らくりんバンバン

〈 落 鱗 板 々 〉


 
 
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↓訂正です。すみませんm(_ _)m 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月31日(金)02時30分30秒 
誤)・・・自体が問われない、という欠陥です。これは<真俗二諦論>が要求された歴史的背景・・・

正)・・・自体が問われない、という欠陥です。<真俗二諦論>が要求された歴史的背景・・・
 
 


Genkoさまへ 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月31日(金)02時25分06秒 
>政治にとって、(国民に)メシを<与える>ことと、(宗教者が)念仏申すこととは、
>明らかに別の位相の問題です。

「政治にとって」はそうかもしれませんが、「念仏申すこと」にとってはいかがでしょうか?
Genkoさんの比喩でいえば、私は、パンを与えるという行為そのものの正当性も「念仏申すこと」において問われると考え、一如とはいかないように思います。とりあえず、与えるが、それだけでいいのか?もっとマクロな視点でみれば本当に正しいことだったのか?と、「念仏申すこと」において必然的に問われると思うのですが・・・。江戸〜戦前の教学の実践論(真俗ニ諦論)に欠落していたのはこの視点です。すなわち、世俗的行為を行うについて、宗教性がいかに「役立つ」か、ということの考究のみで、世俗的行為(この場合、パンを与えることだけで可としてしまうこと)自体が問われない、という欠陥です。これは<真俗二諦論>が要求された歴史的背景(儒学や国学からの「仏教無用論」)もその欠陥をまねいた要因でしょうが。

>宗教者が時の政治を直視せずに、己れの「宗教的真理」の内部に閉じこもってしまったとき、
>悲劇が始まります。即ち、その少女は、(政治的に)飢え死にしてしまうのです。

では、Genkoさんがおっしゃる「宗教者が時の政治を直視」するということは一体どういうことでしょうか?たんに「<国民>として」政治に参加するのであれば宗教者であることはとくに関係なくなることもありえます。宗教者であること、宗教的意識がそこで何か意味があるのか、ないのか。その理由も教えて下さい。
 
 
 


あなたはあなたです。そして私は私です。 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月31日(金)00時58分04秒 
>ぐっちんさま

教えていただいた詩の一節を題名にしました。本当にそう言えたら、と思います。フーコーは私がいうような問題に解答を示すことなく亡くなっていますが、これが解答だ、なんて誰かが示すこと自体が間違えなのかの知れませんね。フーコーはあえて言わなかったような気もします。私は私、と言うしかないのかな?
>あくまで「傍らで見守りながら」ときに
>子供たちが落っこちそうになったら、つかまえてやることができる。。。
>そういうひとに、わたしもなりたい。。。
そんな<大人>がいてくれたら、私は自殺なんて考えずにすんだかもしれないですね。しかし、飛び降りて死のうとした私を「落っこちそうになったら、つかまえて」くれた<大人>がいたから、今こうやってぐっちんさんとやりとりできているのも事実です。
私が真宗にであってよかったことの一つは、私は私でしかないし、私は私であるということを教えられたことです。どっか別のところに<自己>なんてないと。ここにいるのが自分だと。だから、こんなことを考えながらもなんとか生きてゆけるのかもしれないです。
そんな私が誰かの傍らで生きていけたらいいな・・・・

ぐっちんさん、本当にありがとうございました。
 
 


Genkoさんへ 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月30日(木)17時58分17秒 
 その前段には、

 >「じぶんはそのままでは無で、何か立派なものを身につけないと誰からも相手にされない」

 というのを書いていまして、これは何らかの「公的な価値」をまとわなければみんなから相手
にされない、という怖れをもつんじゃないかという、ハイデガーっぽいお話がもとでして。。。

 「公的な価値」は、自分がワクワクするものではないにも拘わらずパッとみい「優越感」や
「正義感」をある程度、満たしてくれるものですからねえ。。。
 
 


タイホしちゃうぞっ!! 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月30日(木)17時48分47秒 
 >CHINCHINさんへ

 芹沢さんがいつもおっしゃるのは『ライ麦畑でつかまえて』の中の、ホールデン・コール
フィールドのせりふ。主人公の妹がお兄ちゃんはいったい何が好きで、何になりたいの?と
聞かれてこう答える。

 偉くなったり、金持ちになりたいわけではない。ただ、ライ麦畑で夢中になって遊ぶ、
何千という子供たちを見守り崖から落ちそうになったらつかまえてやる。
そんな「つかまえ役」のようなものになりたいだけなんだ……。

 知識をたくわえてどうこういうんじゃなく、あくまで「傍らで見守りながら」ときに
子供たちが落っこちそうになったら、つかまえてやることができる。。。
そういうひとに、わたしもなりたい。。。
 
 


どっち? 投稿者:Genko 投稿日: 5月30日(木)17時47分59秒 
でも、

>その「価値ある自分」への固執が、自分の生を、そして他人との関係の悦びを豊かに
>育んでいくことをさまたげて

いきかねないわけでしょう? いまさら、自分が「価値あること」と断じたものを、

>世の中がどんな方向に動こうとも とことん追求されればよいことですし

と言われても、かくも正反対のこと言われたら、私の頭はダブルバインドです。
一体、どっちを採用すればいいのですか?
 
 


人生エロエロ 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月30日(木)17時33分59秒 
 >Genkoさんへ

 まあ、下記にカキコしたようにGenkoさんにぐっちんがいえることもないわけでありま
して。。。
 私的自己(必要以上に他者から簒奪するプライベートな自己)ではない、個的自己(もう
これ以上分けられないという意味での主体者、けれど別けられないという意味において他者と
つながっている、インディヴュディアルの自己)として、つまり独立者、単独者として他者と
ともに生きるという方向でしょうか。世間の価値観から自分を測らない。世間からはいったん
「降りる」

 ぐっちんがもしGenkoさんなら、得意の、文字通りのエロ路線に突っ走りますが。。。
エロライターから始まり、エロ編集長へ。そのうち、独立した作家としてエロルポ・エロ小説
・エロ戯曲を書く。日本の古典の「色好み」文化をもっとフランス人に知らせる活動なんかを
やってみたい。(澁澤龍彦プラス赤松啓介みたいな仕事)たとえば、艶笑落語の翻訳とか。。。

 女性をダッチワイフとしてしか、お前は見ないのか!という意見に対しては、
「ダッチワイフは、あくまでダッチワイフとして考えます。しかし、それとともに、否それ
以上に深く人間を見つめる作業の中であなたと出会っていきたい」とでも言っときますか。。。
 
 


汝自當知 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月30日(木)16時50分28秒 
 でありまする故、みのもんたでも融紅鸞(とおるこうらん?あんさん、別れなはれ。。)
でも無著成恭でもないぐっちんが人生相談にお答えするのもなんですわなあ。

 ご自分が断じて「価値あること」だとお思いのことでしたら、世の中がどんな方向に動こう
ともとことん追求されればよいことですし。。。ゲシュタルトセラピーのパールズの作った詩
にこうあります。

 
     私は私に与えられたことをします。あなたはあなたに与えられたことをされます。

     私はあなたの期待に応えるためにこの世に存在するのではありません。
     あなたもまた私の期待に応えるためにこの世に存在するのではありません。
     あなたはあなたです。そして私は私です。

     もしも私たちが、たまたまお互いに出会い、助け合えるなら、
     それは素晴らしいことです。
     けれど、もしそれができないとしても、それはそれで仕方がないことです。

 いま人生の岐路に立ってるのならエロに立て、という格言はぐっちん作ですが。。。
自分がいちばん面白いものワクワクするものを追求していけば、よろしいのではないかと。。。
 
 


ぐっちん様 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月30日(木)13時21分51秒 
>そもそも、スピードをプロデュースし、その作詞・作曲を手がけた伊秩弘将という人は
1963年4月26日生まれであって「ごうごうへぶん」発表時も30代半ばでありまして、
充分おっさんの部類に入っていました。

SPEEDが大阪でコンサートをすれば必ず行った私ですから、もちろんそれは承知しています。しかし、この歌詞をもし作詞者自身あるいはと彼と同世代の方が歌うことになっていたとすれば、ここまで10代20代が共感できたかといえば疑問です。当時「青少年」の代表(?)として注目されていた「酒鬼薔薇」氏(当時14歳)と同世代のSPEEDが歌うことにおいてその歌詞はリアリティを得たようにおもいます。そのあたり、SPEEDをプロデユースした人々の売り出し戦略の<うまさ>を感じさせますが。若者に共感できる<大人>がいることを否定はしませんしそのような存在は必要だと思いますが、あえて<子供の世界>に<大人>が足を踏み入れることもないと思いますが、いかがでしょう。
青少年問題に取り組むといって、<OOな家庭に育った子はXXだ。>(今、SMAPの中居くんがやってる紙おむつのCMみたいな)というように決め付け、<ナマ>の人間を見てるふりをする欺瞞が横行していると「経験的に」思います。子供の自殺が大々的に社会問題になった(中学生がイジメを苦に自殺した)初めての世代がわたしたち第二次ベビーブームの団塊ジュニアです。80年代半ばの管理教育の行き過ぎを「反省」し、我が子や教え子の<自殺>を心配した大人たちが子供の声に耳を傾けようとして、児童心理などの理論をかじり、その<ものさし>で子供の悩みに応える。一見親切なこの試みは、心理学・精神医学といった<知>によって私達の思春期の苦悩を<監視>し、<分類>し、<矯正>させるという、それこそフーコーがいう<知ー権力>そのものでした。そしてそのようなシステムが内面化され、<主体>が危機的状況におちいっている、という叫びが私にはあります。
その叫びに「だからどうしたい、こうしようという気持ちがこっちには伝わらず、ブラックホールにコトバが吸いこまれていくようでもどかしい。」とおっしゃいますが、このぐっちんさんの言葉のような状況に何をかくそう私の<主体>自体が陥っているのです。したがって、どうしよう、とかどうしたいとかが明白であれば、このようなことを言う必要さえ私にはありません。分からないのです。

PS・知識を「禁じ手」にはしていないことは、すでにGenkoさんがおっしゃったとおりです。ぐっちんさんのおっしゃる「知識を活かす」とは具体的にどういうことでしょうか?とくに芹沢さんのような青少年問題を専門とされている方から得た知識に関して。
 
 


教えてください。 投稿者:Genko 投稿日: 5月30日(木)00時05分23秒 
ぐっちんさんに。

>まあかんたんにいうと「腐っても鯛」「ぼろは着てても心の錦」。。。
>けど、その「価値ある自分」への固執が、自分の生を、そして他人との関係の悦びを豊かに
>育んでいくことをさまたげていないか、それが問題だと思います。。。

そうすると、さしずめ「価値なきこと」ばかりに固執している私なぞは、
一体どうすれば、「自分の生」と「他人との関係の悦び」を、
「豊かに育んで」いけるのでしょうか?
「ぼろは着てないが、心はぼろ着」のまま、死魚のように腐っていけ、と?
 
 


査定のハナマル市 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月29日(水)23時07分01秒 
 学校でも職場でも家庭でも、現代人はしょっちゅう「査定」されランク付けされます。
他人からばかりでなく、自分で自分を「査定」し、心の中に肥大した「査定装置」を
抱え込んでます。これが要するに、フーコーの「パノプティコン」ですね。

 摂食障害をおこす女の子たちはつねにスタイルを気にしている。男性のみならず同性の
女の子たちからも「見られる対象」である自分のカラダをつねに意識している。そういう
摂食障害の女の子たちのセルフヘルプグループのうちのひとつで回復した女の子の文章が
あります。

 「こんにちは。この20日ばかり、毎日続いてた過食・嘔吐が止まっています(略)最近
感じられるようになったことは幾人かのナバ(摂食障害自助グループのひとつ)で知り合っ
た人を含めた友人との気持ちのいい「こころのつながり」です。彼女たちは私に何も期待・
要求してきません。私がつまらなくても、面白くても、きれいでも、きれいじゃなくても、
頭がよくても悪くても、わたしは彼女たちのあいだで「私」なんだと、信じれるようにな
ってきました。

 私は何も期待されてない。私がこうあるべきと思っていた私、なんて誰も期待してないん
だ。この前、ふとそう感じたら、なんだかすごくスーッとして、すごくしあわせな気分に
なりました。こんなふうに感じたのは、はじめてでした。期待されなくなることは、すごく
おそろしい、孤独なことなんだって信じてたのに、期待されないと感じたら、逆にあたたか
い気持ちになって、周囲に守られているような気にさえなりました。」
                          斎藤学著「魂の家族を求めて」より

 「じぶんはそのままでは無で、何か立派なものを身につけないと誰からも相手にされない」
とか「がんばらないと、この世界は自分を受け入れてはくれない」という世界に対する怯え、
強迫観念のようなものをもつ人たちがいる。でも、まずは自分の感受性を肯定してもいいん
じゃないの?とぐっちん思う。

 強い圧力のかかっている環境下で他人と、そして自分との関係がうまくとれなくなった時、
ひとはしばしば「内なる優越感」や「絶対なる真理」などというけったいな観念を自分を
支える手段にします。まあかんたんにいうと「腐っても鯛」「ぼろは着てても心の錦」。。。

 けど、その「価値ある自分」への固執が、自分の生を、そして他人との関係の悦びを豊かに
育んでいくことをさまたげていないか、それが問題だと思います。。。
 
 


ぐっちんさんへ 投稿者:Genko 投稿日: 5月29日(水)22時50分19秒 
そうです。昔の名前で出ている「スガヒデミ」さんです。
彼は本来ジャーナリズム系の<文芸評論家>ですから、
芸者稼業はうまいですよ。それがメシのタネでしたからね。
別に彼は学者じゃないから、マルクスが専門でも何でもありませんが。
ただ、前掲書2冊は、日本の<近代>をなかなかうまく総括しています。
それと、柄谷氏は、前にも言いましたが、今も昔も<左翼>ではありません。
私らの若い頃には、<右翼>だと目されていたくらいですからね。
哲学者や思想家を「研究」するのに、本来<右>も<左>もないでしょう。
学問は、何もそれ自体が<政治>運動ではないのですから。
ただ、最近のスガ氏が、蓮實氏にかなり<政治的>に接近したことは認めます。
とうの昔に『日本読書新聞』もつぶれたし、おそらく売れない本ばかり書いているので、
彼もメシを食わねばなりませんからね。
ただ、今回分かったことは、その彼も、柄谷氏の『トランス・クリティーク』的処方箋には、
醒めた見方をしており、相当距離を置いて懐疑的であることでした。
私はもう少し、柄谷処方箋に対しては<親近性>を持っています。
 
