らくりんバンバン

〈 落 鱗 板 々 〉



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言葉とその使い方 投稿者:らくりん  投稿日:05月10日(水)00時05分43秒

>「その言葉で傷つく人が居る」という事実を無視することは出来ないと思っていま
>す。
>「傷つく人がいる言葉」を使う必要はない
一般論として「人を傷つけることはよくない」ということに反対するつもりはありま
せん。
ただ、使い方に関係なく無条件に「傷つく人がいる言葉」などはないと言いたいだけ
です。
MANUさんの言い方を、一般論的に私が言いたい意味に言い換えるならば、
「どんな言葉であっても人を傷つける使い方をするのはよくない」ということです。


たとえば、石原発言の「三国人」が「絶対的な差別語」であるとするならば、どんな
形であっても無条件に使ってはいけないとするならば、新聞やテレビで石原都知事が
「三国人」という言葉を使ったという報道もできないことになってしまいます。

「言葉が傷つける」のではなく「言葉の使い方が傷つける」
「差別的な言葉が存在する」のではなく、「差別するために使われる言葉がある」
「差別するために使われる言葉を、差別する目的のために使う」ことが問題なのです。
仮に「部落」という語を「絶対的差別語」と規定するならば、「部落問題を学習す
る」という使い方も許されなくなってしまうのです。そして、今の私の書き込みも、
「差別書き込み」ということになります。私は、そんなことはないと思います。
ですから「差別発言か否か」という判断は、個々の用例について、前後の文脈、発言
者と聞き手の関係、発言に至るいきさつ等を検討した上で行なわれなければならない
問題であると思います。

MANUさんがおっしゃる「知らずに使う」ということは、また別の問題です。
「知らなかった」ことを指摘されて、反省すれば問題ない場合もありますし、
「知らなかった」こと自体に問題がある場合もあります。


「西高東低」なるほど 投稿者:毛坊主  投稿日:05月09日(火)23時31分38秒

西高東低なるほど、お説の通りです。
インターネットに象徴される新しいメディアを通じて何ができるか
多くの仏教教団(寺院・住職)が手探りで試行錯誤をしているのでは
なかろうか?。
大本(おおもと)の方では、当たり触らずのの感覚で、まあHPもあ
ります。そんな印象です。
ルールと言いましょうか暗黙の了解も無い様で、私事で恐縮ですが、
自坊のHPで『教区会通信』なるものをアップしましたが、早速教区
の所長からクレームが来ました。ああした事(教区会の討論内容)を
書かれると、言いたいことも言えない(公開される)ので『言論抑圧』
になるとか、『会議の参加者の了解を得てからアップせよ』とか。
およそ的はずれな、意見を聞かされました。500回忌も終わりました
蓮如さんは、「意見は言え・言え」ではなかったかな?。蓮如に何を学ん
でいるのか?・・そう反論したくなります。概ねこうした批判をなさる方
は、インターネットを見た事すら無い方が大部分ですが・・・・

名古屋教区に「教化センター」があります。末寺の寺院から毎年1万円
の維持費を出してその経費の一部に当ててます。一度自派のみならず各
宗派の有志にお集まり頂き、「インターネットと寺院・・ニューメデァ
の関係・・」など議論・討論(肩苦しい話題でなくて気楽に)の場がで
きれば、良いのではないかとも思ってます。

織田家の居城の跡地に名古屋別院はあります。新しい時代の礎を築いた
この信長のゆかりの地(別院)で、新しい試みのスタートと先駆的な試
みの会議を開催する。・・・大変意義ある事じゃないですか!!て所長
を説得してみようかな。

http://www.jiin.or.jp/


お手数をかけました 投稿者:MANU.  投稿日:05月09日(火)23時05分41秒

ありがとうございます。


削除しました。 投稿者:らくりん  投稿日:05月09日(火)21時39分31秒

本人のご要望により、
MANUさんの改行なしの書き込みを削除しました。
らくりん=管理人


第W巻 発送中止!! 投稿者:らくりん  投稿日:05月09日(火)18時28分47秒

重大なミスが見つかり、すべて回収・訂正・再発送ということになりました。

まことに申し訳ありません。

再発送は5月25日頃の見込です。


こちらは改行付です 投稿者:MANU.  投稿日:05月09日(火)16時56分40秒

すいません!改行を考えずに投稿してしまいました。
削除方法がわからないので、再投稿します。内容は同じです。
読みにくいでしょうから、こちらをお読みください。
前のほうは管理人さまの方で削除しておいてください。

以前一度だけ書き込みしましたが、その後はROMさせていただいておりました。
 書き込むタイミングを逃しているうちに話題が変わっていたので、別の機会にし
ようとも思ったのですが、まだ少し残り火があるようなので・・・。

 差別語といわれるものの取り扱いについて私が感じているところです。それに対
する扱い、例えば言葉狩りのようになることは良くないと思いますが、「その言葉
で傷つく人が居る」という事実を無視することは出来ないと思っています。「知ら
ずにつかう」ということを咎めることではありません。ただ、そのことを知らされ
たときに、それでも堂々と使っていくべきなのか?ということではないでしょうか。
代わりに使える表現があるならば、無理に「傷つく人がいる言葉」を使う必要はな
いでしょう。
 また、その判断に「多数の人が使っている」「一般的には差別語として使われて
いない」というのは理由にならないとも思います。
 私は知らないことがあることを恥だとは思いません。自分の知らないことを知ら
されたときに、素直に「知らなかった私」を受け入れられるかどうかだと思うので
す。

 ということで、差別語に対する考え方は「大願」さんよりだと感じています。た
だ、これを押し付けることは出来ませんししたくありません。「こういう考え方も
ありますが如何でしょう」という程度のものと受け取っていただいて結構です。

 話の流れが、差別語のことだけでなくいろんな考え方が入り混じってきてりるの
で、全てにコメントできませんが、黙っているのも嫌なのでとりあえず「私のとこ
ろでは」ということです。

 さらに私的な考え方ですが、念仏者としてどう行動しようとか、僧侶や門徒がど
うだとかいうことよりも、「浄土真宗を縁として阿弥陀仏の願いを知らされた」と
いう私ならば、僧も俗も、真も俗も無理に分けたりくっつけたりすることなく、
「私」として自然と念仏の上にたった生活が出来る、と最近つくづく感じさせてい
ただいています。

(私は僧侶ではありません、念のため。私個人のバックボーンは別記HPをご覧下
さい。たいしたものではありませんが)

               MANU.(from KYOTO)

http://homepage1.nifty.com/MANU/index.htm


似た色が多かったので 投稿者:らくりん  投稿日:05月09日(火)12時58分21秒

三吉さんも色を変えたことですし、

しばしば訪問する掲示板に、黄色系統が多かったので、ちょっと変えてみました。
これから暑い時期に向かうので、少しでもすずやかな色に。

今後ともよろしくお願いいたします。
発送作業ほとんど終了。ほとんどの地域には明日中に届くと思います。


第W巻到着 投稿者:らくりん  投稿日:05月09日(火)09時04分12秒
まこさん、
ありがとうございます。
しかし、12日までには間に合いそうもありません。

たった今、明石書店から第W巻が届きました。これから発送作業にとりかかります


往生考 投稿者:まこ  投稿日:05月09日(火)04時18分54秒

 先日、話題になっていました「老い」の問題を仏教から検討した力作である
新刊の宮田登・新谷尚紀編『往生考 日本人の生・老・死』小学館を本屋で
発見して思わず購入してきました。帯には、日本人は「老い」をどのように受
け入れてきたのかー<老いの価値>再発見!国立歴史民俗博物館国際シン
ポジウム、とあります。目次を見ただけの段階ですが、らくりんさんの法話の
参考になるかも?


お留守居役様の正しい呼び方 投稿者:お留守居役様  投稿日:05月08日(月)20時06分13秒

お留守居役様を呼ぶときは、
「お留守居役さん」でも「お留守居役様」でもよいですけど、
正しくは、「お留守居役様さん」、あるいは「お留守居役様様」とお呼びください。
なお、「お留守居役様々」と表記するのは、失礼ですからやめましょう。
(説明は省略)
ふりかけのテレビCMで「シャケさまさま」というのがありますが、
愉快ですね。
ちなみにある友人は「おズルイ役様」と呼びますが、
訳あってのことなので可としています。
(理由は省略)

「留守居役」というのは、大名の家来で、江戸にいるものの役職名です。
江戸幕府と国元との板挟みになる役職で、苦労があったと聞いています。
江戸幕府の役人や他の大名家の留守居役と折衝したり、
江戸の商人と交渉したりしました。
江戸でそれらの人たちを接待するのには、
江戸の文化、芸能などに通じていなければなりませんでした。
洒脱な都会人でなければ務まらなかったと聞いています。
司馬遼太郎「竜馬がゆく」に登場する
薩摩の益満休之介という侍のイメージです。


ヨンでもコタエないようなので 投稿者:お留守居役様  投稿日:05月08日(月)20時03分30秒

「啓蒙」は使ってはいけないが、
「大願」は使っても良いわけを教えてくだされば
幸いです。

大日本帝国、大学、大乗仏教など差別語だと思っています。
使うなとは言いませんけども。


「お留守居役様」さんの方が 投稿者:大願  投稿日:05月08日(月)15時37分26秒

私には違和感を感じます。
だいたい、自分に「お」をつけて、「様」までつけて、それにレスする場合には
「さん」をつけるのですね。
「お殿様さん」みたいですね。
この滑稽なHNを棚にあげてのご指摘には、思わず笑ってしまいます。
私のHNである大願は、法名をそのまま使っているだけで、深い意味はありません。
因みに、法名は内願でなく、本願寺から頂いたものですが、気に入って使っているだけです。
俗名が大願と言う人も知り合いにいます。
法名や俗名をHNにしている人全てに向けたお小言ではないとおもいますが、念のため。
いずれにしても、
他人のHNをとやかくおっしゃる「お留守居役様」さんほどの剛の者を、私は知りません。


一言 投稿者:Vita  投稿日:05月08日(月)11時18分17秒

指摘している人もいることでしょうが、少年が「人を殺す経験がしてみたかった」
「若い人は未来があるから」と供述している事件は、ドストエフスキー「罪と罰」
との類似性が、非常に多い事件です。

「罪と罰」の殺人犯ラスコーリニコフは、ソフィアという女性を愛することを
知ることによって己の罪に気づいていきます。
この小説にはスヴィドリガイロフという、そうした心が壊れてしまった人物もまた、登場するのですが、
彼には、他者をいたわる心が芽生える出会いがあることを、願います。


彼らが私でなかった理由 投稿者:らくりん  投稿日:05月08日(月)09時40分33秒

実は、私も学生時代、『脱洗脳論』の著者の苫米地英人さんやその後輩の上祐史浩ク
ンなどと同じ、英語会サークルに入って、けっこう活発に活動していました。
早稲田には同じ規模の英語サークルが二つあって、上祐クンはOB名簿には出て来ま
せんので、別の会の7〜8年後輩になるのではないかと思います。
私自身はディベートは基礎的なことしかやりませんでしたが、代表チームの支援や練
習にはずいぶんつきあいました。その頃の有能なディベーターも、時々この掲示板を
覗いているはずです。
そんなこともあって『脱洗脳論』に、妙な親近感をおぼえてしまいます。
そういう似通った経歴をもつ苫米地・上祐という人間が、その後まったく正反対の道
を歩むことになったわけです。
そして、少なくとも学生時代だけを見れば、私自身もかなり似通った経歴の持ち主で
あることになります。
私において、その頃の経験は、現在も考え方や行動パターンにもかなり大きな影響が
残っています。サラリーマンの時代の経験から受けているそれよりもはるかに大きい
ものです。
私が上祐史浩でなかった理由は、たまたまのめぐりあいの違いだけかもしれない。


