らくりんバンバン

〈 落 鱗 板 々 〉

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さかしま 投稿者:Genko  投稿日: 5月10日(金)05時37分22秒

世の中全体が妙に美的・衛生的・モラーリッシュな潔癖症的風潮になりだすと、時には身体はかえって「不潔さ」や「汚泥状況」などのプリミティヴな事柄に対する情熱や衝動がにわかに沸き起こってきたりします。生物学では、これをしも「異化作用」というのでしょうか?
たとえば近年の都会の歪んだ<性>の商品化は、その反動が心理的背景にあるだろうし、麻原ひきいるオウム真理教の増幅も、ちょうどそうした事態と状況的にパラレルな関係があったのではないでしょうか?
すなわち、比喩的、いや全的な意味での「土」への回帰です。
やたら「帰農」が一部で持て囃される現象も、これに沿った流れなのかも知れません。
「泥」にまみれた生活。大地の確かさ幻想。
今日、顕微鏡を通すと、「土」の中には、むろん多くのバクテリアや得体の知れない害虫、養分や悪玉ウィルスがうようよひしめいていることを、われわれは知っています。
現代人の阿頼耶識は、ひょっとすると性的な場面においてさえ、アナルセックスやスカトロ願望などで、都会では満たされない「土」のメタファーを代償しようとします。また、或る場面では、ベランダの家庭菜園などにおいて、百姓生活を自慰的にシュミレートしたりします。
では、精神生活の場面においてはどうだったのでしょうか。
私には、オウムの生活に随時伴っていたあの「不潔さ」は、ここをうまく埋め合わせてくれたからだったのではないかと思えます。
そういえば教祖麻原のあのヒゲゴジラのようなふうたいも、ウダツのあがらない体格も、全体としてどことなく「不潔さ」を見事に象徴していたような気がします。
WHO的な衛生思想の対極にあった、と言ってもいい。
あの独特のユニフォームの<白>は、まさにみずから汚泥を体現することでしか得られない「蓮の花」の<純白>を示したかったのではないかと思えてくるほどです。
まるで「本当の<純潔性>は最も醜悪なことどもからしか辿り着けない」とでも言わんばかりに。
かくて、彼らの日常性も醜悪ならば、犯した行為もまたあのような醜悪な結果と相なりました。
しかし、考えてみればこれは、私たちの時代が創った欲望規制の流れと、いみじくも不思議に符号するのです。
オモテの<市場社会>が妙に「きれい」になり、「あれはダメ・これもダメ」とばかりに次々と醜悪なことどもに蓋をしていくにつれ、ウラでは諸個人の「抑えつけられた煩悩」や「身体の原始性」がどんどん膿のように溜まっていったのでした。
そういえば90年代にアジアがブームになったのも、この線に沿って何となく分かるような気もします。
さながら、「イジメ」や「校内暴力」を規制すればするほど、陰湿化・隠蔽化された形で、その残酷さが水面下でいっそう膨張するようなものです。
一部の宗教家に限らず、いろんなタイプの「道学者先生」が世の中にはびこり過ぎた時、あだ花のようにオウムが出現したとも考えられるわけです。
そうして今、それすらも規制した結果、オモテ側であった筈の<市民社会>それ自体が、かつてのウラそのものと化し、表裏一体化してゲル状に溶解してしまったというわけです。
いわく、優等生による「酒鬼薔薇聖斗事件」、霞ヶ関エリート達の汚職、大手食品会社の消費者騙し、大手銀行の信用失墜。いわく、警察官による犯罪、消防士による放火、生保関係者による保険金殺人、医者による患者殺人、等々の激増。
これら一連のモラル・ハザードの連鎖に共通して言える現象は、悉く「さかしま」だということです。
仕事の<対象>に向かって職業に従事しているのではなく、自己が<対象そのもの>になってしまったということ。いわゆる「主客転倒」の典型みたいなもんです。
すなわち、患者を殺す医者、顧客無視の銀行、消費者不在の製造業、犯罪者を育成する警察、放火する消防士、といったあたかも「蛸が自足を食う」ような状況の横行です。
つまり、<理>や<義>や<道>の模範となるべき人々こそが、或る意味であのときの麻原以上に最も「醜悪なる存在」へと転倒してしまうという、何とも皮肉な結末が訪れたのです。
どうも、釈迦が琴線の張り具合を観て物事の加減を知悉した逸話のように、現代人は、「ほどほど」ということの持つ深い意味を再度斟酌する必要があるようです。
平たく言えば「まあまあその位にしとこうや」、関西弁なら「ええ加減」という言葉の、良い方の
意味です。
そうでないと、真理のミイラ採りもミイラになって、ますます殺伐たる「さかしま」の世界になってしまうだけのような気がします。
まさに過去から復讐のような形で、かつて評論家の切通利作だったかが「オウムとは私達のことだ」と喝破したことが逐一証明されてしまう愚だけは、もうこれ以上避けたいと考える今日この頃です。


>Genkoさんへ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月10日(金)04時31分55秒

 まずはともあれ、おめでとうございます。

で、過去ログ去年の7月8日でぐっちんは

 >オウムや統一教会の女の子としゃべった時はポジティブなマジメさを感じた。とにかく
 >「ええこ」ですよ。オウムの子はさわやか。サッカー部のマネージャー(って実物は知
 >らんけど)タイプ。メイクも薄いし。家が創価学会で(ってうちもおかんもそうやん!)
 >ホンネとたてまえが違うからイヤになったとかいう共通項がある。

 これは、サリン事件の二ヶ月後に「オウムと語ろう」という企画を、坊主バーでやった時の
感想。大阪支部に足を運ぶこと7、8回。いろんな信者としゃべって、厳選されたメンバー三
人と、バーのお客三人でこじんまり語り合いました。(おじきさん含む)

 >全員唯の馬鹿野郎どもだ

 などと、ぐっちんは思いませんけどねえ。。。むしろ山本さん(ありふれているから実名に
します)なんかとっても気があっちゃって、オウムの集会に何度も誘われました。あー君が
オウムに入る前に出会いたかった〜〜〜!。


一か八かの「由来」!? 投稿者:薄野小魔王  投稿日: 5月10日(金)03時58分53秒

 広辞苑第五版には「運を天にまかせて冒険すること。のるかそるか。」とあります。ところで何故一か八という表現をするかということを考えてみますと、もともとはカルタ博打から出た語だそうです。ですが「一」の次に何故二から七までの数字が使用されないで「八」なのでしょうか。わたしが出した答えは、「一」は「眼識」を、「八」は「阿頼耶識」を示す。根拠を示せと言われると上手く言えませんが、おそらく正しいでしょう。


ばなな・あ・ら・もーど 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月10日(金)03時54分54秒

 お答えします。

 >親鸞の教義の中には『やっぱりいいんだ。悪いことをしてもいいんだ。極悪なヤツの
 >ほうが往生しやすいんだ』という教義が確実にあるんです

 と吉本氏いわれますが、「救い」というものを問題にした時、「悪」もまたさわり無しと
いう話であって、「救い」が問題になってない人に「君の方がはやく浄土にいける。君、素質
あるよ」なんて話じゃないわけで。。。

 >オウムは反権力。これを支持する。

 は、吉本氏の意見の引用ではありません。
 >市民社会に通用する善悪の倫理を本当の倫理なんかと思ったら間違っちゃうよ。
 >僕がサリン事件とオウム真理教と結びつけるとすれば、市民社会における善悪という
 >ところで、(略)殺戮の次元を一挙に新しい次元の殺傷に持って行った事件と言う事に
 >なります。 『より普遍的倫理へ』

 まあ、市民社会の倫理というできあがった体制にオウムは揺さぶりをかけたという評価を
なさって、事件の意義を認めていると思います。

 Genkoさんの

 >「魅力」とか「説得力」とかいったものは、彼を知らない人が簡単に判定できるもの
 >ではありません。

 には、五月八日にぐっちんは

 >麻原というのはやっぱ適材適所にひとを配置する能力があったようですし

 と一定の評価をしております。

 それにしても吉本をなぜゆえ、そんなにかばわれるのかなあ。自分の師匠もまちがったりするし、へんなことをいったりすると思うけど、そんなときぐっちんは、「そうや、おまへんのと
ちゃう」ぐらいは生意気にもいいますけど。

 >麻原彰晃、つまりオウム真理教というのは、そんなに否定すべき殺人者集団ではないよ。
 >子の人は宗教家としては現存する世界では有数の人だよ 『オウムが問いかけるもの』 


共同幻想テスト 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月 9日(木)22時31分35秒

問い1 
次のABCを価値の高い順に並べなさい。
A 国家
B 家族
C 個人

問い2
次のABCを大きい順に並べなさい。
A 国家
B 家族
C 個人

問い3
次のABCを発生が古い順に並べなさい。
A 国家
B 家族
C 個人

問い4
次のABCを価値の高い順に並べなさい。
A 国政選挙に行く。
B 家族で遊園地に行く。
C 昼寝。


吉本さんの麻原評価 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月 9日(木)22時06分06秒

13年11月27日に某掲示板に引用したことがありますが、
吉本隆明「今に生きる親鸞」152頁

>それまでの僧侶は、僧院の中で座禅を組んだり修行したりして、
>体を痛めつけて幻覚みたいなものをつくりだす技術を手に入れることが
>仏教の修行だ、浄土へ往く道だと考えていました。
>しかし、そんなふうにして修行に励んだり、
>善行を積んだりして得られたものはダメなんだ、
>そんなことは幻覚をつくる技術にすぎないのでウソっぱちだ、
>と親鸞は考えました。

この旧仏教は「幻覚をつくる技術すぎない」
という主張は、『最後の親鸞』(昭和51年刊)以来一貫しています。
この「幻覚をつくる技術」において、
麻原は、旧仏教に匹敵していると評価したのです。
禅宗などがサトリの段階を秘密めかしているのを、
麻原は、解りやすく明らかにした、とも言っています。
これが、Genkoさんの言われる麻原の魅力かと思います。


>ねこさん 投稿者:らくりん  投稿日: 5月 9日(木)20時45分38秒

私にとっては親鸞の言わんとすることを、吉本さんの概念装置に置き換えて
理解しなければならない必然性がまったく感じられませんので、
吉本隆明さんの議論については静観させてもらいます。

>追伸2、
>らくりん先生、ありがとうございました。
>ただいま友人たちと、ネット上(ML)で聞き得たことをめぐって議論している
>ところです。今後とも、よろしくお願いします。
ねこさん、
お世話になりました。あの念仏者集団とその歴史とそれを支えてきた先達、
個々人と個別に出会ったとしたならば、とりたてて驚かなかったかも知れませんが、
それがあの規模で、そしてなんといったらいいのか、あの質、あのレベル、あの志
(ちょっとふさわしい語が思いつきませんが)で今日まで
受け継がれていることに対して、新鮮な驚きを覚えました。

そちらで買い求めてきた細川巌『龍樹の仏教 十住毘婆沙論』法蔵館を、
読み始めています。まだ最初ですが、何か期待を感じさせられるものがあります。

藤元先生の引用は3月15日のものかと思いますので再録しておきます。
追想 藤元正樹 先生 投稿者:らくりん  投稿日: 3月15日(金)11時04分52秒

『六字釋研究 ―重複の論理―』藤元正樹(非売品)
P126
 命を教として見出すことは、真理の受証論理を示すものに外ならない。
 真理が、自分のうちにおいて生命になるときにのみ人は、真理を真理のうちに
認めると言われる。真理を自らのうちに命とならしむるものこそが教であって、
単に教説として、頭の中に詰め込まれ、講義せられるが如きものでないことは
言うまでもな。……
 真理はただ伝承の形式であると言っても過言ではない。
 さて、真理が、誤り無く伝えられ、過ち無く承けつがれる為には、伝えられ
るものが、承けられるものにおいて、今一度受け取り直されねばならない。
一般に内面性の複写というようなものはあり得ない。つまり、伝えるものの意
志が、直接的に承けるものの内面に複写する如きことはない。伝承の秘密はか
かる伝達の重複性にあると言ってもよい。伝えるものの心は、承けるものの心
に重複的に承け取られ、重ねて受け取り直されることによって真に所有となる
のである。
 したがって、伝えるものは、承けるものに対しては充分なる距離を取らし、
承けるものの、直接的に客観性のうちに凝固しないような仕方を選ばねばなら
ない。
 つまり、伝えるものは、その伝えにおいて、相手を突きはなして、承ける
ものが真理のうちへと受け戻しするように計らねばならない。……
 真理が伝承の形式において在るということが、かかる受け取り直しとして
の実存の重複を要とするならば、教は我々の生命を真理のうちに引き入れる
ために、その真理自らの取り来たる形式でなければならない。真理は、己の
主体性を保持する為に形を取らねばならない。真理の形とは言葉である。
まことに言葉は真理の宅であって、総序には「摂取不捨の真言」と示してある。
……
 言葉が真理の形であるならば承けるものは聞くことにおいて形を取る。つまり、
聞が真理授受の路であるということである。否、我々は聞の場においてのみ真理の
聞かれることを知るべきである。
 一切の経典が如是我聞において展開していることは、真理への道が、〈聞〉に
あることを明かすに充分であろう。
 まことに真理は説くことにあるのでなくして聞くことにあるのである。


麻原評価に関して 投稿者:Genko  投稿日: 5月 9日(木)19時58分25秒

吉本の幻想論については、私などより、むしろお留守居役様の方がよほど詳しいと推察致しますが、オウムとの絡みでいくばくかの誤解があるように感じられますので、一言私見を述べさせて下さい。
吉本は、オウム真理教それ自体を「支持」したり直接擁護した発言は、少なくとも私の知りうる限りなかったのではないでしょうか。
ただ、教祖麻原のことを、マスコミの文脈や権力の側が捏造したイメージでの「程度の低い人物像」でないことを指摘し、何らかの意味で「秀でた人物」であり得ることを強調したのです。
そうでないと、少ない年月の中で、彼について行った全国の何万人もの信者が、一人の例外もなくあまりにも「愚か」で、全員救いようがない連中だ、ということになってしまいます。
そうして、その後のオウム信者を迎える地域社会の反応はと言えば、行政も市民もこぞって、まさしくこうした態度に出たのでした。「何をしでかすかわからない」「怖い」連中というイメージ。
一個の人間が、外部的にどれだけ薄汚く痴呆面をしていたとしても、その人から醸し出る底知れない「魅力」とか「説得力」とかいったものは、彼を知らない人が簡単に判定できるものではありません。
ただ麻原その人に、かつて数万人近くの日本人が帰依した、という厳然たる事実の持つ重みを、吉本は無視することが出来なかったのです。(この私でさえ当時看過できませんでした。)
あれは唯の悪辣な詐欺師だったのだ、という総括では、彼について行った全国数万人の信者や残されたアレフの構成員達は、全員唯の馬鹿野郎どもだという結論しか出てきません。
この事は、戦時中、私達日本人が全員、戦前の国家神道に騙された馬鹿野郎国民だったからだと言っているのと同じ言いわけです。
これではあまりに乱暴な見方であり、一種の「逆立ちした傲慢さ」に通じませんか?
私などはむしろ、吉本は既にあの時点で、その後のこうした推移を予測出来ていたのだと今更のように感じています。



