〈 落 鱗 板 々 〉
【 お 願 い 】
相手が特定できる個人格への言及、および個人情報の公開は慎重に願います。
実生活や他の掲示板での「いきがかり」を持ち込まないでください。
「管理人へ」ではなく「らくりん個人へ」の用件には掲示板を使わないでください。
Reload |
<ペットロスの問題に関心がありまして、あるご縁で実際にペットを亡くされた多くの方との関わりを通じて、この問題に携わっています。>
ペットの<死>で、寝込んだり、稀に入院される方までおられるそうです。
私はこの問題に詳しくないのですが。。。
真宗では供養に対して批判的であるところから、ペットの死に関わるのを軽視もしくは
無視・軽蔑するような風潮があるように思うのですが。。
大事なのは残された「人」が問題なのですから、「人の死」と同質の影響があるように
想っているのですが、その辺の詳しいことを展開されいただければ、嬉しいです。
Genkoさん、oyajiさん
就職活動いかがですか?年齢がかなりハンディとなっているのではないでしょうか?そこで
ご参考までに。。。
いまNHKでは夏の地域スタッフ募集しています。HPでは、説明会の日程は過ぎているよう
ですが、この後、何回か開催しているはずです。50代の方も働いておられるようです。まあ、
天下のNHKつぶれることはない。。。が、何と申しますか半官半民というか。。。国家と資本
が結婚したようなステキな組織。それでもイイ!とおっしゃるなら連絡されてみては?
ご心配してくださった皆様に<ちみちゃん>の近況を報告いたします。
自分で飲んだり食べたりできなかったのですが、
器から食べ物をくわえて取ることはでき、
頭を上下して飲み込むワザをおぼえて食べることも
「まれに」できるようになりました。
2/3回は、口から落としてしまい、再びくわえるということを繰り返しています。
しかし、ヨダレも止まりましたし、口臭も消えました。
奇跡が起こったと思っています。
おもえば、6月末に発病し、急激な進行のため
7月上旬に獣医師から「あと1、2か月の命」と言われ、
「治癒する見込みのない手術をして苦しめるよりも
愛情を持って見守ってください」とも言われ、
「安楽死」という言葉さえ聞きました。
その場では、何とかこらえましたけど、
<ちみちゃん>を連れて帰るときに
泣きながら自転車のペダルを漕ぎました。
それから1か月経ちましたが、あと1か月でないことを祈るばかりです。
>私が「第一級の問題」という言い方をしたのは、(以下略)
ご説明の意味が、さっぱり解りません。
おぼろげに解るのは、近年「国家と資本」の問題が、軽視されているので、
>「国家と資本をめぐる主題」こそ、
>今日において第一級の問題である
と主張したということくらいです。
でしたら、まずは、「社会問題を論じるにおいては」とか
「経済問題として」は、とかの条件付けと
領域設定をなされるべきであったと申しているのです。
その上で、なお日常生活を含めてあらゆる問題の背景とか根底に
「国家と資本」の問題があると主張されるのなら、
それは、針小棒大であり事大主義であると言わざるをえません。
たとえば、「役僧」問題も「愛猫」問題も
第一義的には社会問題ではないですが、
「社会」問題として扱うこともできるといえるにすぎません。
さらに、その領域においては「第一級」ではなくて、
「重要な問題の一つ」というふうに言っていただきたかったと思っています。
なお、領域を特定して序列を着けることは、正しいと思っています。
たとえば、議員秘書給与問題などは、政治問題としては、
バカバカしい問題だと思っています。
活動資金をどこからどの様にして得ようと、
政治思想や活動とは関係ないからです。
このことは、文学においては、プロレタリア文学問題として解決済みと考えています。
作家が、泥棒だろうとアル中だろうと、貴族でも庶民でも
作品の優劣には関係ないからです。
先のテストに対して、Genkoさんなら、
全ての答えがC−B−Aであることを信じておりましたが、
あえて、初心を思い返していただきたく提出しました。
ですから、
>「社会問題」を対象としているとき、
>「国家や資本」の問題系は、その大前提でありマクロ的背景という意味で
>「第一級」と表現しているのです。
>それをヌキにしたら、ミクロ的な個別現場問題をいくら論じても、
>百人百様の意見が噴出するばかりで、方法論的に空回りするばかりだからです
といわれるとき、
ミクロはマクロよりも大きい
ということを原則としていただきたいと思っています。
マクロ経済学とミクロ経済学と分類することがありますが、
マクロが上級高級で、ミクロが下級低級とは言われていないと思います。
マクロとミクロで、学問や学者に序列は付いていないと思います。
(ただし、マルクス主義経済学の優越性を主張するのは別の問題です。)
ですから、マクロだから「第一級」と表現するのは誤りだと思います。
マクロの中では「第一級」と言われるのならまだしもですが。
また、私は、ミクロ的な個別現場問題を論じ、
空回りすることに価値があると考えています。
たとえば、『源氏物語』を貴族社会の文学であるから、
民主主義文学よりも劣っていると言えるでしょうか。
昔、そう言ってたスターリン主義文学理論家(自称)がいたそうですけど。
>「〜主義者」という一方的<断定>をもって批判とするのは
>自由な意見交換を妨げるものでないでしょうか?
この<断定>に「自称」を含まないのなら、
そのように明記されるべきだったと思います。
私が、くどくどしく申しているのも、
条件付けなしで「第一級」とか「背景」とか断定することは、
間違いだと主張しているのですから、
論理を一般化するときは、ご賢察をと申したのです。
ところで、
医者は、まず患者を検査して、病名を特定してから
治療にあたります。
「お腹が痛い」と言ってきた人に対して、
いきなり開腹手術を施したりはしません。
ですから、思想の構造、特徴、傾向を「〜主義者」と特定することは、
必ずしも「自由な意見交換を妨げるもの」とは言えないと思います。
逆に、思想を特定することを「レッテル貼り」と言いかえて、
>レッテル貼りは言論の自由を抑圧する
と主張することのほうが、よほど「言論の自由」を抑圧しかねないと思います。
また、たとえば、スターリン主義者ではなくて、
法然主義者とか親鸞主義者とかのレッテルを貼ったりすることは、
言論の自由を抑圧し、自由な意見交換を妨げることになるでしょうか。
>もしかしたら、私(お留守居役様)の方が「国家と資本」の問題に関する
>考察を重ねているかも知れないという可能性を考慮していないからです。
>私とて、「国家と資本」の問題を研究したことはあります。
>ただし、それが「第一級」の問題だと思ったことはありません。
そしたら、こんな思わせぶりな言い方をしないで、堂々と内在的な議論を展開すべきではありませんか?
私とて貴方にとっての「猫」ではありませんが、
例えば「好きな彼女」をめぐる問題の方が、「国家や資本」の問題よりも圧倒的に切実だし重要です。この場合、私は「一番大事な」という形容をするでしょう。
しかし私が議論の主題に「恋愛問題」を置かず、何らかの「社会問題」を対象としているとき、「国家や資本」の問題系は、その大前提でありマクロ的背景という意味で「第一級」と表現しているのです。それをヌキにしたら、ミクロ的な個別現場問題をいくら論じても、百人百様の意見が噴出するばかりで、方法論的に空回りするばかりだからです。
むろんこのことは、ミクロな個別現場を軽視することを意味しているわけではありません。
>第二級以下の問題をお示しください。
>せめてベスト10くらいは願いたいものです。
>それで、例えば「役僧」問題は第何級の問題になるのか、
>また、私の愛猫の病気の問題はどこらあたりに位置づけられるのか、
>ご教授いただければ幸いです。
かつて私の良き友人の一人であった上野千鶴子女子などは、私に対する批判として、
「オトコはすぐに審級をつけたがる」と口癖のように言っていたものですが、
そうしたことに具体的審級をつけて、それが果たしてどうなると言うのですか?
まあ善意に解釈して、これはお留守居役様さんの悪い冗談だと受けとめておきます。
さもなくば、言葉の揚げ足取りなのですか?
私が「第一級の問題」という言い方をしたのは、
一つには、思想史の上で今日ほど、近年のポピュリズムの嵐の中で、現実からの強い要請にもかかわらず、この主題がほんの一握りのインテリたちだけに<流通>する「言説」として、見事にマイナー領域に追いやられたことはないという慨嘆なのです。
わが国では、80年代の「ポストモダン」の隆盛以後、とくに顕著な傾向です。
ありていに言ってしまえば、「ちょっとぐらいそうした問題に目を向けろよ」と言いたいわけです。
二つ目には、にもかかわらず海外では、ネオナチやナショナリズムが台頭しながらも、
却って思想界はその問題系が前景化しているという事実があるわけです。
90年代における思想的動向、とりわけ「カルスタ」や「ポスコロ」の制度化以後、
このことは、特に人文科学系・社会科学系の諸学者やジャーナリスト達に顕著です。
それはさて、日常的に政治的な<現場>を持たず、言論界におけるどんなポジションも影響力も持たない一介の私なぞに、<スターリニスト>などという「名誉ある」(?)レッテルを付与して下さったお留守居役様さんにはまことに感謝するばかりですが、ある意味で<スターリニスト>という概念が、せいぜいこの程度のことだったのかと、今更ながら安心致しました。
それとも比喩として仰っておられるのか。
もし比喩とするならば、まずい比喩ですね。
私は議論をするのに誰も「排除」などしませんが、お互いに顔も知り酒も飲み交わす仲である友人のぐっちんさんと名指しで取っ組み合いの議論をしている最中に、いきなり絡め手から「おまえはスターリニストだ」なんて言える程無礼千万な厚かましさだけは、よう行使できません。
それに、その私に対してだけならまだしも、ここのサイトみんなに対して、
こともあろうに<試験問題>を出し、偉そうに他者の「思想」をチェックするなんてのは、きょうび企業の採用面接官でもようやらんですよ。
一体何様のつもりか存じ上げませんが、貴方の「思想」以前に、まずこういうことが出来てしまう「神経」こそを私は疑いますね。
自称と他者による決め付けはちがいます。
いつ三吉さんやGenkoさんが、スターリン主義者と自ら名乗ったのでしょうか?
だいたい、こんなやりとりしている場合じゃないのでは?
私もお留守居役様さんの飼われている猫のことは気にかかっています。ペットロスの問題に関心がありまして、あるご縁で実際にペットを亡くされた多くの方との関わりを通じて、この問題に携わっています。
隣人が想像する以上にペットの<老病死>の問題は飼い主にとって重大な問題であったりします。
お留守居役様さんにとって、最重要課題である、とおっしゃる飼い猫の問題を抜きにGenkoさんと議論しているのなら、やはりあなたの最重要課題はGenkoさんとの<国家と資本>をめぐる議論なのでしょうか?そうでないのは分かっているので、このままGenkoさんとこのお話をされても・・・そして、<スターリン主義者>などと他者を一刀両断にされるのは、聡明なお留守居役様さんには似つかわしいとは思えないので口出ししてしまいました。ご無礼をお許しください。
あつかましい⇒ドあつかましい
>一生「見ざる・言わざる・聞かざる」を決め込んでもらっても大いに結構です。
ここには、思慮の欠如と差別意識とが感じられます。
もしかしたら、私(お留守居役様)の方が「国家と資本」の問題に関する
考察を重ねているかも知れないという可能性を考慮していないからです。
私とて、「国家と資本」の問題を研究したことはあります。
ただし、それが「第一級」の問題だと思ったことはありません。
ひるがえって、おたずねします。
>「国家と資本をめぐる主題」こそ、
>今日において第一級の問題である
と主張されるのなら、
第二級以下の問題をお示しください。
せめてベスト10くらいは願いたいものです。
それで、例えば「役僧」問題は第何級の問題になるのか、
また、私の愛猫の病気の問題はどこらあたりに位置づけられるのか、
ご教授いただければ幸いです。
しかし、確かに暴力的な平和運動や、強圧的な市民運動はかんにんしてよ。。。と思う。
で、ぐっちんのアイデアは政治的アジビラを配るのにティッシュの中に仕込むというものでした。
大阪のおばちゃんのティッシュ受け取り率は200%だといわれます。
「あ、にいちゃん、ごめんやけど二宮さんの分ももうとくわ。(←二宮さんって誰やねん!)」
といって最低ふたつはもろていく、あつかましい大阪のおばちゃん。
ぐっちんは東京に住んでるとき、23区内でしたが畑が残る町に住んでました。で、そこかし
こに農作物の無人販売スタンドがありました。これ大阪市内じゃちょっと考えられない。確かに
お金は入れていくかもしれないけど、余分に野菜をとっていくことは必至。これじゃあ、ソクラ
テス(プラトン)も形無しやなあ。見ててもえげつないんやから、誰も見てへんかったら何をす
るやら。。。
あ、これ大阪おばちゃん差別や。。。あくまで一般論です。。。
>「〜主義者」という一方的<断定>をもって批判とするのは
>自由な意見交換を妨げるものでないでしょうか?
ここの掲示板での、どのような事態をもってして、
自由な意見交換を妨げるものと判断なさったのでしょうか?
自由な意見交換を妨げられた人はいましたでしょうか?
私は、実存主義者を名乗ることがありますが、
自由な意見交換を妨げられたと感じたことはございません。
戦前戦中の実例から一般化する際に
誤謬が生じたものと思われます。
ご賢察ください。
もとの職業。
真仏、顕智らは、善光寺聖。性信、信順らは鹿島神宮の神人。弁円(明法)、唯円らは山伏。
神人(じにん)とは下級の神職で雑役(掃除や警備)に従事した人。聖(ひじり)も営業品目は
多い。病人の介護、死体の処理、田畑の見回り。。。でまあ、勧進。よくいえばカンパ集め。わ
るくいえば、ものもらい。すきま産業というか、便利屋さんというか。。。
親鸞さんの弟子で手紙のやりとりする相手やから、読み書きはできたけど、みんな苦労人ですね。。。寺檀制度が確立して、葬式・法事で食っていく前の、官僧(国家公務員)じゃない人の
仕事って大変や。。。
クリスマスは楽しい。老人ホームの実習に行った時、クリスマスシーズンだった。それで、
「良きサマリア人のたとえ」っちゅう寸劇をやることになった。
報恩講。登高座で歎徳文よんでも何いうてるかさっぱりわかりません。で、御伝抄。ろうそく
の演出は好きなのですが、これもまた何いうてるかわからん。うちの寺では、御絵伝を絵解き説
教よろしく、解説しておられますが。。。
これもいっそのこと、親鸞伝を寸劇でやったらどうでしょう?山伏弁円さんとの出会いとか
面白いですねー。十年くらいかけて、十場面で綴る親鸞聖人の御一生。ご門徒さんに出演して
もらうんです。これおもろいと思うけどな。。。
私は、吉本隆明だって折に触れて読んできたつもりだし、
アルチュセールの「重層的決定」以後の認識論的転回にしても、
常識的には存じております。
一体今日び、誰が24時間「国家と資本の問題」を考えなくてはいけないなんてヤボなことを言う人がいるのですか?
スターリニストなんていう<理念型>は、実践的に政治過程に組み込まれてこそリアリティーがあるわけで、私は「国家と資本の問題」をいかなる理念型に引き寄せて主張しているわけでも何でもありません。
例えば私はかつて、吉本さんの初期の思想のいくつかから、<俗流マルクス主義>や<教条的マルクス経済学>以外の読みの原理的可能性を学ばせて頂いた記憶があります。
つまり吉本さんだって、しばしば「国家と資本の問題」系は主題化しているわけで、
何もそれを考えたり論じたりすること自体を封殺する必要はないでしょう。
私は、自分(達)だけがこの主題の専売特許だと言っているわけではなく、現代思想を語る文脈で往年のテーマだし、多くの現代の知識人がこれを主題化しているよ、という事実関係を示唆しているのです。
例えば、国家の問題系を私以上に深刻に考え、実践している人々に、中央官僚や(西部邁や小林よしのりら)在野のナショナリストたちも想定できます。
資本の問題系だったら、投資家や資本家なども想定できます。
かれらもその問題を考えたり主張したりするからスターリニストなんですか?
