らくりんバンバン

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こちらのお坊さん達へ 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月16日(金)03時15分28秒 178.pool4.dsl8mtokyo.att.ne.jp

かける言葉も無い、というお坊さん方。
確かに、どんな慰めの言葉よりその人と悲しみを共にするということで、
人が救われていくということはあります。
しかし、お坊さんがそればかりを強調していたのでは、
あまりにも素人じゃないでしょうか?
聖職者として「プロ」の意識をお持ちになって、
「お仕事」を、ちゃんと為さっていただきたいと思います。

キリスト教にも、色々問題はありますが、、、
牧師は、お葬式の時には、必ず「聖句」をご遺族の方にお送りします。
それが、残された人達の人生の「課題」となったり
大きな「神」からの、慰めとなったりします。

式典の準備で忙しい中でもちゃんと準備して、
涙の中からも、しっかしりと故人についてのお話と
遺族への慰め、励ましのメッセージをこめた「お説教」もなさいます。
もちろん、お坊さんの中にだってそういったことをなさっている方が
少なからずいらっしゃいます。
でも、こちらにいらっしゃるお坊さん達はそうではなさそうですね。

なみださんは、そのお坊さんにも、こちらにいらっしゃるお坊さん達にも、
人の心を救いに導く「聖職者」としての意識が無いと感じられているのではないのでしょうか。

ご遺族の悲しみの瞬間には、何も言葉が無く、
後でこうして、宗教勧誘には熱心でいらっしゃいますが。。。

>あらしさん

>ネットは虚構の世界ですから、ネットに救いの言葉を求めても救いの幻想しか得られないと思います。
>現実の人と人との関わりの中で、人は救われていくと思います。

ネットは、現実世界では、決して出会うチャンスもないだろうという
人間同士の出会いをもたらしてくれます。
また、面と向かっては口には出来ない心の中のことまで吐露することが出来ます。
肌と肌が触れていても、相手のことが分からないというのが現実ではないのでしょうか。
「幻想」しか得られないと決めつけるのはどうかしら。。。

現に、私はネットで知り合った瞑想家の方に、大きな救いのヒントを受けました。
その方は、胃癌で余命幾ばくもない時に、
激しい痛みの中から私へのメッセージを送り続けて下さいました。
ネットには、こうしたすばらしい「救済」の出会いもあります。

「救い」は、もちろん最後は自分自身に向かうより、道はありませんが。。。
編集済


なみださんへ 投稿者:インソムニア  投稿日: 5月16日(金)01時33分51秒 fi2235.noc.kanazawa.nsk.ne.jp

私も長男を幼くして亡くしました。(15年くらい前)
私の家も昔から浄土真宗でしたが、その時は、私は「聖書」に引かれて、それで救われると信じていましたが、違っていました。
今は縁有って真宗に学ぶようになりました。
真宗にも、あなたの力になって下さるお坊さんは、きっとおられます。
今のような状況の時に「真宗」と出遭えたなみださんはラッキーだと思いますよ。


>デリカシー  投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月16日(金)01時21分22秒 1Cust54.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>>ネットは虚構の世界ですから、ネットに救いの言葉を求めても救いの幻想しか得られないと思い
>>ます。
>>現実の人と人との関わりの中で、人は救われていくと思います。

>なるほど。そうですよね。理屈ではなく、自分のモノとしていくためには体験するしか
>ないですよね。人との関わりの中からしか、宗教も伝わりませんよね。

初めまして、こんばんは。横レス失礼します。
私はネットも現実の一部と考えています。「されどネット」
これも立派な人との関わり(体験)ではないかと、、、
言葉とは人の心ではないでしょうか?
(顔が見えないメリット、デメリットはあるが何れにしろ人柄は伝わってくると感じます。)
直接的な救いにはならなくても、その手助けには十分成り得るかもしれませんね。
編集済


デリカシー 投稿者:“Chie”  投稿日: 5月16日(金)00時11分58秒 i220198.ppp.asahi-net.or.jp

>月命日に来られるお坊さんに、自分は仏教を学びたいんだ、それにはどうしたらいいだろうか、
>ということを話されたらどうでしょうか。
>それが糸口になるかもしれません。

これには同感です。お坊さんのほうには、「なみだ」さんの心情は見えていない。
あるいはわかっているんだけど、時間をかけて話したいと思っているかもしれません。
(「亡くなった人のことを話すといかんなぁ」と言えるということは、お坊さんにも
伝えたいことはあるんだ、と信じたいです)
やはり、糸口を作った方がいいと思います。

>ネットは虚構の世界ですから、ネットに救いの言葉を求めても救いの幻想しか得られないと思い
>ます。
>現実の人と人との関わりの中で、人は救われていくと思います。

なるほど。そうですよね。理屈ではなく、自分のモノとしていくためには体験するしか
ないですよね。人との関わりの中からしか、宗教も伝わりませんよね。

>>"Chie" さん ということで、
>その坊さんは真宗の教義的に間違いはないかもしれませんが、
>「な〜ん、いながら浄土へはいける。亡くなった人のことを話すといかんなぁ、話さないいんだ
>がなぁ」
>なんて言うのは、人間として間違いだと思います。

うう〜ん…。デリカシーのない人間ですみません。

ところで、この「な〜ん」の響きに、ボクは故郷富山を思い出すんですが…


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>なみださんへ 投稿者:なまぐさ  投稿日: 5月16日(金)00時00分57秒 U047018.ppp.dion.ne.jp

心中、お察し申し上げます。
とんでもない住職にあたりましたね。私もおなじ真宗の僧侶として恥ずかしく思います。このような住職が多いことは確かですし、愛知県在住の私もそんな僧侶かもしれないと思うと、私への教戒ともとれます。
昨年4月に私どもでお取り次ぎしている方が(門徒の方)90歳(男)で突然亡くなりました。朝起きてこないので見に行ったら、すでに命終られていました。今年2月にそのお宅の60歳の方(嫁。適切な表現ではありませんが、他に思いつかないのでお許しください。)がくも膜下出血で突然亡くなりました。残った家族は90のおばあちゃん、61歳のご主人、32と30の二人の娘さんです。60歳の方が亡くなったときの枕経で、私自身話せる(掛ける)言葉がなかったことを記憶しています。そればかりか枕経の最中に泣いてしまいました。あまりにも役立たずの自分に対して腹立たしくて、そして残された方を思うと・・・。その中から一言だけやっと絞り出せたのが、
「最後ですから、丁寧に送ってください。」(←役立たず坊主)
今日がちょうど百ヶ日ですが、今でもあの時に私に投げつけられたボールは返せないままです。

ところで、浄土真宗は「なみだ」さんを救う宗教です。それは先人方が証明してくださっています。決して歴史に名前は残りませんが、日々の暮らしに生きる人が救われ続けてきたのが証拠です。そして、私も救われることが明らかになりました。もちろん阿弥陀仏に救われるのです。それを知らされたのは「聞法」という歩みでした。
この続きは直接メールをくださっても結構ですし、ココの掲示板でも、下のリンクで私の掲示板でも結構です。焦らずいきましょう。
是非、「南無阿弥陀仏」のお心をいただいてください。
編集済

http://6801.teacup.com/hongankai/bbs


書き込み訂正 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月15日(木)22時21分24秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>三吉様のような饒舌は
>空気を汚す

この
「空気を汚す」のところ

「哀れをさそう」に
訂正させていただきます。

あるごる 様にも
横レスともども
失礼の段、悪しからず。

合掌。


赤時さんへ 投稿者:三吉  投稿日: 5月15日(木)21時46分25秒 ca9d71-147.tiki.ne.jp

いえいえ、あるごるさんのご指摘にもあるとおり、今回わたしの捏造を
「具体的」にご指摘頂いた訳で、感謝しております。
ありがとうございました。

あやふやな記憶と自分勝手な思い込みで恥を晒しておるばかりですが、
またなにかおかしなことにきづかれました折には、アドバイスいただけば
嬉しく思います。


>なるほど  投稿者:jyugegu  投稿日: 5月15日(木)21時28分58秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>ところでせっかくですのでお尋ねしたいのは、Jyugeguさんが何度もお尋ねされている
>ことにあなたならどう答えしますでしょうか?

三吉様のような饒舌は
空気を汚す

等と。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


なるほど 投稿者:三吉  投稿日: 5月15日(木)21時07分57秒 ca9d71-151.tiki.ne.jp

あるごるさんに見える「三吉像」にまったく反論はありません。
同意します。

ところでせっかくですのでお尋ねしたいのは、Jyugeguさんが何度もお尋ねされている
ことにあなたならどう答えしますでしょうか?

ニーチェが「誠実」であった、そこが大事な点であるという視点も同意します。
ただ「誠実」だからこそキリスト教に拘り続けたと私はみております。
それは彼はキリスト教に出会ったからで「無関心」でいれないという「誠実」であると。


マルコ 投稿者:赤時  投稿日: 5月15日(木)21時06分09秒 1Cust84.tnt3.tko2.jp.fj.da.uu.net

三吉さんへ。

ご指摘、ありがとうございました。たしかに、
>マルコは、断じてパウロの弟子ではありません。
は、いいすぎだったかもしれません。

このほか、パウロと名乗っている書簡では、フィレモン、コロサイなど
の末尾に、マルコの名が見えます。
もちろん、手紙の末尾に名前があったからとて、弟子であるというには
飛躍がありますが、もちろん、伝承というものは、すごくささいなものからも、
ものすごく想像をたくましくして発達するものですから、
ここからマルコはパウロの弟子でもあった、と言うことはできましょう。
しかし、聖書は、同名異人が非常に多く、また、マルコ福音書が、本文で、自分を
マルコとは名乗っていないことなどもあり、現代において、通常は、
別人であるというのが妥当な見解のようですね。
(そもそも、2テモテ、コロサイは、特に前者は、パウロの真筆とも思われていない!)
どちらにしましても、三吉さんのお話の本筋とは、あまり関係ないお話になってしまって
いることは、私もよく分かっております。
そんなわけで、いずれにしても、ありがとうございました。


三吉氏に一言。 投稿者:あるごる  投稿日: 5月15日(木)20時37分20秒 L026198.ppp.dion.ne.jp

初めて投稿させて頂く。主に宗教関係の掲示板をあちこち眺めるのが好きで、こ
このところこの掲示板をずっと眺めていたのだが、常連の三吉氏の振る舞い方に
はどうしても納得が出来ない部分が多いと感じられたのでひとこと言わせて頂き
たい。

この三吉氏という人は、相手を「愚かだ」と決めつけるために他人のあら探しば
かりして人の発言に誠実に対峙しようとせず、そればかりかわざと発言の本質を
無視し、その上僅かにでもツッコミどころを見つければそれを針小棒大に取り沙
汰し、さらには偏見に満ちたご都合主義の「妄想」で他人の人格を勝手に規定し、
卑下し、そして自分の自己顕示欲を満足させているようにしか見えない。
「分からんと思うけど」「言うても無駄だと思うが」「気づけないんですね」
「学ばれたい」は、三吉氏がいつも使う狡猾な逃げ言葉。
この言葉には、いつも「俺には分かっているけどお前には分からない。それが分
かっている俺は偉く、分からないお前はバカだ」という意思が言外に隠されてい
る。ましてや、その自分が「分かっている」と思っていることが、自分で勝手に
捏造したものだとしたら?もしそうならばそれはペテン師以外の何者でもない。
この方法を使えば自分の弱みを見せることなく、自分の絶対的な優位性を確立し、
他人を貶めることが出来る。
本当は中身が空っぽのものをさも深遠なものであるかのように見せるために巧み
に質問をはぐらかして回答することを回避する。
Jyugegu氏という人がはそこを何度も何度も指摘しているのに「酔っぱらっている
連中にはわからんようです」などと言い逃れる。「誠実さ」というものがひとか
けらもないのではないか。端から見てると自分の自己顕示欲に泥酔(自己陶酔と
も言う)してる人間が素面の人間に向かって「俺は覚醒している!お前らが酔っ
ぱらってるんだ!」とくだを巻いてるみたいでたちが悪い。何を言ってもまたあ
あいえばこういうの繰り返し。こんな人間と対話しようとしても無駄ではないか。
本人はそれで自分の自己顕示欲を満足できてさぞ気分が良かろうが、そこから何
か大事なものが産まれるとはとても思えない。

最近はニーチェについても語っているようだが、それについても言わせてもらう。
ニーチェはどんなことでもひたすらにつき詰めて考えた。自分自身の考えや立場
にすら常に反駁し続けるほどに。
しかし、君はどんなことも自分にとって都合の良いようにしか解釈せず、都合の
良い事実しか見ようとしない。
ニーチェがキリスト教に対して徹底的な批判を行ったことについては、彼の幼少
期に厳格な牧師の家庭に育ってどうのこうのといったことはたいした問題ではな
い。最も大切で、そして最も重要なことは、彼がひたすらに「誠実」であったと
いうことだ。ニーチェは何事もひたすらに突き詰めて考えずにはいられない人間
だった。彼には、あらゆる嘘や欺瞞が許せなかった。君のように、おおよそ他人
の言葉に真摯に向かい合おうとせず、自分にとって都合の良いものだけを取り出
して歪曲して示し、口から出任せの思いつきばかり言っているような人間が評価
を下せるような相手ではない。


言葉を作るということ 投稿者:あらし  投稿日: 5月15日(木)07時58分45秒 ca9d61-077.tiki.ne.jp

>なみださん
お子さんを亡くされた方に対して、何か言わなくてはと思っても、
どういう言葉をかけていいかわからない、という人がほとんどだと思います。
それで、ありきたりの慰めの言葉を言うわけですが、かえって傷つけてしまい、
それでますます何を言ったらいいかわからなくなる。

できることと言えば、ただ黙って話を聞くことしかありませんし、
おそらく、お子さんを亡くされた方もいろんなことを話したいと思っておられるでしょう。
ただ、その糸口がわからない。
そしてお互いが黙ってしまい、世間話でお茶を濁してしまうんじゃないでしょうか。

月命日に来られるお坊さんに、自分は仏教を学びたいんだ、それにはどうしたらいいだろうか、ということを話されたらどうでしょうか。
それが糸口になるかもしれません。
ネットは虚構の世界ですから、ネットに救いの言葉を求めても救いの幻想しか得られないと思います。
現実の人と人との関わりの中で、人は救われていくと思います。

>"Chie" さん
ということで、
その坊さんは真宗の教義的に間違いはないかもしれませんが、
「な〜ん、いながら浄土へはいける。亡くなった人のことを話すといかんなぁ、話さないいんだがなぁ」
なんて言うのは、人間として間違いだと思います。


つづき 投稿者:三吉  投稿日: 5月15日(木)07時27分38秒 ca9d71-185.tiki.ne.jp

私は顔が強張るのを意識しながら、あえてお母さんに言ったのでした。

「いまのその悲しみは、お母さまの立場から亡き子を見ているときの悲しみです。亡き子
のほうから見られていない。仏さまはお母さんに、どういうお母さんであって欲しいと願
っておりましょう。その仏さまからのまなざしを抜きにしては、愛別離苦の悲しみの中に
仏さまの智慧を学ぶことはできないのです。悲しいときは、仏と一緒になって、手を合わ
せ、心ゆくまで泣くといいのです。泣いて泣き尽くしてゆくなら、仏もまた泣いているこ
とが、その涙の中に感得されましょう。―」

悲しみの涙は、そのまま亡き子からの贈り物なのでした。その涙を頂き尽くしてゆくこ
と、人間にその外に何ができましょう。その青年は、お母さんにとっては、女手一つで必
死に働いて育てた大事な大事な子でした。それだけにいっそう悲しい。しかし、自分中心
にして亡き子を追う涙であっても、よくよく考えると、亡き子から送られてくる悲しみの
涙なのでした。母親の悲しみは、同時に向こうの仏の悲しみでもある。「悲」とは「心」
が、二つに割れている形を現しているのでした。言うなれば、日頃の「心」の死を意味し
ているのが、悲にほかならない。自分のいのちを自分のものとしている人間の私は、その
自分によって子をもまた、自分のいのちとしているのでした。悲しみは、その自分の心を
打ち砕くのであります。その涙のどん底から、新しい智慧が立ち上がってくる。真の生の
喜びが溢れあがってくるのです。真に悲しむ人は、この仏の涙を頂く人であります。その
お母さんは、よほど悲しみが深かったのでありましょう、私の話を遠く遠く見つめるよう
な眼差しで聞いて下さいました。静かに頷いておられた。遠くの仏さまを見つめようとし
ておられたに違いないと思います。気がつくと、私たち生者は、いつも向こうから見つめ
られているのでした。 これが仏縁です。

