らくりんバンバン

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契約更新迫る  投稿者:らくりん  投稿日: 3月31日(金)10時04分4秒   引用  編集済
   この掲示板の契約の前回の更新がいつだったか記憶が定かではありませんが、たしか今度の4月で更新時期ではなかったかと思います。
 ご覧の通り、この掲示板は開店休業中の状態ですので、契約更新時期を間近にひかえ、どうするか、正直言って決めかねています。

 どのようになっても掲示板だけは続けていけるようにと、無料ページの方に移行できるように準備をいたしました。

 新しい掲示板は、〈らくりん交差点〉の方から入っていくようにいたしました。
 ↑ のタイトル下に 新掲示板へのリンクを貼っておきましたので、そちらの方も「お気に入り」「ブックマーク」に入れておいていただければ幸いです。
 お手数ですが、よろしくお願いいたします。

http://sun.ap.teacup.com/pastime/

 

追悼の集い  投稿者:らくりん  投稿日: 1月11日(水)15時42分0秒   引用
  下記のような連絡が入っておりますので、ご紹介いたします。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 謹啓 すでにご承知の通り、去る二〇〇六年一月一日深夜、和田 稠 先生(浄泉寺前々住職)が亡くなられました。
 先般、一月三、四日に、御通夜・御葬儀等を執り行いましたが、諸般の事情により、教区内外に向けての御通夜御葬儀等の御案内を、葬儀事務局からは一切致しませんでした。
 お知らせが大変遅くなり失礼致しましたことを深くお詫び申し上げます。

 つきましては、左記の通り、先生を偲んで「追悼の集い」を催したいと思いますので、通夜・葬儀にお越しになれなかった方々には、是非ともご参列賜りたく御案内申し上げます。
 また、勝手ながら近隣有縁の方々にもご連絡下さいますよう御願い申し上げます。
                              合掌

      記
「追悼の集い」 勤行・追悼感話・ビデオ上映
 日 時  一月十八日 (水) 午後一時三十分より
 会 場  真宗大谷派 大聖寺教務所 本堂にて

 なお、案内にはでておりませんが、当日は和田先生と縁が深かった特別ゲストのお話も予定されているそうです。

 ※お問い合わせ先につきましては、管理人宛てメールをいただければ、折り返しお知らせいたします。
 

Re: 訃報  投稿者:なまぐさ  投稿日: 1月 2日(月)16時14分28秒   引用
  > 和田稠先生が、1月1日夜、浄土におかえりにならました。

私には南無阿弥陀仏の他に申せることはありません。

まだまだお話を伺いたいと思っていましたが、
明日ありと、おもうこころの、あだ桜

夜半に嵐が吹きました・・・
 

訃報  投稿者:らくりん  投稿日: 1月 2日(月)12時02分28秒   引用  編集済
  和田稠先生が、1月1日夜、浄土におかえりにならました。
 お通夜  1月3日午後 7時
 お葬式  1月4日午前10時
 式場   大聖寺教務所(加賀市大須賀波町)

 ※遠方から参列される方は、大聖寺教務所に泊まれるようにしたいとのことです。
 

お待たせしました。  投稿者: お留守居役様  投稿日:12月29日(木)11時29分34秒

引用
2005年 下半期 私が読んだ本 UPしました。

http://www1.cts.ne.jp/~orusu/2005/2005-2w.htm


ありがとうございます。  投稿者: らくりん  投稿日:12月 3日(土)09時11分54秒

引用
お知らせありがとうございます。
もう5年以上前に発刊された『読み解く』が、最近のランキングに出ているとは驚きです。
しかも、アマゾンの。

>「念仏の中にある親鸞を見ようと」するんですか。
初耳です。

お念仏の中から親鸞聖人が見えてきたとしたら……、ぞぞぞ。
そういうものを見ようとしていたら、
眉間にたてジワができてしまいそうです。

私は、お念仏は見るものじゃなくて聞くものだと思ってます、
本願成就の文には「聞其名号」とありますしね。
しかも、聞こえてくるのは親鸞聖人の声ではなくて、
「法蔵菩薩の願心」、「如来の呼び声」 といいたいところです。
編集済

amazon.com で・・・  投稿者: 諦清  投稿日:12月 2日(金)21時53分53秒

引用
「浄土教に関する書籍の売れ筋ランキング」ってページを見つけちゃいました。(下記 リンク参照)
20位以内に2冊出てますね〜。ここから辿ってアマゾンコムの中に入っていくと、
藤場先生の『親鸞の教行信証を読み解く』の中身が
PDFファイルでみるような形で数ページみられるようになっていて、
えらく機能が発達したなぁと感心します。

先日読んだ寺川先生の文章の中に(今 手元にないのでうろ覚えだけど)
「親鸞や親鸞教学の分析がなされることは多々あるが 現代人は念仏の中にある親鸞を見ようとしない」
といったような指摘があり、これにはハッとさせられました。
また もう一度改めて『親鸞の教行信証を読み解く』を読もうと思います。

それにあわせてまたさらに
鈴木大拙先生の英訳本についてNHKで数十年前にラジオで放送されていたことをを取り上げて
『「以前は禅宗の本を英訳され、次には教行信証の英訳をされた理由は、今度は念仏の教えを
 世界に伝えようとされたのですか」の問いに、大拙は
 「そうではない。親鸞の教行信証のことばを世界の人は知っておかねばならないからだ。」
 と答えたそうだ。』といったようなことが書いてありました。(多分 こんな内容)
う〜む。にゃるほど・・・。
もっと多くの人に読んでもらえるように、アマゾンコムのレビューを書いていきましょう(笑
(と いいつつ 私もまだこれからなんだけど(汗 )

http://homepage3.nifty.com/jubus/rekishi3/html/rekishiC2.html


ようこそ  投稿者: らくりん  投稿日:11月20日(日)09時43分20秒

引用
ここでは初めまして、ですね。
ようこそ。
最近は、とんと掲示板不精をきめこんで、愛想がありませんが、
気が向いたら、独り言でも書いてください。

ただ、ネット上では不用意に実名を出さない方がいいかもしれません。
今後、あちこちで掲示板を利用されていくつもりなら、何かハンドルネームを
使われた方が賢明だと思います。

