らくりんバンバン

〈 落 鱗 板 々 〉

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<非-近代>という概念 投稿者:Genko  投稿日: 6月15日(土)05時07分12秒

>むしろ、Genkoさんの<非-近代>という概念をもっと詳細に教えて頂きたいです。

難しい事など何にもありません。
「私たち」が、めいめいの個人的な<夢>が実現出来、一切の<他者性>を承認し合い、
社会の一切が「<国家>や<資本主義>」に浸蝕されたものでない「政治的<公共圏>」を、
この世界に出現せしめることです。
これが私の「非-近代」のイメージであり、換言すれば「浄土」の構想です。


考えてみるに、 投稿者:Genko  投稿日: 6月15日(土)04時32分29秒

>CHINCHINさん、

こう言っちゃ身もふたもありませんが、本当のところ、
「ニヒリズム」に陥り、「不幸」なのは、<時代>ではなく、貴方の方なのではありませんか?

また反対に、よし、仰るように<時代>の方がそうだとすると、なおさら、
貴方は「不幸」ではなく、「閉塞」しないように状況を楽しまなくてはいけませんね。
目前に山積された<問題>なぞ、うっちゃといても良いほどに。
ある事柄が心底「楽しい」というのは、少なくとも<経済問題>それ自体ではありませんから。


CHINCHINさま(V)   投稿者:Genko  投稿日: 6月15日(土)03時51分33秒

>なぜ、それが聞きたいのでしょうか?教えてください。

そりゃそうじゃあありませんか。
ひとは、他者から、基本的に「楽しい話」や「面白い話」しか聞きたくありませんよね、普通。
漫才や落語、映画館や演劇会場に行って御覧なさい。
人々(衆生の凡夫)がたくさん参集して来ているでしょう。
あれですよ。
誰もおよびでない話は、必ずしもそれが切実で重要だからではありません。
切実であろうがなかろうが、重要であろうがなかろうが、
事の本質に関わりなく、それが面白く、楽しいから、
皆親鸞さんのところへ参集したのでしょうね。


>CHINCHINさま(U)  投稿者:Genko  投稿日: 6月15日(土)03時43分55秒

>浄土に向かう、これくらいにしか言えないです。

いいでしょう。しかし、これならば私も含めて、皆言っていることではありませんか。
仮に、貴方の<視線>が、謂う所の「浄土」に向けられているとして、
では、そのときの「固有の仕方」、即ち「浄土」への貴方の<楽しみ方>について、
私たちにもその<悦び>と<満足感>が、ひしひしと伝わって来ることばで、語って下さい。

>ということは<ヤクソウ>問題はどうにもならんと?

貴方もさかんに繰り返し強調しているように、「<近代>を反復」しながら、ゆっくりと、
或は時にはす早いスピードで、教団が多少なりとも「健全性」を残している限りにおいて、
「未完のプロジェクト」を完成させて行くことでしょう。
その問題もまた、あくまで「新しい<近代>」−これも形容矛盾ですが−という圏内で、
改善の方向へ向けて、いずれどうにかなっていくものだと考えます。


>Genkoさま 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月15日(土)03時29分34秒

なぜ、それが聞きたいのでしょうか?教えてください。
そろそろ寝ますが・・・


訂正 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月15日(土)03時27分06秒

追伸 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月15日(土)03時03分38秒

わたしは僧侶であることはやめません。(誤)

わたしは僧侶であることはやめられません。(正)


>CHINCHINさま 投稿者:Genko  投稿日: 6月15日(土)03時25分37秒

>現代思想の突破しえない問題を私などに聞いて、答えがあるわけがありません。

私がいつ、「現代思想」の<視線>などについて尋ねたりしましたか?
私は、「CHINCHINさん」の<視線>について訊いているのです。
言い換えると、貴方の構想する(創造する)「希望の原理」についてです。
ありていに言えば、貴方の「個人的な<夢>」について語って欲しいだけなのです。

何故なら、「個人的なことども」こそ、私たちにとっての真の「政治」だからです。
ここを起点にしない限り、「私たち」の<公共圏>は、決して実現されないだろうからです。

貴方の口から、これまで<夢>に満ちた楽しい話を聞いたことがあまりありません。
逆に、<夢>も<希望>もない「現実」など、ただ歓待してやれば事足りるではありませんか。


>Genkoさま 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月15日(土)03時21分04秒

ということは<ヤクソウ>問題はどうにもならんと?


>まあ。。。  投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月15日(土)03時20分04秒

ぐっちんさん、それ、分ります。私はほんまに奉仕活動でしたから。住職が女遊びや違法カジノでカモにされるための「お布施」を無償で集めてきてたのです。
これに文句ゆうのは、門徒さんからみたら、「違和感」感じるのかな?


補足(V) 投稿者:Genko  投稿日: 6月15日(土)03時13分16秒

<教団>こそ、自らそれと知ってか知らずか、「<国家>と<資本主義>」を逆手に取った、
それらについての、最もプロ中のプロなのです。
そして、どんな職人でもプロというものは、己れがそれについて普段意識化/言語化され得ぬ程、
充分板につき、既に<血肉>となっているものです。
あっぱれではありませんか。


>Genkoさま 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月15日(土)03時12分47秒

私は<近代の反復>によってしか諸問題の解決の根拠がみいだしえない状況を「不幸」といっているにすぎません。現代思想の突破しえない問題を私などに聞いて、答えがあるわけがありません。むしろ、Genkoさんの<非-近代>という概念をもっと詳細に教えて頂きたいです。

浄土に向かう、これくらいにしか言えないです。答えになり得てないですが、お許しください。


追伸 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月15日(土)03時03分38秒

私は決して労働者か、僧侶か、という選択肢を用意して、一つを選ぶ、といっているのではありません。
必要最低限の生活のために法務をさせているのにもかかわらず、給与がまったく支払われない状況になっても、ただ耐えるのが僧侶たるものの生き様なんでしょうか?そんなことは私にはできませんでした。そんな私は僧侶ではないとおっしゃるのですか?三吉さんがそうおっしゃっても、わたしは僧侶であることはやめません。


まあ。。。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月15日(土)02時55分11秒

 値段が決まってないものを頂戴してきて、お寺に収める。宗教法人に一旦収まったものから
住職・坊守にもお給料として支給するというカタチじゃなかったっけ。

 けど、まあお寺の取り分が多い。で、お寺によるけどヤクソウへの福利厚生・社会保障不備。
この辺は托鉢して喜捨されたものを頂く感覚。要するにヤクソウは非近代。寺族は近代。なん
かヘンだな(なべおさみのギャグ)

 で、布教というか伝道にご熱心だったらいいのに、なんか志村けんがやってる○○殿みたい
な人のもとで働いてると、寺族の経済を支えてるような。。。ボランティア活動かいな。それ
やったら、ご門徒のお布施少しでいいですよ、と思う。みなさん大変なんだから。。。


ぐっちんさんへ(U) 投稿者:Genko  投稿日: 6月15日(土)02時52分58秒

私の、↓「ぐっちんさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月14日(金)23時16分59秒 」
でカキコした主題について、お答えいただければ幸いです。


CHINCHINさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月15日(土)02時49分08秒

>ニヒリズムの時代です。不幸です。徹底的に思想は閉塞状況。でも問題は山積。
>その解決には「不幸にして」<近代の反復>しか思いうかばない。

しかし、「そのときの<視線>がどこに向かっているのか」。
CHINCHINさんに、もし「個人的に」パースペクティヴの見当感がついていれば、
それをしも「ニヒリズム」であり、かつ必ずしも「不幸」と言えるのでしょうか?
私がこれまで申し上げた殆どの事柄なぞ、今に始まったことでは全然なく、
とうの昔にニーチェが喝破していたことに過ぎません。

問題は、私が再三にわたって尋ねているのに、貴方が一向に応えてくれない当の事柄、
多分ここにこそあるのです。
つまり、「教団」が、ではなく、「貴方自身」の<視線>が、何処へ向っているのか? 

ちなみに、私は、謂う所の時代を「不幸」と思ったこともないし、
「ニヒリズム」であるとも考えません。


>三吉さま 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月15日(土)02時48分51秒

>「俺は在家の感覚も出家の視座もみんなわかっているのだ。完璧なのだ」と
>おっしゃりたいわけでしょうか。

曲解も甚だしいですね。出家なんてしてないですし。わたしは今も在家です。(現在の真宗教団の僧侶に出家などいるのでしょうか?)
振込用紙も話もしかり。一般論として、大学生がいきなり5万払うのはキツイでしょう。震災で被災して避難生活している最中に。

一方で
>お坊様方も一度、信仰に金を払う側に回ってみたら 
>私の違和感を味わえるかもしんない
とおっしゃる。

単に刹那的で攻撃的な感情で話されているようにしか思えません。
これでは対話できません。
もっと問題を整理されて、指摘してくださればありがたいのですが。


ついでに そして おやすみ 投稿者:三吉  投稿日: 6月15日(土)02時44分02秒

<教師が>が労働者であることを、個人の倫理的問題として扱うことは馬鹿げています

と、倫理社会教師は言いたかったのではないかと愚推するところであります。
ところが、在家ならぬ、生徒の感覚は、「馬鹿」げてないと思っていたように
想いまする。。


日蓮上人の教え 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月15日(土)02時42分16秒

 たのしくして若干の財を布施すとも、信心よわくば仏に成らん事叶い難し。
たとえ貧なりとも信心強うしてこころざし深からんは、仏に成らん事疑い
あるべからず」                      身延山御書


無利子に学ぶ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月15日(土)02時39分04秒

 「あなたがたが利殖のために、高利(リバー)で人に貸し与えてもアッラーの許では、
何も増えない。だがアッラーの慈顔をもとめて喜捨する者には報償が増加される」
                             ビザンチン章39節

 イスラームの有名な教え、利子の禁止。ここから、無利子銀行ができました。投資はいい
けど、投機はダメ。イスラームの投資家と事業家は協業方式で、お金を出す人と実際に仕事
をする人が儲かったら一緒に儲けましょう。そして損するときは一緒に損しましょうという。

 ザカートは、一年間手元にあった財産の2.5%を収める公の喜捨。これは、一定の財産
があるもののみ。そうでない者は、サダカ(自発的な慈善)を行なう。

 「施し(サダカ)は、貧者、困窮者、これ(施しの事務)を管理する者、および心が真理
に傾いてきた者(新改宗者)のため、また身代金や負債の救済のため、またアッラーの道の
ために率先して努力するもの(伝道活動者)また旅人のためのものである」悔悟章60節

 私的所有は認める。しかし、余剰の富はイスラーム共同体に使用される。


(無題) 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月15日(土)02時27分19秒

>Genkoさん

ニヒリズムの時代です。不幸です。徹底的に思想は閉塞状況。でも問題は山積。その解決には「不幸にして」<近代の反復>しか思いうかばない。その不幸から抜け出す営みはこれからの課題です。したがって、これくらいしか今の私にはお答えできません。

その志向するところは、Genkoさんと重なるような気もいたします。だから、先日、<近代><非-近代>の議論を打ち切ろうとした時、別の機会に議論を深めたい、というような意味のことを申し上げたのです。


CHINCHINさんへ(お答え) 投稿者:Genko  投稿日: 6月15日(土)02時26分46秒

明治の初頭から今日にかけて、己れの延命のために「近代<国家>」に屈服し、妥協し、
時には自己改善し、国家的経営手法の一部を拝借/模倣し、組織形態を擬似会社化し、
要するに、かく「<近代化>=<近代>を利用」したわけです。
そうして、現代の永田町や霞ヶ関が、実にいい加減であるように、
大きくなり過ぎたわれらが「教団」もまた、上手くいったなれの果てとして、
<近代的>な意味で、実にいい加減になれたのです。


イスラームに学ぶ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月15日(土)02時23分45秒

 中東研究家の山内昌之の本を読むと、イスラーム諸国で民主主義を定着させるにはかなり
苦労があるといいます。なぜかというと、彼の国々では主権は人民にあるのではなく、神に
あり。つまり、主権在民ならぬ、主権在神だからです。

 イスラーム学の黒田壽郎も、イスラーム経済は資本主義的な私有、社会主義的な公有では
ない神有というべきものが働いているといいます。本当に富を所有しているのは、神。個人は
せいぜい使用権のみを有すると。

 「わざわいなるかな、凡ての悪口(あっこう)を言って中傷する者。財を集めて計算するの
に余念がない者。本当にその財がかれを永久に生かすと考えているのか。断じてそうではない。
かれは必ず業火の中に投げ込まれる」 中傷者章1〜4節 日本ムスリム協会訳 クルアーン


ジダンを問い直す 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月15日(土)02時15分12秒

 いちおうサッカーネタってしょぼい。。。

 @ 私経済(プライヴェート)重視 自由党(保守党?)
 A 公経済(パブリック)重視   民主党(社民党?)
 B 共経済(コモンズ)重視    自民党(公明党?)

 とまあ、政党と経済政策。ねじれた政党だらけなのでイメージでしかないのですが。
えーとお布施の梵語はダーナだな、なんちゃって。。。ここから旦那さまという言葉が
出た。タイではタンだな。これパーリ語かな?英語じゃドネーション。フランス語じゃ
ドンネだね。みんな同じ語源でしょうか?基礎教養がないのが、カナチイ。。。

 お釈迦さん以前にインドでは托鉢の習慣があったから、お布施もらうのって、仏教だけの
専売特許じゃないな。


訂正 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月15日(土)02時14分06秒

ことろ(誤)
ところ(正)


補足(U) 投稿者:Genko  投稿日: 6月15日(土)02時13分13秒

私は、貴方の表情に、同じ<ペルソナ>の陰を見たくなかった。
「反」が「正」を担保し、後者は前者を採り込んで延命する・・・。
神話に登場する<双頭の獣>は、同じ一つの「胴」を共有していることに気がつかない・・・。
むしろ私はそこに、一種キルケゴール的な命題を観てしまうのです。
「反復」と「死に至る病」とを。
ラカンならばこの事態を、さしずめ<鏡像段階>と規定するのでしょうか?


(無題) 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月15日(土)02時11分25秒

>Genkoさん

補足の意味することろがよくわかりません。
<教団>がそんな手法を用いた歴史とは具体的に何を指すのでしょうか?


三吉さんへの補足 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月15日(土)02時09分12秒

僧侶は歴史社会の中に存在する個人です。したがって、現在の社会では<国家><資本主義>という問題をかかえます。教団自体もその機能にもとづいて再構成されてゆきます。<ヤクソウ>という<資本主義>的存在もその流れのなかで歴史的必然性をもって形成されたもので、<ヤクソウ>が労働者であることを、個人の倫理的問題として扱うことは馬鹿げています。
封建社会では、大谷家の家臣という立場の世襲僧侶がいました(形骸化したものが大派には残っているようですが)が、彼らも、封建的従属身分であることを根拠に、個人が倫理的に責められるのでしょうか?


補足 投稿者:Genko  投稿日: 6月15日(土)01時57分09秒

ちなみに、何故そのことの利用方法が<近代主義>的理路/手法なのかと言いますと、
実は、貴方がこの世に生を受けるよりはるかに先に、
このやり方で試み、生き延び、その後ますます板について来たすごい大先輩がいるのです。
その大先輩とは、貴方が今まさに闘っているその当の目前の<相手>、
即ち<教団>自体のことです。


三吉さんへ 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月15日(土)01時48分13秒

>お坊様方が、「私は宗教労働者であって 聖職者じゃない」
>と言いましたならば。。。

誰がそんなことをいいましたか?理解に苦しみます。
何をもって<聖職者>であるか?という問題もありますが。
私は<ヤクソウ>であり、<僧侶>です。


CHINCHINさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月15日(土)01時45分28秒

>私がGenkoさんのお立場と異なるのは、<国家>や<資本主義>の問題は教団の問題を取り
>上げる上で、これを逆手にとって利用しよう、さらにはその利用によって、その現在の<機
>能>を少しでも変形させよう、と考えていることです。

問題点を、うまく整理して下さいました。
「<国家>や<資本主義>の問題は教団の問題を取り上げる上で、これを逆手にとって利用
しよう、さらにはその利用によって、その現在の<機能>を少しでも変形させよう」と試みる
ことが、まさしく<近代主義>的理路/手法だと、これまで私は申し上げてきたわけです。
で、このことの当否を問題にしているわけではなく(私はこの試みを支持しているわけですから)、そのときの「視線がどこに向かっているのか」と再三にわたって尋ねているのに、
貴方は一向、気が付いてくれないのです(未だにお答えをもらっていませんから)。


(無題) 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月15日(土)01時44分29秒

>このあたりで、不協和音的に私の試みを支持するという
>Genkoさんのお立場が出てきたのでは?