一部を無断で抜粋しました。詳しくは、
http://www.shomyoji.com/kousamyon/kou-index.htm

ここのサイトの「死に学ぶ生の真実」です。


なみださんへ 投稿者:三吉  投稿日: 5月15日(木)07時24分52秒 ca9d71-185.tiki.ne.jp

私は僧侶ではありません。学生時代に「吾が子さんを亡くされて、
その悲しみの中から真宗に出会っていかれた」高史明さんという方の著作を読み、
そういう悲しみに沈まれている人にはわかりやすいのではないかと思いましたので、
ネットから「パクリ」ます。

まさに愛別離苦とは、骨の砕ける苦しみです。子や孫の後を追って、死にたかったに違い
ありません。にもかわらず、この身はこの世に残されているわけです。生きるとは何であ
りましょう。そのとき身と心は二つに引裂かれ、生きていることが、ただ恨めしいだけな
のです。生きているこの肉体が、襤褸のようにおぞましいのです。重いのです。しかも、
そのおぞましい肉体に囚われて、身動きもできない。そのお母さまの悲しみの声を聞くの
は、辛いことでした。本当に生きていることの真実とは何でありましょう

思えば、それこそが仏さまが私たちの根っこにいのちに問いかけていることなのでした。
お母さんの悲しみに、私はその仏の願いを感じないではおれませんでした。どうか生き続
けて欲しいと言うことです。その願いが、心の底に溢れあがってくるのです。この悲し
み、この苦しみは、なぜか。なぜ仏さまは、この堪えがたい悲しみ苦しみを、年老いた母
親に与えられるのか。慈悲とは何か。ほとんど本能的な叫びか、私の全身を走り回るよう
でした。 もし、お母さんが、その悲しみを自分中心に受けるなら、それはおぞましい肉体
への嫌悪をいっきに強め、その肉体を自ら捨てようとする衝動にもなるに違いないので
す。それこそが肉体への囚われです。人間は容易ことでは、仏さまのように純粋に悲しむ
ことができないのでした。どうしても我が身を責める。しかも、捨てようとして捨てられ
ないのです。しかし、その捨ようとして捨てられない肉体の悶えこそは、すでに新しい知
恵のはじまり、仏の声を聞いてゆく歩みの始まりなのでした。その悶えこそが、仏の慈悲
です。


ちゃいます 投稿者:三吉  投稿日: 5月15日(木)06時53分53秒 ca9d71-185.tiki.ne.jp

同じと思うことではなく、
事実としての「違い」はそのまま認識しつつも、
そこに「価値判断」=「高い低い浅い深い などなど」をいれないことです。

ニーチェ的文脈から申し上げれば「生きること」「実践」それ自体に「意味づけ」=
「価値判断」を導入することが「贋金づくり」です。
肯定的に語られる「子供」とは、ニーチェによれば、
「自らまわる車輪であり、自動運動であり」「無垢であり、忘却である。新しい始まりで
あり、遊びである」
つまり価値判断から当初より開放されている存在です。


三吉さんへ 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月15日(木)02時51分22秒 167.pool29.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>「高い低い」と「実践」を分けること自体があなたの言う「裁き」です。

では、マザー・テレサの「実践」と、この私の「実践」が同じだと思うのが
「裁きのない心」なのですね?


その道を… 投稿者:"Chie"  投稿日: 5月15日(木)00時10分56秒 i220198.ppp.asahi-net.or.jp

久し振りにここに来ました.いつのまにか「ぐっちん」さんも断筆してたし、
あまり知ってる人はいないんですが、「なみだ」さんの書きこみに
グサっと感じてしまい、なにか書かなきゃあとおもいました。

「なみだ」さん、本当にお辛いと思います。ボクにも娘がいますが、この娘達が先に
いってしまったら、ボクもきっと絶望してしまうと思います。

>35日法要の時の控え室でお茶を入れながら、「あんまり私が悲しむと、娘は極楽へ行けなくな
>るかと心配ですが、すごく悲しく、辛いです」と、救いの言葉を求める私に、「な〜ん、いなが
>ら浄土へはいける。亡くなった人のことを話すといかんなぁ、話さないいんだがなぁ」のお返事
>に、とてもがっかりしました。
>月命日にも来ていただいていますが、お経のあとは、世間話のみです。

ボクの家内の父が亡くなったとき、お寺さんは「悲しいですね」と言って、
遺族の心情を受け容れるところから始まりました.
でも、教義的なことはその後何回かの法事の中で、徐々に話して
いかれました。

娘を亡くした親の思いと、死をも乗り越えようとする教義との間には
かなりの隔たりがあります。何度も会って、確認をして、少しづつ
教義がわかっていくものだと思います。

文を見た限り、真宗の教義的に「間違い」とは言えないと思います。
でも、娘さんの事を思うせっぱつまったお母さん(お父さん?)には
わかりづらい、遠まわしな、また感情のないドライな言葉に聞こえた事でしょう。

多分ここが「なみだ」さんの出発点だと思うんです。
「娘さんが極楽に行く方法」から、「なみださん自身が浄土に行く方法」に
転換していく、そのきっかけなんだと思いますよ。

「何それ?」「何こいつ?」と思わずに(いや、思っててもいいんですが)、
この道を突き進んでみることをお勧めします。

(他のレギュラーの方々、ごめんなさい。突然入ってきてカキコしてしまいました.
 ボクの考えがおかしかったら、またいろいろ教えてください)

 From 僧籍を持つ、子どもたちのためのバンドマン


僧侶の方々へお願いです 投稿者:なみだ  投稿日: 5月14日(水)23時33分21秒 d-219-99-253-099.cable.katch.ne.jp

はじめまして。
こちらの掲示板は2ヶ月くらい前から、ロムさせて頂いています。

私は5ヶ月前に一人娘を亡くし、悲しくて、辛くてどうしようもなく、宗教でなんとか救われたくて、今から学んでいこうと思っている者です。

うちは、昔から浄土真宗ですが、恥ずかしい話ですが、私は今までまったく宗教に興味がなく、仏事に関することは、義母にまかせっきりで、お寺にお参りしたこともほとんどなく、仏法を聞いたことは一度もありませんでした。
人生は自分で切り開いていくもので、神様仏様にすがっている人を軽蔑していたところもありました。
勝手なようですが、このような私でしたが娘の死で絶望を味わい、宗教に救われるしかないと心底思いました。

家が浄土真宗なので当然のように、仏教を学んでいこうと思い、皆さんのお話を伺っているうちに、悲しくなってきてしましました。

うちのお寺のご住職さんは、お通夜のときもお葬式のときも、「お力落しで、若いのにお気のどくに」が唯一私たち家族にかけてくださった慰めの言葉でした。
35日法要の時の控え室でお茶を入れながら、「あんまり私が悲しむと、娘は極楽へ行けなくなるかと心配ですが、すごく悲しく、辛いです」と、救いの言葉を求める私に、「な〜ん、いながら浄土へはいける。亡くなった人のことを話すといかんなぁ、話さないいんだがなぁ」のお返事に、とてもがっかりしました。
月命日にも来ていただいていますが、お経のあとは、世間話のみです。

私はこのご住職が特別救いの言葉をしらない方だと思っていました。
しかし、ここでのお話を伺っている限り、そんなに違いがないことを感じましたが…
皆さん、このようなことを申しまして、失礼は十分承知しております。
私は、皆さんと議論をするつもりは、まったくありませんし、できません。
そのことで、言いっ放しになってしまう批判も覚悟で投稿させていただきました。

僧侶の方々へお願いです。
説得力のある救いの言葉で絶望の底にいる私たちの心を救ってください!
皆さんの姿から、阿弥陀様の存在を信じられるようにさせてください!


赤時さん 投稿者:三吉  投稿日: 5月14日(水)21時33分27秒 ca9d71-158.tiki.ne.jp

昔読みした本を確認しましたら、正確には
「マルコはペテロの弟子であり(ペテロ前書5,13)、
パウロにも仕えました。(テモテ後書4,11)」
「マルコはこの二人の偉人に対してヘルメノイテス、今日の言葉で
言えば秘書役であったといわれています。」
「マルコ伝はおそらく、ペテロがイエス・キリストについて見たり聞
いたりした事実を話したのをマルコが書き留めたものが主たる材料に
なって、それに他の資料が付け加わってできたものでしょう」

とありますので、概ねと致しましては、パウロとペテロを勘違いして
いたというのはその通りだと思います。

この本の序文は、昭和23年ですので情報としては古いのかも知れませ
んね。
ちなみに角川選書9「イエス伝 マルコ伝による」矢内原忠雄

詳しいことはわかりませんが、「テモテへの第二の手紙4,11」の解釈から、
マルコはパウロの弟子で「も」あったという立場は過去あったのだと
思います。(今日的見地ではマチガイであったとしても)
重ね重ねありがとうございます。


パウロでなくペトロ 投稿者:赤時  投稿日: 5月14日(水)09時40分00秒 1Cust239.tnt3.tko2.jp.fj.da.uu.net

三吉さんへ

これはあまりこまかくないことですが・・・

>マルコは、パウロの弟子でもあり、秘書的なこともやっていたとの伝承もちらっ
>と聞いたような覚えがある

とお書きですが、これは、「マルコは、『ペトロ』の弟子でもあり、秘書的なことも
やっていたとの伝承」の誤りだとおもいます。マルコは、断じてパウロの弟子では
ありません。思想上も、かなりひらきがあるようです。
(さらに、上に書いてあることは、おっしゃるとおり「伝承」の域を出ず、
「ペトロが言ったことを、その弟子筋であるマルコが、福音書に書いた」というのも、
あくまで「伝承」で、史実とは思われていないようです。さらには、マルコ福音書を
書いた人物が、マルコというのかどうかも定かでなく、じっさい、福音書は、
4つとも、題名をのぞいて、本文のなかで、「私はマタイ」「私はヨハネ」などと
名乗っていません。ただ、私は、そのような、伝承を、迷信あつかいしようとは
思いません。伝えられてきたことですから、大切にしたいです。そもそも、
福音書自体が、伝承みたいなものですから、伝承を否定すると、聖書全体を
否定するようになってしまいます。しかし、「マルコは、パウロの弟子であった」
というのは、伝承ですらなく、これはあきらかにあやまりだと思われますので、
訂正させていただきます)

>マタイ・ルカもマルコを下敷きにしていたなど
>とも聞き覚え有り

これは多くの人の言うところで、本当ですが、しかし、下敷きにしたのは、
あくまで「資料」として下敷きにしたのでありまして、「思想」を受け継いだ、というわけ
ではなく、むしろ、マタイ、ルカ、とも、独自の思想を展開しています。

きのう、本屋でぱらぱら宮台真司さん(字、あってます?)の本をめくっていたら、
パウロが、福音書を読んで、そこから、「隣人愛」をひきだした、というような
ことが書いてあってびっくり。普通、福音書より、パウロ書簡のほうが、成立が早く、
したがって、パウロは福音書を読んでいない、とされているのに。
失礼しました。


アンチクリストを読んでの感想(短) 投稿者:赤時  投稿日: 5月14日(水)09時20分41秒 1Cust239.tnt3.tko2.jp.fj.da.uu.net

きのう、ニーチェのアンチクリストを読み終わりました。
もっとよく読んでからの感想もいいとは思いますが、
「第1回の、読了直後の、感想」もいいと思いますので、
報告もかねて、少し書きます。

まずは、これは、そうとう、当時の時代背景、場所を
考慮に入れて読まなければならない、ということでした
(19世紀末、ドイツ)。できればニーチェの他の著作
も知っている必要があるのかも知れない(私は読まない
とは思いますが)。(さらに、三吉さんが触れておられ
ますが、ニーチェが牧師の息子云々、ということも
考慮に入れるべきかもしれません。)

このなかで、私の興味をひいた箇所は、(お手元に
アンチクリストがないかたはすみません)第47章、
第50章、第51章、第52章、などでした。

短い感想文になりましたが、とりあえず、以上で。


おやおや 投稿者:三吉  投稿日: 5月14日(水)08時01分40秒 ca9d71-148.tiki.ne.jp

「高い低い」と「実践」を分けること自体があなたの言う「裁き」です。

真の実践者は自分たちの実践を根拠に、他者に向かって
「実践せよ」ということの「愚かしさ」は身をもって知っている。
傍観者であるあなたにお伝えしたいのはその点です。

あくまでニーチェの妄想の上でのパウロ批判なのですね。
その狭い土俵に登りますと、
ニーチェは牧師の息子という環境から出発し、死ぬまでキリスト教に
拘らずにおれなかったのです。
彼はイエスを救うためにパウロ以下を断罪したわけです。
イエスに見たイメージは、「意味づけからの開放」であり、それは
「遠近」という距離感を持たないからこそ可能であったわけで、
逆にニーチェ的意味においてのパウロは自らの外部に「神」を置く距離
感が、歩みの目標となるわけです。その距離感が「意志」であるので、
「生そのものを肯定的に生きる」あり方ではなく、他の何かに支配されて
の歩みとなる。ニーチェ的意味でのパウロにはつまりゴールがあるわけ
です。イエスには「ただ自分の生を歩くだけ」
この掲示板で語られている真宗の救いは、ゴールに到着することが、
救いではなく、出発点に立つのが救いであるということ。
「すいません汗」とは、アンチクリストで肯定的に書かれている
仏教者の告白と同質ですね。
「善悪の彼岸」であり「裁き」あるいは「意味づけ」から開放さ
れており、「ただありのまま口にする、『私は悩む』」というように
「誠実」である」のですね。


>おやおや 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月14日(水)06時53分52秒 203.pool9.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>「キリスト教者の実践に見習え」というあなたの発言を
>分析しているわけです。

何か随分偉そうですね。

>一つには誰にでも実践があるのに、「見習え」という発想の
>中に「高い実践」と「低い実践」を予定している構造。

「高い実践」と「低い実践」とは歴然とあるのでは?
私は、どう頑張ってもイエスのように十字架には架かれません。

>二つには「押し付け」の中にある無邪気な「傲慢」

あなたのこの態度の中には「傲慢」はないのでしょうか?

><「神の国建立」には、政治運動も避けては通れない問題では?>
>具体的になにかされています?

いいえ。
でもあなたのような、宗教が政治運動に関わることに「裁き」の心はありません。

><自分が「神」に成り代わりたいがための・・・>
>ほう何を根拠に?

「パウロは目的が欲しかっただけだ。だからこそ手段をも欲したのだ。・・
・彼自身さえ信じていなかったことを、彼の教えを投げ与えられた白痴群が、
信じ込んだのである。パウロが欲しがっていたのは、権力であった。パウロ
と共に再び僧侶が権力にありつこうと欲したのだ。−−−それによって大衆
を威圧し、群畜を作り上げるための手段となる概念や教義やシンボルだけを、
彼は利用することが出来たにすぎない。後にマホメットがキリスト教から盗
用した唯一のものは何であったか。パウロの発明品、僧侶的専制や群畜形成
への彼の手段、すなわち不死の信仰である。−−−つまり、「審判」の教義
である。」(アンチクリスト)

>あなたの「ささやかな廻心体験」は「光に包まれた」後に、やはりイエスだと
>思われたわけです。それがあなたの「愛のイエス」と私は読みました。

人の「回心体験」を、見ず知らずのあなたに「分析」「決めつけ」しては頂きたくないですね。
私と神との一対一の関係のことであって、到底あなたには分かっては頂けません。
「神」は、私にとってもはや感覚としてしかなく、
決して切り離されることもなく、確かにその中に私が存在し
あなたに言葉で表し伝える分けにはいきません。

私の中で、「神」とイエスははっきり分離しています。
しかし、ある意味「同じ」でもあります。
以前、掲示板でお話しした禅宗の方が、
「自分の体験のあとから『仏』が着いてくる」と仰っていましたが
正しく、私とイエスの関係も同じだなあと思いました。
それが、神の「直接性」というものだと思います。

三吉さん、まだ私の質問には答えていただいてないですが。

<最後に、私にはどうやっても未だに見えてこないので、すごく素朴な質問。
で、阿弥陀様に救われた人間というのは、どんな人間になるのですか?

