らくりんバンバン

〈 落 鱗 板 々 〉


 


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あ、そうそう 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月28日(木)17時14分28秒 
 ぐっちんも同じ体質だからいうのですが。

 自分の中に「理想」だとか「正義」みたいなんが生じて、しゃべったり行動したりして
いるうち、してない人をだんだん「お前らなんで、動けへんのじゃ!!」みたいになって
「体制」だの「権力」だの「国家」だの「当局」よりも、仲間や一般市民に憎悪を抱くように
なる。ここ違いますやろか、われわれの課題とは。
 
 


しめしめ 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月28日(木)16時54分09秒 
 わたしの挑発に乗っていただきありがとうございます。
昔通った大派の仏教学校で、信○淳という、なかば神格化いえ、佛格化された中興の学祖が
いらっしゃいました。(私が行ったときは、その故人のお孫さんが同級生で同部屋でした)

 その先生の亡くなる際のえぴそーどを聞いて面白いなあと思ったことがあるのです。何でも
先生ヘビースモーカーでして、医者から禁じられているのに、ベッドの上でおつれあい様に「
たばこ、たばこ」と連呼していたそうなのです。

 ここまでなら単なるニコチン中毒オヤジ。彼の先生、それと同時に「共にお念仏を」と宙に
向かって力の限り、叫ばれていたそうです。けどこの話で、「なんだ信○先生も、ただの人間
なんだ」とがっかりされた生徒さんもいたとか。

 またその学校に行く2年前は、わたしの家の宗旨、浄土宗で五重相伝という、まあ真宗でい
うとおかみそりみたいな在家の儀式を受けたことがあります。(浄誉金剛禅定門というのが
その時いただいた戒名)

 その戒師が○○法さんといって、かつて新興仏教青年同盟という団体の委員長として超宗派
の仏教運動をされていた方でした。戦前、唯一反戦運動を担った仏教団体です。大派の仏教
学校は全寮制なのですが、夏休みは寮を閉鎖されます。それを口実に私は、同級生の全国に散
らばるお寺めぐりをしました。名づけて念仏お遍路さん。で、名古屋のあるお寺でのことです。

 同級生と話ていると、なんと彼の隣のお寺が林師の自坊(でいいよね)だったのです。同級
生のおやじさんはご養子さんだそうで、おかあさんがそのお寺で育ったそうです。小さい頃は
よく○師に遊んでもらっていたそうです。ところが、おかあさんが大きくなってからは、逆に
○師のぐちの聞き役にまわっていたそうです。いわく「うちの息子は寺を継がん。幼稚園を継
がん。。。。」

 ぐっちんが他宗教を含めて心底、感動したお説教は五人ほどで○師もそのお一人です。でも
あの先生がそんな俗っぽいことでぐちってるなんて。ますます、好きになりました。お坊さん
も人の子。大悲さんとこのご住職のように地道な活動が仏教なんじゃないかなあ。そんな感じ。

 あ、そうそうGenkoさん。いま旬のネタは、あさま山荘。観念の倒錯によって同志を
殺害した彼ら連合赤軍。マンガ評論家大塚英志は、オウムを「オタクの連合赤軍」と呼びました
が、私にとって、衆生の救済を叫び、大衆の解放を叫んだ彼らがなぜ同志殺害に至ったのか。
その総括が自分にも課せられていると思うのですが。
 
 


ナイショ 投稿者:大悲 投稿日: 2月28日(木)15時28分32秒 
ネットで書き込みしておいて、ナイショもないんですが・・
昨夜、学校のPTA終って9時ごろ帰って来たら、玄関に人影&自転車影。不思議に思って見てみると間衣輪袈裟で、住職が自転車の荷台にかばんをつけようとしている。「お経上げに来てくれと言われたからいってくる」と言い張る。「迎えに来てもらったらどうですか」とか「もう夜だから」とかいろいろ話して「解りました、でも自転車じゃあぶないから、私が行きます」と言って家の中に入ってもらう。
こうやって、毎日自転車踏んで、お勤めして歩いてたんだもんなあ、と涙が出る。
万が一事故にでもあったら大変なので、子どもたちにも注意喚起。
 
 

活きた仏教 投稿者:Genko 投稿日: 2月28日(木)11時03分32秒 
弁解めきますが、誤解があってはいけませんから、この機会を利用して正直に告白しておきます。
私も、ぐっちんさんと同じように、東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)を読んでおります。ですから、一頃の京都の仏教系大学(=○谷大学等)全共闘周辺で展開された「ゲバルト・ブッダ」運動のような文脈で、今更「新たな<革命>の物語」などとシャレ込んでいるつもりは毛頭ありません。
今回私のことをぐっちんさんは「<政治的ロマン主義>的感性を仏教に持ち込む」と評(批判?)されましたが、今までのカキコの数々を再読されてみたらきっとお分かりのように、政治的には(経済的にも)私は完璧に「リアリスト」なのです。少なくとも常々そう標榜している者です。
ですから、正直言ってこれにはいささか心外な気がしました。
そういう言い方であるならば、私からすれば、むしろ「(リアルな形で)政治に仏教を持ち込む」ことを意図していると表現致しておきましょう。
というのも、近年わが仏教サイドの方は、(都会では特に)ますます寺の中に自閉し、世間から離反していく傾向が顕著なような気配があるからです。
「仏教が持ち込まれる」−−この言い方は極めて非仏教的ニュアンスで、あまり好みませんが−−べきなのは、何も必ずしも「衆生の生活」(葬式やお盆など)の場面ばかりではありません。世間の各人は誰しも、政治/経済/文化領域などを含む<全人的>な存在として、その全場面に関わりながら生きています。というより、大文字の「生活」には、おのずとそれらの要素が必ず含まれているだろうからです。
従って、私達が少しでも仏教を私達諸個人の全生活に向けて活かそうと願うならば、その対象領域(客体)について、可能な限り正確にかつ広範に認識し明らかにされていなければならないと考えます。仏教もまた、世界に向けて、可能な限り開かれてあらねばならないと考えるわけです。
確かに仏教は、それ自体では、崇高な「理念」です。しかしながら、それを担い、運用するのは、少しも崇高ではない私達(有限かつ不完全な)「人間」に過ぎないのです。たとえ職業的僧侶であっても、日々の経済や、時々の政治的意志表示(投票活動などの)や、週末に行く文化活動(映画やスポーツ観戦などの)などについつい浮身をやつす生身の「人間」なのです。
僧侶としての「仕事」に出かけるときだけの仏教であっていいはずがありません。
また、私は皆さんとほぼ同じように、「政治」もしくは「政治的なるもの」を憎んでいるのです。
憎むからには、徹底的にその対象を「識る」必要があります。
そうでないと、かつて橋川文三が「日本浪漫派」の文学を批判したように、「政治を拒否することにおいて、政治の方から取り込まれる」結果に陥らないとも限らないからです。政治の本当の怖さは、私のような若輩がその発言内容において政治的に「過激」であるように見えることにその本質があるのではなく、「憎悪や拒否の姿勢が決して各人をそれから自由にしてくれるわけではない」ということにこそあります。私達が本気で政治から解放されたいと願うならば、自らがその<客体>たる地位から<主体>へと、いったん引き戻す態度が必要不可欠だと思う次第です。
つまり、私(達)にとって「<政治的リアリズム>的感性」の獲得こそが要請されているということに他なりません。むろん、経済や文化領域などに対しても、それぞれ<経済的リアリズム><文化的リアリズム>などのしなやかな感性が対応します。
そして、このことは同時に、現代社会に仏教を開き、再活性化することと同義だと確信致します。
私が在家の「曹洞宗」を継ぐことなく、この度「真宗」を選択したのは、何はともあれ「部落」や「在日」などの優れて今日的な政治/社会的問題に深くコミットし、不充分ながらもそこで仏教を体現しようと試みた少数の先人達がいたことによります。
彼らは、ぐっちんさんから見ると、やはり「政治的ロマン主義」者だったのでしょうか? 
(私はそうは思いません。)
 
 

代理行為 投稿者:Genko 投稿日: 2月28日(木)07時30分07秒 
かつての「ベトナム反戦運動」は、当時の日本の軍需産業(三菱重工やダイキン工業など)が、沖縄や福生などの在日米軍基地を使って、米兵向けの弾薬やベトナム空爆向けのミサイルなどの武器を大量に供給し、それによって儲けた成長GDPが私達日本人の各家庭のお父さんの給料に化けて、みんな平和ボケのおまんまを食っていたことに、「自分達が全く無関係であるはずがない」と立ちあがった学生や市民が起こした<平和運動>なのでした。
「民衆」を代弁する<政治>運動のすべてが必ずしも正しいわけではありませんし、それ自体とてもいかがわしく感じることは私も同感ですが、例えば「地雷除去NGO」にしても「薬害エイズ訴訟NPO」にしても、被害当事者以外に「代弁者」が一人でも多く必要なことは言うまでもないことと思われます。
<代理行為>は決してベストな政治的意思表示ではないとしても、それすら不可能な専制国家下に置かれるより、まだしもベターではないでしょうか?
 
 

正覚 投稿者:Genko 投稿日: 2月28日(木)06時57分38秒 
ぐっちんさんへ。
我々の知りうる限り、「言行を完全に一致」させ得たひとは、爾来お釈迦さま一人くらいしかいないはずではありませんか?
いわんや未だ大悟せず正覚せぬ非僧非俗の徒や衆生の凡夫なればこそ、みんなご多分にもれず大なり小なり「言行は必ず一致しない」わけです。
逆言すれば、よしそれが実現してしまったら、<仏教>それ自体、もはや必要なくなってしまいかねません。
○川大吉のみならず、私が尊敬してきたすべての人々は、みんな大なり小なり「言行不一致」であることでしょう。かく言う私自身もまた、例外ではあり得ません。
他ならぬ親鸞自身、『歎異抄』の唯円を通して「わしもそうなんだ」と白状しているくらいです。
宗教家であろうと学者や芸術家であろうと、私生活においてどんなにだらしない人間でも、良い「仕事」を残した例は今日まで枚挙にいとまありませんし、近所から顰蹙を買ったために彼の優れた業績に対する評価が下がるわけでもありません。
だからと言って、決して他人から非難されるようなことを勧めているわけでもありませんが・・・。
まだまだ「われ以外みなわが教師」とまでは謙虚にはなれませんが、私達は、他人から「良い面」だけをもらってくることも可能だし、「反面教師」的に活用することもまた可能なのですから。
 
 

言わないようにしている「本音」 投稿者:らくりん 投稿日: 2月27日(水)17時31分16秒 
こんなことを公衆の面前で書いたら物議をかもすことになってしまうかも知れませんが
(どこのどなたがご覧になっているかわかりませんから、またどこのどなたに
どう伝わって行くかもわかりませんし)
私の本音を結論だけ言ってしまえば
「形ある〈ご本尊〉は、本山から受けたもんでも、町の仏壇屋さんで買われた
ものでも子どもさんが鉛筆で書かれたものでも、なんでもいいんじゃないんですか」
です。
役目柄のきれいごとを、一言つけくわえるなら「なんでもいいんじゃないんですか」
の前に「あなたがそれに向き合ってお念仏できるんなら」とか「あなたに〈念仏申さんとおもいたつこころ〉をおこさせるならそれが本尊じゃないですか」とでも。

しかし、私は「形のあるご本尊は何でもいい」ということを、大々的に言いふらす
気はありません。また、あまりその「本音」を言わないようにしています。
なぜかと言えば、このことは「答え」として覚えて頂きたいことではなく
「一人ひとりに気がついていただきたい」ことだからです。

問われたときには、その人がどういう「つもり」で尋ねているかを確かめてから
対応するようにしています。「本山から受けるべきだ」と思っている人には
なぜ「べき」なのかを、ご本人から説明してもらうように問い返します。
「本山から受けてもいい」けど「ねばならないことはないのではないか」という
程度のことまでは言います。

「本山から受けるべき」「必要ない」とどちらの主張をしても、その「物体」に
あたかも何か特別な意味があるかのような「前提」に立ってしまうことになる
だろうと思います。
「物体」そのものに重要な意味はなくても、それが象徴していることについては、
非常に重要だと思っています、私は。
だから「物体」と「象徴されていること」を区別して考えてほしいし、
みそくそいっしょくたにして、本尊をめぐる問題すべてを「くだらない」と
切り捨ててほしくもない。

そういうわけで、「本音」を、あまり言わないようにしている一番の理由は、
心の底で、本尊なんて知ったことか、念仏なんかするやつの気が知れんと思っている
ような坊さんやインテリもどきに、したり顔で「本尊なんてなんでもいいんだよ」
とか「形ある本尊なんて必要ない」というようなことを平然と言ってほしくは
ないからです。
そんな人と同意見の持主だと思われたくないというか、
「らくりんもそう言っていた」という具合に引合に出されたくない。

私は、「なんでもいい」と言い放ってしまえる人よりも、「どうすべきなんだろう」
と悩む人、そのことを重要な問題だとして悩めむことができる人の方に誠実さを
感じます。生まじめにその問題に悩んでいる人に「そんなことどうでもいいんだよ」
と結論として「答え」だけを言って、その「悩み」にピリオドを打ってしまうよりも、
本当に大事にしたいこと、大事にしなければならないことに気がついてもらえないか
と……冷やアセをかきながらあれこれ思いをめぐらします
 


 
 


痛みを伴ったチャート式選択本願 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月27日(水)16時57分05秒 
 ○大派 ×本派
 ○親鸞 ×蓮如
 ○まがいもの大村 ×大村師
 ○我らの煩悩は「浄」ではないという自覚 ×煩悩塗れの我らの「共感」
 ○のんせくとらじかる ×日共

 わっかりやすー。

 
 


(東村山)市民(志村)ケーン 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月27日(水)16時39分35秒 
 Genkoさんに対するパーリ・雑阿含(苦しい駄洒落)

 衆生でも大衆でも民衆でも何でもいいんですが、例えばGenkoさんが以前
名前を出しておられた、○川大吉さん。うちの50メートル先あたり、ご近所に住んで
はりますわ。

 けど、近所づきあいおまへん。評判悪いでっせ。インテリさんはやれ、民衆云々いいながら
ご近所さんとは付き合わず浮いてはる。ふりかえればベトナム反戦運動とかも、ぐっちんには
気持ち悪い。自分の関わりの無いことに同情しこの同情が正義となるところに、政治的自覚が
生じ、大衆は成熟していくみたいなお話。

 大木こだま・ひびき風にいうたら「そんな奴おらんわー。無茶いいなはんな、ひびきさーん」
ですわ。こういう政治的ロマン主義的感性を、仏教に持ちこんで「延命地蔵尊」でも祀られる
おつもりですか。

 こういう感性は<喪失したナショナリズム>同様、もう「どんと焼き」の時に古いお札や
おみくじとともに、お焚きあげして成仏させてあげた方がよろしいん違います?
 
 


ただ今 投稿者:らくりん 投稿日: 2月27日(水)00時42分09秒 
基本的に削除はしない方針でやっておりますので、罵詈雑言、愚痴悪口のたぐい
歓迎するわけでもありませんが、適当にやって下さい。

疲れた〜。
 
 


ご立腹もっともです 投稿者:Maro 投稿日: 2月26日(火)22時10分23秒 
でも、娑婆世界に生きてるんですよね。
(あっ、詳細がわからないんで、肯定も否定も、揶揄するつもりもありません)
 とにかく組門徒会研修、頑張ってください。
 
 

発散させて下さい。 投稿者:なまぐさ 投稿日: 2月26日(火)20時38分44秒 
組で若院会の副会長をしています。4月の組門徒会研修を若院会で運営して欲しいと、非公式に組長から打診がありました。それなら近くの組同朋会に運営方法など視察に行こうとなりました。
そこで会長が(この世界でローカルに多少顔が広い。)、信頼できる人(本人曰く)に聞いたところ、
「会所となるあそこの寺は、宗議会で与党だから、そんなところに視察に行くのは誤解を招くことになる。会として行くのは問題になると思う。個人で行くべきだ。」
こうぬかしやがるのです。真に受けて言うのです。
ドアホ、たわけもの。娑婆世界の争いに自ら絡めとられる奴が、あんたそれでも僧か?。聖人の遺教の中に”鬼神からの解放”があるやろ。それをどう受け止めているのだ?。
今回のことで、鬼神はまさしく善人の顔を持って近づいてくることがはっきりしました。
書いてて、ますます腹が立ってくるわ。
3月1日この会長と直接話します。

真宗の坊主=真宗門徒は成り立ちません。(今更解りきったことだけど)

罵詈雑言に気持ちを害された方ありましたら申し訳ありません。
管理人さん、削除されてもかまいません。
 
 


re:誰か故郷を思わざる  投稿者:お留守居役様 投稿日: 2月26日(火)19時25分17秒 
↓のは、字数から句ではなくて歌でんしょう。
 
 

誰か故郷を思わざる 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月26日(火)16時28分04秒 
 ネットで例えば「大乗起信論」とか「唯識三十じゅ」の読書会とかを開けば、
それこそ葬式仏教とは縁が切れた「純粋仏教勉強会」になるんと違いますやろか。
 S○NY銀行とかはテレフォンバンキングとかネットバンキングとかいう預金
方法を使って窓口係の人件費とか実際の店舗そのものとかを削減してます。

 会員制仏教。。。夢のまた夢。それにお寺は門徒さん代々の共有物でありましょう。
門徒さん自身が本山の看板料が高い、払われへんという意見を出されたのだったらわかり
ますが。(これこそ門徒さんのニーズに応えるというものだと思いますが)
 住職の真宗仏教への熱い思い入れだけで物事は決められない。
 
 お寺は住職のひとりよがりの「信心の戦い」の場ではありえないでしょう。信心は
起こすものではなく、起きるもの。それをもじれば神棚は下ろしてまわるものではなく
て落っこちるもの。。。(某師にいやみか。。。)

 「大衆の原像」ですか。。。うちのおとんもボケてUSJの見える老人保健施設に
社会的入所したまんまですが、大阪万博はなやかなりし頃、仕事がたくさんあって自分が
一番張り切っていた時代にタイムスリップしてはります。痴呆高齢者のみなさんはよく
「家へ帰る」とおっしゃります。「何をいうてんの、ここはお義父さんのおうちですよ」と
嫁が声を掛けても、おじいさんのいうのは自分が子供の頃に育った実家のこと。

