らくりんバンバン

〈 落 鱗 板 々 〉



投稿者
メール
題名 
[ ヘルプ ]
内容

URL

[iモード / Jスカイ 対応]

理想。 投稿者:おじき  投稿日: 2月 8日(金)00時10分29秒

私の理想は例えば女子高の休み時間の会話にA子「ねぇねぇ昨日さぁ暇つぶしにね
歎異抄読んでたんだけどーイマイチ悪人って自覚できなんだよねー。悪人って自覚
できなきゃ往生できないんじゃ私ダメじゃん。あんたはどうよ?」B美「そんなの
まだまだできるわけないよ。だって煩悩具足の凡夫なんだしーってゆうか逆にそれで
こそ往生は決定なんじゃないの?私もよくわからないけどー今日のニュースステーション
の特集はシリーズ念仏者の系譜だしー見てみたら?でも親鸞ちゃまってあの目つきは
厳しいけどかっこよくてサイコー!」てな会話が日常的にあったらすっごく本願のおはたらき
の中にいるなーって実感できると思います。現実には今の私の家では私以外の家族は
宗教にも仏教にも本願にも何の関心もありませんね。なんとかしたいんですが・・・


どないしょ? 投稿者:おじき  投稿日: 2月 7日(木)23時20分55秒

よくわかりました。当然ワナを仕掛けないと獲物はとれませんものね。
ではここを見ていらっしゃるお坊さんそれぞれはどんなワナを仕掛けておられるのか
あるいは仕掛けようとされておられるのか、それぞれの意見交換してほしいのです。
多くの人々が本願の歴史に参画することを願いつつも、現実はとても厳しい状況です。
私の脳みそでは発想も実行方法も貧弱すぎて、何もできとらん状況なので、みなさんの
ご意見を参考にできればいいなと思っております。どうかよろしくお願いします。


(無題) 投稿者:らくりん  投稿日: 2月 7日(木)22時41分58秒

>その機会や場を準備することだけです。そこから先は、何かが動き始めるのを、
>そして何かが起こるのを待つ」しかない。場所や機会を準備して、あとは
>「ひとりばたらき」が起こるのをただ待つ
「場所や機会を準備する」というのは、ハコを作るという意味で言っている
わけではありません。第一ハコは坊さんが作ったもんではないでしょう。
はたらきかけを何もしないで待っていたって何もおこらない。
譬えは悪いけれど「種を撒かずに実りがあるわけではない。
罠をしかけずに獲物がかかるわけはない」。
ルーティンを繰り返しながら何かが起こるのを待っているというのは、
待っているとも言えないのではないかと思います。
日常の積み重ねから非日常が生ずることは稀だからです。
同様に、安心感とか安定からも何かが起こることは稀です。
安心とか安定が揺さぶられる時に初めて何かを考えるということが始まるのではないか。



ひとりばたらき 投稿者:おじき  投稿日: 2月 7日(木)20時41分14秒

決まった日に坊さんがうちにやってきて、お経をあげてもらってお布施をわたす。
そういう習慣が何十、何百年か続いているんですね。先程のご門徒にとってはその習慣
を守ることが大切なようです。先祖代々うちの宗教だから浄土真宗でいいそうです。
 行き付けのお店というのは心地がいいですね。自分を受け入れてくれます。
○○寺の檀家というのは、そういう安心感を持てるのでしょうか。誰か身内が亡くなった
時に死者の世話を受け入れてもらえると言うか。儀式を執行し、伝統的なスタイルを維持
できれば何も浄土真宗である必要はないようです。ではなぜ他宗ではなく門徒なのかと
聞けば、門徒は盆も彼岸も大層にせんでいいから楽でええがなとの事です。
「ハコ」を作って「ひとりばたらき」が起こるのをずーっと「待って」たら
こうなっちゃったのかしら?


「みえ」か「てれ」か 投稿者:らくりん  投稿日: 2月 7日(木)19時20分20秒


貢献でも奉仕でも運動でも
私は、それを「やるな」とか「やらんでもいい」と言っているわけでは
ないんですがね。

それをやるのに、真宗の僧侶という看板は必要はないんじゃないかということと、
真宗僧侶はそれを「サービス業」として担わなければならないことはないんじゃ
ないか、と言いたいだけなんですが。

「サービス」はどんどんすればいいけど、私はそれに「業」がつくとどうも
「?」がついてしまう。

どうも私は「きれいごと」に対して「素直」になれないへそ曲がり者なのか、
「ひまつぶし」とかなんとか言って照れ隠しでもしないと……(∞;)


横からごめんなさい 投稿者:Maro  投稿日: 2月 7日(木)19時17分35秒

 皆様お久しぶりです。
ところで、
 意味もわかんないし、自分の信心も信仰も何だかわかんないけど、バアチャンがそうして来たからって言うだけで、坊さんが呼んでもらえるってすごいことだと思いません。
 本人が無信心っていいながらも、呼んでもらえるんですよ!!

 それと、大いなる安心と歓びの世界って力説しても、具体性・あるいは自身の頷き?が感じられないと伝わりづらい、っていうか課題を共有しづらいかもしれませんね。
 (えらそうにすいません。m(__)m  私も何時も悩んでおります。)


習慣だそうです 投稿者:おじき  投稿日: 2月 7日(木)18時48分21秒

今お参りに行ったご門徒にちょっと勇気を出して「お寺に何を求めていますか?何か要求は
ありますか?」と尋ねて見ました。ご門徒は少し戸惑い気味に「いや、別に・・・命日に
お参りに来て頂いて、お経をあげてもらえれば十分ですが・・・。」という事でした。私が
「お経の意味とか関心ないですか?私は素晴らしい内容だと思うんですけど」と聞くと、
「意味なんて考えた事はないですね〜。昔から命日にはお経をあげなきゃならんと思って、
おばあちゃんのまねしてきただけですから・・・」私が「僕は阿弥陀さんの誓いにはどんな
者をも見捨てない大いなる安心と歓びの世界と、常に自分の生き方を厳しく見つめ問いかけて
くる世界があると思うんですね。そういう話はどう思いますか?」と言えば「はあ、そうですか
あまりよくわからないんですけど、お経をあげれば死んだおじいちゃんもおばあちゃんも喜んで
くれると思ってますけど。」私が「ご自身の信仰、信心はいかがですか?」と聞くと「いやあ、
私は無信心ですから・・・お寺にも神社にもあまり行きませんね〜」との事でした。


追記 投稿者:ぐっちん  投稿日: 2月 7日(木)13時33分11秒

 どっかのサイトだか、何かの本でか、目にしたのに
こんなのがありました。

 葬式で坊主がお経を読むのは許せる。だけど
キリスト教の牧師は許せない。なぜなら、お経はわからないが
牧師の説教はわかるぶんだけ鼻持ちなんない。

 サービスや情報というのは、ぐっちん思うにあくまで「喪の仕事」の
「素材」です。「素材」も何も提供しなくて高い戒名料ふんだくる
業界人は「倫理」が必要だと思うんですけど。


呼び屋としての仕事 投稿者:ぐっちん  投稿日: 2月 7日(木)13時10分28秒

 寄席に段差があればバリアフリーにするとか、窓口を点字表示にするとか、
手話通訳をつけるとか、外国人のために英訳パンフレットを添えるとか、
喫煙室や託児室を設けるとかetc

 これらは必要ないかなぁ。。。寄席の敷居を高くしてるんじゃないかなあ。
ハコの管理人じゃないのかなぁ、真宗の坊さんは。

 でも何より舞台の袖で自分自身が聞いていたい、名人芸。。。
昨日もBSで見てたんですよねぇ、歌丸さんの「厩火事」。いつ聞いても
おもしろいやあ。作者不詳の古典は。  


許すべからざる詐称 投稿者:ぐっちん  投稿日: 2月 7日(木)12時02分31秒

 え〜何度か書いたのですが、死の人称について。
死の一人称というのが、自分の死をどう受け止めていくか。
死の二人称というのが、親しい「あなた」の死をどう受け止めていくか。
死の三人称というのが、第三者としての死者とのかかわり。

 でもって、「檀家」さんが二人称として「亡き人」に対する「喪の仕事」(自分
自身の魂しづめ)をどう勤められるか?それは、第三者としての僧侶は、いかんとも
しがたい。亡き人が残した、(精神的な)荷物・宿題を少しづつ少しづつほどいていく
作業。。。

 靖国神社(幾人かの政治家たち)は、第三者であるにもかかわらず、勝手に
死者を意味付ける。確かに「英霊」たちは「八紘一宇」なり「五族協和」なり
「大東亜共栄圏」なりの理念に死んだ方もおられると思うけど。

 けど、靖国参拝している政治家は文字通り「政治的リアリズム」しか信じて
いないんではないか?死者の政治利用であります。かくして、僧侶たる私も死者の
経済利用をはかっているのは明々白々。

 生まれた国が日本だった。生まれた時代が戦争やってた。そして死んで靖国に祀
られる。生まれた家の宗旨が真宗だった。そして死んだら世襲の真宗の坊さんが来て
お経を読む。

 檀家さんが文字通り、生きているあいだに真宗の教えを喜ばれ、その後亡くなり、
残された方々が真宗で儀式を執り行われそこに僧として参列するなら問題はなさそう
だけど。

 生まれた家を縁として真宗に触れることもあると思うし、亡くなった人を縁として
真宗に触れることもあると思う。そしてそれが、一人称としての死を、一人称の生を
いかに引き受けていくかにつながっていくのだと思う。

 一見雑事に見えること、おせっかいに見えること、余行であるにしてもそれが
「きっかけ・機縁」になるかもしれないし、またならないかもしれない。

 けど、ぐっちんは、すけべ心で「なりわい」にいそしみますわ。面白くもない仕事を
惰性でやっていたくはない。飲み屋をやってたときは「待ち」の仕事でしたよ。
「ぼーず」の日もあったし。(ところによっては「お茶ひく」) 


らくりんさんへ(一提言) 投稿者:Genko  投稿日: 2月 7日(木)11時36分15秒

それならば、こんなふうに考えてみればいかがでしょうか?
「対価」というのは本来、必ずしも金銭(流通貨幣)で支払われるとは限らない、
ということです。
経済学や文化人類学でいう<互酬制>という概念がありますが、
@モノに対して別のモノで支払う、Aコトに対して別のコトで支払う
Bコトに対してモノで支払う、等々いろんなケースが想定できます。
モノやコトを悉く商品化し、需給関係を流通貨幣でしか交換できないように
したのは、あくまで近代以後全面化した<資本主義>制度のせいです。
しかし、我々の生活過程には、どうしても全的に商品化できない部分(=外部)があります。
たとえば、"欲しかった趣味の切手を要らなくなったゲームソフトと交換する"場合
(上記@に該当)、或いは"子供がおばあちゃんの肩を揉んでやる"場合(上記Aに該当)、
そして、坊主が七回忌のお参りに経をあげたコトに対し門徒が米五合をお布施する"などは
まさに上記Bに該当するケースでしょう。
これらの場合に共通しているのは、おのおのの対価性が一定の価値基準を持っていない、
ということです。その場の互いの気分で決まってしまうと言っても過言ではない。
親子間の養育や男女間のキスやセックスという行為にも、
無償に限りなく近い<互酬性>が特徴です。
考えてみれば、今日の福祉行政に大いに貢献しているNPO活動や各種ボランティア、
医療や地雷除去運動等に従事するNGO活動、
地域通貨(レッツ)を媒介とした限定的交換経済等々は、
従来の伝統的経済観念を根底から変えるオルタナティヴな<生産/消費>関係
を提示しつつあると言えるでしょう。
ですから、もし仮に、貧しさ故に病院にも行けなかった路上生活者が己れの死に直面して、
お経を読んでくれという最後の願いをかなえることのできた近所の坊さんは、
彼のたった一言「ありがとう」という感謝のことばが、
流通貨幣以上の立派な「対価」でありうると言う事ができるのだと思います。
サービス業というのは、今日の<高度消費資本主義>社会の下であっても、
三(四)次産業的「生業」以外にも、四・五次、五次産業→n次化していく可能性
がこれからもあり続けるだろうし、
反対にゼロ次元化(=「対価」なき純粋ボランティア)していく可能性すらありうるでしょう。
私たちは、少しでも維持可能(サスティナブル)な未来社会を構想・実現するために、
こうした両義的な労働(生業)概念を、さらに豊かに形成していく必要性を感じます。
僧侶という「生業」は、ひょっとすると、
ささやかながらその一助たりうるのではないでしょうか?


