らくりんバンバン

〈 落 鱗 板 々 〉

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同じ伝統社会でも・・・ 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月10日(月)00時17分17秒

(ぐっちんさんの今朝の「京都にて」とその「追加」に関連して)

 私の妹の連れ合いは、京都のある茶道の流派の宗匠さんのところで雑務をしながら修行をしています。師弟関係が絶対の、伝統社会そのものです。
 が、しかし!!!!!!社保も労災も厚生年金も完備です。場合によっては労基署からの指導もあるそうです。
 お寺は伝統社会やから・・・の言い訳は通用しません。


↓の私のカキコ 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 9日(日)23時14分25秒

分かる人には誰かわかるかな?
正体知れても別にいいですが。


>薄野高麗王さま 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 9日(日)23時06分41秒

申しおくれました。私は本願寺派大阪教区の僧侶で、<在家>出身、大阪市港区生まれで龍谷大学(真宗学)卒。僧侶歴はもうすぐ10年です。年齢は29歳で現在は<ヤクソウ>や布教で生計を立てながら本派僧侶の連れ合いと二人で大阪府下で暮らしております。

それから、ご本人が詳しいことはおっしゃるでしょうが、Genkoさんは大派の方で本派ではありません。


ところで… 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月 9日(日)22時55分29秒

 失礼ですが素朴な疑問。
 ぐっちんさんが「元」か「現職」かどうかはわかりませんが役僧でおありなことは文面から読み取れます。
 ところで、CHINCHINさんとGenko(本願寺派?)さんの教団における「身分」がわかりません。
 御両名の書き込みを拝見してもこの点が不明瞭だと、「何に基づいて」話されているのか愚かなわたしには読めません。
 よろしかったら教えてください。
 ちなみに、繰り返しますがわたしは真宗大谷派北海道教区・某寺衆徒、札幌市ススキノ生まれのいち大谷派僧侶(大谷大学卒・僧都・学師)です。


<国家>の<活用> 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 9日(日)22時44分50秒

ともあれ、Genkoさんご指摘の通り、<教団>の背後に<国家>ありです。
現在の<教団>の存立を担保しているのが、何を隠そう<国家>です。
したがって、ぐっちんさんがおっしゃる
>とりあえず、ヤクソウの「労働者」としての最低の権利・保障を
>勝ち取れるように動くこと。
においては、<国家>をいかに<利用>するかが最も重要になってきます。
かつて、私が賃金不払い問題で、不本意な結果になった失敗の原因は<国家>をうまく<活用>できなかった、ということでないかと考えます。
かりに<教団>の規定に<ヤクソウ>条項を加えても、各寺院にそれを守らせる強制力は<教団>にはありません。つまり、<教団>そのものには<ヤクソウ>条項をもって<ヤクソウ>の地位を担保する力はないのです。もし、ある寺院が<教団>の規則に違反しても、それを守らせる強制的手段は、裁判や行政執行など、<国家>に頼らざるをえないのが現状です。
それでは全くもって不安です。一人の<ヤクソウ>のために<教団>が寺院や住職を相手に裁判をしたりしてくれるでしょうか?
やはりわれわれ自身が直接<国家>の<法>や行政機関を<活用>できるような環境を獲得する必要があるのではないかと思いますが、いかがでしょう?


>Genkoさん 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 9日(日)22時00分14秒

>私の危惧は、往年の丸山真男などがかつて嵌まり込んだ陥穽−<近代>
>を達成させること
>それ自体が自己目的になることです。
>「プレ・モダン退治の反動政治学者」とまで揶揄する
>つもりはありませんが、<近代>の恐さは、多くの場合、
>いつのまにか「ミイラ採りがミイ
>ラと化する」逆説に存するのです。聡明なCHINCHINさんのことだから、
>そんなことはないと信じてはいますが、あらためて注意喚起したかった。

ご忠告ありがとうございます。
おっしゃる通り、<近代>を徹底しようとする試みは常に恐怖政治化しやすい傾向があることは肝に銘じなければなりません。近代の歴史でもフランス革命で早速、ジャコバン派の独裁恐怖政治がありましたよね。ああなることは勿論望むところではありません。
それを防ぐために、政権交代がつねに可能なより民主的なシステムを模索することが必要です。
民主主義が誤作動する危険性はナチスが政権につく過程をみれば一目瞭然ですが、あのような経験をふまえた、独裁を防止するシステムを確立するよりほかにはないでしょう。
いわば非暴力的な<近代民主主義革命の反復>を可能にすることです。
この他に方法があるのであれば、お聞きしたいですが。

また、教団を<目的>にしているというのは全くの誤解です。
本来的<目的>を果たしえていない現状を、より<利用><活用>できるものにするには?といういわば<手段>の改良をいうだけです。それは<国家>についても同じです。<国家>を<目的>化はできません。<活用>し、<利用>するものにしか過ぎないからです。そもそも、そのために、<国家>は近代において唯一の合法的暴力組織であることを認知されたのではないですか?(その暴走が問題ですが、これに対しても<近代の反復>によってしか解決の方途が見当たりません)

勿論<教団>と<国家>は違いますが、どちらも<組織>であり、<手段>であって、それを<目的>化するのは、その対象の社会的<力>の大小問わず、奇異に感じます。
<手段>として機能しなくなった組織は解体しますが、現在のところ教団はそこまで機能不全には陥っていないでしょう。もしその目的のために全く機能しないのであれば、<国家>であれ、<教団>であれ、一日も早く解体できるように、真心こめて解体のお手伝いをいたしますが、どちらも未だ<機能として存在>する歴史的必然性をもっており、同時にそれに代わる<手段>もありません(<国家>への対案にしても、柄谷らのNAMではまだまだ不安ですし・・・)ので、それを<活用>することを考え、そのより「マシ」な運営を議論しているつもりです。

とにかく<ヤクソウ>問題は当事者からすれば緊急課題ですので、思想家たちの<近代以外>なんて机上の議論の結果を待ってられないのです。


方向性試論 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 9日(日)19時15分21秒

 とりあえず、ヤクソウの「労働者」としての最低の権利・保障を勝ち取れるように動くこと。
また他の宗教組織の形態、経済面だけでなく、「業務内容」も含めて学習すること。
それが、ひいては既存の宗教組織体ではない、多用な「寺院」を生み出すことにつながるので
はないでしょうか。


ゼニ・カネのはなし 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 9日(日)18時35分24秒

 キリスト教のラディカルな人達の中に、クリスマスをやめよう(なぜならイエスの誕生日で
はないから)という方々がいます。また、クリスチャンでもないひとの結婚式を受けるのやめ
ようという意見もあります。いったい教会の台所事情はぶっちゃけた話、どうなってるんだ
ろうか?「僧評」で、牧師さん呼んで学習会開いてみようか。。。また天理教のような布教
所は、民家みたいなところもあるし、やや公民館っぽいとこもある。あれは誰が常駐ないし
は管理してるのだろうか?

 ヤクソウ・下寺を必要とする寺というのは、基本的に常逮夜まいりが多いところと考えていい
のでしょうか。東京のようにもともと真宗寺院が少なくて、葬儀社からお葬式の依頼があって
も、住職さんと息子さん、あるいは近隣もしくは親戚のお坊さんがいれば十分人手は足りるので
ないか。だから、もともとヤクソウとは主に逮夜における「お経読み」要員なのかな。。。

 であるとするなら、「宗憲」にヤクソウの規定はしにくいでしょうね。事実存在するけど、
オモテには出したくない存在かも。「在家」は、スタートはやはり「お経読み」という業を
背負い、しんぼうして後、チャンスがあればさまざまな形での「寺族」として変成しなければ、
救われない存在なのではないでしょうか?(たとえば養子、両もらいといった形で)

 大きい別院クラスの寺では、輪番という任命されて赴任する制度があるけど、たとえばらく
りんさんとこみたいに「自前で」食ってきたところでは逆に個人所有の商店に限りなく近い寺
院になり輪番制はありえないとも思う。だから薄野高麗王さんがいってた、「留守職の名告り」
つまり管理人としての自覚は、ほとんど有効性を失うでしょう。歴史があるお寺は、つまり管
理人の世襲がなされているのだもの。

 ここまで書いて力尽きた。。。


補足 投稿者:Genko  投稿日: 6月 9日(日)09時58分01秒

ちなみに、私の好きな思想家の一人に、G.バタイユというフランスの哲学/人類学者がいました。例えば、この人の向かっていた方向性などは、徹頭徹尾<非-近代>だったと言えましょう。
また、文学者ブランショや哲学のフーコー、ドウルーズ、精神分析のラカンらにしても、
今や現代思想を代表するビッグ・ネームたちは皆然りでしたが、
彼らの<近代>理解は、基本的にA.コジェーヴの『ヘーゲル読解』が下敷きになっています。
私が言いたいことは、<非-近代>を目指すことは、「限りなく<近代>に精通する」という、
気の遠くなるような長い「迂回路」を経る必要があるということです。
ただし、「ミイラ採りがミイラにならない」ように、細心の注意を払いながら、ですが。
即ち、敢えて自らに<ダブル・バインド>を課すという、気の狂わんばかりの方法的態度です。


CHINCHINさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月 9日(日)09時26分14秒

>教団の問題にたいするGenkoさんの態度に、すべての問題を安易に<国家>に還元し、
><国家>の問題を最優先して個々人の問題を矮小化(二人の女性を相手にするのか!
>というような、比喩にもならない例をもちいて、私や我苦生さんの問題意識を「微視的」
>と呼ぶような)する、いわゆる「政治の季節」の亡霊(ご自身は無自覚かもしれませんが)
>が見え隠れすると感じるのは私だけでしょうか?
>これがGenkoさんのいう「可能なる<近代以外>」であるとするなら、私は<近代の反復>
>のほうが「まし」だと思いますが。

確かに、まずい比喩であったことは認めます。
ただ私が言いたかったことは、日頃CHINCHINさんが、「利用させていただく」という言葉に示
されているように、ならば畢竟それは「手段的な対象」に終始するわけで、それにしては随分
「目的的対象」の如くに感じられてならなかったからです。
私にとっては、<国家と資本主義>の問題性こそが第一級の「目的的対象」なのであって、
その他の対象はすべて、原則として「手段的対象」に過ぎません。
もちろんそうだとしても、誰にとってもメシの問題は依然として重要であることに変わり
ありません。だから私は何も、「<未完の近代>を反復することが駄目だ」と言っている
わけでは決してないのです。
私は今も昔も、CHINCHINさんや我苦生さんらの試みを批判するものではなく、基本的には、
それが我々にとって、あくまでフーコー的意味合いにおける「微視的(ミクロ)政治学」
に関する<認識>を構成する限りにおいて、断固支持する者の一人です。
私の危惧は、往年の丸山真男などがかつて嵌まり込んだ陥穽−<近代>を達成させること
それ自体が自己目的になることです。「プレ・モダン退治の反動政治学者」とまで揶揄する
つもりはありませんが、<近代>の恐さは、多くの場合、いつのまにか「ミイラ採りがミイ
ラと化する」逆説に存するのです。聡明なCHINCHINさんのことだから、そんなことはないと
信じてはいますが、あらためて注意喚起したかった。
近代化論争の系譜で言いますと、「我々のゴールは決して<完成された近代>なんかではない」
ということを再度ここで確認しておきたいと思います。
そうすると次に、「我々の巨視はどこへ向かっているのか」あるいは「向かうべきなのか」
ということが問われてきます。
即ち、<手段>ではなく、<目的>の方です。
私は、それが「ありうべき<非-近代>」だとことさらに強調したかっただけなのです。
真宗的に換言すれば、これが「浄土」ということになるのでしょうか?


追加 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 9日(日)08時23分31秒

で、老舗の和菓子屋さんに雇われたとして。。。年金とか健保はあるよなあ。。。
制服貸与じゃないかなあ。。。慰安旅行もあるんとちゃうやろか。。。職人さんや
もん、「人間」やろなあ。。。先輩にはいじめられる(しごかれる)かも知れんけど
いつか独立開業の道もある。。。坊さんなんか、つぶしきかんなあ。。。


京都にて 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 9日(日)08時15分28秒

9時半から、高倉会館で菱木せんせのお話があるというので聞きに来ました。どんなありが
たい法話が聞けるだろうか。。。ついでに7年ぶりに本山に足を踏み入れました。すれ違った
人は、案内に書かれている「世界最大の木造建築」という点に関心をもたれ「大仏さんの方
が大きいんじゃないか?」とのご感想でした。

お寺って何なんだろう。店舗付き住宅でしょうか?老舗の和菓子屋さんかなあ。それとも料理
旅館みたいな感じなのでしょうか?いづれもお家を継がなきゃいけない仕事ですね。でも、本
部みたいなのは無いからなあ。あ、旅館だったらチェーン店もありうるか。。。会員制旅館。
でもいちげんさんも受け付け、会員になる。。。

前におじきさんがいったように、各寺院が単立寺院になったらどうなるのでしょうか。本山
の須弥壇収骨とか、祖廟に御骨収めてなかったら「ご本山」という意識は、ご門徒には薄れて
いるでしょう。だから独立には賛成されるご門徒もあるかも知れない。でも、和菓子屋さん
だったら調理師学校、旅館だったらホテル観光学科みたいな専門学校で、資格や技術を身につ
けることが出来ますが(親から直伝というのも勿論あるが。。。)お坊さんはどうしたらいい
のでしょう?東大や東北大の印度哲学科行くしかないとか。。。そうなりゃ、世襲化は無理で
しょう。で、インテリさんしかお坊さんはいなくなる。あ、もともとお坊さんって昔の知識人か。。。

各寺院が独立したら、何か新興宗教みたいになるのかなあ。新宗教もは結局、教祖のカリスマ
性が重要やしなあ。で、だいたいは世襲でしょう。PL教の御木さんとか、天理教の中山さんとか、大本教の出口さんとか、立正佼成会の庭野さんとか、ほとんどが世襲ではないでしょうか。
お婿さんとかが、やっぱり入って。。。

う〜ん、カトリックみたいに聖職者が独身なら、各地区代表枢機卿から法王が選ばれるけど。
日本キリスト教団(プロテスタント)は、どうでしたか?えーっと教派ごとに本部があってそれ
ぞれの教会に副牧師を派遣する権限があったのじゃないかなあ?で、牧師さん家族もまれに
「異動」があるんじゃなかったっけ?教派ごとに牧師養成校があるんだったっけ?東京・某市
には「農村伝道神学校」というのがあってそこへ行ってる方と知り合いましたが。(カトリック
か。。。)教会は、常逮夜まいりみたいなんないし、ミサや礼拝で説教するだけやから「ヤクソ
ウ」に準ずる人はおらん。。。

神社の巫女さんは、期間限定アルバイトだったかなあ?でもちゃんとお手当てもらってるだろ
うなあ。。。シャンシャンと鈴振って踊っていくら取るのかなあ。。。


聖路加病院のケース 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 9日(日)03時23分45秒

 日野原重明という、信仰者である重鎮を前面に押し出し、バックはすさまじい近代化の粋を
集めたハイテク病院。

 キリスト教は、日本では少数派ですがさすが世界宗教だけのことはあるなあ、影響力はある
わなあと恐れ入りやした。浄土宗でも、ここはでかい寺ですけど、スゴイ。

http://www.inochi-club.com/akita/


ねこさんのカキコ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 9日(日)03時05分55秒

 が、はるか彼方に消えてしまい、原文を引用できなくなってしまいましたが。。。

 確か、いろんな分野で真宗がいま出番です、とおっしゃってたような気が。。。
どんな分野なんでしょう?どのように進出できるといわれるのでしょう。

 けどまあ、ぐっちんなんかは今ガン宣告なんかされたら聖路加病院の看護婦さんに
囲まれて余生を過ごしたい。。。賛美歌なんぞを歌いもって。。。


甘えの構造 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 9日(日)02時55分16秒

 それにしても、ぐっちんは宗門については素人で、以下のカキコは間違っている点も多い
と思いますが。。。

 さて、芸人として見ても面白くない。しかし、カタギとしての仕事もできてない。なんで
すかいな、この業界。
 
 大悲さんの立場は、つまり宙ぶらりんになってしまってるんですねえ。何故、こんなことに
なるか。う〜ん、大寺と小寺ですか。。。つまり下請けですね。何百年と続き、確立した制度
なんでしょうね。独立採算制になってるから、問題なのかな。。。で、ロイヤリティーは、取
られるというんですよね。

 本山の会計をもっとクリーンにして、しょうもない研修とかにカネ使わへんかったらええの
に。CHINCHINさんのゆうように、本部は徹底した近代化、合理化したシステム。で、
地方のサンガをしっかり援護する。それには、女性や役僧の宗政への参加が強力に必要ですね。

 宗門の大学が、文学部だけでなく副業としての職業直結学部を持つことも必要なのでは?
谷大以外ではありますか。。。何で龍大は、あんなにキレイなのか。卒業生の寄付がすごい
んでしょう。工学部もあるしな。立正大とかも校舎キレイなあ。カネばんばん入ってくるん
かなー。ジゾクでお寺以外に進出して、いわゆる成功を収めたひとが寄付してんのかなー。

 お西の首都圏開教では、三年間補助金が出て、土地や建物購入の際の保証人に本山がなる
んでしょう?「出店」計画もきっちりやるそうな。。。お東じゃ、考えられない。

 でも、どうなんでしょうねー。トーキョーに出て、起業家として<成功>しても本部に
多額の上納金を納めなければならないとしたら。やる気無くすかなあ。人間はやっぱり、
エゴの生き物かなあ?


注意! 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 9日(日)02時30分06秒

↓の労基署の言い分は法的には根拠がありません。念のため。


>役僧修行日記  投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 9日(日)02時14分09秒

某労基署いわく、
><ヤクソウ>は「修行」なので、「労働者」でない
>したがって監督責任はない
>どうしてもってゆうなら裁判したらどうですか?

税金かえせ!ちゃんと仕事しろ!
税務申告のときは給与所得扱いやないか!!


かぶき者 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 9日(日)02時09分16秒

 あ〜最後の破滅型芸人。漫才師、横山やすし。やっさん、好きでした。やっさんのヨメはんの
実家がある泉大津の飲み屋で晩年、よう会いました。みんなにおごってもうてました。

 古今亭志ん生。ある日、酒に酔って高座に出た。マクラを語りだしてすぐに、居眠りを
始めた。すると客席から、「志ん生どうしたんだい!」と声がかかる。別の客がすかさず
「志ん生、寝かしてやんな」。。。客は、志ん生を見にきたんです。志ん生の芸を楽しみ
にしてるんですけど、それ以上に志ん生という人間に惚れ込んでるんです。

 あ〜、ハミダシ者。こいつが救われるんなら、人類全部が救われるに決まってる。そんな
サイテーの奴。そういう人に私はなりたい。(周りは、大めいわくですが。。。)


役僧修行日記 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 9日(日)01時48分21秒

 わ〜、えらいことまで書いてしもた。どこのお寺か分かってしまう。

 ぐっちん、バイクでおまいり。古すぎて、エンジン調子悪し。買い換えるという事になりま
した。けど、延期。なんでか。若の個人的趣味のバイク買うたから。ぐっちん、ママちゃりで
おまいり。ある日、お葬式。キン役。反対方向の家で時間指定。そして、会館にかけつける。
5分前に到着。すると、若、怒り出す。

 アホか!おのれが寺の予算、私物化するからこういうことになるんやないか!250CCの
バイクなんか衣でまたがって乗られへんやないか!ええ加減さらせ!