 

ねこさんへ。 投稿者:Genko 投稿日: 5月29日(水)22時30分14秒 
近い将来、もし仮に、新しく「日本国民党」などという極右政党が立ち上がり、
<日本版新ニューディール政策>と称して、増大する失業者対策のために、
「社会福祉とセーフティネット予算の大幅なアップ」を政策理念として掲げ、
「失業給付期間の延長」「ワークシェアリング制度の拡充」「新産業の育成」などを
有権者に訴えれば、今なら恐らくかなりの議席数を確保するのではないでしょうか?
そうすると、かつてのナチス党が出現して来るドイツの状況と、ほとんど近いものになります。
こうした時代に、わが真宗教学者たちは、

>念仏申すこととパンを与えることは、それこそ一如だと思います。
>へだてのない願いにふれ、その願いに生かされるのが念仏申すことだと
>思います。

なんてノンキなことを言っている間に、どんどん戦争協力に加担させられていきました。
私の真意は、どうかかつての同じ轍だけは踏まないようにとの願いから、
提出した比喩だったつもりです。
政治にとって、(国民に)メシを<与える>ことと、(宗教者が)念仏申すこととは、
明らかに別の位相の問題です。
宗教者が時の政治を直視せずに、己れの「宗教的真理」の内部に閉じこもってしまったとき、
悲劇が始まります。即ち、その少女は、(政治的に)飢え死にしてしまうのです。
たとえば、私が尊敬するベトナム人仏教者ティク・ナット・ハン氏は、
このことを厳しく戒めた方でした。
 
 


げっ! 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月29日(水)22時25分30秒 
 スガ。スガってミュージシャンのスガシカオじゃなくて、すがひでみ。。。
かつては、「左翼はもう古い」とかいってながら柄谷行人の評論に影響を受けて
「日本文学の閉鎖性」とかを説きだした「昔の名前で出ています」さん。。。

 で、今はハスミの子分ですかい。。。ぐっちんはだからマルクスなんかどうでもいいんです
ってばあ。
 
 


あれこれ 投稿者:ねこ 投稿日: 5月29日(水)19時43分27秒 
しばらくぶりに遊びにきました。ひとこと、ふたこと、感想です。
(前後は読んでいません。カンチガイ、ごめんなさい。)

1.
>目前に飢え死にしそうな少女がいるとして、念仏一如を説いているヒマがあったら、
(…)パンの一つも与えるべき

念仏申すこととパンを与えることは、それこそ一如だと思います。
へだてのない願いにふれ、その願いに生かされるのが念仏申すことだと
思います。ですから念仏申すことを一つの核心(象徴)として、
それぞれの〈縁〉に応じて名号の願いが具体化されていくのではないでしょうか。

念仏申して本人は有難がりつつも、隣人のことはなーんとも思わないという人が
あるとしたら、私は奇妙だと思います。

2.>批判
ここでは、よく使われる言葉の一つですね。批判とは何かという問題は、私も関心があります。
そも"Kritik"という言葉には、目前のものから正しいものを択び出すという意味合いがあり
ます。

「知性」の原語である"intelligence(E)Intelligenz(D)"も同様で、これはラテン語の"intelligens"に由来しており、その原意は「よく考えた選択をすること」という
意味のようです。(ちょっと場違いな議論でゴメンナサイ)

(ただし、日本語の「批判」には目上の者が指図/忠告するという意味があるようですね。
『風姿花伝』に、この用法があるとか。白川静の『字統』によれば、「批」の原意は
「撃ちて殺す」とのことです。)

しかし、人間理性は道具的/計算的理性へと変質し、これを制度化したのが近代社会に
他ならないというのが思想史の通説です。本当に信頼できる、正しいものを択び出す能力
=神的理性は、どこにも実現されなかった。
ここから前世紀末には、さかんに「理性批判」が行われました。(ご存知の通りです)

ですが真宗には如来選択という言葉がありますよね。また、数の上ではわずかなりとも
それを実現してきたサンガの伝統もあります。それでは如来選択とは何なのでしょうか。

かつて如来選択は人知の及ばないもの、しかし信心は及ぶものと教えられたことがあります。
かりに如来選択も「知性」の一種といえるなら、これは慈悲心による認識といえるでしょうか。(人間理性は排他的な自己保存の欲求によるもの)

本当に人間同士が通じ合い語り合うためには、その背景には遠く如来選択に通じるような
理性と慈悲心がいるのではないでしょうか。

思想と実践の次元で、いまこそ浄土真宗!と旗をあげるべき事柄が、
たくさんあるような気がします。ただし真宗の用語には疎いので、まったくの見当違い
かもしれません。ひとりごとの一種だと思ってください。
 
 


あれ? 投稿者:Genko 投稿日: 5月29日(水)15時47分05秒 
↓の「投稿者」欄がまたまた間違ってしまいました。
「会員bO2 A」とあるのは、
「Genko]の処理ミスでした。
訂正して、お詫び致します。
 
 

ああしんど〜・・・。 投稿者:会員No.02 A 投稿日: 5月29日(水)15時44分39秒 
私が住むすぐ近所の四谷駅前に、たまたまこの4月から、
「近畿大学国際人文科学研究所・東京コミュニティカレッジ」が開校されました。
これは本校である大阪の近大文芸学部(大学院)の柄谷グループなどが音頭をとり、
今日の論壇や人文・社会科学系の第一線で活躍する大学や在野の研究者を糾合して創始した、
大学院の在東京出先付属研究機関としての位置づけらしいです。
蓮實重彦、赤坂憲雄、浅田彰、西部忠、山城むつみ、米本昌平、岡崎乾二郎、
その他総花的な豪華メンバーを講師陣に揃えています。
ところで、読書家のぐっちんさんなどはどう評価されているのか分かりませんが、
ここの「現代思想ゼミナール」というゼミの講師が、
『日本近代文学の<誕生>』や『<帝国>の文学』などの名著でおなじみの、
元『日本読書新聞』編集長・スガ(←漢字が見当たらない。糸へんに圭の字です。)秀実氏
なのです。
以前から氏の書かれた前掲書に注目し、その仕事ぶりをそれなりに評価していた私としては、
取らないわけにはいかなくなり、早速この度<聴講生>として登録致しました。
これはある意味で、私が「リストラ中年学生」として目下緊急避難的に通っている、
本来の「法政大学文学部U部日本文学科」の方で、そのあまりの居心地の良さに、
うっかりするとかつての日本浪漫派に見られたような「<文学>韜晦症状」に陥り、
<現実感覚>や<世界認識>の行方を見失わないようにするための事前の処置でもあります。
それにしても、スガさんの授業は、キビしいですね。
『ドイツ・イデオロギー』をたった2〜3回で終わったと思ったら、
お次はもうコジェーヴの『ヘーゲル読解』です。
柄谷行人らの<NAM運動>に対する批判も結構辛口で的を射ており、舌鋒鋭く、
ハンパな心構えでは容易について行けません。
しかしまあ、嫌いじゃないとは言え、中高年失業者が今更こんな役に立たない勉強ばかりして、
この先一体私はどうなるのでしょうかね?
つくづくアホな男やと思うことしきりです。
 
 

あきれたボーズ 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月29日(水)14時50分35秒 
 この先生たちのいう「慈悲」やら「苦悩」やら「菩薩」というコトバが、
薄っぺらく響く。。。(題名は坊屋三郎在籍のあきれたボーイズより)

 明け方まで仕事しても伊秩弘将(いぢちひろまさ)とはコレ如何に?
0時前に帰っても小室哲哉(こむろてつや)というが如し。

(念の為解説しときますと、伊秩と1時、哲哉と徹夜のシャレです、あしからず)
 
 


ぞっとする蓬茨語録 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月29日(水)14時31分36秒 
 大地 別冊] 昭和48年度講義 より

 仏教を修行する人は乞食(こつじき)にならなくてはならない、こういうことでございます
ね。(略)ただで生活しようと思えば、乞食になれば一番やさしい時代でございますね(略)
食っていくことはどこでも行けば食い物はどこでも落ちています。(略)生活に苦労はありま
せん。寝るところはいくらでもありますね。(略)寒いと思えば着物拾って着ればいいですね
(略)ですから乞食をすることならば何の意味も現代にはございません。

 この蓬茨祖運(ほうしそうん)という先生は、ぐっちんよく知らない。たぶん教学研究所所
長をされてたんだと思う。全集も出てる。が、この人の講義禄を読むとずいぶん乱暴な話が多
い。先生と呼ばれる「エライひと」になると誰も止めるものがいなくなるという典型例だな、
こりゃ。
 
 


>CHINCHINさんへ 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月29日(水)14時20分19秒 
 そもそも、スピードをプロデュースし、その作詞・作曲を手がけた伊秩弘将という人は
1963年4月26日生まれであって「ごうごうへぶん」発表時も30代半ばでありまして、
充分おっさんの部類に入っていました。

 年齢に関係無く「若い」おっさんも、おばはんもいる。若者に共感し、彼、彼女らと共に
生きようとする人もいる。(おじきさんが4月14日にカキコされた、神父バーで会ったS
さんなどは、そういう活動をされていた)

 3月29日のぐっちんのカキコで立岩真也という社会学者について触れています。

 >『私的所有論』で、立岩さんがいってたのは、「自分のモノは、自分が好きなように処分
 >していい」というモラルは果たして成り立つかという問題でした。で、逆に「私は、何を
 >決めてはアカンのだろうか?」という問いを立てておられました。
 >そこで出て来るのが、「他人は、決して自分のモノではない。だから、コントロールでき
 >ない」という結論でした。

 で、あなたの5月29日のカキコも専門家に殺されかけたとあるんだけど、だからどうした
い、こうしようという気持ちがこっちには伝わらず、ブラックホールにコトバが吸いこまれて
いくようでもどかしい。カウンセリングや精神医学の分野では、セルフヘルプグループ(自助
グループ)やピアカウンセリングという、悩みや病を持ったもの同士の「治療」や「癒し」の
方法論が出てきてるじゃない。

 Genkoさんのカキコにもあるように「前向きな認識」についてどう思う?

http://kaka.abz.jp/album(SPEED)1.htm


ようこそ 投稿者:らくりん 投稿日: 5月29日(水)09時47分00秒 
我苦生さん、はじめまして。
大量の書き込みが毎日流れていき、流れに飲みこまれて、
見落としてしまいそうになりました。

こんな掲示板ですが、てきとーにお楽しみください。
 
 
 


お墓に水 投稿者:らくりん 投稿日: 5月29日(水)09時18分03秒 
きちんと由来を知っているわけではないのですが、
あれは、水をかけているのではなく、墓石をきれいに水洗いしているのでは?

お盆やお彼岸に親類・縁者がお墓参りに来そうなときに、
墓石がコケむして、周りが草ぼうぼうでは、
お参りにきた親戚に面目ないということで、
このお墓はきちんと私がお守り・お世話していますよということなのではないか、
と私は考えています。

私の生まれ育った村では、だいたいお墓参りの前日に、
掃除や草むしりをしていたように思います。

墓石にかけた水が乾いていないようでは、
当日になって、あわてて掃除した、
つまり日頃ほったらかしにしていることが見え見えになるわけで、
お参りの当日に、水をかける習慣はなかったように思います。
(最近では、当日掃除する人もいますが)

水をかけるのは、墓石を水洗いしましたという、サイン・印・ポーズ、あるいは名残り
 
 


らくりんさんへ 投稿者:Genko 投稿日: 5月29日(水)06時12分28秒 
もうすぐ第一巻目を読了しようとしていますが、
以前に発した私の素朴な疑問−−「釈迦ムニ仏」がなくて仏教と言えるか−−への答えが、
この本のおかげで完全に了解・納得できました。
ありがとうございます。
 
 

丁寧にお願いします。 投稿者:Genko 投稿日: 5月29日(水)05時43分44秒 
CHINCHINさんへ

>技能を持つ者ということではなく(ポルポトの思想みたいなものになりますからね)、
>内面化された「専門家」であります。

もちろん、私もそういう意味で申し上げているのです。
今日、「専門家」(=知識人)とは、一人の例外もなく制度的に<内面化>されています。
「だからどうした?」ということが私(達)の知りたいことだったわけでして、
この<批判>では、示された(彼らの)現実に届いていない、と指摘したかったまでです。
それに対して、サイードの知識人批判は相当リアリティーがあるよ、
とヒントを示唆したつもりです。
ご自分のHPでまとめられたギデンスに関する評価は、
とても鋭く繊細な処理だったので、充分納得しかつまた感心も致しましたのに、
「知識人批判」がこれでは、あまりに乱暴な手つきというものではありませんか?
 