新聞やテレビの報道から伝わってくるあの少年達の人物像が、あまりにも17歳のこ
ろの自分と重なる部分が多いので、他人事とは思えません。
だからよけいに怖い。
この事件を引き起こした少年たちについても、
私自身が、「彼らでない」理由はほとんど見い出せない。

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とは聞かされたし自分で
も言ったりしていたものの、そう言っていながら「心の奥底で、自分は違う」という
感覚が動いていた。
私自身がどこかで「たかをくくっていた」部分が、
彼らの出現によって揺さぶられているような感じがあります。


いまだかつて経験がない事態U 投稿者:ootubo  投稿日:05月08日(月)06時09分59秒

>日本ではここ10年ほどの間に起こっていることを、人類史的に見て未経験の事態で
>はないかと言っています。
 巷でよく言われているのですが、ゲームの影響はないでしょうか。
 人(相手)をいとも簡単に殺すことが経験できる。
 ゲームは何回でも再試行できるので罪悪感はない。
 現実の人生で体験することの何百倍ものことを経験すると、特に幼児、少年は受け
入れる容量に対して情報が多すぎて、十分に形成できないものがあるかもしれない。
それは、受容性、協調性、忍耐力、隣人愛、やさしさ、命の尊厳とか。
 ゲームの中では何でも体験できるが、現実では未体験なことが多い。
 一度現実に体験してみたいという潜在意識が何かの機会で現実となった。
 事件を起こしたものには当然罪悪感はない、なぜ現実は自分の思い通りにならない
のだろうか、なぜ現実はやり直しができないのだろうかわからない。

「洗脳原論」U 投稿者:お留守居役様  投稿日:05月07日(日)20時46分14秒

らくりんさんは、この本を全面的に肯定するのではなくて、
衝撃的だが否定的に評価するということなのですね。
それには同感です。
「人格」を「治療」しているのではなくて、
「プログラム」を「修理」しているのだと思われます。
ゲーム感覚なんですね。
原理論として不満だったのは、
脱洗脳をするに当たって「本人の同意を得ること」(145頁)
について無造作だと思いました。
「本人」って誰なのでしょう。「同意」ってどういうことでしょう。
自己とは何かとか、思い詰めていないのですね。
職人技のタネを明かせば、
条件反射(パブロフ)と無意識の意識化(フロイト)だと思います。
目新しいことではないと思います。
新しいのは、ワープロの漢字変換のように
意味内容の価値を無視して変換するところかと思われます。

新人類とかガングロ、ちゃぱつ、キレる、少年犯罪
これらの問題を大衆の原像(吉本隆明)として、
思想的に繰り込むべきと考えてはいます。難しいですけど。
思えば、大正時代の「モボ・モガ」とか、
カミュー「異邦人」、太宰治「人間失格」、石原慎太郎「太陽の季節」
など異質の価値が提示され、受容されてきました。
Vitaさんご贔屓のドストエフスキー「罪と罰」もそうですね。
これらは全て、旧世代からは、精神性の欠如、物質主義と見られたものです。
私は現在も同様の事態だと思っています。
物質的に豊になりすぎるということはない。
物質的に豊になると精神的に貧しくなるなんてことはない。
と考えます。
新時代に対する処方箋としてオススメなのは、
坂口安吾「堕落論」が思い浮かびます。


「うすら寒さ」を感じませんか? 投稿者:らくりん  投稿日:05月07日(日)09時13分21秒

>前半の原理論の部分は、現象論で不満でした。
>現場の職人さんのレポートみたいだと思いました。
私が、ショックを受けたのは、お留守居役様さんが不満を感じたその「職人芸」のよ
うな感じで、脱洗脳をやってしまっている、つまりそんな技術でできるということに
対する驚きと、そんな技術でなければオウム真理教信者の脱洗脳はうまくいかない
(と著者が言っている)ことに対する驚きです。

これまで私が読んだ「マインドコントロール」という用語を使って書かれていた本
(統一協会関係が多かった)は、決してそういう技術論のような問題として扱っては
いませんでした。
しかし、『洗脳原論』の著者は、変性意識状態にある人間の潜在意識の部分に手を突
っ込んで、コンピューターのプログラムを書き換えるかのようにいとも簡単に「脱」
してしまうと書いてある。裏返せば、人のこころなんて簡単に思いどおりにどうにで
もできるということでしょう。
その技術を使っているのが「敵か味方か」という違いでとんでもないことになる。
そういういかにもアメリカ的な発想と技術が、「功を奏している」ところに、何かエ
ヴァンゲリオン的な「うすら寒さ」をおぼえてしまいます。

「いまだかつて経験がない事態」というのも、その延長線にある似通った「うすら寒
さ」です。何かに「精神」を支配されているとでも言うしか言い様がないような形で
衝き動かされている、ように見える。しかも、事件を起こした少年たちの場合は、そ
の相手が得体の知れない何かであるということが。

日本ではここ10年ほどの間に起こっていることを、人類史的に見て未経験の事態で
はないかと言っています。
>アメリカでは無差別殺人をよく聞きますし、国内でも毒葡萄酒事件や通り魔事件等
>がありました。
アメリカ日本よりも10年ほど早く起こり始めただけではないか、「通り魔殺人」と
か「愉快犯」も、ここ数年の間に起こったものは、「特殊な精神異常」というよう理
由で説明できないような気がして、何か理解しがたいものがあります。
加害者であることも被害者であることも、それが私でなかったのはたまたまそうでは
なかったとしか思えないのです。
それと、やはり低年齢化です。
10年かそこらで、ああいう形で発現せざるを得ないほどの、やり場のないストレ
ス?(といってしまっていいのかどうか自信がありませんが)抱え込まされてしまう
ことは、そんな昔からあったことでしょうか。

仮に、少年たちの「こころ」が何かに乗っ取られてしまっているとしたら、

『洗脳原論』の著者は、あの少年たちの「こころ」をデプログラム(書き換え)する
ことができるのだろうか。
私たちの精神とか実存が、少なくともアメリカの精神医学では、そのような「操作」
の対象になってしまっているように見受けられたことに、やり切れないものを感じます。
と同時に、
そういうことをもっと勉強しておかなければならないのかなとも思ったり……、です。


「洗脳原論」 投稿者:お留守居役様  投稿日:05月06日(土)22時08分11秒

落鱗さんご推薦の苫米地英人「洗脳原論」を今日購入して、
即日あっさりと読了しました。
前半の原理論の部分は、現象論で不満でした。
現場の職人さんのレポートみたいだと思いました。
著者は、出自が分析哲学で、アメリカで研究していたとのことなので、
私のような実存主義を出自として、
日本で独仏の哲学を趣味としていた者とはソリが合わなくて当然と思いました。。
最終章は、私は反神秘主義者でもあるあるので、面白く読みました。
神秘的な至福・恍惚体験に対するスタンスは賛成です。
それらはあるけれども大したことじゃない。
晩年の鈴木大拙先生は、薬物を使った神秘体験と
禅との区別を心配していましたが、現実になったということかなあと感じました。
禅的な悟りなんて誰でもできるということなんですね。
私が、涅槃とか悟りとかの境地を否定するのはこの意味でもあるのです。

>洗脳は病気ではない
とのことなので、心的な異常のことかと考えました。
神経症(ノイローゼ)は、病気ではなくて、異常と言われています。
洗脳も神経症も強度な思い込みということでしょうか。

以上は、とりあえず読んだ感想です。
自分を知りたくて、精神分析学や分裂病の本を読んだのは
だいぶ前のことなので、ハズしているかも知れません。


ネットと情報 投稿者:らくりん  投稿日:05月06日(土)09時27分25秒

インターネット活用の活発さを、東西(本願寺)比較すると、
圧倒的に西高東低であるようです。
提供されている情報の質量ともに段違いです。
ただ、情報というのは量だけではその価値は決まらない。問題はいかに自分に必要な
情報を入手して、それを利用し消化し加工して再発信できるかではないかと思います。

一通り見て回ったら、その後何度も頻繁にアクセスしようと思うところは以外に少な
いというのが正直な感想です。
始めの頃は、これはと思うものは何でもダウンロードして、自分のHDに整理してい
ましたが、それはどうも本を買って書庫にしまうという発想とほとんど同じです。
所有の発想が抜け切れない。
どういう情報がどこのHPにあるかさえわかれば、必要な時にそこにとりに行けばい
いというところですかね。それがインターネットの「賢い」利用法なのでしょうね。

インターネットの発達は、それを利用できる者どうしの間では情報共有されるわけで
すから、情報格差を縮める方向に機能することになるのだろうと思いますが、それを
利用できない者との間では格差を拡大する方向に機能します。
ただ、今のところその情報を共有するということを充分に活かし切れていないかなと
いう気がします。

上記でいうところの情報はストック(蓄積情報)の問題ですが、
インターネットではもう一つ重要な機能があります。
それはフロー(流動情報)です。テレビやラジオほどの速流性はありませんが、
新聞や手紙よりははるかに早い。
電話よりは遅いけれど、相手の邪魔をするかもしれないという気遣い無用だから、
相手の都合に左右されない。

掲示板には一応過去ログはストックという側面もありますが、
掲示板の醍醐味は何と言っても、書き込みの往復・応酬ではないかと思います。

今私が書いている、独り言のような書き込みも、流れの中に消えていくような感覚で
書いていますが、しかしながら、一旦文字として掲示されてしまえば、書いた人のも
のではなくなります。
自分のハードディスクから消去しても、それがどこの誰によってどのような形で保存
されていくかわからない。おそらくサーバーのホストにもずっと残っていくのでしょ
うね。
それから、アメリカやイギリスなどが、世界中のインターネット情報を盗聴して情報
収集しているなどという、物騒な話もありますしね。

ただ、どんな掲示板でも、少しでも関心がズレてしまうと、ほとんど興味が持てない
ものですね。
まあ、数億ページある雑誌の中から、自分が気に入る記事を探し出すような、とてつ
もなく時間と労力を要する、便利なようでありながらとてつもなく不便な、なんとも
不思議なメディアですね。

今日は「美川の会」行巻の「念仏諸善比校対論」(東199/西199)です。この辺はす
っと終わってしまうはずだったのに、以外と手間取っています。早く終わってしまい
たい。


いまだかつて経験がない事態 投稿者:ootubo  投稿日:05月06日(土)07時58分08秒

 動機がわからないと言うことでしょうか。
 私は感性が鈍いのか、いまだかつて経験がないとは思いませんでした。
 アメリカでは無差別殺人をよく聞きますし、国内でも毒葡萄酒事件や
通り魔事件等がありました。

 しかし、この事件から人間とは何だろうかと考えさせられました。
 彼らに見せなかった、聞かせなかった、させなかった責任はあるのでしょうか。
 あるとしたらどう責任をとればいいのでしょうか。
 またどう関わっていけばいいのでしょうか。
 この事件をただ単に飯の種にしてはいけないと思っています。
 うまく書けませんが、概念の整理と言うことで、恥を承知で書かせていただきました。
 


お言葉に甘えて 投稿者:ootubo  投稿日:05月06日(土)07時17分22秒

 文章を作るというのは、教わったこととか学習したことでなく、
人間という動物に遺伝的にプログラムされたものだとチョムスキー
は言っている。
 文法構造を具体化するために必要な単語を学習している。
 言語はコミュニケーションのために出来たものではない。
 概念の整理のためにできたもので、コミュニケーションのために
使おうと思ったら使えるものである。

 上記は日高敏隆さんの言われたことですが、言語でどういう概念
を作るかと言うことが問題で、それが文化の違いだと思います。


各掲示板もGWモード? 投稿者:らくりん  投稿日:05月06日(土)00時37分19秒

どこの掲示板も、GWモードなのか新規書き込みが少ないですね。
三連休ともなると、親戚から顰蹙を買うから法事をする人も少ないので、
みなさんも連休モードでおでかけとかしてるんでしょうか。