補足 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 9日(日)00時36分57秒

狂言の伝統と秩序を乱したとして、和泉流内で孤立している元彌一家。だが、彼は「芸の道は主従関係が大切なのではないかと考えている。(宗家を)合議制にしましょうよっていう人は、面白くないっていうかもしれませんね」と話し、派内で話し合いの席につく意思がないことを表明した。さすが「非<近代>」の体現者!


CHINCHIN鈔文意(略本) 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 9日(日)00時22分44秒

狂言師・和泉元彌といふは、

Genkoさんご自身を揶揄したのではなく、Genkoさんがおっしゃる「非近代」を現代において体現している人物としてあげたものです。つまり、「ルールや秩序は、出来るだけ有名無実化するのが望ましい。」という形で生きている著名人の代表としてです。
 報道によれば、彼は遅刻ドタキャン当たり前、近代組織化された狂言界の権威である宗家会も呼び出されたのに急遽欠席し、自ら手がけた着物のブランドの発表会を優先する。他流の宗家が怒ろうが、観客から非難されようが、かえってそれをあざ笑うかのように次々と時間や契約といった近代的ルールや秩序を有名無実化してゆく。
 もしこれが、狂言師としての信念にもとづいての行動であれば、ただ者ではありません。舞台でという空間を越え、家族ぐるみで、生活のすべてにおいて狂言を演じている、いや、むしろ、狂言とはもはや舞台で演じられるものではなく、日常こそが狂言であるのだ、という思想性さえも感じさせます。
 そうならば、彼の公演を見れなかった観客こそ、真に彼の狂言を見た、と言えるでしょう。それも、彼は脇役にすぎず、<近代>に固執して遅刻やドタキャンに怒る自らがその狂言の主役となるのです。人間社会(彼の場合は<近代>)の滑稽さを演じて笑わせるという、本来狂言がもっていたラディカルな態度を<近代>において貫こうとするその態度は、<近代>の権力関係にとっては排除されるべきものであります。したがって、<近代>のルールから逸脱する彼に対するバッシングが巻き起こったのでしょう。
 彼こそが「非<近代>」を体現しているのです。
 残念ながら、現在の仏教界で、彼ほどの若手は私のまわりにはいません。

http://www.yomiuri.co.jp/hochi/geinou/conts280.htm


労災発生!! 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 8日(土)23時29分13秒

わたくし、この<ヤクソウ>議論のさなか、<ヤクソウ>の業務中に大型犬に足三箇所をかまれ、白衣も破られるという「労働災害」にあいました。「貧給さん」の歌をよんでいると、足が余計にズキズキしてきました。
 保障は・・・・まだ分かりません。
 <良心的>な住職さんなので、大丈夫、、、だと思うのですが、うん、たぶん、、おそらくは・・・・
 それにしても、雇用者の<良心>をあてにせねばならないなんて・・・・戸次さんのトコが当たり前なような気もするが、それを「スゴイ」と思ってしまうのが悲しい。


未来の狂言師?和泉元彌 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 8日(土)22時55分50秒

>「未完のプロジェクト」としての<近代>は、今日において、
>ないよりはあった方が良かったという意味でのみ、応分に評価致します。
>(法治主義や人権思想、自由の観念や個人主義などをカッコ付で擁護するのもこのためです。)
>CHINCHINさんや我苦生さんらは、ある意味で、教団に「ありうべき<近代>を達成」せんと、
>試みられ、その実現を目指されていると考えられるのですが、如何でしょうか?

 <未完の近代>によって発生する諸問題への対処の方法が<近代の反復>、すなわち<未完の近代>の諸問題にGenkoさんがカッコつきで擁護するとおっしゃる近代的諸概念をもって繰り返し対処することしかないのは、悲しいことではありますが、現実ではないでしょうか?たとえば、近代市民社会が完成しつつある時期に、その近代市民社会=<未完の近代>への異議申し立てとして上がった声がフェミニズム運動であり、植民地解放運動でありました。これらは決して、近代的諸概念に代わる概念にもとづいて発生したものでないことは言うまでもありません。
Genkoさんご自身が、その問題性を自覚しながらも近代的諸概念をあえて擁護されるのは、<未完の近代>への最も有効な異議申し立ての具体的根拠(その背後に宗教性があったとしても)が多くの場合それらにしか未だ見出せないからではないですか?
 思想として<近代>にかわるものを見出す作業も重要ではありますが、多くの具体的問題への対処にあたっては、「不幸にして」、<近代の反復>という方法しか現実にはありません。したがって、私は決して<近代>への絶対的信頼にもとづいて、それをベストであるといっているのではなく、現在考え得るベターな解決の具体的方法として<近代の反復>をいっているにすぎません。
 そう考える私にとって、Genkoさんの

>最近出遭った「浄土系的仏教」の諸思想は、
>私にとってかなり「可能なる<近代以外>」に近い世界でした。

という言葉には惹かれるものがありました。
 しかしながら、教団の問題にたいするGenkoさんの態度に、すべての問題を安易に<国家>に還元し、<国家>の問題を最優先して個々人の問題を矮小化(二人の女性を相手にするのか!というような、比喩にもならない例をもちいて、私や我苦生さんの問題意識を「微視的」と呼ぶような)する、いわゆる「政治の季節」の亡霊(ご自身は無自覚かもしれませんが)が見え隠れすると感じるのは私だけでしょうか?これがGenkoさんのいう「可能なる<近代以外>」であるとするなら、私は<近代の反復>のほうが「まし」だと思いますが。


ボディ&ソウル 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 8日(土)22時03分10秒

 戸次さんの実名が出たのでついでに。。。

 あすこは、役僧・伴僧とはよばずに「法務スタッフ」という。息子さんも法務スタッフと
呼ばれる。別に候補衆徒などとはいわない。(実質そうかも知れないが)
ぐっちんなら法務ヘルパーと呼んでもええかなあ。なんか社会保障完備らしい。

 ぐっちんは病院で働いてわかったけど、やっぱ病院はものすごいヒエラルキー社会。
医者→婦長→正看護婦→准看護婦→介助スタッフという階級社会。差は歴然。でも介助の
ひとは自分を誇っていい。それは、患者さんにいちばん近いところにいること。最前線の
仕事だ。

 ぐっちんは、人当たりがいいから檀家さん受けしたなあ。。。「お寺に渡すお布施はこれ。
これは、あんたにあげる分。コーヒーでも飲んで」「いやあ、もう住職さんやなくていつも
あんたに来て欲しいわ」「住職さんにはいわれへんけどな、あんたにだけいうけど。。。」
「あんたの法話、面白かったわ。お客僧さん、食ってたなあ。あんたが毎月しゃべったらええ
ねん」。。。

 自慢たらたら。。。でもぐっちんは、ホントご門徒さんにはお世話になった。勉強させて
いただいた。いっぱい・いっぱい頂きました。あんまり、「お寺」に世話になったという感慨
はないですね、正直言って。で、教学なき現場なんていうけど、今のお寺に教学なんかあるん
かいなって思う。浮世ばなれした、自己陶酔みたいなことばっかりゆうて。。。 


ぐだぐだ 投稿者:我苦生  投稿日: 6月 8日(土)21時00分08秒

 お昼の境内の掃除で、太陽のいっぱい浴びすぎたせいだろうか?なんか、疲れて、感傷的。ネットカフェから動けない。
 
 今日法事した所のひとつは、もう35年も呑み屋さんをやっている所っだった。
 夫さんを亡くして、1年。その法事でした。
 位牌の横に写真がありました。夫さんが若いころバンドをやってたときの写真で、音楽好きの僕は、気になって話しかけました。
 カントリーが好きだったそうです。パンクが好きな僕には苦手なジャンルですが、一曲だけ、とても大好きな曲があります。
 ミスターボージャングルっていう曲で、大阪の戸次さんという大好きな坊さんに教えて頂きました。
 曲の内容は、年老いたボージャングルっていう、元タップダンサーが現役を退いた後も、よく行く飲み屋で酔うと『俺は、まだまだ、、、』って、タップダンスを踊っていた。って、ただそれだけの曲です。
 
 生きるって、大変だ。なんて、哀しくて、辛くって、大変で、、、、。そんなところで、みんな一緒なんだ、って、当時20代半ばで、人を許すことなんかまったく出来ずに『敵』を作り出すことに、その敵を『殺す』事しか考えられず、『僕は正しい』正義の味方であり続けようとしていた(いまもだが)僕に、ミスターボージャングルっていう曲を通じて、真宗の端っつこを感じさせて頂きました。

 さるべき業縁のもようさば、いかなるふるまいもすべし
 かなしきかな、愚禿鸞

 みんな同じ。もうここに3時間も居てる。
 『僕が稼いだ金だから、、、。』
 ゴルフに行かないだけ、高級クラブに行かないだけ、ベンツに乗らないだけ
 けど、やってることは、『仏教の私物化』。変わらん。
 そんなところで、声を掛け合っていきたい。解かりあっていきたい。

 闘争堅固ーかたくなな心な私だから、争い殺しあうような私だから、柔らかな心を呼び起こしていかないと。


出来ることから、こそこそと 投稿者:我苦生  投稿日: 6月 8日(土)19時53分46秒

 >「この畑は道場に寄進いただいたものであって、個人にいただいたものではない。
決して、私物化はいたしません」という趣旨のものです。

 仏法の御こころざしのもの。

 今日は暇で、法事3件、お布施15万。
 お布施は、15万でも、私は月20万。
 やはり、すねる、いじける。
 でも、私の給料も、お布施であることには変わりない。ただ、そのことが、非常に見えにくい形だから、私は、きずかなっかただけ。怒りで、見えなかっただけ。
 
 お布施の流れをはっきりさせたい。
 門徒さんから預かるお布施は、仏法の御こころざしのものである。それを預かるのは、直接預かるものの責任である。何歳であっても。責任である。と、いうことは今の私は自分の責任を果していないだけである。

 >ただ誰も寺に直接には文句も言わず、
陰口ばかりだったので、給料について・休暇について・保証について、小生が
その寺のドンと何度か交渉いたしました。また、一度も出されなかった「寺報」と
一度も開かれなかった「法座」と、一度も勤まらなかった「お朝仕」も(これは初めから)
この時から始めることができました。

 ああ、死生さんのように強くなりたいが、今の私には無理。だから、こそくに、こそこそと『宗憲』を変えてもらえるように運動しよ。
 方法論と、いえばかっこいいけど、結局こそこそ、ビクついているだけだもんな。
 でも、そういう自分しか今いないわけで、自分の出来ることから、こそこそと、少しづつはじめていきます。


モモさんへ 投稿者:我苦生  投稿日: 6月 8日(土)18時09分02秒

 >自分は「役僧です」と言い切れるのか、そこから始まるのか

 まさに、そのとうりです。
 今生きている私、ともに関係性の中で生かされている私。その私を、私自身が粗末にするべきではありません。
 役僧という、身の事実。そのわたしを、ごまかして生きるべきではありません。
 今生きている私を、恨み、呪い、やけ酒飲んでいるだけでは、あまりにも、いのちに対して失礼です。申し訳ないです。
 『私が、私として生ききる』それが、私の念仏です。

 >どういう境遇に おかれても 生きぬく力 それが信心

 生きぬく力、南無阿弥陀仏。解放への祈り。

 確か、玉光先生が、『往生とは、解放され続けていくこと』と、何かに書いてあったと思いますが、そのことを、感じます。


参考になりませんが 投稿者:らくりん  投稿日: 6月 8日(土)14時59分44秒

私が生まれ育った村には大谷派の寺が五カ寺ありましたが、
その村では、どのお寺も、お同行には経済的にあまり大きく依存していません。
副業・兼業するか、出稼ぎに出るか、自給自足するか。
寺(道場)のもんは、自分の食い扶持は自分で
稼いでくるのが当たり前という感じでした。
で、私の両親は教員をしていました。

明治時代に畑が寄進された文書があるのですが、それには念書がついています。
当時は、道場で法人格がなかったので、道場守り個人に対して寄付する
形になっているのですが、
その念書には、
「この畑は道場に寄進いただいたものであって、個人にいただいたものではない。
決して、私物化はいたしません」という趣旨のものです。
畑を使わしてやるから、そこを自分で耕して生活の足しにしなさいということだった
のでしょう。

現在でも基本的にはこの経済構造が続いています。
月々のお参りとお葬式と法事をお勤めしているだけでは、
干上がってしまいます。

さりとて、それだけの「法務」で左団扇のお寺を
うらやましいとは思えません。
むしろ、そんな「業」を負わされていなくて……


CHINCHINさんへ 投稿者:死生  投稿日: 6月 8日(土)13時01分41秒

「重なるところがある。」でしたね。小生も早とちりです。ごめんなさい。
〈ヤクソウ〉問題については、水を差すようなことになって、
これまたごめんして下さい。せっかく議論はじまりつつあるのに。

それにしても、「貧給さん」かぁ。おもろいけど、他にも応用できるなぁ、コレ。


頭を下げればぶつかりません 投稿者:大悲  投稿日: 6月 8日(土)11時16分52秒

NHK教育の「ピタゴラスイッチ」という番組の中に「アルコリズム体操」っていうのがあります。
「こっち向いて二人で前習え〜、こっち向いて二人で前習え〜、・・・
手を横に、あら危ない、頭を下げればぶつかりません、手を横に、アラ危ない、頭を下げればぶつかりません・・・・」
て体操です。「手を横に」「頭を下げればぶつかりません」の個所では、頭を抱えるようにしてしゃがみます。ウチの子達は面白がってやってますが(コレで高校生)何か、子どもたちが処世術学んでるみたいで、母はわざとガード高くしたりして。


考えてみれば 投稿者:大悲  投稿日: 6月 8日(土)10時51分25秒

事の発端は、ウチが下寺だったことから始まります。
全く別の宗教法人であるにも関わらず、コの字型に配置された三軒ずつのお寺。両脇のお寺は奥のお寺の山門を入って参道に面し、奥のお寺に何か行事があればお手伝い。昔は掃除まで手伝っていたそうです。平均寿命が短かった頃は、どこのお寺も住職と、脇寺&異姓衆徒で法務をしていました。
平均寿命が延びて、10年前から、住職と副住職さらに副住職の兄弟たちもいて、脇寺のお手伝いを頼まなくなり、脇寺はたちまち窮地に陥ってしまったのです。
副業が順調なうちはよかったのですが、人生の中には何が起るか解りません。
住職も、最初は首都圏開教のつもりで上京しましたが、今の状態は、あちこちのカルチャーを掛け持ちしたり、昔の肩書きで法話・講演させて頂いているようですが、壁の厚さを言います。
覚悟して決断したら、愚痴こぼすな!と気の短い私はメールをゴミ箱に(ーー;)
下寺・脇寺・庵寺といわれるお寺の住職は住職であっても、またなまじっか住職だけに問題もあるんです。抜本的に解決に向かう道が、僧評にあるのでしょうか。期待半分で読んでます。


貧給さん 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 8日(土)08時28分20秒

 (貧給さーん)(ハーイ)
ズキズキズキズキズキズキ 痛んでる ズキズキズキズキズキズキ 貧給さん
お経は伸びやかだよ 一級品  法話は満点だよ 一級品
教学きびしく 一級品 だけど 手取りはからっきしだよ 三級品
アーアー ご破算だ
人権蹂躙 労働三法 気にしない
気にしない〜 気にしない〜 気にしない〜
国保は高く手当て無く ピンハネされても とっちめちん
ちんぷんかんぷん 貧給さん
ズキズキズキズキズキズキ 痛んでる ズキズキズキズキズキズキ 貧窮さん
貧窮さん

 ハーイあわてない あわてない あわてる坊主はもらいが少ない
ひとしんぼう ひとしんぼう もうひとしんぼう まだひとしんぼう。。。


狂言師は狂言師でも(U)  投稿者:Genko  投稿日: 6月 8日(土)06時47分40秒

この比喩を敷衍すれば、もはや分かって戴けたでしょうか?
「非-近代」とは、<近代>と言うメタルそのものを決して粗ゴミの如くに捨てやしないが、
しかし真剣に相手にしないという志向性を顕示しているのです。


狂言師は狂言師でも 投稿者:Genko  投稿日: 6月 8日(土)06時39分12秒

私の「非-近代」は、「反近代」とは違います。
「反」は、己れの<敵>を<敵>として認めるところからしか出発できないし、
相手の存在が同時に己れの<存在理由>を構成している関係から、
同じ一枚のメタルの表裏でしかない。
<オモテ>の反面として<ウラ>があり、<ウラ>があることで<オモテ>が強化される。
従って、私に言わせれば、「反近代」こそ、「近代」をしからしめる正体であり、
応分の<担保価値>なのです。


↓訂正 投稿者:Genko  投稿日: 6月 8日(土)04時11分32秒

下記文中の「未刊のプロジェクト」は、
「未完のプロジェクト」の誤りでした。
お詫びして、訂正致します。


この際はっきりと・・・ 投稿者:Genko  投稿日: 6月 8日(土)04時06分03秒

私の社会科学的立場は、決して「ありうべき近代」などには向かっていません。
ただし、「未刊のプロジェクト」としての<近代>は、今日において、
ないよりはあった方が良かったという意味でのみ、応分に評価致します。
(法治主義や人権思想、自由の観念や個人主義などをカッコ付で擁護するのもこのためです。)
CHINCHINさんや我苦生さんらは、ある意味で、教団に「ありうべき<近代>を達成」せんと、
試みられ、その実現を目指されていると考えられるのですが、如何でしょうか?
以前にも告白したように、私は、そもそも<近代的なるもの>を全く信じていないのです。
それは、<人間なるもの>を信じていないのと同じ程度に、ということです。
(自分自身を含めた)<人間>という概念が信じられないのに、
その手になる<近代>が信じられるわけがないでしょう?
私にとって、かねてより目指されていたものは、従って、一に「<近代>以外」、
二に「<人間>ならざるもの」、という図式に自ずとなるわけです。
このうち、前者については子供の時分から身についた業のような「文学癖」が、
後者については「仏教的世界」が、それぞれ対応関係にあったと今なら総括できそうです。
というよりも、私ほどの異質なものがこの<穢土>を生きていくためには、
その二者に依拠するより他にすべがなかったというべきなのでしょう。
ことに、最近出遭った「浄土系的仏教」の諸思想は、
私にとってかなり「可能なる<近代以外>」に近い世界でした。
それ故、私の社会科学的必然性は、
まずは自分の置かれたそういう立場に立脚しているのであって、
そもそも皆さんとは<動機>と<視点>が多分にズレていたのかも知れません。
例えば、ぐっちんさんが盛んに揶揄する、一頃流行った「ポスト・モダン」などは、
本来<近代>を前提にしている思想です。
しかるに、前提条件として私の社会科学的視座は、まず方法論的に、
「ありうべき<非近代>」の無限遠点Xから<未来>を標榜し、また、
「ありえた筈の<非近代>」の定点Yから<現在>を逆照射していく戦略をとっているので、
本質的に「プレ・モダン」でも「ポスト・モダン」でもあり得ません。
私はいつも、XY軸の二つの交点の位置から<近代>の諸問題を凝視・再評価するので、
「良き<近代>」に対する一定の<信>をベースに据えたCHINCHINさんらとの間で、
議論が容易に噛み合わず、必ず不協和音をかもし出すのは、多分そのせいかと考えられます。