諦清さんのように、直接に連絡がつかなくて、
やむを得ず個人あてのメッセージを書き込むのはいたしかたがないでしょうけれど、
プライベートなメッセージや、実生活での関係の話を、ネットという公開の場でのコミュニケーションの場に持ち込むことも、慎重になさる方がいいかと思います。

私信っぽいメッセージは、メールの方がいいですし、
掲示板をつかうなら、できるだけ、掲示板を見るだけで、話の流れが通じる書き方を
心がけていただけたらと思います。
編集済

(無題)  投稿者: モモリン  投稿日:11月19日(土)16時08分30秒

引用
人に愚痴をいうことはあっても、なかなか愚痴を聞いてあげられません。それとは逆のミヒャエルエンデの「モモ」にあこがれます。法然上人の御真影も首をかしげておられることが多いとか。モモのようなかただったのかしら。
編集済

個人的用件に失礼します  投稿者: 諦清  投稿日:11月16日(水)12時25分19秒

引用
三ちゃん、こちらのホットメールは停止しました。
人質(?)の「原始浄土思想の研究」等の書籍の件について
連絡を取りたいので、↑の私の名前のリンクからご連絡ください。

そうですか、感じるんですか  投稿者: らくりん  投稿日:11月15日(火)22時07分8秒

引用
お好きなように 感じててください。
編集済

reなぜ浄土教なのか?  投稿者: 三吉  投稿日:11月 9日(水)07時51分19秒

引用
とはいえ 私には らくりんさんに
カール・バルトを感じるのだが。。。
気のせいだろうか。。。

(無題)  投稿者: 林遊  投稿日:10月21日(金)02時22分22秒

引用
林遊@なんまんだぶつです。

>思えば、クイズで「最も短い時間は何?」というのがあって、
>答えは「ヒラメキ」というのです。
>人があることをヒラメク前と後の間に時間がかかるとはいえないので、
>最も短い時間ということになるというものでした。

小生は音楽のことはよく判らないのですが、お留守居役様さんの守備範囲で
ある音の世界でいうならば、最初のフレーズでを聞いた瞬間その曲に対する
自己の想いや自分の経験してきた世界がひらめき&キラメクのでしょうね。

>ですから、一念義は、「ナムアミダブツ」の「ナ」と言った瞬間で、
>十分という主張ということになるのでしょう。

一念、多念はお留守居役様さんの言われる行(行為としての称名)であるか、
心の「ヒラメキ」としての一念であるか、ややこしいところですね。

ここいらへんは、お留守居役様さんのご教示を仰ぎたいところなのですが、
中世の精神世界では、口業と意業の分離はなされていなくて同じものとされて
いたのではないか、もしくはその分離が意識されはじめた時代ではないかと
密かに思量していたりします。

「教行証」という仏道体系に「教行信証」と、「信」を別開された事は御開山
の日本仏教におけるお手柄だ、と思っていたりします。もちろん菩提心という
体系の中のことではありますが・・・。

明恵さんとの関係とか書きたいことは山ほどあるのですが、アルコールが全身
に回っているので以下略です(笑)。

http://labo.wikidharma.org/


一念を学びました  投稿者: お留守居役様  投稿日:10月19日(水)00時30分41秒

引用
『一念多念文意』に
>凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、
>欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、
>ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、
>水火二河のたとえにあらわれたり。
とあって、「臨終の一念」を「臨終の瞬間」という意味で述べられていました。
ここでは「1回の念仏」の意味ではありませんでした。
私の無知による誤解でした。
ただ、「竜華三会の暁」に対応して「臨終一念の夕」とあり、
「三会」は、弥勒の3回の説法という「行為」ですので、
「一念」も1回の念仏という行為かと思ってしまったのです。
お教えありがとうございます。
親鸞聖人は、臨終念仏説や臨終来迎説を言っているのではないことが解って安心しました。

思えば、クイズで「最も短い時間は何?」というのがあって、
答えは「ヒラメキ」というのです。
人があることをヒラメク前と後の間に時間がかかるとはいえないので、
最も短い時間ということになるというものでした。
もともと「一念」というのは、「ヒラメキ」のことだったようです。
転じて、「一念」は、「1回の念仏」というよりも
「一瞬の念仏」という意味だったのかと思います。
ですから、一念義は、「ナムアミダブツ」の「ナ」と言った瞬間で、
十分という主張ということになるのでしょう。
そもそも、念仏の回数を数えることは無意味と考えてのことと思われます。
編集済

多念義の林遊です(笑)  投稿者: 林遊  投稿日:10月18日(火)00時42分1秒

引用
えっとここの一念はなんまんだぶつではありませんです。
時間の極まりのことを一念と表現しているのですね。

で、金剛心にもいろいろありまして、元品の無明を破ることは
妙覚の仏の金剛智による他はない、という思想が背景にあります。
妙覚は仏、等覚は仏の一歩手前という意味で、菩薩の階位を表す
表現です。

と、いうわけで弥勒菩薩は56億7千万年後に仏のさとりをひらく
といわれるが、なんまんだぶつの行者は臨終の瞬間に即座にさとり
をひらくということを、御開山はここで述べていらっしゃるの
ですね。

で、往生即成仏という義がここでも明かされているんですね。
教行証文類はとんでもない世界を表現しようと御開山が苦心惨憺
している書ですから訳がワカランですね。

http://labo.wikidharma.org/


臨終の一念  投稿者: お留守居役様  投稿日:10月17日(月)20時28分48秒

引用
『教行信証』信の巻に

>250真に知りぬ。弥勒大士、等覚金剛心を窮むるがゆえに、
>龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
>念仏衆生は、横超の金剛心を窮むるがゆえに、
>臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。
>かるがゆえに「便同」と曰うなり。

ここで言われている
>臨終一念
とは、どういうことでしょうか。
親鸞聖人は、法然聖人とともに、
人は、突然死ぬこともあり、死に際して念仏できるとは限らないので、
臨終一念は不要と言われていたかと思います。
また、
>横超の金剛心を窮むる
のならば、「大般涅槃を超証す」るのに
>臨終一念
は不要と思われますが、いかがでしょうか。

