らくりんバンバン

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阪神の勢いは誰にも止めれない 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 1日(日)11時23分08秒 proxy205.docomo.ne.jp

ちなみにjugeguさんに海苔茶漬けをお勧めしたのは、会話に「ノリ」が不足してるという心使いからです(笑)


名は体を 投稿者:お留守居役様  投稿日: 6月 1日(日)10時10分22秒 CTS219103106067.cts.ne.jp

愚陳とか
か〜るくつっこんどきます


名は体をあらわさず 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 1日(日)09時34分24秒 proxy207.docomo.ne.jp

いくつかの掲示板見てますと、名前に「遊」なんてつけてるお方が、いちばんシャレが通じへんかったり、「愚(ぐ・gu)なんてぇのを称しているやつが、いちばん偉そうだったりするのが世の常でありまして・・・・・ん?


おとっつぁん、おかゆができたわよ、、、 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 1日(日)06時45分29秒 proxy212.docomo.ne.jp

♪シャボン玉ら・ら・ら・ら・ら・ら・らん、、、いよっ!懐かしのざ・ぴーなっつぅのお二人さんっ!♪モスラ〜ヤッ モスラ〜   あ〜、二日前から風邪。喉いたに青タン、赤タン。おまけに熱に浮かされ、♪思考回路はショート寸前 いますぐ遇いたいよ〜〜ん


テンション高すぎ 投稿者:林遊  投稿日: 6月 1日(日)01時27分46秒 cf3000.mitene.or.jp

ども、林遊@なんまんだぶつです。

「まあまあ、なんにもおへんのどすけど、時分時でっさかいちょっとぶぶ漬けでも・・」

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・
編集済


ところ変われば品変わる 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 1日(日)00時56分47秒 proxy205.docomo.ne.jp

さて、東京にいた時、食堂に入ったら「牛・肉じゃが」とありました。山といえば比叡山、寺といえば三井寺、肉といえば松阪牛と古文で習った私としては奇異の念に打たれました。東京は豚肉文化か?勿論、大阪でもお好み焼きには豚肉が合いますが。で、何がいいたいか。文字(のカタチ)と発音、及びそれが指し示すモノは国や地方でまちまちです。必ずしも同じコトバが同じモノを指し示すとは限らない。


快楽のゆくえ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 6月 1日(日)00時28分31秒 proxy220.docomo.ne.jp

あ、どうも。お留守居役様さん。最近やっとネットの見れるケータイを買ってそれでカキコしてますので修正がきかないんです(?)嬉しくて嬉しいくて(笑)さてお腹がへる。うんちが出ない。まずは生理的に不快な状態から、満たされた授乳・排便の快楽を知ります。更に親(代理の飼い主)からその他のケアを受ける(ほめられる)悦びをペットは覚えるわけです。人間の場合ならこれがコトバを伴っているわけです。(お利口さんねぇ。いい子ねぇ)で、これが、さっきの<自我>の起源だと思います。ほめられれば嬉しく、けなされればムカつく感性。


re:訂正 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月31日(土)23時45分24秒 CTS219103106067.cts.ne.jp

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訂正 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)23時19分32秒 proxy213.docomo.ne.jp

通用→痛痒


なま悟りのお歴々 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)23時17分14秒 proxy215.docomo.ne.jp

まあ、自分の歩みや愛しいものとの別れにセンチメンタルな意味付け(物語のカタチになったもの)を加えることよりも、悲しみに沈んでいる人に冷水を浴びせて通用とも感じないことの方が愚かしいと思う。


ペット 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)23時03分35秒 proxy209.docomo.ne.jp

かぁーわゆいですよね、ペット。人間は、ホントひねてるからなあ(笑)一番最近は、ハムスターのジャンガリアンでしたが。ワンコは、お母さん犬から産まれる時に取り上げましたから、また格別の可愛さでした。まあ、展覧会というのもあるけど、基本的に育てて競争馬とか食肉用にするのではなくしてまさに愛玩動物。エサを自分では、取れないようにいわば飼い慣らすわけで、飼い主への依存度は高いですね。「飼い犬に手を噛まれる」なんて表現がありますが、それは逆にペットは人間を裏切ることが滅多にないということを証明してるわけですよね。


ペットロス 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月31日(土)21時18分45秒 CTS219103106067.cts.ne.jp

昨年、愛猫を失ったときにwebで調べてみました。
ペットロスが、ある意味で肉親の死よりもつらいのは、
死を受け入れられないのと同時に死の全責任を感じてしまうからのようです。
ペットは、絵画や骨董品のような所蔵物のように思われ、
死すべき生き物とは思われないので、死んだことが信じられず、
死を受け入れられないということ。
また、ペットは全面的に飼い主に依存しているので、
その死の全責任が自分にあると思ってしまうということ。
この死の不信と死の責任は、矛盾していますが、
うまく割り切れないので、つらく悲しいのだと思われます。


囚人教室 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)20時46分33秒 proxy204.docomo.ne.jp

ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ  とこれだけ「ぬ」の字を書くとぬという発音がわからなくなったりします。小さい時、字が下手で書道教室を開いてるおばあさんにしごかれましたが。ずっと書き続けていると、この字が鉄条網に見えたりなんかします。で、この字、「め」に似ていますが、発音は似てません。「ひ」と「し」は、似てないこともないのですが、江戸っ子なら「美空しばり」。彼岸も此岸も両方「しがん」です(笑)もっとも関西も質屋さんの、暖簾にでかでかと「ひち」と書いてありますから人の事は笑えないのですが。


うぬぼれの他に惚れ手はなかりけり 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)19時28分46秒 proxy204.docomo.ne.jp

あ〜、私も針飛び佐助(笑)。<自我>はウソでも誉められれば嬉しく、ホンマでもけなされれば悔しい。で、たいがい人は自分のイメージを美化してます。テープ・レコーダを初めて手に入れた時、まんざらでもない、と思ってた自分の歌にガッカリしたり。ビデオカメラを同じく買った時、自分の動きはヘンな風に映ってました。自分では、緒方拳の息子、直人に似てると思ってるのですが、他人は大助・花子の宮川大助、もしくはたけし軍団の松尾伴内に似てるなどと失礼なことをしゃあしゃあと言ってのけます。


>お留守居役様さん 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)18時26分56秒 proxy203.docomo.ne.jp

お留守居役様さんがいわれてるのは愛猫のことですよね。猫は、人のコトバを理解しません。それでも、飼っているものとのあいだには、不思議とコミュニケーションが成り立つものですよね。人とは、なまじコトバがある程度通じるだけにやっかいな存在ですね(笑)。ぐっちんは、94で亡くなった祖母の時より、愛犬が死んだときの方が悲しかった記憶があります。


訂正 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)17時43分47秒 proxy213.docomo.ne.jp

失礼。ネット界最強の禅マスターであられるようですから「e‐居士究明」と訂正。


活々 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)17時12分15秒 proxy217.docomo.ne.jp

「い己事究明」ですか。なるほど。


jugegu様 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)16時56分18秒 proxy212.docomo.ne.jp

オーダー通しまぁす。海苔茶漬けワンデスね。


ぐっちん様へ 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月31日(土)16時49分21秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>あんまり凝ると疲れちゃいますゾ(笑)

こちらからみれば

ナムアミダブツに凝られる?貴方をして・・。

合掌。


揉み療治 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)12時51分59秒 proxy213.docomo.ne.jp

あんまり凝ると疲れちゃいますゾ(笑)


>ご趣味はなんですかぁ〜  投稿者:jyugegu  投稿日: 5月31日(土)12時41分00秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>何か凝っておられます?

ご趣味というほどのものではないが、

己事究明
自分に凝っています。


「和子はいづこ?」 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)11時49分11秒 proxy205.docomo.ne.jp

四、五年前に福田和子という人が整形を繰り返しながら逃走し、時効寸前で捕まったという事件がありました。あれ、逃げ回るのってしんどいやろなあ。ええ加減はよ捕まえてぇなぁ、とは思えへんかなあ。変装せんと生きていけない悲しさ。


喜びも悲しみも幾年月 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)11時30分38秒 proxy220.docomo.ne.jp

まあ、いつまでたってもアホは治らんなあ〜。自分はアホやちゅうのに気づいた、ゆうてまた賢ぶるなあ〜。ほんで、人と話しができんようになりまんなあ〜。地獄でホトケさまに遇いたいもんでんなあ〜。


ご趣味はなんですかぁ〜 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)10時43分35秒 proxy209.docomo.ne.jp

厳しい日射しの中(台風?)お仕事ご苦労さまです。ぐっちんは、ハッキリ言って難しい話しキライです(笑)。焼き物でも焼いてみたいと思う今日この頃、jugeguさんは何か凝っておられます?


>問答無用 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月31日(土)10時27分23秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

何方かに、
「勉強怠り無く」といわれるも、
致し方ないところかと。

合掌。


>絶対無? 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月31日(土)10時18分28秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>おなじみ、「ニゲニゲ」ね(笑)

このコトバ何を指すか知らず。

合掌。


問答無用 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)10時17分48秒 proxy217.docomo.ne.jp

お茶漬は、梅にする?それとも鮭にする?(笑)


絶対無? 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)10時14分42秒 proxy218.docomo.ne.jp

おなじみ、「ニゲニゲ」ね(笑)


追伸 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月31日(土)09時52分49秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>切り刻んだ」そこにあるのは、無(asat・未分の原始状態。)とか。

つまりこれは、絶対個々の存在認識、
「平等覚」はここに成るかな。


>関係を断ち切るもの  投稿者:jyugegu  投稿日: 5月31日(土)09時47分24秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

おはよう御座います。

>互いが、互いを切り捨て、切り刻みあうことの他に地獄ってあるんだろうか?

>「地獄一定すみかぞかし」という親鸞さんのコトバ
>ほな「地獄」って何とお考えで、どこにあって、何したら行くのと逆にお訪ねしたいです。

「親鸞さん」にお聞きに成られるのが肝要かと。

因みに「切り刻んだ」そこにあるのは、無(asat・未分の原始状態。)とか。


関係を断ち切るもの 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)09時22分09秒 proxy211.docomo.ne.jp

で、「救われた」でも「悟りを得た」でも「信心を頂いた」でも「一切は幻想であるのだ!」でもいいんですが。ある種の解放された経験や感覚が、それを持って自分とは違う感じ方・考え方をする他人を冷たく厳しく断罪してしまうモノサシにはなってないんやろか。互いが、互いを切り捨て、切り刻みあうことの他に地獄ってあるんだろうか?


♪誰も知らない素顔の八代亜紀〜 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)08時41分43秒 proxy202.docomo.ne.jp

嘉門達夫がかつて八代亜紀をやゆしてましたが。八代亜紀は「私は神に誓って厚化粧ではない!」と宣言し勢い余って「私は生まれてこのかたウソをついたことがない」と某番組でいうてはりました。う〜ん。jyugeguさんがいう、人生一度きりなのに坊さんたちは人をたぶらかせて(物語にしか過ぎないものを信じさせて?)地獄に導きあまつさえ金をとる、と。その話しは「地獄一定すみかぞかし」という親鸞さんのコトバをもとにしてゆうておられるように思いましたが、ほな「地獄」って何とお考えで、どこにあって、何したら行くのと逆にお訪ねしたいです。


聖徳太子 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)03時35分50秒 proxy201.docomo.ne.jp

で、何やかやで結構オモロかったかも(笑)。まあ、そうやって独りの人が十人分しゃべりはるから「わしは聖徳太子ちゃうわいっ!」と思わず怒ったりなんかして(笑)。で、聴こうにも針飛びや(笑)妨害電波(スカタン波?)というか、挟雑物がはさまりすぎで聴きとれん感じがしました。流れ星さんのいわば「コンビニ聞法」には限界がある発言とか、田口ランディさんの引用で「ネットは各人のバックグランドが見えない」も重要な指摘だと思いました。


100%ピュア 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)02時34分06秒 proxy201.docomo.ne.jp

で、そこいらへんで「腹をまったくたてなくなることが悟り」とかいってたジャンクさんに、違和感を感じて「じゃあ、そんな無理難題おしつけて、坊さんを値踏みするならあなたが、今日からその修行を始めたら?」といったら怒ってた(笑)


おじやにするかうどんをほうりこむか 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)02時17分09秒 proxy211.docomo.ne.jp

で、ぐっちんなんぞは、どうあがいたって一生、自分の行いに「意味」を与えるでっちあげ、あるいは妄想にふけるのがやめられないなら、その都度その都度、自分以外の声を聴かせてもらいましょうでええんちゃうん?ですわ。


意味づけ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)02時03分08秒 proxy219.docomo.ne.jp

○○の結果を得るためには、××の行為を成さなければいけないのだというカタチの前提を人は意識に刷り込まれているような気がする。けれど○○って何かがわかっとらんのやと思いますが。まあ、わかりようがないか。


病み鍋奉行が行く 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月31日(土)01時46分14秒 proxy213.docomo.ne.jp

赤時さんがテルゼさんに聴こうとしてた「贖い物語」に強くひかれてました。何かことさら自分が、悪だと自分を責めてばかりいることからの解放感があった。にもかかわらず、またまた他人に「行」を求めてしまいがち(笑)。ジャンクさんが聴き出そうとした「お題目とお念仏の違い」。これには、法華経の素養がないぐっちんには、答えられませんがMANU.さんがいわれるお念仏は呪文じゃない、が絡んでくるかな?と。で、地獄というのは実体的世界を意味してるのではないと思いますが、何か地獄行きを避ける「行(行為)があるのかに拘ってはんのかと


愛の無常 投稿者:林遊  投稿日: 5月31日(土)00時47分10秒 cf3000.mitene.or.jp

 主よ、私は思いこんでいました。 私の心が愛に漲っていると。
でも心に手を当ててみて、 真実に気づかされました。

私が愛していたのは、他人ではなく、 他人の中の自分を愛していた事実に。
主よ、私が自分自身から解放されますように。

 主よ、私は思いこんでいました。私は与えるべきことは何でも与えていたと。
でも、胸に手を当ててみて、真実がわかったのです。

私の方こそ与えられていたのだと。
主よ、私が自分自身から解放されますように。

 主よ、私は信じ切っていました。自分が貧しい者であることを。
でも、胸に手を当ててみて、真実に気づかされました。

実は思い上がりと妬みとの心に、私がふくれあがっていたことを。
主よ、私が自分自身から解放されますように。

                       「マザーの言葉」

「私が自分自身から解放されること」、仏教ではこれを「悟り」「目覚め」と
いうのかもしれないなどと思っています。
我にあらざるものを我とみなし、私でないものを我とする、その我の心が構築
する客観対象の否定が、釈尊の示される「非我」なのでしょう。

しかし、小生のような馬鹿たれは親の死さえも、自らの妄念を論述する道具と
してしか見出しえなかったりしますです。人が生きて死んでいくということに
小生にとっての「意味」を見出そうとする愚かな考えだったりします。

「生きるものは生かしめたもう、死ぬるものは死なしめたもう、我に手のなし
南無阿弥陀仏」と詠って下さった方がいらっしゃいましたが、生死の「意味」
を私に求めるのではなく、私ではない私に聴いていく道もありそうではないか
などと思うてたりします。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・

ps
赤肉団上のほにゃら云々と仰っていた方はアホだと思う。きっと辞書に縁がない
現代知識人だと強く思ふ。


投稿者による削除 投稿者:林遊  投稿日: 5月31日(土)00時46分53秒 cf3000.mitene.or.jp

****
編集済


愛するものを失って 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月30日(金)22時35分18秒 CTS219103106067.cts.ne.jp

私は、超能力や超常現象、
予言(預言ではない)や占い、
密教などの神秘主義や禅宗などの悟り。
これらのものを全く信じていません。
けれども、昨年、愛するものを失ったとき、
今ごろはどの辺を歩いているのだろうと思い、
ひとりぼっちで、こちらを振り返る顔が見え、
一緒に歩いてあげたいと思い、涙がとまりませんでした。


>京の茶漬 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月30日(金)21時31分46秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>京都では長居する客に対してそろそろ帰って欲しい時に「まあ、お茶漬でもあがってって。。。」といったそうです。

禅寺での精進懐石の最後に、御焦げの茶漬けが出るよう。
これは、ご飯釜に残された焦げ飯を洗った、それを出すようです。
つまりご馳走・まかないは是でおしまいということを表すかと。

尚食後食器いっさいをお茶で荒いそれを飲むことは当然であり、
このことで水の汚染の3分の一軽減されるとか。

尚「懐石」の由来は、
托鉢での昼前の一食であった僧の、次の日の食にありつけるまでの空腹を、
今日「懐炉」で腹を温め某かの痛みを軽減する、
その懐炉の役割をインドのこと、陽光に暖まった辺りの石を懐に抱き、
空腹にむずかる腹の痛みを紛らせた。
これ「懐石」の云われとか。
禅寺に夕飯を「薬石」というよう。

つれづれ、ままに

合掌。


>林遊さん 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月30日(金)09時00分33秒 proxy214.docomo.ne.jp

古漬けは確かに美味しいものです。けれど浅漬けも捨てがたい味がある。私はそう思います。林遊さんとこのおつれあいさんにも分かって頂ける話しだと思うんですが(笑)


京の茶漬 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月30日(金)08時43分23秒 proxy206.docomo.ne.jp

>三吉さん  落語の演目にもありますが、京都では長居する客に対してそろそろ帰って欲しい時に「まあ、お茶漬でもあがってって。。。」といったそうです。ぐっちん、ケータイから書き込んでいるのでどなただったかが不明ですが。「他人へのあてこすりはやめること」と確かテルゼさんにおっしゃっておられたようですが、ユーモアとは決定的に相手を傷つけてしまうことなしに遠回しに批判する優れた表現だと私は思います。あなたが私に使った○ーメンやなみださんへの○らせ発言は思慮不足といわざるを得ない。桂米朝師に学ばれる事をお勧めします。


きゅうりの減塩生活 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月30日(金)07時28分14秒 proxy204.docomo.ne.jp

>らくりんさん ズキズキズキ。。。またそんな土俵ギワにいるもんに対して、塩をもみ込むようなツッコミをされてからに。。。(笑)


>ぐっちんさま 感謝です 投稿者:songbird  投稿日: 5月30日(金)01時18分47秒 e146073.ppp.asahi-net.or.jp


ぐっちんさま、続きの投稿を読ませて頂きました。有難うございます。
ネットの世界って、本当にいろいろ起こるものですけれど、こうしてお話しを伺えると、本当に
有難いご縁を感じます。

>まさに老若男女、宗教をもっているかもっていないかにかかわらず、人は人知れず悩み苦しみ
>悲しんで、誰にもその姿を見せずに生きているんだ、自分だけが辛い思いをしてるんではないの
>だということを本当に知らせていただきました。

ぐっちんさまの仰る通りですね。生きていく中で、どんな方でも様々な悲しみに向かわれていて
その日々を過ごしているのだと改めて、その事をお教え頂いたように思います。本当にこの世は
涙の修行をさせて頂く所なのかも知れませんね。そして、涙を知りながら、人は強くさせて頂き、
また優しさを教えて頂けるのかも知れませんね。

> これには、ご先生方も当惑なさったことと思います。慰めの言葉が欲しいのか、それとも体よ
>く本(定価二万円!)を買えということなのか?(笑)。この行為におよんだことの背景には、
>やはり「畏れ多い先生方」に振り向いて欲しい、ということが強くありました。それは、愛憎
>ない混ぜになった気持ちであったことは否めません。自分に注目してもらいたい一心で、それが
>却って失礼なことになってしまったのではないかという思いでいっぱいです。

いえ、多分、先生方は「すごい人から手紙が来た!」と思われたでしょう。だって、その熱意と
いうか、とにかく熱いパッションが伝わってきますから、今でも(笑)。私は、本は買えないかも
しれませんが、そのチラシが欲しくなりました(笑)。もう無いですよね(笑)?





>>独り言 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月29日(木)13時08分16秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>そのうち気が向いたら、テルゼさんやjyugeguさんとこ遊びに行こうっと。熱烈に歓迎してもら
>えるかなあ?

「熱烈」かどうかはその基準がいろいろでしょうから、なんとも。
まあ「至道無難 唯嫌揀択」の言葉も在れば、

その精進にあるつもりの私、

ただ此処半月ほどは、田植えの作業で肉体労働、
まともな対応が適うかどうか心もとなくはある。

尚掲示板は
http://free.has-u.co.jp/cgi-bin/free/culture/u-bbs.cgi?room=zqrms
ここです。
まだ産声を上げて日も浅いこと。
多々不行き届きはご寛容の程。

今朝からも田に出ていました。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


ぐっちんさん 投稿者:らくりん  投稿日: 5月29日(木)10時34分38秒 pro2.incl.ne.jp

>それをいっちゃあ、またまたおしめぇよぉ(笑)
まさか、もう
「触れられたくない過去の古傷」の一つになってしまったんじゃないでしょうね。(笑)


>独り言 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月29日(木)07時48分55秒 proxy217.docomo.ne.jp

そのうち気が向いたら、テルゼさんやjyugeguさんとこ遊びに行こうっと。熱烈に歓迎してもらえるかなあ?


少し裏話を。。。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月29日(木)00時59分42秒 ns.jjclub100.com

 五人の先生に手紙を書いて送ったのですが、実はそこに別のものも同封していました。それは、その当時働いていた職場で作った、介護に関しての本の宣伝チラシでした。私も共著とい
う形で参加しましたので、落ち込んでいる時の唯一の明るい材料でしたし。また、「学者先生た
ちは、このような現実にアプローチすることを怠っているのではないですか!」という一種の批
判めいた意味も込めてありました。

 これには、ご先生方も当惑なさったことと思います。慰めの言葉が欲しいのか、それとも体よ
く本(定価二万円!)を買えということなのか?(笑)。この行為におよんだことの背景には、
やはり「畏れ多い先生方」に振り向いて欲しい、ということが強くありました。それは、愛憎
ない混ぜになった気持ちであったことは否めません。自分に注目してもらいたい一心で、それが
却って失礼なことになってしまったのではないかという思いでいっぱいです。
編集済


>songbirdさん 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月29日(木)00時30分42秒 ns.jjclub100.com

 お心遣いありがとうございました。また、励ましをいただく側となってしまいました(笑)。
私も、自死で亡くなられた方、あるいは死産でお子さんを亡くされたご遺族のお葬式で導師を
勤めさせていただいたことがありまして、その度になんとも自分の無力さを痛感いたしており
ました。songbirdさんの働いておられた現場とは異なっておりますが、お気持ちは、少しは
わかるつもりでおります。

 さて、先ほどの話の続きをさせてください。ある日、一通の郵便物が届きました。それは、
くだんの手紙を送った先生のお一人からのものでした。その先生の娘さんが、ガンに冒され
余命幾ばくもなく、それで娘宛ての手紙を書いたのだけれど、君にも読んでもらいたい、と。
私は、なぜ自分にそういう大事なものを送ってこられたのだろうと思いながら読みました。

 その内容は詳しくは申せませんが、娘さんに「この世ではお別れの時が近づいたけれど、
またかの国で再会しよう」と呼びかけられていた手紙でした。先生は、さる大学の先生でおら
れ、死後の救いというようなことは著書の中でも展開されてはおられませんでした。けれど、
娘の死というものに直面した今、そういうことをいわば「馬鹿にしていた」自分がなんとおろ
かであったか、という意味のことも書いておられました。

 また、実はある先生からも翌年、年賀状をいただきました。「あの時、返事できなくて誠に
申しわけ無く思っています」と添えられていました。先生も、うかがうところによると身辺に
激変といってもよい生活上のお変わりがあったそうでした。そして、年下の同級生の女性も
「私も実は、手ひどい失恋をしたとき、ホントにお風呂場でかみそりもってたことある」と書
いてありました。

 まさに老若男女、宗教をもっているかもっていないかにかかわらず、人は人知れず悩み苦しみ
悲しんで、誰にもその姿を見せずに生きているんだ、自分だけが辛い思いをしてるんではないの
だということを本当に知らせていただきました。

 ひろさちやという仏教思想家の先生は「人間はこの世に、涙の修行に来ているのだよ」と何か
の本に書いておられました。以前はわたしも、こういう表現は何か「センチメンタル」な響きが
してあまり好きな言葉ではなかったのですが、つれあいを亡くして途方にくれていたとき、ふと
この言葉がよみがえりました。

 なんだかとりとめもないお話で、とてもsongbirdさんのおっしゃられる真宗のわかりやすい
お話にまでほど遠いのですが、ひとまずこれで失礼いたします。ありがとうございました。
編集済


>ぐっちんさま 投稿者:songbird  投稿日: 5月28日(水)23時00分25秒 i204049.ppp.asahi-net.or.jp


今晩は。アクセスするのが遅くなり、今、投稿を読ませて頂きました。
お声をかけて頂き、本当に有難うございます。お元気にまた戻ってこられたのは、
少し前に知っていましたが、私宛の投稿があってびっくりしました。
お辛い事を書いて下さってー。どう言葉を綴ればいいのかと少し考えています。

自死は、今、私自身にとって、大切な方達が直面されている問題です。
私の友人の一人は、弟さんを20年以上前に自死で亡くされていますが、
友人がその事を語ってくれたのは、知り合ってだいぶ経ってからでした。
今でも、心の傷も痛みも消えないとメールにありました。

看護婦だった頃に、自死遺族の方と接した事もありますが、
私の中では、ケアが出来たという思いは持てませんでした。
白衣の襟ぐりを家族の方に掴まれて、体を何度も拳で叩かれながら、
見つめた涙の重さは、何年経っても、私は忘れられませんー。

自分の中に言葉があるようでもあり、無いようでもありー。
全くからっぽのような自分の不甲斐無さを感じる事が多い日々です。
私自身が、その方達にどう寄り添えるのかとー。
考える日々を、ただ、ただ過ごしております。

こんな私にお話し頂けた事、感謝しています。
ぐっちんさま、有難うございます。
投稿の文章でしか、私はぐっちんさまのお気持ちを思う事が
出来ませんけれど、その友人の方が仰ったようにー。
奥さまは「幸せだった」と仰る気がします。
投稿を読ませて頂いて、私はそう感じました。

この私の投稿の中に、ぐっちんさまのお心を
傷つける言葉が、どうかありませんように(祈)−。


話し手と受け手には深い溝が。。。 投稿者:三吉  投稿日: 5月28日(水)21時45分37秒 ca9d71-033.tiki.ne.jp

えとですね。上記があるわけです。
往々にして「熱烈な(。♡‿♡。)愛」や「ただの愛」も受け手には迷惑だったり
しますが。。。らくりんさん流「愛A」「愛B」という言葉遊びを無視すれば、
要請される愛なぞは「単に私をそのままで受け容れてよん」だったりするわけです。
ヤスパース流に言えばコミニケーションは「愛として闘い」なわけで、
まあここの批判者たちを庇いますと、
彼らの批判にも「愛」があるわけです。ある人などは「愛の実践」と位置づけて
現代の念仏者批判をされていたわけです。
だが批判されたほうは「愛がない」と感じる。
本当に愛がないのか、感じない受け手に問題があるのか、
出し方が下手なのか、演技不足か、読み手の根性がひんまがっているのか。。。
いちがいにはいえんかも。。。と。(笑)

でですね。「あなたは主観的に自分には愛があると思ってられるのはご自由
なのですが、受け手に必ずその愛は伝わるものなのか。」
「あるいは愛を受け手が感じたとして、迷惑だとしたら、それはなぜか」
「語り手に問題があるのか」「受け手に問題があるのか」「両者なのか」

うーーーむ。独り言ということにしとこ(笑)
編集済


だから。。。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月28日(水)21時28分36秒 proxy202.docomo.ne.jp

「熱烈な」と書いたでしょ(笑)


まあだ 投稿者:三吉  投稿日: 5月28日(水)21時17分53秒 ca9d71-041.tiki.ne.jp

誰もに感じるのだが
「私には愛はあるが、あなたにはない」

うーむ。そんなもんだ トボトボ


↓に対応 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月28日(水)21時01分17秒 proxy207.docomo.ne.jp

熱烈な愛を感じぬゆえ、回答を控えさせていただきます(笑)


は? 投稿者:三吉  投稿日: 5月28日(水)20時33分06秒 ca9d71-016.tiki.ne.jp

また途中で三吉さんに「人の批判は、ありがたく受け取れ」との主旨の発言がありましたが。

これは具体的には私のどの発言で誰に対してされたもの?
ん?私が誰かからされたということ?