誤解なきよう 投稿者:Genko  投稿日: 6月 8日(土)02時11分41秒

>なんで国家に対峙するか、それとも教団に対峙するかと、・・・

私は、国家に対峙せよとか、教団に対峙せよとか、言った覚えもありません。
一般論として、(一僧侶にとって)教団の内包する多くの問題に取り組むことは、
何であれ良いことだと言ったことはあります。
また、国家の内包する多くの問題に取り組むことは、万人にとって、
教団問題の有無に関わりなく、とても重要で必要不可欠なことだと主張したこともあります。
ただ私の立場は、個人的にどんな国家も嫌いだし、
生理的にどんな組織も好きになれないだけです。
この「嫌い」という私の感覚的・思想的<特殊性>と、客観的・学問的な立場上の<一般性>を、
自分の中で決して混同しないように常に心がけていることだけは確かです。
「好き/嫌い」の問題はどこまで行っても<私的>な域を出ないのに対し、
「政治的/現実的」な諸問題は<公的>な域に属するレベルだからです。
私の見解は大抵その双方に超越的に跨っており、
一見するとまるでパスカルのような「中間者」に軸足を置いているので、
矛盾しているように誤解されたのではないでしょうか?
以前からここで、おりに触れ盛んに反復する、仏さまでもない限り、
「存在は常に自己矛盾である」というのが、私の基本的なテーゼです。


死生さんへ 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 8日(土)01時55分19秒

死生さんのお立場について早とちりしておりました。この点については謝ります。申しわけありません。

「在日」問題と<ヤクソウ>問題には重なる所があるとは言いましたが、いっしょくたにはしておりません。まったく違う位相の問題であることは、学習や在日活動家の友人などをつうじて承知しております。連帯の可能性について述べたにすぎません。
寺族の方のご意見がないまま<ヤクソウ>議論がすすんでいるような気もしますので、まだ反論がおありかも知れないですね。
まずは思い違いをお詫びします。


??? 投稿者:Genko  投稿日: 6月 8日(土)01時46分07秒

CHINCHINさんへ

>「穢土教団」という言葉がぐっちんさんのカキコにありましたが、私にとっては国家にしても、>教団にしても、<穢土>の問題として、どちらも課題になります。

それでは、同じ<女>だからということで、<穢土>の「隣家の婆さん」も、
<穢土>の「皆のアイドル嬢」も、両方とも同じように愛してあげて下さい。
私は、とても身が持ちません。

>教団のオエラ方が救われるのは何が悪いのでしょうか?
>救われなければ我々も救われないですよ。
>さらには何をもっておエラ方を「悪人」とするのかよく分かりません。

私が「救われる」と言ったのは、存在論的文脈ではありません。
「(良心の呵責から)救われる」と言ったのです。ニーチェ的な「疚しさ」というヤツです。
それに、「オエラ方が悪人」なんて、私は一言も言った覚えがありませんが・・・。


最後の和泉元O 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 8日(土)01時28分46秒

Genkoさん、なんで国家に対峙するか、それとも教団に対峙するかと、選ばないといけないのでしょうか?「穢土教団」という言葉がぐっちんさんのカキコにありましたが、私にとっては国家にしても、教団にしても、<穢土>の問題として、どちらも課題になります。

それから、教団のオエラ方が救われるのは何が悪いのでしょうか?救われなければ我々も救われないですよ。さらには何をもっておエラ方を「悪人」とするのかよく分かりません。教えていただけないでしょうか?


補足 投稿者:Genko  投稿日: 6月 8日(土)01時16分28秒

弁解がましいのですが、私が、教団問題に取り組むCHINCHINさんに対し、

>引導を渡されたかつての社会党や日本新党はその後、どうなったでしょうか?

と国政レベルに寓意して問題提起したのは、今日では近(現)代国家が、
「教団」を含むその他のあらゆる「集団」や「団体」をあらかじめ内包している、
という位置付けと順序で申し上げているのであって、
およそその逆は成立しないという厳密な意味においてです。
言いかえれば、教団問題を国政に寓意できても、国政問題を教団に寓意できない、
ということです。
ですから、「国政に対する権利義務」の行使上の<責任>は、当然のことながら、
好むと好まざるとに関わらず、私自身を含めて一国民として誰にでもあることは、
もとより言うまでもないことだったのですけれど。


(無題) 投稿者:死生  投稿日: 6月 8日(土)00時53分15秒

>CHINCHINさんへ
>死生さんは開教が成功すれば寺族の仲間入りとなりますが、それでしか<ヤクソウ>は
>「救われ」ないのが現状ですよね。ご成功を念じます。
>ええんかな、それしかないっていうのは。<変成男子>ならぬ、<変成寺族>でしか
>救われんなんて!<ヤクソウ>は<ヤクソウ>のまま救われへんのかな?
 う〜ん、そんなふうに書いたんやな、オレは。
〈ヤクソウ〉は〈ヤクソウ〉のまま・・・か。
その通りなんかなぁ、
よくある、〈あなた〉は〈あなた〉のままで・・・、というやつか。
それしかないって、言うたつもりはないけど、
自分の中でやりたいことが、見えてきた(現状:見え隠れやけど)って
いうのが、開教やった。「坊主バー」やるときは、
最初っからこれ知っとれば、と思った。から、
知り合いの元バーテンに協力してもろて、自分ちでもやれるようにしてみようって感じ。
寺族ってヤバイかなぁ、みんなのカキコミ見とるとそうとう世間からずれた
ヤバイ奴と思うわな。だから寺に生まれても「こんなとこ出てったる!」言う奴
多いんやろな。経験上、「寺の子寺の子」と言われ、「寺族寺族」と言われ、
「坊さん坊さん」と言われ、たまに誉め殺しにも合い、
聞こえるような陰口(とは言えへんな)を聞き、テレホン相談なんかしとると
お叱り、罵詈雑言なんてしょっちゅうやな。
でも、オレ生まれてきたら寺の子やったんやねん。(ジゾクです)
それである時、逃げられやんと思ったんやな。
ってゆうか、もうそれでええって感じかな。(とても伝えにくい)
ぐっちんさん風に言えば、自分の場所やったってところかな。
勘違いされるかも知れんけど、別に「寺が」っちゅうわけやないで。
そういう場所で生きている人たちに育てられたってゆうかな。
エエもアカンもそれが捨てられへんのです。

「被差別」「在日」問題と「ヤクソウ」問題をいっしょくたにしとるようやけど、
オレにそのこと(上記:それである時)言うてくれたんは、在日のツレですわ。
問題が違うようでごめんなさい。
それと、小生の開教の成功は念じくてもいいです。

 
 


ごめんなさい・・・ 投稿者:Genko  投稿日: 6月 8日(土)00時47分50秒

あ、よく考えてみると、もう二つほどありましたね。

D殺されたくないから、寝技を使って命乞いをし、どちらかの組に入れてもらう。
E警察に電話して、かくまってもらう。

Dは、生き延びるためには、かなり有効な手段です。
Eは、あんまり頼りになりそうもないなあ。

実にふざけたヘンな比喩ですが、
DもEも、一般的な「宗教的倫理性」からはほど遠いでしょう。
しかしながら、もしも「悪人ショウキ説」からしてアリだとすると、
守旧派の偉いさんたちは、救われます。


ケンカの美学 投稿者:Genko  投稿日: 6月 8日(土)00時32分12秒

比喩的に言うと、私たちがもし仮に、
全国区で構成員数万人を擁すると見られる「山口組」と、
自分の町で構成員百人前後で看板出している「○×組」と、
両派のヤクザから、不可避的にどうせ勝ち目のないケンカを売られたとき、
次の四つしか取るべき手段はないのではないでしょうか?

@どうせ負けるのだから、その双方から「三十六計逃げるにしかず」を決め込む。
Aどうせ負けるのだから、たとえ「多勢に無勢」でも、果敢にもその双方からケンカを買う。
Bどうせ負けるのだから、「相手にとって不足はない」より強い方を一かばちか受けて立つ。
Cひょっとしたら万が一にでも勝つかもしれないから、より弱い方を選ぶ。

私は、このうちのA番ほどの勇気がないし、かといって@だと後で後悔しそうなので、
敢えてBを選ぶしかないということです。
むろん、どの方法的態度を選ぶも、基本的に各自の「自由」なのです。
CHINCHINさんの場合は、Cを選んでいると言えるのかな?
ただ私は、やはりCでもこの勝負は勝てないし、実はその小集団は、
ウラで前者と癒着していると読んでいるので、状況判断の違いはありそうですね。


CHINCHINさんへの反論 投稿者:Genko  投稿日: 6月 8日(土)00時06分23秒

>あなたが今まで主張されてきた社会科学的視座の必要性などなくなるのではないでしょうか?

教団問題に限定されるべきではないものとしての「社会科学的視座」ということです。
かつての隠れキリシタンたちにとっての「踏み絵」ではありませんが、
究極の問いを出せば、教団全体が消滅することと引き換えに、
世界全体が幸福になるのであれば、私たちは滅びても良いのではないでしょうか?
理念としての「宗教的倫理」というものは、
かかる<覚悟性>に収斂される本質を持つものだと考えます。
従来、「宗教学」が社会科学ではなく、人文科学系の一分野である所以です。

>じゃあ国政も同じですね。

私見によれば、国政と教団問題は、似て非なるものです。
教団に寓意できる問題ではありません。
教団の成員であることは、あらかじめ、
(イヤなら辞めりゃいいという意味で)個人が選択できる問題ですが、
近代国民国家の一員であることは、選択の余地のないものです。
また、<国家>は、合法的殺人が常に許されてあるのに対して、
宗教団体はそれが常に非合法でしかあり得ないものです。
つまり、<国家>の方が、常に既に、私たちにとって圧倒的に大問題なので、
教団問題に微視的に取り組んでいる場合なんかではないわけです。
ただ、当の<国家>にとって、<宗教>という位相の違う幻想共同体は、
常にのっぴきならぬ「諸刃の刃」であることだけは確かでしょう。
だから、教団の背後に<国家>が垣間見えるわけで、私はそのために投票権を放棄しませんし、「政治学」はそのカラクリを暴くためのテクノロジーです。


反近代の狂言師・和泉元彌 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 7日(金)23時31分58秒

>ここで法然さんは、「教団が」「念仏の助業なり」と言う文脈で言ったのでしょうか?

もちろん違うとおもいますが、なぜそういう質問をされるのかよく分かりません。<ヤクソウ>の生活を守れない(むしろ<ヤクソウ>を虐げている側にいる)としたら、教団は念仏を妨害しているに等しいという意味で法然の言葉を引用したのです。

>己れの「パンをめぐることども」にいくら憂き身をやつしても、
>将来たとえそれが解決できたにしても、もはや私の根本問題が、
>すでにそんなところにはない、ということに気がついたとき、魂の内奥部から、
>「南無阿弥陀仏」の叫びが、どうしても必要だったからに過ぎないのです。

ということの逆です。ぐっちんさんの<ヤクソウ>経験のお話で、<ヤクソウ>としての待遇の悪さのあまり、「悲しめない」というのがありましたが、そういうことです。

>別に「宗教団体」でなくても、どんな「会社」でも、どんな「任意団体」でも、
>何らかの意味でどうせ<前近代>ないし<非近代>を残存させているに決まっている、
>と今までタカを括ってきました。

と言われるのであれば、あなたが今まで主張されてきた社会科学的視座の必要性などなくなるのではないでしょうか?

>教団の運営がどうあろうと、基本的には役員でも議員でもない私には、
>責任もないし、あまり与り知らぬことです。

じゃあ国政も同じですね。


またまた訂正 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月 7日(金)23時19分32秒

 わたしが書いた、「東西本願寺宗主の例によって… 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月 7日(金)04時05分44秒」の
 「宗祖親鸞聖人・派祖教如上人の血を引く
とありますが

は不要だと思いました。また、
「抵抗勢力の反撃 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月 7日(金)03時08分13秒」の
「詰め将棋」や「詰め碁」の正解が基本的に一つしかないのだから東本願寺の建築様式に「瓦葺き」以外にないんだ!

「詰め将棋」や「詰め碁」の正解が基本的に一つしかないのだから、東本願寺の建築様式は「瓦葺き」以外にないんだ!
と訂正させていただきます。
何度もすいません。わたし自身の国語能力の非力さを痛感させられます。少し「訓練」しなければ……。


狂信 ☆  さんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月 7日(金)23時11分55秒

>CHINCHINさん、Genkoさん、おもろい。

率直なご感想、ありがとうございます。
正直言って、自分の考え方が、あまりにも斜視で擦れているので、
らくりんさんや皆さんの反感を買っているのではないかと、いつも不安でなりませんでした。
こうして、面白がって下さる方が一人でもいてくれたことが分かっただけでも、
ない頭をひねってカキコした甲斐があったというものです。
私も、『読み解く』、目下じっくりと読んでいるところですよ。
もっとも、大学の専門の勉強の方が目白押しなので、遅々として進みませんが。


CHINCHINさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月 7日(金)22時29分43秒

>法然上人いわく
>「衣食住は念仏の助業なり」

まことに、その通りです。
念仏申すのに、衣食住という<煩悩>は、基本的な前提として欠かせない所業です。
私は本来的に唯物論者ですから、このことの大切さが身にしみて了解できます。
ここで法然さんは、「教団が」「念仏の助業なり」と言う文脈で言ったのでしょうか?
私たちの時代の「サンガ」は、もはや釈迦の時代の「サンガ」ではなく、
近代法上に制約され、条件づけられた「宗教法人」としての「近代教団」ですよね。
そうでなくても、古代〜中世〜近代へと良くも悪しくも質的変容と形態変化をとげながら、
連綿と受け継がれてきた諸仏教<教団>なるものに、
たとえわずかでも<法燈>的要素が護持されたのなら、
少しは歴史的存在意義はあったと評価してあげてもいいのではないでしょうか?
でないと、この法然さんの言葉は、教団側の守旧派勢力に都合良く逆に使われてしまいます。
何故って、彼らにとっても、これと同じ事が言え、
教団内での地位立場や身分保証問題は、「衣食住」の生殺与奪権を規定しているのですから。
どんな組織も、それが近代組織である以上、必ず権力関係を構成するし、
運営方法に問題があれば、自浄作用がある臨界点を超えてマヒしているような場合は、
勝手に自壊するか、もしくは解体再編成されるて行く方向に向かいます。
私は、<近代>は最初から「未刊のプロジェクト」だと思っていますから、
別に「宗教団体」でなくても、どんな「会社」でも、どんな「任意団体」でも、
何らかの意味でどうせ<前近代>ないし<非近代>を残存させているに決まっている、
と今までタカを括ってきました。
そうして、臨界点を超えない範囲で「いい加減」な組織ほど、
意外にも長持ちするものと相場が決まっているのです。
この意味で、大谷派などは近代組織として、詳しいことは分かりませんが、
個人的にはかなり「いい加減」であるとの印象をもっており、
その分容易に自壊ないし解体再編成されずに長続きしていくのではないか、と考えています。
私は何も、教団を擁護するつもりではありませんが、
ルールや秩序は、出来るだけ有名無実化するのが望ましい。
反対に、もしこれを教団運営の政治過程に周知徹底させ、厳格に施行などすると、
タテマエだけが独り歩きしだす、かつてのクレムリンのような事態になりかねないのでは?
ロールズではありませんが、「正義論」はしばしば、逆説と恐怖政治を産み出すことは、
人類の歴史的経験の枚挙にいとまがありません。
もっとも私たちは、今流行りの欧米のカルチュラル・スタディーズの文化人のように、
個人的体験から発する「恨みつらみ」の民衆感情を、
左翼ズラしてことさらに抽象化するようなしたり顔になる必要は毛頭ありませんが、
個人の「ルサンチマン(怨恨感情)」がいずれ<敵>に回収されてしまうことだけは確かです。
私がもし<敵>の人間だとすると、最大の威嚇は、引導を渡してしまう戦術に出るでしょう。
即ち、「では、おまえがやれ。ただし、自分らよりもうまくまとめろ」ということです。
引導を渡されたかつての社会党や日本新党はその後、どうなったでしょうか?


<変成寺族>の願 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 7日(金)22時23分24秒

>役僧をつづけながらでも、暮らしていくことは出来ました。
>しかし、このままでは居れないものがあり、
>将来への不安と現状の不満は募るばかり。
>そんな時に、愚痴ばかり聞いてもらった先輩から
>「確かに首都圏の寺は寺になっていない(方が多い)」
>「寺の文句ばかり言って、君は何をしたいんだ」
>と、問われました。

死生さんは開教が成功すれば寺族の仲間入りとなりますが、それでしか<ヤクソウ>は「救われ」ないのが現状ですよね。ご成功を念じます。
ええんかな、それしかないっていうのは。<変成男子>ならぬ、<変成寺族>でしか救われんなんて!<ヤクソウ>は<ヤクソウ>のまま救われへんのかな?


(無題) 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 7日(金)22時06分13秒

ほんの少し世の中が
わかってきたこの頃は
傷つくことも増えてくけれど
最後は自分には負けたくない

Body & Soul 太陽浴びて
Body & Soul 探しに行こうよ
奪われたものは
取り返さなくちゃ
アタシらしくいられなきゃ
意味がない!


