らくりんバンバン

〈 落 鱗 板 々 〉

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ぐっちんさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 5月16日(木)05時45分53秒
言わずもがな、前にぐっちんさんが私にしきりに「読め」と言って推薦した、
『教行信証を読み解く』(全5巻)のことですよ。


体裁が変わっても・・・ 投稿者:Genko  投稿日: 5月16日(木)05時33分10秒

別に、

>「真宗では」ではなく、「本願寺派の基幹運動本部では」ということ

でも同じことです。「本願寺派の基幹運動本部」では「啓蒙主義」という歴史用語が使用できなくなるだけですから。ヨーロッパ近代が議論不能になるだけですね。

わが国の場合、一般的に明治維新期前後に多く輸入されてきた西洋外来語のほとんどが、
二文字漢字の造語で作られてきた対応語なのですが、当時の知識人たちが、
たとえそれまで該博であった中国からの輸入語たる漢学(漢語)の<原意>−「啓蒙」が、
「わが中華に比べて蒙古は後進国であるからと蒙古を蔑視」するような−を、
仮に認識していたとしても、それ以外に適切な訳語が思いつかない場合の方が
遥かに多かったことでしょう。
当時の近代化政策にとって、翻訳の仕事はそれほど緊迫した最優先課題でしたし、
何しろ目もくらむほどの圧倒的な西洋語の単語量が、一時に入ってきたのです。
いちいち<原意>にさかのぼって点検している余裕など全くなかったと言っていい。
それに、漢語はしばしば、時代を経ると、<原意>が別の意味に<転意>することが多い。
それどころか、場合によっては、<反意>することさえまれではありません。
<転意>や<反意>した漢語を、いまさら<原意>にさかのぼって、
いちいち「その由来は差別語だ」などと審査しだしたら、キリがないほど
次々に疑わしい用語が芋づる式に出てくる可能性大です。
そうやって一つ一つバツをつけて消去していってごらんなさい、
とうとうしまいには、われわれは失語せざるを得なくなる。

確かに「ことばの歴史」を知ることは大事です。
ただ間違いなく言えることは、われわれは、もはやその歴史的な諸関係の中に、
決して置かれてはいないという自明の理です。
言い換えれば、「シニフィエは絶えず生成変化する」という当たり前の事実なのであり、
われわれは或ることばを常にその<原意>として使用するわけではない、
という大前提が忘れられているから、こんな混同が生ずるのではないでしょうか?

思うに、私にしてみれば、個人の意図の中にいまだに残存する、
差別用語とされている「シニフィアン」抜きの「差別的シニフィエ」の方が、
よほどタチが悪いと申すべきです。
ありていに言えば、表に出る語はきちんと入れ替えたのに、
その語に同じ差別意識を込めたまま使用する場合のことです。
つまり、「○印食品」が「○農」ブランドのラベルに変わっても、
中身が偽装食肉のままでは、結局同じことだというわけです。


>Genkoさんへ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月16日(木)05時28分36秒

 明日は新潟ですか?Genkoさんのカキコ中、「あの本」って何の本ですか?

 しかし、まあ吉本論議は遠くなりにけり、ですね。吉本さんの立場ってでもお坊さんにも
通じるところありますね。「知識」全般ではないけれど、確かに「宗教」や「仏教」や「真宗」
や「供養」の専門家とみなされて、門徒さんから浮く。「不信心者ですから、すべてお任せ
します」なんていわれたり。。。門徒さんが、天皇や靖国や「いのちに帰る」云々の表現を支
持される。こうなると、坊さんは身悶え、お手上げですね〜。


こまごま 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月16日(木)04時59分30秒

 狂信さんの

 >それぞれの時代で、それぞれが、それぞれの言葉に表現されて

 ってうなずけます。そりゃあ、もちろん仰せなきことをいった「負の言い換え」もありまし
たけど。(それについては十分な自覚が要求されると思います)「いのちに帰る」が、何で
そこまでいわれなきゃならないの?体制追随のイデオロギーとか、教団の護持とか。存覚の
教えから流れ出てるから、存覚のおかした混乱とか。。。

 批判のための批判でしかないと思う。らくりんさんの本がらみでいくと、大経の中にある
道教から持ち込まれた言葉、これも同じ発想をすれば、取り除かなけりゃいけないと思う。
まぎらわしいから。もうお坊さんなんか、毎日逮夜まいりに行ってご門徒と雑談したお話を
テープに録って、チェックしなけりゃいけません。

 これってどんなもんでしょうね?という問題提起じゃないと思います、CHINCHINさんの
書かれてるのを読むと。真宗聖典から、覚如も存覚も唯円も恵心尼も全部はずしましょう。
いっそのこと、親鸞の言葉(七祖聖教、三部経含む)のみ聖典としましょう。 


念のため 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月16日(木)04時24分50秒

 大願さんは、翌19日に

 >「真宗では」ではなく、「本願寺派の基幹運動本部では」ということに訂正させて頂き
 >ます。

 と訂正されております。


言葉刈り? 投稿者:Genko  投稿日: 5月16日(木)04時06分06秒

ちょっと問題の観点が主題からズレるのですが、
大願さんというひとが、「啓蒙」という言葉に対して、

>真宗では少なくとも使いません。

と言っているとのことですが、このことは真宗内で事実なのでしょうか?
では、世界史や歴史学における「啓蒙主義」「啓蒙思想」などの訳語は、
真宗のひとは、どう言い換えて使用しているのでしょうか?
少なくとも、辞書的な意味の文脈で「啓蒙」というのであれば、

>「無知な者に知識を与えて教え導く。」「思想・学問などについて、知識の乏しい
>人々を新しい知識で導き、より知的な判断ができるようにすること。」

だけでことは足りるかもしれませんが、
思想史や歴史学などで言う「啓蒙主義」「啓蒙思想」の方は、
とてもこんな単純な解釈で済まされるような意味ではありません。
その意味で、文中ぐっちんさんが「私の立場は一貫して、
言葉は文脈によって判断されるべきということ」と言われていることに、私も同意します。
お留守居役様なら、これをして「糾弾」と言って多分一歩も引かないでしょう。

また、これはCHINCHINさんに対する疑義なのですが、
かつて思想界を揺るがしたハーバーマスらの「啓蒙の弁証法」は、
近代の「啓蒙精神」を批判してはいても、何も全否定しているわけではありません。
私自身は、「啓蒙主義」それ自体は、「自由」や「人権」観念に代表されるように、
その後の人類にとって、問題は多いが、むしろ貢献度の方が大きかったと考える者です。


続きの追加 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月16日(木)03時42分01秒

 Inimegさんがいみじくもいわれてました。

 >ご門徒との対話ですが、何かしたいとは思っていますが、なかなか深みのある関係がきず
 >けません。

 私もこのことがテーマでした。

 >「実相」を一世界観に立ってみるのか、二世界観に立ってみるのか。それによって読み方
 >はかわると思います。

 が、CHINCHINさんのご意見。えーと、これは信楽せんせの教えかな?ぐっちんは、実相が
一世界なのか二世界なのかという問題より、他者のアラばかりが見えて、自分の虚妄にはまっ
く鈍感であることが、何よりの問題です。そして、真実の慈悲ともまったくほど遠い自分。
懺悔が八百長懺悔にしかなり得ぬ、この我が身が第一の問題です。 


続き 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月16日(木)02時59分42秒

 さらに還浄問題のHPから引用しますが

 >それに「教学的見解の表明」ということを強調してしまうと、目の前の人の気持ちを踏む
 >にじることになりかねません。教学はあくまで文法。生きたいのちを優先してこそ生きた
 >教学となり得ます。現在の宗教団体の欠点は、個々の人の悩みや立場に立脚していない点
 >にあり、「総合的」と大上段に構えた言葉が、いかに多くの人々を苦しめ、時として殺害
 >してきたか、という宗教史の惨状にも目を向けるべきだと思います。

 といわれてますが。ぐっちんは現在、僧侶の仕事から離れてますが、いろいろ勉強して教団
の「負の遺産」も知りました。それを踏まえつつ毎日顔をあわせるご門徒とどれだけ信頼関係
が結べてたかは、今振り返るとこころもとないところですが、そのことを一番の課題としてま
した。その関係性の中で、「本願」をともに確かめ合うことができるのか、ということに心を
砕いてましたけど。(ちょっと、カッコつけすぎか?)

 訂正 ↓「預かりえぬ」ってヘン。


言葉への拘泥について 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月16日(木)02時48分27秒

 >これはまさに近代の啓蒙思想の発想ですね。

 5月14日のあなたのご発言ですが。過去ログ2000年4月18日付けで大願さんという
方がこのような指摘をされてます。

 >「エセ啓蒙主義者」という言葉の書き込みがどなたかからありましたが、これは差別用語
 >ですので、今後使われないようにお願いしたい。この「啓蒙」というのは、中華思想の中
 >国の言葉ですが、わが中華に比べて蒙古は後進国であるからと蒙古を蔑視した単語です。
 >辞書には「無知な者に知識を与えて教え導く。」「思想・学問などについて、知識の乏しい  >人々を新しい知識で導き、より知的な判断ができるようにすること。」とあります。細かい
 >ことですが、真宗では少なくとも使いません。

 私もこのカキコを読むまでは、知りませんでした。この後、この問題をめぐっていろいろ議
論がありました。一読されることをおすすめします。私の立場は一貫して、言葉は文脈によっ
て判断されるべきということで、何も好きこのんで「いのちに帰る」という表現をすすめてる
わけでもなければ、自分がこの表現をあえて使うなどと主張しているわけではありません。

 「帰る」という表現をつかって、恩云々という話になるのかどうか、ちょっと先走りでは?
という思いがあります。実際にどうゆうところで、「いのちに帰る」というお説教を聴かれ、
その時その先生に問いただされたのでしょうか?この掲示板をご覧の大谷派のお坊さんが、そう
いう四恩うんぬんという説教をされるのかも預かりえぬことですし。

  >初めて大派の法話を聞いた時からずっと違和感をもって聞いていたので、

 とありますから、お聞きになったんでしょうねえ。 


親鸞聖人足跡巡礼記(3) 金沢市内にて   投稿者:Genko  投稿日: 5月16日(木)01時07分19秒

金沢滞在二日目---。
今回は、親鸞聖人とはあまり関係ない<番外編>です。
以前からずっと意識していたこの古都の町は、
昨夜産まれて初めて足を踏み入れて、今朝兼六園を散歩して以来、
ただならぬ気配を感じて、さっさと立ち去るわけにはいかなくなりました。
私にとっては、段々ここが「日本のプチ・パリ」のように思えてきたのです。
特に「伝統産業工芸館」や「近代文学館」を観賞しているうちに、
かつて訪れたことのあった奈良や鎌倉や倉敷などと全く違う、
ある種の文化的な<空間の密度>といったものが観じとれ、すっかりハマってしまいました。
何ていうのかそれはちょうど、人が精神生活をする上で、背景となる街の規模が、
程よい大きさというのか、かわいらしいというのか、
あんまり商業主義的な観光擦れや、人工的・開発的な厚かましさを、
どの一角に佇んでいても感じさせない風情ということなのでしょう。
それでいて、地方の田舎性もなく、都会的に品良く洗練された趣きさえ漂っているのです。
まことに恐れ入りました。
なるほど今日までこの辺りから、独特の歴史的人物たちが多数輩出されたわけが、
何となく了解できそうな気がしてきました。
この街のムードを指す上で最も適切な名詞は、
多分「落ち着き」ということではないか、と思われます。
現代の巨大観光都市京都などと、きっとそこが根本的に違うところでしょう。
たとえば京都人は、ふしぶしに<洗練>を自己演出しますが、
金沢人は、あくまで自然体のまま等身大に洗練されているような感じです。
晩年はここに暮らしてもいいなあ、なんて、思わず感傷に浸ってしまいました。
おかげで一日予定が狂ってしまいましたが、
明日は、私の大好きだった「泉鏡花記念館」にはせ参じ、それから新潟方面に出発します。


>らくりんさんへ。

後日またお便りを致しますが、昨日は本当にありがとうございました。
ところで、夕べ購入したあの本を「テルメ金沢」でさっそく120ペ−ジほど読んで、
正直申しまして、私はもしかすると、とんでもない形で、
恐れ多くも「ものすごい人物」に会ってしまったのではないかと、
後で全身に震えが襲ってきました。
昔から「無知の強み」とはよく言ったもので、私は、もし先にあの本を全部読んでいたら、
到底あんな軽率な行動には出れなかったばかりか、会うことさえ憚られたかもしれません。
書かれた本の持つ権威という意味では決してなく、
むろんその内容の持つ重みとラディカルさにおいてです。
まだ全部読んでないのにと思われるかもしれませんが、あくまでこれは、
一種の嗅覚というか、私の長年の拙い読書遍歴に基づくカンのようなものです。
このため、お会いできたこと自体が、将来において、
この旅の<最大の収穫>に変貌していきかねない予感が、一瞬頭の隅をよぎりました。
それにしても、かえすがえすも私は何ということを調子に乗ってやってしまったのでしょうか?
いつの間にか公私を混同してしまい、こともあろうにここのサイトを使って、
無遠慮にも管理人に対していささか配慮に欠けたカキコを、
うっかり公けにしてしまったことは、深く反省致しております。
この度の己れの無知故の無礼千万と、傍若無人の振舞いとを、どうかお許し下さい。
本当に申し訳ありませんでした。
この場を借りて、心からお詫び申し上げます。
でも、らくりんさんが、私が想像していたのと全然違うイイ男だったので、面喰ってしまった。
加えて、その徹底的に優しい「慈悲の眼」が、私にはかえって怖かったのが印象的でした。

>ミネさんへ

この度のご迷惑の数々、本当にお許し下さい。
(あまりに素敵な方だったので、正直らくりんさんが羨ましく思えてなりませんでした。)