三吉さんの発言には、色々僕なりにも問題を感じますが(笑)

みんなさぁー、具体的じゃないのねぇー。だから意味不明。
せいぜい態度が悪いとかなんとか。。。なんかさぁ。。。
それほど皆さんご立派な方たちなのん?(笑)

庇って頂いてるようなのですが、名前出てましたので、あしからず


>らくりんさん 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月28日(水)20時28分35秒 proxy211.docomo.ne.jp

それをいっちゃあ、またまたおしめぇよぉ(笑)


(無題) 投稿者:らくりん  投稿日: 5月28日(水)16時54分30秒 pro2.incl.ne.jp

ぐっちんさんおかえりなさい、
久々の大ブレイクですね。
ぐっちんさんにお留守番してもらうと管理人としては有り難いのですが、
勉強の方は大丈夫ですかい?
編集済


>songbirdさんへ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月28日(水)12時46分06秒 usen-219x123x170x249.ap-US.usen.ad.jp

 はじめまして。まだ読んでおられますでしょうか?私は、過去二年ちょっとここでカキコを
大量に続けているので、常連さんには「ああ、またあの話か」と呆れられそうなのですが、
自分の思いを今少しあらたにしましたので、ご参考にお読み願えればと思います。

 死別の悲しみ。それは愛別離苦というまぎれもないあらゆる「生きる者」の苦しみ、
悲しみです。私も五年前につれあいを亡くしました。自死というかたちで。彼女が精神科の
クリニックに通っているころからつきあってまして、あるいはそのような形で最後を遂げる
かも知れない、という漠然とした予感はあったのですが、やはりそれが現実となるとショックは
とても大きいものでした。

 私もお坊さんのはしくれですが、彼女とつきあい出したころから僧侶の道はひとまず、断念
していた矢先。思い余って、過去に知り合えた仏教のお坊さんのみならず(私は寺院出身では
ないので)キリスト教の神父さん、牧師さん(どの方もかなり高名です)にも手紙を送って、
「彼女はどこへ行ったでしょうか?わたしは僧侶でありながら、自分の妻をも救えませんでし
た。教えて下さい。彼女は救われているでしょうか」と泣き叫んで訴えたことがあります。

 5人の方に手紙を送りましたがどなたからも返事らしい返事はいただけませんでした。ところ
が、そのころ介護士を養成する学校で知り合った、自分の娘のような年頃の女性と友達になって
いましてメールや手紙のやりとりをしていたのですが、そんなことから彼女に愚痴をこぼしてみ
ました。

 「私は、奥さんしあわせだったと思うよ。こんな人生経験少ない小娘がいうのもなんだけど、
ぐっちんさんせいいっぱい彼女のこと思ってたじゃない。私が奥さんだったら、ホントしあわせ
だったよ、ありがとうっていうよ」っていう長文の手紙をもらいました。まあ、彼女には「ぐっ
ちんさんは、私のお父さんより私のことを理解してるからな。コワイ」なんてこといわれてま
して、なんでも話せる友達でしたからとてもありがたかった。

 それに比べて、やはり高名な先生方は恐れ多く、「なんでもはなせるともだち」ではありませ
んでしたから、私のこれまでの歩みやら妻のことやら何もご存知ないところへ、いっきにわっと
手紙を書いたものですから、面食らわれたのかも知れません。  (続く)
編集済


覆面・架空討議、もしくは仮想・武闘会 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月28日(水)09時47分58秒 proxy214.docomo.ne.jp

かくとうぎ(格闘技)とぶとうかい(舞踏会)のシャレです。思いついたんで、ついでに書いときました(笑)


管理人さま差出がましくすいません 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月28日(水)08時44分25秒 proxy205.docomo.ne.jp

また途中で三吉さんに「人の批判は、ありがたく受け取れ」との主旨の発言がありましたが。三吉さんの発言には、色々僕なりにも問題を感じますが(笑)一貫して彼は彼なりの主張を述べられてました。それに対して批判された方は「あなたなら、どのように応えますか」という問い掛けには、ついぞ応えられずじまいでした。これでは、第三者の野次と受け取られても仕方ありません。さてと。では、ぐっちんに「愛ある批判」をお待ちします(笑)


天下の逃げ道(演歌の花道のもじり) 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月28日(水)08時27分45秒 proxy212.docomo.ne.jp

人の文章の揚げ足を(その人なりの批判?)とったあと、自分が批判されれば、すっとぼけてあたかも他人に向けられたもののように同じ「揚げ足とり」にして返す。また「あれは、冷やかし半分。半分と書いたでしょ」とか。「たから<ほぼ>と書いたでしょ」とか「そのあとに。。。とあるでしょ」とかいった応えに終始。「自分は坊さんではない」「自分は学者ではない」と断わりを入れる。およそ責任ある応答をしようという姿勢は、これらからは感じられません。


捨て台詞こいうた 投稿者:カブトムシ  投稿日: 5月27日(火)20時42分52秒 lyra.mula-net.com

満足を与えるものはヤクか食糧か
与えられるものよりも満足を得る心の違いか
満足を与えるものは言葉か態度か
与えられるもので果して何が満たされようとするのか
今日の問題は〜〜その一点
捨て台詞は自らの心に降る冷たい雨か
今日の問題は〜〜傘が無い
でも捨て台詞はきもちいい〜〜。
僕もいっぺん言ってみたい〜〜〜
今日の問題は〜〜傘が無い
捨て台詞は自らの心に降る冷たい雨か
阿弥陀さんには見えている〜〜見えている
隠したいと思う僕の一瞬の心を〜〜
君がどんなに優しくとも〜〜〜
僕には傘がない 冷たい雨が〜〜
そうだ〜〜そうだ〜〜  お見通し〜〜
無駄な抵抗は止めよ! ホールドアップ!


もちろん 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月27日(火)20時38分34秒 proxy211.docomo.ne.jp

他の宗教を信仰しておられようと、教団に所属しておられなくとも、また信仰をお持ちでなくとも。自分の生きる場所から、そしてその反響が自分に直接跳ね返ってくる力強いコトバでないから、何かのプレゼン程度にしか、ぐっちんには聞こえなかった。


批判の作法 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月27日(火)20時25分10秒 proxy215.docomo.ne.jp

誰も書かれないようだから、どんどん書きます。さて、今までの流れを読んでてぐっちんつまんなかった。それは、一言でいって、批判に愛がないから。批判の内容を批判する人がいっしょに背負っていこうという姿勢のものじゃないからおもろくない。単なるいちゃもん。仏教を愛するがゆえに、真宗を愛するがゆえに、教団を憂うるがゆえに止むに止まれぬ所から出たものじゃないから誰の心も打たない。外からの、野次にしか響かない。


「なすびの懸賞生活」 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月27日(火)08時28分36秒 proxy204.docomo.ne.jp

「進ぬ!電波少年」というテレビ番組で4年程前にやってた企画。なすびという若手芸人さんが一室に監禁されて、ただひたすら、雑誌などの懸賞の応募ハガキを書き、当選したモノだけで暮らすという一種のサバイバル・ゲーム。「なすび」は、アクがキツイからアク抜きして食べるかも知れへんけど、まるまるアク分抜いてしもたら、「なすび」の味しません。なんか、ミョーな勘違い多い。


断筆宣言? 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月27日(火)06時59分52秒 proxy213.docomo.ne.jp

筒井康隆気取り(笑)断じて、「絶筆」では、ありません(笑)


ぐっちんさん、どうなっちゃったの? 投稿者:“Chie”  投稿日: 5月27日(火)00時10分18秒 i197040.ppp.asahi-net.or.jp

相変わらず、ヒーローの話ししてますから、
来てください…

今度の日曜、ライブだし…


ダ○キン多摩よりお知らせ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月26日(月)15時21分36秒 proxy217.docomo.ne.jp

昨日にて、キレイで清潔・美しく清々しい心を磨くクレンリネス・キットの無料レンタル期間は終了させていただきました。ご使用有難うございました。従業員一同、感謝申しあげます。


しっかし、怒るでぇ〜(>_<)やっさん風 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月26日(月)13時12分41秒 proxy218.docomo.ne.jp

こらぁ〜現場を知らん学者大臣、竹中平蔵。これやったら鬼平犯科帳やなくて、竹平なま半可口庁やないかぁ。やれ、タマちゃんがどうの、白装束がこうの、愛子さまがゆうてるうちに、希代の悪法が、次から次へ国会通るやおまへんか!もっとも、他人にばっかりおねだりでぇ、自分がルール、○○取り締まり法違反もどこ吹く風の御仁には、馬の耳になんとやらかいな!


グラビア・アイドル、仲根かすみ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月26日(月)12時17分51秒 proxy212.docomo.ne.jp

ぼくも、かすみを食って生きたい〜・・・って、我ながら相変わらずアホやなぁ・・・


♪飛んで飛んで飛んで飛んで飛んで・・・ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月26日(月)11時55分21秒 proxy215.docomo.ne.jp

回って回って回って回るうぅぅぅ・・・ っていう歌が、その昔ありましたが、「このレコード、針飛んどんかい!」と思ったのは、私だけでしょうか。


道頓堀川  投稿者:カブトムシ  投稿日: 5月26日(月)10時58分47秒 lyra.mula-net.com

畳上の泳ぎより 水入る泳ぎの楽しさよ道頓堀川


某書より 投稿者:らくりん  投稿日: 5月26日(月)10時35分54秒 pro2.incl.ne.jp

「これこそ真実の宗教だ」と名乗った宗教家が、人間の一番底辺で人間を押さえたのではなくして、一番の俗である一点で人間をとらえようとしている……。

※「悟った悟った」と騒いでいる者が、とんでもない浮かれポンチの俗物だったりしてね。
  あれだけお布施のことばっかり言ってると、
 その姿は「だれかおれにもお布施くれ〜。お布施欲しいよ〜」
 というふうにしか映らないことに気がつかないのかしら。
 お悟りになられた方ともなれば、
 まさかご自分ではそう思ってはいないのでしょうが、
 そう思ってなくても、そう映ってしまうからおもしろい。
編集済


捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ道頓堀川 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月26日(月)09時35分18秒 proxy220.docomo.ne.jp

阪神タイガース優勝バンザーイ\(~o~)/!!   まあ、犬やネコを見てても子供の頃は、良く遊ぶ。身体の成長に合わせて、環境もそれにつれて変化していくんでしょうね。見るだけでオソロしかった水。いったん泳ぎを覚えたなら、その水が新しい心地よさ、愉しさ、悦びを味わせてくれる。遊びは、学び。好奇心が、世界を、次の扉を開いていくんですよね。早くにオトナになりきっちゃうのがつまんないのは、アップデートしないHPみたいなもんです。


こあ、ぷかぷか♪ 投稿者:らくりん  投稿日: 5月26日(月)08時38分19秒 pro2.incl.ne.jp

みごとな浮きっぷり。


ああ、こあ〜 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月26日(月)00時10分15秒 proxy214.docomo.ne.jp

ここって、いまや年商十数億円です。子供の頃はプラモ好きで○宮模型に、良くお世話になりましたが、あの大会社にケンカ売るんですからたいしたものです。まあ、思うに関心事。昆虫図鑑が、十代でアイドル名鑑に代わり、二十代で上方芸人名鑑へとおじん臭くなり、三十代で現代思想用語辞典に変わった。ただそれだけの話しです。それから小学校の時、ウルトラマンの今でいうコスプレして遊んでました。体操服の古着に赤マジックでラインを引き、頭は新聞紙でハリボテを作りそれを被って通行人を驚かしていました。アホなんは、今も昔も変わらへんなあ。


食玩(しょくがん)のひみつ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月25日(日)23時11分30秒 proxy212.docomo.ne.jp

まあ、グ○コのキャラメルには、昔から、おまけがついててよく集めたし、関係ないけど、永○園のお茶漬の浮世絵カードもそろえたなあ。広重の「東海道五十三次」とか。ああ、おまけの玩具が主になり、ラムネみたいな駄菓子が従なのが、業界用語で食玩といいます。このメーカーが海○堂といって大阪の門真、パナウェーブやなかったパナソニックの松○電器の近所にある町工場です。ここって知る人ぞ知る、知らん人は知らん、マニア向けのガレージキット(手工業制模型)を作ってたとこです。ってまたマニアックでコアーな話しやなあ。


お懐かしやChie さん 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月25日(日)21時47分52秒 proxy207.docomo.ne.jp

お久〜。あなたの名前あるから、ついつい(^.^)出しましたぁ。最近、軽音さあくるのサイトご無沙汰だわぁ。相変わらず、プロレスと音楽とヒーローモノで盛り上がってるぅ?ここの常連さんでは、流れ星さんとちょっと趣味かぶるかもよぉ。ぐっちんは、コンビニで売ってるフィギュア集め、たまーにやるくらいでぇす。けど、おとといその手の店行ってたら、グリコがキャラメルのおまけにつけてたウルトラ・シリーズでウーっていうの買いました。あの話しは、哭けるよね。


まあ、どっちみち、このあたり? 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月25日(日)16時36分25秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

まあ、このあたり

いいところへ落ち着いたのでは有りませんか。

>自己保身

辿る道が右回りか左回りかの違いのよう、
鍵十字か卍かの違いに現わされるような。

合掌。


まあ、どっちみち 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月25日(日)15時55分20秒 proxy209.docomo.ne.jp

家内(ヨメハン)安全の自己保身のお念仏であることには、なんらかわりおまへん。真実は、アミダさんの側にあるのだから。


難しいことやめました(笑) 投稿者:林遊  投稿日: 5月25日(日)01時02分34秒 cf3000.mitene.or.jp

ども、林遊@なんまんだぶつです。

>一石を投じて、アカデミックな雰囲気を回復したいと思いました。

アカデミックかどうかは知りませんが、「言葉」に対する言葉の
応酬ごっこはあまり読み手としては面白くないですね。

小生はネットで所論を述べたり、BBSで書き込みをする時に、家族
が読んで理解できないようなことは書かない、をモットーにしてい
ますが、家のかあちゃんが読んで判らないような事を書き込みする
人はアホでしょうね(笑)。

で、ネオコン・ブッシュがイラク人殺戮に血道をあげることに関心
を寄せるよりも、
「今日はお父さんの(命)日だけど、阿弥陀経にする?」という
家(うち)の嫁はんに関心を持っていたいと思うていますです。

「殺したくない!殺されたくない!殺させたくない」という運動が
結局何になったのか。似非宗教家のアリバイ工作、宗教家としての
対外的保身にすぎないのではないかと思う昨今ではありますです。

と、いうわけで大行である『なんまんだぶつ』の行を真面目にせん
かい!などと思うているわけですが、世の賢き知識人といわれる方
ほどお念仏せんねぇ、耳に聞き口に誦する「なんまんだぶつ」とい
う法よりも、信心という自らがこしらえたありもしない妄想に執り
つかれているんじゃろか、困ったもんじゃな(笑)。

自らがブッダ(目覚めた者)になろう。自利利他の行を実践して
いこうという仏に成る(成仏)ということを抜きにしては「仏教」
はなりたたんですよん。

仏教とは
仏(目覚めた方)の説く
仏についての
仏になるための教えでありましたですね。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・


はい 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月25日(日)00時52分00秒 CTS219103106067.cts.ne.jp

勉強になります。
反射的に書き込み、おおざっぱすぎたと反省しています。
三吉さんが『歎異抄』を例示された意味を洞察できていませんでした。
『選択集』と『和語灯録』の差異に鈍感でした。
『選択集』は、親鸞聖人に筆写を許されたように
法然聖人によって自著としていわば公認されていたと思います。
けれども、リクツによる説明の書という性格が強く、
ホンネが自己主張されていないと勝手に思っています。
念仏の根拠を易行としているあたりですが。
編集済


まあ 投稿者:三吉  投稿日: 5月24日(土)23時57分46秒 ca9d71-185.tiki.ne.jp

像末だからまだ可能は、聖道門の人に配慮した建前で、
本音は、みんな成仏道は無理にあったという解釈は可能かもと
思いますが。。。

思想的には私は此岸での成仏は自分や仲間のテーマではないと思っていただろうし、
それをテーマにする人には当時いたわけで、
「おまえら、無理やで」というより「勝手にすれば」という立場じゃなかろうかと
思ってたりします。


うんとですね 投稿者:三吉  投稿日: 5月24日(土)23時33分50秒 ca9d71-185.tiki.ne.jp

正確には覚えてないのですが、『選択集』は弟子が纏めたとはいえ、
法然さん生前中の作品です。ですので一応、法然さんも目を通していたのだと
思います。
『和語灯録』は、法然死後しばらくたって、鎮西派の良忠系統の了恵編で
『西方指南抄』は親鸞の関東門徒系譜の編によるものですが、これの19年後とか
聞いたことありますので、『選択集』と同列と見なすのはどうかと。
『和語灯録』を扱う場合、学者さんたちは、それぞれの立場から他本と比べて
この語は法然さんオリジナルと論証した上で使用されているように思います。

ただまあ最終的にはおっしゃられるとおり、読み手の思想性が問われていると
思います。


法然聖人の本意 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月24日(土)22時49分39秒 CTS219103106067.cts.ne.jp

林遊さん、ご心配いただいて恐縮です。
一石を投じて、アカデミックな雰囲気を回復したいと思いました。
引用した『念仏往生要義抄』は、短文ですから、
よもや読まずにRESされることはあるまいと思いました。
読まれれば、法然聖人の主意は明白で、
私が問題にした成仏説とは直接関係がありません。
つまり、法然聖人においては、成仏否定は当然すぎるほど当然の
隠れた前提になっている、
ということが読み取れるかどうかを問題としたつもりです。

三吉さんご指摘の二次史料の件ですが、
『和語灯録』に限らず、主著と見なされている『選択集』も
弟子による聞き書きと言われています。。
法然聖人の直筆の論文は極めて少ないことはご存じのとおりです。
ですから、法然聖人の本意を探るのは、
読み手の思想性が問われると思っています。


『和語灯録』 投稿者:三吉  投稿日: 5月24日(土)20時00分26秒 ca9d71-152.tiki.ne.jp

は、歎異抄と同じく二次資料ですので、
しかも他の二次資料に(記憶定かではない)法然さんが、
「今はまだ像末だから、努力すれば成仏できる人もいる」(趣旨)
というのも残存しているらしいので、
その一文をもって法然さんが生きたままの成仏の可能性を否定しているというのには
無理があると思います。


>反成仏論余話 投稿者:林遊  投稿日: 5月24日(土)15時45分51秒 cf3000.mitene.or.jp

ども、お久しぶりです。林遊@なんまんだぶつです。

えっと、これ(成仏論薀蓄)ここでやるんですか。

議論に対する洗練されたつっこみはおもしろいのですが、
鸚鵡返しの反語や揚げ足取りの芸風の方が多そうなので
混乱に拍車をかけそうな気が・・・。
小生のような馬鹿馬は痛さのあまり走り出しそうな気が(笑)。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・


>反成仏論余話 投稿者:お留守居役様  投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月24日(土)13時51分12秒 1Cust192.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

お留守居役様さん、はじめまして。

>>しかるに世すでに末法になり、人みな悪人なり。

当時と現在の時代背景はかなり違いますね。
浄土思想とは末法思想なのですか?
だとしたら正法の世が訪れた時、無用の長物になりそうですね。

>法然聖人、親鸞聖人ともに聖道門の即身成仏を否定している
>ということは以前に確認しましたが、

空海等は如何反論するでしょうね。

>悟りの念仏も迷いの念仏も等しいということは、
>成仏と煩悩の区別はないということで、

悟りの域に達したからこそ
「悟りの念仏」「迷いの念仏」は等しいと悟ったのでしょうね。
この求道精神が大切なような気がします。

>成仏そのものを否定していると思われます。

何故、成仏も煩悩も「肯定」出来ずに「否定」なのでしょうね。(煩悩は肯定しているのか?)
即身成仏についても敢えて「否定」する程のものなのか?。
編集済


>反成仏論余話 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月24日(土)12時42分33秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

お留守居役様 様こんにちは。

>成仏そのものを否定していると思われます。

それは裏を返せば、総て成仏にある、ということかも。

因みに
成仏、エネルギーが機らき成立している現象界、この世界そのまま。
このような註釈もものの本に有る様なれば。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


>はじめまして・・・ 投稿者:素浪人 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月24日(土)12時36分09秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

素浪人様ですか、初めまして、

貴方様の投稿を拝読させて頂いての感想は、
なかなか正直な方かな、との感想です。

>私これでも坊主でなんです(笑)。

と公表してのご発言、こりこそは、「無位の真人」としてのご発言かと。

この意識なくしての今日教団集金宗教改革は始まらないかと。

合掌。


らくりんさんへ・・ 投稿者:素浪人  投稿日: 5月24日(土)11時53分49秒 x203.spacelan.ne.jp

わかりました。
ややこしことは御勘弁願いたいので速やかに削除願います。
お手数ですが宜しくお願いします。
時期をみまして寄らせて頂ければ幸いです。
では失礼します。


反成仏論余話 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月24日(土)11時51分07秒 CTS219103106067.cts.ne.jp

法然聖人の『念仏往生要義抄』の冒頭です。
(『和語灯録』にありますが、
 『西方指南抄』には収録されていないようです。)

>それ念仏往生は、十悪・五逆をえらばず、
>迎摂するに十声・一声をもてす。
>聖道諸宗の成仏は、上根・上智をもととするゆえに、声聞・菩薩を機とす。
>しかるに世すでに末法になり、人みな悪人なり。
>はやく修しがたき教を学せんよりは、
>行じやすき弥陀の名号をとなへて、
>このたび生死の家をいづべき也。

法然聖人、親鸞聖人ともに聖道門の即身成仏を否定している
ということは以前に確認しましたが、
この文では成仏一般を否定していると読み取れるかと思います。
さらに、法然聖人は、
>他力の念仏は往生すべし。
と言われ、「自力といふはいかん」との問いに対して、
>煩悩具足してわろき身をもて、
>煩悩を断じ、さとりをあらはして成仏すと心えて
とか
>かかる身にては、いかでか修行学道をして成仏はすべきや。
>これを自力とは申す也。
と述べています。ここから、
「煩悩を断じ、さとりをあらはして」「修行学道をして」
という自力の修行の目的は成仏である、
と法然聖人は判断されていると思われます。
それに対して、他力の念仏の目的(成果)は往生である
と言われているのではないでしょうか。
また、
>問ていはく、心のすむ時の念仏と、妄心の中の念仏と、その勝劣いかむ。
>答えていはく、その功徳ひとしくして、あえて差別なし。
と述べています。
悟りの念仏も迷いの念仏も等しいということは、
成仏と煩悩の区別はないということで、
成仏そのものを否定していると思われます。
編集済


はじめまして、 投稿者:らくりん  投稿日: 5月24日(土)11時41分35秒 pro2.incl.ne.jp

素浪人さんようこそ、
初登場の方に、いきなりこういうことを申し上げるのもなんですが、
いま、この掲示板がかなりややこしい状況になっているのは、少しさかのぼって
読んでいただければ、おわかりのことと思います。
このような状態のところに、
そのようなややこしい質問をなさったら、
どのようなことになっていくか、見当がつきませんでしょうか。
いろいろな人が、いろいろなことを言い出して、
どのような事態になっていくか、容易に想像できます。
もっとも、あえて、その事態を楽しもうとされているのなら別ですが……(∞;)