私は、ほとんどいつもと変わらず、机に向かい、第X巻の原稿整理とか、本を読んで
過ごしています。
ただ、家族の方はみなそれぞれに連休モードを過ごしています。七人家族のうち三人
留守にしていたので、家の中は結構閑散としています。今晩一人帰ってきました。

ニュース23で立花隆が、筑紫哲也との対談で、認知科学のについて力説していまし
た。
先日紹介した、『洗脳原論』を読んだばかりなので、妙に納得してしまいました。

これまで人間は自分の目で見たことこそがもっともリアルだと考えてきたが、最先端
の認知科学では、目で見たことがもっとも疑わしいというところまで来ていると。

あるいは印刷技術のもたらしたメリットとデメリットに触れて、言語メディアに依存
し過ぎてきたことを見直すべき時が来たのでは、つまり言語メディアの限界が表面化
してきたのではないかというようなことを立花が言っていました。

インターネットコミュニケーションに参加してから、つくづく思うのは、書き込みだ
けが唯一の判断材料であるコミュニケーションの難しさです。
そこから逆に、
面と向かったコミュニケーションの場合はいかに多くの非言語情報を得ているかとい
うこともよくわかります。
私にとって、ネット掲示板は、言語情報でどこまで伝え合うことができるかという実験
あるいは訓練の場であるのかも知れません。

ROMに徹している人も、一言でも二言でもその実験・訓練に参加してみませんか。
読むだけから得られるものよりもはるかに多くのことを学べるかも知れません。

「物は言え言え」ならぬ「物は書け書け」です。
書けば自分がどこまでわかっていて、どこまでわかっていないか、その辺の境目が少
しだけ見えてくるかも知れません。
その少しだけ見ててくる境目は、とても大きな学びになると思います。


いまだかつて経験がない事態? 投稿者:らくりん  投稿日:05月05日(金)15時15分16秒

17歳の少年による、ショッキングな事件が続きました。

「殺人を経験してみたかった」と、金づちで打ちすえ、包丁でめった刺しにて殺す。
バスを乗っ取り、6歳の子どもを盾にして、乗客に包丁を振り回して、殺し傷つる。

何が彼らをあの行動に向かわせたのだろうか。

あの行動にでるまでの17年間に、

彼らは何を見、何を見なかったのか、
何を聞き、何を聞かなかったのか、
何をし、何をしなかったのか
何をされ、何をされなかったのか、

ちょっと、やりきれませんね。

バス乗っ取りがあった3日の夜に11歳の娘が、翌日の夜はつれあいがそれぞれ一人
で、高速バスに乗ってでかけました。ちょっと複雑な思いで送り出しました。

いつどこで誰が、どういう行動にでるかまったく予測がつかない。
このごろ、私には理解できない出来事が多過ぎます。

その点、警察や政治家がやっている犯罪は、あまりにも単純でわかりやすい行動が多い。
その責任逃れのウソも見え透いている。
これまたこれで、どうにかならんもんかよぉ〜。

信巻に引かれている『涅槃経』で、阿闍世を慰めようとした大臣たちが、阿闍世に言
った詭弁は、まとめてしまうと三つの要素に集約できます。

1,殺人は存在しない。
2,(殺人は存在するが)殺人は罪ではない。
3,(殺人は罪だが)王はその罪を問われない。

これって、今の役人や企業の経営者なんかが責任逃れにつかうやり方と同じです。

1,過ちや事故は隠す。(見つからなければ存在しないことになる)
2,過ちや事故は、法的・科学的に問題ないと言い張る(不問に付すべき些細な出来
  事である)
3,過ちや事故は、直接携わった現場の者の責任(上級幹部には責任がない)

この点だけを見ていると
人間が、考えることって、2000年経っても大して進歩していなぁ、なんてのんき
なことを言えるんですが、
今、子どもたちの上に起こっていることは、
もしかしたら、人類が今までに経験したことがないような事態が進行しているのかも
知れないという、そら恐ろしさがあります。


書籍紹介 投稿者:らくりん  投稿日:05月03日(水)22時02分18秒

苫米地英人『洗脳原論』春秋社、を読み終えました。
この書名や、
   「心」 は操作できる!
   「リアル」 は捏造できる!
   「信念」 は注入できる!
    だからこそ、私達はリアリティを守らねばならない。
    私は 「私の心」 を守らねばならない。
という、帯のセンセーショナルなうたい文句に、半信半疑の思いで読み始めた。
読み終えた結果
これはまちがいなく、認知心理学の最先端からの、真面目な問題提起です。
正直言って、
ちょっとショックを受けました。
最先端認知科学はここまで進んでいるのかというショックと
それと同じ意味なんですが、現代の洗脳の恐ろしさに対するショックです。

読んでいる途中、ここで紹介しようかどうか「とまどい」がありました。
もう、ボク達ごときには手の出しようがない領域になってしまったのではないかとい
う思いにかられたからです。

最終章に、それまでほとんど触れることがなかった日本の伝統的宗派教団の怠慢を批
判する言葉が突如として出て来た。
それを読んで、ここに紹介する気になった。そこには次のようにある。
【本来の仏智は一〇〇〇年かけていまだ東大や京大といった大学へ進学する若者たち
に伝えることさえ成功していない。一〇〇〇年かけてできなとなれば、これは怠慢と
しかいいようがない。このアンバランスを問題としているのだ。
 オウムの脱洗脳を手がけた私の今の率直な感想がこれなのだ。私はつくづく思うに
 至った。若者のこころに悪魔がつけ入るアンバランスを生みだしたのは、日本の宗
 派教団の怠慢である。
  規範の欠如
 脱洗脳を五年経験して、私は幻想を捨てた。われわれが自信をもってきわめつつあ
 る現代の先端哲学や自然科学の言葉で、二一世紀の日本を暗黒時代から救うことは
 もう思わない。伝統宗教の怠慢は、日本人の精神をそこまでだめしまったと正直感
 じる。
 これはオウムの構成員やシンパたちについてだけ言っているのではない。この五年
間に関わってきたジャーナリスト、弁護士、医師、学者、聖職者、会社経営者、公務
員らの精神性を間近に見て、そう思うのだ。】

これだけを見れば、さほど目新しい指摘ではないのですが、その前に展開された内容
を読んで、ここまで見極めた人間に、この言葉を言われると、今さらながらにこの言
葉の重さを感じます。

ぜひ、読んでみて下さい。
下記URLに本の宣伝があります。

http://www.tomabechi.net/


「大願」という言葉の批判 投稿者:お留守居役様  投稿日:05月02日(火)19時20分28秒

もともとは、

>蒙古の人を蔑視する言葉が語源であるから問題と言っているのです。

と言われたことを批判したのです。
ここであえて「蒙古の人」と書く必然性があったのでしょうか。
「モンゴル」あるいは「中央アジアの人」で充分意味が通ると思われます。
今回、釈明して言われる

>差別語を問題にするとき、その対象語を用いること

には該当しないと思われます。ご一考ください。

さて「願」というのは、「本願」以外は、
自力回向であるか、神祇ではないかと思います。
願を掛けるというのは、
何かを犠牲にして善いことを振り向けようとすることでしょう。
また、「大願成就」といえば、「精進潔斎」の結果得られるとしたものです。
「精進」に仏教的自力修行の意味はありますが、
「潔斎」は、清め祓いの神祇そのものでしょう。
さらに「大」は「大日本帝国」や「大相撲」のように
自らを偉大な者として他を差別する言葉を語源としています。
>このまま「大願」が市民権を得てここ繰り返し出てくるたびに、
>私はこころが痛みます。
ということはありませんですが、
真宗を名乗るボード上で見ると奇異な感じがいたします。
と申しても他意はございません。
言葉狩りのくだらなさ加減を指摘したかっただけです。

ここには、「目から鱗が落ちる」の語源はキリスト教である
と指摘しても、平然と「落鱗」を名のり続ける豪の者もいらっしゃいます。
ほかのことはともかくとしても、この強靱な姿勢は見習うべきでしょう。
おおっと「豪の者」なんてのもいけませんでしたか。


「尽くせぬ思い2(つづき)」へのレス 投稿者:大願  投稿日:05月02日(火)03時09分22秒

お留守居役様さん
再度詳細な分析をしての反論、痛みいります。
わたしの書き込みを詳細に読んでいてくださることに感謝します。
ただ、差別語を問題にするとき、その対象語を用いることへの警告について
おっしゃりたいことは解るのですが、これはいつも問題になることです。
私が、痛みを感じているのなら、繰り返し使うべき用語ではないこと、
今後留意したいと思います。釈尊が雨季には野外に出られないこころに帰るべきなのでしょう。
先般の、石原発言について、「三国人」(ここで使うとまた叱られそうですが)の発言が
ありらこちらでとりあげられました。抗議する方もその用語を何度も使いながら抗議して
います。それによって、初めて石原氏は今後この言葉を使わないというところに至りました。
この時の抗議の人たちも、あの差別語を使いながらの抗議に痛みを感じておられたことと
思いたい。


なかなか理解 投稿者:らくりん  投稿日:04月28日(金)18時50分43秒

してもらえないみたいですが、

「根拠を明確にしてそれを大切すること」を「権威による」と言うならば、「権威」は
必要です。自分でゼロから思想を創造することができない以上、何か拠り所となる中心
軸を持たなければものを考えていくことはできません。少なくとも私には。

しかしそれは「権威主義」とは別であると、私は考えています。
「権威主義」というのは、他人がそれを「権威あるものとして承認するであろうこと」
を利用することです。

三吉さんには、私の了解と違うから問題だと言っているのではなく、
「三吉さんが、自分で自分の以前の言動に対して泥を塗っていることになっていない
か」と言っているだけです。それは、三吉さん自身は了解して下さっているはずだと、
私は判断しています。

>曽我師の評価もまた毀誉褒貶があってしかるべきです。
については、三吉さんの
>恐らく、らくりん氏は曾我師を批判するなと云っているのではなく、批判しきれてい
>ないと云われているのだと私は思います。
という理解で、間違っていません。
私の、
>批判の根拠 投稿者:らくりん  投稿日:04月27日(木)23時16分04秒
の書き込みも、その意味で了解していただきたいと思います。

出かける時間が迫っておりますのでここまでにします。
今日は、これから金沢の六道会です。

昨日の追加 投稿者:大願  投稿日:04月28日(金)14時58分33秒

それでは、お言葉に甘えて、昨日書き忘れたところを、一言書かせて頂きます。
削除危惧の件は、他の掲示板では、何度かそう言う目に遭っているせいでした。

>このような能天気な書き込みは、あなたが真宗BOARDや自分の掲示板、
>あるいはその他の掲示板で得々と開陳している一見理路整然としたかっこいい書き込み
>のすべてを陳腐な猿真似に貶めてしまうものです。すべてぶち壊しです。