弥勒大士、等覚金剛心、龍華三会の暁
とを対比させた表現としては、美しいと思いますが。
編集済

親鸞教学で言うところの  投稿者: お留守居役様  投稿日: 9月20日(火)23時54分12秒

引用
一念義に親鸞聖人は近いと吉本さんは言われていて、
らくりんさんや林遊さんは多念義に属していらっしゃるから
見解の相違が生じているのではないでしょうか。
編集済

なぜ浄土教なのか?  投稿者: らくりん  投稿日: 9月20日(火)11時49分37秒

引用
私は、
吉本隆明さんの親鸞論や親鸞理解にはあまり関心がありませんが、
お留守居役様さんが紹介する吉本さんからは、
親鸞がなぜあれほど念仏にこだわったのか、が見えてこない。
念仏を抜きにした、親鸞理解など、
私に言わせれば、せいぜいで半面だけですね。

「べき」で人間の問題が解決したり、
自分だけでさとりすますだけならば、
浄土教など必要ないんですけどねぇ。

横遅んレス  投稿者: 流星  投稿日: 9月20日(火)08時04分2秒

引用
お留守居役さん失礼します。

re:教学不信  投稿者: 林遊  投稿日: 7月 8日(金)17時56分19秒
>なお親鸞聖人の使われる他力という言葉は、自である仏が他なる衆生を
>見て「他」というのであり、自らを主体として仏を他とする言葉では
>ありません。この主体と客体を間違えると、生かされて生きるとか、他者
>との連帯などと口走る安易な他者依存の信心宗教に堕します。

なるほどなぁ。なにを聞いても学んでも、意識、無意識に関わらず、
自分は救われる側に、自己中心に捉えております。

以前、仏中心だと、私のいる場所がないと、反論したこともありました。
しかし、そのために、なんまんだぶが用意されているのでしょうね。

論註の利他を踏まえておっしゃっているのでしょうか。
そうすると、「自力」はどういう具合になるのかお聞きしたかったりします。

http://d.hatena.ne.jp/ryuuusei1/


吉本隆明『13歳は二度あるか』  投稿者: お留守居役様  投稿日: 9月18日(日)21時15分15秒

引用
13歳は一度しかない。
繰り返し得ない大切なときなのだ、というのが題名の意味です。
内容は、13歳のための「共同幻想論」です。
「共同幻想」は「社会的個人」に、「個人幻想」は「個人としての個人」に、
そして「対幻想」は「家族の一員としての個人」に読み替えられます。

親鸞聖人については、次のように語っています。

>親鸞は、天才的な人で、浄土真宗の教祖ですが、
>浄土というものがあるとは思っていませんでした。
>むしろフーコーと同じように、死は生とは別の系列にあると考えていたのです。

>念仏を大事にした親鸞ですが、
>死ぬ間際に、浄土へ行くために一生懸命念仏を唱えることが重要だという
>当時の考えは間違いだと言っています。

「往生成仏」とか、「現世往生」「来世成仏」とか言って、
生と死が直線的につながっていると考えて、
「死後に浄土で成仏する」などと主張する「親鸞教学」よりも、
私は、吉本さんを信頼します。
なぜなら、次のようにも語られているからです。

>生と死は直線的につながっているわけではないのですから、
>生きているということは、死に向かって進んでいるということではありません。
>だから、生きている間はずっと、それこそ死の間際まで、
>自分の中の矢印を生の方向へ向けておくべきだと思うのです。
編集済

新リンク  投稿者: らくりん  投稿日: 8月 8日(月)10時56分45秒

引用
〈つれづれパスタイム〉へは 上の 題字下のリンクからどうぞ。

リンクの変更  投稿者: らくりん  投稿日: 8月 8日(月)10時55分42秒

引用
ブログの「つれづれパスタイム」へのリンクは、
これまで「らくりん交差点」のサイト経由になっていましたが、
ここからの直リンクに変更いたしました。

ホームページ更新  投稿者: お留守居役様  投稿日: 7月16日(土)16時38分8秒

引用
2005年上半期私が読んだ本をUPしました。

http://www1.cts.ne.jp/~orusu/2005/2005-1w.htm


訂正  投稿者: 林遊  投稿日: 7月 8日(金)18時02分31秒

引用
誤:法然上人
正:法然聖人

re:教学不信  投稿者: 林遊  投稿日: 7月 8日(金)17時56分19秒

引用
ひまなのでつっこみを少し(笑)。

>たとえば、行巻の「往相回向の行信」の現代語訳を
>「如来より往生成仏の因として回向された行信」としています。

乱暴に言ってしまえば往生と成仏は同義語です。

念仏--往生
念仏--成仏

行信とは念仏という「行」と、菩提心としての「信」をあらわします。
また浄土真宗では「往生」という事は必ず「成仏」を前提とした言葉
です。単に命終をいう言葉ではありません。

浄土真宗は、真実信心の念仏の行者にとって往生が成仏であることを
顕す法門であり、往生が成仏ではないことを表わす法門ではありません。

お留守居役様さんは「即身成仏」と「即得往生」を論じておられましたが、
浄土門でいう「成仏」という概念に誤解があるのだと思います。
浄土門仏教では「煩悩」を根本的命題とするため決して往生以外では成仏
を語りません。行信の徳を讃嘆する意味で語る場合もありますが(笑)。

(即得往生は如実の南無阿弥陀仏の行(往生の因)が私の上に成就した
事を顕す言葉です。本願成就文参照)

即(すなわち)の語は、異時即(時間的前後の因と果に分ける)場合と
同時即(光と闇のように即是の意味)がありますからややこしいですね。

ここいらへんは文脈に従って読まなければ訳が解らなくなります。その
ような意味では正しい師匠から教学を学ばなければ得手勝手な断章取義に
陥ってしまいそうですね。

>煩悩具足の凡夫が速やかに成仏する

この速やかに成仏するという概念は浄土論註から持ってきた概念です。
論註で五念門という「漸次」の修行を説いている法門が最後に突然、速や
かに仏果を成就する、となっている事を踏まえての表現です。

