らくりんバンバン

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つまらん訂正 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月18日(金)10時08分29秒 1Cust138.tnt5.yokohama.jp.fj.da.uu.net

テルゼさん

>>私は輪廻転生というものはあるかもしれないと考えているので
>>その気持ちが働き暴走を止めてくれています。
>
>つまらんことを・・

訂正
「止めてくれています。」→「止めてくれていました。」
つまらんことです…

※しかし、私には論理的に説明することは出来ませんが、
『輪廻転生』は侮れない概念?だと思っています。
これ以下のつまらん突っ込みはご勘弁を。(^^ゞ
編集済


カブトムシさん江 投稿者:流れ星 ☆  投稿日: 4月18日(金)08時25分00秒 u008.d028228218.ctt.ne.jp

レス、ありがとうございます。

>しかしながら<人間には真実はない、真理は他者..>という区分の仕方
>がどういうところを言おうとされているのか分からないなあ。
>流れ星さんの言葉をこのように受け取った僕には、人間を離れたところに
>真実があるというようにはどうも思えないのがあるんです。
>人間は「これが真実だ!」と言い切れないのが人間ではあるけれど、
>人間を通して真実が顕れないとも言い切れないし、まんざら有ってもおか
>しくもないんじゃないかって。

「人間を離れたところに真実があるというようにはどうも思えないのがあるんです。」

わたしも基本的にそうだと思っています。
人間から離れたところに、ぽつんと真実が浮いてるわけでなし。

しかし、真実がどこかにあるとしても関係自体が本当はありえないないです(有限と無限のお話)。
そして、もしかして、それらしいものが見つかったと言う人がいても
その真実を手に入れる方法(行)に少しでも秘密、神秘めいたところがあったり、
あるいはどうしてもそれを手に入れられない人が出てくる条件があったりすれば、
独占が生じます。そういう真実は、私は拒否します。

もし、「風の谷のナウシカ」の原作コミックを読んでいらっしゃったら
ナウシカが神の人々の列に入ることを拒否し、それを破壊し、
毒に犯された人々と共に生き、死んでいくことを選んだことと重ねて考えていただければです。

方便を本尊とするのというのはどういうことかというと、繰り返しになりますが、
独占が生じにくい、公開で共有できる真実の如きもの「ナンマンダブツ」を仮設し、
それを本尊として選択(選び取りそれ以外をステル)するということです。


シッタカブッタカに、生きている意味がわかんなくなって、
人生の意味を捜し求めて結局、見つからなかったと、絶望しているブタが出てきます。
彼に「じゃあ、こんどは君が人生に意味を与えればいいじゃないか」
という、気の利いた台詞が投げかけられていたと、記憶しています。

自分がどう生きたいのか、なにを真実とするのかは自分が決めるしかない。
それは愚かな私が、これだと決めた真実でしかないとしても、それ以上になにがあるのか。
そして、私は、南無阿弥陀仏を本尊、真実とすることにしたということです。

(意味がつながらない箇所がありましたので、20時40分に訂正を入れさせていただきました。
お詫び申し上げます。)
編集済


おはよ 投稿者:三吉  投稿日: 4月18日(金)07時56分40秒 ca9d71-166.tiki.ne.jp

テルゼさん

だからね、死後浄土を目指す人もいればそうでない人もいる。
あなたの理解を超えた信仰もあるということですわ。

jyugegu さん

断定するほどのことでもないのですね。

MANU. さん

それはよくよく自分をみれば勝ち負けにこだわりがあるから
そうお感じになられるということでは?と。
語りたいことがあれば語ればよいし、なければ。。
伝わるかどうかはともかく、伝えたいことがあれば伝える
シンプルでいいのではと。


>文字化けのため再投稿( 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月18日(金)07時18分28秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

三吉様、おはよう御座います。

。イメージは分けても両者にあると思います。
「思います」表現は断定では無い様、それはそれ。

・法句経じゃないでしょうか。誤植多いですね。
文字化けしない程度。

。しかも普通は法句経(ダンマパダ)ではなく、同じく古層なのですが、
。経集(スッタニパータ)ですね。
。スッタニパータの中の孫陀利迦婆堕闍経462や婆私吨経650が有名なんですけどぉ。
貴方には通じていた、それ以上教養披瀝の手助けしなるか。

・この場合、史的釈尊が出家と認めた限りの出家の概念です。
。形もあれば意識も含みまする。
形的には何を以って、意識的には何が。

。私の予測では、あなたは基礎的な史的な情報が不足しています。
それはとの「あなたが」そう申すのか。
それにもかかわらず、私は未だに地獄からの呼び出しも無く。
つまり生きている、「私の予測」では「情報が不足」と言われる、それは何に必要だったのでしょう。「火付けと、その消火」つまりはあなたのお飯の元

・大乗というのはですね、
講義されても私には払うお金の無く。
悟りを味わったのであろうと思いますよ。
で貴方の言う「悟り」とは何、
それにいたるに知識が必要

。在家の布施なければ釈尊は飢え死にした。
貴方の意識での「在家」とは何、亦「布施」とは

。悟る前に死んでました。
さてね、貴方はそう断定できる現場実況者


。「カースト制度」論考

あなたの豊富らしい情報をお布施のほど。

合掌。


頭朦朧 投稿者:MANU.  投稿日: 4月18日(金)04時01分28秒 218-228-157-172.eonet.ne.jp

ただ今決算集計の為、数日寝不足状態…
とても流れについていけましぇん。

神と仏 天国と浄土 救済と往生 その他諸々
異なるものを同じように当てはめてみたりしても噛み合いませんわな。
更に仏側でもいろいろ分かれるし
神側でも色々あるご様子…

いったいどこへ着地しようとしてるんだろう。
だれか勝者を決めなきゃいかんのかな。

さーて、お仕事お仕事!

http://homepage1.nifty.com/MANU/


三吉さんへ 投稿者:テルゼ  投稿日: 4月18日(金)02時35分34秒 14.pool11.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>うんとですね、やふー歎異抄板のあなたの過去ログだけを2800番くらいまで
>読んでましたので、夜更かししちゃいましたね、昨夜は。

そりゃもっとつまらん事で、夜更かしを。。。(笑)

>さて、私のつまらんらしいツッコミを続けますと、
>「そこを目指している」のも信仰でしょうし、
>そういう拘りから自由になったのも信仰ではないかと感じておる次第です。

じゃあ、お聞きしますが「救済」って、なんですか?
死んで浄土にいくということですか?
信仰を得たということは、目指そうが、目指すまいが、
結果「そこを目指した」ってことじゃないのでしょうか?


ジャンク門徒さんへ 投稿者:テルゼ  投稿日: 4月18日(金)02時01分11秒 175.pool6.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>「善」ですかぁ。
> 善と悪の彼岸にあるのが涅槃(真仏土)なのではないかと。
> 善悪の広海を溺れることなく渡り抜いた先に悟りの浄土が広がっているような気がします。

あなたが仰っているのは、人間の目から見た相対的な善悪でしょう?
私が言っているのは、「神=善」です。

>私は輪廻転生というものはあるかもしれないと考えているので、
>その気持ちが働き暴走を止めてくれています。

つまらんことを・・


ぐっちんさん、座布団一枚!  投稿者:テルゼ  投稿日: 4月18日(金)01時23分21秒 236.pool6.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>ごあいさつ遅れました。初めまして。テルゼさんのお名前は、よその掲示板で知って
>おりましたが。えー、率直なところぐっちんの中ではテルゼさんは「悪魔のような、天使」と
>いうイメージです(笑)

「悪魔のような、天使」
たいそう気に入りました。有り難う。
個人的にバカ受け〜〜。

>ぐっちんとしては「天使のような、小悪魔」でしたら、プライヴェートでおてあわせ願い
>たいところですが(笑)ちなみにぐっちんは、「登録抹消(魔性)の男」です(笑)

「小悪魔」と「魔性の男」のお手合わせ、面白そうですね。。。
しかし残念ながら、わたくしかな〜りおババざんして、ぐっちんさんにはお気の毒かと思います。

ところで、ぐっちんさんはどこから抹消された男なのでしょうか?


下記文字化けのため再投稿( 投稿者:三吉  投稿日: 4月18日(金)00時51分03秒 ca9d71-152.tiki.ne.jp

jyugeguさん

・イメージは分けても両者にあると思います。
・法句経じゃないでしょうか。誤植多いですね。
しかも普通は法句経(ダンマパダ)ではなく、同じく古層なのですが、
経集(スッタニパータ)ですね。
スッタニパータの中の孫陀利迦婆堕闍経462や婆私吨経650が有名なんですけどぉ。
・この場合、史的釈尊が出家と認めた限りの出家の概念です。
形もあれば意識も含みまする。
私の予測では、あなたは基礎的な史的な情報が不足しています。
・大乗というのはですね、およそ釈尊の死後500年後から始まるんですよ。
でね、大乗の古層は般若経なんかの発展を見ていきますと、最初は菩薩という言葉
で自分たちを表現し、次に大乗という言葉に意味を見出し、更に部派を小乗と非難する
段階に分けられるのですね。そういうことを根拠にして私の詭弁は育まれております。
・うんとですね、ここでは釈尊の考えてた悟りを得れる条件を論じておるのですね。
釈尊は体験主義ですので、理性と感覚とかわけないでね、身体全体、細胞の一つ一つで
悟りを味わったのであろうと思いますよ。
・うん。大乗を経た現代のお坊さんと、2500年前の釈尊の時代を混同してませんよ。
在家の布施なければ釈尊は飢え死にした。
そもそも苦行から脱落からして死に掛けてたのを一命取りとめられたのは、村娘スジ
ャータの献身的な介抱のおかげですからね。在家からいなければ、悟る前に死んでました。

「カースト制度」論考

うんとですね、バラモンの中で血統の純粋性が実は薄れていた時代なので、
バラモン側からも釈尊に先行して、いろいろ平等思想は説かれておりましたし、
ジャイナ教も説いてましたし。。。もう少し丁寧にみていきますと違う風景が
みえるかもです。現代まで続くカースト制が揺れていた珍しい時代でもあ
ったりするのです。


下記、三吉です。失礼しました 投稿者:三吉  投稿日: 4月18日(金)00時48分30秒 ca9d71-152.tiki.ne.jp

テルゼさん

うんとですね、やふー歎異抄板のあなたの過去ログだけを2800番くらいまで
読んでましたので、夜更かししちゃいましたね、昨夜は。
さて、私のつまらんらしいツッコミを続けますと、
「そこを目指している」のも信仰でしょうし、
そういう拘りから自由になったのも信仰ではないかと感じておる次第です。

ナニが善で悪であるか判断基準を持ってしまったら窮屈じゃないかと。
私をはかり、他人をはかり。。と。
「義なきを義とす」という発想がありまして、あなたには響かないのかも
しれませんが、私は「判断基準」を振りかざし裁断しちゃう傾向が自分に
根深くあると日々思っておるところですので、「なるほどなぁぁぁ」と
深く頷いておるところでございます。

ジャンク門徒さん

釈尊に弟子入りされた場面の描写をみますと、釈尊と問答し、彼の答えに見せられ、
そしてなにかに気づき、そして弟子入りするなり出家していますので、その気づきも
ある種の悟りであるとはいいうるかとは思います。
但し釈尊は実に多くの弟子にあなたは悟ったと認可していますが、その釈尊が認める
かぎりの「悟り」という狭い意味では、出家修行者だけなんですね。

善はテルゼさんね。


・クミ1 投稿者:眉耳  投稿日: 4月18日(金)00時47分31秒 ca9d71-152.tiki.ne.jp

jyugeguさん

¢イメゥ`ジは蛍けても!宀にあると房います。
¢隈鞘スUじゃないでしょうか。ユ`峅謹いですね。
しかも噸宥は隈鞘スU(ダンマパダ)ではなく、揖じく硬建C覆里任垢・「
スU鹿(スッタニパゥ`タ)ですね。
スッタニパゥ`タの嶄の薫羊旋緘禿狗鵞スU462や禿暴欽スU650が嗤兆なんですけどぉ。
¢ この壱ク蓮∧卦鶴亨垂ェ竃社とユJめた・りの竃社の古廷です。
侘もあれば吭ラRも根みまする。
暴の嚠忱では、あなたは児オA議な雰議な秤一C・思磴靴討い泙后」
¢ 寄―というのはですね、およそ瘠恊の棒瘁500定瘁から兵まるんですよ。
でね、寄―の硬建C楼稟・Uなんかのーk婢をメ鰍トいきますと、恷兜は鳶ヒ_という冱ネ~
で徭蛍たちを燕ャFし、肝に寄―という冱ネ~に吭龍をメ滑魔オ、厚に何塗を弌―と掲・する
粁・に蛍けられるのですね。そういうことを功仲にして暴のヤロ佑腕・泙譴討・蠅泙后」
¢ うんとですね、ここでは瘠恊の深えてた歴りを誼れる訳周をユ唐カておるのですね。
瘠恊は悶Y麼チxですので、尖來と湖メ凾ニかわけないでね、附悶畠悶、シ嚠の匯つ匯つで
歴りを龍わったのであろうと房いますよ。
¢ うん。寄―をスUたャF旗のお兄さんと、2500定念の瘠恊の瓶旗を詞揖してませんよ。
壓社の下仏なければ瘠恊は・え棒にした。
そもそも逗佩から用鯛からして棒に呈「韻討燭里鰔暫竅C蠅箸瓩蕕譴燭里蓮・緜錺好ク
ャゥ`タの・附議な初宇のおかげですからね。壓社からいなければ、歴る念に棒んでました。

仝カゥ`スト崙業々ユ盗[について

うんとですね、バラモンの嶄で僮スyのシ・xメが携は院れていた瓶旗なので、
バラモンt「・蕕矚亨垂ノ枠佩して、いろいろ峠吉房・はユhかれておりましたし、
ジャイナ縮もユhいてましたし。。。もう富し供研砲澆討いC泙垢庇`う・尚が
みえるかもです。ャF旗までセAくカゥ`スト崙が兎れていた寇しい瓶旗でもあ
ったりするのです。


べんべん 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月17日(木)23時43分09秒 ns.jjclub100.com

 ♪べーん べーん べーん。。。

 かんちがいのようで かんちがいでない!      べんべん
 
 錯覚のようで 錯覚でない!            べんべん

 そ・れ・は・な・に・か・と・た・ず・ね・た・ら

 あら 方便 方便 べんべん。。。
編集済


テルゼさんへ 投稿者:赤時  投稿日: 4月17日(木)22時36分07秒 1Cust145.tnt3.tko2.jp.fj.da.uu.net

テルゼさんへ

>聖書の「肉の想いのプンプン」の弟子達が造り出したイエス像じゃなくて
>イエスの言葉、行為から伝わってくる「イエスの想い」と探るということです。
>この事は、信仰とは関係ないでしょう。

私が申し上げたいのは、(本人は自覚していなくとも)それは、信仰であり、かんちがい
である、ということです(何回も書いてるようですけど)。
「『肉の想いのプンプン』の弟子達」も、おそらく、イエスを歪曲するような意図は
なく、真実を伝えたかったのだと思います。「イエスの言葉、行為から
伝わってくる『イエスの想い』と探るということ」というのも、これと同じ行為でしょう。
それに、あなたの話を聴いていると、なんか、聖書とはべつに、「真性のイエスの言葉」
みたいのが存在してて、それだけを純粋に取り出すことができるかのようだ。

>> >まずは、読んでみてください。
>>なにをですか。聖書をですか。アンチクリストをですか。聖書だったら、読んだこと
>>ありますが・・・(笑)。

>またまた・・・私も聖書は微かに読んだことがありますよ(笑)
>旧約は大変でしたわ〜、
>読了するまでは、まるで「神の試練」を受けているような忍耐の日々でした。

私の質問の答えになってませんね。答えてくださいませんか。私のもともとの質問は、
「まずは、読んでみてください」とは、なにを読むんですか、ということです。
シャレでなく、本当に分かってません。お答えください。

>へええ〜?
>だったら、何故ここに来ているのでしょうか?
>私は新参者で、あなたのことはまだよく知りませんが、
>どんなきっかけか、心持ちかでこちらに出向かれてますの?

私も比較的新参者ですので(たしか昨年の11月か12月ごろから、ひんぱんに、
読んだり書いたりさせていただくようになりました)、いまのところ、「おもしろい」
と思って、読んだり書いたり、させていただいております。
興味が失せれば、自然と、フェードアウトしていくと思います。

>そのままパウロの捏造「方便」に乗って行って下さいませ。

「捏造『方便』」というなら、パウロのみならず、聖書全体が(旧約新約含めて)、
また、古今のキリスト教神学のようなものが、
全体的に、捏造「方便」ということが、できるのではないでしょうか。
この投稿の一番上のほうにも書きましたが、福音書に書かれている、イエスの言行なども、
全部、だれかが書いた、「捏造『方便』」と言えるのではないでしょうか。
テルゼさんのおっしゃる「ファンキーなイエス」というのも、解釈のひとつに過ぎず、
信仰のひとつに過ぎず、かんちがいのひとつに過ぎない、と思うわけです。
とくに、「イエスが大好き」などと言っているやからは、往々にして、自分の思い描く
イエス像を、(自分も、歪曲に歪曲を重ねているということは自覚できずに、)
歪曲に歪曲をかさねて、描く傾向にあるようです。

何度も書きますが、しかも、私は、それが悪い、と主張したいのではありません。
信仰というのは、そういうものだ、と、言いたいのです。
もちろん私もそのひとりです。


>流れ星 ☆彡 さんへ  投稿者:カブトムシ  投稿日: 4月17日(木)19時33分55秒 lyra.mula-net.com

煩悩に負けないという自己の捉え方や煩悩を消そうとする意識からの
煩悩への対処ということには、無理があるのじゃないかと、流れ星さ
んは言おうとされているのかな?
それと、<「そもそも「一切の否定のない、あるがままの姿」ってあ
りえないと思います。>ということの意味が、「弥陀の浄土にしか真実
世界はないんだ」という観点からありえないと言われているのかな?
そうであれば僕もそのようだろうなと思います。
しかしながら<人間には真実はない、真理は他者..>という区分の仕方
がどういうところを言おうとされているのか分からないなあ。
流れ星さんの言葉をこのように受け取った僕には、人間を離れたところに
真実があるというようにはどうも思えないのがあるんです。
人間は「これが真実だ!」と言い切れないのが人間ではあるけれど、
人間を通して真実が顕れないとも言い切れないし、まんざら有ってもおか
しくもないんじゃないかって。
以前、流れ星さんが言われていた、<煩悩の存在を知るということが、そ
のまま悟りの縁、救いだと>ということだとしたら、僕もそうだろうなと
思うのです。
僕が表現した、「一切の否定のない、あるがままの姿」という中味は、例
えば、「自分は世界中の人の平和を願っている」と思っている、又は「そのよ
うな行動をしています」と思っているという中味が、実は自分だけの満足を
得る為の心からの場合もあると思うんです。この場合は明らかに、思い違
いなわけなんです。こういう昼の世界では、隠そうとしても隠せない自分
自身に気付く、そのような自分自身を知るということ自体が真実の自分を
知るということにもなると思ったからです。流れ星さんが言おうとされて
いることと同じなのか、また違うのか?