お留守居役様さん 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月15日(水)21時29分13秒

私もそうおもいます。
帰命が「いのちにかえる」というのは西山義、あるいはその影響下にある存覚の考えです。
編集済


部外者ですが 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月15日(水)19時45分26秒

「帰命」って、「命に帰る」と読むってはじめて知りました。

>帰命は南無なり。また帰命ともうすは、如来の勅命にしたがうこころなり。

「命に帰す(めいにきす)」ということで、「命令に従う」という意味だとばっかり思っていました。
「帰」は、「帰依する」の「帰」で、従うという意味だと思ってました。


補足ですが 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月15日(水)18時20分59秒

沖論文はプリントアウトして読みました。
有難うございます。

存覚の話ですが、誰もぐっちんさんより知ってるなんて言ったことはありません。近代教学については尋ねただけです。
存覚がおかした混乱と同じ混乱をおかす危険性を指摘したいのです。

帰るという言葉の意味はもと居たところに戻る、です。私たちがここに居る由来をたどる、という意味にもとれます。「恩」という問題、世俗価値的な「恩」と区別がつきにくくなるのではないか、という問題です。世俗的価値への帰順という性格を持つ「四恩」思想を親鸞は採用せず、「恩」という時には、「仏恩」に限定しています。世俗価値絶対化の否定です。

しかし、存覚はこの世俗的な「恩」を積極的に信心の内実として採用し、『破邪顕正抄』に
 「世にうけし国王の恩、皇恩公家関東の恩化なり、領主地頭の恩化なりとしる、公私につけてさらに違背なし」
としています。
このような混乱を起こしかねない危険性が「帰る」という表現にはあるのでは?ということです。


ぐっちんさまへ 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月15日(水)16時41分11秒

帰る、辞書で引きました。たしかに漢字としての「帰」には往くという意味があります。あと、落ち着くとか、ゆだねる、といった。しかしながら、それは、らくりんさんが示してくださったような、「帰す」という読みかたのときの意味であり、「帰る」という場合にはやはりもとの場所に戻るという意味です。

最後に引用された出拠は『論註』でしょうか?
浄土教の浄穢二世界観の意味はここにあるとおもいます。帰るという表現をとると、やはり一世界、聖道的な娑婆即寂光土というニュアンスをぬぐいきれないのでは。
本来〜であるということよりも、「まこと」に背いているような者が、その虚仮なるあり方を浄土という世界を通して知らされ、行く道を照らされるような生き方が開かれるということを言っているのではないですか?ここでいう「実相」を一世界観に立ってみるのか、二世界観に立ってみるのか。それによって読み方はかわると思います。


続き 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月15日(水)14時16分37秒

 で、あなたの11日の書き込み、

 >帰るとは、もといたところ、自分が普段の生活の根拠地にしている所に戻る、という意味
 >ですよね

 は、もう一度いろんな漢和辞典を引いて調べなおして下さいといっておこう。あと、↓に
あげた沖さんと言う人の論文も読んでみるべし。要するにあなたのおっしゃりたいことは、
「帰る」ではなく「往く」もしくは「向かう」でいいではないかということなのだが、話が
おおげさすぎる。存覚についても近代教学者についても、ぐっちんなどが知るところと50
歩100歩(この例え知ってるよね?)ではないか。それをさも、何かあると期待させとい
て。。。大風呂敷広げて、酒も肴も足りんぞー、と酔っ払いのおっさんなら確実に殴られま
す。

 また14日にこうカキコされてます。

 >親鸞の和讃の言葉でいえば、「心性もとよりきよけれど」と、本覚的見方はあるのかも
 >しれないが、と理屈のうえではみとめつつも、「この世はまことのひとぞなき」という
 >ことをこそ課題にしているのではないでしょうか。

 このことについて、お聖教のことばをプレゼントしておきましょう。

 実相を知るをもってのゆえに、すなわち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄を
知れば、すなわち真実の慈悲を生ずるなり

 


>CHINCHINさま 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月15日(水)14時02分22秒

 ジョークについて。
 
 お笑いについて解説するなんて、初めて。ああ、面倒くさ。11日に書き込んだイエス、12日
に書き込んだジョンの話はいづれもあなたへの直接的な返事ではない。だから、これに対して
何か直接レスを求めているわけではない。

 イエスにおいてなら、「占領国ローマ」に対して税金を払うこと、あるいはジョンが「王室
御前演奏会」を開くことは、それだけで「体制への追随」とみられなくもないが、「神の支配
する領域は、神へ返せ」あるいは、「身に付けている宝石をガチャガチャ鳴らせ、皇室の皆様」
ということは、ある意味凄いレジスタンスだということ。(ついでに「シーラブズユー」のシ
ーが女王を指すんではないか)

 池乃めだかの話は、吉本新喜劇のお定まりのパターン。池乃が、チンピラとケンカになって
ボコボコに殴られるのだが、背の低いことを生かしてもみくちゃになっている体勢から抜け出
してひとこと。「今日はこれくらいにしといたろか」。つまり、自分がやられているのに勘弁
したろうというので、周りのみんながずっこける、という笑い。これが、○ちゃんねるでもあ
ればいいのになーという感想で、この例えでどうのこうのあなたに要求しているわけではない。

 宗門うんぬんという話は、あなたが大谷派において「いのちに帰る」というような話がよく
されるがそれは、体制に追随し教団を護持しているのではないか、というので、ぐっちんもそ
うであるということ。風穴をあける、とは、体制を一新し、風通しをよくするという例え。
財政に穴をあけるというのは、使い込みをするということ。ぐっちんは、後者に属するだろう
というギャグ。

 宮武外骨のHP紹介もあなたへ直接レスを求めているのではない。12日のちいさなことから
コツコツととは、骨とコツの駄じゃれ。大風呂敷を広げないで、身近な問題から考え直そうと
いうことの比ゆ。13日の誇大広告というタイトルで書いたのも同じ趣旨。

 13日のオレたち○族というのは、オレたちひょうきん族のパロディー。タケちゃんマンの
替え歌。空焚きボタンというのは、高倉健さん主演のやくざ映画シリーズのパロディー。
唐獅子牡丹の替え歌。いづれも、別の人に向けたブラックジョーク。(死生さん、GENKOさん、
ぐっちんが話し掛けているのに、ひとり事を繰り返している失礼な人に向けて放ったもの)

http://www3.justnet.ne.jp/~tanahara/tyugai.html


あれこれ 投稿者:inimeg  投稿日: 5月15日(水)06時31分24秒

最近の流れはすごいですねえ。
読むことだけでも、消化できません。

ご門徒との対話ですが、
何かしたいとは思っていますが、なかなか深みのある関係がきずけません。
そのことは、今の自分の状況をあらわしているとおもっています。

傷つくことを恐れて、なかなか書けないのですが、
本来の自分に帰れ、自分を見つけなさい。
人間とは、自分が思っているよりはるかに深いものだ。
このことを、教えに照らされて、気づかせていただきました。


たぶん 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月14日(火)22時58分16秒

おそらく私の手探りが、そのように感じさせたのであって、らくりんさんにも弁明しましたが、全くの誤解です。らくりんさんを試すような必要性などありません。著書も読ませていただいてますので、知識で勝負して勝てるような相手でないことは承知してましたから。そんな勝負をすることも考えてなかったです。

悪貨のはなし以降にぐっちんさんがカキコされた内容で比喩的なものなどはほとんど理解できませんでした。
おそらく私の対応の何かでぐっちんさんと感情の行き違いがあるように思いますが、このくらいしか思いうかびません。


トンチの頓骨 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月14日(火)22時46分58秒

 らくりんさんがいみじくも「試されている」ような印象をぐっちんも持った。
何かぐっちんが書いた後で「まさにそれが問題なんですよ」という書き方。
それが「まさに問題なんですよ」。

 「悪貨」と「良貨」のたとえなど皮肉でもあてこすりでもありません。もう少し
冷静に文章を読んでください。


だから喧嘩やないですし 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月14日(火)22時35分15秒

西山義の問題は、よくいえば受容性がある、悪く言えばなんでもあり、ということです。天台教学は全くの専門外でよく分かりません。
手数があるのに手の内を見せないということはないです。話が展開しなければ、次の話にもいけません。それだけです。それに近代教学については、ほとんど基礎知識がないに等しいので、大派のかたに尋ねるしかないのです。手さぐりで書き込みしてるのは事実で、反応を待つ他はないというところでしょうか。
皮肉や喩え、などが理解しにくい私にそれを返答の言葉とし、さらには君もこのように返してみろ(理解困難な人間に、自分でそんなもの考える能力などないですから)といわんばかりのカキコのほうが、よっぽど私には底意地悪く感じましたが。


調子のり 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月14日(火)22時31分58秒

 ♪肥後は火の国よ 恋の国 燃える中岳よ 胸こがす
  一つしかないこの命 くれというならくれてやる
  熱か 熱か こころもからだも 熱か
  惚れた女を抱きたけりゃ
  火傷かくごで 抱かんとね 抱かんとね


さらに 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月14日(火)22時27分19秒

 傷つくことを恐れて、恋などできようか?
 傷つくことなしに、信仰を語ることなどできようか?


>あんぽんたんさんへ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月14日(火)22時09分12秒

 >相手を傷つけないように

 傷つける意図などさらさらないのに、勝手に傷ついて、捨てゼリフを吐く人もいる。
その方の質問にこちらは誠実に答えたつもりなのに。その後ろ足で砂をかけるような姿勢こそ
こちらが傷つくとも知らずに。

 ※びっくりマーク(!)を二回続けて使うと、以前登場した方とまぎらわしいので、
はてなマーク(?)を使われることをお勧めします。


いい感じぃやな感じぃ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月14日(火)21時43分59秒

 >門徒の間に伝わった信を問題になんかしてないですよ。「本来成仏主義」が近代人の
 >発明やってゆうたんですよ。そこに普遍性を見出すのは違うと。

 いや、あ〜たの戦い方があまりにも底意地の悪いもんやから。ぐっちんなどよりはるかに
「真宗の専門知識」をお持ち(なぜかは、自分がご存知)のはずで、手数をもっているくせ
に、その手の内をさらさず、敵失に乗じてポイントをかせぐというゲーム運びでしたから。

 で、存覚はどこへ行ったのだ?ぐっちんなど、存覚はおとーちゃんといつももめてて、けど
お勉強は得意やったほどの認識やけど。とにかく存覚が西山義を学び、その西山義は多分に天
台教学の影響が強く、天台には例の本覚思想がある、と。そこまでいいたいのでは?

 本来成仏主義というものが、そのルーツを忘れながら近代人がまたまた言い出した。それは、
京都学派のような思想潮流のことをいうのでしょうか?ケンカ売るなら徹底的にやって、返り
血浴びるぐらいの覚悟でいかんとイカンぜよ。ぐっちんみたいなん相手にびびってたら、2
ちゃんなんかデヴューできんぜよ。


(無題) 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月14日(火)21時42分40秒

その文についていうならそうですね。


信国淳 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月14日(火)21時21分15秒

 ぐっちんの出身校、院長信国淳(のぶくにあつし)さんは、
「汝、無量壽に帰れ。無量壽に帰って、無量壽を生きよ」といわれました。

 ぐっちんには、進行形として聞こえるけど。歩み続けよ、と聞こえる。
また、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁をよろこべ」という宗祖のことばには、はるか昔から、
細い細い導きの糸によってここに立たしめられたのだ、というふうに聞こえる。

 弘誓の強縁という言い方をからめれば、細くても強い「てぐす」のような糸だったという
響き。前後の文脈でしょう。


表現 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月14日(火)18時26分18秒

狂信さんのおっしゃるとおり、先人がああでもないこうでもない、と色んな言い方を考えられたのだと思います。その一つが「帰る」。
その先人がしたように、ほんとにこの言い方でいいのか、もっといい言い方はないかな?と考えたかったんでしょう、私は。そのことには無自覚でしたが。

表現というのは受け手に真意と違ったものを伝えかねない、という危険性がつきまといます。と、同時に表現されることによってしか分かり合えないという、やっかいな問題があります。宗教的表現はその難しさの代表みたいなものです。言葉にした時に時代社会の制約にからめとられますし。しかし、それによって普遍的なものにふれてきた人々の歴史があるのも事実でしょう。

帰るという言葉は、やはりどこか目的地がある場合に使うので、方向性をいうのにはふさわしくないように思うのです。「〜に帰る」より、「〜に向かって歩みつづける」のほうがその伝えたい内容に近い表現のように思うのですが。
北極星でいえば、「北極星に帰る」でなくて、「北極星に向かって歩みつづける」ってなりますし。


どもども。 投稿者:狂信 ☆彡  投稿日: 5月14日(火)18時02分35秒

「帰命」、「帰命無量寿如来」という、親鸞からいただいた言葉を
それぞれの時代で、それぞれが、それぞれの言葉に表現されて、
実際に、「帰命」「帰命無量寿如来」していかれたのだと思います。

私も、上手に表現できたら、と思います。


喧嘩ごしのつもりはないですが・・・ 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月14日(火)17時54分31秒

ぐっちんさん、喧嘩するつもりやないですよ。全く知らん相手ならともかく、会っても売られた喧嘩は買うデ〜、なんてゆわないでくださいよ〜。どんな相手でも、喧嘩は苦手やし。
私は子供のころから文章が攻撃的や、ってゆわれてきて、これでも気をつけてるんですが・・・。なかなか難しいものですね。喧嘩ごしに聞こえたならごめんなさい。

門徒の間に伝わった信を問題になんかしてないですよ。「本来成仏主義」が近代人の発明やってゆうたんですよ。そこに普遍性を見出すのは違うと。
帰るについて、どこに?となると、おそらく「いのち」とか「根源の願い」とか、になるんでしょうが、私ならそこに向かう、向かって行く、といいます。


ぐっちんなら 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月14日(火)17時00分12秒

 まあ、歩みに終わりはないので、「もといのちに帰っ」ておっちんされました、メデタシ
メデタシということではないでしょうね。和田先生風にいうと「終わり無き歩みを共に」で
しょう。そこいらへんは、ミスチルの桜井クンの「終わりなき旅」という歌が好きです。