 信田さよ子さんの『脱常識の家族づくり』という本を読むと、家の中でいかに子育てに関心
がある夫が少ないか、いかに子供が親の顔色をうかがって育っているかがわかります。そんな
家庭という場所での難民、夫のドメスティック・バイオレンスに耐える妻たち、親の虐待に耐
える子供たち。。。

 一転して『路上の夢〜新宿ホームレス物語』などには、帰りたいのに帰れない、帰らない
ひとびとの心象風景が描かれています。ジローさんというゲイの方の詠んだ句がいいです。

 ちちははの 墓に手を合わす盆もなく 帰れぬ田舎 すぎた年月
 
 


組織について 投稿者:Genko 投稿日: 2月26日(火)06時21分00秒 
「単立寺院」というのは、仏教的寺院のもともとあった姿の一つでしょう。
その意味で、歴史的回帰であり、復古現象です。
通俗的には歴史は「繰り返す」ものですが、歴史学的には「決して繰り返さない」ものです。
昨今の「新しい歴史教科書を考える会」ではありませんが、今更<喪失したナショナリズム>を郷愁しても仕方がないように、過去へ復古してもいたし方ありませんし、不可能です。
私達の目指すべきは、むしろ、新たな「関係の絶対性」のあり方の方です。
すべての「他者」(=過去の死者や未来の人間を含む)とのコミュニケーション回路の切り開き方
です。現存するあらゆる「組織」は、従ってそのようなありようとして、再編成されるべきなのではありませんか。
どんな「組織」ももともと必要悪であるし、<全体の運営者>として消去しようがないことを、むしろ認めた上で改善していくしかないものだと考えます。
私が、柄谷行人らの「アソシエーショニズム」にはまだしもリアリティがあると言ったのは、そのような文脈においてなのでした。
 
 

「衆生の視座」補足 投稿者:Genko 投稿日: 2月26日(火)05時43分38秒 
私の言う「衆生の視座」というのは、あたかも吉本隆明の「大衆の原像」に近いニュアンスです。
必ずしも具体的な行為のみに力点が置かれているわけではありません。
むしろ、蓮如なんかの優れたマネジメント能力とは違って、親鸞にはそれなりの「エゴイズム」(=自力の執心)があったのでしょう。そして、この方が余程「大衆的願望」に近いありようをおのずと示していますね。
愚禿親鸞の、親鸞たる所以です。 
 
 

未来予想図 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月25日(月)13時12分18秒 
 Xbox発売。ゲーマーでもないぐっちんにはようわからんけど、ブロードバンド
対応で画面が格段にキレイなようですね。「コトバ」と「話題」で限定されている掲
示板みたいなものと違って、オンラインゲームは、即誰でもがプレイヤーとして参加
可能のようですね。ゲームは世界を超える。ゲームは世界の共通語。
(ここらへん狂信さん、Zazieさんに抱負を語って貰いたいけど。。。)

 なんか野球ゲームだと、チーム対チームでやってたものが、例えば6番ショートとして
ゲームに参加できる。ウィリアムギブソンのサイバーパンク小説みたいな世界が実現して
しまったような。。。宗教の世界も宗教社会学者井上順孝のいうようにヴァーチャル宗教、
ハイパー宗教、の時代かな。@現実の宗教組織がインターネット上に情報を流しているもの
A現実の宗教組織の組織・活動がネット上に機能転化されているものB現実の組織がなく
ネット上のみで情報が行き交うもの。。。

 @は大方の宗教団体。お東さんも入るAはアレフ(旧オウム真理教)のようなやつBは
ユートピア・ネットワークという団体(?)のようなやつ。で、一方ではこの傾向が強まれば
個人化、世俗化が進み地域性とか伝統とかに乗っからないおじきさんのいう単立化の方向に
進むのではありませんか?

 アニメやゲームには「物語」、ストーリーが欠かせません。死と蘇りとか、輪廻転生とか
自然の背後に精霊を感じるアニミズムとかの宗教の要素が散見されます。だから「宗教」が
消滅することはないと思います。「ヒカルの碁」というアニメによって碁を打つ小学生が
増えたとか。(ならアユの双六というアニメがヒットすれば双六が脚光を浴びるはず。←お
前は比叡の山法師か!)案外、古典的なスタイルはそれはそれで残っていくのでしょうね。

 カトリックの総本山の公式HPを見ると、法王側近がいらだっているのがわかります。
末端(?)信者達が勝手に教えをHPを開いて語っているからです。管理できない。そう
すると、ヒエラルキーに則っている団体には都合が悪いのですねえ。
 
 


しかし 投稿者:Maro 投稿日: 2月25日(月)12時28分39秒 
へたな文章のカキコですみません。
なんか、ここへ来るとすごく緊張して、考えてる間にわけわかんなくなって、加えて話題がずれてしまってます。<(_ _)>

 ところで、私は単立寺院とすることには疑問があります。一つの手段かもしれませんが、結局単立寺院協会みたいなものを作るような気がして(笑)少なくともきっと、私はそうします。
 人が集えば(活動しようとすれば)必ず組織が出来るんじゃないですかね。全部一からやり直すというのも一つの手かもしれませんが、私はらくりんさんの2月24日のご意見が響いてます。 
 
 


ふむふむ 投稿者:Maro 投稿日: 2月25日(月)11時51分22秒 
 私は、ご本尊は本山からって勧めてますよ。(あっ、当然無理強いはしてないですよ)

 まず、ご本尊をどこで求めるかということと(裏書があろうとなかろうと)、
信心の問題は全く別ということは、はっきりしてると思います。

 でも、全然違う視点で、あえて、私は本山からのご本尊を勧めてます。

 いろんな理由がありますが、一つは仏壇を買ったらサービスでご本尊がついてくるかと思えば、
高価な宝石が入った白木の木像本尊があるからです。

 本山のご本尊を勧める話の中で、仏壇(お内仏)の中心がご本尊であるということと(VS先祖壇)、本尊そのものの物的価値(値段)と信心(信仰)とは無関係であることが、問題提議(課題に)できればと思ってます。
 ある意味、金額的価値(自分の損得)でご本尊を選ぶいう、どうでも良いことを本山に押しつけているとも言えます。
 で、本山のご本尊も値段で三種類になってますけど、余裕があればって、高いのを勧めますよ。
だって、多分二度と求めない買い物?でしょ。

 こんな綺麗ごと(へりくつ)??を、自分を納得させる理由にしてるかもしれませんけど(爆爆) 
 
 


らくりんさんのサインなら 投稿者:お留守居役様 投稿日: 2月25日(月)00時20分32秒 
「親鸞の教行信証を読み解く」
に著者のサインが欲しいとは思っています。
全5巻を読み直そうとは思っていますけど、
全5巻著者サイン入りのを再度購入するかは微妙です。
吉本隆明さんのサイン入りの本は3冊持っています。
このあいだは、支持しているオーディオ評論家のサインを
雑誌の記事にしていただきました。
サインをもらうのって、けっこう楽しいです。
 
 

三吉さん、久しぶり 投稿者:らくりん 投稿日: 2月24日(日)23時24分35秒 
ここんとこ、久しぶりの人の登場が続きますね。

三吉さん、また、ずいぶんと挑発的に登場しましたね。
でも、なんかもう一つ「そそられない」なぁ。

明日・明後日留守します。適当にやっていて下さい。
 
 


でね。綺麗事言ってます。 投稿者:なまぐさ 投稿日: 2月24日(日)23時10分01秒 
嘱託補導を受任していて、綺麗事たぁ〜〜〜〜くさん言ってます。
自分がいやになりますね。
同朋会館でですよ。少なくとも阿弥陀如来から賜った教えをつたえる場所で何で?。
同朋会館が、信心談義の寄り合い談合(公共工事の入札じゃないよ)する場所になっているか疑問です。
かくいう自分も、奉仕団の人たちが気持ちよく帰ってもらえるよう演じてるけどね。(ハァ)
3月5,6,7日で教導補導合同学習会があるけど本音言いまくるぞ。
(善処する方向努力します。)
掲示板の目的ずれゴメンなさい。
 
 

将来的に 投稿者:おじき 投稿日: 2月24日(日)22時22分09秒 
僕は本山を頂点とする浄土真宗本願寺派や真宗大谷派などの被包括宗教法人がなくなって
個々の寺院でも住職や檀家の制度はなくして、個人の信仰に基づく会員制の集会所のよう
な場所にお寺をしたいと思っています。組織が大きくなると維持に金がかかる、金がかか
るから色んな集金方法を考えなあかんと思います。だから組織を無くせばいいのではない
かと思うのです。その一歩として単立寺院になるという考えなのですがいかがでしょう?
 
 

ロマンスの神様 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月24日(日)20時31分00秒 
 バラバラでいっしょー差異を認め合う世界の発見  が大谷派のテーマでしたっけ。

 ミネさんに別のとこでご教示いただいたのが、「差異をみとめあう」という前段より
「(その)世界の発見」という後段に注目するということ。衆生には差異を認め合うと
いうのは至難のワザ。やっぱり、なんだかんだ自分のほうにひきよせてしまう。

 ギャンブルなんかで、乗っているときはめちゃめちゃ「運命の神様」みたいなんが
自分に憑いているような瞬間がありますね〜。あれなんか、全能感と一体感を同時に
感じているんやろうなあ。でも、普段は自分の無能さと孤立感に直面することが多い。

 卑小な自分の無能さと孤立感の中で立ってられるのは、「世界の発見」があっての
ことだろうなあ。やっぱ一人でいるのはコワイから長いものには巻かれろという意識が
ありますねえ。ほんで、自分を大きくみせたい。
 
 


不謹慎 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月24日(日)19時26分56秒 
 「納めた金額によって色が変わるって? そんな! サギやないか!」
 
 「いやほんま、カメレオンやないねんやから」
 
 「今時こんなことやってるなんて!まるで、天然記念物!」
 
 「それはまあ、おっしゃるようにトキみたいなもんですわ」
 
 

穢土去りばんしよう 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月24日(日)19時08分58秒 
 タイのお坊さん話つづき。黄衣を剥奪され白衣をまとっているお坊さんがおられるのだ
けど、そもそもメーチーという尼さんは正式なお坊さんとして認められずに、白衣しか
まとっていないそうであります。はなっから許されざるものの名告り。。。

 『仏教・かいほつ・NGO』を読んでると、日本の研究者が「酒・タバコ・盗み・売春等の
悪行を断たせるためにカムキエン師は村人に瞑想指導をしておられる。最近は成果があがって
減ってきた。で、カムキエン師が道を通られると村人は恥ずかしい思いを持って酒を隠し、タ
バコを消す。。。」といささか楽観的に報告しておられます。

 ソーシャルワーカーの信田さよ子さんの『依存症』『脱常識の家族づくり』などの本によると、依存症者は一種の自己治療としてアディクトするのだそうです。それは頭文字を綴るとHALT。ハングリー、アングリー、ロンリー、タイアード。精神的飢餓、怒り、孤独、疲れ。
アルコールを摂取することによって、あるいは覚せい剤を打つことによって、しばし、それらの
苦痛から解放される。主な効用は@全能感の回復とA一体感の回復。

 目的は、苦痛を癒すことにあったのですが、いつのまにやら手段(酒・ドラッグ等)の持つ
快楽の強烈さに圧倒され、目的と手段がひっくりかえる。瞑想は<わたし>という意識を解き
放ち宇宙生命(?)と融合することを実現させるのでしょうか?それは、誰にも実践可能なも
のなのでしょうか。

 タイの仏教は長い間、一般の人々はブン(福)を積む(タン)こと。つまり、お坊さんに
お布施することだけの仏教でした。そこから変化のきざしがあるのだけれど。はたして我が
教団には痛みを伴った変革がおこっているのかどうかこころもとない気がいたします。 

 自分が何を求めているのか。何を欲望しているのか。欲望することそのものからは、
解き放たれることはないものと思われます。それじゃ、わたしは根本的なところで何を
欲しているのでしょうか。。。
 
 


(無題) 投稿者:三吉 投稿日: 2月24日(日)14時54分01秒 
<「ご本尊を受けたいような本山であるかどうか」が問われるのではないか
と思います。>その一辺倒の回答姿勢はあきた。
らくりんさんが、どう考えているのか答えてみなされ。
あなたは、本願寺が裏書することで金集めの一つにしている歴史ついてどう考えているのか。
私は本山が裏書しようが親鸞が裏書したって、なんら価値を認めん。
とは、実に私が本願寺とまったく利害関係が無いからいえるのですね。。うんうん。

まあ実のところは、私は「南無阿弥陀仏」の掛け軸を床の間に有しているが、大谷派の方に裏書云々を問題にされたこたぁない。そんなことが問題になるとは終ぞしらんかった。
あるお西の人にはそれは裏書してもらったかと何気に尋ねられたコトがあり、「ほう、そんなことに関心があるのか」と不思議に思ったのがこれについての最初である。
<本山があって、寺院があり、門徒方に法が伝わる>などとのたまう、間抜けな補導をここに連れて来いと思う。俺より<法>を知っているのかと問い質したいものですわ(笑)。史実は、門徒がいて、道場ができ、覚如が本山を詐称し、蓮如が統合し、江戸期、寺檀制が導入され道場は寺院化された。(笑)
本山が裏書した本尊を、末寺からありがたく戴くことが、法の伝授なのであろうか。。。裏書の無い市販の掛け軸と何がどう違うのか、経証できるもんならしてみぃと思う(笑)。
「ご本尊を受けたいような本山であるかどうか」とは、如何なることであろうか、立派な本山ならば、ええということなのか。わからん。本山とつながりたいと思えるかどうかということなのであろうか。わからん。
立派であろうが、泥まみれであろうが、本尊を本山から戴きたいという心根がわからん。そんなことは、真宗義の本筋じゃないと思う。
くまごろうさんの疑問は当然のことだとおもう。
信仰問題と財政問題に分けて論じ、煙に巻くしか手が残されてないほど、矛盾塗れの教団の羊頭狗肉の現実があるのですね。背に腹は変えられぬとかね。
だけど、なんだろう。イワユル篤信家が、多額の財施の証として本山より、立派なかたぎぬ貰ったからといって。。「おぉぉぉこの人、金持ちなんだ」と思っても、イコール「偉い」とか思わなければ、ええのではと。本山の評価(色の違い)なんて、信心と全く無関係であろうと。裏書本尊持ってる人には「律儀なことだ」と思えばすむ話しのようなきがします。
ただ、いかなあほたれ本山でも、ええ色のかたぎぬを持っている人のほうが、裏書本尊もっているひとのほうが、信心が優れているという戯けたこというまでにはまだ落ちぶれては無いとは思う。

 
 


ひとりごと 投稿者:三吉 投稿日: 2月24日(日)14時53分21秒 
<衆生の視座>という点では親鸞はぜんぜん優れていなかったのではないかと思う。歎異抄2章を読んでそう感じる。事実親鸞は、さして教線を伸ばしていない。どころかつづまやかな弟子の中にも対立を引き起こし、息子に沈静化を託すが、却って混乱を深化させた。本願寺が伸びたのは、やはり蓮如によるところが多い。親鸞のように、突き放したりせず、門徒が遠方から来れば酒でも出して大歓迎する。人をそらさない。親鸞は虚心坦懐に、「死後のことはわからん」と告げる。蓮如は「平生業成」をいうものの、「後生の一大事」と死後生まれ変わりを肯定的に利用し、其の当時の人々の心をつかんだと思う。あるいは現代真宗系で若者に伸びている親鸞会も、「死後脅迫」で受けているように思う。
<義援金>は私も僅か10万円だが、友達の起こしたボランティア団体に送付したが、友達は感謝していたものの、私の中では「行かなかった」ことへの「アリバイ的なお詫び、つまり、奇麗事」だったようなきがする。
親鸞は、死者に対し経典をよんで供養している自分を責めた。律宗改革派は、積極的に供養し、民衆への葬儀を同時代にはじめて仏教として取り組んだ。併せて社会的事業もだ。「衆生の視座」というのが、何かしら「民衆の現実的利益」を前提に含むならば、たぶん、見当はずれだとおもう。どちらかというと「自力の執心」に属すると。
私も、「共感能力」は、学生の時に注視し、呼びかけたようにも思う。だが、我らの「共感能力」は、「所詮」なのだと親鸞は語っているように思う。哀しいかな、限界があり、しかも顛倒してしまう性質なのだ。ここを軸にしてものを考えたり主張したり進めたら、その結果は、悲惨なものかもしれない。我らの煩悩は「浄」ではないという自覚。煩悩塗れの我らの「共感」が、きれいごとでないはずもないようなきもする。
少なくとも「まったき 綺麗な共感能力」だけが、真宗に求められる資格ならば、そんな聖道門的だなと感じる。
それと親鸞は一般大衆の為にではなく、大衆の一人として山を降り、現実の一般大衆と出会うことで<真実信>に出会ったのではないかと思う。それが<悪人の自覚>だろうと。

大村などというまがいものを「師」と表現し、どうして大谷派のものといっしょにするのか。其の感性はわからん。たぶん、大村さんの「プロとしての云々」に、共感されているのだろうと愚推するが。。痛すぎる。

 
 


問題解決能力 投稿者:らくりん 投稿日: 2月24日(日)08時48分25秒 
なまぐささん
同朋会館の嘱託補導さんの立場としては「きれいごと」(じゃないかな)
「建前」を言わなければならないかもしれませんね。ご苦労さまです。

多くの人が関わっている以上、一人の人間の
思いどおりにはいかない。それこそ「きれいごと」ではすまない。
教団との関係を切るならばそれでもいいでしょうが、自分の意思として選択し、
教団に関わっていこうとする以上、いろんな矛盾や不本意な選択を迫られる
場合が出て来ると思います。
大事なのはそのことに対する「疑問」とか「忸怩たる思い」あるいは「悔しさ」
があるということではないかと思います。