と↓でいっているのは、それを理由に支持するというのではなく、それに関して意見の相違があるから、不協和音的となる、という意味です。一応補足いたします。


坊主は 生き様? それとも飯の種? 投稿者:三吉  投稿日: 6月15日(土)01時37分51秒

高校時分に、倫理社会の教師がなにかの拍子に「私は労働者であって聖職者ではない」と言ったことがありまして、クラス中、ブーイングの嵐になりまして。。。
先生は「君たちが大人になったら 俺の気持ちはわかる そのとき 話をしよう」とおっしゃいましたが、一人のやんちゃ坊主(私ではない 為念)が切れまして、「そんなヤツの授業なんて 受けたくない」と言い放ち、教室を飛び出しました。
「聖職者」というのはなにも生徒たちは、先生に「清さ」を要請したのではなく、なんといいますか、「金八先生」のような「教育に対する情熱」。単に対価のために教育で飯をくっているのではなく、「教育が好きだからやっている」というような、そういうものかどうかはともかく、「そうありたい」と思っているのどうか、そういうところを論理ではなく、気持ちで先生に問うたのかもしれませんです。
お坊様方が、「私は宗教労働者であって 聖職者じゃない」と言いましたならば。。。
「あなたは 好きで あるいは したくてしたくてたまらなくて  しているのではないのか あるいは。。。」と違和感を覚える在家はいるのではないかと。。。


続「愚談」 投稿者:三吉  投稿日: 6月15日(土)01時36分56秒

<布施にまつわる一般の方の視点も持っております>
というのは、「俺は在家の感覚も出家の視座もみんなわかっているのだ。完璧なのだ」とおっしゃりたいわけでしょうか。(以下ネチネチとした苛めにしかならないので略)

まあ、細かい事実は捨て置いて。。。その<後ろめたさ>なるものは、私の場合、「善意の脅迫に屈して」ではなく、「行かなかった」こと自体に「うしろめたさ」なる「後味のわるさ」を覚えたのですね。お金を出すことで、消えず、薄まらず、もしかすると深まったかもしれないが、決してお金を出すことにではない。ですので、後ろとはつながらないのではないかと。
そうそう私は、自らの信仰から喜んで小学生の少ない小遣いの中から(例えば貰ったバス代を歩くことで浮かすなど)教会の<献金箱>に寄付した時もあるが、主体的な信仰を持っていない時は、その祈り中に回ってくる同じ<献金箱>に「脅迫」を感じたことはあるなぁぁぁぁ。

信仰なんてものは、まっとうな伝統宗教でもイカサマかるとにおいても、主体的であれば、「金を出すこと」に喜びを感じこそすれ、「脅迫」であってもその「脅迫」は自覚されることはないように思ったりもしますですね。
どなたかのように「宗派からの振込用紙」に<キツイ>などと感じるのは、それは自発的ではないからでしょうか。。。と。


同感です 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月15日(土)01時35分08秒

>私は、仏教のみならず、世俗のあらゆる価値関係や社会的人間関係をダメにしたのは、
>「<国家>と<資本主義>」だとさかんに繰り返しているわけで、
>それにしては、みなさんはそこだけに「眼をつむって」、
>教団内の経済論議ばかりに終始「限定して」、議論しているわけです。

私はGenkoさんのこのご意見に賛同いたします。
社会の中に存在する一集団でしかない教団の問題をおっしゃる問題ぬきに、「布施とは」「あるべき教団経済」というような議論に終始することにはあまり実効的意義はみいだせません。
ただ、私がGenkoさんのお立場と異なるのは、<国家>や<資本主義>の問題は教団の問題を取り上げる上で、これを逆手にとって利用しよう、さらにはその利用によって、その現在の<機能>を少しでも変形させよう、と考えていることです。このあたりで、不協和音的に私の試みを支持するというGenkoさんのお立場が出てきたのでは?と考えておりますが、いかがでしょう。


西本願寺前門主・勝如上人が遷化 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月15日(土)01時24分09秒

 西本願寺第23代門主・大谷光照師(すでにご存知だとは思いますが、現在の門主は光照師の長男光真(即如)師)が、6月14日13時16分、多臓器不全により京都市内の病院で逝去された。90歳。前門・光照師の死は本願寺派にとって如何なる変化を引き起こすのか、或いは何も変わらないのか。現時点では何もわからない。


GenkoさんとCHINCHINさんへ 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月15日(土)00時41分06秒

 先ず、「返事」が遅くなりましたことを謹んでお詫びします。わたしがお二人に「教団、宗派における身分」を尋ねた理由は、お二人が、わたしが考える「真宗僧侶のサラブレッド(この条件については後述します)」でおありなのか否かを確認したかったからです(念のため申し上げておきますが、わたしの言う「真宗僧侶のサラブレッド」でないからといって教団、宗派における活動が制約される、あるいは成仏しないなどということは本来間違ってもありません)。
 いったん中断します。では。


↓の「貴方様からのご質問」とは 投稿者:Genko  投稿日: 6月14日(金)23時53分37秒

>薄野高麗王さんへ   投稿者:Genko  投稿日: 6月11日(火)00時47分42秒

の私のRESカキコのことです。
薄野高麗王さんが、私どもに対し、「身分」を訊いてきたので、
それにこちらから若干答えさせて頂いた時のものです。  


薄野高麗王さまへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月14日(金)23時46分32秒

いつも、宗門の裏面史ものを、精緻な筆致で徹底的に展開していただき、ありがとうございます。
私なぞ新参者には、目新しいことが多く、とても参考になります。
「真実は細部に宿る」と言いますが、何事であれ、史実をありのままに記録し、
公開し、それを世間が熟知しておくことは、とても重要なことだと常日頃心得ます。
どうかこれからも折りに触れ、続けてください。

そりゃそうと、この間の貴方様からのご質問に、ここで私は答えましたが、
何かコメントすることがなかったのでしょうか?


ぐっちんさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月14日(金)23時16分59秒

ぐっちんさんの、

>「貨幣」という言葉が「御幣」に由来するという説があるんじゃなかったかなあ。
>で、お金を「支払う」という言葉も「祓う」という言葉に関係してるという説。

も、日本語の名詞の由来は別にこの場合の問題ではないのです。
「マネー」というものの、近代以後の「ありかた」、即ち、背後の「諸関係の総体」が、
問われなければならないのだと考えます。
今日の<資本主義経済>下において「マネー」という「ありよう」を、
透徹した慧眼でとことん相対化し、諸関係のなかでの<仕掛け>を暴いて見せた本が、
マルクスの『資本論』です。
もちろん「布施経済」の場面でも、マルクスの<貨幣原理>は完全に当てはまります。
私は、ぐっちんさんほどの人が、何故これを主題化しないのかが解せません。

>だから、<汚いカネである>とか、<世間様から後ろ指さ
>されない仕事>とか、そんなことはどうでもいいんだと自分では決着ついたつもりでも、
>他の人がいろいろいうので、またまた意識せざるを得ないというジレンマに陥るんですけどね。

も、カネ自体が<物象化>されて、何か人格性や超能力を備えた特別の存在/職能に、
つい信じられてしまうのですが、実際はそんなはずはないでしょう。
また、本来「職業に貴賎はない」筈で、社会の中で必要ない職業は、すぐに淘汰されます。
それが現前していることが、当該職の存在理由だからです。

むしろ、狂信さんが書いているように、

>Genkoさんが「資本主義が仏教をダメにした」みたいなことを書いていて
>おもしろいなぁと、思っていたら、もう過去ログ消えてる。。。

私は、仏教のみならず、世俗のあらゆる価値関係や社会的人間関係をダメにしたのは、
「<国家>と<資本主義>」だとさかんに繰り返しているわけで、
それにしては、みなさんはそこだけに「眼をつむって」、
教団内の経済論議ばかりに終始「限定して」、議論しているわけです。
そのアクチュアルな問題性を主題化し、相対化していく視角は、
一つには「社会科学」が有力な手がかりだと、再三提案し、主張しているつもりです。
もちろん、「からくり」を明らかにすることと、解決の「処方箋」を出すこととは、
必ずしも直結しないことが多いのですが・・・。
<資本主義>の「からくり」をあそこまで展開したマルクスが、次に、だからこうしろ、
という「それに代わる具体的プログラム」を殆ど出せなかったことと同じです。
(多少は具体性のある「共産主義」などという矮小なイメージを創ったのは、
エンゲルス以降のいわゆるマルクス主義者たちのせいです。)


お西へ お東へ 御簾散る 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月14日(金)19時14分22秒

 また 君の中の常識が揺らいでる
 知らなきゃ良かったって 思う事ばっかり
 そして いつしか慣れるんだ
 当り前のものとして 受け入れるんだ

 片一方は天使 もう一方は悪魔で
 分裂しそうなんだ 抗鬱剤をちょうだい
 暗い未来を防ぐんだ
 永い迷宮みたいな 青春だ
 夢や理想にゃ 手が届かないが
 不満ならべたって きりがないし
 人は悲しい性をもって 破裂しそうな悩み抱えて
 ニシエヒガシエ 必死で 猛ダッシュです


おめでとうございます 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月14日(金)18時47分11秒

 今年、海老一染太郎・染之助のお兄さんの方が無くなった。
あれは、太神楽(だいかぐら)の芸人さんだ。太神楽とは、ようするに伊勢神宮の神宮大麻(お札)を配りながら門付けの芸(お清め)をする人たちだった。

 染太郎・染之助は、生活に困って進駐軍向けに何かショウをやって儲けようというので
習った芸らしく、別にお伊勢さんのお札配りに従事してないようですけど。。。ぐっちん、
お逮夜まいりしてた時、自分は太神楽やる芸人さんみたいやなあ、と思ってました。まずい
芸だな。。。芸能と差別。ぐっちん畢生の課題。

http://www.portnet.ne.jp/~kazu-t/Lamitie/vol2/no5/MS.vol2.no5.html

http://edu.city.hikone.shiga.jp/jinken/yukidoke/No35/kadotuki.html


明日香カンバック!。。。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月14日(金)18時15分40秒

 これって以前にも書いたなあ。。。
布施は六波羅蜜の行のひとつでしたっけ。出す方が功徳を積める。もらう方は
「すんません」などといわんでよろしい。

 坊さんは福田(といってもどこを切っても平和主義のおっさんじゃない)。
こんなんとは、真宗でいう「念仏のこころざし」は違うのだと思う。
で、上座部僧なら三衣一鉢。持ち物検査しても、財産無し。(というのは、昔の話。上座部も
しこたまカネもったゼニの亡者もいるから、タイ等で改革運動が起こったのだあ!)

 ところが真宗はファイト一発!家族もいるぜ。クルマもいるぜ。パソコンもいるぜ。ケータ
イもいるぜ。。。現生がいるぜ。現代に生きるには、お米とお野菜いただいてるだけじゃ、
やっていけん。


感話及第 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月14日(金)17時57分12秒

 彌光庵へ行って、本山のブックレットをタダでもらいました。
『いのちを奪う原発』。。。13年前、ブックレット第一弾として出るはずだった
龍宮に入ってた一冊。まさに玉手箱が開かれた!ヤクソウ問題や、政府の非核三原則
見直し発言などがアタマをかすめながら読んでおりました。

 でもあともらった寺報で、大分・別府で反原発運動されてるCというお寺を知りました。
本堂に太陽光発電パネルを設置されてる。こういうトコもあるんだニャー。で、ブックレット
の参考文献を見てたら、モロ原子力とは何かという「技術・原理」の本がない。ぐっちん
おすすめしときます。

 米山正信 黎明書房 『物理のドレミファ4原子力と放射能』

 物語風に書いてあって、数式などほとんど出てこない。中学生で読める。でもとってもしっ
かりした内容です。東海村の事件があったとき、友達のQ州大学理学部核物理学専攻(だったか?)のおねーさんに講義を受けようと思ったのだけど、逆に参考に貸してあげたこの本を
読んでイタク感動していました。学部時代この本に出会ってたら学院までいけた(?)って。

http://www.jbook.co.jp/product.asp?product=844802


お布施にまつわるエトセトラ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月14日(金)17時01分55秒

 いやあ、お布施にはやっぱボッタクリの嫌疑がかかる。で、日本には奉加帳っていうて
寄付した金額張り出す制度ありまんがな。あれも、どうかなあ。教会で礼拝に出ると、献金箱
って誰がナンボ出したかわからんようになってます。あ、あんまり詳しく知らないけどドイツ
では教会税というものがあって、牧師さんとかは補助金もらってる。これは、どうかなあ?
ヒモ付き。。。

 Maroさんが、ここでだったかご自身の掲示板でだったか、こういうことを書いておられた
ような。。。「会社勤めをしてたころは、自分の稼ぎは自分のもので何らやましいとこはなかっ
た。けど、お寺でお布施をもらうような生活になって窮屈な思いをするようになった」と。
ぐっちんもまがりなりにも会社で労働者やってたときは、こういうもどかしい思いは感じなかっ
た。資本主義の中でスッキリしてた。。。

 三吉さんだって、友人が何らかの「運動」をやっててカンパしたのだが、それは自分が動いて
ないことへの「後ろめたさ」からカネを出したような感じだ、というようなことを書いてはった。
カンパとかお布施とかおこころざしというのは、どうもこういう相手の善意に頼るというか、付
け入るというか。。。「脅し産業」つまり、人々の不安あるいはやましさに付け込むような部分
があります。

 だから、死生さんも書いておられるように「どのように使うのか」、ぐっちん風にゆうと再分
配にアタマを切り替えようとしてたなあ。狂信さんとこでも、寺務を手伝うとお礼が出るように
なったのですね。まさにエコマネー(寺域通貨)みたい。


三吉さんへ 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月14日(金)14時27分03秒

>お坊様方も一度、信仰に金を払う側に回ってみたら 
>私の違和感を味わえるかもしんない

払っております。大学生のときには、いきなり何の根拠も示されることなく宗派から振込用紙が送られてきて、5万円支払えと。本山・西本願寺での法要への賦課金だそうです。その法要の予算規模はかなりのものでしたが、未だ会計報告をする気はないようです。大学生にいきなり5万はキツイ。
また、私の実家はもともと代々オニシの門徒でしたので、布施にまつわる一般の方の視点も持っております。それを重々承知で<ヤクソウ>問題を提起しております。
それに私のつれあいは僧籍はありますが、女性僧侶が僧侶であることで収入を得る機会が極端に少なく、直接的な布施収入はほとんどありません。しかしながら、宗派への賦課金は男性の<ヤクソウ>同様の金額を支払う義務があります。
きっちり教団の財政に<貢献>しております。


御礼 投稿者:大悲  投稿日: 6月14日(金)11時07分47秒

管理人の目を離した隙の、アラシに対して、皆さんに呼びかけてくださってありがとうございました。
下げる効果よりも、知らん振りしながらの応援のエールが嬉しかったし、管理人一人が書き込んでいる掲示板と思われたのかどうかわかりませんが、なんかあったら、ぱっと反応するROMがいる掲示板だと示す事で、ちょっとは注意喚起になると思いました。

安田先生の言われたという『やめろ!あれは彼らの宗教心の現われなのだ!』
というお言葉も、胸に沁みました。管理人の対応としては、やっぱり、きっちり削除しなくてはならないところですが、何か別のアプローチできる方法があったらなあ、と考えてしまいました


(無題) 投稿者:狂信 ☆  投稿日: 6月14日(金)08時50分01秒

Genkoさんが「資本主義が仏教をダメにした」みたいなことを書いていて
おもしろいなぁと、思っていたら、もう過去ログ消えてる。。。

よくわからないけど、小さな親切とか気遣いなどが、サービス料として
金銭に換算されるようになったなぁと感じています。
デフレ不況。薄くても取れるところは、取っておこう。

地方の寺というのは、やっぱり、懇志で成り立ってきたのだと思います。
もちろん、金銭だけではなくて、大根、玉葱、馬鈴薯、太葱、、、、
整備、維持管理に御門徒さんが関わって。

他宗からの転派ということもあったでしょうが、
住職も、道場の維持ということがメインだった。
寺は、飾っておく場所ではなくて、そこが活動の場所だったのに、
一個人の所有物みたいな事になってきている。

お講や行事の際の食事をお願いしたときは、
法事の引き出物を差し上げていますが、
仏具のお道具磨きをやりましょうとお願いしたときは
なにがしらお礼を差し上げるようになりました。

お礼をさしあげないと、なにか権威からの命令のようになってしまうということも。

近所のお寺では、ご門徒さんのお祝い事があると
そこに、いくらかのお祝いをつつんでいかれるということを始められました。

こういう事って、仏教と、関係あるのかなぁ。
よくわからんのです。


阿弥陀さんは、念仏一つで極楽浄土へ摂めてくださるんだから
損得勘定なし。えらい、気前がええ。

でも、信心という、えらい決断が要るらしいから。そうでもないか。


お布施の金額 投稿者:死生  投稿日: 6月14日(金)04時20分57秒

ぐっちんさんへ

定価というモノがない、あいまいな「お布施」は
人も自分も困らせます。だから「思い切って言うてくれ」
と聞かれると、とっても困ります。
基本的には、頼み込んだり、(なぜか)謝ったりして、
金額を言わず、凌いでおります。
定価が有ったらいいのに、と何度も思います。
ならば、どうどうと「有難く頂戴します」などと曰うでしょう。
(↑これもどうかと・・・)
たまに金額を言うこともありました。その時は、
「高いと思われてへんかな?」ということに心煩いしています。
<これでいいんだ>と<うしろめたさ>とが入り交じりです。
所詮こんなものか・・・とガックリしたりします。

結論が遅くなりました。
<定価があれば>と思いますし、<相場>はあります。
が、しかし、やっぱり不透明な、多くの人が迷惑する
<お布施>がいいと思います。

あと、<ヤクソウ>の歩合制ですが、これは有りです。
保証とかそういうのは自分でせんならんですけど、
あちこちのお寺の手伝いをフリーでやってる人は、
まさに歩合です。どちらがいいでしょうか?
ちなみに、ご存じのK市のJ寺さんは歩合です。
法務手伝いしてる人が一人、「オレは衣は着けない」と言って自発的に寺の掃除・草むしり・墓みがき・運転手をする人が一人、あそこの寺は門徒さんが何人か教師資格までもってるけど、それらの学費は寺から出てました。法務手伝いの人には衣など一式支給されてます。(これはとってもうらやましい、と思ってました。)
<テラ>に雇われてるところでも、
葬儀やお盆・彼岸といった時には、臨時収入を得る
ことがあります。(ちなみに小生にはありました)
<ヤクソウ>の給与等については、その<テラ>の
ボス次第で、全然違います。
いちかばちか交渉するか、枕を涙で濡らすのか、
それとも・・・。どう生きるのか。


願い(教え)に反して 投稿者:死生  投稿日: 6月14日(金)03時35分40秒

我苦生さんへ

ひさしぶりッス。下のカキコミの通り、小生、能書きが多くて、
我苦生さんの‘声’からズレていたと思います。
<ヤクソウ>の地位向上というよりも、
<寺>の契約違反、傲慢さ、etcへの怒り!!と、
ご自身の葛藤(引き受けがたい環境ー身と土ーを引き受けようとする、が、これまた・・・)が
吹き上げているのでしょうか?