イエスは「子よ、汝の罪はゆるされたり、起ちて歩め」と言うのですが。。。>

あなた方は、決して一人では歩き出さないのでしょうか?
一生阿弥陀様のパラサイトとして生きていくのですか?
・・・ああ、世の中、パラサイトが一番大きな顔をしてましたねえ(笑)

>「なんまんだぶは何のはたらきかというと、本当の自分をそのまま突きつけられる
>ってことと思うんだよねぇ。自分が見たくないとこまで見せられてしまう。だから、
>『す・・・すいません汗』ってなっちゃう(笑)」

この、「すいません汗」の後は、どうなるのですか?

あなたも「なんまんだぶぅ」に救われたと仰っていましたが、
是非にその「回心」をお話下さいませ。


赤時さん 投稿者:三吉  投稿日: 5月13日(火)23時28分51秒 ca9d71-154.tiki.ne.jp

詳しい解説サンクスです。助かります。
なるほど文献学的にパウロが書いたと断定できるのは7つみたいですね。
後は人名冠されていても誰が書いたかわからない。

テルゼさんとのお話で見えてきたのは、彼女は、ニーチェ的意味での、
「イエス」と「キリスト教徒−パウロ以下弟子たち」という分け方の上の話
みたいですね。だから、「三位一体」とかもごっちゃになっておられる。


白状しますが私は計算に福音書のうちヨハネを除く三つを入れておりました。
まあええかげんな話ではありますが、私のうろ覚えでは、
マルコは、パウロの弟子でもあり、秘書的なこともやっていたとの伝承もちらっ
と聞いたような覚えがあるのと、マタイ・ルカもマルコを下敷きにしていたなど
とも聞き覚え有り、入れたのでと思います。
「人間イエスか」「イエスの神性」というテーマですので、ヨハネは、これも噂で
すが、グノーシス派の「イエスの肉体性否定」に対し、「神性」ともに「人間イエ
ス」を主張したと聞いていたのと、ヨハネは別系統という噂のためはずしておりま
した。すると私の計算では168/260章(あるいは137/260章)となっていました。
ええかげんな話 失礼しました。

小学生の頃は、バス代を歩くことで浮かして献金するような子でしたよ。
まあ核は小学生の頃、あともちらほら耳に入ることもあります。ええかげんですが。


おやおや 投稿者:三吉  投稿日: 5月13日(火)23時27分32秒 ca9d71-154.tiki.ne.jp

<イエスの実践を見習いたい>

貴方が個人的にそう感じているだけならば、問題はない。
だが問題にしているのはそこではない。
「キリスト教者の実践に見習え」というあなたの発言を
分析しているわけです。

一つには誰にでも実践があるのに、「見習え」という発想の
中に「高い実践」と「低い実践」を予定している構造。
二つには「押し付け」の中にある無邪気な「傲慢」

是非紹介してくださ〜い。

おそらく向こうはあなたに関心を抱かないではと推測しています。
ただ、声だけは人づてにかけときました。

<「神の国建立」には、政治運動も避けては通れない問題では?>

具体的になにかされています?

<自分が「神」に成り代わりたいがための・・・>

ほう何を根拠に?

以下余談。

あなたとニーチェの読み方が違うみたいですね。
ニーチェにとって大事な概念は、『意味性』だと私は思っています。
「彼が何を行ったか、何を語ったか、一体どんなふうに死んだのか、そういう
ことについての真実が問題なのではない。果たして彼のような『類型』がなお
想像できるかどうか、彼の『類型』が伝承されているのか、といったことこそ
が問題なのである」
彼は単なる歴史的事実に関心を示さず、「思想・実践が意味する者」を重視した
わけです。
プロテスタント牧師の家に生まれ、かなり宗教的に育てられ、その己の自由を
圧迫するような環境に嫌気がさし、「生を絶対的に肯定する思想」を生んだニー
チェは、イエスに「罪と罰からの開放」という意味を見出したのです。
パウロもまた倫理に厳しいパリサイ派の割礼を勧める者として生活しており、
廻心後にローマ市民権のあるユダヤ知識人として「異邦人布教」の観点から、
パリサイ的な「割礼」必須条件とする布教から脱却を目指すわけですが、
歴史的イエスに関心を示さずイエスに「キリスト」という意味を見出すわけです。

同じ構造です。

あなたの「ささやかな廻心体験」は「光に包まれた」後に、やはりイエスだと
思われたわけです。それがあなたの「愛のイエス」と私は読みました。


でろんぎさんへ 投稿者:らくりん  投稿日: 5月13日(火)22時16分29秒 isd234199.flets.incl.ne.jp

>ウイルスメール(W32/klez@mm)届きましたんで連絡しときます
連絡ありがとうございます。
といいましても、
このタイプのウィルスには当方からは対策のとりようがございません。

繰り返しになりますが、
この掲示板をご覧の皆さまに申し上げます。
このklez系のウイルスもそうですが、
これに限らず現在感染が広まっているウィルスの9割以上がマイクロソフト社の
ブラウザや、メーラーがターゲットになっています。
特に、アウトルック系統のアドレスブックはウィルスの培養地のようなものです。
したがいまして、
ウィルス対策の第一歩として、インターネットエクスプローラーとアウトルック系
のメーラーの利用を中止することをお勧めします。


らくりんさんへ 投稿者:でろんぎ  投稿日: 5月13日(火)19時35分28秒 EAOcf-333p79.ppp15.odn.ne.jp

ウイルスメール(W32/klez@mm)届きましたんで連絡しときます

新約だけ古本(100円)にて購入しました


>(−−)y−゜゜゜   投稿者:三吉 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月13日(火)13時37分04秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

三吉様、こんにちは。

>大笑いさせて頂きました。
では三吉様のお役に立てたということ?。
笑いは健康の元、まして「大笑い」となればなおの事かな。
>「念仏はなまんだぶぅ」なのです。
因みに物の本に依ると
念(思いを平らかにする。落ち着く事。)
念(法を記憶して忘れないこと)
念(気遣い、気配り)
そして「仏」とは当然仏陀(Buddha)。
では無くて「三吉」様の
「なんまんだぶぅ」とは「核心」と訳されるお言葉でしたか。
「三吉」様語でしたか。それはそれで納得。

>まあ平行線なのはわかりきっていますし、
神通力がおありのよう。
>例えば私の知り合い
貴方との対話に「知り合い」の応援は如何なものかと。
>それと不眠症とのご心配ですが、充分睡眠摂っておりますれば、
>ご安心のほどを。
酔っ払い、酔えば酔うほど、酔いはせぬ
三吉様へは「睡眠」のことでした。
なんまんだぶぅ「酔眠」ではなく。
合掌。


>>やれやれ  投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月13日(火)11時27分30秒 1Cust31.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>阿弥陀様に救われた人間というのは、どんな人間になるのですか?

これが重要なのではないかと思うのですよ。
宗教、特にカルト系は救われることに比重が傾きすぎていて
この大地に根ざしたテーマ「人間形成」または「人間完成」
言い方を変えてきつく言えば「人間の克服」の方が蔑ろにされていると思いますね。
宗教者でなくても人格的に尊敬出来る人間はいますし、宗教者でも未熟な人間はいる。

「ナマンダブー」と言っていれば人間形成の方はどうでもよさそうですね、というか、
「ナマンダブー」だけで本当にいいの?って感じですね。しかも誰がいいっていったのかな?
釈迦?法然?親鸞?学者?。
釈迦や法然や親鸞や学者がいいと言ったからいいのですかね?
(この連発?は私のただの素朴な疑問です)
逆にこの時代「ナマンダブー」だけでいいと言うのも説得力がない気がします。
今、人々はより確かなものを求めているのではないでしょうか?

後はやはり宗教家及び哲学者は一度真剣にニーチェと対峙すべきかもしれませんね。
されどニーチェだと思います。
私は一般人なのでそれほど詳しくニーチェを知りませんが、
何のためにニーチェが存在したのかということです。
「弱者を踏みつけろ」などと言っているのではなく
「弱者よ強くなれ」と叱咤激励している風に私は読みます。
彼の暴力的表現は彼の愛情でもあるのではないでしょうか?
編集済


また細かくてすみません 投稿者:赤時  投稿日: 5月13日(火)07時38分27秒 1Cust187.tnt2.tko2.jp.fj.da.uu.net

三吉さん

またこまかくてすみません。私が申し上げたかったのは、
いわゆる「偽パウロ書簡」をこめても、半数に達さないのでは、という
ことです。(他のかたへ註:偽パウロ書簡とは、本文で、著者が、パウロを名乗っていながら、
後世の研究家によって、パウロの真筆の書簡ではないとされている書簡です)
「偽パウロ書簡」をこめてもパウロの手紙は13通、新約全体で27書ですから、確かに
半分に達していません。分量からするともっと減ります(すごく短い手紙もありますし)。
(あと、「パウロ」が「関わった」といえば、パウロの出てくる使徒言行録(使徒行伝、
使徒行録、使徒の働き)をこめるか、という話もありますが、まあ普通こめないでしょう、
著者がパウロでないですし)
それから、普通「偽パウロ書簡」ですが、まずピリピ(フィリピ)は、入りません。
真正とされています。「偽」のほうに入るのは、「2テサロニケ」です。なお、へブル人
(ヘブライ人)は、かつて、パウロに帰せられていたこともあったようですが、これは、
著者がパウロを名乗っていないので、これは「偽パウロ書簡」ですらないでしょう
(さっきの13通にも入れていません)。

私は、あまり厳密には考えないほうでして、「偽パウロ書簡」も、著者がパウロを名乗って
いるからには、パウロだと思っておきたいほうなので、13通全部パウロだとして、
それでも半分には達さない、ということが言いたかったのでした。そもそも、どうも、
パウロの名による書簡が、真正か、偽か、という判断は、文体や、思想内容などから
判断してるようなので、ようするに、研究者の「信仰」が、たぶんに反映されています。
(しかも、というか、したがって、研究者によって、たぶんに流動的ですし。)
こういうことを考えていると、なんだかわけがわからなくなるので、「パウロ」と名のって
いるからには、いっそ全部パウロだと思ってしまうのが、フェアだろうと、私などは
思っています。もし、真正パウロ書簡のみに限れば、たった7通(ローマ、コリント、
ガラテヤ、フィリピ、1テサロニケ、フィレモン)になってしまい、新約全体の、
1/5程度になってしまいます。

そもそも、新約聖書を、「福音書」と「パウロ」に分けてしまうのが、おおざっぱだと私は
思うわけです。使徒言行録は?パウロ以外の使徒書簡は?ヨハネの黙示録は?など。

また、細かいことを、ながながと失礼しました。それにしても、三吉さんの通っていた
教会では、小学生に、パウロ書簡の真偽の話をしていたんですか?
ませてますね(笑)。


>やれやれ 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月13日(火)06時24分43秒 74.pool21.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>「あなたにパウロを感じる」と私の感想を述べている。

「感じる」のは、あなたのご勝手。あなたの感想を述べられましてもねえ。。。
もしや、そう感じられるのは、あなたにパウロ的なものがあるからでは?(笑)

>無闇矢鱈に「実践」を鼓舞する
>宗教者に、貴方の嫌いな「パウロ的なもの」を感じるのですね。
>パウロと何が違うのかを再度尋ねます。

「実践」という言葉に、異常な程の過敏さを示すのは、
あなたも、今まで私が出逢った真宗の人達と同じ(笑)これって、何故でしょうね?

これは、言いがかりってヤツではないですか?
あなたが、勝手にパウロと同じと感じるだけなのでは?
私には、あなたが私をどう感じているかなどということは分かりません。
私は、イエスの実践を見習いたいと思っているだけですから、
それをあなたが、パウロ的と取られるのは、
あなたの主観の問題ですから私には答えようもありません。

>ちなみにユニテリアンとは某チャットで友人です。

まあ、日本では、ほんとうにマイノリティな宗派ですのに、
お友達がいるとは凄い(笑)
私は、ユニテリアンの人は一人も知らないので、是非紹介してくださ〜い。

>あなたの「神の国」はたぶんこういう政治運動まで希求するところのもので
>はないでしょうが、まあ「実践」に共感されとるわけですね。

ユニテリアンに共感したとかしないとかではなくて
キリスト教の教義理解というのは、こうした多様性があります、ということです。
例えば「三位一体」は認めるけど、パウロは認めないと主張している人達もいます。

私の「イエス観」には近いものがあるとは思って、そこは共感してますが、
別に、ユニテリアンの「実践」に共感したとは一言も言っていませんよ。
しかし、「神の国建立」には、政治運動も避けては通れない問題では?
あなたの世界では「なんまんだぶぅ」と言っていれば、この世に「浄土」が訪れるのですか?

>パウロは確かに神性を強調していましたが、直弟子でないパウロには、もはや
>歴史的存在であるイエスが大事ではなく、パウロにとっての心理的イエスが
>大事であったわけで、そこの構造はあなたと同じです。

あなたにはパウロの気持ちが分かるのですね。
パウロの「実践」は、教団作りのための「実践」。
そこで、自分が「神」に成り代わりたいがための・・・

とにかく、ニーチェの「アンチクリスト」でも、じっくり読んでみて下さいな。
ニーチェが言うところの「心理学的イエス」は
あなたが想像しているような“心理的イエス”とは全然違います。
それに、ニーチェはキリスト教の中でも、
あなたがたがお付き合いしているドイツプロテスタントを
特に毛嫌いしていたみたいですけれど・・・(笑)

最後に、私にはどうやっても未だに見えてこないので、すごく素朴な質問。
で、阿弥陀様に救われた人間というのは、どんな人間になるのですか?