 


前向きな認識を(続)  投稿者:Genko 投稿日: 5月29日(水)05時00分29秒 
己れの「原罪意識」の中に引きこもるのではなく、
「そんな私」でも何が出来るか、について無力な私達が必死に考えたり議論したりすることは、
極めて有意義なことだと思います。
以前に私が提出した事例で比喩すると、
「目前に飢え死にしそうな少女がいるとして、念仏一如を説いているヒマがあったら、
一刻も早く傍のコンビニへ駆け込んで、パンの一つも与えるべき」で、
<存在の根源的悪人性>について主張するのはその後でも決して遅くはないということです。
 
 

前向きな認識を 投稿者:Genko 投稿日: 5月29日(水)04時44分28秒 
>「壮大な理念と刺し違えることはできない」とは、わたしたちが生きることにおいて、
>一点の非もなく生きることはできない、ということです。

誰にとっても、生きることにおいては「原罪」を背負います。
そもそも「一点の非もない」存在は、人間ではありません。
だからと言って、この認識に踏みとどまったままで、果たして良いものでしょうか?
人間は絶えず過ちを犯す不完全な生物ではあるけれども、
そうした限界と矮小性を踏まえつつも、なお、
己れの「信念」や「反省」や「情熱」などに基づき、何がしかの
「理想」に向かって発言や行動を起こさずにおれないし、
またそうすべき可能性を持った存在でもある筈です。
「壮大な理念と刺し違えること」なんて、誰も要求してなどいません。
私達諸個人が、メディアによる報道や(必ずしも鵜呑みにできませんが)、
日常的に生活していく中で見出した「小事実」や「体験」から出発すべきなのです。
ある事実やテーマが新たに差し出されたとき、私は決して、
人間存在についてのネガティヴな「原罪性」などをことさらに強調したりはしません。
それは、問題の焦点をぼかしたり、その対象から目をそらす結果をもたらすし、
己れの心理的起源に「自己保全」や「自己弁護」が隠れている場合が多いからです。
ただ相手の主張にどうしても納得のいかない内容が含まれている場合に限り、
私は「批判」か「無視」か「居直り」のどれかでもって、応じる者です。
 
 


怒りの追加 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月28日(火)23時14分17秒 
 傍らにいる人を、こんな発言でおとしめている教学者たちは、
月に代わっておしおきよっ!!!!(ってちょっと古かった。。。)
 
 

あっと驚く安田語録 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月28日(火)23時06分03秒 
 大地 別冊] 昭和48年度 発行より

 古い『無量寿経』をみると、女人ということは(略)非常に深い注意が払ってある。(略)
人間を埋没させてしまうものを女人ということで象徴しているのではないか。菩提心、宗教心
を埋没させてしまう。人間を家に閉じ込めてしまう。(略)家というものは、縦にいえば血で
すが、横にいえば性です。(略)それが無ければ人間は無いが、それだけなら、人間は消えて
しまう。(P92〜93)

 まったくもってトホホな発言です。1973年当時なら、ウーマンリブ運動という名前で女
性解放運動は、ありました。ぐっちんのもっている『仏教のわかる本』 松涛弘道 廣済堂 
1974年発行にも「ウーマンリブのお経・勝鬘経」「仏教の性差別」などという項目があり
ます。
 
 安田先生は確か、連れ合い様のことを「家内」と呼んでおられたと思います。その発想から
自由ではありません。家に女性をつなぎとめているのは、男性じゃないの?真宗の教学者たち
及び聴講者もいかに世情に疎いかが察せられます。あ、七高祖も親鸞も蓮如も、法蔵「比丘」
もみんなオトコですね〜。こりゃあかん。こういう箇所は大阪のF・F(法名R)さんあたり
が、すでに噛み付いておられるのかな?

 最近、ある女性からこういう発言を聞きました。「オトコはすぐセックスさせろという。そ
れは、わたしをダッチワイフとしてしか扱わないということでしょ。人間として付き合わない
という意味でしょ?」と。ドキッとした。
 
 


>モモさんへ 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月28日(火)22時43分27秒 
 喜んでいただけてよかったです。う〜ん、墓石にお水をかけるという行為について真宗で
特別の意味付けはあったでしょうか?

 友人も電話相談やってる仏教情報センターに短い答えの一例がありました。ただし、ここは
超宗派ですから、通仏教的なお答えですが。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~bukkyo/bukkyou_page/leaf.html#アンカー3


はじめまして 投稿者:我苦生 投稿日: 5月28日(火)22時38分19秒 
 うわさの『らくりんバンバン』を、初めて見せて頂きました。
 『夕焼けニャンニャン』やら、『どですかでん』、等々いろいろ迷いましたが、ようやくたどり着きました。
 さて、私もらくりんさんの後輩にあたるものですが、なにぶん、元ジャンキー、気の短さは人一倍、真宗精神は、どこへ行くものやら、、、 仕事の条件を守ってくれない住職を殺そうと思う日々、、、 やっぱり役僧は奴隷なのでしょうか? 事故に見せかけ殺す方法を日々考えながら生活しています。
 誰か、助けて。
 
 

ぐっちんさんへ 投稿者:Genko 投稿日: 5月28日(火)16時53分52秒 
>私達は、壮大な理念と刺し違うことなんかできない。たとえば、フェアトレードという
>運動をされている方の姿勢にぐっちんは、共感します。「北」の矛盾の中にいても「南」
>のことを考え、かつ行動する。

これが、サイードなどの真に言いたいことです。
彼は、「北」の知識人(すなわち私達全員ということです)に向かって、
単に「こちらを見てくれ」と叫んでいるのです。これが彼の「批判」のすべてです。

繰りかえしますが、「批判」という作業は、決して相手を否定することでも、
罵倒することでもありません。
ポパーではありませんが、「批判」はまず第一に、相手に対する肯定の意味です。
知識人や科学者やその他の専門家は、何故本を書いたり実験したりするのでしょうか?
それは何をさておき、他者からの妥当な「批判」が最大の眼目であり、
それこそ心待ちにするためです。
「反証可能性」こそが、当の見解の<正当性>を担保し、
かつまた<限界性>を教えてくれるからです。
言い換えればもし「批判」がないとすると、次の課題が客観化されないからです。

私は、誰も「知識(人)の否定」などしていないと思いますが。
 
 


今日の新聞から。 投稿者:Genko 投稿日: 5月28日(火)16時36分38秒 
三面記事のすみっこに、真宗総連合会による訴訟の公判結果が出ていました。
某有名企業が、広告のキャッチに使用したコピー文「他力本願から抜け出よう!」
が、全国の真宗門徒の感情を害するので変更せよというのが、訴えの理由です。
被告の企業側は、もちろん最初からそんな真宗教学的意味合いで「他力本願」
という言葉を使用したわけではありませんから、さぞや驚いたことでしょう。
「一般的な意味で使ったのだが、配慮が足らなかった」と反省の弁。
配慮が足らなかったというのは社交辞令で、実は単に「知らなかった」と
素直に認めるべきだったと思います。
私だって、真宗的な意味をかつては知らず、一般的な意味で「他力本願」
という言葉を安易に使っていたのですから。
当事者性を基盤に据えて<意味>をその「立場」に引き寄せる構造は、
どんな差別問題でも必要不可欠な作業だと考えますから、
私はこれを「言葉狩り」だとは決して申しません。
現在進行形で<転移>し行く言葉の<意味>の世界は、まさに
我々の「活ける社会場」ですから、常に政治的な文脈に左右されるものです。
もっぱら「企業社会」の「立場」だけに<転移>される言葉の意味があれば、
「宗教社会」はその本来の意味へと対抗的に調整して当然でありましょう。
この場合は、<シニフィアン>(=意味するもの)の方にではなく、
<シニフィエ>(=意味されるもの)に対する異議申し立てであった、
ということがポイントなのです。(この逆がいわゆる「言葉狩り」になる)。
まことに、言葉の世界こそ(立場と立場がぶつかりあう)政治関係そのものだということが、
ここにも示唆されています。
親鸞という人は、多分、そのことに並はずれて敏感なひとだった、と私は思います。
 
 

わかりにくい 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月28日(火)16時20分21秒 
 グローバル・ヴィレッジのHPは、フェアトレードが何たるかが分かりにくいので
別のHPを貼りつけときます。

http://www.h4.dion.ne.jp/~ftc/nani/nani.html


追記 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月28日(火)16時08分36秒 
 「壮大な理念と刺し違えることはできない」とは、わたしたちが生きることにおいて、
一点の非もなく生きることはできない、ということです。(なにがしかにおいて誰かを傷つ
けたり、何かを奪ったりしている)

 で、そういった生活の中では、生きることはまったく無駄なのか。語り合う事がまったく
無駄なのか、ということです。
 
 


再びちいさなことから。。。 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月28日(火)16時02分43秒 
 何やら「専門家」「知識人」「知識」批判が続きました。「知識」を持つこと自体を
禁じ手にしてしまったら、もうどうしょうもない。「知識」を活かすことを考える方が
「イカス」と思うのですが。

 私達は、壮大な理念と刺し違うことなんかできない。たとえば、フェアトレードという
運動をされている方の姿勢にぐっちんは、共感します。「北」の矛盾の中にいても「南」
のことを考え、かつ行動する。

 あと、CHINCHINさんは、いつも通り、発言が閉じられてて、「対話」できないわ。
若者同士だって、ひとりひとり違うんだから、コトバを交わすこと自体が無駄ではないか、
そういう「ものいい」だったら。

http://www.globalvillage.or.jp/


阿修羅原 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月28日(火)14時59分45秒 
 >らくりんさん

 いや、そんなのさっぱりわかりません。三悪道は、地獄・餓鬼・畜生。
五悪趣は、プラス人・天。六道は、それより歴史が下って(阿)修羅が追加されたもの
って何かで読んだことがありますが。。。
 
 


質問 投稿者:モモ 投稿日: 5月28日(火)12時28分08秒 
 知人から聞かれたのですが
「お墓の墓石に水をかけるのは何故?」
これは、以前生まれた時の産湯と同じ水を
かけるのと同じで、自分が育った家の水を
かけてくださいと微かに覚えているのですが
どうなんでしょうか?
教えてください。よろしくお願いします。
 
 

ぐっちんさんへ 投稿者:モモ 投稿日: 5月28日(火)12時26分03秒 
 リクエストに答えて頂き、感謝です。
しかし、ミスチル、ビートルズ、Zoneに続き
ヤイコまで出してきたのにはビックリです。
いつもチェックさせていただいてます。
 
 

たぶん 投稿者:おじき 投稿日: 5月27日(月)19時16分39秒 
オウムの人々もきっと「私達だけの天国」を夢見たんだと思います。
中世の一向一揆もそうなのかもしれない。でどちらも失敗に終わった。
他人にとっては入り口もなく、当人にとっては出口もない場所なんてねぇ。
 
 

ツインタワーって・・・・ 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月27日(月)18時19分22秒 
若者の苦悩をいくら分析しても理解なんかできない。分かったつもりになるだけ。
とうの本人たちはそんな分析によって導かれたような「いいも悪いも興味はないよね」
 
 

見田は何も見てない。 投稿者:Genko 投稿日: 5月27日(月)17時40分57秒 
>「北」の豊かなひとびとは、その豊かさを捨てて「南」の人々に総懺悔しなければ
>いけないのか?
>「北」の依拠する資本主義の「闇」を撃つばかりでなく「光」を評価した上で「南」
>を意識することはできないのか?
 
ぐっちんさんが何故、見田宗介みたいなどうしようもない社会学者をひきあいに出されたのか理解に苦しみますが、多分私のサイード観への助言としてなのでしょう。
別にサイードならずとも、もとより「北」の人々は何も「その豊かさを捨て」る必要なんか全くありません。また逆に、「北」の人々が「南」の人々に総懺悔などしたって、何の解決にも繋がらないことは当然のことです。
あり得もしない反証例を持ち出すような、こういう言い回しは、見田の全く駄目なところです。
また、資本主義を「光と闇」などに分類するやり方など、これまた経済学も馬鹿にされたものですね。これでは、見田によれば、資本主義はア・プリオリに<存在>の概念になってしまいますよ。私などは、資本主義は<存在>するのではなく、ランダムに<機能>していると考えるものです。(でなければ、そんなもの何処にあるのか、たった今すぐ見せて欲しいくらいです。)
一体に、見田は、一頃新左翼の御用学者を演じていたわりには、マルクスの「資本論」をほとんど理解していないことが、こういうところにも一目瞭然ですね。
 
 

先鋭化したピュア志向=排他的原理主義への傾斜 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月27日(月)17時33分15秒 
(↓のつづきの歌詞) 

歪んだこの世界から
 抜け出していつか たどりつきたいよ
 Go! Go! Heaven
 この闇を突き抜け
 私たちだけの天国へ
 嘘も汚れもない空を見つけに行こう

以前、私はGenkoさんの所属するお寺の住職Kさんに「真宗原理主義者」といわれました。一応反論しましたが。
「私たちだけの天国へ 」この歌詞は反大乗的です。そして反真宗的です。しかし、私はこの歌詞が大好きです。スピードの島袋寛子(hiro)が好きだからだけではありません。共感してしまうのです。この感覚が20代の自分にすーっとはいってくるのです。
原理主義って何なんでしょう?私は「矛盾だらけの世の中」の「抱えきれないmy soul」の叫びに聞こえます。「北」にも「南」にもそれぞれの「抱えきれないmy soul」があって、それが世界的な若い世代の排他的原理主義化(宗教ばかりでなくネオナチの台頭なども含む)をまねいているように思います。
 
 


(無題) 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月27日(月)17時02分32秒 
SPEEDのサードシングル「Go! Go! Heaven」より

 矛盾だらけの世の中じゃ
 いいも悪いも興味がないよね
 Go! Go! Heaven抱えきれないMy Soul
 何が一番大切か
 今はわからないまま 踊り続けてる
 
 
 
 


専門家6 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月27日(月)16時44分48秒 
技能を持つ者ということではなく(ポルポトの思想みたいなものになりますからね)、内面化された「専門家」であります。自己を他者のように分析し、かつ改造しようとするような。自分を殺そうとすることもあります。そしてその内面化を助ける役割を演じる、他者を分析する(かつしていないようなふりをする)専門家(カOンセラー、心O学者、精O医学者、そして宗教家など)がいます。私も殺されかけました。

よい子の格言
 「どくいりきけん いきたらあかん いきたら しぬで」
 「小さな親切 大きな迷惑」
 
 


どう思います? 投稿者:らくりん 投稿日: 5月27日(月)12時13分20秒 
なんでとりあげた『阿弥陀経』の最後、
あそこで「人・天」の他に、
戦いの天衆である「阿修羅」が出てくるのだろう、以前から気になっています。

六道という枠でなら、地獄・餓鬼・畜生ではなく「阿修羅」が
諸天という枠でなら、梵天・帝釈・夜叉・龍……等でなく「阿修羅」が

「♪なんでだろ〜、なんでだろう〜 …… なんでだろ〜♪」
バトルはバトルでも爆笑オンエアバトル
 
 


グローカルな批判的視野を。 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月27日(月)10時07分24秒 
 昨年7月4日のカキコ。

 見田宗介の『 現代社会の理論―― 情報化・消費化社会の現在と未来 』(岩波新書)を論じる。「北」の豊かなひとびとは、その豊かさを捨てて「南」の人々に総懺悔しなければいけない
のか?
 「北」の依拠する資本主義の「闇」を撃つばかりでなく「光」を評価した上で「南」を意識
することはできないのか?
 
