびとに感じた不快感が見事に言葉になっています。なんで
そんなに簡単に自分たちの非を認め、ぺこぺこ謝ってしまうのか?
それは「嘘の告白である。そういう人間の罪の告白には、他人にも告白
させようという魂胆が在る」

 一方、これの対極にあるのが「横柄な誇り」で他人が攻撃を加えると
ますますかたくなになる。右翼のというか、今の自由主義史観を唱える
人々に感じるのがこれです。

 ヤスパースが敗戦の経験において決定的に重要なのは次ぎのことであると
いいます。「完全な敗戦状態にあって死よりも生を選ぶものは、おのれに残された
唯一の尊厳とも言うべき真実の生き方をするには生きようとする決意がどのような
意味内容を持つかと言う事を意識しながら決意に出なければならない。。。
無力なものとして奴隷として生きようとする決意は、生を樹立する真剣味を
帯びた行為である」と。

 ここで、あまたの死刑囚の作文の中で私が、木村さんや宮崎さんに感動した
質がわかりました。お二人は、「自分の負け」を完全に認められたことです。
そして、その惨めな自分をそれでもなお「引きうけて」生きていこうとされて
いるからなのでした。
 
 すぐに自分の罪を認めてしまうのは、ほんとうは自分に向き直らずに済ませたい
からなのではないでしょうか。そして、もちろん居直って開き直る態度もまた
誠実とはほど遠い態度でありましょう。結局この両極端に見える立場は実は、
「敗戦」を認めていないということで共通しているのではないでしょうか。

 そしてこの感動の質は、嗜癖から回復された方に感じたものと同じだと思いました。
「自分の負けを認めパワーレスに気づくこと」

 私がオヤジや祖父の残した課題を背負いきれず、戦争に反対した「共産党」や
「新興佛青」に所属しようとしたのは、自分は間違っていないもの、正しいもの
「権威や絶対正義にすり寄ろう」とした証。
 自分が汚れず、泥をかぶらないための逃げでしかなかったことだと思うのです。


御礼2 投稿者:大願  投稿日: 7月10日(火)18時08分18秒

>つーか。。。はよ、仲良くしてください(祈)
>ホント、腹立つくらい正しいですよ。

「世のいのり」を有り難うございます。そんな思いも知らず、正しさだけを振りかざして
何時までも譲らないことに、真剣に腹を立てて下さって有り難うございます。何を譲り、何を譲らないかという所に
固執しすぎているのはわかります。
何でも有り難い、勿体ないと言う恩寵主義だけが、真宗の教義のように言われている中で
譲れない部分を頑なに守っていくことは、「神祇不拝」「兵戈無用」を頑なに守っていくのと
同じとおもうばかりです。
この掲示板が「来るものを拒まず、去る者を追わず」というスタンスに立つのであれば、
宗門も教務所も寺もそこにたってこそ、御同行・御同朋のスタンスではないかと、再度
問いたい。三吉さんの書き込みを援用してまでも再度問いたい。
>世間道理の観点から論じたものについて、私はこの掲示板で完璧に批判したと思い込んでいる。
>それについての反論は一切無かったように思う。
>らくりんさんは議論を終息させようとされた。

掲示板の問題をあえて掲示板でと言われるならば、まず三吉さんのこの質問に答えてしかるべきでは?
らくりんさんの主張は、先回も今回も世間道理の観点から論じ、自らの立ち場が世間的に不利になることを、
あるいは他の書き込み者やROM者との関わりの悪化を懸念され、保身されている。
挙げ句の果て、私の稚拙な書き込みは、「今までの言動を無にするだけ」と、脅してくる。
残念ながららくりんさんとは違って、幸か不幸か「名利」も「人師」も「教化者権限」「著名な著作物」も
なにもありません。だから脅しも脅しに感じていないことに、
>よほどの大物なのか、それともよっぽど……?!
とあきれておいでのようです。これも「大物でありたい」らくりんさんの思いとは違って、
「別に小物でも良いじゃないか」という開き直りのスタンスにいる者には、ぬかに釘です。
>それともよっぽど……?!
この意味が鈍感な私には???です。結局私に喧嘩を売りたいだけのことなのでしょうかね。
「念仏」と「生活」を意識的に切り離さず、「念仏」の「生活」を送ると言う観点で
くだんの三吉さんの問いにお応えいただき、議論を深めましょう。
できるだけ逃げも隠れもしたくありませんが、不毛な「喧嘩のための喧嘩」にならないよう
気を付けたいものです。


御礼 投稿者:大願  投稿日: 7月10日(火)18時07分41秒

京都の「東西本願寺非戦平和共同行動」から、岐阜別院経由で昨夜遅く帰って来ました。
昨年に比べて日程短縮ではありましたが、岐阜別院の研修会にも立ち寄るご縁を頂けた
事を嬉しく思います。
Vitaさん。
8日は深夜までおつきあい下さって有り難うございました。
というより、翌朝早朝、法務で帰らなければならなかったのに、無理にお引き留めして申し訳ありませんでした。
久々に酒を酌み交わしながら、富山別院で酔いつぶれるまでお世話をかけた日のことを
懐かしく思い出しました。
Vitaさんや三吉さんのお心を裏切り、後ろ足で泥を引っかけ通しでどうもすみません。
そして愛情あふれる(?)批判をくださるみなさん、いろいろとお育ていただき有り難うございます。