この部分は、私とらくりんさんの受け止めが全く逆です。
一年前に書いたことと、今書いていることが、万一180度異なっているとしても、
それはその時一瞬を生きている私の生きざまであり、頂きかたであると思います。
少なくとも三吉さんの過去に書かれた内容が台無しになることなど、有ろう筈が有りません。
らくりんさんの頂き方と異なるところが有るからといって、らくりんさんの評価は
たとえそうであっても、それは他に評価を求める次元のものではないと私は思います。
三吉さんも私も僧侶でないから、知ったかぶりをするなと言いたいのでしょうが、
それでは、本山の許可を得なければ教行信証を抗議するなと言ってはばからない
本願寺派の体質と同じように見えてしまいます。
必ずしも私は三吉さんの全ての書き込みを追っかけているわけではないのですが、
私が拝見している限り、「真宗門徒になりたいか」というらくりんさんの問いかけに
いつも真摯に向かい合っておいでのようにおもわれます。これは買いかぶりでは有りません。
それをいちばんご存じであるのはらくりんさんで有ることがうらやましい。
覚如、蓮如の評価がそうであるように、曽我師の評価もまた毀誉褒貶があってしかるべきです。
それを僧籍とか、宗門とか、読んでいるとかいないとかが、毀誉褒貶議論への参加権限に
なるのではないはずです。
らくりんさんご存じの、岡崎のHさんは、自らの法名(俗名も法名に同じ)に「暁」の一字を頂いて
自らを暁烏敏師の弟子となのられています。暁烏敏師の戦時教学を重く受け止め、その懺悔の念を
背負っていきたいといつも言われながら反戦、靖国を熱く語られます。これこそが
先達を仰ぐ後進の姿ではないかと、そんな思いを三吉さんに重ねています。
同様の意味で、私は信楽師の本の全てを聞いているわけではなく
らくりんさんの問い合わせに明確にお答えすることはできませんが、その限られた書籍や
お座のなかで、まさに「真宗門徒になりたいか」という叫びがいつも伝わってきます。
歴史体験の中で、生身の生活の中で、腑に落ちるということをいつも繰り返される言葉に出逢って
感動するのです。その運動やお話が、宗門のどこに位置しているかを私は知らないし
知る必要もないと思っています。少なくとも、本山の権威にすがりついているのではないことだけは
確かなようです。その点、権威の嫌いならくりんさんに似ていると思っていたのですが、
勘違いでしょうか。


批判の根拠 投稿者:らくりん  投稿日:04月27日(木)23時16分04秒

誰を批判するのにも、
何を批判するのにも、
その批判を成り立たせる根拠が必要です。

もし私が曽我先生を批判できる根拠を見いだすことができるとすれば、
曽我先生に端を発する近代の大谷派の教学を通して知り得た真宗教学しかない、
と私は思っています。

浄土真宗の歴史的責任を批判するには、その根拠も浄土真宗から出てくる必要がある。
それが出てこないようならば、浄土真宗など必要ない。
他の根拠を援用するならば、それは真宗門徒であることと訣別してからでなくては
ならない。

曽我先生の残された仕事には、その可能性があると思えるから信頼できます。
それは、同時に私自身が拠って立とうとするところのものでもあります。

もちろんその前に思想的背景としては清沢満之の存在があるわけですが、
私には、どうも清沢は「真宗教学」と言い得るものとしては見えてこない。
清沢から曽我への教学的展開と言い得るような関連性が充分に把握できていない
と言った方が正確かも知れません。
あるいは清沢を批判し得る根拠が、清沢から出てくるところまで清沢を読んでいないと
言うべきかも。
曽我は、清沢を「先生」と呼ぶが、清沢は曽我の教学的師匠というような存在ではない
と思う。教学史的な意味においては、「曽我教学」と言ってもいい程度には充分独創的
である、と私は思います。


おそらく、本願寺派の方々もたくさんこの掲示板を読んで下さっていると思いますので、
この際ですから、尋ねてみたいと思います。
本願寺派の基幹運動を成り立たせる根拠は何に由来するのでしょうか。
それは教学に由来するのか、別の根拠を援用しているのか。
教学的由来があるとするならば、それは誰あるいは何に端を発しているのか。
そしてその根拠と、いわゆる「伝統教学」と言われているものとの関係はどのようにな
るのか。

たとえば、
信楽先生の名がしばしば登場しますが、それは「信楽近代教学」と言い得るような信楽
先生の独創と考えてもいいのでしょうか。それとも、そこから遡っていけるような源泉
がさらにあるのでしょうか。
(当然、親鸞聖人に由来するという答えが出てくるかと思いますが、その場合『教行信
証』の読み方の基軸を提起するような視点が由来する根拠です。例えば講録ならば「金
剛録」か「樹心録」か「徴決」かというような)
そもそもいつも槍玉に上がる「安心論題」というのは、それの基礎になっているのは
「誰」or「何」なのですか?


re:尽くせぬ思い2(つづき)  投稿者:お留守居役様  投稿日:04月27日(木)22時49分50秒

>私は啓蒙の単語の使い方云々を言って問題にしているのではありません。
>文脈によっては良かったり悪かったしたのでは、
>それは差別語を野放しにすると言うことです。

「文脈によっては良かったり悪かったし」ないということは、
言語は固定的であるべきであるということですね。
差別語は差別語として固定すべきであると。
これは、言語と対象は1対1対応するという
俗流唯物論の反映論、スターリン主義言語論と同じです。
言語を統制しようという全体主義者は、同じ言語観を持つものなのですね。
言うまでもないことですが、対象に対して言語は少ないので、
同じ単語を使い廻すことになるのです。
この制約が文学を生むとも言えるのです。

>蒙古の人を蔑視する言葉が語源であるから問題と言っているのです。

「蒙」という語が共通だから使うなというのは、
なんとも乱暴な主張だと思います。
これは「朝」という言葉が「朝廷」と共通だから
「朝鮮人」を「鮮人」と言った人たちと同じ言語感覚だと思います。

ところで、この短い文章の中に「蒙」という文字を5回、
その内「蒙古の人」を2回使われています。

>このまま啓蒙が市民権を得てここ繰り返し出てくるたびに、
>私はこころが痛みます。

他人が使うと「こころが痛みます」が、自分が使う分にはかまわないということで、

>傷つけた方は感じないけれど、傷つけられた方は深い痛みを消せません。

全くそのとおりですね。


大願さん 投稿者:らくりん  投稿日:04月27日(木)21時50分07秒

あの程度の書き込みで
>らくりんさんがどうも私には発言するなとは言っていないけれど、そういうニュアン
>スが伝わってきた
とか、前に書いたような「発言がいつ削除されるかわからない」というのは、

その程度にしか「お前を信用していない」というメッセージになるのでしょうね。

少なくとも三吉さんとのやりとりでは、そういうことを言い出される心配はしていないから、何でも思い切って書いています。
いちいち、このような気を回されるのであるならば、
大願さんに対する書き込みはちょっと「手加減」しなければならなくなってしまいます。
別に私とケンカ別れしたって、どうということはない程度の「面識」じゃないですか。
変な気を回さずに、私がどこまで受け入れるか試してみたらいいのではないですか。


大願さんへ 取り急ぎ。 投稿者:三吉  投稿日:04月27日(木)21時14分23秒

いろいろとありがとうとございます。

私へのらくりん氏の批判はそれほど的外れじゃないと私は思います。
大願さんは私を買い被り過ぎです。
恐らく、らくりん氏は曾我師を批判するなと云っているのではなく、批判しきれていないと
云われているのだと私は思います。それは正しい。
実のところ、あの切り取りは信楽師から受け売りに過ぎませんら、私の中でもまだ未消化です。

正も不も見てとは思ってますが、なお両者とも私は不充分にしか、表面的にしか見れてません。
それに私は反戦活動に具体的に関わってません。
戦時教学に対する痛みも不充分です。混乱しているといった方が正確なくらいです。

それと私は公正な立場などありえないと思ってます。
らくりん氏が林遊氏に菩薩と感じられるように、私は大願氏を菩薩と思っているというところで
す。

おそらく林遊氏をらくりん氏が高く評価されるのは、私に対しては「理屈だけになってないか」
「君は誰と共に歩もうとしているのか」「共に歩もうとしているものの顔を表情を見ようとしてい
るのか」というメッセージだろうと思います。
確かに私はここ数年理のみに関心を持ちすぎて、念仏を具体的に生きている者という視座はあまり
ない。在家の方でそれを感じたのはネットではYUYU氏と大願氏ぐらいです。

なんといいますか、ちゃんとは知りませんし、話したことはありませんが、
らくりん氏は反戦の問題を私などよりは深く長く問い続けられているのは確かだと思います。
差別問題しかりです。

私の意見は一見公平に、正論を吐いているように見えるというだけです。
その一見の正論に潜む問題を問われているのではないかと思います。

私は谷派の同朋会運動もお西の基幹運動も支持します。
それに具体的に関わってないし内実も知りませんが、その理念、願いとするところに共感を
感じます、正直なところそうです。
そこを生きられようとしている大願氏に「菩薩」を感じます。
しかも私はらくりん氏にも「菩薩」を感じます。願いを生きようとされていると思ってます。
らくりん氏が大事にされようとしているのは教団ではなく、人、念仏者じゃないかと思います。

私の批判は批判ではなくはらくりん氏に甘えているだけかもしれません。
らくりん氏が迷惑に感じられても不思議ではないと思ってます。


反論には値しないけれど。「思考停止からの解放」 投稿者:大願  投稿日:04月27日(木)17時44分20秒

三吉さん
過分なるフォローのお言葉を頂き、痛みいります。お礼が遅くなったのは、らくりんさんが
どうも私には発言するなとは言っていないけれど、そういうニュアンスが伝わってきたので
ROMしていました。
そしたら、今度はいつも通り、三吉さんへの風当たりが強くなってきて、またうらやましく思いながら
ROMしています。こういう問いかけの繰り返しが私たちの歴史認識と、その共有化をもたらします。
東西本願寺が合同で、反戦活動をできるのも、その歴史に学び、歴史に出逢おうという合い言葉からと
認識しています。それに関わっておいでのご両人故に議論が核心に触れているように思います。
ですから、能天気などとはとても聞こえてきません。
あえて苦言をお許し頂けるのであれば、ご両人のここのところの論争は
西における安心論題擁護の伝統教学と戦争責任を問題にする信楽門下とのそれに似ているような
気がします。大谷派でも、戦争責任を問い返すことは、それが曽我師であっても、
清沢満之師であっても、あって良いこととおもいます。それを理屈を付けて制止させようと
いうのは、らくりんさんらしくないのでは?。開かれた寺をと努力されている多くの僧俗の
意向に反するよう思えてなりません。もっとも、西のF勧学のごとき、戦争責任を否定して
昭和天皇の病気平癒祈願法要を堂々と挙行しているような人は、大谷派には居ないでしょうが、
なにかそれと同類のニュアンスを感じます。主観で申し訳有りませんが、
私からみれば、正も負もあからさまにして、それで宗門をどうしていくかという立場を
公正に視ておられる、三吉さんの発言を能天気とはどうしても思えません。
先達の犯した過ちを繰り返さないことが、それを連帯して背負っていこうというのが、あの
「再会」の重いテーマであったように記憶しています。らくりんさんのいつも言われる
「真宗門徒になりたいと思うか?」の自問自答を三吉さんの発言に感じます。
戦時教学の痛みを感じての三吉さんの発言にこそ、宗門への愛情を持った上での
悲しみを込めての発言であり、これこそが非難でなく真実の批判に私には聞こえます。
宗門に都合の悪いことは、公にするなというかん口令では、昨今の警察不祥事隠蔽に似てしまいます。
西の勧学寮が、すぐに使いたがる「異安心」のレッテルにどこか似ているような……。
らくりんさんは三吉さんへのお心遣いで、わざと問題発言をされているのかな。
あるいは林遊さんへの評価をうらづけるための、作戦なのかと勘ぐってみたくなります。

林遊さん
基幹運動をお嫌いな林遊さんが、まともにそこへ問い合わせをされる筈もないのに、
それを期待していた私があさはかでした。
まともな問い合わせ結果が出ると思っていたら、結果は根拠のない基幹運動への誹謗中傷だけでは
反論しようにもしようがありません。
私も、念のため基幹運動中央相談員に問い合わせましたが、林遊さんの論法に答えるのは
徒労だろうという苦渋の結論でした。痛みを感じない加害者に被疑者の悲しみをどんなに説明しても
最初から聞く耳を持って頂けないのですから……。あなたの尊敬するF勧学に戦争責任をお話ししても、まさに
徒労と同じです。

>もちろんあなたさまの論法によれば、教行証文類の権威を
>借りた、越前の「蒙」なる一門との戯れ言ではありましょうが。
たとえば、この捨て台詞が何より如実に反論の不要を物語っています。