 「北」の光に幻惑されるひとびとは、「南」を考えることもなく、「南」に批判の根拠を求
める人たちは「北」の「闇」を撃つ言葉しか持たない。
 
 


いつぞや 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月27日(月)09時46分37秒 
 らくりんさんが修練道場長の人選でこんなんもありではとあげられていた大阪のBさんとこの
寺報をみていたらこうありました。

 仏この経を説き已りたもうに、舎利弗およびもろもろの比丘、一切世間の天・人・阿修羅等、
仏の所説を聞き歓喜信受し作礼して去りぬ。           (仏説阿弥陀経)

 天・人・阿修羅等というのは、六道(迷い)の世界。その世界から仏さまの説法を聞きにきて
聞き終わったら、また元のしんどい六道と言う現場に戻るというのは、すごいことではないか。
と、指摘されている方のご意見が載っていました。

 なるほど、そうです。なんか、そんなこといっこも今まで気ィつかへんかったです。
 
 


↓失礼 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月26日(日)23時36分54秒 
 下のカキコ上の「びっくりしななーもう」は、
 てんぷくトリオのギャグでした。
 お詫びして訂正します。
 
 

>ゆきんこさんへ 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月26日(日)23時32分26秒 
 オヤジ世代はみな、「意味という病」にかかりすぎだ。
ナンセンストリオっといかなくっちゃ。(びっくりしたなーもう)
 
 

↓失礼 投稿者:Genko 投稿日: 5月26日(日)22時20分06秒 
下のカキコ上の投稿者欄の「Manko」は、
「Genko」の打ち間違いでした。
お詫びして訂正します。
 
 

グローバルな批判的視野を。 投稿者:Manko 投稿日: 5月26日(日)22時10分01秒 
ただし、同じ「知識人(=専門家)」批判でも、サイードのものは、
一定の<今日性>があると言えます。(『知識人とは何か』参照)
これは、「パレスチナ問題」という、ある種の<南北問題>を前提に語られているからです。
即ち、(米欧及び日本などを中心とする)主導的な「先進資本主義諸国」における国民だけが、
「何がしかの意味において「専門家」」でありえ、彼らがそれを享受できているのは、
(南側の)開発途上国やパレスチナ人民などの<血の犠牲>と<富の簒奪>のおかげであるのに、
享受している(北側の)多くの「知識人」たちが、それを知りうる立場にありながら、
自分たちの安定と利益のために、両目を塞ぐどころか、
「負い目」すら感じていないのではないか、という批判です。
これはかつてのアミンらの「従属理論」等にはなかった、新たな形での鋭利な問いかけです。
 
 

「専門家」が何? 投稿者:Genko 投稿日: 5月26日(日)18時07分55秒 
今日、人は誰でも、何がしかの意味において「専門家」であることを免れえません。
左官屋はセメントのこね方・塗り方について「専門家」であり、
切手のコレクターは世界の切手についての「専門家」だというわけです。
グラムシの言う「相対的知識人」観です。
その個別的価値については、あくまで市場が決めることであって、
当座実利的(商品)価値がないからと言って、当該者が「専門家」でないとは言えません。
確かに、伝統的な疎外論の系譜では、それは「負い目」となり得るのですが、
そうすると、ほとんどすべての人が断罪せねばならない破目になり、循環論に陥ります。
思うに、CHINCHINさんの「専門家」観は、一面的に過ぎるのでは?
ルカーチの「知識人論」の影響を引いているのかな?
 
 

しかし、 投稿者:らくりん 投稿日: 5月25日(土)23時32分41秒 
今日の午前中にちょこちょこっと説明しただけなのに、
もう、色やデザインの変更をしちゃったり、
簡単なタグの使い方を覚え始めている
う〜ん、のみ込みが早いというか、好奇心旺盛というか、
姉たちは、パソコンにはほとんど関心を示さなかったのに、
姉妹でも違うもんですね。
 
 

紹介 投稿者:らくりん 投稿日: 5月25日(土)23時28分04秒 
〈らくりんボチボチ〉という掲示板をもう一つ持っていたんですが、
二つも書くのは面倒くさくなったので、娘にプレゼントしました。
さっそく「活用」しているみたいです。
おじさん、おばさん、おにいさん、おねえさんが割り込んでいったら邪魔物
扱いされると思いますが、今どきの中学生のやりとりに興味がある人は
のぞいてみるぐらいは許されるかな?
勇気と若さに自信がある方は参加してもいいとは思いますが。
ついていけるかどうか……

http://www2.aaacafe.ne.jp/free/rakurin/main.bbs


>モモさんへ 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月25日(土)22時26分41秒 
 モモさんが、ぐっちんの引用する歌詞を心待ちされているそうで。。。
でもらくりんさんとこでカキコむのも何だけど。。。

   「Look back Again!」  矢井田瞳 (通称ヤイコ)
 
 冷たいまぶたの裏で私が見当たらない  確かな記憶でさえ上手に掴めない
 あなたのHugでもKissでも埋まらないかも GO! Look Back Again 
 置き去りのままの 真実も嘘も傷も 噛みしめていたい 痛い 痛い 痛い。。。

 噴き出すようにちりばめられてる 後悔も罪も過去も 抱きしめていたい
 痛い 痛い 痛い。。。

  「Buzzstyle」

 哀しいかな廃るこの身体 油断してれば中身もそう
 毎日を見過ごしたら ライフスタイルさえも廃る
 曖昧な衝動じゃ明日はない もしかしたら私自体「居ない」のかも知れない

 最短で手の中に収めたものは 最短でしゃららんと流れてしまう
 もしかしたら私以外「居ない」のかも知れない

 私はいつも大事なときに鍵を失って立ちすくむ
 あなたが差し出してくれるスペアキーをこの手に握りしめる前に

 J−POPを聞いてると、ドキッとする歌詞が聞こえてきたりします。この若い人々の感性は
いったい何なんだろう。ヤイコの場合(バヤイ)、Genkoさんのいう(フーコーのいう?)
<主体の消失>に対する悲鳴みたいなものをときおり感じたりなんかします。
 
 


指圧の心は親心 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月25日(土)15時57分20秒 
 子を育てる、というのは一定程度「しつけ」が必要なのでしょうね。でもいきおい「おし
つけ」にまで拡張しやすいですねえ。親たちの世代も同じように、「おしつけ」られてきた
から、そうやって自分の態度に無自覚なまま育てるしかないのかナ。。。

 家庭における親とか、学校における先生に「お育て」を求めるのは、もはや断念かなあ。

 護持・養育たえずして、あわれみかむれるこの身なり。。。そうだ、聖徳太子におっぱい
も〜らお〜っと。
 
 


も〜しも〜しベンチで囁く 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月25日(土)15時40分33秒 
 お〜ふた〜りさん。という唄が大昔あったな(独り言)。。。若いみなさん向けには
♪ペッパー警部っ、邪魔をしないでっへぇ〜。

 そこで、戒なく名告り「のみ」の比丘ということが、クローズアップされてくるのじゃない
でしょうか。他者から押し付けられる「規律・規範・ルール・戒、その他もろもろ」を守るこ
とによって仏弟子を証明するのじゃなく、みずから名告るということ「のみ」によって生まれ
る主体。
 
 


訂正 投稿者:らくりん 投稿日: 5月25日(土)09時50分47秒 
時刻表は北陸三県がカバーされています。
 
 

HP更新 投稿者:らくりん 投稿日: 5月25日(土)09時49分48秒 
○誤字脱字の修正
○リンク追加・整理――かなり個人的趣味関係をいくつか追加しました
 PC98関連ー情報・質問BBS
 大東亜聖戦大碑の撤去を求める会HP
 ローカル(野々市町)地図・石川県限定時刻表(駅ごとの発着時間が出ている)
 などです。
 
 

専門家5 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月25日(土)02時41分03秒 
>私たち自身が、私たち自身を監視しかつ取り締まる<警察官>になってしまった

フーコーの<主体>の問題の原点ですね。
私たち自身が私たちの内面に巣食う「専門家」です。
Genkoさん、ありがとうございます。
 
 


CHINCHINさんへ 投稿者:Genko 投稿日: 5月25日(土)02時02分59秒 
>フーコーが述べたように、近代になって成立した国民国家の国内秩序を保つために「逸脱」の
>概念が発明され、監獄や精神病院に隔離された「逸脱者」が「矯正」されたうえで社会に
>「復帰」するシステムが出来上がった。その役割を担うもの。

それが、例えば「公教育」という<訓育装置>です。
しかし、ここでフーコーの本当に言いたかったことはおそらく、
<近代的主体>の「リ・インプリンティング(=再刷り込み)」の問題の方なのです。
即ち、諸個人の「パノプティコン(=一望監視装置)の内面化」の規律ということです。
<自己規律>の倫理が共同体のオルドル(=秩序)を形成した事態が、
フーコーの喝破した、いわゆる私たちの「近代」の正体に他なりません。
私たち自身が、私たち自身を監視しかつ取り締まる<警察官>になってしまったという、
<逸脱>不能の自己分裂意識が、逆に<主体>の意識を消失させたのです。
換言すれば、「<私>は、真の<私>のありかを知らない」という悲劇です。
 
 


過去の「亡霊」 投稿者:Genko 投稿日: 5月24日(金)23時37分01秒 
私は、自分なりの感覚で、西洋産の「国民国家」や「近代化」を<評価>しているものの、
それらに対する<信頼>という点では、ほとんど皆無に近い。
たとえば、明治期に金沢出身の泉鏡花という作家がいましたが、
私がなぜ彼を高く評価するのかと言えば、近代化や欧化が文学の主題になっていた時期に、
彼ほどそれを信じなかった文学者は他にいなかったからなのです。
彼の文学は典型的に「故郷喪失者」(ハイマートロス)の文学です。
それは、単に故郷金沢から疎外されたという狭い意味では決してなく、より根源的な、
日本人の個我意識の足場が、急速な国策によって上から疎外されたという意味でです。
彼の作品に描かれた主人公は、常に<時代の遠景>と違う方向を凝視しているのでした。
彼の作品の文体は、言文一致の方向性に背反する体のものに成らざるを得ないのでした。
文学の主流は当時、だから彼の方向とは全く逆に、「帝国の文学」を形成していったのでした。
もし日本の近代文学が、鏡花的な軸を中心に開花したならば、
その後のこの国特有の<近代的自我>の「ゆがみ・ねじれ」現象は起きず、
もっと健全な<個人主義>や豊かな<国民文学>を後世に多数残し得たかもしれません。
我々に身近な<戦後文学>もまた、多様な「商品の文学」を提供してくれはしますが、
明治維新以後生じた歴史的な自我の「ゆがみ・ねじれ」現象から、
現代日本人自体、まだ完全に快復しているとは言いがたいものが多々あります。
たとえば、西洋的な文脈としての<個人主義>は、
共同体の成員全体を包括する<公共圏>に支えられてしか成立しない概念ですが、
それを行使する側も享受する側も、
互いに公共意識を欠いた<利己主義>と取り違える傾向や場面がしばしばあります。
それは、この国の近代化が、
共同体の<根>にあった民俗や倫理を政治過程に活かすことをほとんど捨象したまま、
強引に組織していったことの当然の報いなのだとも言えましょう。
要は、近代以後、私たちは、身を置くべき場所が、もうどこにもなくなってしまったのです。
リスカの問題も、私の中では、その延長線上に位置している「自我の問題」と交差します。
 
 

回転木馬のデッドヒート 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月24日(金)20時52分28秒 
 この蛇足という表現もとりようによっては、差別用語のような気もします。。。あ〜何だか
何もかもがいやになってくる。。。

 流行にいかに敏感か?政治意識をどれだけ持っているか?真宗タブー(神社へ参らない等々)
をどれだけ守っているか? ひとそれぞれが、てんで勝手な条件をつけ、あいつはダメだ。こ
いつもダメだといっては、ひとりお山の大将として君臨し善人ヅラする。悲しい人間の佐賀県
唐津市、焼き物の街。
 
 


またまた蛇足 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月24日(金)20時21分21秒 
 つねに有能であること、優秀であること、イイコちゃんであること、善人であることを示さ
ないと居場所が保証されないんだったら、生きていけんわ。
 
 

名人戦実況中継 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月24日(金)20時04分21秒 
 芹沢さん云わく、「保育関係者の会合に呼ばれる事があります。全国的なひとつの傾向があり
ます。3、4歳の子供達が保育所で傍若無人の振る舞いをします。まさに人無きがごとし。この
傾向の裏には家庭では逆に親の顔色をうかがうというか、遠慮というか配慮しているのです」と。

 これは、家庭が子供達にとって安全で安心で安定した居場所になっていないという状況なのだ
と思います。親の出方をうかがう子供達。親が要求しているものを素早く読み取らなければ、生
存が危うい。まさに条件付の愛(というか保護というか養育というか。。。)

 ○○するような子は、うちの子じゃありません!とか昔から、子供は親から難クセつけられる
存在だけど、近頃はその傾向がより強まっているのかも知れません。

 菩薩として歩むというのは、決して特別な生き方じゃないと思う。人間が人間であるための道
のような気がする。『読み解くV 第13講』には五功徳門というのが出て来ます。

 宅門と屋門というのは、つまり居場所がみつかることだとあります。また園林遊戯門というのは、安心できる居場所、信頼できる居場所が保証されれば、そこを離れていくことができる、と
あります。二度と居場所を失う事がないからだと。人間にとって、このことは誰もが望むことの
ように思います。

 自分がどのようなものであっても受け入れられる場所があること。
 
 


>しんさん 投稿者:らくりん 投稿日: 5月24日(金)17時16分10秒 
大阪以西は、九州まで行っちゃってしまうんですよね。
やっぱり山陽・山陰は本願寺派が圧倒的多数ですから、
どうしても、縁が薄くなりますね

妹さんは元気そうでしたよ。
よぉわからんけど、このまま、北陸に居着くことになるのかしら?
 