もう少し、流れを読んで、時期を見るとか、ほかの掲示板で質問なさるとか、
の方がよろしいのではないかと思います。


はじめまして・・・ 投稿者:素浪人  投稿日: 5月24日(土)09時29分38秒 x203.spacelan.ne.jp

はじめまして、皆様方。
専門的な用語や解釈が多くてちょっくら入るのに勇気が要りますね。
自分の勉強不足に汗がたら〜りです。
お笑いになることを覚悟でお聞きします。

前々より漠然と感じてたのですがよければ御教示を願います。
真宗において「信心」とはいかなる境地?いかなる変化が顕れたら
「信心」頂けたとなるのでしょうか?。
頂ける「信心」は、だれしも同じものなのでしょうか?。
ひとそれぞれ、違ったものなのでしょうか?。
坊さんの話を聞くと、「我が身がわかった時、しかもドロドロとした愚かな自分が
はっきりわかった時」に「信心」頂けましたとなる・・とか言ってましたがそうなんでしょうか?
であるなら、それがお助かり、救済にいかに繋がるのでしょうか?。
私ゃドロドロとした自分は嫌だな〜、わかってるから敢えて見たくはないです(笑)
もっとも本当の自分は見てない(逢えてない)のでしょうが・・。
お暇なら御教示お願いします。

私これでも坊主でなんです(笑)。
編集済


>jyugegu さんへ 投稿者:きよきよしく 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月24日(土)09時08分42秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

きよきよしく様、おはよう御座います。

>そうですねえ
>聖者顔をした人が薄ら笑いを浮かべて楽しんでいる
>そんな用に感じてしまうもんで
>(まるっきり煽りですが正直に書きます)

その意識は、

まるっきり

貴方ご自身の心理の吐露かと。
因みにその意志表現を否定するものでなく。
むしろその結果貴方が是まで意識されなかった、
貴方の深層心理に気付かれるかも。

合掌。



>自己レス 投稿者:MANU 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月24日(土)08時57分54秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

MANU様、おはよう御座います。

>どうしても言い訳がましくなっちゃう。

ですね。
皆、生きている、その「言い訳」に終始するのかも。
それを「金」にするかしないかの違いかも。

因みに此処の発言は「金」を出しても、
「金」はとっては居ないはず。
この点「平等」にあるかな?。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


>う、むむむ 投稿者:林遊   投稿者:jyugegu  投稿日: 5月24日(土)08時45分15秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>おまえら、ぐちゃぐちゃ理屈言わんと『なんまんだぶ』
>せんかいと思ってたりしますが、まぁ人は人、どうでも

おまえら、ぐちゃぐちゃ理屈言わんと『布施上げとけばいい』
と思ってたりしますが、まぁ人は人、どうでも

とも聞こえないでもない。

合掌。


>jyugegu さんへ 投稿者:カブトムシ 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月24日(土)08時40分45秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

カブトムシ様、おはよう御座います。

>・・・・さんへ真に正しい批判を願う。

合掌。


jyugegu さんへ 投稿者:きよきよしく  投稿日: 5月24日(土)00時53分57秒 EAOcf-324p125.ppp15.odn.ne.jp

そうですねえ
聖者顔をした人が薄ら笑いを浮かべて楽しんでいる
そんな用に感じてしまうもんで
(まるっきり煽りですが正直に書きます)


お久しぶりです 投稿者:お留守居役様  投稿日: 5月24日(土)00時51分20秒 CTS219103106067.cts.ne.jp

林遊さん、こんばんわ。
お元気そうで何よりです。


自己レス 投稿者:MANU.  投稿日: 5月23日(金)23時44分45秒 218-228-188-26.eonet.ne.jp

昼の自分の書き込みを改めて読み返してみて、なんとなく
言いたい事が中途半端だなと感じてます。

私がお寺以外で法縁をいただいたという事だけで、
そのことでお寺では不足だといっているのではないという事。
ただ、儀礼中心になっていたり、社会活動中心になっている
お寺も知っておりますし、そういうところへ聴聞を求める方
が行かれても、求めるものは得難いだろうとは想像します。

また、布施に関して否定しているつもりはありません。
法施に対して財施を返すのは当然です。
ただ、その法施がおざなりで、財施だけを求めるところも
あることはあるようです。

一方で、布施をするから形だけ法事をして欲しいという考え
方の門信徒が多いのも事実でしょう。

だから、どの形が「良い」「悪い」という考え方は私はする
つもりはありません。
私は私に用意された法の道を進むだけです。

その上で、私は「南無阿弥陀仏」を称えさせていただいてい
ます。

って、やっぱり言葉で表明するには限界があるよなぁ。
どうしても言い訳がましくなっちゃう。

http://homepage1.nifty.com/MANU/


う、むむむ 投稿者:林遊  投稿日: 5月23日(金)22時27分48秒 cf3000.mitene.or.jp

林遊@なんまんだぶつです

ども、ども、管理者のらくりんさん、おひさしぶりです。

で、何やら「言葉遊びごっこ」とやらで他者を屈服させ
ようとするような話題が飛び交ってますですね。所詮、
お互いの作り上げた言語定義の違いに過ぎないんですが、
なかなかうまくいかないものですね。

おまえら、ぐちゃぐちゃ理屈言わんと『なんまんだぶ』
せんかいと思ってたりしますが、まぁ人は人、どうでも
いいのでありましょうね。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・


jyugegu さんへ 投稿者:カブトムシ  投稿日: 5月23日(金)21時45分31秒 lyra.mula-net.com

jyugeguさんの批判が正批判であれば、それは批判される人の心へ
届くはずのもの
受け入れられない批判は本物とは言えないし正批判とも言えない
男と女の交わりも受け入れられて、互いに一つとしての生命が宿る
真理から離れて真価は得られない、願っても願っても得られない
たとえ形がそうなってもそれは本物とは言えない
真に正しい批判というものはそれは批判する者批判される者全面一致
していくもの。
そこに生命が息づく
新しい世界が生まれる
jyugeguさんへ真に正しい批判を願う。


「jyugegu」さんへ 投稿者:MANU.  投稿日: 5月23日(金)14時59分55秒 218-228-188-26.eonet.ne.jp

名指しされましたのでこれだけ応えておきます。
>MANU.様はどうか知らずも。
というのが、私が”布施を「受けない自由」を発揮された坊様”
かどうかという意味なら、否です。僧籍はもっていません。
”布施を「受けない自由」を発揮された坊様に出会った記憶”
があるかどうかという意味なら、私は出会いました。

私が法縁にあっているところはお寺ではなく、聞法集団です。
葬式はしてませんし墓地もありません。
法話よりも座談会中心です。
僧籍をもたれる方も出入りされますが、同じ聴聞者です。
自ら聴聞を求める人が集まる同人会で、檀家はありません。
来る人は拒みません、去る人は追いません。

組織は器で、そこに来る一人一人が求めるかどうかです。
そういう真宗もあります。

ついでですが
出あった記憶がないとしても、知らないだけで、
そういう”坊様”がいないという決め手にはなりません。
ま、実際は人に話を聞いても出会わなければ”いる”という
決め手にもなりませんけどね。

http://homepage1.nifty.com/MANU/


>これを受ける受けないも自由 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月23日(金)13時25分11秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>これを受ける受けないも自由

でも是までに
布施を「受けない自由」を発揮された
坊様に出あった記憶は無い。

MANU.様はどうか知らずも。

合掌。


これを受ける受けないも自由 投稿者:MANU.  投稿日: 5月23日(金)12時11分53秒 218-228-188-26.eonet.ne.jp

不特定多数の開かれた場ならば、
関わる自由もあれば
関わらない自由もあります。

「レスポンスしない=無関心」ではない。
などと考えながら沈黙することもあるんですね。
私の場合。

http://homepage1.nifty.com/MANU/


>(無題) 投稿者:きよきよしく   投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月23日(金)10時51分54秒 1Cust183.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>真理探究も結構だけど
>どうしたイランおせっかいにならないのか
>どうすればうんざりされないのか
>にも少しぐらいは配慮されてはどうですか?

因みに私は独学で他力道を実践している最中ですが、
今のところ何方にも
「いらんおせっかい・うんざり」
と感じておりません。

逆に、
「どうしたらイランおせっかいと感じないですむのか」
「どうすればうんざりしないで済むのか」
そう考えるのも有りなのではないでしょうか?
とはいえこうした発言も人によっては「うんざり」するのでしょうね。

配慮されては如何ですかとのことですが掲示板は不特定多数の方が
ご覧になられるようですし、一人一人に配慮するのは困難ですね。
人それぞれ意識の差があるようですから…


>無題) 投稿者:きよきよしく   投稿者:jyugegu  投稿日: 5月23日(金)01時39分04秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

きよきよしく様ですか、こんばんは、はじめまして。

>真理探究も結構だけど

貴方様には「真理探究」との認識の上「結構」との肯定発言のよう。

>どうしたイランおせっかいにならないのか

「イランおせっかい」部分のご指摘を

>どうすればうんざりされないのか

「うんざり」という意識はどの辺りに

>にも少しぐらいは配慮されてはどうですか?

何処を如何「配慮」すべきか、ご指摘の程。
因みに其処が「真理」から離れてうずき始めた病巣と見られないでもないことを、
ご承知の上。

合掌。


(無題) 投稿者:きよきよしく  投稿日: 5月22日(木)22時26分07秒 EAOcf-392p189.ppp15.odn.ne.jp

真理探究も結構だけど
どうしたイランおせっかいにならないのか
どうすればうんざりされないのか
にも少しぐらいは配慮されてはどうですか?


>>素朴な疑問 jyugeguさん  投稿者:カブトムシ   投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月22日(木)11時17分19秒 1Cust139.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>「疑問」の無い生命とは、停滞そのものでしょう。

そうですね。
真理探究とは己の心に蟠る数々の「謎」「疑問」
を解き明かしていく事とも言えるかも知れません。
で、その結果に「悟りを開く」のでしょうね。

悟りを開けば
「いらんおせっかい・うんざり」
と思うことも有難く感じたりして容易く受け入れることが出来るのでしょう、多分。
編集済


>素朴な疑問 jyugeguさん  投稿者:カブトムシ  投稿者:jyugegu  投稿日: 5月22日(木)09時57分25秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

カブトムシ 様ですか、
はじめまして、

>素朴な疑問が僕には残る

いいのではないでしょうか、
「疑問」の無い生命とは、停滞そのものでしょう。
大いに「疑問」してください。
貴方は生き生きされて居られるかな・・。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


素朴な疑問 jyugeguさん  投稿者:カブトムシ  投稿日: 5月22日(木)09時48分06秒 lyra.mula-net.com

他を批判するは新しい世界の創造する心か
未だ見ぬ世界は互いに共有できないからか
他を批判するは一人で生まれてきたんじゃない心か
未だ見ぬ己を知りたいからか
他を批判するは他への愛情の心か
人間が月にいけるこの時代に
いでし月かもと想う気持ちもある人間が
批判という方法しか持ち得ないはずがない
「生命」というものから浄土真宗を
批判されるあなたのお心はいづこにありと問えば、
本当の宗教を願えばこそ、とお応えなさっておられども
浄土真宗の僧侶の方々が、いらんおせっかい・うんざりと
思われておるなれば....
あなたのお心はどこへ届いていくのでしょう
ブーメランのように我が心にどのように届くのを願っておられるのか?
素朴な疑問が僕には残る


らくりん様へ 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月22日(木)09時47分01秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

らくりん様、おはよう御座います。
何時もこの場を使用させていただき有難う御座います。

>わかりました、ここでは、あなからは
>もう何の説明も必要もありませんので、
>ここから、お引き取りいただいて、
>お一人で「清々しく」お生きください。

これは言葉の表現として、
行為的には何があるのでしょうか。
貴方様の許容範囲でお応えいただければ、幸いです。

合掌。


これが浄土真宗かぁ? 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月22日(木)09時23分45秒 1Cust236.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

一夜明けてみれば…

何か心が狭いというか凄く排他的ですね。これが真宗の教え?
だとしたら一度浄土真宗の葬儀でもして浄土真宗の供養をした方がよさそうですね。
その方が阿弥陀仏も喜ぶのでは?『真宗の黄昏そして没落?』

>「信仰」とは、何の説明もいらないものだと思います。

テルゼさんのこれが↑

>わかりました、ここでは、あなからは
>もう何の説明も必要もありませんので、
>ここから、お引き取りいただいて、
>お一人で「清々しく」お生きください。

何故らくりんさんはここにいくのか?
これはコメディー?ちょっと笑ってしまいました。

>「南無阿弥陀仏」をいただいた人間の「結果」が、おかしいのでは?と言っています。

全員が全員おかしいのではないと思いますが…。(おかしい人が多そうですね)

>また、三吉さんの傍若無人の振る舞いに、お身内として、管理者として、
>なんのご注意も為さらない・・・で、私には出て行けと?

「えこひいき」な感じがしますね、不平等といいますか。
子供たちの教育にはよくなさそうですね。(これが真宗の体質なのか?)

テルゼさんどうも有難う、ここでは色々学ばせて頂きました。
また何処かでお会いしましょう。
編集済


はい、では、ごきげんよう 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月22日(木)03時02分49秒 98.pool7.dsl8mtokyo.att.ne.jp

らくりんさん、結局それですか?(笑)
「それを言っちゃあお仕舞いよ」ってところですね。
あなたは、今まで私が出会ってきた真宗大谷派のお坊さん達とは違って
少しは「大物」かしらと思っていましたが、
少しも変わらん「ケツのアナがちっこい」「同じ穴のむじな」でしたね。


以前、あなたと同じ真宗大谷派のある掲示板で、
管理人のお坊さんが「うるさい」からとjyugeguさんを追い出しにかかり
「投稿拒否」をかけて「排斥」した事がありました。
「出て行け」とはそれと同じことですね。
その時には、あなたの‘お身内’の真宗大谷派のお坊さん「あらしさん」も
その場に居合わせましたが・・・

こうして「うるさいもの」の口封じをするあなた、
お坊さんという以前に【人間】として、恥ずかしいとは思いませんでしょうかね?

そんなに「すがすがしくなろうとする」のが、お嫌いですか?
「すがすがしくなろう」とする魂の成長の「芽」をつみ取るような傾向にある「他力理解」、
今の、真宗の「まんま主義」の教義【理解】を、人間本来の「魂」の高みに行こうとするものに
もっと、応えられるものにして行かなくてはいけないのではないのでしょうか。

私は「南無阿弥陀仏」が、おかしいと言っているのではありません。
「南無阿弥陀仏」をいただいた人間の「結果」が、おかしいのでは?と言っています。
分かっては頂けなかったようですね。
あなたの、今回の態度を見ましても、その思いは深まるばかりです。
また、三吉さんの傍若無人の振る舞いに、お身内として、管理者として、
なんのご注意も為さらない・・・で、私には出て行けと?

三吉さんの、為さって来たことは、真宗を汚す言動であり、
決して真宗のプラスになるようなこととは思えません。
「自浄作用」の効かない宗教の行き先には滅びしかないと思います。
この「優れた宗教」を心底愛するのでしたら、本当にこのままでよいのかと真剣にお考え下さい。

それでは、失礼いたします。
らくりんさんの仰るとおり出ていきますので、レスは結構です。

何時までも、「クソつぼ」の中にいて下さいませ。

>三吉さん

>残念ながら、「聞く耳なし」という予想が当たってしまいました。
>最初から批判が先にあり、そのためのネタとして「吾が子の死」を
>出されておったわけです。
>なんともはや。。。言葉もありませんが。。。

よくもまあそんな酷いことを言えますね。
それでも信仰者?
あなたのこの“薄汚いこころ”に、「なんともはや。。。言葉もありません。。」

>例えば趣味の掲示板、「ポエム」がテーマなどでわいわいしている掲示板に
>突然「君らの詩はくだらん。感動しない。私を感動さす詩を書いてください」
>と言われる方が出れば、
>普通その掲示板の常連さんたちはなんと感じるものか、
>気持ちを大切にされる方がたならば、気づいていただきものだと
>独り言を漏らしておきます。

最後に三吉さん、「子供の死」という重いテーマを「“趣味”のポエム」の掲示板に喩えるあなた
あなたを救って下さった阿弥陀様は、そんなあなたの高ぶる心に涙はしていませんか?
なみださんにも、何の謝罪の言葉もないようですね。

あなたの深い心の「闇」が救われますように、お祈りしています。


まとめてですみません 投稿者:赤時  投稿日: 5月21日(水)23時33分43秒 1Cust71.tnt2.tko2.jp.fj.da.uu.net

このところ、なんか、書きこみにくい雰囲気が続いていましたので、
少し、黙っておりました。まとめてレスで、すみません。

>三吉さん
新訳→新約です。誤変換でしょうけれど、2度ほど間違っておられるようでしたので、
指摘させていただきます。なお、私は、聖書・キリスト教などにかんする解説書のような
ものは、ほどんと読んでいませんので、おすすめの本みたいなものは、残念ながら、ありません。
すみません。

>らくりんさん

分かりました。以後、テルゼさんと、キリスト教の話をここでするのは、やめにいたします。

>テルゼさん

というわけで、以後、ここで、キリスト教にかんする話題をすることは、やめましょう。


ネットってものは… 投稿者:“Chie”  投稿日: 5月21日(水)23時27分07秒 i197040.ppp.asahi-net.or.jp

なんだか、大変なところなんですね。
慣れてないボクからすると、
「いてもたってもいられなくて」書いたことが、
あっさり「それみたことか」と
言われたようで、ショックでした。

>私のご住職が特別できが悪いわけではないことの確認ができて、「まあ、いいか」との、変な納得ができ、なんだかほっとしています。

ボク自身、「できが悪い」お答えをしてしまいました。
人の気持ちを考えず「教義上間違いではない」なんて…ね

うう〜ん、あとは言葉が続きません…


赤時さん 投稿者:らくりん  投稿日: 5月21日(水)23時05分49秒 pro2.incl.ne.jp

キリスト教に関する書き込みを受け入れないわけではありませんが、
今後、テルゼさんをお相手に、キリスト教の議論をなさるのであれば、
他の場所をお探しください。


テルゼさん、 投稿者:らくりん  投稿日: 5月21日(水)23時04分14秒 pro2.incl.ne.jp

わかりました、ここでは、あなからは
もう何の説明も必要もありませんので、
ここから、お引き取りいただいて、
お一人で「清々しく」お生きください。


「信仰」 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月21日(水)22時47分51秒 80.pool19.dsl8mtokyo.att.ne.jp

「信仰」とは、何の説明もいらないものだと思います。

こんなに「神」(阿弥陀様、仏様、自分の想うもの何でもいいです)に、
想っていただいているのだから、
心配していただいているのだから、
愛されているのだから、
赦されているのだから
憐れんでいただいているのだから
生きる力をいただいているのだから
命に必要なものは全て無条件にいただいているのだから
その「御心」に応えて、私達は少しでも心の曇りを払って
『清々しく生きよう』とする、
「信仰」とは、それに尽きると思います。


songbirdさん、 投稿者:らくりん  投稿日: 5月21日(水)22時18分36秒 pro2.incl.ne.jp

せっかく登場してくださったにもかかわらず、
このようななりゆきになってしまって、申し訳ありません。

でも、songbirdさんの書き込みのおかげで、
なみださんの書き込みに対してコメントするきっかけを得られました。
ありがとうございました。


Songbirdさん 投稿者:三吉  投稿日: 5月21日(水)22時17分56秒 ca9d71-148.tiki.ne.jp

残念ながら、「聞く耳なし」という予想が当たってしまいました。
最初から批判が先にあり、そのためのネタとして「吾が子の死」を
出されておったわけです。
なんともはや。。。言葉もありませんが。。。

例えば趣味の掲示板、「ポエム」がテーマなどでわいわいしている掲示板に
突然「君らの詩はくだらん。感動しない。私を感動さす詩を書いてください」
と言われる方が出れば、
普通その掲示板の常連さんたちはなんと感じるものか、
気持ちを大切にされる方がたならば、気づいていただきものだと
独り言を漏らしておきます。

あなたの呼びかけに私なりに応答してみましたが、
未熟者ゆえ、ご期待に添えませんでした。
お詫びいたします。


>(無題) 投稿者:流れ星 ☆彡 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月21日(水)22時14分08秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>同じ「空」という状態が、生前と死後に「有」るという、
>根本的な間違いを犯しています。

>「空」というのはあらゆる形容を付け得ない事柄ですから、
>二つの「空」が「同じ」ということは言えないのです。
>それでは「空」を認識可能なものとして実体化していることになります。

貴方の「空」はいざ知らず・
空、梵語にsunyata、その意は、ゼロ或いは無存在とのこと。
因みに此処にいう無存在の「無」とは梵語・asatその意は、未分の原始状態。英語にいうNathingに非ずとか。或いはまた、
空(情欲、怒り、迷妄が存在しないから空)
前記の「空」は物質表現でしょう。
後者は心的表現のよう。

>無に帰るとか、自然に帰るというのは
>死に対しての一つの意味づけにすぎません。

>基本的に死後は不可知です。
>宗教は、不可知なる死に、それぞれに意味を与える営みなのです

でも本来の釈迦仏教にいう
生死とは、生命の寿命を言うのでなく、迷いの煩悩の生と滅を言う、とか

因みに貴方に置いてはどうかは知らず。


>身も心も凍る 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月21日(水)21時50分50秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>身も心も凍る、とてつもない冷たい言葉を
>有難うございました。

甘い蜜には「酔い」が伴う。

合掌。


>今になって、びっくり 投稿者:流れ星 ☆彡 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月21日(水)21時28分59秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>かけがえのない命との別れの悲しみを、
>否定する方々と対論していたとは。

それをしてマイナス思考、
その恐怖に陥れ、
生命の無力意識に追い込み、
摂取不捨、一網打尽を謀る策略にあると言えるかな。

「命との別れの悲しみ」とな?、
「悲喜」の心は表裏の関係、
「命との別れ」は悲しみであるより「寂しさ」と表すのが適当かと。
「悲しみ」とすれば、「往生浄土」は「悲しみ」との否定的現象なるや?。
すると娑婆世界、穢土は歓喜の地となるか?。
ここに浄土思想とは何を言うことになるのか?、
「こころおきらく」発言もほどほどに・・・。

合掌。


>生命在る者への仏法 投稿者:jyugegu   投稿者:songbird  投稿日: 5月21日(水)21時17分03秒 i205209.ppp.asahi-net.or.jp

>ところが近頃も、お子様を亡くされた母親へ、なんと慰めの言葉云々と、
>「殊勝らしく」といえば語弊があるかもしれませんが、声かける僧のあるよう。

>本来釈迦が目指したのは、何かをなくして後後悔苦悶する心を癒す方向と言うよりは、
>「生者必滅会者定離」にいう、
>「色即是空」、形在るもの総て「空」にかえる。
>つまりゼロに、ゼロとは虚仮を云うのではない、元の状態ということの様。

>この理を伝え、事が起こってうろたえることの無いように、
>予めインプットさせる。
>対症療法ではなく、予防医学的に働く、
>仏教とは斯くあるはずかと。

身も心も凍る、とてつもない冷たい言葉を
有難うございました。

songbird
 


今になって、びっくり 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月21日(水)20時22分12秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

かけがえのない命との別れの悲しみを、
否定する方々と対論していたとは。
編集済


>(無題) 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月21日(水)20時19分15秒 1Cust81.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>>「色即是空」、形在るもの総て「空」にかえる。
>>つまりゼロに、ゼロとは虚仮を云うのではない、元の状態ということの様。
>
>同じ「空」という状態が、生前と死後に「有」るという、
>根本的な間違いを犯しています。
>
>「空」というのはあらゆる形容を付け得ない事柄ですから、
>二つの「空」が「同じ」ということは言えないのです。
>それでは「空」を認識可能なものとして実体化していることになります。
>
>無に帰るとか、自然に帰るというのは
>死に対しての一つの意味づけにすぎません。

この学者的断言口調の言い回しは非常に知的な感じが漂っていますが
私には何が間違えなのか今ひとつ理解できませんでした。
「空」を語るのは非常に難しそうですが
出来ればもう少し分かりやすいと有難いです。

>基本的に死後は不可知です。
>宗教は、不可知なる死に、それぞれに意味を与える営みなのです。

これは私も頷けました。
最後の
「営みなのです。」

「営みなのではないでしょうか。」
で落ち着いたほうが私的には気持ちがいいですね。
悪しからず…
編集済


らくりんさん 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月21日(水)19時19分34秒 190.pool2.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>彼の男正体は、ネット上に現われている人格とは似ても似つかぬ男です。
>むしろネットという虚構空間で、
>彼は、仮面の姿を楽しんでいるのだろうと、私は思っています。

「彼の男正体」は、ネット上にあったということではないのでしょうか?
現実の世界の方が、実は仮面を付けやすいのではないかと思います。
実際に会っているわけでもなく、画像も音声もない唯文字だけの世界というのは、
意外とその人の本性みたいなものを、赤裸に見せてしまうものではないのかと思われます。

>問題がデリケートであればあるほど、それを語る場や機会、そして言葉を充分に
>吟味しなければなりません。
>songbirdさん、、
>残念ながら私には、この場の現状はそれにふさわしい場だとは思えないのです。

>なみださんへ、
>もし、あなたがご自分の個人的な問題をネット上で誰かに真剣にご相談したいのならば、
>こういう多くの人の目に触れる場ではなく、せめてメールをお使いになることを
>お勧めします。

このお二人は「こういう場」だからこそ、勇気を持って投稿為さったのではないのでしょうか?