(無題) 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月17日(木)17時59分04秒 1Cust232.tnt4.yokohama.jp.fj.da.uu.net

ぐっちんさん

>ぐっちんは、在家なのか出家なのか、地獄行きなのか極楽行きなのかどっちでしょ(笑)

冗談話だと思って軽く流して聞いて下さい。
多分心を澄ませば内なる声が聞こえてくるのではないでしょうか?
人それぞれ生まれてくる環境が違いますよね。仏縁があって良いか悪いかお寺に生まれてくる人もあれば、親に恵まれず虐待をうける家に生まれてくる人もいる。魚などは暢気なようですが、日々
空腹感と弱肉強食の摂理に恐怖している。
魚などに生まれ変わったらそこが地獄かもしれないですよね。少なくても彼らも感じて生きている
わけですから。
阿弥陀仏を信仰する人は阿弥陀仏に縁がある場所(浄土)に生まれて来るのではないでしようか。
そしてその浄土からさらに修行して極楽浄土(涅槃)を目指していく。
信仰ある怠け者は再び浄土に生まれてくると言う具合で。

南無阿弥陀仏を唱えれば幾度か輪廻転生した後、いずれは極楽往生できるのだと思います。
(ここでいう極楽往生とは輪廻から解脱することを指しています。)

>それも生まれる前のカルマとやらに決定されてるなら、私はどうすりゃいいの?(笑)

心の底から(これも難しいが)阿弥陀仏に任せるのも一つの手では?
一切を任すということは一切の自我を放棄してしまうことに等しいと思います。
我侭の許されない、もう死んで生きるの世界ですよね。その境地は多分悟りの境地ですよ。
編集済


(無題) 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月17日(木)17時04分31秒 usen-219x123x170x249.ap-US.usen.ad.jp

 ♪ボンレスハ〜ムですねぇ〜 ちょっとつまんでみませんかぁ〜
  ボンレスハ〜ムですねぇ〜 彼のつまんでみませんかぁ〜
編集済


>輪廻転生 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月17日(木)16時53分45秒 usen-219x123x170x249.ap-US.usen.ad.jp

 えーと、でもジャンク門徒さんは、他人も採点するんでしょ?(笑)
で、ぐっちんは真宗のお坊さんというライセンス(開店休業中)を持っているけど。
生まれは寺じゃない。で、妻は死んでいないけど。(つまりいったん家庭人。いま一人世帯人)

 ぐっちんは、在家なのか出家なのか、地獄行きなのか極楽行きなのかどっちでしょ(笑)
で、それも生まれる前のカルマとやらに決定されてるなら、私はどうすりゃいいの?(笑)

 ぐっちんの「佛法」のイメージは、確かに自分を映し出す鏡(MANU.さんが書いておら
れたか?あるいは流れ星さんのいう「真実は他者(阿弥陀、浄土)」、ぐっちんが付け加える
なら、それに照らされた人の歴史の歩み)みたいなもののようですが、それは私物化されて、
他人に押し付けたり、他人を裁いたり、他人を一方的にやりこめたりする道具にはなりえない
ものだと思ってます。

 ぐっちんもどっちかというと、面倒くさがりで、ややこしいこととか、ジャマくさいことは、
キライ。だから、シンプル・イズ・ベストとは思うけど。やっぱり、何やかやいうて掲示板に
向かうってことは、さびしんぼう(大林宣彦)。。。誰かと何かとかかわりたい!と思ってる。
だから「あっしには関わり合いの無いこってござんす(中村敦夫)」とは、いえないしね。
ゆえに、「♪娑婆ダ 娑婆ダバ 娑婆ダバ ウィー 娑婆ダバ トゥ塔婆」なんのこっちゃ?
編集済


カースト制度についての小論 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月17日(木)13時27分36秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

三吉様の投稿に
「カースト制度」云々の言のあるよう、

ところで過日少々そのことにつき記すところのあり、
http://homepage1.nifty.com/SNC26924/starthp/subpage02.html
に載せました、興味ある人はご覧下さい。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


>(無題) 投稿者:流れ星 ☆彡 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月17日(木)13時20分37秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>自分が真実ではないということは、はっきり証明できるということです。

「真実でない」「自分」が何を「はっきり証明」という、
その「はっきり」は真実それとも????

合掌。


(無題) 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 4月17日(木)13時00分02秒 u008.d028228218.ctt.ne.jp

自分が真実ではないということは、はっきり証明できるということです。


輪廻転生 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月17日(木)12時52分38秒 1Cust134.tnt4.yokohama.jp.fj.da.uu.net

ぐっちんさん

>けどまあ、それって閻魔さんみたいな人が採点するのかなあ。
>閻魔さんに逢うたことあるんですかぁ?

己が閻魔で己を採点しています。
ですから年がら年中逢っています。
私は輪廻転生というものはあるかもしれないと考えているので、その気持ちが働き暴走を止めてくれています。
余り詳しいことは存じませぬが仏教で云う阿頼耶識というものが輪廻の種になると聞いています。
その種に業(カルマ)が記憶され、因となり来世で果報となるのですかね。
学者ではないので詳しくはないのですけど…
日々の生活では因果応報というものをよく感じます。
「それをするからそうなるんだよ」と感じることがよくあると言うか、まさにそれですよね。
それを大きく考えると、「前世でこういう人生を歩んだから今世はこうなのだ」
と捉えることが出来るのではないかと…

詳しいことは阿頼耶識の専門家にお尋ね下さい。


>はぁ 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月17日(木)12時35分01秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>どこが矛盾してますか? 

>人間には真実はない、真実は他者(阿弥陀、浄土)にしかないというところをはずすと、
>あかんのだと思います。

「人間には真実は無い」と言う人間に真実は無い時、この
「人間には真実は無い」という言葉は「真実」?それとも????

まあ子犬は自らの尻尾に噛み付きじゃれるがすきとは云え。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


はぁ 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 4月17日(木)12時02分45秒 u008.d028228218.ctt.ne.jp

どこが矛盾してますか?


>(無題) 投稿者:流れ星 ☆彡 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月17日(木)11時59分06秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

流れ星 ☆彡 様

>「世間虚仮 唯仏是真」
>人間には真実はない、真実は他者(阿弥陀、浄土)にしかないというところをはずすと、
>あかんのだと思います。

因みに「世間(loka・迷いの世界。迷っている人々)」
   仏・仏陀「buddhの意は、budh経験して知るに由来」
  仏陀の対に在るのが凡夫(bala prthag janah・一人一人別々に生まれた者)に云われる
  在「世間者」とすれば、貴方の言われる

>人間には真実はない、真実は他者(阿弥陀、浄土)にしかないというところをはずすと、
>あかんのだと思います。
この表現との整合の有無は?。
それとも貴方は「人間」ではないから、上記そういい得るのかネ。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


平日の昼間からヒマな人多いな 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月17日(木)11時35分23秒 usen-219x123x170x243.ap-US.usen.ad.jp

 「よっすぃー」と「りかっち」と「かごちゃん」がいるとする。

 さて、この三人の「身体測定」「健康診断」は、いちおう「客観性」を持って
計ることが出来ると思われる。(というか、この手の測定が可能なものを逆に客観という
のだろう)身長、体重、スリーサイズ、視力、聴力。。。計器がちゃんとあってそれは
「数字」に変換できる。

 で、お互いがお互いを「身体的」には、「認知」可能である。だから、「かごちゃん」は
身長が150センチ以下の「ミニモニ。」に参加していた。(しかし、「のの」および「や
ぐち」はさておき、ハワイ出身の「ミカ」はどうみても150センチ以上あったように思う
のはぐっちんの錯覚だろうか。。。)

 けれど、これらの人の「心理測定」「信仰診断」は果たして「客観的」にできるだろうか?
体重計のようなものは、ないし。。。まぁ「心理テスト」とか「教義試験」みたいなので採点
するしかないでしょう。(その「教義試験」がクセもの。。。だから、心理学では<行動主義>
なるもので客観性を保証しようとする)

 で、心理は偽ることもできる。自分は、「自力のお念仏」を尊いと思っていても「他力の
お念仏」の方に○をつけるかも知れない。(身長をごまかそうと思ってシークレット・ブーツ
履いてきても、すぐ脱がされるのとは大違い)また、自覚的にごまかそうと思ってるんでは
なくても、「正統派おーそどきしー」の回答にマルをつけるかも知れない。(洗脳?の問題です
ね)

 で、まあジャンク門徒さんのおっしゃることを聞いていると、「シークレット・カルマ」なる
地獄・極楽行きを決定付ける「模範解答例」を想定されているのだろうけど。
(出家は○で、在家は×と。。。で、ぐっちんは限りなく○でもない×でもないグレーゾーンの
人が出てきてしまうと思うけど)けどまあ、それって閻魔さんみたいな人が採点するのかなあ。
閻魔さんに逢うたことあるんですかぁ?で、その閻魔さんがドロロン閻魔くん(註:永井豪の
アニメキャラ)でない保証は、どこにあるんでせうか???
編集済


(無題) 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 4月17日(木)11時28分00秒 u008.d028228218.ctt.ne.jp

ぐっちんさんがおっしゃっていたように(ってもう、いつ、言ってたのかわからへん)
対話が生きてる現実から乖離していって
ここに何か書いても、閉じられた妄想になってしまいそうです。

カブトムシさん、レスありがとうございます。
私の文章を使って、ご自分の思いを書かれているんだと思います。
でも、もとネタといたしましては、なにか異物を挿入された気がしまして、

>これまで築き上げてきたと思っていた実績が崩れ、
>新しい実績に置き換えられ、一切の否定のない、あるがままの姿に
>本当の喜び、真実の自己を知ることが出来るのです。

に、なにかレスせずにはいられなくて、書かせていただきます。

「煩悩」とは 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 4月 7日(月)07時55分05秒

でも、その辺りを書いていたつもりですが、
「新しい実績」ということはやはり、なにかを積み重ねなければいけないということだし。
そもそも「一切の否定のない、あるがままの姿」ってありえないと思います。

常に自分を正当化しようとする煩悩が、
わたしそのものであるという事実があるということを
認めるしかないというか。

人間には真実はない、真実は他者(阿弥陀、浄土)にしかないというところをはずすと、
あかんのだと思います。
編集済


>jyugeguさん 投稿者:ぐっちん   投稿者:jyugegu  投稿日: 4月17日(木)11時12分18秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

> がちょ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん。

合掌。


>赤時さん 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月17日(木)11時11分01秒 usen-219x123x170x243.ap-US.usen.ad.jp

 えー、かなり亀レスというか。。。話題がズレますけど。。。

 唯円という親鸞のお弟子は、親鸞語録『歎異抄』を著しました。異なるを嘆く、という
スピリットのもとに書かれた本です。
覚如という親鸞のひ孫は、『改邪抄がいじゃしょう』を著しました。邪を改める、という
スピリットのもとに書かれた本です。

 ぐっちんは、信仰者パウロはアカンとは思いません。確かそんなことは、書かなかったと
思います。パウロの言葉で凄いな、と確かに共感することばがあります。(いちいちここで
引用しませんが。。。)

 が、あの「自分とは違う福音を述べ伝えるやつは呪われよ」みたいな姿勢を批判したまでです。
編集済


(無題) 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月17日(木)11時10分04秒 1Cust194.tnt4.yokohama.jp.fj.da.uu.net

三吉さん

>出家者しか
>悟りを体験できないというエリート主義的限界を持っている点
>が差別者であるということです。

そうでしょうかねー。
当時の人々は釈尊その人の人格、哲学に触れ、又その生き様に憧れて出家したんだと思いますよ。
出家して悟ったのではなく、悟ったから出家したんじゃないですか?
在家の生活より出家の生活が楽しかったんですよ。
悟っているもの同士が語るのは妙に面白いですしね。

>「善なる決断」

「善」ですかぁ。
善と悪の彼岸にあるのが涅槃(真仏土)なのではないかと。
善悪の広海を溺れることなく渡り抜いた先に悟りの浄土が広がっているような気がします。


三吉様と、差別の言語 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月17日(木)11時08分26秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>釈尊が差別者だというのは、私の釈尊に対するイメージです。
イメージとは「理性と感情」に分別するとすればどちらに在るのでしょう。

>私の立っている位置・目線からはそうみえるということでして、
>一般的には時代社会のカースト制の生まれによる差別を批判して
>生まれではなく、云何に生きるのかが問われていると主張したと
>されています。人間の平等を主張したと。
貴方の目線と一般的解釈(これは発句経に基づく)は異なるといわれる。

>さて、私の目線によれば、釈尊の出家至上主義は、出家者しか
>悟りを体験できないというエリート主義的限界を持っている点
>が差別者であるということです。
まあ、時の権力から僧籍を剥奪された、それほどの親鸞の気概を今日は逆手に取り、在る教団僧の解釈としては当然かと。
ところでその解釈は別に、貴方の目線での「出家」とは何をいうのでしょう。
形?それとも意識?。

>大乗は在家・出家問わずという立場を打ち出し、釈尊を克服
>しようとしたと私は思っております。
どこからその詭弁はうまれるのか、
貴方の「思って」は別に根拠などどうぞ。

>有体にいえば、釈尊は、悟りというものは、家を捨て、妻子を
>捨て食のために働かず、人に乞い、遍歴生活を一人もくもくと
>行い、喜びもせず悲しみもせず淡々と生きる体験の中にしか出
>会えないものであると考えていたように私は感じます。
釈尊を出すまでも無く、先ず貴方が想う「悟り」とは何を言う。

>在家はどうしたって駄目なわけです。
在家とは何を示唆する、先の問いの出家に答えては此処に不必要でしょうが。

>「悟りたければ、出家せよ」なわけです。
悟りと出家の意味の解釈に至れば、

>私はそれを在家差別と思っています。
こんな言葉が表され得るかどうか。

>「布施する在家いなければ飢え死にするくせに何えらそーなこと
>いうてるねん」とも思っております。
貴方、その時代と現在此処の混同無きように。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


>jyugeguさん 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月17日(木)11時00分56秒 usen-219x123x170x243.ap-US.usen.ad.jp

 > >「おたく」の方が言ってる意味通じへんわ
 > これ「立文字」

 > >「あんた」よばわりされる覚えも無いし
 > これ「不立文字」

 > 合掌。

  
  がちょ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん。
編集済


>テルゼさん 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月17日(木)10時51分26秒 usen-219x123x170x243.ap-US.usen.ad.jp

 ごあいさつ遅れました。初めまして。テルゼさんのお名前は、よその掲示板で知って
おりましたが。えー、率直なところぐっちんの中ではテルゼさんは「悪魔のような、天使」と
いうイメージです(笑)

 ぐっちんとしては「天使のような、小悪魔」でしたら、プライヴェートでおてあわせ願い
たいところですが(笑)ちなみにぐっちんは、「登録抹消(魔性)の男」です(笑)
編集済


流れ星 ☆彡さん の言葉につられて  投稿者:カブトムシ  投稿日: 4月17日(木)07時48分21秒 lyra.mula-net.com

流れ星さん勝手に言葉を置き換えてごめん
意味を理解しようとしたら、このようになってしまいました...。

私たちがなにかの意味を知りたいという事は、
それを自分と世界とのつながりの端緒にしようという性向であると思います。
不可解、不可思議、よくわからないことは未知への船出です。
その中から意味が与えられ、その意味によって、世界を知ることが出来るのです。
だから、超越とか、無限とか、
自分以上のもの、超えたものを手に入れ、征服することは無駄なことだと
今の自分以上のもっと強い、動じない人間には決してなれないのだという
ことも知るのです。

そして、次々に、今迄捉えきれない物や出来事が出現し、
(それ以前に、壊されるんじゃないかという恐怖が消え)
これまで築き上げてきたと思っていた実績が崩れ、
新しい実績に置き換えられ、一切の否定のない、あるがままの姿に
本当の喜び、真実の自己を知ることが出来るのです。

有限が無限を内に取り込んでしまおうと思うことが既に思い違いと
いうことも分かってくるのです。

アタマのいい人は、こういうことに、ちゃんと気づいてて
「人間を離れて人間以外のものを求めず」
なんつー醒めたセリフを遺しています。
編集済


三吉さんへ「善なる決断」 投稿者:テルゼ  投稿日: 4月17日(木)07時11分59秒 192.pool21.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>(ρ。-)ねみぃ

眠けりゃ、つまらん突っ込み入れてないで、さっさと寝れば良かったでしょうに・・(笑)

>確かに、自分の選択を無条件に「善」であると私たちは
>感じてしまうものですが、私も例外ではないにもかかわらず、
>ほのかに「危険な香り」が。。。

・・・・・?????????
あなたは、ご自分の選択を無条件に「善」だと感じてしまう方なのですか?

自分のやっていることが本当に「善」であるかどうかは誰にも分からないですし、
本当の意味で「善」が何であるのかも知ることは難しいことです。

しかし、だからといって「善」を目指すことを放棄し、
「信仰があるから大丈夫」などと現状に安住して何の進歩も成長ももたらさなければ、
それは哀れな操り人形のような人間以外の何ものも産み出さないで
『自分の選択を無条件に「善」であると』するのと同じくらい危険でしょう。
 (そもそも『自分の選択を無条件に「善」であると』考えてしまえるような人間が
  そんなに沢山いるのかしら?
  某国のおサル大統領のように若干名のそういう人間が権力を握って
  おかしな事をしでかしてしまうことはしばしばありますが・・・)

>信仰とはある種の決意であるとして、わざわざそこに
>善」という価値判断を入れて、正当化する必要性がなぜ
>いるのだろうかと感じているのだと思います。

あなたは、真宗の信徒の方ですか?
それでしたら、「決意」と仰っているのは弥陀の本願を信じるということでしょうか?
あなた自身は、神の働きかけに答えて、
積極的に自分の生き方を「真、善、美、愛」の選択をして、
生きようとは為さらないのですか?