 


Re:なま初体験 投稿者:らくりん 投稿日: 5月24日(金)17時07分29秒 
死生さん、
生、喜んでもらえて光栄です。
 
 

真宗ダーティーエンジェル 投稿者:死生 投稿日: 5月24日(金)14時25分48秒 
らくりんさん。真宗会館での研修会、お疲れさまでした。
『仏弟子の「名告り」が問われている』というテーマの中で、
らくりんさんは「名告り」が問われるという以前に、
「名告り」たいのかどうか、「名告」ろうとしているのかどうか、
と、いきなり喝破されました。
私はすでに真宗門徒(坊主)然とする、坊主群には届いたのでしょうか?
討議とまで名の付いた時間では、およそ「らくりんさんの問い」について語られることが
僅かだったように思います。しかしながら、らくりんさんには
参加者の声をあらためてテーマから問うていただきました。
私は研修会中、この掲示板に活躍されている皆様が思い出され、
頭の方でぐるんぐるんしておりました。
想えば、真宗門徒になろうとする時、人につまづき、環境(境遇)につまづき、
法事につまづき、家庭でつまづき、飲み屋でつまづき、理想につまづき、
いたる処でつまづいております。でも、自分に先立ってつまづいておられる、
ぐっちんさんやおじきさんらがいらっしゃるということが、
何ともたのもしく、(らくりんさん曰く)「不十分」でありながら、
またまた、ここの処で生きていこうかななんて思ったりしてます。

初(生)らくりんさんでしたが、想像以上に魅力的なお方でした。
私の出会った「真宗ダーティーエンジェル」の1人に勝手にお加えします。
 
 
 
 
 


つれづれに 投稿者:らくりん 投稿日: 5月24日(金)11時16分49秒 
>Zonさん、
ここの話や流れに全部ついていこうと思ったら、時間も身体もいくつあっても
もちません。
適当に、マイペースでお楽しみください。

玉光さんには、私も期待大です。
でも、何を考えているのかよくわからない部分もありますので、
だからこそ、面白いのかもしれません。

修練道場長も交代になりましたね。
私は、宗議会議員ではなくなった大阪のBさんという選択も面白かったのではないかと
思っていますが。そこまでの英断はなかったみたいですね。
 
 
 


緑為す日々 投稿者:zon 投稿日: 5月24日(金)09時22分44秒 
らくりんさん

掲示板の話の流れに乗れてなく、
何日も前の話の続きですが、お許しください。
たまに覗いて除いてはいたのですが、らくりんさんがいわれるとおり、
3日ほど前が初登場でした。今後ともどうぞよろしくお願いします。

東京・真宗会館でのらくりんさんの研修会は急遽欠席で本当にすいません。
あの日の午後に幹事のSさんにお会いしたら
「とてもいい研修会で、らくりんさんもすごい人だった」と感想を言っていました。
残念です。

教研の所長が玉光さんに変わりましたね。
玉光さんの生き方に少し触れているものとして
楽しみな、そして画期的な人事だと思っています。
これからの教団の動きに少し期待が持てそうな、そんな予感がします。

ともかく、先日のお詫びかたがた、ご挨拶まで。
 
 


chinchinさん 投稿者:しん 投稿日: 5月24日(金)08時40分12秒 
初めまして、しんです。早速にリンクありがとうございました。
これから読ませてもらいます。

らくりんさんお久しぶりです。妹は元気そうでしたか?
また、大阪以西に来られる予定などあれば教えて下さい。
 
 
 


そうでしたか 投稿者:おじき 投稿日: 5月24日(金)01時52分19秒 
真宗関係者ごときに邪魔されるような本願って・・・・
なんとまあ、御立派なひとりばたらきですこと。

「しかれば本願を信ぜんには他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに
 悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへにと云々」
 
 


>しんさん(訂正) 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月24日(金)00時32分33秒 
すみません。
私が引用した文のオリジナルは下記が正確なものです。

http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/hanasi.html


>しんさん 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月24日(金)00時28分25秒 
はじめまして。
私が引用した文のオリジナルは下記です。

http://www4.tiki.ne.jp/~enkoji/hanasi.html


専門家4 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月23日(木)21時43分43秒 
他者の痛みを理解せず、データにする。
 
 

芹沢名人 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月23日(木)21時38分50秒 
 5月9日に東京で起こった護身用スプレー噴射事件から話は始まりました。
ある程度危険な社会なのかもしれないが、危険だから護身用スプレーを持ち歩くというより
漠然とした不安から、自分を世界から守ろうとする若者達。

 他者との接触を嫌い、他者に開かれて行かない若者達。他者からの影響を極力避ける傾向。
それは、信頼に足る居場所がないからなのではないか?足場となる居場所の不在。根拠の不在。
 
 


専門家3 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月23日(木)21時33分07秒 
フーコーが述べたように、近代になって成立した国民国家の国内秩序を保つために「逸脱」の概念が発明され、監獄や精神病院に隔離された「逸脱者」が「矯正」されたうえで社会に「復帰」するシステムが出来上がった。その役割を担うもの。
 
 

専門家2 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月23日(木)21時23分38秒 
決め付けても、理解しようとはしない。自分の解釈が絶対。
 
 

教化センター行って来ました 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月23日(木)21時21分14秒 
 芹沢俊介さんが「青少幼年問題を学ぶ会」に来られてた。参加者30人くらい。
とってもよかった。質問もした。お誘いのコトバを転記しときます。

 自分は自分であるという存在感覚が弱い。強い刺激でないと自分の感覚が反応しないと訴える
子供達。強い刺激とは、例えば食べ物ではチョー甘いもの、激辛のものであり、大食いや早食い
といった尋常でない食行動です。

 彼らはまた、戦争や殺人事件といった強烈な出来事をおもしろがることはできても、日常の幸
不幸のちいさなさざなみに反応する事ができないのです。五感を閉じている、そんな印象がしま
す。

 どうしてでしょうか。子供達を取り巻く世界が、子供達に安心感、安全感、安定感を与えてい
ないのではないかと言う事を推測してしまいます。子供達に訪れている存在の危機について考え
てみましょう。
 
 


専門家 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月23日(木)21時19分46秒 
解釈はできても実感がともなわない。
 
 

お詫び 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月23日(木)21時12分46秒 
下記は内輪のぼやきです。すみません。
 
 

もしかしてパートT 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月23日(木)21時10分37秒 
 本願のひとりばたらきを 真宗関係者が邪魔しとんのや。。。
 
 

>Genkoさん 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月23日(木)21時06分12秒 
鈍感ですよね、ほんとに。

世界の名言
 「おかしな人たちがいるもんだね〜。話にならんね」(小泉純一郎)
 
 


ちょっとずつか。。。 投稿者:おじき 投稿日: 5月23日(木)20時51分05秒 
過去には「見捨てられた人々」にとって、力強く生きて行ける「決して見捨てない」
阿弥陀のメッセージがしっかりはっきり届いた歴史があるのに、現代の「見捨てられ
不安」に苦悩する人々にはどうして届かないのか?「なんとかしろよ(してよ)」と
問いかけられ続けているのに「なんともならない(できない)」自分、情けないです。
でも「なんとかしたい(せなあかん)」という強い気持ちはあります。
 
 

見てたら、ごめん 投稿者:らくりん 投稿日: 5月23日(木)20時13分24秒 
「大乗菩薩道がなんたらかんたら……」(この辺でほとんど思考が停止してしまい
言葉が耳に入ってこなくなった)と「煩悩具足の凡夫がどうたらこうたら……
先生のお考えはどちらなのでしょうか?」という質問をされて、
とっさに、「どちらでも好きな方にしておいて下さい」と言ってしまった。
ほんとに、そんなことどっちだっていいじゃない
と思ったからそう言っただけなんですが、

他の人にはけっこう受けていたようにも思えたが、ご本人にはきつすぎたかなぁ?
でも、その後も一向にこたえたようにも見受けられず、
質問とも自説を開陳とも区別がつかないお言葉を発し続けておられましたが……。
 
 


捨ててしまいたい話 投稿者:らくりん 投稿日: 5月23日(木)20時04分25秒 
摂取した物が、どんどんお腹の周りにたまっていきます。
捨てられるもんなら捨ててしまいたい。
 
 

>モモさんへ 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月23日(木)17時20分32秒 
 そうですか、友人にもいらっしゃいますか。。。

 で、摂食障害(過食、拒食)やらアダルトチルドレンやらリストカットやら援助交際やら
境界例やらのページを見てると「見捨てられ不安」ということばが目につきます。

 摂取不捨は、おさめてすてじ、ではなかったでしょうか。「見捨てない」という阿弥陀の
メッセージ。しかし、この現代の問題群のキーワード「見捨てられ不安」を浄土教関係の方
何人がお知りなのか。時代から、見捨てられるのもわかるような気がする。。。
 
 


ボヤキぶし床屋政談 投稿者:Genko 投稿日: 5月22日(水)22時21分05秒 
「ムネオハウス疑惑」や今度の「瀋陽事件」などなど、このところ日本の外務省の失態が次々に明るみに出ていますが、もともと一本筋の通った<外交哲学や戦略>を持っていなかったのですから、起こるべくして起こったと言っても過言ではない。
それにしても、ようやく最近になって、小泉総理も国民の前で「化けの皮」が剥がれてきましたね。彼本来の「タカ派」的体質がむき出しになって来たし、各種メディアの調査でも支持率の急激な低下となって現れています。
プーチン政権下のロシア極右(ネオナチ)の台頭も不気味な動きですが、今国会の「有事立法」与党単独強行採決の可能性が出てきたわが国も、不気味です。
行政権が司法を凌ぐ事例はこれまで他に事欠きませんが、憲法も舐められたもんだ。
政治家や司直が法律を勝手に解釈していいのだから、国民の側も大いに法律を自分流儀に解釈していいという理屈が成り立ちます。
道理で犯罪が増えるわけだ。
また、動物や自他の生命を殺めることに平気な人が、最近どんどん増えているような気がしますが、この国は一体どうなっていくのでしょうか?
 
 

倶会一処ねえ。。。 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月22日(水)21時16分31秒 
 還という字の、古〜い意味は、「事未畢」というらしい。事(こと)、未(いま)だ畢
(おわ)らず。。。

 お留守居役様さんとヒロさんを激怒させた詩の完全版ありました。
 
 夜行列車に乗って
  
  朝夕のラッシュアワー、時に繋がれた中年たち
  ちっぽけな金にしがみつき ぶら下がっているだけの大人達
  工場の廃水が川を汚してゆく様に 金が人の心を汚し
  大衆どもをクレイジーにさす

  時間に追いかけられて 歩き回る一日が終ると
  すぐまた次の朝 日の出とともに 逃げ出せない人の渦がやってくる
  救われないぜ、これが俺達の明日ならば
  逃げ出したいぜ、 金と欲だけがある
  この汚い人波の群の中から

 井上はこれを尾崎豊に影響されたといってたけど、ぐっちんブルーハーツの歌とこんがら
がってました。

 ラインを超えて

 色んな事をあきらめて 言い訳ばっかりがうまくなり
 責任逃れで笑ってりゃ 自由はどんどん遠ざかる
 満員電車の中 くたびれた顔をして
 夕刊フジを読みながら 老いぼれてくのはゴメンだ

 ブルーハーツは好きだなあ。死生さんが歓送会の時に何曲か「絶叫系」ソングを歌ってくれ
ました。

 ♪ドブネズミみたいに美しくなりたい。。。(リンダ リンダ)

 ♪叫ばなければ やりきれない思いを ああ 大切に捨てないで (人にやさしく)

 もし、憎しみや苦しみのない世界があるからお前来ないか?って言われたら、俺は
行かないって言うわ。                 
                               甲本ヒロト
 
 


しんさん、お久しぶり 投稿者:らくりん 投稿日: 5月22日(水)20時14分37秒 
某所で妹さんと会ってしまいました。
 
 

いらっしゃいませ 投稿者:らくりん 投稿日: 5月22日(水)20時12分30秒 
Zonさん、
この掲示板でははじめまして、ですよね、たしか。
参加者名簿にお名前があったので、お目にかかれるかと
楽しみにしていたのですが、残念でした。
幹事のTさんや、ここにたまに顔を出す死生さんなんかにお目にかかれました。

真宗会館には、はじめて寄せていただきました。思っていたより大きな建物でした。
皆さんおっしゃっていましたが、たしかにもう少し交通の便がよかったら
と思いました。
これをきっかけに、東京にはまたよせていただくことがあるかもしれません。
 
 


RE 一つの手がかり 投稿者:しん 投稿日: 5月22日(水)19時40分07秒 
久しぶりに書き込みます。
さて、CHINCHINさん、下記の文章はどこから引用されたんでしょうか?
良ければ教えて下さい。お願いします。
 
 

一つの手がかり 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月22日(水)11時05分33秒 
浄土に関する安田先生の論文を集めたもの、それに浄土と書いてその下にハイマートと。これはドイツ語です。ハイマートとは何か。ふるさとという意味です。

 我々は一人一人ふるさとを持っています。ふるさとというのは何か。そこで生まれ、そこで育ち、そこで言葉を覚え、そこで人間としての資質を養い、そして生涯を一生懸命生きて、また帰っていく所がふるさとです。その事実に合わせて、お浄土というものをハイマートと言われた。

仏教の言葉で言えばこれを境界と言います。世界というのは地理的物理的概念ではございません。その人の生きておる世界です。
 境界が違うんです。たとえば何十年来夫婦生活をしておっても、世界が違う。そういうことがあるでしょう。それでちょっとトラブルが起きると、こんな人とは思わなんだ、と言う。わかったつもりでおったが、何にもわかっておらなんだ。いかに世界が違うか。しかも違うということをはっきりさせなかった。お互いがごまかし、甘やかしてきた。なんとなしに一緒やと思ってきた。