 また親鸞さんのテキストでいえば、「たまたま行信をえば。。。」「あいがたくして、
今あうことを得たり、ききがたくして今聞くことを得たり。。。」ですから、狂信さんの
提起された

 >このテーマは、例えば真宗における仏性論の問題とか、「人間は元来救われている、と
 >言っていいのか。」「「そのままでいいんだ」でいいんだろうか」「べつに宗教なんて 
 >いらないんじゃないか」という形

 ぼーっとしてたら、一生出会えず、気づくことの無かったものが、今自分のところに届いた。
けれど、それは本来自分のところに届くはずのものではなかったのにという驚きと喜びでし
ょう。


追伸 投稿者:らくりん  投稿日: 5月14日(火)16時59分13秒

私が個別に対応する必要が生じるような問題についての
ご相談、ご依頼については、
掲示板ではなく
メールアドレスを公開してありますので、
そちらの方をご利用ください。


Genkoさんへ 投稿者:らくりん  投稿日: 5月14日(火)16時55分50秒

先ほど帰ってきて、さっと目を通しました。
とりあえず、急を要するGenkoさんへ、
掲示板のお知り合いが突然やってくるということで、
初めてのことで正直申しまして、少々戸惑っています。

私の場合、この掲示板の参加者と実社会でお目にかかるということは
しばしばあることなのですが、こういう形で起こってくることは
まったく想定しておりませんでした。

Genkoさんがお越しになることは差し支えないのですが、
やはり、私の方にもいろいろと事情や予定もありますので、
もう少し早い段階でご連絡をいただきたかったと思います。

それから、
それ以上に戸惑いが大きいのは、
そのアポといいますか連絡が、このような多くの人が見ている
掲示板で進行していくことです。
こういうことは初めての経験です。
ミネさんにとっても初めてのことで、
彼女の判断でいろいろとレスをしていますが、
その過程で、どうしたもんかと、けっこうあれこれ気をもんでいたようです。

Genkoさんへのお返事は、メールでお知らせいただいている携帯電話か
メールアドレスにすることにいたします。

いずれにしましても、数日前に書きました電話・ファックス
の問題について書いたこととも通じますが、
拙寺・拙宅への来訪に限らず、お話や原稿執筆の依頼、
あるいは論文・著書を送るから批評・感想をというような、
ネットの上だけにとどまらない、
実際的な対応が必要な問題についての依頼が、
掲示板で行なわれることについては、
一線を引いておきたいと思っています。
仮に今後このような書き込みがあっても、
必ずしも個別に対応・応答するとは限りませんので
掲示板をご利用の皆さま、よろしくご理解下さい。


近代うんぬん 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月14日(火)16時31分59秒

 親鸞に帰れ!親鸞のテキストに帰れ!門徒の中に伝承されたような「信」は、
蓮如や存覚を通して吹き込まれたマインドコントロールされた「信」だぞ。。。さらに
「いのちに帰る」うんぬんという表現を使うことは、「近代教学」の轍を踏むぞ!。。。

 

 


ミネさん及びらくりんさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 5月14日(火)16時17分41秒

午後4時10分。
野々市町に入りました。
8号線沿いのインターネット・カフェ「CYBER CAFE Freaks 野々市店」に陣取りました。
ここの入り口で対応してくれたアルバイトの女子大生のお嬢さんが、とっても愛想よく優しいので、野々市町の第一印象が北陸一番に感じます。
第一、武生にも鯖江にも福井にも、これほど進んだネット環境を備えた「ネット・カフェ」は街中に存在しなかったことに驚きです。
新潟柏崎近くの出身だというその彼女に訊きますと、この辺はやたら大学が多いらしく、住んでいる学生も多いとのこと。
ああ、それでか、と納得。
最低あと1〜2時間はここに居て、らくりんさんか、ミネさんからのRESカキコを待つことに致します。


すまそん 投稿者:狂信 ☆彡  投稿日: 5月14日(火)16時10分06秒

推敲せずに、書き込みまして、日本語が無茶苦茶で御免なさい。


あと追加 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月14日(火)16時09分08秒

 で、悲しきかなヤクソウの身分では、勝手に「表白」の字句を変えて読めないとか、
ご門徒宅での「法話」でいらんこというな、と住職にクギを刺されたりとかあったり
するけど。。。

 もし自分が、そうではない立場に立ったときどういう代案があるのか。自分が望んでなく
とも何のご縁かそういうハナシが転がり込んでくるかも知れない。そういう時に、どういう
言葉を語るのか、そういう気構えは、CHINCHINさんにあるの?ないの?


補足させて頂きます 投稿者:狂信 ☆彡  投稿日: 5月14日(火)16時07分48秒

どうも、です。

CHINCHINさんの、大谷派御遠忌テーマ「帰ろう もとのいのちへ」(あれはテーマだっけ?)書き込みから、いろいろ考えさせて頂いています。

まず、あのテーマ(?)ですが、何度か説明会のようなものがあったと記憶していますが、内容については、すっかり忘れてしまいました。
ただ、憶えているのは「なるべくはっきりとした根拠を示すつもりはなく、なるべくイメージが拡がるものにした」という言葉でありました。

まあ、何というか、それで、それほど論義にならなかったというのは、
どういう事だったでしょうなぁ。
まあ、今の大谷派が、一枚岩ではなれないということは、あります。

でも、「バラバラでいっしょ ー差異(ちがい)を認める世界の発見ー」
というテーマ(これはテーマだった)。のテーマをめぐって、様々な分野の方々が思いを語ってくださった。実際に、大谷派に少しは風通しと、拡がり感のようなものをもたせたというように思います。

んで「帰ろう もとのいのちへ」は、どうだったでしょうか。
わたしのまわりでは、それほど注目されなかったように思うのですが。
どうでしょうか。

大桑さんの昔の本について書き込んでしまいましたが、この二種深信を蓮如イズムとして批判する考え方について、わたしもずっと考え続けています。

このテーマは、例えば真宗における仏性論の問題とか、「人間は元来救われている、と言っていいのか。」「「そのままでいいんだ」でいいんだろうか」「べつに宗教なんていらないんじゃないか」という形で、このあたりの掲示板でけっこう論義されてきたと受け止めています。

おっきな問いですね。ホント。


>CHINCHINさんへ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月14日(火)16時02分56秒

 う〜ん、なんかいつも喧嘩ごしですな。

 >だからそのなかでそれを一挙に解決しうるような処方せん的代案を提示したところで、
 >それさえも体制的です。

 これをぐっちんに向けて発言しておられるけど、これはむしろGenkoさんの提起です。
相手を間違えないようにね。ご自分でヤクソウといわれてるのでこう申しましょう。あなたは
お葬式でどのような表白読みますか?あるいは、ご法事などでご門徒にどのような表現で亡く
なった方と浄土の関係を語りますか?まさに、それが問題なのでは?

 大派では「ここに法名釈○○ いまや往生の素懐をとげて不退の楽土に到る。。。」が
葬儀式第一。第二は、あんまり読めへんかったから正確ではないけど、「ともにただ御名を
称えつつ生死の別をこえて、永遠(とわ)の生命(いのち)に生かしめられんことを」だった
かな。

 小さなことからコツコツと、というのはこういうことかな。自分の生活の座を離れて、批判
ばっかりしててもしょうがないがな。他人の文章にいちいちツッコミ入れてても。ご自身には
こう聞こえてきたんやと、ご門徒や他の坊さんに大いに語りなはれや。

 ぐっちんは、自分で「あ〜あ、小市民」と思いつつ、ここにこられている人たちからは、
「博学」「雑学がある」「たくさん勉強している」といわれてますから、仮性知識人としと
きましょう。(宇宙人みたいや。。。)確かに、曾我量深さんや安田理深さんが好きやし、
他に大学でちょっとばかり西洋哲学をかじったから「近代知識人」かぶれかも知れんけど、
なんで「近代知識人」があかんの?戦後に生まれたら多かれ少なかれ「近代教育」の洗礼は
受けてるけど、それを自分の中からキレイさっぱり拭い去りたいの?

 ぐっちんなど、「隠れキリシタン」と標榜してるぐらいやから、「親鸞の真宗」じゃない
かも知れんけど。自分が出会った「本願」と親鸞がいう「本願」が違ったら、親鸞に文句を
つける用意はぐっちんには、ある。


本来性 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月14日(火)15時20分26秒

人間は本来〜である。社会とはそもそも〜である。だからそこに帰らねばならない。
これはまさに近代の啓蒙思想の発想ですね。そしてそのような本来性に目覚めた民衆の自立。近代知識人がこのみそうな考えです。

親鸞の思想がはたしてこのような本来性への回帰を説いているのか?私はNOだと思います。そしてそれが門徒大衆の自立を促した。これもNOだと考えます。
親鸞において本来〜である、という言い方はむしろ現実にはあまり意味をなさないものとして見られているのではないでしょうか。
親鸞の和讃の言葉でいえば、「心性もとよりきよけれど」と、本覚的見方はあるのかもしれないが、と理屈のうえではみとめつつも、「この世はまことのひとぞなき」ということをこそ課題にしているのではないでしょうか。


Genkoさんへ 投稿者:ミネ  投稿日: 5月14日(火)15時03分11秒

金沢で宿を探すなどとおっしゃらずに、我が家へ泊まって頂いてもいいかと思います。
出かけていたので、レスが遅くなってごめんなさい。もう宿をとってしまったのなら
仕方ないですが、とにかく夕食は一緒にどうぞ。


カエル論義 投稿者:狂信 ☆彡  投稿日: 5月14日(火)14時14分07秒

ごくろうさまです。

大桑斉「寺檀の思想」(教育社)1979年初版という本がありますが、近世本願寺教団の異安心を取り上げて、「民衆真宗の信仰」を「本来成仏主義」と表現しています。その中に「身は仏となるという表現での仏との一体をいうもの」というものも含まれています。
そして、西山派の流れをくむといわれる「安心決定鈔」に対して行われた近世の批判も取り上げられています。
ちなみに「安心決定鈔」には

帰命の義もまたかくのごとし。しらざるときのいのちも、阿弥陀の御いのちなりけれども、いとけなきときはしらず、すこしこざかしく自力になりて、「わがいのち」とおもいたらんおり、善知識「もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ」とおしうるをききて、帰命無量寿覚しつれば、「わがいのちすなわち無量寿なり」と信ずるなり。かくのごとく帰命するを、正念をう、とは釈するなり。

という表現があります。

この本では大桑さん(現在では変わっているでしょうね)は「本来成仏主義」こそ、民衆の主体的自立の可能性を示していたのであって、機の深信を正面にだして仏と人を断絶させた教団教学を、蓮如イズム「救済に対する弥陀への絶対的信頼、ひいては門跡=教団への信順という信仰態度を生み出した」として批判的に見ています。

まあ、いろんな考え方があるもんで、
わたしもここを読ませて頂いて、
色々、考えさせて頂いております。


たたなしゃあないでしょ 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月14日(火)13時41分55秒

>ぐっちんさんへ

自己の問題が欠落する危険性はこのような形の問題の扱い方をするときについてまわります。
私自身、ヤクソウという奴隷制賃金労働者で、存覚的な習俗によりかかった中で生活の糧をえています。そういう「まないた」にのらざるをえないですよ、ここまでゆうたら。むしろそういうことの問題なんです。

体制についてもそうですが、「体制に追随」なんて自分もですがな。「体制」の定義をついでにお答えすると、個人が社会生活を営むうえで働くさまざまな社会的力の総称、であります。とすれば社会内部に存在している以上はそこから自由ではありえず、サラリーマンも宗教者も、宗教そのものも、体制内の出来事です。「反体制」というのも所詮は体制の一部にすぎないでしょう。だからそのなかでそれを一挙に解決しうるような処方せん的代案を提示したところで、それさえも体制的です。総合的な代案など提示しえないというのが、ほんとのとこじゃないですか。先日ぐっちんさんがおっしゃってた、北極星の話、あれですよ。目的地やなしに方向性しかないんや、ということです。

まないたショウでもなんでもたたなしゃあないでしょ。CHINCHINですから立ちまっせ。立たざるをえない。
「体制に追随」ってゆうたのは、揶揄ですよ(カッコつきで書き込むべきでした)、教団内で反教団をいう、あるいは体制内で反体制をいうことの。反教団、反体制をいう教団人が好きな表現を問題にしてるんですから!!


あんぽんたん さんへ。  投稿者:Genko  投稿日: 5月14日(火)13時05分00秒

>過去ログを拝見させていただきますとどうも個人的批判や誹謗中傷されている表現が
>多いような気がします。(中略)相手を傷つけないように注意されたほうがいいかと
>思います。

お初にお目にかかります。
少しく横紙破りな立場で恐縮です。
ご意見、多少耳に痛かったことは事実ですが、私の感じ方は、−2チャンネルとか他のスレッドの見すぎで相当スレてしまったのかも知れませんが−、過去ログのどこを見ても、おっしゃるような「個人的批判や誹謗中傷されている表現」とも「相手を傷つけないように注意」する程のものとも認められませんでした。確かに、たまにスレスレのやりとりが行われたカキコもあったかもしれませんが、何とかその一歩手前ぐらいで踏み止まっているものと思われます。
もっとも、これは個人の感受性の話になるので、もともと比較しても仕方ありませんが。
一体、誰が誰を「誹謗中傷」したというのか、是非ともご指摘下されば幸いです。

>感じたことはもっと楽しくわかりやすいような表現をされてみてはいかがでしょう
>か、しょせんわたしのようなど素人は対抗などできません。
>専門的知識もあるわけないしね!!