心を神に向けて「善」を知ろうとすることが、信仰ではないのですか?
そして自分の本性は、一点の曇りもなく青空の如く晴れ渡った「絶対善」であったと、
思い出すことが信仰であり悟りではないのでしょうか。
信仰を持つということは、そこを目指しているのではないのでしょうか?


(ρ。-)ねみぃ 投稿者:三吉  投稿日: 4月17日(木)02時49分11秒 ca9d71-158.tiki.ne.jp

「善なる決断」

うむむ。正直言いますと違和感があります。
なぜかわかりませんが、「おやっ」と。
わかりませんままに無理に言葉にしますと、
信仰とはある種の決意であるとして、わざわざそこに
「善」という価値判断を入れて、正当化する必要性がなぜ
いるのだろうかと感じているのだと思います。
確かに、自分の選択を無条件に「善」であると私たちは
感じてしまうものですが、私も例外ではないにもかかわらず、
ほのかに「危険な香り」が。。。

「釈尊の差別性」

釈尊が差別者だというのは、私の釈尊に対するイメージです。
私の立っている位置・目線からはそうみえるということでして、
一般的には時代社会のカースト制の生まれによる差別を批判して
生まれではなく、云何に生きるのかが問われていると主張したと
されています。人間の平等を主張したと。
さて、私の目線によれば、釈尊の出家至上主義は、出家者しか
悟りを体験できないというエリート主義的限界を持っている点
が差別者であるということです。
で、大乗は在家・出家問わずという立場を打ち出し、釈尊を克服
しようとしたと私は思っております。
有体にいえば、釈尊は、悟りというものは、家を捨て、妻子を
捨て食のために働かず、人に乞い、遍歴生活を一人もくもくと
行い、喜びもせず悲しみもせず淡々と生きる体験の中にしか出
会えないものであると考えていたように私は感じます。
在家はどうしたって駄目なわけです。
「悟りたければ、出家せよ」なわけです。
私はそれを在家差別と思っています。
「布施する在家いなければ飢え死にするくせに何えらそーなこと
いうてるねん」とも思っております。


ズコってかんじ・・ 投稿者:テルゼ  投稿日: 4月17日(木)00時00分23秒 83.pool3.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>赤時さん

>その、「想像力」というものが、「信仰」(=かんちがい)というやつですね。と私には
>思えるわけです。じゃあ、どうやってみても、おんなじじゃないの。

聖書の「肉の想いのプンプン」の弟子達が造り出したイエス像じゃなくて
イエスの言葉、行為から伝わってくる「イエスの想い」と探るということです。
この事は、信仰とは関係ないでしょう。

ここで言っておきたいですが、宗教と信仰というものを混同しないで下さいね。

> >まずは、読んでみてください。
>なにをですか。聖書をですか。アンチクリストをですか。聖書だったら、読んだこと
>ありますが・・・(笑)。

またまた・・・私も聖書は微かに読んだことがありますよ(笑)
旧約は大変でしたわ〜、
読了するまでは、まるで「神の試練」を受けているような忍耐の日々でした。

>>そうですね、この情報社会を迎え、みんな長い間騙されてきた事に気付き初めたのですよ。
>・・・聖書だったら、ルターのころから、みんな読んでたはずだと思うんだけどなあ(ぼそ)

あなた、私の話、真面目に聞いてんの?

>私は(自分で言ったら極めておかしいですが)じつに真面目でケイケンな教会青年でありまして、
>その信仰も、たいへん伝統的であり、やや保守的でさえあります。そのへんを踏まえて、
>「自称正統派(笑)」と名乗ってみました。

へええ〜?
だったら、何故ここに来ているのでしょうか?
私は新参者で、あなたのことはまだよく知りませんが、
どんなきっかけか、心持ちかでこちらに出向かれてますの?

>テルゼさんは、「『真実のイエス像』」のようなものに、たいへん関心がおありとお見受け
>しますが、なんでですか?

「十字架贖い物語」に躓いたからでしょう。
また、イエスが大好きだからです。

>>聖書に書かれたイエスの言動はゆがめられてしまっていますが、
>とお書きですが、私としては、もちろんそれで全然OKなわけです。
>それじゃ、だめですか?

ダメと言って、あなたが聞く耳は持たないのでしょうから、
そのままパウロの捏造「方便」に乗って行って下さいませ。
それで、あなたに才能がお有りなら、行く所まで行けるでしょう。
やっぱり、パウロは天才だなと思うのは、
キリスト教というのは自力他力を上手く使い分けて、
結構バランスの取れたなかなかの宗教に出来上がっていると思います。

でも、プロテスタントの場合は「知識」からの信仰の部分が大きいですから
カトリックの観想を行じている人達のところまで辿り着くのは
とっても大変だと思いますよ。

頑張ってね。





テルゼさんへ 投稿者:赤時  投稿日: 4月16日(水)22時29分58秒 1Cust168.tnt1.tko2.jp.fj.da.uu.net

流れ星さんのおっしゃるとおり、ここは本当にペースがはやいですので、
かなり遅れた話題をしますが、とりあえず、テルゼさんにだけ・・・
(他の皆様のお話も、興味深く拝見しております)

テルゼさん

>>>しかし、歴史的イエスを再構築することは出来なくても、
>>>心理学的イエスは再構築することは可能でしょう。
>>
>>?????どういう意味ですか?

>聖書に書かれたイエスの言動はゆがめられてしまっていますが、
>想像力を働かせれば、彼がどのような心を持っていたかを見出すことが出来るでしょう。

?????まだ、わかりません。「心理学的イエスの再構築」?

>想像力を働かせれば、彼がどのような心を持っていたかを見出すことが出来るでしょう。

その、「想像力」というものが、「信仰」(=かんちがい)というやつですね。と私には
思えるわけです。じゃあ、どうやってみても、おんなじじゃないの。

>まずは、読んでみてください。

なにをですか。聖書をですか。アンチクリストをですか。聖書だったら、読んだこと
ありますが・・・(笑)。

>そうですね、この情報社会を迎え、みんな長い間騙されてきた事に気付き初めたのですよ。

・・・聖書だったら、ルターのころから、みんな読んでたはずだと思うんだけどなあ(ぼそ)

>どこが「正統派」なのかは分かりませんが・・・(笑)

テルゼさんが、異端を自称されているので、じゃあ私は、というノリでした。
私は(自分で言ったら極めておかしいですが)じつに真面目でケイケンな教会青年でありまして、
その信仰も、たいへん伝統的であり、やや保守的でさえあります。そのへんを踏まえて、
「自称正統派(笑)」と名乗ってみました。

>中途半端だったら、一度すこ〜んと捨ててみるのも良いですよ。

私は中途半端ではないので、すこ〜んと捨てることもないです。どっぷりつかってます。

そのあとにつづく、テルゼさんの「回心物語」は、たいへん興味深く拝読いたしました。
私自身は、自分の「回心物語」を、めったに語らないたちなので(この掲示板でも、語ったことは
ない。他の掲示板でも、たしか、ない。)、語りませんけど。

それで、上の質問とは別の質問があるんですけど・・・
テルゼさんは、「『真実のイエス像』」のようなものに、たいへん関心がおありとお見受け
しますが、なんでですか?
というのは、私はさして関心がないからなのです(ということに、テルゼさんとの対話から、
気付いた)。
私には、聖書に書いてあるイエス像で、充分です。極論、イエスが、実在の人物じゃないと
なったって、構いません。聖書には書いてあるのだから構わないわけです。

>聖書に書かれたイエスの言動はゆがめられてしまっていますが、

とお書きですが、私としては、もちろんそれで全然OKなわけです。

それじゃ、だめですか?


ぐっちん様へ 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月16日(水)21時58分56秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>「おたく」の方が言ってる意味通じへんわ
これ「立文字」

>「あんた」よばわりされる覚えも無いし
これ「不立文字」

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


ぐっちんさんへ 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月16日(水)21時49分52秒 1Cust16.tnt4.yokohama.jp.fj.da.uu.net

>>何ともいえない心地の良い真理の風
>例えばジャンク門徒さんの、これって何ですかぁ?

伝わらないと思いますが頑張ってみます。
私の心に吹き付けてくる風を真理の風と呼んでいるのですが、ん〜例えば心は色々感じますよね。
ぐっちんさんの発言一つ一つに心は感じて反応しています。で、その発言の一つ一つが私にとって
風だったりするのです。
ぐっちんさん及び皆さんと会話していて勉強になることも多いですし、非常に楽しい。
もちろんその楽しみには緊張感、疑問、安堵感等を含んで楽しいのでありますが、その心で感じる
もの凡てが性交より気持ちいいのです。私からすると性交の快楽は糞か屁のようなもの。
先程、一人夜道を散歩してきましたが、実に気持ち良かった。
満月が風であり電車の走る音が風であり、街を行く美女の後姿が風でした。
風というより空(くう)と言った方が解りやすいかもしれませんね。

後もうひとつ、腹が立つうちは未だ悟っていないのだと日々心に言い聞かせています。


>jyugeguさん 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月16日(水)21時22分08秒 usen-219x123x170x244.ap-US.usen.ad.jp

 「おたく」の方が言ってる意味通じへんわ!ひとりでしゃべっときなはれ。
「あんた」よばわりされる覚えも無いし。
編集済


>(無題)  投稿者:jyugegu  投稿日: 4月16日(水)21時16分14秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>お通夜の席で・・・・自分の「番」は、まだまだ先ってなカンジ。。。
いえいえ、充分お世話した(看病に疲れた)後では、
共によかった、元気なものまで付いて行くわけにも行かずと、
死者はもう見向かれる事無く、今在る者で安堵の酒盛り。

>エロについて・・、死について
共に某かのタブー視傾向の在り、
「エロ」については「お上」の監視、
「死」については「坊主」の管轄かのような、
共にそれを犯しては生命まっとうできないかの、
でもそれが充分語られてこそ、生命まっとうできるかな、

>何やら、深遠・・・・それって一体何なのさ?
あんたが勝手に「坊主」を含め「お上」の統治の誘導に、乗って遥かに遠ざけられた、
その結果が、疑義「深遠」、遠く深く心にしまいこむ事になっただけ、

>すべて、・・・「原理」については、決して問われることがないから
だったらあんた一人でも問いなされ、
みんなの中から一人飛び出ては危ないと?、
常に「坊主」も共に為政者は、網を仕掛けて逃さぬくふう。
籠の中でのぶつぶつ横ばい、蟹の聞こえぬ愚痴ばかり。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


スタイルの違いといえばそれまでだけど 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月16日(水)20時10分29秒 usen-219x123x170x244.ap-US.usen.ad.jp

 お通夜の席で、故人と血縁的に遠い会葬者の方々は(まぁ一般化してしまいますが。。。)
談笑されてたりなんかする。「あの人」は、死んでしまった。だけど、自分の「番」は、まだ
まだ当分おあずけってなカンジ。。。

 男同士(あるいは女同士)集まると、「エロ」というか「恋愛沙汰」のことを口にしない
事の方が少ないのではと思う?(お酒なんか入ってると特に。。。)けど、正面切ってエロに
ついて語られるということは滅多にない。なんか、冷やかし半分でアイマイなまま語られる。
(死についてもそう。あんたが早いか、わしが早いか。。。みたいな)

 TVを見ても、殺人を描いた番組のない日なんてない(あるいは登場人物が死ぬ)と思うし、
コンビニ行きゃあ、エロはまさにコンビニエンスに手に入る。そういう、社会の中に生きてる
私たち。

 深遠で抽象的な「悟り」だの「真理」だの「救い」だの「道」だの「法」だのについては、
さんざんお語りになるけど、それって一体何なの?って不思議に思う。かなりマニアックで
共有しにくい話題。そういった話題の基礎となるであろう、身近で具体的な「死」や「生」
や「性」についてはその話題の中からはちっとも聞こえてきやしない。。。(ぐっちんの個
人的不満ですが。。。)

 なんか、ある考え方を前提にして語られる。いわば、「直観補強型トーク」。ある人は、
「死後の世界」を前提に切り出されるし、ある人はそんなもの無いというのが当然とばかりに
話をすすめられる。「原理」については、決して問われることがないから、お互い平行線を
たどる。(MANU.さんのご指摘通り。三吉さんや流れ星さんは<方法論>について意識的に
進めておられると見受けられるけど)

 >何ともいえない心地の良い真理の風

 例えばジャンク門徒さんの、これって何ですかぁ?体験してみな解らないですか?でも、
たぶん経験できないでしょうね、あなたの体験は。。。だから、愛欲に沈む坊主の話は説得力を
持ち得ないといわれるが、まずあなたの話が私にとって何ら説得力がないんです。妻子を
捨てれば、なぜ心が強いといえるのか?で、地獄って一体何で、極楽って何なの?と思うし、
なぜ親鸞が地獄へ落ちたかも知れないなどと言えるんでしょうね。。。ナゾ。で、突っ込んで
も「あなたはあなたでご勝手に」てな具合にキチンと語りあうことを避けておられるし。
ひとをバカにしとんか!って感じですよ。
編集済


問題ないのでは? 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月16日(水)19時16分11秒 1Cust34.tnt2.yokohama.jp.fj.da.uu.net

ぐっちんさん

どうぞ、たぁーくさん「昇天」を重ねて生きていってください。

>はてさて、一体どこに問題があるんでしょうねぇ。。。

何の問題もないと思います。
しかし愛するものを断腸の想いで捨て去って、その後半年ぐらいしてから心に吹き付けてくる
なんともいえない心地の良い真理の風があるんだということもお忘れなく…
経験済みでしたら失礼。
わたしにとっては性交よりも真理の風の方が気持ち良いですので。。。


欲望は苦しみを生むけど、悦びも生む 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月16日(水)17時22分57秒 usen-219x123x170x253.ap-US.usen.ad.jp

 >ジャンク門徒さん

 >やはり「H」に関して無頓着でダラシナイ在家者は死後昇天できず来世行きと
 >いうことになるのでしょう

 ぐっちんなら、生きてるあいだに、たぁ〜くさん「昇天」を重ねていく<イキ>方を選びます
ですねぇ、枯れていくより。だってリスクの多いクスリは、独り善がりのかいかぁぁ〜ん。しか
も便座いえ、連座する人も出てくる。で、愛し合った(フーリンはさて置き)二人の合法えっち
すけっちわんたっちなら誰にも○○を。。。もとい!迷惑をかけることなく、しあわせにヨーガ
れる。はてさて、一体どこに問題があるんでしょうねぇ。。。

 ♪あなたとぉー 出したぁーい アエギ声〜。。。(そら、天城越えや!ジャスラック無断
使用。責任者出てくるなら出てこい!!)
編集済


>あれ 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月16日(水)14時00分28秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>気づいてもらえないとは、残念です。ここホントにペース早い。

行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず、
「鴨 長明」徒然草の冒頭、
将に仏教に云う「無常」を諦めるか、

「残念」表記、
「念」何処に「残」す?、

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


あれ 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 4月16日(水)13時02分49秒 u008.d028228218.ctt.ne.jp

投稿者:jyugegu  投稿日: 4月14日(月)06時48分19秒へのれすでもあります。
気づいてもらえないとは、残念です。ここホントにペース早い。
編集済


「ウケ」ねらい? 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月16日(水)13時00分01秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

流れ星 ☆彡様、彗星の如く・・・。

>三吉さんにウケタラ本望

え〜、個人ウケ狙い?。

弥陀の本願は何処へいったのでしょう、

流れ星は当然恒星でなく、三吉ウケ狙い、「あなた任せ」の、
懐の財布はご自分のもの?、

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


三吉さんにウケタラ本望 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 4月16日(水)12時31分48秒 u008.d028228218.ctt.ne.jp

私たちがなにかの意味を知りたいという事は、
それを自分の中の世界に位置づけたいという性向であると思います。
不可解、不可思議、よくわからないことは不安です。
意味を与える事、獲得する事によって、それを征服したような気にはなります。
そして、さらに超越とか、無限とか、
自分以上のもの、超えたものを手に入れ、征服できたら、
今の自分以上のもっと強い、動じない人間になれるだろと思ってます。

しかし、次々に、捉えきれない物や出来事が出現し、
これまで築き上げてきたと思っていた実績が崩され、
(それ以前に、壊されるんじゃないかという恐怖に脅かされてるんですけど)
がっくりきちゃうんですわ。これが。
ぬか喜び、失望、自己欺瞞、失望。。。その繰り返し。

有限が無限を内に取り込んでしまおうというやり方自体、矛盾してるんですわ。
アタマのいい人は、こういうことに、ちゃんと気づいてて
「語りえない事柄については 沈 黙 し な け れ ば な ら な い」
なんつー醒めたセリフを遺しています。

無限、超越というのは自我の作り出した妄想ということにして、
ほっておけばいいのですが、
拡大、征服という性向を内在している自我(煩悩)が、
そういうのを欲して、煩い悩むわけです。

それで真面目な人は煩悩を消す方法を考えるんですけど、
自我が自我を消したらおしまいです。
不真面目な人はコントロールする方法を考えるんですけど、
それってどうしたらいいのか、煩悩自身が考えても分からんので
手探りであれこれやってみるしかないのが現状です。

そこで、自我がどうしても欲してしまう超越、無限らしいものを、
ナムアミダブツという言葉であるいうことしておこうと、
仮設してしまった手法が、「方便法身」であると言ってもよいと思います。
0(零)を本尊にしていると言ったら、カッコええかもです。
もともとは「無我」の実践ということから編み出された手法かもです。

「念仏には無義をもって義とす 不可称不可説不可思議のゆえに」(歎異抄)
という言い方もあります。

この言葉はとつぜん生まれたわけではなく、
念仏は何回称えたらエエノカとか、どんな心持でとなえたらエエノカとか
様々な論義がされていた吉水教団の論義をくぐって、
念仏は無限(阿弥陀)から回施されえた行であるという大無量寿経のお話を背景として、
有限がなにか付け加えたりしても、意味づけしようとしても、ゴミにしかならん、
何回となえようと、どんな心境で称えようと、こっちでアタフタ言ってるだけで関係なしの、
スゲエ大行であるという考え方から出てきたのです。

実際、ナムアミダブツを称えてもなんも起こらんのです。
でもその、なんも起こらんということが大事なんです。
道理を道理として、現実を現実として知るということが
一番大事な事であり、救いなんだということは
お念仏を通さなければ、なかなか知りえないという、
それだけ煩悩σ(°ン °) ワタシデスってのはコマッタチャンということですは。

でも、ヤッパリ、私も意味がほしいんですよね。
それも、しょうがない事も、阿弥陀さんはお見通しで。。。。話がおわりましぇん
編集済


私も 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月16日(水)12時20分46秒 1Cust235.tnt5.yokohama.jp.fj.da.uu.net

たしかに「差別者」という文句はひっかかりました。
人間の存在は平等であるがそれぞれの意識には差があるということを
三吉さんは「差別」と呼んだのかと思いまして軽く流しました。
違っていたらちょと爆弾発言ですね。
個人的に爆弾発言は好きです。どうせなら核爆弾レベルの方が面白いですね。


こんばんわ 投稿者:三吉へ 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月16日(水)11時57分20秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>釈尊は徹底的な「差別者」でありますから

この「差別者」表現の意味はどのようにお取りでしょうか、
意識として何を表すと、
宜しければ、宜しくご教示のほど。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/ 


(無題) 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月16日(水)11時54分55秒 1Cust134.tnt4.yokohama.jp.fj.da.uu.net

ぐっちんさん

>「婚姻」という既存の制度に乗っかって、妻という一人の異性と付き合っていく(もろもろの
>派生的関係をひきずりながら)ということにわずらわしさを感じたのだ、と受け取っていいですか?