あと数日で実現されてしまう「住基ネット」問題も、次期国会で通過してしまうだろう「有事法制」にしても、「パレスチナ問題」にしても、「北朝鮮からの大使館駆け込み事件」にしても、私にしてみればみんな「国家をめぐる問題」系です。
それぞれで直接関わりのある当事者たちは、みんな何らかの意味で苦しんでいる筈です。
私はそういうことを言っているのであって、この「みんな」の前後関係が書かなかった厳密さを欠いていたことは私の落度だったかもしれませんが、そのぐらい汲み取って下さいよ。
問題の背景にある「国家や資本」の問題を考えてみることが「スターリニズム」に該当するのであれば、お留守居役様だけは、どうか頑張って徹底的にそれらを判断停止し、
一生「見ざる・言わざる・聞かざる」を決め込んでもらっても大いに結構です。
何を考えようが何を言おうが、また逆に何を考えないでおこうが何を言わないでおこうが、今日そんなことまったく諸個人の自由ですからね。
何がいいたいかは読めばわかると思いますが。
はい(-_-;)
7月30日(火) CHINCHIN氏の書き込みです。
>この手の「〜主義者」というレッテル貼りは
>言論の自由を抑圧するスターリン主義者(死語?)や
>ファシストが、異なる意見を排除する時に用いる常套手段です。
とすると「スターリン主義者」というレッテルを貼ることは、
どういうことなのでしょうか。
合理的な解は次のようにしか考えられません。
「スターリン主義者」というレッテルを貼ることは、
異なる意見を排除することを批判し、
言論の自由のためになされることである、と。
つまり、CHINCHIN氏は、逆側から私の意見を
支持していただいているものと理解しました。
7月30日(火)の三吉氏の書き込みです。
>意識するしない関わらず、現代この場所で生きているということは、
>「国家や資本をめぐる問題」が、絡まってるのは「現実」でしょうや。
>自死の2万人代推移から3万人代推移という増加。
>高齢者・経済苦・リストラというものも、
>この種の問題が背景にあるし、
>ちと前の「役僧再配分」についても、「搾取する自由」を
>許している体制だからこそ、生じる問題です。
このような論理を全体主義の論理というのです。
どんな問題でも背景に「国家や資本をめぐる問題」がある
と言わないと気が済まない、針小棒大、事大主義の論理とも言います。
自死の増加は、「国家や資本をめぐる問題」が背景にあるのだから、
次の選挙では、○×党に投票しよう、と言い出しかねない。
一見正論のようで、正義を振りかざしているので始末に悪いですが、
戦時中、服装や髪型までもとやかく言い
「戦地の兵隊さんのご苦労を思え」と非難したのと
同一の論理構造であることを洞察しましょう。
7月30日(火)Genko氏は、
>>「国家や資本をめぐる問題」を論じないものは人にあらず
>>という主張をなされたからです(←私)
>私は、このような主張をした覚えはありません。
と書かれていますが、
7月26日(金)にGenko氏は、
>私がぐっちんさんに対してかつて提起した
>本質的な問題に対する応答の方は一体どうなってしまったんですか?
(中略)
>何度も申し上げるように、「国家と資本をめぐる主題」こそ、
>今日において第一級の問題であるに決まっているではありませんか。
>みんなこの問題で苦しんでいるのです。
と書かれています。
「国家と資本をめぐる主題」に対して応答しない者、
また、今日において第一級の問題であることを知らない者、
あるいは、認めない者は、人ではない、と言われています。
>みんなこの問題で苦しんでいる
のだから、この問題で苦しんでいない人は、
「みんな」ではない、
つまり「人ではない」と断言されています。
ぐっちんさんが、いろいろアクションを起こそうと
され、今回は勉強会。なんだか、こっちはどうなのかと
問われているようで恥かしいばかりです。
学ぶことを忘れたら最後というけど、一日一日
学ぼうとされている姿に感服します。
過去ログで差別語をめぐっての議論がありました。人権フォーラムみたいなのが南御堂でもよ
く開催される。で、その中味はというと「差別はよくないからやめましょう」というようなお説
教が多い。ぐっちんその昔考えたのが、「差別落語を鑑賞する会」。落語の中には、というか笑
いの中には<差別>を含むものが確かにあります。↓の石橋発言みたいな。。。で、今ではお蔵
入りしてしまった<差別落語>と現在上演されてはいるもののこれはどうかな?と思われる箇所
を含んだ落語を二本演じてもらう。
で、その後シンポジウムで「障害者」と「健常者」と「噺家さん」にどこがどう違うのか。
フロアでもアンケートをとっておき、徹底討論する。ある人にとってはどちらも不快であったり、ある人にとってはどちらも目くじらたてるほどのもんじゃないだろうし、ある人にとっては、差
別落語の方が別に不快でなく現在上演されてる方が問題ありと思うかもしれない。
別に正解はない。でもどこがどうなのか?それぞれの人がそれぞれの立場で自分の感覚に問い
尋ねてみる。一方的に人権お説教を聴く会ではない、人権啓発フォーラム。しかも笑いを題材に
する。これなら来てもらえるのではと思う。それからだと思う、ひとりひとりがどうその問題に
向き合うかは。。。
もうかれこれ9年前、大阪教区仏教青年会(?)主催(??)で淀川キリスト教病院のお医者
さんをお招きして「ターミナルケア講座」みたいなものをやった。原案はぐっちんが出しました。過去最高の入場者数を記録したという(今は破られたかな?)
それまでの企画が硬すぎた。ぐっちんはなぜGenkoさんの意見に噛み付いてるかというと
「政治と宗教」というテーマでずっと掲げてやってるんですわ。靖国という形でか、部落問題と
いう形でか、戦争展という形とかで。。。で、人が来ないんですわ。でもまあ、企画力やと思う
けど。
プレゼン力ですわ。「仏教者に社会科学的視点を!」こんなんスローガン、このままいくら叫
んでいてもカラタニじゃなかった、空念仏。仏教者というのはいわゆるお坊さんだけじゃないで
すよ、現場では。ご門徒もおられる。それも大学出た人ばっかりと違いまっせ。その人らに「資
本と国家を論じよう!」ですか?そんなん無理な注文でっせ。
ぐっちんお寺で<社会派>お坊さんたちのマスターベーション法話をたくさん聞いてうんざり
した。あんたにとっちゃ大問題だろうが、じゃあご門徒にどうせいちゅうねん!という話が多す
ぎる。ご門徒さん寝てるやないか。。。
TVにコロッケが出てた。ころころ顔が(表情が)変わるからコロッケというのだそうです。
コロッケ最初は形態模写だけだった。それから、研究して声もモノマネするようになった。
低い声でジャイアント馬場の声を出したかと思うとだんだんキーを上げていって淡谷のり子の
声につなげた。お見事でした。こうやって、いくつかのパターンから100何人かのネタを考え
るそうです。最近はロボコップ風の五木ひろしとかが受けた。。。
ダウンタウンは嫌いです。確かに松本おもろいことはおもろい。けど、おもろいだけ。人を
なめたような発言が目立ちます。お前らと俺の芸の差を知れ!とか、客がついてこれるか。。。
とか『遺書』とか『松本』とかいった松本の書いた本を読むと彼のゴーマンさが鼻につく。
(ついでに常盤貴子とつきあってたくせに、次は優香かよ!って単にルサンチマンやな。。。)
あととんねるずの石橋も大キライ。モー娘。に中澤裕子がいたとき、中澤が結婚相手の収入は
500万くらい、と答えた。すると、石橋「エー」というから中澤「多いですか?」と答えると、「おれなんか二分しゃべれば500万」。。。
ステージの袖。リハーサルやネタの仕込みがある。ステージのない評論はつまんないけど、
同じくリハやネタの仕込みのないアドリブだけじゃあ、それも続かない。。。
新約聖書をご存知でしょうか。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネといういわばイエスの言行録が
あって、パウロの手紙などが続きます。これは、制作順にならべられているのではありません。
まず、パウロの手紙が書かれ、それに反対の意見をもつマルコの福音書が最初に書かれついで、
ユダヤ教の学者であったマタイ学派の手になるものができ、ついで地中海沿岸世界を意識したル
カ(医者?)のものができ、ずっとあとにヨハネ伝が成立しました。
なんで、こんなことを書くかと言うと最初の三つは内容的にも近いので「共観福音書」とよ
ばれますが、視点によって内容が大きく違ってくるのであります。一番有名なのがいわゆる山上
の垂訓とよばれていたもの。
幸いだ、貧しい人々は/神の国はあなた方のものだ/幸いだ、今飢えている人々は/
あなた方は満たされる/幸いだ、今泣いている人は/あなた方は笑うようになる
これがルカ。それに対してマタイでは
心の貧しい人は幸いである/義に飢え渇く人々は幸いである/
などなど、急にありがたい<信仰>のお話になってしまう。「私が来たのは義人を招くため
ではない。罪人を招くためだ」といった、イエスの言葉は、ユダヤ教保守派が一生懸命守らせ
ようとしていた613項目にもおよぶ律法を守れない人々を、罪人といったのであります。
親鸞のいう<悪人>は誰か?それもちゃんと勉強会で明らかにしたい。
らくりんさんの『読み解く』は、いまさらいうまでもなく面白かった。(お世辞でもなんでも
なく。。。)内容もさることながら、その方法論に感心させられました。つまり、親鸞は漢文を
独自の返り点でもって読み替えているというのは知っていましたが、いちいち浄土宗全書(でした?)などにあたって一般的な読みを示して、その上で親鸞の考え方のユニークさを浮き彫りに
されてた。
そこで。河田さんも手紙を読むに当たっては赤松俊秀という学者さんが誤訳(?)して広めた
思想を論破せんとご自分の訳と比較されながら講義されました。らくりんさんとは逆というか、
親鸞さんの書かれたものを古文として読めば、赤松氏のようなでたらめな読みになるはずがない、という進め方でした。この方法を踏襲したいと思います。
ちくま新書から98年に出た、佐藤正英というひとの『親鸞入門』という本があります。この
学者さん、『歎異抄論註』という分厚い本を出しておられましたが。。。その中で、河田さんが
取り上げていた念仏弾圧事件を、赤松説にひきずられて書いておられます。すなわち、念仏者の
中に<造悪無碍>にハシルやからが出てきて、領家・地頭・名主がこれを口実に弾圧した。で、
関東につかわされた息子、善鸞がこの事態を収拾した。その後、この造悪無碍派の処分をめぐっ
て善鸞を義絶するにいたった云々。。。
これ河田さんから聞いた話から、ずいぶん後退しています。領家・地頭・名主は、あること
ないこといって難癖をつけてきた。さらに善鸞は、念仏をしぼめる花にたとえたり、大金を送
ってきたり、裁判をおこしたりして「権力者」との癒着が目に余るモノがあった。。。
勉強会でゆくゆくあきらかにしていきたいです。
米朝師匠の師匠、桂米団治(よねだんじ)さんはこういわれたそうです。「芸人というものは
食べ物をつくるでもなし、世間の中で別にあってもなくてもいい職業だ。だから、野垂れ死にし
てもかまわないという覚悟がなければやれないものや」と。。。
その言葉が原点にあるから、お客さんをどう喜ばそうかと骨を砕いてはるんやろな。TVでも
ネタの中で飛ばしたトコがあって、師匠大いに舞台に不満で降りてきてはった。
厳しいなあ。。。むかし永平寺の坊さんたちが托鉢にでるときは、襟のところに銭を縫い付け
て、行き倒れしたときは、それでもって葬式をあげてもらうようにと出て行ったとか。。。
生ぬるいなあ、現代は。。。なあなあで済む世界。。。妥協とシャンシャンだらけの坊主道。
皆さん、自分が一番だと主張されたいようで。
ネット・スノッブですか。
直接会ってお話された方が良いのではないですか?