小生、いつも〈こうするんだ〉ということと、
〈これでいいのか〉ということが、グルグルしております。
〈きれいごとじゃない!〉と思ったり、
〈きれいなこと〉を求めたり、あっちこっち思い馳せております。
だから「中途半端」を名刺に刻んでた、我苦生さんが、
常日頃思い出されてきます。
小生の出遇った師は、常々、「どのような人であっても・・・」と言います。
「どんな人の 人生も 南無阿弥陀仏の 道である」と言います。
↑(なんじゃこりゃ?意味わからんやんか!)が、しかし、
小生はたしかにこれらの言葉にささえられて生きております。
<願い(教え)に反するものであれ、そうじゃないものであれ>
<クリーンな人であれ、詐欺師であれ>
そんな風には、これぽっちも考えられないけど、許せないけど・・・
共に生きよう(誰かの法名ですな)とする願いが成就したすがた、
南無阿弥陀仏。とは、言うてもなぁ。という小生です。

<ヤクソウ>から問う真宗教団については、またの機会に。
(ほんまはコレを長々書こうとしてました)

追伸:小生のHN「死生」の名付け親は、我苦生さんやったね。
   気に入って使っております。憶えてましたか?


役僧の惑い 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月14日(金)03時03分08秒

 で、ぐっちん昔、お寺に雇われ現金収入が少ないので、将来のためにと思って
貯蓄しようとお風呂やさんで「女湯」の掃除のアルバイトをはじめました。けど、最初に断った
にもかかわらず、お寺の坊守さんにもええ顔されませんでした。

 近所の手前があるのです。役僧は、勝手に兼業してはいけません。仕事にも世間のイメージ
があるので、とてもとても困った。。。

 で、何回か書いたのでもうええ加減にしたいのですが、ぐっちんの親父は日雇い労働者。
俗にいう土方でした。これは、子供の時分に相当コンプレックスを植え付けられました。
親戚からも疎んぜられましたし。だから、<汚いカネである>とか、<世間様から後ろ指さ
されない仕事>とか、そんなことはどうでもいいんだと自分では決着ついたつもりでも、
他の人がいろいろいうので、またまた意識せざるを得ないというジレンマに陥るんですけどね。

 ちょうど死生さんが、どこにいたっていつまでたっても<お坊さん>というのがついてまわる
といってた感じ(勝手に意味をとりました)のに近いかな?


失敗した 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月14日(金)02時45分20秒

 ↓カキコ途中で投稿してしまった。もうなんだかよう解らんようになったから
ええか。。。


自問 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月14日(金)02時43分48秒

 あ〜頭の悪いぐっちんには、もひとつシャキッと解せん。
問題を単純化して、お葬式をして坊さんがお金をもらうとして、
「定価」があった方がいいと思われますか。それとも、「定価」らしきもの=相場があった方が
いいと思いますか?それとも、「お布施」という「定価」じゃないものにしたらいいと思いますか?また、その他の考え方がありますか?ごちゃごちゃ説明してもらってもわからんので明快に
書いていただきたいのですが?このへんがお坊さんで食い扶持を得ようとしたらモヤモヤするク
リーン(透明性)じゃないという思いを感じさせる点です。

 で、雇われた役僧がそのお寺からお金をもらうとして歩合になったりするのは、ヘンだとお
考えですか?


まさにお布施生活 投稿者:死生  投稿日: 6月14日(金)02時11分18秒

をしております。
「開教」とは言っても、
お葬式と法事による収入にたよっております。
現在、「お寺」と言っても、単なる借家住まいですが、
そんなところにでも、お参りに来たり(めったにないですが)
お花を届けてくれたりする人もおります。
そういうお金と気持ちを土台にして、
小さな道場を建てられるところまで来ました。
その場所でどんなことをしていこうか、
どんな場所にしていこうか、(もちろん聞法道場ですが)
みんなと相談していけるよう呼びかけております。
仏具なんかも、寄付をしたいという問い合わせまであります。
小生は、それらの声にとても感謝しております。

開教活動をすると決めたとき、応援してくれる人もいましたが、
多くの人を裏切りました。それは田舎の両親であり、同行であり、
会社(鉄筋工・鍛冶やさん)を作って声をかけてくれた幼なじみであり、
妻であります。
さて、開教当初ですが、仕事のアテもまったくありません。
開教拠点を定め、近所の葬儀社に「紹介してください」と
頭を下げてまわりました。
当時は、友人に土建業の親分がいて、アルバイトとして
雇ってもらい、生活いたしました。(半年ほどでしたが)
その友人が今度の「道場」の外溝工事をしてくれます。

えーっと、何が言いたいのかを言えば(能書きが多くなりました)
お葬式であれ、法事であれ、得たお布施(お金)を汚れているとは
思いません。しかし小生、クリーンな男ではありませんので、
汚していることはあるでしょう。ごめんなさい。
お布施(お金など)をどのようにいただくのか、どのように使うのか、
そういうことが問われているのだと、思います。
というようなことを、お参り先でブッこいてます。


負い目 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月14日(金)01時54分47秒

 う〜ん、、「貨幣」という言葉が「御幣」に由来するという説があるんじゃなかったかなあ。
で、お金を「支払う」という言葉も「祓う」という言葉に関係してるという説。

 こんなこといってたら、やっぱりマルクスとは疎遠になる。。。親鸞さんとも疎遠になるか?

 http://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/research/published/exchange.html 

http://jmm.cogen.co.jp/jmmarchive/m037003.html


芸人コンプレックス 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月14日(金)01時17分08秒

 アホといえば、坂田利夫。ところが、この坂田師匠のおかんは、
『息子はアホやあらへん』という本を書いています。そんな、わざわざ言わんでも
わかってますがな、と思いつつ。母にしてみればやっぱり、息子の「不名誉」を晴らしたい
思いなのでしょう。で、いつぞや師匠の弟子が運転するクルマが交通事故起しましたね。裁判に
なりました。師匠は、「有名人やからたくさん保険金とれる思て、訴えたんや」とのコメントが
広まりこれまた波紋が広がりました。

 お母さんの本の中で、息子利夫は「おかあちゃん、漫才は儲かるんやで」と語ったそうです。
あと、横山ノック。ぐっちん、漫画トリオにおけるノックのタコ踊りも好きやった。けど、大阪
府知事になったノックさん。セクハラスキャンダルでマスコミに怒りをあらわにしました。
「君らは、大阪府知事になんということをいうんだ!」庶民派で当選したはずのノックさんも
相当のコンプレックスを持ってたんでしょう。

 アホやらタコやらで売り出して人気が出て金が入っても、本人には相当、鬱屈した思いがた
まってます。ぐっちんの出身校、ある高名な宗門関係の方の息子さんが通ってました。「在家
から、よりによって、好き好んで坊さんになるなんて、ぐっちゃん変わってるなあ!」といわ
れました。で、もう一人お祖父さんが、これまた高名なお坊さんのお孫さんもいました。親の
七光りの更に二乗。つまり7×7で四十九光を背負ってることになります。まあ、アミダさん
よりまだ重い。。。


三吉さんへ 投稿者:我苦生  投稿日: 6月14日(金)00時28分14秒

 >「お坊さん同士の再配分」

 そうそう、門徒さんから沢山巻き上げ過ぎのお寺、例えば年間2億稼いでいるお寺もある。
 独身34歳に月40万もいらない(欲しいけど)、住職の年収が数千万もいらない。
 だから、問題。

 それと、傍観者じゃありません。ちゃんとこうして意見してくださってくれてますし。ありがとうございます。


追伸 投稿者:我苦生  投稿日: 6月14日(金)00時14分45秒

 いちばん辛いのは、『透明な存在』にされることではないでしょうか?

 人間。
 人の世に熱あれ!人間に光りあれ!
 南無阿弥陀仏


ん?これも荒らしか? 投稿者:我苦生  投稿日: 6月14日(金)00時02分52秒

 >ちょっと大悲さんの掲示板がとんでもない「いたずら」「荒らし」
にさらされているようです。

 たまに見る掲示板が、見事なアングラでして、コンピューターに詳しい人たちが多いらしく、荒らしなどは、お手の物らしいです。
 以前その掲示板でこんな書き込みをみました。
 『高校生がやっている掲示板。荒らせ!』
 ただ、それだけの書き込みでした。
 こんな書き込みもありました。
 『日曜の昼まっから、こんなとこにちまちま書き込んでんじゃねよ!表に出ろ!いい天気だぜ!』
 『さっき、親のも言われた』
 なんか、いいな、って思っていまでもたまにみます。

 非常に長く夜の世界で生きてきたせいでしょうか?大悲さんの所の掲示板を荒らしているひとや、宅間さんに非常に親近感をいだきます。
 『やってられるか!』という現実の中、ごまかしつつ、なんとか生きている。ろくでなし。

 うる覚えで悪いのだが、以前聞いた話である。
 安田先生が、相応学舎で講義していた時、外を暴走族が走り回っていたそうだある。当たり前ながらうるさい。そこで、柔道やってて腕に自身のある、血気さかんなある若者(今は大谷大学の先生であるが)が、しばきにいこうと立ち上がったその時に安田先生が、
 『やめろ!あれは彼らの宗教心の現われなのだ!』
 と、言ったそうだ。

 『よのすみうきはいとうたよりなり。ひとかずならぬみのいやしきは菩提を願うしるしなり』
 でしったけ?聖典もってきてないので確かでないとおもうが。
 真宗っていいな。
 
 ひょとして、『大悲』という言葉に感動して、荒らしてたりして。どんな気持ちなのでしょうか?その人は?ふと思う。

 だいたい、最近よくこの掲示板を利用させてもらっているが、私がここに書き込みしているのも、荒らしみたいなもんだ。
 私の気持ちを一言でいうのなら、まあ、さみしい、ということか。


クリーンなマネー? 投稿者:Genko  投稿日: 6月13日(木)23時41分20秒

お金に「綺麗/汚い」なんかありません。
むしろそれは、二者間の交換関係の磁場に自ずと<価値の齟齬>として表出され、
必然的に発生する<暴力>を、調停しかつ公平にする超越的<第三項>、
即ち「等価交換価値」を構成する大切な媒介物です。
(社会から無用なトラブルを出来るだけ避けようとするため、なくてはならないものです。)
これ自体は、資本主義だからとか、社会主義だとか、一切無関係なことです。
何らかの「貨幣」形態は、太古より存在したし、これからも永久にあり続けるでしょう。
また、「布施経済」は、教団にとっても個々の僧侶にとっても、
共同体の維持運営には欠かせない重要な基礎であると考えます。
問題は「貨幣」それ自体にあるのではなく、それの使用される社会的諸条件の方です。
(現在までのところ、その発行権は、大抵<国家>に独占されている)
私なぞは単に、現代の宗教法人がもはや「布施経済」になっていない、と主張しているのですが。


嗚呼! 我が愛すべき「芋泥棒DNA」 投稿者:三吉  投稿日: 6月13日(木)23時10分47秒

我が父は戦争中疎開した折、空腹に耐えかねて「芋泥棒」常習者であったのだが、
「人間 餓えたら なんでもする」と言っていた。
「さるべき業縁もようせば」であろう。
「芋泥棒DNA」を受け継いでる私からすれば、「泥水 啜っても 生きる」のは自然である。

自分が批判し 侮蔑した 生き様を 今いきているのは 皮肉な結果ではあるのだろうが
堂々と 生きればいいではないかと 思わないでもない

「かっこのよい 役僧」が「準宗務職員」なのならば 違和感を 感じるだけの話である
 私が違和感を感じたとして なんで私ごとき 傍観者に 被害妄想になるのであろう
か。。不思議だ。

傍観者からすれば つまるところ 「お坊さん同士の再配分」の問題に終始しているだけ
じゃんと 
お坊様方も一度、信仰に金を払う側に回ってみたら 私の違和感を味わえるかもしんない


<汚れたお金>。。。うむむ。。。 投稿者:三吉  投稿日: 6月13日(木)23時09分21秒

<汚れたお金>というのは、いまいち解り難いのですが。。。
ピュアなお坊さんからすると、<葬儀・法事で得たお金>は、だめらしい。。。
そうすると、先祖供養教に準じて毎年彼岸・お盆なんかに私が汗水垂らして得
たお金で、お寺さんにわずかばかりのお布施をしているのは「汚れちまったお
金」に相当するのですね。まあ私の労働なぞ、たいしたものでもないが。。。
難しいものだ。

義母が保母を定年退職したおりに、今までの無事息災を感謝し、死んでからも
永遠にお墓にお世話になるからと、ご縁のあるお寺さん3カ寺に数十万円づつ、
お布施したのだが、これもピュアなハートのお坊さんからすると「汚れちまっ
たお金」なのか。。。うむむ。。。。

まあ私はお金に「綺麗・汚い」なぞあるものか。人間が勝手に地球を線引きし、国家を作
っているように、ある価値観が勝手に「色分け」しているだけではないかと疑問を感じる
のであるが。。まあそんなことは。。。いわずもがなではあるが。


香樹院徳龍 投稿者:我苦生  投稿日: 6月13日(木)23時07分02秒

 こんなんありました。

 「一切衆生は平等に憐れむべきものなれば、慈悲をなすべきである。この慈悲の思ひより、なるべく奢りをつつしみ、倹約をなして、他を煩はさぬやうに、他に善心を生ぜしむるやう、これを へ給う所である。」
 「倹をなすにも、家の主人たる者は、わが妻子を初めとして、下男下女に至るまで、あわれみ恵むの思いを先となし、同心協力、以て其家を大切に守るやうにするが倹の道にて、若し倹約と称して恵むべきものも恵まず、而かも自身が節をなさずして財を積むなら(ここで、私の資料は切れています。)
 『香樹院勤倹座談』より


薄野高麗王さま 投稿者:我苦生  投稿日: 6月13日(木)22時48分07秒

 >香月院深励師を「第6代講師」と書きましたが、これは誤りのようです。

 すいません、私がもっているに資料もそうなのですが、間違いなのでしょうか?