その通りです。幸い妻も仏教をよく理解してくれていましたので円満にいきました。
たいして経済的に余裕があるわけでもありませんので妻も女で一人これから大変だと思いますが、
彼女は彼女、無事に生き抜いていってもらいたいと祈っています。今では良き友人といったとこですね。

> これは、「方便」としての念仏を称えながら、別のモノの力も借り(笑)、
>釈迦仏教的な、<出家>ライフのスタイルを確立する、という風なことですか?

私の場合、「念仏に始まり法華経を巡り念仏に終わる。」といった具合ですが何がナンダかわからないでしょうね、これでは。
自力で悟るだけでなく他力もつかって悟りに到る。絶対他力というより相対他力といったところでしょうか。
悟りに到るためには手段を選ばぬ。まあ釈迦仏教を通して己のライフスタイルが確立できれば良いかなと考えています。


編集済


(無題) 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月16日(水)11時23分35秒 1Cust149.tnt3.yokohama.jp.fj.da.uu.net

今日は出先の知人の家から書き込みさせて頂いてます。

三吉さん

>釈尊は徹底的な「差別者」でありますから、悟りを得れる出家者には、
>「えっちは絶対駄目」で、悟りではなく、死後生天を目指す在家者には
>「えっちは慎重にしなさい」だと思います。

多分釈迦はそう言っていたでしょうね。その言葉は納得がいきます。
やはり「H」に関して無頓着でダラシナイ在家者は死後昇天できず来世行きということになるのでしょう。
私はそれをシークレット・カルマ・セレナーデと呼んでいます。
編集済


>人生幸朗の諸段階 投稿者:テルゼ  投稿日: 4月16日(水)06時36分04秒 121.pool11.dsl8mtokyo.att.ne.jp

はーい、ぐっちんさん、お初。

>他人が「洗脳」されてるように見えるその人自身は、「洗脳」からまったくまぬがれて
いるのかどうか?

人間としてこの社会に生きてきた以上「洗脳」から免れられている人間は、一人もいないでしょうね。
だから、本来仏教というものは、その洗脳をまったく受けない「父母未生前の自己」に
出逢うためのものではなかろうか?

ですから、わざわざ自分には力がないという洗脳は受けない方が良かろうかと思いまして・・・

余計なお世話だったら、ゴメンちゃい。
編集済


人生幸朗の諸段階 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月16日(水)04時10分28秒 ns.jjclub100.com

 (人生師匠)
 さて、みなさん、聞いてください。他人の心は果たして「モノ(物質)」の
ような形であるのかどうか?

 自分に見えてきたものが、なべて他人にあてはまるのかどうか?

 他人が「洗脳」されてるように見えるその人自身は、「洗脳」からまったくまぬがれて
いるのかどうか?わたしは、日本で生まれ育ったから「日本文化」に洗脳されてますが。 

 <成人した社会>というキーワードから、宗教という後見人は現代人には必要ないという
意見がおますけど。。。いっそのこと普遍たらいう真理も<自立>した生き方にとって邪魔っけ
やから捨てなはったらと思いまっけど。。。まあ、プロテスタントでいうとシュライエルマハー
のはじめた解釈学がありまんなぁ。同じ言葉や事柄でも、理解する立場や価値観によって理解の
仕方と内容が異るということに、いうてる本人が一番自覚ないやないか!責任者出て来い!

 (生江師匠)

 出てきはったら、どうするんや!

 (人生師匠)

 謝ったらしまい。ゴメンちゃい。
編集済

http://www2u.biglobe.ne.jp/~pengin-c/test.htm


潮時かな 投稿者:MANU.  投稿日: 4月16日(水)01時16分25秒 218-228-157-172.eonet.ne.jp

「テルゼ」さん、お応えありがとうございました。
ま、洗脳されてると思われてるならこれ以上私から言葉を引き出す必要も
ないでしょう。

もっとも、洗脳されている人に「あなた洗脳されてますよ」と言ったとこ
ろで自覚できないでしょうしね(笑)
うれしくもないですしね。

私は洗脳されてません。
帰依と洗脳は別です。

ほらね、平行線になるでしょ。
ってことで、前提が違うから言葉尻だけ合わせても・・・ね。

ま、それでも興味があるようでしたら、4月終わりに春秋社から発売される
「仏敵」という本を読んでみてください。
私と真宗との関わりの根っこにあるのはこの先生の教示の流れです。
URL下に貼っときますね。

宣伝しますので、皆様もぜひお買い求めください。

http://www.shunjusha.co.jp/book/16/16901.html


MANU.さんへ 投稿者:テルゼ  投稿日: 4月15日(火)23時33分37秒 83.pool11.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>>「聞く」と言うこと事態が、洗脳ではないのでしょうか
> すいません、あなたのおっしゃる「洗脳」とはどういうことなの
> でしょうか?そこをはっきりさせないとお答えのしようがありません。

あなたが聞かれている中には「法」だけではなく、
宗教としての教義も一緒に刷り込まれているのでしょう?ということです。

>>なぜ、そこで信じる心が必要なのか
>私が信じる心ではないとお答えしたつもりですが。

はい、分かりました。
「信じる心」も頂くのですね?

>私が真宗で知らされたことは自分の
>力はなんにも役に立たないということです。自分で救われる道を
>選ぶ力量があるなら、修行して悟りを得る道を選びます。でもそ
>れができない。だから「他力」なんです。(この言葉の理解も、
>現代では多種多様ですが)私の変わりに願を立て行を行ってくだ
>さった結果を、私の上で発現させてもらえるんです。

自分で救われる道を選ぶ力量がないとどうして決めつけるのでしょうか?
そう思わされるのが、すり込みではないのでしょうか?
専修念仏の思想は、一部の権力者層に支配され搾取され、
自分の力ではどうにも道を開いていけなかった時代の民衆のために編み出されたものでしょう。

現代は、それそれの環境に縛られながらも
有る程度、生き方の選択の自由が与えられています。
日々の生活の中のちょっとした時間で、坐禅も組めますし、瞑想も出来ます。
念仏を行と捉え、積極的に行じることも出来るでしょう。
また修行は実際にしなくても、日々を修行の場とし自らの行為を通して
私達は本来「神の子」であるという悟りを得る事もできます。
「出来ない」と最初から決めつけるのはどうかと思います。

道を愛することは大切なことですが、ある程度歩んだら
「自分の道だけが最高」と言っていないで、他の道も積極的に学んでみる。
そして、自分の道への批判の目もちゃんと持つ。
そんな色々な方法で、自分の道をより豊なものにしていくことができるのではないでしょうか。

> そうは思いませんが、あなたの意図が「真宗の道をわかりたい」と
> ころにあるのか、「私の信じる道を教えたい」にあるのか、「洗脳
> されているMANU.を救いたい」にあるのか、まだわかりかねて
> おります。

まあ、全てでしょうね(笑)

>そのうえで、できるだけ質問に対してだけお答えしよう
> という気持ちでおります。

有り難うございます。
話をしていくうちにお互い色々分かってくることがあると思います。
こんな私ですが、これからもよろしく。


赤時さんへ 投稿者:テルゼ  投稿日: 4月15日(火)23時10分25秒 149.pool3.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>しかし、私は(読んでもいないのに分かりませんが)キリスト教を捨てることは
>ないでしょうなあ。なにせ私は、自称「正統派」キリスト者、ですから(笑)。

どこが「正統派」なのかは分かりませんが・・・(笑)
中途半端だったら、一度すこ〜んと捨ててみるのも良いですよ。

私は数年前、20年近く親しく付き合ってきたクリスチャンの友達が
「この世で十字架のみが唯一絶対の救いだ」とするカルト教団に入ってましました。
その時に、私は必死に止めようとその人と言い争っているうち、
自分が「十字架物語」に躓いていることをはっきりと自覚させられました。

そこで、殆どキリスト教を捨てて、仏教、神道、ヨーガ、瞑想、精神世界、オカルトと
あっちゃこっちゃさまよい歩いて、まあこれで「神はどこからでも行ける、分かった」
としていました。
しかしある時、聖書学の関根正雄の「神への道は色々あるが、私自身はキリストからしか神は見ない」
という言葉に触れて「う〜ん、これでいいのか?」と自分の心に疑念が湧きあがり
どうにも落ち着かない気分になってしまいました。

そんな悶々とした日々を送っていた時、
般若心経を色んな国の言葉に訳し、絵本にして世界に広めようとしている
浄土宗の御坊さんが主催の講話会に行く機会がありました。
そこで、善光寺の御坊さん2人の声明とフランス語の般若心経の歌とのセッションがありました。
これは素晴らしい般若心経でしたが、
それを聞いている内に、突然私の中に「よくここまで来たな」という内なる声が聞こえました。
その途端何故か私は「キリストについて行くしかない」という思いが沸き上がって
涙が止めどもなく溢れてしまいました。
それ以来、私の中にどうにも離れずにイエスがどかっと居座ってしまっています(笑)
私は、こんなささやかな「回心」をいただいてのキリスト者です。


三吉さんへ 投稿者:テルゼ  投稿日: 4月15日(火)22時45分51秒 149.pool3.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>その辺から開放されたはずの念仏だったのですが、親鸞後、やはり、
>序列化の発想は我々に根強くあるから、「信心大事」が、獲たのか獲てな
>いのかというところに転落しちゃうのでありましょうや。

・・・でしょう、ね。
あなたのように、皆がその姿を冷静に眺められればよいのですが・・・

>まあ「信」という同じ事実を見る人、感じる人のセンスで、
>信じて進むのは「私の主体的な選択」であり「自由意志」であると思う人もいれば、
> 呼びかけがあったからこそ、それを支えに応えれるのですと受身に感じる人もいる
> ということかもしれんですね。

どちらにしましても、私達は悟りを開こうが、信仰を持とうが持つまいが
その資格、資質にかかわりなく、太古のはじめから永遠の終わりまで
「インマニュエル」<神我らと共にいます>の、神の働きかけがあり
生かされているということに気付くことが信仰だと思います。
また、その神の働きかけに答えて私達は
「善なる決断」をもって生きていこうすることが信仰ではないのでしょうか。


こんばんわ 投稿者:三吉  投稿日: 4月15日(火)22時11分22秒 ca9d71-169.tiki.ne.jp

MANU.さん

称えればOKねぇぇぇ。うーむ。面白い読み方です。
どっちかというとOKという発想自体、私の発想とはずれがあります。
OKという保証を求められて称名されておられるように感じます。
称名だけではだめだが、信心が深ければOKとかなんとか。。。
まあそれそれでいいのやもしれませんです。

ジャンク門徒さん

釈尊は徹底的な「差別者」でありますから、悟りを得れる出家者には、
「えっちは絶対駄目」で、悟りではなく、死後生天を目指す在家者には
「えっちは慎重にしなさい」だと思います。
彼の時代の常識に、一夫一婦制はないのですので、財力アル男は、
正妻以外に愛人持ってもOKです。
「欲望からからは様々な苦悩が起こりうる危険性が高いから、
コントロールしましょうね」ならその通りなのですが、様々な欲望
のうち、殊、えっちに関してはかなりナーバスだったようで、女性
の出家に当初難色を示したり、果ては女性出家者と男性出家者の
コミニケーションにも細々規制を設けてたらしいですね。
悟りたければ出家しなされという出家至上主義者だった釈尊を表面上は立てつつ
、その正統な後継者である部派仏教の尊敬すべき先輩である舎利弗などを身代わり
に徹底的に批判して大乗は釈尊以来の出家至上主義を捨て、菩薩主義を打ち出した
わけです。
そういう風に私は思っております。


仏性について 投稿者:三吉  投稿日: 4月15日(火)21時45分23秒 ca9d71-185.tiki.ne.jp

大乗の「悉有仏性」の教説に従うならば、仏性はある。私はそれを無条件に支持する。
「アルとかナイとか言えるものなのか」という反問は、ズレテイルのではないかと
感じる。
アルと大乗は言っている。ただ、仏性は、物質ではないので、肉眼であるいは、モノ
として確認できるあり方はしておらないということではないかと。
大乗の涅槃経の有名な「一切衆生悉有仏性」説は、一切衆生つまり「あらゆる生きる
もの」は、との前提があるので「うんこ」という生命活動を持たないものは問題にな
っていない。「うんこ」に仏性があるのかという問いは、発した人の中で果たして切実
なる問いなのかということは不明なのであるが、後代、天台宗の解釈と華厳宗の解釈
に差があり、華厳宗は「精神活動を有さないものに仏性」は認めないという立場に立ち、草木国土という非精神活動にまで仏性を認める天台宗と論争したらしい。
私は理屈的には華厳の解釈が正統派だと思う。大乗の文脈に沿えば、生命活動外は「法
性」だろうと思うからだ。ただ天台の解釈の根っこは、法華薬草喩品の「草木成仏」
という比喩−雨が草木を茂らすように、仏法が衆生を成仏さすという比喩−の解釈から
だとすれば、比喩を実体化してしまったわけだが、その文脈からは「うんこ」にも
勿論、仏性はありといえるのではないかと思う。
親鸞は「あるが見えない」と言い、日蓮は「あるが、完全に見えるのは仏だけだ。菩薩
でも少ししかみれない」と言っている。私は両者の感覚を支持する。
あるなしではなく、私には「見えない」というスタンスが大事じゃないかと私は思う。


ふざけててもイカンか 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月15日(火)18時24分17秒 usen-219x123x170x242.ap-US.usen.ad.jp

 >ジャンク門徒さん

 えー

 >先日、私は愛する妻を捨てました。仏教で言うところの愛欲は苦悩であるという意味を
 >悟ったからです。

 他人の心を窺うというのは、大変失礼かもしれませんが。
「婚姻」という既存の制度に乗っかって、妻という一人の異性と付き合っていく(もろもろの
派生的関係をひきずりながら)ということにわずらわしさを感じたのだ、と受け取っていいですか?あと、

 >知識を得たら実行してなんぼのもの

 これは、「方便」としての念仏を称えながら、別のモノの力も借り(笑)、
釈迦仏教的な、<出家>ライフのスタイルを確立する、という風なことですか?
編集済


お知らせとお詫び 投稿者:らくりん  投稿日: 4月15日(火)17時24分48秒 pro2.incl.ne.jp

最近、ネット上に公開している私のメールアドレス[t_fujiba@yahoo.co.jp]を
[From:](発信人)とした、[Subject(題名)]の部分も、メッセージ内容も英文の
不審なメールが届いているという問い合わせを何人かの方からいただきました。

ファイルのサイズは100〜150kb、添付書類が付いている場合もあるようです。
可能な範囲で調べた結果、ウィルスの仕業である可能性があります。

このウィルスの特徴は、他人のメールアドレスを勝手に利用して(騙って)
あたかもその人からメールが届いたかのような形で送り届けられ、
それを開くと、さらに感染が広がっていくという
[Klez]と呼ばれているタイプの活動パターンに似ているようです。

[Klez]タイプであるならば、攻撃の対象となるソフトは
ブラウザでは、インターネットエクスプローラ(IE)
メーラーでは、アウトルック系(OL)
になります。

上記のソフトをお使いの方は、私の[t_fujiba@yahoo.co.jp]の
アドレスから英文のメールが届いていても本文も添付書類も決して開かないでください。
見るだけでも危ない場合があります。

実は、私のところにも、1週間ほど前に、これまでメールのやり取りを一度もしたことが
ない所から似たようなメールが1通届きました。
発信人のメールアドレスから私が知っているところのHPで公開されている
アドレスであると思われますが、そこからメールをいただく心当たりが
ありませんでしたので、すぐに削除しました。

ネットの世界は何があってもおかしくない物騒なところですから、
WindowsのUpgradeをされていない方は、早急にUpgradeなさることを強くお勧めします。
たいていのばあい、デスクトップの[スタートメニュー]の中にリンクがあります。

また、可能ならばブラウザとメーラーソフトを変更なさるのも一手です。
といいますのは、現在感染広まっているウィルスは
もっともユーザーが多いIEとOLがターゲットとなる場合が多いと言われています。
したがって、この二つのソフトの使用を中止するだけでも、
ウィルス対策としてはかなりの効果が期待できます。

特にアウトルック系は、一旦PCに感染するとアドレス帳に登録されてるアドレスが、
感染メールの発信用の名簿として利用されて、多くの方に迷惑をかけてしまうことも
あります。

無料でダウンロードできるものを二つご紹介いたしておきますので、
関心がある方はどうぞ。どちらもブラウザとメーラが統合されています。
ネットスケープ最新バージョン http://channels.netscape.com/ns/browsers/download.jsp
  旧バージョン http://wp.netscape.com/download/archive.html
  ※マシンスペックによっては旧バージョンの方が使いやすい場合があります。
   ちなみに最新バージョンはは7.02ですが、私は4.7あたりが好みです。
Opera   http://www.jp.opera.com/
  ※一度使ったことがありますが、軽くて使いやすいソフトです。マシンスペックが
   あまり高くない方には悪くない選択だと思います。ただし、現在の環境を移し
   替えるのがちょっと面倒かもしれません。

今回の場合、私のパソコンが感染しているわけではないようですので、
私の方では対策の立てようがありません。
しかしながら、私の公開メールアドレスでご迷惑をおかけした方には申し訳
ないことでした。
公開メールアドレスを変更しても、すでに使われ始めているので手遅れですし、
新しいアドレスもまた同じような使われ方をする可能性がありますので、
あまり意味がないと思われます。
すでに公開して利用されているということもありますので、変更はいたしません。
編集済


選挙戦総括 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月15日(火)17時09分43秒 usen-219x123x170x242.ap-US.usen.ad.jp

 官公費のボス曰く、

 「わたしは、無党(無糖)派です」
編集済


>(無題) 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月15日(火)15時55分04秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

ジャンク門徒様こんにちは。

>ホームページ覗かせて頂きました。
有難う御座います。

>難しそうですが面白そうな話が沢山載っていますね。
ありていに言えば、黙っていれば組織社会で据え膳喰らえるかもしれない、
そのご馳走の盛られた膳をひっくり返す、
優しく表現しては品無く見られるので、
見えを切る仕草に似せた「難しさ」と、お読み下しの程。
所詮お膳の上のご馳走は、「マッチポンプ」に言う、
その消火代償と称してのご馳走かと、普通なら喉の通るものでなく。

>ゆっくりと勉強させていただきます。(難解な漢字がお〜い!苦笑)
漢字は親しめば面白いです、斯く云う私は学びの時代漢字は苦手でした。
今想えば教え方が悪かった、今も続く権威宗教界の様、
意味説明も無く、鵜呑みの強要これだったかも。(笑)

合掌。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


(無題) 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月15日(火)15時27分16秒 1Cust200.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

テルザさん

>あなたには阿弥陀様より
>破滅型の「ファンキーイエス」のほうが、相性がいいのではないのかしら(笑)

前にも言ったとおり自分はキリスト仏教型ですから。
私が阿弥陀仏を大事にしている理由は、仏門へと導いてくれた恩人のような存在だからです。
子供の頃、漠然と念仏を唱えれば極楽にいけると信じていたのですが、物心付いたあたりに
「果たして念仏とは何なのか?」と言う素朴な疑問にかき立てられ、それをきっかけに
仏教に関する様々な書物を読むようになり仏教というものを理解することが出来ました。

キリスト教も同じだと思うのですが、知識を得たら実行してなんぼのもの。
このような世の中ですから、なおさら実践する値打ちがあるのではないでしょうか?
最近の私の精神状態は極楽浄土にいるような感じです。そこには多少の苦悩はいまだ存在
していますが、仏道を実践し始めた当初の頃と比べれば遥かに楽です。
私が今いる境地は、きっとキリスト教でいう天国と同じような所なのだと思います。
油断すると即、地獄に変わってしまいますけど…

三吉さん

こんにちは、
愛欲の広海の泳ぎ心地は如何ですか?(^^♪

>一、 ジャンク門徒さんの言説が本当なのか、ただの洒落なのか
>わかりませんですしね。

想像にお任せします。
釈迦は愛欲そのものを否定しているのではないと思います。
「愛欲からは様々な苦悩が起こりうる危険性が高いから慎重にしなさいよ!」
こんなことを言っているのではないでしょうか?

jyugeguさん

ホームページ覗かせて頂きました。
難しそうですが面白そうな話が沢山載っていますね。
ゆっくりと勉強させていただきます。(難解な漢字がお〜い!苦笑)

.