「○印食品」の例を揚げるまでもなく、問題を抱えていない組織なんてない。
重要なのは問題がない完璧な組織を夢見ることではなく、
自分が関わろうとする組織に対して厳しい姿勢を持つことではないかと思います。
どうでもいい組織ならば、無視して旨い汁だけすすっていればいい。
組織というのは、円滑に運営される(そのように見える)ことが健全なのではなく、
問題を修正できる能力や機能が保持されているかどうかが大事なのではないかと
思います。
それも心許ないものがありますが……。
私はまだ見捨てる気にはなっておりません。
また、まだ自分が見捨てられているとも……。
 
 


ご本尊は本山から受けたく・・・ 投稿者:なまぐさ 投稿日: 2月24日(日)00時07分24秒 
中部地方在住の同朋会館嘱託補導のなまぐさです。
先回補導担当で、お内仏のお給仕の時間で参加者から
「ご本尊、脇掛はどこでもとめるのですか?。」
の質問に、私は、
「手継ぎの寺院に相談してください。」
と回答しました。本音は、
「ここから受けるとも言いたくないし、町モノ勧めるわけもいけないしな。そうだ地元寺院に責任を押しつけよう。」
でした。後で別の補導から、
「本山があって、寺院があり、門徒方に法が伝わる。従って本山から受けべきと思う」
内緒で言われました。
このことが、ここ二十日あまり飲み込めずにいました。
2月22日21時58分の書き込みを見て、納得。
ご本尊の本来の意義を見いだすことができるなら、それが町モノでも下付モノでもいいのですね。
(もちろん、阿弥陀仏のあの格好であれば。)
極端すぎる話ですけど、本尊は何か考える機会をいただきました。
(自己満足の話ですんまへん。)
 
 

オーディオマニアとして 投稿者:お留守居役様 投稿日: 2月23日(土)18時08分02秒 
本尊は阿弥陀仏のことで、
阿弥陀仏は色も形もない
と親鸞聖人が言われている
などという原理主義はさておいて、
愛好するものの値段ということで、
CDを聞くためだけの装置に数千万円かける
↓は参考になりませんでしょうか。

http://www2.justnet.ne.jp/~miikun/aud2001.html


くまごろうさん 投稿者:らくりん 投稿日: 2月22日(金)21時58分21秒 
お久しぶり。

この問題は、教団の財政問題として考えるのと信仰問題として考えるのでは
まったく答えが違ってくるのではないかと思います。
その二つの視点をごっちゃにしてしまうと、話がややこしくなるだけです。

問題はくまごろうさんが、どちらの視点から考えたいか
考えようとするかということをはっきりさせられるかどうかにかかって
いるのではないでしょうか。
態度決定の問題だ、と私は思います。

>誰が本物と決めたのでしょうか。
くまごろうさんはたとえば「誰か」が「これは本物だ」と決めたら
それで納得できるのですか?それで納得するのですか?
たとえば、私が「これは本物だ」と言ったら、それで気がすむのでしょうか。

いずれにしても「本物の方が〈御利益〉がある」と言ったら、
どこかの神社の「お札」と区別が付くかしら。

「ご本尊は本山から受けましょう」と言うならば、
「ご本尊を受けたいような本山であるかどうか」が問われるのではないか
と思います。

 
 


いったい何なのだろうか。 投稿者:くまごろう 投稿日: 2月22日(金)19時13分09秒 
私すごく疑問があります。
みなさんの議論からしてみるとすごく幼稚な質問かもしれませんが、すごく気になるの
です。
どうして、本尊は本山からいただかなくてはいけないのでしょうか。
本尊は、自分が大事だと思ったモノが本尊ではないのでしょうか。
ある研修会で、思い切ってぶつけたのですが、質問の中で本山での価格を織り交ぜて
いったために、質問の方向が訳のわからない方向に行ったのですが、今ひとつの答えが得られませんでした。その後飲み会になったため、大事な答えを忘れてしまったということ
もあるのですが、本物からほんとうの信心をいただくといわれても、誰が本物と決めたのでしょうか。
もう一つ、相続講ということで、納めた金額によって差を付けるということはどういう事
なのでしょうか。具体的にいえば、かたぎぬの色ということになるのですが、差を付けた方がお金の集まりがいいからということになるのでしょう
か。一人の念仏者の誕生を願う教団がそのような差別をしてもいいのだろうか。
ちゃんとした質問になっているか少し不安なんだけれども、いったい何なのでしょうか。
 
 

あの時きみは若かった 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月21日(木)17時55分49秒 
 従因向果とか従果向因とか難しいことばが
あります。
 過去から現在をかんがえる。現在から過去へ遡る。
現在から未来へ思いを馳せる。未来から現在を慮る。んなもんか。

 子どもの頃はおかんのいうことを聞かな、ご飯が食べさせてもらえない。
いうこときかんかったら、ふとんで寝せてもらえず、押し入れに閉じ込められる。

 条件付きで与えられる居場所。これが身体にとことん染み込んでいる。
無条件の居場所が欲しい。。。アホでもワルガキでもお前はそこにいていいという肯定感。 
 
 


時は流れず 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月21日(木)16時17分36秒 
 といった日本の哲学者がいました。(大森荘蔵だと思う)
『哲学の謎』という本で野矢茂樹さんは、
「ゆうべ停電あったの、知ってる?」「うん」
「じゃあ、そのあと時間が止まったの知ってる?」「ええ?どれぐらい止まったの?」
「半日ぐらい」「うっそ。時間が止まったのにどうやって誰が測ったんだ?」
「いや、その。。。」「時が流れるっていうけど、どれ位のスピードで流れてるのかな?」
「まあ時速一時間ぐらいじゃないの。。。」
という笑い話から哲学をはじめます。

 時間とは、そもそも何なのか。哲学では、この世界には自分しかいないという考え方が
あります。独我論です。これをもじって野矢さんは、「今」しかないんだという考え方を
独今論とよびます。人間は「自分」というものに閉じ込められているというのが独我論なら
「現在」というものに閉じ込められているというのが独今論です。

 地図というものがあります。空間の見取り図です。またカーナビというものがあります。
地図に自分の現在地(視点)が記されます。逆に考えると地図には視点(自分がどこにいるか)
が書かれてありません。いわば、無視点です。

 輪廻転生はあるか、死後の世界はあるか。これは、どこか世界全体(時間全体)を見とおす
神様のような視点から眺められなければ解らないのではないでしょうか。地図(空間)になぞ
らえば宇宙年表みたいなものでしょう、六道輪廻図というものは。
 
 私が一人で生きているならそれは、単視点しかもっていないのではないでしょうか。
他人の存在が気になるというのは、いわば複視点をもっているということでありましょう。
他者の視点によって独我論が破られる。他者への開け。

 私がいまにしか生きていないのなら、それも単視点しかもっていないのではないでしょうか。
時が流れるというのは、過去を現在からふりかえったり、未来を現在から想像したりする、
いわば視点をあっちこっちに移動させる、複視点を獲得したということではないでしょうか。
時への開け。人間はせいぜい複視点にしか立てないのであって、無視点には、立てない
(神にはなれない)ということなのではないでしょうか。
 
 


入る息を待たず 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月21日(木)15時33分34秒 
 おじきさんのTELによって大阪の友人が逝ったことを知りました。
30代ですわ。彼の考え方と自分のそれは噛み合わんかったけど、異質なる
他者としてぐっちんのことを認めてくれていた数少ない友人のひとりでした。。。

 時間について人は大きく2種類の態度をとるのではないでしょうか。
@現在充足型A未来志向型  @からは現世利益とか、また過去をくよくよ振り返らず
あてのない夢を未来に描かず、「今」を生き抜こうという態度などが生まれます。
Aからは、後生善処。今は苦しいけれど耐えぬけば必ず未来はいいことが待っている
という態度などが出てきます。

 鈴木大拙の『日本的霊性』によれば「真宗は時間を直線的に見んとする傾向をもつ。
・・・それで浄土往生も死後ということになる。禅はこれに反して時間の円還性を固辞
せんとする。それで何事も全面的にこの絶対の瞬間でらちをあけようとする」といいます。

 真宗は未来志向で禅は現在充足だという。(難しくいえば、真宗は超越志向で禅は内在
志向) 
 でもまあ、真宗用語には現当ニ益ということばがあるようですね。現在の利益と
当来の利益。現在は住正定聚。同じ課題を共有する仲間の発見。ひとりじゃないって
素敵なことね。こっちは往生の始まりですか?。
 当来は必至滅度。この世を歩んでいく一歩一歩が仏さんへの道。理由もなくむなしく
時が過ぎていかない。こっちは成仏ですか。

 ひろさちやさんの『お葬式をどうするか』では「禅の教えでは、死後の世界だとか、
霊魂はあるかないかといったことにとらわれるな。考えたってわからない問題を考えるな
という立場です。。。浄土の教えでは阿弥陀仏を頼って死んだらお浄土へ行くんだと信じ
なさい。そうすれば、よけいなことは考えなくてもいいんだ。。。」といいます。

 お葬式が神道や儒教などの教えとごったまぜになっているので、死後浄土に往生するんだ
と考えれば(信じれば)あれこれ習俗にとらわれずに済むと。これって深読みすれば、
らくりんさんの「本尊だけに絶対的な態度をとる。他の一切の虚構にはふりまわされない」
という考え方とそんなに違わない。ただ、その根拠が本願の「見捨てない」という精神に
共鳴しているか否かの違いだと思います。
 
 


ただいま 投稿者:らくりん 投稿日: 2月20日(水)21時09分20秒 
帰ってきました。荷物を解いて、郵便物とメールにに目を通して必要な対応をして。
ちょっと一息です。
 
 

たとえば 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月20日(水)18時32分51秒 
 このサイトにある考え方。

http://www.bangkokshuho.com/articles/suramu/suramu842.htm


永遠の今 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月20日(水)18時00分35秒 
 いえまったくそうではなくて、その、人間はホップステップジャンプという
考え方の落とし穴にまったく気が付かないという事実に、改めて思い知らされ
ましたということ。
 
 ひとは骨の髄まで、難行は信じ易く、易行は、信じ難い。難行易信、易行難信
だと考えるものだということ。自分にはできなくても、もっといえばやりもせん
けど難しいことには価値があり、念仏のような易しい行は、へぇのつっぱりにも
ならないと思われていること。

 で、十九願的な信仰は、温かく見守られるべき、願われてある「逸脱」なのだ
けど「はみだし」であることには変わりありまへん。

 上座部の戒律である「労働しないこと」とかの禁を破って仏教の改革に立ち
上がり、中には僧籍を剥奪されながら、なお仏教者であることを名告っておら
れるタイのお坊さん方がいることに親鸞の時代の念仏者の置かれていた状況を
連想している私。考えている私にはできんことやなあと。
 
 


むかしむかし 投稿者:おじき 投稿日: 2月20日(水)01時16分02秒 
ずーっと前にぐっちんさんと手紙のやりとりしてた時に、僕は菩薩の理想の姿が
説かれてる『十地経』は面白いですよって紹介しましたけど、ぐっちんさんはあんな
ステップアップの思想である『十地経』なんか嫌いやとゆうてはりましたよね。
僕がいいなあと思うのは「みんな菩薩の如来蔵思想」で、
ぐっちんさんが思うのは「みんな凡夫の凡夫蔵思想」でしたっけ?楽しかった。
下の文章読んで、なんかあの頃の議論を思い出しました。今はステップアップも
すっ飛ばすことはできないと思うようになってきたのですか?変わりましたねー
 
 

時をかける少女 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月19日(火)16時28分33秒 
 らくりんさんのいう「救い」とは大村師のいうものとは違うようです。らくりんさんは
方向性の発見といい、また門に立つかどうか、本願の「見捨てない」という精神に共鳴して
参画するかどうかなのかとおっしゃる。ここには、時間論の転換というのもあるのではないで
しょうか。

 10年前に島田裕巳さんが『仏教は何をしてくれるのか』という今のGenkoさんの問題
提起と同じような本を書かれました。その中に以前にも紹介した麻原彰晃と部落開放同盟の小森
龍邦さんとの対決が収録されてます。そこで、麻原クンは自分の目の見えないのは、前世の因縁
なのであり、今生でカルマを積めば来世に開ける(啓ける)んだみたいな発言をしています。

 これは、現在の不幸(?)を過去世という本人の自覚的・意識的には預かり知れぬところに
原因を求める、「苦難の神義論」というものでしょう。そして、過去の問題が現在に及ぶので
現在ガンバレば未来は良くなるという発想です。まあ、これが普通の人間の発想だと思います。

 まあ、しかし例えば浄土教の発想では、未来に(西方?)光源があり、そこから光が来て
現在、いまここの生が照らされ、意味が付与されるというイメージをぐっちんは持っています。

 過去→現在→未来というような川が流れるような時のイメージじゃなく、
 過去→現在←未来というようなカンジかなあ。そういえば、去来現の佛と佛という表現が
ありましたなあ。あんまり勉強していないので、仏教の時間論もろくすっぽ理解できてない
のですけど。

 そういえば、今年のお正月TV、モー娘。のなっち主演で『時をかける少女』をやってました。
これは角川映画版を忠実に再現していたような。。。芳山和子という女の子がこう尋ねます。
「どうして時間は過ぎて行ってしまうの?」これに、未来からやってきた深町一夫はこう答えます。「時間は過ぎて行ってしまうんじゃなくて、やって来るものなんだ」。。。

 参考;『死生観を問い直す』四章「聖なる時間と俗なる時間」広井良典著 ちくま新書
    『哲学の謎』三章「時の流れ」野矢茂樹著 講談社現代新書
 
 


問答 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月19日(火)16時02分19秒 
 「一の字ぃとかけまして、お寺の小僧さんと解く」「これを、あげまひょ」
 「辛抱(心棒)したら住持(十字)になります」「ああ、なるほどね。一の字ぃに
  たて棒を加えたら確かに十という字になりますな。小僧さんも修行をしたら住職になる」
 「ほなわたいは二ぃの字やでぇ」「二ぃの字?」「ぐっちんと解きます」
 「へえへえ、あげまひょ」「辛抱しても住持になれん」「そら、辛抱足らんのでしょ」

 さて、そもそものそもそもがよーわからんから、真宗の教義学がようワカラン。十九願が
どうの二十願がどうのとまったくなんのことか、坊さんながら十年以上チンプンカンプンの
状態であります。
 けど、らくりんさんのご本のお導きでようやくちょっと掴めるかなあという予感がいたします。

 人間という生物はもともと、行動において学習する。快楽をもたらすもの(報酬)に対しては
正の強化付けがなされるし、苦痛を覚えるもの(罰)には負の強化がなされる。そして、環境
(世界)を目的ー手段という構造のもとに把握する。これが、らくりんさんのおっしゃる十九願
における基礎、ヒトはステップアップするメニューをこなしトレーニングを積み結果を求める
行為をなすというものだと思います。ここをすっ飛ばして、十八願なんてのは考えられません。
いや、まったく。 
 
 


ちょっと留守です 投稿者:らくりん 投稿日: 2月18日(月)23時46分52秒 
私は、しゃべりすぎて「よかった」事というのはあまり経験ないなぁ。
いつも一言も二言も多すぎて、失敗した記憶の方が多いような……(∞;)

ちょっと留守します。あっちこっちで、留守ばかりですね。
私はすぐに戻ってきます。
 
 


沈黙は金? 投稿者:Genko 投稿日: 2月18日(月)21時36分21秒 
「湯屋の風呂桶」というと、今度は「沈黙は金」ということになって、黙ってさえいれば安全パイという居直りを決め込む好材料になりかねません。
日本のあらゆる「意志決定過程」(たとえば、会社の営業会議など)の現場では、決まって参加者の大半が黙っておっちんしていることが多い。黙ってさえおれば、発言の当事者責任だけは免れるからです。このため、国際会議などでは、日本人はよく「何を考えているのか分からない」と言われます。
私は、@有言実行とA不言実行とB有言不実とC不言不実を比べて、@〜Bまでは、Cよりも常にましだと思います。
道元の晩年の境地は、「弁ずるは黙するにしかず」(「言行」は厳密には必ず一致しない)ということで、「不立文字・以心伝心」を本懐とし説法も止め、「心身脱落」して己れを捨て去り、「只管汰座」へと到達します。かくて永平寺の山間へとこもり、世俗を絶ってしまうのでした。
これに対して、良寛はやや違います。五合庵に細々と暮らしながら、ふもとの村々の衆生のところへ度々姿をあらわし、子供達と戯れたり、村人の悩みの相談に乗ったりしています。
法然や親鸞の場合は、世俗にまみれながら、むしろ徹底して「弁」を立てますから、私の価値観に近いわけです。
日本の政治家や官僚、企業トップたちに、「説明責任」や「情報開示」の能力に乏しいのは、何かこう「沈黙は金」のような伝統的価値観の慣習がはびこっているせいではないでしょうか?
私は、この国では、何かを発言すること自体が、既に充分勇気ある「行動」だと評価したいと考えています。
 
 

宗教社会学 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月18日(月)17時27分44秒 
 社会学者のマックス・ウェーバーによると宗教の原始的形態は「幸福の
神義論」と「苦難の神義論」のようです。ようするに金持ちとか美人とか
世間で言われるしあわせな人はしあわせだけじゃ物足りず、私がしあわせ
なのにはまっとうな理由があるといいたがるという話ですよね、Genkoさん。

 ほんで、前世で積んだ業みたいなんをもって正当化したりなんかする。
苦難の神義論の方は、なんで正直者の徳さんが、あんなに早く逝ってしまうんか。
働きもんのおさきさんが流行り病にかかって苦しんでいる。この世に神も仏もある
もんか!と叫びたくなるような現実に意味を与えるのが宗教でございますよね。

 でも宗教には存在の負価性っちゅうのも大事ですよね。存在自体がマイナスの価値を
帯びている。負がわれわれの生には刻印されている。。。

 今は金持ちでビルゲイツでも、中内さんみたいにカラッケーツになるやわからん。
今は菊川怜でも年いったら大久保怜になるかもわからん。(関西人以外にはわからんこと
いうな!)で、お釈迦様の一切皆苦なのではないでしょうか?
 