イエスは「子よ、汝の罪はゆるされたり、起ちて歩め」と言うのですが。。。

ああそれから、これ
>「瞑想」で出会った愛の人イエス」なのね。

私は、瞑想の中でイエスに出会ったなんて一言も言っていませんよ。
瞑想の中にイエスなど出てきたら、それは迷想と言ったはず。
ちゃんと人の話を聞いて理解してから、批判して下さいな。


はじめまして よろしく 投稿者:三吉  投稿日: 5月13日(火)03時12分12秒 ca9d71-170.tiki.ne.jp

赤時さん

いえご指摘サンクスです。
私にとって2/3でも半数以下でも趣旨は変わらないのですが、
私の知るところでは諸説ありまして、
「エペソ・ピリピ・コロサイ・テモテ・テトス・ピレモン・へブル人書簡」
あたりを入れるか入れないかで、2/3なのか、半数以下まで幅があります。
どちらがより厳密かといえば入れないほうが厳密だと私も思います。

まあ私は小学生時代に教会に通ってまして、小学生であった私が理解できた
情報量しかありませんので、今後もよろしくお教えください。


やれやれ 投稿者:三吉  投稿日: 5月13日(火)03時07分36秒 ca9d71-170.tiki.ne.jp

<勝手に決めつけないで下さいね。>

あなたは日本語が理解できないらしい。
決めつけているのはあなたですね。
私があなたの文章から何を感じているのかを開陳したにすぎません。
「あなたはパウロである」と決めつけているのではなく、
「あなたにパウロを感じる」と私の感想を述べている。

あなたが「負い目」を自覚できようができまいが、本質的な私の疑義とは
無関係でして、私が申しあげているのは、無闇矢鱈に「実践」を鼓舞する
宗教者に、貴方の嫌いな「パウロ的なもの」を感じるのですね。
パウロと何が違うのかを再度尋ねます。

ちなみにユニテリアンとは某チャットで友人です。
なるほどユニテリアンを肯定的に紹介されるということは。。。
まあパウロを左翼的に言えば、イエス及びエルサレム教会の
「ユダヤ人に限定された神の国」から「キリストを信じる者皆の神の国」へ
と開放したのですが、一方で「地上の神の国」を「死後の神の国」へとも
したわけです。ユニテリアンは「全ての者」「地上」という志向性から、
アメリカでは、種種社会運動、日本でも戦前の社会主義者や労働運動に影響
を与えたわけです。
あなたの「神の国」はたぶんこういう政治運動まで希求するところのもので
はないでしょうが、まあ「実践」に共感されとるわけですね。

パウロが「三位一体」を言うたわけではなく、3Cのサモサタのパウロやアリ
ウスのイエスの人間性を留意する主張を退けた、アタナシウスの「父なる神と
神の子イエスは同質である」という主張が「三位一体」説へと発展したわけで
す。
パウロは確かに神性を強調していましたが、直弟子でないパウロには、もはや
歴史的存在であるイエスが大事ではなく、パウロにとっての心理的イエスが
大事であったわけで、そこの構造はあなたと同じです。


(−−)y−゜゜゜   投稿者:三吉  投稿日: 5月13日(火)03時06分51秒 ca9d71-170.tiki.ne.jp

頓珍漢トリオ筆頭jyugeguさんのお茶目なところは「ドツボ」に嵌まっていただける
ところです。
さて今回のドツボは   <「ぼく」の「なまんだぶぅ」は聞き飽きた。>
大笑いさせて頂きました。
貴方が聞き飽きようが、核心でないと感じようが、
「念仏はなまんだぶぅ」なのです。ここが核心。
まあ平行線なのはわかりきっていますし、私が手を替え品換え語ろうと、
核心は核心であるわけですので当然繰り返しにしかなりません。

称名が単に「なまんだぶぅ」であると貴方の感覚では、「マントラ」同様とのこと
ですが、例えば私の知り合いの念仏者は次のように語っております。

「なんまんだぶは何のはたらきかというと、本当の自分をそのまま突きつけられる
ってことと思うんだよねぇ。自分が見たくないとこまで見せられてしまう。だから、
『す・・・すいません汗』ってなっちゃう(笑)」

それと不眠症とのご心配ですが、充分睡眠摂っておりますれば、ご安心のほどを。


なかなかに 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月12日(月)20時10分44秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

なかなか、皆様、本音対話で、
判りやすく、面白いではありませんか。
こうでなくっちゃ。

たまには
http://free.has-u.co.jp/cgi-bin/free/culture/u-bbs.cgi?room=zqrms
へもお遊びに・・。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


人の造る「意味」からの解放 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月12日(月)19時52分32秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

だいたい、人間が意味づけできるものに大したものはありません。
というのは、対象に意味を与えるというのは、
その対象を観察者の意味世界のどこかに位置づける作業ですから、
対象は観察者にとっては自分の範疇以下になってしまうからです。

赤ん坊が少しづつ言葉を獲得して、
この自我を拡大していく過程がそれです。
不可解なものが出現したとき、とにかく
自分の知っている何かに似ているとか、一緒なんだろうと言いたくなるのは、
ある意味、生来の防衛本能とも言えます。
そこから、自分のタンスの引き出しに対象を整理整頓して、一息つくわけです。

南無阿弥陀仏を「南無」「阿弥陀仏」に分けて
称名は、摂取不捨の象徴、阿弥陀仏に帰依する意志表明とするのも有益なのですが、
おもしろいのは、真宗が阿弥陀仏を本尊とするのではなく、
「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に南無します)」という言葉全体を
本尊、帰依の対象としているという点です。
なんだか、繰り返してるみたいでしょ。

歎異抄にこうあります。
「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」
つまり、念仏は人間には意味づけ不可能。
何かで言い表したり、説明したり、考えたりもできない事柄ということです。
ウチのタンスにも家にも入りきらない、とんでもないなんか、というわけです。

無限を認識したり手にする事は、当然、不可能です。
しかし、そこは「仮設」という手法を使っているわけです。
「方便法身の尊形」ということですね。
ナンマンダブツという、だれでもどこでもいつでも称えられる言葉が、
とにかくスゲエことに、しておこうというわけです。

わたしは念仏を0、零に喩えたことがありますが
だれも形容できない、だれも自分のモノにできない、だれにも支配、独占できえない、
そんなスゲエ事を本当に尊いこと(本尊)と置いたとき
(手に入れるという意味ではありませんよ。無限は有限の内にはいりません。)
考えられうる意味付け、価値付けを、相対化する視点を持ちえることになります。

念仏ばあちゃんが「偉そうなことをゆうても、凡夫に変わりはなかろうが」と、
笑い飛ばす手法がこれです。

ちなみにこの反対の手法は、無限を一部の人間が独占する方法で、
ヒエラルキーを形成し、カリスマによる支配を容易にします。
(支配欲は、常に私と共にあります。だから、私は念仏を本尊にしていきたい、ということもあります)

ですから「南無阿弥陀仏」全体を本尊としているのは、
この言葉がどう働くのか、
ナンマンダブツとなえる行為がどういう働きを称える者にもたらすのか、
こういうことを重要視しているから出てきたのではないかと思っています。



余談ですが
三吉さんが念仏を大切にしようとされている方だったんだなと、今頃知って、驚いています。
それから、私自身が書いていることに、
ぐっちんさんの影響が出てきていることにも驚いています。
彼がここで発してくれていた言葉が、今頃になって私に響いてきています。
ぐっちんさんの友人の方、ここを読んでいらっしゃったら、
恐れ入りますが、流れ星☆彡がお礼を申していたとお伝えください。<(_ _)>
編集済


細かくてすみません 投稿者:赤時  投稿日: 5月12日(月)19時35分49秒 1Cust11.tnt3.tko2.jp.fj.da.uu.net

三吉さん

>新約聖書の2/3に関わったパウロ

とお書きですが、ちょっと多いのでは?
半分未満というとこでしょうか。細かくてすみません。


瓢箪から独楽?駒?狛? 投稿者:MANU.  投稿日: 5月12日(月)18時23分28秒 218-228-188-91.eonet.ne.jp

>ねっ、こんなキリスト教もあるのですよ。
>ご自分の‘知っている’と思っている‘キリスト教’を勝手に当てはめて
>人を批判したり、裁いたりしないで下さいな。

キリスト教のところを、「仏教」や「真宗」や「僧侶」に置き換えたら、
色んな人へのRESに使えるね。
面白い面白い

http://homepage1.nifty.com/MANU/


>横道 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月12日(月)18時18分44秒 25.pool14.dsl8mtokyo.att.ne.jp

いまさら、あなたにこの様な解説を長々聞かされなくても、
そんなことは百も承知。
あなたが、得々とお話になるその心が高ぶっているのでは?と言ったまで。

>誰かに救ってもらおうという方向性が間違っているのです。

ほお〜?じゃあお聞きしますが、阿弥陀様に救いを求めてはいけないのですね。

>救えると考えるのが傲慢です。

それも、百も承知。


>暇なので余談 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月12日(月)18時08分50秒 25.pool14.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>で実践にこだわり続けられるあなたも私にはパウロ的だと感じる
> のだが。。。パウロも日蓮にもあなたにも「負い目」から来る
> 焦燥みたいなエナジーを感じるのだが、どの辺が違うの?

何か、私が「負い目」を感じる必要はもありませし、感じても居ません。
勝手に決めつけないで下さいね。

三吉さん、キリスト教会のなかに「ユニテリアン」という一派があるのをご存じですか?
ユニテリアンでは「三位一体」とキリストの神性をも否定し
神の単一性(ユニティ)を強調する人々です。
彼らにとってはイエスは神ではなく、私達全ての「神の子」のなかで、
もっとも神に近い人間、そして究極の師として従う。
イエスの教えに従い、自由と理性と寛容を重んじ、権威に対して無分別に従うことを嫌う。
また、信じたものだけが救われると言う旧来のキリスト教の予定説を否定し
全てのものが救われるという「万人救済説」を主張しています。

ねっ、こんなキリスト教もあるのですよ。
ご自分の‘知っている’と思っている‘キリスト教’を勝手に当てはめて
人を批判したり、裁いたりしないで下さいな。


>念仏とはなにか 投稿者:三吉 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月12日(月)14時02分02秒 1Cust223.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>人それぞれでありましょうが、私は「なまんだぶぅ」だけでええという思想に
>貴方たちを見て再確認できました。
>わぁいヽ(∇⌒ヽ)(ノ⌒∇)ノわぁい♪

それは良かったですね。
私は改めて「南無阿弥陀仏」は悟り(成仏)への手助けに過ぎないということを
確認できました。
有難う御座います。


南無阿弥陀仏 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月12日(月)07時42分20秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

南無・namas。頭を垂れる。屈する。生命を預ける・帰命。
阿弥陀(amitayus)無量寿。(amitabha)無量光。
仏陀(buddha)。漢訳・覚者。チベット訳(sans rgyas 覚醒しひろがった者)

三吉様いうところの
「なまんだぶぅ」。これとは同じなのか異なるのか。
称名はマントラ〔(mantra)。祭司、呪句。〕と異なるのか同じなのか。
三吉様は堂堂巡り「ぼくね ぼくね ぼくね」とばかり
「なまんだぶぅ」を繰り返すようですが。肝心の「ぼくが」何を言いたいのか、
核心には至らないよう。
「ぼく」の「なまんだぶぅ」は聞き飽きた。
ついには
「かあさん、あなたわたしのははならば、ぼくのこころさっしてよ」とばかり
泣きじゃくることなく、一言、三吉様、貴方何を言いたいの?。
貴方の投稿増すほどに益々それ・貴方の云わんとするのか、
云いたくないのか、何が何だかわかりつらい。
投稿時間から推測するに、もう不眠症?。心配しています。三吉様の健康を。

合掌。


横道 投稿者:三吉  投稿日: 5月12日(月)07時00分03秒 ca9d71-185.tiki.ne.jp

母は釈尊が救ったわけじゃありません。
釈尊は自分で事実に気づくための方向性を示しただけです。
きづいたのは母です。
芥子粒を探す過程で、もしかすれば、同じ子供亡くした母がたまたまいて、
「私も昔子供亡くしたよ」という話を聞いたやもしれませんし、
恋人やら配偶者やら友人やらいろいろ大切な人を亡くした人たちに触れたことでしょう。
そういう人たちの出会い、それぞれの人の受け止め、それを自然と聞いたのやもしれま
せん。同様な悩みを体験した人の話は素直に聞けるものでしょうし、一々の体験から
きづきが生まれてきたです。なにがきづきとなるか、どれほど体験が必要かはひとそれ
ぞれでもあるし、同じ人でも状態によって違います。

誰かに救ってもらおうという方向性が間違っているのです。
救えると考えるのが傲慢です。

「気づき」は自分ですが、「気づいたら、気づかせて頂いた」と受け止めが
生まれることもあるわけです。

いっしょに「私も子供亡くしたわ、つらいわね」と共に泣くことが、その人にとり
救いになることもあれば、全くそのことに触れずに、くだらんことに笑い興じ、
気が紛れることが、救いになることもあるでしょうし。。。

「救いたい」という想いは清いとしても、それがいつもストレートにうまくいくと
限らん。あるいは「余計なお世話」となるのも我々の現実であったりします。


問題の所在は 投稿者:三吉  投稿日: 5月12日(月)06時44分09秒 ca9d71-179.tiki.ne.jp

誰しもが自分の「生」の実践者であるにもかかわらず、
パウロにせよ、日蓮にせよ、その実践の背後に、
いい意味では「神・法華経」に対する感謝があり、
悪い意味では「負い目」からくる「焦燥感」を私は感じます。

そして、あなたの実践の提言にも「負い目」からくる「焦燥感」を感じます。
私からするとあなたはその点は非常にパウロ的なのですが。。。
クリスチャンらしいクリスチャンだと。


きづき 投稿者:三吉  投稿日: 5月12日(月)06時36分06秒 ca9d71-179.tiki.ne.jp

気づきとは何かがテーマです。
人から教えても貰ってわからない。
自分で気づくしかわからないというのがテーマです。
想像力とはそこを指し、「母の気持ち」ではありません。

誰しもが「実践者」であり、イエスだけが実践者ではありません。


>暇なので余談 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月12日(月)06時26分45秒 100.pool17.dsl8mtokyo.att.ne.jp


イエスは、「実践」の人でした。


三吉さんへ 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月12日(月)06時18分51秒 100.pool17.dsl8mtokyo.att.ne.jp

><私に「母」の気持ちはわからない、いかんせん男の私>
>想像力磨いてくだされ。

あなたは、子供を亡くされたお母さん達の気持ちが分かるとでも言うのですか?
その絶望の深さを「想像」が出来るとでも言うのですか?
釈迦の「芥子の実」の話を、得意気に話すあなた、
あの話を、ここであなたがしたところで、
子供を亡くされたお母さん達の一人の心でも救われるとでもお思いですか?

それなら三吉さん、あなたが子供を亡くして悲嘆にくれる母親を
是非に「絶望」から救ってあげて下さいな。

この三吉さんの投稿も、現に子供を亡くされたお母さん達が何人か読まれています。

そのご自分の高ぶった心で「救われたこころ」と言えるのでしょうか?


念仏とはなにか 投稿者:三吉  投稿日: 5月12日(月)06時11分15秒 ca9d71-174.tiki.ne.jp

「なまんだぶぅ」である。

とても明確で、三歳児にも伝わると思うのだが、
お三方には伝わらん。サービス精神旺盛なので整理してあげちゃいます。

4/12にMANU.さんが「「南無阿弥陀仏」だけで救われるというのは最近の
流行なんでしょうか?お題目の考え方が融合しちゃったんでしょうか。
真宗においては「信心」が大事だったのでは。」
に対し、流れ星さんいわく「ナンマンダブツ称える他に救われていく方法
あると考えるのが大きな勘違いなんですけどネ♪♪」と。
タイトルの「キリスト者の方に申し上げてもしょうがないことですが」は、
念仏者限定の話しという意味。
続けて、らくりんさん「管理人から座布団一枚。誰に、だかは言わぬが花。」

発端はこのへんです。
MANUさんが「信心が大切」という観点から「念仏のみ」に疑問を呈され、
流れ星さんが「それを大きな勘違い」とされ、らくりんさんは流れ星さんに
「座布団一枚」(これは私の解釈なので、らくりんさん口挟まないでねん♪)と
され、私は「流れ星さん おいしい」とレスしました。
これで通じるのは「内輪だけ」だと認識できたのは、ある意味いい体験ですね。
お三方サンクス^^。

念仏とは「なまんだぶぅ」であり、他のなにも必要ないし、なにものでもない。
美醜・頭のよさ悪さも、実践の如何も、知識も思索の深さ・記憶力のよさ悪さ、
哲学も思想も信心も、布施の多寡もなにも問わない。
無条件に「なまんだぶぅ」であることが素晴らしいのであります。

あなたたちお三方がわからない故に、益々「なまんだぶぅ」である事実が尊い。
そう私は感じました。ありがと♪

禅的酔いどれ一体感に沈む人。
念仏だけでは足りないなにかがあると感じる人。
瞑想や実践が念仏に欠けていると感じる人

人それぞれでありましょうが、私は「なまんだぶぅ」だけでええという思想に
貴方たちを見て再確認できました。
わぁいヽ(∇⌒ヽ)(ノ⌒∇)ノわぁい♪


レスです 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月12日(月)05時45分29秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

>ということは例えば借金地獄、恋愛の縺れ、うつ病等などその他現世の様々な苦悩から
>逃げないと言うか敢えてあり続けると言うことですよね

なんか、違いますネ。

聖者になってもいいけど、別になる必要はない。
どんな生き様をしても、(・∀・)イイ!!って感じでしょうか。
編集済


暇なので余談 投稿者:三吉  投稿日: 5月12日(月)05時40分59秒 ca9d71-170.tiki.ne.jp

ちと疑問。新約聖書の2/3に関わったパウロを批判されるあなたは、
残りの1/3と瞑想によって「愛のキリスト」を構築されるわけね。
で、パウロ的イエス像を拒否して、瞑想で自分のイエス像を築き、
「愛の実践」をいわれているわけね。なるほどね。
たぶんパウロの「イエス復活物語」などに疑問を感じられ、田川建
三なんかにも批判的だったので史実のイエスへの探求でもなく、
「心理学的イエス」などと言われていたのは「瞑想」で出会った
「愛の人イエス」なのね。でイエスのように私も生きたいと。

かたや真宗は「当時の教会の権威」を批判し「聖書のみ」とした
ルターの系譜をひく、ドイツ・プロテスタントと対話しているの
で、貴方からすれば、「あほらしい」わけね。

私が感じるにパウロって日蓮に似ているのね。
どこがというと、パウロはクリスチャン迫害したのだけど、
その後、クリスチャンになっても、未熟児であったことや
昔迫害者であったことに負い目を感じつつも、
「キリストと出会い、純粋に使徒として生きた」自負は誰よりも
強いのね。
日蓮も法華の行者として生きてね、生まれは当時、仏教的に
軽蔑された殺生をこととする漁民だが、法華に生きた事実を
自負しているのね。(後過去世で法華を誹謗したので現世で
漁民に生まれたと言っている)
その辺の構造は似てて、負い目が実践の原動力になっていて、
実践できるものとなった喜びを神や法華経への感謝と自負が
一体になっている点ね。

で実践にこだわり続けられるあなたも私にはパウロ的だと感じる
のだが。。。パウロも日蓮にもあなたにも「負い目」から来る
焦燥みたいなエナジーを感じるのだが、どの辺が違うの?