「暇つぶし」 投稿者:らくりん  投稿日: 2月 7日(木)09時09分08秒

今のやりとりは「生業」という意味、つまりものやことを提供することに対して
対価をいただくという意味での「サービス業」ということで問題にしているつもり
です。

>衆生が「求めていること」が「手に入ること」は、とても重要なことではないか
>と思うのです。少なくとも、その内実を熟知しておくことは。現在の日本ならば、
>さしずめ多数の「突然銀行からの融資を打ち切られ、従業員を抱えて途方に暮れ
>る中小零細企業の経営者」とか、多くの「家族や家のローンを抱えてリストラさ
>れた中高年サラリーマン」などにとって、資金繰りのカネや常用的雇用機会は、
>求めていても手に入らない段階に入っています。また、不本意な戦禍に見舞われ、
>今日のメシにもありつけない数百万のアフガン難民らにとっての食料や衣料、
><平和>を半世紀近くにわたって希求してきたパレスチナ難民らにとって、世界
>の多くの宗教家は、声高に「救済」を訴えかけています。
私もこういうことどもに関心をもったり、少しでもできることをやることは大事だ
と思います。ただしかし、そのことは「浄土真宗」の「僧侶」が対価を得るという
意味での「サービス業」の中身なのでしょうか。それは「浄土真宗」の「僧侶」に
対して「生業」として「求められている」ことなのでしょうか。

私は、法事をしてもお葬式をしても法話をしても、自分が「提供できた」と思える
こととその後でいただくものとはとても釣り合いがとれているとは思えません。
「提供したものやこと」に対する「対価」として頂戴するということであるならば、
おこがましくてとても受け取れません。「おこがましさ」は、「やましさ」
「うしろめたさ」「はずかしさ」と言ってもいいかもしれません。

何か、議論を読んでいると真宗の坊さんは「対価に見合うだけの中身を持たなけ
ればいけない」という具合に読めてくるんですが、
少なくとも私に関するかぎり、自分が日常的にやっていることについて、
「対価」に見合うだけの中身を持たなければいけないと言われると、
辞めるしかない。
私が、真宗僧侶として後ろめたさを感じることなく「対価」受け取れることがあると
するならば、それは「信心」と「仏法」しかないのではないかと思います。
しかし、私は自分はそれを「提供できる」とは言えない。
お寺の門の前に「信心売ります」「仏法あります」という看板があったらどう
思いますか。それはとても変でしょう。
そういう看板が上げられない以上、私の言語感覚から言わせてもらうならば
「業」とは言い難い。
もし、私たちに何か「できる」ことがあるとしたら、その機会や場を準備すること
だけです。そこから先は、何かが動き始めるのを、そして何かが起こるのを
「待つ」しかない。
 場所や機会を準備して、あとは「ひとりばたらき」が起こるのをただ待つ、
そのことを指して「サービス業」と言い得るなら、私も坊さんは「サービス業」
だということに全面的に賛成します。
しかしそれをはたして「業」と言えるのだろうか。
やっぱ「待つ時間」を確保するにはその間なにかをして食って行かなければなら
ない。もしかしたら一生待ちぼうけになってしまうかもしれないが、
私は、「待つ時間」と「待つ時間」を得るための収入を得るために必要な時間
以外の「暇つぶし」にいろんなことに首をつっこんだりしています。
その「暇つぶし」は、決して「業」としての「サービス」ではありません。

>お経はお釈迦さんや親鸞さんから私達へのメッセージなんですよ
と「言う」以上は、そのメッセージを自分の受け止めたところを、
自分なりにお話しするしかない。
「メッセージなんですよだから、関心をもって自分でよく読みなさい」
ではすまない。


そうなんですが 投稿者:おじき  投稿日: 2月 6日(水)19時25分02秒

らくりんさんのおっしゃることは至極当然な事ですが、現実に私は檀家さんからお寺さん
と呼ばれ、「ありがたいお経」をお勤めする事を求められています。教えに関しては僧侶
も門徒も関係ないと言う事がほとんど伝わらない。思い上がりにとも言える僧侶の特権意識は
誰が作り上げ維持してきたのか、まさに僧侶の側ではないですか?確かに、お寺さんを提供する側、檀家さんをされる側と分けたのは私の思い上がりでした。さっきもご門徒宅でいっしょに
お経をお勤めしませんか?と声かけましたが、すぐに途中でお茶を入れに行きはりました。
でお茶を飲みながら「お経はむずかしいですね、よく覚えてらっしゃいますね」などと言われ
「でもお経はお釈迦さんや親鸞さんから私達へのメッセージなんですよ、私達一人一人が主体的に受けとめれば、阿弥陀さまのお心が伝わってくるでしょう云々・・」てな様になんとかできる事をやっているつもりなんですが・・・。ご門徒の僧侶に対する本音が知りたいです。


らくりんさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 2月 6日(水)17時47分26秒

私は、衆生が「求めていること」が「手に入ること」は、とても重要なことではないかと思うのです。少なくとも、その内実を熟知しておくことは。
現在の日本ならば、さしずめ多数の「突然銀行からの融資を打ち切られ、従業員を抱えて途方に暮れる中小零細企業の経営者」とか、多くの「家族や家のローンを抱えてリストラされた中高年サラリーマン」などにとって、資金繰りのカネや常用的雇用機会は、求めていても手に入らない段階に入っています。また、不本意な戦禍に見舞われ、今日のメシにもありつけない数百万のアフガン難民らにとっての食料や衣料、<平和>を半世紀近くにわたって希求してきたパレスチナ難民らにとって、世界の多くの宗教家は、声高に「救済」を訴えかけています。
浄土真宗にしたって、宗門をあげて、戦争に反対してきたではありませんか。
かつてわが国の鎌倉期等においても、干拓事業や治水工事に従事してきた仏教系僧侶もいたのです。
むろん私とて、いわゆる「色」の世界への拘泥ではなく、釈迦の理念の伝達や具現化こそが、仏教の本願であると信ずる者です。
しかし、大乗の歴史的意義とは、まさにある種の「仏教原理主義」に陥らず、衆生の欲望(色)や煩悩を、そんなものは「空」に過ぎないと言って、決して唾棄しなかったことにあったように思います。鎌倉仏教の真髄は、釈迦の理念はそれとして認識した上で、衆生の世界を共に生き抜くことにおいて、いわば方便として仏教を流通させていった戦略にあったように思います。
法然や親鸞の「南無阿弥陀仏」は、まさに衆生の「求める」様々な生存の欲求(充分な食料が欲しい、病の痛みから解放されたい・・・といった)に対し、まずは希望を与える必要から生じたような気がします。
確かに、こうした現実に対し、「僧侶に何が出来るか」と言った問いは、別の問題ではあります。
だから、らくりんさんの言うように、何も「使命感」に燃える必要などさらさらありません。
しかし、わが親鸞さんは、かつてその「ややこしい役目」をさんざ引き受けたおかたではありましたよね。


人に聞かなければわからないなら…… 投稿者:らくりん  投稿日: 2月 6日(水)16時54分39秒

求めているものやことが手に入ることが本当に必要なことか。

人は自分が求めているものが何であるかを、それが得られる前から知ることが
できるか
自分が欲しいと意識されていることが、求めていることと同じであるかどうか

仏教は、求めているものことが手に入ることを実現させる
(欲求の充足/煩悩が満たされる)ための教えか。

お寺さんと檀家さん、お坊さんと門徒さんという意識を引きずっているのは
どちらにとっても不幸であるような気がします。

サービス業として割り切ってできる部分だけで、
坊さんとか寺の仕事を考えるならば、教えなんかは必要ないんで、
そこを何か布教とか伝道ということと結びつけて考えようとするところに
無理があるような気がするんです。

教えに関わる領域では坊さんも門徒さんも関係ないのでは、
そこのところで、坊さんは提供する人「檀家」さんは提供される人
なんてことを考えるのは、坊さんの思い上がり/勘違いではないかと、
私は思います。

だからと言って何もせんでいいというわけではないのだが、
「伝わってほしいこと」「伝えたいと思えること」が伝わっていくように、
それが実を結ぶかどうかはわからなくても、できることをやっていくしかない。

「伝わってほしいこと」「伝えたいと思えること」がないのに、
あるいはそれが何かもはっきりしていないのに「立場上の仕事」として
「何かを」伝えなければならない」という「使命感」に燃えたりなんかすると
かえってややこしかったりするんでないかしら。


(無題) 投稿者:おじき  投稿日: 2月 6日(水)15時56分47秒

現実的に浄土真宗のお坊さんに求められている「もの・こと」とは
どういうものなんでしょうね?
檀家さんの意識とお寺さんの意識はどれだけ違うのでしょう?
お寺さんが提供したい(できるかどうかは別として)と思う「もの・こと」と
檀家さんが提供してほしいと思ってる「もの・こと」との違いです。


産業? 投稿者:Genko  投稿日: 2月 6日(水)13時36分37秒

同じ「職業」でも、宗教にたずさわる者は、広い意味での<産業>社会を逸脱していることは確かだと思います。(狭義には、資本主義社会を)
以前に私は、それを三(四)次産業に思わず位置づけたことがありましたが、らくりんさんのご指摘のように、幾分疑問の余地は残ります。
ただ、資本主義は、己れにとってのあらゆる<差異>や<外部>を、絶えず<再領土化>し、それによって再び拡大再生産しながら延命していきますから、宗教が<外部>という逸脱領域を産出していても、すぐに<捕り込み>を開始します。
捕りこんだ<外部>が、大橋巨泉のような<バグ>でありえたなら、幸いです。


社会学的再定義 投稿者:Genko  投稿日: 2月 6日(水)13時13分19秒

<埋葬>一般と<葬儀>。<仕事>一般と<職業>。<婚姻>一般と<結婚>。
これらのうち、前者はある種の類的な「普遍的概念」です。
しかし、後者については、おおむね近代以後に成立した歴史的・社会的な「制度的観念」です。
したがって、前者は人類が存続する限りにおいてそのまま残存し続けるが、後者については時の政治/文化/社会形態(=パラダイム)が変化していく限りどこまでも変容していく性質のものと考えられます。


サービス業? 投稿者:らくりん  投稿日: 2月 6日(水)09時26分05秒

サービス業ですか、そういう部分もあることはあると思うんですが……?
それだけでは本質的な部分で的を外してしまうことになるように思います。

サービス業というのは、床屋さんとか旅行代理店とかその他いろいろありますが、
顧客が求めることやものを提供「できる」というということが大前提になっている
はずです。
そのための技術、知識、情報といったノウハウを保有していると。
「できる」ことを提供する、「できる」ことしか提供できない。

浄土真宗に求められている「こと」というのは提供「できる」という前提に
立つことができるか。

自分がそれを提供「できる」と言えるかどうか、
逆に、「自分はそれを提供できる」と「言う」人が目の前に現れたら
その人に対して何を感じるだろうか。

「できる」とは「言えない」けれど「やろう」とする「やりたい」という
意欲を持ち続ける。
私としては、そういうようなところでやっていくことになるんだろう思うんですが、
提供すべきことやもの(サービス)を提供できるかできないかは、
まったくわからない、
それを、はたして「職業」と言ってもいいんだろうか。