私が理解に苦しむのは、何故そんな風に「対抗」しなければならないのでしょうか?
私のつたない「旅」日記一つみても、恐らくここは、議論とか対抗意識を剥き出しにすることだけが専門のサイトではありません。
また、「専門的知識」とおっしゃいますが、人にはそれぞれ違う「専門」があり、それは殆どの場合、彼固有の生活経験から来るものです。
例えば、フロ屋にはフロ屋の、植木屋には植木屋のそれぞれ「専門」があります。
私のような生来の「遊び人」には風俗業界の「専門」などがあり、それはこの先いつこのサイトで<爆発>するか知れたものではありません。(CHINCHINさんなどにはもうばれていますし、いずれらくりんさんにも厳重注意されそうですが・・・)。
また、昨日今日起こった日常体験は、何らかの意味でその人固有の「専門」化する可能性すらあります。ですから貴方にも、ご自分の「専門的知識」がきっとあるに違いないのです。
要は、テレビの番組と一緒で、そちらの琴線に触れてこないとか、貴方にとって何か小難しい理屈を述べている不愉快なカキコがあれば、RESに応じないか、飛ばして読まなければ良いだけのことではありませんか?

私は、ここに限らず、すべてのネット上のサイトは、基本的に「表現の自由」の大原則があり、そこに書かれるすべての内容は、いかなる個人にとっても、最初から「参加する自由」と「参加しない自由」があると信じています。
言葉の暴力や差別用語等については、「ネチケット・ルール」に一定即している限り、問題ないと思います。(万一それがあれば、らくりんさんに知らせてあげて下さい)。


CHINCHINさんへ。 投稿者:Genko  投稿日: 5月14日(火)12時10分10秒

>・・・その言葉あるいはその言葉によって補完されるという体制の代替案は?
>ということをおっしゃっておられます(ぐっちんさんもそうですね)が、
>別にそんなものいらないとおもいます。

私のCHINCHINさんに対する問題提起は、二つありました。
まず一つは、安易に「体制」という言葉を使用されるからには、この言葉の定義です。
二つ目には、「主体的責任に基づく代替案」を欠いた批判は、必ずその対象に回収される、という命題です。
何故なら、前者に関しては、言葉の意味が明確にならない限り、議論が最初から噛み合わないでしょう?
また、後者の問題は、他者に対する説得力があまりないので、最終的に誰もついて来ない可能性があるからです。(55年体制を担った旧野党のようなものです。)
私としては、精一杯必要なことをお伝えしたかったまでなのですが・・・。


ミネさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 5月14日(火)11時52分53秒

了解致しました。
それでは、先に金沢へ入ってから安宿を見つけ、そこを基地にして5時過ぎに向けてバイクで常讃寺に詣でるか、のらりくらりと野々市に向かうか、どちらか考えながら出発することに致します。
なお、らくりんさんへは、昨日、私の携帯電話の番号をメールしてありますから、万一ご都合が悪い場合があれば、ストップがかけれるように配慮しておきました。
もしそれまでに連絡がとれましたら、くれぐれもよろしくお伝え下さい。


Genkoさんへ 投稿者:ミネ  投稿日: 5月14日(火)11時32分46秒

たった今らくりんさんから電話があって、まだ新潟にいて、今から帰るということでした。
おそらく5時過ぎになると言っていました。このレスをGenkoさんがどこで見ることが
できるのかわかりませんが、取り急ぎお知らせしておきます。


閑話休題 投稿者:Genko  投稿日: 5月14日(火)11時00分17秒

旅の道すがら、心動かされた「仏教に関係の深い報道記事」を、次に二つばかり掲げます。

1)まず、5月12日『京都新聞』(朝刊・25面)から。
〔《市場主義、宗教者の視点で −庭野平和財団 京でシンポ−》
 自由貿易や規制緩和の推進と貧困の拡大など、グローバル化(国境を越えた市場主義化)がもたらす問題を、宗教者の立場で考えるシンポジウムが十一日、京都市東山区の立正佼成会京都普門館で開催された。庭野平和財団の主催で、内外の宗教者ら四百人が参加した。 平和活動に尽くした宗教者に贈る庭野平和賞今年の受賞者で、メキシコや中南米の先住民の人権擁護活動に取り組むサミュエル・ルイス・ガルシアさんが基調講演。先住民の文化や言語を尊重する伝導を続けてきた経験を踏まえ、「グローバル化の推進は、少数民族や弱い立場の人たちを一層搾取する」と指摘。「貧しい人はより貧しく、少数の富める者はより裕福になるが、宗教者は貧しい者に寄り添っていく必要がある。」と訴えた。 パネルディスカッションでは、宗教関係者と経済学者も加わり、市場主義に代わる新しい倫理のあり方などについて討論した。〕

2)先頃イランで、仏像遺跡が多数発見されたというニュース。(『朝日新聞』)
仏像遺跡等に詳しい京大の考古学者は、「ガンダーラ遺跡よりも更に古い可能性が極めて高く、これまでの仏教史の常識を大幅に書換えるかもしれない画期的大発見」だと解説しています。考古学的には、これまでアフガンより西域の地層でこれほど確証の高い資料は見つかったことがなかったそうな。


親鸞聖人足跡巡礼記(2) 福井市内にて  投稿者:Genko  投稿日: 5月14日(火)10時28分23秒

昨日、福井に入って「フェニックス通り」を駆け抜けていたら、偶然にも赤信号で止まったところがちょうど「専照寺」のどまん前だったので、観てきました。
少し規模は小さいものの、充分な古さを感じさせます。
何ですか、ここが本山である「三門徒派」というのは、時宗の影響下で、もともと独特の形で「和讃」を唱えることから、「(和)讃門徒」が後世になまってついた名称だそうで。
裏手で幼稚園と一体になっており、狭い境内には、子供達がかくれんぼをしてはしゃぐ姿がほほえましく、今でも街のコミュニティエリアとして寺が開放されているのがうらやましかった。
そのあと、JR福井駅の安宿で一泊。
かつてレンタカーの陸送アルバイトで、ここは2〜3回来ており、懐かしかった。
付近を散策して調べたら、宿泊施設はおおむね東京・大阪料金の半分ですが、レストラン等の料理屋系はその倍額に近いコストなのにはびっくり。薄汚くまずい中華料理屋ですら、「チャーハン+ギョーザ一皿」で、普通1500円もかかるもんかいな!
福井の人たちの経済観念は一体どうなっているんでしょうか?

>ミネさんへ。

ご親切なお知らせ、ありがとうございます。
実は今、らくりんさんからのRESカキコがここに入っているのではないかと思い、漫画喫茶を探してさっき見つけて、早速ネットを開いてみたのですが、連絡がないのでどうしようかと迷っていたところです。
らくりんさんもお忙しそうですね。
いささか弁解めきますが、本当はこの旅を開始する遥か以前から、常讃寺に早いうちにお知らせすべきだったのですが、「野々市町」がまさか金沢手前の8号線の道中にあるとはゆめゆめ知らなかったのです。能登半島の方かとイメージで勝手に思い込んでいました。HPのどこを探しても、電話番号が書いてありませんし・・・。
そこで、私としましては、本日、金沢方面に向けて昼頃から出発し、ぼちぼち野々市に入ることに致します。
で、(お仕事等で)らくりんさんが居ても居なくても、お寺を訪問するつもりでいます。
地図によると金沢市はすぐそばなので、私としてはどうせあてない旅鴉、夜までに到着すれば良いのですから。多分4時前後になるのではと思います。
もし皆さんに会えるのでしたら、若輩者ですがよろしくお願いします。

ちなみに、私、この金沢だけは、実は生まれて始めて訪れます。
私の好きな文学者たちをかつて数多く輩出していながら、今までずっと気になっていた街でした。ですから、今回の旅の楽しみにしていたところです。
明後日は、悪天候でない限り、いよいよ一路新潟に入る予定。目指すは、直江津です。


機の深信 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月14日(火)01時10分13秒

 >CHINCHINさんへ

 お東の伝統には、機責めがあるでぇ〜。そう言うてる、あんたはいったい何者なのか?
批判ばっかりしている、あんたはマナ板にはあがるんですか?リングには立つんですか?


ちゅ〜とハンパな 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月14日(火)01時02分14秒

 ってこればっかり。カエル論議はもう終わったんかいな。ちゃんと展開しなはれや。
ぐっちんの認識は、こうや。歴史学の方法については、ようわかりません。まあ、資料
批判というのがあって、ここにこう書いてあるから当時のひとはこんな考え方したんや。
あるいは、建築遺構みたいなんがみつかって、こんな暮らしをしてたんや、とか。

 でもぐっちんは、こう思う。書物に書かれる前からひとびとの意識になにか変化があって
その時代を記録できるような学がある人物がそれを書き留めるということもあるやろう。
つまり @書物→世間に影響 というパターンがあれば A世間→書物に影響 もある。

 CHINCHINさんのいう存覚の書いたものの影響は、ニワトリが先か、たまごが先か?
ということも考えなきゃね。

 パラパラめくった感じで、「帰す」は、らくりんさんおっしゃる通り、「浄土」「楽邦」
「安養」「仏願力」「本願」などなどにくっついています。
 「還る」の方は、もちろん「還相」の「還」やし、還来生死の「還る」やね。まよいの
世界に還る、と。あと源空和讃に出てくるね。還帰と。

 う〜ん、やっぱり、「還る」は、もともとおった所にかえるというイメージ。「帰る」
もしくは「帰す」は、あるべき所へ落ち着くというようなイメージやね。とまあ、ここまで
書いて面倒くさなってきた。こういう訓古学みたいなんはやっぱり得意じゃない。

 違う?あくまで、本山批判や、と?


たぶんOK 投稿者:ミネ  投稿日: 5月14日(火)00時07分26秒

>Genkoさんへ

らくりんさん、今日は新潟の学習会に1泊で行っているので不在ですが、午前中には
帰宅する予定ですので、寄って頂いてもいいかと思います。


差異を認める世界の発見 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月13日(月)22時29分40秒

得度してしまいました
差異を認める世界の発見????????????????????
編集済

http://www.korea-np.co.jp/dprk/bukkyou/sinboj99071665.htm


東本願寺の「構造改革」 投稿者:薄野小魔王  投稿日: 5月13日(月)18時32分44秒

 「法燈の護持」に基づく「世代交代」、「規制緩和」、「構造改革」の3本柱をどの程度実現できるのかが、東本願寺いや東西両本願寺を中心とする真宗教団の死活問題となるでしょう。ただ、第一の「世代交代」は、「お年寄りには全員退場願います」ということに一概にはならないでしょう。ものごとの「道理」をお分かりになっておられるお年寄りに、わたしを含めた若僧が「教化」される必要もあるからです。尚、この3本柱は同時に執行される性質のものではなく段階を踏んで執行するべきでありましょう。それではまた。


らくりんさんへ。 投稿者:Genko  投稿日: 5月13日(月)16時15分25秒

らくりんさん。お元気ですか?
明日、金沢方面に向かう途中、野々市市を通ります。
らくりんさんの「常讃寺」にお参りしてはいけませんか?
多分昼から夕方頃にかけてと思いますが。
らくりんさんがおられたら、ご挨拶させていただければ幸いに存じます。


親鸞聖人足跡巡礼記(1) 鯖江にて 投稿者:Genko  投稿日: 5月13日(月)16時01分53秒

昨日(5月12日)、バイクで比叡山を越えて(山中越え)、琵琶湖西畔161号線をたどって、一気に武生市内に入りました。
日中天気に恵まれたものの、寒いのなんのって。
冷たい風がどんどんウインドブレーカーをすり抜けてきます。
夕方、武生駅前のホテルに到着、とりあえず風呂へ飛び込んで骨の髄まで冷え切った体を暖め、疲れ切ったのでそのまま寝ようと思いましたが、腹へったし中途半端な時間なので、近くの「紫式部公園」へ。親鸞聖人と何の関係もありませんが、それくらいしか見るものがない。公園敷地も金張りの式部像もあまりに大き過ぎ、資料館もなくてがっかりでしたが・・・。
しかし、帰りに食った「にしんそば」が格別にうまかったのには感激しました。
さて、本日13日朝、充分な睡眠をとって元気を取り戻した私は、早速チェックアウトを済まし、まず最初の訪問地である「毫摂寺(ごうしょうじ)」へ御参りに。
ここは真宗出雲路派本山で、京都出雲路に親鸞が創建して善鸞に付属させたが、のちに第5世善幸が越前に下り、二男善鎮とともに山元庄に隠棲したときに起こしたものが、第12世善照が慶長1年(1596年)に現在の地に転寺したという。1日にバスが3回しか来ないという味真野の片田舎の中でもひときわ大きく、本堂の構えが威風堂々と立派で、完全に圧倒されました。
午後からは、国道8号線を北上し隣の鯖江に入り、いよいよ聖人が承元元年(1207年)越後配流中に立ち寄ったと伝わる真宗誠照寺派本山「誠照寺(じょうしょうじ)」へ。ここは当時地方豪族波多野景之の別荘だったそうですが、聖人に弥陀本願の要法を説かれて一族ともども念仏道に帰依した彼は、間もなく空然(くうぜん)と称してこの寺を建立し、行者となったそうな。いわゆる親鸞「初転法輪の聖地」と見なされているところです。近くに「車の道場」と称する本来の聖地があり、そこへもお参りにいってきました。
踝を返して、次は鯖江市横越町にある真宗山元派本山「證誠寺(しょうじょうじ)」へ。
ここは、さきの武生「毫摂寺」の本寺筋にあたるそうです。この辺りは当時「山元の庄」と呼ばれた地域でしたが、やはり御流罪の身としてここにも聖人は立ち寄っており、地元の人々に親しく教えを垂れられたということが、開山の基となったようです。
再びさらに北上、次の宿泊先である福井市に行く途中、国道8号線沿いで、この漫画喫茶を発見。
遅い昼食を取りながらいまカキコしています。
明日は、福井市内の真宗三門徒派本山「専照寺」へ御参りに行ってから、一路金沢へ向かう予定です。