 世界が違う。現実にあった時、その一人一人が違ったまんまで生涯を終わっている。それに耐えられない。
 人間の終極の要求は何かというと、文化が違った者の魂が響き合う、言葉が響き合うような、一つの世界を共に生きたいという、これが一番深い人間の要求です。
(和田 稠)
 
 


Re:リスカ 投稿者:モモ 投稿日: 5月22日(水)09時10分33秒 
 リストカットのことについては、雑誌なんかで見ていたけど
友人で夏でもリストバンドしている人や、事情で預かった
高校生もよくカットしてました。
どうかすると、弱い人間という目でみてしまうけど、田口ランディ
さんでしたっけ、自分もリスカしていていろんな相談を受けている人が
「生きるためのリスカ」と言っていたのを鮮明に覚えています。
死ぬためではなく、行きぬくための肯定的なリスカ。
そういう悲しみ、悲鳴が聞こえずに、否定している自分が
ここにいる。
 
 

リスカ 投稿者:おじき 投稿日: 5月21日(火)17時36分01秒 
リストカットは仲間の内では略してリスカと呼ばれています。
リストカットをはじめとする自傷行為をしてしまう人達のサイトです。
http://chance.gaiax.com/home/doumei
ぐっちんさんはもうご存知かもしれませんが、生々しい現実です。
 
 

大地の会 投稿者:モモ 投稿日: 5月21日(火)09時36分59秒 
大地の会の話しが出ました。安田先生の話しを直接聞いたことがない
世代としては、藤元先生や宮城先生しか知らないが、脈々と流れている
息吹みたいなものを感じる。ただ、教団の中でどうも「大地の会」が仲良し
ごっこになっているように思えてならない。安田先生が指摘された「仏教を
学ぶのであって、仏教学を学ぶのではない」という言葉とは裏腹に
自慰行為に終っているように思う。つまり、しっかり学習はするが、それが
生活の中で生きたものとなっていかない。学習したものが生活の中で実践されて
いかないものを感じます。「大地の会」は昔からのメンバーには同窓会的な感じで
イイのかもしれないが、新参者を排除する雰囲気をもっている。
生きた仏教をどう展開していくのか?「展開する本願」教えてください。
実践してみなければ。
 
 

急遽欠席ですいません。 投稿者:zon 投稿日: 5月21日(火)08時10分42秒 
らくりんさん。
わざわざ東京までご出講いただき有難うございました。
らくりんさんのお話をお聞きするのを楽しみにしておりましたが、
本業が入り、急遽欠席でお目にもかかれませんでした。
お許しください。

  東京のzon
 

http://www2s.biglobe.ne.jp/~zonmyoji


現代そのものの直視 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月21日(火)03時43分16秒 
 リストカットの簡明な説明。

http://homepage1.nifty.com/eggs/syuhen/wrist_cutting.html


ポスト森光子 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月21日(火)01時28分26秒 
 当世若者気質U。9年前京都の大学に、3年前は東京の専門学校、いづれも夜間に通いまし
た。その間も「ニセ学生」として色んな大学のいろんな分野の授業を聞いたのだけど。どこも
かしこも「私語・私語・私語」の世界。そりゃ、小学校から「学級崩壊」があるとは耳にして
たものの、こんなにやかましいとは。

 あと、異様なまとまりのなさ。専門学校で学祭があって高校出てすぐの女の子が、「模擬店
やりたいですゥ」と手を上げたのだけど、誰も手伝わない。思いっきり醒めている。自己紹介
などではけっこう、みんな自己アピールとかしてたりなんかするのだが、少し時間がたつと
「目立つ」やつは叩かれるというので牽制しあっている。

 あと、わりと年端のいった女性の方が、自分のポジションを「みんなの良きお母さん」と
位置付けようとされるのだけど。逆に反感を買い「むかつくババア」みたいな声があちらこち
らから聞こえてくる。これは何だ?女性が8割を占めるからか?ぐっちんなどは、アホ役に
徹してみんなの潤滑剤をやってたのだけど。いづれにせよ、ギスギスした関係を生きてきて
必要以上に警戒しあっているというのが印象に残りました。これカトリックの学校でしたけ
ど、コワかったな〜。

 この掲示板を読んでる最年少の方はおいくつなのでしょう?「おっさん」たちのことばに
密かにムカつき、キレているのでしょうか? 
 
 


当世若者気質 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月21日(火)00時10分58秒 
 最近、大地の会という大派の学習会の講義録を再読しています。これを読んで昔、こう思っ
た。
「人生の達人みたいなお歴々が、何やらお経の文句をえらく深読みされてる。確かにエエこと
もいうてはるけど、こんな文句覚えて今から老け込んでもしゃあないしな〜もっと外へ出て
世間を知らんとな〜」

 はじめて手にしたのは、まだ二十代でしたから。。。今読むとなかなか触発されますね。
「焦眉の問題、必ずしも深くは無い」「人生にいきづまる、ということが大事である」
確かにそうです。親の事業が失敗したとか、お祖母さんの身体の具合が悪くなってとかで
学費が払えなくなって学校を退学せなあかんようになったとか、人生の大きな転機みたいなん
は確かにあって、ひどく苦しい時もありますが、それは必ずしも宗教心を喚起させる契機には
ならなかったりする。

 ぐっちんは逆に、若者たちの「退屈な日常」の方が気になる。会社に行っても学校に行っても
何だかボンヤリしてて生きてる実感がない。あるひとは、ボランティアなど「他人の役に立つ」
という行動にでるだろうし、あるひとはQ2とか出会い系サイトで男女の予期せぬ出会いを求める。またあるひとは、シンナーから始まって薬物に手を出し、あるひとはリストカットのような
自傷行為に走る。

 いずれもいずれも、強い困難が日常生活になく「刺激」や「傷み」を買ってでも求めようと
する。さてさて、この現代の問題群と教学が切り結べるか。われわれの世代がやらなければなら
ない仕事とは、こういう問題だとぐっちんは思う。

 

 

 
 
 


お帰りなさい 投稿者:おじき 投稿日: 5月20日(月)15時39分31秒 
 CHINCHINさんの再登場、歓迎します。
僕は「存覚」のどういう思想が「体制護持」につながるのかCHINCHINさんに「説明」
してほしかっただけで、「存覚が体制に追随するものではない」と反論したわけでは
ありません、念の為。
僕自身は存覚と言う方の思想には全く関心が無く、故に何の知識もありませんので、
できればCHINCHINさんに極簡単で結構ですから、存覚のどういう書物にどんな事が
書かれていて、どこがCHINCHINさんの言う批判根拠の「浄土」思想と食い違うのか、
箇条書きで示してもらえれば大変ありがたく思います。
 
 

Genkoサン 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月20日(月)14時10分42秒 
>これはCHINCHINさんに対する疑義なのですが、
かつて思想界を揺るがしたハーバーマスらの「啓蒙の弁証法」は、
近代の「啓蒙精神」を批判してはいても、何も全否定しているわけではありません。
私自身は、「啓蒙主義」それ自体は、「自由」や「人権」観念に代表されるように、
その後の人類にとって、問題は多いが、むしろ貢献度の方が大きかったと考える者です。

私が啓蒙主義そのものを全否定していると決め付ける根拠はわかりませんが、何かに回帰することで、「大切なもの」を取りもどせるのか?そういう考えに普遍性があるのか?というのがあそこで私のいいたかったことでした。
過去の啓蒙論争がでてきていますが、「啓蒙」の語義については私の問題とは別個のものです。念のため。
 
 


おじきさんへ 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月20日(月)14時00分14秒 
>「存覚」のどういう所が「体制護持」につながるのか

存覚が体制に追随するものでない、という反論はこの議論においては初めてです。
存覚は日本は「神国」でアマテラスの子孫がこの国の「あるじ」だといいます。それを宗教的に肯定しています。(ぐっちんさんが引用されてる、『滑稽新聞』のような笑いのセンスで書かれてるのでしょうか?)
あげればきりがないのですが。

そうではないなら、その理由を教えて下さい。
 
 


ごぶさたです 投稿者:CHINCHIN 投稿日: 5月20日(月)13時36分46秒 
ごぶさたしておりました。レスしなくてはならないものもあるようですが。
京都、神戸と走り回っておりまして、閲覧さえもままならず、やっとここに「帰って」これました。

>CHINCHINさんは、親鸞、親鸞とこだわっておられるけど。。。

私は親鸞原理主義ではありません。2世界観というのも信楽先生の説ではありません。信楽先生はむしろ、実体的浄土を前提としたような伝統的宗学の二元論的発想(覚如的な)を批判するという立場です。私は、「一世界観による発想で、浄土教のもつ現実批判の視点を見失わないか」という批判をしているのです。
しかしながら、私が本願寺派の宗門校・龍大で学んだ真宗学の方法はまず親鸞の言葉ありき、でした。不満はありました。しかし、その枠を破るには、その枠のなかでその矛盾を指摘するしかありません。他の方法があるのかも知れませんが、私はそういう方法をとっています。大谷派教学がそのことを克服しておられるので、そこは非常に魅力です。
ニ世界観というのは、大谷派の尾畑先生や菱木先生から触発をうけた私の考えです。親鸞がそんなことゆってるのか?とさほど問わない自由さは近代教学をその歴史にもつ大谷派教学の「強み」ですね。

批判の根拠をどこに求めるか。親鸞にではなく、浄土に求める。親鸞が出会った、「浄土」という表現(穢土に対するものとして!)によって顕されたものによる。だから浄土真宗という。基本的には私はそのように考えています。親鸞の経典や七祖の著書への読み替えもそのような姿勢でなされていると思います。

私は親鸞がそのようにした姿勢に学びたいと思います。

>ダメな表現は淘汰されるものと、思いたい。でも、流行るのは甘口表現かも知れない。
じゃあ、もっとインパクトのあることばに対する感覚を互いにお聴聞で磨いていったらどう
でしょう。

異議なし!です。
 
 


エログロナンセンス 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月20日(月)01時17分55秒 
 ↓宮武外骨の笑いです。私は戦争に反対しますという至極ごもっともの意見よりふるってる
と思いません?
 
 

訂正とお詫び 投稿者:Genko 投稿日: 5月20日(月)01時16分57秒 
下記文中、

>無事に「恵信尼公病所廟所」を訪問することが出来ました。

とあるのは、「恵信尼公廟所」の誤りです。
お詫びして、訂正させていただきます。
 
 


親鸞聖人足跡巡礼記(6)最終回  東京四谷にて  投稿者:Genko 投稿日: 5月20日(月)01時12分13秒 
さきほど、関越自動車道をひた走り、帰宅の途に着きました。
途中何回も雨に襲われ、その度にPAで雨宿りせざるを得ず、
結局長岡インターから練馬出口まで、ナント10時間もかかってしまった。
おかげで全身水浸しで、とことん冷え切っています。

昨日の夕方、上越市内では、ほんの数時間雨がやんでくれて、
無事に「恵信尼公病所廟所」を訪問することが出来ました。
周囲はほとんど人のいない一面のたんぼ畑。
その中に、恵信尼さんの眠る「五輪塔」は、ひっそりと佇んでいました。
遠隔の地に配流された親鸞聖人も、
この方のおかげで、ずいぶんと助けられたことでしょう。
傍のお堂の芳名録を見てみると、全国各地からこんな辺境まで、
毎日必ず数名〜数十名がお参りに来ているのが見てとれました。

昨晩は、「良寛堂」のすぐ隣にあった民宿に一泊しました。
疲れていたので、風呂につかり、夕食をとってすぐ眠りにつきましたが、
何しろ隣が良寛さんの生家である山本家跡地(元庄屋)のため、
昔の良寛さんの息づかいが聞こえてくるようで、寝床で少し興奮しました。

そして今朝、出雲崎は快晴でした。
「良寛堂」のお参りをした後、すぐ近くの生家の菩提寺、
18歳で得度・剃髪したと伝わる曹洞宗のお寺などを参拝、
「良寛記念館」も見学してきました。
その後、更に10キロ程北上し、
いよいよこの旅の最後のゴール、和島村にある「良寛の墓」へとはせ参じました。
やはり彼の永眠する寺は、浄土真宗でした。
お墓の前で合掌し、これまでのわが人生の一切の仏縁のお礼をしました。
「良寛さま、本当にありがとうございました。南無阿弥陀仏。」と・・・。

これにて、私の48歳のささやかな「心の旅」は終わりです。
とるにたらない私の拙い旅日記に、長々とお付き合い下さった皆さま、
本当にありがとうございました。
それから、道中、お世話になった皆様にも心から感謝致します。

10日に大阪を出発してから、全行程まるまる10日間−−。
この旅を無事に終えることが出来たのも、道中ご協力戴いた方々のおかげです。
この旅を通して、私は多くのことを感じ、考え、そして学ぶことが出来ました。
快い疲労の代わりに私の胸中に蓄えられたのは、
多分<勇気>、これだと思います。
ここのすべての参加者に、幸あれ。南無阿弥陀仏。(終わり)
 
 


滑稽新聞より 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月20日(月)01時04分23秒 
 日刊新聞 明治今年先月発行 號外

●旅順陥落(一大快報!!!壮絶奇絶)

 吾人が待ちに待ツたる旅順の陥落は危機一髪、愈よ今日にあらずんば明日、明日に非ずんば
明後日、今月に非ずんば来月、来月に非ずんば再来月、今年に非ずんば来年、来年に非ずんば
再来年、十年の後に非ずんば百年の後、百年の後に非ずんば千万年の後、若しくは此腐敗せる
世界子リカエシの時には、必ず正に陥落せん事、予輩の信じて疑はざる所なり諸君乞ふ楽んで
之を待て
 
 


今何が問題か 投稿者:inimeg 投稿日: 5月19日(日)21時16分46秒 
自分の好きなことが語りやすいです
しかし、自分が照らされたことは、なかなか語りにくいです
私のことです
 
 

えっ! 投稿者:Maro 投稿日: 5月19日(日)08時26分30秒 
>ぐっちんさん
 やっぱり、遭遇してましたか。
あ〜失敗した。
 まさしく手の届くところにぐっちんさんがいたのに、愛が語れなかった〜(爆)
 
 

旅に出た〜い 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月19日(日)04時43分33秒 
 Genkoさんのカキコ見てて、なんだか疼いてきた。恵信尼公廟所かー、懐かしい。良寛
さんなら、長岡藩家老河井継之助(かわいつぐのすけ)のお父さんとつきあいがあったとか。
河井をテーマにした小説が司馬遼太郎の『峠』でした。もうかれこれ20年前に読んだかなあ。

 昔はよく歴史散歩をしました。歴史小説の舞台を訪ねる旅。でももう読まないからなあ、こ
の手の本は。今読めばまったく感じるものが違うだろうなあ。坂本竜馬や高杉晋作みたいな薩
長土の新しい時代を切り開いた人々と違って、河井は昔風の武士の志を貫いた人だった気がし
ます。とにかく大阪が生んだ偉大な作家司馬さんの導きによって、いろんな街道に憧れを持ち
ました。

 で、司馬さんの目は歴史の教科書には出て来ないような人々に暖かい視線が注がれていまし
た。ちょうど小説全体が『大河の一滴』の集合体でした。まるでリアルタイムで登場人物たち
と時代と空間を共有している錯覚をおこしましたね。

 司馬さんは確か本派で葬られたはずです。たまたま、夕方のおまいりの途中で、ご自宅のあ
る東大阪のお通夜に出くわしました。懐かしい思い出です。
 
 


ナルミスキー・ルイセンコ 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月19日(日)03時02分41秒 
 >Maroさんへ

 どうもこの一週間以内に遭遇したみたいです。。。不覚にも面が割れたっ!