も一つ 投稿者:らくりん  投稿日: 6月13日(木)20時46分29秒

大悲さんへの支援書き込みの際は、
ご自分のメルアドは不用意にさらさないようにした方がいいと思います。


追伸 投稿者:らくりん  投稿日: 6月13日(木)20時40分27秒

大悲さんとこの、変なカキコは「大悲」のハンドルネームをつかってますが、
たぶん、それもいたずらではないかと思います。
とにかく、見れば一目でその「ひどさ」がわかりますので、一見あれ。


大悲さんのBBSへ応援を 投稿者:らくりん  投稿日: 6月13日(木)20時32分44秒

ちょっと大悲さんの掲示板がとんでもない「いたずら」「荒らし」
にさらされているようです。
少しみなさん協力してカキコいれて、変な書き込みを「サゲ」てしまいましょう。

【注意】
しかし、この手の荒らしは、「非難」や「攻撃」で、彼/彼女のカキコに
直接反応してしまうと、ますます調子に乗るかもしれませんので、
基本的には一切コメントなしで、完全に無視するのが得策ではないかと思います。

http://439.teacup.com/m38miharu/bbs


エロスと笑いと差別と視線と救い 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月13日(木)18時25分58秒

 再三、書くんですけど。。。吉本新喜劇。子供の時分、好きだったのは「奥目の八チャン」
こと岡八郎でした。で、その後大ファンだったのが、池乃めだか。かれのセリフで強烈に覚えて
るのがこういうやつでした。

 「お前身長は、なんぼやねん」「73や」「なんや、一メートルないんか」(爆)

 コンプレックスを逆手に取って、拡大してみせ笑いを取ります。

 吉本ではないですが、光浦靖子というタレントさんがいます。フジTV系の「ビューティ・
コロシアム」という番組で聞いたのですが、「昔、惚れたオトコに笑顔が醜いっていわれたんです。でも、それからその醜さでもって、こうやって小銭を稼げるようになったんですが。。。」

 文春文庫から出ている『AV女優』という本があります。それ以外にもコンビニに行くとエロ
雑誌のインタヴュー記事をよく読みます。(ってもちろんグラビアも見ますが。。。)養父に性
的陵辱を受けたとか、初体験が複数の男にレイプされたとか、親とうまくいかなくて自殺未遂か
ら家出から。。。

 まあ、本当に読むに絶えない悲劇ばっかだったりする。オンナという「性」を持ったが故の
受難。で、彼女らはその忌まわしい経験を逆手に取ってるようにも見える。オトコたちが自分
を性的な視線でしか見ないのなら徹底的にその視線に自分の肉体をさらしてやろうと。。。
まあ、すさまじいばかりの生き方だ。ぐっちんなぞには、とても考えられん。おぼっちゃまク
ンだもなあ、長屋の。。。


代案吉日 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月13日(木)17時56分36秒

 死生さんとだったか、おじきさんとだったか車の中で、こんな話しをしたことがありました。

A;「かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどいぬる我等ごときのいたづらもの」なんやから、
   生活の糧は極端にいうと何から得てもええんちゃうか?そやさかい、葬儀・法事やったら
   いかんちゅうワケでもないやろ。まあ、開き直るわけやないけど。

B; そうそう、真言宗の僧侶として働いてしっかり儲けてきて、真宗の教えを伝える道場の
   運営費にあてるっちゅうのはどうやろ?


らくりんさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月13日(木)17時09分55秒

>一方で辞めたいという思いが明確にあったのに、
>それを実行に移すことは、簡単な選択ではありませんでした。
>会社に対して何の義理も責任も負っていないのに、
>それを辞めることにはやはり、それなりの理由(言い訳)と
>次に求める何かがなければできなかった。

その頃の思いは、きっと約1年前の私の思いと、たぶんそう違わなかったと思います。
らくりんさんの言う「それなりの理由(言い訳)」というのは、私流に換言すれば、
(自他への)「大義名分」となりますが、それには一定以上の<強度>が必要でした。
私の場合は、会社を辞めようと漠然と或いは明確に<意志>し始めたのは、
主に「阪神大震災」以後のことですから、考えてみればもう8年近く以前に遡ります。
当時、経済的には生涯の頂点に達しており(年収1200万前後)、
やはり食うためだけなら何の不満もありませんでした。
ただ問題は、自分にとって「それを実行に移すこと」だけが至難の業であったのです。
面白いことに、結果において収入がいや増せば増すほど、それに反比例して、
辞めたい思いが次第に募っていったのですが、それでもなお、ぐずぐずしていました。

私の場合たまたま、去年通勤災害(交通事故)に遭遇し、最低半年の入院加療との診断で、
強力な「大義名分」が運命の方から与えられました。
重要顧客先のトップから出向契約を解除されて文字通り「足場」を失い、
それが主たる理由になって会社をクビになったのです(戦力になりませんから当然です)。
果たせるかな、あの時のひき逃げ犯は「阿弥陀さま」であったのではないかと、
心密かに私は感謝したぐらいに、心底から嬉しさがこみ上げてきたものでした。

もちろん、それまでの数年間にわたって、私にとっての「次に求める何か」は、
既に水面下で着々と準備されていた上での出来事です。
その一つは、親鸞の思想と浄土系仏教への接近でした。
いま一つは、若い時に果たせなかった「日本(古典)文学」の勉強です。

そして今、私は、おおむねこの二つの目的の線に沿って、
以後の人生設計が展開され、実現されていることにとりあえず満足している次第です。


訂正 投稿者:らくりん  投稿日: 6月13日(木)10時08分44秒

追加
>そこにとどまることを求められるのに
―→尋常一様でない強い圧力で、そこにとどまることを求められるのに


変える理由(言い訳) 投稿者:らくりん  投稿日: 6月13日(木)10時06分53秒

楽に食えなくたって、そこにとどまることを求められるのに、
そのことに空しさや嫌悪感を持たなかったら、
あるいは、他になにか夢や野心がなかったら、
それによって、楽に食えたら誰だって、その立場を簡単には手放さない。

私、会社、勤め辞めた経験があるのですが、
給料や福利厚生などの待遇には何の不満もありませんでした。
でも、辞めたいという思いはどうしても消えませんでした。
食うことだけを考えたならば、そこに留まる方がはるかに楽で確実な選択だった。

一方で
辞めたいという思いが明確にあったのに、
それを実行に移すことは、簡単な選択ではありませんでした。
会社に対して何の義理も責任も負っていないのに、
それを辞めることにはやはり、それなりの理由(言い訳)と
次に求める何かがなければできなかった。


真宗興法議員団の光と闇part2 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月13日(木)06時14分14秒

 「開申事件」以降のいわゆる「お東紛争」の経過については、ここでは省略する。
 ここで大谷派宗議会の「勢力図」に目を向けると、「開申事件」以後の総選挙(1969年12月12日)で直道会は敗北し下野。だが、次の総選挙(1973年12月12日)で宗政を奪還(当時は同朋教団確立同志会)。そのときに宗務総長の座に就いたのが「改革派の大番頭」嶺藤亮師である。
 「改革派」が志向したのは、一貫して宗政を「同朋社会の顕現」「宗本一体」「同朋公議」の3本柱(現宗憲前文)のもとに担当してきた。その具体的成果が、1980(昭和55)年の「即決和解」、翌1981年の「宗憲改正」の成立、さらに、1996(平成8)年の大谷暢顯師の門首継承にみることができる。そして、1998(平成10)年の蓮如上人五百回御遠忌法要の円成によって興法議員団の志願は結実した。目標を達成した集団というのは目的を見失うと必ず徘徊する。つまり、1990年代の自由民主党と同様「ハタ」を失ってしまったのである。


真宗興法議員団の光と闇 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月13日(木)05時51分35秒

 真宗興法議員団。現在の真宗大谷派(東本願寺)宗議会において多数を占める与党会派の名称である。1975(昭和50)年10月21日結成。以前は同朋教団確立同志会(1972年2月19日)、さらにその前は直道会といった。一貫して「同朋会運動の推進」に基づく大谷派宗門の改革を断行。その中心に座ったのが「改革派の総帥」訓覇信雄(大訓覇師)である。
 「宗門白書(1956年4月3日)」が出された宮谷法含内局の後を受けて1961(昭和36)年に第1次訓覇内局が成立。翌年より「純粋なる信仰運動」である同朋会運動を推進する。だが、改革派内局の前に立ちはだかったのが「三位一体の絶対者」法主・大谷家である。
 1969(昭和44)年4月24日、開申事件勃発!


ぐっちんさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月13日(木)03時29分37秒

>つまりは、葬式・法事だけに僧侶の活動が限定されてしまったのがやっぱ、問題なんですよ。

ですから問題は、何故そうなったかということです。
ほら、やっぱり、私やCHINCHINさんが以前からさかんに反復している、
「近代化=資本主義的分業」の問題性に思い至るでしょう。
要は全「宗教領域」にまで世俗的な<資本>や<市場原理>が浸蝕して来たに過ぎないのですが、
この主題をヌキにして、表層でどんな議論をしていても、
コトの本質は何も見えて来ないし、100%代案も出せないわけです。



ヤケイヌのとおぼえ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月13日(木)02時56分49秒

 そもそも宗門は、大谷大学もしくは同朋大学に医療短期大学部ぐらいはつくっといたらよか
った。看護師やPT、OT、介護福祉士なんかを養成するところ。飯田女子短期大学に仏教看
護科というのがあるけど、なんで「女子大」なんや。日本男児たるものは、まず埼玉医科大で
手術して変成女人せえってことか。。。

 仏教ってまず四苦。生老病死。昔は、家で産婆さんが赤ん坊を取り上げた。死ぬときは、枕
元にかかりつけのお医者さんが、往診して息を引き取った。ところが、1960年代だったかな?
(手元に資料がないのでアイマイ)家で生まれる赤ちゃん、家で亡くなる人の割合が病院にと
って代わられるのが。さらに病を得たらて入院する。(通院も服薬という方法ももちろんある
けど)老いれば、老人病院。(老人ホームとか。。。)

 生老病死の現場は主に病院が引き受けることになった。もちろん、病院で働かなければ生老
病死がわからないということはないけど。その辺、キリスト教は強みがある。大谷派の教学研
究所にも生命倫理班というのがあるらしいけど。。。たとえばカトリックではホアン・マシア
という人などのバイオエシックス批判の仕事があるけど、仏教っていったい誰が?

 教えが生活と遊離してる。。。先にあげた、大阪・応典院の秋田住職にはこう言われた。
「本願寺さんといえば、企業で言えば、リーディング・カンパニー。われわれのお手本になって
もらわな」そんな、わたしに言われても。。。また、神宮寺の高橋さんの新聞にはこうあった。
「ターミナルケアに取り組もうと病院に行くと、袈裟を着た自分がまず病者の家族に嫌われる。
僧侶が信頼をいかに失っているのか、肌身で感じた」と。

 つまりは、葬式・法事だけに僧侶の活動が限定されてしまったのがやっぱ、問題なんですよ。
で、いきなり死刑廃止とかに飛んじゃうんだもんな。確かに教誨師という人たちの活動がある
けどね。。。脳死・臓器移植とかもぐっちん、何か引っかかってばかりだ。今までどんな取り
組があったん?仏教界でって。

 天理教なら天理よろづ病院だったか、診療所だったかがあったはず。立正佼成会ならカウン
セリングに力を入れてるとか、特色あるけど。伝統仏教まったくやられっぱなし。。。


仏教と文学 投稿者:Genko  投稿日: 6月13日(木)02時32分08秒

>もっと建設的な話をしたいです。有事とか核武装とか。あと個人的なことなど。

このうち、CHINCHINさんのおっしゃる最後の「個人的なこと」こそが、
仏教にとっては、最も大事な主題かと思われます。
ところで、今私が何故に、
「仏教学」を回避してまで「文学」の方を選択しているのかご存知ですか?

けだし、もし現代に法然や親鸞や道元などがいたとしたら、多分一流の文学者になっていたろう。
というより、あの鎌倉時代にあって、彼らはもう既に、立派に当代一流の文学者であった、
と言ってもいい程に思われます。
むろん「他者(衆生)のことばを聞く(=読み取る)」という感性において、です。
このことは、たとえば『教行信証』一つとってみても明らかなように、
「(龍樹や天親など先達の)他者によって書かれたテクストを読み解く」という姿勢などに、
如実に現れています。

「仏法を学ぶ」というは、
必ずしも<経>などの「仏教書」だけを読むということに限らないと思うのです。
他者によるナマの言葉(口語)にしても、書かれた言葉(文語)にしても、
その一字一句を初め、ニュアンスから行間に至るまで、置かれた文脈や前後関係なども含めて、
相手の言いたいことの、どこまで敏感に真意に迫れるか、どこまで感情移入して汲取れるか、
それこそ「ことば」に全存在を賭けた丁寧さと厳しい繊細さを要求される水準が、
<文学>というものです。
つまり、端的に相手が放った「ことば」を十二分に聞く能力のことなのです。
どんな他者の言葉にも、何らの<期待>もなく、無私に、あるいは虚心坦懐に、
ただ徹底的に<歓待>する「目」と「耳」をどこまでも追求し、己れに備えることであって、
これが<如是我聞>の本質だと思うのです。
親鸞のような人は、おそらくこの能力において文学者以上の才能があったことだけは、
既におおかたの認知するところになっています。

そして、もしそうでなければ、仏教者という仕事は常に、
時の文学者以下の聞法力しかないということに堕してしまうではありませんか。
「ことば」を大切にするこころ。
顔を持った個人的な「ことば」に対する慈しみ、愛情、感受性、丁寧さ、鋭敏さ。
ふざけていてはいけません。荒っぽいナナメ読みなどもってのほかでしょう。

そしてこれが、同時に<書く>=<伝える>能力に繋がります。
しかもこれが、僧侶の重要な役割である、
「法を如何に正確にかつ上手に伝えるか(=説法)」の問題に関わってきます。

私の場合、昔から「それが好きだ」ということも確かにあったのですが、
自分にはまだ、こうした能力を未だ十全に認めているわけではありませんから、
それで<文学>にあやかるべく、わざわざ迂回路を取っているだけの話です。

仏教のこころと文学のこころとは、深いところで同じではないでしょうか?
中世や近世の古典文学で、文学者の多くが僧侶であったことは、あながち偶然ではないでしょう。





シャバだシャバだば 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月13日(木)02時23分44秒

 って昔使ったギャグ。独身で念仏でけへんもんは、結婚して念仏すりゃいい。。。

 >CHINCHINさんへ。ああ、やっぱりねー。あの会の報告書読んでても、水俣病とか
足尾銅山とかユーゴの空爆とか、従軍慰安婦とかなんとかつまり政治のハナシばっかで、まった
くもって雄雄しいニオイがした。。。

 ぐっちんは、オンナこどもの発想で行きたい。つまり、プロや大人や専門家集団に対して、
尼でありアマであり、稚児であり児子であり、素人集団の声が反映される活動。「政治」に
対して「生活」を正面からぶっつける。そもそも、真宗の坊さんは、シロートの真似事、仏教
ごっこでしょ?で、名のみの坊さんなんでしょ?