ちんちん 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月13日(月)14時55分01秒

ちんちんは不思議や。
大きくなったり小さくなったり。
立撮即行のお姿はまるで不可思議O如来
ありがたや


空焚きボタン 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月13日(月)14時14分46秒

 ♪ゼニと教えを 秤にかけりゃ
  ゼニが重たい 坊主の世界
  幼なじみの シンランさまにゃ
  俺のこころは お見通し
  背中で吠えてる 空焚きボタン (唄・高倉健)

 おっとっと、こんなことばっかり書いてると今に刺客が。。。
自己レスです。『親分はイエス様』について。今は亡き、弁護士遠藤誠さんの
事務所で仏教勉強会に参加してました。遠藤さんはこう言ってました。

 「私が山口組の顧問弁護士を引き受けたのは、山口組の構成員を全員、仏教徒にしたいが
ためであります」と。どこまで本気なのか。けど、案外本気やろな。でも、事務所には
たった一人しか組関係の人は来られてなかったなー。遠藤さんの運転手として働いておられた。

 とっても目が澄んだ人だった。最初自己紹介があるまでは、スキンヘッドだったので
「どこのお寺さんやろ?ええお坊さんそうやなあ」と思ってたのだけど。

 でもやっぱり『親分はイエス様』なのかな。。。映画をみると、なぜか「内助の功」
みたいなんが目につく。「私は、極妻からキリ妻に変わりまして。。。」
どうも腑に落ちへんなあ。。。これじゃ、唄子・啓介の『おもろい夫婦』やないか。。。


小さなこと 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月13日(月)13時29分34秒

ぐっちんさんはおそらく、いきなり天下国家のことを論じるなんてナンセンスなんや、ということをいいたいんでしょう。ご指摘のような問題点はたしかにありますし、いきなり問題をそこから始めるのは問題がありますよね。「政治の季節」なんて時代はその象徴でしょう。
私の問題提起についてもしご指摘であるのなら、認識の相違があるといわざるをえません。
代案を用意しろといわれても、そんなんいらん、てこたえる真意はそこにあります。なんで帰らなあかんねん、そんな善意はいらんわい!というむしろぐっちんさんに近いかんがえですよ。いのちは大切、それが仏教、非武装平和の憲法はそのブッダの精神を体現したものだ、憲法を仏教の名において守れ、みたいな。つかれるんですは、あれ。ほんまかいな?とも思いますし。そのつかれるわい!というのが小さなことですよ。

すこし理屈っぽく言い過ぎたふしがあったのでそう思われたのかもしれないですね。

で、のどはどうなんでしょうか?


オレたち○族 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月13日(月)13時12分36秒

 黄菊のコロモで やって来て 寺格の高さを ひけらかし
 明日は 吉原 堀の内 中州 ススキノ ウィンズか
 権威を担ぎ 自虐に励む
 Z・O・J・O  ZOJOMAN
 ズィー オウ ジェイ オウ ゾージョーマン
 いくぞ 我らの ゾージョーマン ナハ ナハ ナハ コマネチッ!

 >MANUさん

 残念でした。ちょっと人ごみの中はきついかな、と思いまして。風邪のひき初めのようで。。

 >CHINCHINさん

 いや、存覚教学にもの申す。きちんとやれば、面白い。大谷派説教師にもの申す。
これもきちんと相手に届くコトバでやれば面白い。ところが、「体制に追随」云々といわれ
ればそりゃもう、ごもっとも、こちらとしては反論の余地もない正論でして。。。

 「知識」うんぬんの話は○ちゃんねるの感想でして、ぐっちんのいいたいのは後段。おもし
ろい観点から展開して欲しい、ということ。あと、あなたが出会った「ご本願」もしくは
「親鸞さま」は、どんなささやきで迫って来たの?どうやってあなたを口説いたの、ねー教え
てくんない?。。。


誇大広告 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月13日(月)12時38分47秒

 ちょっと前、俳優の金城武がジ○スのCMでこんなことをしゃべってました。

 「英語がしゃべれると10億人の人としゃべれる」

 そんなアホな。。。ほたら中国語を勉強したら13億の人としゃべれるんかいな。
「今日はエエ日和でんな」「ああ、そうでんな。今週いっぱいこの天気はもちますやろ」
「すんません。この辺で郵便局はおまへんやろか」「あ、この道まっすぐ行って左の角ですわ」
これくらいの話をしているうちは、会話がスムーズに成立しているのですが。。。

 ところが「世界経済の悪化を私は憂える」とか「地球環境に配慮した生活を私は望む」とか
「地上から一切の戦争がなくなって欲しいと私は思っている」とかいう話になると、これがな
かなか大変。いや、そんなこというてもどこから手ェつけてええのやら。。。

 その気持ちにウソはないのでしょう。けれどそれが、他人に受け止めてもらえなければ
「わたしはこんなに世の中のことを考えているのに」とか「みんな何でそんなに呑気に暮らし
ているのだろう」とか「世間のやつらはオレのことがわかってない!もうええ!」といった
思いのように容易に言葉が否定性へと回収されてしまいます。ようするに、ただの文句タレに
なってします。

 この「善意」から出発した気持ちをいかにして「憎悪」という袋小路へ進めないようにでき
るのか?この15年、いいえこの30年この問題について考えてきたとぐっちんは思います。けれ
どそれは、容易なこっちゃない。人の話が聞けるようになって、しかも自分の思いも言葉にし
て相手に届ける事が出来る。80歳くらいになったら、できるかな?でも、やっと会話ができ
るようになったら人生は残りわずか。その前に、耳が遠くなってるかも知れない。。。


Genkoサン 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月13日(月)08時54分56秒

今どこにいるのでしょか?
元気ですか?

>ぐっちんさん

お体いかがですか?体調悪いのにお話してもらったので恐縮です。


ネッ友の輪ですから 投稿者:らくりん  投稿日: 5月13日(月)08時47分37秒

>MANUさん、
そういうことはご遠慮なさらずに、
ぐっちんさんとMANUさんが出会ったのはこの掲示板上の出来事なのですから。
オープンにしても構わない情報であるならば
個人的な連絡にお使いいただいても構わないのではないかと思っています。


ぐっちんさんへ 投稿者:MANU.  投稿日: 5月13日(月)02時18分35秒

 >MANUさん、ノド痛で真カ研欠席します。またお目にかかります。
そうでしたか。お大事に。
ご縁があれば、いずれきっと会えるでしょう。

管理人様、私信ですみません。ここしか「ぐっちん」さんとの接点がないもので・・・(謝)

http://homepage1.nifty.com/MANU/


ネットの問題はネットの上で 投稿者:らくりん  投稿日: 5月12日(日)23時02分17秒

今日ある方から、この掲示板の書き込みについて、お電話とファックスを
いただきました。そのことについて、メールを出したのですが、
不着で戻ってきました。
他の皆さまにもお伝えしたいことでもありますので、ここに転載しておきます。

▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
電話とファックス驚きました。

掲示板というのは完全に公開された場ですから、一旦掲示板に書かれたことは
すべて公開の場で議論されていくのが基本だと思います。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○
     (個人が特定できる可能性があるので伏せ字にします)
そこでの問題を電話やファックスで理解を求めようとすることは
私はルール違反だと思います。

電話やファックスは相手の生活空間や生活時間に食い込んでいく
メディアだからです。
掲示板で知り合った方と、電話やファックスでやり取りを始めてしまったら
時間も身ももちません。

メールならば、こちらの都合によって対応できるという点でメディアとしての
性格は掲示板に似ています。
ですから、
たとえ個人的に直接理解を得たいと思う場合でも、メールでのやりとりが
適切だと思います。

以上よろしくお願いいたします。


非生産的・その2 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月12日(日)20時23分14秒

私が持ち出した問題はいったん胸にしまいます。
ただ真意は以前からいだいていた疑問、問題意識について皆さんに問い掛けたかっただけで、他意はありません。
ぐっちんさんが言われるように、これ以上お話を続けても、あまり生み出すものはないでしょうから、ほんとに。なんとなく平行線のような気もしますし。
らくりんさんはじめ、お付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。


Re:無題 投稿者:らくりん  投稿日: 5月12日(日)20時01分32秒

>あんぽんたんさん
これが一番きつかったりして。
ご忠告ありがとうございます。
いろいろとすったもんだした経緯もありますし、管理人本人も含めて
けっこううるさがたがいたりもしますが、
それはそれでまた「個性」の一つ
おかげさまで、こんな掲示板でも書き込みも来訪者はけっこうありまして、
それなりに続いています。
掲示板は数ありますから、それぞれ居心地のよいところを見つければ
よろしいのでは。


(無題) 投稿者:あんぽんたん  投稿日: 5月12日(日)18時17分33秒

お初にお目にかかります!!友達から聞いて掲示板にはじめてこさせていただきましたが、過去ログを拝見させていただきますとどうも個人的批判や誹謗中傷されている表現が多いような気がします。言いすぎていたらごめんなさい!!相手を傷つけないように注意されたほうがいいかと思います。後感じたことはもっと楽しくわかりやすいような表現をされてみてはいかがでしょうか、しょせんわたしのようなど素人は対抗などできません。専門的知識もあるわけないしね!!どうもあまり感じが良くない掲示板ですね。表現を気をつけられたほうが良いような気もします。たぶん同じようなお仲間が多い感じがしますがもっと楽しくできませんかね!!初心者が生意気いってすみませんでしたごめんなさい!!これでは、初心者は所詮長くつずきませんね。私もこれにてさっさと引き上げます。どうもすみませんでした。


カキコ考・CHINCHIN編 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月12日(日)16時31分28秒

>ぐっちんさんへ

ぐっちんさんがさきほど言われたように罵倒のし合いは嫌ですね。
とはいうものの、知識云々の話は納得しかねます。私は皆さんより知識があるなんて考えてもないですし、ありえません。
実際の過去のやりとりを見てみると、ぐっちんさんの知識は多岐の分野にわたっていますし、知識がなければ入れないような話はよくされているではないですか。私は文学など全くわかりません(文学部卒ですが・・・)し、自分が知識のない分野に話がいっても、知識で罵倒するな、とはならないですが。

なぜ、今になってそのような批判をされるのか分かりません。


そういえば 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月12日(日)16時15分54秒

 お西のお坊さんで山本仏骨という人、いてはりましたなー。
我、骨道を行かん。ちいさなことからコツコツと。。。


有難うございます 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月12日(日)16時14分48秒

かなりえらそうなことを書き込みながら、じつは内心ドキドキ、オドオドしながらです。


(無題) 投稿者:らくりん  投稿日: 5月12日(日)16時08分41秒

CHINCHINさん

「気に入らんやつは無視するのが一番」という言い方がとびかうこの世界で、
だいたいこんだけレスが付くということは、基本的には注目度が高いという
ことですから。

あまり神経異質にならなくてもいいんではないですか。
「言われるうちが花」と思って気楽にやってください。


疑問 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月12日(日)15時58分29秒

何か、皆さんの反応をうかがうと、やはりここではそういうことは語るなというように聞こえます。
私の誤解でしょうか。


反骨、気骨、無骨、白骨。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月12日(日)15時34分59秒

 明治の御世に反骨のジャーナリストあり。宮武外骨その人なり。
余は、宮武先生にあやかり、号を「トン骨」とすとなり。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~dolly/


代替案? 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月12日(日)15時28分44秒

>Genkoさんへ

私の意見に関してたくさんの書き込み有難うございます。
Genkoさん、「おまえら真宗とかいうやつも所詮は体制内の出来事やないか。そこから自由やと思ったら大間違いやぞ」というご指摘ですね。全くその通りです。しかし同時にそのことが課題になるのが真宗ではないか、と思います。その前提がなければ、いかなる批判も真宗的ではないと思います。「五濁悪時悪世界」を生きる「濁悪邪見の衆生」ということを抜きに考えているわけではありません。
私が問題としているのはまさに宗教的言説についてです。これが仏教だ、あるいはこれが真宗だ、として語られている言葉を問題にしているのです。この言葉が「似て非なるもの」ではないか、ということがいいたいのです。あまりに近代的すぎる、と。近代という「悪時悪世界」において語られたこの言葉が私の課題になってきたのです。

じゃあ、その言葉あるいはその言葉によって補完されるという体制の代替案は?ということをおっしゃっておられます(ぐっちんさんもそうですね)が、別にそんなものいらないとおもいます。
反論されるかもしれないですからまずこのくらいにさせていただきます。


カキコ考 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月12日(日)14時51分26秒

 >MANUさん、ノド痛で真カ研欠席します。またお目にかかります。

 さて、純度の問題も「いのちに帰る」という表現がそうはいかんざきなら、親鸞聖人発行の
「良貨」は、CHINCHINさんにとってどういう「ことば」ないし「表現」ないし「例え
話」なのでしょうか?それが聞きたい。まさか存覚が諸悪の根源とお考えになり、撲滅運動を
展開したいのでもないと思いますが。

 さて話はかわって60年代のイギリス。ビートルズがロイヤルアルバートホールでコンサー
トを開きました。それは、エリザベス女王をはじめとする王室御前演奏会でもありました。
ジョン・レノンは何曲かやったあと、MCでこういいます。

 「次の曲は、みなさんにも参加してもらいます。安い席に座ってる方たちは、どうぞお手拍
子(ハンドクラップス)を。高い席に座ってらっしゃる方たちは、身に付けておられる宝石を
ガチャガチャ鳴らしてください。曲は、シー・ラブズ・ユーです」


〇ちゃんねる考 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月12日(日)14時35分38秒

 >CHINCHINさん

 「生産的」。これもピーッ発言かなあ?議論を実りあるものにしたい。あるいは、出会いが
何かを生み出して欲しい、というイメージやけど。某〇ちゃんねるの掲示板を見てると、互い
が持てる知識の山を積み上げて相手を論破せんとやりあった挙句、最後は口汚く罵り合って終
わるものが多いと思います。ああ、君らのご本尊は罵倒観音なんか、と。