(無題) 投稿者:おじき  投稿日: 2月 6日(水)06時36分36秒

私も以前はそうだったんですが「葬式仏教」を批判する時は必ず葬儀にかかわるな
という釈尊の遺言を持ち出しますね。でもその批判では現実は何も変わりません。
実際今の僧侶が葬式・法事・墓・法(戒)名などでご飯を食べている事は歴然とした
事実であり、檀家さんも第一義的には僧侶に対しそういう仕事を求めています。
そういう現実の中から少しでも理想に近い葬儀や法事のあり方を追求せなあかんやろ
というのがぐっちんさんの意見だと思います。一足飛びに葬儀や法事が無くなるわけ
ではないのですし、原理主義(教学論、精神論)だけでは現実を見失いますから。
では具体論としてここを見ていらっしゃるお坊さんはどういう取り組みをなさって
おられるのか体験談や意見交換ができればいいなあと思います。私は法名の話しは一度は
するようにしています。今では死者につける名前になってますが、本来は生きてる人が
頂くものですと。仏教が本来は生のもを扱う教えなんだって思ってもらえればうれしいな
と思います。私のまわりではほとんどの檀家さんが仏教は死者のものと思ってますから。


対機説法 投稿者:おじき  投稿日: 2月 6日(水)05時33分05秒

釈尊の教えを仰ぐ者には4種類あり、ビクシュ=男の出家者、ビックニー=女の出家者
ウパーサカ=男の在家信者、ウパーシカー=女の在家信者です。釈尊はそれぞれに能力
地位、知識、適切さなどを考え様々な教えを説いたと言われます。ただ現存しているのは
出家の比丘教団が護持してきた経典・戒律なので、実際釈尊が在家にどのような教えを
説いたのかははっきりわかりません。ですから阿弥陀仏信仰は完全に後世の創作である
とは言い切れないのです。また現存している出家の比丘教団が護持している経・律・論の
三蔵(パーリ語聖典)は経典成立史から見ると最新のものと言われております。今現在、
最古のものは紀元前後に漢訳された初期経典だと思われます。その中には阿弥陀仏信仰
を説いているものも含まれています。自分が出家の比丘を目指すのなら俗世間の事柄は
断たねばなりません。そうではないのなら俗世間の事柄も無視できないと思います。


おじきさんへ。 投稿者:Genko  投稿日: 2月 6日(水)05時20分56秒

「仏舎利塔」というのは、それが確かに釈迦本人の遺物(骨)であるという科学的根拠は全くない、というのが、仏教学の定説です。むしろ後世の伝承の中で、虚々実々形成されてきた<表象的物語>の産物ではないのでしょうか?
もっとも、確かに「〜と、されている」コトを「信ずるか否か」が、宗教的信仰の岐路ですから、私もまた、個人的にはそれを「信じたい」のですよ。
それから、インド的「ストウーパ」と、儒教的な「墓」というものは、全く意味も性格も異にするものですから、単純にこの二つを同列に論ずることは問題が多いと思われます。


もう一つ。 投稿者:Genko  投稿日: 2月 6日(水)05時05分50秒

ラーメン屋の喩えは面白かった。
しかし、この程度で実際コトがかたずくのならまだしも、この度の「雪印食品」の例のようにならなければ良いと願います。
食肉加工の「プロ」たちが、プロずれのあげく、顧客(消費者)を完全に見失っているケースです。現代のブッディストの一端を担う筈の「僧侶」というプロにとっても、「誰のための仏教か」という問いは、すぐれてリアリティーのある形で目の前に突きつけられています。


(無題) 投稿者:おじき  投稿日: 2月 6日(水)04時59分51秒

釈尊の足跡は文献学上はっきりしたことはほとんどわかりませんが、現存の経典
によれば、死の直前釈尊は出家の比丘には自分の葬儀に関わるなと言ってますが、
逆に在家の信者に自分の死後の葬儀や遺骨処理はまかせると言ってます。在家の
人々が釈尊の遺骨を持ちかえり、塔(ストゥーパ)を建てて信仰の拠り所として
います。だからインドの寺には釈尊の遺骨を納めた墓=塔はたくさんありますよ。
インドや東南アジアにおける「出家の比丘」なら葬儀や墓に関わらなくても修行に
打ち込めたのでしょうが、インドの在家菩薩や東アジアの僧侶は修行者だけでなく
司祭者の役割も担っていますね。葬儀や墓を単純に儒教の影響とは片付けられません。
まあ今現在の日本の葬儀や墓のスタイルは多分に儒教の影響は大きいでしょうが。


ご指摘ありがとう。 投稿者:Genko  投稿日: 2月 6日(水)04時55分51秒

おじきさんへのご返事。
厳密に言うと、インド古代思想にある「アートマン」「ブラフマン」は、儒教的な「霊魂」の観念とは、だいぶニュアンスが違うと思われます。我々の「霊魂」観は、むしろ後者に近いのでは?
また、釈迦当人は経典を書き残していませんから、多分「極楽浄土」観は、入滅後だいぶ経過してから、古代北部インド諸思想(宗教)の影響を相当こうむった人々の手によるものでありましょう。


(無題) 投稿者:おじき  投稿日: 2月 6日(水)04時34分04秒

Genkoさんちょっと指摘させていただきますと、「霊魂」も「あの世」もすでに古代の
インド思想の中に十分確認できますゆえ、単に儒教の影響だけではありません。
「極楽浄土」を説いた経典はインド原産です。「アートマン」はまさに霊魂思想です。

お寺さんの持つ「プロ意識」が、お客さんの求めているものをすっ飛ばしてるんでしょうね。
がんこなラーメン屋が「うちの店のしきたり」をやかましく言い過ぎて、
せっかくおいしいラーメンがあるのに、お客が寄り付かなくなってるという感じに似てる。


(無題) 投稿者:おじき  投稿日: 2月 6日(水)04時16分37秒

お寺さんが「顧客」のニーズを把握していないのが現状ですね。
それは「職業」と考えているお寺さんが少ないからではないでしょうか?
やはり「お客様アンケート」でもとって両者のギャップを認識しないとね。
お客さんが本当に求めているものは、きっとお寺の中にもあると思います。
在庫一掃、大蔵ざらえして掘り出せば見つかると思います。


「葬式」と「仏教」 投稿者:Genko  投稿日: 2月 6日(水)04時14分10秒

本来的に、「仏教」と「葬式」とは、原理的に何らの関係もないものです。
歴史的には、原始仏教が中国に移植された段階で、既に支配的であった古代「儒教」の<霊魂降臨信仰>との対抗上、当時の仏教勢力側がやむを得ず受け入れたのが実情です。
中国及び日本の墓が、しばしば寺の境内に存在するのも、明らかに「儒教」の影響です。
釈迦そのひとは、入滅前に、残された弟子たちに対して、自分の「葬式」や「墓」を依頼したことは、伝承としても記録としても、まったくありえないのでした。
ですから、「あの世」とか「三途の川」とか「霊魂」などといったおなじみの諸観念は、あくまで儒教混入後の仏教の「大乗的一形態」に過ぎません。
この国の文化風土に合わせた布教のために真宗教学を学ぶことも、一つの方便として有効性が期待できますが、こうした現代仏教学の国際的成果を学んでおくことも重要な作業のような気がします。
ぐっちんさんの言う「遺産相続」という概念(おそらく、先日お亡くなりになったフランスの社会学者P.ブルデューのキー・タームが含意されているのですね)があらわす通り、確かに今日の仏教的「葬式」や「墓埋制度」もまた、「儒教」混入後の歴史的「遺産相続」に違いありません。
そうして、それがまさに「遺産相続」であるが故に、私の言う「既得権益」を構成するわけです。


トリックスターの役割 投稿者:ぐっちん  投稿日: 2月 5日(火)16時45分04秒

 坂田師匠似のスズキさんとか尿瓶党はいぜん個性派ぞろいです。

 でもまあ、NGOとかと共存していかなくちゃ仕事になんない
ことがいまだ分かってない外無省って、前世紀の遺物ですねえ。

 ぐっちんは虚協だのセルフグループだのマジシャンだの寺域通貨
だのハコだの異業種用語を使って「仏教」や「真宗」や「僧侶」や
「教学」が違ったふうに見えないかなあなんて試みさせてもらって
ますけど、「一歩引いて見る」というより、みんな「引いちゃっ」てるカモ。


遺産相続 投稿者:ぐっちん  投稿日: 2月 5日(火)15時13分21秒

 人の為と書いて偽りと読むだねぇ〜って確かお東のパンフレットの
類に載ってたコトバが今もミョーに頭に焼き付いていますけど。。。

  残された者たちが、故人の死を、「意味付ける」。。。
 
 らくりんさんのご著書の前書きに推薦文を書かれている、菱木政晴さん
から14年も前に受けた授業の記憶があるんですけど。
 
 「英霊」たちが靖国に祀られているのが問題アリといろんなトコから
指摘されているけど、それじゃあ千鳥ヶ淵やら国立墓苑にまつればいいのか
というとそんな問題でもない、とかなんとかいう内容。

 そら、ご門徒のおばあちゃんたちも「生きてるモンのために葬式はあるん
やね〜」とかよく言われました。

 こないだ立ち読みした本に朝日文庫の『お葬式〜ハプニング編』というのが
あって、葬儀社の司会の方が、もう十年も前に出した本。そこで、3つぐらいの
お子さんが亡くなったお葬式に著者が立ち会われるのだけど。

 その時、その方の脳裏には「キサーゴータミーとお釈迦様」のエピソードが
浮かんで、後日、喪主さんに手紙で送られたというエピソードが載ってました。

 喪主さんたちが、〈喪の仕事)をするに当たっての情報提供をされているの
だけど、そのエピソードの前に生活保護世帯のお葬式に呼ばれたどっかの坊さん
がお布施の額が少ないといって怒る場面があって、対称的でした。

 「職業」として、顧客へのサービスを第一に考えるという倫理(?)は、ぐっちんは
大切なものだと思います。


「文化」 投稿者:らくりん  投稿日: 2月 5日(火)11時21分33秒

一昨年来、大谷派以外のところ(主に本願寺派ですが)にも招かれることが
時々ありまして、
けっこう、いろんなことで「違い」に気づくことがあります。

もちろん「同じに見える点」「似ている点」も多々あるのでしょうが、
そういうことどもは、両方に無関係の人からみて初めて「似たり寄ったり」という
具合に見えるもんであって、「同じ/似ている」当事者にはあまり意識されること
は少ない。私も一方の当事者ですからそういう同質性には気づきにくい。

そんな中から自分たちが何気なく、当たり前だと思っていたようなことで、
よく考えればすごいことなんだと思うようなことももありました。
その一つが、私たちの持っている「出版文化」です。
雨後の竹の子のごとく次々といろんな印刷物(機関紙、冊子、本)が作られて、
有償・無償で配布されている。冊子と本に限ってみても、ほとんど2千〜3千部
ぐらい作られて、ほとんどがはけていっている。
制作し、それを着実にさばいてしまう配布網が存在し、
しかも地域的・全国的に組合わさったネットワークとして機能している。

コンテンツがあり、それを形ある物に仕上げるノウハウと熱意があり、
それを求めるけっこう質の高い読者層があり、
そしてそれを必要とする人の手に届けるネットワークがある。

一般の出版社や書籍販売会社のルートをまったく介さずに、
書店販売されることはきわめてまれな印刷物が、
年に何十点何百点(何百はちょっとオーバーかな)と生み出されているわけです。
私の書棚にもそういう印刷物が一角を占めています。
全体像は誰もつかめないけれど、日本各地でそういうことが何百年も続いてきて
いるわけです。
これがいわゆる一般的な意味での「出版」と言えるかどうかは別として、
私はこれはりっぱな「出版文化」だと思います。