吉本知らずの幻想論 投稿者:ねこ  投稿日: 5月 9日(木)17時57分09秒

ネコです。ずっとまえに下記の藤本先生の著書から、「真理は関係の中にある」という
意味の言葉を引用しておられましたね。(たしか、ぐっちんさんとらくりんさん。
過去の記録をさがす元気はありません、ごめんなさい。)

この掲示板では幻想論争がさかんだった頃で、私がぼんやり考えていたことと
通じるところがありましたので、記憶に残っています。

幻想論争を眺めていて私が疑問に思ったのは、「共同幻想よりも個人幻想の方がまさる」
という主張でした。(これらの術語について、私はここでの議論の他には何一つ知りません。
ですから以下は、吉本知らずの幻想論です。)

おそらく否定的な意味で「共同幻想」というときの「共同」とは、大きな質的差異のない
個人の集まり、いわば群集のことでしょう。(経済学でイメージするマスに近いもの)
そこでは個人は他者とのユニークなつながりを持たない、ひとつの単位にすぎません。
そうした個人が抱く幻想は、しかし、その個人が所属する集団の幻想と通じるはずです。
そうすると共同幻想と個人幻想は、実は等価ではないでしょうか。

こうした共同幻想=個人幻想をこえるものは、〈わたし〉と〈あなた〉との
特殊な関係の中にしかないと思います。それは、だれかとの私的な思い出などでは
ありません。そんなものでは役不足でしょう。
それは、いわばサンガの関係。ここから先は説明できません。
(これを説明するには私では役不足です。)

ここからひるがえって、17願とは何なのだろうと考えています。(きょう、あすに、
答が見つかるとは思ってませんが。) どうして「聞其名号」(本願成就文)なのか。
それは善知識を通して名号の真実が伝えられる(伝えられやすい)というよりも、
むしろ名号の真実はサンガ(のみ)にあるということではないのか。

つまり群集のただ中で念仏申すとき、そこにはサンガが芽生えているということ。
身の丈を越える問題、私自身への問題提起です。

追伸1、
「大乗の救いを知るというのは、大乗の苦悩を知るということ」
この先生、いいですね。どなたかは存じませんが。

追伸2、
らくりん先生、ありがとうございました。
ただいま友人たちと、ネット上(ML)で聞き得たことをめぐって議論している
ところです。今後とも、よろしくお願いします。


恋に生き、芸に生き 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月 9日(木)16時55分22秒

吉本芸能の神髄を捕らえた部分を引用されたのは、
おみごとですが、
>これはやっぱり、ピンボケだ。
の説明が、だからどうしてっ。わかんないです。
また、
>オウムは反権力。これを支持する。
なんて、吉本さんのお言葉にはなかったと思いますよ。


藤元師のおことば 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 9日(木)15時49分01秒

 大乗の救いを知るというのは、大乗の苦悩を知るということなのだ


松竹芸能愛好者 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 9日(木)15時43分14秒

 吉本氏の親鸞理解について 

 >親鸞は『善人より悪人のほうが浄土に行ける』と言っていました。そうすると、弟子の
 >中に『それじゃあ、悪いことをしたほうが浄土に往き易い』と言って、悪いことをする
 >集団、分派ができました。困ってしまうんだけれど、本来的に親鸞の教義の中には『そ
 >れなら、わざと悪いことをしたほうが、浄土へ行けることになるんじゃないか』という
 >造悪論を否定できない要素があると思います。それでも、親鸞は『良い薬があるからと
 >言ったって、わざと病気になるやつはいないだろう』という答弁の仕方をして、造悪論
 >をなだめますけれど、それは弁解にすぎず、親鸞の教義の中には『やっぱりいいんだ。
 >悪いことをしてもいいんだ。極悪なヤツのほうが往生しやすいんだ』という教義が確実
 >にあるんです」

 これはやっぱり、ピンボケだ。吉本氏の思想傾向はめっちゃ簡単にいってしまうと二つの
方向があると思います。@反国家、反権力、反マスコミA生活や日常を大事にする大衆への
信頼。そこに吉本さん自身の「知識人」という立場がありまして。大衆に足場を置こうとし
た時に、その大衆がマスコミや権力に同調してたりなんかすることもあるわけでして。

 オウムは反権力。これを支持する。ところが、世間の「一般大衆」が、オウムたたきに加
担する。こうなると、吉本氏、身もだえ。吉本氏、なんか怪僧ラスプーチンとか弓削の道鏡
とかを現代に見たいのかな?麻原は「世界有数の宗教家」だと過大評価する裏にある気持ち。

 「悪人往生」をいった親鸞は、まぎれもなく自分もまた「まっくろくろすけ」だと思って
たけど、吉本さんはどこに立ってるのかな?たぶんおきらくなんだと思います。

 ドストエフスキー『悪霊』より

 「それでは、たとえば女の子を辱めたり、けがしたりしても、それでもいいのか」
 「いいことです。人が子どもの敵討ちに脳味噌をたたきつぶしてもそれでもやはりいい。
また脳味噌をたたきつぶさなくても、それもやはりいいことです。すべてがいい。すべてが。。
(中略)もしそれを悟ったら、小さな女の子を辱めなどしなくなるでしょう」

 麻原は、ヨーガを通じて、こんなレベルに達してたとはとうてい思えません。


星に願いを 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 9日(木)15時08分29秒

 ♪努力 前進 ア・ビューティフル・スター

 とモー娘。は歌ってます。「スター誕生」も「スター千一夜」もなくなった今では「げい
のーじん」はアイドルやタレントと呼ばれ、スターとみずから名告るのは、にしきのあきら
(現在は漢字に改名)ぐらいのものですけど。

 とにかく、スターになりたい!こういう気持ちは、華やかで素晴らしいものに憧れる気持ち
(超越への欲望)でしょう。橋爪大三郎はこういいます。(昨年8月1日の過去ログより)

 >さて、宗教とは「もうひとつの現実」と「現実」を生きる行為だと思う。「もうひとつの
 >現実」をひとが求めるその動機とは何か。
 >ひとつには、人生の与えられた事実でしかない部分を抜け出してもっと充実した理想的な
 >ものに向かおうとする動機。
 >もうひとつは、にもかかわらず自分の経験のすべてである所与の事実にこだわり、それに
 >意味を与えたいという動機がある。

 非日常と日常を大切にしたいという両方の気持ちが、宗教を求めるこころにある、と橋爪は
指摘します。憧れが実現せず、挫折したとき、ひとはルサンチマン(怨念感情)をもってしま
う。でも親鸞さんも「いかり、はらだち、そねみ。。。臨終の一念にいたるまで消えず」と
いわれてますから。。。その感情をどこまで自覚しているかじゃないかな。

 モー娘。のオーデションを受ける娘たちも、井上嘉浩も、右翼バンドの伊藤君も。。。そし
てぐっちんも。。。そんなに変わりはしないのだと思う。


Re:横丁の若様 投稿者:MANU.  投稿日: 5月 9日(木)01時14分57秒

> お久しぶりです。西光先生って一度お話を聞いたことがあるんですけど好きです。
>行ってみようっと。でもMANUさんがどの方だかわかんないと思うんですが。。。
>司会とかされるんでしょうか?それとも奇抜な目立つ格好でもされてたらいいんですけど。。

ぜひおいでください。
といいつつ、私は別にスタッフでも、会員でもなく、個人的に宣伝して回ってるだけです。
真カ研でなく、法座で西光先生にはご縁を頂いておりますので。

ですので、一般客に混じっておりますが、特徴は口周りのひげとやや茶髪の、
見た目は40代半ばのおやじです。(実年齢は40前ですが)

私宛にメールくださったら、写真でもおくりましょうか?(笑)

他のみなさまも、よければどうぞ

http://homepage1.nifty.com/MANU/ivent/ivent3.htm


追加 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 8日(水)16時05分00秒

 麻原もつんくみたいな本を書けばよかったのに。『LOVE論―あなたのいいトコ探します』

 オウムシスターズは絶対、モー娘。ないしはSPEEDと互角の勝負をしたと思うけど。。。
ぐっちんは思う。「ユーモアは地球を救う」と。。。


吉本考(後半) 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 8日(水)15時36分22秒

 吉本さんは確か、「自らの思想に大衆の原像を繰り込め」といったんだと思いますが、ぐっ
ちんは生命学者・森岡正博さんの「自らの思想に自分を巻き込む覚悟が重要である」の方がが
つ〜んと来ましたね。プライドみたいにプロレス、空手、柔術、キックボクシング、レスリン
グなど様々な格闘技家が、ひとつのリングに上がり、ひとつのルールで存分に闘う。なんか、
そっちの方が好き。

 善導の「解を学ばんに」というのと「行を学ばんに」というのがありますよね。学問とか
思想とかいう文字面を学ぶんだったら、まあ何でもござれ、というのが解学。けれど、自分
がどう生きていくべきなのかが本気で問題になるんだったら言葉の響きを聞け!というのが
行学じゃないのかなあ。

 で、吉本の麻原彰晃に対する思い入れもようわからん。ぐっちん自身がホーリーネームを
もった幹部と実際にしゃべった経験と、ワンクッション置いて麻原と接触した人の感想とを
総合したら、麻原というのはやっぱ適材適所にひとを配置する能力があったようですし、ど
っかの会社の人事部長でもやってたらあんな悲劇はなかったのにと思います。

http://www.asyura.com/sora/bd5/msg/734.html


吉本考(前半) 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 8日(水)15時29分09秒

 引越しの荷物を整理していたら、角川文庫版で吉本の『共同幻想論』が出てきました。う〜
ん、買ったことは買ったんですわ。けどまあ、その前に別の本を読んで、「やっぱり、何がい
いたいんかわからん。要するに共同幻想は×で、個人幻想が○なんか!」程度の理解ですわ。

 評論家・小浜逸郎の『吉本隆明ー思想の普遍性とは何か』と聖書学者・田川建三の『思想の
危険についてー吉本隆明のたどった軌跡』をパラパラめくってみたんです。つまりは、らくり
んさんが『読み解く』でいわれてますけど、ひとが本を書くのは強いモチベーション(動機)
があるはずで、読者にも強いモチベーション(作者と共通する問題意識)がなければ、どんな
真理が書いてあってもそのメッセージは響いてこないもんで。

 『未来の親鸞』というのもパラパラ程度で。「思想としての親鸞は、信仰としての親鸞より
すごくて、浄土教の教義を破壊してる云々」とあったような。。。教義を破壊したら、何です
ごいんかな。個人個人の思想(幻想?)に分解し尽くされた方が優れている、といいたいの?

 『最後の親鸞』だったか。。。これは河田光夫さんが批判してたような。「親鸞は、大衆の
中に静かに着地する。。。」という吉本の表現を借りれば「親鸞は、大衆の中から羽ばたいて
いったんだ!」と。真宗には、群萌(ぐんもう)ということばがありますが。ぐっちんは知識
人でも文化人でもないですしね。あ〜小市民!(嘉門達夫)ってかんじ。


ことば考 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 8日(水)14時29分56秒

 >おじきさんへ

 で、言葉を過信するな、ということでしょうけど。言葉を使わない日は一日たりとも無いと
思うんですね。だから「言葉のいのちは響き」だと思うんですね。文脈の中で、ある人にとっ
てどう響くか。「平凡な日常が大切」が○か×かじゃなくて。これは、差別語狩りという問題
とも絡んでくると思います。○○という言葉を絶対使ったらいけないのかどうかという問題。
これ過去ログにあったなー。「使い方が人を傷つける効果をもつ」って。

 で、その「差別」やら「錯覚」なるものも、「ことば」によってしかそれを指摘し、相互
確認できないと思うのですが。。。蛇足ながら、だから「真実」なるものも「方便としての
言葉」を必要とする。。。


言葉の錯覚 投稿者:おじき  投稿日: 5月 7日(火)16時42分15秒

「平凡な日常性」といわれると、いかにも平凡な日常が日々繰り返されるという
イメージがありますが、でもよくよく考えるとどこにも平凡な日常などありませんね。
刹那刹那にあらゆる物事は生成・変化・維持・消滅を繰り返して一時たりともとどまって
はいない、見た目は同じ様でも日々変化している。
その日常を「言葉」という符合によって「固定」したものと「錯覚」すると「非日常」を
求めてしまうのでしょうか。いわゆる「平凡な日常」が実は面白いんですよね。
先日、長男が誕生し、お蔭様で母子ともに順調で昨日退院いたしました。


>Genkoさんへ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 7日(火)15時51分04秒

 追加。まあ、読書家のGenkoさんにとって
ぐっちんの書くことなど、既知のことばかりだと思いますけど。

 明日世界が終わると分かっていても
 私は今日リンゴの木を植えるだろう     ゲオルグ

 ってのがありますね。環境問題ですか。明日、オゾン層が破壊されようが
南極の氷が溶けようが、西川きよしのいうように「小さな事からコツコツと」
じゃないでしょうか。先日、らくりんさんのお寺にお邪魔したときアクリル製
食器洗いをいただきました。

 合成洗剤を使わず、油モノ汚れじゃない食器を洗うための毛糸のもの。なーんか、
Genkoさんのお悩みはスケールがでかすぎるというか、高所・大所に立たれすぎ
というか。。。「君たちは〜何やっとんだ〜」「われわれは〜」みたいな。

 坂口安吾だったかが、こんなこと言ってましたねー。知識人は「(正)義の要求」の
声を挙げ、大衆は「生活の要求」の声を挙げるって。 


>らくりんさん 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 7日(火)15時06分40秒

 すいません。管理人代行業みたいなことやって。。。


横丁の若様 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 7日(火)15時00分34秒

  は、春風亭小朝でしたか。。。ぐっちんなどさしづめ「貧乏人のお坊茶魔くん」やな。。。

 >MANUさんへ

 お久しぶりです。西光先生って一度お話を聞いたことがあるんですけど好きです。
行ってみようっと。でもMANUさんがどの方だかわかんないと思うんですが。。。
司会とかされるんでしょうか?それとも奇抜な目立つ格好でもされてたらいいんですけど。。

 >薄野小魔王さんへ

 『親鸞伝絵』とかみてると、山伏、狩人、癩者とか柿衣をつけてますね。神聖な力を持つ
者として恐れられかつ畏れられていたひとびと。。。装いって大事ですね。

 >Genkoさんへ

 おたくの師匠のお寺のHPを見てたら、インド旅行記というのがあって、かの国の
孤児院(ってまた古い表現やな。。。)の壁に書かれていた言葉が転記されてました。

 あなたは求められ愛されています。
 何をするか、何を与えたかではなく、
 あなたはあなた自身であるという理由において。

 >お留守居役様さんへ

 安田理深さんがいっておられたそうです。「自分の専門の分野を大事にしろと。専門の分野
を捨てて仏法というのではなくて、どこまでも専門の分野にとどまって、しかも共に聞法する」
と。まあ、例えば市井のおばあちゃんは、別に専門にドイツ文学をやった、あるいは中国哲学
をやったとかは、あまりないと思いますけど、結婚し子育てをやった、その生活の中で仏法を
聞きなさると思うのです。

 それぞれの「生活の座」の中で、何が厭うものであり、何が欣うものなのかがハッキリして
くる、というのが「真宗を学ぶ」のじゃなくて「真宗に学ぶ」というものではないでしょうか。
いや、八百屋にクリーニングを頼んでも仕方ないとおっしゃるかも知れません。が、八百屋も
クリーニング屋も商売に変わりありません。お客様に「何を」売るかは違っても「どのように」
売るかは、共通のものがあるかも知れません。接客とかサービスとか。それはヒントがあるはず。


お知らせ 投稿者:MANU.  投稿日: 5月 7日(火)02時04分18秒

今週末、「真宗カウンセリング研究会」のイベントがあります。
日曜日の「記念大会」の方には当日でも参加できるようです。
お近くの方、如何でしょうか?