 負けたほうはせめて「今日はこれぐらいにしといたろか」と捨てゼリフをはき、あとのひと
が「ドテッ」とこけてお約束の池乃めだかギャグという吉本新喜劇のノリがあれば、あと味も
悪くないのに。。。

 何かを語り合うのは、ああ、そんなものの見方もできるんやなあ、気ぃつかへんかったとか、
ああ、そうやったそうやった、忘れてた、とかいう思いがあるからこそやと思うねんけど。
まあ、ぐっちんなんかも「体制に追随」して久しいけど「ガス抜きじゃない、諧謔精神」を
モットーにしてるんやけど。

 「宗門に風穴をあける」というよりは、「宗門財政に穴をあける」人間でしかないからなー。


皆様へ 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月12日(日)13時48分31秒

今朝この掲示板の管理者であるらくりんさんからご指摘をうけ、直接らくりんさんとメールにてやりとりをいたしました。
まず、私には「試そう」との気持ちであるとか意図的に素性をあかさずにいきなり質問したのではないことを弁明し、ご理解願いました。そのうえで、私がこの問題(「いのちに帰る」)について、考えるにいたった経緯を極々簡単に説明させていただきました。
私は本願寺派の僧侶でGenkoさんからこの掲示板のことをはじめて聞き、以前から是非参加したいと思っていました。
やっと先日PCをネット接続し、ぐっちん様やおじきさんからもお誘いをいただいたので、念願のらくりんバンバンへの参加がかなったというわけです。ネット初心者ですので、無作法なこともあるかも知れませんが、そのときは先輩としてご指摘いただければ幸いです。
Genkoさんの書き込みはよませていただきましたが、時間がないので申し訳ありませんが後ほどお返事差し上げますのでご容赦を。


行ってらっしゃいGenkoさん 投稿者:らくりん  投稿日: 5月12日(日)11時40分12秒

>お浄土への道は少しずつ開かれて来る
かどうかは私のあずかり知らぬところですが、
私はその道を歩んでいこう、歩んでいきたいと思っています。


らくりんさんへ(補) 投稿者:Genko  投稿日: 5月12日(日)09時47分16秒

>まさか「一心に弥陀にたのめ」とは言わないでしょうね?
>(それでは堂々巡りです。)

と私が呼びかけたのは、あくまでCHINCHINさんに対してなのでした。
そこまで分っていながら、という含意を込めてです。


らくりんさんへ。 投稿者:Genko  投稿日: 5月12日(日)09時41分05秒

>「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」です。
>堂々巡りだろうが、無駄な抵抗だろうが、それしか真宗からは出てこない。
>そこに立とうとするかせんかは、自分で決めるしかない。

ありがとうございます。これから旅立とうとする時に、少し気が楽になりました。
やはり、ここでも親鸞の「精神の足跡」をなぞれば、光明は見えてくるのですね。
どれだけ「化けの皮」を剥がされ、赤裸々に罪深き正体が白日のもとに明かされても、
なおこの時代の己れの<愚禿>の<愚禿>たる実相をばとことん直視して突き詰め、
ここから決して逃げることなく、ひたすら<愚禿>に念仏称名を生き抜くことの中に、
「弥陀のはからい」としてのお浄土への道は少しずつ開かれて来る、
ということなのですね。


CHINCHINさんへ一言 投稿者:らくりん  投稿日: 5月12日(日)07時52分17秒

登場早々のご質問に、どういう趣旨どういう意図でたずねておられるのだろうかと
あれこれ斟酌しながら、できるかぎり誠実にしかも言いすぎないように慎重に
言葉と内容を選びながら応答をしてきたつもりですが、
ふたを開けてみたら、CHINCHINさんはすでになにもかもご存じで、
しかもそのそぶりさえ見せずに、しれーっと質問だけなさったのですね。
正直に申しまして。
そういうやり方をされるのはあまり気持ちのよいものではありません。

二年もこういう掲示板をやっておりますと、いろいろな方がやってきますが、
登場早々、ご自分の素性をほとんど明かさずに質問をなさるのは、掲示板の
利用者の間では「あらし」の登場の仕方の典型の一つとされているようです。
それで、今回のような登場の仕方に対してはどうしても警戒してしまいます。
CHINCHINさんを「あらし」だとは毛頭思っておりませんが、
何か今回の一連のやり取りをしてみて、何か「試されている」ような印象を
私は持ってしまいました。
そこまでの知識と見識をあらかじめお持ちであるのでしたら、
もう少し、ご自分のご意見なり、考えなりを最初からお書きになってほしかったと
思います。
そうしていただければ、よけいな想像や苦心を労する必要はありませんでした。
けっこういろいろと気を使っただけに、何かどっと疲れてしまいました。


あぶないあぶない 投稿者:らくりん  投稿日: 5月12日(日)07時40分27秒

油断をしていたら、すんでのところで、過去ログの保存が途切れるところだった。
このところペース早い。


Genkoさん 投稿者:らくりん  投稿日: 5月12日(日)07時37分32秒

>まさか「一心に弥陀にたのめ」とは言わないでしょうね?
>(それでは堂々巡りです。)
こういう、あらかじめ出口を塞ぐような質問に対しては、
あえて、そこを突くしかないですね。
「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」です。
堂々巡りだろうが、無駄な抵抗だろうが、それしか真宗からは出てこない。
そこに立とうとするかせんかは、自分で決めるしかない。

それ以外の別の「有効な」方法があるのなら、ご教示いただきたいのはこちらの方です。

>薄野小魔王さん、
大事なことを言いたいのならちゃんと自分の責任において言え。
権威に語らせようとしても誰も耳を傾けてくれませんよ。


「ごみハエ戦争」について何を思う!? 投稿者:薄野小魔王  投稿日: 5月12日(日)07時29分05秒

 ある対談で木村義雄十四世名人と升田幸三八段(当時)が激しくやり合った。
  升田「名人なんてごみみたいなものだ」
  木村「名人がごみなら君はなんだ」
  升田「ごみにたかるハエみたいなものだ」
  木村「君も偉そうなことばかり言ってないで、一度くらい名人戦にでてきたらどうだ」
 NHK将棋講座4月号別冊付録 NHK杯名局探訪シリーズ 第1回〜第5回次の一手より
 この議論を大谷派僧侶に当てはめるとこうなる。
 若僧「黄菊色(上座一等)の衣などごみのようなものだ」
 老僧「黄菊色と八藤小紋がごみならお前はなんだ」
 若僧「白骨にたかるハエのようなものだ」
 老僧「お前も偉そうなことばかり言ってないで、早く本栗皮(上座一、二、三、四等共通衣体)ぐらい着られるように本山にお参りするか(法揄チ算)、お葬式をバンバンやったらどうなんだ」  


真宗教学の中心問題 投稿者:薄野小魔王  投稿日: 5月12日(日)06時50分35秒

 曾我量深師が異安心事件によって大谷大学を辞任(1930年)してからまた戻ってこられたときに、「親鸞教学の中心問題は何処にあるのか。これが判らんものは大学を去るべし!」と言われたそうだが、「仏教、殊に浄土真宗の肝要とは何か」と聞かれて前門台下(光暢師)ならば、「念仏を大事にするという一語に尽きる。念仏成仏是真宗。念仏以外にない。」とお答えになるであろう。ただ、六字の名号はわたしたち一切衆生に如何なることをはたらきかけておられるのか!?このことをわたしなりに愚考すると、『教行信証』信巻の「欲生釈」を拝読することに行き着くのではあるまいか!?
 参考文献
安田理深・茂田井教亨著『不安に立つ 親鸞・日蓮の世界と現代』東京新聞出版局
田原由紀雄著『祖師に背いた教団』白馬社
真宗教学研究所編『近代大谷派年表』東本願寺出版部 


無間地獄。 投稿者:Genko  投稿日: 5月12日(日)04時07分17秒

これが、例えばCHINCHINさんの言う私達の「体制」という概念の一具体像だとすると、
ここから超脱するための理路は、どうしたら獲得できるのでしょう?
まさか「一心に弥陀にたのめ」とは言わないでしょうね?
(それでは堂々巡りです。)
らくりんさん。薄野小魔王さま。その他のここの参加者の皆さん。
お分かりでしたらどうか教えて下さい。


いささか滑稽? 投稿者:Genko  投稿日: 5月12日(日)03時52分42秒

そうすると、「バラバラでいっしょ 差異を認める世界の発見」とは、
経済的には、各人顔の違う門徒(=消費者)さんたちに対する、
それぞれ最適な法話(聞法)や仏壇仏具の「多品種少量生産」と同義語であり、
宗門や独自の教学が、未だに資本制と無縁な「市場社会の<外部>」だと<信仰>しているのは、
せいぜい現代の真宗僧侶たちの<幻想>に過ぎないということになるのでしょうか?


「既得権益」の所以!? 投稿者:Genko  投稿日: 5月12日(日)03時27分13秒

>薄野小魔王さま。

 >ところで、近代における東本願寺の主要な収入源は「相続講」による「礼金」だ。
 >つまり、「相続講」「院号法名」「法揄チ算」の3本柱・・・

確かにわが国の「近代」史とは、そのまま近代資本主義の形成過程とパラレルでした。
真宗各派といえども、従ってこの歴史的背景に社会的に組み込まれて成長してきたのは当然です。
私が、本年2月6日(水)のカキコで次のように述べた趣意は、実はそこを示唆したかったのです。

 >資本主義は、己れにとってのあらゆる<差異>や<外部>を、絶えず<再領土化>し、それに >よって再び拡大再生産しながら延命していきますから、宗教が<外部>という逸脱領域を産出 >しても、すぐに<捕り込み>を開始します。」(『産業?』 13時36分37秒)

即ち、経済学的にはこの時点で、真宗もまた他の一切の宗教のご多分に漏れず、本山(宗門)内外ともども資本主義に<捕り込まれ>、「佛・法・僧」丸ごとその<市場>となり、次第に<商品化>されていったというわけです。
本人たちの意図せざるまま、その当事者たちが歴史的に加担させられた具体的な成立過程が、なるほどこれでよく分りました。


「帰ろう もとのいのちへ」の所以!? 投稿者:薄野小魔王  投稿日: 5月12日(日)01時45分46秒

 真宗大谷派(東本願寺)において1998(平成10)年に執行された蓮如上人五百回御遠忌法要のテーマは「バラバラでいっしょ 差異を認める世界の発見」だった。ところで、「蓮如法要」が終わった後に本山、東本願寺前の掲示板(阿弥陀堂門の隣)に掲げられた言葉が「帰ろう もとのいのちへ」である。ところで、近代における東本願寺の主要な収入源は「相続講」による「礼金」だ。
 つまり、「相続講」「院号法名」「法揄チ算」の3本柱(このシステムを最もよく理解していたのが、渥美契縁、石川舜台、句佛上人、清沢満之、阿部恵水、「念仏総長」暁烏敏、「改革派の総帥」訓覇信雄、嶺藤亮といった方々、そして「稀代の詐欺師」吹原弘宣、最後にわたしの祖父○×▽▲も含むことができる)が、近代大谷派における集金システムの根本たる、巨大な基軸となっているのである。つまり、「帰ろう もとのいのちへ」という言葉は、この巨大な基軸を肯定する宣伝文句、キャッチコピーとして大多数の「本店の役人」、そして「大谷派僧侶」が用いているのである。
 ただ、わたしは「帰ろう もとのいのち」という言葉そのものが浄土真宗の宗義に違反するとは思っていない。何故ならば、「法燈の護持」を具現する言葉であると愚考するからである。


※らくりん注:過去ログ掲載に当たり、投稿者の希望により一部の実名を伏せ字にいたしました。


河原町界隈にて。 投稿者:Genko  投稿日: 5月12日(日)01時00分37秒

夕方、東本願寺を横目に、京都は四条河原町に入りました。
このまま深夜を敦賀あたりまでかっ飛ばしても良かったのですが、
バイク上があまりに寒いので諦め、先斗町・木屋町など散策してやっと漫画喫茶を発見、
今夜はここで泊まることに。
明朝福井へ向かうことにします。


>CHINCHINさんへ

 >・・・ここに体制に迎合する教学や教団をささえてきたイデオロギーを感じます。

とありますが、まさか、この文脈から、CHINCHINさんのおっしゃる「体制」が、
(おそらく東西真宗の)「教学や教団」だけを指しているとは考えられませんから、
ますます分らなくなりました。
私事で恐縮ですが、自分もかつては「反体制」を標榜していた者の一人でした。
しかし、現在では自分も含めてかつての「オールド左翼」や「新左翼」諸氏の殆どは、
行動的にはむろんのこと、理念的にもこの言葉自体の使用を、
(おそらくは最低限度の誠意から)極力差し控えざるを得なくなっており、
みんな一種の<失語症>に近い、歯痒い感覚すら抱いています。
そこで問題提起なのですが、もしかすると、この言葉は現在、以下のような理由で、
<政治的リアリティー>をかなり喪失した<死語>と化しているのではないでしょうか?