>無茶苦茶な論法を使わせて頂くならば、あなた様のような思想・傾向を持つ門徒を育
>てていくような本願寺派(一部の)の手法は、やがて大政翼賛会を形成するような方
>向に行くのでありましょうね。真摯なる語が煩悩の異名であることを、全く知らない、
>あなたさまに賛同する馬鹿坊主の御法義理解にこそ「啓蒙」なる語は必要なのかも知
>れませんですね。

権威嫌いの林遊さんが、権威の権化のような、そして差別、戦争責任を全て否定して、まさに
現在に生きる大政翼賛会のような、F勧学の言葉を、恭しくHPに載せているのは、笑止千万ですね。
昭和天皇の病気平癒を祈るのであれば、ホームレスの人々の病気平癒をなぜ祈らないのか
F勧学にお聞きしたいものです。都合の良い権威は援用し、都合の悪い権威は排除する手法は
らくりんさんと似ていましすから、そのせいで林遊さんの人事評価はかなり高いのですね。


正直なところ、 投稿者:らくりん  投稿日:04月27日(木)10時57分40秒

細々としたあなたの反論を読んで、少々がっくりきています。

相手を間違えるなと言うのは、
林遊さんは、今のあなたに、最も真摯に耳を傾けてほしい人の一人ではないか、
と私は思っているからです。

林遊さん本人を知らないで言っているのですから、私の勝手な思い込みかも知れません
し、見込み違いかも知れませんが、
私は、浄土真宗というのは、林遊さんのような人を生み出す信仰であることがすごいと
思っています。しかし、続々とは出てこない。昔から「郡(こおり)に一人」と言われ
てきたような希有な存在ではないかと。

もちろん念仏者がすべて林遊さんみたいな、坊主を屁とも思わないような「やんちゃ
な」物言いをするようになるわけではありません。

私は、この方の「頑固な照れ屋」といった雰囲気に、いい意味での、ある種の典型のよ
うなものを感じています。
こういった雰囲気を醸し出す人は、私がおつき合いしている人の中からは、10人とは
思い浮かびません。
皆さんとても魅力的な存在です。

私のような生半可な「理屈こき」の言葉なんぞには簡単にはごまかされない。
そういう人を、まるで突然変異のように(しっかりと背景がありますが)生み出すんで
す。
そういう「浄土の菩提心」とでも言うしか言いようがないようなことに対してもう少し
敬意の念を持ってもいいのではないかと思ったまでです。


訂正 投稿者:らくりん  投稿日:04月27日(木)10時09分13秒

先の講演日付および内容の要点は、百華苑刊の同名単行本の講演のもので、
曽我量深選集十二巻では1961年4月20日親鸞聖人700回法要の記念講演です。
テーゼの出典としては、こちらに拠るべきだと思います。

ただし、上記講演は時間の制約があったようで、充分に展開されているとは言えません。
このテーゼを領解する上では、これ以降の発言、とくに先の書き込みに揚げた講演録と
合わせてうかがう必要があるのではないかと思います。


委細省略 投稿者:らくりん  投稿日:04月27日(木)09時51分41秒

>それでもそういう「揶揄」をもっているのは必要だと私は思う。
誰を「揶揄」するか、その相手が問題です。
林遊さんはあなたの「揶揄」の対象になるのか。

以下のことは、私は、ここで初めて書くことです。
「信に死し願に生きよ」(「信に死し、願に生きる」ではありません)というテーゼは、
清沢満之の「我が信念」に対する批判という意味、すなわち精神主義批判(少なくとも
精神主義に傾倒した者たちが陥った過ちに対する自己批判)の意味を持つ可能性がある
かもしれない、と考え始めています。
見かけ上は近代以前に逆戻りしたように見えますが、それが大谷派のいわゆる「近代教
学」が見落としていた重大な欠落点であったかもしれない。その意味で「近代教学」の
エポックになるテーゼかもしれないと。
このことは、あなたの大谷派の戦争責任批判の拠り所となる可能性を持つテーゼである
のかもしれないのです。

(この講題の講演は1961年10月7日:テーマは本願成就文の「至心に回向せしめたまえ
り」の加点の問題=回向の主体の転換の明確化、他にそれぞれきわめて簡単にですが二
益の問題・住不退転の問題・罪の問題などに触れています。拙著『読み解く』では第U
巻欲生心の問題につながってくる提起です。/この年8月に曽我は大谷大学学長に就任
した/『信の巻聴記』の安居はこの2年後)


らくりんさんへ2 投稿者:三吉  投稿日:04月27日(木)07時16分09秒

>私にとってはいわゆる「近代教学」批判は、自分自身の思想を切り刻む行為として
>行なわれざるを得ません。

苦しそうな顔してせよといわれたいのではあるまい。
批判しては駄目と言われたいのでもあるまい。
苦しかろうがそこはいずれにせよ、我々に避けてはとうれない問題なのではないでしょうか。
「深刻な表情のものが深刻に考えているとは限らない」とは、昔あなたから学んだ言葉だと思う。

>批判対象が自分の思想の源流を形成しているものであることに無自覚な、
>さも自分は彼らとは無縁だという姿勢がありありと見える批判は

本当に無自覚ならばなぜ私は「戦時教学と私の思想は似ている」と他で発言することが
可能になつたのでしょうか?
「無縁だという姿勢がありありと見える」のは私が現代にいき当時を客観視できる位置に「たまた
ま」いるからにほかならないのでは?でその位置から見えてきたものを受け止めるとして、
それはまた曾我師を継ぐということではないのでしょうか?
讃仰するだけが受け継ぐということなのか?

>かっこつけて物を言うのを止めとけとは言いませんが、それをやるんなら、
>自分の発言の依って来る根拠に対してもっと責任を感じて欲しい。

かっこをつけてものいうとの御批判ですので、ならば近代教学の問題点についもアップしましょう
と向こうでも述べたところです。
なるほど「もっと」ということであれば私は不充分だと思う。

>まるで真宗を代表しているかのように

聞かれて知っているところを述べているのがそれが「かっこいい」ということなのでしょうか?
「よくもしりもせずに、しったふりして付け焼き刃で応えてやがる。それは、内面は愚かにもか
かわらず表向きだけ飾って賢いふりをしているだけだ」との御批判ならばそのとうりでしょう。
ただ私は念仏者じゃないが真宗にシンパシー感じるのでその私がシンパシーを感ずるところから
他宗の方とも対話しています。その対話の中で見えてくるものもあるというわけです。
具体的には理解していたつもりなっていたことが実はよく解かっていなかつたなど。




らくりんさんへ1 投稿者:三吉  投稿日:04月27日(木)07時14分01秒

>好むと好まざるとにかかわらず、すでに、あなたのとって大谷派教学は無縁のもので
>はないのではないか、と言いたいだけです。

おっしゃるとおりでしょう。

>批判対象と自分との位置取りを履き違えた批判は、批判という意味をほとんど持ってこない。
>いいとこ「ヤジ」程度のものにしか響きません。

なるほど。茶化しているようにしか聞こえないような程度にしか考察できてないかもしれない。
ただ位置取りというならば、私が自分の真宗理解を「戦時教学と構造的に同じ」とか
仏教理解を「ファシズム」的だと既に云ってます。その意味にあなたはきずかれてますか?

>そして、それが「揶揄」のような形で出てくるのは笑止千万です。

一つ考えて欲しいのは何故あなたが「揶揄」と感じるのかです?
それは被害妄想ではないか?
私の意識の上では「相手を黙らすことを目的」に書いたわけではない。
無意識的にとか結果的にはどうかは別にしてそれだけははっきりしている。
そこをいっしょだといわれるならば、あなたもまた「大願氏を黙らすこと目的」となると思う。
ここはいちどゆっくりと考えていただきたい。

>それが「自己批判」という質を持っている時にもっとも厳しい批判となる。

おっしやるとおり。自己批判というところまで曾我師の思想の全体を把握できてない。
私は断片断片に魅力を感じてはいるし、その言葉自体も凄いと思う。
思った上で「信に死す」せよ、その願に生きるが「戦争による世界平和」という形をとったことに
私もその時代に生きていればそうなったであろうと思うし、拒否できるのは私が現代に生きていれ
ばこそです。単に「信に死す」では結局は「願に生きた」ことにはならないのではないか。
そういう問題意識をもっているということです。
ただそれはまだ揶揄レベルなのかもしれない。
それでもそういう「揶揄」をもっているのは必要だと私は思う。

>思想問題としては、あなたはいわゆる大谷派「近代教学」とは関係ないとは言わせません。

それはそうです。なぜそれならばあなたは曾我師や他の先生の領解を聞法するだけではなく、御自
分で直接に教行信証を御読みになられる?そして我々にそれを勧められる?
近代教学は批判的に受け継ぐ対象であって、乗り越えるべきものではないのですか?
西を見ると、信楽氏やその門下を除き江戸教学の影響力が大きい。
灘本氏の「安心論題」などがはばを効かしている世界です。それに比べると我等はそこから解放
されている。近代教学の恩恵を蒙っていることは歴然です。しかしながら歩みをやめることはでき
ないのでは?

>このような能天気な書き込みは

それが能天気としてその問題意識は間違っていると御思いか?
ならばあなたは1941年2月の大谷派教学懇談会の曾我師の発言をどのように受けとめているのか?
重い問題だから掲示板で発言すべき問題ではないと排除したいのではあるまい。
私は大谷派の中で寡聞にして曾我師批判を聞いたことはない。
自己批判が充分に伴ってないとはそのとおりかもしれない。そこを能天気といわれているのであろ
うと思う。だとして私がまったく自己批判がないならばなぜ真宗ボードで私は戦時教学に親近感が
あると云ったと御思いか?

>それが批判という意味を持つためには、批判者自身にも非常に厳しい姿勢が求められると思う。

そのとおりでしょう。それは私にも該当するし、能天気に曾我師の言葉を引用した林遊氏にも
該当するのでは?彼の「いっぺん、死んだらどうでしょうね。」という私への応答も、その意味は
信仰に生きるのが大事と無信仰の私に対する生き様批判でしょう。
氏の意図とはともかく私はその言葉をそう受け止めた。で、それならば願に生きるのが大事はとい
うのはそのとおりでしょうが、無批判的に願いに生きても、問題は変わらないのでは?
との問題提起です。

>自分自身が同じ状況に置かれた時に同じ「過ち」を犯さないと言い切れるか

真宗ボードで書かなかったでしょうか。「さるべき業縁もよおせば」と。
私は既に戦時教学と私の思想性の親近性を問題にしている。
あなたこそ能天気に華厳はいかんと言ってただけなのでは?
私はその時代に生きていていらればおそらく戦時教学を正しいと思ったのではないかと思います。


再度、三吉さんへ 投稿者:らくりん  投稿日:04月27日(木)00時53分06秒

3月の初めごろ〈真宗BOARD〉の議論の再燃にのようになってしまいますが、

大谷派教団を批判するなと言うつもりは毛頭ありません。
しかし、
好むと好まざるとにかかわらず、すでに、あなたのとって大谷派教学は無縁のものでは
ないのではないか、と言いたいだけです。
別にあなたに教団や教学を背負えと言うつもりはありませんが、思想問題としては、あ
なたはいわゆる大谷派「近代教学」とは関係ないとは言わせません。

批判対象と自分との位置取りを履き違えた批判は、批判という意味をほとんど持ってこ
ない。いいとこ「ヤジ」程度のものにしか響きません。そして、それが「揶揄」のよう
な形で出てくるのは笑止千万です。

批判は、
それが「自己批判」という質を持っている時にもっとも厳しい批判となる。
もう一つ非常に意味を持ってくる批判は、批判対象を大切に思うがゆえに批判せずには
いられないというところから発せられる批判です。その場合は何故自分がその批判対象
を大切に思わずにはいられないかが、明確になる必要がある。