BBSの悪い形ばかりが出ているような気がします。
全然解ってないトンチンカンな反応ばかりなので、
再度テストします。
問い1
次のABCを価値の高い順に並べなさい。
A 国家
B 家族
C 個人
問い2
次のABCを大きい順に並べなさい。
A 国家
B 家族
C 個人
問い3
次のABCを発生が古い順に並べなさい。
A 国家
B 家族
C 個人
問い4
次のABCを価値の高い順に並べなさい。
A 国政選挙に行く。
B 家族で遊園地に行く。
C 昼寝。
問い5
次のABCを価値の高い順に並べなさい。
A 「国家や資本をめぐる問題」を考える。
B 恋人とのデートのことを考える。
C 詩集を読む。
前前住上人、「おどろかすかひこそなけれ村雀 耳なれぬればなるこにぞのる」、この歌を
御引きありて折折仰せられ候ふ。ただ人はみな耳なれ雀なりと仰せられしと云云。
ボウズハウスで勉強会をはじめます。題して『河田光夫のしゃべり残した親鸞からの手紙を
読み解くのつづきを読む』 えらい長いタイトルやな。。。10年前、うちの師匠のお寺で講義
が始まった「手紙を読む」。河田さんは、念仏弾圧事件を中心とした十通の親鸞の手紙をとり
あげ、これを講義された。しかし、講義は4回目をおわったところで河田さんは入院され、その
一年後に帰らぬ人となった。。。
96年にこの講義は明石書店から出版されたけど、4回目の講義もテープがとれておらず不完
全な講義録となってしまってます。それで、このほとんど手をつけられなかった4回目の「善鸞
義絶状」からはじめて7通を読み解こうと言う試みです。河田さんの読みはとても面白い。聖典
となっているご消息をまずはきっちり古文(文学作品)として読む。
98年には同じ主旨で講義された『歎異抄を読む』が同じ明石書店から出版されてますが、こ
こでも同じ精神で貫かれています。解説で現大谷派教学研究所所長さんは「二三の読み間違いに
気付いた」とおっしゃってますが、ぐっちんなどは読めるところが二三しかない、というのは
大げさですがそれに近い。
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし
これは和讃ですが、この「べし」は命令ではない。報ぜよ、謝せよといわれてるような気がして
たのですが、この「べし」は意志をあらわす。つまり報じていきたい、謝していきたいという
意味ですね、と。ぐっちんはずいぶん耳なれ雀(枝雀さんのことを考えてて思い出した。。。)
になってしまってます。聞いた、わかったと思ったことも実はアヤシイ。耳にタコができるほど
聞いたなんてことはアヤシすぎる。。。
一人で居るなら、二人と思え。その一人は親鸞だ。
みたいな言葉があった。ストーカーか、親鸞は。
いや、きっと、その人のことが、大好きなのだと思う。だから、相手に嫌われても、そばに居たいのだと思う。相手がどうなっても、どんな態度をとられても、その人のそばに居たいのだと思う。
でも、これは私には無理。自分の都合もあるし、生身の感情もある。
『どんなあなたでも無条件に受け入れてくれる世界があるんですよ。』って、関係している事実の暖かさを伝えられれば、って思う。
でも、その中にも『俺が、、、』っていう意識が出てくる。大変だ。でも、お互い生きている生身の人間だから、その大変さが無かったら、もっと大変。
論理や、評論家の嫌いなのは、その大変さをどこかで切り捨てている気がする。死にたくなる気持ちも一人ひとり違う。生きてる大変さも違う。でも、めんどくさいし、論理や学説に逃げたくなる。頭のなかで、いま目の前で苦しんでる人を決め付けてしまう。
決め付けられること嫌いだから、めんどくさくってついついやってしまうけど、一人ひとりと関係をむすんでいきたい。
体調に不安のある米朝師匠。大ホールにはこれからは出られないそうです。
もし自分が舞台に穴をあけたら、それを埋めるものがいない。。。
「枝雀がいてくれれば。。。」そう米朝師匠はおっしゃる。若い頃師匠の忠実なコピーをめざ
しながら神経をやみ、そののちコピーをやめオオバケした枝雀さん。晩年は趣味で習っていた
英語による英語落語をやったりしてましたが。。。ある種、芸に行き詰まりを感じておられた
ようだった。。。それに弟の奇術師、マジカルたけしさんが亡くなったのも心細くなっておら
れたようだった。何せ、枝雀さんは本来、学生時代は弟と組んで関西の素人漫才コンクールを
総なめにしていた漫才の人だったからなあ。。。
一番弟子の南光(旧べかこ)さんはかつていってた。うちの枝雀一門は「師匠」が好きなんです。師匠がこれから落語やめてお坊さんになるといったら雀々(じゃくじゃく)以外はみんな髪
を落ろします、と。これくらい弟子から惚れられたらさぞかし。。。
真宗は、従人立信だというけど、ここまでの師弟関係というのはないんと違うかなあ。。。噺家さんの世界から求道の姿勢(芸への精進)とか学ぶべき点が多い。。。
夕べもNHKスペシャルを見ていて眠い。。。『米朝 最後の大舞台』
いやー、米朝師匠お年を召されました。かつて油の乗り切った50代の師匠の芸をつばがとん
でくる距離で聞かせていただきやした。何物にも変えがたい財産であります。ニーチェのいうよ
うに人生が永劫回帰、つまり何度でも繰り返すものならば、あの場面にもう一度遭遇できるわけ
ですが。。。
師匠は優しいお人柄ですなあ。ライバル今は亡き六代目笑福亭松鶴が、「情」の人なら師匠は
みな「知」の人だという。けれど、昨日のTVを見ていてつくづく師匠の優しさがブラウン管を
通して伝わってきましたでー。今年の正月、恒例になったサンケイホールの独演会の前日、七番
弟子の歌之助さんが亡くなられた。
歌之助さんは、ぐっちんも感じてたけど、理系の大学を出られてて少し華に欠けたところのある芸人さんでした。うまいんやけど、隙がなさ過ぎて売れない。ちょっとギスギスしたとこがあっ
た。そこを近年(ぐっちんは見てなかったけど。。。)骸骨の人形を舞台に持ち込む演出など
工夫をこらしてこれから面白くなりかけていた時だったと言う。。。
師匠出番の前に考え込んだ。ここで歌之助の話をしなければ、客が不自然に思い話しに集中し
てこないだろう。かといって弟子の死を語って正月早々しばし浮世を忘れて笑いにきている客
に申し訳がたたん。そこで出番。見事師匠は、まくら(落語に入る前のイントロダクション)で
弟子の死にふれながら、自分の死にように話題をもっていって笑いを取った。。。
ぐっちんも師匠の弟子になりたかったな、ホンマいうて。。。
>『私を見て!』って、どんどんその道に突き進んで行きよったな、あいつは。
モモさんが河合隼雄のことばを引いてカウンセリングの極意は「はたにいる」ことといわれて
ましたが、そうスタンド・バイ・ミー。インド語ならウパスターナ(傍らに立つ)。♪そばに
いるだけで きみとパラダイスにいるみたい(宇多田ヒカル)。。。
酔っ払いを「真人間」にしようとあれこれ世話を焼くこと、例えば一升瓶押入れに隠すとかいう
よけいなお世話が、ますます依存体質を強化していく。。。♪そばにいてくれるだけでいい(フ
ランク永井)。。。
> ぐっちんは、タブーをおそれず何もかもみてしまえさえすればいいのだ、死は救いだからあ >えて死ななくてもいいのだ、という論理につなげてみたい。
お話はええちゅうねん。
河田みつおの名前を聞いて思い出す。
『おまえ、明日学校にけえへんかったらしばきまわすぞ!』
>まあ自分が如何に非力かつくづく思い知らされましたね。。。
そうか?服毒自殺に失敗して、退院した日に『飲みにつれてけ!』というような馬鹿女が、何年か生きれたのは、ぐっちんさんが傍にいてくれてたからと違うん?少なくとも、私や、あと数人の人間はそう思ってるけどな〜。で、感謝してるけどな。
大切だったり、必要なことは、論理より『おまえアホか!』という言葉の裏にひそむ感情だったり、抱きしめてあげたり、男だったら殴ったりとか、そういう、『生』の感覚だと思う。
『死にたかったら、勝手に死んだらいいやろ!このくそぼけが!』とか。
時代がきれいに成りすぎている。言葉や、論理。それだけで語れない『生』な部分。形に当てはめきれない、むちゃくちゃな部分。『生』な部分。きったなくて、どうしょうもない、『生』。思いどうりに行かない『生』な部分。
やっぱり、テレビや映画でセックスシーンを撮るときは、きちんと最後にテッシュペーパーで性器を『カサカサ』って、拭くところまで映さないと。
>自殺される方が心が弱いというより、感受性が強いというほうが正しいのではないでしょう >か?
え〜、先輩は自殺する人が増えたらいいと思っている人なのでしょうか?そうでないのなら、こんな教育評論家みたいなこと、言うの、やめたほうがいいと思います。
感受性が強い、というのは、誉め言葉、ある意味で、価値ある事です。
『あなたは、感受性が強いですね』と、言われて、怒る人はあまりいないと思います。逆に、『あなたは、感受性が乏しいですね』と言われると、腹立ちます。そんな事ないですか?
理由はさまざまでも、自殺を考える人、してしまった人。自分が生きている事に価値を見出せなかった人。世間から『クズ!!』って、呼ばれたりして、自分でもそう思いこんでしまって、、、。ほんと、辛いですね。
でも、そんななかで
>自殺される方が心が弱いというより、感受性が強いというほうが正しいのではないでしょう >か?
なんていう言葉を聞いたら、そこに自分の価値を見出してしまうのでは?
『誰かに認めてもらいたい。評価されたい。価値ある人間でいたい、、、。』って、言うような、ぎりぎりの、もろく、こわれやすい心。小さく、悲鳴をあげている心。そこにしか、自分の価値を見出せなかったら、どうするのでしょうか?
私は高校中退でして、その後、不登校の人達がよく遊びにくるフリースペースに、私もよく遊びに行っていました。ぐっちんさんの『元つれあい』もその中の一人でした。
>自殺される方が心が弱いというより、感受性が強いというほうが正しいのではないでしょう >か?
『私を見て!』って、どんどんその道に突き進んで行きよったな、あいつは。
世間で価値を無くした、『クズ』あつかいにされる人間にしか発見出来ない世界があると信じます。それを説いていくのが、念仏者だと思います。感受性が強いとか、また違う価値観を与えることは、教育評論家の仕事です。で、教育評論家には人は救えません。ごまかすだけです。
戦前は社会主義者・共産主義者・アナキストが、戦時中になると、自由主義者などもこう呼ばれて弾圧されました。
スターリンやその亜流たちも同じように「〜主義者」とレッテルを貼っては、「人民の名のもと」に人民を弾圧しました。
この手の「〜主義者」というレッテル貼りは言論の自由を抑圧するスターリン主義者(死語?)やファシストが、異なる意見を排除する時に用いる常套手段です。
たとえ自分と見解がことなっているからといっても、「〜主義者」という一方的<断定>をもって批判とするのは自由な意見交換を妨げるものでないでしょうか?
真実を見抜くことは困難・・・・
だから南無阿弥陀仏
>ちと前の「役僧再配分」についても、「搾取する自由」を許している体制だからこそ、生じる >問題です。
おお!すばらしい!さすがは、三吉さん!
役僧として、少し言葉を付け加えるなら、それを許しているのは、ぼう(漢字がない)法であるという事。役僧が、本願をお話にしてしまって、「まあ、いいや!」って、現実はそんなに甘くないって、本願を『お話』にしてしまっていること。これを、ぼう法と言わずして、なんと言う。
とはいえ、現実は『めんどくさい』から、仕事終わって、飯食いながら発泡酒飲んで、ここでぐっちてるだけだけど、、、。いや、もう、本当にめんどくさくなって来た。
役僧は、かなりの『苦行』だ。
>「国家や資本をめぐる問題」を論じないものは人にあらず
>という主張をなされたからです
私は、このような主張をした覚えはありません。
私がこれまでとってきたスタンスは、
マル経系等の経済学者(いわゆる社会科学者等)に対しては、
仏教的な主題群が「第一級の」問題提起として対置され、
また、逆に従来の社会性の希薄な仏教者に対しては、
社会科学系の主題群が同じく「第一級の」問題提起として対置する、
という文脈での主張であった筈です。
私が名指しで発言している場合、不特定多数のことではありません。
だから、なぜこのような「横やり」が入るのか、全く持って不明です。
少なくとも私は、最初にお留守居役様に対して問題提起した覚えがなかったからです。
<今日において第一級の問題である>という発言を、
<「国家や資本をめぐる問題」を論じないものは人にあらず>と解釈されているのは、
なぜか?
過去体験<青年党員たちによって、脅迫され、良心までも責められた>が、過敏反応を
引き起こしているのでしょう。
若者が熱かった時代に、「行動」しないことを責められ、「良心」がうずいた。
で、行動しないことを正当化する「屁理屈」を手に入れたものの、
そういう種の発言は、トラウマになってまだ克服できてないから、悪夢を思い出させる。
意識するしない関わらず、現代この場所で生きているということは、「国家や資本をめぐる問題」
が、絡まってるのは「現実」でしょうや。
自死の2万人代推移から3万人代推移という増加。高齢者・経済苦・リストラというものも、
この種の問題が背景にあるし、ちと前の「役僧再配分」についても、「搾取する自由」を
許している体制だからこそ、生じる問題です。
ただ、これに対するアプローチの方策として「重層的」というのはありうると思います。
ぐっちんさんが語られるように、「リストラ」が「自信喪失」に連絡しないような価値観の
転換。「サンガ」内経済は元々「平等分配」であり「搾取」はなかったという釈尊の飯の食い
方とか。。それが一級問題としてもアプローチの仕方は様々あるのではと。
ならば、誰かの定義される「スターリン主義」とはいえない
人ごとではありません。
スターリン批判以後の知識人である
Genkoさんがスターリニストだと申したのです。
「国家や資本をめぐる問題」を論じないものは人にあらず
という主張をなされたからです
かつての日本共産党がスターリンを讃美していた政党である
ことをお認めいただけて良かったと思っています。
現在の日本共産党が、スターリン主義政党であるかどうかを
論じるのはこの場にふさわしくないと思います。
けれども、
>1960年代にソ連と中国の干渉をはねのけて、
>1970年代には日本共産党の自主独立路線が確立しました。
というような言い回しは、スターリン主義そのものという感じがします。
「自主独立路線」がスターリン主義の「一国社会主義路線」の
焼き直しだというのではなくて、
「はねのけて」という言い方が、上意下達、党中央を讃美する
スターリン主義者らしい一途な心情が顕れていると思いました。
なお、ここでスターリン主義といっているのは、
社会主義的な全体主義のことです。
古い奴だとお思いでしょうが、古い奴ほど新しさを装ってるもんでございます。
どこに話について来れる坊主がございましょう。
生れた寺は儲け放題、今の世の中、ニシもヒガシもナンセンスじゃござんせんか。
何から何まで 真っ白シロけ
情勢の判らぬ やつばかり
ニシを向いても ヒガシを見ても
馬鹿と阿呆の 馴れ合い
どこに前衛インテリの 居場所がある
なんだかんだとプロパガンダめいたことを申して参りましたが、
そういう私も港育ちのひねくれ者、
アミダ様に背中を向けて歩く、あほな赤子でございます。
たて飢えたる少女と アカハタ振って
歩きたいけど 歩けない
いやだいやです カラタニ様よ
ボンボン育ちの 泣きどころ
重たすぎます おいらには
同じことを何度も反復したくないのですが、
そうすると、私はかつて一度もここで、「国家や資本をめぐる問題」以外に言及したことはないということなのですか?
大抵の真宗教学者や仏教徒がしばしば論ずる定番的な主題は、何もぐっちんさんなどから聞かずとも、きょうび多くの本や宗教番組などで、耳にタコが出来るほどさんざん聞かされてきています。
私は、言うところの「国家や資本をめぐる問題」を前景化する一群の知識人のある部分を批判した上で、なおかつこの主題の重みについて語っているのです。
彼らが仏教的主題に全く触れることが出来ないように、何も私たちまでがその反対の相似形を演ずることはないでしょう。
ここで語ることどもについて数々の誤解や批判・非難の応酬で傷だらけの私に対して、
あなたが今まで全く「無傷」であることの意味について、一度でもいいから気づいて頂ければ幸いです。
>お留守居役様へ
ほーう。そうすると、「カルスタ」の源流たるスチュアート・ホールや、
社会学者のA・ギデンズは、スターリニストの亜種ということになりますね。
私の拙い知見によれば、確か彼らは「スターリン批判」以後の知識人だったと聞いておりましたが・・・。
1950年代の日本共産党分裂をふまえて、1960年代にソ連と中国の干渉をはねのけて、1970年代には日本共産党の自主独立路線が確立しました。私が身をもって知っているのは1970年代以降についてです。かっての日本共産党がスターリンの指導のもとにあったことは歴史的事実ですが、自主独立路線が確立して以降の日本共産党についてはスターリン主義と決別しているのではないでしょうか?
だから、キリーロフはあえて自殺なんかせんでもいいのに、とぐっちんは思うのですが。。。
P.S. 狂信さんのいかれるドス板の管理人さんとはかなりぐっちん、センスが違う。
という話があります。詳しくはHPを読んでいただければよいのですが、パッと見ィ龍樹の
穏身の術みたいなお話です。付け根をひねると姿を消すことのできる指輪を手に入れた人物。
彼がやったことは、自分が仕えていた王を殺害し、王妃を寝取り、王位についてしまうという
ことです。
人間は誰もみていなかったら悪いことをするのではないか?視線があるから法や道徳に従っ
ているのであって規制なんかなくなったらやりたい放題になるんだ、というグラウコンという
青年にソクラテス(プラトン)は、そうやおまへんでぇと反論する。
で更にドストエフスキーの『悪霊』を見ると
(スタヴローギン)「でも、餓死する者も、女の子を辱しめたり、穢したりする者もあるだ
ろうけれど、それもすばらしいのですか?」
(キリーロフ)「すばらしい。赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩きつぶす者がいても、やっぱ
りすばらしい。叩きつぶさない者も、やっぱりすばらしい。すべてがすば
らしい、すべてがです。すべてがすばらしいことを知る者には、すばらし い。……。」
…中略…
(キリーロフ)「人間がよくないのは、自分たちがいい人間であることを知らないからです。
それを知れば、女の子に暴行を加えたりはしない。人間は自分がいい人間で
あることを知る必要がある。そうすればすべての人が、一人残らず、即座に
いい人間になる。」
ここらあたり、親鸞さんの「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」といい、「薬があ
るからといって、毒を好むやつはいない」といわれてるあたりと非常に近いものを感じます。
ぐっちんは、タブーをおそれず何もかもみてしまえさえすればいいのだ、死は救いだからあえ
て死ななくてもいいのだ、という論理につなげてみたい。http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/~kodama/ethics/wordbook/gyges.html
<60年代>も終わったけど、<80年代>も終わってるんやけどな・・・
今年は確か2002年やったな・・・・。
真宗教団のやってることは半周おくれや、ってO村A昭氏がゆってたが、
当たってたりして。
>日本の某政党にはスターリン主義という
>レッテルが貼られていた時がありました。
これは事実に反していると思われます。
フルシチョフのスターリン主義批判以前、
スターリンの存命中に日本共産党は、
スターリン主義を批判していたでしょうか。
レッテルが貼られていたどころではなくて、
スターリン主義政党であった時期があったのではないでしょうか。
スターリンを同志と呼んでいた時期はなかったですか。
龍樹が『宝行王正論』とかいう本を書いてましたね。あれ、ダイジェスト(人類の知的遺産
;講談社)でしか読んだことないのだけど、印象がどうも薄い。中公の大乗仏典シリーズには
全訳載ってましたっけ?確かどっかの王様にあてた手紙だったような。。。あれには、何か<
政治>にまつわるハナシが書いてあったのかな。。。
龍樹といえば、隠身の術をつかって王宮の女性達を陵辱したという伝記が印象的です。あれ
は確か、龍樹以外は切り殺されてつくづく人間の欲望は抑えがたく、オソロしいので出家した
んだ、というオチになってました。(さんざん若い時に放蕩生活を送ったアウグスティヌスが
キリスト教に回心したみたいな感じ。。。)出家したら、あまり社会生活には関心が薄れて、
積極的に<社会構想>を描くとは思えないと推測するのですが。。。
同じく、世親や曇鸞や善導、道綽、源信の政治思想ってどんなんでしたっけ?