 


ルーシー 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月18日(月)17時07分22秒 
 イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズというビートルズの唄がかつてありました。
(67年サージェントペパーズ収録)頭文字をとってLSDソングと話題になりました。

 お西の大村英昭師によれば、「救い」とは@意味からの解放A自我からの解放
B集団への溶解C宇宙への溶解でした。LSDという物質は神経伝達物質セロトニンに
働きかけるようですね。脳幹の青班核という部位にもっともセロトニンは分泌されて
いるみたい。

 さてさてLSDの服用はコップから「水を入れる器」という意味を失わせ、私から
「会社員」というアイデンティティを失わせ、日常的なリアリティという自明性を
奪い取ってしまいます。(まるでサルトルの『嘔吐』みたい!)このまま死んでしまう
のではないかというバッドトリップを起こす人もいますが、うまくいけば大村氏のいう
「救い」に極めて近い状態になるのではないでしょうか。つまり、自我の崩壊です。

 桂枝雀師の落語に「茶漬けえんま」という演目があります。松本留五郎という男が
死んで極楽へとやってきます。その時、他人の足を踏んづけてしまい「ごめんなさい」
とあやまるのですが、その男が「何をあやまってるんですか。あなたが踏んだわたしの
足はあなたの足。あやまることはありません」といいます。留はなんのことかわからず
問答が続くのですが、枝雀師が描く極楽で実現するのは、自他が未分化の状態のようです。

 エクスタシーという名のドラッグもありますが、エグジスタンスの語源ともなったギリ
シア語エクスタシスは、「外側にたつ」ということで、身体感覚が失われてしまうことです。
トランスパーソナル心理学のケン・ウィルバーは、自他の未分化なプレパーソナルという
状態の至福といったん成立した自我が発展的に解体した時のトランスパソーナルの至福とは
別物だといいましたが。。。

 とまあ、書いていてだんだんワケがわからなくなってきた。こんなことに興味を持つ人も
おらんやろし。。。
 
 


いえいえ・・・ 投稿者:Genko 投稿日: 2月18日(月)02時29分57秒 
何をおっしやる、らくりんさん。
議論とは、「からみ」の別名ですから、そんなことは気にもとめんでください。
私のほうも、相手がらくりんさんほどのおかたであることを承知で、身の程も
わきまえずに、敢えて無謀な試みを自己に課して、ここで頑張ってナマイキな
論陣を張っているのです。
気を悪くしたりはしていないどころか、むしろ光栄に存じます。
手加減せずに、今後ともご指導ご鞭撻のほど、宜しくお願い申し上げます。
お気使いは、有難く頂戴致します。合掌。
 
 

蛇足ながら。。。 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月17日(日)20時49分31秒 
 世のいのりに、こころにいれて。。。

  おっちゃんたちは、やれ世界がどうたら、政治がこうたらいうのが好きなんや
けど、道行く女の子達はそんなりくつ抜きに、お念仏を称えているのだと思う。。。
 
 


ナーン米だァ。 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月17日(日)20時27分41秒 
 タイの仏教ホスピスには、横断幕はかかってるのかなァ。
アロンコットさん、あなたはわたし達の師匠です!とかなんとか。。。

 おじきさんのいう中国のお二人は、お寺へよくお参りにいってたそうでしたね。
出身は確か、北部と南部で違っていたにもかかわらず。筆談して、仏教の教えを
よくご存知なのでびっくりさせられたよね。中国は、無神論者の集まりだという
へんな予定概念がぼくらにはあったから。

 風俗ネタをもう少し。去年、歌舞伎町の雑居ビルで火事がありました。貿易センター
ビルの倒壊ですっかり影が薄くなってしまったのだけど。あの後、現場をうろうろしてた
のだけど、道行く女の子達が花束を手向けていました。そういえば、おじきさんたちと
大阪ミナミで坊主バーをやってた頃、ホームレスのおっちゃんが道頓堀の引っかけ橋から
突き落とされて亡くなった痛ましい事件があったよね。

 あの時も、たくさんの女の子達が(カップルなら彼氏の手を引いて)現場に手をあわせて
いた光景を見ました。第三者の死にもかかわらず。なんでだろう。TVで知って話題の場所
だから?おそらくそんなことはないでしょう。

 歌舞伎町のス〜パ〜ル〜ズのことに戻るけど、朝日紙の東京版に働いていた彼女たちの
レポートが載ってました。地方から夢を持って出てきて、メイクアップアーチストとか美
容師とかめざして、専門学校に通ううちお金が足りなくなって、バイトで始めた女の子達。
あそこは、いわゆる「抱きキャバ」なので、彼女達にも決心が必要。「彼氏にしてると思
えば、ま、いっか」っていうことで、自分を納得させる。

 田舎でつきあってた彼氏との間に子供が出来たケースもあって、シングルのヤンママ
として生活費を稼いでた娘さんもいたなあ。学校の方ともだんだん疎遠になって、彼氏とも
うまくいかなくなったりして、やがて店と部屋との往復だけの生活になって。。。携帯で
友達と連絡を取り合うのが唯一の楽しみみたくなって。

 とまあ、自分もよく似た生活をしてるなあと思うと涙が溢れてきた。。。
 
 


「湯屋の風呂桶」 投稿者:らくりん 投稿日: 2月17日(日)08時40分53秒 
「=湯ぅばっかり」みたいな駄洒落がありましたが、
「言うだけのきれいごと」と「示された美しさ」とはまったくの別物、
その違いは大きいですよね。

Genkoさんんがおっしゃりたいことはだいたい理解できているつもりで、
わざとからんでいるようなもんですので、気を悪くなさらないで下さい。
そんな「からみ」を受け止めていただける方ではないかと思っているからなので。
 
 


融通無碍 投稿者:Genko 投稿日: 2月17日(日)03時49分50秒 
前回では紙面の関係からいささか言葉足らずだったのですが、サイードの言う「体験の直接性」とは、文面の脈絡からして、おそらくぐっちんさんの言う「ミラーニューロンによる対他的自己の共感性」に近い概念です。
むろん、<自−他>の関係性の中で、らくりんさんが懸念されたような問題は、傾向として確かにあるとは思います。
しかし、私の議論の真意はむしろ、しかるがゆえに、この恐れが「体験の間接性」(=釈迦や親鸞への自己韜晦ないし仏神崇拝一辺倒)へと回避していく免罪符になってしまい、衆生を捨て置く結果を招来せぬか、という方向にあったのです。
私の見るところ、この国の大抵の僧侶は、「間接性」ばかり説いてきたような気がするもので。
早い話が、目前に飢え死にしかかっている少女がいたとき、テキスト通りに「念仏一如」を説く前に、すぐそばのコンビニへ走ってパンの一つも買い与えるのが、僧侶のみならずすべての「痛みの直接性」を知っている者の人の道ということです。ただし、これはあくまでも比喩ですが。
僧侶が「それでも不足はうめられない」と「気づく」のは、その後でも決して遅くないと思います。
私も「きれいごとが大嫌い」なこと人後に負しませんが、ひとが多くの場合条件反射的に「他人の痛み」を共有してしまう感覚は、必ずしも「きれいごと」とは思いません。
阪神大震災のとき、各地から「義援金」が多額に寄付されましたが、あの頃神戸の東灘区にいて、かなりの被災を被った私自身の「体験」から言っても、「きれいごと」だったとは決して思いません。
 
 

ほんとに小乗? 投稿者:おじき 投稿日: 2月17日(日)00時47分04秒 
自分で確認した事はないので申し訳ないですが、「仏教国」といわれるタイではまだまだ
「生活」に仏教が根付いているそうです。各家庭や学校では必ずお釈迦様の生涯とみ教え
を幼少の頃から学ぶそうです。だから共通言語として一般人がお釈迦様の話題で会話でき
るそうです。日本では僧侶同士でもお釈迦様の会話で盛り上がれないよなぁ。ま日本でも
おかげさま、バチがあたる、先祖さんに見られてる、など生活に根付いてる部分もあるん
でしょうが・・・。以前に四谷のバーでぐっちんさんと僕と中国人女性2人と話した時も
かの中国人は中国では習慣・習俗・儀式・儀礼などは儒教や道教が受け持って、宗教・
哲学・思想などでは仏教がまだまだ健在だって言ってましたよね。日本とは大違いだよ。
 
 

ミラーニューロン 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月16日(土)20時31分30秒 
 去年の11月17日、ぐっちんは見てなかったのですけど、TBSTVで 
「人間とはなんだ」という番組がやっていて古館一郎司会で養老孟司が
脳科学のはなしをしていたようです。

 まあ、そこで話題になったのがミラーニューロンの存在みたいです。
サルに何度か物を掴ませたあと、人間が代わって物を掴むとサルは自分が
掴んだときと脳の同じ部分が働くことを発見しました。自分を他人に移し
かえて同じことをしているつもりになれる。この部分の神経細胞をミラー
ニューロンといい、「他者と共感」しうる生物学的基礎というオハナシ。

 そもそも実証心理学でも「他者のこころ」の存在は「死後の生存」と同じぐらい
「科学的には」証明できないものらしかったそうです。科学ったらいうものは、
自然科学なら物理学、社会科学なら経済学に典型的なように事象を「モノ」として
扱って数式化するみたいですけど、ココロも刺激という入力に対して、行動という
出力を扱うのが実証心理学の方法。

 ですから、ココロというものはブラックボックスらしかったのですが。。。
神経生理学でも脳科学でも「わたし」という意識は単独で発生するのではなく
いわば「他者の心」をテコにして生まれてくるものらしい。。。

 「共感っ!」「松本っ!」    って古いネタで落ちます。。。
 
 


イタイ奴。 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月16日(土)20時06分14秒 
 タイの地下経済の規模は地上経済比で71%にものぼるそうです。
アメリカでは地下経済に占めるセックス産業の割合は5%ほどなのですが
タイでは実に20〜30%だそうです。

 南部の工業地帯に比べ貧しい東北部の農村出身の女性が圧倒的に多く
売春で稼いだお金は40%は仕送りのために使い、自分の為には15%しか
使わないそうです。(女衒が50%は搾取するみたいです)

 昨日、『仏教・開発<かいほつ>・NGO〜タイ開発僧に学ぶ共生の智慧』と
いう本を買ってタイ仏教について認識を改めました。「上座部」については、生世界で
おじきさんに推薦を幾度か受けていましたが、『蛇』(92年発行)という小説の形で
告発された上座部仏教の堕落・腐敗などを読んでましたしそれこそ「きれいごといっても
ね〜」って感じでした。

 それに日本で会った上座部のひとたちは、やっぱ威張ってるみたいで「ごっつカンジ悪ぅ〜」
という印象でしたから。でもこの本は面白い。コメ銀行をつくった、ナーン和尚。女性用シェル
ターをつくったサンサニー尼。仏教ホスピスをつくったアロンコット師。森林を保護するために
「木の出家」をさせるカムキエン師。

 またプラチャック師やポーティラック師は国家から、僧籍を剥奪され、黄衣を着ることを
許されず白衣をまとってなお活動を続けておられます。Genkoさんは理想とされる仏教は
タイにあるかも。。。

 産業や教育、福祉とならんで彼らのプロジェクトには医療活動もあります。薬草療法・
ハリ治療・温熱療法・マッサージなど伝統医療の再認識などがおこなわれています。
日本じゃあ、アーユルヴェーダ(インド伝統医療)は、たかのU梨ビューTクリニック
みたいな美容として商品化されてしまったし、タイ式マッサージというとアジアン・エステ
という近頃はやりの風俗に取り入れられているわけでありまして。

 ってやっぱりネタは風俗かいっ!!
 
 


親鸞聖人にとっての聖徳太子 投稿者:お留守居役様 投稿日: 2月16日(土)12時03分42秒 
親鸞聖人が尊敬されている人たちに共通することは、
仏か菩薩の化身であることではないでしょうか。
法身、報身、応身の三身説と同様に
法身、応身、化身の三身説もあるようで、
仏が衆生の姿として現れたものを化身というそうです。
恵信尼さんの手紙にも、
法然聖人を勢至菩薩の化身と言われていますし、
恵信尼さんは、親鸞聖人を観音菩薩の化身と信じていました。
また、古田武彦先生の研究では、
親鸞聖人も恵信尼さんを観音菩薩の化身と信じていたことになります。
化身というと、生まれ変わり、転生のことで、
輪廻と同様の概念であり、
輪廻=生死を否定する仏教と矛盾すると思われがちです。
化身を真理として実感することはむずかしいのですが、
現代では、地球球体説や地動説が信じられているように
近世以前では、化身や示現が真理として信じられていたのでしょう。
聖徳太子は、インドでは勝鬘婦人として生まれ、
中国では恵思禅師ともうされたと
親鸞聖人は、事実として述べられています。

示現とか夢告とかいうことも、現代とは異なっています。
フロイト以来、夢は人が見るもの、
人の無意識の欲望の顕れと考えられていますが、
近世以前では、夢は人が見せられるもの考えられていました。
夢のお告げとか夢枕に立つとかいうことも、
向こうからの伝達、向こうから来る事実と考えられていました。
ですから、中世人である親鸞聖人の感覚を共有することはむずかしいと思います。

ところで、恵信尼さんの手紙にある
無量寿経の文字がきららかにつぶさに見えたというのは、
夢に見たのではなくて、
寝ながら頭の中で無量寿経を読んだということと思われます。
中世人でもある親鸞聖人においては、
執心自力の心ですることと夢に見ることとは、
区別すべきであると思われます。
 
 


民衆の知恵 投稿者:らくりん 投稿日: 2月16日(土)09時52分32秒 
▼くりかえしになりますが、私は性格がねじまがっているのか「きれいごと」にはな
かなか素直になれません。
▼政治家が「国民のみなさまのため……」などと言っているのを聞くと「何をいって
んだか」と思ってしまいます。
Genkoさんが「衆生の視座」とおっしゃっているのはそれとはまったく別物だろうと
思います(決して皮肉でもいやみでもありません)。しかし、言葉だけでは、その違
いは他人は判別しようがありません。

▼「体験の直接性」というのは、「苦労していないもんにおれの気持ちがわかるか」
とか「金持ちに貧乏人の苦しみがわかるか」ということになるのではないかと思いま
す。
これは一面の事実です。ただ、それを強調することはかえって他者の理解とか共感を
遠ざけることになる場合もありますし、またそれが過度に強調されると「相手にも同
じかそれ以上の〈痛み〉を味あわせてやる」という「報復の論理」を容認することに
つながっていく危惧もあります。
▼「体験の直接性」ということは非常に重い意味があると思います。
ただ、それには「貧乏人に金持ちの苦労がわかるか」という逆の一面も含まれている
わけで、残念なことに「体験の直接性」は他者の共有を拒絶することでもある。だか
ら、ご紹介いただいたE・W・サイードさんの言葉の中では「常になにかしら不足
している」という「気づき」こそが、私は重要なのではないかと思います。そして私
は「その不足が埋められるかも知れないという錯覚や幻想」は持つまいとも……。

▼「きれいごとにはだまされないぞ」というのは、騙され続けてきた「民衆」が獲得
してきた知恵のひとつではないだろうか。
 
 


誰のための仏法? 投稿者:Genko 投稿日: 2月16日(土)00時06分28秒 
周知のように、いわゆる三宝輪の考え方からすると、<仏-法-僧>が三位一体となって、仏教の骨格が形成され、展開されてくるという理路になります。
このうち、<僧>はいかなる役割を担うのでしょうか?
おそらくそれは、前二者の媒介を担うと同時に、衆生に対する<仏-法>の伝達です。
親鸞が若いとき天台を降りた理由の一つに、当時の高僧たちが象牙の塔の閉域で、釈迦や最澄の顔を向いてばかりいたか、<仏-法>の媒介役ばかりに執心するあまり、肝心の下界の衆生を忘れている現状に疑問を感じたこともあったのではないでしょうか? 
ちょうど今で言うと、「東大へ入学して学問をしてみたが、このままだと末は高級官僚か大学教授か一部上場系のエリートコースほぼ確定だから、それでは自分が得をするだけで、一般大衆の痛みはどこにいくのか」という後ろめたさのようなものです。
学問もそうですが、本来、仏法も親鸞教学も、みな基本的には衆生のためにありうべきものです。
親鸞や僧侶自身のためにだけ、親鸞や仏法があるのではない、ということです。
親鸞自身も従って、己れや釈迦や聖徳太子よりも、あの頃の衆生の方に遥かに関心があったのだと思われます。
私達の関心もまた、親鸞と同じように、親鸞自身の視座を超えて、「衆生の視座」に立たなくてはならないのではないでしょうか。
私が釈迦や親鸞などの浄土系の教えに強い近親性を覚えるのは、まさにこの「衆生の視座」を基礎に据えているからです。
親鸞が太子の思想のどこに着目したかが、このことによって見えてくる気がします。
すなわち、仏法における「衆生の視座」です。
これが、貴族の息子にしては珍しく、太子の深い人間観を形成していったと思われます。
話は転じて、今日の朝日新聞夕刊に、E・W・サイード氏による大江健三郎への往復書簡回答文が掲載されていて、パレスチナ難民が三十五年も核保有国イスラエルの国家テロに苦しんでいるのに、反米的要素をすべてテロリズムの名の下に両断していくブッシュの政策に不快感を示し、大江氏による長崎や広島の被爆者の筆舌に尽くしがたい例をあげて反証的にこう書かれていました。
「人間の知識は、体験の恐るべき直接性に対しては、本質的に悲しいもので、常になにかしら不足している」
「体験の直接性」−−−。
これが、仏教的に換言すると「衆生の視座」につながるような気がします。
僧侶もまた、僧侶である前に本当は「衆生」の一人です。私自身もまたしかりです。
親鸞思想や仏教学など様々な知識に決して自己韜晦せず、自分自身をも含む「生きた衆生」の方を向いて、念仏一如を実践していきたいと願っています。
それがサイードの言う「体験の直接性」であり、親鸞聖人も草葉の陰で喜ばれる「仏法の伝達」方法だと思います。
 
 
 
 
 


 
 


空虚な自己 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月15日(金)16時30分34秒 
 住まわっているのは東京なのですが、ロケーション的には山の中。木々はまれに雪化粧を
ほどこすこともあり、また空は雲一つ無く真っ青に晴れ渡ることもあり。名も知らぬ野鳥達
が朝の訪れを告げ、星は都心部よりも間近にきらめき、月はその輪郭をくっきりと浮かび上
がらせています。