 戦前、超宗派の仏教運動を率いた妹尾義郎(せのお・ぎろう)は、確かに反戦・反資本主義
を掲げて闘った。けど、彼がやってたのはエスペラント語の普及とか、無料の葬式・戒名授与
とかいろいろあって、非常にひとびとの暮らしと密接なものだった。そして、妹尾日記には、
「これからは、仏教消費組合運動だ!」と書いてある。これは、実現こそしなかったけど、つ
まり生協の宅配活動でしょう。妹尾さんって生活派だわ。

 けどまあ、三吉さんおひさしぶり。らくりんさん寺の

 >、「同朋の布施」に頼らず自分と家族の食い扶持は、自分で確保する姿勢に私は共感する。

 とあるけど。むかし菱木さんもいってたけど、「自分は大学教授。でも本山関係の場所で話
すということは、布施経済にのっかっていることになる」と。らくりんさんだって、どっかお
寺で法話ないし講話しにいくとして、そこのお布施は葬儀・法事で得たお金じゃないんかな?
クリーンなマネーって全体が変わらんと、俺だけは「汚れてない」なんていえない。またイノ
セントの話になってもうた。。。


東本願寺の宗政を支配しているのは… 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月13日(木)02時16分19秒

 この掲示板をお読みの方はすでにご存知だとは思いますが、1973(昭和48)年12月12日の宗議会議員総選挙で「改革派」同朋教団確立同志会(現在の真宗興法議員団)が、過半数を獲得して宗政を奪還してから現在に至るまで宗政を掌握しています。真宗興法議員団が与党ならば、野党第一党は真和議員団です。あとグループ恒沙という会派もありますがここでは説明を省略します。「下野する」という言葉があります。広辞苑第五版によれば、
  官職を辞して民間に下ること。また、政権を失って野党になることにもいう。
 と書かれています。「在野」という言葉がよく使われ始めたのは「大訓覇師」が、真人社(曾我量深師が命名)を結成した(1948年)頃からではないかと推定します。古くは近代親鸞教学の学祖、清沢満之先生が京都・白川村において教界時言社を設立し、宗門改革運動を始められた頃までさかのぼることができます。こうして考えると、故安田理深先生はそのご生涯において「在野教学者」を志向されたお方と考えることができます。ただ、「真和議員団やグループ恒沙など(ご所属の宗議会議員)」の方々が「在野」の方と言えるかと言えば必ずしもそうではないでしょう。また大変失礼ですが、特に真和議員団については、「55年体制」の日本社会党のような「大谷派版万年野党」の感をわたし自身払拭できません。
 戦後の自民党には2つの旗がありました。
 1つは、日本をソ連のような国にしない(反ソ反共)。
 2つ目は、キャッチアップ(アメリカ、西ヨーロッパ列強の経済水準に追いつけ追い越せ) 。
  (田原総一朗「頭のない鯨」より)
 ただ、この2つのハタは1985年のプラザ合意、そして1989年のベルリンの壁崩壊、1991年のソ連崩壊によって「達成」されてしまい、ハタを失った自民党はカネに向かって徘徊し、スキャンダルを次々と起こします(リクルート事件etc.)。その結果、1993年細川護熙内閣の成立によって自民党は野党となり、下野することになってしまいます。
 こうして考えると「教界時言社」「真人社」「相応学舎」「落鱗舎」などは、主宰者がその発足時点で「宗務公職についていない」ので「在野の教学運動」と言えるでしょう。ただ、わたしも一度だけ参加させてもらったことがある「新しい教団構想を創出する会」は必ずしも「在野の教学運動」とは言えないかもしれません。とりあえずここまで。


三吉さんへ。先の続きです。 投稿者:我苦生  投稿日: 6月13日(木)01時41分27秒

 僧侶になっても、職業僧には成りたくなかった。
 だから、教師資格とっても共同作業所で働いたり、また坊主バーに戻ったりして、カッコ良く生きたっかった。
 でも、出来なかったから、役僧という職業僧をしています。以前の自分が一番批判していた、職業僧になりました。
 生きていくって、思いどうりにいきませんね。悲しいですね。でも、それが私の現実です。
 職業僧になってひょとして一番よかったのは、みんな同じなんだ、と、思えるように成った事かもしれません。仕事、やりたい仕事、やりたかった仕事、生き方。出来る人は良いけど、出来ない人の方が多いような気がします。だから、酒飲んで、愚痴ったり。私です。

 菱木先生に、今年の初めお会いしました。
 「役僧の口、どこか無いですか?」
 と、聞いたとき、なんか色々はなしをしたのですが、こんな一言を思い出します。
 「そうやって、生活に追われて、だめになって、願いを忘れていくやつ、多いねんな」
 確か、こういうニュアンスの言葉だったと思います。
 だめになっても、願いを忘れたくありません。

 きれいごとは、きれいで、すばらしいことです。
 「お前ら、教えに反して生きてるぞ!」って、示してくれる、強く信仰に生きれる人達、本当にすばらしいです。
 ただ、私には無理で、それでも私は生きていかなければならず、そういう私でも念仏申して良い、仏道を歩んで良い、と、言ってくれた人達がいたから、私は、こういう私のままで、仏道を歩んでいきます。
 目障りならごめんなさい。でも、私も生きています。


三吉さんへ 投稿者:我苦生  投稿日: 6月13日(木)01時03分09秒

 >「150万、稼いでいるのだから、20万じゃ少なすぎる。もっと寄こせ」
 >としか聞こえないのは、なぜだろうか。。。

 それが、本音で、それが始まりだから、当たり前です。

 >「新規開拓して 自分で 門徒を 獲得すれば よいではないか あほらしい」と。

 出来る人じゃないからでしょう。いや、出来なかったから。バーでやろうと試みたりしたけど、出来なかった。またやるかもしれないけど。

 >、「同朋の布施」に頼らず自分と家族の食い扶持は、自分で確保
する姿勢に私は共感する。

 私も共感します。でも、今は出来ない。出来ない人、多くの弱い人はどうすれば良いのでしょうか?

 >正式役僧が本山準職員で末寺の60%(本人40%+本山20%)の支払いが決定したならば、
それに対抗して、リストラ中高年とシルバーさんを組織して、もぐりの梶u役僧」派遣会
社でも作ろうかしらん。。。

 大賛成!ホームレスの人達なんかも巻き込んで、もぐりの坊さんが増えるとおもしろい!


>三吉さま 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月13日(木)00時55分37秒

>金が欲しいのならば、自分で稼げと思わないでもない。

もちろんそうしています。
ただ雇用上の詐欺についての問題です。


>我苦生さま 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月13日(木)00時52分22秒

>もっと多くの人、つまり坊さんだけの目に触れるからまずいのであって、
>いろんな人の目に触れる事はいいのでは?
>また、坊さんの意見、つまり住職などの人達の意見も取り入れないと、結局動かないのでは?

ご指摘の点は以前から私をご存知の我苦生さんならば、よく御判りだとは思いますが、私の弱点です。はっきりいって、あまり人から裏切られたことのなかった私がこの教団で人生初めての裏切りに何度もあってしまった。死にそうになった。そのことで、教団の人間が信用できない。

でも本願に生きたい!!
この問題を通じてあらためて本願に出会いたいです。


我苦生さんへ   投稿者:Genko  投稿日: 6月13日(木)00時50分46秒

「HN」とは、ネット用語で、ハンドル・ネーム(Handle Name)の略語です。
プライバシーを侵害されないために考え出された匿名性の手段です。


傍観者の戯言 投稿者:三吉  投稿日: 6月13日(木)00時40分46秒

結局のところ。。。
「150万、稼いでいるのだから、20万じゃ少なすぎる。もっと寄こせ」
としか聞こえないのは、なぜだろうか。。。

正式役僧が本山準職員で末寺の60%(本人40%+本山20%)の支払いが決定したならば、
それに対抗して、リストラ中高年とシルバーさんを組織して、もぐりの梶u役僧」派遣会
社でも作ろうかしらん。。。

カトリックは、法皇をヒエラルキーの頂点に据え、末端司祭を「神の言葉」を伝えるもの
として、一般信徒との「差」をつけた。それに反してプロテスタントには「万人司祭」の
思想があり、「牧師」は信徒の代表にすぎないので、結婚してもよかったそうだ(又聞き)。
らくりんさんの言う伝統、「同朋の布施」に頼らず自分と家族の食い扶持は、自分で確保
する姿勢に私は共感する。

草取り2時間もすれば、へとへとになる私は、「雨の中4時間」とお聞きして、絶句する
し、夫婦で「一杯の即席めん」に驚愕するが。。。
金が欲しいのならば、自分で稼げと思わないでもない。
「新規開拓して 自分で 門徒を 獲得すれば よいではないか あほらしい」と。


教えて? 投稿者:我苦生  投稿日: 6月13日(木)00時38分51秒

 HNって、何?
 もっと初心者の私に教えて。


続き 投稿者:我苦生  投稿日: 6月13日(木)00時34分28秒

 あ、長くなりそうなので、分けようと思ったら失敗した。
 
 つめて言うと、戦略とかは、『ただ念仏』じゃないだろう?
 だから、言えない人の前では、言えない。弱いから。
 ここは、知らない。考えた色んな事書くし、それで潰されるならつぶれれば良い。
 弱いから、姑息なプラン考えるし、人にも言う。でも、面倒なことは嫌い。めんどくさい。


賛成です。 投稿者:Genko  投稿日: 6月13日(木)00時31分52秒

お互い、もっと実りある生産的な議論を致しましょう。
「前向きな問い」を立ててくだされば、私も疲労困憊しなくてすみます。


生を信じる 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月13日(木)00時28分52秒

私も信じたいです。
ってか、なんでこんな話するのにHNでないとダメなんでしょう?
ネット初心者の私が「甘い」のでしょうか?
先輩方にお聞きしたいです。


訂正 投稿者:Genko  投稿日: 6月13日(木)00時24分00秒

↓の文中の、

>私は慎重に論旨の前後関係に複線をはっているつもりです。

は、「私は慎重に論旨の前後関係に伏線をはっているつもりです。」
の誤りでした。


>Genkoさま 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月13日(木)00時23分25秒

この議論はお互い何のメリットもなさそうですのでやめませんか?おそらく、「揚げ足とり」の応酬にしかならないでしょう。もっと建設的な話をしたいです。有事とか核武装とか。あと個人的なことなど。
Genkoさんとの議論がこういう形で離れていてもできるのは、ありがたいことですので、有効に活用させていただきたいです。


お願い 投稿者:我苦生  投稿日: 6月13日(木)00時20分33秒

 >でもあの時財布には200円しかなかったから、たぶん無理でした。(泣)
 >ちなみにその夜のごはんは一杯のインスタントラーメンを夫婦で分けてたべました。電話は止 >められていたので、家主が直接訪ねてきて家賃の催促に。あの100万からユキチくん一枚でも >もらえたら・・・って悔しさで枕を濡らしました。

 なんか、ぐっちんさんもやけど、みんなすごい役僧体験してるな。
 これって、まとめたら本になるけどな。十分。
 他宗派は、修行とか言い逃れできるけど、真宗は、そおいう言い逃れできひんもんな。
 本の前にホームページでも作りますか?
 じゃ、私パソコンもって無いので、作っとってください。

 >こういう多くの方の目にふれるところでその内容やそれに対する方策を言うのは、こちらのテ >の内を公開するようなものです。そのため、詳細はここでは控えたいと思います

 もっと多くの人、つまり坊さんだけの目に触れるからまずいのであって、いろんな人の目に触れる事はいいのでは?
 また、坊さんの意見、つまり住職などの人達の意見も取り入れないと、結局動かないのでは?

 あまちゃんパンクスの私は、今の大谷派当局、同朋会運動を進めている人達を信じています。
 同朋会運動の中で、私は僧侶に成ったわけですし、その中で育てられ、先の『平野のジャイアン』で書いた意見も、その中で、私の中で生きている同朋会運動が書いたものです。
 また、多くの末寺の住職も、色々な
 『さるべき業縁のもようさば、いかなるふるまいもすべし』
 の中で生きて、役僧に愛人の送り迎えをさせたりしているわけですし、
 そんな中でも、その人達にも本願は活きているのでは?
 私はどんな人も『みんなと一緒に生きたい』『ともに、ありたい』と、願っていると信じますし、法事などで門徒さんの前でしゃべります。

 このへんすごくバカっつポイ、あまちゃんのガキパンクスです。
 戦略とかは、政治家に任せておけば良いのであって、念仏者には関係ないと思います。
 また、戦略でかわったとしても、それはエゴだと思います。どんなに正しいことでも、エゴだと思います。だから私は『正』の字が大嫌いです。だから、私の法名は、『学正』じゃ無く、『学生』です。公正さん、順正さん、文正さんなどは、尊敬できる僧侶ですが、『正』の字は大嫌いなので、『生』にしました。
 『正』は、人を裁く。裁かれたことの多い私には許せないことです。
 公正さん達の後を、そのまま受け継ぐ気など、さらさらありません。
 『生』という、むちゃくちゃな現実、苦悩、悲しみ、、、。


CHINCHINさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月13日(木)00時11分33秒

どうもこの問い詰め方は「揚げ足とり」みたいで、私としては応じたくないのですが、

>@親鸞思想を学びたい、A阿弥陀に帰>依したい、
>B仏教的環境下にあって<仏教>を吸収したい、C僧侶と話がしたい、
>等々が主たる動機です。

とわざわざ私が事前に具体化しているのに、
これが「銀行へ大根」を買いに行くという比喩になるのですか?
少なくとも私は、「大根は八百屋に売っていること」くらいは知っていたつもりですがね。
そこが「銀行」なんだとすると、CHINCHINさんの方こそ、
なんで「新鮮な大根を要求」するのですか?

<動機>と<期待>という問題について。
私見によれば、<期待>というのは、まず何よりも、対象に対する<幻想>を意味します。
「スーパーに行けば大根がある」というのは、それだけでは無意識の<期待>ではなく、
流通市場原理によって条件づけられた単なる「事実性」に基づく生活要求の一つ=
<消費行為>です。
経済学で言う<需要>に対して<供給>が働いているわけで、私達はそこで、
等価交換価値=貨幣を介して大根という商品を<購買>しているわけです。
従って、<動機>は、この場合は<消費>欲求であり、<購買>意欲です。
うそだと思うなら、行って売り切れで陳列棚に無かった場合のことを想定してみればいい。
私達は何も大げさに「裏切られた」とまでは思いませんよね。
たかが大根1本仕入れるのに、初めから<幻想>なんか抱いていないからです。
しかし、もしここで、その大根に普通以上の条件を要求=欲望したならば、
それは確かに何らかの<期待>が働いたと言っていいでしょう。
水で例えるなら、喉が単に渇いたときに蛇口をひねれば、普通の水道水なら簡単に飲めます。
しかしそれ以上に「うまい水」を家庭の蛇口に対して要求するとき、<期待>というのです。

ちなみに、フランス語で<期待>はattente(女性名詞)と言いますが、
<欲望>は基本的なdesir(男性名詞)と、対他的関係をはらむenvie(女性名詞)とに使い分けられます。これに対して単なる生理的欲求ならせいぜいbesoin(男性名詞)に留まります。
このうち、何らかの<期待>が意識/無意識に最も強く作用するものは、envieでしょうね。

私は慎重に論旨の前後関係に複線をはっているつもりです。
<志向性>の問題をさりげなく散種したのも、こういう反論を許さないためでありました。
我々がある対象を「視る/観る」というのは、基本的な<行為>の一つでありますが、
それは必ずしも対象に対して常に何事かが<期待>されているわけではありません。
期待しなくても目と光がある限り、必ず何かを見てしまうからです。

また<期待>は、<歓待>とも違います。
<期待>は本質的に対他的作用であるのに対し、<歓待>は常に対自的作用です。
何かの行為をしようと<志向>するとき、私は可能な限り<期待>を排除するように努めます。
その代わり、<歓待>の方は、努めて意識化するようにしています。
<歓待>とは、対象をありのままに受け入れようとする姿勢だからです。
閉店前のスーパーでたまたま痩せた大根1本しか残っていなかったら、
少々お高いのは我慢して、その大根を<購買>=<歓待>しようというわけです。
何故なら、少なくともその方が、
隣町の別の深夜スーパーまでわざわざ「太った大根」を求めに行く手間や運賃は省けるし、
諦めて今夜のおかずが一種類減ることよりマシであることには違いないからです。

成る程確かに、目下のところ教団は、ひどく「痩せこけた大根」であるのかも知れない。
しかし、私は、それ以上の条件づけを一切要求(=<期待>)せずに、
ただ「あるがまま」を受け入れ(=<歓待>)ただけなのです。


ぐっちんさんへ 投稿者:我苦生  投稿日: 6月12日(水)23時26分18秒

 >ここは、ちょっと異論がありますね。いわゆるプロの技術を身に付けさせるみたいな感じ。
  
 そうです。現場で、役僧を使う住職(まあ、色々居るが)の期待、ならびに、これは葬儀屋さんとタイアップしている、うちの特色なのでしょうが、声明のうまさを求められます。

 >まずはご門徒の声に耳を傾けることのできる姿勢があるかという点が大事なのでは?