かってスタ幹という言葉がありました。日本の某政党にはスターリン主義というレッテルが貼られていた時がありました。ソ連の崩壊を某政党は大歓迎しました。いまや発達した資本主義国では最大の科学的社会主義の某政党については、スターリン主義のレッテル貼りをするのはオカシイと、かって某政党に所属していて、今も熱烈な支持者である私の実感です。離党したのは、病気と哲学の問題からです。僧侶になることと唯物論とは両立しないと思ったからです。組織の束縛を受けない今の方が楽ではあります。レッテル貼りで現実を見誤ることは避けたいです。
> 老いや死が通仏教の第一級のテーマです。介護や看取りという問題をつうじて、人が老後を
>生きるって?病むことに意味はあるの?往生って何?死後の世界ってあるの?などなど話に花が
>咲くんではないかなあ。。。またビラをつくって、お寺の周りの集落に配ってご門徒でもない方
>にも自由に来れるようにしたらいいんじゃないかなあ。。。
そういう集いが開催されるなら行ってみたいな。
端っこに座って、色んな人が色んな思い持ってるのを聞きたい。
ありがたやのお説教や理屈より、ずっと生きた言葉だと想像します。
参加希望に1票
河合隼雄さんが、若いカウンセラーからの質問の中で
カウンセリングの一番大切なことは「はたにいる」
と思ってもらうことだと言っています。
文明が発達し、生活も物質的には快適で豊かになってきたけど
精神的には、孤独感が強まり、ますますとげとげしい人間関係
になっている現代。
昔、ぐっちんさんだったでしょうか(記憶が違っていれば
申し訳ありません)リストカットのHPを紹介してくださり
見てショックを受けました。年間の自殺者が三万人、という
数字は分かっても、一人一人の悲鳴が聞こえていませんでした。
自殺されることが敗者という意識が、それまではありました。
しかし、回りで実際に自殺を選ばれた人を前にして、何とも
言葉がありません。自殺される方が心が弱いというより、
感受性が強いというほうが正しいのではないでしょうか?
混迷きわまるこの現代社会で、ある意味気が狂わない方が
おかしい時代です。感覚が麻痺しているのは誰なのか?
考えさせられます。
長い髪を 風が優しく包む。。。
生まれて初めて買ったレコードはザ・ワイルドワンズの『愛するアニタ』でした。(後に
大ヒット曲『思い出の渚』を生みます。。。)
おかんが好きだったのが、清水道夫をボーカルに据えたヴィレッジシンガーズ。なんかこの
曲を聴くとおかんを思い出す。。。(って別に死んだわけではないけれど。。。)
亜麻色とはどんなロマンティックな色かと思ったら、今でいう茶髪なのだそうです。そういえば、茶髪のおねーちゃん達を初めて見た時、おもわず「渚ゆう子や青江美奈みたいやな。。。」
と思った。。。歴史は繰り返す。。。
おじきさんとこの家の犬の名がガッツ。関係ないけど、トラックがバックする時
「ガッツ石松 五十円下さい」と聞こえる。
おじきさんとこで、介護報恩講をやりましょう。ご門徒の中には、ヘルパーさんとかもしか
したら元看護婦さんなどがいらっしゃるかもしれない。資格をもっておられなくとも、お舅さ
んやお姑さんを看取った方はいらっしゃるでしょう。おじきさんは、仏教の知識が豊富だから
門徒さんは一方的にうなづくしかないでしょう。けれど、介護のことならご門徒さんの方が詳
しいかもしれない。(今後、おじきさんが赤ちゃんの育児でおぼえることもあるだろうけど)
老いや死が通仏教の第一級のテーマです。介護や看取りという問題をつうじて、人が老後を
生きるって?病むことに意味はあるの?往生って何?死後の世界ってあるの?などなど話に花が
咲くんではないかなあ。。。またビラをつくって、お寺の周りの集落に配ってご門徒でもない方
にも自由に来れるようにしたらいいんじゃないかなあ。。。その際は同じ村の別宗派のお寺さん
に断り入れといて、余計なトラブル起こさないように根回ししておくとか。。。
国家っていうのは、つまりその国のおかね(日本なら円)と法律がゆきわたるところ及びその
仕組み。人が生まれるときには、その国を選べない。
で、法律というのは守らない人、守れない人、破る人といった非国民を生み出す働き。
資本(主義)は、ようするに合法的な大掛かりなバクチを基礎にしたもの。このマネー
ゲームの敗者は、舞台から去るのがオキテ。特に日本型資本主義は敗者復活戦がない。
阿弥陀さんの願いとは、「念仏するいかなる者をも見捨てない」というもの。らくりんさん
流にいうと、摂取不捨の論理。
かたや国家および資本(主義)の原理は、選別・排除・強制の論理。 以上作文おわり。
無量なり、でしたか。。。親鸞さんのお手紙のどこかにこういうフレーズがあったはず。。。
戦死が救い、だといってるんではありません。殉死が救い、だといってるんでもありません。
自死が救い、だともいってません。死が救いだと。死者を裁量する権利など誰にもありません。
死が救い。けれども君死にたもうことなかれ。。。
同様に、「さるべき強縁のもよおせば」人をも殺しかねないこの私。
けれども、汝殺すことなかれ。。。
うちの犬もこの頃かなり弱ってきて食欲がありません。いろいろ処置は施してますので
何とか快方に向かって欲しいです。うちの家族はこの犬に救われたと言っても過言では
ありません。死んだ弟の大きな穴を見事に・・・仏のおつかいだと思います。
「国家と資本をめぐる諸問題」をマジメに考えないような輩は非国民だ!仏教徒を名乗る
資格などない!と言われそうですね。がそれもある種のファシズムなのでは・・・。
6月18日のGenkoさんのカキコ
>だから、私たち仏教者にとって、この両者(すなわち<国家>と<資本>)は、いまだに
>看過できない(古くて新しい)大テーマなんだ、と。「あほ」は、赤子のように真実だけ
>は見抜く<眼>を持っているものです。
仏教者は、国家と資本をめぐる主題を第一級の問題にせよ!とおっしゃるのか。。。で私に
>見田論文から学ぶのではなく、「資本論」のテクスト自体から学ぶ(=内在的に読む)こ
>とをどうしてやらないのでしょう?
とお勧めされる。マルクス「資本論」から学ぶ事が仏教者の第一級の問題なんですか?
親鸞さんは例えば
>浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心も
>さらになし
でもなんでも、凡夫には<真実>はないんだとおっしゃっているのですがねえ。Genko
さんは、「真実を見抜く眼をもっている」とおっしゃる。。。
Genkoさんへ
>それともあなたは、世が世なら、再び「真宗」僧侶もまた、「国家や資本」による
><戦争>やその他の抑圧的な政策に決して荷担しないなんて本気で信じているのですか?
ぐっちんがGenkoさんのカキコを引用すれば、<恣意的>だとかなんとかおっしゃるの
だけど、ぐっちんに対してはこのようなわたしのカキコにまったくないようなフレーズを仮託
されて批判されるのだけど、これもGenkoさんのディベート術のひとつですか?
何も自殺を「美化」しているわけではありませんけどねえ。。。
きけわだつみのこえ?だったか。。。「死が美しいなんて誰がいった」だっけ?そんな
フレーズがありましたなあ。。。
「あしながおじさん」っていう団体は、むかし交通事故で<働き手>を失った家庭の学資の
援助活動をしているのだと思ってたけど、最近は事故死より自死が多いとききます。
あれもぐっちんお父さんたちが「一家の大黒柱」とかいう幻想にとらわれているから、リス
トラや失業で自分の存在価値までなくなったと<錯覚>してしまうのだと思う。食えなくなっ
たら「おかあちゃん」もパートに出、おとうちゃんもアルバイトやるのもよし、<主夫>やる
のもよし。子供たちも自分の学費は自分で稼ぐぐらいの根性もったらなあ。。。と思う。
ああ、そういう説教をつれあいにもしたことあったっけ。つれあいが通ってたクリニックで、
飛び降り自殺するクライアントが出たので(クリニックの初診についていったら「自殺しない
と誓ってくれますか?わたしたちは、あなたに出会って、あなたが生きていくのをお手伝いし、
見守っていきたいのです」といって誓約書を書かせられてた)ああいう人をどう思うか?とつれ
あいに聞かれたのに答えたなあ。。。
で、つれあいの友達が家に遊びにきてたのだけど、その娘さんも後日死んだことを聞かされて
まあ自分が如何に非力かつくづく思い知らされましたね。。。いつぞや、おじきさんに宛てた手
紙の中に、『ライ麦畑でつかまえて』のセリフを引用してたっけ。。。
「未熟な人間は尊大な死を選ぶが、成熟した人間は卑小な生を選ぶ」
自死は、自死で無く、社会幻想が作り出す殺人だと考える。
鬼神に殺された。私(達)は、何も出来なかった。
だから、私は『死は救い』に反対する。
>お留守居役様さんへ
お久しぶりです。えーと、三匹目のねこなんですか?最近うちにきたヤツはやっとオスである
ことが判明しました。「お祈り」が効くかどうかわかりませんが、遠方より快方を願っております。
>oyajiさんへ
遅くなりましたが、<臨死体験>記興味深く読ましていただきました。ぐっちんもバイクで事
故った時に四つ角から出てきたクルマにぶつかるほんの数秒のあいだ、スローのコマ落とし再生
みたくなったことがあります。あと、ナマで聞いた事がありませんが、高い所から転落して九死
に一生を得た人の経験に、ライフレヴューというのがあります。何秒かのあいだに、それまでの
人生がパラパラ漫画みたいに再現されるというもの。
これなんか、地獄のエンマ様の前で浄ハリの鏡に自分の人生が映し出されるっていうことで、
伝承されてきたことなのかなあ、と思います。ぐっちんは、見ていないのですが知人は「そう
いう話はXファイルでやってましたなあ。何でも生体が危機的状況に陥った場合、ちょっとで
も問題を解決するヒントになる以前の経験を検索するため(つまりガケから落っこちて死にそ
うなのでなんとかそれを回避する行動)、ライフレビューがあるんやって」
人間の脳には不思議なプログラムが備わっているのだなあ。。。
>「死は救い」説なのだ。自殺をすすめるわけではないが、もうどうしょう
>もなくて自死を選んだ人にムチ打つな!って感じです。
自死が救いであるわけがない。だから私も『この親不孝ものが!』と、思う。
自死した人間にムチ打つことは出来ないが『このくそボケ!』と、馬鹿にする。
自死した人間に、思いをはせ、『どれだけ苦しかったんだろう、辛かったんだろう』と、考え、人によっては、おお泣きもするが『仕方がないな』とは、思えない。まして、『死は救い』なんていうことは、絶対に思えない。
自死した人間は、馬鹿にするべきだ。「この弱虫、卑怯者!勝手に死ぬなよな〜。このくそボケが!」てな具合で。
自死を美しくあつかう風潮がある。やたらと遺稿集を出したがったり。思春期のスターにしたり。確かに身の回りの自死した人間や、しそうな人間を見ていても、感受性の豊富な、繊細な人ばかりなのだが、同時に汚いものを異常に嫌う人たちでもある。
純粋ってそんなに善い事なのだろうか?自分(達)が純粋であるがゆえに、例えば『穢れた大人達』としていく事は、本当に純粋なんだろうか?
人生はゲームではない。だから、思いどうりに行かないからといって『リセットボタン』を押すものではない。なさけなくても、醜くても。
>舌と喉と首に悪性の癌ができて、食事も水飲みもできなくなってしまいました。
>でも、今日、器に顔を突っ込んで、缶詰の魚のフレークを食べようとしました。
>うまく食べられませんでしたが、生きようとする意欲を見せられて、
>泣きました。
同じ泣くなら、こういう泣き方がいい。お留守居役様には大変申し訳ないが。
どんなに辛くても、悲しくても、苦しくても、なさけなくても、自分が大嫌いでも、生きてるのが嫌でも、うつ病でも、癌でも、世間にうらみがあっても、自死したやつに救いはない。
そんな事で救われたら、私が救われない。私が救われない事を、自死した友人達が願ってるなんて、決して思えない。
ありがとうございます。
今度、「幼い弟が突然死した事がきっかけで、仏道を歩むことになった友人がこんな事を言ってました。」っていう感じで喋ってみたいと思います。
もちろん、私なりの解釈、思い込みをさんざんぶちこんでの話になりますが。
腫瘍ができて、ねじれていた舌が動かせるようになったこと。
口をもぐもぐと動かせるようになったこと。
奇跡だと思っています。
今夕は、マグロのお刺身を口に押し込んで食べさせました。
いやがって抵抗しますが、もぐもぐ食べました。ほんの少しですけど。
体重が半分以下になって、生きているのが不思議です。
私のつたない投稿文をみていただきとてもうれしく思います。私も実は大分前ですが愛する女性を病気で無くしました、婚約寸前までいってましたが、糖尿病が激しくなり薬が効かなくなり(インスリン注射)亡くなってしまいました。大変ショックでした。今でもトラウマがなくなりません。そういう体験もあって良く分かりますよお留守居役様のお気持ちは。お留守居役様の愛猫のちみちゃんのことは、私の気持ちと同じようなことだと思います。その人にとってはとても大切なパートナーナだと思うからです。私も1日も早くよくなるように毎日お祈りさせていただきます。本当に早く良くなると良いですね。命あるものは大切なものです。心からお祈りさせていただきます。ぜひ、また、その後の経過を教えてください。気を落とさないでがんばってください。
「ちいみいくん」略して「ちみちゃん」と呼んでいます。
ノラネコで、5月に我が家に来て、6月末に発病し、急激に進行してしまいました。
もっかの私の緊急の最重要最優先問題は、
みいくんではない方の愛猫の病気です。
舌と喉と首に悪性の癌ができて、食事も水飲みもできなくなってしまいました。
でも、今日、器に顔を突っ込んで、缶詰の魚のフレークを食べようとしました。
うまく食べられませんでしたが、生きようとする意欲を見せられて、
泣きました。
ぐっちんさん、我苦生さん、oyajiさん、
苦闘の日々を拝読させていただいており、ご健闘を祈っております。
真宗には、ないことかもしれませんが、
私の愛猫のために祈ってはいただけないでしょうか。
ちかごろ、おやまあと思ったことは、
ジョン・レノンの未亡人(差別用語?)オノ・ヨーコが、
ジョン・レノン空港と改称されたリバプール空港の新ターミナル2皆に建てられた
ジョン・レノンのブロンズ像の前で、エリザベス女王と面会。
「女王と会えて光栄です。ジョンも喜んでくれたでしょう。」
ビートルズ世代の反体制派としては、驚き怒り、がっかりして、悲しくなりました。
このことに比べれば、
>あらゆる戦争は悪いわけではなく、抵抗戦争とか、
>民族独立戦争はありだと思っている(三吉氏)
などというスターリン主義者の寝言は、聞き飽きたセリフの部類に入ります。
あらゆる核兵器は悪いわけではなく、
平和のための核兵器はありだと思っている
と言っていた我が国の隠れスターリン主義者のセリフと同じだからです。
だいたい、旧日本も旧ソ連も民族独立戦争という名目で戦争してました。
だから、民族独立戦争だって、なしだと思ってます。
>「国家と資本をめぐる主題」こそ、
>今日において第一級の問題であるに決まっているではありませんか。
(Genkoさん)
第一級も二球もストライクもありません。
これも、スターリン主義者の常套句です。
この亜流である毛沢東の「実践論」では、
理論よりも実践、実践の中でも政治的実践を最優先すべきである、
という恐るべきあきれた笑うべき論理が述べられていましたが、
当時、「文学」や「哲学」を愛好していた私は、
青年党員たちによって、脅迫され、良心までも責められたものです。
「真理」は、特定の次元の中で一定の条件のもとで成立するので、
「真理」も領域を超えて度はずれに拡大されると非真理に転化する、
とエンゲルスと三浦つとむさんに教わり、
吉本さんに世界は重層的に成り立っている、
と言われて、やっとこのスターリン・毛沢東主義の悪夢から解放されました。
なお、「国家と資本」と併記することには疑問を感じます。
言うまでもなく「国家」は上部構造に属し、「資本」は土台に属しているからです。
言ってみれば、国家主義には反対だが、資本主義には賛成だという立場もあり得ます。
我苦生さんがどのような状況のご門徒宅へお参りしてるのかわからないので、僕の想像
ですが、きっと若い男性が亡くなった家なのでしょうね。お参りの時に僕が話す事などは
何も決めてませんが、話の流れによっては「若くして尽きたいのちも、長生きしたいのちも
仏さんの目で見れば全く同じですよ、いのちにあれこれ価値をつけている僕らの考え方が
間違っているんだと思います。たまたま若くして亡くなりましたが、故人にとっては、
かけがえのない素晴らしい人生を生きられたんではないでしょうか。」
あるいは「亡くなった方に僕らが言える事は“関係をもってくれてありがとう”と言う事
だけじゃないですかね。」みたいな話しをする事もあります。その場の成り行きでベラベラ
しゃべってますが、あらためてたずねられると何を話してるのかあまり思い出せないですね。
Genkoさんが再登場してうれしく思います。ぐっちんさんとの「噛み合わなさ」も最高です。
ぐっちんさんがヒマやったら今年の報恩講の企画・運営はぐっちんさんにまかせます。
一度予算を組んでみて下さい。介助企画にするもよし、芸能企画にするもよしです。
> ちょっと舌ったらずだった。。。ユルシテ。。。
許す許さないってことで「ぐっちん」さんのカキコを拝見してませんので。
ノープロブレムです。
大谷家に果たして親鸞遺伝子(ジーン)は受け継がれているのか?いや親鸞の教えという
<ミーム>は受け継がれているのか?