東本願寺出版部というのは、私が言うのもなんですが、体制も貧弱ですし
まことに頼りない現状ですが、それを補って余りある出版文化を持っている
のではないかと思います。

五木寛之の『風の王国』とまではいきませんが、
全国につながっている人脈のネットワーク、
これだって一朝一夕に作れるもんじゃない。けっこうな財産だと思います。

こうした財産を充分に活かしきれているかどうか、となると、
そこがもったいないなぁ〜。


老眼が進行か? 投稿者:らくりん  投稿日: 2月 5日(火)10時42分41秒

ぐっちんさんの「〈喪〉のお仕事」の字がパッと目に入った瞬間
「袁」→「猿」の連想で
「〈猿〉のお仕事」
に見えてしまいました。そして「何もそこまで卑下しなくても」と。
読み始めてすぐに気がつきましたが……(∞;)

いよいよ老眼が進行段階に入ってきたか、
いやいや、まだここは、ディスプレイの表示性能のせいにしておこう。

もっとも「袁=猿のお仕事」というのも、見方によっては……。

最近、あらゆることに「意味(義)づけをせずにおれない人間」ということが
頭に浮かんでいます。
田中・鈴木・野上の三人をめぐる悶着にしても、永田町&霞ヶ関の中でだけ
通用する「意味(義)」の中だけでしか考えられていない。
そしてその意味場(某派教研所長のお得意の語です)の中だけで
つじつま合わせをして
何事もなかったかのような顔をできていしまう「感性」が信じ難い。
日本人はもとより、この騒動に注目した各国の人々の物笑いの種以外の
なにものでもない。
「外務省」改め「害務省」の名を進呈しなければならない。
そしてせめて「害無省」ぐらいにはなってほしいものですね。

誰だって、自分がやっていることは「有意味(義)」だと思いたい。
でも、一歩目を外に転ずるなり、意味場を広くとらえるだけで、
それが時としてきわめて「陳腐」なものにすぎないということがありますね。


ぐっちんさんのBへの補足意見 投稿者:Genko  投稿日: 2月 5日(火)05時39分43秒

たとえば、近親者や最愛の者の<死>に遭遇する。。。
この絶対的な現実をつきつけられた我々は、欲望や執着心の故に、しばし耐えがたい感情に襲われるものです。
むろん、人間は「忘れることのできる存在」でもありますから、やがて時がゆっくりと癒してくれはするのです。
しかし、直後は、しばらくの間、解決のしようのない喪失感に苛まれることでしょう。
ですから、「故人に対して精一杯のつとめをはたしてあげたい」というよりも、残された我々にとって、その冷厳な絶対的事実を、どこか理性で納得したい、心に落としどころを設けたいというのが、偽らざる心境なのではないでしょうか。
古代以前から脈々と続けられてきた「埋葬」や「弔い」とかの心理的発生基盤は、このあたりにあるような気がしてなりません。
原始的な「埋葬」に花がたむけられ、合唱が混入し、呪術師が言葉をかけた時点から、今日の線香や宗教家による読経に至るまで、そう距離があるとも思えないし、本質が変わったとも思えません。葬式や法事における「故人に対して」というのは、あくまで美しいタテマエであって、実は、残された我々の、故人への執着心や我儘を隠蔽するための言い換えに過ぎないのだと考えます。
即ち、溢れ出る「悲嘆」という切実かつ我儘な感情に、「あの世」とか「天国」とか、いろんな想定を総動員してまで、ある種の「切断線」を入れて沈静化するための、人類の知恵の一つなのではないでしょうか。(民俗学では、「魂(タマ)しづめ」と言ったりしますね。)
この先、時代が変われば形も変化するでしょうが、人間が豊かな感情を持つ動物である以上、このことの本質は、そう変わらないと思います。
金持ちのケバイ葬式や、豪華絢爛な社葬などは、まったく無駄なことをやっている訳ですが、残された我々の、そうした我儘の上に、多分それと気づかずにもう一つ虚栄心やら見栄などといった別の我儘が乗っかっているだけの話ではないかと考えます。
よほど冷酷な人間ならいざしらず、基本的にはこれがまずあって、@とかAとかは、残された我々の頭の中で本末が転倒した結果、派生的に後から出てきた勝手な理屈という気がしますが・・・。
ただし、かく言う私は必ずしも今日の「制度化された埋葬」を一方的に肯定している人間ではありませんが。
いかがでしょうか?


喪のお仕事 投稿者:ぐっちん  投稿日: 2月 4日(月)14時24分05秒

 先日TVを見てたら堤裕司という人のゴーストバスター、幽霊を捕獲するという
番組をやっていました。何でもフランス人だかの霊が出る建物を取り壊さなければ
いけないのだけど、従来の霊媒師のパワーではラチがあかないのだというイワク
いんねん付きの物件に最終兵器として登場!!みたいな設定。

 堤さんの霊解釈は簡単に言うと「幽霊を見る側の人間の潜在意識が、物質情報と
シンクロしている」という分ったようなワカランものです。この人は、又建前とし
てのノンフィクションに強くひかれるというし「多くの人は不思議な現象を求めて
いるし、それが超能力であってほしいと願っている」とも言っています。つまり、
不思議な事はあって欲しいと人々は願っている。その夢は壊しちゃいけない派、だ
と思います。

 そもそも幽霊の目撃談を解釈するのにいくつかあると思います。@その報告がつくり
話である。または何らかの見間違いである可能性Aその体験自体は「ほんとう」だけど
夢や幻覚であったという可能性B「ほんとう」に超常現象が起こったと考えられる可能
性。

 Bはさらに@)霊魂仮説。体験者の心理状態いかんにかかわらず、実体として霊魂が
存在し、それが体験者にあらわれたという説 A)ESP仮説。超感覚的知覚によって
体験者が「ここは幽霊が出る」という情報などをもとに体験者の脳があたかも幽霊を見
たとして情報を処理したという説。堤さんの説もこれに入ると思うけど、「幻覚」とか
「妄想」とどう違うのかぐっちんにはよくわからない。アメリカの大学の「超心理学」
という講座では、この仮説によって研究が進められているといわれます。

 とかく、この手のハナシは、「無批判に信じる」派と「あたまごなしに拒絶」派の真っ
二つに分れやすい。らくりんさんの本でも浄土を「ない」というのは「ある」と断言する
のと同じく有無の見にとらわれているのだというお話がのっていましたけど。

 さてぐっちんは何が主張したいのかというと、檀家さんが葬式ないし法事をつとめるの
には@親戚がうるさいから、世間のしきたりとしてするAしないとやっぱりタタリがある
かもしれないという恐れからするB仏教の教義そのものについてはわからないが、故人に
対して精一杯のつとめをはたしてあげたいからする といった理由などが考えられます。

 で、欲を言えばBのお気持ちを通じて、アミダの本願につながっていただければ嬉しい
なという気持ちで仕事をしたいなと思う。Aに関しては、浄土真宗の教義からは、「霊魂」
などは認めない云々という上からのおしつけでなく、事実をまず明らかにし、何が残された
ものの仕事なのかに施主さんもお坊さんも考えていくことが大切だと思うんでございます。
さて皆さんはどう考えられるのでしょう。


訂正 投稿者:Genko  投稿日: 2月 4日(月)14時12分59秒

どうも、最近は、歳のせいかアルツハイマー気味でして・・・。
前回の投稿文中の「見過ぎ」は、「身過ぎ」の間違いでした。
また、前々回の投稿文中の「『職業としての政治家』」は、「『職業としての政治』」の間違いでした。
お詫びして、訂正いたします。


お応え 投稿者:ぐっちん  投稿日: 1月31日(木)13時02分49秒

 「坊主」「僧侶」は職業だと思います。
「仏教徒」「念仏者」「真宗門徒」は
アイデンティティ(帰依処)ですけど。


質問(ぐっちんさんへ) 投稿者:Genko  投稿日: 1月31日(木)05時11分37秒

そうすると、やはり「坊主」というなりわいは、他の近代以降の諸職業(医者・弁護士・教師・会社員・自営業者等々)と同じように、あくまで「見過ぎ世過ぎ」のひとつに過ぎないわけでしょうか? 昔からしばしば、世人は「見過ぎ世過ぎはくだらない」と言い習わしてきたものですが・・・。


構造改革断行! 投稿者:ぐっちん  投稿日: 1月30日(水)20時41分11秒

 既得権益ですか。真宗のお坊さんは、そら高祖派ですから。。。

 お釈迦さんの時代は、お金持ちのボンボン口説き落として出家させ、
財産をお布施させたり、国王クラスのパトロンさんもいてはったこと
やし。全ての権益を捨て去って、別にかすみ食ってたわけやおまへんと
思いますけど。

 以前にもこの板に書かせてもらったように、宗教は互酬もしくは、再分配
装置だと思いますので、宗教法人のお金として入ってきたものを、組合員さんに
どのような形で配当するかということに意識的になればと。


 それは、別に物品、金品でなくとも、情報やサービス提供という形でもありうる。
(もともとは法施というんでしょうけど)住職がコーディネーターという形で、
組合員さんの具体的な苦悩に対する的確な機関につなぐなりなんなりはやろうと
思えばやれるはず。

 アウトソーシング。いわゆる外部発注です。坊さんが何でもかんでも
できると思うのが間違いだし、逆に「精神論」ばっかり説いてるのも時代
錯誤のような気がする。(いいわけとしての教学研鑚、あるいは市民運動
への取り組みも菩提心の停滞を思わせる。東京にできた「親鸞仏教センター」
の通信にも、教義学や文献学は現代の苦悩に正面切って答えることがない
とある)

 でもまあ、娯楽を提供する意味でも「芸」を磨き『説教板敷山』なんか
みんなでお稽古するのもまた一興ですな。。。


職業としての「僧侶」 投稿者:Genko  投稿日: 1月30日(水)03時42分14秒

マックス・ウェーバーは、近代以降の「政治家」を、明確に「職業」として既定しました。(『職業としての政治家』)
私の住職は「僧侶は職業ではない」と断言しますが、セルフヘルプグループは別として、現代社会においては、やはり僧侶というのは、客観的には職業ではないかと思われます。
その証拠に彼らは、公文書等の「職業欄」には、きっとそう記入するだろうからです。
ぐっちんさんの言う常設の「ハコ」というのは、一つには「寺」のことではないですか?
私はそれを、何らの悪意を込めないで、単に「既得権益」と呼びます。
ですから、すべての権益を捨て去った「サンガ」というのは、既に寺という「ハコ」を持ってしまった僧侶からは、より遠い存在ではないでしょうか?
私は、己の「聖性」を強調する僧侶より、どうしようもなく俗世間の「煩悩」を抱え込む、自己矛盾としての僧侶の方が、はるかに正直な気がします。(それが愚禿親鸞の良いところでした。)
確かに、今日すべての仏教系宗教団体は、それが擬似近代的な「組織」という体裁をとっている以上、釈迦の時代の「サンガの共同体」とは質的に違い、その団体及び所属する諸個人の既得権益を護持するための「虚業協同組合」に他なりません。
さもなくば私達は、かつてのサンガのありようを振り返る必要性など、まったくなくなってしまいますよね。




節談説教 投稿者:なまぐさ  投稿日: 1月29日(火)20時12分09秒

小沢昭一のCDで節談説教”板敷山”を聞きました。
今時の法話より緊張感があり、訴えかけるモノがありました。
誰か晨朝法話でしてくれないかなぁ。

通りがかりの坊主の独り言でした。


問題点 投稿者:ぐっちん  投稿日: 1月29日(火)13時39分21秒

 虚業協同組合(現前サンガあるいはセルフヘルプグループ)は、
常設の自前の「ハコ」を持っているわけで。。。
 呼び込みがもっぱら仕事の専従さんは、たまに自分も前座で
イロモノ芸を披露したりなんかして冷や汗かく事が多いのですが。。。