(無題) 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月21日(水)18時03分43秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

>「色即是空」、形在るもの総て「空」にかえる。
>つまりゼロに、ゼロとは虚仮を云うのではない、元の状態ということの様。

同じ「空」という状態が、生前と死後に「有」るという、
根本的な間違いを犯しています。

「空」というのはあらゆる形容を付け得ない事柄ですから、
二つの「空」が「同じ」ということは言えないのです。
それでは「空」を認識可能なものとして実体化していることになります。

無に帰るとか、自然に帰るというのは
死に対しての一つの意味づけにすぎません。

基本的に死後は不可知です。
宗教は、不可知なる死に、それぞれに意味を与える営みなのです。


なみださん 投稿者:らくりん  投稿日: 5月21日(水)17時24分13秒 pro2.incl.ne.jp

なみださん
レスが遅くなって申し訳ありませんでした。
この10日ほど、身辺があわただしく、じっくりとパソコンの前に座っている
時間もあまりありませんでした。
その中で、あなたの書き込みは、簡単に返事してしまうには
重すぎて、無為の時間を重ねてしまいました。
また、
どういう方なのかなかなかイメージがまったく結べなかったので、
正直申しまして、どのようにお応えしたものか、
判断に迷っていたのも事実です。

それから、私自身も、
三吉さんと同じようなことも考えないわけではありませんでした。
悲しいかな、そのような発想は、ネット上のやり取りを重ねてきた
者にとってはある種習性のようになってしまっております。
ただ、それを簡単に書いてしまわないだけの慎重さを
三吉さんよりは少しだけ持ち合わせているだけの違いにすぎません。

で、三吉さんと「同じ穴の狢」かとの疑念ですが、
彼の男正体は、ネット上に現われている人格とは似ても似つかぬ男です。
むしろネットという虚構空間で、
彼は、仮面の姿を楽しんでいるのだろうと、私は思っています。

この掲示板の交流は、ネット上だけのつきあいと、実生活での付き合いが
交錯しています。
実物の顔を思い浮かべながらどういう気持ちで書いているかが
うかがえる人と、画面の上に現われた文字だけで付き合っていかなければならない
人との差は非常に大きいと思います。
その辺がここの面白いところでもありますが、私にとっては、難しい部分でもあります。
文字だけから人物像を判断するのはとても難しいです。
編集済


>(無題) 投稿者:流れ星 ☆彡 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月21日(水)16時31分18秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>生前と死後に「空」という状態を想像し、仮設することで、
>安心して生きていけるなら、それも、いいんじゃないでしょうか。
>般若の教えは、そういう意図で説かれたのかもしれませんネ。

何方か専売の「頓珍漢」。
あえて此処に無断借用。

合掌。


日々精進。 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月21日(水)16時17分17秒 1Cust21.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>つまりゼロに、ゼロとは虚仮を云うのではない、元の状態ということの様。

この状態に身を置くことが所謂「無の境地」に居ることなのでしょうかね。
その境地に辿り着いた者の言葉が最も説得力があると感じられます。
日々精進しないと笑われちゃいますね。鋭い人には即、見抜かれますから…


(無題) 投稿者:なみだ  投稿日: 5月21日(水)14時22分19秒 d-219-99-253-099.cable.katch.ne.jp

らくりんさん、お返事お待ちしていました。
私のあの投稿は貴方が感じられた通り、僧侶に対する、批判と期待でした。
なかなか、声をかけて頂けないことで、決して「やらせ」なんかではない、私の投稿も貴方には「そそられない」のかと、悔しい思いで、読ませて頂いておりました。

三吉さんの「やらせ」発言には、どれだけ人を傷つけようとも、自分の意見を正当化させようとの、こちらが恥ずかしくなるような、愚かさを感じました。
私の思い違いかも知れませんが、らくりんさんは、皆さんが批判されている三吉さんの数々の発言になんら疑問を感じてみえないのではありませんか?
三吉さんとはリアルのお付き合いをされてみえるとのこと…「同じ穴の狢」ですか?

今回のことで、多くのことを学ばせてもらえました。
私のご住職が特別できが悪いわけではないことの確認ができて、「まあ、いいか」との、変な納得ができ、なんだかほっとしています。

songbird さん、私もそうでしたが、この掲示場への書込みには大変な勇気が必要だったこと思います。それなのに、見も知らない私のためを思っての書込み、ありがとうございました。私の目的はけっして貴方のきれいな心に反するものではないと思っていますが…
もしも、傷つけてしまったなら、本当に申し訳ありませんでした。

なまぐささん、貴方の温かい人柄はネットでもちゃんと伝わってきました。
これからも、悲しむ人たちの心を救ってくださることを期待しています。

では、これで失礼します。これが今までの流れに対する、私の感想です。
三吉さんのたっての希望のようですので、あえてお返事しました。
三吉さんに、最後に一言。
『わすりやすいと思えるサイトをご紹介していますのに〜〜』自分の気持ちは伝えずに、これが「心が届く言葉」でとは、呆れました。
 


(無題) 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月21日(水)11時31分33秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

生前と死後に「空」という状態を想像し、仮設することで、
安心して生きていけるなら、それも、いいんじゃないでしょうか。
般若の教えは、そういう意図で説かれたのかもしれませんネ。


(無題) 投稿者:らくりん  投稿日: 5月21日(水)11時00分45秒 pro2.incl.ne.jp

沈空


生命在る者への仏法 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月21日(水)09時33分55秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

何方か仰るよう、
「仏教は死者の為ならず、生命在るものへの生命の喚起の教え」と。
将に釈迦が目指したのはそのことかと。

ところが近頃も、お子様を亡くされた母親へ、なんと慰めの言葉云々と、
「殊勝らしく」といえば語弊があるかもしれませんが、声かける僧のあるよう。

本来釈迦が目指したのは、何かをなくして後後悔苦悶する心を癒す方向と言うよりは、
「生者必滅会者定離」にいう、
「色即是空」、形在るもの総て「空」にかえる。
つまりゼロに、ゼロとは虚仮を云うのではない、元の状態ということの様。

この理を伝え、事が起こってうろたえることの無いように、
予めインプットさせる。
対症療法ではなく、予防医学的に働く、
仏教とは斯くあるはずかと。

合掌。


「肥溜め」表現と「蓮華」 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月21日(水)09時10分50秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

近頃この掲示板に、
「肥溜め」「糞溜め」等の発言が多々散見されるよう。
それを言う人はそのことをどのような意識で表現されるのでしょうか。

仏教・法を花に例えて「蓮華」をあらわすよう。
それは泥に根ざし其処に生命得て花と咲くかな、

単に「肥溜め、糞溜め」の泥仕合表現から、
そこに智慧を得て花咲かすのが本来「僧」のありようかな。

親鸞所謂「悪人正機」の表現も、これを言うのではないでしょうか。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


(無題) 投稿者:らくりん  投稿日: 5月21日(水)09時01分33秒 pro2.incl.ne.jp

songbird さん
初めまして、懇切なご指摘ありがとうございます。
なみだ さんの書き込みについてはわたしはどのように対応したらよいか戸惑いを
おぼえています。

この2か月間のこのBBSのやりとりをご覧になってこられたとおっしゃる
なみださんが、突然あのような話題をここに提起されたことに、
私としては不可解なものを感じております。
といいますのは、最近のこの掲示板の状態は、
愛する子供を失った方がそのことを書いて、
そのことに対して、なにがしかの応答を得るのにはとてもふさわしくない状態に
なっていたように、私自身は感じております。

むしろ、なみださんの書き込みの趣旨は、僧侶に対するご期待あるいは
叱正の方に力点が置かれたものであったように思います。
そうであれば、昨今の流れにおいてはかなり自然なものであろうと思います。

お子様を失った悲しみは察するにあまりあるものがありますが、
もし、その問題についてやり取りを重ねていこうとするならば、
こころの奥底の襞にわけいっていくような、
じっくりとおちついた関わりが不可欠になっていくと思います。
私たちは、ひごろから身近な人を見送った人々の悲しみに接する機会が多いのですが、
その場にいたたまれないような気持ちになってしまいまうこともしばしばです。
それでも、葬儀の後もなんども足を運び、
お顔を合せます。言葉もかけます。
しかし、それがどれほどのお役に立てているか、それは自分ではわかりません。

その悲しみが深ければ深いほど、
その悲しみの前で呆然と立ちすくんでしまわざるを得ない
自分の無力さを思い知らされます。
できることは、そばにいて、向き合うことだけしかできません。
それさえもつらい別れもあります。
それを、無能と呼ぶならば、いたし方がありませんが、
人の悲しみを自分がいやせるなどと思い上がるよりはよほどましだと思います。

ネットの世界というのは虚実が入り乱れ、
何が事実で何が作り事かまったくわからないなかで、
言葉だけが飛び交っています。
そして、そういう状況を充分に理解した上で、その言葉あそびとして割り切って
楽しんでいる人もいれば、
虚実の境目を見極めずに、ご自分の生の感情を吐露される方もいます。
その場合、傷つくのは間違いなく後者です。
このような多くの人の好奇の公開の場で、軽々にそのような問題に立ち入って
いくことは、かえって悲しみを踏み躙るようなことになりかねません。
それは、深い悲しみに対する冒涜になってしまうのでないか。

問題がデリケートであればあるほど、それを語る場や機会、そして言葉を充分に
吟味しなければなりません。
songbirdさん、、
残念ながら私には、この場の現状はそれにふさわしい場だとは思えないのです。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
なみださんへ、
もし、あなたがご自分の個人的な問題をネット上で誰かに真剣にご相談したいのならば、
こういう多くの人の目に触れる場ではなく、せめてメールをお使いになることを
お勧めします。

編集済


おはようございます 投稿者:三吉  投稿日: 5月21日(水)07時22分58秒 ca9d71-161.tiki.ne.jp

songbird さん

おはようございます。
ご返事ありがとうございます。
「この場を汚した人間」だなんて、そんなはずはないです。
「やらせかも」はあくまでも私の勘であり、なんら根拠のある
話ではありません。そんなことをついぞ考えておらない貴方様
のこころが美しいということだと私は思います。
三点は私の心の醜い部分をありのままに出しただけです。
「疑り深さ」「偏狭さ」「弱さ」などなどを。

そうですね。「時間」が必要です。
ですのでお待ちしております。
それと高さんのように考えるのがすべでもありません。
一つの見本として高さんがおられ、その姿に救われる人も
おられるかもと感じておる次第です。
子供を亡くしたことがあるかどうかという質問に答える気は
申し訳ありませんがおきません。
ある経験があるとしても私は人前でそれを語りたくあり
ません。この掲示板がまったく知らん人たちならばまた違う
ものやもしれませんが、管理人さんをリアルで存知あげて
おり、リアルのしりあいも読んでるやもしれません。

「悪人だから子供が死ぬ」などとはまた、ひどいことを言う人
がおられるものです。ここまで人は宗教を悪用できるものかと、
暗澹たる気分に沈みます。

「女なら簡単に子供が産めるだろう」という悪意のない素朴な
周りの期待は重いのではないかと心配しております。
あなたの重荷にならないことを願っております。

「母であった時の幸せを感謝」とのこと。
なかなかできることではないのかもしれません。
うまくいえませんが、なぜかしら嬉しく感じます。
ありがとうございました。


三吉様へ追伸 投稿者:songbird  投稿日: 5月21日(水)02時31分35秒 e145033.ppp.asahi-net.or.jp


私もいつか高史明様のような、お心を頂きたいと思っております。
その時がいつになるのかは分かりませんけれどもー。

私は死ぬまで付き合う病をいくつか抱えています。
その為にたくさんの薬も飲んでいます。
女なら簡単に子供が産めるだろうと、家族も考えているようですが、
自分の病の事を思うと、あの娘は、仏さまが私に下さった
とてもとても大きな幸せだったと思います。
この先、子供に恵まれなくても、私は母であった時の幸せを
感謝して生きていきたいと思っております。

有難うございました。

 


>くだらない前置き 投稿者:三吉 投稿者:songbird  投稿日: 5月21日(水)02時18分16秒 e145033.ppp.asahi-net.or.jp


 三吉様、初めまして。songbirdです。レスを有難うございます。
 
>事前に三つだけ申し上げておきます。
>一つにもしかすると「なみだ」さんは「やらせ」です。(勘です)

 もし、三吉様が感じていらっしゃるように「やらせ」であるならば、
 私はこの場所を汚してしまった人間になりますね。
 そういう発想は私の中には持てませんでした。もしそうでしたら、
 皆さまに対して、本当に失礼な言葉を投げかけた事になりますね。
 この非礼、お許し下さい。

 あと、二つ目に関しましては、三吉様のお気持ちですので、
 私がどうこう言える立場ではありません。

>三つ目に私としましてはお待ちしているところで、わすりやすいと思え
>るサイトをご紹介していますのに、その点を無視されて、再度「届く言
>葉」でとのこと。
>songbirdさんは読んで頂いているのであろうか。

 はい。紹介していらした時に読ませて頂きました。
 そして今も読んで参りました。高史明様のお話が載っているサイトですよね。
 この方のお名前も存じていましたし、歎異抄の解説の本を書いていらっしゃるのも
 存じています。

>読んだ上で難解と言われておるならばどの辺がなのだろうか。

 この事は少し説明させて下さいますでしょうか。
 あくまでも私の立場しか語れない狭い了見かも知れませんが、
 子供を喪った立場の方からのお話を、本で読んだり、その言葉に触れたり出来るのは
 時間がかかります。高史明様も短い時間で、あの境地に入られたのでしょうか。
 ある程度の時間は必要だったのではないかと思います。子供の死を認め、受容する
 時間です。これも個人差があると思います。
 ただ読むのと、その言葉を頂けるかは、私の場合は時間に差があります。
 三吉さんの事は投稿(全部が頭に記憶できてはいません。ごめんなさい)を
 読ませて頂いていますが、子供さんを亡くされた経験はありますか。
 子供を喪ってすぐに、高史明様のような心境に、導かれるのでしょうか。
 これは批判ではなく、私の中の疑問です。

 私は子供を死産して退院してきてから、あるサイトで
 「悪人だから子供が死ぬ。そして自分が悪人だと気付かされ、
  有難い仏縁をもらう」という言葉がありました。
 門徒の方の言葉でしたが、私はとてもこの言葉にショックを
 受けました。けれど、あるお坊さまが、仏縁について時間をかけて
 メールでお話しして下さいました。

 私は昨日、お風呂場に入っていて、子供の事を考えてぼんやりしていたら、
 歯ブラシをとるつもりが、主人のT字型のかみそりを掴んでいました。
 しばらくじっと握っていたらしく、流れてくる血で、はっと気がつきました。
 1年半たっても、そういう時が私にはあります。

>あるいはお坊さん以外は引っ込んでいろということなのであろうかと。
>こちらの気持ちとしましては悩ましくもあり、気が萎えるものです。

 そういう気持ちは全くありません。不愉快な思いをお与えしてしまいました
 事を三吉様にお詫びさせて下さい。

 お返事有難うございました。感謝しております。



>肥溜に鶴? 投稿者:流れ星 ☆彡 投稿者:songbird  投稿日: 5月21日(水)01時47分48秒 e145033.ppp.asahi-net.or.jp


流れ星☆彡様、songbirdです。レスを有難うございました。

>「なぜ私は念仏者になったのか」というような事なら書けるのだと思います。

 勝手なお願いで、本当に申し訳ありませんでした。
 けれど、レスを頂けた事、本当に感謝しております。

>そしてお一人お一人が抱えている苦しみというものは
>似ていても、お一人お一人違うと思います。
>それを癒すような言葉は、その場面場面でまったく違ってきますし、
>必ずしも、言葉ではなく、寄り添うとか、涙とかがその役割をする場面もある。

 私もそう感じております。その方の苦しみは、その方にしか分からないものですものね。

>元来、仏法というものは、こういうものだと固定されてあるものではなく、
>救う働きを仏法というのだと思います。<この辺が、うまく書けんのです。(;_;)

 私自身は、この言葉をそのまま素直に受け取らせて頂きました。
 有難うございます。


念仏は「なまんだぶぅ」 投稿者:三吉  投稿日: 5月21日(水)01時02分55秒 ca9d71-160.tiki.ne.jp

念仏は「なまんだぶぅ」です。ただただ「なまんだぶぅ」です。
難解な理屈を掲示板で撒き散らしておりますが、
悲しいときも、「なまんだぶぅ」。
つらいときも、くやしいときも「なまんだぶぅ」。
嬉しい時も楽しいときも「なまんだぶぅ」です。

非常に簡単です。ある人は「ただ なまんだぶぅ」を凄い境地の
ように語り、ある人は「ただ なまんだぶぅ」を方便と語り、
ある人は、意味ない、効果ない、くだらない、救われないと語られ
ますが、そんなことと無関係に「なまんだぶぅ」です。

うろ覚えのまた聞きの話です。
江戸時代のとある農村にとても念仏を大事にされている女性がおられ
道すがらも「なまんだぶぅ」と言われるような方だったのですが、
ある時、それを耳にした口さがない人が「空念仏だ」と馬鹿にしました。
「空念仏」、つまり、効果も意味もないじゃんと。
すると、それが聞こえたと見えて、馬鹿にした人に向かって、ずかずか
ずかと念仏者が向かいます。馬鹿にした人は「きぁぁ、怒られる」と
冷や汗かいておると、念仏者は感謝の言葉を捧げます。
「どうもありがとうございました。空念仏ときづかせて頂きました」と。

そうなのです。ともすれば、私たちは自分の称える念仏になにかしら
意味を求めますし、熱心に称えれば称えるほど、「こんなに称えたのだか
ら効果があるはずだ」と思ってしまったりします。
効果も意味もない私の「なまんだぶぅ」。空念仏だけど「なまんだぶぅ」
説得力もなく、絶望に響きもせず、阿弥陀がいるかどうかもわからない
のですが、ただただ「なまんだぶぅ」なのです。
悲しいときも、「なまんだぶぅ」。
つらいときも、くやしいときも「なまんだぶぅ」。
嬉しい時も楽しいときも「なまんだぶぅ」。
説得力・救い・阿弥陀の実在云々があってもなくてもどうでもよいのです。
それでもなお、「なまんだぶぅ」。
「なまんだぶぅ」が私の口から漏れ出るならば、それが心のとてつもない
深く切ない悲しみから出ようと、ほろ酔い、鼻歌気分のいいかげんなもの
であろうと、阿弥陀が色んなカタチに姿を変え、あの手この手で、
「なまんだぶぅ」になってくださっておるのです。
阿弥陀の実在・ハタラキは人から漏れ出る「なまんだぶぅ」という姿
(慟哭であり、悲しみ・辛さであり、口惜しさであり、喜び、楽しさである)
となって結実していると伝え聞いているところです。
長々と失礼しました。


泣き尽くそう 投稿者:三吉  投稿日: 5月21日(水)01時01分15秒 ca9d71-160.tiki.ne.jp

自分の大切な人が亡くなり、悲しみの淵に沈む。
とても自然な状態です。
どんどん泣いてよいのです。泣いたほうがいい。
悲しみが尽きるまで泣いてよいのです。
「なみだ」さんは、自分が悲しむと愛娘がそのために、
極楽に行けなくなるのではないかと心配されつつも、
やはり悲しさ辛さはとてもとても抑え切れるものではなく、
心配は募るばかりなのですが、まったく心配ないのです。
真宗では亡くなった方は、もう「仏さん」です。
心配されるそのお心根はとても優しく素晴らしいです。
でも愛娘さんは仏となり「なみだ」さんといっしょに泣い
ておられるのです。
だから安心して泣かれてよいのです。

私などは傲慢ですので大切な人を亡くせば、
悲しみ・つらさは「悔しさ」になります。
口惜しくて口惜しくて、どうしょうもなく口惜しい。
果てしなく口惜しい。
あれもできた、これもできた。
にもかかわらず。。。と、「たら。れば」の世界。
迷宮。堂々巡り。。
もう取り返しつかないことが
たまらなく口惜しい。
でも大切な人は仏になり、今の私に何を願ってられるのか。
生きている私は何ができるのか。
その願いにどう応答していけばいいのだろうかと。
そういうハタラキをしてくれる存在だからこそ大切な人は
私にとり仏なわけです。

仏教は生きた者の教えです。
一般的には死者が仏になれる様に回向を送り、供養し、
成仏を願うわけですが、
真宗では逆なのです。葬儀・法事は死者への供養ではなく、
遺されて悲しみに沈む人たちが仏教を聞くための場なのです。
故人が仏となり、残された人たちの為にそういう機会を設けて
下さっているのです。


くだらない前置き 投稿者:三吉  投稿日: 5月21日(水)00時59分44秒 ca9d71-160.tiki.ne.jp

songbirdさん

はじめまして。私は僧侶でございませんが、書かせて頂きます。

事前に三つだけ申し上げておきます。
一つにもしかすると「なみだ」さんは「やらせ」です。(勘です)

二つに「やらせ」でないまでも
<私はこのご住職が特別救いの言葉をしらない方だと思っていました。
しかし、ここでのお話を伺っている限り、そんなに違いがないことを
感じましたが…>と言われておる人に「聞く耳」を正直感じません。
ならばここで聞くなよと。

ですが、にもかかわらず私の出会った中で「わかりやすいだろうな」と
思う人の言葉をネットから無断引用し、関心を持たれれば、詳しくみれ
るようにとアドレスを記載しました。事実の可能性もあるからです。
あるいは私が真面目に反応して騙されていても些細なことだからです。
あるいはそのような「八つ当たりめいた」表現がでるほど傷つかれてお
られるかもしれないからです。
今のところ「無反応」ですので、深く読み込まれているのか、
余計なお世話だったのか、ぴんときてないのか不明ではありますが、
私としましては反応をお待ちしておるところです。

三つ目に私としましてはお待ちしているところで、わすりやすいと思え
るサイトをご紹介していますのに、その点を無視されて、再度「届く言
葉」でとのこと。
songbirdさんは読んで頂いているのであろうか。
読んだ上で難解と言われておるならばどの辺がなのだろうか。
あるいはお坊さん以外は引っ込んでいろということなのであろうかと。
こちらの気持ちとしましては悩ましくもあり、気が萎えるものです。

以上三点、言わずともよいことをあえてありのままに吐露した上で、
「なみだ」さんに関しましては、私としましては返事待ちですので、
songbirdさんに向けて書かせて頂きます。


肥溜に鶴? 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月20日(火)23時18分41秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

らくりんさんは以前、別の掲示板でマイナーな教学を語り合う場、
「蛸部屋」みたいのが作れないかといっていましたが、
ここは現在、「肥溜」と化しているんでしょうか?
わたしは「らしく」ない糞坊主なので、
こういうところにまみれているのが合っているのかもしれません。
まあ、明日にはあまりの悪臭に、逃げ出しているかもしれません。

糞投げあいの合間にも、けっこう、ハッとさせられることがありました。

この人、こういう言葉を素直に読んでくれるんだなぁというか、
こういうところは突いてこないんだなぁとか。そういうところに妙に感動したり。

それから、この一言を言えば、決定的なんだけど、
相手の気持ちを考えるととうとう、書き込めなかった。
仲間意識を感じている自分が、妙にうれしかったり。

ここは、ホントに肥溜なんでしょうかネ?


songbirdさんの問題提起、おっしゃるとおりですね。

でも、私は掲示板での「救い」ということに懐疑的です。
お念仏の教えはこういうものですと、
なにか一般的に読んでいただけるようなものを書いてみても
どれだけの力があるだろうかと。
実際、ここで「お念仏とは何か1」を書き出して、止めてしまいました。
だれにもわかってもらえるようなものは、無味乾燥な、
当たりさわりのないものしか書けそうにありませんでした。
「なぜ私は念仏者になったのか」というような事なら書けるのだと思います。

そしてお一人お一人が抱えている苦しみというものは
似ていても、お一人お一人違うと思います。
それを癒すような言葉は、その場面場面でまったく違ってきますし、
必ずしも、言葉ではなく、寄り添うとか、涙とかがその役割をする場面もある。
元来、仏法というものは、こういうものだと固定されてあるものではなく、
救う働きを仏法というのだと思います。<この辺が、うまく書けんのです。(;_;)

一番いいのは、やっぱりリアルで、
なんらかの聞法会で語り合うのがいいと思うのですが
難しい状況なんでしょうね。そこが問題ということもありますネ。

どうなんでしょうか、皆の衆。

それにしても、「けしの種」のお話には続きがあるんですね。
時間と空間を越えて、「けしの種」を大切にしていきたいという人を、
次々と生み出していく。お釈迦さんは、スゲエ。
編集済


テルゼさんへ 投稿者:なまぐさ  投稿日: 5月20日(火)22時45分36秒 U082090.ppp.dion.ne.jp

本日勝手に休業中
またレスします。
しかし、お互いよく続きますわ。こんなややこしい話を・・・
そう思いませんか?