どこに向かえばいいのやら… 投稿者:MANU.  投稿日: 4月15日(火)15時23分11秒 218-228-157-172.eonet.ne.jp

まずは「三吉」さんからの反応にRESします。
三吉さんのお念仏との関わりはずっと昔(笑)にもやり取りした
記憶があるのですが、今は私の受け取りに同調してほしいとかい
う気持ちはないので、「三吉」さんはご自身の思われるとおり歩
んで行かれてもいいですよ。私は私の“実践”で歩んでおります
ので。
その上で思ったことは、「念仏は誰が称えても違いはない」は同
意します。こちらがどんなつもりでも、願行具足・機法一体の
南無阿弥陀仏ですから。
じゃあ、完成されてるから称えればOKってことでしたら、私は
同意できません。
ま、とりあえず同意と非同意の宣言だけ。

つぎに「テルゼ」さんへ
質問に質問で返して申し訳ないのですが…

>「疑心あることなし」は、聞いた結果の「信心」なのでしょう?
そうですね。仏説まことと聞かされる(思い知らされる)わけで
すから。

>「聞く」と言うこと事態が、洗脳ではないのでしょうか
すいません、あなたのおっしゃる「洗脳」とはどういうことなの
でしょうか?そこをはっきりさせないとお答えのしようがありま
せん。

>なぜ阿弥陀物語が必要なのですか?
阿弥陀物語が何を指しているのか十分に理解してませんが、なぜ
私を救うための願いと行がなされたかを知ることは必要だと思い
ます。私にとって仏法を聞くということは、「仏願の生起本末を
聞く」ということです。

>なぜ、そこで信じる心が必要なのか
私が信じる心ではないとお答えしたつもりですが。

>あなた方はよく「頂く」と仰って、受け身の感覚がするのですが
私は「あなた方」の代表じゃなくて個人のところでお答えしてい
ます、ということを前提で、私が真宗で知らされたことは自分の
力はなんにも役に立たないということです。自分で救われる道を
選ぶ力量があるなら、修行して悟りを得る道を選びます。でもそ
れができない。だから「他力」なんです。(この言葉の理解も、
現代では多種多様ですが)私の変わりに願を立て行を行ってくだ
さった結果を、私の上で発現させてもらえるんです。

>「念仏」というのは、本来悟りへの「行」の一つだったのではないか
先に述べたとおり、私には「行」はできません。念仏を「行」と
して行う方々もおられますが、私は違います。真宗一般でどうか
はそういうことに詳しい方にお聞きください。

>「お前に真宗の道は分からん」と言われてしまえば、全てはそれ
>までのお話なのですが・・・
そうは思いませんが、あなたの意図が「真宗の道をわかりたい」と
ころにあるのか、「私の信じる道を教えたい」にあるのか、「洗脳
されているMANU.を救いたい」にあるのか、まだわかりかねて
おります。そのうえで、できるだけ質問に対してだけお答えしよう
という気持ちでおります。

http://homepage1.nifty.com/MANU/


私は自称「正統派」(笑) 投稿者:赤時  投稿日: 4月15日(火)10時53分17秒 1Cust235.tnt1.tko2.jp.fj.da.uu.net

テルゼさんへ、

お返事ありがとうございました。

>ただ、内村鑑三の仲間や弟子のなかには、
>これや他のニーチェの著作を読んでキリスト教を捨てた人も多かったと聞きました。
>赤時さんもハマったら、そうした危険はありますがね(笑)

そう聞いたら、なにやら面白そうではないですか。やっぱり、読もう。
(ただ、私は本を読むのが遅いので、たぶん時間がかかるでしょうが)

しかし、私は(読んでもいないのに分かりませんが)キリスト教を捨てることは
ないでしょうなあ。なにせ私は、自称「正統派」キリスト者、ですから(笑)。


>おはよ 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月15日(火)09時06分18秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

三吉さん

私の「三吉さん」投稿での

>前後お考えの後ご発言を、(笑)

これをどう讀まれるか、
そのお答えが「おはよ」と拝読。

珍重。

合掌。


「我と汝」 投稿者:三吉  投稿日: 4月15日(火)06時59分42秒 ca9d71-183.tiki.ne.jp

イッヒ ウント ドゥー ですね。
M・ブバーの講読を想いだします。大屋先生はお元気であろうか。
この辺の発想は阿弥陀物語の中に「二河白道」という短編がありまして、
弥陀の召還と白い道をただ一人歩む私というイメージに流用されたりしてました
ですね。なつかしい(笑)。

まあ「信」という同じ事実を見る人、感じる人のセンスで、
信じて進むのは「私の主体的な選択」であり「自由意志」であると思う人もいれば、
呼びかけがあったからこそ、それを支えに応えれるのですと受身に感じる人もいる
ということかもしれんですね。


おはよ 投稿者:三吉  投稿日: 4月15日(火)06時49分56秒 ca9d71-183.tiki.ne.jp

jyugeguさん

どうなるかは私のあずかりしらんことです。
ただ私が密告せずともここは公開の場ですから、
する人はするだろうし、しない人はしないでしょうし。。。
第一、 ジャンク門徒さんの言説が本当なのか、ただの洒落なのか
もわかりませんですしね。
ちなみに私の出入りしていたサイトで、別の違法行為をしてた人は
警察に密告され、逮捕された人がいるということを申し添えておきます。
それを見過ごしてた人に特段おとがめはありませんでしたが。

テルゼさん

本来の仏教は、瞑想という実践わけです。
念仏も仏教から派生・発展しましたので、元々は、阿弥陀さんに対する
瞑想あるいは阿弥陀ワールドに対する瞑想という実践だったわけです。
で、たぶん善導あたりから、念仏は我々個々人の実践ではなく、実は
「阿弥陀さんの大いなる実践だ」という発想が生まれました。
元々の仏教の発想から進化したのですね。(人によれば逸脱という捉え方
もありだと思います)
我々個々の実践は、目くそ鼻くその差はあるとはいえ、みな不完全だか
ら、その実践の効果を期待できない。だから、阿弥陀さんの実践に根拠
を置こうということですね。
個々人の実践に根拠を置く発想からは、個々人の能力とか努力とかによっ
て結果もまた違ってくるという「序列化」の発想が生まれるわけで、
その辺から開放されたはずの念仏だったのですが、親鸞後、やはり、
序列化の発想は我々に根強くあるから、「信心大事」が、獲たのか獲てな
いのかというところに転落しちゃうのでありましょうや。


赤時さんへ 投稿者:テルゼ  投稿日: 4月15日(火)03時21分55秒 167.pool11.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>>しかし、歴史的イエスを再構築することは出来なくても、
>>心理学的イエスは再構築することは可能でしょう。
>
>?????どういう意味ですか?

聖書に書かれたイエスの言動はゆがめられてしまっていますが、
想像力を働かせれば、彼がどのような心を持っていたかを見出すことが出来るでしょう。

まずは、読んでみてください。

>はい。
>と思いましたが、そのあと、テルゼさんが、アンチクリストの一部を引用されているのを
>見、その(私にとっては)あまりの難解さに、ちょっとびびっておるところです。
>読もうかな、読むの、よそうかな・・・

そうですか?
ニーチェは、頭の足りない私には確かに難解で「アンチクリスト」以外には読んでいませんが
あの引用の部分は、あの教科書問題で有名な‘いけ好かない’西尾幹二の訳ですが
名訳だなあと、何回読んでも「イエス大好き!」と胸きゅんです(笑)
ただ、内村鑑三の仲間や弟子のなかには、
これや他のニーチェの著作を読んでキリスト教を捨てた人も多かったと聞きました。
赤時さんもハマったら、そうした危険はありますがね(笑)

>なるほど。とすると、「ここ数十年の、『真実のイエス像』研究」みたいのは、その
>パウロ的イエス像への、反発、みたいな意味が、たぶんにある、というふうに、
> 理解して、よろしいわけでしょうか。

そうですね、この情報社会を迎え、みんな長い間騙されてきた事に気付き初めたのですよ。


流れ星さんへ 投稿者:テルゼ  投稿日: 4月15日(火)03時16分51秒 167.pool11.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>テルゼさんの書き込みは、私の個人的なツボにはまっておりまして
>おもしろく、読ませていただいております。

有り難うございます。
私、そんなにテクニシャンだったかしら?(笑)

>ゴールではなく、スタートが大事だということで
>信心実体化問題をクリアーしてる。
>まあ、トップをめざすタイプには、受け入れがたい教えかしらん。

難しいことは分かりませんが、目的もなく歩き始めるのですか?
で、歩くだけですか?
乗りさえすればいい、ウォーキングマシンですね(笑)
乗ることが大事?


MANU.さんへ 投稿者:テルゼ  投稿日: 4月15日(火)03時12分40秒 167.pool11.dsl8mtokyo.att.ne.jp

丁寧なお答えを有り難うございました。

>あと「信心」って言葉も取りようでいろいろありまして、多くの場合
>は「信じる心」ということなのでしょうが、私が聞かされているとこ
>ろでは、「疑心あることなし」ってことで、自分から信じていこうと
>言うものではありません。

「疑心あることなし」は、聞いた結果の「信心」なのでしょう?
「聞く」と言うこと事態が、洗脳ではないのでしょうか、とお聞きしたいのです。
聞くというのなら「法」だけを聞けば良くって、なぜ阿弥陀物語が必要なのですか?
なぜ、そこで信じる心が必要なのかしらと思いまして。
あなた方はよく「頂く」と仰って、受け身の感覚がするのですが。
私の場合は頂くというよりも「神の中に身を投じる」と言う感覚なのですが・・・

また、真宗の方々は、信心を獲たのか、獲てないのかという
「信仰心」にランク付けの競争が有るようにお見受けいたします。
それを不思議に思います。
「信心」とは、「悟り」とは別物なのでしょうか?

>ところで、「テルゼ」さんはどうしてこのような質問をされたのですか?

キリスト者として、「十字架物語」は無くても、
イエスの弟子として生きられますから、あなた方はどうなのかしらと思いまして。
また、神と私との間「我と汝」の関係に距離が無ければ
「信じる」と言う言葉もないと思ってしまいます。

>あと蛇足ですが、私が「信心」を大事といったのは、念仏を軽視
>していることじゃないですよ。
>「信心」と「念仏」は対のはずです。
> 信心なしで「ただ念仏」じゃだめでしょうってことです。

「念仏」というのは、本来悟りへの「行」の一つだったのではないかと思いますが、
あなたは「念仏」をどう捉えているのですか?
「お前に真宗の道は分からん」と言われてしまえば、全てはそれまでのお話なのですが・・・


ジャンク門徒さんへ 投稿者:テルゼ  投稿日: 4月15日(火)01時48分54秒 37.pool6.dsl8mtokyo.att.ne.jp

あなたの感性はとっても好きです。
あなたには阿弥陀様より
破滅型の「ファンキーイエス」のほうが、相性がいいのではないのかしら(笑)
この世の法は裁けても、この世であなたを裁ける人間は一人もいませんが、、、
でもまあ、ご自分を大切に・・・


>なるほど 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月15日(火)00時19分45秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

ジャンク門徒様、御深慮有難う御座います。

仏教徒ならば思い致す先ずその初め、

全体の中の一人で在るとの認識かと。

其処に全体は一人をおもんばかる、
「色即是空」
「平等施一切 ・・菩提心 往生安楽国」

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


管理人 投稿者:らくりん  投稿日: 4月14日(月)23時53分32秒 pro2.incl.ne.jp

ここは、管理人権限での削除はなるべくしない方針で運営していきたいと
思っています。
ですから、
ジャンク門徒さんの書き込みは、削除する気はありません。

自分以外の書き込みの訂正は、管理人でもできません。


なるほど。 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月14日(月)23時32分13秒 1Cust8.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

jyugegu さん

>のみならず、ついでにここに集う皆様に迷惑が掛かるかもしれない、
>
>此処まで思い巡らせ「ジャンク門徒」さまは「覚悟」といわれるのでしょうか、
>この「覚悟」の表現は総意を必要とはしないでしょうか。

そこまで思い巡らせた上での覚悟ではありません。
皆様に迷惑を掛けてしまっては申し訳ないですので薬物関係の発言はそれが合法になってから
することにします。

三吉さん

>私は愛欲の広海が嫌いではありませんので、釈尊より親鸞を尊敬します。
>それが地獄であろうが極楽であろうがただ歩みます。

存分に愛欲の世界を堪能してくださいませ。

>つーことは、たとえば私が従兄弟の警察官に、ネットで違法行為の常習を告白している
>人がいるけどと密告してもかまわないということですね。

構いませんが、捕まることはないと思います。わたしは常習していませんし、やったとしても、
年に5,6回程度で家にも置いてありませんから。
捕まったとしても大してショックでもありませんし…


三吉 さん 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月14日(月)23時01分00秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

貴方は
「従兄弟の警察官に」「密告して」
その結果内内に知らされ手入れ前にずらかるとして、
その時裸で残された私達はどうなるのでしょう。
前後お考えの後ご発言を、(笑)


覚悟の上。 投稿者:三吉  投稿日: 4月14日(月)22時27分47秒 ca9d71-141.tiki.ne.jp

つーことは、たとえば私が従兄弟の警察官に、ネットで違法行為の常習を告白している
人がいるけどと密告してもかまわないということですね。


雑感 投稿者:三吉  投稿日: 4月14日(月)22時25分31秒 ca9d71-141.tiki.ne.jp



流れ星さん。おいしすぎ(笑)。

ジャンク門徒さん。

私は愛欲の広海が嫌いではありませんので、釈尊より親鸞を尊敬します。
それが地獄であろうが極楽であろうがただ歩みます。

MANU.  さん

ちなみに、私が親鸞から学んでいることは、念仏は、弥陀の実践である。
私の口を衝いて出る鼻歌念仏も、ご立派な先生方のお念仏も皆、弥陀の大いなる
実践であるから、信心があろうがなかろうか違いはない。

jyugeguさん

saddhaとsraddhaパーリ語かサンスクリット語かだけかの差ですので、
想像するに、仏教徒がこんてんぱんにやっつけるところのバクティ信と、サッダー・シュ
レッダーを比較されているのだろうと思います。
ちなみに。。。以下略


もっともなこと 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月14日(月)22時05分07秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

下記にある、
らくりん様の「管理人として・・・」の言葉に対するに、
当該者ジャンク門徒 様の言
「覚悟の上で発言しています」は
何を覚悟されているとのことでしょうか。

らくりん様の云われる「お薬のこと」とそれに伴い
「それなりの知識を持った人が調べればジャンク門徒さんがどこのどなたか」
のみならず、ついでにここに集う皆様に迷惑が掛かるかもしれない、

此処まで思い巡らせ「ジャンク門徒」さまは「覚悟」といわれるのでしょうか、
この「覚悟」の表現は総意を必要とはしないでしょうか。

お考えの程。

合掌。


>「流れ星」でいいっすヨ 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月14日(月)21時42分01秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

流れ星 ☆彡様、こんばんは、
いつぞやの私のお尋ね、お目通しいただいたでしょうか。

>私の個人的なツボにはまっておりましておもしろく、
このご発言から拝察されますに、私の問いは貴方の「個人的ツボ」にははまらなかったよう。
因みに梵語に云う、凡夫(bala prthag janah・一人一人別々に生まれたとの意識者)とか。
つまり貴方が此処に言う「私の個人的ツボにはまる」この類の人を示唆する言葉のようです。

>宗教的言辞がなんらかの意味を持つのは、
>その宗教を歩もうという意図をもっている人に対してだけ
この意識に在る人、それこそは梵語に云う「凡夫」それを置いてほか無いかと。

>「念仏するほかに救われる方法・・」
ここに云う「念仏」とは何をいうのでしょう。
「念」とは行為することなのか、精神世界のありようを言うのか。亦貴方の言われる、
「仏」とは何を示唆する、あるいは???。