我苦生さんの言葉 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 7日(金)21時29分31秒

>人間扱いされない「被差別者」である自分を自覚した、と。だから、寺側の人間が自分を
>「非人間扱い」している状況を突破する。それが、寺側の人間が、人間性を失っている事を
>回復するきっかけになるのだ

実はこのお話、私が先日カキコしたような<ヤクソウ>として苦境にある時に、その我苦生さんから語りかけられたことと同一です。きっと、経験を得てさらに深められたのでしょう。この我苦生さんの言葉はそれ以来ずっと座右の銘にしてきたつもりです。そして、ここからこそ関係が開かれるのだと。私がその言葉をいただいて後、「被差別」の方々と出会いましたが、状況的には在日問題が、私としてはなんか重なるものが多いように感じました。
なんか我苦生さんに会いたいです。


批判 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 7日(金)21時11分10秒

>相手がどういう状況を生きていて、どういう苦しみや欲望をいだいてる
>のか。「お前は差別者だ」とか「お前は敵だ」という言い方ではなくて、相手が差別してし
>まう気持ちをほどくようなコトバや戦術を編み出す事。

これを私は差別問題における「批判」というのだと思います。ぐっちんさんが「批判」と表現されていることがらは、「批判」でなく、「他者攻撃」であり「否定」というような言葉で表現されるべきものでないでしょうか?
いかに「ちゃんと」怒るのか、が重要でしょう。何がつらいのか、どうなればお互いが分かり合えるのか、「ちゃんと」。


救済と自証 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 7日(金)19時45分05秒

 いちばん最初に、仏教に関心を寄せた時、これはもう四半世紀も前になるけど
気になったのは、いわゆる「社会事業」を行うことで目立った名僧とそうでない名僧との
違いでした。

 真言律宗の叡尊、その弟子忍性ら。彼らは権力者を後ろ盾に「非人救済」を行った。
「非人」たちは、叡尊らのことを「生き仏さまじゃ〜」とあがめた。すると叡尊は「文殊支利
般涅槃経」に基づき「わたしらみたいな、善行を積めないものが、あなたたちのような方々
がいてくださるからこそ行が積めます。あなたたちが、逆に文殊様です。ありがとう」とい
った。

 これには、引っかかった。じゃあ、「救われる」側の人間は、いつ「善行」を積むの?
善行・積めなかったら、救われる側の救いはいつ来るの?という疑問だった。叡尊らは、
「あんたらこそ文殊菩薩」と持ち上げてるけど。こういうのはやっぱり、「上からの援助」
であり、ポイント稼ぐためのおこないやなあと思います。

 らくりんさんの造語。「造善無碍」は面白かった。悪を行うも往生には碍りなし。善も
また碍りなし、と。他者に対するアクションは、「うながし」「もよおし」でやればよい、と。

 けれど「社会派」「運動派」の方の中には、社会に対するアクションが還相回向だという
人もいました。これには、ぐっちんはずっと違和感を感じていました。さらに、「加害者の自
覚」だとか「差別者の自覚」をもつのが機の深信だというような声もあった。これにも「えらく
自虐的だなあ」と違和感をもった。贖罪のための社会運動・学習会。それはいつも「自分が上」
という立場からしかモノを考えてない。

 差別者と被差別者が超歴史的に固定されているのかどうか?「寺族」なる実体者(イデア)
がいるわけではない。また寺族もあたりまえながら、五苦等を受ける凡夫。それが、ある局面
では「在家」あるいは「役僧」に対して「差別者」として振る舞う。法然上人のオヤジさんは
「相手を恨むのでなく、敵味方ともに助けられていく道を求めてくれ」と遺言されたそうな。

 「批判」というのも「糾弾」というのも、らくりんさんのいう「教誡」ということになら
ないとなーと思う。相手がどういう状況を生きていて、どういう苦しみや欲望をいだいてる
のか。「お前は差別者だ」とか「お前は敵だ」という言い方ではなくて、相手が差別してし
まう気持ちをほどくようなコトバや戦術を編み出す事。具体的には、「宗憲」に踏みこまな
いと解決しない問題を議論しているので、そのことを抜かすわけにはいかないが。

 ともあれ相手の凝り固まった観念をときほぐす作業が、自分をも解き放つことかな。


そうか。。。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 7日(金)18時29分35秒

 大悲さんのカキコを読んで、頭を抱えてしまう。。。職業選択の自由とか、居住地の移動とか
財産の問題とか、お寺さんの組織ってホントにいろいろ独自な矛盾を抱えてる。。。

 ところで我苦生さんとは、知り合って十年ほどでしょうか。「カミソリ」と異名をとった
時のセンスは坊さんになっても錆び付きませんな。。。これは、我苦生さん自身が書きこめ
ばいいのだけど。。。

 夕べの話では、ヤクソウになってはじめて、ぐっちんなどのいってることが身にしみたと。
で、人間扱いされない「被差別者」である自分を自覚した、と。だから、寺側の人間が自分を
「非人間扱い」している状況を突破する。それが、寺側の人間が、人間性を失っている事を
回復するきっかけになるのだ、と。そして今ようやく、被差別部落や在日のひとびとと連帯で
きる基礎が与えられたのだ、と。

 う〜ん、おもろい。。。


いち・に・サンガあり 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 7日(金)18時18分01秒

 >CHINCHINさんへ

 サンガ●アのヒット商品「みっくちゅ・じゅーちゅ」の容器に記されてあるような
振りつけ、考案ちゅうでちゅー。

 ぐっちんは、かねがね「情念としての教団」と「機能としての教団」を考えてるでちゅー
(ってもうええか。。。)。そこで、CHINCHINさんのアイデア

 >各地の「同朋教団」の形成を援助することに徹する、実務派プロデューサー教団になって
 >もいいんやないか?と思います。

 は面白い。

 >Genkoさんへ

 往相のみでなく、このどうしょうもない穢土教団を問い直す還相問題について考えてみて
欲ちいでちゅー。ヴィジョンは、走りながら考えるデチュウ。


>Genkoさん 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 7日(金)18時17分19秒

法然上人いわく
「衣食住は念仏の助業なり」


恐れいりました 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 7日(金)18時15分01秒

>らくりんさま

私はらくりんさんがお留守にされる前、
>皆さま節度あるご利用をお願いいたします。
とおっしゃっておられたのを、「迷惑」というぐっちんさんの指摘を聞いた時に頭をよぎりました。ちょうどあのらくりんさんのカキコの時にはじまった話題が<ヤクソウ>の話でしたから。ひょっとして、この話題のこと?などと余計なことを考えてしまいました。

しかし、よく考えれば、別にらくりんさんご自身がこの問題で何か発言したわけではありませんし、BBSにカキコに来た、我苦生さんやCHIMNCHINなんて、無力なにんげんが何を言おうが今の段階では相手にもされないと思いますので、らくりんさんに何かあるなんて、私たちが懸念することではないですよね。もっと脅威に思われるくらいに「努力」して運動いたします。

しかし、このようなBBSを教学者のらくりんさんが開かれていること自体、もの凄いことだと思います。いろいろ問題も発生するでしょうし・・・。感服いたしました。
らくりんさんが「余計なお世話」とおっしゃるのなら、とことん<ヤクソウ>問題をカキコさせていただきます。



教団問題 投稿者:Genko  投稿日: 6月 7日(金)18時01分12秒

このところ、教団の内部矛盾を掘り下げるような議論がかまびすしいわけですが、
「開かれた同朋会運動」という理念からは喜ばしいことです。
ただ、私など新参者が入ってゆけない部分があるのは致し方ないとしても、
一体、皆さんは、教団をどうしたいのか、その「来るべき」着地点が、
どうも明確ではないような気がするのは、私だけでしょうか?
総論的には、要するに組織運営上の「近代化」をクリアーに達成して、
宗法も「ヤク僧」の人権問題まできちんと保障された形に改正されたら、
めでたしめでたし、ということなんだろうか?
結論的に言ってしまえば、私なぞは、別に真宗系に限らず、
地上のすべての「仏教系宗教団体」は、どういうありようをしていても、
仏教理念的に観て、そもそも極めてナンセンスな存在だと考えるものです。
ですから、私などは最初から何も期待していないし、問題にすらしていないのです。
私が得度をした動機は、まず第一に、職業的な「僧侶」としてではありません。
自分を含めた「衆生の凡夫」の、精神的支柱に据えたかっただけです。
これまでの個人史への反省から、借金をどう返すかとか再就職が可能かといった、
己れの「パンをめぐることども」にいくら憂き身をやつしても、
将来たとえそれが解決できたにしても、もはや私の根本問題が、
すでにそんなところにはない、ということに気がついたとき、魂の内奥部から、
「南無阿弥陀仏」の叫びが、どうしても必要だったからに過ぎないのです。
そうでなければ、私は、こんなに強く、明るく生きていくことができなかった。
ここ7〜8年というもの、本当にメゲそうに落ち込む日々が続いたものでした。
私が今生きてあるのは、ほとんど「阿弥陀様のおかげ」です。
私が得度したのは、大谷派に対してというより、阿弥陀様に対してに他なりません。
だから、教団の運営がどうあろうと、基本的には役員でも議員でもない私には、
責任もないし、あまり与り知らぬことです。
むろん、個人で勝手に名号を唱える方法もあるのでしょうが、
意志が弱く、生来の怠け者の私には、それでは今ひとつ、様々な「仏縁」から疎遠になり、
自信がなかったわけなのです。









自分の場所 投稿者:大悲  投稿日: 6月 7日(金)17時24分18秒

私の場所は、ココなんだけど、ココで私は、何してるんだと思い返すと、
仕方が無いので、前住職の同居人、現住職の子供たちの保護者、アルバイトの坊さん、週2回塾に本堂を借りている店子。
住職が交代するときには、私は寺を出るつもりをしていた。帰るなら当然。もし帰郷せずに、今までどおり私と前住職に法務をさせておいて、名前だけ住職になろうとするなら、断固拒否、と思っていました。
でも、イザその場所に立ってみると、たとえお寺を出ても、やっぱりこの町から今すぐは離れられない。子どもたちの事、老夫婦の事、親身になってくださる仲間。塾の生徒。
よっぽど深い深いご縁があるんだな。と思いながらも、役僧でもない、寺族でもない、異姓衆徒でもない・・・・。
住職から、自分の意志を尋ねられたとき。あれこれと考える事がすべて計らいになってしまうことに気が付いた。相手(住職・ご門徒・親戚)がどう考えているか、全部計らいの世界。
自分の分限を少しずつ推し量りながら、住職の意思を確認しながら、考えていきたい。
投げ出してしまった。寺報だけが心残りだけれど、もう毎月書く力が私にはない。慰謝料を使い果たしたので、発行、発送する金もない。


<ヤクソウ>問題と<衆徒>問題 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 7日(金)17時15分24秒

これら二つの問題は重なる部分がありますが、まったく異なる基盤の上に成立している問題でもあります。これらを混同すると、問題の所在が見えにくくなります。

<衆徒>あるいは<寺族>というのはいわば宗門内<身分>で、封建遺制です。その地位は宗門法規に明記されています。
一方、<ヤクソウ>は、寺院に「法務」労働を提供し、賃金を受け取るという、近代資本主義的な<職業>です。我苦生さんのおっしゃるように『役僧』の規定は宗門法規上ありません。

<衆徒>が必ずしも、<ヤクソウ>ではありませんし、住職が<ヤクソウ>であることだってありえます。また、<衆徒>として所属している寺院と、<ヤクソウ>として雇用されている寺院が異なることなどは数多くあります。また、ぐっちんさんのおっしゃるように「縁故関係」が強い教団ですので、同じ<ヤクソウ>でも、親が別寺院の住職である、寺院子弟に配慮されることがそうでない者にはそれがされないということも起こります。
われわれ在家出身の<ヤクソウ>は複合的差別の中にいるのです。

>薄野高麗王さま

ぐっちんさんの「僧評」(ぐっちんさん、この名前気に入りました。オニシでもイタダキます)への薄野高麗王さんのレスでも上記混同されています。
あと、「羊頭狗肉」というタイトルの私のカキコ本文の内容ですが、意味、分かりにくいでしょうか?
私が指摘しているのは、規則が世襲制を成立させたのではなく、世襲制の事実が規則を成立させたので、規則を変えたぐらいじゃ実情はかわりませんよ、ということです。本派にはそのような寺院規則はなくとも世襲は実際行われているわけですから。規則の改廃はきっかけにはなりえますが、もっと深い教団の思想風土を問わないでいては規則があるのと変わりません。
規則があることは、私からいわせればむしろラッキーです。問題化しやすいですから。まず規則を問題にし、その規則を成立させているものの正体を見出す。ここまでやらないと、真の問題解決にならないのでは?
 PS・王を名乗るあなたが王を問題にしたのには、少しウケました(笑)

>ぐっちんさま

「寺院体操の歌」はさらにウケました。振り付けも考えて欲しいくらいです。


解放への祈り 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 7日(金)17時07分24秒

 「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いている。しかし、
わたしはあなたがたに言う。 自分の敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」(マタイ:5-43)

 親鸞さんもこういうてはる。「念仏そしらんひとをたすかれとおぼしめして、念仏しあわせ
たまうべく候」 

 パッときくと「じっと我慢の子であった。ちゃん!」みたいなハナシかいな〜と思いました
が。これ、我苦生さんのいう

 >被差別者が、差別者を救う。それが、私が学んだ真宗です。

 ということかいな。


<ヤクソウ>の名告り 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 7日(金)16時30分09秒

モモさんへ

>女性の解放、異姓衆徒の問題いろいろあります。声をあげないと
>ナカナカ聞こえない私です。しかし、発言するからには
>自分は「役僧です」と言い切れるのか、そこから始まるのか。
>という意味で書いたものです。

有難うございます。そういうことであれば私は同感です。
水平社宣言に「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」とありますが、この言葉のごとく、<ヤクソウ>であることを誇り得る時が、今ここである、私はそう考えています。あえて法務員という言葉でなく、<ヤクソウ>と自ら名のる。この精神で私は<ヤクソウ>と自らを呼びます。そしてそこから関係を開いてゆきたいと思います。


ロムしてます 投稿者:狂信 ☆  投稿日: 6月 7日(金)11時55分34秒

CHINCHINさん、Genkoさん、おもろい。

恩知らずの私は、とうとう、らくりんさんの著書の読書会を閉鎖してしまいました。
それでも、まだ、らくりんさんを使い倒したいと、てぐすね引いております。

ぐっちんさんもみなさんも、バンバンの娑婆代を払うつもりで、
「読み解く」、どっかで読んだらどうですか。

以上、個人的な願望でした、まる


人の目に触れるからこそ 投稿者:らくりん  投稿日: 6月 7日(金)10時03分49秒

仲間内だけしか見ないメーリングリストのような掲示板も面白いけれど、

ある程度の人数、しかも似通った問題関心や利害関係が重なってくる部分が
ありそうな人の目に触れるということがあるから面白い。
逆にそれが「しり込み」の理由にもなり得るのだが。

ちなみに、この掲示板のヒット数は70〜120/日というところです。


伽藍の維持 投稿者:モモ  投稿日: 6月 7日(金)09時56分27秒

ぐっちんさんの
「奢侈な建物とか彫刻とかをつくったり維持したりするのに庶民の犠牲や負担は大
きいですなー。その意味でも、何か後世のお手本になるような一手を考える宗務官僚は」

私も同感です。今この御時世に本当に物凄いお金をご門徒さんから
巻き上げて、どうしたものかと疑問に思っています。
坊守連盟では「平成の毛綱」なるものを考えているというから
まさに時代錯誤的で笑ってしまいます。毛綱は両堂再建の美談として
見られるが、女性にとってシンボルなる髪の毛を出すというのは
よっぽどのこと。出した人すべてが本当に好き好んで出したとは
思われない。在所のみんなが出すから、泣き泣き出した人もあったはず。
そういう悲しみを見ないで、「平成の毛綱」はないだろう。
何考えてんじゃ!!そこまでして伽藍に固執する必要はあるのだろうか?
末法の時代を表す例として「寺院の建立」があげられます。お寺、伽藍を
シンボルとしてしか仏法が維持できない悲しさ。

ホントいっそ両堂が壊れてしまったイイのにと思うのは
私だけ?


CHINCHINさんへ 投稿者:モモ  投稿日: 6月 7日(金)09時47分49秒

ご指摘の
「同じような言い方で<仏教者>が「思想善導」という名のもとに労働運動弾圧に加担した歴史をどう考えられますか?」についてですが

自分の意図するところが誤解されたかもしれません。
聞き様によっては「今の現状に何も文句を言わず、じっと
我慢しなさい」「文句を言うなんて勿体無い」という風に
読み取れたのなら誤解です。

2000年度の真宗教団連合のカレンダーで米沢英雄さんの
法語でこういうのがありました。
「どういう境遇に おかれても 生きぬく力 それが信心」
確かに大事な言葉ですが、これを部落差別を受けている人や
ハンセン病の元患者さんたちに向かっていう言葉としては
どうでしょうか?国に、社会に無関心という名で苦しめられ
人間性を奪われてきた元患者さんには「我慢しなさい、
死んだら救われるのだから」という当時の教団、説教の
在り方に疑問を持っています。今の在り方から問題あり
と言うことは大事なことだと思います。
役僧は黙っておけというのではありません。生活のために
家族のために仕事として選ばれたことは尊いことだと
思います。しかし、自分が選んだことに誇りが持てないのは
どうかということです。誇りを持って生きることが大事
なのではないかと思ったのです。
 女性の解放、異姓衆徒の問題いろいろあります。声をあげないと
ナカナカ聞こえない私です。しかし、発言するからには
自分は「役僧です」と言い切れるのか、そこから始まるのか。
という意味で書いたものです。


よけいなお世話 投稿者:らくりん  投稿日: 6月 7日(金)09時46分54秒

やっと、留守中の書き込み、一読できました。
「らくりんへの迷惑」ということが問題になっていましたが、
そんな気遣いは「余計なお世話」です。


ハブ 投稿者:我苦生  投稿日: 6月 7日(金)08時35分39秒

 二日酔いが、、、
 と、いうより、まだ酔ってる。道で寝るのはよくない。

 昨日、ぐっちんさんに散々叫んだが、やっぱり宗憲に『役僧』の規定がないのがだめなのだ。基本的人権がないのだ。だから、奴隷なのだ。

 役僧は、奴隷にして同朋にあらず。
 四海兄弟にあらず。
 四海兄弟、御同朋とは、寺族ならびお金を払ってくれる門徒サンのことである。

 同朋会運動とは、お金を払ってくれる門徒さんに対する運動であり、金を払わなければならない役僧に対する運動ではない!

 役僧は自らの身分に腐って非人間化していく。
 
 人の世に熱あれ、人間に光あれ!