最近はROMになってますが、私「ぐっちん」さんのFANだったりします。
関西においでとの事ですので、一度お会いしたいななどと懸想しております。

http://homepage1.nifty.com/MANU/ivent/ivent3.htm


勘が戻らない。 投稿者:らくりん  投稿日: 5月 6日(月)23時43分59秒

3泊4日、正味3日も、缶詰状態で日常とは異なるテンションとテンポの中にいると、
どうも1日やそこらでは日常感覚に戻らないようです。

その間の書き込みを読んでみましたが、
どれがどれに対する反応なのか、もう一つピンときません。
それとも、流れにはなっていなくて、どれも単発で、
言いたいことを書いているだけなんだろうか。


太宰治再発見 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 6日(月)20時12分51秒

 作家と言うものは、ずいぶん見栄坊であって、自分のひそかに苦心した作品など、苦心
しなかったように誇示したいものだ。                 『創作余談』

 安楽な暮らしをしているときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしているときは、
生のよろこびを書きつづる。                        『葉』

 人間は、しばしば希望にあざむかれるが、しかし、また「絶望」という観念にも同様に
あざむかれる事がある。                     『パンドラの匣』

 甘さを軽蔑する事くらい容易な業は無い。そうして人は、案外、甘さの中に生きている。
他人の甘さを嘲笑しながら、自分の甘さを美徳のように考えたがる。  『かすかな声』


鬼燈の色と衣の色 投稿者:薄野小魔王  投稿日: 5月 6日(月)08時37分36秒

 「鬼燈のような小僧が生まれけり」
 句佛上人が光暢師誕生に際して詠まれた句である。「鬼燈」の色とは赤である。東本願寺歴代宗主の肖像画を拝見すると、「門跡」を示す紫色の衣を着ているかと思えばそうではない。黒か赤である。色についてわたしは素人だが、調べてみると全ての色は基本的には「あか(明)」「くろ(暗)」「しろ(顕)」「あお(漠)」の4色に大別できるようだ。尚、赤黒白以外の色は全て「アオ」として考えるそうだ。さらに、白色は大谷派において本座九等以上共通衣体となっているが、古代においては最高の色とされた。話を戻すと、何故證如、顕如以降の法主は紫ではなく「あか」い衣を着ているのか。わたしなりに考えてみると、やはり「鬼燈(本山・本願寺)」を背負う、身に纏う不退転の覚悟、決意を象徴する色は「あか」だからというのが現時点での結論である。ただ、もし紫以外なら何色か?と考えると、基本的には「白か黒か」ということになると思う。現門首大谷暢顯師が法要の際着用されている衣の色目においてわたしが見たことのある色は、「黒」「白」「紫」の3種類である。例えば、わたしの直感では黄菊色(上座一等)はありえないと思った。黄菊色がありえないとすれば、他の色(本栗皮etc.)は全て「除外」される。ただ、わたしの祖父が最も似合う色衣の色目、紅松皮(上座二等)だけは簡単に除外できなかった。その理由は「紅松皮色」は「あか」に見えたからだ。だが、いま教如上人像を見ると、教如上人が着ている「あか」と「紅松皮色」の「あか」は厳密に考えると異なって見える。教如上人が着ている「あか」は中緋(♯EA0000)、つまり真紅である。紅松皮は同じ「あか」でも、少し暗い「あか」だ。「真理」「真実」を志向することを表現する色は「真紅」であると結論づけることができる。すると、東本願寺歴代宗主は真紅の衣を着ることによって、「真理」「真実」を「回向」していることになる!?


追記 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 6日(月)02時17分44秒

 強い思い入れが無くなって、町中から「意味」が剥がれ落ちたような。。。
昔、あれだけ入れ込んでいた音楽の響きがやけにダサク感じられるとか、めちゃめちゃ惚れ
込んでいた作家に全然興味が無くなって古本屋に売る気になったとか、そんな感じですか。。。

 世界の側に意味が(秩序)有るんでは無くて、受け手である私に招じた「意味」が
どんどん変わっていく。。。


おさるの惑星 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 6日(月)01時52分47秒

 知り合いの女性が、「大阪に出てきたあたしは、今ホームシックにかかっている」といって
ました。それがきっかけで5年半ぶりに帰阪したぐっちんは、1歳から11歳まで住んでた地域と、12歳から22歳頃まで住んでた(住民票をおいていた)地域とを夜に歩いてきました。

 1歳から住んでた町の隣り町は、亡き妻と六年前に住んでた町なので、更に感慨深いものが
あるのですが。いづれも今、越してきた町とそんなに離れていないのであります。

 それで思うのはこんなことです。町は自分が住んでた頃とは、ずいぶん違う。マンションが
立ってたり、道が広くなってたり。けれど、自分の身長が高くなったというか、横幅が広くな
ったせいなのか、町が小さく狭く見えるのです。なんかミニチュア・セットと言おうか。この
坂こんなに勾配ゆるかったかなあ、とか。

 もひとつ違うのが、町から受けるイメージ。潤いというか、湿り気というか、情感というも
のが感じられない。。。今住んでる近所の商店街とあんまり変わらないんですよね、昔の商店
街歩いてても。何か良く似ているが、まったく別の町に降り立ったような感じがするのです。
町にはぐっちんのニオイというか痕跡は見当たらない。

 当たり前のこと書くな!といわれそうです。昔の町は、いまは住んでないのだから、生活感
が感じられなくて当然。昔住んでた当時なら、この道を曲がったら片思いの○○ちゃんの家や
ドキドキとか、行きつけの駄菓子屋さんがあるワクワクとか。。。また学校からよその学区の
地域では遊んでは行けません。他校の生徒とケンカにでもなったりしたらいけないから云々と
いうお触れがあって、この踏み切りから向こうがソレ。。。とまあ、そういう「意味」に満ち
満ちていた空間やったからやといわれそうです。

 で、知人たちに会うと、これがあまり変わってないんですね。みんなそれぞれ、この5年半
のうちにいろんなことがあったにもかかわらず。(これは、知人が比較的最近に知り合った人
だからかも知れません)何か町という、物質に基盤を置く世界の方が移ろいやすく、まるでゲ
ームの中に登場する町であったかのような。。。

 らくりんさんなどは、生まれ故郷の村が水没してしまってるということで、こういう感覚を
持たれる機会がもうおありではないと思いますが。何か類似の経験おありでしょうか?他の方
も。ぐっちん、だんだん現実感覚がなくなってきて、ここで書き込んでいるような内面(精神)
世界に埋没しているというか。唯心論的な感覚に浮遊してしまっているような。

 が、タイムスリップして子供の頃の自分としゃべっても、その子にぐっちんの話は通じない
でしょうし。子供の頃のぐっちんを知っているひとで亡くなった方は相当な数になってしまっ
たでしょう。そしてぐっちんの事を忘れてしまったひとも相当なもんでしょう。そして、覚え
ているとしてもその方自身がお年を取られているので、そのイメージは変形してしまっている
でしょうし。さて、こうなるとぐっちんなるものは精神としても果たして存在しているのかど
うか分らない。

 これは、淋しい気持ちとか、悲しい気持ちとか、空しい気分とか、暗い気分とかいうのでな
く、何かサバサバしたというか。言葉に尽くせない不思議な感触です。


愚者、愚禿、大衆の原像 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月 6日(月)01時16分36秒

法然聖人が言う「愚者」
親鸞聖人が言う「愚禿」
吉本さんが言う「大衆の原像」
はよく似ている考えだと思っています。
できることなら、そこに留まりたい場所というか、
理想のモデルという意味があると思います。

大衆の「原像」は抽象概念で、実在する大衆ではないとは、
吉本さん自身が述べられています。
現実の大衆は、大衆の原像からズレています。
大衆の原像は、実体概念であって、実在しない
ということです。
(ここで言う「実体」は、カントの言う意味です。
 「モノそのもの」「真実存在」「本質」のことです。
 「実在」と混同しないでください。)
吉本さんの大衆の原像は、原理であると同時に
方法でもあります。
大衆の原像に照らして物事を判断することにしているからです。

平凡な日常性それ自体が大切なのであって、
大切なモノや大切なコトを他に求めるのは、
日常性からズレてしまうと思います。
日常性ということの恐ろしさを知るべきでもあります。

ところで、愚禿と非僧非俗は違う思いますが、
いかがなものでしょうか。


月刊平凡・明星 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 6日(月)00時36分00秒

 >Genkoさんへ

 「平凡な日常生活の中で方向を指し示す明かるい星に憧れる気持ち」としときますか。
それとも、宮台さん風に「終わり無き日常」という言葉に変えますか。
まあ、いづれにせよ井上嘉浩の意識を問題にしようとして、持ち出した


ただいま 投稿者:らくりん  投稿日: 5月 5日(日)21時14分05秒

帰りました。
なかなか得難い体験をしてきました。
いっぱい書き込みがあるけど、目を通すのはゆっくり休んでからにします。

では、


ぐっちんさんへ(お詫び) 投稿者:Genko  投稿日: 5月 5日(日)19時55分27秒

ごめんなさい。
やや、私の早とちりでした。
ただし、ここで「やや」というのは、ぐっちんさんの中に、すでに「平凡な生活」幻想が、
少しく前提としてあって、その仮定の上に「大切なこと」に対する気持ちを持ち続ける、
というナイーヴな常識論に、何らの疑念も抱いていないのではないかという意味です。
第一に、我々の生活は、その大部分が社会的な諸条件に規定されており、己れの信念や努力
だけでは如何ともし難いということがあります。
最近の企業社会に中高年リストラが横行している現実などは、まさにこれに該当します。
(例えば、私はその当事者でした。)
第二に、現在の高度化した資本制による大衆消費社会の下では、諸個人にとって「大切なこと」
というのが、単に商品化された「シュミラークル」や「情報」に過ぎないケースが多く、
果たしてそれが「本当に」大切なことなのかどうか、当事者にとってさえ判然としないことが
殆どだという、まことに困難な状況があります。
宗教家はよく「いのちこそが大切」なんて易々と説教しますが、延命治療によって植物人間化
された只苦しいだけの終末患者にとって、安楽死はやはり「遠い日の夢」なのでしょうか?
私たちの時代は、従来のあらゆる「倫理のことば」が、発された途端に無効になりかねない
空虚で絶望的な<末法>に位置しています。
私たちにとって、本当に何が「大切なこと」なのか、環境や福祉問題などのように、
既に<個人>的なレベルを超えて、<公共>的かつ<グローバル>なコンテキストでしか語
れない複雑でアンビバレンツな緊急課題もたくさん横たわっています。
持続可能な生態系を保持しようとすると、個人の願望を抑制または断念しなければならない。
個人の平凡な生活を保持しようとすると、遅かれ早かれ生態系の破壊を招来する。
こうしたジレンマに囲繞されていることを充分に踏まえた上で、なおかつ個人生活にとって、
真に「大切なこと」とは一体何なのか、を問うて見たかったのです。
ちなみに私は、西洋の哲学思想や社会科学的知見を総動員しても、こうした問題に充分納得
するに足る<解>を得れそうにないと思い始めた頃から、仏門に近づいたのでした。


自己レス(ガス漏れ警報) 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 5日(日)18時11分37秒

 >自分たちの不安は、みんなそのブラック
 >ボックスに預けておく。だから、自分たちの生活は安泰。

 と誰しもが思いたい。けれど、そのブラック・ボックスから不安が漏れ出してくる。
迷いがにじみ出てくる。。。


テロ・有事法案・大行 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 5日(日)17時30分47秒

 4月29日のヒロさんのご意見について。

 テロですか。。。アメリカという国は多民族国家ですから、なんか一本にまとまるには
「敵」が常に必要なんですね。いわゆるレッテル張りです。自分とこの国を「悪の枢軸国
家のひとつ」なんて自称している国はひとつもないはず。あいつ、いやな奴っちゃなあ〜
なんていえば、「おれもそう思う」「わたしもいっしょ」とみんなに連帯感が生まれます
なあ。ひとさんの悪口は、みんなとみんなをつなぐ接着剤ですなー。ソ連が攻めてくるぞ
〜の次は、北朝鮮が攻めてくるぞ〜。おれたちみんなで日本を守ろうぜですなー。あーあ。
しゃあないなー。ワンパターン。

 昔の日本は口減らしのためにお寺へ子供を預けるというのもありましたなあ。宗教という
のは余剰人員を抱え込むプールみたいなもんでしたな。とにかくその中におればなんとか食
いつなげる。アルカイーダみたいな過激派の組織に入るひとは、貧しさゆえの志願も多いん
とちゃいますやろか。宗教は再分配装置だなんて、むずかしいことばでぐっちんは過去ログ
で発言しましたが。お布施という考え方が仏教にあり、ザカート(喜捨)という考え方がイ
スラームにあると。なんだかわからんが「遠い高い世界」には借りがあるので、そこに携わ
ってはるひとには、お金が集まってくる。

 でもテロ実行犯は、どうやら欧米の大学で理系(科学技術)を学んだいわばエリートコース
に乗れるようなひとやったねー。なんか歴史の皮肉を感じますねえ。もっとも暗黒の中世時代
はイスラームが学問と技術の最先端をいっとりましたな。化学記号もアラビア語からとった
そう。だからホントはおれたちの教えが一番なんだぞと。とにかく、かのひとびとも「おれた
ちゃ、アメリカみたいな国がばらまく物質文明に汚染されてるー」といってイスラームの大義
に殉ずるため、自爆テロをやっちゃったんですね。

 汚れてるー!、ですわ。ムスリムアイデンティティーからずれるー!、ですわ。ジハード
という行為が聖なる価値をもっている大義に基づく行為ですね。個人がおこなう、立派な行為。
それに比べて念仏は、私有化できない行為。自分が称える行為というより、善知識や、仏さん
のまねっこ。衆生聞名、諸仏称名でしたね。怠惰に流れがちな<わたし>に、か〜〜〜っつ!
という帰って来いよのお呼び声が聞こえてくるかどうか。。。 


あれっ?U 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 5日(日)16時59分19秒

 >Genkoさん

 >「平凡な日常を繰り返す生活が最高の価値なのだ」なんて、本気で思ってらっしゃる
 >んですか?