同様に各末寺に寺の開基もしくは○○姓の遺伝子は、うけつがれていても親鸞の教えが
受け継がれていなけりゃ、それは羊頭牛肉なんじゃないでしょうか?
小宮悦子の出てるニュース番組をみてたらクローン技術で韓国女性が妊娠した!との
報道がありました。ああ、あのクローンエイドのおっさんたちですわ。
http://www.rael.org/
生命は何処から来たか?それは宇宙人がつくった、というのがフランス人のラエルという
おっさんのつくった新興宗教の教え。でもそれは「スターシード説」という仮説と同じです
ねー。宇宙から生命の種が降ってきて、地上で花開いたってやつ。。。
TVで映ってました。ちょんまげみたいに髪を結ってます。「脳の情報をダウンロードす
る。それをクローン人間に移し変えれば永遠の生命が得られる。。。」とおっさんのたまっ
ておられます。スーパーコンピューターに高分解能の磁気共鳴測定によってダウンロードす
るんだ、とロボット学者・ハンスモラベックは『電脳生物たち〜超AIによる文明の乗っ取
り』岩波書店1991年でいってましたけど、クリソツ!
さて人間は自分の<遺伝子>を保存するため生きているのか。。。それとも<民族の文化>
(遺伝子geneに対してR・ドーキンスはmemeミームと名づけました)を次代に残す為に
生きているのか、はたまた。。。
Cは必要悪で Dが不必要悪でした。Cの例としてひろさちやは、「売春」を例にあげて
います。
Cのかっこ内、不必要善→不必要悪
大経下巻のとこですよね。
>仏の教化の及ぶ所はその徳によって、国・社会は平和で、太陽や月の光も美しく見え、
>風雨の災害もなく、国は豊かに潤い、人々は安らかに暮らし軍隊も兵器も無用で、礼
>儀道徳が重じられている
イスラーム学者の黒田壽郎とひろさちやの対談でこんなことが書いてありました。つねづね
ひろは、「必要・不必要のレベルと善・悪のレベルを日本人は混同している」といってますが
それを受けて黒田は、「キリスト教では、右の頬を打たれたら、左の頬を向けよとか、仏教
でも恨みによって恨みはやむことがないとかいいますけど、現実はどうでしょうか?」と。
共同体においては、@しなければならないこと(必要善、例;納税)Aできればしたらいい
こと(不必要善、例;親孝行)Bしてもしなくてもどちらでもいいこと(無記)Cできればし
てはいけないこと(不必要善、例;歩きタバコ)Dしてはならないこと(必要悪、例;同胞殺
人)
が、それぞれある。しかし、キリスト教や仏教はAやCのモラル(道徳)レベルの話しかし
ない。イスラームの教えでは@やDのルール(法律・律法)レベルの問題にも立ち入って論じ
ているのだ、といわれます。
ぐっちんも長い間、こういうことについて悩んでいます。誰だって平和のほうがいいに決ま
っていると思っていたが、そうでもない人も世界にはいる。「名誉の戦死」を望む(望まされ
る?)ひとびと。かつては日本にもいた。「美しい理想的な死」。自分というちっぽけなエゴ
を追求するより、「より大きいもののため」に死ぬ死に方。
「国家」や「民族」や「宗教」に殉ずる。。。さて自分は?
有事法制の一環として国民保護法制を秋の臨時国会で成立をめざす政府の意向がでてきたらしい。
社会秩序維持が目的・・・「保護」なんて耳障りがいいですが・・・その実態は??
そういえば、前の戦争のとき、同じく社会秩序維持を目的にできたのが「思想犯保護観察法」。
「保護」ってよくもまあ、考えたものですね。特高警察がいきなり来て、逮捕状なしに連行する場面、戦時中を描いたTVドラマなどで見た事ないでしょうか?あれの根拠になったのがこの「思想犯保護観察法」です。あれは<思想犯>と特高が一方的にみなした市民を「保護」してあげてたんですねー
http://www.asahi.com/politics/update/0723/015.html
思想犯保護観察法の全文が↓でみれます。
第2条に「保護」の意味するところ(=本人のため)
第3条に宗教者の役割
があります。
http://duplex.tripod.co.jp/hou/hs11-29.htm
本人の意思に関係なく「私がいなければあなたないきられない!だから守ってあげる!」
と言って付きまとうのはストーカーの一典型ですが、<国>にそれをされたら、
「ストーカー防止法」は適用されるのだろうか・・・・・
ちょっと舌ったらずだった。。。ユルシテ。。。
MANUさんのいわれる「後生の一大事」は、「国家と資本をめぐる主題」とは、
一直線につながっているとは必ずしも言えないような。。。
という謂いです。MANUさんがいわれる「地獄一定」というのは、<わが身>を言い当てて
いるコトバという感じで捉えてますので、感じるところはあります。
>私がぐっちんさんに対してかつて提起した本質的な問題に対する応答の方は一体どう
>なってしまったんですか?
あなたにとっては「本質的な問題」かもしれませんが、<私にとって>は、本質的な問題
とはいえないかもしれない。ぐっちんは、あらゆる問題に答えがあるとは思っていないし、
「ノーコメント」という「コメント」もありだと思っています。
>でもMANUさんにとっての「後生の一大事」はストレートには
>「第一級の問題」ではないかも知れない。
ハハハハッ
このニュアンスはなんとなくくすぐったいですね。
ストレートか曲球か、一度直に見て欲しいな。
「一大事」の「一」とは、「One of Them」でも「Best One」
でもなくて「Only One」である、と言う御法話を頂いた事があるなぁ。
「第一級」の場合はどうなんだろう。
>さもなくば近年、欧米の「カルスタ」や「ポスコロ」の若手思想家群にしても、柄谷
>−浅田−東浩紀などの「批評空間」グループにしても、これほど声高にそれを主題化
>するはずがない
って誰なんですか?という人が多いと思います。Genkoさんの<教養>がすべての
人の<常識>にはなってないと思いますが?で、わたしは<真宗門徒>の立場で発言して
いるわけであって。。。
>何度も申し上げるように、「国家と資本をめぐる主題」こそ、今日において第一級の問題
>であるに決まっているではありませんか。みんなこの問題で苦しんでいるのです。
の「みんな」って誰ですか?「第一級」って誰にとってですか?oyajiさんにとっての
再就職問題、これは「国家と資本をめぐる主題」に確かにからんでいるでしょうね。でもMA
NUさんにとっての「後生の一大事」はストレートには「第一級の問題」ではないかも知れな
い。で、我苦生さん、CHINCHINさんにとっての「役僧問題」は、彼等にとっては「第
一級の問題」であり、
>私たちにとって圧倒的に大問題なので、教団問題に微視的に取り組んでいる場合なんかで
>はないわけです
であるわけではない。
今日も職安に行ってきた。つくずく自分このような状況に置かれて、身にしみてわかってきました。失業者がとっても多いことも。私も年齢が年齢ですから(45才)ああ情けない。くやしいよ。でも前の会社では自分なりにせいいっぱいやってきたら悔いは無いけど。こんなに大変だとは思わなかった。今はすごいショックを受けています。ああこんな自分が情けない。でも、自分の居場所を感じるのはここの掲示板だけですね。ここは本当に勉強になるなあ。来て良かったなあ。
MANUさんの投稿が、同じ内容の2重投稿になっていますので、
投稿者の以来通り、先に投稿された方を削除いたしますした。
すいません、タイトルの途中でエンターを押し、2重投稿してしまいました。
お手数ですが、前の方を、この書き込みともども削除願います
>二番目に、でも「殺人」というのは、危険であろうが悪かろうが、「さるべき業縁」
>さえあれば、してしまうものです。
「してしまう」と「してもいい」を混同する事があるから「ヤバイ」
>美しい理想ではありますが、そうそう簡単に守れる類いの理想ではありませんと
>もうしてます。
「簡単に守れない」と「守らなくていい」を混同する事があるから「ヤバイ」
三吉さんがそう思ってるかどうかは知りません。多分混同されてないと思います。
でも、混同している人もいるようです。
だから
>それは言葉遊びにしかなりません。
と思われようと、「私はかく思う」ということでしか言えません。
また、
>死後往生という<お約束>があるからゆえに、信心の意味があるという風
>に聞こえるわけです
私にはその<お約束>はないのですよ(笑)
「私は地獄一定の身」と知らされて、それに頷かされるだけです。
私の姿を見て、自分を顧みられる方も居られれば、自分とは違う世界だと考える
方も居られるでしょう。
私のスタンスは、「私は人によって教えてもらったから、私の気づいたことを、
私も自分だけに留めずに表に出していきたい」と言う事だけです。
そこに強制はありません。(そこが某会の方とは違うであろうと想像してます)
最後に、どうしても私の発言に「華光会」を意識されるようですし、また高森氏
との関係も懸念されるようですので書いておきますが、
○華光会の創設者である伊藤康善師のもとに高森氏もいたと言う事実。
○現華光会代表である増井悟朗師と高森氏はともに大学時代をすごし、ともに
求道していたと言う事実。
があるだけで、親鸞会の創設に華光会は何も関わっていないようですし、活動も
いっさい交流はありません。全くの別組織です。
ということで、「親鸞会」に関わることとして「華光会」を引き合いにだして
欲しくありませんし、「華光会」にかかわる事として「親鸞会」を引き合いに出
して欲しく無いと思ってます。
さらに、「華光会」は私に仏縁を与えてくれる”場"では在りますが、発言におい
ては、私の”受取”で話しておりますので、私の発言で華光会を量るもの如何な
ものかと思います。
こちらの誰かの発言を持って、「大谷派は」とか「浄土真宗は」などとくくる事に
意味が無い事はご存知のとおりだと思います。
もひとつ”余計なお世話”ついでですが、
>親鸞会や創価学会レベルの底の浅い信仰だと私は感ずるわけです。
まぁ個人の思いを述べられるのですから良いんですが、
あまり固有名詞出さない方がよろしいかと・・・
「死は救い」説なのだ。自殺をすすめるわけではないが、もうどうしょう
もなくて自死を選んだ人にムチ打つな!って感じです
ぐっちんさんの言われるように、テレビやマスコミの
コメンテーターなるもの、評論家なるものはどうも
リアリティが感じません。自分が悲しんだり、苦しまずに
道徳論で攻めてこられても、何ら響いてくるものが
ありません。外は梅雨明けの好天気で気持ち悪いくらいの
暑さの中で働かないといけない者に対して、クーラーの
ガンガンきいた部屋で何を言っていても全くリアリティ
がない。もっと、もっとリアリティが欲しい。
お二人とも貴重なアドバイスとご意見をいただきありがとうございました。大変勉強になりました。ぐっちんさんが<いちいち恐縮しなくても良いのでは>とおっしゃていただきありがとうございます。私のくせなのかもしれませんが???自分でも良く分かりませんがそのようなくせがいつのまにかついたのかもしれません。お許しください。でもお二人が私の発言に反応していただきとっても感激しました。どうもありがとうございます。このらくりんさんの掲示板に来て良かったと感謝しております。
>ぐっちんは、あきれてしまっていたが。。。
あきれるのは勝手ですが、私がぐっちんさんに対してかつて提起した本質的な問題に対する応答の方は一体どうなってしまったんですか? 私を批判するも揶揄するも喜んで甘受致しますが、まず己れの思想的「立場」を明確にしてからにして頂きたいものです。
けだし、私はその都度思いつきのスポット的な発言をしたことはありません。
主張は全部、同じ趣旨で首尾一貫しています。
なので、発言の前後関係を抜きにご自分の趣旨に引き寄せて解釈されるようなご都合主義的な引用は、私としてはあまり愉快な気がしませんね。
何度も申し上げるように、「国家と資本をめぐる主題」こそ、今日において第一級の問題であるに決まっているではありませんか。みんなこの問題で苦しんでいるのです。
さもなくば近年、欧米の「カルスタ」や「ポスコロ」の若手思想家群にしても、柄谷−浅田−東浩紀などの「批評空間」グループにしても、これほど声高にそれを主題化するはずがない。
それともあなたは、世が世なら、再び「真宗」僧侶もまた、「国家や資本」による<戦争>やその他の抑圧的な政策に決して荷担しないなんて本気で信じているのですか?