厚かましくお願いさせて下さい。 投稿者:songbird  投稿日: 5月20日(火)21時00分42秒 e145033.ppp.asahi-net.or.jp


初めまして。一ヶ月ほど、こちらをROMさせて頂いております。songbirdと申します。
>僧侶の方々へお願いです 投稿者:なみだ  投稿日: 5月14日(水)23時33分21秒
この、なみださんの投稿を読ませて頂いて、その後もいろんな方の投稿を読ませて頂きました。

私は昔クリスチャンでしたが、今は教会からは離れている者です。6年前に母を亡くし、
その後、ネットで真宗のお坊さまと知り合うご縁があり、仏教にひかれて道を求めています。
なみださんは、5ヶ月前に一人娘さんを亡くされて、今も本当にお辛い毎日を過ごしている事を
思うと胸が痛みます。私は死産で娘を喪い(1年半前です)、その後すぐに父が白血病になり
昨年他界しました。父の死からは、まだ9ヶ月です。

このBBSは勿論お坊さまがいらして、そして、僧侶ではないと仰る方も、かなり勉強されて、
正直、私のように何も知らないものが投稿するのは勇気がいりました。

お坊さまに対する批判も多いようですが、私は両親の葬儀の時、お坊さまに本当に助けて
頂きました。
母の時は、棺に火がいれられる時に錯乱したように「燃やさないで!」と叫ぶ私の肩を
強く抱きしめて下さって。
「一緒にお母さんをお送りしましょう。私が傍にいますから」と、お坊さまが崩れそうな私を
ずっと支えて下さいました(余裕がなくて、どの宗派のお坊さまかは分かりませんでした)。

父の葬儀の時は真宗の若いお坊さまでしたが、ずっと泣かずに振舞っていた私が、納骨する時に
言葉も出せずに、はらはらと泣いた時、そのお坊さまは、私に手を合わせて、じっと目をみて、
無言で泣いて下さいました。私の田舎は離れていますから、お二人のお坊さまとは、その時しか
お会いしていませんが、本当に何度思い出しても感謝の思いで溢れるのです。

娘を死産した後には、近くにいる家族さえ、私の悲しみを感じてはくれませんでした。
けれど、ネットで存じ上げた真宗の門徒の方が、私の娘の四十九日を覚えていて下さって、
その時「けしの種」のお話をリンクを貼ったメールでお教え下さいました。
私は、その方のそのお気持ちがとても嬉しかったのです。そういうお気持ちを持って下さる
方がいる事に、本当に有難さで涙が溢れました。

なみださんが求めていらっしゃるのも、この受けとめてくれる優しさではないでしょうか。
確かにお寺に行き、ちゃんとした門徒になり、お話を聞くのが一番かも知れません。
けれども、子供を亡くすと、そういう力も湧いてこないというのが現実かも知れませんし、
実際に私は、お寺に行ってみた事もありますが、敷居が高いと感じる場面は多々ありました。
お手軽に仏法を求めているとのご批判も覚悟致しておりますが、現実の中では、
なかなか本当の意味で、お寺さまには巡りあえないのです。私の努力が足りない事も
十分承知致しております。

この投稿で、ただ、ただ、お願いしたいのです。まだ、こちらをROMされているかもしれない
「なみださん」の為に、真宗の救いとはどういうものなのか、難解な教義的な言葉ではなく、
真宗を知らない者にも届く言葉で、綴って頂けないでしょうか。
私も本を読んだりはしていますが、やはり入門書でもよく分からない事が多いです。
自分の無知と恥をさらしてのお願いです。とても勝手なお願いです。
どうか、なみださんの為に、なみださんに届く言葉で、真宗の救いをお話し頂けないでしょうか。

死別の悲しみの中にいる一人として、自分の無知をさらしてただお願いさせて下さい。
なみださんの為にもう一度、真宗の救いをお話し下さいませんでしょうか。
どうかよろしくお願いいたします。どなたかお一人にでも、この気持ちが届きますように。
そして、なみださんに届く言葉が頂けますようにー。





心もよう うた 投稿者:カブトムシ  投稿日: 5月20日(火)18時24分15秒 lyra.mula-net.com

他を批判するは己の正当性を主張せんが心か
それとも真理探究の心の顕れか
他を批判するは自己への飽くなき執着する心か
それとも共に理解し合える生命のきずなか
他を批判するは偏狭なる自己のみの保身の心か
それとも無所得自他分別の無い理を会得した心か

その心をば何をもって裁定出来るのだろうか
分からない 分からない〜〜〜
といって分かったつもりになっている〜〜
己の心は見たくな〜い 見たくな〜い

そんな自分が最も分かっていないのかな〜〜〜


ご苦労様です。 投稿者:流れ星 ☆彡 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月20日(火)13時51分20秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>ええなぁと思った問いには、こちらのペースで答えさせていただいています。

ええかどうかにかかわらず、あいてに合わせて答えさせていただいています。

>当然、答えるほうも、その犠牲に応えようとするべきです。

常に解答の得られる確約無く、その犠牲は当然少なかったかと。

>ネットで掲示板を覗いて、ちょっと書き込むということには、
>それほど犠牲にするものがないし、責任も生じない。

そんな気持ちで公に発言される人に、もとより責任の「せ」の字もないでしよう。

>この世界はホントに、お気軽にできている。

如何でもいいこと口にしては、布施をたかる身分には。

>おなじような考え方をする人が集まる場所を探していけばいい。

付和雷同が宗旨かのどこかの帰依集団に置いておや、

>けっきょく、なんにもなっていない思っています。

なんにもならないどころか、日々それで口糊塗す。

>あんまり、お気軽な質問はしないよう努力していただきたい

あんまり、お気軽な発言はしないよう努力していただきたい

>精進させていただいています。ありがとうございます。

精進の補助にはなりましたでしようか。ありがとうございます。

合掌。




>(無題) 投稿者:流れ星 ☆彡   投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月20日(火)13時27分35秒 1Cust231.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

流れ星 ☆彡さん

>そして念仏には、仏の優しさが詰まっている、ということです。

というかこの話を伺っていると流れ星さんの優しさを感じます。

「念仏は何か?」この問いには100人いれば100通りの答えがあっていいと思うのですが、
やはり問いに対して答える、その答えの内容云々よりも答える姿勢が全てを物語るような
気がしますね。リアルに流れ星さんの姿は拝見できませんが、きっと誠実なお人柄なんだ
ろうなーって想像します。
これは個人的な想いですが御仏の教えに携わるものは誠実に越したことは無いと思っています。
たとえ言葉足らずでも伝わるものは伝わるでしょうね。
まして本当に伝えるべきものは言葉を超えているものなのかも知れませんし。
大悲、大慈の心といいますかね、、、
編集済


jyugeguさん、ご苦労様です。 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月20日(火)11時57分58秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

ええなぁと思った問いには、こちらのペースで答えさせていただいています。

さて、リアルの聞法会に出席するには、時間と労力とお金が必要です。
自分の何かを犠牲にすることで、とにかく何かを得ようと努力します。
当然、答えるほうも、その犠牲に応えようとするべきです。

ネットで掲示板を覗いて、ちょっと書き込むということには、
それほど犠牲にするものがないし、責任も生じない。

この世界はホントに、お気軽にできている。

言いたい事だけいって、気に食わなくなれば、
そこを見ないことにして、次の気分に合った場所、
おなじような考え方をする人が集まる場所を探していけばいい。

でもね、そういうのって、ストレス解消にはなっているんだろうけれど、
けっきょく、なんにもなっていない思っています。

あんまり、お気軽な質問はしないよう努力していただきたい(減ってきてますネ)
文章を時間をかけて読み込む努力をされて、
参考文献に目を通されるなどの労力を払って、
今後とも、しっかりとした質問をしていただきたいと希望します。
精進させていただいています。ありがとうございます。
編集済


流れ星 ☆彡様へ 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月20日(火)08時59分34秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

流れ星 ☆彡様、おはよう御座います。

近頃お話が大分わかりやすく述べられ始めたよう、精進いかばかり、
さて、

>「まる信じ」とは、ちょっと違っていますネ。

「まる信じ」とは「鵜呑み・丸呑み」と受け取ってもよろしいでしょうか。

>このあたりが、仏教らしいところだと思います。

では「仏教らしいところ」と「まる信じ」はどのような違いがあるのでしょう。
また、

>この世の中には存在しない「けしの種」。
>「けしの種」、そして念仏には、仏の優しさが詰まっている、

この表現には「けしの種」の例え話、「そして念仏」にも、
「この世の中には存在しない」「仏の優しさが詰まっている」
とも読めないこともないかな、
このところ、貴方の発言なれば、もう少し判りやすく、表現はできないでしょうか。
宜しければお願い申し上げます。

つまり貴方の言われる「この世」とは、娑婆に云われる物質偏重世界をいい、
それに対するに、「仏の優しさ」云々とは、精神世界を示唆するのでしょうか。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


補足 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月20日(火)06時46分11秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

このお話がフィクションなのか、ノンフィクションなのかは
さほど、問題になってきません。実体化はとにかく避けます。

それよりもお念仏を通して、
弥陀の大悲を讃えるということが重要視されます。

歎異抄第2章に表現されているような感じ。

「まる信じ」とは、ちょっと違っていますネ。
このあたりが、仏教らしいところだと思います。


(無題) 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月20日(火)00時15分57秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

「はるか昔、法蔵という菩薩が、この世の様々な苦しみに悩む衆生をみて、浄土を建立された。
そして、悩める人々を導き招くために、ただ自分の名前を称えるということを
この国へ迎える手だてにしようと、長く深い思索の末に考えだされ、今、阿弥陀仏となられた。」

これが仏説無量寿経に出てくる法蔵菩薩のお話です。
ぜんぜん、スカスカなんで、岩波文庫ワイド版でも読んでください。
真宗の信心表白も教学も、この物語をモチーフとして、多種多彩に展開されてきています。

ここには大乗仏教の「菩薩」と「大悲」の精神が込められています。
「菩薩」は涅槃に入ることを拒否し、自ら地獄に落ちて、
あらゆる衆生を救うことを願いとして活動しますが、
法蔵菩薩の場合は、往生の手だてを念仏という、
極力、個人差がつきにくい、実体のない事柄にすることによって、
ざまざまな属性を持つ人間が、みな同じ条件で救われていくということを願い、
摂取不捨の浄土の完成を実現しようとしているわけです。

この物語を、門徒は自分自身に引き当てて読んできました。
「衆生」とは、ただ漠然と世界人類というようなことを指しているのではなく、
わが身のことであり、法蔵菩薩はこの私のために、念仏を用意してくれたのだと。


ただ、あくまで名号は方便法身の尊形。
たんなる手立てであって、阿弥陀や、浄土そのものではない。
釈尊がキサーゴータミーに示した「けしの種」みたいなものですね。

http://www.tomo-net.or.jp/sermon/douwa/d_j05.html

この世の中には存在しない「けしの種」。
しかし、キサーゴータミーは「けしの種」を通して釈尊の優しさを知りました。
「けしの種」、そして念仏には、仏の優しさが詰まっている、ということです。


>(無題) 投稿者:なまぐさ  投稿者:テルゼ  投稿日: 5月19日(月)23時49分42秒 163.pool3.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>>神と共に生きることに希望を見出されてます。
>
>それはよかったですね(あっさり)。

まあ、やさしいなまぐささんとしては、冷たい。
どんな方法でも、何教でも、辛いお母さんに「生」の希望が少しでも持てるようになれば、
それは嬉しいことではないのかしら?
一緒に、喜んでは頂けませんの?

>そこで100人が100人に、その人に届く言葉を言えますか?。

ごめんなさい、あなたの質問の意味がよく分からなかったところがありました。

本当に大変だとは思います。
特に、あなたのようなやさしい方には、お辛いことでしょうね。
ただね、生意気を言いますが、これって、自分が救われるしか他には方法がないように感じます。
私はね、自分が救われた分だけしか、人への救いの手は差し伸べられられないと感じています。

また、こういう時こそが「他力」、自分の力でやろうとすると失敗するのだと思います。
自分の「救い」が、試されるときでもあると思いますよ。
私なら、ただ祈ります。一生懸命に祈ります。
「神様、今この大きな傷を負っているこの人に、あなたの憐れみと慰めの言葉を下さい。
私の想いではない、あなたの言葉を下さい」

>うまくできなかった、言葉を届けられなかった、何も話せなかった、
>あるいは言った言葉が返って苦しめてしまったことはありませんか。

こういう体験から「ああ、神様、仏様」となっていくのではないのでしょうか?
自分が、「救われる」しか他には何の方法も手段もないと、腹を括るよりしょうがないのでは?
ホントに「お任せ」出来たときには、
必ず絶望のどん底にいる人達の魂にも働きかけられるような
「奇跡」のような「智慧」の言葉が自分の口をついて出てくるものです。

>悟りは仏のお仕事。

では、「悟り」も「涅槃」も手には入らない?
しかし、悟りが「仏」のお仕事ならば、あなたもそこから「智慧」を頂く。
「かける言葉も有りません」なんて言ってないで「お任せ」すればいいじゃないですか?
それが、本当に「信じる」「お任せする」「神の意志に従う」
そういう事じゃないのですか?
何甘えているのでしょうか?
出来なかったら、それは自分が「救われていない」と言うこと。
「おまかせ、おまかせ」といいながら、自分の力で「事」を成そうとしているからではないのですか?

>>ああ、唯スタートラインに立つだけでしたね。
>何のこと?

以前こちらでどなたか、念仏は、入り口に立つだけだと。
目的は持たないとか・・・それが尊いとか仰っていましたね。

>おそらくキリスト教と真宗の違いですね。真宗では自己の内側からは罪悪深重、煩悩具足しか出ません。

これは、キリスト教でも全く同じです。
パウロさんが、そう決めてくれました(笑)
親鸞の、人間の心の底の底まで見通す目は凄いなと思います。

「神」に自分の身を預けたときに、初めて「罪」まみれの自分が見えてくるのではないのでしょうか?

>それを知らされるのは外から阿弥陀仏の呼びかけによってです。

これを教えてくれるのは、キリスト教では「キリスト」となるのでしょうね。

>これを聞法と言い、教えを聴くことです。

しかし、これは所詮「人様の教え」では、ないのでしょうか?
自分の体験ではないと・・・そんなことは、感じた事はありませんか?
「聞法」とは、所詮人様の「悟り」?「体験」の上での、マインドコントロールとは思えませんの?
自分の「体験」ではない、人の「体験」を自分の体験のように勘違いをしていませんか?

>その自己を知らしめる存在=阿弥陀仏に救いを求めるのが「南無阿弥陀仏」です。
>「神」(普通も信者はキリストとも思う)

これは、おそらく同じでしょうね。

>阿弥陀仏の他に救いはありません。真宗の救済においては。
>キリスト教のことは知りませんので、書けません言えません。
>もし私が書いたなら、キリスト教に、他の信仰に対する冒涜です。

お勉強してみて下さい。
現代の、ちゃんとした牧師も神父も仏教はよく勉強していると思いますよ。

> 大うそつきで、実は地獄に落とされても私は後悔しません。どう頑張っても私の行いは地獄行きだからです。(この段落出典は歎異抄)

「歎異抄」くらいは、私も読んでいます(笑)
しかし自分の行いでは「地獄行き」とは、「教えられて」あなた思い込んでのことで、
あなた自身で分かったことではないのでしょうが?
「神の子」と生まれた人間が、何故地獄へ行くのでしょうか?
本来は「神の子」と気付けば、地獄へ行くなどとは考えられないでしょうに。

>>> 私の内にはせいぜい五・六千年の業(ごう)程度しかありません。
>>これは、どうしてご自分で分かるのでしょうか?

>教えに知らされるのです。自分ではわかません。

本当は、ご自分自身の「力」はまだ知らない?そういうことでは?


編集済


>繰り返しです 投稿者:三吉 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月19日(月)23時22分02秒 1Cust79.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>その論理構造をあなたの美学と申しています。

なるほど、では美学ということで。


繰り返しです 投稿者:三吉  投稿日: 5月19日(月)21時35分44秒 ca9d71-154.tiki.ne.jp

ジャンク門徒さん

心理学的分析なるものではなく、
つまりあなたのお気持ちではなく
「論理に潜むところのもの」です。

まあ、私の書き込みに対して、「そーいうつもりで書いたのではない」と弁明
されとるわけですので、「論理に潜むところのもの」と言われたって、心理を
好き勝手に斟酌された気分になり、「なにいっとるのだ、こいつ」とお感じなるのは
ごく自然なことでありましょうや。すれ違いがありますから。

私が申し上げているのは「何々すべき」などと他人様に言いうるのは、
おふざけではないのであれば、
「大事なもの」を何かしらみいだしたからこそいいえるわけです。
貴方の場合の論理は、些細な問題=大問題なわけです。
なぜならば、何が大問題に発展するかわらないので、全ての些細な問題を
大問題の萌芽として捉えておられますので、実質的に「大事なもの」に
なっているわけです。誠実に答えるべきものと。
その論理構造をあなたの美学と申しています。


ハイ、三吉ちゃん、ごくろうさん。 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月19日(月)18時15分25秒 235.pool25.dsl8mtokyo.att.ne.jp

それにしても三吉さん、朝から夜中までこんなおばちゃんのお尻追っかけていて大丈夫?

チョンガーなのか、奥さんがいるのか、わたしゃ知りませんが
これではおなごとの「愛のお時間」がまるっきり無さそう。。。

そんなにモテないのかしらん?三吉さんは。

はい、いらぬお世話でした。ゴメンくさ〜い。


>ジャンク門徒さん 投稿者:三吉  投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月19日(月)10時56分55秒 1Cust64.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

三吉 さん、こんにちは。

>当然、ぐっちんさんの姿勢を問うているものでもなく、
>ただの責任不明瞭な「野次馬発言」です。
>ですから「冷やかし」半分とお答えになられた。)

あれは完全な冷やかしではなく、あくまでも半分冷やかしです。(半分はマジということ)
ですからぐっちんさんには一応謝っておきましたよ。「失礼しました」と、、、
その後、暴走しだして叶姉妹がどうのこうのとか訳の分からぬ独り言を連発していましたが、
正直あの時は「失礼しました」という必要もなかったかなと思いましたね。
まんざら冷やかしでもなかったのかな?

>普通なら「些細な問題」は無視していいわけです。

何が普通か知りませんが、時にして些細な問題を放置しておいた結果
大問題に発展することもありますね、社会の問題も自分の心の問題も。
ですから私の姿勢としてはどんな些細な問題にも出来るだけ一つ一つ誠実に
答えて行きたいという方針です。
(これは仏教徒としてというより人としてですが、この考えは今も変わってません)
前にも言いましたが、分からないなら、分からない。それも十分誠実な答えだと思いますし
場合によっては沈黙が誠実な答えになる場合もあるでしょうね。

>あなたは自分の論理に潜むところのものに無自覚なだけです。

心理学的分析ですか?
出来れば心理学の専門家の人にも分析して頂きたいですね。

>きっちりと私のイメージ「頓珍漢ぶり」を発揮していただいて
>おります。

いい線行っていますね、本当に。
わざわざレス有難う御座いました。
編集済


閑話休題 投稿者:なまぐさ  投稿日: 5月19日(月)08時15分34秒 y133242.ppp.dion.ne.jp

皆さんじっくりいきましょう。
じゃ、テルゼさんどうぞ。
私もクソとミソ。
編集済


模範的クリスチャンとは 投稿者:三吉  投稿日: 5月19日(月)08時08分19秒 ca9d71-168.tiki.ne.jp

パウロが「イエス」を「キリスト」化し、「信」を強調することで、「実践」が
おざなりになったという部分はある程度言えるのです。
具体的に言うと、パウロはローマ市民的見地から、「弱者は強者に従え」と言って
ましてその部分は批判されてしかるべきです。
またそういう信仰のみでよいという理念は、行為の実績によらずに、つまり弱者は
弱者のままで救われると言うイエス的な立場にもかかわらず、パウロの実際は、
そうではなかったわけで、そこにきづけば、何が大事で何が問題なのか、現代にも
生かせるわけです。
逆に信仰のみのパウロ主義を批判したマタイ教会は、「愛の実践」をパリサイ人以上
に求めます。信仰だけでは救われない。愛の実践は神の意思であり、実践するものだ
けが救われるのであると裁きます。
あなたは個々の歴史を具体的に見なく観念的に見てられますので、キリスト教の歴史
で申せば無自覚的ではありましょうが、マタイ的な「愛の実践」を強調するのに似て
います。
そしてマタイの愛の実践も観念的であったので、律法を完全に守るということでは
パリサイ人は凄く真面目でいっしょのことを言うてるにもかかわらず、彼らに批判
的でありえたし、パウロ主義の後継者たちの「病癒し」はイエスの伝統を引くもの
でもあるのにイエスの実践と切り離して批判しえたのも観念的であったからです。
外部からみますキリスト教とは「パウロ的信」と「マタイ的な愛の実践」の二つを
含みます。その意味であなたは「マタイ的な模範的なクリスチャン」と私には映り
ます。
まあ「パウロ」「マタイ」という切り分けは一つの視点に過ぎません。
あなたにはおそらく「パウロ以下弟子たち」という視点しかありませんので、
「マタイ」を単に「キリスト教2千年の伝承の重み、ありがたさ」「優れた魂救済方
法」に置き換えていただいて結構です。


何を批判しているのか 投稿者:三吉  投稿日: 5月19日(月)08時07分52秒 ca9d71-168.tiki.ne.jp

テルゼさん

私は「負」の根本を「弟子たちが作ったこと」にあるとは考えておりません。
前提からしてすれ違っています。

わたしの見方といたしまして、負の伝統「古今東西の世界史的罪の数々」を担お
うと考えられている人は、貴方の言う「まる信じ」じゃないように感じます。
なぜかと言いますと、「負」であると認識している部分を正当化されているわけ
ではないからです。
批判的に見られており、しかもまさしく自分の犯したこととして「責任」を内
的に感じられておるはずです。
そういう人たちとどこで会えるかと申し上げますが、反戦運動や、差別反対の
集いや反靖国やハンセン病の支援の現場や、様々な社会運動の現場でです。
イエスが徹底的に社会的弱者の側にいたように、弱者の側におられるわけです。

一方でキリスト者の中にも「伝統的な負」について、その時代では致し方なか
ったとか、昔の話で今はそうではないと、切り離される人たちもおるわけです。
あるいは護教的に正当化まで至る人もおられるのやもしれません。(想像)
私が批判しているのは観念的に「切り離したこと」で、自分は無関係だとし、
それだけならまだしも、「負を自覚的に担おう」とされるゆえ、今の時代の具体
的な諸問題に積極的に関わって行かれている人たちを、一方的な観念で、「溺愛」
と批判しえてしまうあなたの未熟さに対してです。

「くそとみそ いっしょ」の好例なのです。
編集済


>>テルゼさんへ 5月18日6時書込  投稿者:テルゼ  投稿日: 5月19日(月)03時06分22秒 136.pool16.dsl8mtokyo.att.ne.jp

なまぐささん、丁寧かつ膨大な(笑)お返事有り難うございました。
あなたには「きっと暖かいお心なのでしょうね」というお人柄がうかがえます。
やっと、ここで、ホッとするお方に出会えたような・・・

>もし、なみださんがこのやりとりを見て、何を思われるでしょうか。それはなみださんにしか判りません。
>私も含め>て無神経な書き込みで、なみださんの悲しみ苦しみに追い打ちを掛けるようなことはしていないか。
>それがみんな置>き去りにしたままだよ。

あなたには、反発されてしまいましたが、私はなみださんがまだ求道を始めたばかりなのに、
ここに投稿されたのには、きっと余程の止むに止まれぬ「思い」が有ってのことだと思いました。
ですから、少しでもその意志、意図を、あの投稿の中から読みとろうとしました。
それを、「勝手に推測するな」と言われてしまって、トホホ・・・です。

>(大きな声で)みんなどうなの??????????????
>なみださんは、いま現在も悲しみの中に暮らしてるのだよ。わかってる。忘れてない。

なまぐささんは、やさしい方なんですね。

>>現状の日本の仏教はテルゼさん指摘される通りです。すでに日本の仏教は(ほぼ)死に体です。

>大きな声で、「ほぼ。」なぜに決めつけたようなことを。日本中の仏教者を訪ねたのですか。

「ほぼ」と言われますからね。
普通の感覚からしますと99.9パーセントって感じですが、私だけかな?
辞書によりますと「おおかた。およそ。」と有ります。
「ほぼ」と言われますと、こちらがどう解釈しても仕方がないのでは?
   
   <それでは「善き教え」に導かれることも期待は出来ないわけですね。。。>
しかし、私も、最後に「。。。」を付けていますけれど。
決めつけてはいませんよ、お聞きしてるニュアンスも含まれてはいませんか?

すみません、「つづき」は、また後ほど。

編集済


>あちきから見ますと、(解説) 投稿者:三吉  投稿者:テルゼ  投稿日: 5月19日(月)02時49分21秒 227.pool10.dsl8mtokyo.att.ne.jp

キリスト教の「負」の部分の根本は、
弟子達が「キリスト教」を作ってしまったと言うところにあるのだと、私は感じています。

その弟子達の作り上げた「キリスト教」に従って生きたい人は
そう生きればいいのであって、
その中で、もう二度と間違いを犯さないように、努めていけばよいのではないのでしょうか?
そして、宗教を権力者に利用されないということ。

その与えられ【まる信じた】結果が、この様と思う人は
先輩達のあんな間違いはもうヤダ、二度と間違いは犯さないという決意の元、
新しいキリスト教を作っていけばいいことではないのでしょうか?

三吉さんのお話を伺っていますと、キリスト教を【まる信じた人】には好意的で、
【まる信じる】ことから、脱却して自分の足で立とうとしている者には、批判の罵詈雑言ですね。

そんなに【まる信じた】、結果が美しいものだったでしょうか?
そういう、反省が今為されなくていけないのでは?
人間というものは【まる信じた】結果、
どんな事でもしでかしてしまうということを、散々見てきたのではないのでしょうか。

しかしねえ、三吉さん、
こうして自分の宗教の欠点弱点に目を向けて
「何とかしなくては」という思いでいる人間に、嘲笑だけを浴びせかけて
何かあなたにメリットがありますの?あなたの信仰が深まりますか?あなたの愛する宗教が良くなりますか?

「模範的クリスチャン」・・・
何をもってして、模範的と?
では、模範的クリスチャンの定義というものをお示し下さい。
赤時さんにも、お願いします。

私は、キリスト教2千年の伝承の重み、ありがたさというものは、素直に受け止めています。
また、一度捨ててみて「キリスト教」の優れた魂救済方法にも、改めて感じ入っています。
それだけのことです。

それから赤時さん、【まる信じたい】とは、いったい何を信じたいのでしょうか?