 けれど、井戸水を汲みに行くで無し、薪を拾いに行くで無し。自然に囲まれながら、自分
の存在だけは自然に溶けこめず、心は晴れぬまま。何かが決定的に足りぬまま。

 TVを見たり、本を読んだりと自分が使える時間はたっぷりあるというのに。さりとて知
識が増えたところで誰を喜ばせるものでも、勇気づけるでもなく。昔、知り合いの記者さん
が「男の自己愛惜はみっともない」なんてことを言ってました。愚痴っていても始まらぬけ
れど、そもそも私たちは何処へ向かって進んでいるのやら、何処まで来たのやら。。。
 
 


追加 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月14日(木)16時14分59秒 
 や、仏教でいっちばんわけのわからんおハナシが法身とか報身とか応身とか
いうハナシでして。。。そこに方便法身の大切さというのは、新鮮でした。

 身のことに、もうちょっと突っ込んでみたら、衆生が行を積んで「救われる」
ないしは「仏になる」という可能性は絶たれるんだというようなことが、
それこそ、身につまされ、腑に落ちるかも。。。
 
 


反復 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月14日(木)15時47分20秒 
 キリスト教の高尾利数せんせは、個人(インディヴュディアル)は
もうこれ以上分割できないという意味でいのちの最小単位であるとともに、
分割できないという意味で他者とつながっている、と書かれていました。

 日本語の「身」は、身から出たさびとか、身につまされるという時は、
個としての自己を意味するし、身びいきとか、身売りという時は社会的存在と
しての自己を意味します。

 ジョンロック以来の「おれのものはおれのもの」ないしは「おれのつくった
ものはおれのもの」という所有権の考え方のあやうさがあちこちで指摘されています。

 自分の「いのち」は自分で作ったのかどうか。自分の「カラダ」は自分が作った
ものかどうか。自分が所有しているとカン違ったものに逆に縛られるというのは
よくあることですよね。

 貨幣の自由な所有が、守銭奴として貨幣に縛られる。(田をもっていても、もって
いなくても悩みがある)好きになってモノにした異性にふりまわされるとか。。。

 あぁ、ひとは自己の存在を、あるいは自己の所有物を意のままにしうるものと
勘違いし続ける。(それが非我ではないかしらん)意のままにならないというのが
「苦」ドゥッカでしたか。。。

 唯物論というか、自然科学は、「カラダがいのちをもつ」ないしは「脳が意識を生む」
と考えているようです。根本的に天童よしみ。。。
 
 


Genkoさんへ 投稿者:らくりん 投稿日: 2月14日(木)15時20分39秒 
▼あのー、私も大陸との交流についてご指摘のようなことが言われているのは
知らないわけではありません。(詳しいわけでもありませんが)
▼ただ、
私が聖徳太子あたりのこと考えるときには、
それが史実かどうか、正史かどうか民衆史かどうかということにかかわらず、
親鸞のころに、どのようにそれが考えられていたかということが関心の前提に
なっています。
親鸞の思想やそれが形成された道筋に関心があるのであって、
今日的な歴史学の到達点から聖徳太子の時代に何が起こっていたかというような
日本史そのものに対する関心は皆無ではありませんが、私にとっての
主要な関心事ではありません。
つまり、聖徳太子が何をしたかしなかったか、どういうう人間であったかという
聖徳太子そのものに対する関心はあまりありません。
また、仏教伝来の事実経過がどうであったかということも、今のところの主たる
関心事でもありません
▼親鸞が彼をどのように見ていたか、なぜ彼についてあのような記述を
残したか、あるいは親鸞の時代に日本への仏教伝来はどのように認識されていたか
ということにはかなり関心があります。

▼これは、親鸞を絶対視するということとは違う、と私は思っています。
自分の関心がどこから出発しているのか、視座をどこに設定しているかという
問題であろうと思います。

▼親鸞は、おそらく記録されていた文献とか、当寺の仏教界で流布していた通説
から大きくはずれるような見方はされていなかっただろうと思っています。
少なくとも、親鸞の時代においては、仏教伝来は聖徳太子が活躍された
時期から数十年しかさかのぼらない頃に想定されていただろうと私は考えています。

私自身は、親鸞が何も言っていなかったら、私は聖徳太子なんてほとんど
気にとめなかっただろうと思います。
▼誰が何に気づき、だれが誰からどのような影響を受けているかという
仏教思想形成史的な関心はかなりあります。
そういうことを見ていく上に必要な範囲で歴史的な事実を押さえておかなければ
ならないことは出てきますが……

▼ということですので、
先の書き込みについては文末に
「と、親鸞は考えていたと思います。」
という意味のフレーズを付け加えてお読みいただければ幸いです。

 
 


らくりんさんへ。 投稿者:Genko 投稿日: 2月14日(木)14時45分33秒 
歴史には、公式とされている「通史」(=国史)の他に、いわゆる「民衆史」や「裏面史」などがあります。
我々の時代の歴史教育は、近代国家以後の学校制度(文部省)等を中心にした「教育制度」によるものですから、言わずもがな大半が前者のそれです。
しかしながら、井上靖、羽仁五郎、色川大吉、阿部謹也氏らの提唱する「民衆史」観の立場に立てば、あくまで推定ですが、非公式に仏教が伝来したのは、西暦538年以前であったことでしょう。
遥か古代に、今の北陸・北海道・裏日本側の東北地方一帯とクナシリ・エトロフ、ウラジオストック、朝鮮半島など大陸の日本海側の沿岸地域に活発な一大海上交易があったことが、考古学で確認されています。また、南方からの黒潮に乗る「舟の海上ルート」というものがあったそうですから、仏像など様々な文物が、それより相当以前に一部の民衆間に流入していたことは、ほぼ間違いないと考えられます。
 
 

カラダは誰のものか? 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月14日(木)14時32分38秒 
 小室直樹のおっちゃんによると近代資本主義をもっとも特徴づけるものは「私的所有権」
だそーです。ほんで、私的所有権は2つの特徴をもつらしい。

 絶対性: 私的所有権は、所有物に対する全包括的・絶対的な支配権である。
     よーするに、持ち主は、持ってるものを煮て食おーが焼いて食おーが
     し放題ってことらしい。
 
 抽象性: 私的所有権の存在は、観念的・論理的に決定される。
     これとさかさまなのが、具体的・現実的な所有形態。ヤクザが、ビルの
     一室に居座ってごねて出て行かへんとか、本を貸した方が、借りてるほうに
     「すまんけど、こないだアンタに貸した本返して欲しいんやけど。。。」と
     懇願するような状況。

 「わたしはカラダである」のか、それとも「わたしがカラダをもつ」のか?わたしが
カラダをもつのなら、「カラダを売ったっていいじゃ〜ん」になるでしょう。「オヤジだって
よろこんでんだしー、あたしもぉお金がもらえるんだから」って理屈になります。

 毎度おなじみ、藤元正樹師によれば「いのちがカラダをもった。いのちが、このカラダを
内容として成り立っておるということが、仏教のいのちの考え方」だそーです。

 もつを「持つ」と「有つ」とに当てるのでもだいぶ違うようですが。。。

 仏教には近代西洋起源の人権という考え方がない、とかヒューマニズムじゃないとか
よく聞くんですけど、この辺のこときっちりやってる先生っていませんか?らくりんさん。
 
 


聖徳太子もう一題 投稿者:らくりん 投稿日: 2月14日(木)09時21分36秒 
▼聖徳太子のことでもう一つ注目しておきたいことがありました。
▼歴史上確認される形で(いわゆる「公式」に)仏教が伝来したとされるのは西暦538年
または552年(2説あって決着がついていない)のいずれかということになっています。
聖徳太子が生まれたのは572年、仏教受容をめぐる曽我氏と物部氏との争いに決着がついたのは587年、厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子として摂政になったのは593年。
これらのことは40年から60年ほどの間に起こっていることです。

▼当寺の仏教理解がどの程度のものだったかあるいは何を仏教に期待していたかわかりませんが、そのたかだか数十年の間に、それが受容され定着していく上での基礎が形成されていたことは間違いないと思います。
数十年という時間が短いのか長いのか、それは人によって感じ方が違うでしょうが、
自分に当てはめて考えてみると、清沢満之が亡くなったのと私が生まれたのが51年
離れています。そして今年は、没後99年ですか。何かが生まれて変質していく
には充分すぎるほどの「時」かもしれません。
 
 


おじきさんへ(問題提起) 投稿者:Genko 投稿日: 2月14日(木)06時55分02秒 
よく考えてみれば、脱税や贈収賄が横行するのは、むしろ<オモテ経済>の方ではありませんか?
私の言う<ヤミ経済>とは、政府の産業分類項目にオーソライズされていなかったり、街の道徳家たちが公認したくない業種領域での金銭的交換関係を意味します。
したがって、風営法で管理されている風俗業界も、やはり<ヤミ経済>の一形態と思われます。
この業界のリーディング・カンパニーがたとえ出現しても、永遠に<上場>できないからです。
はっきり言って、「下半身業界」ということです。
 
 

その実 投稿者:Genko 投稿日: 2月14日(木)04時57分29秒 
「持続可能な<社会>」とは、「持続可能な<自分>」の主客転倒なのでは?
 
 

持続可能な社会とは? 投稿者:Genko 投稿日: 2月14日(木)04時41分07秒 
ぐっちんさんが言うように、現在、この問いは「世界共通のテーマ」です。
しかるに、資本家連合は自分たちの土俵(=資本主義)をそのままにしておいて、国際連合は自分たちのトランスナショナルな立場をそのままにしておいて、学者や宗教家たちは自分たちの既得権益(=資格や寺院制度)をそのままにしておいて、一般大衆は自分たちの生活の様々な無駄をそのままにしておいて、尚且つ地球環境のサスティナビリティー(持続可能性)を必死で追求せんとしています。
足下をよく見ると、それは、単に自分たち自身の保身願望に過ぎなかったりして・・・・。
せっかく人類が共通課題で認識が一致したというのに、みんながみんな、てんでばらばらに手前勝手で我儘な理屈を叫んでいます。
みんな自分たちだけはかわいいのですね。あさましいものだなあ。
 
 

柳に風 投稿者:Genko 投稿日: 2月14日(木)03時18分28秒 
>・・・金持ちがカードを止めとるわけですな・・・
>・・・アクセル(動因系)/ブレーキ(報酬系)論になるわけでございます・・・。

左様。まったくおっしゃるとおりなのですわ、ぐっちんさん。
だから、ブッディストがいくら「諸行無常」や「煩悩具足」を説いても、彼らにはまったく「柳に風」というわけです。
かわいそうなのは只、それを信じて「清貧」に甘んじる正直な無産者大衆、すなわち「衆生」ばかりなりというオチなのでした。(もっとも、きょうびそんな「妙好人」みたく大衆なんか、どこにもいませんがね)。
 
 


相対性理論 投稿者:お留守居役様 投稿日: 2月14日(木)00時20分35秒 
昔、深夜放送で永六輔さんが言ってたことですが、
日本人ですが、外国人大好きな人がいて、
円谷選手がイギリスのヒートリー選手に
国立競技場の最後のトラック内で追い抜かれたときに
バンザイと叫んだそうです。
また、別の人ですが、
ケネディー大統領が暗殺されたとき、
良かったと言った人がいたとか。
偉い人は一人でも少なくなった方が良いからだそうです。

確か、深沢七郎さんとか言う人だったかと。。。
 
 


オリンピックの。。。 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月13日(水)21時37分43秒 
 顔と顔。ア、チョイナ。

 >Genkoさん

 というわけで、生世界でお話しなさった、現代資本主義社会におけるアクセル(動因系)
ブレーキ(報酬系)論になるわけでございます。持続可能な社会とはいかなるものか。。。
 
 


幼少の記憶 投稿者:らくりん 投稿日: 2月13日(水)20時39分48秒 
東京オリンピックマラソン銅メダルの円谷こうきちさんですね。
アベベが金メダルで、円谷さんは2番目に競技場に帰ってきてトラックでイギリスの
選手(たしかヒートリーとかなんとか:妙なことを覚えているもんですね)に追い越
されて銅メダル、でした。

 
 

清水さん 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月13日(水)20時16分24秒 
 零コンマ何秒とかいうのってすごい世界ですね。
お茶の子差異差異、ってわけにはいかないです。

 ひとつの記録が打ち立てられると、その上をいかなくちゃいけない。
大変だなあ、聖道門スポーツは。。。

 ♪一人の道    今江真三郎・作詞/茶木みやこ・作曲

 ある日走った その後で 僕は静かに 考えた
 誰のために 走るのか 若い力を すり減らし
 雨の降る日も 風の日も 一人の世界を 突っ走る
 何のために 進むのか 痛い足を がまんして
 大きな夢は ただ一つ 五つの色の 五つの輪
 日本のための メダルじゃない 走る力の 糧なんだ

 父さん 許して下さいな 母さん 許して下さいね
 あなたにもらった ものなのに そんな生命を 僕の手で
 見てほしかった もう一度 表彰台の 晴れ姿
 だけど 身体は動かない とっても もう 走れない
 これ以上は 走れない。。。  
 
 


ちゅ〜とハンパな。 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月13日(水)20時02分26秒 
 飲む(ドラッグ含む)打つ、買うに共通のことは何でしょう。
酩酊して日ごろの憂さを晴らす。博打で一攫千金。パートナー以外とチョメチョメ。
!キーワードは非日常かな。人間は日常だけではやってけないってことかな。

 昔は酒を飲むにも作法がありました。今みたいな一気飲みとか、無茶苦茶な飲み方を
するようになったのはいつからでしょう。浅草あたりにいくと植木職人さんなんかが、
仕事がえりに立ち寄る店があります。お銚子は三本まで。肴はお腹が張らないもの。
9時には閉めて店のオヤジさんは無口。つまり、家へ帰っておかみさんの手料理で夕飯を
食べるようにという飲み方。粋だね〜。

 メキシコの先住民たちだって、治療儀礼にサイケデリックス(幻覚剤)の一種シロシビン
を含むシビレタケを服用するのに呪医の指導のもと夜の儀式以外では、用いません。
(このへん愛のメッセンジャーさんが薬学がご専門らしいのでご指導たまわりたいところですが)

  『読み解くU』の第七講には、らくりんさんの欲望論(願望論)があります。
。。。自分自身の中には救いの可能性はまったくなく。。。自分で設定した目的やビジョンは
いつまでも持ちつづけることができません。。。私たちの願望はそれが満たされるかあるいは
それをあきらめるかによって消滅してしまう。。。一つの願望が満たされるとより大きな願望に
成長していく。。。資本主義とはこの欲望増殖の原理を利用して価値を生み出していくわけです
。。。

 例えば、脳の空腹中枢はドーパミン系ニューロンによって活性化され、逆にオピオイド系
ニューロンによって抑制されます。ドーパミン系は、アッパー系(興奮剤、例ニコチン・カフェ
イン)の「食べたい」という欲動を引き起こす働き(動因系)をつかさどり、オピオイド系は
ダウナー系(抑制剤、例エチルアルコール・モルヒネ)の「お腹いっぱい」という行動をストップ
させる働き(報酬系)をつかさどっています。

 つまり、生物としての人間の快楽とは、快楽を見越した欲動(夢や願望、ビジョン)と
その結果としての快楽それ自体(それが満たされること・ごほうび)があるといえます。

 快楽は一時的な幸福感をみたしてくれますが、快楽が消えれば幸福感も消えてしまいます。
快楽を得るための方法(酒・セックス・恋愛・ギャンブル等々)が、いつのまにか不快を
回避するためにやめられなくなる。これが、依存症であり、少しの量で効いていたものが
いつのまにか、大量に使用しなければ効かなくなる。これが、耐性です。遊びがいつのまにやら、本気になって身をもちくずすまでになってしまうこと。(酒を飲んでて酒に飲まれるようになる)そこに地下経済はつけこみ、はびこるわけですね。

 遊煩悩林、現神通までは遠いな。。。

 >Genkoさん

 つまり不景気とは、七並べに例えたら、金持ちがカードを止めとるわけですな?
 