1)今日では、定義として「体制」という概念が果たして厳密に何を指すのかが、
  (漠然とは了解できるものの)殆ど不可視のものになりつつあること。
2)とりあえず当該の「体制」という概念が、仮に、
   @「市民社会」(=ブルジョワジーの? シトワイヤンの?)、
   A「資本主義的世界(グローバル経済市場圏)」、
   B(日本国という)「政治的国家」、
   C上記@からBの全部を総合したもの、
  を指すとしても、そのうちいずれか(のイデオロギー)に、
  「反対」ないしは「対抗」する立場に立脚しようとする場合に、
  あらかじめそれに代わる(あるいはそれを凌駕するに足る)
  オルタナティヴな「プログラム」や「社会イメージ」の全体化構想が、
  著しく提出困難な段階に来ていること。 等々。

ですから、まず手始めに、その代案を是非具体的にご教示下さいませんか?
何故なら、対象を「体制」ということばで批判的に語った以上、発語主体(者り手)は既に、
そうではない立場(即ち、例えば「反体制」或いは「オルタナティヴな社会」など)に、
(己れの一部ないし全部が)超越的にその身を置いていることになるからです。
さもなくば、<主体>抜きの批判的ディスクールとなり、単なる無責任どころか、
再び、その<客体>に回収されるだけを永遠に反復することになってしまいかねません。
もしそうなら、かつての私達の愚を犯すだけであり、同じ轍を踏む結果になりかねず、
まことに残念でなりませんから。
ちなみに、私自身、「反体制」とは一体どこへ行く道筋なのか、
換言すれば、真に「体制」に迎合しないで済むとは如何なる生き方なのか、
殆ど「無明の闇」となっています。
(例えば、釈迦や親鸞がそうだったのだ、と言葉で言うのは簡単ですが・・・)


(無題) 投稿者:らくりん  投稿日: 5月12日(日)00時45分06秒

大谷派のいわゆる近代教学という場合は清沢満之以後ということになるというのが
私の認識ですが、
「いのち」が頻繁に使われるようになったのは、
私の印象(印象にすぎませんのであしからず)ではここ30年ぐらいの
ことではないかと思ってます。
少なくとも大谷派のいわゆる近代教学を確立した(と私が思っている)曾我量深先生や
それを後継した(と私が思っている)安田理深先生などの講義録や論文にはそのような
言い回しを見たことはありません。
大谷専修学院の学祖である信國淳先生に「いのちは誰のものか」という講演録が
ありますがこれも「いのちの根源に帰れ」という類の意味ではありません。

で、CHINCHINさんがお尋ねの、聖教の中にその根拠があるかということでは、
私は、聖教の中にその根拠があるとは思っていません(あるいはその根拠が仮にある
としもそれが何のどこであるのかは知りません)。


「鬼燈」=「あか」のいまひとつの表現 投稿者:薄野小魔王  投稿日: 5月11日(土)22時04分49秒

 それは、「血」である。
  尤も、日本語の「チ」は古語辞典等によれば「霊的なるもの」という意味であるという。日本語の「イノチ」は「イ」つまり息のチという意味であると言われている。とすれば、山河国土全体に貫いた「血」とは存在全体を貫く精妙で霊的なるものということになるであろう。
        真宗文庫版『歎異抄聴記』524頁より
 さて、わたしが「ヤミノツチグモ」ではなく「タマノミナモト」という7文字に如何なる意味を込めたのか、「タネを明かす」ときが来た。それは、馬の名前でもなければ、九段の北にある神社に眠っているらしい?「英霊」でもない。「タマ」を「仏」或いは「覚」と換言し、「ミナモト」という語は「菩提心」と言い換える。すると、「法燈の護持」を可能にする根拠が明瞭になるのである。


ぐっちんさま 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月11日(土)21時35分33秒

そうでなくて、もともとは大谷派でなぜそのようにゆうのか、が問題の原点です。私は本派の人間ですから、初めて大派の法話を聞いた時からずっと違和感をもって聞いていたので、それをらくりんさんや大派の方に問いかけているのです。
そして私が思う仮説としては近代思想と真宗教義とが交流するうちに大派においてさかんに言われるようになったということ。それを質問してるのであって、オニシの問題(広義ではそうもいえますが)を問いかけてるのではありません。


佛佛交換 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月11日(土)21時22分40秒

 ま、そんなに早まらず。ぐっちんの掲示板じゃないんだから。存覚の教学というものを
ぐっちん知らないし(昔、六要抄の現代語訳を読み、習俗関係で気になり見聞集だったか?
もちらりと読んだけど)、どこにどういう影響があるのですか?O村英昭さんが持ち上げ
お西では相当影響あるんですか?そんなお説教が流通してる?


ユーモア 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月11日(土)21時14分27秒

私はユーモアに対する評価は五分五分ですね。


贋金づくり 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月11日(土)21時08分08秒

 まあ、「いのちに帰る」という表現は、ふやけてて鋭さを感じられない
表現には違いないですけど。

 イエスにパリサイ学者がたずねました。「先生、ローマに税金は払うべきですか?」
イエス応えて「その硬貨には誰の顔が描いてあるか?」「シーザーですが?」とパリサイ人。
「皇帝のものは、皇帝にカエサルべきものだ。しかし、神のものは神に返そう」。。。

 毅然とした批判的態度のなかにあふれるユーモア。そんなイエスが大好きです。


非生産的 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月11日(土)21時03分54秒

生産性のある話、建設的な話、親鸞を語る掲示板も産業社会なんですね。
わたしは、いつも非生産的かも知れませんが、そんな話はするなと言われたことはありません。ぐっちん様とは全然知らない関係でもないのでショックです。産業社会に生きながら産業社会に染まらない、それが私からみた勝手なぐっちん様象でした。
十分に理解されぬまま、生産的でないという理由で、純度うんぬんという誤解のうちに話をやめなければならないのでしょうか?まあ、やめろといわれてまで話すこともないですから、分かりあえないうちではあり残念ですが、この話題はやめましょう。


純度やなくて! 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月11日(土)20時35分26秒

別に純粋なるものを求めてるわけではないんですが。
皮肉は苦手なんで許してください。


勉強になります 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月11日(土)20時32分48秒

 七年ほど真宗とは、無縁でお聖教を開いた事がないので、存覚?ああ、そういう人
いたなーという認識でした。

 悪貨は良貨を駆逐するなんてこといいますけど、「悪貨」を回収するとともに「良貨」
とはいかないまでも、0.001%でも純度の高いものを流通させる方にアタマを切り替えたい
と思うような今日この頃でございます。


KOTOBA 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月11日(土)20時25分29秒


>ぐっちん様

確かに言葉だけが勝手に何かをするわけがありませんが、私たちが言葉によって行動や思考をしばられているのも事実です。仏教でも唯識などはそのことを明快に教えてくれますよね。
具体的な場面を捨象しているわけでなく、現在の浄土真宗そのものがまさにその具体的場面である、といっているのです。
そしてご心配のように、そんなに力んではいきてないですのでご安心を。
ちなみに私は文学的センスはありませんのでストレートにしか表現できないのが短所です。あしからず。


顛倒虫がしゃしゃり出て〜 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月11日(土)20時10分23秒

 過去ログで、「差別語」論争がありました。「啓蒙」と「片手落ち」。
是非お読みくだされまし。後者にはぐっちんも参加しました。

 決してコトバだけが「宙」に浮いて宗門を「護持」したり誰かを差別したりしない
わけでありまして。CHINCHINさんがその問題意識を持ち、またここで書かれることに
対してどうこういうのではありませんが。具体的な場面を捨象しても、生産的な議論にならな
いわけでして。

 ご自分がどこかで、おしゃべりするときにこの問題を意識されるとか、どこかのお座でお説
教師の先生が護法・護教的な意味で「いのちに帰る」というお話をされたりしたとき質問され
るとか。

 「あくまでオレは体制に追随しないぞー」と日頃から必要以上に頑張られると、ご自分が
大変しんどい思いをされ精神衛生的(最近、このコトバは精神保健とかわりましたが)にワル
いのではないか等と心配したりなんかします。

 ぐっちんは、自分の批判精神をストレートに表現するのでなく皮肉やブラックジョークや
揶揄することの技を磨いてそれに代えたいと日頃思ってマス。


どないでもなるねや!! 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月11日(土)19時44分54秒

ぐっちん様、有難うございます。
どうとでもなる。まさにそこが問題なのです。それが体制に追随するイデオロギーではないですか?「いのち」も「帰る」もらくりんさんやぐっちん様の今までのお話からすれば親鸞とはあまり関係のない言葉で、かなりあいまいなものです。そのルーズさゆえに、体制にからめとられる危険性が常につきまとうのです。事実、東西両本願寺の歴史はそのルーズさを巧妙に利用して体制に妥協し、組織を「護持」(護法などという便利な言葉もありますが)してきたではないですか。

視点を歴史的な問題、その由来にうつします。
真宗教学史で存覚教学においてはじめて登場する「いのちに帰る」説、
>寿命は一切の根元なれば、諸仏も弥陀の智慧より流出し、衆生もまたかの寿命よりいでて、かへ>りてみな如来の寿命に流入すべきなり。(『顕名鈔』真宗聖教全書3・340)
というやつです。存覚は十代のとき西山派の教学をまなんでいますから、その影響だと思われます。
これが浄土真宗の歴史で「いのちに帰る」という言い方の根拠となり、それがその根拠さえ忘れられて語り継がれてて、近代以降、大谷派近代教学においてクローズアップされたのではないでしょうか?
存覚の教学の性格が体制に従順な要素(ぐっちん様が言われる「いまいる場所の点検」をはばむ要素ともいえるでしょう)を含むことはいまさらいうまでもないですが、その基礎としてこの「いのちに帰る」説があるようにおもいますが。




そっかぁ〜 投稿者:らくりん  投稿日: 5月11日(土)19時03分46秒

「還浄」問題がらみの質問でもないのか。もしかしたらその辺にからんでいくのかな
と思っていたりもしたんだけど。


翔んで跳んで飛んで回って周って廻るうう〜 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月11日(土)18時57分55秒

 らくりんさんの「三願転入」論もおおいに啓発されました。三願回転入(さんがん
「え」てんにゅう)じゃないかと。

 回る・・・・コマのようにまわる。(同じ位置でまわる)
 転がる・・・タイヤのようにまわる。(別の位置に移動してまわる)

 還と帰も、還の方はぐるっとまわってもとの位置にかえる。帰の方は、あるべき位置に
かえる。とまあ、違いがあるのじゃないかな?あくまでおおざっぱなハナシ。

 で、インドは円環的時間論でした。(ごくおおざっぱにいって)ギリシアも円環的時間論
であったけど、キリスト教の神学者たちが対決したのは、この円環的時間論的世界観でした。
アウグスティヌス他をごちゃごちゃ読むと頭がいっそうごちゃごちゃするけど、死んだらと
いうか、「元の位置にかえる」時間空間論を打倒することに神学のエネルギーが注がれている
印象がありますけど。

 でもまあ、ぐっちん思う。「いのちに帰る」というタイトルでハナシをしてもCHINCH
INさんのいわれる「体制に迎合する教学やイデオロギー」になることもあるし、「いまいる
場所の点検」のようになるかもしれないし。


還浄の議論はつまらん 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月11日(土)17時15分29秒

ぐっちん様に教えていただいたことろにアクセスしてみましたが、例のオニシのつまらん議論ですね。知ってますよ、あきあきするような話。
あの前提には死後往生即成仏というオニシの教学があるので、吐き気をもよおします。
あれと混ぜちゃあダメだめ〜
別個の問題として考えてくださいね!


う〜ん 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月11日(土)16時55分23秒

>ぐっちんさま

 単に還浄の問題としてではなく、ぐっちん様の言われる、”「いまいる場所」の点検”を邪魔するものとして「帰る」という表現を問題にしてるのです。


ミルクと混ぜなきゃダメダメ〜 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月11日(土)16時39分42秒

 >CHINCHINさんへ

 いわゆる「還浄」問題ですか?ぐっちんは、ちょっと前に「ことば考」にも書きましたが
このコトバを絶対使たらいかん、ということは思いませんからね。ちょっと待てよ、で考える
というのはアリと思いますけど。

 らくりんさんから大きな示唆を受けたのは、「往生は、方向性の発見」という観点かな。
ある場所に「到達」することをもって「目的」とし、その「手段」として「いま」がある
といった考えじゃない観点。大海原で、北極星を見つけ、「方角」が解って進んでいくの
だけど「北極星」には「到達」しないと思うけどね。星はずっと見上げるもの。照らされる
もの。

 「もといた場所」よりも「いまいる場所」の点検が大事じゃないかな?あと、この「帰る」
とか「往く」は、時間論とからみあってて複雑な問題だと思います。

http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/02_01_24.html


どこに帰る?パート2 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月11日(土)16時35分42秒

ぼくらはどこから来たのか?
やっぱりメチャクチャなことだらけのこの世界でしょう。
どんなに居場所がなくたって、ここがぼくらの「すみか」じゃないですか?
ん?阿弥陀なる根源にふれた?でも君はここにいるし、そこはあなたの「すみか」じゃないよね。

ZONEの歌、ぐっちん様に共感しつつ、気が付けばZONEかわいいよな、みたいな場所に「帰って」きてました。


ぐっちん様 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月11日(土)15時34分14秒

そういうことならあえて「帰る」といわずに「往く」のほうがやはりいいんじゃないですか?


著作権一切無視 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月11日(土)15時25分11秒

 『夢のカケラ。。。』  唄 ZONE 
 
 君がくれたもの 君がくれたもの

 気がつけば ボク達 明日を見失って 何か大切なモノを 今は忘れてる
 あの長い坂道 夕焼けに染まって ふざけ合いながら二人 語り合っていたね

 今 悲しみと苦しみを うまくかわしてる 今 嬉しさと優しさに 震えてる

 君がくれたもの (夢を) 信じることの勇気 変わらない気持ち いつも胸に刻んだ
 君がくれたもの (夢は) 暖かくて優しい ボクの未来に 輝き続けているから
 
 何度も立ち止まり かすかに見えてきた 細く長いこの道を走り続けてる

 ※ZONE・・・札幌を拠点に活動を続ける平均年齢15・6歳の女性バンド。

 ぐっちんは、何聞いても宗教ソングに聞こえます。「君がくれたもの」は善知識から
受け継いだお念仏とか、アミダさまから賜った信心とか。。。「今は忘れている」は、
昔は知っていたというより、いま届いていながら気付いていないという意味に取ります。
(そうすれば、もといた所へ帰るというニュアンスは避けられる?)

 >Genkoさんへ

 ちゃんと「帰っ」てきましょう。


どこに帰る? 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月11日(土)15時23分30秒

「浄土にかえる」は過去の念仏者から伝えられてきた言葉ですが、ここに体制に迎合する教学や教団をささえてきたイデオロギーを感じます。
私が帰るというときには、決して浄土におもむくことではありえませんが??????