真宗僧侶の「王」が存在すると仮定するならば… 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月 7日(金)07時01分36秒

 先に「基礎工事」を。
 菱木先生がおっしゃるように、国王に礼をする必要・義務はわたしもないと思います(国王不礼)。同様、真宗教団の宗主(法主・門首・門主etc.)に礼をする必要・義務もまたないと思います。
 この点を「大前提」として、もし真宗僧侶における頂点たる「王」が存在するとしたら、それは如何なることによって成り立つだろうか。
 例えば、声明によって決まるとするならば、「正信偈」や「阿弥陀経(読み方はこの場合「舌々」に限定されてくるでしょう)」を一番早く読める「競争(レース)」によって決まることになるのでしょうか。違うような気がします。なぜなら「早読み競走」をすることが「門徒さん」に対して「仏法」を伝えていることに必ずなるとは言い切れないからです。また、「伽陀」や「坂東曲」の声の大きさで決まるのか、それもありえません。但し、「堂衆一掾vという地位を決める要素にはなるかもしれませんが……。つまり、声明だけでは決まらないのでしょう。
 次に、血統によって決まるということはあるのでしょうか。東西本願寺においてはかつてその頂点に君臨していたのは「宗意安心の正否を判ずる」法主であります。ですが、宗祖親鸞聖人の血を引いているからといって無条件に、浄土真宗、教行信証の要義を理解され、門末を化導されていたかといえば、これもまたそうではないでしょう。まあ確かに覚如上人や蓮如上人、東西に分派してからは鏡如上人、あと「天才仏教芸術家」という意味で句佛上人、そして「最後の法主」光暢師といった方々は良くも悪くも「真宗僧侶の王」であったかもしれません。競馬では血統は問われますが、「信心決定」においては不要だと思います。ちなみに「五箇寺」「上座一等」「大僧正」といったステータスについては、「法主=真宗僧侶の王」が成り立たないのなら当然考慮の余地はありません。
 第3に、僧侶における「総理大臣」である宗務総長、総長、宗務長についてはどうでしょう。これが難しいところです。ただ、宗務総長になった人全員が「真宗僧侶の王」とは言い切れません。この場合も確かに、阿部恵水、「念仏総長」暁烏敏、「改革派の総帥」訓覇信雄といった各師はカリスマであったでしょうし、宗政史上にその名を残されても何ら不思議はありません。
 第4は教学についてです。この場合の「王」たる条件は、真宗聖教の殆どについて講義され、その肝要を所化に「伝承」された方。この条件に該当されるのは、江戸時代において「宗学を大成」された第6代講師・香月院深励師や近代真宗教学の学祖・清沢満之先生、そして近代真宗教学に血肉をつけられた曾我量深・金子大榮の両師といった方々(勿論、「大家である方々」は他にも大勢おられます)は、大乗仏教、浄土真宗の肝要について御講義されたら右に出るものはいなかったでしょう。
 また、浄土真宗の御本書である「顕浄土真実教行証文類(教行信証)の6巻すべての要義を所化に対してわかりやすく伝承する」というレースが現代の世において創設されたと仮定するならば、らくりん師はその意において「真宗僧侶の王」でありましょう。
 こうして愚考いたしますと、「真宗僧侶の王」たる条件は、「所化」「真宗門徒」の方々に対して、方法、手段を問わないで『仏教、真宗の肝要について説かれる「技術」に最も秀でた存在』であると考えます。初めの話に戻りますが、菱木先生が言われるように、「真宗僧侶の王」に対して「敬礼」する必要・義務はありません。ですが大乗仏教、浄土真宗が興隆するとき、「真宗僧侶の王」は必ず出現すると思います。たとえ末法、法滅の世においても。
 疲れてきたのでとりあえずここまで。


東西本願寺宗主の例によって… 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月 7日(金)04時05分44秒

 東西本願寺の宗主・法主・門首・門主・連枝の例は、「素行の善し悪し」によって宗主、法主・門首・門主・連枝の地位そのものが問われることは基本的にありえないだろう、ということを示そうとしました(但し「句佛事件」や「お東紛争」などの「特殊な例」はありますがいまは考えないことにします)
 現在の真宗大谷派(東本願寺)について考えますと、門首になることのできる条件というのは「宗祖親鸞聖人・派祖教如上人の血を引く大谷家の「氏の長者(ちょっと表現が古い?)」の親族(連枝)であるか否かです。
 例えば、当然の話ですが、このススキノコマオーは諦聴音院闡如上人(前門・光暢師)の子や孫ではありませんし近い親戚でもありません(はるか祖先をさかのぼればわかりませんが)。但しススキノコマオーが門首・連枝になる必要もまたありませんが。
 門首・連枝はとりあえず別として一般末寺・教会の住職・主管者になれる条件が「生まれ」によって決まるのか否か、わたしの答えはまだ出ていません。


また「訂正」させてください 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月 7日(金)03時30分01秒

 ぐっちんさんの「仏教再訪」の文章を拝見して気付いたのですが、わたしが書いた
「寺族、末寺住職の長男でなければ候補衆徒に非ず!? 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月 5日(水)04時18分04秒」
の「瓦の履き替え」という表現は誤りではないかと思いました。
 「瓦の葺き替え」に訂正してここにおわびいたします。


役僧回想 投稿者:死生  投稿日: 6月 7日(金)03時23分02秒

 小生、東京・千葉にて、足かけ6年間の役僧生活をおくってまいりました。
東京の寺では、平日は幼稚園に勤め、主に事務・雑務を担当しておりました。
土・日は住職に引っ付いて法事をお勤めしました。週の半分くらいは、
強制的に聞法会へ身を運び、自宅にても月1ではありますが、
「真宗聖典を読む」会を友だちと開いておりました。
また、役僧という立場ではありましたが、近隣のご門徒との交流も
「大切にしなさい」と勧められるようなところがあり、
夕方ぐらいになると、いろんなお宅に遊びに行って、
食事をごちそうになることもちょくちょくありました。
その寺は、会計の方もとってもクリーンであったと思います。
と言うのも、小生がその「お金」の出入りを帳面に付け、
(収入は沢山あったけど)誰にだってお披露目することのできる
正直なものでした。お寺の人々が真面目過ぎて、逆にそれがしんどかったです。
月に約2回しかない休日(それも不定期で前日言い渡されることが多い)
には苦しみましたが、それなりに学ぶことの多い場所でした。
ちなみに給料は、月18万円(しかも手取り、厚生年金にも入っている)くらいでした。
これは幼稚園の先生(同世代)よりも少し多いものです。
 しかし、千葉の寺はひどいモノでした。ぐっちんさんもご存じのお寺に
似たようなところです。毎日のようにお葬式をして、ブラックマネーも
暗躍しておりました。小生の給料はおよそ25万円でしたが、
お葬式の件数だけでも、東京の寺の1年間を1ケ月で軽く超えていました。
そこの人々は毎日のようにデパートに足を運び、とても忙しそうでした。
その寺には役僧が他におりましたが、1年ぐらいで辞めていきました。
「役僧は駒」だと聞きました。自分で言うのもなんですが、小生は
とっても役に立つ駒だったそうです。ただ誰も寺に直接には文句も言わず、
陰口ばかりだったので、給料について・休暇について・保証について、小生が
その寺のドンと何度か交渉いたしました。また、一度も出されなかった「寺報」と
一度も開かれなかった「法座」と、一度も勤まらなかった「お朝仕」も(これは初めから)
この時から始めることができました。
しかし、この寺ではご門徒との交流は厳しく問われ、法事ではお話しすることさえ、
基本的には許されませんでした。(もちろん葬儀でも)少しでも時間が延びるなら、
必ず寺から電話が入りました。こんな寺!と毎日のように愚痴をこぼし、
悔しい気持ちに歯を食いしばりしていたのも、負けたくない!
いつかこの寺を何とかしたい!という気持ちと、
(自分はどこまでも正義であれた)
やっぱり家族の生活があったからだと思います。
役僧をつづけながらでも、暮らしていくことは出来ました。
しかし、このままでは居れないものがあり、
将来への不安と現状の不満は募るばかり。
そんな時に、愚痴ばかり聞いてもらった先輩から
「確かに首都圏の寺は寺になっていない(方が多い)」
「寺の文句ばかり言って、君は何をしたいんだ」
と、問われました。
そんなことがあって、首都圏で開教活動をすることになったのですが・・・
まぁ、今日はここまでにしときます。


抵抗勢力の反撃 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月 7日(金)03時08分13秒

 先にわたしの大谷派における身分を明かしておきますと、「末寺寺院衆徒」です。次に書く文章はわたしの本意ではありません。
 もし、ぐっちんさんの「仏教再訪」と「僧評結成」の2文を「大谷派巨刹の御住職」が「ご覧になった」と仮定すると、先ず東本願寺の「両堂再建」については、東本願寺の建築様式について「瓦葺き」に代わる手段はあるのか。新しくなったJR京都駅みたいにするのか、それとも他の方法があるのか、「ないだろう!」と。そもそも「寄付」もしないのにモノを言うとはけしからん。「詰め将棋」や「詰め碁」の正解が基本的に一つしかないのだから東本願寺の建築様式に「瓦葺き」以外にないんだ!
 次に「僧評」についてですが、何故宗憲第80条が定められているのか、その意味を考えるんだ!
   (僧侶の所属)
  第80条 僧侶では、寺院または教会に所属する。ただし、門首、前門、新門、新新門および連枝の身分については別にこれを定める。
 「テラ」に所属しない大谷派僧侶がいるはずはないだろう!「仏法領」たる末寺・教会を護持する役目を背負っている末寺住職・教会主管者が、「法要座次(旧堂班)」において一般衆徒より優遇されて悪い道理はない。
 「抵抗勢力の声」である上記2文の論理を「肯定」することになっては大谷派末寺=学仏道場という理念の死を意味することになってしまうと思います。但し、大谷派宗議会においてはまかり通っているような気もしないではないですが……。


ぐっちんさま 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 7日(金)02時39分44秒

同感です。
寺院に生まれた男を「若さん」、女を「ヒメ」と呼ぶ所もあるらしいですから・・・
タイボウでは住職を「御前さま」ともいいますねえ・・・


薄野高麗王さまへ 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 7日(金)02時35分33秒

>例えば、お西さんにおいては、
>「門主・即如上人(光真師)の素行が良好だから、門主制についてもの申す奴は異安心だ。」
> 或いは、東本願寺においては、「法主台下(光暢師)が本山のお朝時に出仕されない
>(光暢師は病弱だったらしい)、明照院殿(大谷暢道(光道)師)は祗園で×内兄弟と
>「豪遊」していた、また、一時門首の座にあった大谷業成(光輪)師は
>ロックバンドを組んでいて、頭髪を長くしていた。
>これは、法主・門首・連枝としての素行としては不適格である。」
> 上記の2例はどちらも「断定」できないと思います。

これは私へのレスでしょうか?そうだとすれば、何についての例えかよく意味が分からないので、もう少し分かりやすく教えていただけないでしょうか?
さらに、

>わたしは、あらゆる真宗寺院の住職の方々が、「住職=留守職」という自覚を
>お持ちになること。即ち「真宗寺院留守職の名告り」を問うことではないかと愚考します。

おっしゃることはよく分かりますが、そういう自覚を持ちにくい一つの要因が世襲制にあるのでは?
とすれば、世襲制がなくなったと仮定すること自体に無理があり、話が飛躍しすぎるように思いますが。世襲制について問題提起されたのですから、もう少し掘り下げてほしいような気がします。世襲制と「<留守職>の自覚」の希薄さとの間には関係があるように思いますよ。たとえばご門徒に生まれた時から「若さん」などと呼ばれて育つわけですから。


天皇に人権を! 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 7日(金)02時11分56秒

 と和田師がかつて叫ばれ、物議を醸したことが昔ありました。菱木政晴先生などは、「天皇
制廃止」において、これは変化球としても認められない、と確かいっておられたような。。。
でも、ぐっちん思うに、これをもじって

 「ジゾク」に人権を!

 男兄弟のいない、お寺の娘さんに生まれたら、ちょっと気の毒です。将来、ムコをとって
後を継がないといけないという物凄いプレッシャー。「お前の好きにしてもいいんだよ」など
ということをご両親なんかからいわれたら、これはグレゴリー・ベイトソンのいうダブルバイ
ンド。

 きっと気持ちが引き裂かれるでしょう。姉妹がいたなら、これまたこれで大変。誰が先に、
「イイ人」めっけて寺から出て行くか、なんて修羅場が。。。門徒のひとの視線も、重圧で
しょうね。

 某僧侶養成学校では、入学早々「弁論大会」などというものがあって、その時に見た忘れら
れない涙がありました。けっこう可愛いおねーさんが、「小さいときから、将来はご養子さま
をお迎えしてという自覚で生きてきまして云々。。。」

 ご養子さまをお迎えして、ときたもんだ。戦国時代かなんかのハナシかなあ、なんて当時
思った。


僧評結成 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 7日(金)01時42分01秒

 全国役僧組合総評議会、略して僧評。いましがたまで我苦生さんと飲んだくれてたんです
が、そもそも「宗憲」に役僧という規定がない、これが問題だと。

 役僧。これはいったい何者なの?別にぐっちんは、住職になりたいとも思わないけど。
特定郵便局みたいに、住職が世襲なんてホンマへんだな。。。


仏教再訪 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 7日(金)01時34分13秒

 二条城や清水寺や西本願寺は世界遺産でしょうけど、そうじゃない東本願寺は瓦葺きにしな
きゃいけない理由でもあるのでしょうか?前にもカキコしたけど、どうせお金使うならソーラ
ーシステムにするとか何かインパクトのある修理・補修せんとなー。

 例えば東京・築地本願寺を、伊東忠太が手がけたように。誰かええ建築家おらんかなー。近代
建築好きのぐっちんにとってこの建物の醸し出す空間はたまりませんでした。まあでも、HPで
紹介しますけど奢侈な建物とか彫刻とかをつくったり維持したりするのに庶民の犠牲や負担は大
きいですなー。その意味でも、何か後世のお手本になるような一手を考える宗務官僚はいらっし
ゃらないのだろうか?

http://www.tmk.or.jp/history/6.html


「本願寺派」だけではないと思いますよ 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月 7日(金)01時10分03秒

 例えば、お西さんにおいては、「門主・即如上人(光真師)の素行が良好だから、門主制についてもの申す奴は異安心だ。」
 或いは、東本願寺においては、「法主台下(光暢師)が本山のお朝時に出仕されない(光暢師は病弱だったらしい)、明照院殿(大谷暢道(光道)師)は祗園で×内兄弟と「豪遊」していた、また、一時門首の座にあった大谷業成(光輪)師はロックバンドを組んでいて、頭髪を長くしていた。これは、法主・門首・連枝としての素行としては不適格である。」
 上記の2例はどちらも「断定」できないと思います。
 宗教法規と世襲制をとりあえず「除外」したと仮定して、「末寺住職たる根拠・名告り」を何に求めれば良いのか!?わたしは、あらゆる真宗寺院の住職の方々が、「住職=留守職」という自覚をお持ちになること。即ち「真宗寺院留守職の名告り」を問うことではないかと愚考します。「留守職の名告り」の内容についてまた考えてみます。


>薄野高麗王さま 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 7日(金)00時22分49秒

早速のレスありがとうございます。
さて「羊頭狗肉」の意味するところについてのお尋ねですが、これはわが本願寺派の現状(大派のように法規はなくとも実際は世襲制が存在する)を指したものであり、同時に大派の法規が改廃されただけでは本派のような状況になる危険性もある、そうならないでほしい、という私の勝手な願いです。(大きなお世話かもしれないですね。すみません)


先ず「お詫び」、そして 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月 7日(金)00時13分55秒

2 住職は、宗憲により、××姓を名乗る男子たる教師について、真宗大谷派の代表役員たる宗務総長(以下「宗務総長」という。)が任命する。
「真宗大谷派の代」と「表」の間があいてしまいました。謹んでお詫びいたします。
 CHINCHINさんへ
 「羊頭狗肉」(ようとうくにくと読むのですね、広辞苑を引いてみました)という言葉、初めて見かけました。愚かなわたしにとっては国語の勉強になりました。ただ、「羊頭狗肉」という言葉によって如何なることを表現されているのか、わたしにとっていまひとつピンときません。「わたしが法規にこだわったこと」をいわれているのか「世襲制度の闇」を指しているのか、それとも異なることをいわれているのか、「見かけが立派で実質がこれに伴わない」のは何かを教えてくださると幸いです。わたしももう少し考えてみます。


>らくりんさん 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 6日(木)23時39分41秒

おかえりなさい。


羊頭狗肉 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 6日(木)23時30分09秒

薄野高麗王さまへ

>規則の第6条第2項が、大谷派末寺における「世襲制」を容認する根拠になっているのです。

単に法規によって真宗寺院の世襲制が成立しているとすれば、この規定を廃止することで自動的に世襲制はなくなるでしょう。しかしながら、この規定ができるはるか昔から世襲制はありました。この事実を追認する形で引用されたような規定が作られたのではないでしょうか。
したがって、この規定い先立って存在していた世襲制の根拠をこれら規定だけに求めるのは少し安易な考えのように思います。

>もし、世襲制についてメスを入れるとしたらこの条項が改廃されることになるでしょう

もちろんそうですが、この条項を成立せしめていた教団の思想風土をこそ問わなければ、条項を改廃しただけでは解決になりません。実際、私の所属する本願寺派にはこのような規定は存在しません(大派の方から初めて聞いた時は驚きました)が、世襲制はあたりまえのように存在します。似たような例として、女性住職も本願寺派は戦後、法規上は禁止されていませんでしたが、事実上、女性住職が不可能な法的根拠をもっていた大谷派と変わらないような現状でした。
外見だけでなく中身をいかに変えてゆくか。非常に困難ですが、避けては通れない問題です。


とりあえず 投稿者:らくりん  投稿日: 6月 6日(木)23時27分12秒

帰ってきました。


宗教法人「末寺」規則と世襲制の「闇」 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月 6日(木)22時59分31秒