 


念のために(おじきさんへ)  投稿者:Genko 投稿日: 2月13日(水)17時13分54秒 
この「カジノ構想」は、もともと地元の太田府知事(フーちゃん)の側からの念願でした。
ご承知のように、今大阪府の財政は、事実上の「破産管財団体」に落ちぶれ果てています。
おそらく背景には、なりふりかまわなくなった地元経済界(JCや大阪商工会議所、もしくは関経連周辺)からの要望として出たものでしょう。
決して国の方からの押付けではありません。
先日の報道でも明らかになったように、近畿圏の雇用情勢や経済成長率は、目下ワースト1です。
私は、相対的な比較のレベルで、どうせナショナル・プロジェクトとして数百億円以上の規模を投資するなら、「神戸沖空港建設」よりも、「カジノ誘致」の方が、雇用創設や景気浮揚につながるリアリティーがあると言いたいだけです。
私は府の回し者ではありませんが、そこここのシャッターを閉めたままの商店街の風景を目にするにつけ、じっと耐えている老夫婦の痛みを無視することができないのです。
経済は、決して「キレイゴト」ではないと思いますよ。
 
 

ウイルスバスター 投稿者:Maro 投稿日: 2月13日(水)14時16分35秒 
と、私のノートとの相性かもしれません。
 ウイルスバスター、どんどんバージョンアップしていくんですが、
どんどん遅くなっていくような(笑)

 メモリーは192MBまで増設したんですが。。。

 もっとも、OSが素の98でリカバリーディスクを読まない不思議な
状態っていうのも基本的に問題あるかもしれません。(ん?結構重症かも)

 もう少し、あちこち設定を変えたりして、様子をみてから報告します。 
 
 


Opera続報 投稿者:らくりん 投稿日: 2月13日(水)09時13分41秒 
Maroさん
>Opera使い出したのですが、どうもフリーズしてしまいます。
>CPUが233MHzというのがネックなのでしょうか?
とのことですが、私は二台で試用していますが、
一台はCPU266MhzのPC9821のノートです。
メモリは128MB、OSはWindows2000です。
これでサクサク起動し、ネット閲覧の表示もネットスケープやIEと遜色ないか
むしろ実感的には早い感じがします。

問題があるとすれば、私が思いつくことはメモリー容量不足か、
ウイルススキャンソフトとのからみぐらいです。

気に入った設定にするためにはあっちこっち いじらなければならないのですが、
それほど難しいことはないみたいです。

今のところ出てきた障害は、デスクトップの方でネットスケープのブックマークを
インポートで文字化けが発生することと(ノートの方は問題ありませんでしたので、
たぶんフォントの設定か何かがうまくいっていないためではないかと思います)、
メーラーのアドレス帳の引っ越しが自動化されていないみたいです。
まだ私がやり方を発見していないだけかもしれませんが、
こちらはマニュアルでコピペで移動しました。
それぐらいの骨折りはしてみてもいいかなと思えるソフトです。
 
 


本当の「自己矛盾」 投稿者:Genko 投稿日: 2月13日(水)04時18分15秒 
今日の「アメリカ型資本主義経済体制」(=グローバリズム)は、地球的規模でのマクロ<南北問題>だけでなく、実はそれとパラレルに一国内でもミニ<南北問題>を惹起します。即ち、マルクス以来の伝統的な<貧富の問題>です。本当を言えば、「不況」とは、資産家や資本家のもとで、剰余価値や流通貨幣や土地などの<資本>が滞留することを意味するのです。
この場合、困るのは只、圧倒的多数の無産階級(=労働者)の方だけです。
好況期にはコバンザメとしてお零れにあずかれたのに、いまや一滴のエサも落ちてこない。
それによって甚だしい場合には、生存の最低条件すら絶たれてしまう悲劇が増加してくることです。(ホームレスや自殺者など)
資本主義経済一般が本質的に抱えるこの悪循環が克服されたのであれば、私はおじきさんの意見に全面的に同意できます。
しかし現実は、そうではありませんよね。
これが克服されないうちは、私は、限定的に<次善の策>を採ります。
つまり、「不確かな<革命>より<景気>を優先」という妥協路線であり、政治的リアリズムの方をです。不幸な人が一人でも減ることを祈るあまりに。
仏教的視点は、この点でいささか無責任のそしりを免れません。実効性の面で「パンの問題」を軽視するきらいがあるからです。
いくら寒さに震える経済難民の前で「パンのみにあらぬことども」を叫んだとて、医者や医薬品の足りない病者や飢餓に苦しむ子供達は、バッタバッタと死んでいくばかりです。
幸福論は常に、一定程度豊かさが保障されている(=何らかの既得権益を確保した)市民だけが語れる特権でしかありません。
ただしこのままでは、こうした価値判断は、無原則な自民党的利権層の政治的リアリティーと、結果においていみじくも一致してしまう難点があります。
私は、そこに倫理のくさびを打ち込むためにこそ、仏教の存在理由があるのだと信じています。
換言すれば、「パンの問題」(=GDP)を前提として、「パンならざることども」(=GDH)を同時に解決していく厳しい思考回路が、今日のブッディストに要請されているということです。
 
 

あれれれれー? 投稿者:おじき 投稿日: 2月13日(水)02時46分54秒 
ただ視点を仏教モードに切り替えれば不況はむしろ歓迎すべき事でしょう。オモテ向きの
好景気の材料は人間の欲望を際限無く煽り、大量生産・大量消費・大量廃棄がうまく循環
している状況だと言えますね。こういう何でもカンでも商品化し不必要なものまで購入せ
ざるをえないアメリカ型資本主義経済体制は、どっからみても仏教思想とは相容れないで
しょうね。CO2や産業廃棄物、エネルギー資源などのエコロジーも大きな国際問題化し
てきています。日本というちっぽけな国の経済成長やましてや私個人の欲望充足のために、
仏教をないがしろにするのではなく、仏教によって迷ってる自分に気付く事が大切なので
はないでしょうか?そうすれば経済発展なんて気にしなくてもよくなる。ぐっちんさんが
GDPよりGDHって言ってましたよ。Hはハピネス幸福感です。だから僕は「経済特別
区構想」も「都市の24時間化」にも批判的な考えです。でも僕の考えを実践するなら今
すぐPCの電源切って電気の使用を控え、PCや携帯など持つべきじゃないんですよね。
・・・・・完全に自己矛盾ですね。
 
 

う〜む・・・??? 投稿者:Genko 投稿日: 2月13日(水)01時53分42秒 
でも、ホントにそうでしょうか?
デリヘル、ホテトル、援助交際などは、一応タテマエとしては、「インサート」がご法度ということになっていますよね。もちろん、ホンネの部分では、少数ながら「隠れインサート」が非合法的に行われてはいるでしょうが。
今、全産業がパーソナル化/サテライト化(個化)して、風俗も次第にこうした対面販売(=無店舗化)方式になり、中間問屋的な領域(ピンハネ業者)が空洞化(リストラ)しつつあることは認めます。また、飛田新地・松島新地一帯など、伝統的女郎屋のスタイルで、公然と「インサート」を含む買売春が行われているエリアもあります。
しかし、一頃に比べれば、マーケットの規模も活気も、ずいぶんと小さくなってしまった。
これは何故なのでしょうか?
大阪の「お水系のクロート衆」はみんな、口裏を合わせたように、客足が途絶えたと言います。 
東京では、前出の新風俗系以外にも、ソープランドは無論のこと、その他考えうる限りのありとあらゆる性風俗産業のヴァリエーションが多数存在します。歌舞伎町という、規模も総売上高もおそらく世界一の風俗街なども存在します。この不況下にあってもなお、「闇の部分」が、威風堂々と息づいているのです。
私など、この大阪のどこかに、歌舞伎町モドキ一つ出現すれば、経済の地盤沈下などいっぺんに盛り返してくるような気さえします。人がマーケットを招くこともありましょうが、マーケットが人を招く場合のことも、USJの例を引き合いに出さずとも、充分に考えられることです。
この意味で、今日の新聞には、まことに興味深い記事が掲載されていました。
景気浮揚の最後の切り札としての「経済特区構想」です。しかも、大阪が第一候補にあげられており、オリンピック誘致合戦で空振りをくらった舞島・夢島の空地を中心に、公営の国際的カジノを計画・誘致する、というものです。国の財政投融資も受けられるそうです。
あくまでこれは、オモテ経済の一環に過ぎませんが、私は原則的に賛成です。
これが実現すれば、一度ならずポシャった「都市の24時間化」に弾みがつきますし(=マーケットの規模が少なくとも1.5倍になる)、周辺に新手のヤミ経済が復活する可能性があるからです。
必ずしも手放しで喜んでばかりもいられませんが、ヤミがそれこそ「闇に葬られる」よりは遥かにましでしょう。ノーテンキな道学者先生にだけはなりたくありませんからね。
 
 
 
 
 
 
 


 
 


それもひとつですが 投稿者:おじき 投稿日: 2月12日(火)23時54分56秒 
ヤミ経済とは請求書や領収書がなく課税などがどできずに実体が把握できないもの
なら、大阪にはそんなものはたくさんありますよ。ソープランドなど風営法で管理
される分完全にヤミとは言い切れないでしょう。デリヘル、ホテトル、援助交際、
などに形態を変化させただけです。大阪の経済が沈下したのは、意欲のある大阪人
は東京やNYなどで商売してるからで理由は簡単その方が儲かるから。許永中など
がのさばってる大阪は決してヤミ経済を甘く見てないでしょう。むしろ今の大阪は
ヤミ経済の方がオモテ経済より活気があるんじゃないでしょうか。だからオモテの
経済がますます地盤沈下していくんでしょうね。
 
 

ぐっちんさんへ(もう一丁) 投稿者:Genko 投稿日: 2月12日(火)22時35分59秒 
マリア・ダラ・コスタ女史や上野千鶴子女史らは、「女性の家事労働」もまた、シャドー・エコノミーの一つに位置づけています。それどころか、性風俗産業(ウラの性)の発生根拠に、婚姻や結婚制度(オモテの性)の存在をあげています。婚姻や結婚制度が、家父長制の産物と考えられるからです。
だから、買売春という経済のブラック・ボックスを真になくそうとするのであれば、道学者先生よろしく叫んでいる市会議員や町内会なんかの風紀係の主婦たち自身が、まずは離婚して、反結婚主義者になるべきということでしょう。
さもなくば、まことに皮肉なことに、彼ら家族主義者たちが道徳上、買売春や性風俗を取締まることが、最終的に彼ら自身の拠って立つ基盤を、経済的に崩壊させてしまうことになりかねないわけですね。オモテとウラが、同じ1枚のコインである以上は。
かくて、大阪がここまで経済的に駄目になったのは、ソープランドを撤廃してしまったからです。どうもヤミ経済を甘く見て骨抜きにすると、とんでもないとばっちりが来るものですね。 
 
 

Opera 投稿者:Maro 投稿日: 2月12日(火)21時02分25秒 
閑話休題ということで。

 私も昨日からOpera使い出したのですが、どうもフリーズしてしまいます。
CPUが233MHzというのがネックなのでしょうか?
 暫く様子を見ます。
 ちなみにメーラーはポスペのお試し版が無料だったので使ってみようかなって思ってます。
 
 


追伸 投稿者:らくりん 投稿日: 2月12日(火)16時32分02秒 
本当は、WindowsというOSそのものを変えてしまうのが
一番の対策なんでしょうが、
一昨年から昨年にかけてBtoron、Linuxと遊んでみましたが、
修得する気力と時間を充分に作れないのと、ソフト環境の不備などで、
なかなかそこまでは踏み切れません。


 
 


MSの陰謀に反旗を、の提案 投稿者:らくりん 投稿日: 2月12日(火)16時20分49秒 
次から次へとウィルスらしきメールや、デマメールが届きます。
その多くが、マイクロソフト社のInternetExplorerのセキュリティホールを悪用し、
OutlookやOutlookExpressの利用者が被害に遭う可能性が高いようです。

皆さんはブラウザやメーラーに何をお使いでしょうか。

別にマイクロソフトに恨みがあるわけではありませんが、ウィルスの被害を少しでも
少なくするために、ウィルス攻撃の主要なターゲットになっていることが明白な
マイクロソフト社のInternetExplorerと、OutlookやOutlookExpressの使用を
再考なさってみてはいかがでしょうか。
代案としては、無料で入手できるものとして、
ネットスケープ:現在はVer6.21のようです。
http://home.netscape.com/ja/browsers/6/upgrade.html

Opera
http://www.jp.opera.com/download/index.html
があります。
両方とも、ブラウザ・メーラー・ニュースが統合されたソフトです。

ちなみに私は、ネットスケープのVer4.7を使ってきました。私のハード環境では
Ver6ではちょっと重たいのと、使い勝手の点で、ずっと旧バージョンを使っています。
これだけでも、最近の感染系のウィルス被害からは無縁で過ごせました。

Operaの方は、試験的に使い始めてみていますが、なかなか軽快で
機能もセキュリティも充実しているようです。使えるブラウザ、メーラー
という予感がします。
無償提供されていますが、その場合は広告がずっと表示されていてうるさいのと、
ノート(800×600)の表示では広告に押されて表示範囲が狭くなってしまうので、
購入(キャンペーン価格3800円)も検討しています。

 
 


もう届きましたか?デマメール 投稿者:らくりん 投稿日: 2月12日(火)15時52分07秒 
私のところへは2度届きました。被害はありませんでしたが、
まだの人が被害にあわないようにここに転載して注意を促します。

「sulfnbk.exe」に関するデマメール情報
 ウイルスファイル削除に関する下記メールが流されており、IPA/ISEC にも問い合
わせが多数寄せられています。 これはデマメールですので、騙されて削除処理を行
わないように、また決して他に転送しないようにして下さい。

 『sulfnbk.exeというファイルはウイルスなので、削除しなさい』という内容です
が、このファイル自体は、元々パソコン内に存在するもので、必ずしもウイルスが感
染しているファイルではありません。また、sulfnbk.exeはWindows で必要としてい
るファイルですので、削除するとWindowsにトラブルを招く結果にもなる恐れがあり
ます。

「sulfnbk.exe」に関するデマメール(日本語に翻訳されたもの)の内容は下記の
通りです。

これはデマメールのサンプルですから、決してここに書かれている
!!操作をしてはいけません!!(らくりん)

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
『今日、一通のメールが届きました。
メール内容は、ウィルスに感染してアドレス帳に入っているすべての人にそのウィル
スを送っている可能性があるので、即除去してくださいと言うものでした。
このウィルスは、14日間潜んでその後Cドライブを破壊してしまうそうです。

下記の手順でウィルスのチェック及び除去をお願い致します。

手順
1. “スタート” → “検索” → “ファイルやフォルダー”をクリック。
2. “名前”の欄に “sulfnbk.exe” とタイプ。 ← これがウィルス
3. “探す場所”の欄に “C” ドライブが選択されている事を確認。
4. “検索開始” クリック。
5. もしファイルが見つかれば、絶対に開かないこと!
6. そのファイルを右クリックして、“削除”を左クリック。
7. 'sulfnbk.exe'をごみ箱に移してもよろしいですか?の質問に対して “はい”
  をクリック。
8. デスクトップの “Recycle Bin” をダブルクリックし、“sulfnbk.exe”を削除
 するか、“ごみ箱を空にする”をクリック。

 もしこのウィルスがCドライブに見つかった方は、アドレス帳に入っている人全員
に同じ内容のメールをしてください。』
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
!!「この操作をしては行けません」(らくりん)

 
 


ジェラシー 投稿者:Genko 投稿日: 2月12日(火)08時31分25秒 
近代以後の「国民国家論」(=ネイション・ステイツ)が登場してくる背景には、歴史的必然性に基づく明確な幾多の論理構成に根拠づけられています。即ち、民族・国民・国家という三つ巴の<物語>を制度化し、一つの領土と流通貨幣と共通言語とでくくり、租税の再分配を通じて、諸個人の財産や生命の安全を法律や契約によって担保する<超法人体>へと変容していったのです。
「一夫一婦制」の必然性については、自然状態のままでは、男前や資産家だけがいい女を寡占所有してしまうので、対幻想を現実化する際に避けがたいジェラシーの問題を解決できないことから、やむおえず編み出された「必要悪」と考えられます。のみならずこれが、産業革命以後の初期資本主義の発展にとっても、生産者と消費者の拡大再生産につながる最も合理的なシステムとして、いみじくも利害が一致したのでした。
動物学の知見においても、サルなどの性的行動の中に、オスたちのメスをめぐる激しいジェラシーの攻防戦が観察されています。ジェンダー論の文脈から言っても、本来的に「男女とか家族などの性的な関係には、暴力とかウソは存在」すると、私は確信します。
いわんや、ジェラシーという感情は、性的な独占願望だけが専売特許ではありません。古来、モノやコトの<所有>をめぐって、諸個人間や共同体間で、それは発揚されてきた性質のものです。
 
 

暴力の起源 投稿者:Genko 投稿日: 2月12日(火)06時23分26秒 
私など、酒を扱う仕事柄、いつも客からの暴力の可能性に取り巻かれています。
先日のニュースでも、六本木界隈の飲食店でしたか、客がナイフを振り回して一人殺されていましたね。国家の暴力装置以外にも、案外、暴力の発動は、酒などにあるのかもしれませんよ。

(1)Aの個人幻想とBの個人幻想が互いに利害対立して暴力に転化する場合
(2)Aの個人幻想とBの個人幻想が互いに利害対立し、Cが調停に失敗した場合
(3)A・B・Cそれぞれの個人幻想が三角関係的に利害対立し、
   AとBが結託してCを暴力的に<第三項排除>した場合

 などなど、個人幻想という領域ですら、物理的暴力の発動の可能性は様々なバリエーションが想定できます。恋愛などに伴う対幻想ならば、尚更です。
 想定しうることどもは、現実に起きうることどもです。
 大沢在昌や宮部みゆき、花村満月や桐野夏生ら、最近のエンターテインメント系のミステリーやハードボイルド小説などは、これらの領域で大いに暴力の起源がリアルに展開されています。
豊かな人間観を養うためなんて野暮は言いません。まずは非常に面白いですよ。
 
 


浮世ばなれ 投稿者:Genko 投稿日: 2月12日(火)05時13分04秒 
たとえ原理的レベルにもせよ、柄谷行人の「アソシエーショニズム」や「NAM運動」の方が、まだしも説得力があります。
従来の左翼主義の根本的な弱点は、その革命(改革)論の形成過程に、豊かで現実的な社会経験に立脚した生活的想像力や具体的構想力を決定的に欠いていたことなのでした。これでは、政治的支配層や資本家の連合体による「大衆の生活実感に根ざした想像力や構想力」に勝てるはずがありません。(もっとも、近年では、これをしもかなり綻びが露呈して終末的限界状況が来ていますが・・・)。
また、僧侶など今日の宗教家たちの限界は、少数の例外者を除き、教祖以来の「遺産相続」の習慣的連鎖の中に閉じこもり、創始時代には確かにあった筈の実効性や批判意識としての「社会性」一般を、しばしば著しく欠いていることです。つまり、言っていることに今日的なリアリティーがなく、足が地に付いていない。
俗に言う「浮世ばなれ」です。
たた、聖道門を地でいく禅宗や真言宗などに比べて、浄土系は、同じ「浮世ばなれ」でも、山林にこもって座禅一筋というわけではありませんから、多少は都会的リアリティーは有しているかもしれませんが。
 
 
 
 
 
 


 
 


頭でっかち? 投稿者:Genko 投稿日: 2月12日(火)03時40分21秒 
↓あはははは(笑)。
 あまりに素朴な「理想主義」なので、完全に肩透かしをくらってしまいました。
 これは、本気で言っているのでしょうか?
 吉本隆明ですら、これほど単純な図式主義は、どこにも語っていません。
 一方で共同幻想としての国家が消滅しているのに、法体系が何によって担保されているのか?
 一見ベンヤミン風のこの<暴力の起源>論が、おっしゃるように対幻想や個人幻想の側にないと したら、人類の歴史には芸術や宗教なんか初めから不要でしたね。
 多くの文学作品は、殺傷事件など対幻想の領域でエロス的な暴力過程を描いていますが・・・。
 また、宗教という共同幻想領域の問題はどうしたんですか?
 いずれにしましても、これでは、私のそれこそ「素朴な」問題提起への答えに、全くなっていま せんね。
 