ここは、浄土論/論註を浄土門の菩薩道を表わした書物と見、それをベース
に本願力というキーワードによって仏教体系をひっくり返したのが親鸞聖人
だったりします。

すこし暴論かもしれませんが、法然上人は「念仏往生」という言葉で、
聖道門仏教を批判的媒介項として浄土門仏教を確立された方であり、
親鸞聖人は「念仏成仏」という言葉で仏陀になる真実の仏教はこれしかあり
ません、と全仏教を包摂されたのでありましょう。

なお親鸞聖人の使われる他力という言葉は、自である仏が他なる衆生を
見て「他」というのであり、自らを主体として仏を他とする言葉では
ありません。この主体と客体を間違えると、生かされて生きるとか、他者
との連帯などと口走る安易な他者依存の信心宗教に堕します。

このような立場の方々はなんまんだぶつを軽視するのですぐ解ります。
いわゆる行なき観念論のお遊戯ですね。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・

教学不信  投稿者: お留守居役様  投稿日: 7月 3日(日)14時20分39秒

引用
梯實圓「精読・仏教の言葉 親鸞」の後半部分に
「往生成仏」なる語が頻発しています。
たとえば、行巻の「往相回向の行信」の現代語訳を
「如来より往生成仏の因として回向された行信」としています。
これが「精読」の結果なのでしょうか。
法然、親鸞聖人に「往生成仏」のお言葉があったでしょうか。
ネットで検索してみましたところ、
親鸞教学を名乗る有名な先生もこの語を使っていました。
こんなことでよろしいのでしょうか。

『資本論』と『経済学・哲学草稿』  投稿者: お留守居役様  投稿日: 6月27日(月)23時34分31秒

引用
林遊さんは、ご存じないと思いますが、
『経済学・哲学草稿』は、1960年代に大流行しました。
スターリン主義を批判し、硬直したマルクス主義に
人間主体を回復させようという運動がありました。
いわゆる新左翼運動で『経済学・哲学草稿』は重要視されました。
若き日のマルクスの発想の原点を探って、
『資本論』を批判的に読み直す試みもなされました。
林遊さんは、『資本論』にはお詳しいようですが、
若きマルクスの情熱がほとばしっている『経済学・哲学草稿』も
ぜひお読みになられるとよろしいかと思います。
マルクスとマルキストは違うということが、ご理解いただけるかと思われます。

なお、「類的存在」というのは、一般的な哲学用語で、
人間の存在様態を表す言葉でして、必ずしも、
「経済的/社会的価値」を意味するものではないと申し添えておきます。
なぜなら『経済学草稿』ではなくて、『経済学・哲学草稿』だからです。

(無題)  投稿者: 林遊  投稿日: 6月27日(月)00時30分9秒

引用
>親子関係を重視するのは、中国の儒教であり、

私たちの先輩は幸いなことに儒「学」は受容しても儒「教」は取り入れません
でしたね。(超高齢女性心:学と教1の違いに着目してね)


>インドの仏教は、出家(独身)主義なので、親子関係が生じない、
>とか言えますが、こことはちょっとレベル(次元)が違うと思います。

いわゆる仏教がインド的仏教だけであるならば滅びています。現にインドでは
インド的仏教は滅びていますね。
ギリシャ文化と交接しつつ実証的(現世主義)な中国文化に涵養され、あらゆる
文化を受け入れながら決して自らの存在意義を失わなかったのが小生たちの
先輩であったのですね。
近代においても和魂洋才の語がしめすように表面的には文化を受け入れている
ように見えながら決して本質の部分では受容しないのが私たちの文化だと思い
ますです。

このような視点から法然聖人/親鸞聖人のなんまんだぶつの系譜を見ていくと
面白いですよ。いわゆる歴史上のゴータマさんだけの仏教ではない如来の真意
を開説した書が教行証文類だったりします。

>引用
吉本さんが、ここで想定しているのは、
マルクスの「類的存在」という概念かと思われます。
『経済学・哲学草稿』に有名なセリフがあります。

>死は特定の個人にたいする類の冷酷な勝利のようにみえ、
>そして両者の統一に矛盾するようにみえる。
>しかし特定の個人はたんに一つの特定の類的存在であるにすぎず、
>そのようなものとして死をまぬがれないものなのである。

>引用終

マルクスさんも吉本さんも、自らの存在の終焉に救いはない/なかったので
しょうね。存在(いのち)を経済的/社会的価値としてしか把握できなかった
マルキストの限界だと思ふ。
はたしてマルキスト吉本さんは死の病床で資本論に赦しと救いを得られるの
であろうや。自己存在の「意味」を構築できるのであろうや。
はたまた虚無の奈落(意味の地獄)の恐怖といわゆる論理(ロゴス)でケリを
つけ得るのでありましょうや。

と、いう訳で「教行証文類」という書物は日本人の著した日本人とは何かと
いう命題を思想史上に仏教という形式をとって顕したものでもあるのですね。
西洋論理学の立場で少しく浄土系の思想を論ずることもありますが、概して
的外れのレンマだと思うです。

で、アジア的重奏低音原理は母性原理である「親様」ですよ。
もっともこの母性原理は菩薩道を歩もうと回心した人にとっては厳しい父性
原理に変わり、あくなきご恩報謝の論理に転換するのが煩悩の林で遊ぶ小生
には困ったこってす(笑)

恐々謹言、あなかしこ。(ほとんど酔っ払っている)

教学補説  投稿者: お留守居役様  投稿日: 6月26日(日)09時51分31秒

引用
親子関係を重視するのは、中国の儒教であり、
インドの仏教は、出家(独身)主義なので、親子関係が生じない、
とか言えますが、こことはちょっとレベル(次元)が違うと思います。

吉本さんが、ここで想定しているのは、
マルクスの「類的存在」という概念かと思われます。
『経済学・哲学草稿』に有名なセリフがあります。

>死は特定の個人にたいする類の冷酷な勝利のようにみえ、
>そして両者の統一に矛盾するようにみえる。
>しかし特定の個人はたんに一つの特定の類的存在であるにすぎず、
>そのようなものとして死をまぬがれないものなのである。