ジャンク門徒さん 投稿者:三吉  投稿日: 5月19日(月)01時13分58秒 ca9d71-163.tiki.ne.jp

レスを見逃していました。お詫びします。

問題提示しただけで、「大事なもの」をみいだしてわけではない
とのことですが。。。
(だとすれば、「答えるべきなのではないでしょうか?」という
ご提言は、いい加減な「提言」です。
「提言」になっていないのですね。
当然、ぐっちんさんの姿勢を問うているものでもなく、
ただの責任不明瞭な「野次馬発言」です。
ですから「冷やかし」半分とお答えになられた。)

しかしながら、あなたにはある種の美学がおありになり、
仏教徒たるものは、「どんな些細な問題」にも誠実に応答して
いくべきだと考えられているわけです。
普通なら「些細な問題」は無視していいわけです。
だけどもその美学ゆえ「無視してよい些細な問題」が、応答
すべき「大事なもの」となるわけですね。
あなたは自分の論理に潜むところのものに無自覚なだけです。

きっちりと私のイメージ「頓珍漢ぶり」を発揮していただいて
おります。


(無題) 投稿者:なまぐさ  投稿日: 5月19日(月)00時13分36秒 y132036.ppp.dion.ne.jp

(つづき)
>>すいません、言葉に限って何を伝えるかでもう一度お願いします。私の説明不足でした。

>私も、子供さんを亡くされたお母さん方には、色々な言葉をお送りさせていただいてきましたが、
>それをここで全部お話しする分けにはいきませんし、プライバシーの問題もありますので
>牧師さんからの「聖句」でのお話の例を上げさせていただきます。
(中略)
>神と共に生きることに希望を見出されてます。

それはよかったですね(あっさり)。
うまくできなかった、言葉を届けられなかった、何も話せなかった、あるいは言った言葉が返って苦しめてしまったことはありませんか。私はそこで苦しんでいるのです。生き様も違う、死に様も違う、家族も、生活も、年齢も、収入もみんな違うのです。死に際して初めてお目に掛かる人もいるのです。そこで100人が100人に、その人に届く言葉を言えますか?。
悲しみの瞬間には言葉がなく、後で勧誘に熱心とは(5/16,03時)これでも言えますか。
なみださんは、救いを求めて手を出しているのだよ。

>またテレビで見たのですが、河野博臣先生というクリスチャンの外科医の方が、
テレビで見たは、不確定要素が多すぎますので何も言いません。

>お念仏をしていれば、「悟り」とか「涅槃」の境地が手にはいるって事ですね?

悟りは仏のお仕事。

>そうではなかったのなら、何を最終目的になさっているのでしょうか?
浄土往生。浄土に生まれるを願う。

>ああ、唯スタートラインに立つだけでしたね。
何のこと?

>外に求めた結果どのような「人間」になるのでしょうか?
>また、あなた方の「救い」とはなんなのでしょうか?

おそらくキリスト教と真宗の違いですね。真宗では自己の内側からは罪悪深重、煩悩具足しか出ません。それを知らされるのは外から阿弥陀仏の呼びかけによってです。これを聞法と言い、教えを聴くことです。その自己を知らしめる存在=阿弥陀仏に救いを求めるのが「南無阿弥陀仏」です。
阿弥陀仏の他に救いはありません。真宗の救済においては。キリスト教のことは知りませんので、書けません言えません。もし私が書いたなら、キリスト教に、他の信仰に対する冒涜です。

>まさか、死後浄土に生まれることではないですよね。。。

そうなんです。まさか、そうではありません。
今生は浄土の徳をいただきながら、穢土を穢土として生ききる。阿弥陀仏の国=浄土を見させていただくことで、今の穢土を知り、隣の人とともに浄土を願います。
この世の縁尽きれば阿弥陀仏にお任せするより、他に知りません。阿弥陀仏の力にて浄土に生まれさせていただくのです。もし阿弥陀仏が大うそつきで、実は地獄に落とされても私は後悔しません。どう頑張っても私の行いは地獄行きだからです。(この段落出典は歎異抄)

>> 私の内にはせいぜい五・六千年の業(ごう)程度しかありません。
>これは、どうしてご自分で分かるのでしょうか?

教えに知らされるのです。自分ではわかません。


>テルゼさんへ 5月18日6時書込 投稿者:なまぐさ  投稿日: 5月19日(月)00時11分30秒 y132036.ppp.dion.ne.jp

>さようで・・・何でもござれのスーパー店には、なれないのですね。

どうも伝わらなかったようで。本来僧侶とは専門職であるはずですね。その専門を求れば手に入りますよね。でも現状は僧侶に求めても無いのです。淡い幻想で求めざるを得ない、求める側の状況を比喩的に書いたのです。
スーパーは意味するところがわかりません。

>しかし何故、仏の前に全ての人と同じ凡夫であるはずの親鸞を神聖化しているのでしょうか?

本来あるべき姿を見失った真宗教団が、親鸞を神聖化することで教団の権威を保とうとしているのです。(書いちゃった。)世間では虎の威を借りると申します。ただ聖人の呼び方は尊称ですから、もしココをさして神聖化と仰るなら的はずれです。

>>そこに、期待してよい部分=教えに導く人と、期待してはいけない=人格高潔な善い人があります。

>はいよく分かりました。
>期待する方が間違っていると言うことですね。

期待していいところ、悪いところの両方が、両方があります。期待してよいところ、悪いとこをまず分けてください。その上で期待すべきところに答えられない僧侶が多いのが現状です。

>しかし、なみださんは前者の方にも失望したと、投稿なさったのでは?
>また、人の心を勝手によむなと言われますか・・?

前の書き込みで「それはあなたが・・・」は、なみださんの心の内は勝手に推測しない方がよいのではないかと言いたかったのです。
もし、なみださんがこのやりとりを見て、何を思われるでしょうか。それはなみださんにしか判りません。私も含めて無神経な書き込みで、なみださんの悲しみ苦しみに追い打ちを掛けるようなことはしていないか。それがみんな置き去りにしたままだよ。
(大きな声で)みんなどうなの??????????????
なみださんは、いま現在も悲しみの中に暮らしてるのだよ。わかってる。忘れてない。

>>現状の日本の仏教はテルゼさん指摘される通りです。すでに日本の仏教は(ほぼ)死に体です。

>それでは「善き教え」に導かれることも期待は出来ないわけですね。。。

大きな声で、「ほぼ。」なぜに決めつけたようなことを。日本中の仏教者を訪ねたのですか。
私は善き師に恵まれました。時々ココに書き込むMANU.さんのページを見てください。

(つづく)


世間話♪ 投稿者:三吉  投稿日: 5月18日(日)22時52分24秒 ca9d71-169.tiki.ne.jp

赤時さん

リベラル派なのね。
お勧めのキリスト教の解説書教えてくだされ。
最新の新訳聖書学の現況にちらっと関心でました。
日本語で読めるやつね。

テルゼさんってほんと、「模範的クリスチャン」よね。
私もそう感じる。(笑)


らくりんさんへ

精神衛生上は確かによくないかもしれませんね。
そそ、聖教の類読みますと、似たようなテーマが
数百年前から繰り返されていますね。
なかなか、新しいテーマは出ない。
人の愚かしさは時代を経ても似たりよったりやもしれません。
まあ私はあいもかわらず「クソつぼの中」から発言さして
いただきます。
慣れますと鼻も馬鹿になりましてさほど気になりません。


あちきから見ますと、(解説) 投稿者:三吉  投稿日: 5月18日(日)22時51分46秒 ca9d71-163.tiki.ne.jp

自分がしたことでもないのに、キリスト者として生きることの自覚の中に、
キリスト教がしてきた負の伝統「古今東西の世界史的罪の数々」までを主体
的に担われようとしている人々がいる。
その姿は実に実に美しく頭が下がる。
一方、負の伝統「古今東西の世界史的罪の数々」は、「十字架物語」に洗脳さ
れた人たちがやったことで私とは無関係と、臭いものは切り捨てて、美味しい
ところだけ取ろうとされている方がいる。

たぶん、前者を美しく感じられるのは、感じる人もまた自らの信仰の、負の伝
統をも担わずにおられないと感じておられるからで。。。

得意げに「負の伝統」を「切り捨てた」と語り、
担おうとされること(あるいは人の信)を「溺愛」と感じる人の愚かしさが、
無自覚的に新たな「負の伝統」を再生産されるわけで。。。
編集済


>第三者の感想 投稿者:あらし 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月18日(日)22時10分26秒 242.pool7.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>そして、からかいにはからかいで応えると、「お坊さんのくせに」と非難されてしまいます。

すると、あなたは、やはり真宗のお坊さんでしたか。。。

>すると、またあっさりと非を認めてしまう。これじゃ勝敗の帰趨は明白じゃないでしょうか。

で、あなたは、お坊さんというお立場を忘れて(ああ、元々立場などなかったですね・・)
相手を排斥するの為には、“手段”を選ばないと言うことですね。
今までのあなたの言動を拝見していますと。。。その様で。

しかし、ここの人達の中に、「あっさり非を認めてしまう」人が、お一人でも居られましたでしょうか?(笑)


テルゼさんへ 投稿者:赤時  投稿日: 5月18日(日)21時37分39秒 1Cust123.tnt5.tko2.jp.fj.da.uu.net

テルゼさんへ

>キリスト教にも色々問題はありますが、、、
>とお断りしていますが、お見落としで?

見落としました。失礼いたしました。

>赤時さんの所はそんなに酷いの?

いえ、テルゼさんと同じく、私も、教役者のかたには恵まれていますけれども、
ほら、よく、へんなうわさとかを聞くでしょう?という程度の意味でした、前回の投稿は。

話は変わりますが、前から聴きたかったんですが、
テルゼさんのお用いになる「十字架物語につまづいた」という表現は、
具体的には、どういう意味なのでしょう?よろしければ、教えてください。

それにしても、テルゼさん、「異端」を名乗ってここへご登場なさったわりには、
私には、とても「模範的クリスチャン」に見えてますよ。(笑)


今日は 投稿者:赤時  投稿日: 5月18日(日)21時30分28秒 1Cust123.tnt5.tko2.jp.fj.da.uu.net

今日は、友人の通う教会で、ちょっと原理主義っぽい?集会に参加してまいりました。
そこで、あらためて感じましたことは、やはり信仰の根本には、「まる信じ」がある、
ということでした。
最近の、皆様のお念仏にかんするお話を読ませていただいて、私なりの感想は、
「なむあみだぶつ」ととなえるだけで、(いかなる理屈も一気に超越して)
いきなり救われてしまう、というのは、なんて、ありがたい教えなんだ!という
ことでした。(私の理解が変でしたら、どなたかご指摘ください)
私がもし真宗門徒であったならば、いきなりこれを自分の物語として、受け入れて
しまった可能性があります。
私の属する、いわゆるリベラル派?プロテスタントでは、おうおうにして、
理屈がたくさん出てきて、「本質は、結局、まる信じ」という点が、見えにくくなっている
きらいがあると思われます。もちろんそれぞれの派に、よい点というのがあるわけですが。
むつかしいこと言わず、ただ、すなおに信じていたいなあ、と思った一日でした。


>ミソとクソ 投稿者:らくりん  投稿者:テルゼ  投稿日: 5月18日(日)17時37分28秒 206.pool23.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>だからこそ、侮蔑する者にはならなかった。

クソ、ミソと仰るあなた、
この御発言も、クソもミソも一緒にしておられるということには
気づかれていませんのでしょうか?
現に、「侮蔑」する人がいますのに・・・と、申し上げています。

これって、自己陶酔、自己美化の世界ではないのでしょうかと。。。
その様に美しいだけだったのでしょうかと。。。

>私はキリスト者の一人ひとりに、
>キリスト教徒が犯した古今東西の世界史的罪の数々の
>責任を問うつもりは毛頭ありません。

私は、こうした「十字架の名の元」に為されてきた「古今東西の世界史的罪の数々」
には、ウンザリさせられ心も痛み「十字架物語」から、目が覚めることが出来ました。
ですから、キリスト教が美しいものだと思いませんし、
お陰様で“「侮蔑」しない者”だなのどは、つゆとも思わずには居られます。

ご自分の信仰を大切の思うのと“溺愛”するのとは違うと思いますよ。


>>>「妙好人」 投稿者:ジャンク門徒 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月18日(日)16時58分33秒 1Cust132.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

jyugegu さん

>アメリカに与えられた日本の自由、

これが自由だと信じ思い込んで戦後50数年もの間突っ走ってきたのでしょうね。
これからも更に突っ走るのか?
「与えられた自由、責任感の伴わない自由、自分本位な自由」
結局これらの自由は因果応報といいますか最終的に束縛へと変わり苦悩を齎すものと考えます。
現に日本の現状がそのようなものではないでしょうか。
多分、アメリカも自由と言う意味を知らないのでしょうね、
相変わらず銃を手放せないようですし。
アメリカは束縛の国と呼んだ方が似合っているかも知れません。
私よりもjyugeguさんの方が「本当の自由」というものをよくご存知かと思いますが…

>親鸞の姿は、どの経過を経ての「阿弥陀」帰依だったのでしょうね。

法然が実は悟っていないどころか大きく道を間違っていた可能性もありますしね。
それを親鸞は地獄に堕ちる覚悟で法然を信じ突っ走った。
それを信じ門徒が同じ道を行く。
余り詳しく浄土真宗のことは存じませんが、
「法然と親鸞」「アメリカと日本」
凄く似ていると思います。
編集済


>>「妙好人」 投稿者:ジャンク門徒  投稿者:jyugegu  投稿日: 5月18日(日)15時47分38秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

ジャンク門徒様、こんにちは、

>因みに私だったら
>「道を求める姿勢が真剣か否かの違い」
>と答えます。

そうですね、
例えばフランス革命でフランス人が手にした自由と、
アメリカに与えられた日本の自由、

親鸞の姿は、どの経過を経ての「阿弥陀」帰依だったのでしょうね。


>「妙好人」 投稿者:ジャンク門徒  投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月18日(日)13時58分21秒 1Cust128.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>浄土教の先達にも魅力ある人は多くいますね。魅力の無い人も多くいますが。
>この違いはなんなのか?

因みに私だったら
「道を求める姿勢が真剣か否かの違い」
と答えます。
編集済


(無題) 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月18日(日)13時47分56秒 1Cust103.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>「ただ念仏」に生きる人と、余計なことを考える人との違いです。

そうかもしれませんね。
余計なことを考えず、
「ただ念仏」に生きる。
簡単そうで難しい気がしますが、
それが出来れば、殆ど「悟りの境地」でしょうね。
難しいからこそ遣り甲斐はあるのかもしれません。


>(無題) 投稿者:らくりん   投稿者:jyugegu  投稿日: 5月18日(日)13時40分31秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>「ただ念仏」に生きる人と、余計なことを考える人との違いです。

此処に云うのは、
「人」に「余計」とそうで無い人の「違い」の容認発言でしょうか。
で「余計なこと」とは「ただ念仏」に生きる人と、
貴方の意識では、どっちがどうなのでしょう。「余計」のもつ意味は?。

らくりん様、


あらし さまへ 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月18日(日)13時30分53秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

あらし様ですか、たにしゅう様ですかは問いませんが、

なかなか貴方の言う処適宜を得て居られるかと。

>jyugeguさんですが、ご推察のように、師匠気取りなんだと思います。

何処で何方が推察されたのか、
ところで自ら語られる言葉は自らの潜在意識が時として表れないものでもないかとは、
以前私のご指摘申し上げたところです。

>質問に答える場合、「真宗の立場ではこうなんだ」というふうにしか答えられません。

それは「真宗」が所謂門徒とする、一定枠内への説明のノウハウとしてこれを超えてはいけない、
と規定されているからでしょうか。御自分の土俵でしか勝負を競えない体質としての。
つまり真宗は人間を相手にして勧める教えに無く、特定門徒と言われる集団を規定しての刷り込み宗教でしかないと?。

>jyugeguさんたちは答えを求めて質問をしているわけではありません。

はて?、地球人類数十億、この総てを納得させる教えがあるとすれば、
あらし様、どんな教えなのでしょう。貴方方は、師匠気取りなのか、
常に断定口調にあられる様ですが。
私はこの「断定」するなにものかあるか?、と常に問うている積り。

らくりんつ様の仰るよう

>何も言う必要がない人への対応と、
>何も言う気になれない人への対応とは、
>まったく同じになってしまいます。

これまた云いえて妙かな。やはり苦労人。

合掌。


(無題) 投稿者:らくりん  投稿日: 5月18日(日)13時12分53秒 pro2.incl.ne.jp

「ただ念仏」に生きる人と、余計なことを考える人との違いです。


「妙好人」 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月18日(日)12時41分29秒 1Cust164.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

念仏世界を体得したものを「妙好人」と呼ぶらしいですが私がイメージする「妙好人」
とは柔軟で温和、けっして説教がましくなく角が取れて丸みがあり何事にも微笑んでいる
姿をイメージします。また誰かに妄想とか言われそうですが。
やはり真剣に道を求め歩いたからこそ、その「妙好人」の域に達することが出来るような
気がするのですが、、、

浄土教の先達にも魅力ある人は多くいますね。魅力の無い人も多くいますが。
この違いはなんなのか?


(無題) 投稿者:らくりん  投稿日: 5月18日(日)12時20分11秒 pro2.incl.ne.jp

私の場合、
皮肉なことに、
ネット上では、
何も言う必要がない人への対応と、
何も言う気になれない人への対応とは、
まったく同じになってしまいます。

いちいち対応しなくても、読めばわかるでしょう。
どちらがより「さもしい」かは。
このアホさをいつまでさらし続けるのかとあきれながら、
ただ、飽きてくださるのを待って、我慢してるだけです。

精神衛生にはよくないので、
仕事の前には見ないようにしてます。
編集済


つづき 投稿者:あらし  投稿日: 5月18日(日)12時12分24秒 ca9d61-151.tiki.ne.jp

jyugeguさんですが、ご推察のように、師匠気取りなんだと思います。
あの意味を取りにくいレスは公案のつもりなんでしょう。
しかしこれは迷惑な話です。弟子入りしたわけじゃないのにね。
そもそも、jyugeguさんの方法はネットでは有効とは思えません。
現実の関わりがあり、信頼関係があってこそ有効ではないでしょうか。

それよりも、三吉さんだけを論難して、どうしてjyugeguさんを無視するのでしょうか。ひょっとして、jyugeguさんは三吉さんよりずっと手強いと見て、遠慮されているのでしょうか。
jyugeguさんの掲示板でたっぷり論戦されたらどうでしょう。
たぶんjyugeguさんも喜ばれると思います。


第三者の感想 投稿者:あらし  投稿日: 5月18日(日)12時11分49秒 ca9d61-151.tiki.ne.jp

>あるごるさん
横レスです。
jyugeguさんたちは答えを求めて質問をしているわけではありません。
2ちゃんねるふうに言うと、釣っているわけです。
悪意はないかもしれませんが、楽しんでいるんでしょうね、問いつめることを。
ですから、「きちんと答える」ことは無理な注文です。いくら答えてもきりがありませんから。

質問に答える場合、「真宗の立場ではこうなんだ」というふうにしか答えられません。それに対して、「梵語の原義は」とか「キリスト教では」などと言われましても、「へえ、そうなんですか」としか言えません。
そこで「禅ではそれをこういうふうに受け取っているんですよ」となれば、「なるほど、だったら」と、このように話が進むんじゃないでしょうか。
ところがそうはならない。なぜなら、彼らは答えを求めていないからです。
それで水掛け論になる。

水掛け論では図々しい者の勝ちです。自分の誤りを認めてはいけません。
ところが真宗の人たちは実にあっさりと自分の非を認める。
それは掲示板での正しい方法ではありません。
それに対して、jyugeguさんたちは間違いや誤解を指摘されても、それを認めません。
これは正しい態度です。しかし真宗的ではありませんから、そうすることはできません。
そして、からかいにはからかいで応えると、「お坊さんのくせに」と非難されてしまいます。すると、またあっさりと非を認めてしまう。
これじゃ勝敗の帰趨は明白じゃないでしょうか。


(無題) 投稿者:らくりん  投稿日: 5月18日(日)09時33分52秒 pro2.incl.ne.jp

私はキリスト者の一人ひとりに、
キリスト教徒が犯した古今東西の世界史的罪の数々の
責任を問うつもりは毛頭ありません。
しかし、私は、幸いにも、それ自らの重荷として担おうとする
キリスト者に少なからず出遇うことができました。

その姿は美しく、敬意を表さずにはおれません。


ミソとクソ 投稿者:らくりん  投稿日: 5月18日(日)08時50分55秒 pro2.incl.ne.jp

それはそれを言った本人に言うべきことで、他人にぶつけることですか?
言った人が、言ったことにおいて、その信仰の程度が知られてしまうだけ。

あなたが、同じことをここでしたら、その人と似たり寄ったりの程度に
成り下がって見えてしまうのです。

敬意を払うべきものと唾棄すべきものとの区別がついていない、
そういうのがミソ・クソ議論です。

クソつぼからは跳ね返りがあるもので、
他人をクソだクソだと言っていると、
たとえクソではなくても、
言えば言うほど、クソまみれにて見えてしまう。
自らを安全地帯に置いておきこうとする姿ほど「さもしい」ものはない。

クソつぼの中に入って言う分には、
クソまみれになることをおそれる必要はないんですが。

〈蓮の花の美しさ〉はいいもんです、ね。
編集済


>(無題) 投稿者:らくりん 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月18日(日)08時40分17秒 167.pool7.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>だからこそ、侮蔑する者にはならなかった。

では、今の真宗のお方達は、違ってきてしまったのでしょうか?

私は、真宗の方達からは、キリスト教の愛の実行は、偽善だと散々「侮蔑」されてきましたが。
自力でのものが、どれ程のものかと。


(無題) 投稿者:らくりん  投稿日: 5月18日(日)08時00分26秒 pro2.incl.ne.jp

浄土教が成立してくる過程を振り返ると、
先達の聖教のあちこちで同じような議論が何度も繰り返されています。
浄土教を、自らの信仰として受け入れた人には
常に同じような侮蔑の言葉を投げかけられてきました。
侮蔑されても、自らの信仰に対する信頼と誇りを失わなかった。
浄土教を巡る議論には、本当に人間の愚かさと浅はかさと傲慢さが
如実に現われてくるものだ、との思いを強くしています。
それこそが、浄土教が立っている人間観なのでしょう。
そして、それは間違いなく自分自身が通ってきた思考の過程であることを
思い出させてくれます。
これほど単純にして受け容れにくい話はありません。(難信)
侮蔑されても侮蔑する者になるなかれ。
だからこそ、浄土教は輝きを失わなかったのです。
浄土教の祖師方や無数の先達のご苦労がしのばれます。

ネットでどこまでできるものか、まだまだ未知数ですが、
ご苦労様です。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

BBS場合に書く際に私が考えていることにすぎませんが、

相手を、説得しようとする言葉は、時としてとても傲慢で醜く映ります。
こういう場での議論は、直接の議論の相手を説得しようとする言葉よりも、
むしろ、画面には現われてこない読者を強く意識した方が、
魅力ある言葉になっていくのではないかと思います。

読む人の力/聞く人の力を信頼したい。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
しかし、
ミソとクソとを混ぜ合わせたような話というのは、読むだけでも疲れますな。
まったく。
編集済


>らくりんさん祝100000 投稿者:カブトムシ  投稿日: 5月18日(日)07時54分54秒 lyra.mula-net.com

おめでとうございます。
登場人物も増えてきて、住人は楽しいですが、らくりんさんは単に
アパートの管理人じゃないんでさぞかし苦労も多いことと思います
このような場を作られて維持されていることに何か同調するような
ところを感じております。今後ともよろしくお願いします。
属する場も違い個性豊かな人達で繁盛していくことは何か平和へも
繋がっていくようなところもあるように感じています。


>脱線 投稿者:赤時 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月18日(日)06時57分34秒 156.pool27.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>ここまでの話ですと、キリスト教の聖職者(教役者)は、
>みんなみんな立派なひとばっかりみたいになってますが、
>現実は、ぜんぜんそんなことはないということは、テルゼさんご自身、
>よくご存知でしょう?(笑)

キリスト教にも色々問題はありますが、、、
とお断りしていますが、お見落としで?

しかし、2年間ちかく真宗のお坊さん達とお付き合いさせて頂いて来ましたが、
「腐っているのかな?」と思っていたキリスト教会も
あら、比べてみれば、まだまだ捨てたものではないのかと思えるようになって、お陰様で・・
これは、私が知りあったお坊さん達がよかったのかな?(笑)

私も、二十数年、いろんな牧師さん、伝道師、宣教師に会ってきましたが、
私は「これではねえ〜?困ったちゃん!」というような方には
まだ一人も遭遇していませんので、これって幸運?
赤時さんの所はそんなに酷いの?

何処の教団にも属さずに、個人でやっている教会の中には
教祖になったり、カルト化したりで、酷い牧師さんが居るようですが。


>テルゼ様へ 投稿者:なまぐさ  投稿者:テルゼ  投稿日: 5月18日(日)06時47分20秒 156.pool27.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>八百屋に魚を求めるようなものです。

さようで・・・何でもござれのスーパー店には、なれないのですね。

しかし何故、仏の前に全ての人と同じ凡夫であるはずの親鸞を神聖化しているのでしょうか?

>私「なまぐさ」は、それをよしとしておりませんが、書き込みの中で感じ取っていただけないでしょうか?。

はい、ごめんなさい、今のところ・・・ぼちぼちと。
なまぐささんが、私達のお坊さん不信を払拭して下さるといいですね。
期待しています。

>そこに、期待してよい部分=教えに導く人と、期待してはいけない=人格高潔な善い人があります。

はいよく分かりました。
期待する方が間違っていると言うことですね。
しかし、なみださんは前者の方にも失望したと、投稿なさったのでは?
また、人の心を勝手によむなと言われますか・・?

>現状の日本の仏教はテルゼさん指摘される通りです。すでに日本の仏教は(ほぼ)死に体です。

それでは「善き教え」に導かれることも期待は出来ないわけですね。。。

>すいません、言葉に限って何を伝えるかでもう一度お願いします。私の説明不足でした。

私も、子供さんを亡くされたお母さん方には、色々な言葉をお送りさせていただいてきましたが、
それをここで全部お話しする分けにはいきませんし、プライバシーの問題もありますので
牧師さんからの「聖句」でのお話の例を上げさせていただきます。

今、お付き合いしていただいている二年前にお子さんを亡くされたお母さんは、
その時、牧師さんから、この聖句を頂いたそうです。
『悲しむ人々は、幸いである、その人達は慰められる』
                 
子どもさんの死をきっかけに、絶望の中から求道を始められていますが、
今、辛い中からも神の大きな慰めを頂き、この聖句が実感として感じられ
悲しみは一生消えることはないけれど、何とか悲しみと共に生きていけそうだと
神と共に生きることに希望を見出されてます。

またテレビで見たのですが、河野博臣先生というクリスチャンの外科医の方が、
幼いお子さんを踏切事故で亡くされたときに
牧師に『神のなさることは時に叶って美しい』という、
一見残酷な承伏しがたい聖句を頂いてしまって、
どう理解してよいか分からず大変ショックだったそうですが、
その言葉がご自分の一生のテーマとなり、ご自分の外科医としての傲慢さにも気づきを頂け、
結果として救われていったという感慨深いお話をされていました。

> 外にあります。
> 阿弥陀仏は五劫の思惟をし、ちょうさいようごう(字が出ない)の御修行をなさっています。

お念仏をしていれば、「悟り」とか「涅槃」の境地が手にはいるって事ですね?