MANUさん、oyajiさんへ
「いのちを奪う」を、人以上の命まで視野に入れれば、生命というものは、
他の命を奪って成立するというシステムを持っており、仏教は、これを必要最低限
にすべきという倫理を有しています。
仏教が1500年ほど流れ、日本の平安末・鎌倉時代には、この倫理は、職業として
殺人を生業にする悪党(武士)や、動物を殺す猟師、魚を取る漁師、害虫を殺す
百姓は、軽蔑され差別されました。根拠はこの倫理、不殺生戒です。
不殺生戒が逆に差別を生んだわけです。偉いというかましなのは、なんら直接の
生産活動をしない貴族だという風になっていました。
一概に受けての問題というより、不殺生戒にはこういう風に展開する必然を内包
していた。だからないほうがええと私は思います。最初から無理がある。
さて、人に限定すると、最初に申し上げたいのは、真宗は先の戦争に積極的に
協力というか、「行け行けどんどん」であった。
どこでもそうですが、「人を殺すのは悪いが、敵はいつも人ではない」という論理が
成立します。米国などは、いまだに、原爆は、自国の若者のいのちが大事だから、
戦争を早期におわらす為に必要だったという論理です。
真宗も、敵を屠り、自分の命を国に捧げる代償として死後往生を保証して、安心を
与えた。テロの少女も宗教によって、死後の保証を得ている。
いっしょです。受け取り手の問題ではなく、まずは語り手、保証を与える詐欺師
どもの問題です。
二番目に、でも「殺人」というのは、危険であろうが悪かろうが、「さるべき業縁」
さえあれば、してしまうものです。
心ならずも、交通事故で人の命を奪ってしまう可能性は我々に常にありますし、
家族に危害を与えようとするものと対峙した時、「防衛」が過剰になってしまうこと
も起こりうるかもしれません。「兵戈無用」の論理は、不殺生戒と同じく、美しい
理想ではありますが、そうそう簡単に守れる類いの理想ではありませんともうして
ます。だから立ち尽くす。
MANUさんへ。
それは言葉遊びにしかなりません。
「私にとっては<あなたの後生の一大事>はこういう意味しか持たない」という
ことですから。。。
<あなたの後生の一大事>は、別段あなた固有ものでもなく、親鸞会や創価学会
レベルの底の浅い信仰だと私は感ずるわけです。
まあ、それも仏教のうちなのでしょうが、私からすると、死後往生という
<お約束>があるからゆえに、信心の意味があるという風に聞こえるわけです。
それならば、その<お約束>が、嘘ならば、信仰は無化するのではないか。
あるいは、他にもっと確かな<お約束>があれば、そっちにつられるのではない
かと、端的に言えばそういうことです。
聞き手の誤解ではなくて、私は語り手に<嘘>があると思います。
意図的な嘘を流している。宗教的脅迫でありMCです。
つまり、奴隷化です。そこから開放されるのが親鸞の念仏であったのだが、
蓮如は意図的に宗教的に脅迫したと思っています。
親鸞会の高森さんはそれを極端にしたが、あなたのところの華光会も似た様なもの
だと思うし、事実高森さんは、華光会と浅からぬ関係があったはずです。
ひつまぶしは岐阜ではメニューに見かけません。うな丼はカリカリに
焼いてタレをつけたのがオイシイです。お薦めは地元の北方町のわかの
やと岐阜別院(西)の西にあるお店です。例年、8月1日〜3日は岐阜
教区(西)の僧侶研修なので、お弁当を頼まずに、一日は食べに行きま
す。もう一日は蕎麦の更科が早くてオイシイです!
本願寺派は組長には女性がいるはずですが、教区会議員は不明です。
教区会は僧侶議員(住職でなくても良い)と門徒議員が組会で選出され
てきて構成されています。
新聞→新聞報道
大谷派で得度されたGENKOさんは6月7日のカキコでこういった発言をされていた。
>結論的に言ってしまえば、私なぞは、別に真宗系に限らず、
>地上のすべての「仏教系宗教団体」は、どういうありようをしていても、
>仏教理念的に観て、そもそも極めてナンセンスな存在だと考えるものです。
>ですから、私などは最初から何も期待していないし、問題にすらしていないのです
>だから、教団の運営がどうあろうと、基本的には役員でも議員でもない私には、
>責任もないし、あまり与り知らぬことです
>私は何も、教団を擁護するつもりではありませんが、
>ルールや秩序は、出来るだけ有名無実化するのが望ましい
>つまり、<国家>の方が、常に既に、私たちにとって圧倒的に大問題なので、
>教団問題に微視的に取り組んでいる場合なんかではないわけです
ぐっちんは、あきれてしまっていたが。。。自死してしまったつれあいには、念仏をすす
めたことはありません。でもまあ、彼女も別に地獄にいってるとも思わない。じゃあ、何故
自分は教団に所属して念仏者などと名告っているのか?
それは、成り行きです。ご縁が大谷派の人々とあったからです。けどまあ、ぐっちんが何らか
の犯罪をおかしたりなんかすると「僧侶」という文字が新聞にくっつくんだろな。そういう意味
では、教団になにがしかの責任を負っている。過大な期待をする必要もないが、少しは期待がある。で、過大な責任はないが、少しは責任を負っている。教団とかすかな接点があるから、少し
いろんな人とつながりがある。。。懐かしい顔とも再会したりする機会がある。。。
で、少しばかり生きつないでいる。
女優の戸川京子が自殺して、姉の戸川純がボロボロだった。もともと姉の方が精神不安定で
95年にも自殺未遂してるし、雑誌でも確か「他人よりも死の方が優しい」とか何とかいって
たと思う。
この自殺に関して漫才師の宮川花子が「親不孝者ですよ!」とコメントしていた。ったくわけ
のわからんオバハンだ。周りの人を悲しませたから云々といってるけど、あんたにゃ関係ないだ
ろっていいたくなる。(ぐっちんも関係ないわけだが。。。)いくつかの情報を総合すると彼女
は子どもの頃から喘息もちで、去年の暮れからは心筋梗塞も手伝い、けどまわりには気丈にふる
まっていたのがポキント折れてしまったのだ、というような印象を受けた。
そこで、ぐっちんの「死は救い」説なのだ。自殺をすすめるわけではないが、もうどうしょう
もなくて自死を選んだ人にムチ打つな!って感じです。
国民総背番号制で、博打やってるサイトって、どこかないかな〜。
千円ずつ賭けて、全部の数字を足して、一番大きい人が勝ち。総取り。
「4」「9」とか、縁起の悪い番号って、換えてくれるのだろうか?
「あなた、この番号は良くないですよ。特に、金運が良くないですね〜。」っていうような、『本邦初。あなたの運勢を背番号で占います。』って言うような占い師が、やっぱり出てくるのだろうか?
元占い師であった私。昔とったなんとかやらで、『国民総背番号占い』でも始めようか?
「ん〜、この番号は良くないですね。あなた、こんな番号憑いてたら、自由に生きられないですね。」
http://www1.jca.apc.org/juki85/Items/KotaishikibetsuUshiToHito.jpg
もうすぐ終わりだけど、今日は二十五日。給料日。
もらっても「なんでやねん、手当て入ってないやんけ、、、」
もらえないと「今日は給料日やちゅうねん。労働者にとって、どんな日か解ってるんか?」
あ〜、やだやだ。毎月二十五日は。
法然さまの命日でもあった。忘れてた。二十五日の念仏講。
♪カントリーロード この道 ずっと往けば
あの場所に往けるような 気がする カントリーロード
みんなといっしょに生きたい!
少し気になるので。。。
>私は教学者でもお坊様でもありませんのでえらそうなことは言えませんが
えらそうな坊主が多いので、ぐっちん(モモさんも)がお偉方をメッタ斬りにしている最中
なのですが。。。また誰もここでは特権者を認めているわけではないのですけど。。。
>きっと経験者でなければわからないことだと思うのです
とおっしゃるのは、自分が「健康」やら「命の大切さ」やらは特権的に語れるのだ、という
風に逆に聞こえます。
>それを踏まえて死後の世界を今現在生きている人間が軽軽しく考えて良いものかどうかと
>思った次第です。
三吉さんもMANUさんも軽々しくお考えとは、ぐっちんには思えません。またぐっちんが
パスカルがどうたらこうたらといってるのも、決して軽々しくいってるわけでも坊主という権
威をかさにきて発言しているわけでもありません。で、別に
>生意気申し上げて申し訳ありません
といちいち恐縮されなくてもいいんじゃないですか?
貴種流離譚というのがあります。うちの家は今は没落しているけれど、平家の落ち武者の血を
ひいていて実は高貴な出だとかなんとか。。。
在日朝鮮人の知人としゃべっていると、出てきたのが族譜(チョッポ)といういわば朝鮮の家
系図の事。で、「自分とこは高貴な家柄であって朝鮮におったらアンタと口利くことはないんやで。。。」というお話をされる。ぐっちんは、「それはでも結局、血筋云々という日本でいうた
ら天皇にどれだけ近いかで家柄が決まるという話といっしょで、そんな差別的なものを根拠にご
自分の誇りをお持ちなんですか?」とその時は酒席でしたので反論しましたが。。。
日本で在日韓国・朝鮮・台湾人が生きていくときに自分たちのアイデンティティを「民族」に
求められることは大有りなのだと思います。なんせワールドカップで沸いてた<今>は少し変化
の兆しがあるのかも知れませんが、本名で彼(女)らが生きていくことが難しい状況にあるのは
確かですから。
そこには何の根拠もない「日本人=優っている、アジア人=劣っている」という<幻想>が
強固に存在しています。この空気の如く覆っている<常識>が解体されるには、過渡的なスロ
ーガン(例えば「ブラックイズビューティフル」とあえていうとか。。。)が必要なのかも知
れません。みなさまはどうお考えでしょう。http://www.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2000/sinboj2000-3/sinboj20000313/sinboj00031362.htm
お通夜の席で三分間法話をしなきゃいけなかったとき。。。
まあ、ありきたりの話をするのもいやなので、自分がつれあいを喪ったときの話をしてたら、
感極まって泣けてきました。
けど、三日お葬式が続いた。で、同じ話を三回続けていると「一杯の掛けソバ」よろしく、
なんだか通俗的なお涙頂戴話しとして見事にカタチを成して来た。すんげー気持ち悪い。しかも
相手方の人たちとは初対面。見ず知らずの人になんでこんなプライベートの話をしなきゃいかん
のか?これならいっそお里・沢市とか、刈萱道心でも一段すっくり語った方がスッキリする。。
いてまえ脱線。フリーエージェント獲得して、近鉄特急で松阪から脱走だー
ぐっちんさんからのご指摘の通り、この辺りもウナギは
美味しいです。地元では吉田屋さんがウマイのですが、
今年に入ってから、ひつまぶしのメニューも加わりました。
世間の流行には勝てません。しかし、私はうな重よりも
うな丼の方が好きです。しかし、吉田屋なんか、講師接待
な何か出ないとナカナカ食べれません。
毎日見ててもまとまった時間がないとナカナカ書き込めない。
久々にカキコしてます。
ぐっちんさんの
「池D勇T師のような現役のおっさんもカナワンわん。
コ・コ・コ・コ・コケッコー、おいらは
ミネソタの卵売りでありまする。」
分かるなぁ。どうも、追っかけがつくような先生には
救世主としての危険性もあるんだろうな。小生などは
恐くて近づけないのか、近づきたくないのか....。
>ぐっちんさんへ(よろしければ他の方もどうぞ)http://www1.jca.apc.org/juki85/Items/KotaishikibetsuUshiToHito.jpg
ど素人の私が生意気を申し上げて、誠に申し訳ありませんが、気になる個所があったので久々に投稿させていただきます。体験者として語らせてもらいますが私は29才の時に心臓病の根治手術をいたしました。お蔭様で今では殆ど普通の元気な人と変わらぬ生活を送ることが出来ています。死後の世界みたいなものを一瞬ですがかいま見たような気がします。多分夢だと思いますがね。自分が自分を天井から見ていて、俗に言う幽体離脱というんでしょうか、そうことを体験しました。また、真っ暗な闇の中をろうそくの炎のような光みたいなものがずっと走っていて、それを一生懸命追いかけている自分が居るのです。つまんない話しかもしれませんが、後になって思ったことはたやすく今生きている人間が死後の世界を語れるものではないと思った次第です。きっと経験者でなければわからないことだと思うのです。8時間30分以上の大手術は貴重な体験をさせていただきました。生きている人間は何しろ、死後の世界はいったことがないのですから。私はちょっとほんのわずか入り口に差し掛かった程度かもしれません。私は教学者でもお坊様でもありませんのでえらそうなことは言えませんが、私なりの考えを述べさせていただきますならば、私たちが食事をすると言うことは生きとしいけるものの命を奪っているのです。野菜とか肉だとかを。そんなことを考えると私はえらそうなことは言えないなあと思う今日この頃です。人間だけではないのですよね。命を奪っているのは。きっと、分かっておられると思いますが。健康な方の考え方は良く分かりませんが、病気ばかりしてきたものとしては、命の尊さは大変良くわかります。それを踏まえて死後の世界を今現在生きている人間が軽軽しく考えて良いものかどうかと思った次第です。生意気申し上げて申し訳ありません。気に障ったらお許しください。たとえ、理想でも夢でもかまいませんが、慎重に考えていただければと思った次第です。やはり、たとえどんな理由であれ人間が人間の貴重な命を奪ってはいけないと思います。報復は報復を呼ぶのです。生命は大事にしたいものです。そして謙虚に感謝しなければならないと思う今日この頃です。ど素人の私が生意気申し上げて済みませんでした。三吉さん、MANUさん生意気言ってごめんなさい。お許しくださいませ。oyajiのたわごとでした。
私は「私にとっては」ということを中心に添えています。
「あなたにとって後生の一大事は」とやるのは余計なお世話です。
>つまり現世より来世に意味があるという論理は
を人様に語って、どのような意味に受け取られるのか・・・
死後の幸せな世界・皆が20歳になる世界・罪がゆるされる世界・・・
そんなもん、私に責任とれません。
逆に
>つまり現世より来世に意味があるという論理は、
が危ういから「後生の一大事を語るのは間違い」という極論に至る傾向がありますが、
それは「説き手」「聞き手」の問題で、「後生の一大事」が間違ってるんじゃない。
ついでに、
>念仏者もその論理があるゆえ、「さるべき業縁もようせば」同じ
というのと
>抵抗戦争とか、民族独立戦争はあり
ってのを並べるのは、私は良しとしませんね。
いかなり理由があろうと、戦争は命を奪う行為である。
「私も命を奪ってる」ことと「だから理由があれば殺してもOK」ってのは
一緒に語ると「ヤバイ」と思ってます。
それは、ちと前の奴だね。見ました
<「これから難民になるより、死んで神さまのもとでみんなに会うの。。。」>
いわば「倶会一処」だね。
戦前の真宗も、戦場に行く兵士にこれを云ったし。。。
つまり現世より来世に意味があるという論理は、
それを無垢に信じた人に「死の恐怖」を「甘美な誘い」へ転化さす
効用があるのだね。「大義」を与えて、背中を押せばね。
私は二人の少女にキリスト教にもイスラム教にも念仏にも通底する
「あぁぁ、君らもか。。」という漠然としたモノを感じた。
彼女らも、「後生の一大事」を念頭に置いた「今」を生きているのですね。
それがトラックでの爆弾テロ。
状況がMANUさんとちゃうだけで。。
念仏者もその論理があるゆえ、「さるべき業縁もようせば」同じだということは
既に歴史が証明している。。。
あらゆる戦争は悪いわけではなく、抵抗戦争とか、民族独立戦争はありだと思っている
私は、少女たちと、さしてかわらん。
だから。。大経の「兵戈無用」には立ち尽くす。。
女子の教区会議員がいたとは知りませんでした。謹んでお詫び申し上げます。
わたしは真宗大谷派の機関誌『真宗』を過去のものから(昭和47年頃のもの)熟読していたはずでした。
もし真宗教団のワイドショー、殊に大谷派宗政、現代大谷派教団の動きについての知識量を競うレース(競走)が執行されることになったと仮定して、この薄野小魔王を上回る人間はわたしより一日でも、いや一時間、一秒でも早く生まれた人間においてはいない、と思っていましたが、どうやら“スキ”(隙)があったようです。明日からまた“修行”のやり直しです。
教区会議員においては再度調べてみますが宗議会議員においては、始まってから今に至るまで女子が宗議会議員になった例はないはずですというよりありません(宗門法規的には、条件付きですが“女性住職”が認められているので可能)。
大谷派名古屋教区には、ここ2任期ほど選出議員&組長議員として女性の議員はいます。
現在も、組長として女性議員が教区会に在籍しています。
誤解されると、困りますので、横レスで訂正(事実報告)しておきます。
TVを見る。「二時ドキッ」という関西テレビをキー局にしているお昼の番組。極妻でおなじ
み家田荘子の「女たちの最前線」というシリーズもののルポ。ロシア女性を日本の一流企業(?)