 トリをつとめる真打ちは、もちろんアミダさん。桂米朝、柳家小さん
クラス。(つまり重要「無形」文化財)
 
 ということは、イコール組合員さんおひとりおひとりの口から漏れ出る
お念仏が主役であります。でも近頃は、真打ちが登場せずに、ど偉い先生
とやらがどこがオチなのかわからんかくし芸をご披露なすった後、質疑応答
という時間があって、質問も何も出ないまま終わりってな舞台が多いですな。
これじゃ、組合員さんお金を出し合って寄席に足を運んでるかいがないや。

 ほんらい、真宗のお座は組合員全員をまきこんだ大喜利(おおぎり)大会
(グループカウンセリング)じゃなかったかな?で、その芸もマンネリ化して
若手が育ちませんな。でも、海外公演なんかやっちゃったりすると珍しいから
逆にウケたりなんかして。。。

 でもってつけたし。空中浮「遊」と空中浮「揚」は違うんだとか何とか
おっしゃる方がいて。。。じゃあご自分で飛んで見せてよというと「今日は
体調が悪い」とか理屈をつけてしりごみなさる。 

 長い間生きてるとホントいやみな隠居じじいになってしまいますわな。


勿体 投稿者:らくりん  投稿日: 1月28日(月)16時56分48秒

qwさn、はじめまして、かな?(たぶんこのHNは初めてだと思います)。

内容からして、ぐっちんさんへのレスであろうかと思いますが、
もう一つおっしゃりたいことがどういうことであるのか、うかがいきれません。

>中観を否定神学と混同する人がいるように
では、私には何と何が混同されていて、それがどのように問題になるのか
そして、それがどうして「妙有」と「顕現」の混同に対比される
ことになるのか、その辺のことがなんだかさっぱりです。

また、それれ以前の問題として、qwさんが「中観」とか「否定神学」、
「妙有」とか「顕現」を
どのようにに「混同しないで」理解されているのかがまったくわかりません。

私は、ご自分の見解や領解をきちんと説明しないで、
「自分は正しい理解をしている」
とでも言いたげな「思わせぶり」な言説は、
けっこう気にかかってしまいます。
少なくとも、読んで後味がよくない。

もし、先の発言の趣旨が充分に展開されていくとすれば、けっこう面白い、大切な
なっていくかも知れないというある種の期待もありますが、
これだけで終わってしまうならば
「もったいぶって」いるだけということになり、
それでは「もったいない」。

「勿体ぶる」=必要以上に重々しく気取った態度をとる
「もったいない」=値打ちが充分に発揮されずに終わるのが惜しい


ハワイから 投稿者:らくりん  投稿日: 1月28日(月)09時15分58秒

※転載、ならびにお名前の掲載についてはご本人の了承を得ております。

∞∞以下転載∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

アロハ 開教使の皆様

ハワイ、カウアイの片州に住む藤森です。

一昨日マルチンルサーキング牧師の日に、
急きょ、4人のゲストスピーカーのうちの一人としてスピーチを頼まれて、
カウアイのショッピングセンターで話してきました。
おもしろかったです。
身内の本願寺のゲストスピーカーは断りましたが、
クリスチャンの中で話をすることを引き受け
話してきました。
これは、急きょプログラムの一部がキャンセルされて
そこの穴埋めに、僕が入ったのです。(笑い)

4人の立派な大きなキリスト教会の牧師さんが
次ぎ次ぎにスピーチをしていきましたが、
聴衆は、がやがやあまり耳を傾けていないようなので、
僕の時もそうだろう。もしくは、それよりももっと耳を傾けないだろうと
思いきや、僕の時だけ、拍手と頷きの叫びが聴衆から出てきて
驚きついつい興奮して、ゆっくりと間を取りながらまじめに真摯に
思うところを話してきました。
(原稿を作らずに話しました。)
前の日には、ワイメアの新年の法要をしたとき、
門徒はあまり耳を傾けてくれなかったのですが。(笑い)

外で話すと同じ話でもあんなにうけるとは、
しりませんでしたよ。身内で話すとまずい話も
外では、うまく聞こえるのですね。

内容は、我々、アメリカ、宗教が作っている暴力を先ず発見することの
大切さを訴えたのです。以下のようなことを話しました。

「僕は、仏教をプラクテイス(練習)しているものですが、
本日は、ここに立たさせていただいております。
キング牧師は、非暴力を追求された方ですが、
その非暴力を追求された前に、
彼は、暴力をはっきりと発見された方です。
今、世界、そして我々の住む地域は、
たくさんの暴力に直面しています。(聴衆深刻な顔をする)
先ずこれを発見せずしては、キング牧師の日を祝うということは
できないでしょう。

僕は、宗教は、大変危険なものだと知らされました。
宗教は、容易に争いの種になりやすいです。
僕は、1992年にカウアイにきたのですが、
前後たくさんの国を訪れました。
3年前にスリランカに行きましたが、
スリランカでは、幾人かの仏教徒と
ヒンズー教徒が、争っています。
仏教徒は、非暴力だとは、言えません。
それは、大変わるいことですね。

中米では、プロテスタントとカトリックが争っているのも
目の当たりにしました。

また、昨年は、フイリピンに行きました。
先週30人もの人が殺し合いで亡くなったところです。
そこでも争っています。

私にとっては、宗教は、導き案内であって、
必ずしも絶対正しいものではありません。(拍手)
それは、月をさす指です。
私にとっては、月は、平和、真実といったことです。
指という導き案内を通して、月という平和、真実を
見ていくのです。(声が高くあがる)

ブッシュ大統領が、「ゴット ブレス アメリカ」と強調してますが、
本当の神は、アメリカだけを祝福するでしょうか。
本当の神は、クリスチャンだけを祝福するでしょうか。
本当の神は、全ての国、全ての国々の人々を平等に
祝福するのではないでしょうか。(頷きの声)

この度アメリカは、アタックされました。
どうして我々アメリカ人がアタックされたのでしょう。
我々アメリカ人が暴力を作り第三世界を抑圧しているのでは
ないでしょうか。

今ある暴力を発見していくことが、大切だと思います。
キング牧師を喜ばせるためにです。」

たいしたスピーチでもないのですが、
すべてのプログラムが終わった時、何人かの聴衆が僕のところに
来て下さいました。
「宗教は、指なんだな。おもしろいな」とかいいながらの人もいました。
僕のすぐ前でスピーチをした白人の大きい教会の牧師さんは、
しょんぼりしていたのがみえました。
だって、彼の話は、キング牧師を英雄化し、説明していましたもの。
しかたがないですよね。

テクナットハーンが、

「もし、地域の人々と共にプラクティスするなら、
喜び、自由、平和に到達することは、もっと容易だろう。」とうようなことを
言ってました。
お寺の門徒ばかりでなく、
外と内両方で、仏教を聞きつつ暴力のこと地域の世界の問題を見ていくことが
どんなに目覚まさせてくれるかを
大変感じさせてくれるキング牧師の法要参加でした。

では

ふじもり


感想 投稿者:qw  投稿日: 1月28日(月)06時57分26秒

 妙有と「顕現」を混同する人もいるのではないかとおもふ。
 中観を否定神学と混同する人がいるように。


ギャートルズ 投稿者:おじき  投稿日: 1月28日(月)01時04分41秒

昔「はじめ人間ギャートルズ」というギャグ漫画がありました。
そのエンディングテーマにかまやつひろしの「やつらの足音のバラード」ていう歌で
「♪なんにもない、なんにもないまったくなんにもない。うまれた、うまれた、なにがうまれた。ほしがひとつ、くらいうちゅうにうまれた・・・♪」なんかいい歌でした。
何にも無いんだけど、エネルギー、いのち、光はあるんだよなと思う。
目には見えないけど。ないのにある「ないあるよ」はゼンジー北京←名マジシャン。


>狂信さんへ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 1月27日(日)16時57分18秒

 このあたりが、狂信さんがこだわりを持たれている
ドストエフスキーの「大審問官の章」とからんでくると
思うのですけど。。。(ちょっとマジモード入ってる)

 大いに、自説展開して下さい。

 
 さて、聖書のローマ書6章22節などには、「神の奴隷」と
いう表現が見えます。無自覚に世間につかっていることによって
まとわりついていた「罪」。神の奴隷になることによって、
神以外の何者の奴隷にもならないということ。キリストの信仰に
入ったことによって、罪の奴隷から解放されたということだと思います。

 
 根本虚構にのみ、絶対的態度を取るというのは、世間に広く
流通している虚構=幻想=偶像には一切、ひれ伏さないという
態度表明だと思います。

 キリスト教では、「神」は「実有」でしょうけど、仏教では、
仏さんは空=妙有じゃなかったかなあ?その違いがあると思う。


追記 投稿者:ぐっちん  投稿日: 1月27日(日)15時20分19秒

 つまり、客引き、ポン引き(にが藁)


虚仮不実のわが身 投稿者:ぐっちん  投稿日: 1月27日(日)15時16分08秒

 ですからねぇ、どこまでいっても。仏法不思議以上の不思議は
ないわけでありまして。。。
 
 そんでもって虚業協同組合専従書記(略して虚協)の
お仕事は、「お手次」「お取次ぎ」なんじゃないかしらん?

 この「不思議」に、一生驚かされ続けていきましょう。
目のうろこを落とされ続けていきましょう、とのお誘い。

 木●大サーカスよりもサルティン●ンコより、ハラハラ
ドキドキ、ワクワク、飽きないよ、楽しいよ(?)


題名を 投稿者:狂信  投稿日: 1月27日(日)06時05分13秒

「にもかかわらず、永遠に迷い続ける信への道」に訂正


否定され続ける信心さぶさぶ 投稿者:狂信  投稿日: 1月27日(日)05時56分59秒

救われたい、癒されたい、本当の自分になりたい、正しくありたい、幸福になりたい。。。

虚であるお念仏をご本尊とし、娑婆ではない浄土を願うことは、絶えることない自意識を客観できる有効な手段。

ところが今度は虚なる念仏までも、実としはじめる、仮なる私までを、
阿弥陀さんは、みてござる。笑うシカナイ


本人は? 投稿者:Maro  投稿日: 1月27日(日)00時31分01秒

 手品を演じている手品師は、必ず種を知っているわけで。。。
自分はだませないんだよね。
 で、まず、最初に自分があきちゃうのかな?