↑はるか昔に読んだ岩波文庫を引っ張り出してきました。

http://shinran-bc.tomo-net.or.jp/publish/publish01_number02.html


そんな馬鹿なこと>教学私論  投稿者: 林遊  投稿日: 6月26日(日)00時00分58秒

引用
>なぜ五逆は許されるのか。

ポア(十地以上の菩薩ならこのような行為もありうるかも)じゃあるまいし、
親殺しはギリシャ神話以来のごタブーですよ。

浄土真宗では「凡情を遮せず」という言葉がありますが、「許す」という
概念と「遮せない」という概念は違うものだと思いますね。

吉本隆明さんは、面白い論客だと思っていましたが、浄土真宗を論じさせたら
ただの馬鹿ですね。ちょっとだけ可愛そうになりましたです。

存在の根っこに嘔吐するよりも、自らにとって意味のない生を意味あらしめる
ものとして他者によって再構築するのが浄土門仏教でありましょうや。

それにしても吉本隆明さんの見解とやらは、ご法義から見れば無茶苦茶である
と思ふ。よくもこれだけ誤解できたもんだな。

あなかしこ、あなかしこ。

参考文献  投稿者: お留守居役様  投稿日: 6月23日(木)23時29分8秒

引用
親鸞聖人の「父母」問題に対する吉本隆明さんの見解が読めます。

http://shinran-bc.tomo-net.or.jp/publish/publish01_number02.html


教学私論  投稿者: お留守居役様  投稿日: 6月21日(火)23時19分17秒

引用
なぜ五逆は許されるのか。
五逆のなかには、殺母と殺父があります。
そもそも、父母を殺すことは、なぜ特別なことなのか。
近年の刑法学説では、尊属殺人を重罪とするのは、人の平等原則に反する。
逆に親による子殺しを容認することになる。
との批判が有力になっています。
『教行信証』には、直截な解答がなされていないようですが、
『歎異抄』の5に

 親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
 そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
 いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。

つまり、父母とか兄弟とかは、特定の存在者ではない。
(実存主義者なら、すぐに納得できるでしょう。)
父母は存在しない。故に、五逆は成立しない。
Q.E.D.
編集済

>梯實圓「精読・仏教の言葉 親鸞」  投稿者: 林遊  投稿日: 6月19日(日)23時46分44秒

引用
どもです。土曜日にHDがクラッシュして(諸行無常は世の習い)しまって、とほほの状態です(笑)。
そのようなわけで極々一部だけのレスです。

>つまり、法然聖人、親鸞聖人の教えを旧仏教に後退させていると断ぜざるをえません。

親鸞聖人の教学(仏教の論理体系)の面白いところは、法然上人の「選択/廃立」という帰納法であかされた「順彼仏願故」という体系を「信心=菩提心」に立脚して、演繹法で顕された(ディスカバー)ものです。

貴兄の仰る、「旧仏教/聖道門」をも射程に入れた仏教体系ですから、間違えて捕らえれば旧仏教に後退という論理も成立しますね。(旧仏教が何を意味するかは分かりませんが)
親鸞聖人は宗教を「真・仮・偽」の三分類で示して下さいましたが、肯定・否定という二分類法の論理に慣れたロゴスに迷うわれ等には難しい難問ですね。

>『教行信証』には、「煩悩即菩提」とか
>「煩悩即涅槃」とかの言葉はなかったかと思われます。
>あるのは「不断煩悩得涅槃」です。

ここいらへんの用語に関しては小生もvitaさんに突っ込んだ覚えがあります(笑)。
だいたい、「不断煩悩得涅槃」を語句道理に解すれば、今はやりの生かされて生きるという語に埋没する外道の仏教でありましょうや。

煩悩を断ぜずして涅槃を得る、という語を正しく領解するには用語/言葉が何を指し示すかという事が分からないと、単なる坊主の暇つぶし教学になると小生は思います。

もちろん、仏願に順ずるが故の声になった小生の称するなんまんだぶでありますから、一声・一声のなんまんだぶつに、宇宙開闢のビッグバンのなんまんだぶつあれという声の宗教がありがたいこっちゃと思うています。

HDクラッシュで頭にきて、酒を飲んで狂った投稿ですのでごめんです。

チャァ〜ララ ララッラァ〜 ♪  投稿者: らくりん  投稿日: 6月18日(土)11時36分40秒

引用
探し物はなんですか〜 ♪
見つけにくいものですか〜 ♪
夢の中へ〜 夢の中へ〜 ♪
いってみたいと思いませんか ううっう〜〜 ううっう〜〜 さあ〜ぁ〜 ♪

おそまつ

梯實圓「精読・仏教の言葉 親鸞」  投稿者: お留守居役様  投稿日: 6月18日(土)10時47分47秒

引用
30頁で、『愚禿鈔』を解説して、

>浄土真宗とは、横超の法門であって、
>煩悩具足の凡夫が速やかに成仏することが約束されている
>唯一にして最高の仏教であるということを論証されている。

と述べています。
しかし、『愚禿鈔』に「成仏」の語は、2カ所に「即身成仏」としてあるだけです。
 
> 一には竪超 即身是仏、即身成仏等の証果なり。
> 二には横超  選択本願、真実報土、即得往生なり。

> 一には自利真実なり。
> 難行道 聖道門 竪超 即身是仏 即身成仏 自力なり。
> 竪出 自力中の漸教 歴劫修行なり。
> 二には利他真実なり。
> 易行道  浄土門 横超 如来の誓願 他力なり。
> 横出 他力中の自力なり。定散諸行なり。

「即身成仏」と「即得往生」は全く異なる教えとして対比されています。
浄土真宗では

>煩悩具足の凡夫が速やかに成仏する

という著者の説明では、聖道門の即身成仏と区別ができないと思われます。
もし、「即身成仏」と「即得往生」では、難易度による差があり、
「即得往生」はきわめて容易であるから優れているのだとすると、
薬物使用や電気ショックによる「成仏」が最高の仏教であることになってしまいます。
しかも、これらは「他力」です。