>三吉さんが登場して、また話をややこしくしていますね。
おやおや、また、やってくれましたね。らくりんさん。
らくりんさんを擁護する書き込みは「的確なフォロー」で
大願を弁護する書き込みは「話をややこしく」するというそのスタンスに驚いています。
これでまたレッテルを貼っていくレッテル貼り嫌いの方々のじこちゅうは、これじゃ私と大差ないのでは?
もっと言えば、らくりんさんの嫌いな(?)「大政翼賛会」ともあまり変わらないような……。
私にとって僅少の「的確なフォロー」は、「話をややこしく」して、らくりんさんにはお気に召さないとは
どっぷり世俗の論理そのものですね。
それはおるすいやくさん(変換できない)の「的確なフォロー」が単なる誹謗中傷にしか聞こえない
じこちゅうの私と五十歩百歩といった所ですね。
豊橋別院の件、報告の仕方が「けしからんから謝れ」と言われても何をどう謝れば良いのか判りません。
同じ宗門の中にも、靖国神社公式参拝決議案に反対する宗会議員が過半数いるという現実を思えば、
多数決が必ずしも親鸞思想の具現ではないことが判ります。
らくりんさんの数と力の論理で、私を屈服させて、私がひれ伏すのをこの掲示板で実現したいお気持ちは
判りますが、世間の論理でなく「開かれた宗門とはどんなものか」をもう一度頭を冷やして
考えてみてください。同じ意見の仲間だけが、寄り集まって、自己満足の論理を展開して、
「排除」「強制」を批判して。その舌の根が乾かないうちに、自らが「排除」の論理を
展開している破廉恥にいい加減気づいていただきたい。
私が豊橋別院の対応に感謝しているのは、少なくとも「排除」「彼排除」からの解放にと
こころを砕いて下さったことを感じているからです。
根回しの効果がどれだけあったかという問題のすり替えは、スタッフの方々に対して失礼であると
いま反省しています。「開かれた寺」を目指して「来るものを拒まない」事を念頭に企画されて
いたのであれば、結果的に根回しになってしまった事は、申し訳ないことなのです。
根回しなどあってもなくても、結果は同じであったかも知れない。そうであれば、益々豊橋のスタッフの
対応は、開かれた寺そのもので、ひょっとして岡崎と同じかもと、少しばかり疑った私の過ちでした。
これで満足ですか。らくりんさん。
だからといって、岡崎のあの対応が免責されるわけではない。おなじスタッフもいたと言うのであれば
なおさら、じこちゅうと非難されようと、このことでは私から譲るものは思いあたらない。
これは親鸞の批判精神を世俗の論理で引きずり降ろされてしまうことになるから。
済んだことをとやかく言うのではなく、今後の対応を見守って行くという意味で、
今も今後も、私の視座での関わりを取り下げるつもりは毛頭ないし、批判も止めない。
過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目になるのと同様、あの事件は、目をつぶる訳には
行かない。そして、それをこの掲示板をお借りしているのは、らくりんさんがその経緯を
ご存じの数少ない当事者であり、「閉ざされた寺」の片棒を担いでいたからです。
言葉を借りれば、あの件で「マジで腹を立てている」のは、むしろ私の方です。

>アクチャルでの大願さんの「何事もなかったかのような」
>無邪気さに、私としては当惑してしまいます。

「こんにちは!」と挨拶し、奥様にも「はじめまして!」と挨拶に伺った事が、
そうとうお気に召さなかったご様子。そのことをさして「無邪気」と言うことでしょうか。
お褒めの言葉では無いように聞こえますが、ならば、それを聞こえたのか聞こえなかったのか
判りませんが、迷惑そうにシカトしてしまう、気に入らない奴には挨拶もしない行動にあえば
「マジで腹を立てている」のは、鈍感な私にも十分感知できました。
ここら辺が世俗の論理に支配されて挨拶してしまうあさはかな私にくらべ、世俗の論理に
流されずシカトする仏法の論理(?)を貫かれるらくりんさんをこそ「無邪気」と尊敬しておきます。


言い忘れた 投稿者:らくりん  投稿日: 7月10日(火)10時51分00秒

>大願さんは、逆にケチをつけられているとだけ感じ、らくりんさんの
>「言いたいことが相手に伝わる」というポリシーは宙に浮くのではないか?

私が今大願さんに「伝わってほしい」と思っていることは、「ケチをつけられて
いるとだけ感じ」ていただく程度どころか、
私が、大願さんの今回のカキコに「マジで腹を立てている」ということが伝わって
ほしいんです。
これでわかりますか?

これじゃちょっと無理かな。
私の場合、ここのオンラインの感情はオフラインにも尾を引くということ。
だから、オフラインで、ここでのやり取りがなかったかのような振る舞いは
できない。
ここでの問題が片づいていないのに、オフラインで「あれはあれ、これはこれ」
「まあ一杯どうぞ」と言われても、素直にはお受けできない
ということが伝わってほしいんだけど。

これでどう?


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