 というのはわたしへの疑問ですか?この部分はお留守居役様さんの御意見の引用ですので
わたしの見解ではありません。わたしの書き込みは、

 >平凡な日常の中で「大切なこと」に対する気持ちを持ちつづける事。

 という一息までであって、まあどんな生活してても惰性に流れるっちゅうことがありまして。
で、ミスチルの桜井くんの歌詞をいっぱい引用していたのですけど。。。


ぐっちんさんへ(疑問) 投稿者:Genko  投稿日: 5月 4日(土)21時18分28秒

いわゆる「平凡なるもの」などという表象は、実体的には存在しない虚像ではないでしょうか?
自己像をそんなふうに規定してしまうのは、まるで「私は美しい」などというナルシズムの裏返
しのような気がします。
吉本の言う「大衆の原像」は、原理的な抽象概念であって、それ自体が実体像ではありません。
さもなくば、すべての大衆の生活をまるで見てきたような不遜な事になってしまいます。
むしろ、私たちは、<平凡>と<非凡>の両極の間を重層的に揺れながら、そのどちらにも属せ
ないで居るのが日常性の実相ではないでしょうか?
自己がいつもありうべき自己のアイデンティティーと大なり小なりずれてあること。
こうした自己分裂の意識が、近代的な諸文化や芸術を産出したのではないでしょうか?
たとえば埴谷雄高の「自同律の不快」は、自己像が社会的なディスコースにそって創り出されて
いくことに、内面から低抗していくことです。
日常性の中で自らが自動人形化していく文明システムの無機質な残酷さに、体内の<自然>は、
異化作用を欲望し始めたりします。
私たちはカフカの小説の中のグレゴール・ザムザになるわけにはいきませんから。
風景として他者を見ている限り平凡に見えるようでも、その実相手の心中は概して非凡に荒れ狂
っている場合も多々あるのです。
5年程前に阪急宝塚駅で投身自殺を図った某不動産会社の私の友人は、その朝まで女房には彼が
いつもと変わらぬ姿しか見えていませんでした。
思うに平凡とは、ほとんど非凡と同位の相であり、固有の非凡さの謂です。
他者が平凡に見えるのは、かかわりを持たぬ限りにおいて言えるこちら側の勝手な幻想です。
また、自己が平凡に見えるのは、そうありたい願望からきた<物語>に過ぎません。
というより、そんなことはどっちでもいいことです。
平凡であれ非凡であれ、固有の人生を日々やっていくことは多くの場合大変しんどいことだし、
あれこれ迷うし、ようわからんこと多いし、醜く悲惨な場合もあるし、時には底無しの不安や恐
怖感に襲われるということです。
私には、「平凡な日常が大切」だなんてそんな歯の浮くような陳腐なセリフ、とてもウソっぽく
聞こえてきます。
「平凡な日常を繰り返す生活が最高の価値なのだ」なんて、本気で思ってらっしゃるんですか?
だとすると、「平凡な日常」とは一体何を意味するのでしょうか?
私は、各人にそれが本当に実現したのなら、仏法なんてもはや必要ないと断言してもいいです。


過去ログより 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 4日(土)06時33分52秒

 ねこさん1月1日の

 >まじめなサラリーマンは,夏休みも正月も,いつもと変わらぬ〈読み書きそろばん〉
 >の毎日です。ニヒルな感覚。ですが,これが私自身の後戻りできない現実であり,
 >社会の一本質でもあると思います。私自身においてニヒルをこえることが,社会の
 >一問題を克服することになればと希望します。
 
 に共感いたします。平凡な日常の中で「大切なこと」に対する気持ちを持ちつづける事。
けれどどこどこまでも地面に踏ん張り続けて、ひとっ飛びに出来合いの「大切なこと」に
飛びつかない事。その姿勢は、単なる

 >平凡な日常を繰り返す生活が最高の価値なのだ

 とには違いがあるのだと考えます。


昨年5月9日の発言より 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 4日(土)01時07分12秒

 >ブータンの国王が自分自身の権限を制限しようとしたら国民議会の方から
 >否決されたり、宗教的・政治的指導者ダライ・ラマが
 >「転生活佛制(てんせいかつぶつせい)は、自分の代でおわりにしたい」
 >ともらしたりする。
 >ある教会ではクリスマスはイエスの誕生日でもなんでもない
 >(当時キリスト教より流行っていたミトラス教の冬至祭)ので今年から
 >取りやめにしようと提案をしたら近所のクリスチャンではない人たちから
 >「クリスマスにキャンドルサービスがなかったら寂しい」
 >とかいわれたそうです。

 自分とは遠くへだった世界があって、その世界と通じることができる人(たち)がいる。
そして自分たちの生活を吊り上げてくれている。自分たちの不安は、みんなそのブラック
ボックスに預けておく。だから、自分たちの生活は安泰。普段はその世界のカラクリを詮索
する必要もないしその人たちを疑ったりすることもいらない。それが天皇であったり、ご
教祖さまであったり、ご先祖様であったりする。あるいは、血液型占い(師)であったり、
干支占い(師)であったり、星座占い(師)であったり、風水占い(師)であったりする。

 だけども、例えばご教祖様がいろんな不祥事を起こしたり、自分の生活に劇的な変化が
おこったりして、その世界への信頼性が疑わしくなったりする。その時ひとは初めてブラック
ボックスに預けていた「自分」が問題になるのではないでしょうか。

 親鸞を例に取ると、朝廷から僧である身分を取り上げられ俗名を与えられたとき、自明
(当たり前)であったはずの「仏弟子」であるとはどういうことなのかということが問題に
なったのだと思います。


更に 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 3日(金)21時41分28秒

 私の中に一切の差別心と偏見がないわけでは、ありません。で、4月29日の書きこみは
あらかじめ「私の偏見」ですが、と断っているのですが。その自己切開の上で
 
 作家村上春樹の提起している

 >私たちは何らかの制度=システムに対して、人格の一部を預けてしまってはいないだろう
 >か?

 という言葉で問いかけられている問題にどう答えるのか。

 ヒロさんは
 
 >今の超不景気な時代こそ平凡に暮らせることの大切さをありがたいと私は感謝しています。

 とおっしゃっていますが、「平凡に暮せない外国の戦火の中にあるひとびとのこと」(娑婆
の問題・生臭い話題)を問題にしておられたのではないんですか?

 >お留守居役様さん

 吉本さんは、麻原彰晃を高く評価していたような。。。


あれっ? 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 3日(金)20時24分37秒

 >ヒロさん、お留守居役様さん

 井上嘉浩の詩(概要)を引用しましたが。。。はじめに断っておきますが、私がこの井上
の感性に全面的に共感しているということではありません。これは、去年の7月28日の過去
ログ、Vitaさん(狂信さん)から発信された「村上春樹アンダーグランド」というタイ
トルの書きこみ

 >麻原が「あちら側」で「この世界で個であることの孤独を癒す物語」与えていたと
 >位置づけた上で、読者に提起される問題は
 >あなたは誰か(何か)に対して自我の一定の部分を差し出し、
 >その代価としての「物語」を受け取ってはいないだろうか?
 >私たちは何らかの制度=システムに対して、人格の一部を預けてしまってはいないだろう
 >か?

 というのがあり、そのオウム真理教の若者の意識が捉えられている内容に対して「帰って
きたトラブルマン」という私の7月28日の書き込みで
 
 >要するにぐっと踏みとどまって「あちゃら」漬けにならないことではないでしょうか?

 と、答えているあたりの問題意識と関わってます。つまり、井上から見れば「満員電車に
揺られ」ることが大人の世界の中で「汚れ」てしまうことであり、彼の求道心(超越への欲望)
が、麻原の空中浮揚に代表される「超能力」に向っているということの端的な指摘です。

 こちら側、つまり娑婆で踏みとどまらずに「あちら側」(自分たちの宗教の論理)に立って
しまい「大衆の原像」から離れ、その生活と敵対してしまったが故に、地下鉄でサリンをまいて
市民を殺傷するに至ったということの問題性がどこから生まれるのかということを考えようと
しているのですが。何かとても大切な優れたものに憧れる気持ちを持っていたであろう井上が
何故「殺人」という結果を引き起こしてしまったのか?つまりヒロさんの4月29日の「テロ
とはなんぞや???」への応答でもあるのですが。善意から出発した意識がなぜ憎悪に変わっ
てしまうのか。

 ねこさんの5月1日「あれこれ」でいわれている

 >ルサンチマン(弱者の怨念感情)は地上を厭い、彼方の理想を夢見ます。
 >そして理想の世界から、現実と他者を批判します。

 というご意見に共感していて、それは4月28日、「ぐっちんの違和感」というタイトルの

 >世間の人は、大切な事を置き忘れてその日その日を生きることだけで精一杯で、
 >いたづらに過ごしている。しかし、われらは違う。

 で指摘した、すべての宗教者のおちいりやすい意識を問題にしている流れの中の書きこみ
なのですが?


今ここにある危機 投稿者:ヒロ  投稿日: 5月 3日(金)11時31分35秒

サラリーマンが浄土真宗の教えをわかろうと思い説法を聞いてはいけないのでしょうか!!だれでも偏見は持っているのではないのでしょうか私は偏見と言うよりその人の個性だと思っています。難しいことはわかりませんが坊主を職業とされている方々一番正しいのでしょうか!!そんなことを言っていてはきっと世の中むちゃくちゃになってしまいそうですね!!それこそ偏見ではないでしょうか!!さらに平凡な人生こそ価値があるのだし個人個人の価値観は違って当然です、ですが否定的な人生は送らないほうがいいと思っております!!今の超不景気な時代こそ平凡に暮らせることの大切さをありがたいと私は感謝しています。今生きていることこそが愛があるのだから!!今を大切に生きていかなければと思っております。平凡こそ大切なことなのです!!最後に坊主はそんなにえらいのか!!勉強するのもいいが今の大変な日本の状況世界の状況をもっと真摯にみつめて欲しいものです!!私はここの掲示板が嫌いになりましたので退散いたします今後一切登場しません!!それではごきげんよう!!


最高に価値ある人生 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月 2日(木)21時29分37秒

>満員電車に揺られ、つり革につかまった会社員たちがホームに下りてくる。
>何の希望も無しに毎日毎日同じ事の繰り返し。

こんなすばらしい人生が送れたら最高だと思います。
平凡な日常を繰り返す生活が最高の価値なのだ
というのが吉本さんの大衆の原像という考えの基本にあります。

ぐっちんさんも井上何某と同じく、何か勘違いをしていませんか。


続きの続き 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 2日(木)19時31分07秒

 自殺するか、気がヘンになってしまうか、犯罪に走るか。。。
まあ、それでも生きていかなけりゃならないとしたら。てっとりばやいのは
ダマす側にまわることでしょうね。競馬も麻雀もパチンコも、数学者パスカルの
確率論を引っ張り出すまでもなく、「必勝法」などありえない。

 なかにはパチプロとかいらっしゃいますが。だいたいは、予想屋さんとか
「大工の源さん攻略本」発行みたいな周辺産業に手を染める方が儲かるんとちゃいますか?

 パチンコの神様も、麻雀の神様も、競馬の神様も、そんなんおりまへん。


続き 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 2日(木)19時14分40秒

 話が脱線しました。かつて本願寺の「ごもんじきさま」が地方へ巡業(?)した折り、
遣ったお風呂の残り湯を飲んだら功徳があるというような伝説を耳にしたことがありま
す。けどまあ、今の法主に対してそんな思いを抱いている人は果たして何人いらっしゃ
るのか?創価学会における池田さんとか、統一協会における文鮮明さんとかは、そうい
うカリスマ、生き仏(日蓮の生まれ変わり?)や再臨のキリストと信じさせてナンボで
しょうけど。

 オウムの井上嘉浩という人が書いた詩が印象に残ってます。おおむねこんな内容でした。
満員電車に揺られ、つり革につかまった会社員たちがホームに下りてくる。何の希望も無
しに毎日毎日同じ事の繰り返し。これがおれたちの未来ならうんざりする。。。

 井上はある日、本屋で麻原の空中浮遊の写真が載ってる「ムー」(?)か何かを手にして
こうつぶやきます。「日本にもグル(導師)がいたんだ。。。」彼は、その空中浮遊写真が
ウソだとわかってどう思ったのでしょうか。グルが単なるメロンや焼肉好きのスケベ親父だ
と知って彼の求道心はどこへ行ったのでしょうか。この世を越えた何かとっても大切な優れ
たものにあこがれる気持ち。これを超越への欲望という固くて難しい言葉に置き換えます。

 一切が幻想だ。すべては空だ。そう知った人がなおも、超越への欲望を求めるのかどうか。
それはどういう形をとるのか。『読みとくV』の15講、真仏土の巻き、須菩提の問いは、
そのようなことをめぐる問いなのではないでしょうか?

 おそらく人は絶望して、人間不信になるか、あるいは、「信じられるのは自分だけだ」と
いう「自分神話」にたてこもるのではないか、と思います。


それでもイエスといえるのか? 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 2日(木)18時54分17秒

 ♪恋のからくり 夢芝居。。。

 以前、マスクマジシャンのたとえ話をしてました。マジックのタネ明かしをして、なお人は
マジックを求めるのか?天皇さんもただの人間でした。こういう玉音放送をきいて、真面目に
生きてきた人はどう思ったのでしょう。神風が吹くと信じた人は、皆無だったのか。天皇陛下
は現人神であらせられると信じ、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで銃後の守りについた苦労
は一体何だったのか?まさにハシゴを外されたというのは、この事じゃなかったのでしょうか?