「即身」と「即得」が等しいとすれば、
「成仏」と「往生」が異なると考えるのが論理の必然です。
ですから、

>浄土真宗とは、横超の法門であって、
>煩悩具足の凡夫が速やかに《往生》することが約束されている
>唯一にして最高の仏教であるということを論証されている。

と言うべきであると考えます。

また、145頁に「煩悩即菩提」の言葉がありますが、
『教行信証』には、「煩悩即菩提」とか
「煩悩即涅槃」とかの言葉はなかったかと思われます。
あるのは「不断煩悩得涅槃」です。
この言葉の違いは大きいと思います。
著者は、伝統仏教の範囲内で親鸞聖人を
自身の仏教先入観に基づいて理解しようとしていると思われてなりません。
つまり、法然聖人、親鸞聖人の教えを旧仏教に後退させていると断ぜざるをえません。
編集済

(無題)  投稿者: 流星  投稿日: 6月16日(木)19時47分36秒

なかなか お念仏ひとつに定まりません お色気たっぷりです

先日 財布を落とした夢を見ました
目が覚めてすぐに 探しにもどらないと 眠らなきゃと焦りましたが
夢でよかったという安心感も混在して けっきょく眠りませんでした
眠ってもよかったのですが 焦るのは辛いですから 寝なくてよかったです

京都で「法然教学の研究」を手に入れました

http://blog.livedoor.jp/anan1/


先生とよばれるほどの馬鹿でなし  投稿者: 林遊  投稿日: 6月15日(水)23時34分42秒

酔っ払って書込みしていますが、vitaさんはますますご法義から外れた活動に執心なさっておられるようですね。

あるのでもなく、ないのでもなく、あるのでもないのでもない、という宿題はできましたかと思う今日この頃です。

かしこ、かしこ、あなかしこあなかしこ・・・

http://www.yosizaki.net/


教学の勉強 (まなび)  投稿者: 林遊  投稿日: 6月14日(火)02時21分59秒

ども林遊です。

教学というのは一つの思想体系ですし、宗旨(宗教)という点からは自らが世界/世間をどう捉えるかといういう事でしょうね。

お留守居役様さんはドラスティックな脳内辞書の書き換えに興味をお持ちのようですが、お示しの書籍で表現されている「言葉」達は、かなり過激な理解不能な言葉の提示だと思いますよ。

書籍に表現されている言葉の述語部ではなく、主語にあたる部分が何を意味しているのかを「読み解く」のも面白いですね。恣意的に読んでいたらどんな本も読めたものじゃないです。

現代文を貴兄のフィールドである古い和語に変換して読み直す事によって違った視点が顕れるのかもしれませんね。

http://www.yosizaki.net/


教学の勉強  投稿者: お留守居役様  投稿日: 6月12日(日)21時25分56秒

林遊さんお奨めの梯實圓「法然教学の研究」が神保町仏教専門の古書店でも見あたらなかったので、
梯實圓「精読・仏教の言葉 親鸞」を購入しました。
半分くらい読みましたが、どうも常識的というか、
刮目すべき卓見がないというか、期待が大きすぎたのかと思っています。

ハイ センセイ!  投稿者: 流星  投稿日: 6月11日(土)21時53分3秒

スタンドアローンでwikiフロントページにアクセスできました
入り口まで辿りつきました やっと

そういえば唯信鈔に第十七願が取り上げられていて
法然上人ではなくて聖覚法印から視点をもらったのかなと
分かった気になっている私であったと いま気がつきました

あれあれ  投稿者: らくりん  投稿日: 6月11日(土)11時04分32秒

しばらく留守にしてました。
帰ってきて、開いてみたら、よそ様と間違えたかと思いました。(∞;)

そんなあなたに  投稿者: 林遊  投稿日: 6月10日(金)22時04分24秒

スタンドアローンならXSAS Plain JPを一発インストールすればいいですよ。
何も考えずに、クリックだけでインストールできます。

<動作環境>
 Windows 2000/XP/NT/95/98/ME  TCP/IPが使えること
  (※ メモリー256MB以上の環境を推奨
     全ての環境で動作を保証するものではありません。)

<パッケージ内容>
XSAS:
  Apache 2.0.49
  PHP 4.3.6 (mbstring/GD2 extenstion)
  MySQL 4.0.18
  ActivePerl 5.8.0.809

XOOPS:
  XOOPS 2.0.7 (コアパッケージ及び日本語パッケージ)

これはコンテンツマネージャーで猿でもHPサイトが構築できます。
林遊がやっているので間違いない(笑)

XOOPSのインストール方法説明書

存在場所:
http://jp.xoops.org/modules/mydownloads/singlefile.php?cid=4&lid=118

apacheとPHPがあればpukiwikiは動きますからお試しあれ。

>南都浄土教というのは永観、珍海のことなんでしょうね。
>せめて「解ったような気」になれるよう コツコツ いきますよ

そうですね、小生なんぞは解った気になって、お聖教の中に自分の物語を
描いていたりしますです。これはこれであり難いこっちゃ。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

http://www.yosizaki.net/


ひいひい  投稿者: 流星  投稿日: 6月 8日(水)17時00分57秒

pukiwikiやろうかと思ってます。Apacheもこれから勉強なんですから。
mediawikiなんて手が届くはずがありません。説明とか英語な時点でバンザイしてます。

南都浄土教というのは永観、珍海のことなんでしょうね。
せめて「解ったような気」になれるよう コツコツ いきますよ

うぃきうぃき  投稿者: 林遊  投稿日: 6月 8日(水)10時27分18秒

wikiはおもしろいですよ。
内部/外部へurlではなく「言葉」へのリンクを張れるので色んな使い
方ができます。(ここ重要)

小生は、文章中心でしたら pukiwiki、辞書のようなデーターベース
でしたら mediawiki をお奨めします。

mediawikiを使ってネット上でフリーの百科事典を作ろうという試みが
http://ja.wikipedia.org/wiki/
でされていますね。登録データも公開されていますからデータをDLして
スタンドアローンで使う事も可能です。(かなり巨大ですが(笑)

真宗/仏教関連では小生がプログラムの管理している
http://www.wikidharma.org/
http://labo.wikidharma.org/
があり、細々と運営しています。(参加者が増えないのが頭痛の種)