 当然です。

 >準寺族をつくるだけに終わりますよ。

 そりゃそうだ。


訂正と・・・ 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月12日(水)23時22分42秒

↓のカキコで「大阪では小規模」というのは正しくは「大阪では小規模寺院」です。

それにしても、同一人物にレスしてたとは・・・気づきませんでした。
ちなみに平野のK氏は<変成寺族>を勧める方です。


レスれす 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月12日(水)23時16分08秒

>我苦生さま

それはいいアイデアですね〜
でもあの時財布には200円しかなかったから、たぶん無理でした。(泣)
ちなみにその夜のごはんは一杯のインスタントラーメンを夫婦で分けてたべました。電話は止められていたので、家主が直接訪ねてきて家賃の催促に。あの100万からユキチくん一枚でももらえたら・・・って悔しさで枕を濡らしました。
むかし一杯のカケソバってのがありましたが、あれより安価な「一杯の即席めん」、これ、商売にしたろかな?(笑)
<ヤクソウ>で食べれてるうちが花です。
食べれなくなりそうな気配があれば、明日に期待などせずに早々に辞めることをおすすめします。

>平野のジャイアンさま

人材派遣方式ですね。おもしろいですが、それを実現するにはいくつかの難関があります。しかし、我苦生さんのおっしゃるように「こそこそ」とそこは進めたいので、こういう多くの方の目にふれるところでその内容やそれに対する方策を言うのは、こちらのテの内を公開するようなものです。そのため、詳細はここでは控えたいと思います。
東西で連動するのは当然ながら、相手が東の当局の時は西の人間が、西の当局の時は東の人間が対応したほうが、当局の応対がいいという経験がありますので、足並みをそろえて、共同で行動することも重要であると思います。
<ヤクソウ>を雇用している住職にとって、「恐れていた」事態がこの掲示板で発生しています。
というのは、阪神淡路大震災の時、ボランティア関連の事務を担当したことがありまして、宗派の人材バンクみたいなものがあれば、中央でより効率的に人材を割り当てることができるので、とくに衆徒を中心に有志を募って人材バンクを作ってみれば?という提案をしたことがあります。ところが、住職先生方はあまり乗り気になりません。あとで、ある大阪では小規模(だから<ヤクソウ>はいないわけですが)の住職さんが、耳元でいいました。
>あの人らのお寺にはヤクソウさんがいてて、そのヤクソウさんたちが集まって
>何かするということが怖いねん。待遇のことを話されたりしたら不満が爆発す
>るかも知らんから。だから、自分とこのヤクソウさんがよそのヤクソウさんと
>触れ合うのがいやなんや。
被災者支援のために開かれた有志の会議でこんな話を聞くなんて大学生の私には思いもよりませんでした。相当<ヤクソウ>の団結が怖いようです。


すんません 投稿者:我苦生  投稿日: 6月12日(水)23時15分26秒

 平野のジャイアンは、私です。
 我苦生は、法名の漢字を変えただけなので、こちらにしようかな?と、思ったのですが、めんどくさいのでやめます。

 また、>CHINCHINさbbへ 
 と、書き間違えてしまいました。ごめんなさい。

 先に書いたのは、今日の昼間、また草むしりをしながら考えていたものです。ですから、煮詰まっていません。もう少し煮詰めて、私が影で『平野のジャイアン』と呼んでいる、衆議会議員K氏に提案してみます。


ZAIYA考 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月12日(水)22時15分10秒

ぐっちんさんが
>「新しい教団構想を創出する会」などという、在野の運動団体が大派にはあるみたい。
と言われたのでそれに関連して。

この会の事務局のお三方は存じ上げておりますが、以前、私が<ヤクソウ>として苦しんでいた時に、<ヤクソウ>の問題を提起したことがあります。でも反応はにぶかった。Kさんは聞く耳はもっておられましたが。

この会のいう「在野」の意味もよく分らない。シュウカイ議員でないのが「在野」ということを言う人もいるが、宗派の被包括法人の代表役員で、教団の法規にさだめられた役職である、<住職>がなぜ「在野」なのか?事務局をされている方に尋ねてもよく分らない。
事務局の一人にSさんという方がおられて、『ZAIYA』という個人紙をいつも送ってくださっていた。そのSさんに「なぜ住職である皆さんが在野であるか理解できない。私らみたいな役職のない者を普通在野っていいませんか?」というと「そうかもなあ」といつもの大声がうそのような小声で答えられた。

<ヤクソウ>問題の提起の一環として、「在野」のカンバンは下ろしてもらいませんか?
明日京都でSさんやKさんとお会いするので、あらためて問いかけてみようと思います。

「在野」とは何ぞや?


誰か、教えてください 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月12日(水)22時07分28秒

 わたしは、「真宗僧侶の「王」が存在すると仮定するならば… 投稿者:薄野高麗王  投稿日: 6月 7日(金)07時01分36秒」に、香月院深励師を「第6代講師」と書きましたが、これは誤りのようです。申し訳ありません。ところで、わたしがはじめに誤りについて気づいたのは「大谷大学 近代百年のあゆみ」の17頁を見たからです。そこには「第5代講師」と書かれていました。ところが、後に真宗文庫版「歎異抄聴記」の489頁の西田真因前教学研究所長の解説によると「第7代講師」と書かれています。わたしはどの記述が正確なのか、或いはすべて正しいのか(片岡仁左衛門さんのように、大谷派講師歴代の数え方について複数あるのか)手元に正確な資料がないので、わかりません。よろしければどなたか教えてください。


反論 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月12日(水)20時17分52秒

 平野のジャイアンさんのご意見で一点。

 >役僧に成る前、また、成った後も定期的に教学、儀式作法、声明などの研修会を『本山の
 >準職員』の名に恥じぬよう、きちんと研修させればいい。

 ここは、ちょっと異論がありますね。いわゆるプロの技術を身に付けさせるみたいな感じ。
僧俗をはっきり分けてしまうのがこれらの「お勉強をしてること」「お経がうまいこと」など
であります。だから、これはコロモの色で身分をつけるとか、お経のフシに習熟して儀式の
軽重をつけるとか、役僧のあいだにも身分の差をつけることの根拠であってこの内容は慎重に
なされなきゃいけない。

 まずはご門徒の声に耳を傾けることのできる姿勢があるかという点が大事なのでは?また、
ご門徒と本当に法を聴き、ともに唱和できる儀式の普及に力を尽くせるかとかいうことに習熟
するのでなきゃ。またまた、準寺族をつくるだけに終わりますよ、それでは。


まずは。。。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月12日(水)19時50分24秒

 「新しい教団構想を創出する会」などという、在野の運動団体が大派にはあるみたい。
そこに協力を求めようか、我苦生さん。なんだか、そこの出版物を読んだりしたことがあるけど
役僧問題なんか眼中にない様子だからね。問題外のソトですわ。その辺にまずは意識改革して
もらおう。で、「役僧室」を本山につくらせよう。気の長い話だけど。本山のお偉いさんには、
直訴してもちょっと今の時点ではまったく受け付けてもらえんでしょう。


ジゾク可能な発展。。。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月12日(水)19時34分58秒

 ふむふむ、ジャイアンさんのご意見は至極もっともな現実的意見ですね。。。
あー、こんな掲示板が10年前にあれば、ぐっちんも闘ったかも知れないです。当時、島田裕巳
が『戒名』とか『仏教とは何をしてくれるのか』などで、伝統仏教批判を展開し、その中に役僧
の事情も書いた箇所もあって島田にグチろうかとも思ってました。

 また、当時は弁護士・遠藤誠先生もお元気でしたし、マスコミにちくることによって本山を慌
てさせたらエエかなあなんて思ってた。でも、あまりに同志がいなかったしね。で、オウム事件
で見事に島田さんは日本女子大をクビになった。伝統仏教教団から嫌われてたこともあるんじゃ
ないかと思う。だって、オウムの戦犯としては中央大学の中沢新一の方が罪が重いと思うから。
でも、中沢は抜け目のない秀才だから、島田みたいに「政治力学」にドン臭いタイプが、失脚の
憂き目に会う。

 役僧なんかは、口利きで寺を紹介され、口約束で働くから問題が起こるのだ。そう、大派の
機関紙『真宗』には、毎号、養子さんやら嫁さんやら役僧(法務手伝い)さん求む!との公告
がのってる。だが、あのような形で募集してあとは、本山ノータッチになってるのが、まずい
んだ。


CHINCHINさbbへ 投稿者:平野のジャイアン  投稿日: 6月12日(水)18時25分07秒

 本派でも考えて、動いてみて下さい。
 どちらかがやれば、ライバル意識でまねしてやると思うので。

 愛人の送り迎えはしたくありませんし、もう誰にもそんな思いさせたくありません。


こんなんどう? 投稿者:平野のジャイアン  投稿日: 6月12日(水)18時18分26秒

 役僧をまず本山の準職員にする。
 つまり、役僧は本山とまず契約する。
 役僧に来てもらいたいお寺は、門徒総代、本山職員の立会いのもと、本山の準職員である役僧と契約する。つまり、お寺は本山とも契約する事になる。
 
 例えば、お布施を月100万貰う役僧がいる。
 内、40万はそのお寺に寺院運営協力金として寄付する。まあ、ショバ代。
 40万は、役僧の給料に。
 残りの20万は、本山に。本山はその20万円を貰う代わりに、役僧の社会保証をする。

 月に100万のお布施を預かる役僧は少ないかもしれないが、また、全国に大谷派の役僧がどれだけ居てるか知らないが、仮に100人として、月2000万。年間2億4000万。
 年間2億4000万あれば、役僧に対する社会保障制度は出来るであろうし、また専門の『法務部』みたいのも出来るであろう。
 年間90億ぐらいの大谷派の予算の中、大きくはないが、少なくもない。

 役僧を雇うお寺側も、『寺の下働き』の役僧でなく、本山から手伝いに来ている僧侶である。門徒さん受けもいいだろう。
 門徒さんも、住職の代わりの、寺の下働きの役僧より、『本山から来て下さった僧侶』となれば、うれしいのでは?
 役僧は、社会保障制度が出来、また、バックがないから奴隷にされるのであり、愛人の送り迎えをさせられるのであり、雨の中4時間も草むしりをさせられるのである。

 また、2億4000万あれば、研修会ぐらい開けるであろう。
 役僧に成る前、また、成った後も定期的に教学、儀式作法、声明などの研修会を『本山の準職員』の名に恥じぬよう、きちんと研修させればいい。

 仮にの2億4000万だが、月に150万のお布施を預かる私なら、30万以上のお布施を本山に預ける事が出来る訳だし、役僧も100人という事は無いだろう。少なくとも3億ぐらいには成るのでは?

 金で釣るのは好きじゃないし、金で動くのもどうかと思うが、だがきれいごとだけでは、何も始まらない。

 女性室みたいな感じで、役僧問題を考える専門の機関を作ってもらいたい。

 で、もし、これを読んでるお偉いさん、もしくはお偉いさんに意見できる人、考えて見てください。
 また、そうでない人もどう思うのか、意見下さい。

 あと、運動の仕方教えてください。
 お願いします。


<動機>と<期待>(Genkoさんへの反論) 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月12日(水)17時53分24秒

あまり意味がある議論でないような気もしますが、一応反論いたします。

>この文中のどこに、おっしゃるような「期待」があるのですか?
>私見によれば、あらゆる「期待」は、その対象に対する暴力です。
>「動機」や「姿勢」が「期待」とイコールならば、ひとは生活の
>すべてがいちいち「期待」だらけになりますね。それでは結局すべて
>に絶望しなければならず、何もできません

そもそも動機にもとづいた行為というのは何らかの期待が前提になっています。
日常的な行為でも、そのようなことはたくさんあります。ただ、当たり前すぎて無意識のものとなっていますが。
たとえば、大根がほしいのでスーパーに行くという行為。「大根がほしい」という動機をもってスーパーに行くのですが、ここには「スーパーに行けば大根がある」という、無意識の期待があります。だからこそ、この行為が成立しているわけです。大根がほしいといって銀行には行きませんが、これは銀行に行っても大根を入手できるということが期待できないからでしょう。
つまり、ある動機にもとづいて、何らかの行為をなすにあたっては、その行為によって<動機>の内容を達成できるのではないかという期待が前提になっているのです。
以上のように、動機と期待がイコールだとは言いませんが、ある行為の動機というのは、その行為によって得られるであろう結果への期待にもとづくものではないですか?
したがって、Genkoさんの動機をうかがって、Genkoさんご自身が大谷派という教団に入ることでそのような結果が得られるという期待が、その多少はあるにせよ、あったと考えたわけです。
もし、全く期待なしで、それらの動機をもって教団に入られたのなら、銀行に大根を買いに行くようなものではないでしょうか?それでは今のGenkoさんの態度は、銀行で大根を買おうとしたが買えず、「そんなことは銀行に最初から期待していない」と言ってのけるのと同じようなもので、理解に苦しみます。

期待を「対象に対する暴力」とおさえられることについては、上記の大根の例でいえば、スーパーに行ってみたが売り切れで、「なんで大根ないんや!」ということになる、という意味でしょうか?確かにそれは時として暴力に転化することもあります。しかしながら、その暴力性は期待への過度の執着からくるもので、期待そのものに暴力性があるとみるのは無理があるのではないですか?


CHINCHINさんへ 投稿者:我苦生  投稿日: 6月12日(水)17時31分57秒

 >愛人の送迎という大切な業務もあります。
 >賃金を払ってもらえない私の目の前で100万円を手渡すというショーが見れました。

 すごいな、それは。ぜひ、見たかった。
 ビデオに残して置きたっかた。
 一生ゆすれるで、それは。
 もしくは、ヤクザにそのビデオ売ればよかったのに。


ホンネ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月12日(水)03時45分19秒

 ぐっちんが我苦生さんに「役僧労組」の結成をほのめかしながら、しなかったのは、そんな
労力があるんだったら、他分野から学んで別の<道場>の可能性を追求した方がいいやと思った
からです。下記にもカキコんだように、ぐっちんは宗門機構のうち、寺族の人の側に恩義をあま
り感じずご門徒さんに借りを返そうと思いマシタ。

 で、それは「足が悪い」「腰がいたい」「老後の生活が心配」というご門徒の声。つまり、医
療や年金制度と真宗の接点を探ることでした。まあ、ターミナル・ケアとかね。。。寺族の特権
にあぐらをかきながら、そのことにまるっきり自覚のない、口先だけの<真宗>なんかおさらば
じゃ、っていう意識がありますよ、いまだに。あんなもんは、ほっといたらええねん、って。
あっ、相当自信過剰なイヤミな奴やなあ、ぼくって。。。


可能性へ向けて 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月12日(水)03時29分13秒

 別の掲示板で知り合った方の活動↓。まただいぶ下のほうになってしまった大阪の秋田さんの
お寺(浄土宗)。あるいは、長野・神宮寺の高橋さんのお寺(臨済宗)など先駆的な試みをやっ
ておられる。けど、<檀家制度>に乗っかった葬儀・法事・常逮夜以外のNPO的活動を中心に
した<会員制>ではなかなか財政的に厳しいものがあり、最終的には<霊園>に頼るしかないみ
たいな感じもする。

 あと、自分で書いててわからんのだけど、宗門大学改革。最近はやっぱり少子化傾向でどこの
学校も生徒を集めるのにひと苦労し、社会人を積極的に受け入れてる。で、宗門→宗門大学とい
うお金の流れはあるものの、宗門←宗門大学というのは、ありえないような。。。すると、宗門
大学出身者の寄付金によって宗門の財政をちょっぴり潤し、地方で過疎化に悩んでいる寺院に援
助がまわるという、ぐっちん構想は無理か。しかし、もっと宗門大学の教学とやらが現実の問題
と接触して、真宗にご縁をもたれるひとが生み出されるのには意義があると思うが。

 そもそも、過疎化によって存続が難しいお寺は、やはり統廃合も必要か?ある意味そういう危
機的状況にあってもなお(単に寺族の生活を存続させるのではなく)法儀を伝えたいと思われる
お寺は、独自の収入源から兼業化が進んで真宗本来の僧俗にあまり違いのない道場に変化するかな?イスラームなんて、専門の職業聖職者がいないにもかかわらずどんどん信徒が増えてるのだ
から。

 だから滅びるに値するものは、滅んでいいのかも知れない。ぐっちんにとって宗門は滅んでも
いいと思うが、真宗の教えは滅びないと思う。別のかたちで存続していくでしょう。ほんとうに
大切なものと自分が思っているんだったら、どういうかたちでも伝えていく人がいるでしょうから。

http://www5.ocn.ne.jp/~ejo/


ある、ある 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月12日(水)02時51分25秒

 ってクイズ100人に聞きました(関口宏司会)やないけど、ヤク妻。何か知らんけど、
お彼岸とか報恩講とかで女手いるからって手伝いさせられる。で、賃金なんかもちろん出なく
てお供えものの缶ビールとかお菓子とかあまったお重とかもらってご苦労さんって。。。

 うちのカミサンなんか真宗にまったく興味なかったし、サクラとして座らされ、何でこんな
オモロナイ話しにつき合わされんないかんねん、と怒ってました。。。


うわーすごいカキコ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月12日(水)02時42分13秒

 >CHINCHINさんへ

 あ、だいたい了解しました。けどカキコの内容が難しくてぐっちんのようなものには、何が
何やら分からんときがあります。ギャグや皮肉やウィットは理解するの得意ですが、「レトリ
ック」については(反近代と非近代の違いとか)ちんぷんかんぷんです。


??? 投稿者:Genko  投稿日: 6月11日(火)23時26分59秒

>大谷派の場合、「得度」はしていても、僧職に従事していない僧侶は多いとかねがね
>うかがっておりました。私の場合はですから、@親鸞思想を学びたい、A阿弥陀に帰
>依したい、B仏教的環境下にあって<仏教>を吸収したい、C僧侶と話がしたい、
>等々が主たる動機です。
>もしこうした姿勢が許されないのであれば、私はいつでも大谷派をやめる覚悟があります。

これは私の先の引用ですが、この文中のどこに、おっしゃるような「期待」があるのですか?
私見によれば、あらゆる「期待」は、その対象に対する暴力です。
「動機」や「姿勢」が「期待」とイコールならば、ひとは生活のすべてがいちいち「期待」
だらけになりますね。それでは結局すべてに絶望しなければならず、何もできません。


>CHINCHINさま 投稿者:Genko  投稿日: 6月11日(火)23時13分58秒

他の宗教団体に比して、相対的に「仏教的環境」はあるでしょう。
それと、若干の歴史的「法燈」維持の意義でしょう。

もう同じ事を言わせないで下さい。
こうしたことはこれまでのカキコの中で、度々申し上げてきたことです。


>Genkoさま 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月11日(火)23時05分50秒

しかしながら、実際、期待らしきものもおっしゃられていたではないですか?
仏教的環境などといったことを。それによって何か感じられたのか、あるいは未だそのような環境にはめぐり合えてないのか、もしくは入ってみてあきらめたのか、お伺いしたかっただけです。


(無題) 投稿者:Genko  投稿日: 6月11日(火)22時41分38秒

>CHINCHINさん

>真宗教団に飛び込まれたのも、そのようなことがあってのようですが、
>何か手がかりらしきものは見つかりましたか?