そうではなかったのなら、何を最終目的になさっているのでしょうか?
ああ、唯スタートラインに立つだけでしたね。
外に求めた結果どのような「人間」になるのでしょうか?
また、あなた方の「救い」とはなんなのでしょうか?
まさか、死後浄土に生まれることではないですよね。。。

> 私の内にはせいぜい五・六千年の業(ごう)程度しかありません。

これは、どうしてご自分で分かるのでしょうか?


(無題) 投稿者:でろんぎ  投稿日: 5月18日(日)01時37分25秒 EAOcf-291p110.ppp15.odn.ne.jp

ほんとに念仏って色んな使い道がありますよね
呼吸を整えて落ち着いたり
嫌な奴と会うときでも摂取不捨と自分の罪悪甚重を思い出したり
バイクで飛ばすときには視野を広げてくれたり
死にたくなったときには自殺オナニーになったり
不安な気持ちで落ち着かない時にはその不安な状態が実は落ち着いていて
安らかな時こそ幸福感に酔っているのかと考えたり
最悪でも称えてさえいれば何とかなるだろうという根拠があるのか無いのか
よく分からない自信も出てくるし
はじけたいのにはじけれない時(コンサート等)気持ちのアクセルになったり
望みをかなえてくれたり反省や気づきをくれたり


蛇足 投稿者:三吉  投稿日: 5月17日(土)23時52分07秒 ca9d71-142.tiki.ne.jp

大事なのは先の投稿。以下お遊びですが、サービスしときます。

文脈を無視という指摘が誤解に基づいていると論証いたしました。
再度読まれてくだされ。誤読されています。

第一に関しては、私の読みでは、よっぽどの聖人ではなく、
悩みから立ち直ればぐらいのニュアンスです。
「最後に」をそこまで神聖化されているならば、私の立場からすれば、
甘えすぎです。つまりどちらでもさして問題ではない。
第二関しては、それを「与奪の論理」と申しまして、対話テクニックに
すぎません。
新訳のイエスの小気味のよい切り返しも、この種のテクニックが多用され
ています。

腹立たしいとのことだが、あなたが答えてないと中傷されていて、
「どこが答えてへんねん。いうてみろや」と申し上げ、再度「きちん
と具体的に答えてみいや」と申しあげたところです。
きちんと私が回答しているのにもかかわず理解できず、「虚像」とか言わ
れているので「虚像ってなんや?実像と虚像ときっちり説明してみぃや」と
今回申し上げときます。
「念仏=なまだぶぅ」が「どうして虚像なのか」と、その場合の「実像」と
は何なのかと。大事なのは想定されている「実像」とは何かです。
結論だけ申し上げておきますと「なまんだぶぅ」の代わりにいずれを実像として
もってきましても、私から批判されて反論不能になります。

それと「論理的整合性」とは、「お前、話よめてないな、理屈に拘って
本質見過ごしているぞ、もっときちんと読めや」ということでして。。。

まあ誤字脱字はお詫びしておきます。

当然のことながら、アルゴルさんの中に生じた「三吉像」はあるごるさん
の中での出来事なので、そんなものに一々、反論する気も起こりませんし、
それはそれでいいわけです。それは少なくとも私の一面を抑えているでしょ
うし、あるごるさんのリアリティなわけです。

お疲れ様でした。
他人様向かっては、きちんと答えないと横様からいきなり突っ込まれるが、
なにやら自己正当化され、撤退ですか。所詮そんなものです。

少なくともあなたが私に答えた量・回数より、私がJyugeguさん答えた
ほうが多いことをご指摘しまして終わりにします。
回答は期待しておりませんので、ごゆるりとロムっててくだされ。
編集済


あるごるさん 投稿者:三吉  投稿日: 5月17日(土)23時50分30秒 ca9d71-181.tiki.ne.jp

「念仏って何?」と問われたことに対して私はきっちりお答えしています。
「なまんだぶぅ」であると。
これが明確な回答なのです。ここをあなたはご理解されない。
にもかかわらず、これでは答えになっていないとあなたが感じられる由縁は
あなたの想像では、あるいはあなたの中に
「あなたの「念仏」は実は中身の伴わない虚像ではないか」という意味が
生じているわけです。
で、ですね。だとすれば、あなたに「私の念仏解釈なまんだぶぅ」が
「虚像」であるという論証責任が生じるわけですね。
なぜかといいますと言われた私にはピンときませんからね。
「1+1はいくつ?」と聞かれて「2」と答えて、それは「虚像」と言われても
「は?どうして?」なわけです。

誰に「虚像」という意味が生じたのかをじっくりと考察されてくだされ。
それは少なくとも私ではない。
簡単にいえば、あなたにとって何が「実像」で何が「虚像」かです。


まあ流れ星さんが「虚像」を大切にしているとお答えになっちゃいましたね(笑)
その辺もヒントやも知れませんし、迷路になってしまうかもしれませんです。


>「お念仏」とは何か 1 投稿者:流れ星 ☆彡   投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月17日(土)22時11分12秒 1Cust182.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

時々阿弥陀如来像を指して
「あれって偶像でしょ、偶像崇拝してるなんてアホくさ〜」
とか言う人がいますが、そういう時は
「いや、あれには思想というか仏法が詰まっていて偶像を崇拝しているというよりも
仏法を有難がって皆合掌してるんだよ」
(本当に仏法を有難がって合掌しているのか定かではないが、とりあえず)
とかいうと、大概
「あーそうなんだぁ。で仏法って何なの?」
みたいな展開になって私なりの仏法を説明するのですが、(これが意外と面倒)
お念仏はまたちょっと違うのですかね?
一般人にも分かりやすく説明して頂けると有難いです。
編集済


脱線 投稿者:赤時  投稿日: 5月17日(土)21時22分47秒 1Cust81.tnt5.tko2.jp.fj.da.uu.net

脱線いたします。すみません。

テルゼさん

ここまでの話ですと、キリスト教の聖職者(教役者)は、
みんなみんな立派なひとばっかりみたいになってますが、
現実は、ぜんぜんそんなことはないということは、テルゼさんご自身、
よくご存知でしょう?(笑)


>「お念仏」とは何か 1 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月17日(土)21時14分09秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

流れ星 ☆彡 様こんばんは、


>「実は中身の伴わない虚像」、数字のゼロみたいなものを、

数字のゼロとは「実は中身の伴わない虚像」、なのですか。


>流れ星さん 投稿者:三吉 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月17日(土)21時04分05秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

三吉様、こんばんは。

流れ星さん 投稿者:三吉
この投稿もまたいい線行っているでは?、

次が楽しみです。

合掌。


「お念仏」とは何か 1 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月17日(土)20時58分38秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

「念仏」とは、「『なむあみだぶつ』と言葉を発する」行為というのが辞書的な意味です。

ちなみに「名号」というのは「南無阿弥陀仏」という六字の文字を指します。

しかし、ここでご覧になってきたように、
わたしたち門徒はこの言葉に様々な意味を込めて、様々に使います。
「念仏を生きる」とか「念仏を本尊とする」とか「念仏に帰依する」とか。

私たち門徒は、文章のなかでこういう用法を自在に使いますが、
皆さん、こうした用法に戸惑っていらっしゃるのかと
あるごるさんの書き込みに励まされて、なんとか、思いつきました。

さて、先に、なみださんからの「阿弥陀仏の存在を信じさせてほしい」という
書き込みに対して、それを念頭に置いた様々なレスが、私のものも含めて書き込まれましたが、
一番、うまく阿弥陀仏ということを表現されたのはジャンク門徒さんだと、私は思いました。

つまりどの説明も不合格ではないか。
「だれも表現できない、だれにも理解できない、何か」という形容の仕方です。

阿弥陀仏の語源として言われている「無量寿」「無量光」。
「南無阿弥陀仏」名号の別の表現方法とされた、
「帰命尽十方無碍光如来」(世親)、「南無不可思議光如来」(曇鸞)にあるように、
「無量」「無碍」「不可思議」といった否定表現が「阿弥陀」ということをうまく表現します。
歎異抄の「不可称不可説不可思議」というのも、こういう表現方法を受け継いでいるわけです。

さて、よく先輩に叱られます。「「念仏」じゃないだろ、「お念仏」と言え」と。
形容でも最高の事柄として、非常に大切な事柄として「お念仏」を敬っています。
それが「本尊とする」ということです。

ただの言葉を、あるごるさんが別の文脈で使われた「実は中身の伴わない虚像」、
数字のゼロみたいなものを、なんでこんなに大切にしているかということが、
これまた、みなさん、わからないんだと思います。
これまでも、一生懸命書いてきたんですけど、もう一回書きますね。と。。。。

しんどいんで、とりあえず、ここまでにさせてください。また、書きますから。
編集済


テルゼ様へ 投稿者:なまぐさ  投稿日: 5月17日(土)20時47分52秒 U082227.ppp.dion.ne.jp

>>真宗では聖職者という言葉はありません。
(中略)
>お坊さんに救済の案内役“聖職者”を、だれも期待致しません。

どうも、私が読み違えてたようで。テルゼさん仰る「聖職者」とは、私どもの「善知識」教えに導く人のことと理解します。下の方に道案内との言葉がありますが、今の多くの僧にこれを求めるのは苦しい状況です。八百屋に魚を求めるようなものです。



>しかし、親鸞も「僧を殺したら浄土には往生できない」と言っているのではなかったかしら?
>そこには「仏」への道案内役として「特別」なものがあるのではないのでしょうか?

僧を殺すではなく、破和合僧のことでなでしょうか?。ココで言う僧とは僧伽(さんが)を指し、教えを聴く人の集まりを意味します。
このところは、話が噛み合ってるかわかりません。


>それが、葬式だけが「お仕事」だと思い知らされ
>また、ここでのお坊さん達の数々の「一般人」としての発言には
>落胆もあり、不信感も湧きますでしょう?
>そう思われてしまう今の状況には、あなた方は少しも胸の痛みを感じられないのでしょうか?

私「なまぐさ」は、それをよしとしておりませんが、書き込みの中で感じ取っていただけないでしょうか?。

>要するに、尊敬できるお坊さんであって欲しいというが、我々一般人の素朴な願いです。
>ここでは、そう思う方がおかしいと言われてしまっていますが・・・

そこに、期待してよい部分=教えに導く人と、期待してはいけない=人格高潔な善い人があります。

>しかし、あなた方がどんなに私に反論しようとも、
>人の心は、どんどん葬儀仏教から離れて行ってしまうのが現実ではないのでしょうか?

現状の日本の仏教はテルゼさん指摘される通りです。すでに日本の仏教は(ほぼ)死に体です。


>> ご自身ならどうか、ご自身の問題として一度考えてください。あなたならその時どうするか、何ができるのか。

>子供を亡くされたお母様達のお辛い心とは、微力ながら付き添わさせていただいています。
>お役に立てているかどうかは分かりませんが。

すいません、言葉に限って何を伝えるかでもう一度お願いします。私の説明不足でした。

>真宗だろうが、キリスト教だろうが、
>最後は自分自身に向かい合うより救われる方法はないと思っています。

>「仏」は、自分自身の中にあるのではないのでしょうか?
>外にあるのですか?

外にあります。
阿弥陀仏は五劫の思惟をし、ちょうさいようごう(字が出ない)の御修行をなさっています。
私の内にはせいぜい五・六千年の業(ごう)程度しかありません。

じっくりいきましょう。

アクセスカウンターが99,952だ。100,000取り合戦いくぞ。(おー)
2ch見過ぎ?
編集済


三吉氏へ 2 投稿者:あるごる  投稿日: 5月17日(土)19時38分33秒 L024186.ppp.dion.ne.jp

>第二に、テルザさんは「最後に」ですが、私は「最初」からというところに考え方
>の差があるわけで、そのことは私の過去ログ読んでいたらわかるはずです。

「最初から」と思っているのはあなた自身であって、元の発言者のテルゼ氏では
ない。要するにあなたは自分が「最初から」と思うのならば、たとえ他人が「最
後に」と思っていても、それを無視して、元の発言をねじ曲げてでも自分の考え
を押しつける、ということか。ならばやはり「最後に」という言葉を落としたの
は意図的であり、改竄といわざるを得ない。あなたのレスにはどうにかして相手
を自分の土俵に持ち込んで自分に有利な相撲を取ろうとする作為が感じられる。
これは公平ではない。

>あなたは論理的であるゆえ、基本的なことを見過ごされているのではないでしょう
>か。

だれしも完璧に正確に物事を書くことは出来ない。だが、あなたは私の目にはあ
まりにも非論理的に見える。論理の飛躍が多すぎるのだ。始めに結論があって、
どうにかしてそれを正当化するために様々なことをねじ曲げているように見える。

それにこのレスについてもそうだが、日本語があまりにも意味不明瞭な部分が多
すぎる(「具体的性」とは?全く意味不明の日本語)。例えば最初の「ところで
せっかくですのでお尋ねしたいのは、Jyugeguさんが何度もお尋ねされていること
にあなたならどう答えしますでしょうか?」という質問も、これだけでは何を聞き
たいのか極めて不明瞭だ。相当に時間をかけてその質問の意味するところを理解
してこちらから回答したのに、回答した後になっていまさらながらそれがどうい
う質問であったか、という弁解が長々となされているが、これではまるで人が返
事をしてからその内容を見て改めて質問の意味を練り直したかのようではないか。
これは極めて腹立たしい。

また、言いたいことが正しければその途中でどんな論理的不整合があってもかま
わないと思っている節すら感じられる。だからあなたのレスは結果として言い訳
だらけのつじつま合わせになってしまい「頓珍漢」なものになるのだ。日本語が
不明瞭なのもそういった経緯と無関係では無かろう。

そういうわけであなたのレスには過剰に慎重にならざるを得ないし、あなたのレ
スにしばしば見られる論理的不整合にいちいち付き合っていくのは苦痛極まりな
い。以前あなたは「あるごるさんに見える「三吉像」にまったく反論はありませ
ん。同意します。」と書かれているが、本当に私の言っていたことが理解できて
いたのだろうか?私にはあなたの投稿に改善点が見られているとは全く思えない。
斯様な苦痛極まりなく実りのない作業にこれ以上時間をかけたくない。申し訳な
いが、今後、私からのレスは期待しないで頂きたい。
編集済


三吉氏へ 1 投稿者:あるごる  投稿日: 5月17日(土)19時37分41秒 L024186.ppp.dion.ne.jp

>具体例を挙げて頂けないとあなたが何を言われているか明瞭ではありません。
>あなたが今回書かれた一般論を予想した上で「Jyugeguさんの質問」の意味に
>ついての「具体的性」をお聞きしています。
>テルゼさんへの回答ともリンクするのですが、
>「Jyugeguさんの質問」の中に大事なものを感じられたならば、
>他人に「答えろ」という前に、基本的に感じた人が答えたらいいわけです。

問われた人しか知らないような回答をどうやって私が答えればいいのだろうか。
例えば、Jyugegu氏はあなたに向かって何度も「念仏って何?」と問われているが、
そういったことに私が答えなければならないのか。それこそあなたの言うところ
の「甘え」ではないのか。
Jyugegu氏は要するに、あなたの言うところの「念仏」の意味が分からない、もっ
とつっこんで言えば、あなたの「念仏」は実は中身の伴わない虚像ではないか、
との疑念を投げかけていたのであろう。その答えはあなたしか知らないし、その
弁明はあなたにしかできない。そんな質問に、私や、あなた以外の誰かが答えら
れるだろうか。逆に、そういった質問に他人がのこのこ出て行って答えたとした
ら、それは質問された人間に対して失礼以外の何ものでもない。

前回の繰り返しになるが、上記のような意味で、Jyugegu氏の問いは、質問という
形式をとってはいるものの、その内容の多くは実は問われた本人に対して自分の
姿や自分の考えの曖昧さ、そして自分の持っている思いこみや固定観念を省みさ
せるようなものなのだ。斯様な質問に対してどうして他人が答えることが出来よ
う。もし本人が答えられないとしたら、それは本人に何らかの落ち度があったと
いうことではないか。たまに見られる本当に蛇足としか思われない問いにぶつかっ
てしまったらそれは適宜きちんと訂正していけばよいのだろうが、そのような欠
点を差し引いても、Jyugegu氏の質問に見られる今述べたような意義が失われるこ
とはない。

また、以下の部分において、以前私が指摘したようなことの繰り返しを行ってい
るので再び指摘しておく。

>いや本当に「自分自身に向かうより、道はありません」と言うことが
>身体でわかっていれば、

またしてもここで前回と全く同じ文脈を無視した引用がなされている。
前回の繰り返しになるが、あなたは「自分自身に向かうより、道はありません」
という言葉を見つけ、ここぞとばかりに飛びつき、この言葉を拡大解釈し、悪用
したわけだ。百歩譲って、たとえあなたのテルゼ氏に対する認識が正しかったと
しても、この文脈を無視した引用(他人のレスの悪用)という事実は絶対に変わ
ることはない。

>以下、蛇足の蛇足です。掲示板をよく読めばわかるはずですが、
>今、現に悩んでいる人に対して「最後に」といわれているわけで、
>今のテルゼさん自身に「最後に」が適用されるわけではありません。

テルゼ氏本人が自分はもう一人で大丈夫だ、とあなたは思っているのだろうが、
本人が自分はもう一人で大丈夫だと思っているかどうかは知りようがないし、何
処にもそうだとは書いてない。「最後に」というのは究極の段階の事であり、大
丈夫だと思っていたらそれはよっぽどの聖人だけではないか。あるいは、単に複
数回にわたって起こるそれぞれの「救い」のそれぞれの最後の段階、という意味
かもしれぬ。それなのにあなたは勝手に「今のテルゼさん自身に「最後に」が適
用されるわけではありません」と決めつけてはいまいか。


三吉 さん 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月17日(土)18時25分27秒 1Cust145.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>「Jyugeguさんの質問」をお二人ともきちんと答えるべき
>との旨の発言をされたわけです。
>こういう発言は「Jyugeguさんの質問」の中に大事なものをお二人が
>見出されているから言いうる発言です。

私は、答えるべきなのではないでしょうか?
と問題提示しただけで心から求めていた訳でもありません。
たしかあの時はぐっちんさんに問いかけたと思いますが、
jyugeguさんの質問の中に大事なものを感じたと言うより
ぐっちんさんの受け答えの姿勢に疑問を感じただけです。私に関して言えばですが。

あと三吉さんが前に仰った「頓珍漢トリオ」に私が含まれているとしたら
その「頓珍漢」と言う言葉は貴方様にお返ししておきます。


流れ星さん 投稿者:三吉  投稿日: 5月17日(土)17時43分22秒 ca9d71-181.tiki.ne.jp

お察しします。
親鸞サンスクリットしらんかったから、「わからん」とかいうてたねんには
また大笑いさせていただきました。
自分サンスクリット知っている気なんだから。。。お茶目っす(笑)


あいかわらず 投稿者:三吉  投稿日: 5月17日(土)17時24分11秒 ca9d71-181.tiki.ne.jp

おまぬけなのことを。。。

私はあなたにではなく、あなたに何かを感じられた方へ
「え?なんで?」と思っておるだけです。

その人たちの中に生じた意味をお尋ねしておる。
あなたの意図を越えたものをね。


(無題) 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月17日(土)16時51分31秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

いやはや、基本的に名号とか念仏が、どういう内容を持つのかとか、
浄土真宗がどういう教えなのかという根本的なところをご存じなくて、
自分の身近なものとどうせ同じだと、舐めてかかっておられたようですネ。

ここは、「親鸞の教行信証を読み解く」藤場俊基 明石書店 全5巻各3600円
(だいたい図書館にはおいてあるようです)を、ぜひご一読されることをお勧めします。
らくりんさん、とっても分かりやすく書いてくださっています。

原文を、通して、読んでいらっしゃらないからでしょうか。

「よきひと」なら他の人はだめなのかとか、
情報不足が「不可称不可説不可思議」とか。。。

歎異抄も現代語訳つきのものをご一読されることをお勧めします。

「念仏とは何か」については、もう少しなにか書けそうです。
編集済


三吉様へ 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月17日(土)16時18分02秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

三吉様、

なかなかいい線行っているのじゃない?、

そのような意識をもたれ、作業を重ねることで自己が練磨されるかな。

楽しみです。

合掌。


あるごさん 以下蛇足です 投稿者:三吉  投稿日: 5月17日(土)14時28分07秒 ca9d71-168.tiki.ne.jp

テルゼさんへの回答ともリンクするのですが、
「Jyugeguさんの質問」の中に大事なものを感じられたならば、
他人に「答えろ」という前に、基本的に感じた人が答えたらいいわけです。
「何を甘えているのか」というのはそういうニュアンスです。

揚げ足取りになりますが、掲示板で誰が誰から給料貰っています?
「お前ら、給料もらってるんだからもっとちゃんと仕事をせえよ」
という発想の中にまずは誤解があるわけです。誤解を前提にされている。
聖句を語るのがふさわしいと感じたならば、感じたその人が語ればいいわけ
です。
摩り替えとあなたはお感じになるのは、初めに誤解があるからだと思います。

いや本当に「自分自身に向かうより、道はありません」と言うことが
身体でわかっていれば、そして聖句を送るのがふさわしいとお感じになっている
ならば、更に誰もそれをしてないと感じるならば、自然と聖句を語るものだと
私は思っております。その姿こそが「最大の批判」でありましょうや

しかしながら、テルゼさんが言われるように世間一般に「聖職者」としての
期待やらその裏返しの侮蔑があるわけで、なかなかこの辺はわかりにくい
ものやもしれません。「なになにだから、なになにすべきだ」と。

以下、蛇足の蛇足です。掲示板をよく読めばわかるはずですが、
今、現に悩んでいる人に対して「最後に」といわれているわけで、
今のテルゼさん自身に「最後に」が適用されるわけではありません。

第二に、テルザさんは「最後に」ですが、私は「最初」からというところに考え方
の差があるわけで、そのことは私の過去ログ読んでいたらわかるはずです。
あなたは論理的であるゆえ、基本的なことを見過ごされているのではないでしょう
か。


あるごるさん 投稿者:三吉  投稿日: 5月17日(土)14時27分13秒 ca9d71-168.tiki.ne.jp

「Jyugeguさんの質問」の意味を他人様に問うたのは二回目です。
一度は、ジャンク門徒さん、次にあなた。

といいますのも、「Jyugeguさんの質問」をお二人ともきちんと答えるべき
との旨の発言をされたわけです。
こういう発言は「Jyugeguさんの質問」の中に大事なものをお二人が
見出されているから言いうる発言です。挑発やおふざけでないなら
ばですが。あなたはだからこそ彼に「敏感なる感性」をお感じになり、
「普通の人間なら見過ごしてしまうようなことまで問題に出来て
しまう」と感じられているわけです。
「問題の質」が大事だとお考えなわけです。だからこそもしかすれば、
私が見逃している「問題の質」があるのかもしれないし、ないとしても
具体的にどういう風に「問題の質」を捉えられているかをお聞きしたかっ
たわけですね。
「問題の質」はあなたにとり何でありで、その「問い」にあなたなら
云何に答えるかお聞きしたかったわけです。
ちなみに、私は「Jyugeguさんの質問」の質について「つまらん」と感じ
つつも私なりに言いたいこと、伝えたいことは「すべて」答えたつもりです。

具体例を挙げて頂けないとあなたが何を言われているか明瞭ではありません。
あなたが今回書かれた一般論を予想した上で「Jyugeguさんの質問」の意味に
ついての「具体的性」をお聞きしています。

テルゼさんへの回答ともリンクするのですが、
「Jyugeguさんの質問」の中に大事なものを感じられたならば、
他人に「答えろ」という前に、基本的に感じた人が答えたらいいわけです。
「何を甘えているのか」というのはそういうニュアンスです。


>言葉ってムズカシイ その三 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月17日(土)13時25分41秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>念仏ばあちゃんが

ここで何故「ばあちゃん」が出なければならないの?。

>(支配欲は、常に私と共にあります。だから、私は念仏を本尊にしていきたい、>ということもあります)

此処にも云うよう、
「私は未来永劫凡夫であると、だから皆様、仏に縋りましょう」との思い。
しかし「支配欲」ある人が、他に何かを勧める事は、支配欲の範疇に入るの入らないの?。
つまり「常に支配欲有る貴方は支配のために念仏を勧める」とは讀めませんか。

>ですから「南無阿弥陀仏」全体を本尊としているのは、
>この言葉がどう働くのか、
>ナンマンダブツとなえる行為がどういう働きを称える者にもたらすのか、
>こういうことを重要視しているから出てきたのではないかと思っています。

この言う処もまたよくわからない。
「こういうこと」とはどういうこと。
支配欲有る人が支配のために念仏を勧める、ということでしょうか。

貴方様のお勧めにより、
人の造る「意味」からの解放 投稿日: 5月12日(月)19時52分32秒
をも拝読の上。

お応えいただければ幸いです。

合掌。


>言葉ってムズカシイ その二 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月17日(土)13時20分39秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>「念仏とは何か」については
>どういことをお聞きになられたいのか