 「新しい神様」というドキュメンタリー映画を2月に荻窪で見ました。雨宮処凛(あまみや・
かりん)という女の子を主役にしたものです。『生き地獄・天国』という本も出てます。中学
時代いじめに遭い、自殺しようと思っていた時ヴィジュアル系ロックバンドに夢中になり、そ
の追っかけをするのですが、いつしかバンドのメンバーの性欲処理としての役割を負わされて
しまってました。で、あるライブで新右翼の作家との交流が始まり、エネルギーを街宣活動に
注ぎ、また右翼バンド「維新赤誠塾」を結成します。

 ぐっちんは、そのバンドのリーダーで男性の伊藤君(だったか?)という人に興味が湧きまし
た。彼はライブ会場で客席に向かって叫びます。「君たちは靖国の英霊に対して、恥ずかしくな
い生き方をしてるか!!!」。つまり、靖国の英霊は、自分のラクをしたいとか、うまいもん食
いたいとかいうジコチューの欲望を捨て、お国の為、愛する家族を守る為、命を賭けたんだぞと。

 映画のエンディングではバンドは解散、伊藤君は新右翼もやめます。ぐっちんはえらく気にな
りました。以前、知り合いの新聞記者に「男の自己愛惜はみっともない」といわれたことを書き
ましたが、それは「男の自己愛惜は商売になりにくい」ということだと思います。飯島愛の「プ
ラトニック・セックス」にしろ大平光代の「だからあなたも生き抜いて」にしろ武田なんとかさ
んの「ファイト!」にしろ、女の子の告白本は「売春・不倫・レイプ・妊娠・中絶。。。」とか
いう「男性遍歴」というか「性」にまつわる話が中心であって、女性の共感を呼ぶとともに男の
スケベ心をそそるので確かに売れます。けど、ぐっちんは男の「思想遍歴」に興味があります。


というわけで 投稿者:らくりん  投稿日: 5月 1日(水)20時04分53秒

明日の夕方から5日まで缶詰めになります(たぶん)。
そしらぬ顔で留守にしようと思っていたのですが……。
ねこさんたちにとっちめられるかもしれません。

ここは、閉めませんがよろしくお願いいたします。


あれこれ 投稿者:ねこ  投稿日: 5月 1日(水)19時06分29秒

ネコです。
ご無沙汰していますが、みなさんのご発言は読ませてもらっています。
ネット上の付き合いだけで姿は見えないのですが、ご投稿の数々を追っかけていると、
みなさんの人となりにふれたような気がすることもあり、楽しませてもらっています。

管理人さんが仰る「伝わる、伝わらないではなくて、伝えたいことがあるかどうか」
という言葉には、さりげなくも直説にふれたような凄さを覚えます。

狂信さんのHPも拝見しました。子供会をやっておられるのですね。これは私の偏見にして
勝手な意見かも知れませんが、子供の会をなさる方には、深い願いを感じます。
そのような会を準備することは、とても手間のかかることであり、しかも、すぐには
果実を期待できない仕事だからです。自分の死んだ後の社会のために、たんたんと大地を
耕してきた方々があり、そのような名の残らない仕事の結果として、いまの自分がある
のだと思います。

最近は、どこかのアジャリやルサンチマン、ニヒリズムといった難しくも、
じっとしておれないような話題が並んでいますね。弱者のルサンチマン(怨念感情)から
天国(神の下なる平等)が捏造されたと主張した作家がいたようですが、その場合にも
天国の捏造はこの世での出来事ですから、やっぱりルサンチマンは徹底して
この世の問題だろうと思います。

かつて平野修先生に4日間の会で、会期中ずっと「あなたたちは負け犬です、
この世界で負けたから仏法を聞き始めたのです」と云われ続けたことがありました。

始めのうちは、ずっと理解できなかったのですが、そのうち私も自分の出発点に挫折が
あったことを認めることができました。「そのようなカタチでしか、私たちは真実に関わる
ことができないのです」と平野先生は云っておられました。

この挫折という出発点を明確にしないと、聞法・求道の全体がルサンチマンの世界に
なってしまうと先生は危惧されていたように思います。

ルサンチマンは地上を厭い、彼方の理想を夢見ます。そして理想の世界から、
現実と他者を批判します。仏教を聞き始めた頃、ある方に「親鸞の悪人という言葉には、
この世界に深い責任を持つという心がある」と教えられました。
その頃はサッパリだったのですが、最近、よくこの言葉を思い出します。

ひとつの場所で、(理想の立場から批判するのではなく)深い責任感を持ち支えている
ものだけが信頼できますし、そのようなものにふれることで、初めて私に懺悔が生まれる
のだと思います。

おそらく人間はルサンチマンに陥らずには済まないのでしょう。(四苦八苦によって、
かならず挫折するのですから。)このルサンチマンが内攻し、そこからあらゆる文化が
生れたという主張もあります。現実からの逃走としての人間世界という見方です。
すべての文化がそうであるかはわかりませんが、ある程度、妥当性のある主張だと思います。

いずれにしても現代の世界はルサンチマンに満ちています。
私は浄土とはルサンチマンが生んだ虚構の世界ではないかと思ってきました。
しかし、それは怨念からのひるがえしを可能にする願いの場所なのだ、
ということがわかってきたような気がします。

浄土真宗はルサンチマンからの解放を可能にする宗教だ。
そう云って、よいのではないでしょうか。

天皇制とニヒリズムについての意見は、また今度にします。
この問題は、私にとっても他人事ではありません。(たぶん、みなさんにとっても。)
かつて「美による世界の救済」という狂気めいた考えに取り付かれていたことがありました。
おそらく急進的な天皇制論者でも、もはや宗教的絶対者としての天皇を夢見ているのではない
と思います。彼らが考えるのは、絶対者の影としての美的天皇でしょう。
そこらが現代人にとっては、精一杯のところだと思います。

宗教の影としての美的感覚。
大都会では、あいかわらず印象派などの絵画展が人気のようですね。
漫談になりそうです。ごめんなさい。またにします。

この連休は、らくりん先生の教えを受けます。
どうか、よろしくご指導ください。


【紹介】 投稿者:らくりん  投稿日: 5月 1日(水)09時06分36秒

個人宛てにメールが届きました、紹介されたページを読みましたところ、
ネット上の情報に対する重大な問題が含まれていますし、
また、発信者は、この情報が広く公開されることを望まれておられるので
URLをご紹介いたします。
事は本願寺派で発生した問題ですが、ネット利用者全体にかかわってくる問題
であると思います。

http://www3.justnet.ne.jp/~tanahara/ayu001.html


「玉」に、煩悩、有りや否や 投稿者:狂信 ☆彡  投稿日: 5月 1日(水)08時36分59秒

赤坂憲雄さん「象徴天皇制」についての本を、まえによんだ。

南北朝の政治権力を失っていく時点から、
歴史を下って、今現在の象徴天皇制が完成。

天皇戦争無責任論にあるように、純粋無垢なる空虚な中心を仮設することで、
政治・政策の責任を曖昧にしていく日本型政治システム。

そんなこと、いってた気がする。

この仕組みを利用、放置して、日本統治を容易にしたのが
敗戦時の占領軍であり、今の米国ってなことになるのかな。

日本は宗教的にも象徴天皇制の支配下にある。
だから、坊主に求められているのも、この人畜無害、無気力なる人間像なんだろう。

けど、どう考えても煩悩成就の教えとは、背反している。
から、法主だって、「ワシだって人間じゃあ」っていいたかった。
それぐらいのことでしか、ないじゃあないだろうか。

人間、クソして寝るだけ。そーかわらん。
表も裏も虚仮不実ですもん。ねぇ、親鸞さん。


博打の根本義「タマを当てる」 投稿者:薄野小魔王  投稿日: 5月 1日(水)05時54分06秒

 博打の根本とは、基本的にただ一点の当たり目を読み、その目に己自身を委ね「当たる」という事実そのものに向かっているかどうかが問われます。自分の賭けた目が当たり目と違っていれば極端な話「死」を意味するのです。即ち、いろんなギャンブルがありますがその基本は「丁か半か」の二択に大別され、どちらか片方の目が当たり目となることに己自身が「殉ずる」ことができるのか否か、ここに博打の根本義があるのです。ただ、人間である以上100%当てることは不可能です。それでも「タマを取る」にはどうしたらよいのか。そうなるとやはり面倒でものごとの道理、定跡(定石)をたずねることに到達せざるを得ないのであります。そもそも、例えば将棋や囲碁、或いは麻雀において、第1手目はこう指す、打つと必ず勝てるとは中々言い切れない。けれども「タマを取る」ということにターゲットを絞ると、将棋においては先ず「飛車先を突く」か、「角道をあける」の二択にほぼ絞られてくるわけです。すると毎日の生活そのものが自己の慢心、惰性との決戦ということになっていくのです(ほぼ毎日敗北していますが…)。メジャーリーガーのイチロー選手でさえ10打数4安打という成績を残すのは難しいというのに、ギャンブルにおいて百発百中いや一発必中にどこまで近づくことができるのか。それでも昨年末、わたしはサンピアザ(新札幌駅に直結しているショッピング街)のくじ引きでくじを引いたら一発で「金の玉」がでてきて「2泊3日・東京ディズニーシーの旅」が当たりました。どうして当たったのか、当たるべくして当たったのか、愚かなわたしには分かりません。ただ、いま言えることは「ものごとの真理」をどれだけ理解できるのか?「一発必中」を志向し日々是決戦です。
 参考文献 福本伸行「アカギ」第7巻(竹書房『近代麻雀コミックス』) 


大審問官の章 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 1日(水)01時31分20秒

 狂信 ☆彡さんのお名前を拝見するといつも連想してしまう、『カラマーゾフの兄弟』。
さて、舞台は16世紀のスペイン。凄まじいばかりの異端尋問が横行していた時代でした。
そこに、タイムスリップ(?)をしたイエスが姿を表します。

 異端尋問官はイエスを捕らえて詰問します。お前は昔、荒野でサタンの誘惑を退けた。
(そのひとつの答えが有名な「人はパンのみに生くるにあらず」)けれど、それは正しい
ことだったとは思えない。なぜなら、お前は人間に「信仰の自由」ではなく「自由な信仰」
を求めた。つまり、奇跡や呪術などによらない内面の信仰を。

 人間はおよそ「自由な信仰」などで生きれるほど強い存在ではない。そんなものを持とうと
したら人間など、現実の生活を超えた、何かとても大切な優れたものに憧れる気持ちを失って、
ニヒリズムに落ち込んでしまうだろう。だから私たちは、奇跡と秘儀と教権の上に現在のキリ
スト教を築いたのだ、と。

 サンケイ新聞の論調とか、保守思想家、例えば亡くなった江藤淳とか、西部邁とかは「開か
れた皇室」みたいなものを拒否しています。日本における聖なる者、この世をはるかに超越した
者の存在のからくりを暴いてしまったら、この世の中には何の生きる意味も無いというニヒリ
ズムを呼び寄せてしまうのだ、と。

 けど、まあ天皇制廃止云々の前に、現実にこの国にはすでにニヒリズムがずいぶん進行して
しまったような。。。


宗制寺法第115条と句佛事件 投稿者:薄野小魔王  投稿日: 5月 1日(水)01時27分00秒

 「僧侶は三宝に衣食し終身教義に従事するを本分とする」
この定めを破って炭鉱、綿花栽培などの営利事業に手を出し、大借金を背負って法主の座を追われ、一時は僧籍すら失ったのが東本願寺第23代法主・無量徳院釈彰如、句佛上人であります。ただ、句佛上人が何故営利事業に手を出したのか、このわたしの疑問に答えてくれている書物をわたしはまだ見たことはありません。本山再建などで疲弊した東本願寺財政を何とか立て直そう、という純粋な想いであったとはいわれますが、それだけでなく句佛上人の眼差しはもっと遠くに、ものごとの痛切な真理に対する抵抗であったように思えるのです。宗教教団が成立し持続することを可能にする根拠というのは、信者による見返りを全く求めない「お布施」以外には成り立たないという事実。「構造改革」「ワークシェアリング」等がいま叫ばれていますが、僧侶の収入源は、釈尊が世に出興されて仏教を説かれた約2600年前からいまの世に至るまで、全く変わっていない、変わらないという事実に対する抵抗であったとわたしには思えるのです。真宗門徒に多大な負担(寄付)を強いることがなく東本願寺の財政基盤が成り立つことが可能なのか否や、この問いに対する格闘を句佛上人はされていたんではあるまいか、と愚考するのです。そしてわたしも、ほぼ毎週ススキノWINS或いは札幌競馬場で「タマノミナモト」を志向し格闘しているところです。因みに「タマノミナモト」とは、言い換えると本山に掲げられている「帰ろう もとのいのちへ」という言葉の「もとのいのち」に該当します。また、前回の書き込みの題名「鬼燈」は「ほおずき」と読みます。最後に敢えて「暴言」を吐かせていただきます。それは、句佛上人は前門台下(光暢師)が生まれたとき、その顔を見てすぐにこの赤子が「最後の法主」になることを予見されていたのではないかと思います。それでも「蘭に似よ菊に似よとて育てんか」と詠まれた真意は「法燈の護持」という一念であられたと思えるのです。ですが、いまの真宗大谷派(東本願寺)宗門は「真宗同朋会運動の推進」を掲げながらも、句佛上人の真意「法燈の護持」から何か(具体的には次回)「逸脱」しているように思えてなりません。それでは失敬。


大阪の町人学者 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 1日(水)00時53分11秒

 『日本思想大系43富永仲基・山片蟠桃』という本があります。二人は江戸時代、大坂に
あった町人の漢学塾、懐徳堂で学んでいます。山片蟠桃(やまがた・ばんとう)のほうは、
大阪府が外国人で日本文化の優れた研究者に贈る賞の名にもなってます。大坂の裕福な商家
・升屋の番頭さん(支店長?)をしていたところからネーミングしたようです。

 まあ、山片のほうはベースは朱子学ですけど、すさまじいばかりの合理主義でもって仏教に
批判の矢を向けます。(『夢の代・異端』)富永のほうは、神道・仏教のみならず、儒教にも
その鋭い舌鋒の矛先を向けました。(『翁の文』)有名な大乗非仏説のさきがけは『出定後語』
に出てきます。

 「学者」のことを「スカラー(scholar)」といいますが、元は、学校を意味するスクール(school)の語源となったギリシャ語の「スコレー」から来ています。(ラテン語ではスコラ
が学校の意)ギリシャ語の「スコレー」は、本来は、「暇(ヒマ)」という意味です。

 まあ、学問するには、お金があって暇がなくちゃできないんですね。でも、山片らの学問は
単なるオタクというより、当時の社会では危険思想とも写ったようです。富永のほうは、実際、
破門されてますし。何か、『読み解くX』を精読していたら、内部から食い破るような仏教
批判をしていたのが、親鸞さんでありますね。けど、鬼神ってえのは、まさに仏教徒を自称して
いる私らのことではないでしょうか。読んでて辛くなりますね。


「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」 投稿者:狂信 ☆彡  投稿日: 4月29日(月)20時59分15秒

という長い題名の本(モフセン・マフマルバフ 現代企画室)を読みました。
ブルカを抑圧の象徴として否定するなどアメリカ(?)のアフガン侵攻と占領政策に、なにか影響を与えたようにも思いますが
あのとき、仏像破壊に対する抗議はしても、アフガンの貧困の構造には目を向けていなかった私たちを、痛烈に批判しています。

「石仏は崩れ落ちることで瀕死にある国を指した。だが、誰もそれを見なかった。愚か者は、あなたが月を指せば月でなくその指を見るのだ」

仏教は世俗を離れ、逃避することを教えるのではないと思います。
でも、そうなりがちですよネ。ホントに。


ぐっちんの違和感 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月29日(月)15時55分10秒

 @サラリーマンというか会社員の方というか社会人の方が、仏教を学ぶということに対して
ぐっちんは何だかこういう具合なイメージ(偏見)を抱きます。

 現役引退というか、定年後というか隠居後というか、ともかく老後におけるタシナミみたい
な感じで学ばれること。あるいは、余暇における余技みたいなもの、趣味みたいなもの。盆栽
いじりみたいなものとして学ばれる事。(盆栽ファンの方失礼!)だから娑婆っ気がある問題
については沈黙というか不問というか、留保したいという気持ちにつながるのじゃあるまいか。

 Aぐっちんを含む職業宗教家が説く、仏教に対しては、こんな風なイメージを持ってます。
 
 世間の人は、大切な事を置き忘れてその日その日を生きることだけで精一杯で、いたづらに
過ごしている。しかし、われらは違う。ほら、あなたにも何か不安はあるでしょう?心配事は
あるでしょう?今はなくても、備えあれば憂い無し、いつかはあなたも死にますよ。その備え
を、われわれが提供して差しあげましょう。あなたの時間とお金をわたしたちに少し管理させ
て下さいな。(フィナンシャルプランナーの方、ごめんなさい!)