に勤める男性にあっせん(!)する結婚紹介所を取材してました。
ロシアは経済事情が悪化。月給は日本円で二万円ぐらいだそうです。それで、ロシア女性は少
しでもええとこというので日本人とお見合い。日本人男性は、「古風な」女性を求めて白系ロシ
ア人を求めるという。ここでコメンテーターの遙洋子(全国的知名度は低い。バンバン初期のカ
キコで彼女の『上野千鶴子にケンカを習いに行く』だったかが話題になっていたようです。。。)
がかみつく。
「ようするに男にかしづく女をこの人らは求めているんですよね。めっちゃ腹たつわ!」
晩、NHKでドキュメント・ロシアというのを見る。プーチン苦渋の選択というのがテーマ
らしい。独立した中央アジアの国々がロシアのゆうことを聴かん。アメリカが石油や天然ガス
を地下パイプでトルコに送ったりするのにいらだつ。そんなとき、あの9・11事件が。。。
結局プーチンは軍部の意見を抑えて、アメリカ・西側諸国の経済圏に組み込まれることをよし
とする。いわく「ロシアは、チェチェン、アメリカはテロリストという脅威にさらされている」
番組の中で、17歳のチェチェン人の女の子が「自爆テロ」に出かける風景を映していた。
「これから難民になるより、死んで神さまのもとでみんなに会うの。。。」と。大国は一人勝ち
しようと、ますます貪欲になる。民族の独立を守る側は、過激に突っ走る。何も罪の無い子供や
女たちは巻き込まれ、その犠牲になる。。。
という奇想天外な落語があります。ある男がさくらんぼを食べたのですがもったいないからと
いって種ごと丸呑みした。するとその種がぐんぐん成長してついにその男の頭を突き破って櫻の
木が生えた。大変珍しいというので、花見客がやってくるようになった。男はわずらわしいので
その木を引っこ抜いてしまう。
するとその木の生えていた後に雨水が溜まり池が出来る。これがまた評判をよび、船を浮かべ
たり釣り客が来たり。。。男はうっとうしくなって、その池に飛び込んで死んでしまったとさ。
「人間は考える葦である」と言う言葉で有名なパスカルという人がまた「パスカルの賭け」
という話題を提供しています。「神は存在するか、存在しないか」。存在するという方に賭け
た人は永遠の命を得、しかも現世で意味ある人生を生きる事ができると。反対に存在しないと
言う方に賭けた人は、たとえ賭けに勝ったとしても死とは虚無の中に消えていく事であり、刹
那的な人世を送らなきゃならない。さらに賭けに負けたら、地獄行き。。。
ぐっちんは、そうは思わない。死後が「無」であるとしたら、それはもう喜びも無い代わりに
苦しみもない。だから、死は救いである。死後が「有」であったとしても罰する神(信仰の有無
によって、あるいは行いの善悪によって)なんかいない。ぐっちんが調べた死後の世界(↓のH
P等参照)は、どうも層構造をなしている世界で永遠の天国でもなければ、永遠の地獄でもない。
要するに、その人が何を選びたいかで決まる世界の様らしい。で、これも死は救い。
答えは死んでのお楽しみ。もっと気楽に行こうよ。。。
うなぎのひつまぶし。。。とは。名古屋というか東海あたりでは、ポピュラーな食べ方だと
思います。まこさんやモモさんは、きっとご存知。お櫃(ひつ)にいわゆるうな重が多めに入
ってましてそれを茶碗によそって食べる。一杯目は普通に。二杯目は刻みネギなど薬味を加え
て少し気分を変え、三杯目はお茶漬けにして食べる。
しかし、うなぎといえば、雌雄同体って連想します。ごくごく幼いときは中性、そしてメスの
カラダになり、それから雌雄同体つまり精巣と卵巣がある「ふたなり」状態になり、その後、雌
雄がはっきりする。
けどまあ、人間だって受精卵が分裂して行く過程ですべての個体はメスのカラダとなっている。
で、オスはいわゆるクリトリスが発達してペニスになる。オスもかつてはメスの時代を経るって
わけ。で、メスのカラダで完成しているのだけど、少し<退化>させてオスが生まれるのだ!
あ〜ぐっちんももういちどメスの時代にもどりたい。<きれいなお姉さん>になって津川雅彦
の誘いを巧みにかわし、福山雅治を手玉に取り、滝沢秀明をもてあそんでみたい。(←だいぶ屈
折している)
あ、さそった反戦法要で結局ぐっちんさんは歌いませんでした。
反戦法要に行く途中、おじきさんもよく知っている、南冥寺の近くの若くして死んじゃった人の家の前に行って来ました。
表札に、他の家族の名前と一緒に、その人の名前も載っていました。すこし泣きそうになりました。でも、友達でこんなんだから、家族の人たちの悲しみ、苦しみってどんなんだろう。
職業僧をやっているせいで、そんな家族の人達の前でお経を読みます。写真を見て、『なんでやねん』って、思いながら。『そんな若く死なんでいいやん』って、思いながら。
お父さんは、じっと手をあわせたまま、ずっと眼をつむっています。
お母さん、妹さんは、ずっと泣いています。
私は何も言えずに、忙しさを理由に逃げるように帰ります。車の中で、非常に嫌な気分に成ります。でも、なにもその家族に言えません、聞けません。
>「あなたには何らかの使命を誰かに託されて生かされていると思います。
それだけは心して生きていかなければ存在の意味が無くなると思います。
心しなければ、託した誰かが悲しむだけです。」
確か、おじきさんが仏教を学ぼうと志したのは、幼い弟さんが死んだからって、以前聞いたことがある。
きっと、おじきさんならそんな時、なんか声をかけることが出来ると思う。『自分もそうだった。あのときそうだった。だからこそ、、、』って、その人達の苦しみ、悲しみを他人事に出来ないはず。だからこそ、その人達と一緒に佛の教えを聞いて行ける筈。少なくとも、私のように写真を見て動揺して、逃げない、逃げれないはず。
私が逃げたのは、法事の席で、何か法話しなければならなかったから。そんな時に、今の私は法話出来ません。何をしべっても、上滑りしそうで、かえって心の傷を深めるだけに終わりそうだから。怖くて逃げた。その後の毎月のお参りも、世間話か、息子さんの思い出話を聞くだけ。
原理、原則、マニュアルじゃなく、活きた言葉で、おじきさんは、自分の経験を踏まえた上でどう考え、どんな言葉を伝えたいですか?教えてください。
教えてもらった言葉を手がかりにしながら、その家族と出会って行きたいと思います。
薄野高麗王さんの投稿が二重になり、
ご本人から削除依頼がありましたので、削除いたしました。
おいたわしいことです。この「末法の世」に仏陀はいらっしゃらないのか、それとも浄土真宗の教えがひろまっていないという事なのか、いずれにしても残念なことです。
以下のUALは朝日新聞の記事です。
以下の文章は★☆ゆ〜きやこんこ☆★からの転載です。
>「薄野小魔王」という名前の由来
> 投稿者:薄野小魔王 02/06/21 Fri 07:02:20
>わたしは札幌・薄野にある某病院にて出生いたしました。つまりわたしが薄野生まれと
>いうのは嘘ではありません。そして「小魔王」についてですが、わたしの知り合いの僧
>侶で私生活が豪快で派手な遊びをしていた人が数人いました。その方は「魔王」と呼ば
>れていました。わたしは運動神経も悪く腕力に自身はありません。ですが「薄野」とい
>う場所において人の目をひきつけられる「芸」においては、他人より少しばかり長けて
>いるつもりなので、魔王の方々への謙遜の意を込めて「小魔王」と名乗っています。ま
>た、「らくりんバンバン」では最近「高麗王」の字を用いますが、「こま」という音に
>よって「韻を踏んで」いるのです。この掲示板を見ている方々も一生に一度は札幌にお
>越しください。いいところですよ。
ハンドルを間違えました。薄野高麗おうさんには申し訳ありませんでした。携帯からの入力で失礼いたしました。
薄野大魔王さん、早速の回答をありがとうございます。西も同じだと思います。内部からの男女共同参画の取り組みをしていきたいものです。
まこさんへ
>東の宗議会議員や教区会議員には女性がおられるのでしょうか?
いません。
らくりんさん、思い違いの訂正をありがとうございました。西の宗会議
員選挙は半数以上の教区で選挙になります。得度しただけの20歳以上
の衆徒には選挙権も被選挙権もあって、昨年の宗会選挙では3名の女性
候補も出馬しました。(落選しましたが)
教区会議員には寺院選出の組会代議員が僧侶と門徒から各1名でます。
住職である必要はなくて、現に衆徒の私が教区会議員となっています。
この10月1日付で門徒総代の改選があるので、拙寺では5名中3名を
女性にしました。責任役員にも女性になってもらって、できれば来年春
の宗会議員改選では初の女性議員になってもらおうと根回しを始めた所
です。
東の宗議会議員や教区会議員には女性がおられるのでしょうか? 男女
共同参画も足元から何とか具体化したいものです。
> あ、ちょっとMANUさんのお気持ちがわかったような気がいたしました。
>それにしても座談会重視の道場っていいですねー。
ありがとうございます。
よければ、また法座があるときお誘いしますね。ちょうど8・9月は子供向けの
行事や聞法旅行などで(その中身も座談会ですが)、しばらくゆっくり参加して
いただける法座がありません。また、私のHPなど時々お訪ねください。もし
メアドなど教えていただけるならダイレクトにお誘いします。
他のみなさまも興味ありましたらどうぞ。
>MANUさんがいわれる堕地獄って源信さんの
>『往生要集』に描かれたような地獄なんですか?
『往生要集』を拝読すると「機を見ればここに落ちるのはあたりまえ」と思います。
でも、”そこ”へ落ちていくとは感じられませんね(笑)
むしろ「今自分が犯している罪悪がそのまま私の身に帰ってくる世界」が地獄だと。
地獄がどういうところってことじゃなくて、「地獄一定」と言われてそのとおりだな
と頷かされる。
五感を通して感じる世界とは違う次元ですかね。
うーん、うまく説明でしませんが・・・。
>にお念仏称えなかったら極楽行かれへんぞ!というか地獄へ堕ちるぞ!
>という意味でお念仏勧めたりというか、本山で帰敬式受けなさいとも
>思いませんです。
私も人様にそんなこと言えませんし(帰敬式も受けてないですし)
ただ、私は「迷いの身」ということが突きつけられて、「それじゃ困る」と思った時、
念仏意外に道があるなら違ったかもしれませんが、私には「念仏の道」しかないと。
それをほかの方に押し付けるつもりはありません。
ただ、「念仏しかないと思う」と言う方が居られたとして、「どう念仏すれば」とか
「念仏すればどうなる」とか言う方が居られれば、「念仏してみなわかりますかいな」
とお勧めすることはありますですね。
私自身、「この念仏は自力か他力か」ってことに捉らわれて悶々としましたが、そこ
を超えて気づかされることがありました。
癒しということばを流通させた立役者が、上田紀行さんです。
元祖がいう<癒し>は、優香ちゃんや井川遥ちゃんが醸し出しているフンイキとは、
まったく別ものであります。
<世間のしがらみ>を断ち切り、<新しいネットワーク>とつながるという癒しを提唱して
おられます。まさにぐっちんにとっては厭離穢土と欣求浄土ということの、現代的表現だと
思います。「迷い」とは、世間のしがらみにがんじがらめになっている己の姿以外の何ものでも
なく、その自分の姿をありのままに照らしているスポットライト、いわば光源が阿弥陀さんの
いらっしゃる浄土というイメージです。
「幻想と現実」 被差別出身者→被差別部落出身者
「それでも。。。」 お留守居役様→お留守居役様さん
MANUさんは、「後生の解決」といわれます。。。MANUさんがいわれる堕地獄って源信
さんの『往生要集』に描かれたような地獄なんですか?ぐっちんは正直言って、あのような地獄
が死後あるとは、とても思えません。で、『阿弥陀経』や『無量寿経』に描かれているような極
楽も死後あるとも思えません。
念仏称えた(あるいは聞法した)功績というか功徳によって、そんなとこに行くとも思ってま
せんですね〜。だから三吉さんやお留守居役様にも別にお念仏称えなかったら極楽行かれへんぞ!というか地獄へ堕ちるぞ!という意味でお念仏勧めたりというか、本山で帰敬式受けなさいとも
思いませんです。
死というものが、現在の自分にとってどういう「意味」としてあるか、(救いであるとか、畏
れであるとか。。。)ということしか、探求できないのだと思いますが。。。
<死後の世界>については、18世紀のスエデンボルグ(スエーデンボルイ)という鈴木大拙
が紹介したおっさんや、19世紀のコナン・ドイル(作家)やらウイリアム・クルックス(クル
ックス管の発明者)など名士が参加していた英国心霊協会などの<霊界報告>の方が、現代の霊
媒師とか心霊能力者や、オカルト映画ないしはトンデモ本とかに影響を与えてると思いますけど。。。
http://www.shunjusha.co.jp/book/32/32213.html
藤原宏という大阪の定時制高校の先生がもう9年前に出された本があります。『象徴天皇制と
部落幻想 終焉への途上にて』 三一書房 3107円
先生はこう言われました。「部落は幻想だが、部落差別は現実である」。これには、頭がが
つ〜んとやられました。そもそも、万世一系の天皇がいないのと同じように、万世一系の部落
民なるものもいない。そうなんです。↓のほうで書いてました婚姻制度のはなし。つまり、妻
が生んだ子どもははたして、夫の子か??ということをマジメに考えれば、<天皇>の遺伝子
なんていうものは、三種の神器みたいに現代に受け継がれているはずがない。
同様に親鸞の末裔といわれてる<ごもんじき様>とやらも、親鸞遺伝子なんか果たして受け
ついでいるのか?また、現在の被差別出身者というのは、「先祖を中世の「穢多」身分とか「非
人」身分にもつ人々である」んじゃなくて、「もつといわれている」人々なんだとおっしゃる。
卓見だと思った。○○の子孫というのは、幻想(フィクション)であります。
靖国でも護国神社でも「日本古来の伝統的信仰」を受け継いでいるのでもなんでもない。あ
んなものは、ただの近代的幻想だ。亡くなった人を偲ぶのは個人的な信仰に基づいて各自でや
ればいい。芸能ナショナリストぐっちんでした。
この夏、金沢でもいくつかご紹介したいイベントがあります。
2年前の8月4日に、石川護国神社の前に「大東亜聖戦大碑」なる大石碑が建てられ、
翌年から「大東亜聖戦祭」と銘打って、神式の儀式などが行なわれています。
「聖戦大碑の撤去を求める会」という市民運動が発足して、反対運動が行われています。
8月4日には、本島等元長崎市長を招いて集会が開催されます。
それと同時進行で「Peace Sounds 金沢」という
「戦争体験者のライブトークと自由なる歌声でつづる白熱のイベント!!」
が開かれます。
会場は目と鼻の先ですから、両方への参加も可能です。
詳細は以下の通りです。
「大東亜聖戦大碑」の撤去を求める全国集会
2002年8月4日(日)13時〜16時 会場:石川県教育会館2階
運営協力金1000円
事務局:石川県平和運動センター076−233−2170
Peace Sounds 金沢
2002年8月4日(日)11時〜19時 会場:金沢中央公園
入場無料(カンパ大歓迎)
問い合わせ:同 実行委員会 メロメロポッチ内 076−234−5556
です。
お近くの人も、お近くでない人も、8月4日は金沢へ!!