名手品師? 投稿者:おじき  投稿日: 1月26日(土)23時21分23秒

 観客も馬鹿ではないので、そうそういつまでも騙しつづけられるものでは
ないでしょう。だから観客を騙しつづけられると思っている手品師はいつか
飽きられると思う。大事なことは種明かしをして、うんうんそうだったのか
全然気付かなかった!という感動を観客に与えられるかどうかじゃないかな?
 全てが虚業の中でもその「感動」は真実だと思う。手品で凄いと思わせ、
種明かしでうーんとうならせる。そういう手品師が超一流なんでしょうね。


ぐっちんさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 1月26日(土)16時49分40秒

典型的<実業>というのは、例えば農業・漁業・工業・建設業など、一次もしくは二次産業の世界であり、ひとびとの生命活動に密接かつ必要不可欠です。
これに対して、政治・文化・情報・芸能芸術・教育・宗教などは、典型的な<虚業>であって、これがなくてもわれわれはすぐに死に絶えるというものではない。
しかるに、なべて<虚業>には、どうしてもある種の「胡散臭さ」がどこかに漂っている。
ひとびとの意識や無意識にさまざまな媒介を通して働きかける、特殊な雰囲気や幻想を産出します。ニーチェ流に言うならば「真理への意志」というものであり、意地悪く言えば一種の「知的詐欺」です。
むろん、イエスではないが「ひとはパンのみに生くるに非ず」ですから、われわれの生活に彩りを添えるものとして、こうした虚業的成果もまた必須アイテムの一つには違いありません。
三次産業や四次産業が今日最大の割合を占めていることが、その証左です。
知的詐欺的要素を伴っている以上、ある種の技術が要請されているのも、いたし方ありません。
宗教家にもまた、神仏・経典などという媒介を通して、ひとびとを導く技術が要請されています。
この技術が高度であればある程、知らない人から見れば、よりマジカルに映ります。
つまり、この構図が、「手品師と観客」の比喩に擬することが出来るというわけだったのです。
この場合、観客に、手品の仕掛けを次々に種明かしする手品師と、いっさい種明かしせず良い意味で騙し徹す手品師とでは、果たしてどちらがより優れた手品師と言えるのでしょうか?
というのが、僕の問題提起でもあったのでした。



マスクマンになるには 投稿者:MANU.  投稿日: 1月26日(土)09時59分36秒

まず自分がしっかり種を知ってなきゃね。
人に言う(説く)前に御聴聞御聴聞・・・
南無阿弥陀仏

http://homepage1.nifty.com/MANU/index.htm


マスクマン登場 投稿者:狂信  投稿日: 1月25日(金)20時35分41秒

人間が宗教に求めている幻想と、それを利用した人工マジック種明かし。

そして虚(念仏)で空過を功徳とする、阿弥陀マジック楽しみ方講座はいかがかナ。


マスクかぶってるよ 投稿者:おじき  投稿日: 1月25日(金)19時04分02秒

マスクマジシャンは顔面をマスクで覆って素顔が見られないように
なってます。やっぱりあんまり豪快に種明かしすると業界から圧力が
かかるのかもね。虚業を売り物にしてるんだから種がばれるとつらいね。
 坊さんも虚業家?「今度、青年虚業家と結婚する事になりました」by石田ひかり
全国虚業協同組合組合員専従道場管理者=住職の事?


しつもーん 投稿者:狂信  投稿日: 1月25日(金)18時06分40秒

なんで「マスク」なの?
変幻自在とか?


マスクマジシャン 投稿者:ぐっちん  投稿日: 1月25日(金)14時10分16秒

 というマジック(手品)の種明かしをする人がいます。
TVでご覧になった方もあると思います。

 ネットでも種明かしの是非をめぐって議論されています。
これお坊さん業にあてはめるとどうでしょうか?

 「現代語訳お経による法事」。これなど、まさに種明かし。
お経さんは漢文(中国語)で書かれたお説教。お経を読むその
行為になんら不思議な功徳はないなどといえば、檀家の人は
不愉快だと思います。

 ナポレオンズという日本の芸人さんがいます。ユリゲラーの
スプーン曲げなどのトリックをばらしています。

 「種明かし」をすることを、芸そのものにすることもできます。
また、種を明かしながら、そのネタを使ってもうひとつのマジックを
やって驚かす事も出来ます。

 法事・葬式など、真宗僧侶は、この手品師としての力量を檀家さんに
要求され苦慮します。「真宗の教えは、聞法することであって、あやしげな
先祖供養なんかじゃない!」

 種は、芸をもって明かしたらいいと思います。芸のない坊さんは、じゃあ
どうやって食いつなぐんだ?と危機感を募らせる方も出てくると思います。

 でも、真宗の教えはらくりんさんがいわれるように「ただひとつの根本虚構、
死によってしか破られないものに対して絶対的な態度を取る」(取意?)である
と思うので、この誓願不思議だけが、真宗のマジック、タネであります。


合掌 投稿者:Genko  投稿日: 1月24日(木)15時03分20秒

ああ・・・遠藤先生が主催され、毎年箱根で催されていた「内山愚童をしのぶ会」に、もう5年以上も行けなかった・・・。元気だった頃の遠藤先生が思い出されます。
考えてみれば、実に味のある、ユニークな弁護士であり、ひとりの仏教者でもありました。
あんな面白い人は、もう二度と出現しないような気がする。
惜しい人物を、喪いましたね。


遠藤誠さん 投稿者:らくりん  投稿日: 1月24日(木)08時50分06秒

今さっき、朝刊で知ったところです。
ちょっと「こわもて」で、筋を通そうとされる姿勢が、
信頼感に結びつくような
珍しい存在として気になる人でした。


訃報です 投稿者:おじき  投稿日: 1月24日(木)05時00分35秒

 ぐっちんさん、まさに昨日、遠藤先生の話題になっていたのは・・・ショック大きいです。
遠藤先生は、僕にとって一番最初の善知識です。こんなに早くいなくなるとは・・・

<訃報>遠藤誠さん71歳=人権派弁護士

 帝銀事件の故平沢貞通・元死刑囚の再審請求で弁護団長を務めるなど、人権派の弁護士として知られた遠藤誠(えんどう・まこと)さんが22日、肺がんのため、東京都港区の病院で死去した。71歳だった。葬儀は親族だけで行い、後日、しのぶ会を開く予定。自宅は葛飾区新宿4の17の17。喪主は長男厚(あつし)さん。

 千葉地裁判事補を経て1961年に第二東京弁護士会に入会。連続射殺事件の故永山則夫・元死刑囚(97年執行)の弁護人を務めたほか、暴力団対策法反対を訴え、指定暴力団山口組の代理人にも就いた。

 オウム真理教の松本智津夫(麻原彰晃)被告(46)から弁護を依頼されると「無罪の心証が持てない」と断るなど、話題を呼んだ。テレビ番組のコメンテーターなどとしても活躍した。(毎日新聞)
[1月23日21時40分更新]



なんともうしましょうか 投稿者:らくりん  投稿日: 1月23日(水)20時27分09秒

なんとも反応しにくい、かといって知らん顔もできん書き込みをしてくれますね。

ぐっちんさん、ここではお久しぶりです。
最近は、ミネさんのところのROMで楽しませてもらっています。

ここんところ、なんだか頭がもわっとしていて、言葉が出てこないんですよね。

お話に行っても、その場に立つまで何話すか定まってこない。
「顔」に向き合って、いざ始まってしまえばビシッしてくるんですが……

さっきNHKクローズアップ現代で、アフガニスタンのカルザイ議長のインタビュー
を放送していました。この何日か彼の顔が頻繁に露出していましたが、
なかなかの眼光、面構えだなという印象を持っていました。

年齢は44歳。風貌からして、もう少し年嵩がいっているかと思っていましたが
以外でした。

自分自身とか、自分がしていることがなんだかとってもちっぽけに
思えてしまいました。

そう言えば大先輩が「現前の境遇に落在せるもの」なぁ〜んてこと言ってましたね。


行きつ戻りつ。。。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 1月23日(水)15時39分43秒

 世間を出て、お山に上り、お山を下りて、世間に出る。

 世俗に無反省にどっぷりつかっていれば、それとは
気付かぬ差別ある社会に従っているわけだけど、かと
いって出家という独立を果たせば、わが身ひとり清しと
して、排除の論理にはまってしまう。

 このアポリア(難問・二律背反)をどう超えるのか。

 それとは知らぬ迷いから、確信に満ちた迷いへ。
にもかかわらず、永遠に迷い続ける信への道が開けてくる
かどうか。。。


NHKスペシャル「デジタルマップ日本」の再放送 投稿者:まこ  投稿日: 1月18日(金)00時29分43秒

 大変優れてわかりやすい分析を一目瞭然で示してくれた「デジタルマップ」
を元にした分析は鋭く参考になります。見逃したかたはぜひ再放送を見てみて
ください!

 当日になって紹介したNHKスペシャル「デジタルマップ日本」の再放送が
判明しましたので、ぜひご覧ください。

2月5日(火)深夜0:15−1:45(2月6日(水)未明)


「聖戦大碑」リンク集修正版 投稿者:らくりん  投稿日: 1月16日(水)12時23分52秒

「聖戦大碑」のHPを紹介しましたが、作成に関わっていなかったので
あまりよく見ておりませんでした。
紹介してから、一応ざっと目を通してみたのですが、けっこうミスがありました。
リンクも切れていたり、新聞記事は掲載期間終了というのもいくつかありました。

訂正するよう連絡はしたのですが、担当者がなかなかつかまらなくて、
いつになるかわかりません。

リンク集のところだけは、私が作って、自分のHPにもアップしてありますので
そちらは修正しておきました。
リンクもかなり充実しておりますので、こちらでご覧ください。

http://web2.incl.ne.jp/fujiba/link/hi_link.htm


噂は聞いていたが 投稿者:まこ  投稿日: 1月16日(水)05時55分16秒

> http://www.ishikawa-heiwa-center.gr.jp/Not-War/Not-War.htm

 一部だけを見ましたが、2000年建立というのがスゴイですね(--)
 ワールドカップの年に撤回の運動が実ることを願わずにはおれません。


佛教城市 投稿者:まこ  投稿日: 1月16日(水)02時04分02秒

なぜか中国語の仏教紹介ページの案内メールが送られてきて、紹介のURLは
文字化けするので「繁体字表示」のコンポーネントをダウンロード・インスト
ールしてみたら、うまく表示されて、「日本」「岐阜」を選ぶと西順寺にもリ
ンクがはられて、私のメールアドレスが表示されていました(^^;

http://www.buddhismcity.net/


「あいそなし」 投稿者:らくりん  投稿日: 1月15日(火)22時54分53秒

このところ「あいそなし」(「充分なもてなし・お相手がない」という意味の方言です)
ですんません。
暇つぶしに、↓でも見てみて下さい。前にも紹介したかな?
リンクのところは私のHPから転載したものですが、こちらの方は一部リンク切れ
になっています。

http://www.ishikawa-heiwa-center.gr.jp/Not-War/Not-War.htm


お年玉つき年賀的 投稿者:ぐっちん  投稿日: 1月15日(火)17時43分49秒

 年末ジャンボ宝くじにいつも外れている
人がいるのだけど、あれは「夢」を買うのでしょうか?

 「信仰」というのも別に当たらなくても、
「抽選日」までは夢を見られるから必要なのかなあ?  

http://www.kiwi-us.com/~shinchan//pmc/rjm/rjm199912.html


大当たり 投稿者:らくりん  投稿日: 1月14日(月)17時32分22秒

切手シートばかりでした。
えらく簡単に終わってしまいました。
ありがとさん。


追:お年玉年賀はがき当選番号検索 投稿者:お留守居役様  投稿日: 1月14日(月)14時38分04秒

半角で入力しないと、はずれになります。


お年玉年賀はがき当選番号検索 投稿者:お留守居役様  投稿日: 1月14日(月)14時34分44秒

年賀状の是非はともかく
↓便利かと思います。
 音が鳴ったりしますので、お子さまは喜ばれるのでは。

http://www.est.co.jp/oatari/


グッドタイミング 投稿者:らくりん  投稿日: 1月14日(月)13時43分58秒

うちでも、今朝からタンスや下駄箱の奥をひっくり返していました。

ちょっといろいろな条件付きになりますので、まこさんのご紹介のページを
よく確認してください。


アフガニスタンに衣料品を支援しよう 投稿者:まこ  投稿日: 1月13日(日)23時55分19秒

以下の趣旨に賛同できる方はご協力をお願いします!

http://www.eeeweb.com/~backup/


またよろ 投稿者:狂信 ☆彡  投稿日: 1月10日(木)12時28分46秒

林遊さん、そして三吉さんも、このごろお見かけしない。。。

らくりんさんが思わず、レスしたくなるようなコトが書ければなぁ。

旬の能登のお魚たちに、ヨロシクお伝え下さい。ついでに、会の皆さんにも。


ボチボチですかね 投稿者:らくりん  投稿日: 1月10日(木)09時36分31秒

このところ、ネットコミュニケーションに も一つ興味が向いていかない
感じなんです。まったくないってわけでもないんですが。

年末の繁忙から、一転年末年始に緩みすぎて、テンションが戻りきっていない
ってところです。

ボチボチ、やっていきます。
今日〜明日、能登の青草人の会です。
ここでテンション取り戻せるかな?