それはそれは 投稿者:らくりん  投稿日: 5月11日(土)14時45分17秒

ごくろう様なことです。うらやましい
お気をつけて。


さすらいの旅にでます。 投稿者:Genko  投稿日: 5月11日(土)14時26分26秒

前回は韓国ソウルから報告いたしました。
私は今、大阪は心斎橋アメリカ村にいます。
さて、失業中の強みを生かして、今日から「親鸞聖人足跡巡礼ツーリング」の旅に出発します。
全行程9日間の予定で、バイクでまず京都市内より琵琶湖西岸を回り、
北陸・上信越一帯〜北関東周辺を回遊してくるつもりです。
聖人が流された居多浜や恵信尼廟などはもちろんのこと、
ゆかりの地を可能な限り訪れようと思います。
ついでにもし余裕があれば、新潟の良寛記念館まで足を延ばしてきたいものです。
本当は昨日が出発日だったはずなのですが、あいにく雨にたたられて、だめでした。
道中、インターネットが出来る場所がタイミング良く見つかれば、
そこから探訪記をカキコできるかもしれません。
裏日本のあのあたりは、いつも天候不順だと聞きます。
雨が降る度に足止めをくらいますから、
果たして予定の全部を消化できるかどうか定かではありません。
事故や病気など事無きを得れば、多分20日までには東京に帰っていることでしょう。
それではみなさん、お元気で。


帰命 考 投稿者:らくりん  投稿日: 5月11日(土)14時15分58秒

「いのちに帰る」というような言い方は、推測するに「帰命」からの連想で
出てくる発想ではないかと思います。

「帰る」というのを「帰す(きす)」と読むならば用例はいくらでもあります。
166 もし人、我を念じ名を称して自ずから帰すれば、
189 選びて正行に帰すべし
235 永く常楽に帰すべし……
この場合は「かえる(go back return)」という意味より「帰依・帰命する」
という意味になります。

「帰命」については宗学では伝統的に「帰命の三義」というとらえかたがありまして、
(1)帰投:生命を仏に投げ出す、(2)教命に帰する(したがう)
(3)いのちの本源に帰する
がそれです。
今問題になるのは(3)になると思いますが、この場合でも「帰する」は
「帰る」という意味ではなく「帰依する」の意味です。

この「帰る」と「帰す」が混同してしまっているのではないかという気がします。

ただ、慣用的に「浄土に往生する」ことを「浄土にかえる」という言い方は
私もまったくしないわけではありません。


ブラウン神父シリーズより 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月11日(土)13時51分08秒

 >いったいどのようにして人は殺人を犯すようになるのか、それにわたしは思いをこらし
 >ました。わたしに殺人犯の心情が理解できるようになるまで、そのことを考えぬきまし
 >た。凶行に踏みきることを自分に許しこそしなかったが、そのほかの点ではまったく殺
 >人犯になりきったのです。このやりかたは、宗教修行の一法として、むかし友人から教
 >わったものです。(略)当今に言う科学は知識どころか知識の抑圧です。なにしろ、わ
 >たしどもの心に近く親しい事柄を、手のとどかぬ遠方の不可思議として理解したい、と
 >いうのだから。(略)わたしは人間を外側から見ようとはしません。わたしは内側から
 >見ようとする。(略)人間は自分がどれほどの悪人なのか、どれほどの悪人になりそこ
 >なっているものなのか、それがわかっていないうちはいくら善人ぶっても何にもならん。
 >なにか犯罪のことを聞いてしたり顔に眉をひそませたり、あざ笑ったり、一万マイルも
 >遠方のジャングルの猿の話でもするように<凶悪犯人>のことを話したりするというの
 >は、いったいどういう権利が自分にあってのことなのか。。。


 現代における愚かさは、知性なき愚かさではなく、知性に満ちた愚かさである。  
                                    藤元正樹


ミッション・バラバ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月11日(土)13時31分34秒

 というヤクザの足を洗ってキリスト教の伝道をしている人達の映画がありました。
『親分はイエス様』。HPには、元ヤクザの方の肉声も聞けるけど、これではイマイチ
内面がよくわからん。

 >薄野小魔王さん

 バクチに題材をとってる福本伸行の漫画、どう思いますか?

http://www.netpal.co.jp/barabbas/index03.htm


帰る? 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月11日(土)13時27分00秒

らくりんさん、お答え有難うございます。たしかに「いのち」という語の問題点についてはおっしゃる通りですし、同感です。
私の言い方が悪かったのかも知れませんが、私の問題にしているのは「帰る」という言い方のほうです。

帰るとは、もといたところ、自分が普段の生活の根拠地にしている所に戻る、という意味ですよね。
「いのちに帰る」というほかにも、「自己の根源に帰る」などといいますね。そのような「帰る」の用法がはたして親鸞の示した真宗なのか、疑問なのです。「お浄土は存在のふるさと」などという言い方もそれに通じると思うのです。
この言い方であれば、個々の生命というのは、根源的生命(涅槃とか真如とかと同義?もしくは無量寿?)というのがあってそこからやってきたんだが、現在そのことを忘れてしまっている、あるいはアダムとイヴのごとくそれに背いてこのキタナイ世界にいるんだ、だからそのことを思い出させるのが本願であり、念仏なんだ、ということになります。

私たちは果たしてそんな世界からやってきたんでしょうか?親鸞においてそんなことが言えるのか、と言うのが私が問題にしているところです。
それは親鸞が聖道の教えのように娑婆即寂光土とは言わなかった、ということとも関わりがあるように思うのですが。


浄土教はいのち教か? 投稿者:らくりん  投稿日: 5月11日(土)08時05分00秒

この問題は、この掲示板や先に紹介した兄弟掲示板でもなんども話題に
なりました。
ちょっと過去ログを「いのち」をキーワードに検索してみたんですが、
あまりにも多くあるので、どこを見てくださいと限定できないほどでした。

「いのち」という語は、いろいろな意味合いで使われる言葉ですが、
基本的には生物の「生命」、物事の「一番大事なもの」(それがなければすべてが
意味を失うようなもの)という二つが主な意味ではないかと思います。
そしてその二つはしばしばどちらの意味であるか明確ではないような形で
混用されているように思います。したがって、言い手と聞き手がちがう意味で
使っていても話が進んでいくという「珍」現象がおこりやすい言葉の一つでは
ないかと思います。

私は基本的に「生命」という意味で「いのちの尊さ」は親鸞からは出てこないのでは
ないかと思います。それはいのちを粗末にしてもよいという意味ではありません。
しかし親鸞が問い続けたことは「空過(むなしくすぎる)」ということではないか
と思います。それは「いのちを大切に」するということだけでは解決のつかない
問題です。
CINCHINさんが紹介した、「いのちに帰る」「もとのいのちに帰る」という
フレーズはどちらかといえば「一番大事なこと」という意味のほうで使われている
と思います。
もしかしたら真宗関係者は、そんな「浅い」意味ではなく、
「無量寿」とか「阿弥陀のいのち」というようなもっと深い意味が込められている
と言うかもしれません。もしそうだとするならば私はきちんとそのように
言うべきだと思います。単に「いのち」と言ってしまうことによって「生命」の
重要さと宗教的な根源性とをオーバーラップさせて、受け容れやすくしてしまって
いるように思います。私は誤解を利用した言葉の使い方であるように思います。

絶対に使ったらいかんとまでは言いませんが、
「いのちに帰る」「もとのいのちに帰る」、あるいは「いかされて生きる喜び」
というようなことからどういう回路で「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」
というところにつながっていくのか、私にはわかりません。
少なくともこのフレーズには、真宗の独自性のかけらもみあたりません。
真宗でなくてもどんな宗教教団でもそのまま使える表現です。

私のホームページの「ひらけごま」(文書庫)にこの問題について書いた小文を
アップしてありますので、ご一読いただければと思います。
これは大谷派が発行している「今日の言葉」という小冊子に掲載されたものですが、
ときどき各地で質問や反論を受けます。けっこう波紋を起こしているようです。
リンクを下に入れておきます。


らくりんさん!! 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月11日(土)00時04分08秒

とてもご親切なお答えありがとうございます。
CHINCHINはとっても感激です。
なんでもありということなんで、らくりんさんはじめ特に大谷派関係のかたにひとつおききしたいことがあります。
大谷派において親鸞の思想を語るにあたってよく「いのちに帰る」「もとのいのちに帰る」という言い方がされますが、あれはいったい親鸞のどの言葉をもってそのように言うのでしょうか?
私はそのような物言いは親鸞からは導きえないとおもうのです。本願寺教団教学においてそのような物言いの根拠になる言葉を探すとはじめて登場するのは存覚においてではないでしょうか?覚如にもそのような思想は私の知るかぎりではみうけられません。
本当に親鸞の思想なのか、その根拠を教えて下さい。


悪人往生論 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月10日(金)22時32分38秒

 英国のカトリック作家、ギルバート・キース・チェスタートンが作り上げた名探偵が、チビで
太っちょのブラウン神父。彼が難事件を解決する秘密は、自分が犯人そのものに成り切ってしま
うという方法です。

 「あなたがたが犯罪を恐ろしいと思うのは、自分にはとてもそんなことはできないと思うから
でしょう。わたしが犯罪を恐ろしいと思うのは、自分もそれをやりかねないと思うからなのです」 参考;創元推理文庫


CHINCHINさん 投稿者:らくりん  投稿日: 5月10日(金)19時07分14秒

はじめまして、管理人のらくりんです。

>ところでここは吉本の親鸞を論じるところなんでしょうか?
とのご質問ですが、ここは別に何を論ずるかというテーマを設定しているわけでは
ありません。
わたしとしては、基本的には「なんでもあり」というつもりでいます。

だいたいは親鸞のことが気になる人が
親鸞をめぐってあれこれ、あーでもないこうでもないとやっています。

2年間分の過去ログもアップしてありますので、
この頁の最下段の「ホームページへ」からお入りください。

また、この掲示板の成り立ちから言いますと、下の掲示板の兄弟掲示板というような
位置づけで、そちらでは基本的に『教行信証』にしぼって話そうということでした
ので、それ以外の話題についてはここでと思いプライベート板を開設しました。

ちょっと「こわそう」な印象の書き込みもありますが、書き込みなりロムなり
それなりにお楽しみください。


http://member.nifty.ne.jp/vita/zen.html


学生以外の喫茶店 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月10日(金)19時06分32秒

 狂信さんの書きこみ、削除だって! そんな○○○!

 共同幻想テストやってみました。う〜ん、難しい。「個人」というのは、「近代」が用意
した言葉ですかー?じゃあ、問3は、家族、国家、個人かなあ。それとも、昔は「赤ん坊」
が産まれたら即、部族の子供になって、部族=国家と考えると、みっつが同時に誕生!とか。
うちのお父ちゃんは、家庭をかえりみず仕事に没頭する人。あそこのお母さんは、大きくな
った息子を自分の目に入れても痛くないほど溺愛し、一心同体とか。。。で、問4もひとそ
れぞれ。

 15年も以上前、立花隆の『中核VS革マル』という本を読みました。そこに、中核と革
マルという違う政治セクトに所属する男女が恋をするというエピソードが出てきました。

 ぐっちんが行った学校に臨済宗のお寺の娘さんと、自衛隊の女の子がいました。「ぐっちん
さんってどこの宗派ですか?禅には興味ないですか?」といわれ、フラフラ。「ぐっちんさん。
あたしも関西出身やねん。東京へ出て来て関西弁でしゃべったら彼氏に嫌われたわ。でも、これ
から関西弁どうどうと使うわ。あたし、けったいな人が好きやねん」

 「恋を取るか、おのれの信念を取るか」 永遠の課題です。。。


はじめまして 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月10日(金)16時36分50秒

はじめまして。
ぜひ参加させていただきたく、はじめて投稿します。
ところでここは吉本の親鸞を論じるところなんでしょうか?
違うと思って参加したのですが、念のためどなたか教えて下さい!


削除報告 投稿者:らくりん  投稿日: 5月10日(金)16時12分15秒

本人の希望により狂信さんの書き込みを一つ削除しました。
ただし、テキストファイルで保存してありますので、いつでも復活できます。
(過去ログには残りません)


非常に反省しております 投稿者:狂信 ☆彡  投稿日: 5月10日(金)15時42分19秒

無意味な書き込みをしてしまいました。m(__)m


ぐっちんさんへ。 投稿者:Genko  投稿日: 5月10日(金)09時09分31秒

ありがとうございます。

>それにしても吉本をなぜゆえ、そんなにかばわれるのかなあ。

私は、吉本さんをかばっているつもりは毛頭ありません。
けだし「批評」とは、こちらの感情や主観を排し、対象とされる事実に、能う限り即して評価することと常日頃心得ます。
そりゃあ人間ですから、にもかかわらずしばしば誤読や勘違いはつきものです。
ただ、そんな場合は、率直にご指摘・反論もしくはご批判下されば良いだけの話です。
私は、吉本さんに限らず、あらゆるテキストに対して、事実誤認やミスリーディング(と私が判断する場合)があれば、「それはそうではなくて、かくかくしかじかではないのか」と解釈学的に指摘する必要性にかられるので、これをしばしば実行するだけです。
しかし、こんなことなら、ぐっちんさんの他にも、ここのサイトの参加者の多くも、形を変えてしばしば行っていることではありませんか?

>全員唯の馬鹿野郎どもだ
>などと、ぐっちんは思いませんけどねえ。。。

これに関しては、従って謝ります。
私は、過去ログとの文脈的前後関係を調べていませんでしたから。
ただ、かく言う私も、何もぐっちんさんが「全員唯の馬鹿野郎だ」と思っていると批判しているわけでは決してなく、読者によってはそういう誤解を招きかねない表現だと懸念しているだけだったのですが。
真意お汲み取りいただければ幸いです。


以上は、新着順61番目から90番目までの記事です。

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