 
 
 
 

原理主義 投稿者:お留守居役様 投稿日: 2月12日(火)00時25分18秒 
親鸞聖人が、関東で浄土三部経の千部(回)読経を中止したのは、
原理主義的で、きわめて過激な行動だったと思っています。
この原理主義的な過激さが、親鸞聖人が、
法然聖人の新弟子で、高弟でもなく、末端に位置していたと思われるのに
一緒に処罰された理由ではないかと考えています。
このことに関しても、恵信尼さんの日記があったならと思います。

共同幻想が消滅したらというのは空想の領域なので、
私にも良く解っていません。
原理的なこととして、
暴力は存在していないとは言えると思います。
暴力とは、共同幻想としての権力が行使する
物質的な力のことだからです。
共同幻想が消滅する過程で、
まず軍隊が消滅して、警察が残りますが、
しだいに暴力機関は不要になっていくというイメージです。
共同幻想が消滅すると対幻想と個人幻想が残ることになります。
原則的には、男女とか家族などの性的な関係には、
暴力とか、ウソとかは存在しないと言えます。
サディズムとかマゾヒズムとかは、暴力ではないと思います。
また、現在の法律でも夫婦間のウソは認められています。
>夫婦間の契約は一方的に破棄できる
というふうな規定だったかと思います。
 
 


あそびましょ! 投稿者:おじき 投稿日: 2月11日(月)22時51分58秒 
ぐっちんさんここで法話漫才のネタ作りませんか?↓
http://homepage3.nifty.com/buppousou/index.html
 
 

独生独死独去独来 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月11日(月)22時46分08秒 
 といい、誰も代わるもの無しと大経は教えている。一人称としての
死をどう引き受け、一人称としての生をどう引き受けるのかというすべての人間に
つきつけられた課題。

 幼児的万能感とも、自己中心性とも読める「国王性」。これを抱えた人間が
世自在王という仏さんとの出会いによって、そのありかたを超えていく物語。

 浄土教って深いですね〜。
 
 


仮面の告白 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月11日(月)22時08分04秒 
 ニッポンに五戒を守っているお坊さんってどれだけいらっしゃるのだろうか?
大酒のみで、馬狂い、おねーちゃんに入れ込んでる坊さんの方が多かったりなんかして。

 それでも、アディクト経験でも語っていただければ、リアルな凡夫のはなしになると
思うのだけど。まあ、どっぷり浸かったまま迷いを迷いとも気づかぬままか。。。
 
 


飲む打つ買うの鎮欲 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月11日(月)21時48分59秒 
 去年の8月28日に投稿した中に書いたのが、経済の三分野。
@市場経済(プライヴェート)
A公共経済(パブリック)
B非公式経済(コモンズ)という分類。『日本の地下経済』という
本を読んでて再認しました。まあ、我ながらホンマに俗っぽいことが
大好きです。宗教もカタギのサービス業というよりは地下経済と考えた
方がいいのかもしれません。

 ブラック(アンダーグランド・シャドウ)エコノミーの中身は
@市民の脱税・政治家への賄賂 A暴力団の非合法所得
Bセックス産業 C自動車に代表される窃盗 D違法賭博などです。

 暴力団の最大の資金源は全体の45%ほどに当たる覚せい剤の密売。
習慣性(依存性)のない大麻は仕入れに対して末端価格が二倍くらいにしか
ならなくて覚せい剤の十倍という利ざやにはかなわないといいます。

 安楽死法があるオランダでは、アングラ経済に対しても大胆な法律がありますね。
ドラッグについては害悪の少ない大麻などを合法化し希望者に対して注射してくれる
自治体もあるとか。HIVが注射のまわし打ちなどで蔓延するのでそれを防ぐ効果も
あるといいます。

 また売春宿登録制をつくって売春に透明性をもうけることによって外国人の強制売春
(人身売買)を抑えようという政策もあるそうです。法律で抑えこむ(禁欲)するより
オープンにすることによって地下に潜る経済(つまり税収の落ち込みを防ぐ)を絶つ
鎮欲作戦です。

 これなかなか面白い。日本はアルコールを野放しにすることによって、他のドラッグに
走ることを抑制しようとしてるようだけど。これから日本も、失業率が増え、電子商取引に
よって売上をごまかすことが容易になり、人口の高齢化により税・保険料負担が高まると
闇稼業に手を染める人が増えるようです。

 カイヨワの遊びの分類とは@競争(スポーツ等)A偶然(ギャンブル等)B模倣(演劇等)
Cめまい(飲酒等)でした。
 アディクションとは、@人間関係嗜壁(恋愛、虐待等)A物質嗜壁(アルコール、ドラッグ
使用等)Bプロセス嗜壁(ギャンブル、万引き等)でした。

 人間のハマルこと溺れることは、まあだいたい決まってますね。 
 
 


お願い 投稿者:Genko 投稿日: 2月11日(月)19時45分08秒 
理念としては、「国家など、あらゆる共同幻想は消滅すべきだ」と、私なども前々から思っていました。ところで、宗教もまた、共同幻想の一表出形態です。
しかるに、現実には、国家も宗教も、我々の周囲で厳然と存在し続けています。
いまもし仮に、謂うところの国家や宗教が、幸いにも消滅してしまったとしましょう。
そうすると、たとえばルソーなどの言う「一般意志」を誰が担保し、ホッブスなどの言う「野生状態」から諸個人はどうやって身を守るのでしょうか? また、遅かれ早かれ訪れる自己や他者の「死」を、どうやって受け入れることができるのでしょうか?
私には、未だもって、解決がつきません。
「お留守居役様」、是非教えて下さい。


 
 


こっちも勘違い? 投稿者:Genko 投稿日: 2月11日(月)18時10分03秒 
私も、真宗関係者の一人です。むしろ、貴方の方こそ、真宗僧侶か真宗教学者かの一人だと思っていました。だから、在野のひとが、これほど仏教学に詳しいことに、今更のように驚きました。

>無我説とは・・・云々・・・というのが、一般的仏教理解かと思います。

というくだりは、原理的理解としては、ほぼおっしゃる通りです。

されど、このまま当時の衆生や支配層間に流布したとして、果たして仏教が一般性を獲得できたでしょうか? 
テキストの<原理原則>を、そのまま現実の生活過程に適用しようとすると、大抵の場合、良くても「理想主義」へと、悪くすると「原理主義」に陥りかねません。現実は、TPOに応じて、多種多様だからです。だからといって、<原理原則>を無視すると、「クソリアリズム」に陥って、とたんに醜悪このうえないことになりますが。
イエスは、ユダヤ教の<原理原則>を押し付けてくるラビたちに、こう言ったのでした。
「ひとが<法>のためにあるのではない。<法>が、ひとのためにあるのである。」と。

釈迦が入滅前に、いくら周囲の仏弟子たちに「自分のことを、決して崇めたり、聖人扱いしてはならない」と言い聞かしたとしても、にもかかわらず生ける私達には、尊ぶ気持ちが残り続けます。
親鸞が己れのことを、さんざん「愚禿、凡夫、悲僧非俗」と自称しようとも、こういうひとであったればこそ、なおさら私達は、素朴に尊敬したくなってしまいます。

ぐっちんさんらが、この前<イノセント>(純粋無垢性)の問題に触れておられましたが、「正しくあろうとする」姿勢(=理念や原理的世界に忠実な主体)もまた、人間の欲望の働きの一つです。私達は、しばしば<イノセント>が、「言葉や理念的世界」と「生ける人間」が、互いに物象化的に転倒して、啓蒙主義的暴力やテロリズムへと通底していく実例を、今日までたっぷり見せつけられて来た筈です。

私が太子をそれなりに「尊敬」出来るとしたら、当時の「歴史的限界」の中で、仏教の精髄を一定把握した上で、しかしそのまま原理主義的に政治過程に適用したのではなかった点につきます。つまり、彼の柔軟な、しかし深い「人間理解」の方だったのです。


 
 


かんちがいしていました。 投稿者:お留守居役様 投稿日: 2月11日(月)10時19分50秒 
ここは、親鸞聖人を基盤としたサイトだと思い込んでいましたので、
仏教一般を客観的に論じたのではなくて、
親鸞聖人との係わりでの仏教として述べていました。
ですから、親鸞聖人から見た聖徳太子として問題にしていましたので、
なぜ親鸞聖人は聖徳太子を尊敬しているのかという問題を前提にしていました。
また、てっきりお二方とも真宗関係の方々とお見受けしていました。
なお、私は在野人で、真宗関係者でもなければ僧侶でもありません。
親鸞聖人愛好者ですが、絶対と思っているわけではありません。

それこそ釈迦に説法かも知れませんけど、
無我説とは、「諸法は無我である」という主張のことで、
「我」は、私とか自己とかの自我の意味ではなくて、
実体、本質(エッセンス)のことで、
神(カミではなくてシン。精神とか神経のシン)、
心(ココロではなくてシン。中心のシン)
霊魂(スピリッツ)
などは存在しないという説と理解しています。
ですから、人の実体としてのココロは存在しないということになると思っています。
実体というのは、それ自身によって存在する自体存在のことです。
仏教は、縁起説ですから、他によって在る関係存在に反していることになります。
なので、穢れたココロとか、汚れたココロは存在しない。
そもそもココロが存在しないのですから、
祓い清めも必要がないことになります。
執着心というこも、
執着するという関係は存在しても、
執着心というココロは存在しないことを知る(サトル)ことによって、
執着心を消滅し、執着から離れ、迷いから覚める
というのが一般的仏教理解かと思います。
この意味で十七条憲法は、仏教的でないと思ったのです。
また、「三経義疏」のうち法華経義疏以外の
維摩経義疏・勝鬘経義疏は、太子の偽書であるというのが
通説みたいですけど。。。

念のためですけど、らくりんさんが、
「親鸞の教行信証を読み解く」全五巻
の著者であることはご存じですよね。
それから、親鸞聖人は、自ら愚禿、凡夫、非僧非俗
といっていますから、偉い人とは思っておりませんです。
さらに、親鸞「聖人」と表記しているのは、
ここを読まれているであろう林遊さんに配慮してのことです。
 
 


私にとっての親鸞 投稿者:らくりん 投稿日: 2月11日(月)09時21分48秒 
>ホントにこのお方は親鸞思想のみが絶対だと思われておられるのであろうか?

私はそんなに大それたことを言っているつもりはありません。
ただ、自分が触れたことがある思想(考え方・発想・立脚点・眼差し)の中で
親鸞に一番惹かれる、あるいは一番好きだということです。(過去)

それ以上に魅力を感じるものに“まだ”出会っていないということであり、(現在)

今のところそれ以外のものに出会いたいとか出会わなければならないという
衝動が出てこないんです。(将来)
 
 


手前味噌? 投稿者:Genko 投稿日: 2月11日(月)05時21分12秒 
その後のやり取りの中で、結局よくわかりました。
「お留守居役様」の言いたいことは、要するに、同じ偉い人でも「親鸞さんは大好きだが、聖徳太子なんて政治家だから大嫌いだ。だから太子は偉人として認めない」という主旨だったのですね。しかし、それでは、いわゆる「手前味噌」、いや「我田引水」というのではありませんか?
 
 

おそまつですが 投稿者:おじき 投稿日: 2月11日(月)01時27分23秒 
一応、僕なりに反論致しますと
1、は当時の政治家としての限界もしくは、段階的に差別構造を取り払う試み
  ではないでしょうか?冠位12階は役人に絶対的な限定があったのではなく
  役人の手柄に応じて階位を移動できたはずです。
2、釈尊の言葉の中にも心という事はいわれており
  (スッタニパータ:慈しみの心をおこすべし、ダンマパーダには「心」という章がある)
  「心」が「我」であるなんて事は釈尊も聖徳太子も言っていない。
3、当時中国や朝鮮半島で流行していた仏教は法華思想、如来蔵思想であって浄土教は
  それらに比べると決してメジャーではなかった。維摩経は在家主義なので太子の理想に
  近いと思われる。末法思想自体言われていないのに聖浄ニ門に分けるだろうか?
4、寺院建立が諸行諸善としてしりぞけられるようになっているのは法然門下の浄土教家
  たちだけであって、聖徳太子とは何の接点もない。
  psホントにこのお方は親鸞思想のみが絶対だと思われておられるのであろうか?
 
 

付け焼刃的関心ですが、 投稿者:お留守居役様 投稿日: 2月10日(日)22時29分36秒 
聖徳太子の事跡と言われているのは、
1 冠位12階の制定
  (平等思想に反する。)
2 十七条憲法の制定
  (第十条「人みな心あり」は、仏教の無我説に反する。)
3 「三経義疏」の編纂
  (法華・維摩・勝鬘の3経とも聖道門の経典である。)
4 法隆寺・四天王寺の建立
  (諸行諸善である。)
などであるにもかかわらず、親鸞聖人が、
「皇太子聖徳奉讃」を撰述したのはなぜでしょうか。
とっさの思いつきにすぎませんが、
仏教伝来の由来を人々に説いて聞かせたということかと。
手紙で仏教用語を一語ずつ解説されているように。
ただ、第50番で、
>いまは念仏さかりなり
と言うべきことは言っているという感じがしますし、
最後を
>水を石にいるるににたりけり
で終わられているところは、親鸞聖人らしいなあと思っています。
 
 

平等思想 投稿者:おじき 投稿日: 2月10日(日)18時11分52秒 
十七条憲法、第十条には「忿(こころのいかり)を絶(た)ち瞋(おもえりのいかり)を
棄(す)てて、人の違(たが)ふを怒(いか)らざれ。人みな心あり、心おのおの執
(と)ることあり。かれ是(よ)んずればすなはちわれは非(あし)んず、われ是(よ)
みすればすなわちかれは非(あし)んず、われかならず聖(ひじり)なるにあらず、
かれかならず愚(おろ)かなるにあらず、ともにこれ凡夫(ただひと)ならくのみ。
是(よ)く非(あ)しきの理(ことわり)、たれかよく定(さだ)むべき。あひとも
に賢(かしこ)く愚(おろか)かなること、鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。
ここをもつてかれの人瞋(いか)るといへども、還(かえ)りてわが失(あやまち)を
恐(おそ)れよ。われ独(ひと)り得(え)たりといへども、衆(もろもろ)に従
(したが)ひて同(おな)じく挙(おこな)へ。」とあります。こういう事が言えるのは
少なくとも政治家という限定の中でも釈尊の平等思想を受け継いでいるからだと思います。

 
 

関心の所在 投稿者:らくりん 投稿日: 2月10日(日)14時59分41秒 
今日的歴史学の水準を踏まえて、
現時点で私達が聖徳太子をどう評価するか、
ということは私の関心の中では、あまり大きな位置を占めていません。
私はやはり、親鸞が聖徳太子をどう見ていたかということに比重が
かかってしまいます。
 
 

必要に迫られて 投稿者:らくりん 投稿日: 2月10日(日)14時20分47秒 
昨年の秋ごろに、
某所での講義で、親鸞が聖徳太子に記述した部分にに触れなければならないことが
ありまして、付け焼刃的に少し調べたことがあります。

どちらかといえば、なるべく目を向け(意識し)ないようにしてきた人物の一人です。
その理由はかなりはっきりしていまして、聖徳太子は政治・仏教の方面で大きな位置を
占めてきたと同時に、ある一時期「戦争・勝利」の守護者として機能させられました。
そのことと親鸞が聖徳太子に対して並々ならぬ関心を寄せていたことが結びつけられて
いました。いわば近代真宗教団史の中の汚点の一つのようになっている部分があります。
それで「臭い物に蓋」「触らぬなんとか」的なある種の「要注意人物」的な存在に
なっているように思います。
ただ、親鸞が聖徳太子の伝記に基づいて二百首ほどの和讃を製作していることは
事実ですから、それは否定しようがありません。
そういう和讃がなかったかのように、タブー視されてしまっている大勢についての
問題を感じています。ちょうど化身土巻があってもなきかのごとき扱いを受けていた
事に対する疑問と同様の問題意識です。

付け焼刃に過ぎませんが、親鸞の著作から見えてくる聖徳太子観は、
やはり「仏教に対する深い理解」と「仏教を政治に対して優位におこうとしたこと」
の二点になるのではないかと思います。

十七条憲法についても親鸞が言及するのは、
第二条の「篤く三宝を敬え」と第五条の「財在るるものが訴えは、石をもて水に
投ぐるが如し。乏しき者の訴えは、水をもって石に投ぐるに似たり」
の二点だけしかありません。
この辺に、親鸞が聖徳太子の仏教観として何に着目していたかを伺う鍵が
あるのではないかと見通しを立てています。

これ以上のことはあまり深まっていません。
 
 


確からしいのは、 投稿者:お留守居役様 投稿日: 2月10日(日)11時47分33秒 
聖徳太子は、仏教の輸入に賛成し、普及しようとした、
ということでしょうか。
私が言いたいのは、
コロンブスはアメリカ大陸を発見した
のではなくて、
アメリカ大陸に到着した
というふうな感じなんですけど。。。
 
 

よくは知らないのですけど 投稿者:お留守居役様 投稿日: 2月10日(日)11時18分55秒 
聖徳太子は、
1 優れた政治家である。
2 偉大な仏教理解者である。

どうも、1と2の理由から、
民衆に尊敬されているのではないと推量しています。
太子伝説とはなにか。
太子伝説はなぜ普及したのか。
謎だと思っております。
梅原猛さんの「怨霊説」もあります。
まったくのカンですが、
源義経と同様に「悲劇の英雄」(概念規定として時代的には正しくはありませんが)
として尊敬され、愛されたのではないでしょうか。
わたしの記憶が正しければ、以前、らくりんさんは、
聖徳太子伝説をお調べになると言われていたかと思います。
吉本隆明さんも言及されていますが、いまひとつピンときません。

ところで、
優れていてもいなくても政治家は嫌いです。
鈴木何某のように威張る人=政治家だと思っているだけでなく、
国家など、あらゆる共同幻想は消滅すべきであると思っているからです。
また、
聖徳太子は偉大な仏教理解者であるかどうかにも疑問があります。
すくなくとも十七条憲法は評価できません。
「三経義疏」も偽書であるとの説もあります。
いずれにしても、弘法大師と同様に
実在の本人と伝説とは、かなり相違しているのではないかと思っています。
 