 親鸞さんの嘆き。定聚の数に入るのを喜ばない。恥ずかしいことだ。痛ましい事だ。という
のはどういうカンジなのかな。@と違って、わしゃまだまだ自分のことは自分でやれる、現役
や、そんな年寄り臭いことはまだ先のこと、いっしょにされたくないわ、ということかな?
う〜んわかりません。


テロとはなんぞや??? 投稿者:ヒロ  投稿日: 4月29日(月)15時27分11秒

私は最近、アメリカのブッシュ大統領が言うテロということに大いに疑問に思い反対しております!!あれはあきらかにアメリカのエゴに他ならないと思っております。アフガニスタンにしろイスラエルや中東問題、北朝鮮、イランなど名指しでテロ扱いしています!!アメリカこそ侵略者でありテロリストではないでしょうか!!なぜ人間は憎しみ合い戦争をするのでしょうか???悲しいことです!!もっと平和を考えてほしいものです!!イエスキリストは平和の君なのだから!!仏陀もそうだと思いますそれにモハメッドだって平和を愛しているはずです!!だれかこの疑問に答えてくださいお待ちしております!!戦争反対!!!侵略反対!!!


逃亡新聞五月号より 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月29日(月)12時56分12秒

 >ヒロさん

 どうもです。こんなとこでお会いするとは。私はまあ、どこにいても相変わらずやってます。
この掲示板でも「みんなのいじられキャラ」で活躍してね。

 韓国は元気そうですね。新しい世代がどんどん交流を深めて新しい時代を築いていけばいい。
新しいぶどう酒には、新しい皮袋が必要。古い皮袋には、YKKのような「かむファスナー」
がちょうどお似合いだ。ほころびをさらし続ければいい。今に誰も相手しなくなるから。
 深キョンの「フレンド」(日韓合作)のようなドラマも面白かったし、BOAみたいな韓国
人のシンガーも日本のミュージックシーンで活躍してる。後ろ向きは、まっぴらゴメンです。

 あ、そうそうおじきさんがいつぞや、ぐっちんに対して「ルサンチマン」などという懐かし
い言葉を投げて来てました。ドイツの哲学者ニーチェから見れば、キリスト教は奴隷道徳。負
け犬の遠吠え。この世で勝利者として適応できなかった者がその悔しさを「あの世の次元の話」
を持ち出して、復讐しようとする論理。

 だけど、勝ちつづけるのが必ずしもよいことじゃないよ、星野タイガース。ときにはお休み
も必要だ。大型連休はちょっと困るけど。自分の「痛み」や「弱さ」をしっかり見つめ直す為
のいい機会。うん。若手が育ってよかった。

 自分の人生は、誰か他の者に譲り渡すものなんかじゃない。後ろめたい事、やましい事が
例えあったとしても、誰にもつけこませたりするもんじゃない。自分に罪があってもそれは
「自己に背く」罪なんであって、安易な贖罪(罪滅ぼしの方法)なんてものはありえない。
だから、他人のいいなりになって丸め込まれる必要性なんかまったくない。そうなんだ!


はじめまして 投稿者:らくりん  投稿日: 4月28日(日)21時54分35秒

>ヒロさん
はじめまして、このところ「名ばかりの」状態になってしまっていますが、一応
管理人のらくりんです。
なんでもありのつもりですので、書き込みなりROMなり、
それなりにお楽しみください。


はじめまして!! 投稿者:ヒロ  投稿日: 4月28日(日)21時01分57秒

私は全くど素人の者です。キリスト教を信じてましたがわけあって真宗に帰依しようと思っております。ここの掲示板ははじめてですがおもしろそうではまりそうです!!話しは変わりますが去年ぐっちんさんと坊主バーで知りあったのですが、いろいろと影響を受けました。それでますます仏教がおもしろくなりもっと真宗のことを知ろうと勉強してる今日この頃です。ところで、ぐっちさんは現在は何をされているのでしょうか???ぐっちんさんお住まい決まったらご連絡ください!!東京最後の夜にぐっちさんこの間はごめんなさいご迷惑をおかけしましたこの場を借りて誤りますすいませんでした!!そちらでもご活躍されていることと思います!!また合えたらいいですね!!今度又くだらない質問を投稿すると思いますのでプロの皆さん教えてくださいよろしくお願いします!!それじゃ、また!!


補足の補足 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月28日(日)06時57分06秒

 ヘッドギアで一致させる脳波のようなものが
真宗で言う「如来よりたまわりたる信心」では、まったくない。


ソウルより愛をこめて 投稿者:Genko  投稿日: 4月28日(日)06時44分44秒

みなさん、アンニョン ハセヨ! お元気ですか?
今日は、ちょっくらイレギュラー出演させてもらいます。
私は今、ソウル市内のミョンドン地区にいて、安宿をとっています。
23日に成田を出、光州(クアンジュ)へ向かい、3泊してから、
昨日、特急セマウル号にてソウル入りしました。
二十数年ぶりのソウルです。
あまりの変貌ぶりに、すっかり面食らってしまった。
え? なんで急にそんなところに出没するのかって?
別に、必ずしも将来の夜逃げ(日本脱出)の予行演習をしているわけではありません。
光州にいる私の韓国人の友人が、たまたま「新井英一ライブツアー」の興行主であるため、
招待されたからなのです。
25日の光州ライブは、予定を大幅に上回る大盛況でした。
前夜の地元の韓国人と日本人との交流会はとても感動的なもので、
一足先のちょっとした文化版「ワールドカップ」の様相でした。
これは、初めておそるおそる入った「PCバン」(=韓国版ネットカフェ)の、
ハングル文字だらけのパソコンから発信しています。
それにしても、韓国はもうすっかり日本と一緒ですね。
この辺を歩いていると、一瞬、新宿か原宿近辺かと錯覚するほどでした。
昔のあの暗い、どこもかしこも緊張していた時代のソウルとは、隔世の観があります。
しかも、こっちの若者は、日本の若者たちとは段違いに元気印だ。
何でもありの、恐るべきパワーです。
群集にまみれて、私も思わず韓国の人たちから、元気をもらいました。
明日は新井さんのソウルコンサート。さて、どれだけ盛り上がるのかな?
用事が山積みになっているため、私だけは30日に、成田に帰ります。
カムサムニダ。アンニョンヒ ケセヨ!
私事で失礼いたしました。


誤解する自由・補足 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月28日(日)06時41分12秒

 オリジナルがあってそれをコピーすることができる。そういう発想。
ある思想なり信仰なりを、忠実にコピーをとるように移植できるのかどうか。。。

 歴史上の人物、ゴータマ・シッダルタの真正の発言という「説教」が
発見されれば、それが「本物」であり、「正解」であるのかどうか。。。

 ゴータマさんの死後、まもなく成立した「お経」の方が、後の時代に成立したもの
より「価値」があるのかどうか。「インド」で成立した「論」や「釈」の方が、中国
や中央アジアで成立した「経典」よりも「価値」があり、それを学んでいる者の方が
「偉い」のかどうか。。。


身悶えの必要性 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月27日(土)15時32分24秒

 今は昔。京都の大○百貨店の裏に統一教会のアジトがあり、ビデオを使った洗脳が
行われていました。ぐっちんは、受付のおねーちゃんが可愛いので危険を知りつつも
足繁く通っていました。

 さて、そこの教えによると韓国は神の国であり、日本はサタンの国であるそうです。
また親もサタンであるのです。だから、親とは縁を切り、救い主・文鮮明の選んだ伴侶
と罪を負ってない子供たちをつくる。サタンの国・日本人からは霊感商法などで壷や珍
味を売りつけ騙しても全然平気なのであります。

 真面目な青年なら、近現代史を学んで日本の政策の誤りに後ろめたさを持つだろうし、
あるいは「セックス(性)」に対していけないことと思っていると「清らかな男女の交わ
り」なんてことに惹かれて入信するんだろうな。とんでもない勧誘方法だな。

 けどこのような後ろめたさ(罪概念)を利用して入信させるやり方を真宗がとらないか
というとそうでもない。この統一協会のような罪概念と真宗でいう罪とはどう違うのか。
そこがずっと引っかかったまま。。。


誤解する自由 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月27日(土)15時11分11秒

 15、6年前橋爪大三郎という社会学者が、『仏教の言説戦略』だったかで、仏教という
のは言語派社会学から見て何なのかと言う事を説いていました。ズバリ仏教とは「釈迦の
悟りを尋ねあうゲームだ」と。

 ああ、それだった。例えばぐっちんがどんなことを考えたって他人様には、全く同じことは
伝わらない。脳と脳をケーブルでつなぐわけにもいかないし、圧縮してメールで送れるもので
もない。そんなことを考えているのだったら、尊師のDNAを飲んだり、ヘッドギアで脳波を
一致させる発想と変わりないですよね。

 三吉さんやおじきさんの「原始仏教」や「歴史実証主義」へのこだわりがおかしく思って
いたけども、自分もまた形こそ違えど、同じ発想でしたね。。。


二十一世紀騎手 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月27日(土)14時31分25秒

 抜かれて、すみません。


気がつけば 投稿者:らくりん  投稿日: 4月27日(土)14時05分54秒

カウンターが、50,000ヒットを越えている。


とにかく、よろしく。 投稿者:らくりん  投稿日: 4月27日(土)00時20分41秒

>kekoさん お久しぶり。
今回のメンバーはなかなか多彩でどういう展開になっていくか見ものかも、ですね。
どうなっていくことやら。


先日は 投稿者:keko  投稿日: 4月26日(金)22時58分11秒

ありがとうございました
今回はお食事までご一緒してしまいました

ぐっちんさん、おじきさんとも始めてお目にかかれた
楽しい時間を過ごさしてもらえました
ロムばかりなんだけど、どんな方なのかと想像していました
なんとなく思っていたような感じの方たちでした


優しい歌 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月26日(金)14時00分50秒

 誰かが救いの手を 君に差し出している
 だけど今はそれに 気付けずにいるんだろう
 しらけムードの僕等は 胸の中の洞窟に
 住みつく魔物と対峙していけるかな
 一吹きで消えそうな 儚い願い
 言いかけて飲み込んで 恥ずかしくなる
 優しい歌 忘れていた 誰かの為に
 小さな火をくべるよな
 愛する喜びに 満ちあふれた歌 (ミスターチルドレン)

 
 生きる意欲を失いかけている人々に仏様の願いを声を想いを届けておくれよ
 ねえ、大アジャリさま


千日前の千日堂 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月26日(金)13時44分54秒

 今は昔。かれこれ10年以上前の話?比叡山をひとりの女子大生がハイクしていました。
彼女は山中で襲われ殺されました。その犯人。それは、比叡のお山のあちこちにテントを
張って生活していたホームレスでした。食べ物がなくなると京都の町に下りてきてゴミ箱を
あさるという生活。ふもとに住む人たちのあいだでは少しばかり知られた男でした。

 この話には後日談がありました。それは、ぐっちんがたまたま付けていたTVで知った事
です。延暦寺でみごと千日回峰をなしとげ、アジャリさまとなっておられた某師がインタ
ヴューに答えていました。「あの男は、たびたびわたしのもとに来て、弟子入りを申しで
ていました。けれどわたしは、男が修行に堪えうる器でないことを見抜き断りました。や
はり、あの男がこんなことをやらかしましたか」。。。

 アホか!大アジャリ!ホームレスのおっさんがみすぼらしい格好してうろうろしてたら
誰でもあやしい奴やぐらい解かるわい!修行を積んで大アジャリになったあんたが仏力か
なんかで、おっさんの未来を見通して「こいつを今、預からなければ将来大変なことになる」
といって弟子入りさせるのが本当のアジャリやろが!