おげんきですかー 投稿者:狂信 ☆彡  投稿日: 1月10日(木)07時54分15秒

ウチの掲示板に「疲れてきた」とありますが、ミネさんにお任せってわけでもないでしょうし、
ここのところ、落鱗バンバンでなくて、チョット、寂しいですネ。


煩悩具足 投稿者:Genko  投稿日: 1月 7日(月)17時32分26秒

私の目下の情況をうまくまとめていただきまして光栄です。
ショーペンハウアーではありませんが、確かに「意志(決意性と覚悟性)の問題」は重要です。
本来ならば、らくりんさんの鋭いご指摘の(1)及び(2)でありたいのです。
しかし、私をとりまく多重債務状況がそれを許さず、(3)のクソリアリズムの坩堝に自らを絶えず連れ戻します。現在、毎月の借金の返済額は、おおむね合計12万円以上です(例え手取り月額収入が30万円でも、事実上の所得は18万円しかないという意味)。この現実がなければ、場所はどこでも良かったし、職業坊主ではなく一介のサンガでも良かったのです。
友人たちは、にべもなく「自己破産」の道を勧めますが、自己破産=全部免責ではありませんから、裁判所はおそらく私に「任意整理」の方を勧めてくることでしょう。従って、借金の元本は何割かは減額されても大部分は結局残りますし、反対に個人信用は全部失われます。決して得策ではないということです。仮に「自己破産」が認められても、今度は職業坊主への道を絶たれます。
労災給付であれ失業給付であれ、カネが回っているうちは、それは出来るだけ回避すべきだという判断になります。
私は精神論だけのキレイゴトが嫌いです。
青年時代の宮沢賢治は、純粋な意志だけに基づいて一時日蓮宗に帰依しましたが、結局精神的に破綻をきたし、絶望のあまり止めてしまいますね。彼には事業の失敗から来る大借金が終始つきまといましたが、もともと裕福な名士のぼんなので父親が全部肩代わりしていました。
僧侶といえども職業であるからには、薬僧であっても(医者や弁護士と同じように)自営業者であり、寺族ならばそれ自体(会社と同じように)一種の「既得権益」層です。
釈迦の教えにあくまで忠実であるのなら、人は本来宗教団体に加わったりや職業坊主などを目指さなければよいのに、多くの現代のブッディストはそうではありません。私もまた例外ではない、ということです。
また、「お寺の仕事の仲立ちの口」というご懸念ですが、これについては誤解ですのでご安心下さい。そりゃ出来ればそんなありがたい話はありませんが、私は「なんであれ期待はおしなべて他者への暴力である」とわきまえる人間ですから。
むしろ、目下の自分をとりまく情況があまりに苦しいので、阿弥陀様に願をかけているというくらいの境地です。
自分が「本当に求めているもの」が容易に明らかにならない私のような煩悩具足の凡夫をお許し下さい。
勝手な私事におつきあい下さいまして、どうもありがとうございました。合掌。


あぁ、もしかして 投稿者:らくりん  投稿日: 1月 7日(月)10時18分42秒

以前、私がこの掲示板を通じて、ある方にお寺の仕事の仲立ちをしたことを
伝え聞かれて、
同じような口がないかということなのだったのでしょうか?

それでしたら、残念ながらご期待には添えません。あしからず。


何を求めるのか 投稿者:らくりん  投稿日: 1月 7日(月)10時07分14秒

本願寺派のことは詳しくないので他の方に譲ります。
――この掲示板は本願寺派の方もけっこう見ていただいているようなので、
  もしかしたら、レスがあるかもしれません。

ただ、Genkoさんの質問の趣旨が
(1)東京における真宗の布教と活用の可能性について
(2)(というか、親鸞の思想的可能性というべきか)
(3)僧侶としてやっていける――おそらくそれで収入を得るという意味ではないか
のどれに力点にあるのかがちょっとあいまいな気がします。
(1) (2)については、あまり地域には関係ないのではないかと思います。
可能性はどこでもある。

密度が薄いというのは三つの意味で言えるのではないかと思っています。
一つは、対人口比の寺院数。これは浄土真宗に限って言っても当たりますし、
限らなくても言えると思います。
二つは、大谷派の寺院数の地域的配分から言って対人口比では圧倒的に少ない
ことは間違いないところでしょう。
――東京教区は、茨城・千葉・栃木・群馬・埼玉・東京・神奈川・長野・山梨・
静岡の一部まで含まれています。この地域の大谷派の寺院数は、おそらく私が
住んでいる石川県の大谷派総寺院数約850より少ないのではないかと思います。
ちなみに石川県は人口が百万強で、県内だけで教区が能登・金沢・小松・大聖寺
と4つあり、大谷派寺院密度がもっとも濃いところの一つです。
三つは、他教団との関係ですが、これはきちんと比較はしたことありませんが、
私の友人が東京近辺で、大谷派の形式の仏具や念珠を探したけれど結局見つから
なかったと言っていました。

こういう状況から、上記三点について考えますと、
▼真宗僧侶としての既存のお寺に法務員として就職する機会は、
むしろ東京の方がチャンスは少ないかもしれないのでは。
▼むろん、親鸞の思想を広めることや真宗の布教が主眼であって、収入のことは
二の次ということであれば、東京はとてもやりがいのあるところだろうと思います。
その場合、収入は別の仕事で得ることになりますから、就業機会が多い都会の方が
都合がいいかもしれません。

>関西の僧侶状況は、需給関係がすでにかなり飽和状態だといいます
「僧侶状況の需給関係」という言い方は面白いですね。それも事の当否は私には
答えられませんが、もしそれが本当ならば、そのことは逆に言えば、関西の方が
地域として、それだけの僧侶を「抱え込める」素地があるということになるのでは
ないかと思います。

>最初の入り口がお東かお西かというのは、後々を既定するかなり重要な選択
これは、東か西かということよりも、Genkoさんが何を「重要」と考えるか
ということにより大きく規定されてくることではないかと思います。
東か西かなんてことは、有利か不利かよりも、基本的には「縁」の問題
になってくるだろうと思います。
有利・不利ということが重要な選択基準になるのでしたら、私は大谷派は勧めません。
それで選ぶことは、Genkoさんいにとっても大谷派にとっても不幸な出会いに
なるような気がしますから。
(だからと言って本願寺派を勧めているわけでもありません)


早速のご返事どうも! 投稿者:Genko  投稿日: 1月 7日(月)01時41分37秒

らくりんさん。親切なアドバイス、ありがとうございました。
実は、私自身かつて東京在住経験が通算約12年程ありまして、かの地が基本的にいろんな意味で厳しいことは、重々承知のつもりです。
しかし、その頃の私は、学生運動や労働運動にいそしんでおりまして、およそ仏教とは無縁の衆生の凡夫でありました。あれから既に15年ぶりの東京といいましても、確かに、思い返してみても
都心部周辺には関西に比べて寺そのものの数が極端に少なかったですね。
「浄土真宗系の密度が薄い」ということは、他宗のは濃いということを意味しているのでしょうか?
私自身は、この現代において尚更、聖道門より浄土門の方がより都市型の宗教だと心得る者です。
ましてや、真宗系に至っては、全門徒数だけでも東西合わせて全国に約1400万人程を擁すると聞いております。従って、もし他宗が勢力を誇っているとしても、都市に暮らす人々にとって真宗の魅力はなお無尽蔵ではないかと単純に考えてしまうのですが・・・。つまり、東京における真宗の布教と活用の可能性について(というか、親鸞の思想的可能性というべきか)は、まだまだ未来があるのではないかと思う次第です。
関西の僧侶状況は、需給関係がすでにかなり飽和状態だといいます。
また、東京でしたら、お東よりも築地本願寺を本拠とするお西の方が多分有利であろうことは、関西の僧侶仲間からもしばしば耳にしますし、西は東よりも組織としてより近代化されているとも聞きます。
私に借金がつきまとう限り、上京して即僧侶としてやっていけるなんて甘い考えは毛頭ありませんが、最初の入り口がお東かお西かというのは、後々を既定するかなり重要な選択だという気がしないでもないのです。




はじめまして 投稿者:らくりん  投稿日: 1月 6日(日)23時42分01秒

Genkoさん、どうもです。

東京での浄土真宗系の僧侶生活といいましても、東京というのは、浄土真宗の密度が
一番「薄い」エリアの一つで、お寺の数もとっても少ないいんです。
それだけに、一つひとつのお寺が大規模だとか。

この掲示板に出入りする人で東京の状況に曲がりなりにも通じているのは
「ぐっちんさん」ぐらいですかね。
毎日見ているわけではないみたいですが、1週間ぐらいのあいだには一度ぐらいは
レスがあるかもしれません。

いずれにしても、
東京で、真宗系の僧侶生活というのは、けっこう厳しいもんがあるかも、です。


あけおめ! はじめまして! 投稿者:Genko  投稿日: 1月 6日(日)22時15分43秒

大阪ミナミの坊主バーで現在バーテンスタッフをやってるもんです。
客でもあり親友でもあるお西の坊主I君から、ここのサイトを紹介されました。
実は、この4月に上京するのですが、どなたか東京での浄土真宗系の僧侶生活の実状などを教えてくだされば幸いです。
当方目下48歳ですが、昨年12月末日付で、交通事故左足骨折が災いして、昼間勤めていた会社を解雇されました。神戸の実家の在家は曹洞宗なのですが、少年期の良寛の伝記体験、学生時代の吉本隆明傾倒、パリ留学時代の仏教体験、7年前の阪神大震災被災、度重なるリストラ経験等々により、諸行無常を観じ、ここ数年親鸞の教えに親近感を覚え、近々仏門へ入りたく検討中です。
なお、上京するのは、私が近年ご多分にもれぬ多重債務者であり、失業保険の給付期限までに一定以上の収入を期待できる何らかの職に再度つかざるを得ないからです(ちなみに、関西は現在、雇用情勢が日本一悪いところです)。
よろしくお願い致します。


初御講後 投稿者:ダラブチ  投稿日: 1月 5日(土)11時43分40秒

あけおめ。ことよろ。なんだぶ。のみすぎ。


石川銀行破綻 投稿者:らくりん  投稿日: 1月 4日(金)15時49分57秒

年末のニュースでご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、
石川銀行が破綻しました。
以前からいろいろと噂にもなっていましたし、
一昨年の秋頃からかなり無理して資金を集めているなぁ
という気配がありましたので、
「やっぱりきたか」「とうとうきたか」という感じです。
家から一番近いところに支店があるので、けっこう古くから担当者の顔が見える
付き合いをしてきました。
最近では銀行破綻というニュースもそれほど珍しくなくなりましたが、
どこか遠くの知らない銀行のそれとは違い、きわめて身近に感じます。


今年もよろしく 投稿者:ootubo  投稿日: 1月 4日(金)08時27分41秒

いつもROMですが、よろしくお願いします。
初出勤ですが、大雪でこわかったです。
自然に対して、人間の無力さを感じましたが、
こういう時しか認識できません。


ふるさと訪ねて。。。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 1月 3日(木)23時21分59秒

 おめでとうございます。らくりんさま、みなさま。
さて元旦、NHKTVで伎楽を復活させた野村万乃丞さんの
番組がありました。

 伎楽とは、ギリシャあるいはインドの仮面劇を発祥とし、
3世紀、中国の三国志の時代に生まれた「呉の歌舞」が、
7世紀初頭の飛鳥時代に日本に伝わったものです。

 聖徳太子はこの伎楽を奨励し、当時の日本を代表する芸能と
して盛んに演じられました。東大寺の大仏開眼の際にも、大規模な
伎楽が上演されたと伝えられています。ところが雅楽に押され
いつのまにやら忘れ去られてしまったのであります。