 


訂正。 投稿者:Genko 投稿日: 2月10日(日)08時16分33秒 
あ、そうか! その引用は太子の「十七条憲法」からのものだったのですね。
うっかりそこまで行間を読み取れませんでした。ごめんなさい。
私が言いたかったのは、彼が儒教道徳を利用したのであれ、仏教倫理を利用したのであれ、暴君ネロやアレクサンダー大王や始皇帝などと比べて、スケールこそ違え相対的に優れた政治家であったのではないか、ということです。特に、彼の「仏教理解」は、少なくとも当時としては、第一級であったことは間違いないでしょう。

 
 

なるほど。 投稿者:Genko 投稿日: 2月10日(日)08時00分22秒 
確かに仏教も、神道も、儒教も、キリスト教もイスラム教もユダヤ教も、それら自体は決して厳密な意味で政治思想ではありません。されど、どっこい政治の方は、それらを決して放ってはおかないのでした。
統治のためには、あらゆる事物を、その時の必然性に応じて利用するのが政治です。
この意味で、宗教は、純粋に自律的に存在することはできません。
(狭い意味でのミクロ政治なら、どんな宗教団体にも、どんな会社や組合の中にも、歴然と存在します。)
何も釈迦を持ち出さずとも、「身分差別を否定し、平等思想を」高らかに謳っているものに、たとえばわが国の戦後憲法があります。ただし、これが実態的に実現されているのかどうか、保証の限りではありませんが・・・。
>礼びをもって本・・・云々 は、どうも儒教的な匂いがしますが、釈迦のどの出典なのでしょうか? 釈迦がもし「民を治むる」なんて説いていたとするなら、彼はやはりさすが支配者の息子(王子)ですね。
 
 

偉くても好きな人 投稿者:お留守居役様 投稿日: 2月10日(日)07時20分03秒 
お釈迦様は、紀元前6世紀の人と言われていますが、
身分差別を否定し、平等思想を布教したと聞いてます。
また、
>礼びをもって本とせよ。其れ民を治むるが本
これが仏教思想でしょうか。
そもそも、仏教は政治思想ではないと思います。
 
 

偉い人嫌いな方へ。 投稿者:Genko 投稿日: 2月10日(日)06時56分42秒 
私は、「世界<史>的画期性」と言ったのであって、決して「世界的画期性」と言ったのではないことに注意して戴きたいものです。
どうか、6世紀の世界で、仏教的倫理を基調に、争いや戦争を可能な限り回避せんとする原始的「憲法」を着想した政治家が、当時他の国のどこにいたか、もし知っていたら教えて下さい。
また、現代の日本が、百歩譲って<戦後民主主義>が機能していると仮定して、だからといって我々が「上手に支配」されていないとは限りませんよ。<民主主義>国家を誇るアメリカなんか、
FBIなど犯罪者をすぐ殺すし、他国の文化や庶民感情などおかまいなしに、その<正当性>を有無を言わさずイスラム諸国などに対して押し付けてきます。
つまり支配者や統治者なんて、いつの時代でもどの国でも、所詮五十歩百歩でしょう。ですから、我々が<歴史>から学ぶことができるのは、あくまで相対的な評価でしかありますまい。
そんなことをおっしゃるのなら、ひたすらあなただけがこの世のすべての<政治>それ自体を承認しなければ良いのです。
それに、「偉い人」は何も政治家だけではありませんから、後世に名を残した今日までのあらゆる詩人・芸術家・音楽家・実業家・宗教家・著作家・思想家・発明家・科学者・医者・スポーツ選手・その他各界の達人等々の存在を、即ち<歴史>というものを、あなただけは一切認めなければ良いでしょう。
たとえあなたが、それとは知らず生活のどこかで、何がしか彼らの努力と成果の恩恵を一身に受けていても、です。
 
 

偉い人嫌いな人嫌い 投稿者:おじき 投稿日: 2月10日(日)02時18分38秒 
6世紀に生きた人物を近代憲法の思想に合わないと批判する人がいるとは驚いた!
民主主義や近代憲法は近代西洋思想なので聖徳太子とは何の接点もないはずだが・・・。
民主主義どうこうより聖徳太子は当時最先端文明だった仏教思想を根本に国を造り、
治めようとした政治家です。その目指す世界観が近代合理主義的西洋思想と異なるのは
当然の事でしょう。聖徳太子の偉大さはその政治思想に仏教を採用し、当時後進国で
あった日本に仏教思想を根付かせようと尽力された事でしょう。聖徳太子のような人が
いたからこそ日本に仏教が根付いたんじゃないでしょうか?
 
 

偉い人嫌い 投稿者:お留守居役様 投稿日: 2月10日(日)01時46分05秒 
聖徳太子の十七条憲法は、
憲法とは称しても今日の憲法とは異なり
役人の規範と言うほどのものでしょう。
いわゆる「和」というのも
上手に支配して、上下間で争いが起きないようにしなさいということで、
とても平和憲法と較べられるほどの思想性はないと思われます。
>上和らぎ下睦びて
これは民主主義ではなくて、上から下への恩情主義でしょう。
 
 

聖徳太子展雑感 投稿者:Genko 投稿日: 2月 9日(土)16時48分42秒 
先日、店に来る友人と、大阪市立美術館で催されている没後千三百八十年(御遠忌)『聖徳太子展』を観に行ってきました。さすがに大阪は、太子ゆかりの地とあって、平日の昼間だというのに、朝のラッシュ並みの大混雑。そのあまりの盛況ぶりに、まずは動転してしまいました。
しかし、明治期の廃仏毀釈運動や急激な洋化・資本主義化政策以後、わが国の仏教は、すっかり衰退/堕落の一途をたどってきたとはいえ、老若男女を問わずこれほどの関心を集める聖徳太子とは、さすがにすごい人物だと言わざるを得ない。また、これだけの文物を各地から集めた学芸員の
苦労も並大抵ではなかったろうと推察いたします。
会場には、様々な法衣を着た僧侶たちの姿が散見できたし、若い人たちも大勢いて、感動しました。多くの展示物を観ながら、この国の深層は本当に仏教なのだなと、今更のように納得したものです。
戦後平和憲法がいじくられようとしている昨今、「十七条憲法」の持つ世界史的画期性の再評価は言うに及ばず、「仏法に基づく国造り」の試みを、我々はもう一度原点に立ち戻って考え直してみる必要性をおおいに感じました。

 
 

間違えました 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月 9日(土)14時25分40秒 
 その昔、買えば買うほど儲かる「経済革命クラブ」っちゅうのがあって、
いかにも胡散臭そうなおっさんがやってて「あんなんにひっかかるアホも
いてんねんなあ」とTVをみながら経営学部のおにいちゃんとしゃべって
たら、何故だか、みょーな気不味い沈黙が流れ出して。。。

 「マウス講」の引用は芹沢俊介さんのイノセント(この世に生まれた事に子には
何の落ち度、罪はないという)論。鷲田清一さんの\660の講談社新書(96・
7月刊)を↓読んでてみんな深い関連がある問題だと想いだしました。

 。。。誰が望みもしないのにこんな世界に連れこんだのか。。。(ひょっとして
これは男の子に特有の感情?)。。。母親というものへの恨んでも恨んでも恨みき
れない根源的な憎しみは、たぶんここからくると思う(37p)

 「愛もなく、なぜ造った」コッポラ監督の映画『フランケンシュタイン』の宣伝
文句である。。。映画のラストシーンで「フランケンシュタイン博士はなぜおれに
名前をつけてくれなかったのだ」とつぶやくがそのことに映画ではとても深い意味が
与えられている。。。(93p)

 アジャセの物語や、法名(名告り)のこと、酒鬼薔薇事件などいろいろの事を思い
出しました。
 
 


マウス講 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月 9日(土)14時04分16秒 
『現代<子ども>暴力論 新版』より
 (春秋社2100円) 

 「少年はアルマンという名を肯定されたからこそ,主体的にアルマンを捨て,つまり
イノセンスを解体し,新しい名フレデリックを選びとることができたのです。」(p.12)
 「イノセンスを表出することが、実は同時にイノセンスを解体することでもあるという
ことです。もちろん、肯定的に表出が受け止められることという条件は付きますが、イノ
センスは表出されないかぎり、解体もされないということです。」(p.13)

 「子どもがおとなになるためには,その本質であるイノセンスを捨てなくてはならない。
イノセンスを捨てるということは,さきに挙げた何重もの不自由を自ら選びなおすことを
意味する。それらの不自由は強制されたという点ですべて暴力である…」(p.22)
 


 
 


これが「ねずみ講」じゃないって?! 投稿者:らくりん 投稿日: 2月 9日(土)13時10分32秒 
こんなメールが届きました。
どうみても「ねずみ講」としか思えないんですが、「なるほどね」と思わせる
方法です。
詳しい手口がわかると誰でも真似できそうなので、問題なので肝心なところは
削除いたしました。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

Subject:     サイドビジネスに最適!!月10万はいきます。
  Date:     Sat, 09 Feb 2002 09:29:59 +0900
  From:     ……@inbox.lv
   To:     ……@24i.net>

これはマネーゲームです。こんなモン真面目に考えたって無駄です。
やるか、やらならいか、どうせダメ 元、元手はたったの3000円。
先月、DMの中にこれを見つけ、そんなオイシイ話があるかい!と思ったのですが、
まあ3000円ぐらいやし騙されてみてもいいかなぁと思い、参加してみました。

しかしそれがマジでビックリ!そのDMに書いていた通り一ヶ月で100万円なんて
事はなかったけど、
2〜5万ぐらい口座に入ってました。
えっマジで?イイの?て感じでした。 そしてこの一週間ではナ、ナント23万です。
実際問題批判多々あるようですが、やっぱり金はある方がイイですよね。
それに今の所、法に触れる事はないし。参加方法は以下の通り。

1.……〈削除〉……

2.……〈削除〉……
3.後は、できるだけインターネット上の掲示板に載せたり、メールで宣伝していけ
ば、それを受け取った人がどんどん同じように振り込んでくれます。
(一週間ぐらいして口座を確認してみてください。ビックリするくらい入金がありま
す)

注)……〈削除〉……人は絶対に削除して下さい。そうしないと法に触れます。
……〈削除〉……ワケですから、ネズミ講に代表される無限連鎖講やマルチ商法
ではありません。
不正はスグにバレますし、そしてやらない方があなたの為です。ルールは守りましょ
う。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 
 


共振(響き合い) 投稿者:らくりん 投稿日: 2月 9日(土)09時05分48秒 
おじきさん
どうも、なんとか相手を自分の土俵に強引に引っ張り込もうとしている感じですね。
それも一つのスタイルと言えばそうなんでしょうが……。

こちらの問題意識を相手に押し付けるのでもなく、かといって相手の問題意識に
無原則にすりよるのでもなく、相手の問題意識と自分の問題意識がどこで共振するか
その接点を探し出すことが大事業なのではないかと思います。
(言うまでもないことですが、私がそれを簡単にできるとか、いつもそうやっている
という意味ではありません。それが簡単にいかないから冷や汗三斗なんですから)
でもそうやって、はたらきかけている姿悪くないと思いますよ。

前みたいに自分の状況を何も出さないで「どうやったらいいの」的な質問をされる
よりも、こういう具合に具体的な状況が浮かび出てくると、
いろいろと想像力がはたらいてきて、触発されるものがあります。

 
 


本日の実況中継2 投稿者:おじき 投稿日: 2月 8日(金)18時45分05秒 
A「お寺や僕に何か疑問や言いたい事などありますか?」C「いや特にありませんね」
A「じゃ仏教やお経、仏壇や坊さんにはどんなイメージを持ってますか?」C「うーん、
やはりご先祖はしっかりと守っていかなあかんと思いますな。仏壇と墓と法事は大事や
と思うとります。」A「ご自身の宗教観については?」C「ワシ、神さんは信仰してお
ります。神さんも仏さんもいっぱいあるけど、ゆうてる事は結局いっしょですやん。
だからいつも仕事に行く時、今日も無事に仕事できますようにって、ワシは植木屋です
から木の神さんに大事にしてもらわんと、ケガしたらこわいですから。ワシのツレは
お稲荷さんの上の木に登ったとき、お社に足かけよりましてなぁ、木から落ちて大怪我
しましてん。あれからしっかり神さんは拝まなあかんと思うとります。初詣でも最低
5つの神社に行きますねん。」A「阿弥陀さんだけでは不安ですか?」C「阿弥陀さんは
死んだご先祖さんを守ってくれはるでしょう。ワシも死んだら阿弥陀さんの世話にならな
あかんけど、生きてるうちは神さんの方が願い事聞いてくれはりますやろな。」A「でも
さっき神さんも仏さんもいっしょやてゆうてましたやん。」C「ええ、だから生きてる内
は神さん、死んだら仏さんに世話なりますねん。」A「確かに目には見えんでも、なんか
大きないのちの世界というか、神仏の世界というもんに畏敬の念を抱くというのはわかり
ますね。」C「申し訳ないですが、仏教とか坊さんにそんな深く興味を持った事はありま
せんね〜」A「いや、門徒さんは僕らの事どう思ってはるのか、ちょっと気になっただけ
ですから・・・」 こんな事書くのは、秘守義務違反かなとも思いますが。
 
 

本日の実況中継 投稿者:おじき 投稿日: 2月 8日(金)16時08分47秒 
A:私、B:ご門徒です。A「こんにちはー」B[はーいあれ?今日は8日でしたかいな?
いやー忘れとりましたわ、ちょっと待って下さい、用意しますから。」(仏壇の扉を開け、
座布団を敷く)A「経本ありますか?最初の正信偈ゆっくりおつとめしますから、よかっ
たら声だしてついて来てください。」B「本はねどっかにありますねんけどー」(仏壇の
引き出しの奥の方からまっさらな経本が出てくる)A「お経の本はいつも出しといて下さ
いね。」そしてお勤めが終わり世間話の後、A「ところで、お寺や僕になにか言いたい事
とかありますか?」B「特にはないですね」A「今お勤めした正信偈や仏教について関心
あります?」B「いやぁそんな大した事、考えた事もおまへんわ。」A「ほんならどんな
思いで今お勤めしてはりました?」B「そらご先祖さんがよろこんでくれはるし、坊さん
呼ばなバチあたりますがな。」A「なんでバチあたりますの?」B「そら、仏壇の中には
ご先祖さんがいてはりますやろ?ご先祖さんのご馳走はお経ですがな、それ忘れたらお腹
へって怒りはりますやん。こないだも敷居で足の小指ぶつけてしもうて、しもた!バチあ
たったと思いましたわ。」A「でも仏壇には阿弥陀さんがいてはりますやろ?阿弥陀さん
はバチあてたりせえへんと思いますけど。」B「阿弥陀さんはようわかりませんけど、ご
先祖はバチあてまっせ。こないだも墓参り忘れたからバチあたって小指ぶつけたんやわ。
お墓と仏壇はご先祖さんの居場所やから大事にせなあきませんわ。」A「ご先祖さんも
大事ですけど、そのご先祖さんからのいのちのつながりみたいなんはどう思います?」
B「さぁ?ま墓参りと仏壇大事にしとったら病気や事故にあわへんのやと思いますが、
いのちあっての人生やし、死んだらしまいでんがな。食べたいもんも食べられへんし」
A「そうですか・・・」B「今日みたいに命日忘れとったらまたバチあたるわ、はよ
墓参り行ってご先祖さんにあやまって来ますわ。」A「どうもありがとうございました」


 
 


「遊戯に二の義あり」 投稿者:らくりん 投稿日: 2月 8日(金)15時22分05秒 
一つには自在の義。菩薩、衆生を度す。譬えば師子の鹿を博つに所為難(はばか)
らざるがごときは、遊戯するがごとし。
二には、度無所度の義なり。菩薩、衆生を観ずるに畢竟じて、所有なし。
無量の衆生を度すといえども、実に一衆生として滅度を得る者なし。
衆生を度すこと、遊戯するがごとし。

♪む〜す〜ぅんで ひぃ〜らぁい〜ぃてぇ てぇをぉうってぇ む〜すんで♪

菩薩ならぬ身としては、遊び戯れるなんてこともできないんですけどね。

いつも
しっちゃかめっちゃか、しったかぶった、ゆきあたりばったり、ぎったんばっこ、
あの手この手、四苦八苦、冷や汗三斗……ない知恵しぼって
まあ、そんでもって
あせらず あわてず あきらめず

 
 


待つの気ばかりが。。。 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月 8日(金)12時34分30秒 
 利家とまつじゃなし。あっそーれっ。堅気の商売として見ても、ぼったくりで、
世間様の坊主像からも見事にはみ出してやがらァ。ええい、この世はママなら
ねえや〜。パパワズローリングストーンズ。チャイルドタイムにコーヒータイム。
アイ・ワナ・ホージョー・ハンドってぇもんだッ〜。。。

 
 

非僧非俗 投稿者:ぐっちん 投稿日: 2月 8日(金)11時35分55秒 
 らくりんさんの『読み解くX』の二十一講パラパラめくってました。
まあぐっちんが、僧侶の、そして仏教の堕落を嘆くのは、「残りカスの仏教」しか知らんから
でしょうねえ。。。

 けど猪木には馬場が、藤島親方には輪島が、巨人には阪神が、比較という対象ではなく
おのれを映し出す鏡として必要だったんでしょうねえ。。。

 ライバルの聖道門という仏道がすでに不在状態ですから。ステップアップするメニューを
こなし、トレーニングを積んで結果を出す、なんてこと考えて仏教を志してはる人の人口って
日本が百人の村なら何人いらっしゃるのでしょうか?むしろそれは、スポーツ選手。ソールト
レイクシティにモルモン教徒訪ねるついでに問答してこようかな?(その意味でオウムの信徒
さんはぐっちんにとって国宝ならぬボク宝だったかも知れない)

 (R.D.レインによれば)ひとは自分の行動が<意味>するところを他者に知らされることに
よって教えられる、いいかえるとじぶんの行動が他者に及ぼす<効果>によって、(逆に)自分が
何者かであるかを教えられるものである   鷲田清一「じぶん・この不思議な存在」より


以上は、新着順1番目から30番目までの記事です。


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