対象と距離を置いた、対象を客観化した批判は、それが批判という意味を持つためには、
批判者自身にも非常に厳しい姿勢が求められると思う。

大谷派のいわゆる「近代教学」に対する批判は、私には決して自分と無縁だとは思えま
せん。自分自身の立場が、極めて近いところに位置していると思います。
彼らが「過ち」犯したとするならば、
自分自身が同じ状況に置かれた時に同じ「過ち」を犯さないと言い切れるか。
だから、私にとってはいわゆる「近代教学」批判は、自分自身の思想を切り刻む行為と
して行なわれざるを得ません。

あなたのように、批判対象が自分の思想の源流を形成しているものであることに無自覚
な、さも自分は彼らとは無縁だという姿勢がありありと見える批判は、ちょっと能天気
すぎます。

このような能天気な書き込みは、あなたが真宗BOARDや自分の掲示板、
あるいはその他の掲示板で得々と開陳している一見理路整然としたかっこいい書き込み
のすべてを陳腐な猿真似に貶めてしまうものです。すべてぶち壊しです。

自分の掲示板や創価学会系の掲示板で、学会の人からの真宗教学に対する疑問に対して、
まるで真宗を代表しているかのように、あれだけごりっぱなことを言うのなら、その教
学に対してもっともっと責任を感じてもしかるべきではないか。
一方で聞いたふうな口をききながら、もう一方でそれを平気で茶化すというのはどうか
と思う。おふざけのつもりなら、他人ではなく自分を茶化したらどうか。
かっこつけて物を言うのを止めとけとは言いませんが、それをやるんなら、自分の発言
の依って来る根拠に対してもっと責任を感じて欲しい。


Re:こんばんは 投稿者:林遊  投稿日:04月26日(水)11時56分21秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

なるほど、言葉は人の過去の口業の歴史により形成されるものであるから、
人の発言は、発言者の全発言を歴史的フィルターを通して領解すべきであ
るちゅうことでしょうかね。

そして、言葉は常に使用者を指示する実体であるから、使用者の全口業の
歴史が付着してるって事かな。よおワカランです(笑)。

で、まあ戦争責任について、このように考えている門徒もいたりします。
3年ほど前の某所での小生の書き込みを以下に再掲してみます。

>>
    「ウラんたなもんは地獄行きや」
    総報恩講の細々した買い物に行く車の中で同行のTさんがふとつぶや
    いた。
    「おんさん。どうしたんや」と小生。
    「こうやって涼しい顔して仏さんの世話さしてもろてるけど、ウラは、
    ようけ人殺したでのお」
    「戦争かぁ?」
    「うん、子供まで、いこなったらウラんとこの子供と殺し合いしるん
    じゃと思て、銃剣で突き刺して殺してもた。もつけねえ事をしたもん
    じゃ。ウラんたなもんは地獄行きじゃ」

    深いため息をついての述懐でした。後はマーケットまで、二人とも無
    言で買い物に行きました。
    今はもうお浄土の住人となってしまった同行のTさんとの思い出です。

    Tさんは模範的な浄土真宗の門徒でした。お寺からどんな役が回って
    きても積極的に引き受け、いつも明るく笑っている行動力のある門徒
    の間でも評判の良い人でした。同行の中で一人だけ年が離れて若い小
    生にいろんな事を教えてくれたTさんでした。

    教団が戦争責任をいう度に、若い坊さんが戦時教学を語り、当寺の指
    導者の戦争責任を叫ぶ度にTさんの事を思い出します。
    世俗から出家してもう一つの巨大な安定した組織に入家していながら、
    全くその事に気づかないでいる鈍感な方たちが居ます。
    なぜか在家に向かって在家教団を標榜し、自らを在家に位置づけなけ
    ればならないかの矛盾に気づかない鈍感な方たちが居ます。
    歴史に学ぶと言いながらその歴史の中ではいつも門徒は忘れられ、た
    だ批判したという自己満足だけの歴史が虚しく語られます。他者の責
    任を論じながらその遺産の上にあぐらをかいている、勇ましい鈍感な
    方たちが居ます。
    長い歴史の中で、檀家制度の中で逃げられなくなった門徒を捕まえて、
    破邪の剣を振り回し、門徒を締め上げる鈍感な方たちが居ます。

    もう、いいです。おつきあいは勘弁してやって下さい。あなた達は適
    当に経を読み、葬式を執行し墓の番だけしてくれればいいんです。あ
    なた達の中だけで歴史的総括とやらをやって下さい。 教化活動も同
    朋会運動も連研も基幹運動もあなた達にこそ必要なのです。どうかお
    願いします、門徒をだしにしないで下さい。  出家のあなた方はこち
    ら側へ来て在家を門徒を巻き込まないで下さい。もしこちら側へ来る
    時はせめてなんまんだぶつを称えて下さい。合掌礼拝する姿を見せて
    下さい。中抜きの経でなく、まじめに経を誦んで下さい。

    妻にも子供にも家族にも明かせない心を抱えて、五〇年以上も忘れず
    に生きて来たTさんに「ウラんたなもんは地獄行きや」というTさん
    に、なんまんだぶつのおや様だけがご一緒でした。
    よかったね、Tおんちゃん。ご苦労様でした。
>>

                   なんまんだぶ    なんまんだぶ  称名相続 ...


三吉さん、問題は、 投稿者:らくりん  投稿日:04月26日(水)09時28分07秒

あなたがそこまで親鸞に魅力を感じていながら、自分自身が念仏者として生きよう
生きたいという選択が成立しているかどうかということではないですか?

「願に生きん」「願に生きよ」の「願」は、あなたが常々おっしゃっている
「全員救済」でしょう。その「願」の成就のためにどういう方法が立てられて、
成就し回向されているか。それは名号です。それが浄土教における唯一の「行」です。
「行」は「願」を成就させるはたらきであることにおいて「行」の意味を持つ。
願と無関係な「行為」は、どんなに真剣で熱心な努力であっても「行」とは言えない。
あなたの気に入ろうが入るまいが、あなたが信じられようが信じられまいが、
「名号」以外に本願成就の「手立て」はないのです。

曽我先生の問題は、彼の精神を受け継ごうとするものにとっては非常に重大な課題です。
拒絶しようとする立場から見れば、否定することはやさしいけれど、
継承する者に取っては、重過ぎるくらい重い問題なのです。

曽我先生には、「異なるを嘆く」の問題もありますし、戦争責任の問題も避けて通れま
せん。曽我先生ばかりでなK、大谷派の近代教学の戦争責任の問題は避けてとおれませ
ん。
人を黙らせるたために、その人が敬意を払う人の過ちをことさら言い立てるのは
あまり生産的ではないように思います。
しかし、彼らの過ちから遠く離れて安全地帯に身を置いた無責任な第三者からその問題
をどれだけ、指摘されてもほとんど身にこたえません。
親鸞の議論をしている時に、親鸞の「障害者」差別的な記述を取りあげて、親鸞の思想
では差別問題には取り組めないと全否定するようなものです。

よきにつけ悪しきにつけ、曽我先生や暁烏敏を全否定して、今日の大谷派の教学は考え
られません。
そういうマイナスの遺産を知った上でなお、自分はその人たちの明らかにした伝統の中
に〈参画〉しようとするかどうかでしょう。そこのところに「決断」というような意味
があるのでしょう。マイナスを捨ててプラスだけしか取らないというなら、「おきら
く」な言葉遊びにしかならない。
あなたは、彼らの過ちの責任は引き受けようとせずに、都合がよいところだけを「拝
借」しよとするだけなのか。
そんな「姑息」な思想はだれからも信頼されませんよ。
少なくとも、私が学んでいる真宗教学は曽我先生を抜きにしては考えられないものです。
三吉さんその私の考えに関心を持って下さっているとしたら、
あなたが尊敬すI先生も、故A先生も、曽我先生の影響をたっぷりと受け継いでいます。
ですから、すでにあなたも曽我先生の影響を充分過ぎるほど受けていることになるので
す。
その落とし前は、自分自身ではどうつけるつもりなのですか。
それとも、自分にはまったくが関係ないと逃げるつもりか。


おいおい 投稿者:Maro  投稿日:04月26日(水)01時22分21秒
誰でもが、自分の老いの最先端にいるのですよね。

頭では知っているけど、いつもは自分の老いを蚊帳の外へおいているようで。
どうも、認めたくないのが本音??

自分だけは変わらない(年取らない)という根性だけは年取らないようで・・・・おいおい。


こんばんは 投稿者:三吉  投稿日:04月25日(火)23時49分58秒

林遊さん  はじめましてよろしく。

>「本願を信受するは、前念命終なり。即得往生は、後念即生なり。」

なるほどそれは鋭い。

>「信に死し、願に生きる」(曽我量深師)

曾我さんにはどきりとさせられます。まぁまだ読めてませんが。
ただ、その願いがね、曾我さんが1941年2月の大谷派教学懇談会の
「日本の神と弥陀は似ている。弥陀は我々の祖先だと思う、天照大神も我々の祖先で似ている。
「大慈救世聖徳皇、父のごとくおはします。大悲救世観音、母のごとくにおはします」の聖徳皇
のかはりに天照大神の名を、観世音のかはりに弥陀を立ててよい。父と母は形は二つであるが、
絶対である。子より見れば一体である。国家のために死んだ人なら神となるのだ。神になるなら
仏にもなれる。弥陀の本願と天皇の本願と一致している。」
という願いならばその願いには生きたくはありませんね、あしからず。


Re:老い・・・  投稿者:林遊  投稿日:04月25日(火)13時21分48秒

ども三吉さん、はじめましてです。林遊@なんまんだぶつです。

>>
らくりん氏が病と友達になり、ウォーキングをして楽しんでいるように、
我々もまた、老死と友達となり楽しく遊べないものだろうかと(笑)。
>>

いっぺん、死んだらどうでしょうね。

 「本願を信受するは、前念命終なり。即得往生は、後念即生なり。」
								               (東430:西509)

古い秩序の中の私は死んだ、そして如来の秩序の中に生まれ変わる
のが、「信に死し、願に生きる」(曽我量深師)でありましょう。

先日、天井裏で青大将の蛇の皮を見つけましたが、「蛇が脱皮して
旧い皮を捨て去るようなものである」(スッタニパータ1〜)のか
もしれませんね。

それにしても御開山親鸞聖人は、死んで生まれ変わる度に名前を変
えるという人でありましたですね。

	     なんまんだぶ なんまんだぶ・・・称名相続


老い・・・ 投稿者:三吉  投稿日:04月25日(火)07時51分55秒

私も老いつつあるし・・老死から自由ではありませんが・・・、
あまりというかほとんど当面の問題として意識に上ったことがありませんね(^^;

目がしょぼしょぼしてもものを書き続けた親鸞。
歩みさせられつづける。歩みの根拠となるのが本願かもしれません。

らくりん氏が病と友達になり、ウォーキングをして楽しんでいるように、
我々もまた、老死と友達となり楽しく遊べないものだろうかと(笑)。


老い 投稿者:ootubo  投稿日:04月25日(火)06時52分33秒

 65歳以上高齢者が7%を超えた社会を高齢化社会、14%を超えた社会を高
齢社会という。
  (1) 退職者、年金生活者、病人、傷病の後遺症をもつ老人、寝たきり老人、痴呆
  老人などが、等しく生きがいのある生活ができる社会のシステム作りが今こそ
  求められている。
  (2) 現代のエイジズム(老人の社会的差別)は、高齢人口の急増と年金や医療保
  険財政のひっ迫の下で老人を職場や家庭あるいは地域から差別的に切り離すこ
  ととなって現れる。退職強制、中高年者就業差別(とくに女性)、家賃高騰に
  よる老人居住家屋追い出し、障害老人の虐待、隔離された老人収容などがある。
    若者中心文化と経済がエイジズムをもたらすが、核家族化と個人生活中心志向
  も老人の社会からの隔離につながる。老人は企業、医療・福祉施設、公共の交
  通機関や集合場所において陰に陽に排除されている。エイジズムをなくしてい
  くためにも世代間の日常交流と老人能力の最大活用が課題になる。