 ぐっちんの聖道門に対する不信はこの一事で決定的になりました。千日回峰いうて死を
賭した修行の果てがこのザマか。。。もちろん浄土教の中にもこの手の師はいるでしょう。
そして浄土教以外にも立派なお坊様、信者の方もおられるに違いない。けれど、「修行」
みたいなんで悟れるワケがない。このことは確信しました。

 ぐっちんのいた坊主バーは、大阪ミナミの千日前という場末にありました。そこで酔
客を介抱しながら、いや客に逆に介抱されながらクダまいてました。「山ん中をぐるぐ
る回るぐらいで悟りが啓けるんやったら、とっくに比叡のサルは悟っとるわい。わしな
んか毎晩世界が回っとるわい。。。。」


生か、夢か 投稿者:モモ  投稿日: 4月26日(金)08時33分17秒

 掲示板やML、メールなんかでその人のことを想像し
どういう人なのか、思いをめぐらす。匿名性と即効性という
パソコン上での出遭い。それが、実際に会うというのは
どういう感じなのだろうか。
そういう出遭いかたで、結婚される人が増えてきたというけど
どういう感じなのだろうか?世間では、傷つきたくない症候群で
感情を隠すような仮面をかぶって人と一定の距離をもって関わって
いる中で、ホントの自分は誰なのか?そういう心のほとばしりを
パソコン上で訴えかける。これが、ホントの気持ちなのか。
前までは、パソコンでの発言は無責任になるかもしれない
と思って負の部分を考えていたが、自分が関わるようになり
それよりももっと深い部分があるのではないかと思えるように
なった。


生 体験 投稿者:らくりん  投稿日: 4月25日(木)18時21分18秒

死生さん、お久しぶりです。
生ぐっちんさんの連ちゃんしてしまいました。生おじきさんも経験してしまいました。
ぐっちんさんは顔見た瞬間にあっこの人だとわかりました。
顔と名前が一致していなかっただけで、やっぱ以前に会ったことがありました。

東京はまだ1ヶ月も先ですね。まだ、東京のことはほんの頭の片隅にしか
入ってきていません。
それまでに、生ねこさんも経験することになるだろうと思います。
ご両人、お目にかかれるのを楽しみにしています。お手柔らかに。


>死生さん・モモさん 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月25日(木)16時49分38秒

 え〜と、伝わって欲しい「想い」は、なかなか伝わっていかず
どうでもええような「データ」だけが、漏洩しちゃったりなんかする訳で。。。

 意味は「受け手に生じる」。。。まあ、ぐっちんが他人様のアタマやココロを
改造するわけにもいかないでしょうが。

 都会に住んでても「ワン切り(でたらめにかけてくるのかもしれませんが)」
とか「理想の彼女に会える!」とかいうダイレクトメールが届くようなわずらわしい昨今です。


なにわ何でもビートルズ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月25日(木)15時45分41秒

 Nowhere Man                居場所のない奴 
Lennon/McCartney              レノン/マッカート二ー

He's a real nowhere man          あいつはホンマ 居場所のない奴
Sitting in his nowhere land        おのれの けったいな世界に閉じこもって
Making all his nowhere plans for nobody  誰の為でもなく何やワケわからん考え練っとる

Doesn't have a point of view       何か持ってる ちゅう訳でもなく
knows not where he's going to       あてがある ちゅう訳でもなし
Isn't he a bit like you and me?      あんたもわたいも少しあいつに似とんちゃう?
Nowhere man please listen         居場所のない奴よ,聞かんかい
You don't know what you're missing    お前は何か見落としとるんやないか
Nowhere man, The world is at your command 居場所のない奴よこの世の中はお前次第なんや

He's as blind as he can be        あいつはとことん勝手なやっちゃ
Just sees what he wants to see      自分の見たいモンだけ見とぉる
Nowhere man, can you see me at all    居場所のない奴よお前にわいは見えとるんか?

Nowhere man don't worry          行き場のない奴よ,心配せんでええ
Take your time, don't hurry       気楽にやったらええねん,焦らんでええ
Leave it all till             誰かが手ぇ貸してくれるまで
somebody else lends you a hand      何かもほっとけちゅうねん


物真似王者決定戦 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月25日(木)14時54分44秒

 生はやっぱりいいですね。息使いが聞こえてくると、その人の息(プネウマ・たましい)
を感じ取れるような。。。

 さて、コージー富田というモノマネ芸人さんがいます。もちろん、極めつけはタモリ。
タモリがこういうネタでさんまとしゃべったら、こう答えるだろうというような芸を披露
します。仕草や声だけでなく、感性というか思想というか考え方まで「模写」してしまう。

 また他の例をあげると。。。「一度でイイから見てみたい 女房がへそくり隠すとこ。
歌丸です」。本当の歌丸さんが笑点でそんなことをいったかどうかは、わからないのだけど、
ウタさんならそう詠むかも知れない、というとこがミソです。

 コロッケも面白い。ちあきなおみのモノマネ、「喝采」。♪いつものよーに 幕があーき
ってそんな低い位置から歌えへんやろって思いつつ、よう似てるなー、おもろいなーってかん
じ。野口五郎にいたっては、「私鉄沿線」をうたいつつ、鼻くそをほじり、そのほじった指を
舐めたりなんかします。絶対にそんなことありえないのですが、なんかさもありなんって感じ。

 週間朝日に載ってる山藤章二の「似顔絵教室」なんかにもその類はありますよね。下駄だけ
書いてあって渥美清とか。さて、わたしは何がいいたいか。

 大乗非仏説というのがあります。大乗仏典は後世の人々のでっちあげ。釈迦直説ではないと
いう説。浄土教は仏教なのかという問いに対して、歴史実証主義みたいなもんを持ち出すと、
そりゃ確かにお釈迦様がほんまにしゃべったお説教とは違うでしょう。でも、らくりんさんが
おっしゃるように大乗仏典を創作した人々は仏教徒であり、確かに彼らの中には仏陀釈尊の教
えが伝わってきていた。そして、彼ら(彼女ら)が出会った釈尊はこういった場面ではこう
教えたことに違いないと。それが、浄土教として結実したのだと。

 まあ、「歴史のゴータマ・シッダルタ」は何をしゃべったのかわからない。で、いろんな
お説教が釈迦の名を冠して残っています。けれど大事なことは、その経典によってあらたな
仏弟子が生まれてくるかどうか。生まれてこない仏典はただの書籍。文化財、文献に過ぎない。
そういう経典は「龍宮に入った」といわれるのであります、と。

 私は、らくりんさんからこのように聞かせてもらいました。。。


楽しかったです。 投稿者:おじき  投稿日: 4月25日(木)02時42分06秒

「タマビッグホープ」や「ミナモトマリノス」という馬なら知ってますが、
「タマノミナモト」と言う馬は知りませんね。でも競馬はとっても面白いですよ〜

死生さん、昨日僕はぐっちんさんと共に京都教務所で一足早く初めてらくりんさんに
会う事ができました。素敵なおヒゲとやさしそうな目をしていらっしゃる方でした。

漠然とテキストを読むのではなく、テキストの作者にとって何が問題になっているのか、
その問題意識がどれだけ人々の関心を引くか、あわせて自分の問題意識も確認しながら
読んでいく事で、ある日突然何かが啓けて来る事もあるのですね。今日は楽しかったです。


タマノミナモト??? 投稿者:死生  投稿日: 4月24日(水)23時50分16秒

>薄野小魔王さん
>わたしが宗制寺法に違反する罪を犯してまで中央競馬をやっている意図は、博打における「タマ ノミナモト」を知りたい、という一点であります。言い換えると、「マナ識」を志向しているこ とになるはずです。それではまた。
というのは、洒落ですか?
らくりんさんの解説によって、何とか、おっしゃることが(おぼろげながら)見えるようです。
とにかく、ご自身の現況(大谷派僧侶:浄土真宗坊主)を嘆いているのですね。
わかります、わかります!そりゃあ嘆かずにおれようか、というものですもんね。
ただ、ご意見は(何処の世界か?)トリップしているようで、頭の弱い小生には
解読不可能のようです。何か危険なことを企む御仁かと思われました。
誤解であれば、いいのですが・・・。
「唯識」って・・・そんな学問やったんかなぁ。
また、書いてください。


いなか 投稿者:死生  投稿日: 4月24日(水)23時24分24秒

いなかのそういうのが、(何でもバレる、噂される)
イヤでイヤで・・・東京にまで逃れてきたのですが。(現在、千葉県)
若かりし頃、自分の生まれた街(村です、ハイ)から、
飛び出すことばかり考えていました。

現在。
昨日、近所のスーパーに愚息と連れだってお買い物に行ったところ、
近くのご門徒さんに声をかけられました。
なんだか地域に溶け込めたような気持ちになり、
とってもうれしかった。(大げさ!)

田舎から出て、また田舎を求めている。
有名に息苦しかったのに、
有名になりたがっている。
人に、見せたいものと見られたくないもの。
うまいこといくなら好し。
いかないから悪し。
どちらも周りの目を気にして、
いるばかり。

▼ぐっちんさんのパクリ
♪あるがままのこころで 生きられぬ 
 弱さを 誰かのせいにして 過ごしてる
        (ミスターチルドレン)

そういう自分であります。

>らくりんさん。ご無沙汰です。5月20日、真宗会館に行きます。
 初らくりんさんは楽しみですが、何しろ不勉強で・・・。
 眠らないよう、体調整えて参加します。(運動するわけやないけど)
>ぐっちんさん。久々の大阪生活いかがでしょう。
 夏には道場(建物)完成しますので、遊びに来てください。
 と、息子が言うてます。
 
以上、私事、失礼しました。    


田舎の閉鎖性 投稿者:モモ  投稿日: 4月24日(水)08時21分18秒

 山と川に囲まれた所に引っ越してきて1年少し経ちます。
それまでは、隣に誰が住んでいるのか全く分からないし
分かろうともしなかった生活がありました。
ところが、田舎では「異邦人」として、どうしても
注目を浴びます。近くのスーパーで買い物していたら
翌日あの店にいたでしょと言われてビックリしたり。
まぁ、都会には皆無の触れ合いがあります。それが、
疲れる人にはホント苦痛でしょうね。小生も、たまには
一人にさせてとイロイロ用事を作って家出をします。
でも、煩わしいけどそれが何か良いもんだなって
感じる事が最近あります。
ナーバスになっても仕方ないジャン。


懺悔の値打ちも有る? 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月23日(火)23時19分07秒

 『読み解くW』で新たな発見。救い主アミダ様の方便は、法性法身をすてて名号となられた
こと。教え主おしゃか様の方便は、初めから大経・十八願を押し付けるのでなく観経・十九願、
阿弥陀経・二十願の教えを勧めたこと。これに気付くまで十ヶ月かかった。。。

 さて。人はどこまでも身を捨てなければ救われないのでしょうか。一億総懺悔の必要性。
社会学者、宮台真司の『まぼろしの郊外』だったか、被差別部落出身の友達にあこがれ自分
も重い宿命を抱えたいという男の子が出て来ます。またぐっちんが入ってた海外援助のNP
Oの機関紙に「○○国の若い人たちはうらやましい。何故ならとても貧しいにもかかわらず、
これから自分たちの努力で国をよくしていこうという目標があるから。わたしなんか恵まれ
過ぎていて何もやることがない」なんて感想を書いてた女子大生がいました。

 ♪しあわせ過ぎて 大切なことが 分かり辛くなった 今だから 歌う言葉さえも
見つからぬまま 時間に追われ 途方に暮れる  (ミスターチルドレン)

 ここんとこご無沙汰のダラブチさんがどこかで書いておられた。「ダラブチは世間知らず」
だといわれる、と。世間知らずだったら、世間を知る為に何かせんならんか?近頃は学校の
先生も研修で百貨店とかの売り場に立たされ接客を勉強させられるとか。

 民主カンプチアのポルポトさんは政権を取ったとき、知識人たちを農場あたりで強制労働
させたという。ぐっちんなんか、名も無く貧しく美しくもないからいいものの、権力なんか
が転がりこん出来たら、ポルポトさんと同じ事をしたかもしんない。「この苦労知らずの
インテリめ!不労所得者め!ちょっとは貧乏人の苦労も知りやがれ!」って粛清しただろう
なー。

 なんかちょっとちゃうなあ。「わたし悪くないもーん」とか「ぼくちゃん、おてては奇麗
でちゅ」というのもヘンだけど、「みんなオイラが悪いのさ」ってぇのも機の深信の意味の
取り違えかも知れない。。。それぞれの人生で課題があるはず。。。


有名性と匿名性 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月23日(火)13時17分57秒

 売れっ子になる。どこに行ってもキャーキャー騒がれる。こういう人気者になってみたい
と思った時期もある。田舎のお寺に奉職したとき、住民がみんな檀家さんでした。道を歩く
のにずっと頭を下げていなくてはならなかった。すれ違う人、すれ違う人みんな知り合い。
飲み屋にいってもママが檀家さん。さんざん素を見られた翌日、お逮夜まいり。息がまだ臭く
顔が赤いままで、仏壇に向かってお経をあげる。振り向いてママさんの顔が見れなかった。

 村のよろずやさんで大根を一本買った。翌日お参り先で、「きのうフロフキ大根にした?
それともおでん?」これでこの村がイヤになっちゃいました。誰にも自分が、知られてない
土地で思いっきりハネを伸ばしたいなんてこと時には思いますよね。

 以前、5年ほど前だったかN●Tデータ通信のCMだったか、こんなのがあった。ある
ビジネスマンが空港の窓口へ駆け込み、チケットを買おうとする。すると、窓口の女性、
行き先を知っていてチケットをくれる。飛行機の中でも、機内サービスの女性が自分の
好みのドリンクを先に注いでくれる。飛行機から降りてタクシーを捕まえると、これまた
行き先を告げてないのに走り始める。ビジネスマン怖くなる。これは、俺のデータが漏洩
して人々にすべて知られてしまっているのだ!。。。

 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「ムジナ」のような怖さがありました。国民総背番号
制とか名簿図書館とか、こういう話は現実化しているような。。。


鬼燈を背負う(「タマノミナモト」を求めて) 投稿者:薄野小魔王  投稿日: 4月23日(火)05時30分46秒

 まず、お金の儲け方を2つに大別します。1つ目は小説を書く、ドラクエやスーパーマリオといったテレビゲームソフトを開発するというような「モノ」を産み出す活動。2つ目はいわゆる「手間賃」の範疇に含まれるものです。例えば電気や水道、瓦斯といった公共料金、あるいはビル、会館、コンサートホールなどの「ショバ代」も該当します。或いはギャンブルにおける「テラ銭」もこれに当たります。実はこのK、最近中央競馬に熱中しています。大谷派僧侶であるわたしが博打をやるのは本来許されません。その根拠は「宗制寺法」第115条にあります(これは明治時代の東本願寺における「法律」、現在は適用されない)。
 わたしが宗制寺法に違反する罪を犯してまで中央競馬をやっている意図は、博打における「タマノミナモト」を知りたい、という一点であります。言い換えると、「マナ識」を志向していることになるはずです。それではまた。


※らくりん注:過去ログ掲載に当たり、投稿者の希望により実名を頭文字に修正いたしました。


おたくぽい 投稿者:inimeg  投稿日: 4月22日(月)20時52分42秒

なんか最近わけがわかりません。


追記 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月22日(月)14時02分16秒

 こづえさん。お亡くなりになって何年経つのか。ヨガのインストラクターをやってはったん
で習いに行きたかった。腐りかけのバナナのように「にいちゃん、甘いでー。今を逃したら
ホンマに腐るでー」と鬼気迫るものがありました、ブレイクするだいぶ前。(ってみんな知って
るかな?いくよ・くるよと間違えんとってね)