 大谷派末寺寺院において事実上の世襲制を成立させている根拠は、宗教法人「○○寺(教会)」規則の第6条第2項にあります。
 ■ 真宗大谷派の寺院・教会の宗教法人規則(準則)
    宗教法人「○○寺」規則
   第2章 役員その他の機関
    第1節 代表役員及び責任役員
 (代表役員の資格)
 第6条 代表役員は、この寺院の住職の職にある者をもって充てる。
   2 住職は、宗憲により、××姓を名乗る男子たる教師について、真宗大谷派の代    表役員たる宗務総長(以下「宗務総長」という。)が任命する。
   『真宗大谷派宗憲 宗教法人法』東本願寺出版部発行
    (わたしの手元にあるのは平成8年10月20日発行のもの)
 長くなってしまいましたが、この規則の第6条第2項が、大谷派末寺における「世襲制」を容認する根拠になっているのです。もし、世襲制についてメスを入れるとしたらこの条項が改廃されることになるでしょう。
 わたしの個人的な意見を申し上げさせていただくと、先ずこの条項の最大の問題点は、「真宗寺院=仏法領」という理念が見えにくいことにあります。
 すると、「大寺院の住職の家に生まれた男子であるか否か」ということがその寺院における支配階級と被支配階級を作り出す根拠となってしまうのです。それに、この発想を容認すると「平家でなければ人に非ず」(by大納言時忠)、「寺院子弟でなければ大谷派末寺住職に非ず」を肯定することになってしまいます。蓮如上人は自らを「本願寺留守職」としましたが、あらゆる「真宗寺院」を称する住職の方々はこの理念をいま一度再確認する必要がおありのように愚考します。
 いま「末寺住職の配偶者=坊守」に関する議論はみかけますが、「役僧の身分保障」についての議論はほとんど行われていないと思います。宗会の議事録にもみられません。
 これより先は話を分かりやすくするため「真宗大谷派の場合」に限定しますが、「末寺寺院子弟」や「大谷家の連枝の方々」が大谷派僧侶、別院、末寺住職、代表役員になってはいけない、ということにはならないと思います。それではどうすればいいのか?現時点で正答を出せませんが、ひとつ言えるのは、「テラ銭の適正な分配」がされていない真宗寺院があるとすればそれは、一部の人間がテラ(御布施)を不当に搾取していることになるでしょう。この傾向は都市の大寺院によく見られます。「オレが本店にカネを持ってきているから東本願寺が護持されているんだ!(その証拠が八藤小紋)悔しかったらおまえもカネを本店に納めてみろ」といったこの「鈴木宗男氏的発想」を打破するにはどうすればよいのか!?次はこのことを考えてみようと思います。


仏教の忘れ形見 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 6日(木)20時02分20秒

 ったく、仏教は仏教を忘れてますね〜。昔々、大宝律令に離婚の規定ができました。それ、
すべてオトコからの離縁。女性には、鎌倉・東慶寺と群馬県新田郡尾島町・満徳寺(廃寺・
現在資料館となってる)のたったふたつの縁切り寺のみが頼りでした。いまDVなどで苦しん
でいる妻たちに仏教は何ができてるのだろう。

 また、GenkoさんCHINCHINさんむけに去年の12月7日の投稿を再度貼り
付けときます。

 >イスラームにザカート(喜捨)と無利子銀行あり。
 >仏教に布施と頼母子講(無尽講)あり。いや、あった。
 
 調べていたら狂信さんのページに行き着いた。 
 
http://member.nifty.ne.jp/vita/r/okou/okou.html

 この講とエコマネー(地域通貨)の比較がありました。
http://krd.roshy.human.nagoya-u.ac.jp/~rep2000/akiyama/akiyama1.html  

http://www.j-area2.com/area/kamakura/toukeiji.html


モモさんへ 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 6日(木)15時42分21秒

はじめてレスさせていただきます。よろしくお願いします。

モモさんのおっしゃる
>ホント、お金はいくらあっても満足できないんだよな。
>本当に生きがい、ヤリガイ、自分の居場所をどう見つけて行くか
>それしかないと思います。
>役僧という仕事に誇りをもっているのか、どうか。
>これが、一人一人の課題ではないでしょうか?
と同じような言い方で<仏教者>が「思想善導」という名のもとに労働運動弾圧に加担した歴史をどう考えられますか?


役僧論 投稿者:モモ  投稿日: 6月 6日(木)15時00分32秒

お葬式を含め月400万も入るんですか?役僧さんでそれなら
住職というか、そのお寺はトンでもないことですね。
それなら、何も危機感を持つことなく、車にお酒に
博打に精を出すしか自分の生きている実感を得ることは
出来ないのではないだろうか?
昨日たまたま夜テレビを見ていてユースケーサンタマリアが
主演しているドラマを思い出しました。
ユースケは小さいけどスタッフが手作りのウェディング
を手がける会社から、金持ちのお嬢さんに気に入られ
その母親が経営する大きなホテルのウェディングプランナー
に転職する話しがありました。大きなホテルでは1日に10軒も
結婚式をするので、いかに効率よくお金を出させるかということに
必死になります。最初は左遷されて入ったウェディングプランナー
の会社だけど、ユースケは相手の顔が見える結婚式を作って
いくことの大事さを再確認したというシーンがありました。
ホント、お金はいくらあっても満足できないんだよな。
本当に生きがい、ヤリガイ、自分の居場所をどう見つけて行くか
それしかないと思います。
役僧という仕事に誇りをもっているのか、どうか。
これが、一人一人の課題ではないでしょうか?


>Genkoさん 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 5日(水)17時16分28秒

>もともと宗教家という存在は、
>他の芸術家や詩人などといったように、
>実務的才能からは程遠いからそうなったのでありまして、
>もしそうじゃなかったら、現代では<職業選択の自由>があるわけですから、
>例えばベンチャー会社の経営者とか、政治家とか、になっていたかも知れないわけですね。
>むしろ、私が言いたいのは、きょうびの寺には宗務所などあるとはいうものの、
>「実務家としての仏教者(集団)」こそ、なんか奇妙で滑稽なような気がします

しかしながら、本願寺教団はおっしゃる「実務家としての仏教者(集団)」によって動かされているのが紛れも無い事実です。宗務員(官僚)と宗政家(政治家)という、いわば「実務のプロ」が運営する組織で、それによって、東西本願寺教団の組織が形成されているのです。
わたしは、この事実を滑稽であろうが、奇妙であろうが、受け入れ、否定するのではなく逆に利用・活用することを考えたいと思います。実務家が存在するのであれば、彼らを各地で活動する本来的に<宗教家>といえるような「実務的才能からは程遠い」僧侶や門徒の実務的サポーターとして活用できるシステムを創設し、各地の「同朋教団」の形成を援助することに徹する、実務派プロデューサー教団になってもいいんやないか?と思います。
誤解を招くような話で、社会科学に詳しいGenkoさんなればこそ言うのですが、現在の伽藍と組織の護持をその基本任務とする本願寺教団そのものを「同朋教団」化するというような発想のほうが、奇妙で滑稽でないでしょうか?


寺族、末寺住職の長男でなければ候補衆徒に非ず!? 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月 5日(水)04時18分04秒

 久しぶりに書かせていただきます。大谷派寺院が「僧伽を産み出す場所」、「学仏道場」になっていないのであればその存在意義はないでしょう。ただ、大谷派僧侶、大谷派寺院が成立する条件に世襲制があるのではなく、あくまで念仏、法燈ということが問われてくるのであります。確かに候補衆徒と一般衆徒では「法要座次(旧堂班)」においても差別されているのは事実です。それに現行法規では宗議会議員の被選挙権も末寺住職に限っています。つまり、真宗大谷派において「基本的人権」を保有しているのは末寺住職に限られることになってしまっています。こうして考えると大谷派一般衆徒は「基本的人権を制限」されていることになるでしょう。けれども、「抵抗勢力」の方々は東本願寺における「真の民主化」が達成されてしまうと困る事情もあるのです。それに東本願寺の「真の民主化」が達成されると一番困るのは、「本店=東本願寺」です。「相続講」、「院号法名」、「法揄チ算」という制度をいま廃止すると東本願寺に従事する「本店の役人」の方々を全員解雇しなければならなくなるでしょう。そもそも、この3本柱が崩れたら東本願寺の瓦の履き替え、改修工事は100%できなくなるでしょう。ただ、わたしはこの「封建社会の残骸」であるシステムは見直される時期に来ていると思いますし、見直されるべきでありましょう。


ごめんなさい 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 5日(水)02時41分36秒

ぐっちんさんの言われるとおりですね。らくりんさんに迷惑がかかる。
私のカキコで迷惑なものがあれば、削除してください。
我苦生さん、よかったらこの話、下記の掲示板でしませんか?
今はたいした話はしてないので。
ここで話すよりは迷惑かかりませんし。

http://8612.teacup.com/kunihiko/bbs


寺院体操のうた 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 5日(水)02時00分05秒

 ♪今日も元気な朝が来た 幸せいっぱい朝が来た
  友達み〜んな揃ったら ジイーン体操始めよう
  前にジイーン 右にジイーン
  左にジイーン お空にジイーン
  地球にジイーン ジイーン、ジイーン、ジイーン、ジイーン
  む・か・つ・く・な!
  ジイ〜ン


そりゃそうだ! 投稿者:我苦生  投稿日: 6月 5日(水)01時51分57秒

 ぐっちんさんの言うとうり、らくりんさんに迷惑をかけるのは良くない。
 よって、ぼくが書いたの消して置いてください。
 それまで、あまりこの掲示板を見られないことを祈ります。

 自分の意見は、自分の所でします。

 ぐっちんさん、指摘ありがとうございます。

 また、アングラ大谷派のホームページを立ち上げたり、なんかの会を立ち上げたときには協力ください。

 ただ、そのときにこの掲示板にもURLを書き込ませて頂くかもわかりませんが、、、。
 そのときも、迷惑でしたら、いつでも消してください。

 教学、じつは詳しくなりまして、昨年いってた専修学院別科でも、「教学なら、その辺の職員よりも詳しい」と、とある先生にも言われたので、その辺で、らくりんバンバンに参加したいと思います。


>我苦生さん 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 5日(水)01時43分19秒

 いやいや、グループ・ゴージャスです。銀座ジュエリーマキです。(なんのこっちゃ?)

 ♪ぶっきょ〜、それは〜(ベルサイユのバラの節で)めざめのおしえ〜、じぶんが〜
 住んでる〜 せかいに〜 くさびが〜 うち〜こまれる〜、 となりびとを〜
 照らす〜 ひかりが〜 変われば〜 じぶんを〜 照らす〜 ひかりも〜 変わるぅ〜
 それは〜 ひとを〜 そくばくの〜 きずなから〜 解き放ち〜 じぶんをも〜 
 解き放つ〜 終わりなき〜 歩み〜 あ〜あ〜 あこがれの〜 ハワイ〜 香炉〜


パンク坊主宣言 投稿者:我苦生  投稿日: 6月 5日(水)01時27分28秒

 とわいえ、気の短い私のこと、殺すか、殺されるか。そうなったら、ごめんなさい。

 カーナビさんじゃないけど、大谷派に期待するのがはなからおかしい話なのか。
 如来の本願。大学の先生たちの「お話」の中だけなのか?
 私がであった本願は、しょせん独りよがりなのか。
 大谷派の同朋会運動とは、ジョアキンさんの言う通り「絶望」すべきものなのか。

 いのちかけたる!
 「絶望」して、死ぬときは伝統仏教、少なくとも大谷派を道ずれにしてやる。


役僧は人に非ず 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 5日(水)01時24分20秒

 だいたい縁故関係で占められている宗門。身内には甘いが、よそ者には厳しい。えげつない
ハナシいっぱい知ってます。何でこんなことが寺族には許されんねん!で、在家にはこんな処
遇かっ!!けれど、例えばこの掲示板で書いてあることを見たぼんさんがらくりんさんに対し
てごちゃごちゃいちゃもんをつけいやらしいイヤがらせをするかもしれない。いやきっとする。

 良心的な、お世話になったお坊さんに迷惑がかかる。だから、グッチン数々の不満をじっと
こらえておりました。(これでもってかーー)我苦生さんにはもうかれこれ10年くらい前に
「おれ役僧の超宗派の全国組合つくろう思てんねん」なんて大それた夢を語ったことがありま
したなあ。けど、ただいまもよその掲示板でむちゃくちゃ腹立つボケ坊主がいたんですが、み
んながよってたかってかばう。アホらしゅうてやっておれん。単なる宗教ごっこやんけ、こん
な伝統宗教団体。
 
 口約束で働くと、必ずでたらめな就労条件を守らない無理を寺の側の人間は言ってきます。
だいたい宗議会でも普通選挙が実施されないくらいなんですから、役僧なんて使い捨てお経
マシーンなんですよ。ごく少数のステキな住職さん以外にとっては。あ〜あ、ラブマシーン
にでも成りたい。ラブラブ・ラブマシーン、ウォウウォウウォウウォウ、ラブラブ・ラブス
テンショ。。。ポッポッポー、シュポシュポシュポ、次はー新開地ー新開地ーでございます。


CHINCHINさんへ 投稿者:我苦生  投稿日: 6月 5日(水)01時08分36秒

 解ってくれないから、こその念仏だと信じます。
 
 大谷派教師になって5年、僧侶としての仕事はしなかったけど、いま始めて言ってた苦しさが解りました。
 
 私も、本来の約束なら今の倍の手当てをもらえるはずだったのが、いざ寺の近くに引っ越して金が無くなったところで出された条件を、引き受けざるを得ない所で出された条件です。
 何が哀しいかというと、約束を守ってくれない。俺は、奴隷か?と、いうことです。
 今の手当て、まあ20万ですが、別に少なくは無い。不満も、始めの話が無ければ、無かっただろう。ただ、始めの話はなんだったんだ!と、いうことです。
 人間を、舐めるな。

 人の世に熱あれ、人間に光あれ!

 以前話したことのある、「寺族解放同盟」をそろそろ立ち上げようと思います。
 
 大谷派、グループガンジャ、ん、ごうじゃだったかな?と言えども寺の住職だけ。大阪のBさん、大好きだし、師匠だけど、だからこそあの人たちが自分の問題に出来ない事を、声にしていくのが僕の仕事です。
 Bさんを始めとする、僕の先生達たちから教えられたのは、そういうことです。
 だからこそ、同朋大学の尾畑さんじゃないけれど
 「私たちが、阿弥陀如来から問われていること、願われいることは、『立ち上がれ!』」
 と、言う事だと信じます。

 血塗られた、どうしょうもない哀しみの歴史。そこから生まれた『佛説』。いのちの願い、さけび。
 「あなた、そんな事をしていたら、滅びますよ」
 「自分を、粗末にしないで下さい」
 「どんなあなたであっても、私は、あなたを見捨てません」
 だからこその、本願。

 


Genkoさんへ 投稿者:我苦生  投稿日: 6月 5日(水)00時16分18秒

 >「ヤクソウやそれ以外の被搾取者」を搾取している側をも、
救う根拠まで与えてしまいませんか?

 被差別者が、差別者を救う。それが、私が学んだ真宗です。
 「あなた、そんな事をしてたら、いつか滅びますよ」と、
 いし、かわら、つぶてのような人たちが、残してくれた教えが、仏教です。念仏です。だから、私は、信じます。念仏申します。
 だが、哀しいかな、

 >一方で、リストラされた多くの中高年たちは、
きょう日わずか時給600円のアルバイトにすらありつけない現実があることも、
僧侶として忘れないで下さい。

 と、指摘くださったように、自分の大変さのなかで、気付けないのです。
 だからこそ、関係の大切さが示されるのです。
 それが、化身土を読み解く大切なキーワードだと信じます。らくりんさんの掲示板で言うのもなんですが、、、。
 
 
 


ご返事 投稿者:Genko  投稿日: 6月 5日(水)00時11分12秒

CHINCHINさんへ。

>むしろ教団自らがゲゼルシャフトであることを認めて諸制度を改革してゆくしかないという
>ことを意味するように思いますがいかがでしょうか?

まことにおっしゃる通りだと思います。
それが、私なぞの言う、「この現実を直視」するということに他ならないわけです。
とは言うものの、いささか酷な面もあって、もともと宗教家という存在は、
他の芸術家や詩人などといったように、
実務的才能からは程遠いからそうなったのでありまして、
もしそうじゃなかったら、現代では<職業選択の自由>があるわけですから、
例えばベンチャー会社の経営者とか、政治家とか、になっていたかも知れないわけですね。
むしろ、私が言いたいのは、きょうびの寺には宗務所などあるとはいうものの、
「実務家としての仏教者(集団)」こそ、なんか奇妙で滑稽なような気がします。


>Genkoさん 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 4日(火)23時16分45秒

Genkoさん、整理してくださってありがとうございます。
教団の<近代化>とはそのまま教団がゲゼルシャフト化してゆくことということですね。
であるならば、教団の<封建遺制>批判にしても<民主化>にしても、<ヤクソウ問題>の解決にしてもそれは「同朋教団」というゲマインシャフトへの回帰を志向することではなく、むしろ教団自らがゲゼルシャフトであることを認めて諸制度を改革してゆくしかないということを意味するように思いますがいかがでしょうか?


CHINCHINさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月 4日(火)17時11分08秒

<近代化>というのは、何も「宗教団体」に限らず、あらゆる共同体が、
ゲゼルシャフト化していく過程のことです。
この意味では、「家族」も例外ではありません。
家族の起源たる<ドムス>(=原始的家族共同体)が、
多分にゲマインシャフト的経済基盤に支えられていたのに対し、
この領域まで資本主義的な「市場原理」が<侵入>してきた結果、
現代では、夫婦間の<性>関係や、血縁的親子・兄弟関係であっても、
相続問題等において利害対立しかねない「ホテル家族」の様相を呈しています。
以前私は、お留守居役様さんたちと、ブルデュー社会学の「遺産相続」という概念を使って、
ここで「共同幻想」の存続に関する議論をしたことが若干ありました。
どんな宗教団体も、その本質において、
「共同幻想」の社会的な一表出形態には違いないのですが、
発生初期は多分にゲマインシャフト的です。
しかし、その存続(維持運営)をめぐる下部構造(経済関係)を必然的に構成し、
歴史的には殆ど「会社」のような<疑似近代組織>形態に限りなく近づきます。
つまり、謂うところの「ゲゼルシャフト」に変容していかざるを得ない運命なのです。
資本主義は、絶えず<外部性>を取り込んで発展してきたわけですから、
宗教サイドからすれば、確かにこれは<浸入>に他なりません。
問題は、それを担う当事者たちが、多くの場合、この現実を直視しようとしないことです。
ありていに言えば、法律上の「権利義務関係」や「雇用関係」などを遵守しないことです。


ゲマインシャフト?ゲゼルシャフト? 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 4日(火)03時21分59秒

高校時代に岩波文庫のテンニースの本で読んだことを懐かしく思い出しました。

>同じ<共同体>という概念でも、
>たとえば「国家」と「家族」は位相の全く違う<歴史的共同体>です。
>たとえば、「家族」はゲマインシャフト的概念起源だし、「会社」はゲゼルシャフト的です。

では「本願寺教団」はどうでしょう?今の教団は「同朋教団」をめざすなんてゆってますが・・・
本願寺教団はその成立の経緯からしてゲゼルシャフト的でないか?と思います。

ゲゼルシャフトであることを認め、その上で、その利益集団がいかに「サンガ」建立に貢献できるか模索するほうが、実効性のある教団運営ができるような気がします。
ヤクソウの問題にしても、ゲマインシャフトの構成員のように考えていては、解決の糸口はないような・・・・・・
(ちなみにテンニースは宗教集団をゲマインシャフトとしています。たしかに関東にあったような原始真宗教団は多分にゲマインシャフト的です。しかし、それら原始教団の組織化と親鸞の末裔たちの財産(大谷の廟堂と土地)維持を目的として<制度>を前提に成立した本願寺は原始真宗教団とは性格が異なります。それと同時に本願寺が活動の歴史において各地にゲマインシャフト的な宗教集団を形成させたことも事実です。)


KILL THE POOR 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 3日(月)23時42分49秒

みんながいのちを狙ってる。
みんながおれを殺そうとしている。

おまわりさ〜ん、助けて!
きゃ〜!!!!!あなたも仲間だったのね。
えっ?福田の親分の手下だったの??
チャカの時代じゃない?核の時代なあんだね・・・
USA!USA!USA!