ですから、私はいまどきの「真宗教団」(及びそれ以外のあらゆる宗教団体)には、
ほとんど何も期待していないとこれまで何度も繰り返しているではありませんか。
しかもこれは愚問というものです。
そんなに早く「手がかり」らしきものが見つかるとしたら、
私は最初から仏教など無縁でしたろう。


(無題) 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月11日(火)22時27分49秒

>Genkoさん

 それはGenkoさんにとって深刻な話かもしれないですねー。
 真宗教団に飛び込まれたのも、そのようなことがあってのようですが、何か手がかりらしきものは見つかりましたか?


CHINCHINさん、それから・・・  投稿者:Genko  投稿日: 6月11日(火)22時17分18秒

>・・・家賃の支払いや今日のご飯のことを苦悩しながら、・・・

「パンの問題」は誰にとっても切実です。
しかしながら、私のもっと深刻な問題は、借金や明日のご飯や家賃のことだけではありません。
自分が、本来的にこの時代と相容れない、精神的に生きていけない、といったことどもの方が、
もっと遥かに苦しいものです。
今までのカキコをご覧になって、私がフツーの精神状態だと思われますか?
私は、己れ自身で御し得ぬ程に、自分自身が相当変わり者だと感ぜざるをえません。


さらなる出会いへ!歩みだそう 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月11日(火)22時14分56秒

何処からきて
何処へいくの 人は
イタイ・・・
別れと出逢いくり返し
自分に目覚める
Wake up!

"Goodmorning"

Wake me up!
まぶしい太陽
沈んだハート輝かせて
街中がみんな他人に見えても
仲間たちに会えるよ
Someday, Growin'up!
ありのままの
自分をもっと好きになりたい
新しい朝
動き出す街
どんな時でも
明日を信じてる
「もう泣かない…」
Gonna keep on growin' up!


Genkoさん、それから・・・ 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月11日(火)21時52分39秒

愛人の送迎という大切な業務もあります。
賃金を払ってもらえない私の目の前で100万円を手渡すというショーが見れました。


CHINCHINさんへのお答え 投稿者:Genko  投稿日: 6月11日(火)21時51分29秒

>それなら、私が以前いた寺院で「労働」すればいいと思います。
><賃金>はもらえませんので、自己矛盾を感じずに、家賃の支払いや今日のご飯のことを苦悩し>ながら、立派に「賃金労働者でない」僧侶として生きてゆけるでしょう。

そうですね。もし私が、昔の貴族のような裕福な家庭に産まれ、何らの賃労働もせずに生活が
出来たのならそうしていたでしょう。
しかし貴方もご存知なように、目下私は、数千万円の借金があります。
私はこの先、この債務を返済し続ける契約義務と、これを実行する意志があります。
そうである限り、私は宗教上の自己矛盾を出来るだけ感じないで済む「賃労働」の方を、
たとえそれが僅かな給料だったにせよ、選択したいと考えています。
私はそう考えて、この度上京しています。
資本市場の原理から類推して、首都圏の方が、労働者にとって、
この不況時においても、幾分有利であることには違いないからです。


(無題) 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月11日(火)21時36分45秒

Genkoさん

それなら、私が以前いた寺院で「労働」すればいいと思います。
<賃金>はもらえませんので、自己矛盾を感じずに、家賃の支払いや今日のご飯のことを苦悩しながら、立派に「賃金労働者でない」僧侶として生きてゆけるでしょう。
ちなみに衣体は自前、一日自分の自動車で2〜300キロをはしらねばなりませんが、このガソリン代もこちらがキレるまで払いません。
身銭を切ってのボランティアです。


CHINCHINさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月11日(火)21時22分07秒

>それでは、<方向性>の中身がないではないですか?

<方向性>や<志向性>という概念に、もともと中身なんかあったのでしょうか?
私達が<長さ><広さ>という時、それ自体が目に見えるとでも言うのでしょうか?
竜樹などが、「色即是空・空即是色」という時の<色>や<空>は、
そもそも方便としての概念でしかありません。しかも、<空>に至っては、
その本質自体からして、何にもありません。

私は、学者ではありませんし、政治家でもありません。
私が知っていることは、現存するほんの一握りの思想家たちが、
人類が今後目指すべき<方向性>について概念的に語っていることと、
柄谷行人らを含む二三の知識人が、
不充分ながらやや具体的に処方箋を提出していることぐらいです。
もし私が彼ら以上に能力があれば、とうの昔にそれを何らかの職業にしていたことでしょう。
もとはと言えば私は、今日までの己れ自身の愚かさと、
こうした現在の<知>の状況的行き詰まりに、どうしようもない限界と苦痛を感じて、
仏教に救いを求めてきたのではありませんか。

これまで私は、例えば労働組合のリーダー達が、
職場の民主的改善と賃金アップ等の要求をして日夜経営側と闘い続け、
そうして或るレベルまで生活条件が満たされてくると、必ずと言っていいほど、
次期役員や社長などに昇格したり寝返ったり裏切ったりして、
知らず知らずのうちに経営側に取りこまれたケースを山ほど見てきました。
彼らの最も欲するところのものが、同時に彼らの最も弱いアキレス腱だったのです。
従って、己れの心をよくよく覗き込み、その最も欲するものだけは決して欲しない、
というのが、私の「自己への倫理」です。
近代以後の世界の文学作品群をよく読んで戴きたい。
そこには、人間が如何に脆いか、如何に信頼するに値しないか、如何に揺らいでいるか、
しかし如何に悩みが深いか、そうしたことに如何に苦しんでいるか、
きっと数々のサンプルを見出せることでしょう。

私がどうにも落ち着きが悪いのは、会社や工場ならまだしも、
事が仏教という「宗教」に関係しているからに他なりません。
本当のことを言えば、経済的条件付けやら組織の近代化とか言った世俗的価値から、
(仏教に限らず)「宗教」だけは自律した「聖なる領域」であって欲しいくらいなのです。
私がイマイチ現代の職業僧に魅力を感じないのは、
彼らが仕事の対価に<賃金>を受け取ってしまうという背理にこそあるのです。
しかし私は、そもそも「存在とは自己矛盾のことである」と心得る者ですから、
その充分な当事者でないことを担保に、ぎりぎり承認することで踏み止まっているだけです。
逆に、私がもし僧侶を生業としたなら、布施と称する「賃金」を、それが多ければ多いだけ、
もしかしたら逆ギレして、ますます「受け取り拒否」の姿勢が出てくるかもしれない。
つまり、800円の時給に対して、400円でいいと逆要求するかもしれないのです。
また、宗法改正ではなくそれ自体を廃止せよ、なんてことまで終いには言い出しかねません。
それよりも何よりも、そうした新たな自己矛盾を、往年の自己矛盾に重ねていくこと自体に、
己れの感受性が耐えられそうにないのです。

そんな私がCHINCHINさんを支持するのは、自分にはとても出来そうにないことを、
やれてしまっていることへの尊敬の念からに過ぎません。


あんさん、ナメタラあかんぜよ!! 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月11日(火)21時15分47秒

>女性住職の問題は、寺族の家庭問題であり、役僧には関係ない

私もその問題については同じように考えていました。
寺族の家庭問題はとりあげられるが、<ヤクソウ>の家庭の問題はとりあげられることはない。
「住職の妻」は問題になっても「<ヤクソウ>の妻」は問題にならない。
資本主義的な「労働者」の連れ合いの収入によって暮らす、「主婦」としての「<ヤクソウ>の妻」たち、略して<ヤク妻>。
<ヤクソウ>は一応有給であるが、時として、「奥さん(これもいわば差別語だが、ここでは本題からずれるのでふれない)にも手伝いに・・」などと行事などに召集がかかることがある。
家族ごと蹂躙、おまけに<ヤク妻>は無給。なんでそこまで要求されなあかんのかな?
<ヤク妻>である連れ合いから、いつも問われる。こんなこと、いつまでもしてられない。これからは、夫婦での無償労働には、NOをいうことにしたい。


デマチェーンメールにご注意 投稿者:らくりん  投稿日: 6月11日(火)20時56分24秒

二日ぶりに見ました。どこまでチェック済みなのか、どんどんさかのぼって
さがすのに一苦労でした。

デマのチェーンメールが届いていましたので、ここにお知らせします。

[ jdbgmgr.exe ]
というファイルはウイルスであるから削除するようにという内容です。
詳細は下記で
http://support.microsoft.com/default.aspx?scid=%2Fisapi%2Fgomscom%2Easp%3Ftarget%3D%2Fjapan%2Fsupport%2Fkb%2Farticles%2Fjp322%2F9%2F93%2Easp&LN=JAで

くれぐれもこのようなデマに惑わされないようにしてください。

http://support.microsoft.com/default.aspx?scid=%2Fisapi%2Fgomscom%2Easp%3Ftarget%3D%2Fjapan%2Fsupport%2Fkb%2Farticles%2Fjp322%2F9%2F93%2Easp&LN=JA


モモさんへ 投稿者:我苦生  投稿日: 6月11日(火)20時10分51秒

 >二十代の頃は闇雲に
 >後先考えず行動していたけどなぁ。
 
 じつは、私34です。
 あまり関係ないけど。


らくりんさん、ありがとう 投稿者:我苦生  投稿日: 6月11日(火)19時58分56秒

 >CHINCHINさんへ
本当ですね。で、そういう事をぶつけれる相手と、場があるという事は素晴らしいことですね。

 >モモさんへ
 >あれでもない、こーでもないと思索する機会として、
 最近こういう掲示板を使わせてもらってます。

 私も、そうします。仏間みたい(笑い)。


近代でなく、『今、ここ』という世界へ! 投稿者:我苦生  投稿日: 6月11日(火)19時50分14秒

 真宗大谷派の宗憲は良く出来たもので、というか、かなり素晴らしく、条例に出てくる『寺族』や、『坊守』は、あれ、無くなるな。
 四海兄弟、御同朋の精神と、家族経営のお寺。
 『家の宗教から、個の自覚へ』でしったけ?
 それと、あいまみえるわけ無い。ただ、『今』あるから条例で規制されているわけで、ほかにも、条例のなかに宗憲に違反しているのがいくつかある。

 役僧が、条例に無いのは、あってはいけないから、と、考えた。と、考えるのは、人が良すぎるか?大谷派を信じすぎるか?
 『同朋社会の実現』などという言葉を鵜呑みにするのは間違いか?
 まあ、間違えてもいい。大谷派で生きよう。
 同朋会運動、革命政権の宗憲が出来て20年ぐらいか?ネットカフェに持って来てないから、間違えてるかも知れないが。まだまだ、これからか。

 伝統教団といっても、歴史はこれからの方が長いんだし。潰す気なら、知らんが、、、。

 とはいえ、『今』役僧は現実に居ているわけだし、役僧という現実生活のなかで私怨さえもわすれ、疲れきって、『まあいいや!』て、『食えるし、今の生活の中で、楽しいこと、見つけよ!』って、成るみたいだし(この間、そういう人にあった)
 もしくは、『いま我慢して、そのうち住職になろう。大人しくしていたら、そのうちいい話があるはず、、、』と、ちなみにこれは僕のことであるが。

 養子住職希望だった僕に『まあ、2年程苦労してくると良いですよ』と、まあ、今の寺を紹介されたのだが、『いつか、住職の話が来るから、今は役僧で我慢するのだ』
 なら、今の僕は、生きてないわけである。
 また、多くの役僧さんはどうなんだ。とも思う。
 役僧は、住職に成るまでの足掛けの存在でしかないのか?
 プロの役僧。役僧として、きちんと確立された僧侶の姿。そんなものは無いのか?
 プライドと誇りをもって、『私は役僧です』と。

 いやな言い方をすれば、女性住職の問題は、寺族の家庭問題であり、役僧には関係ない(差別の解放という事では、おおありだが)。女性住職問題の時、居たのかどうか知らないが、もし女性住職になったひとのお寺で働いている役僧さんは、どういう気持ちなのだろう?
 例えば、何十年もそのお寺の『縁の下の力持ち』として、尽くして、後継者問題のとき、さて、自分は、はなから蚊帳の外。相談はされても、『じゃあ、あなたにお願いします』とはいわれない。
 『この子が大きくなるまで、色々教えてあげてください』と、言われて、給料そのまま。

 身分が違う。そう、身分が違うのだ。
 身分の違いを、『そんなもんは無い』と、するのでなく、はっきりさせないと。

 ちなみに私は、専修学院本科に入った直後、ある大谷大学を出た、有教師の人より、『在家の人に仏教わかんのかな?』と、言われたことがある。もちろんその後、彼とは色々話し合ったが、これも、身分の違いを示す話の一つであろう。
 で、その彼から聞いた話だが、ある大きなお寺に彼が行った時、そこの『お嬢さん』が、年配のベテラン役僧さんをボロクソに直接なじっていたそうだ。その場に居た彼にもさっぱり解らない理由で。つまり理由なんかどうでも良く、単なる腹いせの『道具』にしか過ぎないのだろう。

 まっ、身分が違う。
 哀しいね。


>我苦生さま 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月11日(火)18時54分38秒

おっしゃる通りですね。
思えば私が苦境にあった時、我苦生さんに私が最初ぶつけていたのは「私怒」でしたが、我苦生さんと話すうちに、たとえ相手の首をはねても恨みは晴れず、何も解決しないことに気づきはじめました。「寺族解放」という言葉を聞いた時は、悪夢から覚めたような感じでした。

<いのり>に生きることしか、本当に解決の道はないのですね。


私怨は、あかん 投稿者:我苦生  投稿日: 6月11日(火)18時28分44秒

 とはいえ、先ほど書いたのは私怨であり、気分である。変わりやすいものである。そんなもんに頼っていてはいかん。
 私怨は『自分の、想い通りに行かない』それだけの場合が多い。私の場合は。
 たとえば、キチンと最初の契約どうりに、お金と休みを呉れれば、私の私怨なんて、だいたい無くなる。また、次のが出てくるだけである。

 問題は真宗である。
 四海兄弟の精神である。
 その中でどうなのか?ということが大切である。
 『法に背き、義にいし、、、』
 と、言えるかどうかである。

 私怨は、私怨を必ず作り出す。
 「ふざけんなよな、殺すぞ、こら!」
 と、いう態度は、相手をびびらし、自分の想い通りにさすことは出来ても、それでいいのは私だけであり、自己満足だけである。それは、何の問題の解決にはならない。

 踏みにじり、唾を吐きかけている大地より、祈られている。
 その事に気づいた時、初めて念仏申せた。
 なら、私怨でなく、祈らなければならない。
 私が問われている。


ベルリンオリンピック? 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月11日(火)18時19分12秒

サッカーはもういい。


Genkoさまへ 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月11日(火)18時18分00秒

おっしゃる<方向性>が「非<近代>」ってことですか?
それでは、<方向性>の中身がないではないですか?


私怨 投稿者:我苦生  投稿日: 6月11日(火)18時04分57秒

 ハッピーバースデー梅雨、、、。ああくだらん

 梅雨。今日は雨ということで、お参りの後本堂の掃除を、、、していたところ、御坊守様より、「草むしりをやって!!」との、ありがたいお言葉。
 昨日、今日から梅雨ということで、くそ日差しが強い中、必死に草むしりをして、ほとんど無いのにもかかわらず、、、。きのう、ぐしゃぐしゃになるほど疲れるまでやったのに、、、ほとんどないじゃん、、、。
 しかも、「本堂の掃除は、朝の間にやるように!!」との、お言葉。
 朝は、お参りに行かなあかんちゅうねん。それともなんかい、もっと早く出てきて、本堂の掃除してからお参りに行けちゅううんかい!金払えよな、、、。
 だいたい、うちの御坊守様は一日中何してんねん。だれが、やるか!金払ってから言え。殺すぞ!
 人間なんぞ、夜中、家に火つけて、あわてて出て来たところを、竹か、棒の先を尖らしたやつで突いたらだいたい死ぬねんぞ!