嗚呼! 酔いどれ 投稿者:三吉  投稿日: 5月12日(月)05時00分52秒 ca9d71-167.tiki.ne.jp

さて阿弥陀と一体となったからもはや「念仏」は私には必要ない
などとまぬけた幸福体験の渦中に酔い痴れたとして、
阿弥陀とは「いろんな姿をもってこの世に現れ来て、我らに
念仏を勧めるもの」なのですから、酔いどれ野郎は、この大事な
一点を失念したお茶目なわすれん坊であります。

なんともはや、妄想に耽る方々、ご自分はさぞかし気持ちよいので
ありましょうが、「大乗」よりこのような酔っ払いを「菩薩の死」と
申し伝え聴きおります。


苦悩から逃げない 投稿者:三吉  投稿日: 5月12日(月)04時51分12秒 ca9d71-167.tiki.ne.jp

一つは苦悩が苦悩とならんということでしょう。
苦悩にもいろいろありまして努力で克服できるものと、
できないものがあるわけです。

例えば一病息災。ほんとーは無病息災を人は願っているわけですが、
「病」と友達になる。健康な時は健康の有り難味などわからんもので
すが、「病」が健康の大事さをきづかせる。
「病」と出遇ったことで、(例えば過去ログでどなたかが尿酸値が高い
ので散歩をはじめるとか)きづきが、行動を産む。
病んだことに悩み、苦しみ、嘆くのでなく、「克服できない病」を
治そうとするのではなく、「克服できない病」ならば、その事実を受け
容れ、それと友達になる。
克服できる苦悩ならば本質的な苦悩じゃあありません。


まとめてお三方へ 投稿者:三吉  投稿日: 5月12日(月)04時18分45秒 ca9d71-155.tiki.ne.jp

<私に「母」の気持ちはわからない、いかんせん男の私>
想像力磨いてくだされ。

<だれも明確に答えて下さる方がいらっしゃいません。>
いや何度も何度も繰り返し繰り返し明確に回答はあるわけです。
そこにきずかれてないだけではないでしょうか。
だから繰り返しても貴方の中では明確にならんということだと思います。

それとマザー・テレサがなんと語ろうと事実として、
マザー・テレサは、マザー・テレサを生きたわけです。
「自分の生」を生きた。

「「弱い立場の人間」に、目を向けるようにと訴え続けました」事実より、
「弱い人の中に神を見、神の奉仕しているのです」とごく自然な行為として
自分の実践を語ったマザー・テレサに彼女の真髄を私は感じます。

<「なんまんだぶぅ」に囚われているうちは未だ道の途中>
禅風のそーいうわかったよーな話に中味を私は感じませんが、
過去この掲示板でらくりんさんが、
「釈尊は川を渡り終わったら、船を捨てたが、念仏者は捨てずに担いで歩く」(趣旨)
と言っていたことに感動を覚えます。

しかし「ええ加減な情報」を根拠に「妄想」を語られているあなた方は、一方で
実践なり深い境地なりを主張されているわけです。
ならばせめて「正確な情報」「想像力」「多様なる思想性」をと思います。

「「知識」(自己)を捨てきれないもどかしさを感じるのですが」とね、
<妄想>をご注意したから申されても。。。
まあ麻薬も宗教的体験もある種の脳内物質を産むための道具ならば、
妄想はあなたにとってどうでもいいことやもしれません。


>遅レスもふくめて 投稿者:流れ星 ☆彡 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月11日(日)23時22分27秒 1Cust118.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>「凡夫(苦悩が多い)であり続けたいと願う」

ということは例えば借金地獄、恋愛の縺れ、うつ病等などその他現世の様々な苦悩から
逃げないと言うか敢えてあり続けると言うことですよね。
随分マゾヒズムな感じがしますが、、、

果たしてその苦悩の原因はどこにあるのかを探し出して、その原因を克服することが
「逃げる」ということになるのであろうか?

しかし、

>ほんとうに救われたことになるんじゃないかしらと

というか、それで(苦悩の多い状態で)
「救われた」と思えたなら「救われた」のでしょうね。多分???
編集済


遅レスもふくめて 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月11日(日)21時51分40秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

ジャンク門徒さんが、押さえていらっしゃるように、
お念仏の教えは「易行」にして「難信」。

「本願を信じ念仏申せば仏になる」ですから、
念仏することだけが救われる方法。「易行」。
しかし、人間の思考は「難行易信」にできています。
難しいから信じやすい。難しいことができる人はエライ。
そういうことなら納得しやすい。

お念仏だけで人が救われるとは、
信じがたい、私もなかなか信じられない、
なかなか納得しにくい教えなのだと思います。

>どちらかというと信仰よりも哲学の方が人を磨き上げてくれるのではないでしょうか?
>その人が凡夫(苦悩が多い)であり続けたいと願うなら仕方のないことですが…

「凡夫(苦悩が多い)であり続けたいと願う」
というのはジャンク門徒さんは否定的に書いていらっしゃるんでしょうけど、
そうできたら、ほんとうに救われたことになるんじゃないかしらと、考えます。
苦悩から逃げないわけですから。
編集済


>>>>簡単に言えば  投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月11日(日)21時08分57秒 1Cust82.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

jyugegu さん

>阿弥陀と一体になったらば、最早「なんまんだぶぅ」も無いはずかと。

なるほど他力浄土門の行き着く境地はそこかもしれないですね。
「なんまんだぶぅ」に囚われているうちは未だ道の途中、
それから解放された時が解脱(悟り)の時。

どっちみち最後には己を捨てる覚悟と勇気が必要そうですね。
成仏するには…


>>>簡単に言えば 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月11日(日)20時07分36秒 YahooBB219026239011.bbtec.net
ジャンク門徒様今晩は、

>なにか三吉さんの中に「知識」(自己)を捨てきれないもどかしさを感じるのですが…

まさにそれですね。
阿弥陀・なんまんだぶぅと言っている限り、
尚阿弥陀と対峙し在る「三吉」様はあり、
阿弥陀と一体になったらば、最早「なんまんだぶぅ」も無いはずかと。

子どもに例をとればともすれば、「ぼくね、ぼくね、ぼくね」を繰り返し、
肝心の意思表示が侭成らぬ、このもどかしさを何方かに観るよう。

合掌。


>>簡単に言えば   投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月11日(日)17時15分26秒 1Cust169.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

昨夜は眠かったので余り深入りしたくなかったのですが、

三吉さん

>『たぶんご理解いただけないでしょうが。。。
>「なまんだぶぅ」のなかに貴方の言う「哲学」がふんだんに詰まっているわけです。』


『何か子供騙しのようですが「哲学」なのですかぁ「方便」でなく。。。
まあお手軽そうですけどね。』

私は念仏を子供騙しのようだと言ったのではなく、
三吉さんの仰ることが子供騙しのようだといったまでです。

確かに念仏には「法然」「親鸞」の思い想いとしての思想は込められているのでしょう。
しかし選択集の仏教的方法論をことごとく捨て去って阿弥陀一仏の本願によってのみ
信仰を決するというやり方は、もはやそこに「哲学」がふんだんに詰まっているどころか
「哲学」は消滅して無くなっているのではないでしょうか?

自分が念仏そのものになってしまうということは、易行道とはいえそれはそれで難しい
事であると思います。
なにか三吉さんの中に「知識」(自己)を捨てきれないもどかしさを感じるのですが…

悪しからず
編集済


>ついで 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月11日(日)16時27分25秒 120.pool3.dsl8mtokyo.att.ne.jp

> たぶん、ここが決定的に貴方の「愚か」なとこです。
>言うても無駄だが。。。

ハイ、私は「愚か」でございますが、
自ら罪悪重深の凡夫と仰っているあなたは、さぞかし「愚か」ではないのでしょうね(笑)

>「瞑想」という「行」を歴史的に克服した真宗は、逆に、プロテスタントと、
>「信」についての対話をしています。

真宗とプロテスタントの話し合い、
というのは単なる親鸞とパウロのうち立てた「道行き」の照らし合わせにすぎず、
今まで出会った真宗の方で、イエスの「神の国」に興味を示される方はいらっしゃいませんでした。

>念仏も元々は仏にまみえるという「瞑想」であったのが、克服されたことで、
>多くの人に可能になったわけで、そこを大切に思っているわけですね。

では、「念仏」とはなんですか?
いままで、何回も質問があったようですが、
だれも明確に答えて下さる方がいらっしゃいません。
三吉さん、このへんでその有り余る知識をもって素人にも分かるように説明して下さい。

> 黙々と、「自分の生」を生きたところが素晴らしいのではないでしょうか。

マザー・テレサの素晴らしさは「自分の生」を生きなかったからだと思います。
神からの“召命”によって、いかに「キリストの身体」になるか、
自分が死んで神に自分を「明け渡す」ことが出来るか、それだけを実践した人だからです。

    主よ、今日一日、
    貧しい人や病んでいる人を助けるために、
    私の手をお望みでしたら、
    今日、私のこの手をお使い下さい。
    主よ、今日一日、
    友を欲しがる人々を訪れるために、
    私の足をお望みでしたら、
    今日、私のこの足をお貸しいたします。
    主よ、今日一日、
    優しい言葉に飢えている人々と語り合うため、
    私の声をお望みでしたら、
    今日、私のこの声をお使い下さい。
    主よ、今日一日、
    人は人であるという理由だけで、
    どんな人でも愛するために、
    私の心をお望みでしたら、
    今日、私の心をお貸しいたします。
              <マザー・テレサ>

>テレサなどは、「私の実践にあなたがたは学ぶべきだ」というあほなことを言わず、

「自分の実践に学べ」とは言いませんでした(自分の実践だとは思っていませんから)
しかし「キリストの実践」に学べと言いました。
地球上の全ての人が「弱い立場の人間」に、目を向けるようにと訴え続けました。


>甘え 投稿者:三吉 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月11日(日)15時37分04秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>あなたの文脈からは「既得権益護持」という意味です。
>おまちがえなく。

まちがえ、云々は別に、「既得権益」のなんたるかを知らぬ私に貴方と違いその潜在意識は無く。

>「なまんだぶぅ」が
>高い思想

かどうか、そして「なまんだぶぅ」の神呪称名が思想なのかは知らず。

>「念仏のみ」で満足されない人がいる。

というより「念仏」とは何すること。
ゴロニャンと猫が腹を出すこと?。
それとも何かに向い精進する行為?。

>例えば法然が選択集の中で、

法然相手に尋ねては居ない、三吉様貴方に問うのみ

>乳飲み子を亡くした母が、

私に「母」の気持ちはわからない、いかんせん男の私。

>事実を受け止める勇気

と、「なんまんだぶぅ」の関連性は?。

>甘えておられませんか
 
何に対し、誰に対し?。
論の行き詰まっては情に縋れとな、三吉様。
ではこれからは誰に何を聞かれ様と「なんまんだぶぅ」で通されるが寛容かと。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


>甘え 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月11日(日)15時02分54秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

三吉様、こんにちは。

何時もの貴方の対応とは異なり今回早速お応え賜り有難う御座います。

何が今回と,是までを分けるのかよくよく検証してみれば、

>とにかく「三吉」様は質問にお応えの無く、
>雲隠れか、イカ、タコ並みの墨隠れ「三吉」様の様ではあるようで、今回はどうでしょうね。

是が呪い、貴方流の「なまんだぶぅ」。
なにやら「さぶぅ」に似た呼び出し言葉であったかと、
私密かに慮るところです。有難う御座いました。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


ついで 投稿者:三吉  投稿日: 5月11日(日)13時39分15秒 ca9d71-173.tiki.ne.jp

<仏教が、キリスト教に学ぶべきものは、実践的「行為」ということだと感じます。>
>
たぶん、ここが決定的に貴方の「愚か」なとこです。
言うても無駄だが。。。
もし学びあうとしたならば、キリスト教者も仏教者に実践を学び、
仏教者もキリスト教者の実践に学ぶということになるのでしょうが、
「瞑想」という「行」を歴史的に克服した真宗は、逆に、プロテスタントと、
「信」についての対話をしています。
方向性が違うのです。
仏教でも、南伝系とか禅とか「瞑想」を重視する派もおられます。
念仏も元々は仏にまみえるという「瞑想」であったのが、克服されたことで、
多くの人に可能になったわけで、そこを大切に思っているわけですね。

生きている限り誰にしにも現実があり、「実践的行為」の繰り返しなわけです。
キリスト者の実践的行為だけがとりわけ優れているわけじゃありません。
例え優れていたとしても、誰しもがマザーテレサの実践をできるわけではありません。
そういうキリスト的な「愛の生き様」に感動し、そう生きたいと思われる方は、そう
生きればいいだけの話です。「学ぶべきもの」というのは思い上がりです。
テレサなどは、「私の実践にあなたがたは学ぶべきだ」というあほなことを言わず、
黙々と、「自分の生」を生きたところが素晴らしいのではないでしょうか。


甘え 投稿者:三吉  投稿日: 5月11日(日)13時38分30秒 ca9d71-173.tiki.ne.jp

jyugeguさん

いつとのご質問ですが、「いつも」です。
一々、あげる労を私に取らせなくても。。。
ご自分でご自分の書き込みを一度精査されてくだされ。

あなたの文脈からは「既得権益護持」という意味です。
おまちがえなく。

具体的には誰彼なしに何度もこの掲示板で繰り返し繰り返し
語たられているように、
「なまんだぶぅ」だけでいいということ自体に
高い思想があるということです。
そこに貴方はきづけないのですね。

サービスしますが、ヒントは、
「念仏のみ」で満足されない人がいる。
もっと他に哲学・思想がいるのでは、と。
念仏のみでは不十分であると。
「お手軽」と感じられる人がいるわけですが、
例えば法然が選択集の中で、その「お手軽」ということに
どういう意味を感得したか、その辺を学ばれてくだされ。

乳飲み子を亡くした母が、どうしても諦められず、
藁にも縋る思いで、釈尊に元気になるようにお願いしたところ、
釈尊は「死んだ者を誰も生き返らすことはできない」という
単純な事実を伝えずに、母の願いに沿う形で、
「先祖に死人の出したことない家から芥子粒を貰ってきなさい。
そうしたならば、私が責任を持って蘇らしてみせる」と告げ、
母は、死に物狂いで条件クリアした芥子粒を探し求めるわけです
が、当然のことながら、条件クリアは見つかりません。
でもその渦中で母はきづくのですね。生き返るということは
ありえないと。そして気づきは事実を受け止める勇気を母に産む。

高い思想性など人から教えて貰う物ではなく、自分で気づくものだし、
気づけば、「お蔭様で、きづかせて頂いた」という想いが生まれる
わけです。
甘えておられませんか?