イケイケどんどん 投稿者:Genko  投稿日: 6月 3日(月)23時15分29秒

とうとう福○官房長官をはじめとする有力政治家たちが、
あろうことか「非核三原則」を放棄する発言までをとなえ出し始めました。
「憲法」改正論議が盛んなのだから、有事の場合に備えて、これからは
「日本も<核>兵器を保有していてもかまわない」と公式に言ったのです。
皆さん。こ、これはドエライことでっせ!
「ヒロシマ・ナガサキ」の悲劇は、一体どこへいったのでしょうか?
「過ちは、二度と繰り返しません」という非戦の誓いは?



(無題) 投稿者:らくりん  投稿日: 6月 3日(月)20時38分14秒

明朝からしばらく留守します。
皆さま節度あるご利用をお願いいたします。


追伸 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 3日(月)19時57分04秒

>僧侶は、それでも少しく「逸脱領域」を本質的にどこかに持っている。
>そうでなければ、三法印上の仏教を伝達する意味が、
>ほとんど無くなってしまう

からといって、我苦生さんの勤務する寺院の住職の「仕打ち」は正当化されるでしょうか?
資本主義において、セイフティネットからヤクソウが<制度>的に排除されることが、「僧侶」としての本質的な<逸脱領域>なのでしょうか?そのような<制度>的差別によって、「僧侶」の<あかし>があるとはぐっちんさんも思われてないと思いますが。


>ぐっちんさま 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 3日(月)19時41分25秒

>単に国家=共同体=悪。これを解体すべし、という意見

とは、この話の流れにおいて、誰の意見を指しているのか不明です。Genkoさんも私もそんな短絡的なこと言ってないですから・・・・

<国家>や<資本主義>という大きな問題も重要ですが、まず、我苦生さんの現状をどうやって打開できるかが緊急課題だったのでは?


訂正 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 3日(月)17時25分37秒

 えすみまきこは江角で、はすみしげひこは、蓮實か。。。


朝だ朝だよ朝日が昇る 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 3日(月)17時19分28秒

 ドゥルーズ=ガタリを下敷きにしてごちゃごちゃいってたのが、浅田クン。
逃げろや逃げろどこまでも、というのが逃走論でした。とにかく逃げ口上と
言い訳を芸風としていた、アキラめの悪い奴。

 日本のポストモダン焼きとくれば、蓮見さん。とにかくもんじゃ焼きじゃなかった、
紋切り型がキライでわしの言うとることは高級やといわんばかりに、簡単なことでも
小難しく語るのを身上としておられました。まさに、世の中をハスに見るのがお得意。

 人間は何らかの共同世界(ハイデガー)の中に産み落とされる。和菓子屋の後継ぎとか
児童養護施設に預けられるとか。。。その共同体の中で、窮屈な思いをしたり、孤独を
感じたり。。。

 だから人は、その生き難さから逃れようと家出したり、完全無欠の共同体=宗教団体
やコミューン等に出たり入ったりしたり、放浪したりする。そこには、自由を求める心と
孤独を癒してくれる友を求めるこころとがある。わたしがわたしであることを求めながら、
一方で心のつながりをどこかで求めてる。

 「ここ」で頑張ってみたい。ぐっちんの切なる願いである。 


居直りはできないのでは? 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 3日(月)12時25分22秒

>彼らをして、「そうや、自分らも会社の社長や役員(=これも衆生ですから)と同じや」
>との、居直りの論理をです。

そんな、物分りのいい失言をしてくれる、「人のいい」方が相手ならもっと楽ですが。初期資本主義でもあるまいし、それなりに社民化した今日の日本における、雇用者としての会社の社長と同じだと認めてくれれば、<賃金労働者>としての<権利>をストレートに主張します。雇用契約を書面で結び、有給休暇や地位の保証、失業保険や社会保険への加入、正当な手続きによらない解雇の禁止、ストライキの権利などなど。人を雇用することについての社会的責任を果たしてもらいます。(雇用者であれば当然の法的義務です。)
ヤクソウを<雇用>することの社会的責任を「君らは別」として回避しようとするインチキな論理(書面による契約がないなど)が我苦生さんのような方を苦しめてるように思います。本当はヤクソウは労基法でいう「労働者」と認める判例がすでにあるはずですが・・・・
ズル賢い住職であれば、自らを雇用者と主張することのリスクを背負うようなドジは踏まないでしょう。


ドゥルーズ=ガタリに寄せて 投稿者:Genko  投稿日: 6月 3日(月)04時26分34秒

>ドゥルーズ、ガタリは、なんとなくだけど多方向に錯乱する欲望=高揚感
>を善とし、共同体を悪とするような俗流理解を招きやすいことをいってます。でも、共同体
>(学校・家庭・会社・地域・国家等々)の中に生きてることは事実です。その共同体の中で
>の関係性がどのように望ましいのかを考えたりすることは、無駄じゃない。よりましという
>方向もある。

私は以前、「ドゥルーズ=ガタリ」にかなり入れ込んだ時期がありました。
彼らの多くのテキストを読めば、この二人は、
フーコーよりも圧倒的に<国家=共同体>嫌いであったことが明確です。
ドゥルーズなどは、最後まで哲学的マルクスに依拠していたし、特に彼の死後、
ガタリは「ドゥルーズ以後」のフランス思想界を<精神分析的>に引き受けてきました。
去年、私の尊敬するフランス文学者・杉村昌昭氏(ガタリの親友でした)らと共に、
ガタリの原文テキスト解読の学習会を持つ僥倖を得ましたが、
そこであらためて分かったことは、最後の著書になる『カオスモーズ』は大変刺激的で、
<国家と資本主義>を乗り越える意図とイメージがモロに鮮明です。
私に言わせれば、そうでない「ドゥルーズ=ガタリ」観こそが、
ぐっちんさんの言う「俗流理解」です。
それから、彼らは、
<国家と資本主義>からの「多方向に錯乱する欲望=高揚感」の解放を主張したのであって、
決してそれらをそのまま「善」とするような不分明な<倫理>は語っていません。
また、同じ<共同体>という概念でも、
たとえば「国家」と「家族」は位相の全く違う<歴史的共同体>です。
たとえば、「家族」はゲマインシャフト的概念起源だし、「会社」はゲゼルシャフト的です。
これらを十羽一からげに扱うのは如何なものでしょうか?


「主題」ということ 投稿者:Genko  投稿日: 6月 3日(月)03時49分01秒

私の、
”極私的「他力本願」 投稿者:Genko  投稿日: 6月 1日(土)21時36分02秒 ”
のカキコは、あくまで「志向性と他力本願の関係」と言う問題粋を主題にしている筈です。
たまたま話しの切り口に、高神氏の解釈による『般若心経』の一部を使っただけであって、
別にひろさちやのものでも良かったし、誰のものでも良かったのです。
ぐっちんさんが、その「主題」の問題を捨象して、
私がたまたま用いた「題材」の方を批判された意図が、いま一つわかりません。


「批評」について 投稿者:Genko  投稿日: 6月 3日(月)03時36分31秒

繰り返しますが、私は高神覚昇氏を評価しているのではありません。
<目的補語>を、<主語>としないで下さい。
私が言いたかったことは、氏の或るテキストの方です。
「批評」は、作品そのものと著者とをとりあえず切断しないと成立しないものです。
何故なら、親とその産んだ子が同一人格でないように、「作品=著者」ではないからです。
ぐっちんさんの言う意味で私も、高神氏その人は全く知り得ない人であるし、
全く評価しないし、第一興味がありません。




追加 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 3日(月)03時26分27秒

 Genkoさんへのメッセージは三行目まで。


♪フフフフフフフーコー 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 3日(月)03時25分36秒

 >Genkoさん
 総体的に読んでぐっちんは、高神覚昇は評価しません。安田理深師は、女性差別発言があって
も他の著作をみれば、安田先生を信頼できます。ハイデガーは、ナチ党員ですが彼の実存の思考
は強靭でした。で、<宗教者の現実認識>に関してボンヘッファーを例にあげときました。

 フーコーに『主体と権力』という論文があります。いくつか訳があります。

 「権力に対する闘いは(中略)いま・ここでの闘いである。(中略)彼らは、敵の親玉を
探しているわけではなく、いま・ここにいる敵を探している。(中略)それらは、個人の
地位(ステータス)に疑問を投じる闘いである。一方では、彼らは一人一人が異なって存在
する権利を主張する。(中略)他方では、彼らは個人を分断し、他者とのきずなを破壊し、
共同体の生活を分裂させる(中略)あらゆるものを攻撃する」

 フーコー万歳。ドゥルーズ、ガタリは、なんとなくだけど多方向に錯乱する欲望=高揚感
を善とし、共同体を悪とするような俗流理解を招きやすいことをいってます。でも、共同体
(学校・家庭・会社・地域・国家等々)の中に生きてることは事実です。その共同体の中で
の関係性がどのように望ましいのかを考えたりすることは、無駄じゃない。よりましという
方向もある。

 だから単に国家=共同体=悪。これを解体すべし、という意見にぐっちんは組しない。


雑感 投稿者:Genko  投稿日: 6月 3日(月)03時20分49秒

>中高年のリストラされた方と、「不幸自慢対決」みたいなことをしても仕方ないですから。

私の方は、まったくそんな意図はありませんでした。
私は、親鸞さんなど少なからず心ある僧侶たちが鎌倉時代に天台を降りた、
「宗教改革」的意義の方を振りかえりたかっただけなのです。
「衆生」と「仏教者」が完全に同一だとすると、
当時の天台に残った僧侶の方が正しいということになりかねません。
釈迦の仏教は「衆生」向かって説かれたはずの尊い教えであったのではありませんか?
釈迦自身も一「衆生」であって、<法体>や<仏体>を体言していないのであれば、
彼はそもそも仏法を他者に向かって伝える根拠を失いますね。
僧侶は、それを伝達し、生きる使命があったのではないでしょうか?
この問題は仏教にとって微妙だが重要なテーマです。
私は、「衆生」それ自体と「僧侶」という存在は、完全に一致するものではないと考えます。
この違いは、あたかも「民衆」と「革命家」の社会的役割の違いのようなものです。
私は、釈迦や親鸞の歴史的登場は、一種の「文化革命」だと考えていたのです。
さもなくば、私などがこの度<得度>した意味は、全くありません。


循環論(CHINCHINさんへ) 投稿者:Genko  投稿日: 6月 3日(月)03時01分09秒

>僧侶もきっちり資本主義経済体制に組み込まれたれっきとした、迷える衆生です。そんな特別視>の仕方は、かえってヤクソウとそれ以外の被搾取者を分断し、仏教界、実業界の搾取に貢献する>だけではないでしょうか?

以前に、らくりんさんやおじきさんたちと、
僧侶は果たして「職業」であるかの議論をしたことがありました。
私の結論は、彼らとはやや違い、現代ではそれも明確なる「職業」として、
基本的に<資本主義社会>に組み込まれているという立場でした。
ただし僧侶は、それでも少しく「逸脱領域」を本質的にどこかに持っている。
そうでなければ、三法印上の仏教を伝達する意味が、
ほとんど無くなってしまうと考えたからです。
確かに、CHINCHINさんのご指摘通り、分断することは関心しませんが、
逆に分断しないことが、同時に「ヤクソウやそれ以外の被搾取者」を搾取している側をも、
救う根拠まで与えてしまいませんか?
彼らをして、「そうや、自分らも会社の社長や役員(=これも衆生ですから)と同じや」との、
居直りの論理をです。


クリスマスツリーの星飛雄馬 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 3日(月)02時53分54秒

 らくりんさんの 6月 2日(日)22時49分46秒のカキコに関する資料

http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/ktisrbethlehem.htm


ああイ〜ンタナショナ〜ァルゥ〜!? 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 3日(月)02時47分13秒

>衆生の方は、どんな僧侶よりも、更に過酷な状況下にあったものです。

僧侶は衆生でないみたいな言い方ですが、言うまでもなく、僧侶もきっちり資本主義経済体制に組み込まれたれっきとした、迷える衆生です。そんな特別視の仕方は、かえってヤクソウとそれ以外の被搾取者を分断し、仏教界、実業界の搾取に貢献するだけではないでしょうか?むしろ、「リストラされた多くの中高年たち」の「きょう日わずか時給600円のアルバイトにすらありつけない現実」と自己のヤクソウという<現実>とのかかわりをいかにリンクさせ、衆生として課題にするかということのほうがGenkoさんの言われるような問題の場合、重要ではないでしょうか。
Genkoさんのおっしゃることは全体として「上みて暮らすな下みて暮らせ」という風にもとれますが。中高年のリストラされた方と、「不幸自慢対決」みたいなことをしても仕方ないですから。
彼らとの連帯の可能性をさぐれないものかと、思うことがあります。しかし、リストラされた中高年の方がこのような言い方でヤクソウに対して特別視されると、その連帯の可能性が絶たれてしまいます。


ぐっちんさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月 3日(月)02時28分41秒

>ぐっちんは、GenkoさんとかCHINCHINさんに比して「政治」に関してはいささか
>醒めております。「投票所」に足を運び、募金や署名に応じたらあとは自分から積極的に何か
>アクションを起こそうとは思いません。

誤解しないで戴きたいのですが、
ティク・ナット・ハン氏や私などが、常日頃言っている<現実認識>とは、
何らかの政治的アクションを、(たとえばデモやNGOなどといった)
必ずしも「投票」行為以外のところに求めているわけでは決してありません。
「投票」行為は、既にしてそれだけでもう充分立派に「政治的意思表示」です。
問題は、そうでない時の「政治意識」の方なのです。
欧米などで現在多くの有権者が「極右」の方に「投票」することの動機が、
ほとんど自己利益のみに基づいているといったことが、
自分達の将来において何をもたらすか、
日常彼らが「政治的に」何も考えていないことの結果なのです。
「政治的センス」とは、醒めていようが燃えていようが、どっちでも関係ないことです。
問題は、常日頃いかに多くのことを認識しており、多くのことを考えているか、
これだけが、真の政治行動にとって重要な<要諦>なのです。
同じ「投票」行為一つでも、天地の差があるわけです。

>高神覚昇は、お経の解説におけるソフトな語り口とは逆に、真言宗の高僧として戦争時には
>高らかに好戦を唱えた人であったと遠藤誠の『今のお寺に仏教はない』で暴露されておったと
>記憶するのですが。。。

おじきさんに宛てて指摘されたみたいですが、私が高神氏の<仕事>を一部評価したのは、
あくまで氏の仏教的「テキストのre-cording」の繊細さの方のみでありまして、
彼の戦前・戦中の政治的ありようの方に向けられたものではありません。
そんなことを言い出したら、僧侶のみならず、
あの時代のほとんどすべての知的な文化人はみな、免罪されません。
それは、知識人の「転向問題」として、戦後さんざん論議され、総括されてきたテーマです。
たとえば高村高太郎が「大日本文学報告会」や「大政翼賛会」などを主導してきたにせよ、
彼の彫刻作品が、だから駄目なんだ、ということには必ずしもならないわけです。
私達は、誰の先達の<仕事>でも、未来に何がしかの<使用価値>を残すものは、
その人自身の駄目さと切り離して良い部分だけを抽出し、決して即唾棄せず、
人類の遺産として再活用すべきなのではありませんか?
ただし、むろんハイデガーや西田幾多郎のように、彼ら自身の<仕事>それ自体が、
<ナチズム>や<全体主義>に容易に結びつく弱点を有していた場合が確かにあります。
そこは、後世の私達が厳しく峻別・再評価していく必要はあるでしょう。



大混戦 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 3日(月)02時17分51秒

 ワールドカップじゃない。。。足りないメモリーで仕事をすると。。。
 
 >我苦生さま

 そうです。私もお葬式を含め、月間400万円お布施を集めてきて、月給20万だった時があり
ました。もう、法話をしようがしまいが(そのお家の悲しみにできるだけ添おうと気力をふり
しぼろうが)待遇が何も変わらないなどということになると、目の前にいる人の悲しみが悲し
めなくなってきます。法話しませんし、お経だけあげてサッサと帰りますから、お布施そんな
にいりませんと役僧からはいえないんですから。。。ええ加減にせえよ!!!!

 >フライハイトさん

 どうもはじめまして。気の短い、しゃべりの長いぐっちんです。ボンさんは、ボンさんでも
ボンヘッファーさんには頭が下がる思いです。 


この苦忍のかたち 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 3日(月)02時01分43秒

>CHINCHINさんに比して「政治」に関してはいささか
>醒めております。

 ↓の私のカキコのとおり、私は国家が何もしてくれないことを身をもって知りました。「国民の生命財産を守る」なんて、この国の政治が体を張ってしてくれたことがあるんでしょうか?ヤクソウ一人の不払い賃金さえも黙殺する国家に私はそんなこと期待できません。そのくせ奪うものは奪う。
 だから、有事法制に欺瞞を感じ「やめろ」というだけです。この国の政治にはぐっちんさん以上に醒めているかもしれないです。ただ、大阪港で生まれ育ち、港湾労働者や船舶労働者の友人知人親類が多く、流通関係の零細企業経営者の子として育った私には、他人事ではないから、あんなに熱がはいってしまいましたが。


我苦生さまへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月 3日(月)01時47分57秒

>私は、時給800円の、役僧だ。一時間に、5万円のお布施をもらおうとも、
>私の時給は、800円なり。

お気持ち、とってもよく分かります。
語の本来の意味で、ヤクソウこそ、よりサンガに近い存在なのに、
現代の仏教では、既得権益を持たない僧侶は、大切にされないのです。
ますます仏教が形骸化していくわけですね。
笑止千万ですが、教団の偉い人達は、高給を取りながら、<捨>のこころを説いています。
けど、そんな矛盾も確かにありますが、一方で、リストラされた多くの中高年たちは、
きょう日わずか時給600円のアルバイトにすらありつけない現実があることも、
僧侶として忘れないで下さい。
いつの世でも、衆生の方は、どんな僧侶よりも、更に過酷な状況下にあったものです。


我苦生さまへ 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 3日(月)00時52分54秒

 かつて、ヤクソウのお仕事で賃金不払いの憂き目にあい、西本願寺教団にも行政(労働基準監督署なんて名前つけてたけど)にも救ってもらえなかった私には痛いほど共感できる話です。(我苦生さんは知ってる方なので余計に。私が誰かわかりますか?)国家も教団もヤクソウを<人間>としてはみなしていません。

>関係している事実がある
>同じいのちをともに生きている

なんて思っているのは我苦生さんの方だけかも?「関係ないさ」「君らは別」というのが国家やお寺の連合体としての教団、そしてあなたが殺したいくらいに憎い住職たちの考えやないでしょうか?(実際、私は教団や行政にはこう言われました。)彼らに対して物分りが良すぎるような気がしますが。
私は悩んだ末、相談した弁護士(<ジンケンハ>らしいですが)にもややこしい案件にはかかわりたくないといった態度をとられ、結局辞めることでしかそこから脱出できませんでした。何かいい方法はないもんか、この掲示板を読まれている他の方々の見解を伺いたいものです。
たしか大谷派には労組もありましたよね?