 野村万之丞さんは、300年の歴史を持つ仮面劇・狂言の野村万蔵家の
八代目当主。その万之丞さんが、この10年夢見て来たのが、伎楽の再現
でした。番組では韓国、中国、新彊ウイグル自治区、チベット、ブータン、
インドを訪ねた様子が写ってました。

 古きを訪ねて新しきを知る。日本を訪ねて世界を知る。
なんかとってもうらやましいなあ。。。


HP更新 投稿者:らくりん  投稿日: 1月 3日(木)12時48分53秒

2001年12月31日までの過去ログをアップしました。

http://web2.incl.ne.jp/fujiba/ban_log/ban_past.htm


ネッ友 投稿者:らくりん  投稿日: 1月 2日(水)10時50分32秒

ねこさん、
新年早々の大作、興味深く読ませていただきました。

>この掲示板の主だった参加者の方々は,ゆるやかな知人関係にあられるようです。
そうですね、

この掲示板は、拙著の読書会である、
現在は『みんなで教行信証を読み解こう』http://www.tcup4.com/444/masaho.html
となっている掲示板尾「『親鸞の教行信証を読み解く』を読み解く」に出入りしていた
人と、『教行信証』や拙著に直接関わらないプライベートトークのために開設した
掲示板という位置づけで始めました。

お留守居役様さんのようにまったく謎の人もいますが、
けっこう顔見知りが多いかもしれません。
元々存じ上げなかった方でも、ここを始めてからお目にかかった人も少なくありません。
ぐっちんさんみたいにお名前(実名)だけは前から存じ上げていて、
お目にかかったことがあるかどうか定かではないという方もいたりします。

いずれにしても、ネット上というバーチャルな付き合いでも、ある程度の期間
やり取りを続けていると、妙な親近感と言うか既知感が生じてくるような
ところがあります。
実際にお目にかかると、全然印象が違ったりもしますが……

以前は、こまめにレスを付けていたんですが、最近はあまりおかまいもできない
ような状況になっていますが、
今後とも、よろしくご活用ください。


ふるさと 投稿者:ねこ  投稿日: 1月 1日(火)20時22分03秒

また,ネコです。続けて失礼します。いま翻訳している本の一節を紹介します。実は,あるMLで発言した内容と重なるのですが,先の投稿の補足になるかと思いますので,お許しください。テーマは〈ふるさと〉です。あるいは〈失われたふるさと〉と,その〈再建〉です。

若い世代はこの国を文学においても住みうるように手を加えるべきです。もしも,だれかが郷愁を憶えるようであれば,その国は住まわれており住まうことが可能です。世界の何処かには郷愁を感じている人がたくさんいます。ただし,それはもはや存在しないドイツへの郷愁です。ある人がある都市への郷愁を感じることはありえます。それはベルリンへの郷愁であり,ハンブルク,ケルン,ミュンヘンへの郷愁です。しかし,それはつねに失われて過ぎ去ったベルリンやケルンへの郷愁ではないでしょうか。ドイツ連邦共和国への郷愁。(…)この国は,だれかが郷愁を憶えるようになりうるのでしょうか。(ハインリヒ・ベル『フランクフルト講義』より)

いつだったか,テレビで評論家が,日本経済を立て直すためには,日本人はクルマを買い換えるように家や土地も次々に買い換えて経済を活性化させるべきだと説いていました。ふざけるな!と,私はなかば叫びそうになりました。

住む場所と,そこでゆっくりと培われていく関係や思い出は,人間の原点をなすはずです。その意味で,土地を次々に売り買いするということは,ある意味で〈人間〉を売り買いするということではないでしょうか。

遺伝子工学で作られたクローン人間が反乱をおこす映画『トータルリコール』では,クローンを見分ける唯一の手がかりは,子供時代の母親の思い出とされていました。人工的に作られたクローン人間には,子供時代の家庭の思い出がありません。日本の子供たちはクローンではありませんが,小さいときから画一的な商品や教材や数値を相手にして大きくなっています。家庭は社会に対する防護壁としてはたらくよりも,むしろ母親が率先して子供を経済社会のエリートに育てるべく努めるような事例も,少なくないようです。そのために遺伝子工学を使わずとも,結果として一種のクローンを生み出すようなことが,現代では行われているとは云えないでしょうか。

現代では,たいていの人は,生まれ故郷に止まり続けることはできません。商品が氾濫する大都会で生きていく人もあります。しかし,こころに〈なつかしい〉と思える場所を持つことで,すべてが回り続ける都会でも,〈人間〉として生き続けることができるのではないでしょうか。

上記のハインリヒ・ベルの講演が行われたのは1966年です。(ちなみにネコの生年です。)
さっきの引用文の直前には,ヤノシュの『カフカとの対話』から次のような言葉が紹介されています。

群集はせかせかと走り,大急ぎで時間の中をすすむ。どこへと。彼らはどこから来たのか。だれも知らない。彼らは行進するほどに,目標を失っていく。意味もなく彼らは力を浪費してしまう。彼らは自分は先へ進んでいると思っている。そして転がり落ちていく。その場で行進しながら,ただ虚無の中へと。これがすべてだ。ここでは人間は自分の故郷を失ったのだ。

ふるさとを失った社会。この引用で,作家は高度経済成長を続ける戦後ドイツの様子を示そうとしています。ですが他国の話とは思えません。これを読んで,私はただちに現代日本の都市を連想しました。

経済社会の難点をあげて,これを否定することは,言説としては可能でも,現実的には不可能でしょう。経済社会を堅持しつつ,しかも,こころや現実の〈ふるさと〉を守り育てるには,どうすればよいのかが現実的な課題だろうと思います。文学と思想と宗教と,あらゆる実践の力を結集して,問い答えるべき問題だと思います。

ある真宗のサンガでは,初めて来た人にも〈お帰りなさい〉と声をかけるそうです。奇妙な習慣だけど,おもしろいなとも思います。帰るべき〈浄土〉って,何なのでしょうか。聖典の解釈や過去の研究から,こうした問題を考えるのも一手ですが,閉鎖的な文献研究に埋没してしまっては,おもしろくありません。過去の文献と取り組むときには,そこに〈現代の要請〉が動機として働いているべきだと思います。云うは易く,困難な作業です。私は自分の分野で,今年もがんばりたいと思います。


Re:まなざし 投稿者:ねこ  投稿日: 1月 1日(火)20時17分36秒

ネコです。実家の福岡から失礼します。自分の投稿へのご返信などもあり,発言しなければと思うことも多かったのですが,持ち前の臆病と億劫のために,しばらく読み込み一方で失礼していました。この掲示板での最近の話題では,〈まなざし〉をめぐるやりとりに関心を覚えましたので,これについて自分の感想を述べます。

あるとき参禅会の後の読書会で,御老師が「『臨済録』をみると,やたらと禅堂では殴り合っているように思えるが,あれは長く生活をともにすることで,おたがいに呼吸を読み合うほどの関係において,なされているのだよ」と補足されたことがありました。

私は二十をすぎて真宗にふれて,およそ十年にしかなりませんが,真宗のサンガにおいても,おたがいに,いつ,どこで,どんな発言をしたかとか,どんな家庭や職業上の問題を抱えているのかといったことを知り合うなかで,聞法上のやりとりがなされる様子を見聞きしてきました。また,そうでないと,相手のふところに届くような,目が覚めるような言葉のやりとりは難しいのだろうと思います。

そうしたことから,私は仏法だけはマスプロ教育では伝わらないもの,一人から一人へ,血の通うサンガの中でしか伝承されないものではないかと考えています。大会場での講演や読書も補助にはなりますが,その原点には,具体的な人に就いて信を立てる長い時間が必要ではないかと思います。どの一家にも,地域の僧侶が出入りするというイメージは,これに近いのかも知れません。

それでは,仏法にとってネットとは何なのでしょうか。たとえば,私は友人たちとネット上で読書会をやっています。そこでは,どの一人もよく知った友人です。悪ふざけや,ぶっきらぼうな物言いの向こうに,笑い方や,サケを飲むときのコップの持ち方が思い浮かぶような関係です。そのような関係では,全国に散っていてもネット上で意見の交換ができることは大きな利点です。

ですが先に述べたような信仰の共同体は,これを守り育てる地道な努力の一方で,総体的には力を失いつつあるようです。そして母語を異にする人々との出会いに代表されるような,相互理解のための共通の枠組みの少ない人間関係が多数をしめつつあるように思います。

そのような関係で説得力を持つのは,めくばせやあうんの呼吸よりも,まずは論理的で自立した言葉でしょう。この掲示板で,どなたかが,明瞭な言葉で伝えていきたいと述べておられたのは,そのような意味でもあるのだろうと想像しました。

推察するところ,この掲示板の主だった参加者の方々は,ゆるやかな知人関係にあられるようです。その一方で,私は,どのお一人も直接には存じ上げていません。ですが,こうした顔の見えない関係はネットでは通例であり,これからも社会の一要素として領域を広げていくのだろうと思います。

一人から一人へ。このような社会環境において,仏法は直接的な関係をはなれても伝わるのだろうかと自問します。いずれにせよ,かわいた社会関係においても仏法への手引きとなるような自立した言葉が必要ですし,あちこちのネット上での試みが,その一歩になればと思います。

元旦でしたネ。まじめなサラリーマンは,夏休みも正月も,いつもと変わらぬ〈読み書きそろばん〉の毎日です。ニヒルな感覚。ですが,これが私自身の後戻りできない現実であり,社会の一本質でもあると思います。私自身においてニヒルをこえることが,社会の一問題を克服することになればと希望します。やっぱり初夢か書初めみたいな書き込みになりました。自分の背後には,意識している以上に,歴史や伝統があるのかも知れません。今年も,よろしくお願いします。


眠い目をこすりながら、です。 投稿者:らくりん  投稿日: 1月 1日(火)04時21分01秒

お御堂では、まだ10人ほどの人が盛り上がっていますが、
ちょっとお先に失礼してきました。

お留守居役様さん、早々にご来訪ありがとうございます。

今日のところはこれにて、お休みなさい


本年もよろしくお願いいたします。 投稿者:らくりん  投稿日: 1月 1日(火)04時17分44秒

謹んで年頭のご挨拶を申し上げます
 平野 修さんの本の中に、「100%安心しようとする心が、そのままで不安を生み出
します。100%安心しようとする心が不安の種を探し出してしまうのです」という言葉
を見つけました。
 私たちは、求めるものが手に入らないと、それがないことを不満や悩みの種にします。
もしかしたら求め続けることができる〈願い〉が意欲の源泉なのではないか。なぜなら、
これさえあれば何もいらないというような願望が満たされることは、無意欲の中に放り
出されてしまうことにほかならないからです。それはどこに向って進んでいいかわから
ずに闇の中に立ちすくむということです。
 菩薩とは、この上ない道を求める〈願い〉に生き続けようとする者という意味です。
願望が満たされることより、自らを歩み続けさせる〈願い〉にこそ意義を見い出す存在
です。
             南無阿弥陀仏 合掌
2002年1月1日


今年もよろしくお願いいたします 投稿者:お留守居役様  投稿日: 1月 1日(火)01時34分19秒

去年はいろいろありました。
言うべきことは言い、
言うべきでないことも言ってしまったかと思いましたが、
今年もおじゃまさせていただきます。
境地の思想批判に磨きをかけたいと思っております。


以上は、新着順1番目から30番目までの記事です。

lycos homepage
ウェブを検索:

[ TeaCup Free BBS ] [ Level1 BBS ] [ Domain! ] [ Books ] [ 前ページへ ]


パスワード


管理者:fujiba@yu.incl.ne.jp

TeaCup AUTO BBS Level 1