>読む人を信頼したい 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月11日(日)07時16分57秒 243.pool27.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>自分の信仰に対して明確な態度決定がない者が、
>他者と信仰について語ろうとしても相手にされない。
>まして、信仰はどれでもいっしょだなどという者の言葉が、
>自らの信仰を大切にしている人に、受容れられるはずがない。

全く仰るとおりですね。
それぞれの道は、決定的に違います。
確かに、念仏者の道は念仏者にしか分かりませんし、
キリスト者のキリストへの道は、キリスト者にしか分かりません。

しかし、「真理」を求めるという共通の次元において、
共感、共鳴していくことは出来るでしょう。
一人一人が仏教徒として生き、キリスト者として生きたときに、
違った宗教の底に、共通の響きがあり、感じとれるもがあり
それを嬉しく思い、お互いに「ありがたい世界」をいただいているのだと
理解し合うことは出来ると思います。

「自分の道が最高」と思うのは誰しも同じですが、
「この道はこんなに素晴らしくて、この道しかありません」と、
人に押しつけることは、愚かなことではないのでしょうか。

これからの宗教者には「自分の道“だけ”が最高」と言っていないで、
他に学び、それによって自分の道を、より明確なものにしていく必要があると思います。
そして、それぞれの宗教に足りないものは、積極的に取り入れていくべきだとも思います。
たとえば、今、キリスト教(カトリック)では、
仏教の「行」を積極的に取り入れようとしています。
仏教が、キリスト教に学ぶべきものは、実践的「行為」ということだと感じます。

また、自分の宗教の欠点というものは、自分達には分からないものですから
他者の意見にも耳を傾けていきたいものです。
そして教義の理解というものも、
時代と共に変わっていかなくてはならないものだと思います。

>あれもあるこれもあるでは、それこそ話にならない。

それはそのとおりで、幸福の科学や、ニューエイジ、精神世界が空しいのは
自分達には「帰依」するものがないからだと思います。
しかし、生きて働くものは、仏教徒でも、キリスト者でも、
「神」の前では「単独者」であり、自己が内なる主人公でなくてはならないのだと思います。

全ては、宗教、教団、教義を越えたところでの「神」と一対一の関係においてのみ
「信仰」「覚醒」「悟り」が得られるのだと思います。
それがまた、太古の命から脈々と受け継がれ、地下水流のように繋がっている
「ありがたい世界」の伝承に触れることだと思います。


>ではそういうことに 投稿者:三吉 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月11日(日)06時35分26秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

三吉様 
おはよう御座います。

>jyugeguさんがいつもの坊主憎しで「お坊さんは既得権益確保のために檀家を逃さんよ
>うに。。」という趣旨の発言に

因みに私が何時
「いつもの坊主憎し」の文字を残したでしょうか、
貴方創造の文字表現に他の名を冠する事のない様に。

>お坊さんは既得権益確保のために

「既得権益確保」。
語るに落ちるとはこのことを云うかな。
つまり檀家制度維持は「既得権益」の認識にあられると。

>念仏の高い思想性

これって何を言うのでしょう。
抽象的発言は遂に何時も聞かされる。
もうここらで具体的表現が求められるかな。

とにかく「三吉」様は質問にお応えの無く、
雲隠れか、イカ、タコ並みの墨隠れ「三吉」様の様ではあるようで、今回はどうでしょうね。
こちら
http://free.has-u.co.jp/cgi-bin/free/culture/u-bbs.cgi?room=zqrms
へもたまにお出ましあれかし。

合掌。



http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


>簡単に言えば  投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月11日(日)01時38分13秒 1Cust196.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>「子供騙し」なものとして念仏に出会っている今のジャンク門徒さんに、
>念仏の高い思想性は理解しえるはずもないということです。

まあ気長にその「高い思想」を理解していってみます。
因みに念仏を否定しているわけではありませんので。


簡単に言えば 投稿者:三吉  投稿日: 5月11日(日)01時21分07秒 ca9d71-180.tiki.ne.jp

「子供騙し」なものとして念仏に出会っている今のジャンク門徒さんに、
念仏の高い思想性は理解しえるはずもないということです。

関心・興味もないだろうし、あっても切実でもないし、必然性もない。


ではそういうことに 投稿者:三吉  投稿日: 5月11日(日)01時15分38秒 ca9d71-180.tiki.ne.jp

>サービス発言の流れからだと、そう取れないこともないですけどね

あなたの発言された意図はしりませんが。。。

<自利も結構ですが他利を忘れないことが大切なのではないでしょうか。>

あたりですかね。
jyugeguさんがいつもの坊主憎しで「お坊さんは既得権益確保のために檀家を逃さんよ
うに。。」という趣旨の発言に対し、「他利」云々ですからね。
貴方の意図はともかく、読めないとは言わせない。

ちなみに教行信証では、「他利」という語は「利他」と区別されています。
「他利」は、限界のある利他で我々がごく自然にしているものとして批判的に
語られます。蛇足でした。
十住毘婆沙論では、「自利と利他」の円満としで「共利」という語がでますが、
親鸞はなぜかこれをはずしてます。蛇足ついででした


三吉さん 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月11日(日)01時10分55秒 1Cust91.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>何を根拠にされているのでしょうか 投稿者:三吉  投稿日: 5月11日(日)00時43分01秒 ca9d71-180.tiki.ne.jp
> 子供騙し 投稿者:三吉  投稿日: 5月11日(日)00時49分43秒 ca9d71-180.tiki.ne.jp

申し訳ありませんが低脳の私にはそれらの内容が良く理解できませんでした。

因みに史実の釈尊の反論はありません。


>蛇足 投稿者:三吉  投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月11日(日)00時52分12秒 1Cust91.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>お坊さんだけが恰も「悟りを求めて修行し、衆生済度の誓願を実践する者」というのは
>ジャンク門徒さんだけのイメージなわけで、「妄想」と言ってもよいのですが、
>「妄想」から敷衍して他者に対し「お坊さんは菩薩なんだから、もっときちんと実践しろ」と押し付けるのは問題点があります。

「お坊さんは皆菩薩」発言ですかぁ。あれは洒落なんですけどね。
サービス発言が裏目に出たようですね。

>「お坊さんは菩薩なんだから、もっときちんと実践しろ」

どこかで言ったでしょうか?
サービス発言の流れからだと、そう取れないこともないですけどね。


子供騙し 投稿者:三吉  投稿日: 5月11日(日)00時49分43秒 ca9d71-180.tiki.ne.jp

大事なのは、あなたが「子供騙し」と感じるリアリティがまず、凄く大事な点ね。

それと貴方以外の誰かが、貴方にとって「子供騙し」を「思想性高い」と別に
感じている事実ね。

もしかすると、子供騙しと感じる人の「念仏」のイメージと、
思想性が高いと感じる人の「念仏」は全く別物かもしれないですね。

だから子供騙しと感じるあなたには、念仏は、「お手軽」なだけで、
別に「高度な哲学」や「深い思想性」が必然的に要請されて。。。
他の人には「念仏のみ」で充分となるわけですね。

なまんだぶぅ


何を根拠にされているのでしょうか 投稿者:三吉  投稿日: 5月11日(日)00時43分01秒 ca9d71-180.tiki.ne.jp

大事なの点は、ご自分の目でご確認されることです。
何が史実なのか、きちんとね。
今のジャンクさんは、不確かな情報で妄想を語っておられるだけですから。

うん。そそ。今の貴方のお立場からは「子供だまし」に感じる。
それがあなたのリアリティなのね。そこが大事。

とりあえずも糞も。。。真宗云々はそこでは語っておらず、
史実の釈尊の話ですね。反論があるならば、きちんと自分で調査され、
いやいや史実の釈尊はこうかたっているよとされなくてはね。
ならば、どーでもいいところですが密教の手垢がついた「即身成仏」という
語で、「成仏」を語らなくてもいいし、もう少し


>違うよ 投稿者:三吉  投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月11日(日)00時34分54秒 1Cust40.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>史実の釈尊は、前の私の「差別者である」とのレスを逆の立場から見れば、
>「悟りを目指す出家」も肯定し、「現世での幸福・死後の生天」を願った在家をも
>どちらも認めたわけです。以下、歴史の中でいろいろんな立場の人がいますが略。

毎回思うのですがこの辺りの話がややこしいですね。
史実の釈尊の言葉と言うのもはっきりしませんし。
その人が都合良く解釈しているだけのような気がしますが、ん〜って感じ。

>たぶんご理解いただけないでしょうが。。。
>「なまんだぶぅ」のなかに貴方の言う「哲学」がふんだんに詰まっているわけです。

何か子供騙しのようですが「哲学」なのですかぁ「方便」でなく。。。
まあお手軽そうですけどね。

とりあえず

>仏教哲学の目的は即身成仏にあると思うのですが

これは浄土真宗的には違うと言うことでいいのですね?


蛇足 投稿者:三吉  投稿日: 5月11日(日)00時30分53秒 ca9d71-180.tiki.ne.jp

即身成仏義は、狭い意味では「密教」のタームなのですが、
「生きたまま成仏すること」という意味でお使いかと思います。

で、辞典の意味での大乗的な「菩薩」ならば、出家・在家問わず、仏教者は
みんな「菩薩」なのですね。
念仏者は「未証浄心の菩薩」であるし、法華の行者は「地湧の菩薩」でありましょうし。

お坊さんだけが恰も「悟りを求めて修行し、衆生済度の誓願を実践する者」というのは
ジャンク門徒さんだけのイメージなわけで、「妄想」と言ってもよいのですが、
「妄想」から敷衍して他者に対し「お坊さんは菩薩なんだから、もっときちんと実践しろ」と押し付けるのは問題点があります。
第一には「妄想」第二に「押し付け」です。

ネットで創価学会員さんたちと遊んで早四年になるのですが、彼らの問題点も似てまして、
「私にとっては、こうである」と語ればさほど物議・いざこざおこらないのに、
舞い上がってね、「誰にとっても」と語るので、周りに迷惑するものがでる。

その菩薩や即身成仏がジャンク門徒さんの中で、「切実」で「大事」ならば、
お坊さんに押し付けずに、まずはご自分がそういう生き様されたらいい話です。
で、あなたの後姿を見て、素晴らしい私もそういう生き方をしたいと誰かが思えば、
その人にとって、あなたは「仏と同じハタラキ」をしていることになるのです。
感動というのは個人の中の出来事ですからね。

題目と念仏は私は基本的には変らないと思いますが、
している人・あるいはグループに考え方の差が決定的にあるように私は感じます。

日蓮宗は、他力(仏力・経力)と自力を挙げどちらも大切だと言うのですが、
(そして自力を軽視する念仏に比べて、自分たちの考え方は円満であると主張される)
実際は歴史の中でその自力の箇所は祈祷みたいな修行に転落し、題目をも呪文化して
いる宗風を感じます。
創価学会の場合は、根源的には「自分の幸福体験のリアリティ」のための道具化されい、
池田大作さんと「リズムをあわす」という一点が題目をも凌駕しているというか、
池田さんとのリズムを離れての題目には価値はなく、個人崇拝の道具になっています。
蛇足でした。


菩薩 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月10日(土)23時54分33秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

十住毘婆沙論序品の第五問答までを訳しました。
「菩薩」の基本的概念が示されています。よかったらご覧ください。

http://www.ctt.ne.jp/~gyoku/yaku.htm
編集済


違うよ 投稿者:三吉  投稿日: 5月10日(土)23時47分03秒 ca9d71-144.tiki.ne.jp

<仏教哲学の目的は即身成仏にあると思うのですが>

色々、解釈はそれぞれの立場・思想でわかれます。
そーいう立場もあろうし、そうでない人もいる。

史実の釈尊は、前の私の「差別者である」とのレスを逆の立場から見れば、
「悟りを目指す出家」も肯定し、「現世での幸福・死後の生天」を願った在家をも
どちらも認めたわけです。以下、歴史の中でいろいろんな立場の人がいますが略。

「菩薩」という語は歴史の中で釈尊の前世譚として現れたのですが、
大乗がこの語をキータームとして使い出しました。辞典の意味は仏教の中では
新義ですね。

<どちらかというと信仰よりも哲学の方が人を磨き上げてくれるのではないでしょうか?>

たぶんご理解いただけないでしょうが。。。
「なまんだぶぅ」のなかに貴方の言う「哲学」がふんだんに詰まっているわけです。
と横から申し上げときます


ありがとうございます 投稿者:エロ坊主  投稿日: 5月10日(土)23時19分06秒 eaoska131019.adsl.ppp.infoweb.ne.jp

 >他者の信仰に対して敬意を払えない者の言動は、
 >自分自身の信仰をも冒涜していることになる。
 
 他者の生き方に敬意を払えないものは、自分自身を冒涜していると、受け取らして頂きました。だからこそ、念仏申して、(自他との)関係性を修復せよ!と。
 すいません、最近、青春してますので、非常に青いです。


美味しいラーメンを勧めるのは、むずい 投稿者:流れ星  投稿日: 5月10日(土)17時42分05秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

「バトル」してしまい、管理人らくりんさんには
申し訳ありませんでした。お詫びします。

相手を己と同質なものにしたいという
欲の強さ、反省しております。
編集済


>>(無題) 投稿者:ジャンク門徒  投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月10日(土)15時58分22秒 1Cust197.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>でもね、ご自分の栄耀栄華のために、一株(檀家)でも逃す事無く是まで通り拘束したいと、
>必死のお努めとも読めないこともないかな。

仏教哲学の目的は即身成仏にあると思うのですが(違ってたら反論して下さい)
全てのお寺さんがまともに仏教哲学を実践したらどうなるんでしょうかね。
この前身内の葬式があり、ついでに真言宗のお坊さんに尋ねたのですが、


「お坊さんは菩薩なんですか?」
お坊さん
「いやいや私はまだまだ天上界あたりですよ」

「天上界っていうのは声聞の下にある奴ですよね。仏門に足を踏み入れた刹那に
少なくても声聞にはなるのではないですか?」
お坊さん
「う、うんっ(咳払い)いやぁ私はまだまだ天上界ですよ」
あのお坊さんは謙遜していたのだと解釈しましたが、個人的にお坊さんは皆「菩薩」
であると思っています。

>ご自分の栄耀栄華のために

自利も結構ですが他利を忘れないことが大切なのではないでしょうか。

【菩薩】ボサツ
{悟りを求めて修行し、衆生済度の誓願を実践する者}
            
                       〜日本語大辞典より〜         


でろんぎさんへ 投稿者:赤時  投稿日: 5月10日(土)15時25分12秒 1Cust4.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

でろんぎさんへ
お答え、ありがとうございました。テルゼさんもありがとうございました。


らくりんさんへ 投稿者:赤時  投稿日: 5月10日(土)15時15分37秒 1Cust4.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

らくりんさんへ。ご質問です。よろしいでしょうか。

>ただ、問題は、人は自らの信仰を大事にするということが
>どういうことなのかに気付いていないことが往々にしてある。
>自分の信仰を大事にしているつもりの言葉が、
>えてして、ただの自慢であったり、自己顕示のかたまりのようになっているだけになり、
>それは、かえって自らの信仰を貶めることになる。
>そして、そのことに気付かない姿は、時としてとても見苦しい。

こういう光景は、なんかときどき見るような気もするのですが、
「時としてとても見苦しい」とお書きですが、
「時としてとてもうるわしい(?なんて書いたらいいんでしょう)」と
思われることがあります。
「なんか、この人、いちずに信じているなあ」と。
私はたぶんそういうタイプではありません。なんといいますか、どこかで
自分を客観視しています。(よくもわるくも)
「自らの信仰を大事にするということがどういうことなのか」
とお書きですが、らくりんさんは、「自らの信仰を大事にする」とは、
どういうことだとお思いですか?