 自分を売り込むんでも日蓮さんのやり方は好きじゃないなー。道元さんなんかのっけから
有名人やから紫の衣いらんっちゅうて断ってもなあ。。。


骨太の方針 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月22日(月)13時35分28秒

 つくづく自分を省みますに「マイナー嗜好(志向・思考)」だなあと思います。
知る人ぞ知るでエエやん、と。古田武彦さんだったかが『わたしだけの親鸞』って
本を書いておられると思うのですが、ぐっちんには「わたしだけの若井こづえ・みどり」
でした。

 こづえ・みどりのギャグ。「もうてんかーっ。いらんかーっ」。妙ちくりんな帽子を
かぶったこづえが客席に向かって自分をヨメにしろと叫ぶところ。これが聞きたくてぐっちん
おっかけをしていた時期がありました。あ、ちなみにこれ大阪の女性漫才コンビの話です、
ハイ。

 上昇志向。常勝思考。これってなんか、阿含宗の桐山管長とか幸福の科学の大川総裁みたい。
時代はとっくにバブルも弾けた、ポスト成長期、定常社会でっせ。いつまで、夢見とんのやろ。

 大阪に帰郷して目立つのがホームレスのおっちゃん。六割ぐらいが犬を飼うてる。上野の
ブルーシートのおっちゃんには見られない特徴。冬はいっしょに寝るとぬくいし、さみしく
ないしね。「犬のエサ代めぐんで下さい」と紙に書いてカンパ用のビンがおいてある。犬の
エサ代の上前をはねながら、おっちゃんたちは共存・共生していく。大阪のおっちゃんたちに
ポストモダンな生き方をあらためて教えてもらったカンジ。


おやおや、誰かと思えば 投稿者:らくりん  投稿日: 4月22日(月)09時25分22秒

くまごろうさん、
掲示板ではお久しぶり。


薄野小魔王さん、
初めまして、最後のお名前がなければ
「どこのどいつが、いったい何をわけのわからんことを書き始めたんだ」
と、新手の荒らしか何かかと勘ぐるところでしたよ。
それにしても、
>大谷派僧侶の責務とは「坂東本を腹に抱いて死ねるのか否や」
>この一点ではないかと最近愚考するようになりました。
初登場にしてはちょっとテンションが高くて、
最後の名前を見ても心当たりがない人には、かなりの警戒感を与える
書き込みになっていると思います。

それから、「東本願寺宗門」(真宗大谷派のこと?)「タマノミナモト」(?)
「相続講」「院号法名」「法揄チ算」「霊源院大谷暢順理事長」
「大訓覇師」などという、意味がはっきりしない言葉、
かなり特殊な業界用語や、あるいは固有名詞を並べていますが、
私個人宛のメールならそれもありかと思いますが、
この掲示板を見ているのは大谷派の人ばかりとは限りませんので、
もう少しいろいろな読み手を意識した書き方をしていただければ
ありがたく思います。

大谷家のお家事情に、日頃からさほど関心を持っていない私としては
>生前から「タマノミナモト」と名告られている霊源院大谷暢順理事長を
>責める名告りが問われてしまうような気がします。
と書かれても、どなたのことかピンときませんでした。
「えーと、この人は四兄弟の何番目だったかな、長男が○○で、四男が○○で、
今のご門首が○○だから、二番目か」と、「あの人、亡くなったんだっけ」
「〈タマノミナモト〉なんて名告っていたの?」なんてことをに思いが
めぐって、
「それで、結局この書き込みは何が言いたいんだったっけ?」となってしまいました。

つまるところ、
「大谷派も何かと名目をつけて金を集めてばっかりで、数百億という基金を運用
していた〈真宗大谷派の〉財団を乗っ取ってしまった次男の暢順さん(現門首の
お兄さん)と何も代わらない」と。
それで、
「真宗大谷派の僧侶たるもの〈坂東本を腹に抱いて死ねるか否か〉」
その覚悟ができない軟弱者は、「せめて」
「仏道の菩薩として再生産」されよ。
と、こういうことになるんですね。
そして、
>「第2の」同朋会運動は「阿弥陀経」をテキスト
> にあらゆる大谷派僧侶が「身を粉に、骨をくだきても謝すべき」
>千載一遇の偶機ではないでしょうか。まず「骨を鍛える」ことが
>第一義のように思えてなりません。
と提唱するわけですね。
この発想って、「何かに命をかけよ」と吠えているという意味では
薄野小魔王さんが、最初に書いた小泉首相の発想とほとんど
同じように私には思えるんですが……。
また、どうぞ。


浄土真宗の風景の実体? 投稿者:くまごろう  投稿日: 4月22日(月)07時49分32秒

かって門徒の家は、結婚する場合は、相手の家も門徒でないと話が進まなかった
ということらしい。
お葬式の後で食事をいただいている時に聞いた昔話です。
その事を聞いて何とも言えない、怖さに触れたような気がしました。
恐るべし百姓の持ちたる国。


タマノミナモト 投稿者:薄野小魔王  投稿日: 4月21日(日)23時47分09秒

 初メールさせていただきます。ススキノ生まれのいち大谷派僧侶です。今日小泉さんが内閣総理大臣として2度目の「靖国神社公式参拝」を執行しました。小泉さんは自ら「一死君国に殉じ、還りて護国の英霊と」なりたいのでしょうか。人を刀剣や銃などで殺そうとするとき「タマを取る」といいますが、「タマの取り合い」を正当化できるほど人間は高等な生き物でないと阿弥陀如来は教えてくださっておられるのではないでしょうか。
 ところで、東本願寺宗門における「タマノミナモト」とはいったい何でしょう。「相続講」「院号法名」「法揄チ算」の3本柱で「門徒さん」から金を巻き上げてきたのがわたしを含めた「大谷派僧侶」のすがたではないでしょうか。生前から「タマノミナモト」と名告られている霊源院大谷暢順理事長を責める名告りが問われてしまうような気がします。大谷派僧侶の責務とは「坂東本を腹に抱いて死ねるのか否や」この一点ではないかと最近愚考するようになりました。人間である以上「死に切れない」のでしょう。では如何なることを阿弥陀如来は人間に呼びかけてくださっているのでしょうか。それは、「人間を仏道を菩薩として再生産すること(by安田理深師)」なのでありましょう。「大訓覇師」が提唱なさった同朋会運動のテキスト「現代の聖典」は「観無量寿経」がテキストでした。ですが「第2の」同朋会運動は「阿弥陀経」をテキストにあらゆる大谷派僧侶が「身を粉に、骨をくだきても謝すべき」千載一遇の偶機ではないでしょうか。まず「骨を鍛える」ことが第一義のように思えてなりません。それではまた。              A K

※らくりん注:過去ログ掲載に当たり、投稿者の希望により実名を頭文字に修正いたしました。


タモリさんはナレーター 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月21日(日)10時57分02秒

語り手は、「ナレーター」ですね。
いま思い出しました。


タモリがストーリーテラー 投稿者:お留守居役様  投稿日: 4月21日(日)10時52分33秒

むかしは、ストーリーテラーというのは、
>筋の面白さで読者をひきこむ作家(三省堂国語辞典)
のことで、例えば吉川英治さんとか山本周五郎さんのことをいいました。
波瀾万丈の物語作家のことをストーリーテラーと呼んだのです。
深刻な問題提起はしない作家、お話を作るだけの作家ということで、
若干軽蔑するニュアンスがありました。

『世にも奇妙な物語』のタモリさんは、
作者ではなくて、物語の案内人でしたから、ガイド、または、
水先案内人ということで、パイロットと言うべきかと思います。

ところが、↓でも
>ストーリーテラーのタモリ
と書いてますねえ。。。うーーーん???
軽くつっこもうと思ったのにぃー

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/4924/199.html


仮の人生 投稿者:モモ  投稿日: 4月21日(日)08時22分45秒

 生きていると、「もし」とか「あの時〜していれば」と
妄想を持ちたがる。昔、タモリがストーリーテラーを
していた究極の選択みたいなショートドラマがあったでしょ。
人生の分岐点で選択を迫られ、一方を選択したけど
あの時もう一方を選んでおけばとか。
今の人生に満足していない訳ではなく、別の人生を
歩んだ時の刺激を求めるのでしょうが。しかし、もし
そのもう一方の選択をしたとしても完全に納得できるか
というとウダウダしてたりするのでしょうが。
モモの場合は、大学受験の時に第1希望のところに
合格していればとか、若かりし時イロイロあって
付き合ったいた彼女と結婚できなかったけど、もし
結婚していればとか、妄想を見てしまいます。
悲しい性です。


ダーティー・ハニー 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月19日(金)13時11分44秒

 過去ログを読んでいると、林遊さんのご発言の中にたびたび、「泥田んぼの中をはいずり
まわる。。。」というフレーズが見られます。「お前ら、泥かぶってないじゃないか!」と
いうお叱りだと思います。

 ぐっちんの執拗なイノセンスに対するこだわりと一脈通じるところがあるような気がします。
イノセンス=無垢、無邪気、無心、無罪。。。自分のイノセンスを解体して、阿弥陀様のイノ
センスを仰ぎ見る、そのような生き方が「信に死し、願に生きよ」ということなのかなと思わ
れます。

 芝居には汚れ役というのが、あります。また昔は、清純派女優が「脱ぐ」ことは、演技が
一皮剥けたという意味でした。(ただし、現在は清純派女優というのが存在しないし、パンチ
ラ、ブラチラなどお宝写真が先行し、キャバクラ嬢・テレクラ嬢の過去バレなど「脱ぐ」こと
に特に大きな意味が生じるとも思えない)

 しかし、総じてもって現代のオトコどもは「脱げ」ない。剥けてない。(ボギ〜ボギ〜あんた
の時代は良かった。オトコがピカピカのキザでいられた。。。)わたしゃあ、宗教なんぞは信じ
てないから、念仏なんぞは称える気ィ起これへんから、何主義にも染まってないから、坊主なん
ぞはやってないから、お説教なぞはずかしいことなどしてないから(あ、これぐっちんネ)。。。
言い訳だらけ、逃げ口上だらけ。

 私の手は汚れてない。。。こればっか。泥の中からハスの花は咲くんでなかったのかい?
伊蘭のタネから栴檀の木は生えるんじゃなかったのかい?堕ちていることに気づいたものが、
空の高さをよく仰ぎ見ることができるのかも知れない。キキのように魔法の箒で空も飛べる
かも。


浄土真宗の風景 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月18日(木)20時24分06秒

 水を得たサカナ(ただしウロコ多し)の如く、ここバンバンにて十分弾けてます。。。

 結婚すると、大多数は夫の籍に妻が入ることになります。つまり夫の家の宗旨に
妻が「改宗」させられる。真宗密集地帯なら夫の家も、妻の家も同じ真宗かも知れ
ませんが。

 で、夫が仕事で出かけると、お内佛の管理は妻の役目になる。お逮夜まいりの
多い地域では、だいたいがお経を読んだ後「おばちゃん」と茶飲み話をすることに
なる。また、男の寿命のほうが短いから、一人暮らしの未亡人の「おばあちゃん」
としゃべることも多い。

 で、お坊さんは圧倒的に男性社会。男=教化者、女=聞法者の図式が出来上がる。
ここに何か落とし穴はないでしょうか。フェミニズムとかいう舶来のハイカラな
学問とはべつに、何か根本的な致命的な問題があるような。。。まあ、おしゃべり
の中から教化者とのぼせあがっている男性僧侶が勉強することもあるのですが。。。

 ほやからぐっちんは大悲さんやミネさんやkekoさんの動向が気になる。。。


思いは伝わりにくい。 投稿者:inimeg  投稿日: 4月18日(木)07時24分43秒

いにめぐです。
名は単に名にあらず。

他者と区別するだけの、
仮の名前で過ごしてきました。
ネットの世界で私の名前は何だろう。
そして今、自分が納得できる名前が見つかりました。
長年私と共にいたものですが手放して始めて気がつきました。
初めて自分の好みで手に入れ、なくてはならない大切なもので、
私の分身であった。
3年経過して、今はないので、こう呼びます。

ぐっちんさん、丁寧なレスありがとうございました。


うわっ。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月18日(木)04時55分32秒

 X巻を読んでいてようやく興味がわき、後鳥羽上皇のことを調べようとしたら
ホームページ「後深草院二条」閉鎖されていました。


>質問 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月18日(木)01時57分40秒

 inimegっていうハンドルネームどんな由来ですか。絵文字ですか?

 ぐっちんの頭整理。@善知識と自分の関係。善知識を通じて、その人の魂(精神)に
触れる。善知識は人間的に見てぐうたらでもええかげんな人でも何でも良い。その人を通じて
願いに触れること。A法と機の関係。法を客観的に考察するんではなくて法に照らされる
機(自分)を明らかにする。B他者と自分の関係。願いを通じて、共に歩む友として見出され
る。

 以上まとめると、なんかこの人エエなあと思う人がおって、その人を動かしている原理
みたいなのに触れ、私もついていきたいと思い、ほんで自分をはっきりさせながら、同じ方向を
めざして歩いている友ができるってなカンジかなと思う。

 >Genkoさん

 職探しがんばってね。


削除の件。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月18日(木)01時22分52秒

 まあ、バレてしもうたことはしょうがないなあ。これまで、いろいろ
バラしてきたからねえ。どうしょうもない人間やっちゅうことなら別に
おいといてください。あんまり、へんなこと書き込まんように。


ヒーローか 投稿者:モモ  投稿日: 4月17日(水)14時28分23秒

>人は夢見る。自分がスーパースターになることを。
けれどいつかは夢破れる。そうすると今度はどこかに
スーパースターがいる筈だとこれまたこりずに夢見る。
で、このひとこそがそれだと勝手に幻想を投影する。
で、自分はスーパースター側近だという認識をもち、自分
の夢を長持ちさせる。イエス様もたいへんしんどかった
やろな。尾崎豊は、ファンのヒーロー幻影に忠実に生きる
ため、死んでしもたんやな。

 生き仏信仰は分かりやすいけど、結局自分の人生を
他に任せて奴隷になるってことだよな。自分の足で
歩くことが仏教の教えだと聞いたことがあります。
新聞の奴隷、マスコミの奴隷に化している自分から
どう解放されるのか。険しいけど、素敵な歩みがある。
 


Genkoさん 投稿者:らくりん  投稿日: 4月17日(水)12時11分26秒

お久しぶりです。
inimegさんのレスを書いている間に投稿されたようで、見落としていました。

引っ越しご苦労様でした。またのお越しをお待ちしております。


僕の希望 投稿者:おじき  投稿日: 4月17日(水)02時14分12秒

私もぐっちんさんの希望を優先していただいてよろしいかと思います。
そして、ぐっちんさんが当該発言の削除を希望されるのなら、一連の私の発言、
4月10日「大きな鏡」、4月11日「逃げるな、投げ出すな」の削除も希望します。


以上は、新着順61番目から90番目までの記事です。

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