では貴方は「念仏」の意味を何と捉えられて、「念仏、念仏」と唱えられるのか。

>だいたい、人間が意味づけできるものに大したものはありません。

と仰られると、「念仏」も当然「大したもの」ではない?。

>自分のタンスの引き出しに対象を整理整頓して、一息つくわけです。

それは貴方の?それとも誰のこと?。

>真宗が阿弥陀仏を本尊とするのではなく、
>「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に南無します)」という言葉全体を
>本尊、帰依の対象としているという点です。

名号〔(namadheya)。名前の意。古くは「土くれ」とか「鋏」とかの形質を名指すとか〕として、ということでしょうか。
つまり南無阿弥陀仏に云う南無とは(namas。頭を垂れる。屈する。生命を預ける・帰命。)。 ( )内の意味ではなく、阿弥陀と名づける、この「名づける」と言う意味に「南無」は使われると。
すると此処に「南無」は「帰依」の行為を示唆はしないと言うことでしょうか。
つまり「南無阿弥陀仏」をば漢訳すれば。
「無量寿と名づけます」、或いは「無量光という名にします」と、
真宗門徒は「南無阿弥陀仏」と唱えるとき、意識すべきと。
何に対しそう「名号」・つまり阿弥陀仏と名づけるとすると貴方はされるのでしょうか。お伺いします。

>歎異抄にこうあります。
>「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」
>つまり、念仏は人間には意味づけ不可能。
>何かで言い表したり、説明したり、考えたりもできない事柄ということです。

それは親鸞の時代には阿弥陀の原語が〔(amitayus)無量寿。(amitabha)無量光。〕〔〕内の梵語の表音表記であり、その意味も何か判らなかった、その情報不足が、「不可称不可説不可思議」といわざるを得なかったのでは有りませんか。
それをそのまま、「歎異抄」に書かれているから後生大事にしょうなどは、それで糊塗する坊主の怠慢以外何ものでもないかな。

>ウチのタンスにも家にも入りきらない、

入りきらないとして惰眠を貪る言い訳以外何ものでもないかな。

>無限を認識したり手にする事は、当然、不可能です。

「不可能」表現は如何なものかと。「可能」の表裏で有るなれば。


>ナンマンダブツという、だれでもどこでもいつでも称えられる言葉が、
>とにかくスゲエことに、しておこうというわけです。

つまりそれに納得し、称えられる人は「スゲエ」人とマインドコントロールに導く方便?。

>考えられうる意味付け、価値付けを、相対化する視点を持ちえることになりま>す。

この論理理解不可能。何を何に「相対化」するの?。




>言葉ってムズカシイ その一 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月17日(土)13時17分11秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

流れ星 ☆彡様、こんにちは。

>「よきひと」は、先に引用した歎異抄のなかの言葉ということですが、
>これを、どんな言葉に言い換えたらいいのか困っています。

ご自分が取り扱いに「困ってい」るそのものをさもしたり顔に得々説教する事に、
何の疑念、後ろめたさも覚えないのですか。
そしてその上に布施を戴くとすれば、これは何でしょう。
少なくとも私は布施を受けるものではないゆえ、
自ら理解も無く公言し、布施を受け取る後ろめたさには繋がらない。

ウパニシャドにこれを称して
「目の暗い人に導かれる、目の暗い人は何処へ行く」と。


>あらしさんへ 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月17日(土)06時26分20秒 196.pool19.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>テルゼさんは、この板に書き込む人のどの人がお坊さんで、
>どの人がお坊さんではないということを知っているんですか。
   
はい、一応は。
皆さん名乗って下さいますから。
いまだに、ご自分の自己紹介を何もなさってない、あなたがお坊さんなのかどうかは・・・
あなたは、以前私のことを批判なさった「あらし」さんと、同じ「あらし」さんですよね?
そうでしたら、以前こちらに書き込まれた人と同一人物ですかと
お聞きしましたが、何の反論がありませんのでしたので、
私は同じ方ではないかと半信半疑でいます。

もうしそうでしたら、私はあなたのお立場は分かっていますが・・・
そうではなかったとしたら、私がそう思い込んでいる方にも大変失礼をしていますので
違うのでしたら、はっきりとお聞かせ願えれば有り難いです。
もし、この質問にあなたが「余分なこと」と感じて答えたくないのでしたら、
私が失礼な質問をしているのですから、お許し下さって無視して下さい。

ただ、あなたの発言が、お坊さんからの発言なのか、
一般の方からのものかは、はっきりさせていただきたいとは思います。
よろしければ、これには答えていただけないでしょうか?


>>テルゼさんへ 投稿者:なまぐさ  投稿者:テルゼ  投稿日: 5月17日(土)06時16分43秒 112.pool15.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>真宗では聖職者という言葉はありません。

真宗では、僧侶も「仏」の前では凡夫の存在であるということは、存じ上げております。
牧師も神父も、そういう意味では神の前ではみな「凡夫」です。
しかし、お坊さんが、葬式だけが「お仕事」とはっきり言って下されば
お坊さんに救済の案内役“聖職者”を、だれも期待致しません。

しかし、親鸞も「僧を殺したら浄土には往生できない」と言っているのではなかったかしら?
そこには「仏」への道案内役として「特別」なものがあるのではないのでしょうか?
一般人は、お坊さんというのは、そういう方々なのだという認識で接していますが・・・

それが、葬式だけが「お仕事」だと思い知らされ
また、ここでのお坊さん達の数々の「一般人」としての発言には
落胆もあり、不信感も湧きますでしょう?
そう思われてしまう今の状況には、あなた方は少しも胸の痛みを感じられないのでしょうか?

要するに、尊敬できるお坊さんであって欲しいというが、我々一般人の素朴な願いです。
ここでは、そう思う方がおかしいと言われてしまっていますが・・・
しかし、あなた方がどんなに私に反論しようとも、
人の心は、どんどん葬儀仏教から離れて行ってしまうのが現実ではないのでしょうか?

> ご自身ならどうか、ご自身の問題として一度考えてください。あなたならその時どうするか、何ができるのか。

子供を亡くされたお母様達のお辛い心とは、微力ながら付き添わさせていただいています。
お役に立てているかどうかは分かりませんが。

>真宗とはかなり方向性が違いますが、真宗では最後は仏(ぶつ)に向かいます。南無阿弥陀仏です。

真宗だろうが、キリスト教だろうが、
最後は自分自身に向かい合うより救われる方法はないと思っています。

「仏」は、自分自身の中にあるのではないのでしょうか?
外にあるのですか?


>言葉ってムズカシイ 投稿者:流れ星 ☆彡 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月17日(土)00時35分05秒 1Cust158.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>「念仏とは何か」については、

念仏とは肉食妻帯(女犯)の薦めなのではないか?
すべての苦悩の根源は女犯にあるといえるだろう。
確かに生まれてくる喜びもあるが、それは束の間の風の如し
世の中をまじまじと眺めれば生とは苦であると思わざるを得ない。

親鸞はマスターベーションを知らなかったのだろうか?
私が親鸞だったら念仏と共にマスターベーションを推奨していたであろう。
私が親鸞は地獄に堕ちたかも知れないと言ったのはその辺に根拠がある。
(地獄に堕ちたと言うより輪廻したかもしれないと言った方がいいのか?)
法然はともかく親鸞は私にとって実に怪しい存在だ。
親鸞を聖人と呼ぶのは如何なものであろうか、、、
因みに阿弥陀仏(念仏)を否定しているわけではありません。親鸞に「?」なだけです。
編集済


言葉ってムズカシイ 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月16日(金)22時19分16秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

「よきひと」は、先に引用した歎異抄のなかの言葉ということですが、
これを、どんな言葉に言い換えたらいいのか困っています。

少なくとも、ほかの人が悪いという意味では使いません。
「固定された師」ということでもない。

「最初は師として現れるとしても、
同じ道を歩むものとなってくれた恩人」でしょうか。なんか違うな。。。

「念仏とは何か」については、
人の造る「意味」からの解放 投稿日: 5月12日(月)19時52分32秒
にて表現したつもりですが、
どういことをお聞きになられたいのか、手がかりをいただけると幸いです。
とはいえ、物理的限界と表現力の限界がありまして、
どこまでお答えできるか分かりませんけどネ。



まったくの余談ですが、「真宗」五月号(大谷派の広報誌)に掲載された
田口ランディさんと、よつつじ亮さんの対談を、私も興味深く読んでいます。
ランディさんのおっしゃる、「すべてのとげを自分に向けて」文章を書くって
できそうもないけど、できたらすごいと思いました。
編集済


>こちらのお坊さん達へ  投稿者:あらし  投稿日: 5月16日(金)21時32分50秒 ca9d61-020.tiki.ne.jp

>テルゼさん
田口ランディがこんなことを言っています。

バーチャルな世界の中では、自分の思い込みとかイメージで相手の像を80%くらい補完しているわけです。それはどう考えたって、その人のご都合主義に走るじゃないですか。自分の都合のいいほうに妄想を働かせ、相手の見えない部分を補って、「こんな人」というイメージを抱いて付き合っているわけですよ。その都合のいい妄想の中で相手のことをよくわかったつもりになっている。本当は何もわかっていないんだけど。

>こちらにいらっしゃるお坊さん達はそうではなさそうですね。
テルゼさんは、この板に書き込む人のどの人がお坊さんで、どの人がお坊さんではないということを知っているんですか。
そして、そのお坊さんが現実の生活でどういうことをしているか知っているんですか。

ネットでの出会いということはたしかにあります。
ネットで知り合った、まったく未知の人と一緒に自殺するという出会いもあります。
こういう出会いはネット以外ではあり得ないでしょう。


>なるほど 投稿者:三吉 投稿者:あるごる  投稿日: 5月16日(金)20時18分22秒 L024162.ppp.dion.ne.jp

> ところでせっかくですのでお尋ねしたいのは、Jyugeguさんが何度もお尋ねされている
> ことにあなたならどう答えしますでしょうか?

この質問の意味は、一見たちが悪いように思えるJyugegu氏の執拗な質問責めに対
して私ならどう対処するか、ということであろうか?

確かに、Jyugegu氏の質問は、正直言って日本語が難解だし、執拗で皮肉めいてお
り、人をちゃかしたり煽っていることもあるし、相手を怒らせる要素は十分にあ
るだろう。
だが良く読んでみればきちんと核心をついているものが多いし、おおよそ普通の
人間なら見過ごしてしまうようなことまで問題に出来てしまう敏感(あるいは生
真面目)な面を持っているのだと思う。だからああいう質問責めになるのだと思
うし、確かにそのためそれが単にいちいち煩わしいものと捉えられてしまう面は
ある。(たまに本当に蛇足な事もあるようだが)
つまり、実はこの人は、単に無邪気で、愚鈍なほどに生真面目なだけなのではな
いか。少なくとも悪意はないのは確かだと思う。
だから、この人に付き合うことは正直しんどい作業になると思うが、煽っている
ように見える事にとらわれず、その生真面目さを受け止めて対話をしていくこと
は可能であるし、そうすればそれによって新たに見えてくるものや、自分自身の
色眼鏡や固定観念・思いこみなどについて気づかされることもあるだろう。従っ
て、大変なのを我慢して一つ一つの質問に丁寧に向き合っていくより他あるまい。


あと、赤時氏へのレスでわざわざ
> 「具体的」にご指摘頂いた訳で、
と括弧付きで言及していることを考えると、三吉氏は具体例を挙げて欲しいと思っ
ているかもしれないのでここで示してみる。


> <聖職者として「プロ」の意識をお持ちになって>
>
> 世の中、こーいう「甘ちゃん」が多いのであろう。
> 根本的に「勘違い」しているのだが。
> <自分自身に向かうより、道はありません>
> ならば、
> 最初から他人様にそーいう変な期待はせぬことだ。

この発言では、本当はさほど関係のない二つの事柄をごちゃ混ぜにし、あまりに
も短絡的に直結させているように思える。

テルゼ氏の発言を素直に読めば、要するに、単に「お前ら、給料もらってるんだ
からもっとちゃんと仕事をせえよ」と指摘している程度のもなのに、なぜかそれ
が「他人への変な期待」、つまり、「自分には出来ないことだからプロのお坊さ
んにお願いします」という発言に拡大解釈されてしまっている。そんなことはど
こにも書いてないのに。意図したかどうかは別としても、これは巧妙なすり替え
の可能性がある。

さらに、「自分自身に向かうより、道はありません」という発言が引用されてい
るが、これは発言された元のレスでの前後関係を無視した引用に思える。まして
や、原文では、直前に「最後は」という言葉が付されているのに、それがここで
は省略されてしまっている。「最後は」ということは、明らかに「途中の段階で
は誰かの助けがいる」という意味を含んでいるのは誰にでも容易に想像がつくこ
とであるし、そういう読み方は文章をきちんと理解する能力のある人間にとって
は常識的なことである。これを考えると、上記の引用は、まるで都合の悪い部分
をわざと消して自分の意図に沿うような形に他人の発言を「改竄」しているよう
なものではないか。


>なにをもって仏教とするのか  投稿者:jyugegu  投稿日: 5月16日(金)19時45分02秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

流れ星 ☆彡様こんばんは。

>私は、念仏を自分の中心としていこうとする「よきひと」に、出会ってきました。

>この念仏者の流れのなかに、わたしも加わりたいということです

そのような記述は例の投稿にありましたでしょうか?、まあそれは別に、
貴方が「よきひと」とされるのは、「念仏者」であられるよう。
すると貴方の判断では、「念仏者」以外は「よきひと」ではないというのでしょうか。
そのような「よきひと」が「自分の中心としていこう」とされるらしい、
「念仏」とは言葉を変えて表現すれば、何なのでしょう。

「念仏者」「よきひと」に尚巡り会えず娑婆世界に在る人を導くには、
念仏者以外が使う言葉を以って説明されるが肝要かとは。
それとも貴方は、文章全体を読んで理解不能の者は「よきひと」「念仏者」には、
不適当とされるのでしょうか。
先ず一点「念仏」とは何?。如何すること。

合掌。


なにをもって仏教とするのか 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月16日(金)19時27分31秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

釈尊は八万四千の法門を説かれたと言われています。
その中には、禅も念仏も法華もあり、お互いに矛盾する点もたくさん存在します。

私が、自分の価値感を根拠としてその中から仏説を選ぶということになってしまえば、
それは釈尊のほかの経典を否定することになります。

jyugeguさんは、以前もこの点にお尋ねになっていらっしゃっいましたね。
正しさの根拠は、どこにあるのか、と。

仏教を歴史学とか文献学の対象ではなく、信仰、帰依の対象とする場合、
基本的に、自分自身が言い当てられている教えを、選びます。

ほかの経典によって救われる方もいらっしゃるのでしょう。

「よきひと」である親鸞さんが、私を「煩悩成就の凡夫」と、言い当ててくださった。
そして親鸞さんが自らを言い当ててくださったと思われたのが法然上人。
法然上人は善導大師を、
善導大師は観無量寿経で韋提希を「汝は凡夫なり」と言い当てられた釈尊を
「よきひと」とされた。

そして、私は、念仏を自分の中心としていこうとする「よきひと」に、出会ってきました。

この念仏者の流れのなかに、わたしも加わりたいということです。
編集済


流れ星 ☆彡様へ追伸 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月16日(金)18時21分59秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>私がなにを仏教としたいのか、どういう人を「よきひと」としたいのかは
>文章の全体を読んでいただくと、お分かりになられると思います。

読んで判らないので質問するのであり、
「文章の全体云々」というなら、
貴方の「とにかく、帰って来ました」に記される、
文章を引用されて説明されるが肝要かとは。

合掌。


>jyugegu 様へ  投稿者:jyugegu  投稿日: 5月16日(金)18時07分14秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

では

>真宗の言葉で
>「弥陀の本願」

と文字表現されるらしい、
その「弥陀の本願」とは何をいうのでしょう。
浅学、私は阿弥陀〔(amitayus)無量寿。(amitabha)無量光。〕はものの本に目にするも、
「弥陀」がなにを示唆するか知らず。

合掌。


>ども 投稿者:流れ星 ☆彡 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月16日(金)17時57分07秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>私がなにを仏教としたいのか、どういう人を「よきひと」としたいのかは
>文章の全体を読んでいただくと、お分かりになられると思います。

もったいぶった言い回しをする事無く、
具体的に、これ との表現をお願いしたい。

合掌。


>僧侶の方々へお願いです 投稿者:なみだ   投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月16日(金)14時59分37秒 1Cust230.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

初めまして。

>僧侶の方々へお願いです。
>説得力のある救いの言葉で絶望の底にいる私たちの心を救ってください!

難しい問いですね。
最終的に時の流れが絶望、深い悲しみを忘却させてくれると思いますが、
説得力のない者から説得力のない言葉を貰っても更に絶望が深くなってしまうどころか
逆に腹立たしくさえなることもありますしね。
で、救われそうですか?

>皆さんの姿から、阿弥陀様の存在を信じられるようにさせてください!

これも難しそうですね。
捕らえ方によっては、ますます不信になってしまうかもしれませんね。

阿弥陀様は決して逃げることは無いと思います。
この掲示板だけで判断せずもう少し落ち着いたら広い視野と長い目で辺りを
見回してみてください。

何は兎も有れはやく涙が晴れるといいですね。

※私自身、説得力がありませんが、僧侶ではありませんので悪しからず…


ども 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月16日(金)14時18分29秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

私がなにを仏教としたいのか、どういう人を「よきひと」としたいのかは
文章の全体を読んでいただくと、お分かりになられると思います。
編集済


jyugegu 様へ 投稿者:なまぐさ  投稿日: 5月16日(金)13時09分10秒 U047231.ppp.dion.ne.jp

少々私の書き込みが曖昧すぎましたね。テルゼさんに伝えたかったので通仏教での仏法と言いたかったのですが、その前に自信教人信なんて使ったから、かえって混乱を生みましたようで。

以下のように前書き込みを訂正します。「仏法」を「弥陀の本願」と訂正し、真宗の言葉で書きます。

僧侶をなのるなら「弥陀の本願」を自ら信じ、人をも信ぜしむ=自信教人信を尽くすべきです。たまたま一足先に「弥陀の本願」を聞いたものが、これを人に取り次ぐのが僧侶と私は了解


なまぐさ 様へ 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月16日(金)12時41分02秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

初めまして、横レス失礼します。

>僧侶をなのるなら仏法を自ら信じ、人をも信ぜしむ=自信教人信を尽くすべきです。たまたま一
>足先に仏法を聞いたものが、これを人に取り次ぐのが僧侶と私は了解

との「僧侶をなの」られるよう。
因みに此処に云う「仏法」とは何をいうのでしょう。
これ識らずして、「人に取り次ぐ」こと適わず、
なら「僧侶」云々も怪しくなるかな。

合掌。


とにかく、帰って来ました。 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿者:jyugegu  投稿日: 5月16日(金)12時07分54秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

流れ星 ☆彡 様お久しぶり。

>釈尊という人は、優しい方だったと思います。

それは異論のないところかと。

>釈尊は、仏説無量寿経という経典で、

貴方、それはご自分に言い聞かせ、当然と受け入れられる説ですか。
それとも営業用に果せられたノウハウの一端?。

>「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
>よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」

>私もまた、「よきひと」の言葉を信じて

此処に云う「よきひと」の基準を何処に置くのでしょう。
そしてその「基準」を設けるのは「よきひと」
それとも「流れ星 ☆彡」様、貴方ご自身?、
ここをしっかり踏まえずして、何の貴方の「よき」説かとは。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


>テルゼさんへ 投稿者:なまぐさ  投稿日: 5月16日(金)11時52分29秒 U046097.ppp.dion.ne.jp

>聖職者として「プロ」の意識をお持ちになって、
>「お仕事」を、ちゃんと為さっていただきたいと思います。

真宗大谷派の坊主のなまぐさです。
聖職者とのお言葉がありましたが、人生、宗教経験の違いから話が噛み合うかわかりませんが。真宗では聖職者という言葉はありません。いわゆる俗人と僧侶という違いが有っても、真宗では仏(ぶつ)のまえでは凡夫(ぼんぶ)としての存在でしかありません。もし、仰るのであれば僧侶としての「プロ」の意識のほうが言葉としては、ココに書き込む僧侶連中にはよく届く言葉だと思います。
また、「お仕事」で言えばなみださんの出会った坊主は、葬儀という儀式を無事執行したのですから、立派にお仕事をこなして(!)こなして(!)こなして(!)います。しかし、僧侶としての使命を果たしているかは?です。僧侶をなのるなら仏法を自ら信じ、人をも信ぜしむ=自信教人信を尽くすべきです。たまたま一足先に仏法を聞いたものが、これを人に取り次ぐのが僧侶と私は了解しております。


>なみださんは、そのお坊さんにも、こちらにいらっしゃるお坊さん達にも、
>人の心を救いに導く「聖職者」としての意識が無いと感じられているのではないのでしょうか

それは、あなたが言うべきことではないと思うのですが・・・。


>ご遺族の悲しみの瞬間には、何も言葉が無く、
>後でこうして、宗教勧誘には熱心でいらっしゃいますが。。。

ご自身ならどうか、ご自身の問題として一度考えてください。あなたならその時どうするか、何ができるのか。


>「救い」は、もちろん最後は自分自身に向かうより、道はありませんが。。。

真宗とはかなり方向性が違いますが、真宗では最後は仏(ぶつ)に向かいます。南無阿弥陀仏です。

いろいろ反論もおありでしょうが、じっくりといきましょう。


とにかく、帰って来ました。 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月16日(金)11時40分04秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

釈尊という人は、優しい方だったと思います。
悲しみに沈む人を我が子として(一子地)、よりそっていこうとされました。
だから、虚無を終着点として人生を過ごすことが空しい事だと、
あるいは、そういう考え方で家族や友人を看取ることも空しい事だと、考えられた。

そこで、釈尊は、仏説無量寿経という経典で、
あらゆる衆生を救うことを願いとして
阿弥陀如来が浄土を建立されたというお話をされ、
「死」に「浄土」という意味を与えてくださいました。

(ナウシカが自らのなかに「闇」があることを指摘されつつも
 虐げられた人々を排除していく「真実」を拒否し、破壊して、
 人々を救う「真実」を選択したのと同じ仕組みだと思っています。
 ナウシカは、自らが神になることを拒否して、凡夫であり続けたいと望んだ。
 それは「闇」を認めたからでもある。)

そして釈尊の優しさに共鳴され、浄土の教えに帰依されたのが
インドの龍樹、世親、中国の曇鸞、道綽、善導、日本の源信、法然、(敬称略)
そして無数の念仏者たちです。

親鸞さんは、歎異抄でおっしゃいます。

「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」

私もまた、「よきひと」の言葉を信じて、
同じように「死」に意味、あるいは言葉を与えていきたい。そう、思っています。


ここで話題になった「けしの種」という仏典童話があります。

http://www.tomo-net.or.jp/sermon/douwa/d_j05.html

「けしの種」お話の最後、キサーゴータミーは、
亡くなったお子さんに「ありがとう」と話されます。

お子さんを亡くされた悲しみが、
なみださん御自身がおっしゃっているように、
まさしく、救いの機縁となりますことを。。。


流れ星さんへ 投稿者:カブトムシ  投稿日: 5月16日(金)07時30分36秒 lyra.mula-net.com

風の谷のナウシカ読みました。
流れ星さんの言われるように、7巻の内6・7巻が原作者のもっとも言いた
かったことが書かれてあるとおもいました。僕の関心はナウシカが真実を知
りたいという欲求が起るその心が何なのかというあたりでした。
6巻76P
セルム  困った人だ... その影が何者か知っているのですか?
ナウシカ 土鬼の皇帝です 
セルム  闇から生まれてた者は闇に返すべきでした
ナウシカ 闇は私の中にもあります この森が私の内なる森ならあの砂漠も
     また私のもの だとしたらこの者はすでに私の一部です

闇が自分の中にもあるという自覚、それが存在と私が一つという世界観に通
じていくのだと思いました。
そして続いてナウシカは一つという観点から旧世界の人間が作り出した神の
姿つまり人間が人間を離れた絶対者を求めるというあたりも面白かったです。
7巻122P
(神の国の人)愛してないのになぜ死神に名を与えたのだ 自分を愛さなか
  った母への復讐をしたのかね?
ナウシカ そんな...
(神の国の人)みな自分だけは誤らないと信じながら業が業を生み悲しみが
  悲しみを作る輪から脱け出せない....
  この庭はすべてをたちきる場所 トルメキアの二人の王子を見ただろう
  彼等は生まれてはじめて安らかな喜びを感じている
ナウシカ ......

このあたりもナウシカの心の中の姿、何か釈尊の悪魔問答のようにも見えま
した。
そして、ナウシカは自ら人間が作り出したその絶対者としての神を「あなた
達は影だ」と言って「否」とした根拠のようなものが何なのかということに
自分の関心が向きました。
このあたりは流れ星さんもおおいに関心があるとお見受けしました。
僕はここ数年、自分は自分の考えとまったく逆に思える意見を聞きたいと
いう欲求が何故出てこないだろうという素朴な疑問を考えつづけています。
この解にこの風の谷のナウシカは多いに貢献しそうです。今迄自分がそう思
っているとか考えていることが、そのまま自分自身なんだと思っていたこと
が、よくよく見てみると、そう考えているからといって、自分自身がそうで
あるかどうかということとは別なんだということも少し分かってきました。
これも解の手助けになります。


どこまで「甘え」たいのだろうか。。 投稿者:三吉  投稿日: 5月16日(金)07時14分11秒 ca9d71-142.tiki.ne.jp

<聖職者として「プロ」の意識をお持ちになって>

世の中、こーいう「甘ちゃん」が多いのであろう。
根本的に「勘違い」しているのだが。
<自分自身に向かうより、道はありません>
ならば、
最初から他人様にそーいう変な期待はせぬことだ。

それと真宗の僧侶が「聖職者」なわけがない。
そういうくだらん「中傷」をしている暇があるのならば、
聖句を贈るべきというあなたが、あなたこそが、
あなたが出会った「聖句」を語ればよいのである。
なさけない。。。


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