なお法然聖人の善導教学との関連は、叡山浄土教とは違う南都系の浄土
教学の影響だったのだろうというのが前掲の「法然教学の研究」に記述
してありましたです。

御開山の書物は、何でこうなるの?と、訳が解りませんが法然聖人やその
お弟子方(隆寛、幸西、聖覚)との連関で見ていくと「解ったような気」に
なれますです(笑)。

小生は法然聖人のお手柄は、仏教史における大乗/上座の分裂に匹敵する
聖道/浄土を確立した事だと密かに思っていますが。

http://www.yosizaki.net/


林遊さん、どーもです  投稿者: 流星  投稿日: 6月 7日(火)16時57分5秒

お奨めの本、なんとか手に入れます

林遊さんもwikiしていらしゃいますね
スタンドアローンからはじめて、勉強してみようかと思います。

法然聖人  投稿者: 林遊  投稿日: 6月 7日(火)15時05分36秒

どもです。

>>
法華経を中心とする比叡山にて、善導の念仏の教えを法然上人が選択していかれる背景が知りたくて、「大原問答」を読めばいいかなと思いました。あいかわらず短絡的です。
>>

亀レスですが、法然聖人に関しては梯實圓和上の「法然教学の研究」はお奨めです。

いわゆる法然教学を通して御開山をみると、御開山の仰っている事の意味が解ったりします。文献の出所が書かれているので原資料にあたるのにも便利ですから是非お手元に。

wiki  投稿者: 流星  投稿日: 6月 7日(火)08時26分5秒

こんにちは

遅ればせながらデータベースとしてのwikiに興味をおぼえはじめました
らくりんさんは このあたりは使っていませんか?

http://blog.livedoor.jp/anan1/


「海一味」  投稿者: らくりん  投稿日: 6月 2日(木)08時54分45秒

「海一味」の譬喩はいろいろな経典にでてきます。『教行信証』中でも『涅槃経』や『大集経』などに見えます。
親鸞が、お示しの『雑阿含経』を見ていたかどうかは、知りません。
ちなみに、ご存じのこととは思いますが、
「正信偈」の「如衆水入海一味」は、『論註』が元になっています。
(東本願寺版 真宗聖典 p314)

面白いモノを発見  投稿者: 三吉  投稿日: 6月 2日(木)07時00分11秒

「友ゴータマよ、もし友ゴータマがこの教えを完遂しても、比丘たち、比丘尼たち、
男性在家信者で、 家に住み、白い衣服を用い、清らかな行ないを実行する者、
男性在家信者で、家に住み、白い衣服 を用い、欲を享受する者、女性在家信者で、
家に住み、白い衣服を用い、清らかな行ないを実行する者、女性在家信者で、
家に住み、白い衣服を用い、欲を享受する者(のいずれかでも完遂しないのな らば)、
そのため、この清らかな行ないは完全とならないでしょう。友ゴータマよ、しかし友
ゴータマはこの教えを完遂し、比丘たちは完遂し、比丘尼たちは完遂し、男性在家信者
で、家に住み、白い衣服を用い、清らかな行ないを実行する者が完遂し、男性在家信
者で家に住み、白い衣服を用い、欲を享受する者が完遂し、女性在家信者で、家に住み、
白い衣服を用い、清らかな行ないを実行する者が完遂し、女性在家信者で、家に住み
白い衣服を用い、欲を享受する者が完遂するから、そのために、この清らかな行ないは
完全となります。友ゴータマよ、あたかもガンジス川が大海に向い、大海に傾き、大海に
触れて安住するように、友ゴータマの、この家に留まる者と出家した者からなる集まりは
涅槃に向い、涅槃に傾き、涅槃に傾斜し、涅槃に触れて安住します。」
    『マッジマニカーヤ』・73 『雜阿含經』・964

初期経典に「海一味」に似た教説があるようです。
親鸞は知っていたのでしょうか

>留守居役  投稿者: 流星  投稿日: 5月24日(火)05時47分48秒

夜露死苦!

こちらも参考に  投稿者: お留守居役様  投稿日: 5月23日(月)18時31分38秒

らくりんさんご紹介の本はないようですが、
↓日本の古本屋「大原問答」で検索すると6件hitしました。

http://www.kosho.or.jp/servlet/bookselect.Kihon


おもしろそうですね  投稿者: 流星  投稿日: 5月23日(月)18時26分56秒

ネット上に写真版がみつかり、大正大蔵経にもあるようですが
白文なので私の学力では読めそうにありません

今度お伺いしたとき拝見させてください ありがとうございました

http://blog.livedoor.jp/anan1/


見つかりました。  投稿者: らくりん  投稿日: 5月23日(月)09時59分33秒

大富秀賢『大原問答説教』永田文昌堂 (大正6年12月1日発行/同12年4月再版)
というかなりの年代物です。
それによれば、第一問は、叡山座主顕眞僧正、
「速疾に生死を離れ解脱を得るは真言、止観、華厳、禅門等を以て最上と為し至極とすこの義如何ぞ。」
それに対して法然は、
「それ仏教万差なりと雖、衆生の根機に合する法より云へば他力念仏の一門のみ最も勝れたりとす。」
この時何所ともなく、
「それは法然坊の勝手の議論に御座らう、念仏の一門のみ勝れたりと云ふ証左はあるまじ。」
この時上人は広く大衆を見回し玉ひ、
「その証左とも云ふべきを合算すれば数多きことなれども今略して弁ぜば五つに帰す、
 一には万機普益の故に勝る、
 二には万徳円満の故に勝る、
 三には唱へやすき故に勝る、
 四には持タモちやすき故に勝る、
 五には時に契カナふ故に勝る、
先ず第一に万機普益の故に勝るとは、華天密禅は四ヶの大乗とて法は最も勝れてあらう、されどその訪問の対機は上根上智にして決して愚鈍の機を本とせず、されば華厳経には……
(以下法然の応答続くが略)。」
これまで法然上人が御答へなさるると諸宗の学者達は漸ヨウヤく騒ぎ出した、中には罵倒がましき口吻を洩らす者さへありて一層殺気漲る、 云々

といった調子です。

>大原問答  投稿者: らくりん  投稿日: 5月23日(月)09時23分0秒

大原問答ですか。
そういえば、以前、父か祖父の本だと思いますが、
大原問答に関する説教集か何かがあって、
めくってみたような記憶があります。

さがしてみます。
最近は、とんと見かけませんが、
法蔵館で、見かけたような気もします。緑色の背表紙だったかな?