 あ、しまった。その前に、可愛がってるお孫さんを裏の池の、鯉の餌にしなければ、、、。


CHINCHINさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月11日(火)17時53分46秒

>その<方向性>とは何か、教えてください。

あらあら。これでは循環論ですね。
今までの私のカキコは、一体何だったのでしょうか?
もう一度振り返って下されば幸いです。
同じことを反復したくありません。



ちょっと待った! 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月11日(火)01時18分14秒

Genkoさん

>私が示し得ることは、方向性についてだけです。

とおっしゃいましたが、その<方向性>とは何か、教えてください。


訂正ばかりで・・・ 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月11日(火)01時14分00秒

ぐっちんさんへのレスで

>というぐっちんさんのご意見は私の意見とはぼ同じであることは

と、あるのは、

>というぐっちんさんのご意見は私の意見とほぼ同じであることは

の誤りです。

今日は何かダメ・・・妙に疲れてる。
先日の私のカキコにある、労災の問題の結論がでたが・・・・なんで・・・
世の中こんなもんかな?なんて言い聞かせたりするものの・・・・
いやに


了解 投稿者:Genko  投稿日: 6月11日(火)01時04分50秒

>しかし、<ヤクソウ>問題の中でこのような議論をすることには反対なのです。

それでは、早速この議論は、私との間では「おひらき」にいたしましょう。


確認 投稿者:Genko  投稿日: 6月11日(火)00時59分20秒

>現在考え得る<ヤクソウ>問題への具体的解決法を見出すには<近代>の諸概念によるしか
>ないのですから、・・・

それは、私が以前から申し上げているセリフではありませんか。

>それに対し、解決法を提示しえない、<近代以外>ということを前面にだして、
>具体的解決法を探ろうとする試みを批判するのは如何なものでしょうか? ・・・

私は、批判などしておりません。あなた方のドン・キ・ホーテ的試みを支持すると申し上げて
いるのです。
<国家>ではなく、たとえ<教団>が相手でも、(私には)もとより解決法などない、
と言っているのです。
私が示し得ることは、方向性についてだけです。


Genkoさんへの追伸 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月11日(火)00時54分09秒

ただ、Genkoさんが提起された問題の重要性を否定するつもりはありません。
むしろ議論を深めたいくらいです。
しかし、<ヤクソウ>問題の中でこのような議論をすることには反対なのです。


薄野高麗王さんへ   投稿者:Genko  投稿日: 6月11日(火)00時47分42秒

>ところで、CHINCHINさんとGenko(本願寺派?)さんの教団における「身分」がわかりません。
>御両名の書き込みを拝見してもこの点が不明瞭だと、「何に基づいて」話されているのか愚か
>なわたしには読めません。
>よろしかったら教えてください。

インターネットという「公的」なサイトで、あまりプライバシーをひけらかすのは芳しくないと
いうのが私の基本的な姿勢ですし、ひとが何かを主張するのに「何かに基づ」かなくてはならな
いとも思えませんが、別に疚しいことを書いているつもりも毛頭ありませんので、言います。
私は、ほんの数ヶ月前に真宗大谷派で「得度」した一愚僧です。教区は大阪市内です。
出身は神戸、大学時代は東京で西洋哲学(専門は初期マルクス)を学んでいました。
<仏教>との出会いは、今から約20年前、留学先のパリ時代で、日本人としての自分が日本
のことを全く理解していないことに思い至ったことが契機となりました。
たまたま実家の在家が「曹洞宗」であったことから、最初に取り組んだのが鈴木大拙らによる
「禅宗」関係の書物、あるいは「般若心経」の世界でありました。
周囲に知り合いの僧侶関係者がまったくいなかったので、ほとんど独学です。
親鸞への最初の導きは、主に野間宏訳の「歎異抄」と吉本隆明の一連の「親鸞」本等によります。
真宗系への接近は、大阪の「坊主バー」に足繁く通ったご縁によるものです。
周囲は私に「職業僧」(ヤクソウ?)への道をしきりにすすめるのですが、私にはそのつもりが
あまりありません。私が現代の職業僧に、一定の意義を認めつつも魅力を感じていないからです。
(個人的に魅力を感じている僧侶は少なからずいます。)
大谷派の場合、「得度」はしていても、僧職に従事していない僧侶は多いとかねがねうかがって
おりました。私の場合はですから、@親鸞思想を学びたい、A阿弥陀に帰依したい、B仏教的環
境下にあって<仏教>を吸収したい、C僧侶と話がしたい、等々が主たる動機です。
もしこうした姿勢が許されないのであれば、私はいつでも大谷派をやめる覚悟があります。
ひとさまに迷惑をかけるつもりは全くありませんから。


>Genkoさま 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月11日(火)00時20分07秒

>私にして見れば、それでもあなた方を断固支持すると言っているのに、何で責められ
>るのか、意外だし、理解に苦しみます。

責めているつもりは毛頭ありませんが、<近代>の延長にある現代において、目の前の問題を考えているものに<近代以外>という唐突な概念を突きつけることへの反論です。もし<近代以外>に解決の糸口を提示できるものがあれば教えていただきたいですが、現実には具体的な処方箋を提示できないのではないですか?
Genkoさんのおっしゃる<近代>の問題は私なりには認識しているつもりですが、現在考え得る<ヤクソウ>問題への具体的解決法を見出すには<近代>の諸概念によるしかないのですから、それに対し、解決法を提示しえない、<近代以外>ということを前面にだして、具体的解決法を探ろうとする試みを批判するのは如何なものでしょうか?


↓訂正です。すみませんm(_ _)m 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月11日(火)00時09分21秒

私にいう(誤)
私のいう(正)


>ぐっちんさま 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月11日(火)00時07分50秒

>ぐっちんは国家規模の大きな組織では、組織の成員全体の意見
を反映していないから、とどのつまりルールとは<知ー権力>を持ったものが制定するのだと
認識してます。しかし、まずはこれを最大限、運用・活用して「弱者」がこうむる不利益を無
くすべきだという戦術をもっております。そしてそのあとに、ルールは人間が決めたことだか
ら絶対ではないというところから、これをさらに「弱者」が不利益をこうむらないように改正
し、また「強者」が都合のよいように改悪するのを監視する必要があると思います。
(以上引用)

というぐっちんさんのご意見は私の意見とはぼ同じであることは、Genkoさんとのやりとりでお分かりいただけないでしょうか?私にいう<近代の反復>とはつまり、こういうことです。


国家への反逆 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月11日(火)00時00分26秒

<ヤクソウ>問題のために<国家>を活用するのは「国賊的」です。
日本各地のさまざまな事業所に、<国家>によって義務づけられた二つの事務事項がある。
税務と労務である。
しかしながら、寺院に対しては、税務は一応義務づけられている(零細企業経営者の家庭で育った私からすれば、かなり甘いように思うが)のだが、労務についてはノータッチに限りなく近い。これはきっと、税務は<国家>にとって必要だが、労務はどちらかというと「したくない」仕事なんでしょう。だから、しなくてすみそうな寺院には労務にまつわる業務を義務づけるような指導はしないんでしょう。
これを<国家>に強要しませう!!反逆だァァ


疲労困憊 投稿者:Genko  投稿日: 6月10日(月)23時57分09秒

CHINCHINさんによる、次のカキコの部分、

>とにかく<ヤクソウ>問題は当事者からすれば緊急課題ですので、
>思想家たちの<近代以外>なんて机上の議論の結果を待ってられないのです。

私は、以前から申し上げているように、自らを謂うところの<ヤクソウ>として、
メシを食っていこうという考えが、初めからあまり無いのです。
ですから、CHINCHINさんのような立場に立てないし、第一知らないし、今のところ自分に
とっての「喫緊の課題」と決してなり得ないわけです。
というより私の場合、得度する前から、こうした問題については、とことん冷めていたと言
った方がヨリ正確でしょう。既に「織込み済み」であり、自分なりに整理がついている問題
に過ぎなかったのです。(ちなみに、私を予め冷めさせた犯人は、武田泰淳の文学です。)
私はいわばその整理方法を敢えて論理化して態度表明しているだけで、何も自己正当化しよ
うなどという了見では毛頭ありません。
むしろ、私にして見れば、それでもあなた方を断固支持すると言っているのに、何で責められ
るのか、意外だし、理解に苦しみます。
私が何か反動的なこと発言したり、行使したりしたのでしょうか?
ひとは、それぞれの与えられた場所や立場の中で、それぞれに苦しんでいるものです。
私には私固有の生存を賭けた闘いがあります。
そっちのほうは殆ど何も真剣に聴いてくれなくて、こちらがあなた方の立場に不協和音的に
同調しようとすると、とたんに「そうじゃないんだ」と言われる。
そりゃあ己れの立場の苦しさや現場でしかわからないことは山ほどあるでしょう。
しかしそれは、別の意味で誰にだってあるのではないでしょうか?

>現在の<教団>の存立を担保しているのが、何を隠そう<国家>です。
><国家>をいかに<利用>するかが最も重要になってきます。

利用する場合の<視線>は、どこに向かっているのだろうか、というのが私の根本的な問題提起
でありました。


 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月10日(月)23時48分29秒

>ルールや秩序は、出来るだけ有名無実化するのが望ましい

 と9日に書いておられます

とぐっちんさんのご指摘ですが、この言葉は↓のGenkoさんのカキコからの引用です。
私は、いきなり<ヤクソウ>問題でこのようなことを言うのは、あまり賛成ではなく、みんなが和泉元彌になればことは解決するの?という皮肉まじりのつもりで引用したものです。


> 投稿者:CHINCHIN  投稿日: 6月10日(月)23時43分53秒

CHINCHINさんへ 投稿者:Genko  投稿日: 6月 7日(金)22時29分43秒


国賊のすすめ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月10日(月)21時46分10秒

 国威を発揚するようなものは、ぐっちん好まない。よってネットカフェからほど近い道頓堀に
飛び込む若者達には、「タイガース優勝の瞬間まで、カラダはきれいなままとっときなさい」
などと小言をブツブツ。。。

 ぐっちん、子供の頃はリカちゃん人形が欲しかった。だけど、家には消える魔球の野球盤
だの、レーシングゲームだのいわゆるオトコの子向けのおもちゃしかなかった。友達の中に
は、GIジョーなる関節の自由に動く人形をもっているやつがいたけど、リカちゃんのよう
にはオプションが揃ってない。だいいち、迷彩服しか着せられへんやないか!

 で、ぐっちん30歳をすぎてからセーラームーンの登場人物、火野レイ人形を買った。こ
の事実を知った姪っ子のレイナ(当時9歳)から、「おっちゃん、あのな。。。」と説教され
てしまった。しかし!欲しいモノは欲しい!ええやないか、ええ歳こいてようが、オトコで
あろうが、変態であろうが!ほっといてくれ!

 そもそも「らしさ」が気に食わない。女の子に「女らしさ」を求め、押し付け、幻想を抱
いてきたけど、その分「男らしさ」を強要され、ずいぶん「女らしい」分野の愉しみを男た
ちは失ったのだ!ああ、失われた40年!アタシの青春を返してホシイのよっ!! 


快方への祈り 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月10日(月)21時21分08秒

 菱木せんせの、講題「専修念仏」すごく良かった。菱木さんと高倉会館?ミスマッチだなあ
と思いつつ。玉光所長の人選らしいですね。ギャグとして用意した話しが受けず、解説をやる
あたりなんぞは、菱木節いまだ健在ナリ!とおかしなところに感激。あ、「おかしな」は菱木
さんの前では禁句か?

 念仏が弾圧されたのではなく、専修念仏が弾圧されたのだ、と。雑事におわれている人々に
イメージトレーニングその他は、やってるヒマがない。上品上生のひとには、阿弥陀さんをは
じめオールスターキャストでお迎えがくる。だけど、下品下生のひとには金色の蓮華の花のみ。
けれど、そのひとには念仏をすすめる人との決定的な出会いがあったのだ、と。ここでぐっち
んまたまた涙がポロリ。

 聴衆の中にいた彌光(みこう)さんの、ダイニング・バー彌光庵(みこうあん)でこれまた
7年ぶりぐらいに諸行無常ごはんを食べる。確かに、ここの精進料理はうまい。ついでに彌光
さんのお話しに4時間ぐらいつきあう。時間があっという間にたつという至福のとき。ああ、
彌光マジック。。。テロ事件以前は、店がガラガラだったそうだけどその後俄然、運動関係の
ひとが情報交換しに、たまるようになって店に活気がもどったそうな。


Re:出来ることからこそこそと 投稿者:モモ  投稿日: 6月10日(月)08時54分41秒

我苦生さんの
「方法論と、いえばかっこいいけど、結局こそこそ、ビクついているだけだもんな。
 でも、そういう自分しか今いないわけで、自分の出来ることから、こそこそと、少しづつはじめていきます。」

ビクビクすることは大事なことなんじゃないかなと
最近考えるようになりました。二十代の頃は闇雲に
後先考えず行動していたけどなぁ。しかし、自分の
弱さ、分限を知るということは大事なことだと思います。
思いが逆に行動を制限してしまうこともあるけど、
一つの行為を思慮する、思索するということは
大事なことだと思ってます。
昔、ある先生からスクール(学校)の語源である「スコラ」の意味は
暇ということ。つまり、暇がないとナカナカ学ぶということが
出来ないんだと。どんなに忙しくても、1日の間で思索する
時間をたとえ10分でも毎日取ってくださいと言われたことを
ヨク思い出します。
あれでもない、こーでもないと思索する機会として、
最近こういう掲示板を使わせてもらってます。


我苦生さんへ 投稿者:モモ  投稿日: 6月10日(月)08時46分57秒

あまりに、投稿が多いので1日チェックしないと
トンでもないことになってしまう。

我苦生さんへ
「今生きている私、ともに関係性の中で生かされている私。その私を、私自身が粗末にするべきではありません。
 役僧という、身の事実。そのわたしを、ごまかして生きるべきではありません。
 今生きている私を、恨み、呪い、やけ酒飲んでいるだけでは、あまりにも、いのちに対して失礼です。申し訳ないです。」

先日雑誌にドキュメンタリー映画「神の子」の日本人の監督のインタビューが
載っていました。それこそ、ゴミ捨て場で生活する人々を撮っているのですが、
監督も最初は「可哀相」という気持ちだったそうですが、よく見てみると
その中で生き生きと生きている人々に触れて驚いたと言ってました。
普通の価値観では、そんなゴミの異臭や菌に囲まれて不幸だと考えるけど、
彼らはそこで誇りを持って生きているんです。「泥棒するぐらいなら死んだほうが
マシ」だとか、「私はイイから、おじいちゃんに食べさせてあげたい」
ということを言われるのを聞いて、ビックリしたと書いてました。
私自身も、今の境遇をなかなか受け入れられていません。
グチグチ回りにこぼしています。


また訂正 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月10日(月)02時31分47秒

 ↓のルール云々というのはCHINCHINさんのご意見でなく和泉元彌のことを指してるだけかな


前人未到 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月10日(月)02時12分17秒

 >CHINCHINさんへ

 生ぐさい問題は、机上の教学論争よりもムツカシイですな。ぐっちんは去年11月の過去
ログで

 >ぐっちんは以前からお坊さん=組合専従員説を唱えている。専従員(僧分)といっても
 >元は、組合員(門徒)と同じ労働者(凡夫)だ。
 >組合員の組合費から専従員の生活費は賄われる。これは僧祇物(サンガの共同財産)だ。

 だということをいってるんですが、この自分の暫定見解を我苦生さんの問題提起によって
修正している最中です。↓に労働基準における伝統社会との比較がありますが、去年の8月
1日ごろちょっとした儀式論争があって<権威の発生>や<富の独占>の背後にある問題提
起がなされております。参考になるかなと思います。

 >ルールや秩序は、出来るだけ有名無実化するのが望ましい

 と9日に書いておられます。ぐっちんは国家規模の大きな組織では、組織の成員全体の意見
を反映していないから、とどのつまりルールとは<知ー権力>を持ったものが制定するのだと
認識してます。しかし、まずはこれを最大限、運用・活用して「弱者」がこうむる不利益を無
くすべきだという戦術をもっております。そしてそのあとに、ルールは人間が決めたことだか
ら絶対ではないというところから、これをさらに「弱者」が不利益をこうむらないように改正
し、また「強者」が都合のよいように改悪するのを監視する必要があると思います。

 またぐっちんはかねてより、各成員の<利害>がまったく一致すると考えることは背理(現
実的にはありえない)である、とも思っています。でも、これを調整することには意味がある。
またちいさな組織では、徹底的な討論を通じて取り出した<合意>をルールとして明示するこ
とにも意味がある、と考えます。


以上は、新着順1番目から30番目までの記事です。

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