 さて、その情報はぐっちんの僧籍のある寺の催しテラシアターを見に行って得た情報です。
五木さんの『大河の一滴』やってました。初めてお寺に来たという二人の若い女性には不評
でした。ひとりは何でも「映研」らしくて長回しがどうのパンがどうのと映像面で小難しい
批評をされてました。もうひとりは主人公の安田成美が、友達南野陽子の自殺を何で止めら
れへんねんということと、モスクアに片思いのロシア青年を訪ねるのにわざわざ幼なじみで
ボーイフレンドの渡部篤郎をつれて行くか?と。

 Maroさんのお連れさんは、えらく感動しておられました。ぐっちんも、主人公の父親
三國連太郎の臨終に涙。南野陽子の死に涙。とオヤジになると涙腺よわくなるのがわかりま
した。。。安田成美は、日本でオーケストラのオーデションを受ける夢多きトランペット青
年と、地元金沢で、平凡な日常を生きようとしている渡部とに心が揺れるというお話でした。
一度だけ訪れたことのある、金沢の街の二つの川は奇麗だったことを思い出しました。
 
 


ド〜はドーナッツのド〜 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月19日(日)02時26分11秒 
 >各人がそれ相当の覚悟性を伴う何らかの政治的態度決定を迫られる場面が、きっと来る
 >ことでしょう。これをしも「弥陀のはからい」などと申して、念仏一如の信仰の中に引き
 >篭もり、やばい現実を見て見ぬ振りをすることだけは、厳に慎まなければならない

 Genkoさんのおことば。

 歎異抄には「そらごとたはごと」は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界」とひといきに語ら
れます。すなはち、浄土教において身と土は、切っても切れない間柄。この基本中の基本が忘
れ去られたり、ごまかしがあったりするんですよね〜。

 世界(土、世間、社会)だけの批判に終わらず、凡夫(身、機、個人)だけの批判に終わら
ず。道元は、「仏道とは自己をならうなり」といい、清沢満之は「自己とは何ぞや。これ人生
の根本問題なり」といいましたが。この「自己」が曲者ですね。

 セルフが、プライベートのセルフなのか(つまり他者から切り離された私人としてのセルフ
なのか)それともインディヴュディアルのセルフなのか(もうこれ以上は分けられないものと
して主体となるという意味と分けられないという意味で他者とつながっている個人としてのセ
ルフなのか)が問われるのでありまする。
 
 


最近の新聞報道から。 投稿者:Genko 投稿日: 5月18日(土)13時40分54秒 
オランダの総選挙で、極右勢力が予想を大幅に上回る議席数を獲得し、
第二党の座を一挙に固めたとのこと。
さきのフランス大統領選でもそうだったが、このところ、
ヨーロッパがかなりやばいことになっているようです。
全体として旧西側各国は、軒並み右派勢力が飛躍的に台頭し、一国につき平均、
議会のおおむね2〜3割を占めるパワーを具備しつつあるようです。
この流れは、経済が停滞してどうにもならなくなっている我が国の政治状況にも、
そう遠からず本格的に及んでくる事必定でしょう。
「有事立法」や「メディア規制法」の国会提出などは、
ちょうどこの世界情勢の時局とパラレルな関係にあります。
私たちはこれから、急激にこの国全体が極右的な方向軸にシフトして行く事態に、
ただ指を咥えて憂うのではなく、
各人がそれ相当の覚悟性を伴う何らかの政治的態度決定を迫られる場面が、
きっと来ることでしょう。
これをしも「弥陀のはからい」などと申して、念仏一如の信仰の中に引き篭もり、
やばい現実を見て見ぬ振りをすることだけは、厳に慎まなければならないと、
私は思いますが、皆さんは如何思われますか?
 
 

松本梶丸「生命の大地に根を下ろし」 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月18日(土)13時15分29秒 
 >このあいだも、ある新興宗教の方がこられて、「婆ちゃん、不安ないか」とおっしゃる。
 >「ええ、不安ありますよ」というと、その人、「不安あるでしょう。わたしら、その不安
 >をとる会を無料でしとるさけ、婆ちゃんもそこにいって、不安とってもろうたらどうや」
 >といわれる。「そうか、ご苦労さんやねえ。不安の世の中でねえ。そやけどこの不安、
 >あんたらにあげてしもうたら、ウラ、なにを力に生きていったらいいがやろね。不安は私
 >のいのちやもん。不安とられたら生きようがないがんないか。ウラ、まだ死にとねえもん」
 >というたら、その人、私の顔みて目つぶっとる。「なんしとるがや、あんた」というたら、
 >「婆ちゃんのこべ(ひたい)に光さしとるわ」といって帰っていかれた。

 ものスゴイばあちゃんである。ついでに自民党政権や天皇制などに預けてある政治的主体も
取り返しましょう。
 
 


お題拝借 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月18日(土)12時31分17秒 
 もし「いのちに帰る」というタイトルでお座敷がかかったら。。。って何かドリフみたい
やな。。。

 宗教者に託していた「死」を自分の手に取り返しましょう。カウンセラーに預けていた
「不安」を呼び戻しましょう。占い師に渡した「迷い」を買い戻しましょう。
 
 


親鸞聖人足跡巡礼記(5) 上越市にて 投稿者:Genko 投稿日: 5月18日(土)11時35分28秒 
昨晩は、あまりにも強い雨のため、上越市内のビジネスホテルに一泊。
少しでも安いホテルをと、無駄な動きをしてしまい、全身ずぶぬれ状態となりました。
一風呂浴びて身体を温め、昏睡しましたが、長旅の疲労が徐々に鬱積し、
身体が鉛のように重く感じられます。
旅も終盤戦に近づいてきていますが、日頃の運動不足か歳のせいか、
そろそろ肉体の限界も近いという赤信号が点滅し始めているということでしょう。
25歳の頃にフランスへ旅立つ前に、日本の原点である「出雲」を目指して、
マイカーで全行程12日間の西日本周遊の一人旅へ出かけた事がありました。
神戸の実家から山陽道を一路西へ、岡山〜広島〜山口〜島根〜鳥取〜京都〜兵庫と、
友人宅や温泉町などを泊まりつぎ、時には車中泊もあったりして、
疲労困憊しながらも、身体は元気でした。
道中、様々な人々とも出逢い、いろんなハプニングもあったことなどが、
今でも懐かしく思い出されます。
考えてみれば、私は今まで、人生の節目に必ずこうした大きな旅をしていたわけです。
私など足元にも及びませんが、芭蕉の最後の有名な遺句に、
「旅に疲れ 夢は枯野を駆け巡る」という天才的な一品がありますが、
まさに旅と人生が究極的に一致してしまった俳人ならではの、
感慨深い境地と言えましょう。
この漫画喫茶の外はまだ雨が降り続いています。
関川沿いに国道18号線を40分ほど南下していけば、
新井市板倉の「恵信尼公廟所」に辿り付くのですが、
バイクのため身動きがとれず、あと一歩で、困り果てているところです。
東京へ帰るまでに、残された時間は、あと1日−−。
果たして出雲崎の良寛さんのところまで、立ち寄れるでしょうか?
 
 

親鸞聖人足跡巡礼記(4) 直江津市内にて(補) 投稿者:Genko 投稿日: 5月17日(金)19時55分07秒 
↓下記(その1)の文中、

>そうして、いよいよ今回の旅の最大のハイライト、聖人が上陸された聖地「居多ケ浜」です。

の前に、高田別院の支院「国府御坊」と一体化して併寺した「光源寺」へもお参りしたことを付記しておきます。
ちなみに、ここの本堂には、聖人の「流罪勅免御満悦御影」が掛けられています。
 
 


親鸞聖人足跡巡礼記(4) 直江津市内にて(その2) 投稿者:Genko 投稿日: 5月17日(金)18時52分12秒 
しばらくそこから海の全景を観察したあと、今度は浜辺へ降りて、上陸直後の親鸞さんのつもりになって、波打ち際から逆に陸の方向高を眺めてみます。
陸の緑の丘陵地帯が海岸線にまで迫る、左右の山々からなる緩やかな湾などの地形は、約800年前の当時の風景とあまり変化はないでしょうから、凪の波音を背景に聞きながら、私は「ああこれが流罪の憂目にあった聖人がついに辿り着いた最初の心象風景だったのか・・・」と思うと、目頭に何か熱いものが込み上げてきたものでした。
単に漂着したのならまだしも、かの人は「罪人」としてだったのですから、いくら法然の教えに支えられていたとしても、どれほどか悔しい、複雑な胸の内だったことでしょう。時に親鸞35歳。
・・・自分がその年齢でそんな目に遭遇したとして、果たして耐えることができたでしょうか?
・・・また、かの人にこの原体験なしに、果たしてその後の「真宗」がかくあり得たでしょうか?
人生最悪の運命に直面したとき、人は平穏無事な日常からは決して感得し得ない「真実」が見えてくると言います。
48歳にしてこの私は目下、これまでの人生で最悪の状況に直面しています。
多重債務、失業、目的と希望の喪失、妻子なき孤独、これから始まる未知の東京生活、等々・・・・。
そうした運命に苦しむ私がいま、かの人の遭遇した運命の過酷さと相対することにより、この情景の中で、あまりにも小さい自分を発見し、実感します。
「かの人の海の<大波>は、私の海の<凪>に過ぎないのだろうか」と・・・。
近くに記念堂があったので、閉館して帰ろうとしていた管理人のおばさんに頼み込み、聖人の像にご焼香・合掌させていただきました。親切なそのおばさんから、何故か身内話と恋愛相談を受け、2時間ばかし話し込むことに。私自身の拙い過去の経験談を語って聞かせてると、「いずれきっと阿弥陀さんのご利益がありますよ」と言われました。
雨が大降りになってきたので、今夜はこの町に一泊しようと思います。
明日は、天気が許す限り、板倉の国府別院飛地境内の「恵信尼公廟所」に参拝して、今回の旅の趣旨「親鸞聖人足跡巡礼〔北陸編〕」のトリを飾りたいと思います。
午後からは、出雲崎方面へ向かい、オマケの番外編、出雲崎は良寛さんの古里を訪ねる予定です。
それというのも、私の原点には良寛さんが横たわっており、幼き頃に良寛さんの伝記に触れることがなかったら、その後の人生は、「仏教」も「親鸞」もおそらく死ぬまで無縁だった可能性が大だったわけですから。−−−
 
 

親鸞聖人足跡巡礼記(4) 直江津市内にて(その1)    投稿者:Genko 投稿日: 5月17日(金)18時49分57秒 
昨日の午前中は、金沢最後の思い出にと「泉鏡花記念館」へ寄ってみましたが、あいにく館内改修工事期間中につき<閉館>でした。
「そこを何とか・・・」とインターホン越しに頼み込んでみましたが、「規則だから」と、やはり無駄でした。残念無念。
朝から何となく雲行きが怪しいので、雨に襲われる前に一気に新潟へ入るべく、8号線をのんびり北上することを断念し、道中初めて高速道路(北陸自動車道)を使ってしまいました。それでもパラパラしだしたので、直江津一歩手前の「能生インター」で降り、聖人がここから「居多ケ浜」(こたがはま)に向けて乗船されたという、「能生木浦」海岸に立ち寄りました。
ついで、能生港の反対側の山道入り口付近にある、大谷派「安専寺」へ。
ここは、私がこないだまでバーテンをやっていた「坊主バー」の後釜の○子ちゃんのお父さんが住職をやっており、彼女とそのお父さんの好意で一晩泊めて頂くことになったのです。
ご住職と近くの小料理屋で、地元のとれとれの海の幸を肴に最高級の地酒をご馳走になり、あまりの美味しさにすっかり感激してしまい、調子に乗って完全に泥酔状態。千鳥足で半睡して息も絶え絶えになった私は、雨の中、タクシーで寺へついたとたん、即爆睡してしまいました。
今朝は、夕べの酒が上等だったため、二日酔いもせず、体調すこぶる良好。しかし、外を見ると大雨。彼女のお母さんとしばらく話しこみ、ここの衆徒であるユー・○ンジャさんが夕方兵庫県から来訪して法和を聞かせるのでもう一泊したらとすすめられたが、残された旅の日程が、あと2日しかない。朝飯のご相伴にあずかりながら、どうしたものかと思案している間に、雨が小降りになったので、思い切って次の直江津に出発することに致しました。
かくて今度は、再び8号線で北上、昼頃に直江津最初の訪問地、「国府別院」に到着。
ここは配流された聖人の住んだ「竹之前草庵」(たけがはなそうあん)があったところでつとに有名です。さっそくお参りに。
次はその草庵に移り住む前に最初に住んだと言われる五智国分寺境内の「竹之内草庵」を見学。
付近には、聖人が自らの坐像を写したと伝わる「鏡ケ池」や親鸞聖人坐像を安置した「親鸞堂」、浜を降りて最初に参詣したという「居多神社」、宮内にある七不思議のひとつ「片葉の葦」などがあって、駆け足でそれらを続けざまに見て来ました。
そうして、いよいよ今回の旅の最大のハイライト、聖人が上陸された聖地「居多ケ浜」です。
浜を見下ろす高台に、親鸞聖人上陸之地という「石柱」と「展望台」があり、まずそこから海岸線を一望することに。ぱらつく雨に打たれながらも、そのうち胸が一杯になり、しばし感無量の境地になりました。
 