ようこそ 投稿者:らくりん  投稿日: 6月 3日(月)00時30分39秒

フライハイトさん、はじめまして。
いろいろと、面白い人、ややこしい人、頑固な人……その他もろもろ
出没しますが、適当にお楽しみください。


ぐっちんさんとボンヘッファー 投稿者:フライハイト  投稿日: 6月 2日(日)23時54分06秒

 はじめて投稿いたします。どうぞよろしく。
ぐっちんさんが紹介されたボンヘッファーの言葉に感動しています。私もボンヘッファーは尊敬する神学者の一人です。彼はナチに殺されるが、ドイツでは彼やニーメラー牧師などナチに抵抗した告白教会の流れをくむキリスト者が戦後、過去の克服に努めた。戦後の西ドイツ及び統一ドイツは、戦後補償など戦争とナチズムの克服に丁寧に取り組んできたが、その流れの根底にこのようなプロテスタンティズムがあることを忘れてはならない。荒れ野の40年のあの素晴らしい演説をされたヴァイツゼッカー大統領も、この教会の流れを汲むプロテスタントの指導者であった。ボンヘッファーの名を聞くと、そうした抵抗の神学とともに宗教者としての過去への取り組みの大切さを考えるのである。


(無題) 投稿者:らくりん  投稿日: 6月 2日(日)22時49分46秒

クリスマスツリーの象徴性ですか、
やはり一番てっぺんの「☆」が、イエスキリストの誕生を告げているという
ことになるのではないでしょうか。
その話がどこに出ているものかは知りませんが……。

政治家や芸能人などが「他力本願ではだめだ、自力でがんばらなければ」
というような発言をしたことに対して、
ときどき真宗教団から抗議がなされることがあります。

発言者は「他力本願」という言葉が、もともとどういう由来があるのか
知らずに、慣用的に使っているのでしょうから、いちいち目くじらたてるほどの
ことではないとも思いますし、
誰がどんな「ことば」をどのように使っても、それを規制するわけにはいかないのですが、
やはり、
自分にとって大切な「ことば」が、
その意味を「台無し」にするような使われ方がされているのを
耳にするのは気持ちがいいものではありません。

できるだけ、その逆になるようなことを自分がしたり、
言ったりしないようにしたいとは思っています。
知らずにやってしまっていることは多々あるでしょうが……。


なるほど 投稿者:らくりん  投稿日: 6月 2日(日)22時06分37秒

先の
禁じ手、ごめん 投稿者:らくりん  投稿日: 6月 2日(日)13時58分25秒
に書いた「不可解さ」は、再開した〈こころおきらく〉で「解せました」

http://mb.mm-b.net/b/kokoro


開いたよ 投稿者:狂信 ☆彡  投稿日: 6月 2日(日)19時28分22秒

たいとる おんりー


そこまで言われるのなら 投稿者:お留守居役様  投稿日: 6月 2日(日)19時24分03秒

クリスマス・ツリーが象徴するもの
を教えていただきたいと思います。
手元に旧新約聖書もありますので、当該ページ数をお示しいただけると幸いです。


チャットでタバスコ飲まないで 投稿者:お留守居役様  投稿日: 6月 2日(日)19時22分36秒

チャットでの即興的なやりとりを掲載したことに始まった論争に対して、
責任をとられようとしている狂信さんに気休めになろうかと
以下のリクツを考えました。

チャットの後半に
>私は、ネット上では著作権を放棄すべきと考えています
と申しました。
この論理を逆に言いますと、
権利を放棄していると言うことは、
責任も負わないということになろうかと思います。

あんまり気休めにはなりませんでしたか。


妬んで、怨んで、嫉んでやる。 投稿者:我苦生  投稿日: 6月 2日(日)18時04分43秒

 人は、人。私は、私。
 と、言い切れないからこそ、佛。ぶつぶつ、ぶつぶつ。
 私は、時給800円の、役僧だ。一時間に、5万円のお布施をもらおうとも、私の時給は、800円なり。
 月に150万からのお布施を、門徒さんより預かろうとも、私の時給は変わらない。
 「私、時給800円ですので、お勤めはこんなもんで」ともいえず、
 「私、自給800円ですので、法話は、無しです」ともいえず、
 ぶつぶつ、ぶつぶつ、、、、、、、、、、、
 妬んで、怨んで、嫉んで、「何で、、、」と、ぶつぶつ。
 明るくなんてならず、健康的になんかならず、ぶつぶつ、ぶつぶつ、、、、。妬んで、怨んで、嫉んで、そんな私を生きてやる!

 「くそ住職、早く死ね!」
 今日も、くそ暑いなか、お参りの後、寺の雑草を抜きながら「怨むなら、住職を、怨め!」と、呪いをかけながら働く時給800円。
 関係している事実があるから、呪える。殺そうと想える。同じいのちをともに生きているから、妬んで、怨んで、嫉める。
 尊敬出来るだけの間柄なんて、嘘か、どうでも良い人か、自分自身のことをどうでも良いと思っている人、だと、時給800円の坊主は思う。
 私が、私と言いきれるように、ぶつぶつ、ぶつぶつ、、、ナンマンダ佛、と。


な、なんと偶然! 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月 2日(日)17時21分54秒

私はいま大阪ミナミの某バー近くのまんが喫茶(禁煙・ネット席1)にいます。
今たたいているPCの履歴にこの掲示板が・・・・
もしやと思いひらいてみれば、投稿者の欄にぐっちんさんの名前が・・・・
偶然にも同じPCでついさきほどカキコされていたとは!

>ぐっちん様
昨日、私たちが帰ってから、こんなところで楽しんでたのね(゚o゚)
昨夜はつかれましたよ(>_<)ほんと。


クリスマスツリーが象徴するもの 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 2日(日)16時55分51秒

 自分が一番大切にしていること(本尊)と、その表現をめぐっての問題。


八百万の神々と唯一神 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 2日(日)16時22分11秒

 クリスマスツリーのハナシ再読しました。誤字が多いなという印象を受けつつ、最初に読んだ
時とはちがっていろんな発見がありました。

 >神棚の場合は神道を肯定・助長する効果をもち、クリスマスツリーの場合には、キリスト
 >教の儀式を阻害してしまう効果をもつ

 は、簡潔で要点を突いておられる、と思いました。(まあ、ぐっちんが隠れキリシタンだか
らかな?)真宗門徒に対して、他の仏教宗派や神道に寛容になれ!何でキリスト教の味方をす
るんだ、などという意見があります。その方たちは、ご自分が要するに「日本教徒」であるこ
との自覚がおありじゃないんだと思います。

 また、クリスマスツリーなんかにこだわるな、などとおっしゃる方は日本人の「多重信仰」
にあまり自覚的ではないんだと思います。で、一神教ないし一心教(安田理深師は真宗は
一信教だという表現を使っておられますが)の信徒に対して、「あんたの信仰はおかしんじゃ
ないの?」といわれてるようで非常にいやな気分になります。


訂正 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 2日(日)15時34分32秒

 ↓の忠魂碑のハナシは、なんかとゴチャ混ぜのハナシになってます。(たくさんの話題に口
出ししようとして頭の中が混線してます)お地蔵さんのハナシか。。。忠魂碑は、公費の出費
のハナシでした。。。


ソフトさきいか 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 2日(日)15時26分04秒

 で、「巨人の星」に描かれた星一徹のように(といってもマンガでは実際に二回だけらしい
けど)ちゃぶ台ひっくり返して大暴れするというような形での、どうしようもないオヤジじゃ
なく、真綿で首を締めるような「世間的にはよくできたお父さん」の出現(一見、物分かりの
良さそうなオヤジ)が子供にとって重圧だったりするんであります。

 そして一見どうでもいいような、村の鎮守さまのノリで強制される「忠魂碑」への管理料み
たいな各戸への割り当て徴収をも「反靖国派」のひとびとは見逃さず問題にしたのでありまし
た。(でしょ?)


フーコー明媚 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 2日(日)15時01分32秒

 ミシェル・フーコー登場以前の権力論ってだいたい、こんな感じじゃなかったでしょうか?
@「国家」というものが強大な権力を持っている(したがって悪の権化が国家のイメージ)
Aその権力機構および、支配者たちは民衆を抑圧する。(したがって民衆は「被抑圧者」と
                          いうイメージのみ)

 ところが、フーコーのいうパノプティコン(ぐっちんは、これを社会学者ハーヴェイ・
サックスのことばを借りて自己執行カテゴリーと呼びます)というのは、「民衆」が
自発的に、あるいはそのことについてまったく自覚無しに(これはマインドコントロールと
いう問題として語られるようになったことです)唯々諾々と行動してしまう、というハナシ
です。

 そこが、フーコーの新しさでありました。またサルトルは「人間は人類全体に対して責任
を負う」ということを言ってたと思います。ちょっとこれは、おおげさだなあと思うと同時
に、自分のやることが人に影響をおよぼす、ということを考えさせるコトバだなあとも思い
ます。

 以上、ちょっぴりクリスマスツリーの話にちなんで、理屈言いのぐっちんでした。


禁じ手、ごめん 投稿者:らくりん  投稿日: 6月 2日(日)13時58分25秒

狂信さんの〈こころおきらく〉が閉鎖されたので、
ネチケット違反ですが、ちょっとこちらへ飛ばします。
>狂信さんへ、どうしてあれでストップかけちゃうの?(私には不可解)
流れが知りたい人は、下記URLへどうぞ(まだ消されていなければ、経過が読めます)

>やりたい人はやり、やりたくない人はやらない。
>やりたいけどやれない人はやらなくてよく、
>やりたくないけどやりたくなったらやる。
私がいいたのも、結局こういうことなんですがね。

夫婦は、話し合いで、対幻想まではなり得るのでしょうが
ただ親子の関係になると、どうしても子どもにとっては
「強要」という形にならざるを得ない場合が出てきてしまいます。

以下はお留守居役様さんに対してじゃなく、
去ってしまった人に向かっての独り言
なんですが、
自分がやらない理由を明確に説明することは、
それを他人に要求することとは
まったく別の話であるのですが、どうも、
他の人にも求めているようにとられてしまうので、
話がややこしくなってしまいます。

バーチャルイメージはこわい。まんじゅうよりも。

http://mb.mm-b.net/b/kokoro


>おじきさんへ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 2日(日)09時05分50秒

 高神覚昇は、お経の解説におけるソフトな語り口とは逆に、真言宗の高僧として戦争時には
高らかに好戦を唱えた人であったと遠藤誠の『今のお寺に仏教はない』で暴露されておったと
記憶するのですが。。。


煩悩不足 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 2日(日)08時54分14秒

 最近、まわりで高木顕明の名を何かと聞く機会が多いです。
大逆事件に連座したそうですが、ボンへッファーにせよ「暗殺計画」とはスゴイ。
ぐっちんなどには、とてもとても。。。

 CHINCHINさんに昨夜、お会いしましたが「有事法制」について熱く語っておられた。
ぐっちんは、GenkoさんとかCHINCHINさんに比して「政治」に関してはいささか
醒めております。「投票所」に足を運び、募金や署名に応じたらあとは自分から積極的に何か
アクションを起こそうとは思いません。

 「一億が勝つか五人がいう神の言葉が勝つか、それは近い将来に立証されることでありまし
ょう」。治安維持法にひっかかった明石順三(灯台社・ものみの塔の旧名)は1942年4月、逮
捕され、法廷でそう語りました。ぐっちんに、こういうことがいえる煩悩さえもっておれば
あとはいいやと思います。


ボンヘッファー再評価 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 2日(日)02時02分57秒

 キリスト者であるとは、人間であることだ。キリストは僕たちのうちに、一つの人間類型では
なく、人間そのものを造りたもう。宗教的行為がキリスト者を造るのではなくて、この世の生活
の中で神の苦しみにあずかることがキリスト者を造るのだ。
    ディートリッヒ・ボンヘッファー『この人を見よ』より

 ※第2次世界大戦終了直前、ヒットラー暗殺計画 に荷担してドイツで処刑されたルーテル
教会の牧師


極私的「他力本願」 投稿者:Genko  投稿日: 6月 1日(土)21時36分02秒

私がかつて、最初に巡り合ったお経『般若心経』の解釈本、
『般若心経講義』(高神覚昇訳)によれば、
例の有名な「色即是空、空即是色」の部分を、
一種の「往相−還相」的に解説しておられたことが特に印象的でした。
<色の世界>は極めて現実的=政治的ですが、そこから一端離陸して<宗教的真理>へ往き、
<空>を識った者は、再び<色の世界>へと還って来い、というわけです。
そうでなければ、仏教者や「目覚めたる者」は、彼岸へと往ったまま、
衆生の苦しむ此岸から永遠に立ち去ったままとなります。
「志向性」は、ですから、決して「自力作善」ではありません。
もしこれがそうだとすると、
「往相」そのものが既にして「自力作善」の「志向性」ということになりかねません。
「志向性」とは、M・ポンティ風に言うと、
我々が何か対象(物)を「視る(=観る)」という<意志>もしくは<姿勢>のことです。
観ることの<意志>までが「自力作善」だとすると、
我々は「南無阿弥陀仏」の掛け軸すら断じて観てはいけない、という話になりますね。
仏教における<往還>の思想とは、従って、軸足を両サイドに掛けるものの観方の謂いであり、
これが即ち、『般若心経』における出だし「観自在菩薩」の正しいあり方だったのでした。
<自在>とは、「志向性」が融通無碍に<往還>する視座のことです。
「弥陀の本願」は、他力として、我々がこの方向へ既に包摂され、予め導かれてあるものです。
たとえば、今の私がそうであるように。


感謝 投稿者:モモ  投稿日: 6月 1日(土)14時57分42秒

墓石に水をかけるのは何故か?という問いに
お返事を頂きアリガトウございました。

らくりんさんの言う通り
「きちんと由来を知っているわけではないのですが、
あれは、水をかけているのではなく、墓石をきれいに水洗いしているのでは?」

その程度なんでしょうね。あれから自分でも調べたのですが、
阿満利麿さんが民俗学か何かで「生まれたところの産湯と
同じ水を死んだ時にかける」というのはあるが、あくまで
迷信だと言ってました。


初めてネット喫茶からです 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 5月31日(金)23時26分09秒

>Genkoさま

>私は、<現実逃避>のための「宗教的真理」のことを批判していたつもりです。

宗教者の<宗教性>と<政治的行為>、<社会的行為>が全く別体とのご意見と誤解しておりました。すみません。


>ぐっちんさま

その安心感にねむりこんでしまわないようにだけは気をつけますが。念仏が叩き起こしますかな?
なんか、モヤモヤしてたものがぐっちんさんに向けてカキコするうちにすこし晴れた気がします。


CHINCHINさまへ 投稿者:Genko  投稿日: 5月31日(金)17時44分51秒

>「宗教者が時の政治を直視」するということは一体どういうことでしょうか?
>たんに「<国民>として」政治に参加するのであれば宗教者であることはとくに関係
>なくなることもありえます。宗教者であること、宗教的意識がそこで何か意味があるのか、
>ないのか。その理由も教えて下さい。

ありゃ? この答えを、なんで私なんかに尋くの?
目下のCHINCHINさんの生き様それ自体が、既にその答えではありませんか?
宗教者としては、希にみる政治的センスの持ち主だと私は常日頃感服しておりました。
たとえ今はまだ不十分だとしても、それを「志向」されていますよね。
私のスローガンである、
「仏教者に<社会科学>を、社会科学者に<仏教>を」というのは、一種の比喩ですが、
<複眼的志向性>のことを主張しています。
この両軸足の上に、宗教者にとって固有の「宗教的意識」が
さらに重大な意味を持ってくるのは、当然のことです。
私は、<現実逃避>のための「宗教的真理」のことを批判していたつもりです。
<逃げ>というのは「志向性」を最初から放棄する態度のことでありましょうから。



歎異抄加減の文 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(金)16時45分21秒

 しかれば本願を信ぜんには、他の「公的な価値」も要にあらず、念仏にまさるべき善なき
ゆえに。「自分の感受性の肯定」をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なき
がゆえにと云々。


お久しぶりです。 投稿者:Zazie。  投稿日: 5月31日(金)16時39分10秒

 昨年、12月にTAが落雷によってお亡くなりになって以来、ADSL環境への移行が
うまく行かず、今日やっとつながりました。原因は自分でパスワード変更したのを忘れ
ていた事(涙)。

 まっ、メールは携帯に転送してたので、ネットは半年つながなくてもなんとかなるも
んだなぁ、という感じです。

 らくりんさん、お久しぶりです。また寄らせて頂きたいと思います。みなさん、初め
まして、Zazieと申します。らくりんさんの近くのお寺の若者です。よろしくお願
いします。

 実際の学習会には参加できるか分りませんが、きょうの説明会聞きに伺います。


選択集より 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(金)15時51分37秒

 >もしそれ造像起塔をもつて本願となしたまはば、貧窮困乏の類は定めて往生の望みを
 >絶たん。……もし智慧高才をもつて本願となしたまはば、愚鈍下智の者は定めて往生
 >の望みを絶たん。……もし多聞多見をもつて本願となしたまはば、少聞少見の輩は定
 >めて往生の望みを絶たん。……もし持戒持律をもつて本願となしたまはば、破戒無戒
 >の人は定めて往生の望みを絶たん。……自余の諸行、これに準じてまさに知るべし。
 >まさに知るべし。上の諸行等をもつて本願となしたまはば、往生を得る者はなく、往
 >生を得ざる者ははなはだ多からん。しかればすなわち弥陀如来、法蔵比丘の昔、平等
 >の慈悲に催されてあまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の
 >本願となしたまはず。ただ称名念仏の一行をもつて、その本願となしたまへるなり。

 ミダの本願には、称名念仏以外なんの期待もおしつけもコントロールも査定も監視もあり
ません。CHINCHINさん、よかった、よかった。


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