>「信心」ということについて、いろいろなお考えが・・・・・
信心表現についての貴方様の含蓄が述べられるようですが、
本来「信心」とは何を示唆するのでしょう、
これも亦、心の状態を言うのか、何か行為そのものを言うのか。
「信心」なる言葉に付随し此処にも「念仏」の言葉は有る様、

>お念仏を大事にして生きていこうとしていることが、
>最高の救いであると教えるご法義であり、
「最高」かどうか、「平等覚」を標榜するはずの真宗に「最高」意識は馴染むのかどうかは別に、
此処にも「お念仏」との熟語が表現されるよう、
「お念仏を大事に」といわれる「お念仏」とは一体貴方の言葉ではどう表現されるのでしょう。
宜しくご教示の程、此処に重ねてお願い申しあげたく、
あえてまかりこしました、悪しからず。

合掌。


http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


覚悟の上です。 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月14日(月)21時13分39秒 1Cust115.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

覚悟の上で発言しています。
もし都合が宜しくないようでしたら削除してもらって結構です。


一応、管理人として 投稿者:らくりん  投稿日: 4月14日(月)21時09分04秒 pro2.incl.ne.jp

ジャンク門徒さんへ
ジャンク門徒さんが個人的にどのようなお薬を愛用されようと、
この場でそのことをやかく言うつもりはありませんが、
ここは公開されているBBSです。IPアドレスも表示されています。
どこのどなたがご覧になるかわからない場所です。
それなりの知識を持った人が調べればジャンク門徒さんがどこのどなたかを
特定することはそれほど難しいことではありません。
従いまして、
お薬のことを書く場合は、そのことの意味をご理解なさった上でお書きください。

なお、これまで書かれた文については書き込み者自身は訂正することができます。
本頁一番下の[管理者メニュー]をクリックすれば、ジャンク門徒さんのこれまでの
書き込みのリストがあらわれますので、[編集]のボタンを押せば修正できます。

以上、ご忠告まで。
編集済


親鸞は地獄に堕ちたかもしれない。 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月14日(月)20時24分14秒 1Cust130.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

私が親鸞を尊敬できない理由は妻子を捨てることが出来なかった心の弱さです。
私が釈迦を尊敬できる理由は妻子を捨ててしまえた心の強さです。
先日、私は愛する妻を捨てました。仏教で言うところの愛欲は苦悩であるという意味を悟ったからです。
まだ家は捨てていませんが、これから捨てるかどうかはわかりません。

私は結婚して妻子がいる僧侶を糞坊主と呼んでいます。彼らはどんなにいいことを言ったところで
全く説得力を持ちません。どうかあなた方が糞坊主でありませんように…(笑い)
編集済


「流れ星」でいいっすヨ 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 4月14日(月)20時20分31秒 u008.d028228218.ctt.ne.jp

テルゼさんの書き込みは、私の個人的なツボにはまっておりまして
おもしろく、読ませていただいております。

わたしが原理主義者かというお尋ねに対してですが、
宗教的言辞がなんらかの意味を持つのは、
その宗教を歩もうという意図をもっている人に対してだけ。
キリスト者の方に「念仏するほかに救われる方法はありません」と申しましても、
無意味でしょうしネ。

「信心」ということについて、いろいろなお考えが提出されていますが、
「信」を、なにか研鑽し、ステージを上げていってたどり着く、
ゴール地点にあるらしい「境地」みたいなものにしてしまうと、
12日にらくりんさんが書いたような「信心実体化」問題がおこっちゃいます。

>勢観房・念仏房たちが言うところの信心は、人を序列化するための基準に
>なっているわけですが、それは「信心なるもの」をある種の基準とか根拠に
>していることに外なりません。
>そしてそれは「信心」の実体化でもあります。

この教えは、実にうまく、できてまして
お念仏を中心にすえて歩みだそうとする決意、決心が、
すべてと言って( ・∀・)イイ!
ゴールではなく、スタートが大事だということで
信心実体化問題をクリアーしてる。
まあ、トップをめざすタイプには、受け入れがたい教えかしらん。

お念仏を大事にして生きていこうとしていることが、
最高の救いであると教えるご法義であり、
私もそうだと思っているということでありました。
編集済


大切なのは法か、それとも信心か? 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月14日(月)18時09分37秒 1Cust32.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

皆様、私のような知的水準の低い者もいるということをお忘れなく。

『捨てる』ということは、仏の教えの中でも重要なものの一つだと思っているのですが、
色々なこだわり等、捨てた結果に残るものが信心なのでしようか?
またその信心さえも捨ててしまった場合その精神状態に何か変化が起こるのでしょうか?

私は「浄土真宗」ですが「浄土真宗」それ自体に特別な価値があるとは思っていません。
寧ろ価値があるのは「法」だと思っています。

>これがなければ真宗が成り立たないという、大切な事柄なのです。

真宗が大切なのか?仏法が大切なのか?
私は真宗に限らずですが他の宗派も含めて、凡そ××宗と言う存在自体、方便だと思っています。
どうも周りを見ると仏法そっちのけで我が宗こそ、我が宗こそという声がかまびすしい感じがしますね。

>「信心」と「念仏」は対のはずです。
>信心なしで「ただ念仏」じゃだめでしょうってことです。

ん〜多分ダメなのでしょうけど、難しい〜。
信心があって念仏があるということはなんとなくわかる気がしますが、、、

わたしが阿弥陀仏の存在を認識して感激できるのは大麻を吸っている時だけなのですが、
さすがに其の時は思わず念仏が口から毀れてしまいます。
真の真宗の皆様はきっと普段からそういう境地に居られるのでしょうね。ただ感嘆するばかりです。
編集済


流れ星 ☆彡さんへ 投稿者:テルゼ  投稿日: 4月14日(月)15時50分32秒 166.pool9.dsl8mtokyo.att.ne.jp

あなたは「南無阿弥陀仏」以外には、人が救われる道はないとおしゃっていましたが、
原理主義者なのですか?

>でありますから、「本便」はいらなくなって、捨てていくものではなく、
> これがなければ真宗が成り立たないという、大切な事柄なのです。

頂上にたどり着いて全てを俯瞰できる目を頂ければ、
また地を掘り下げて全てに繋がる地下水流に行き当たれば、
「南無阿弥陀仏」でありながらも、またそれを越えたものに出逢うのではないかと思いますが。

>プロテスタントでは神も天国も要らなくなるの?

ハハハッ、だから最初に“一応”プロテスタントのクリスチャンということになっていると、
お断りしましたよ。
まあ、立派な異端者です(笑)
神は、己の中にありますから、外には求めません。

天国については、イエスはこう言っています。
 「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
  実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」<ルカ17:21>

・・・つまり、手の届くところに「神の国」がある。

特別、死後に天国は求めません。
また、最後の審判も教会が「脅し」で造り出したものですから、
私には関係有りません。


道、他 投稿者:赤時  投稿日: 4月14日(月)15時06分41秒 1Cust234.tnt1.tko2.jp.fj.da.uu.net

「安息日」を休んでいたら、すごい勢いですすんでいますので、読むだけでおもしろい
ですが、簡単にお返事するべきことを・・・

ぐっちんさんへ
>これが、非キリスト者のぐっちんの(信仰抜きの)「かんちがい」のイエス理解なのだ、
>で済む話じゃないですかねぇ。無批判的であってもぐっちんの誤読によって、学問的レベル
>からズレまくったまったくヒドイ、しかし<ひとつの読みに違いないもの>だと思っていた
>だければ(笑)

よくわかりました。そのお言葉が聴ければ、私としては、充分です。
このうえは、なにも申しますまい。失礼いたしました。

テルゼさんへ

>しかし、歴史的イエスを再構築することは出来なくても、
>心理学的イエスは再構築することは可能でしょう。

?????どういう意味ですか?

>ニーチェの「アンチクリスト」は、大した長さでもないのですから
>是非読んでみて下さい。その辺のところが分かります。

はい。
と思いましたが、そのあと、テルゼさんが、アンチクリストの一部を引用されているのを
見、その(私にとっては)あまりの難解さに、ちょっとびびっておるところです。
読もうかな、読むの、よそうかな・・・

>でも、殆どパウロ一人のイエスを押しつけられてきた2千年よりはましでしょう。

なるほど。とすると、「ここ数十年の、『真実のイエス像』研究」みたいのは、その
パウロ的イエス像への、反発、みたいな意味が、たぶんにある、というふうに、
理解して、よろしいわけでしょうか。

流れ星様
よこはいりですみません。
>それにしても、プロテスタントでは神も天国も要らなくなるの?

>わたしのイメージでは、「神の言葉」に依って生きるのがキリスト者、、、、だったんだけど。。。

じっさいには、(プロテスタントにかぎらず)いろんなキリスト者がいる、っていうことだと
思います。テルゼさんとか、私とか。

ところで、「道」について、ですが、こういうところで聖書の言葉を引用するのは
反則くさいのですが、いちおう有名なところを引用いたしますと、
「わたし(註:イエスキリスト)は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)
というわけで、私は、キリスト教を信じるということが、「道」である、という立場です。
(つまり、いつも、歩っている途中、というつもり)

あ、簡単にまとめるつもりが、やっぱりすこし、長めになってしまいましたね・・・


遅かったかな? 投稿者:MANU.  投稿日: 4月14日(月)10時57分57秒 218-228-156-56.eonet.ne.jp

1日覗かないとえらいことになってますな〜
かなりログ沈んでるんでどうしようかと思いましたが
名指しで質問されましたので…

[みなさ〜ん 投稿者:テルゼ  投稿日: 4月13日(日)06時38分23秒]
>真宗の「信心」というのは、洗脳とはどう違うのですか?
まず、洗脳って言葉をどう受け取るかですけど、プログラムに沿って
自分の考え方を捨て別の価値観を植え込むということでしたら、全然
別物ですね。
自分の価値観が崩されて、「自分では理解しきれないなにか」に全面
降伏するという現象(?)からみれば、洗脳と見えるかもしれません。

あと「信心」って言葉も取りようでいろいろありまして、多くの場合
は「信じる心」ということなのでしょうが、私が聞かされているとこ
ろでは、「疑心あることなし」ってことで、自分から信じていこうと
言うものではありません。

>自己と対峙するのに「信心」は必要ですか?
>「法」だけあればいいような気がしますが、
>どうしても信じ込まないとダメなのでしょうか?
「信心」は結果であって、こちらで用意するものではありません。
で、自分が問われる(信心が問われる)為には鏡が必要ですね。
「法」は鏡です。
鏡を見るんじゃなくて、そこに映る自身を見る。

多分、質問されようとしているところと違う答えだと思います。
同じ単語でも意味が多様なんで、そこを合わせないとすれ違うま
まですから。
おそらく「信心」って言葉を共有するだけでも大変じゃないかな
と思います。
真宗に軸足を置いている人でも、教義理解を求める人や、体験を
重視する人では説明も違うでしょうしね。

ところで、「テルゼ」さんはどうしてこのような質問をされたの
ですか?

あと蛇足ですが、私が「信心」を大事といったのは、念仏を軽視
していることじゃないですよ。
「信心」と「念仏」は対のはずです。
信心なしで「ただ念仏」じゃだめでしょうってことです。
そういうお勧めをお寺でもよく耳にするものですから。
「ただただ、お念仏させていただきましょう」ってね。
なんでお念仏なのかをぬきにしちゃあいけません。
(でも、まずは称えることから始めるしかないけどね)

http://homepage1.nifty.com/MANU/


つぶやき 投稿者:らくりん  投稿日: 4月14日(月)10時05分38秒 pro2.incl.ne.jp

どこがいいんだろ?


テルゼ様へ 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月14日(月)09時28分36秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

テルゼ様、こんにちは、

>我々超越者を仰いでの信仰者は

此処に信仰意識にも
信仰(saddha、道理を承認する事)
信仰(sraddha。師或いは所属集団の説に疑念する事無くそのまま奉じる事。)
この二つあるよう。
本来釈迦が目指したのは真理探究に会ったはず、そし亦
イエスもでしょう。
禅語に云う、「不立文字」。
それは文字を導とするも文字を立てない、
つまりあくまで文字は土台の自己がその上に立つべき。
これを云うよう。
貴女はあえて麓に下り道しるべ示す人とは存知おりつつ。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


カブトムシ様へ 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月14日(月)08時46分35秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

こんにちは、

>真理は何処にあるのやら〜〜〜。

それはあなたの存在、生命それそのもの。

親鸞の言う「自然法爾」。
因みに爾「然り・それそのもの・御・オーム・アーメン」とか。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


jyugegu さんの言葉につられて 投稿者:カブトムシ  投稿日: 4月14日(月)07時42分39秒 lyra.mula-net.com

独り空にポップコーンを放り上げる僕に捧げる子守り歌

言葉に出すと汽車ポッポ そして僕達ハトポッポ
ある日テレビでやわらちゃんが言っていた
金をとれない銀止まり、金があたりまえの視線の中で
銀が続くつらい日々...。
幼い頃、おおきな子に無心でいどんだあの頃の
柔道がすきですきでただそれだけで....。
そんな心に戻るため
ビデオを何回ともなく見続けたとさ
そして初心が戻ってきて、ついに金がおとずれたとさ

大人のような子供だと人は嫌いがるけれど
子供のような大人だと人は寄ってくるらしい
イエスさまお釈迦さま
大事なお言葉は聞こうとするけれど
赤子や老人・酒飲みの大事なお言葉あるけれど
僕達大人は本気で聞こうとなさらない
なんでだろう〜〜なんでだろう〜〜
真理は何処にあるのやら〜〜〜。

 


>方便を本尊(本当に尊い事)とする  投稿者:jyugegu  投稿日: 4月14日(月)06時48分19秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

流れ星 ☆彡様ですか、初めまして

>「ナムアミダブツ」の名号
これを何と捉えられておられるのでしょう、
因みに仏教創造の地の言葉梵語に
南無・namas。頭を垂れる。屈する。生命を預ける・帰命。
阿弥陀(amitayus)無量寿。(amitabha)無量光。
名号(namadheya)。名前の意。古くは幼児への命名式を表す。
名号(namadheya)。名前の意。古くは「土くれ」とか「鋏」とかの形質を名さすとか。
つまり阿弥陀、無量寿・無量光への帰依とは人類に共通する太陽信仰を想像させはしませんか。
名号の示唆するところ、形質を名さすとかいうなれば。

>人間(有限)がなんらかの方途で「真実」に触れたり、感じたりすることができるという考え方を、
>我執の延長と位置づけ、打ち砕いていくという発想から生まれたものです。
この説本意に叶っているかも・・。
釈迦仏教は外に帰依対象を求めず、内なる共通性、つまり「仏性」を観るものでしょうから、

>これがなければ真宗が成り立たないという、大切な事柄なのです。
それは意識の問題でしょう。言葉ではないはずかと。
尚貴方の言われる「真宗」とは教団のこと?、
それとも「真理・法・dharma ・ dhmma」をいうの?。

>わたしのイメージでは、「神の・・」
因みに貴方のイメージされる「神」とはなに?。

宜しくお応えお願い戴ければ幸い・・。

合掌。



http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


現実は 投稿者:おじき  投稿日: 4月14日(月)03時57分44秒 zaqdadc3ab0.zaq.ne.jp

>独占、ヒエラルキー、カリスマを生んでいくような「真実」のありかたを拒否して、

本来の姿勢はきっとそうあるべきだと思うのですが、歴史を重ねるごとに、
拒否するどころか、長年そういうものをドンドン生み出し続けているのが、
真宗教団組織の現実なのだと思います。なんとかしたいです。
編集済


方便を本尊(本当に尊い事)とする 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 4月14日(月)02時27分01秒 u008.d028228218.ctt.ne.jp

「ナムアミダブツ」の名号ということを「方便法身の尊形」といいます。

名号を称える事がなんなのか、どういうことなのか分からないのでしょうが、
だれでも、どこでも、いつでも共有できる言葉を大事にするのは、
人間(有限)がなんらかの方途で「真実」に触れたり、感じたりすることができるという考え方を、
我執の延長と位置づけ、打ち砕いていくという発想から生まれたものです。

独占、ヒエラルキー、カリスマを生んでいくような「真実」のありかたを拒否して、
易しい言葉を方便法身として選択するという考え方に共鳴していったのが念仏者たちです。

でありますから、「本便」はいらなくなって、捨てていくものではなく、
これがなければ真宗が成り立たないという、大切な事柄なのです。


それにしても、プロテスタントでは神も天国も要らなくなるの?

わたしのイメージでは、「神の言葉」に依って生きるのがキリスト者、、、、だったんだけど。。。
編集済


jyugeguさんへ 投稿者:テルゼ  投稿日: 4月14日(月)00時28分41秒 208.pool7.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>自己確立を山登りに例えれば、日本に言う「宗派」とは
>頂上(自己確立)へのルートの表示に過ぎない、
>其処での教義は登頂支援の「杖」かもしれない。
>登頂成れば頂は一つであり、そのとき道も其処に結集し一つであることが知られる。
>杖は最早純粋思索に荷物、足手まといでしかない。捨てられるべき。
>それなら初めから「杖」やルートに頼らず自らの生き方を発見構築する方法は?、
>それはあなたにしかわからない。「己事究明」

これは、jyugeguさんのサイトから、あなたのお言葉です。
あなたのこの教義の捉え方には、深く共感をおぼえています。
私が、「道」はいらぬと表現しているのは、
あなたのこの「杖」の「足手まとい」というのと同じことを言っている積もりです。
あなたは、これまで禅者としての道を歩まれてきたお方なのでしょうから、
最初から杖はいらぬと「己事究明」に気づかれて、求道されてきたのだと思います。

しかし、我々超越者を仰いでの信仰者は、
「己事究明」の中に神を見出すということは、最初からはなかなか出来ません。
まずは、天なる神を拝し、その慈悲、愛の庇護を受けます。
その神の愛の光に照らされ、初めて己の内へと目が向けられていきます。
そして、やがては神とは「天上の神、地上の神」「内なる神、外なる神」と分けられるものではなく
「自己は神を中心に置いている」ものと気付かせていただけるのだと思います。
もはやその時には「杖」としての神、
あなたの仰る「法」としての神も必要ではなくなるのだと思います。


テルゼさん。 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月13日(日)18時03分37秒 1Cust117.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

ブッシュ大統領に言ってやってください。キリスト教は武士道なのだ!と。(笑)


イエスはファンキー! 投稿者:テルゼ  投稿日: 4月13日(日)16時51分00秒 179.pool15.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>想像でしか察しがつきませんが、イエスとは一体どんな人格を持っていたのでしょうね?
>伝説になるような人格を持っていたことは間違いないと思いますが…

「イエス・キリスト…
私は、あの十字架へと突き進むファンキーな生き様が大好きです。キリスト教もいいですね〜。」
ジャンク門徒さん、あなたが言われた、これこれ、これですよ〜!
            