 

「改名」しました 投稿者:薄野高麗王 投稿日: 5月17日(金)12時35分53秒 
 暫くぶりに書かせていただきます。当分の間「小魔王」ではなく「高麗王」の字を用いることにいたします。よろしくお願いいたします。
 
 

あまっこ 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月17日(金)05時11分32秒 
 人間の底知れぬ深い闇をみつめてもなお、否、だからこそ人間がいとおしいといえる。。。

 ぐっちんは、まだまだ? いいえ、一生かかっても無理ですわなあ。。。

 >お留守居役様さん

 本願寺は蓮如教団だという批判がありました。

 また、全共闘世代に「右手に(朝日)ジャーナル、左手に(少年)マガジン」というキャッチ
フレーズがあったとか。安田先生は、「赤表紙(真宗聖典)と新聞のはざまに身を据える者」と
いう表現をされたことがあるそうです。教団問題や教学が、どれほど社会と接点をもってるので
しょうか?部外者とご自身で名告られる「お留守居役様さんの日常」にどれだけ食い込めている
かが試されているのでしょう。
 
 


あと追伸 投稿者:お留守居役様 投稿日: 5月17日(金)00時18分22秒 
啓蒙とか啓蒙主義と言ったのは、当時の後進国であった
ドイツや日本が自分の国に対して言ったので、
当時の先進国であるイギリス、フランス、オランダなどで
啓蒙とか啓蒙主義を自称することはなかったと哲学の先生に聞きました。
フランス語には啓蒙という言葉すらないそうです。
つまり、先進国が後進国に対して啓蒙と言ったことはないのです。
ですから、蒙古を念頭に置いて啓蒙ということもないはずです。
このことにこだわるのは、「本願寺派の基幹運動本部」とやらの決定事項だからです。
わたしは部外者ですけど、
共同性の名のもとに個人の思想を規制しようとするからです。

ついでに、
親鸞教学というのがあるそうですが、だとすると、
親鸞教というものがあるということなのでしょうか。
 
 


あと追加 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月16日(木)21時22分24秒 
 CHINCHINさんは、親鸞、親鸞とこだわっておられるけど。。。
日蓮宗とはいっても、親鸞宗とはいわない。正式にはわれわれは浄土真宗もしくは
真宗です。

 親鸞を宗祖と仰ぐけれど、南無親鸞大菩薩とはいわない。らくりんさんは、釈迦弥陀
二尊教の意義を力説してくださった。救い主と、教え主とは別である、と。親鸞を親鸞
たらしめた本願に帰依するのでありまする。
親鸞のお書きになったものが、基本だけどそこに根拠を見出せない言説はすべて×なのか。
ダメな表現は淘汰されるものと、思いたい。でも、流行るのは甘口表現かも知れない。
じゃあ、もっとインパクトのあることばに対する感覚を互いにお聴聞で磨いていったらどう
でしょう。
 
 


ついでに弁明 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月16日(木)21時04分45秒 
 親鸞からは離れるけど。。。本来性(Eigentlichkeit きゃードイツ語かっこいい!)
といえば、お留守居役様さんお得意のハイデッガーを思い起こします。

 ハイデッガーのいいかたも、なんか「真理はこちら側が握ってる、君たちは真理にめざ
めてないからなー」というニュアンスはつきまといます。でも、ハイデッガーのいう非本
来性すなわち頽落(たいらく)しているというのは、「死」を忘れていること。

 だれか身近な人が死んで本当に「自分がいつ死ぬとも限らない」と思い、それを他者から
お説教され、そいつに従わされるのではなく、みずから自覚したなら。。。

 自分を見失って、自分でなかった在り方から、自分の存在をつかみ直して自分であること
を取り戻すことになる。そういった意味での「本来性」は、有意味であると思う。
 
 


くたびれた 投稿者:ぐっちん 投稿日: 5月16日(木)20時40分36秒 
 Genkoさんご購入の『読み解くV』第14講に「名一・義異」ということが出てきます。

 >名が同じで、意味が異なる、という意味です。

 また仏の説法についていわれることですが、

 >表現と意味は必ずしも一対一という対応をしないということです。(略)一つの語に
 >一つの意味が対応していなければ落ち着かないということがあると思います。

 で、お留守居役様さんが訝しがっておられる疑問ですが、
 
 「いのちに帰る」といった表現が、必ずしも存覚にあるいは、近代教学者に由来する言葉
なのかどうか。「啓蒙」といった表現の出所が、大願さんのおっしゃることのようなことな
のか、それともお留守居役様さんがおっしゃることが「正しい」のか。よしんば、大願さん
のいわれる通りであったとしても、Genkoさんのおっしゃる「シニフィエは絶えず生成
変化する」というものが、現実ではないかしらん?

 「帰る」という言葉に関して、ぐっちんが調べた辞書的な「あるべき位置におさまる」という
部分をCHINCHINさんは、「本来性」といわれ、それは知識人好み云々とおっしゃり、
ぐっちんの「生産的」という言葉に「産業社会」云々といわれる。それは、CHINCHIN
さんの非常に一方的な恣意的な解釈ではないの?何が何でも、批判するというような。
 
 


ボチボチいきましょう。 投稿者:おじき 投稿日: 5月16日(木)20時15分59秒 
 吉本親鸞観の議論が収束してニューフェースCHINCHINさんの登場から今までをザッと
読みました。ぐっちんさんがイラつくのもわかります。話はあちこちに飛んでますが、
最初の問題提起「帰る」について「帰る」という表現を避け「往く」と言うべきなのか、
あるいは、言葉は前後の文脈から読むべきで言葉を避けても無意味なのか。また、
「存覚」や「近代教学」のどういう所が「体制護持」につながるのか、このままでは
なんとなくあいまいに終わりそうなので、CHINCHINさんの再登場を期待しています。

匿名掲示板の面白い所は「生」で顔を合わしている時には、遠慮があったり、
気を使ったり、中途で話題が変わったりして過ぎ去ってしまう事が、文字に残る事で
より深い展開が期待できる事ですね。
 
 


啓蒙再論 投稿者:お留守居役様 投稿日: 5月16日(木)20時06分26秒 
ぐっちんさんが、なぜ「啓蒙」を問題にされるのか真意が分かりませんが、
以前申したとおり「蒙を啓」(もうをひらく)であって、
「蒙古」の意味はないと思ってます。
もちろん「蒙古」(暗く古い)は中華思想に基づく独善的命名だとは思います。

官公庁などでは「啓発」と言い替えているようです。
書店で歴史の学習用参考書を数冊調べたところ、
「蒙古」と「モンゴル」は半々でした。
 
 


いきなり 投稿者:モモ 投稿日: 5月16日(木)16時50分18秒 
 一週間ほど旅に出ていて、久々に掲示板をみてみると
物凄いアクセス、そして急展開の状況に、ビックリ。
読むだけで大変な量になっていて、物凄く疲れてしまう。
 
 

(無題) 投稿者:らくりん 投稿日: 5月16日(木)15時27分23秒 
今年の5月16日分までの過去ログをアップしました。
 
 

(無題) 投稿者:らくりん 投稿日: 5月16日(木)14時13分32秒 
52000 切り番ゲット
 
 

雑感 投稿者:Genko 投稿日: 5月16日(木)10時43分46秒 
>身近すぎると、何もかもが当たり前の日常になってしまって、良さも悪さも
>わからなくなってしまうことがあります。
>なんでもかんでも地元贔屓になってしまったり、逆に飛び出してしまいたいほど
>嫌いな土地になってしまったり。

なるほど。私が、自分の出身地である「神戸」が、
かつて「飛び出してしまいたいほど嫌いな土地」であった道理ですね。
狂おしい程の恋愛が、冷めると殺意や憎悪に切り替わり易いように、
「愛憎紙一重」の関係と近いものがありますね。
人間関係などに伴うスタンスとか距離の問題は、
しばしば多くの文学作品の主題となったように、極めて重要である所以です。
人とモノ・環境などとの関係においても、やはり似たようなことが起こるのでしょう。

>この街は、そうした織田の武将たちが一向衆徒を徹底的に蹴散らして場合によっては
>一つの村を完全に皆殺しにしてしまうような形で蹂躙し、
>そして自らが大名に居座ってできた街です。

その意味では、私が世界で一番好きな街−−パリでも、歴史的には同じです。
比較的近いところでは、建築家オスマンがナポレオン3世の命を受け、
当時の民衆を蹴散らして、抵抗するものは容赦なく逮捕ないし市外へと追放し、
原型をとどめなくなるほど造り替えてしまった人工の都市です。
古くは、紀元前のヨーロッパ全域に暮らしていた先住民族ケルトを、
ゲルマン民族の大移動などで、
長い時間をかけてほぼ全滅させてしまった悲しい歴史が埋もれてもいます。
わが国でも古代には、東北・北陸一帯にまで棲息していた筈なのに、
どんどん北へ追いやってしまい、
現在では北海道に僅かに末裔が生き残っているだけとなったアイヌ民族の歴史なども、
私たちは忘れるわけにはまいりません。
その被害者アイヌ民族ですら、南方からのヤマト族の襲撃や土地の収奪から逃れるために、
北海道全域の先住民たるギリヤーク族を暴力的に襲撃し、
ナホトカやクナシリ方面へと追い詰め、その彼らはまた、自分たちの生活を維持するために、
それらの島々で平和に暮らしていた先住民ポリヤーク族を滅ぼしてしまっているのです。
つまるところ部族や民族の歴史というのは、
かくの如き「収奪のドミノ現象」の無限連鎖に他なりません。
その意味では、歴史的に誰一人、免罪されることはないのでしょう。
世界各地の「少数民族」たちの存在と彼らの「歴史の記憶」が、そのことを自ら示しています。
私が常日頃「ナショナリズムの起源は根が深い」とことさらに申し上げるのは、
こうした<生の根源的原罪性>から、私たちが容易に無縁ではいられないからなのです。
 
 


らくりんさんへ(お願い) 投稿者:Genko 投稿日: 5月16日(木)09時51分44秒 
3月1日以降はや2ヶ月半になろうとしています。
そろそろ過去ログのUPをお願い出来れば幸いです。
(せめて3月と4月分だけでも)
自分が入れたカキコの再確認や文面の引用、
或いは、皆さんとの交信の流れを思い出したり、
追認したりしたい場合が、時々生ずるからです。
どうか宜しくお願い致します。
 
 

この街(2) 投稿者:らくりん 投稿日: 5月16日(木)09時32分17秒 
現在NHKの大河ドラマで少々人気を博しているこの街ですが、
ちょうど今、ドラマでも利家たちが近江〜越後〜加賀へとその侵攻の矛先を
北上させているところですが、
この街は、そうした織田の武将たちが一向衆徒を徹底的に蹴散らして場合によっては
一つの村を完全に皆殺しにしてしまうような形で蹂躙し、
そして自らが大名に居座ってできた街です。

兼六園は金沢城の庭園ですが、金沢城が会った場所にはその前に「御山御坊」
(おやまごぼう)という、真宗門徒の一大拠点があった地です。
Genkoさんが感激しながら巡ったなんとか博物館があるあたりは
ちょうどその御坊をとりまく場所になるわけです。
 
 


お知らせ@管理人 投稿者:らくりん 投稿日: 5月16日(木)09時02分50秒 
>投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月15日(水)21時29分13秒
の書き込みの末尾に「編集済」という小さな字が出ているので気がついたのですが、
この掲示板でも、各自が自分の投稿について「削除/編集」ができる機能追加されて
いることに気がつきました。tcupの掲示板では、これまでそれは管理人だけに
許された「特権」でした。
どうしようかと考えたのですが、すでに書いたものをあとから、
勝手に削除したり編集されたりすると、流れがズタズタになってしまう可能性が
ありますし、
また、暴言を吐いてすぐに消してしまうというような無責任な行動を見逃して
しまうことになりそうな気がしますので、
とりあえず、その機能は「オフ」にしました。
ですから、投稿する際にはこれまで同様、「書いたら消せない、直せない」という
つもりで書いてください。
削除の依頼があった場合は、そのつど判断させていただきたいと思います。
この掲示板では、その権限は管理人として独占しておきたいと思います。

よろしくお願いいたします。
 

編集済

身近すぎると 投稿者:らくりん 投稿日: 5月16日(木)07時08分31秒 
Genkoさん
金沢、お気に入りのようで何よりです。私にとっては何てことない街なんですが。
それに、Genkoさんが尋ねているなんとか館というの、わたしほとんど
行ったことがないか、もう何年もあるいは何十年も前に一度行ったことがある
という程度で、まぁ地元の人間というのは、どこでもそんなもんでしょうが。

身近すぎると、何もかもが当たり前の日常になってしまって、良さも悪さも
わからなくなってしまうことがあります。
なんでもかんでも地元贔屓になってしまったり、逆に飛び出してしまいたいほど
嫌いな土地になってしまったり。

気をつけて、旅を続けて下さい。
 


以上は、新着順1番目から30番目までの記事です。


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