>(無題) 投稿者:ジャンク門徒  投稿者:jyugegu  投稿日: 5月10日(土)14時49分16秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>その人が凡夫(苦悩が多い)であり続けたいと願うなら仕方のないことですが…

でもね、ご自分の栄耀栄華のために、一株(檀家)でも逃す事無く是まで通り拘束したいと、
必死のお努めとも読めないこともないかな。
因みに上の記述は、「流れ星 ☆彡」様を特定したものではないことをご承知置き願います。
尚「信仰」の意味には、師或いは所属集団の説に疑念する事無くそのまま奉じる事との意と、
   道理を承認する事との二様あるようです。
オウムの麻原をグルとする集団は、どの方向だったのでしょうか。
尚 guru・主従関係とか。今日の檀家と寺の関係はどの方向でしょう。
同朋ともにおもんばかるべきかとは。

合掌。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


(無題) 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月10日(土)13時54分19秒 1Cust143.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>凡夫・衆生とは、一方向からしか、見得ない心に拘りの在る人を言うようです。

この余裕の無さといいますか固定観念といいますか、その姿勢が往々にして
苦を招くことがある感じがします。
信仰があるのは結構なことですが、肝心な仏教の哲学を蔑ろにしてはその信仰も
薄っぺらなものになってしまうのではないかと。
どちらかというと信仰よりも哲学の方が人を磨き上げてくれるのではないでしょうか?
その人が凡夫(苦悩が多い)であり続けたいと願うなら仕方のないことですが…


>らくりんさんに抗議 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿者:jyugegu  投稿日: 5月10日(土)13時31分46秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>「二仏に仕えることなかれ」

多重人格者で無い限り。

合掌。


>(無題) 投稿者:流れ星 ☆彡 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月10日(土)12時59分56秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>なにもかも、いっしょにするほうが、

なにもかも、とみるか、
ひとつのものを様々な角度から観た結果の表現の違いと観るか。
凡夫・衆生とは、一方向からしか、見得ない心に拘りの在る人を言うようです。

合掌。


re:読む人を信頼したい 投稿者:MANU.  投稿日: 5月10日(土)12時47分26秒 218-228-188-91.eonet.ne.jp

受け止めさせていただきます。
ありがとうございます

http://homepage1.nifty.com/MANU/


読む人を信頼したい 投稿者:らくりん  投稿日: 5月10日(土)10時48分39秒 isd234199.flets.incl.ne.jp

自分の信仰に対して明確な態度決定がない者が、
他者と信仰について語ろうとしても相手にされない。
まして、信仰はどれでもいっしょだなどという者の言葉が、
自らの信仰を大切にしている人に、受容れられるはずがない。

お互いが、自分自身が大切にしている信仰について、
誠実に語ろうとするところに初めて、信仰の多様性についての対話が成立する。
あれもあるこれもあるでは、それこそ話にならない。

自分の信仰とは無関係に、多様な宗教があるのではなく
つまり宗教に多様性があるのではない。
自分自身にとっては、宗教というも信仰というも一つしかあり得ない。
いくつもあったら迷うだけ、それが信仰というものです。
だから、自らのそれに対して敬意を払ってもらいたいと思うわけであるし、
同時に、
他者の信仰に対しても敬意を払わなければならないと言える。

他者の信仰に対して敬意を払えない者の言動は、
自分自身の信仰をも冒涜していることになる。

ただ、問題は、人は自らの信仰を大事にするということが
どういうことなのかに気付いていないことが往々にしてある。
自分の信仰を大事にしているつもりの言葉が、
えてして、ただの自慢であったり、自己顕示のかたまりのようになっているだけになり、
それは、かえって自らの信仰を貶めることになる。
そして、そのことに気付かない姿は、時としてとても見苦しい。

やっかいなことです。

ここのところ、いろいろごちゃごちゃになってしまって、
管理人としても、あきれはてておるような次第ですが、
それも、公開された場にはつきもののことだろうと思います。

私は、この掲示板を読んでくださる人の
言葉を受けとめる力を信頼したいと思います。
編集済


狂信さんの理解、なんか変 投稿者:らくりん  投稿日: 5月10日(土)10時36分50秒 isd234199.flets.incl.ne.jp
私はラーメンを念仏に譬えているわけではなく、
自分がいいと思ったもの/ことを他の人にすすめる行為について
旨いラーメンを引き合いに出しているだけです。

「ラーメンでさえ、自分が旨いと思ったら人に勧めてみたくなる」のではないですかと。
勧めて、それをその人が食べるか食べないか、旨いと思うか思わないかは
その人に任せるしかない。
ラーメンでさえ、日常的に人に勧めるということはしているのに、
お念仏を勧めるのはいうまでもないではないかと。

もし、お念仏を勧めようとしないならば、
その人にとって、
お念仏が旨いラーメンほどの値打ちもないということになりはしないか。
という趣旨なんですけれどね。


(無題) 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月10日(土)08時51分16秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

なにもかも、いっしょにするほうが、
言葉に対しても、よっぽど失礼だと思うんですけどネェ。。。


>こういう答え方でええんだろうか  投稿者:jyugegu  投稿日: 5月10日(土)08時38分07秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>ナンマンダブツは、私を救ってくれた言葉であり、
>お念仏の教えは・・・・。

つまり
「ナンマンダブツ」「お念仏の教え」とは「言葉であ」る。(マントラ(mantra)。祭司、呪句。)
こういうことでしょうか。

真言では「ナムダイシヘンジョコンゴウ」と唱える「言葉」と同じ。

つまり「ナンマンダブツ」も
「ナムダイシヘンジョウコンゴウ」、そして法華なら
「ナムミョウホウレンゲキョウ」。
たまたま「流れ星」様は真宗寺に生まれたから、
「ナンマンダブツ」

>この教え

て、教えを教えて欲しいです。常に聞いているのに、
単に「お念仏」の教えというばかり。
「お念仏の教え」て何?、
マインドコントロールの陶酔のうちに無ければそれは判らないものなのでしょうか。
例えば近くはオウム信者のような。

>裁く権利は人にはまったくありません
>この教えのすばらしさが、どうしてわかってもらないのか〆

これは何をいうのでしよう。
裁く権利の無い人に、すばらしさが判るという。
すばらしいかどうか「判断」する、
これを言葉を変えては「裁く」というようです。
言葉を売って糧にする貴方ならもっと言葉を大切に。

合掌。


もう一点 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月10日(土)07時56分09秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp
自分が帰依しない宗教も含めて
その内容が他の宗教と同じであるとみなすのは、
どうなんでしょう?

「異質なものを排除するのでもなく、さりとて同質化させるのでもない」
多様性を認めあうことが大事ではないかと思います。

問題提起とさせてください。


らくりんさんに抗議 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月10日(土)06時44分04秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

最初申しましたように、私は原理主義者ではありません。

様々な宗教が存在し、それぞれに帰依する方々が
それぞれの世界観をもっていらっしゃる。

私が念仏の教えを大切に、大事にするということは、
それぞれの教えを大切にする方々を敬うということと
同じことになります。

ただ、いくつもの宗教を学ぶことはあっても、
同時に帰依するということには、違和感をおぼえます。
そこに帰依ということは成り立たっていないのですから。


ラーメンとお念仏の違いが分かってきたように思います。
ラーメンは私の人生に潤いと安らぎをもたらすものであっても、
帰依するものではないということです。

これからラーメンとお念仏を同じにする事は、やめてください
「二仏に仕えることなかれ」>らくりんさん   (゚∀゚)アヒャヒャヒャヒャ
編集済


>ありがとうございます 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月10日(土)01時51分20秒 7.pool26.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>すいません実はカルトっぽいんですがラジニーシの本です

>また同じようなことがあっても自分からは近づかないようにしてみます。
>昔瞑想の真似事をしてたのが理由かもしれません。

OSHOの本ですね。
OSHOの瞑想法はしっかりしているのだと思いますが、
確かに瞑想は自己流でやっているとどこかのチャクラが勝手に開いてしまうことがあって
神秘体験をしてしまったりしますが、それは大変危険なことらしいです。

私も最初自己流の瞑想をしていて神秘体験をいっぱいしていましたが
精神的にも肉体的にもおかしくてなってしまった経験があります。
その時には良いアドバイスをして下さる方に出会えて、難を逃れましたが。。。
そうですね、何があってもそれに興味を示さずに無視することが一番ですね。

OSHOも言っていますね、神秘体験をしているうちは
それはまだ己のマインドが生きているのだと。

「光明をみだして、それを見ているものもマインドだ。
マインドが死ぬときには、最後にその光明が燃え尽きるのをみるのも、最後のマインドだ。」
「マインドが死んだ者はなにも見ないから‘それ’については何の説明もできない」

でろんぎさん、OSHOでキリストに出逢ったのなら、ついでに聖書も読んでみて下さいな(笑)


>それから 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月10日(土)01時40分34秒 131.pool23.dsl8mtokyo.att.ne.jp

>念仏を称えた者を必ず救うという弥陀の摂取不捨の本願。
>その願いを大事にする者ならば、
>どんな悪人でも、そして悪人をこそ救うという教え。
>この教えのすばらしさが、どうしてわかってもらないのか〆

流れ星さん、うまくは言えないのですが、
念仏しようが、お題目唱えようが、アーメン言おうが、坐禅しようが
自分が、善人と思おうが、悪人と思おうが、
どんな人間も、もう既に救われ尽くしているのだと分かることが
信仰に目覚める、神に出会う、ということではないのかと思います。

他人の道の中にも、自分と同じ「神」を見出せるということが
「覚醒」というものではないのかと思うのですが。


>それから 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月 9日(金)23時40分52秒 1Cust51.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>念仏を称えた者を必ず救うという弥陀の摂取不捨の本願。
>その願いを大事にする者ならば、
>どんな悪人でも、そして悪人をこそ救うという教え。

阿弥陀仏に救われたその後どう生きるかでしょうね。
悪人?も油断すればまた悪事?を働くであろうし、
女好きは女絡みで災難に会うかもしれない。
どっちみち救われた後、仏法(智慧)を学び身に着けたほうが、
娑婆を楽に生きて行くことが出来ると思いますけど…

称名念仏は心の安らぎにはなるかもしれませんね。


ありがとうございます 投稿者:でろんぎ  投稿日: 5月 9日(金)23時31分10秒 EAOcf-393p15.ppp15.odn.ne.jp

すいません実はカルトっぽいんですがラジニーシの本です
愛の錬金術という本で内容はキリストの言葉は
真理を伝えるための対機説法であり
比喩であるという内容のもので聖書は読んだこと無いです。
また同じようなことがあっても自分からは近づかないようにしてみます。
昔瞑想の真似事をしてたのが理由かもしれません。


それから 投稿者:流れ星  投稿日: 5月 9日(金)22時19分27秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

ナンマンダブ称える人間の思い。
それがいかなるものであろうとも、
純粋だからイイとか不純だからダメと、
裁く権利は人にはまったくありません。

念仏を称えた者を必ず救うという弥陀の摂取不捨の本願。
その願いを大事にする者ならば、
どんな悪人でも、そして悪人をこそ救うという教え。

この教えのすばらしさが、どうしてわかってもらないのか〆
編集済


こういう答え方でええんだろうか 投稿者:流れ星  投稿日: 5月 9日(金)21時59分42秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

わたしはドストエフスキーを通してのキリスト教に共鳴しています。
そして、法華経も少し学んで、生き生きとしたすばらしい経典だと思いました。
でも、ナンマンダブツは、私を救ってくれた言葉であり、
お念仏の教えは、あらゆる人に勧めていきたい教え、ということです。


自問自答 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月 9日(金)21時49分43秒 1Cust230.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>>ところで題目と念仏の決定的な違いというのは何なのでしょう?

どうやらお答えがないようなので勝手に自問自答。

自分的には「題目」も「念仏」も似たようなものだと思っています。
私の心の中には「題目」と「念仏」が共存していますが特に何の支障もないですね。
日蓮は念仏批判をしているようですが私は日蓮その人に寛容の気持ちが足らんのじゃあ
なかろうかと思っています。
日蓮宗は浄土(真)宗を罵倒しますが浄土(真)宗は是非とも日蓮宗を寛容してやって
欲しいですね。
まあ日蓮も藪から棒に罵倒していた訳ではないと思いますけど念仏者が法華経を生きる
っていうのはダメなのかな?

私からすると「題目」も「念仏」も核心(仏法)に導くための方便にすぎません。
「題目」「念仏」を通して仏法を学びその法(智慧)を生活(人生)に活かす。
で、初めて本当の意味で「救われた」と言えるのかなと…


>わかんないかなぁ  投稿者:jyugegu  投稿日: 5月 9日(金)20時59分33秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>念仏者でもない人から、「お前、念仏ちゃんと称えろ」と言われても、、、、ねぇ

「人」に

>わかんないかなぁ

「念仏」て何?。


わかんないかなぁ 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月 9日(金)20時54分31秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

念仏者でもない人から、「お前、念仏ちゃんと称えろ」と言われても、、、、ねぇ。


>( ゚Д゚)ハァ? 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月 9日(金)20時49分07秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>念仏者でもない人に、いわれてもなぁ。。。

「念仏者」ではないかも、
しかし「人」ではある。

合掌。


>なるほど。。。 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月 9日(金)20時46分26秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

>酔客なのね。。。

酔眼で読まないように

>「水」

とは書かない

「お湯」としたはず。

合掌。


ジャンク門徒さんへ 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月 9日(金)20時41分47秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

少し待ってくだされ。


( ゚Д゚)ハァ? 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月 9日(金)20時35分26秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

>もう少し、ご自分の立場というものをお量りの程。

そんなこと、念仏者でもない人に、いわれてもなぁ。。。


なるほど。。。 投稿者:三吉  投稿日: 5月 9日(金)20時26分02秒 ntfkok022207.fkok.nt.adsl.ppp.infoweb.ne.jp

酔客なのね。。。酔ってる人に言うのも野暮だけど。。
後から「水」を足したんじゃなく、醸造のときから使用しているのね。。。
「妄想」から覚めたら、わかるかもよん♪


>お酒はぬるめの燗がいい♪  投稿者:jyugegu  投稿日: 5月 9日(金)20時08分25秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

客商売は、

>お酒はぬるめの燗がいい♪

と、お客の注文でするがよろしいかと。

酒を出すといいながら、お湯を混ぜてのぬる酒はルール違反かと。

合掌。


お酒はぬるめの燗がいい♪ 投稿者:三吉  投稿日: 5月 9日(金)19時59分08秒 ntfkok022207.fkok.nt.adsl.ppp.infoweb.ne.jp

<生かされ在る といわれる真宗坊主の言でしょうか。
もう少し、ご自分の立場というものをお量りの程。>


「その人が、そこで、生きていけるならば。」にね、釈尊も弥陀も「うんうん」と
頷くよん。私はそーいう仏教に出遇ってる。わーいわーい♪

jyugeguさんたら、堅苦しい仏教に出「遭」ってるのね。しくしく。


>(無題) 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月 9日(金)17時58分21秒 1Cust77.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

流れ星 ☆彡さん

>ところで題目と念仏の決定的な違いというのは何なのでしょう?

私は門徒というものの僧ではありませんし、墓の籍?が浄土真宗にあるだけの
殆どというか全くの一般人です。(多少仏教に興味を持つ)
上記の質問は素通りされてしまわれた?ようですが、多少なり見解は伺いたかったです。
「ツベコベ言わず念仏しろ」ということでしょうか?