大原問答  投稿者: 流星  投稿日: 5月23日(月)07時27分40秒

ネットではご無沙汰しちょります。
法華経を中心とする比叡山にて、善導の念仏の教えを法然上人が選択していかれる背景が知りたくて、「大原問答」を読めばいいかなと思いました。あいかわらず短絡的です。
それで「大原問答」についてネットで調べてみましたが、どうも出版物としては見つかりませんでした。
ここにタムロなさっている知識人の皆様、活字になっているものがあれば教えていただけませんか。
また、法然上人の法華経についてについてのお考えが推測できる方途など、アドバイスなどしていただけると幸いです。

http://blog.livedoor.jp/anan1/



ご注意ください。  投稿者: らくりん  投稿日: 4月28日(木)09時45分27秒
こういう情報が入ってきましたので、
  注意喚起のためここに掲載させていただきます。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
芦屋・神戸方面からの情報です。
ユーパック詐欺が横行しているらしいです。
本山からの着払いで15000円くらいの詐欺を働くというものです。
西・東ともに被害寺院が出ています。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 ※文中の「西・東」は「西本願寺(浄土真宗本願寺派)・東本願寺(真宗大谷派)」の意味です。


>は  投稿者: らくりん  投稿日: 3月17日(木)20時33分4秒
知っています。残念です。


 投稿者: なまぐさ  投稿日: 3月17日(木)11時11分9秒
以下の掲示板(管理者はなまぐさ)からの転載です。

皆さんご存知ですか。
玉光所長が辞任勧告を言い渡されています。
どう思われますか。

http://6801.teacup.com/hongankai/bbs


価値観の根本(吉本隆明)  投稿者: お留守居役様  投稿日: 2月27日(日)10時14分3秒
笠原芳光・佐藤研編「イエスとはなにか」117頁の吉本隆明さんの発言

>価値観で言ってしまうと、
>一人より多勢のほうが力があるとか、価値があるとか、
>そういうふうに考えたことはないんです。それが根本だと思います。
>つまり価値観でいうと一人より多勢のほうがいいんだという考え方は
>政治家特有のものであって、あるいは政治運動家特有のものであって、
>普通はそう考えるべきものではない。
>見ず知らずの党派のなかに入るよりも
>一人のほうがずっと力強いんだというのが、
>ごく普通の考え方ではないかなと思う。
>それが価値観の根本だと思います。
>一人では何もできないということはないのです。
>つまり一人でできなければ十人いたってできないのですよ。
>一人でできれば、それは十人がやることはできるんです。
>それはもう間違いない真理であろうと思っているわけです。

このことから私が連想するのは、
法然聖人「選擇本願念佛集」の難行と易行の比較は、
修行が可能な人数の比較であるので、本質的な区分ではないということ。
このことを法然聖人は、正と雑あるいは勝と劣の比較でも
うまく説明し切れていないように感じています。
このことを親鸞聖人は、
>弟子一人も持たず
と言われているのだと思っています。

別のことでいえば、大乗仏教と小乗仏教の比較において、
人数の多さによって優劣を決めて、
大乗が小乗よりも人数が多いから優れているという価値観は根本的にダメなのだと思います。
ただし、多勢と「だれでも」とは意味が違うと思います。
多と全とは違うからです。
編集済

http://www.trc.co.jp/trc/book/book.idc?JLA=05006574


本の紹介  投稿者: らくりん  投稿日: 2月 3日(木)09時51分32秒
 『親鸞の教行信証を読み解く』のまえがきを書いていただいた友人の菱木政晴さんの新著が出ましたので紹介いたします。
菱木政晴 『非戦と仏教 ―「批判原理としての浄土」からの問い―』2200円+税
発行:白澤社 /発売:現代書館

  目次より
   第1章 近代ヒューマニズムと暴力
   第2章 仏教は「苦しみ」からの解放をもたらすか ―「解放仏教」試論―
   第3章 近代の日本と仏教思想 ―真宗大谷派の「近代教学」再検討―
   第4章 仏教は暴力を防げるのか ―今村仁司『清沢満之の思想』を読む―

 著者はあとがきで、「釈迦と親鸞それにホワイトヘッド(仏教と真宗と哲学)、私が書きたいこと、書けることはこれですべてのように思う。……もう一つ書きたいことがあるとすればビートルズとジョン・レノンのことだ」」と書いている。たしかに彼と話していると、この4つの話題となると、とたんにボルテージが上る。 いや、ボルテージが上ることならもう一つある。それは今はなき近鉄バッファローズのことだ。 彼は、今年の夏の夜をどうやって過ごすのだろう……。他人事ながら心配であり、他人事だから楽しみでもある。
 よろしければ、ご一読あれ。
編集済


HP更新のお知らせ  投稿者: らくりん  投稿日: 2月 3日(木)09時08分13秒
 ↑ の題字下のリンクからつながるHP〈らくりん交差点〉を少し更新しました。
 自分でも忘れていた、お遊びの掲示板をテキストスタイルで保存していたのが見つかったのを過去ログに追加したのと、『親鸞の教行信証を読み解く』読書会の掲示板に投稿した〈Making of 『読み解く』〉の部分だけを抜粋して、「ひらけごまに」掲載しました。
編集済


ホームページを更新しました。  投稿者: お留守居役様  投稿日: 1月22日(土)15時41分15秒
「2004年 私が読んだ本 評価付き」をUPしました。
一言批評も記入し始めました。
時々のぞいて見てください。
編集済

http://www1.cts.ne.jp/~orusu/


紹介  投稿者: らくりん  投稿日: 1月16日(日)17時40分43秒
NHKの番組への政治介入について、告発した方の記者会見映像
(2005.1.13)が次のアドレスでみられます。

http://www.videonews.com/asx/011305_nagai_300.asx


過去ログアップしました  投稿者: らくりん  投稿日: 1月 2日(日)22時49分47秒
2004年分の過去ログをアップしました。
 ↑ のタイトル下のリンクからどうぞ。



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