なお、
人手が足りませんので、
当日、お手伝いしていただける人がいましたら、らくりんまでメール下さい。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
映画 神山征二郎監督作品 [郡上一揆]
石川県では昨年までに何カ所かで上映されました。
好評で、「ぜひもう一度見たい」「知人に薦めたい」という声があがり、
再度上映されることになりました。前回見ましたが、ぐいぐいと引き込まれました。
お薦めの一作です。
日時:2002年8月18日 13時開場 13:35分〜シンポジウム
14時40分〜上映(約2時間)
開場:石川県文教会館ホール
入場料 当日券1800円(前売1600円)
※チラシ持参者は前売扱いになるそうです。
詳しいことが知りたい方は、らくりんまでメールを
人は自分がほめられて嬉しいウソを求める。ウソすなわち、幻想ともいい、物語(フィクシ
ョン)ともいう。仏教とはそもそも、空の教えが基本にあるのではなかったろうか。世間とは
虚仮である。世間をコケにする。自分を嗤い飛ばす。往年のハナ肇のギャグにこんなんがあっ
た。あんたかてアホやろ、うちかてアホや、ほなさいなら。これで、この世とはおさらばです。
にしても、あまりに大真面目な大ウソを述べられている金子師のような大尊師は、カナワン。
池D勇T師のような現役のおっさんもカナワンわん。コ・コ・コ・コ・コケッコー、おいらは
ミネソタの卵売りでありまする。
あ、ちょっとMANUさんのお気持ちがわかったような気がいたしました。それにしても
座談会重視の道場っていいですねー。
まこさん
>お東の宗議会議員の選挙権・被選挙権は住職にしかない。
教区会議員についてはその通りですが、
宗議会の場合は、被選挙権は住職だけにしかありませんが、
教師資格を有する者には選挙権があります。
私の教区ではずっと無投票選挙が続いていて、
私は一度も宗議会の投票をしたことがありません。
> 後生というのも、ぐっちんどう考えても「死後」としか読めないのですが、
>後生の一大事とは、つまり<死後の世界>と受け取っていいんですか?
>「後生」ってやっぱり死後の世界のことなんでしょうか?
言葉でいいますと「そうですね」となりますが、ただ単純に死んだ先の心配を
いましているのかというと違う気がしますね。
こういう風に問われてはじめて、「そういうことを言ってるのとは違うな」と
気づきました。
「地獄行きの後生」と考えると、その因果関係には”今”が含まれますから、
死んでからの問題じゃなくて、「今、迷いの姿な私」が問題になってきます。
あるかないか分からない後生じゃなくて、「今、まよっとるやんけ」ってこ
とが問題で、迷いから抜け出す種がもらえるとしてそれが芽を出すのが後生
なんでしょうね。だから、”今”問題にしている。
”生きること”を問題にしていても”死”は避けられないんだし、「じゃあ
どっちが大事なんだろう」となると、私には後生の解決が大事になってくる
んですね。
というところは如何でしょうか。
実は私は、「親鸞聖人がどうで蓮如上人がどう」ってことあまり考えてません。
それぞれの言葉に触れて、自分に湧き上がる感情等を大事にしています。
あとで、教学に触れるとそれが説明つくことはありますけどね。
他の方々とコミュニケーションを共有するには、教学という共通の言葉が一番
だと言うことも分かりますし、私に聖教量がかけているもの分かってます。
(分かっててどうもしないのが問題でしょうが)
御法話や原典を通して知ることもあるのですが、私の聴聞は、座談会などで人
を通して語られる言葉が一番響きます。
幸い(かどうか)、私は”寺”ではなく”道場”で仏縁に会いました。
法話中心でも講義中心でもなく、座談会重視の同人の集まりでした。
私のように教義に頭がついていかないものでもお念仏できるんですね。
だから、「親鸞聖人と蓮如上人の差は」ってことは意識してません。
私と阿弥陀仏との関係に終始します
お東の宗議会議員の選挙権・被選挙権は住職にしかない。お西の宗会
議員の選挙権・被選挙権が全僧侶にあるのとはエライ違いがある。
前者は有事法制反対決議をあげたのに対して、後者は前門の葬儀に3
億円を支出することを(収入は香典をもってあてる)決定した。
どちらが「先進」的とも「後進」的とも一概には言えない。らくりん
さんの「レッテルはりをするな」という警告が胸に響いています。
人間とは、<関係>を生きる存在なのではないでしょうか。。。そこに苦しみもあれば
喜びや救いもある。
ガン患者さんには、<身体的>苦痛を和らげる為に、モルヒネ適切に投与されることが
必要です。けれど、その方の<精神的><霊的>痛みとは、<関係>に関わることではない
でしょうか?
つながりが断ち切られることの、苦しみ、痛み。。。
誰の言葉やったか忘れましたが「人間は生まれたついでに生きている。」
という言葉が好きです。
また知り合いから
「あなたには何らかの使命を誰かに託されて生かされていると思います。
それだけは心して生きていかなければ存在の意味が無くなると思います。
心しなければ、託した誰かが悲しむだけです。」
と言われて「う〜ん」と唸りました。
我苦生さん、昨日はごめんなさい、今度は必ず会いましょう。
我苦生さんが書いていることについて、触発されてまたおしゃべりします。信心の社会性と
いうことばがお西にはあるようです。で、検索してHPをあれこれ読んでいたけどさっぱり要
領を得ませんでした。とはいうもののぐっちんが書いていることもムツカシイとのもっぱらの
評判ですからひとのことはいえないのかも。。。
さて、障害には形態障害(インペアメント)能力障害(ディスアビリティー) 社会的不利
(ハンディキャップ)の三段階があるそうです。例えば、手に障害を負ったことが、インペア
メントで、そのことによって文字が書けなくなっていることをディスアビリティーといい、そ
れによって就職活動がうまくいかないということをハンディキャップと呼ぶのだそうです。
(最近は、この英語表現が差別的だというので別の言葉に置き代わっていますが。。。)
ある人が水虫で悩んでいるとします。その人にとっては大きな問題(壁)です。生活するのに
不快な思いを感じているでしょう。家の中で娘さんに嫌われたり、会社で同僚社員にからかわれ
たりするかもわかりません。けれど、おそらく昇進とかに影響はしないと思います。つまり<治
療>に関していえば、インペアメントの部分、医療で対応できる問題であります。(けれど病と
いうものは、社会的に防げるものがあって公衆衛生といった<社会的>治癒も重要ですが。。)
かたや在日韓国人の方がいるとします。さてこの方が(壁)にぶつかるのは、水虫にかかって
いる人とは違ってハンディキャップの部分、医療でもリハビリでもない、いわば社会的リハビリ
で対応しなけりゃいけない問題だと思うのです。
その方は自分の問題を考えるに当たって「民族」や「国家」といったことをいやでも意識しな
ければならないと思うのです。(意識しないで済む悩みももちろんあります)が、水虫で悩んで
いる方にはなかなかこの「民族」やら「国家」やらの<社会性>の重要性に気が付きにくいもの
なのでは?と個人的に思います。
さて信心の社会性についても<信心>とは、こころの問題で「社会」とは関係ないと思われる
のもこの辺の意識の落差なのではないでしょうか。ある人にとっては信仰によって病気がなおる
とか、こころの平安が得られるとか、または「死後」の問題が解決することということなのでし
ょうが、社会の問題と密接に絡んで悩み(壁、むずかしくいうと限界状況とか。。。)がある事
がなかなか理解して貰えないのではないでしょうか? ふぅ。。。
天然うなぎが食いてーーー!!!
今日の昼間、道がすいていて、30分ほど時間が空いた。暇だ、、、。
ひまつぶしに、携帯でここをのぞく。『うなぎのひまつぶし』か〜。
ひまをもてあました、養殖うなぎの物語を考えていた。養殖うなぎの『ヌメ太くん』が、夢の中で浄土を見る。目覚めた養殖うなぎのヌメ太は
「このままじゃいけないんだ!僕のような『食べられる為だけ』に存在しているいのちは、いたらだめなんだ!人間に、これ以上いのちを粗末にするような罪を作らしたらダメなんだ。それには、僕が声を上げて人間にいのちを粗末にしている罪の重さを知らせないとだめなんだ!」
と。で、まず同じ養殖うなぎの仲間たちにそのことを伝える為に、精力的に動き回る。
それを見ていた養殖場のおじさん。
「おお!なんちゅう元気なうなぎや!これ食ったらさぞ精力つくやろ!」
と、あわれ、養殖うなぎのヌメ太君は『うなぎのひつまぶし』にされてしまうのであった、、。
人間の悩みって多くは、人間<関係>の悩みではないでしょうか。。。もちろん、お金の心配
とか健康とかあるでしょうけど。。。
他人に対しての過度の期待が、失望を呼び込む。
「あなたってそんな人だったの!知らなかったわ!」「そ、それは誤解だ。。。」
自分に対してかけられた過度の期待が、重荷になる。
「こんな子に育てた覚えはないのに。。。」「そう。おれってつくづくダメな奴だよ。。。」
他人に対する過度の防衛が、人との結びつきをじゃまする。
「アンタにだけはいわれたくないわ!」「じゃあもう、心配なんかしてやるもんかっ!」
この世は、カン違いとすれ違い。だからこそ、人は浄土を願うのやないやろうか。。。
大阪ミナミ、通称ひっかけ橋にて。。。(近頃は飛び込み橋ともいう)
「なあ、なあ、彼女、誰か待ってンのん?」
「え、違いますよー」
「あ、自分ら、カントーの人?」
「そう。ヨコハマー」
「へー。いやあ、僕もヨコハマには親戚いててよう遊びに行くんやけどね。ええとこや。
ところで、これからどっか行くのん?よかったらお茶せーへん?」
「えー、これからUFJ行きたいしー。。。」
「(UFJ?それもいうならUSJやろが。新幹線乗って大阪まで金おろしに来たんかいナ 。。。)」
人間って一生勘違いしながら、生きていくものなのかな。。。
最近、道を歩いていたら親子連れとすれ違いました。夏祭りの帰りなのでしょう。浴衣を着た
子供の方が、親に「今度は、なっとうぼんおどりやな」と話し掛けていました。親の返事を聞か
ないまま、遠ざかっていきました。
なっとうぼんおどり?なんじゃそれ。しばらく道を歩いていて考えました。。。はは〜ん。
あの子供は<納豆>をなっとうと読むということを知ってるんやな。。。で、納という字がつい
た二文字を見たらなっとうと読むと思てるんやな、と。つまり、納涼盆踊り大会と書いてあるカ
ンバンか何かを「なっとうぼんおどりたいかい」と思てんねんな、と。
後生というのも、ぐっちんどう考えても「死後」としか読めないのですが、後生の一大事と
は、つまり<死後の世界>と受け取っていいんですか?う〜ん、ぐっちんにとって死後の世界
というのは、あっても別にいいけど、どうでもいいような気がするんですけど。。。MANU
さんのいわれる「後生」ってやっぱり死後の世界のことなんでしょうか?
にしても、「納豆盆踊り」ってねばっこい、踊り方なんやろな。。。
>「後生」を置き去りにするのは、仏法に触れた今の私には出来ないです。
蓮如さんは、ここをはっきりさせるのが、当家の云々と言われているような気がしますが、
親鸞さんは、死後のことは「はっきりとはわからん」(歎異抄)と言われているのではと、
で、最近本が出だした清沢さんも、「死んだ後なんて見たことないからわからん」と、
ここに立脚できる精神(こころ)っていうのが。。。仏法じゃないかと。。
というか。。蓮如さんと親鸞さんとの差を感じる
ぐっちんさん、亀レスすいません
>MANUさんが、ちょこっと書いておられたことに引っかかっているのだけど。。。
>確か、仏法にあったのが「後生が、地獄一定でも何でも良いからそれがどういうことなのか
>知りたかった云々」といったことを書いておられた。
どう書いたか忘れましたが(過去ログ探す気力が無いもんで・・・薄笑)
仏法に会うまでは私もイマジン信者でした(笑)
仏法にのめりこんだのは、そこで仏法に関わっている”人”に興味をもった。
その”人”を動かしてるのはなんなんだろうって。
で「後生が、地獄一定でも何でも良いから」ってのはそれだけだとちょっと違うかな。
「”後生の一大事”が、往生なのか堕地獄なのか分からないけど、死んでからじゃなくて、今そのことをハッキリさせたい、知りたい」と言う感じでしょうか。
「今どう生きる」も興味が尽きないのですが、そのことで「後生」を置き去りにするのは、仏法に触れた今の私には出来ないです。
ということで、引っ掛かりへの取っ掛かり(洒落じゃあない)になりましたでしょうか?
もっと書きたいこともありますが、一度に書くよりまず確認してからと思いますので。
まったくズレてるようでしたら、質問のしかた変えてみてください。
よろしくお願いしますね。
土用の丑の日というのを、子供の頃ずっと土曜の牛の日だと思っていました。何で牛肉食べん
とうなぎを食べるのか不思議でした。
で、この頃「うなぎのひつまぶし」という看板というか広告をみるんですが、なんべん見ても「うなぎのひまつぶし」にしか見えないんです。
らくりんさんのカキコをみて思いました。「人世、うなぎのひつまぶしさ。精力つけて乗り切
ろう」って。
♪坂道を 自転車で。。。
一週間前に、廊下を歩いてる猫がいた。みゃ−といいながら玄関から入ってきてそのまま住み
着いてしまった。なんだか、ずっと前から住んでるような態度でその夜は寝てしまった。
まあ、いっか。宿無し猫もぐっちんもおなじようなもんだ。ところが、ぐっちん暑いから家の
中では上半身はだかで過ごしてるんですが、カラダ中、舐めまわされるんです。で、乳首を舐め
られていたんですが、しまいには、吸い出しにかかるんです。ちょ、ちょい待ち。わしは、アン
タのお母さんやないっちゅうに。。。固いキャットフードも食べてるんで、そんなに赤ちゃんと
も思えないんですが。。。
ちびこいからなのか、猫にしては人なつっこい。寂しがりの猫です。ところで、むかし犬を
飼ってたときに、テーブルの上の食べ残しのハンバーガーを食べてゲロを吐いて倒れていたこ
とがありました。お医者さんに連れて行くと、ハンバーグにまぶしてある玉ねぎが原因だとい
われました。なんでも犬の赤血球を溶かす成分が、ネギのたぐいにはあるそうです。
ネコは何か天敵の食べものってあるんでしょうか?ネコがいる限り、さみしさも紛れますな。
レス遅くなってごめんなさい。そして、わざわざ、私のようなもののために、必死で自転車こいで、カキコしてくださりとってもありがたいです。感激しております。感謝します。かくいう私も寂しがりやですから。お気持ちよく分かります。今後ともよろしくお願いします。もちろん、らくりんさんも、ぐっちさんももここに来ていらっしゃる方々も、
切にお願いします。色んなご意見お聞かせください。ゆとりを持って生きていければと思う今日この頃です。
>最近良く思うのですが人生って何?
>人間って怖いのかやさしいのかほんまわかりませんな?
なんなんだろう?いろんな人の意見が聞きたいです。
僕、さみしがりやだから『人が居る』っていうことが、うれしい。
oyajiさんみたいに
>ぐっちんさん、我苦生さん、らくりんさんその辺のことどう思いますか?
って、HNだけど、名前よんでくれる人も居る。うれしい。
意見に成ってないですね。ごめんなさい。
携帯電話で見て、『あ、名前書いてくれてる!』って、うれしくって、自転車乗ってネットカフェにやって来て、一時間半。書いては消し、書いては消し。何の意見もできません。ごめんなさい。
ただ、うれしかったです。ありがとうございます。
「ひまつぶし」って言ったら、「ふざけるな」って怒られますかね。
でも、
「お迎え」が来るまでの間を、
つらいことも、楽しいことも、まじなことも、おふざけも、
そんな感じで生きられたらいいかなあ、なんて思ってます。
けっこう、根が 生真面目?、神経質?、シリアス? な性分なもんですから、
(自分では自分のことをそう思っているだけですが…)
逆にそんな風な「瓢々さ」にあこがれるようなところがあります。
で、「人世、ひまつぶしさ」と。
私は今回の退職の件に関して、つくずく考えさせられたのは、自分の人生ってほんまなんやろなって思った次第です。お互いに差別しあい(自分が勝手にそう思ったいるだけかも?)傷つけ合うなんて。もういやだ。お寺さんも大変なんですね。サラリーマンも大変だと思ってましたが。それ以上に大変なところがあるかも知れないなあーて思うようになってきました。ここは本当に勉強になります。今後は後ろを振り向かず前向きに楽しく生きてゆけたらと思っています。1度だけの人生だから。もちろん自分を磨くことはしていきます。人間って怖いのかやさしいのかほんまわかりませんな?ぐっちんさん、我苦生さん、らくりんさんその辺のことどう思いますか?ご意見をお聞かせください。人間の差別や怖さなどについて。本当に最近人生に疲れたな参ったな(愚痴でした)