>その思いがキレイでも、不純でも、自分で作ったものでも
>他人から与えられたものでも、なんでもいいんじゃないか。
>
>その人が、そこで、生きていけるならば。

政治家の汚職、宗教者の腐敗等は見て見ぬ振りをしろということでしょうか?
宜しければ質問に答えて頂きたいのですが、、、無理にとは言いません。
編集済


>(無題)  投稿者:jyugegu  投稿日: 5月 9日(金)17時12分35秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

流れ星 ☆彡 様、
貴方の、
ご自分に正直なところは良くわかりました。

>その人が、そこで、生きていけるならば。

この発言は何でしょう。
門徒に向かっては、
「阿弥陀の本願に生かされた私達」てなお説教されて居られるのでしょう。
その本人が「生きていける」、
自分で生きているのだ、と読める発言は、
それが真に弥陀の本願「他力」に縋り生きる、
生かされ在る といわれる真宗坊主の言でしょうか。
もう少し、ご自分の立場というものをお量りの程。

本音と建前をこれほど赤裸々に表明されるお人を、正直というべきか、

パトロン・檀家は何思う・・。

合掌。


(無題) 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月 9日(金)16時33分15秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

人は、お金儲けのためにだけに、
働いているんでしょうか。

きれい事を申すつもりはありません。
食わなきゃ、生きていけません。

だけど、それだけじゃないことが
何かあると思っているから、
生きていけるんじゃないでしょうか。

その思いがキレイでも、不純でも、自分で作ったものでも
他人から与えられたものでも、なんでもいいんじゃないか。

その人が、そこで、生きていけるならば。
編集済


>突然ですが質問させてください 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月 9日(金)16時19分12秒 125.pool14.dsl8mtokyo.att.ne.jp

でろんぎさん、はじめまして。
赤時さんと同じように、私にもあなたの読んでいたものが何なの分かりません。
私は不敬虔なクリスチャンですのでよく分かりませんが、聖書にはそんなところはなかったような。

しかし、神秘体験は「つまらん」です。
私も色々体験しましたが、今は全く興味もないです。

「神秘体験をしたらすぐ忘れろ、そんなものに興味をもつな、それに意味など求めない」
これ、求道者の鉄則だと思います。
それが魔のものでなくて、たとえ神からのものであったとしても、それに囚われないことですね。
それに執着してしまうとそこに留まってしまって、次なる霊の高みへとは登ることは出来ません。

カトリックの教会の修行の伝統の中に「霊操」という瞑想の訓練法があります。
上智大学の隣にある聖イグナチオ教会で有名な聖イグナチオ・デ・ロヨラが、
自分の霊的体験から作り上げた霊的訓練法ですが。

この聖イグナチオも、数々の神秘体験をしましたが
「生涯の中で唯一絶対神から来たと思われるものは、ビジョンもなく、光りもなく、
何の準備もしてないときに、直感のように純粋に知的に来た」と言っています。
この体験を元にこの訓練法「霊操」が出来ました。

殆どの神秘体験には何も意味がないですから、それには囚われない方がいいと思いますね。


>ラーメンとお念仏 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月 9日(金)14時35分56秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

流れ星 ☆彡様、こんにちは。

>「自分が美味しいと思ったら、他人にも勧めるでしょう」

>私は、この譬えが、なんかヘンだと感じています。

>私が一番好きなラーメンは
>私には合っているけれども、他人には合わないラーメンです。

歎異抄に親鸞の言として、
「弥陀の本願よくよく顧みれば、親鸞唯一人がためなり」
の言葉が残されるよう。
つまり貴方が云われる、
『私には合っているけれども、他人には合わないラーメンです。
』をいうよう。

>でも、お念仏はどなたにも薦めたいと思うんです。

貴方が真宗寺の関係者で無く、もしも神社の神主で有ったとしてもそう云うかな?。

>でも、たしかに、万人が美味しいと感じるラーメンは、存在しないし、
>そしてお念仏の教えも、だれもがいいなぁと思うわけではない。

>ラーメンとお念仏の違いは何なのかと、考えております。

流れ星 ☆彡様、貴方誠に正直なお方、
ラーメン屋ではないから、ラーメンに関しては客観視に在られるよう。
しかし真宗坊主であるからは、念仏売らなきゃ稼ぎにならぬでしょう?。
これを称して「我田引水」に在るといわれるようです。
他人の田の水は如何でも良い、でも我が水田には水は当然満たしたい。

よくよく慮ってくだされかし。  合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


>ラーメンとお念仏  投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月 9日(金)14時32分56秒 1Cust209.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net
流れ星 ☆彡さん、こんにちは。

>でも、お念仏はどなたにも薦めたいと思うんです。
>これは、お念仏を中心にするということの素晴らしさがあるからです。

法華経の行者に念仏を薦めるのは至難の業だと思いますが、テクニック次第では
受け入れて貰えるかもしれませんね。
法華経行者を装い実は隠れ念仏者とか?
あと、やはりナンダカンダいっても人柄でしょうね重要なのは。

「あの人が念仏を称えるなら私も称えようかな」

と思われるくらいの魅力があるとベストなのかもしれません。
一番恐れるのは(然程恐れてもいないが)
「あの人が念仏を称えているくらいだから念仏はロクなもんじゃあないね」
ってなる場合。

ところで題目と念仏の決定的な違いというのは何なのでしょう?


狂信さん 投稿者:らくりん  投稿日: 5月 9日(金)14時19分42秒 isd232202.flets.incl.ne.jp

なんでも聞きゃぁいいってもんでもないでしょう。
自分で考えるところも残しておかなくちゃ。ね。


ラーメンとお念仏 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月 9日(金)13時13分24秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

弥陀の欲生心、あるいは廻向された欲生心を説明するときかな、
らくりんさんがラーメンの話をするときがあります。

「自分が美味しいと思ったら、他人にも勧めるでしょう」

私は、この譬えが、なんかヘンだと感じています。

私が一番好きなラーメンは、近くのチェーン店の味噌メンマラーメンです。
さらにメンマをトッピングしてもらいます。
しかし、これは他の人に勧めることはできません。
スープにくせがありまして、しつこいんです。
私には合っているけれども、他人には合わないラーメンです。

でも、お念仏はどなたにも薦めたいと思うんです。
これは、お念仏を中心にするということの素晴らしさがあるからです。
十住毘婆沙論の現代語訳を始めたのも、少しでも多くの方に、
読んでもらいたいという気持ちです。

ですから、美味しいラーメンを薦めるのと、
お念仏を称えることを薦めるのとは、どこか違うと思うのです。

でも、たしかに、万人が美味しいと感じるラーメンは、存在しないし、
そしてお念仏の教えも、だれもがいいなぁと思うわけではない。

ラーメンとお念仏の違いは何なのかと、考えております
編集済


(∞;) 投稿者:らくりん  投稿日: 5月 9日(金)10時41分27秒 isd232202.flets.incl.ne.jp

ほぉ〜ぉしのぉ〜♪
 なぁがれに〜、みをうらなぁ〜って♪
  どぉ〜こをぉ、ねぐらのぉ〜 ♪

あぁ〜とは、しらぁ〜ない、ふたりは わかぁ〜あい♪
編集済


でろんぎさんへ 投稿者:赤時  投稿日: 5月 9日(金)10時36分53秒 1Cust135.tnt5.tko2.jp.fj.da.uu.net

でろんぎさんへ。はじめまして。あったかそうなお名前ですね。

>キリストの話で、キリストの炎をくぐりぬけ自らを焼き尽くした者だけが純粋な結晶となって
>生まれ変われるが皆逃げ出すか周りをうろうろするだけである

というお話の出典を私は知らないのですが、なにですか?テルゼさん、知ってます?


ようこそ 投稿者:らくりん  投稿日: 5月 9日(金)08時40分27秒 isd232202.flets.incl.ne.jp

でろんぎさん、はじめまして。

私自身は、書かれたような体験はあまり記憶しておりません。
どこにも逃げ場も居場所もなくて、世の中真っ暗と思ったというような
闇ならば、ないわけでもありませんが。

管理人の私がいつもいつもお相手する/できるかは、わかりませんが、
ここは、いろいろな人が出入りしてきますので、
それなりに、お楽しみ下さい。


突然ですが質問させてください 投稿者:でろんぎ  投稿日: 5月 9日(金)03時27分19秒 EAOcf-391p160.ppp15.odn.ne.jp
魔境についてお尋ねします
キリストの話で、キリストの炎をくぐりぬけ自らを焼き尽くした者だけが純粋な結晶となって
生まれ変われるが皆逃げ出すか周りをうろうろするだけである
というところを読み、考えていた時、闇というか自分の消滅みたいなものをリアルに感じました
神秘体験として念仏称えながらその闇に入るか、とも思いましたが精神病になったりしたら
いやだなとも思い結局逃げました。
実は二回あったんですが二回とも逃げました。
注意深く入っていけば以外に大丈夫だったのか、飛び込むべきだったのか気になってます。
らくりんさんや皆さんはそんなことありますか?
(普通に座って本読んでました)


十住毘婆沙論 データ化、現代語訳 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月 8日(木)16時05分24秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

上記のような取り組みを始めました。
アドバイス、御意見賜りますれば幸いです。

http://www.ctt.ne.jp/~gyoku/


ぐっちんさん 投稿者:ジャンク門徒  投稿日: 5月 8日(木)13時59分17秒 1Cust54.tnt1.utsunomiya.jp.fj.da.uu.net

>話しがくど過ぎ、喩えがドギツかったですね。

くど過ぎれば過ぎるほど、ドギツければドギツイ程、墓穴は深いのかもしれませんね。
ドギツイ話も場合によってはそれが目覚まし時計のようになったり、
下手すると蚊のようになってしまったり。

>テルゼさんも、ジャンク門徒さんもjugeguさんもお元気で。

ハハハハッ。ぐっちんさんもお元気で。


通じんかもしれんけど 投稿者:MANU.  投稿日: 5月 8日(木)13時52分23秒 218-228-188-91.eonet.ne.jp

人のことばっかり見ないで
自身も省みたらどないですか。
>思い当たるふしのある方々へ

http://homepage1.nifty.com/MANU/


ぐっちん様、 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月 8日(木)11時48分45秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

まあ

http://free.has-u.co.jp/cgi-bin/free/culture/u-bbs.cgi?room=zqrms

でもたまにお遊びに・・・。

合掌。

http://homepage1.nifty.com/SNC26924/


>らくりんさん 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 8日(木)10時00分58秒 proxy205.docomo.ne.jp

はい、わかりました。話しがくど過ぎ、喩えがドギツかったですね。人の事は、言えません。下記の発言は、私個人の意見であることを改めて明記して、さてと。それでは、失礼しました。テルゼさんも、ジャンク門徒さんもjugeguさんもお元気で。


内輪の論理 投稿者:らくりん  投稿日: 5月 8日(木)08時52分45秒 isd232202.flets.incl.ne.jp

ぐっちんさんへ、

恣意的に枠組みを決めて、十把一からげにして、
一方的に同様の批判・非難を繰り返すやり方は、
古今東西の、カルト的集団が、ほとんど例外なく多用してきた手法です。
相手をおとしめることによって、自らの正当性を高めようとするわけですが、
結局、
それは身内にしか通用しない内輪の論理でしかなく、
一部において熱狂的な支持を受けることはあっても、
公開された場で多くの共鳴や賛同を得るものではありません。
そして、
やればやるほど、自らの品位を貶めていくだけのことです。
一人ひとりの人格や発言に目を向けようとしない言葉が、
美しく輝くわけがないではないですか。

GS渡世はほどほどに。

自分のことを言われるだけならば、黙っていますが、
人が自らの内面を表出された言葉を冒涜するような発言には、
つい感情的になってしまいます。
編集済


ぐっちん、がんばれよ!! 投稿者:流れ星 ☆彡  投稿日: 5月 8日(木)08時39分36秒 u011.d209223218.ctt.ne.jp

おれも、がんばってるぞ <`〜´>
編集済


ということで 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 8日(木)07時20分49秒 proxy202.docomo.ne.jp

あとは、ご自由に。あ、こんな詩があったな。    あなたの花を咲かせなさい/あなたが探している花が どこにもないと嘆くなら/あなたがその花におなんなさい/あなたの花を咲かせなさい


覆面議員サスケ 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 8日(木)07時12分09秒 proxy212.docomo.ne.jp

坊主/非坊主という枠組を前提としておしゃべりする必要あるんですかねぇ。。。まあ、話し出すと止まらんなあ、わしも。。。坊主は、生身の身体をさらしてますが、あーサスケのように覆面でもかぶってもうたら逆にレスラーやいうこと分かりまっけど。。。別に職業がなんたらかんたらという話しでもなくして。。。私は私なりの決意を持って得度し、ご門徒さんに対してそれなりの活動を働きかけてきたわけで、それを逐一ここで再現して見て貰うわけにもいかず。。。ほら、らくりんさんのおっしゃった如く、喋れば喋るほど言い訳がましいでしょ。


掲示板の遊びかた 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 8日(木)06時48分38秒 proxy210.docomo.ne.jp

政治家が、自分の政治活動を公開する目的で開いたHPの中に、BBSがあるんなら有権者の厳しい意見や叱責もあるでしょうが。。。


それとも 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 8日(木)06時36分30秒 proxy219.docomo.ne.jp

無料SMクラブですかい?


だから。。。 投稿者:ぐっちん  投稿日: 5月 8日(木)06時33分46秒 proxy219.docomo.ne.jp

坊主への目安箱なんですかね、掲示板は。ぐっちんならぐっちんが、ここでしゃべっていることに対して、ツッコミ入れていただければいいことで、「あんたは、わしの思ってる坊主像からは外れておる」とか言われましてもねぇ。イメクラやないねんから、「こら、そこで新妻らしく、初々しい態度で悶えろ。悶えられないか。まだまだ、プロとはいえんなあ〜」。カネ払てから、言え。


>耳にタコ 投稿者:テルゼ  投稿日: 5月 8日(木)06時30分04秒 157.pool14.dsl8mtokyo.att.ne.jp

ぐっちんさん、土方の子に生まれるのも、大統領の子に生まれるのも、
私生児として生まれ、大工の養父に育てられるのも、誰も自分の意志では選べません。
でも、坊さんになるかならないかは、自分の意志で選べるでしょう?
そうか!たまたま生まれたところが寺だったっていうだけで、
本当はお坊さんになんかなりたくもないのに、坊さんにされちゃうから困っちゃうのかあ〜〜。
お寺も、世襲制を止めればいいのにね。

でもね、少なくとも自分の意志で御坊さんになった人は、
やはり牧師や神父と同じように、それなりの覚悟が必要と思うのですが。。。


ぐっちん様 投稿者:jyugegu  投稿日: 5月 8日(木)06時29分58秒 YahooBB219026239011.bbtec.net

イカにも
タコにも
坊主にも

墨で
生身を隠そうと、
それは一時逃れの方便の、
遂に己の救われる道でしょうや?。

やどかりが
仮の家を変えただけ、
その家をも取っ払って後、
真に真っ赤な血の流れるか。

誰か言う処の赤肉団、
無位の真人この姿。


まあ
ぼちぼちと。

合掌。


>ああ、我が良き師友よ  投稿者:テルゼ  投稿日: 5月 8日(木)06時15分25秒 157.pool14.dsl8mtokyo.att.ne.jp

な〜んだ、ぐっちんさん、私の所為であなたを「断筆」に追い込んじゃったと心を痛めたいましたのに
まだまだ血は出るようですし、息はしているね?・・・元気そうで安心いたしました(笑)

御坊さんが、あれもしています、これもしています、
と改めて並べ連ねなくてはいけないのも、悲しいものがありますね。
牧師や神父は、人様の為に「あれこれしています」とは、誰も声高には言いませんけどね。。。
牧師や神父は人の心を救って「なんぼ」のもので、エロ坊主さんにように
「ああ、青春日記」なんて呑気なこと言ってられません。
常に信徒の厳しい目に晒されていますから
まずは自分が救われていなければ、信者にもそっぽを向かれ、
すぐに三度のご飯にもあり付けないと言う有様になってしまいます。
それに、ちょっとした不祥事を起こせば、即刻追放と厳しいです。

以前朝日新聞に出ていたのですが、浄土宗だったかな、
世間が葬式仏教に愛想を尽かし始めているのに危機感を持って
「仏教は人の心を救うものですから、これからは人々の心の救済に力を入れましょうね」とか、
御坊さん達に伝えてアンケートとったそうな・・・ところが、多くの御坊さん達が
「とてもじゃないけれど、人の心になぞどう付き合ったらいいのか分からないし、
まずこの私の心を救って欲しい」という情けない反応だったそうです。
これって、やっぱヘンじゃないかしら?

私の母と姑は、爺さん婆さんの葬式から、父母、夫、それに子供の葬式まで出して、
人生の多くの時間を葬式、法事と翻弄され、
もう結構うんざり、自分の葬式だけはしないでくれと私達は言われています。
こんな世の中で、どうなんでしょう?人の心を救えない坊さん、聖職者としての自覚のない坊さん、
どんな道が残されているのでしょうか?
こちらのらくりんさんのように、心痛めている御坊さんもいらっしゃるのでしょうが、
危機感もなく漫然と過ごしていらっしゃる御坊さんも、多いのではないのかしらと思われますが。。。

どの世界も、心ある人とそうじゃない人といますし、
らくりんさんの仰るとおり、人の批判をすることはお手軽なことですが、
それを承知の上で敢えて言わせていただきますと、私の接してきた牧師さん達に比べると、
今の御坊さん達は、聖職者としての自覚や厳しさが希薄に感じますが、これ私だけ?

これからは、お坊さんも死者の供養でお金なんか稼がないで、
生者の心を救ってナンボとなれば、仏教界も変わると思うのだけれど・・


過去ログアップしました。 投稿者:らくりん  投稿日: 5月 8日(木)06時00分31秒 isd232202.flets.incl.ne.jp

内輪だけで楽しんでる間は、こうはならない。
これが「公開性」というものの一面ではないかと思います。

「ごさいそく」があったようなので、前文までの過去ログをアップしました。
エロ坊主さんありがとうございます。
編集済

以上は、新着順1番目から30番目までの記事です。
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