 私は仕事で過疎問題を担当していますが、なかなか難しい問題です。上記は、
高齢(化)社会で問題になっていることですが、この問題を宗教はどう答えていけ
るでしょうか。ご参考までに。


続々、「老い」情報 投稿者:らくりん  投稿日:04月24日(月)20時25分03秒

ありがとうございます。
メールでも極秘情報を送って下さる人もいたりなんかして、ありがたく思います。
そう言えば、明日が蓮如さんのご命日。御影も吉崎別院にご到着されたようですね。
私の父も、数年前までは、お参りに行くこともありましたが、今年はそういう話題がで
てきませんね。

それにしても、今年は「御影」の帰属権の最高裁判決が出て、大谷家側とひと悶着あり
ました。
当初今年の道中がどうなるかと懸念されていましたが、御影という「物」にとらわれず
別の御影で道中を敢行されました。その決定を下した、ご門徒のしっかりした考え方に、
感銘を受けました。
今年の宰領は、知り合いの方で、参加者の動揺を心配されていたようですが、
今日の新聞報道によれば、
例年にもまして、皆さんの心が一つになったと喜んでおられたようです。
やっぱり、最後は「ひと」ですね。

あの騒動で、実は私も道中に1日でも参加してみようかなという気持ちも少しはあった
のですが、なかなか思い腰があがりません。


初老とは何歳か? 投稿者:お留守居役様  投稿日:04月24日(月)18時02分26秒

初老と不惑
どちらが年上でしょうか?
不惑は『論語』に「四十にして惑わず」とあるところから、
40歳のことです。
初老というとずっと年上と思われがちですが、
じつは、初老は昔から40歳のことなんですね。
しかも、40歳以上とか40〜50歳とかのことではなくて
ずばり40歳を指す言葉なのです。
お疑いでしたら辞書等でご確認ください。

お話のマクラにでもなるでしょうか。


Re:ええ〜、突然ですが  投稿者:林遊  投稿日:04月24日(月)17時48分44秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

昨日、家の92才のじいさんが、いそいそと吉崎御坊へ出かけましたです。

毎年、「蓮如さんおかえり」の時期が近づくと、一週間ほど前からまるで
修学旅行に出かける小学生のようにウキウキとして準備をはじめたりしま
すです。一年間かかって、広告紙の裏に書き留めた法話を選択し、カレン
ダーの裏に書き写し、吉崎参詣の人に見て貰うのが楽しみだったりします。
「蓮如さんおかえり」は、一年に一度蓮如さんが門徒の信心調べに帰って
来なさるんじゃ、などといってたりします。
小学校も満足に出ておりませんが、九〇過ぎてなお辞書を引きながら新聞
広告の裏に、法話、法語を書き付けていたりするのは有り難いこっちゃと
思ってたりします。

閑話休題

「老い」という語を受け取る受け取り方には、いろんな受け取り方があ
りそうですね。

どうも最近の年寄りは「老い」なるものを、まともに受容しようとはせ
ず、「豊かとか気楽さ」などというあいまいな概念で「老い」というも
のを捉えようとしているようです。

「老−>死」という事を拒否するというか、痴呆老人の悲惨さに眼を背
けるというか、「老死」を考える力が欠如しているのかもしれんですね。

マヌ法典か何かに、人生を、学生期、家住期、林住期、遊行期の四つに
分ける事が書いてあるそうですが、教行信証を、教(学生期)、行(家
住期)、信(林住期)、証(遊行期)に配当して考察してみるのも面白
いかも知れませんですね、御開山もビックリでしょうけど(笑)。

御開山の生涯に配当すれば、流罪以前は「学生期」、常陸での家族との
生活は「家住期」、京へ戻られてからは「林住期」、晩年の猛烈な執筆
活動は、ありゃあもう自由自在な信情(信心の情感)吐露の「遊行期」
かも知れませんです。

学生期は家住期への、家住期は林住期への、それぞれへの準備段階なの
でしょうが、最近の年寄りは「生」のみの現時点に意味と価値を求め、
生きている事も素晴らしいが、死ぬ事もまた素晴らしい事なのだという
ことが、判らなくなっているのかも知れませんですね。

ある意味では、「老死」を意識し始めた途端、「老死」の彼方を拒否す
るため、過去の思い出に縋りながら、後ろ向きに命終を迎えるのかも知
れませんです。

Vitaさんに「念仏者年とらず」(大信心はすなはちこれ長生不死の
神方)と揶揄されたことがありましたが、その点、念仏者は常に前向き
で、なんまんだぶつの親様と生死を超えて往けるのでありましょう。

どう考えても、死ぬとしか思えないのに、ほんとうに(至心)疑いなく
(信楽)私の国に生まれるのだとおもえ(欲生我国)、というのですか
ら無茶な話ですが、生も死も知らないバカタレの小生の為に、往生でき
る浄土までこしらえての、仏智不思議の大慈悲の、おてまわしでありま
しょう。

最近、年をとっても人の世話にはなりたくない、という人が多いですが、
利他力の御法義では、人の世話にもなりましょう、そして、人の世話も
しましょうという人格が、阿弥陀様から期待されているやも知れません
ですね。

うらをみせ、おもてをみせて、ちるもみじ という句がありますが安心
して、人生の裏も表も見せ、自分が自分でいられる世界が、自らを真と
ぜず、浄土を真実とする、なんまんだぶつの御法義でありましょう。

小生はこの御法義は、智慧が大悲として顕現している御法義だと思って
たりするんですが、理屈は御開山の「教行証文類」にお任せして(実は
読んでもさっぱりワカラン(笑))、持ち合わせのまま、「聞くところ
を慶び、獲るところを嘆」じ、なんまんだぶつを称えさせて下さると、
思ってたりします。

  二人で居たれど まださびし  一人になったら なほさびし
  しんじつ二人はやるせなし  しんじつ 一人は耐へがたし
											(北原白秋)

老愁という言葉がありますが、老境の絶対孤独の中で、

	ねんぶつと、ひとりあそびのできること
			これを大悲と、わたくしはいう
											(藤原 正遠師)

なる世界があるのかも知れませんね。知りませんけど・・・。
参考になるかどうか判りませんが、とりあえずの与太話(差別語?)
ではありましたです。


しかしなあ、大谷派のご法座では、なんまんだぶつを聞かせて下さる
お同行がへったもんじゃ。僧俗ともに、親様の前へ出て、お真向きに
なって下さっている阿弥陀様がいらっしゃいながら、親様の名前も称
えられんようになってしもうた。

唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩なんじゃけどなあ。これもご信心無き
馬鹿坊主が、御法話ではなく説教たらいう御法義の解説ばかりしている
せいかもしらんなあ。
坊主の理解している程度には小生等門徒も知ってたりするんにゃけどな
あ。まっ、どうでもいいか。

		なんまんだぶ なんまんだぶ・・・称名相続



再燃か?「再会」金沢公演 投稿者:らくりん  投稿日:04月24日(月)13時44分42秒

午前中、イマジン21のWさんから電話あり。
昨年、流れた「再会」金沢公演の話が再燃。
昨年と異なる状況は、当時宗務所の研修部に勤務していて、金沢を離れていた
I.B.さんが、戻って来て暇そうに(?)していること。

イマジンのWさんも、新たな金沢攻略法をどこかで仕入れてきたらしい。

昨夜、彼から、つれあいに電話があり昨年の話が流れた状況などを確認していた(どち
らかというと彼女がこの話に関わっているので)。
どうもI.B.さんは、かなり乗り気のようで、今年は話が進んで行きそうな気配。

私は、今の状況では、実行委員会を引っ張っていくほどのエネルギーはとても持ち合わ
せていません。話が決まれば、放ってはおけませんから、チケット販売の協力ぐらいは、
と思っていますが、どうなることやら……。(∞;)


まこさん 投稿者:らくりん  投稿日:04月24日(月)09時29分21秒

さっそくの反応ありがとうございます。
自分にとっては、両親やご門徒さんの姿を通して想像したり観察するというような、
まだ第三者的な立場でしかかいまみることができない
「老い」についてのイメージを、もっともっとふくらませてみたいと思っています。


五木寛之 投稿者:まこ  投稿日:04月24日(月)05時57分30秒

 老いといえば、すぐに浮かんだのは、五木寛之です。「他力」か何かに、老い
について書いていたように思いますが? 不確かでゴメンナサイ。
 親鸞自身が老いていく中で、最後まで執念を燃やして手を入れていた教行信証
の作成過程からも「老い」の問題が見えてくるような予感がします。
 まずは親鸞と教行信証及び消息などの年表を作成してみたらどうでしょうか?


ええ〜、突然ですが 投稿者:らくりん  投稿日:04月23日(日)16時58分07秒

なんの因果か、GW空けに、「老いについて ―教行信証から見た老い―」などという
とんでもないテーマで話をしなければならないはめに陥っております。

最近は、話す前日か当日の午前中ぐらいに、骨子をメモする程度で、本番に臨むような
ことが多いのですが、こればっかりは、1ヶ月以上もまえからちょっと頭を痛めており
ます。

まだ、五十路にさえまだ間がある若輩者に、こともあろうか「老いについて」
というテーマを出す方も出す方ならば、受ける方も受ける方です。
鬼どころか、天神・地祇もさぞや大笑いでしょう。

仕掛け人の「教育的挑発」にまんまと乗って、冷や汗をかいている、
小賢しい大馬鹿野郎をあわれと思って、
なんでもいいですから、「老い」について、書いて下さいませ。
藁にもすがる思いで、考えるヒントを探しております。


すんません、下記の再掲ですちゃ。 投稿者:林遊  投稿日:04月23日(日)00時36分47秒
どもです、大願さん越前の林遊です。

えっと、はじめに林遊は僧侶(これって複数形)ではありませんです。もっとも人格が
多重に分裂した者の意であるならば、そんな気がしないでもないです(笑)。
もちろん小生は比丘でもありませんです。正真正銘の煩悩の泥タンボをはいずり回る立
派な凡夫でありますです。これは、卑下慢ではなく、たまたま、なんまんだぶつの御開
山の御法義に遇わせて下さった、小生の矜持であります。

で、
>>
我が国の「一宗教団体」である浄土真宗本願寺派の一部門である、基幹運動本部に対し「啓蒙」なる語が差別用語であるか否かの問い合わせをするつもりです。
>>

なることの意味がおわかりにならないようでが、どうしてある特定(解りますね)の
組織が措定した言葉が差別用語になるのでありましょうや。また、問い合わせをする
という、この文章がどうしてあなた様に対する恫喝になるのでありましょうや。あな
たさまは蒙古人でありますか?。それとも生まれたとき蒙古斑があったからでありま
しょうか。よぉわからんです。

もちろん、小生は小生の書き込み後に、(翌日ですが)電話ではありますが問い合わ
せはしてあります。右翼の馬鹿ども(差別用語かな?)の怒声を受話器の耳にしなが
らの問い合わせではありましたが、啓蒙なる語の差別語云々について問い合わせた結
果、なんら差別性は無いとの回答を得ております。ただ差別「らしき」語を避けるた
め啓蒙より啓発という語を使用したいのが、我が国の>一宗教団体である>本願寺派
の>基幹運動本部の見解であるようですね。(>の意味はわかりますね)

で、まあ越前の林遊はいかなる組織、いかなる権威にも属さない御開山親鸞聖人の門
徒であると自負しているわけですが(斉救済苦悩群萌)「総序」、の群萌なる語は差
別用語でありましょうか。もちろんあなたさまの論法によれば、教行証文類の権威を
借りた、越前の「蒙」なる一門との戯れ言ではありましょうが。

無茶苦茶な論法を使わせて頂くならば、あなた様のような思想・傾向を持つ門徒を育
てていくような本願寺派(一部の)の手法は、やがて大政翼賛会を形成するような方
向に行くのでありましょうね。真摯なる語が煩悩の異名であることを、全く知らない、
あなたさまに賛同する馬鹿坊主の御法義理解にこそ「啓蒙」なる語は必要なのかも知
れませんですね。


(それにしても、なんで林遊はもっとわかりやすくモノを表現出来んのじゃろか。こ
まっったもんだ(笑)。)

(それにしても、なんで林遊はもっとわかりやすくモノを表現出来んのじゃろか。こ
まっったもんだ(笑)。)

			なんまんだぶ    なんまんだぶ  称名相続 ...