・・・・・・・・・☆・・・・・・・・・
この「福音の使者」は、彼が生きてきた通りに、教えてきた通りに死んだ。―――「人間を救済する」ためではなく、いかに生くべきかを示すために死んだ。
彼が人類に残していったものは、実行である。すなわち裁判官や捕吏や告発者、あらゆる種類の誹謗や嘲りを前にしたときの彼のとった態度―――十字架上の彼の態度である。
彼は手向かいしない。自分の権利を擁護しない。最悪の事態にならぬよう身を護る処置をぜんぜん講じない。
そればかりではない、彼は最悪の事態を挑発している。‥‥彼は、自分に害を加える人々と一緒になって、その人たちの中に立ち混じって、嘆願し、悩み、愛している。
彼とともに十字架に架けられた盗賊たちに、彼が述べた言葉は福音の全体を含んでいる。
「まことに此の人は神の人なり、神の子なり」と盗賊が言えば、「汝この事を悟りたれば、汝は楽園にあるべし、神の子になるべし」と救世主は答える。
わが身を護ることもなく、怒りも見せず、責を問うこともしない。‥‥悪人にも手向かいせず、―――これを愛する‥‥
             
                         ニーチェ <アンチクリスト> 白水社


しかし、まあ。。。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月13日(日)16時45分28秒 p19066-adsau07doujib3-acca.osaka.ocn.ne.jp

 様々な宗教掲示板見てて、目に付いたのが、ノーブランドというブランド信仰ですな。

 「無印良品」を謳い文句に、事業を展開されてるんやけど、それって実は、○武資本の
ブランドもんやん!なんて思ったりします。。。

 ぐっちんは、なにわ流の商売がしたい。100円ショップ感覚ですな。
エエもんを安ぅに、出し惜しみなしで、バッタ屋をはじめいろんな仕入先から取り寄せて、
これでもか、これでもか!と内臓マル出し、特出しストリップ。。。
編集済


アルコールで。。。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月13日(日)16時37分46秒 p19066-adsau07doujib3-acca.osaka.ocn.ne.jp

 じゅうぶん、「きめて」はりましたな、昨夜のらくりんさん(笑)。

 さて、いきなり沖縄英語講座。

 わたしは、一匹のハブを飼ってます。  英訳 アイ・ハブ・ア・ハブ.

 わたしは、伊良部を愛してます。    英訳 アイ・ラブ・イラブ. 失礼。

 伊良部ってええなあ。嫌われキャラ。ふてくされてて、世を渡って行くタイプ。
でも、人間って第一印象エエ人は損やな。最初のうちは、エエ人で通ってんのに、あることが
きっかけで、「ぐっちんさんって、そんな人やったん?知らんかったわ!」とかいわれたり
なんかして。

 これが、イヤミキャラなら反対ですな。ある事がきっかけで、「ぐっちんってやなやつと
思ってたけど、案外エエとこあるやん!」とかいわれたりして。。。
編集済


テルゼ様へ 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月13日(日)16時24分31秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>私がここで「道」と言っているのは
>あなたが「杖」と表現されているものと同じだと思っていますが。。。
>いずれ「杖」に頼らない、いらなくなる。

>杖がいらなくなったとき、神からも自立となるのではないのでしょうか?

そう問われ答えに窮しました。
釈迦は「自帰依法帰依」の言葉を残し、
親鸞は歎異抄に「弟子一人も持たず候その故は・・・」と、
ここに共通し示唆するのは、「杖」だと思いこんでいた「法」
それをよくよく顧みれば、自己そのものの中に持していた、
親鸞はそれを我れ以外の他の人に、気付かすために働きはするが、
それは私が授けた物ではない、だから師弟というような授け授けられる、
上下主従関係表現はおこがましくて、言いえるものではない、
「歎異抄」のこのくだりはそういうかな。

或いは例えば、剣の達人は剣を構えたときその「剣」と一体と成り、
「剣」が「人」か「人が剣」かとそこに人と物が一体の様相を呈するとか。
その到達するところ、あの石舟斎の無刀取りでしょうか、
剣無くして剣を征する。仏道の窮まるところ恰も赤子の様を呈するか。

名人とその使いこなした道具とも亦この様子を呈するかも、
世に妙好人と言われる人の称名念仏もこの姿かな。
しかしそこに吐く称名は最早呼吸に変わらぬ様か、私は「不識」

「杖」を「杖」と観、「神」を「神」と観じる、
そこには内なる共鳴がなってそう観じるのではないでしようか。
その時「幡が動くのではない、風が舞うのではない、単に心が動いていた」
との公案は諦められるか尚諦められざるか。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


ん〜っ。 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月13日(日)16時22分49秒 1Cust101.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>パイロットに命までも預けているのに...
>努力して努力して曲がりくねった道が人生だなんて
>いやだね〜〜〜〜〜。

パイロットも時に事故を起こす。そのパイロットは果たして信頼できるパイロットなのか?
己の全てを託すからにはそれ相当の覚悟はできているのか?
信頼していたパイロットのミスで事故が起こり自分が誘い同乗させた隣人にも被害が及んだ場合
責任を取れるのか?
ん〜私は人気の少ない曲がりくねった道をのんびりと一人景色でも眺めながら念仏を唄い歩いていきます。

>「山上の垂訓」が人間本来の姿に目覚めた世界を表しているのではないのでしょうか。

今改めて聖書を読んで見たところですが、なるほど上手い方便を垂れてますね。
でたらめな人間がこれらの言葉を吐いても説得力がありませんし、イエスの人格に直接触れたことが無いので
想像でしか察しがつきませんが、イエスとは一体どんな人格を持っていたのでしょうね?
伝説になるような人格を持っていたことは間違いないと思いますが…
編集済


jyugeguさんへ 投稿者:テルゼ  投稿日: 4月13日(日)14時45分11秒 53.pool3.dsl8mtokyo.att.ne.jp

私がここで「道」と言っているのは
あなたが「杖」と表現されているものと同じだと思っていますが。。。
いずれ「杖」に頼らない、いらなくなる。

杖がいらなくなったとき、神からも自立となるのではないのでしょうか?


ニーチェの 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月13日(日)13時58分08秒 1Cust195.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

「アンチクリスト」も面白いですけど、「ツァラトゥストラ」の方もスリルがあって好きです。
ニーチェ仏教VS釈迦仏教、決勝対決といったところでしょうか?、一読する価値はあるかも…
ニーチェはかなり手強い相手だと思いますが興味ある人は是非挑んでみてください。
彼、ニーチェの攻撃に屈することがなければ胸に抱く信心は間違いなく本物でしょう。
と、私は思う。私はですよ、あくまでも…
編集済


>道と汽車 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月13日(日)13時07分41秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

カブトムシ 様ですか、

まあ人間というも、赤子から老人まで、存在すれば、
そんな風景も許容されてしかるべきかとは、

ところでそういう発言されるあなたは、何処に位置されるのでしょうね。
乗っていく人なのか、うまく誘導し乗せる人なのか。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


「道」、テルゼ様へ 投稿者:jyugegu  投稿日: 4月13日(日)11時37分47秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

テルゼ様、ここでは初めまして、
横レス失礼します、

「みなさ〜ん」投稿の難しいところは良くわかりませんが、
「いずれは、道もいらなくなる時は来ませんかね?」
とのお言葉、本来は、
道の道たるは道には非ず。或いは言う
水の中にいて渇を叫ぶに言う、
そこに在る時「道」意識さえ覚えなくなる。
「いらなくなる」との表現は、尚「道」と自己との相対観からのお言葉かと、
それが一体になったとき、何処に「神」を見るのでしょう。
この表現いかがでしょう。
まあ表現する事事態、尚「道」に至らない結果かも、

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


道と汽車 投稿者:カブトムシ  投稿日: 4月13日(日)08時42分57秒 lyra.mula-net.com

山への道が幾通りもあるように見えるのは
未だ登ろうとしていないだけ
道が曲がりくねっていると見えるのは
未だ道を歩いていないだけ
道が細いと見えているのは
大きな道を知らないだけ
汽車に乗れば目的地まで運んでくれるのに
乗るのがこわいだけ
飛行機に乗ってしまえば
パイロットに命までも預けているのに...
努力して努力して曲がりくねった道が人生だなんて
いやだね〜〜〜〜〜。
汽車に乗ろうよ、そして目的地に着くまで
みんなでわいわいがやがやいいじゃん〜〜
着いてからが一人ひとりの始まり始まり〜〜〜


アテンション 投稿者:らくりん  投稿日: 4月13日(日)07時58分03秒 pro2.incl.ne.jp

ああ「かんちがい」チャンチャン♪ 投稿者:らくりん  投稿日: 4月13日(日)01時16分07秒 pro2.incl.ne.jp
の仏性の問答、に追記しました。
※だいぶん下になったので、こに書いたら、流れが解らなくなりそうなので。

ぐっちんさんも、長い追記がしてありますね。昨夜リアルタイムで見ていた人は、
読み返さないかもしれないから。


どこま〜でも行こう♪ 投稿者:らくりん  投稿日: 4月13日(日)07時40分37秒 pro2.incl.ne.jp

道が、ずっと続いているほうが、ずっと楽しい。
最近のCMにあるじゃないですか、
「祭は、準備してる間が楽しい。始まったらすぐに終るだけ」とかなんというのが。

期待したものが手に入るからその道をいくんじゃなくて、
ある意味で、結果なんてものは、どうでもいいわけで、
とにかく行く気になれる道があるってこと、そのことが、
とっても素敵なんじゃないですか。

道が終って(成就して)しまったら、あと待っているのは退屈だけ。


みなさ〜ん 投稿者:テルゼ  投稿日: 4月13日(日)06時38分23秒 11.pool7.dsl8mtokyo.att.ne.jp

ジャンク門徒さん、まずキリスト教とイエスを混同しないで下さいね。
キリスト教は、イエスが作ったものではありませんからね。

イエスが本当に神の子だったのか、菩薩なのか如来だったのか、
そんなことはどうでもいいですが、時代の方便であった面は大いにあります。
それは釈迦も然りでしょう。
「念仏」も、同じく時代の方便だった面も大きいと思いますよ。

しかし、やはりそこには「普遍の真理」というものがあります。
イエスの場合は、彼が説く「神の国」が涅槃であり、
「山上の垂訓」が人間本来の姿に目覚めた世界を表しているのではないのでしょうか。

MANU.さん、はじめまして。
間抜けな質問かも知れませんが、お許し下さい。
真宗の「信心」というのは、洗脳とはどう違うのですか?
宗教というものは、所詮洗脳から入って行くものだと思いますが。
自己と対峙するのに「信心」は必要ですか?
「法」だけあればいいような気がしますが、
どうしても信じ込まないとダメなのでしょうか?
‘信じている’間は所詮宗教に過ぎんと思いますが・・・

赤時さん、ふんふんと、あなたの仰りたいことはよく分かります。
まあね、いくら真実のイエス像を求めたところで、神に出会える訳ではないですわな。
しかし、歴史的イエスを再構築することは出来なくても、
心理学的イエスは再構築することは可能でしょう。
ニーチェの「アンチクリスト」は、大した長さでもないのですから
是非読んでみて下さい。その辺のところが分かります。

でも、殆どパウロ一人のイエスを押しつけられてきた2千年よりはましでしょう。
要するに、釈迦もイエスも、阿弥陀様もキリストもそれに頼んで道は歩みますが、
所詮それも道先案内人。
いずれ、神とは一対一で真向かわなければ、な〜んも分からんてことじゃないのかしら。

>仮に、二つ道があったとしても、自分が行けるのは一つ。
>一つしか要らない、一つで十分。
>一つ見つかった者には、それ以外の道があろうがなかろうが、
>そんなことはどうでもいいこと、なんじゃない。

らくりんさん、「道は一つ」は、結構ですが、
「道」はどこまで行っても「道」に過ぎませんが、永遠に歩き続けるのですか?
そして、その道の果てる先は?
いずれは、道もいらなくなる時は来ませんかね?


しまった… 投稿者:MANU.  投稿日: 4月13日(日)01時58分16秒 218-228-156-56.eonet.ne.jp

こんな楽しそうなことやってたなんて・・・
ずっとPC前にいれば良かった。

しかたない。お仕事がんばろっと。

http://homepage1.nifty.com/MANU/


今日はこれでおしまい 投稿者:らくりん  投稿日: 4月13日(日)01時22分26秒 pro2.incl.ne.jp

楽しいひとときでした。
ありがと。
こんどこそ、ほんとにおやすみ。あとはご自由にどうぞ。


いい夢見てください。 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月13日(日)01時21分12秒 1Cust140.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

わたくし大勘違い野郎でありまして…
それではおやすみなさいませ。


ああ「かんちがい」チャンチャン♪ 投稿者:らくりん  投稿日: 4月13日(日)01時16分07秒 pro2.incl.ne.jp

だれが、いつから支障なんじゃ。

>今は難しい問いは自粛した方がよいかも
なめとるんか

仏性なんか、「ありますか」と聞かれて、
「あります」とか「ありません」と言えるような代物じゃない。
だいたいやねぇ〜
〈「……に仏性がありますか」という問い方自体が
仏性をどっか勘違いしている、んちゃうか?〉
 ※上の〈 〉のカッコ内は、いわゆるプロも「どきっ」の決め台詞。
  一度どこかで使ってみてください。
  (ただし、かっこよく決められる自信がある人に限ります)

 ※翌朝の追記:「こんにゃく問答」にしかならないでしょう。
  ジャンク門徒さんが「糞にも仏性ありますか」と尋ねて、
  仮に私が「糞にも仏性がある」と答えたとしたら。それでチャンチャン♪か。
  ジャンク門徒さんが尋ねているところの仏性の意味を「仏性J」として、
  私が答えたところの意味を仏性が「仏性R」であるとしたら、
  それが同じであるか違うものであるかどうして確かめられるか。無理でしょう。
  上のやりとりだけでは、ジャンクもとさんは、
  勝手に「らくりんは、糞にも仏性Jはあると言った」と聞いてしまうだけです。

   で、なぜ親鸞と法然は「信心」などという、きわめて抽象的な概念について、
  「同じか違うか」という問題に、自信をもって「同じである」と言い切れたか。
  二人が同じだと言い切った「信心」も〈「信心H」と「信心S」(勘違い)に過ぎないで〉
  といわなければならないのか。
  もしそうではないとしたら、つまり、彼らが言った信心は
  〈「信心H」と「信心S」ではない〉ということはどうして言えるのか、
  面白い問題だと思いませんか?
  

編集済


いちおう 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月13日(日)01時14分30秒 www.jjclub100.com

 赤時さんに売られたケンカは、買っとくことにします(笑)

 >それは、ぐっちんさんの提示される、キリスト教、ないしイエス像が、
 >テルゼさんの書かれる、「ここ数十年の、真実のイエス像」みたいなものに、
 >とても近いうえに、しかもそれにたいして、無批判的だからです。(中略)しかし、
 >どうも危険な気がします。率直に言って、ぐっちんさんのイエス
 >理解は、その手の参考書かなにかを、表面的になぞった、あるいは、無批判的にうのみに
 >している、と感じられるわけです。

 これが、非キリスト者のぐっちんの(信仰抜きの)「かんちがい」のイエス理解なのだ、
で済む話じゃないですかねぇ。無批判的であってもぐっちんの誤読によって、学問的レベル
からズレまくったまったくヒドイ、しかし<ひとつの読みに違いないもの>だと思っていた
だければ(笑)

 >ぐっちんさんの、仏教にかんする理解度も、その程度なのかな、と思ってしまいますよ?

 私自身が、私の理解を超えた理解なぞできやしませんものねぇ。念仏者は、ともかくお念仏
称えとったらそんでエエんです。たとえ<プロ>でありながら、仏教に関する理解度がまったく
足りないやつであってもね(笑)。だから、私は教会から落ちこぼれて真宗で拾われたって
わけ(笑)ああ、ありがたい。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。(ぐっちんもマジで久しぶり、
お念仏称えてうれしいぞ(笑))
編集済


お師匠は・・・ 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月13日(日)01時09分32秒 1Cust140.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

お酔いのようです。今は難しい問いは自粛した方がよいかも。
例えば、「糞にも仏性がありますか?」等


おやすみ。 投稿者:らくりん  投稿日: 4月13日(日)01時06分29秒 pro2.incl.ne.jp

だいぶんまわってきてますので、そろそろ黙ります。
あとは、明日の朝のおたのしみにします。
見るだけは見てるかも。


そっか 投稿者:らくりん  投稿日: 4月13日(日)01時05分11秒 pro2.incl.ne.jp

シッタカブッタは、突然のひらめき、だけです。
それともパワーの源のこと?
それは、わかる人だけわかればいい話。
編集済


どこか、おかしい、かな? 投稿者:らくりん  投稿日: 4月13日(日)01時04分16秒 pro2.incl.ne.jp

 ↑ 「どこが、おかしい!」かも
ちゃんとつながってるでしょ。
展開早いよ、ちゃんと読め。


続・ん? 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月13日(日)01時01分11秒 www.jjclub100.com

 守護霊サマとお話されてるんですか?誰の何の話題についてなのかさっぱりわかりません。
(どこかの掲示板をお読みなのか。メールで来た人とおしゃべりなのか?)
編集済


酩酊気分 投稿者:らくりん  投稿日: 4月13日(日)01時00分36秒 pro2.incl.ne.jp

ここはチャットか、
早よ、寝ろ


久々の「看板に偽りなし」 投稿者:らくりん  投稿日: 4月13日(日)00時59分16秒 pro2.incl.ne.jp

ものはいえいえ
言わぬは、はらふくるるわざなり。

まわってきた、ぞ、っと。


ありがとうございます。(笑) 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月13日(日)00時58分41秒 1Cust140.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

そうくると思っていました。(笑)


梶大介の亡霊が 投稿者:らくりん  投稿日: 4月13日(日)00時49分58秒 pro2.incl.ne.jp

誰が応援なんかするか。
てめえのケツはてめえでふけ。
編集済


ほろ酔い気分 投稿者:らくりん  投稿日: 4月13日(日)00時48分36秒 pro2.incl.ne.jp

「中途半端はやめて」と言うが、
「中途半端」と「専門家」なんて、しょせん目くそ鼻くその世界なんじゃないかなぁ。

「言わない理由」をいろいろいうが、それは、しばしば、「関心がない」
「言いたくない」の代台詞。
言いたい人間は、中途半端な知識だろうが、なんだろうが言いたいことを言えばいい。

それを、「あんたは中途半端」というのは、
「お前なんぼのもんじゃ黙っとかんかい」ってかぁ〜んじ、で
ちょっと好きくない、言い回し。とっても権威主義的。
でも、ときどき言っちゃうんですよね、これ。なんとも魅力・魔力がある台詞。
でも、それを勢観房・念仏房的発想というんです。
そういうの聞くと「ヒラ信徒」ってのも、謙遜のようで、
とっても水戸黄門の印籠もどきにみえてくるもんで、不思議ですね、言葉って

愛のシッタカブッタ、面白いよ。
知ったかぶりもわるくない。
編集済


表明して見ます。(笑) 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月13日(日)00時43分42秒 1Cust140.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

らくりんさんへ

なんとか上手く表明して見ます。
何しろ周りの環境の状態といいますか、浄土真宗と日蓮正宗の割合が1対マジで多数
なものですから、、、
敵陣地にいるような感じなんですよ。(笑)
まあ浄土真宗の名に恥じぬよう頑張って見ます。影ながらの応援よろしくおねがいします。
編集済


今しばし、 投稿者:らくりん  投稿日: 4月13日(日)00時27分18秒 pro2.incl.ne.jp

眠くなるまで、ちょっと呑みながら、もう少しウォッチしてますよ。


あれあれ、またきたの 投稿者:らくりん  投稿日: 4月13日(日)00時24分27秒 pro2.incl.ne.jp

「……」の次は「それで終り?」


ん? 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月13日(日)00時21分13秒 ns.jjclub100.com

 あれこれ間口を広げ過ぎ?ってハナシかな。


なんか今日は、 投稿者:らくりん  投稿日: 4月13日(日)00時16分29秒 pro2.incl.ne.jp

絶好調!

讃岐うどん4玉のパワー炸裂か? なんのこっちゃ。

寝ます。
編集済


ファ〜イトッ! 投稿者:らくりん  投稿日: 4月13日(日)00時11分00秒 pro2.incl.ne.jp

>信心淨論でいわれる「信心」とは、称名と切っても切れないものだと私は思う。

この辺までけっこうサエてるのに、
もう一方面は……。 まっ、いっか
編集済


お久しぶり、 投稿者:らくりん  投稿日: 4月13日(日)00時02分36秒 pro2.incl.ne.jp

いろいろとご活躍で、お忙しいのでしょう。

エロ坊主さんがそんなに素直だと、
ちょっと気持ち悪かったりして(^-^)


ちょっと感激してます 投稿者:エロ坊主  投稿日: 4月12日(土)23時56分17秒 eaoska015051.adsl.ppp.infoweb.ne.jp

 >仮に、二つ道があったとしても、自分が行けるのは一つ。

 お久しぶりです。感激しました。
 あれこれ考えられても、生きている私は一人だけですものね。
 なんか、むちゃうれしい!


どっちつかずは誘い水 投稿者:らくりん  投稿日: 4月12日(土)23時55分50秒 pro2.incl.ne.jp

ジャンク門徒さん、
それは、あなたが自分には歩みたい道があるのだということを、
きっちりと表明しないからではないかという気がします。


たしかに。 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月12日(土)23時45分18秒 1Cust196.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net


>仮に、二つ道があったとしても、自分が行けるのは一つ。
>一つしか要らない、一つで十分。
>一つ見つかった者には、それ以外の道があろうがなかろうが、
>そんなことはどうでもいいこと、なんじゃない。

確かにおっしゃる通りだと思います。
これは少し愚痴めいているのですが、私の周りには音楽関係ということもあって創価学会
の人達が多くいます。他力道を歩んでいる自分にとって法華経徒との係わり方が非常に難しい。
彼らはこの道しかないと思い私を引っ張る。私は決して彼らを引っ張ることはないのだが、
引っ張られまいとただ踏ん張るだけ。創価学会等、日蓮宗系の人達に出来ればわかって貰いたい。
この道の存在を…

それなりに仲良くやってますけど。


>赤時さん 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月12日(土)23時10分29秒 www.jjclub100.com

 私は思う。私がここ数十年の真実のイエス像みたいなものを無批判に受容していると、
あなたが思っていると、私が。。。
(あ、やめとこ。(笑))
編集済


Re:大切なものは一つで充分  投稿者:赤時  投稿日: 4月12日(土)23時03分37秒 1Cust19.tnt4.tko2.jp.fj.da.uu.net

>大切なものは一つで充分

アーメン。(ほんとにそうだと思います)


「『真実のイエス像』」(その2) 投稿者:赤時  投稿日: 4月12日(土)23時01分13秒 1Cust19.tnt4.tko2.jp.fj.da.uu.net

(ながくなってしまいましたので、わけました。つづきです)

私が、ときどき、ぐっちんさんが、キリスト教の話をされるとき、ときどき、反発めいたことを
書きますのは、それは、ぐっちんさんの提示される、キリスト教、ないしイエス像が、
テルゼさんの書かれる、「ここ数十年の、真実のイエス像」みたいなものに、とても近いうえに、
しかもそれにたいして、無批判的だからです。もちろん、ぐっちんさんが、どのようにお考えに
なっても、私がそれにけちをつけることはできず、むしろ、そのような私の態度が
よくないわけですが、しかし、どうも危険な気がします。率直に言って、ぐっちんさんのイエス
理解は、その手の参考書かなにかを、表面的になぞった、あるいは、無批判的にうのみに
している、と感じられるわけです。MANU.さんが、「キリスト教のことや、
他の宗旨の事はよく存じませんし、知らないものが比較したり批判したりするのを
良しとしませんので、触れるつもりはありません。」とお書きですが、(私もそう思うので、
ほとんど仏教の教義について、触れてきませんでしたでしょう?)ぐっちんさんは、
ちょろっちょろっとキリスト教のことについて中途半端に触れられる。私は仏教について
無知ですが、そういうのを読んでいますと、ぐっちんさんの、仏教にかんする理解度も、
その程度なのかな、と思ってしまいますよ?(あっぐっちんさんへの批判が長くなって
しまいました!ごめんなさい)

ついでにパウロについても。このひとも、テルゼさんのお書きになったニーチェのお話にも
ありましたが、なにかと悪くいわれたりするようなので、気の毒になるので、私は大いに
このさい聖パウロの肩を持つことにいたします。このひとは、たしかに、ある意味で、
なにかをすごく「かんちがい」してるひとなのかもしれませんが、この、豪快な誤解っぷりが、
素敵なわけです。私は、パウロがだいすきです。まさに、このひとは、我々の
信仰(=「かんちがい」)の、お手本というべきひとではないでしょうか。
「パウロは、直接イエスと会ったことはないが」などと、さらっと書いてある説明書なんかが
あったりしますが、パウロがこれを読んだりしたら、怒るだろうなあ〜、とか思ってます。
「私は間違いなくイエスキリストに出会った!ダマスコへ行く途中で!」とか言うのでは。

「なぜお前は、そのようにさっきから、なんでも断定するのか?」とお思いのかたもあるかと
思いますが、「かんちがい」をもって、「信仰」と私は思っていますので、
いくらでもかんちがいしようと思いつつ、書いています。というわけで、これは、たぶんに、
私自身の、信仰告白なのです。今日はこのへんでおひらき、ありがとうございました。(おわり)


「『真実のイエス像』」(その1) 投稿者:赤時  投稿日: 4月12日(土)23時00分13秒 1Cust19.tnt4.tko2.jp.fj.da.uu.net

(ながくなってしまったようなので、分けます)

ジャンク門徒さん、テルゼさん、

そうですか、ニーチェがそんなことを言っているのですか。これは、ニーチェも
勉強しなきゃいけないのかしら・・・(しないでしょうけど)

テルゼさんへ、

>ここ数十年、真実のイエス像の研究は大分為されてきているようですが。

とのことですが、にしても、もう2000年もたってしまっており、
資料が、ほとんど聖書に含まれる4つの福音書だけなわけですから、
(それ以外の外典の類は、4福音書以上に、捏造(というか。語弊がありますか)が激しいわけで)
で、その福音書という書物じたいが、「真実のイエス像」を引き出してくるには
かなり無理があるわけで、私は、まあそのような研究の、結果だけを、なんとなく
知っているわけですが、どうも、私には、そのような「真実のイエス像」なるものも、
一見、精緻な学問にのっとって構築されているように見せかけて、じつは、
その研究者の、究極的には、「信仰(=「かんちがい」)」にそって
構築されている、というふうに、見えてしまうわけです
(なんども書きますが、それが悪い、とは思っていません。むしろ、信仰というものは、そもそも
そういうものであって、それでいいのだ、と思っています)。

で、私のようなヒラの信徒としては、そのような話を、たとえば牧師先生のお説教などから
聴いて、まあ、学問的裏付けがあるってことで、安心して、身をまかせていられるわけですね。
(とはいえ、書いてみて思いましたが、これは、聖書的(なんていうべきか)信仰よりも、
「学問」のほうを信仰してる態度で、よく考えると、けしからんなあ)

しかし、私がおそれるのは、そういう、「『真実のイエス像』」なるものが、「これだ!」
というかんじで出てきて、ほかの、私たちの、素朴な、あるいは、個人的な、あるいは、
個性的な、信仰(=「かんちがい」)が、追いやられてしまうことです。こうなったら
もう最悪で、勝手な信じ方は、駄目だということになって、どんどん信仰が画一化して
いくのでは。恐ろしい。だから私は、お偉い先生がたが研究しておられる「『真実のイエス像』」
も、究極的には、「かんちがい」の一種に過ぎず、我々の、ヒラ信徒の、それぞれの心のなかの、
イエス様、ていうのも、やっぱり「かんちがい」だけども、「かんちがい」同士、優劣は
ないのだから、私は、個々人の、信仰を、大切にしたいなあ、「かんちがい」ばんざい!

(つぎの投稿につづきます)


大切なものは一つで充分 投稿者:らくりん  投稿日: 4月12日(土)22時58分28秒 pro2.incl.ne.jp

一つで充分でないならば、しょせん大したものではない。

>なんまんだ〜の他に、ほ〜ほけきょ〜も一つの救われる方法(道)であると思っいます
思うのは自由ですが、
道はたくさんあるなどというのは、
どれも歩んでいないから言えること。

仮に、二つ道があったとしても、自分が行けるのは一つ。
一つしか要らない、一つで十分。
一つ見つかった者には、それ以外の道があろうがなかろうが、
そんなことはどうでもいいこと、なんじゃない。
編集済


聞きたいようにしか聞かない 投稿者:らくりん  投稿日: 4月12日(土)22時51分53秒 pro2.incl.ne.jp

「信心一異」の論争
親鸞と法然の信心が同じだと言ったところ、
勢観房・念仏房という同門人たちが、
とんでもない思い上がりだと親鸞に反論した。
どちらも引き下がらないので、法然に確かめたところ、
法然は、親鸞の信心も法然の信心も同じであると言った。
(両者とも如来よりいただいた信心であるから、というのがその理由である)

さて、勢観房・念仏房は自分たちには信心はないと思っていたであろうか。
そうではなかろう。
きっと生真面目なくらいに信心を大切にしていたと思います。
そして、自分たちの信心は、法然聖人にはとても及ばないけれど、
親鸞には負けていないという自負があったのだろう。
だから、その親鸞が自分たちさえも及ばない法然聖人と、信心が同じだと
言ったとき許し難いと思ったから、腹が立ったのでしょう。
しかし、彼等はおそらく「回心体験」もあったと思いますし、
本願を疑っているという「意識」などは微塵も持っていなかったでしょう。
だから、信心一異の仕掛けにはまったのだと思います。

そして、自分たちの信心についてそれなりの自負もあったに違いない。
真宗門徒の間では「如来より賜りたる信心」というフレーズは
いわば常識となっているわけで、
お説教の中でもしょっちゅう使われています。
そういうのを聞いていると、それがどどうも勢観房・念仏房が言っているような意味で
信心と言っているとしか聞こえないことがしばしばあります。

勢観房・念仏房たちが言うところの信心は、人を序列化するための基準に
なっているわけですが、それは「信心なるもの」をある種の基準とか根拠に
していることに外なりません。
そしてそれは「信心」の実体化でもあります。

わたしは、「信心」という言葉をつかうとき、いつも自分が言っている意味は
勢観房・念仏房的なる意味になっていないかどうか、かなり意識しています。
しかし、使う側がいくら慎重であっても、
聞く側は「聞きたいようにしか聞かない」


日本は寺でのみ解禁にしてほしい。 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月12日(土)21時51分13秒 1Cust98.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

ぐっちんさん

はじめまして。

>パクられる畏れはないんですか?シャレなんですかぁ?

自分、職業ミュージシャンでして常用しているわけではないのですが時々手に入ってしまう
ことがあるんですよ。シャレでなくて、、、
パクられる畏れは無いとはいえませんが今のところ大丈夫です。
一応自称仏教徒ですので周りにいるアホども(自分も含む)の足をなんとか仏門へと
誘わなければなりません。ので、超大方便として大麻を使用しつつの、セッションの後には
必ずお寺参りをさせの、仏像拝観しいの、今では皆すっかり仏教徒といった具合ですが、
やはりそれを使用することによって嫌が上でも己の内面を見つめてしまいますので、
日々の精進を怠ると即、気分が悪くなってしまいます。

相変わらず巷では、クラブ等でドンちゃん騒ぎしている手に負えない薬物使用者がいますが、
傍から見れば同じなのでしょうけど少なくても私たちは違うと思っています。
これまた大勘違いかもしれませんが。(笑)

大麻それ自体は善でも悪でもなく、それを使用する人の心によって善にも悪にもなるのではないでしょうか?

タイトルにも書きましたが取り締まったところでなくなる訳でもないし、いっそのこと
アムステルダムのコーヒーショップとしての寺とでも言いますか、お叱りを受けてしまいそうですが
寺で解禁にしたらいいのにな〜って思います。少なくても若者がそれを求め闇の世界に足を
運び事件に巻き込まれることも減るだろうし、ささやかながらも仏法に触れることができるし一石二鳥といったところなのですが…
半分冗談で半分マジです。(合掌) 


他人の心は存在するか? 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月12日(土)21時11分35秒 usen-219x123x170x249.ap-US.usen.ad.jp

 @私は○○を××だと思う。
   
 A私は思う。あなたが○○を××だと思っているのだと。
  
 B私は思う。私が○○を××だと思っていると あなたが思っている のだと。

 C私は思う。あなたが○○を××だと思っていると 私が思っていると 
    
       あなたが思っている のだと。

 D私は思う。私が○○を××だと思っていると あなたが思っていると 私が思っていると 

       あなたが思っている のだと。

 さてさて、Aという人の「信心」なる心理状態と、Bという人の「信心」なる心理状態がある
として、その厳密的一致は誰が保証するのでしょうか?信心淨論でいわれる「信心」とは、
称名と切っても切れないものだと私は思う。あなたが。。。(以下省略)
編集済


『今夜、すべてのバーで』 投稿者:ぐっちん  投稿日: 4月12日(土)20時25分10秒 usen-219x123x170x249.ap-US.usen.ad.jp

 というのは、中島らもの自伝的アルコール依存症脱出記小説。
さて、現代の「私小説作家」といえば、女性では柳美里、男性では中島かな?

 先ごろ、大麻所持で捕まってはりましたが、刑期を終えたら大麻依存脱出記、
 『今夜、すべてがパぁに』でも書くんかなぁ。作家は転んでもタダでは起きん。。。

 >ジャンク門徒さん

 はじめまして。そうですねぇ、パクられる畏れはないんですか?シャレなんですかぁ?
ぐっちん思うに、大麻もいろいろ問題はあるけど、アルコールのほうが生化学的には
圧倒的にカラダに悪いような気がします。(インドでバングジュース飲んだ経験だけから
判断して)けどまあ、日本ではアルコールは、合法。大麻は非合法です。不可解ですが。
編集済


対機説法? 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 4月12日(土)18時42分41秒 1Cust55.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>ジャンク門徒さん、そういう意味では「キリスト贖い物語」も、よくできた方便。

個人的にはイエスは菩薩に等しい者と考えているのですが、ならばその方便を使い衆生を
どこへ導こうとしていたのか?仏教で言うところの涅槃へ導こうとしていたのではないか?
如来、菩薩はその時代、人を見て、その時代、人に見合った法を説くと言われています。
あの時代、あの場所に現れたイエスは、あの時代あの場所に似合った教えを垂れた。
キリスト教とは絶対的なものでなく、一時的な大方便だったのではないか?
勝手な推測、お許しください。

>ナンマンダブツ称える他に
>救われていく方法があると考えるのが
>大きな勘違いなんですけどネ♪♪

なんまんだ〜の他に、ほ〜ほけきょ〜も一つの救われる方法(道)であると思います。
大きな勘違いかもしれませんが。(笑)
編集済


座布団一枚 投稿者:らくりん  投稿日: 4月12日(土)17時27分42秒 pro2.incl.ne.jp

管理人から座布団一枚。
誰に、だかは言わぬが花。

(それぞれ自分にだと思ってしまったりなんかして)


キリスト者の方に申し上げてもしょうがないことですが 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 4月12日(土)16時57分23秒 u008.d028228218.ctt.ne.jp

ナンマンダブツ称える他に
救われていく方法あると考えるのが
大きな勘違いなんですけどネ♪♪
編集済


体験の宗教 投稿者:MANU.  投稿日: 4月12日(土)16時33分30秒 218-228-156-56.eonet.ne.jp

ROM中心の「MANU.」と申します。
最近の流れになんとなくムズムズとした気持ち悪さを感じています。

キリスト教のことや、他の宗旨の事はよく存じませんし、
知らないものが比較したり批判したりするのを良しとしませんので、
触れるつもりはありません。

真宗に関しては、“私には”この道しかないと思っております。
その真宗は、自己に対峙することが大事と思います。
自己の罪悪観・無常観抜きに、思想や生き様で受けては勿体無い。
したがって、薬などで自己逃避しながら触れるものでもない。
親鸞聖人の考え方を図るものでもない。
自己の身にかかるところで受けていく事が大事かと…。

「南無阿弥陀仏」だけで救われるというのは最近の流行なんでしょうか?
お題目の考え方が融合しちゃったんでしょうか。
真宗においては「信心」が大事だったのでは。
念仏往生の浄土宗において、浄土真宗を拓かれた聖人のお心は、
この「信心」にあるのではと。

南無阿弥陀仏は呪文じゃないですしね。

http://homepage1.nifty.com/MANU/


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