       越前の国の住人         林遊(KEH00433)
                         E-mail: rinyou@mitene.or.jp
                         阿弥陀さまが、ごいっしょです
                         HomePage: http://www.mitene.or.jp/~rinyou/


http://www.mitene.or.jp/~rinyou/


Re:「神祇不拝」について。「啓蒙」について 投稿者:林遊  投稿日:04月23日(日)00時28分36秒

どもです、大願さん越前の林遊です。

えっと、はじめに林遊は僧侶(これって複数形)ではありませんです。もっとも人格が多重に分裂した者の意であるならば、そんな気がしないでもないです(笑)。
もちろん小生は比丘でもありませんです。正真正銘の煩悩の泥タンボをはいずり回る立派な凡夫でありますです。これは、卑下慢ではなく、たまたま、なんまんだぶつの御開山の御法義に遇わせて下さった、小生の矜持であります。

で、
>>
我が国の「一宗教団体」である浄土真宗本願寺派の一部門である、基幹運動本部に対し「啓蒙」なる語が差別用語であるか否かの問い合わせをするつもりです。
>>

なることの意味がおわかりにならないようでが、どうしてある特定(解りますね)の組
織が措定した言葉が差別用語になるのでありましょうや。また、問い合わせをするという、この文章がどうしてあなた様に対する恫喝になるのでありましょうや。あなたさまは蒙古人でありますか?。それとも生まれたとき蒙古斑があったからでありましょうか。よぉわからんです。

もちろん、小生は小生の書き込み後に、(翌日ですが)電話ではありますが問い合わせはしてあります。右翼の馬鹿ども(差別用語かな?)の怒声を受話器の耳にしながらの問い合わせではありましたが、啓蒙なる語の差別語云々について問い合わせた結果、なんら差別性は無いとの回答を得ております。ただ差別「らしき」語を避けるため啓蒙より啓発という語を使用したいのが、我が国の>一宗教団体である>本願寺派の>基幹運動本部の見解であるようですね。(>の意味はわかりますね)

で、まあ越前の林遊はいかなる組織、いかなる権威にも属さない御開山親鸞聖人の門徒であると自負しているわけですが(斉救済苦悩群萌)「総序」、の群萌なる語は差別用語でありましょうか。もちろんあなたさまの論法によれば、教行証文類の権威を借りた、越前の「蒙」なる一門との戯れ言ではありましょうが。

無茶苦茶な論法を使わせて頂くならば、あなた様のような思想・傾向を持つ門徒を育てていくような本願寺派(一部の)の手法は、やがて大政翼賛会を形成するような方向に行くのでありましょうね。真摯なる語が煩悩の異名であることを、全く知らない、あなたさまに賛同する馬鹿坊主の御法義理解にこそ「啓蒙」なる語は必要なのかも知れませんですね。


(それにしても、なんで林遊はもっとわかりやすくモノを表現出来んのじゃろか。こまっったもんだ(笑)。)


嬉しい悲鳴 投稿者:らくりん  投稿日:04月22日(土)17時07分09秒

一日アクセスヒット数がカウンターベースで80ヒットほどになってきました。
tcupの説明によれば、実数はカウンター表示の2倍から3倍になる場合もあるとの
こと。
tcupは、一日のアクセスヒット実数が、常時200を越えるような場合には、契約
を打ち切ることがあると「規約」に書いてありました。一つの掲示板で、リソースを独
占してしまうことを回避するためだそうです。

5月10日頃発刊予定の『読み解く』の巻末には、〈真宗BOARD〉のURLも掲載
される予定ですから、真宗BOARDとここのヒット数もさらに増える可能性大です。

過剰アクセスで契約打ち切りなんて無縁だと思っていましたが、
かなり現実味を帯びた話になりつつあります。

まさに嬉しい悲鳴です。


言語過程説 投稿者:お留守居役様  投稿日:04月22日(土)15時04分21秒

>言葉の問題は、常に文脈における意味として、
>つまり使い方において問題になります。

らくりんさんのこの言語観は、
時枝誠記先生の言語過程説と同じだと思います。
言語は、発語の過程全体である。
この言語観に基づいて、
三浦つとむさんの「日本語はどういう言語か」は書かれています。
文法や品詞の分類が、言語の外側にある客観的な規則や種別ではなくて、
人が言葉を使うときの意志や認識に基づいていることが示されます。
この言語観を文学論に応用したのが、
吉本隆明さんの「言語にとって美とは何か」です。

運動であれ決議であれ、集団が共同性の名において
個人の自由を制限したり、批判したり、否定したりすることは、
原則的に許されることではありません。
それは戦時下の全体主義やスターリン主義と同じだからです。


繰り返しになりますが、 投稿者:らくりん  投稿日:04月22日(土)09時32分30秒

文脈を無視した絶対的な「差別語」などというものはないと考えております。
だから言葉の問題は、常に文脈における意味として、
つまり使い方において問題になります。
石原発言も「三国人」という語自体がよいとか悪いという問題ではなく、
彼のこれまでの言動や、言葉感覚や言語に対する責任、
そして、それを指摘されたあとの態度などから判断して、
彼が確信的に、この語の使用によって傷つけていることが明らかであるからです。

七祖や親鸞の言葉を引いたら権威主義になるか
―→基本的には、それも権威主義の一種になるでしょう。
ただ、水戸黄門の印籠のように「これを出せば相手は黙るだろう」的な
主体性のない権威主義はなさけない。

自分がそれを根拠にすることの危うさと対決していなければ、
自分で考えることを手抜きしてしまうことになるだろうと思います。
だから親鸞・釈尊たりとも、それに拠りつつ、同時に思想的にはつねに「対峙」の
姿勢を持ち続けたい。自らが、歩み続けるために。

私にとってもっとも警戒すべきこととしてあるのは、達成・到達とか完成の感覚です。
無自覚な権威主義は、歩みの大きな障壁です。

親鸞がすごいのは、最後まで「達成」したという感覚を持っているように
見えないことです。そして、『教行信証』を読んでいても、それを読む者に決して
達成感を与えてくれません。読めば読むほどケツを叩かれます。


おはよ 投稿者:三吉  投稿日:04月22日(土)06時20分27秒

大願さん

私は大枠であなたを支持します。

問題にすることは悪いことではないと私も思います。
ただらくりん氏は問題にすることは悪いとかいってないし、削除云々はされないと私は思います。
らくりんさんは厳密に考えている。僕や大願さんは言葉や問題の質にファジーで、問題の多様な質
を混同することが多々ある。らくりん氏が噛み付かれるのは常にそこです。
らくりん氏に噛み付かれたら、何か問題の多様な質を混同して曖昧にして論じていると、点検され
た方が精神衛生上よいかもしれませんよ。点検して損はありません。

噛み付かれたら誰しも痛いものです。痛いことしやがってと腹を立てて、私から痛いところをつか
れたから、噛み付いたのだろうと邪推してしまい勝ちですが我々は凡夫は。でもね、自己点検の
きっかけにすれば新たな視点をプレゼントされるかもしれません。

掲示板に限界はありますがあえてないと申しておきます。あえてないというのは、限界は自分で
作ってしまうものだからです、往々にして我々凡夫は。その限界をすっーと超えさしてしまう働き
が「信頼関係」なのかもしれません。
私は創価学会や日蓮系の方々、そこに出入りされる人たちと2年渡って議論しておりますが、
掲示板で不毛感じて去っていかれる方を多く見ましたが、やはり壁を自分でつくってられるような
気が致します。「信頼関係」は相互作用ですから一人でというのは不可能なのですが、願いは伝わ
るかも知れません。私の側はそういう願いを持つ。その姿勢かと思います。

とは云え、らくりんさんは完璧ではない。本人自身が自分を不完全だと深く思い込んでおられます
よ、たぶん(笑)。ところが私や大願さんはその具体的なテーマ、神祇不拝を完全正しい。と思い
込んでいたりするわけです。神祇不拝になのに神社なんか見物にいくことはないじゃないかと。
見物にいく方は、親鸞が解かってない。神祇不拝をわかってない蓮如教だと。
その正しいと思い込んでいるところに、らくりんさんは危惧されているのかもしれません。

あのね詳しくはしりませんがらくりんさんは反靖国の運動家ですよ、確か。それもらくりんさんの
テーマの一つのはずです。神社問題はその取り組みの中で出てきた色々な問題を具体的に考察しつ
づけた結果の意見かも知れません。私らより深く広くそして長く考察されている可能性が大です。

納得できないことは納得できないと言い続ける大願さんに私は励ましつづけられてます。
私も見習いたいと思ってます。今後も納得できるまで批判しつづけられることを望みます。
疑問を問い続けられることを望みます。

それとお坊さんなぞどの宗派の坊さんもたいしたことはありません。
我々と全くことならならない凡夫です。偉くあるべきだとか、偉いはずだとかの想いから解放され
た方が腹が立たずにいいと思います。
私でもお坊さんになる気があればなれたくらいですし、今からなろうと思えばなれることでしょう
大願さんもその気があればなれますよ。
真宗の坊さんの偉いところは、そこにきずいて開き直っているところです(笑)。
他宗はさすがにそこまで行くことは稀です。本心できずいていても偉そうな顔をされてます。
僧俗時衆共同心・・・私の好きな言葉だったりします。

権威主義・レッテル張りについてはらくりんさんの昔からの十八番です。
思考停止をせずに自由にものを考えつづけることが大事だというほどの意味です。
テーマは思考停止から解放されようです。


追伸 投稿者:大願  投稿日:04月22日(土)04時24分37秒

もう一人、急遽聴石の会にこられなかった方がいますので、そこにも
一言報告しておきました。URLは下記です。
聴石の会は、話し合い法座風で、みんなが自由に意見の言える会です。
祭りの件は、大方らくりんさんやまこさんの意見と同様の方々が多くて
だから、信楽先生が問題と言われたのかも知れません。「僧侶が布施やお供えの
事だけを気にして、親鸞は親鸞、寺経営は寺経営と割り切っている僧侶が多い」とも
おっしゃっいました。この間、友人の僧侶は、「寺の経営を考えたら、靖国と原発には
口を出さないほうがいい」と先輩から忠告を受けたそうです。親切な先輩ですが、
彼は複雑な思いで悩んでいます。こうした悩み、苦しみが真宗に出会うと生まれてくる
筈ではないか。らくりんさんの言葉を借りれば、
「真宗門徒(僧侶)となりたいと思っているか?」という葛藤と同義だと思います。
この言葉がすきになって、いつも頭からはなれません。

http://bbs2.kweb.ne.jp/~mk04/bbs/mkres5.cgi?chinei63


尽くせぬ思い2(つづき) 投稿者:大願  投稿日:04月22日(土)04時08分26秒

啓蒙の件、林遊さんより先にらくりんさんのお出ましで、話がややこしくなっています。
祭りの件の、まこさんの時と似て。
とりあえず、基幹運動に問い合わせた結果をお聞きしたいのですが、
脅しだけでその気はないのでしょうか?
私の反論または謝罪(どちらになるか)はその後にしたいと思います。
私は啓蒙の単語の使い方云々を言って問題にしているのではありません。
文脈によっては良かったり悪かったしたのでは、それは差別語を野放しにすると言うことです。
ここには書けませんが、様々な差別語のために、どれだけの多くの方達が傷ついたか
傷つけた方は感じないけれど、傷つけられた方は深い痛みを消せません。
そういう配慮が欲しいと言っているのです。
林遊さんがどういう用法で使おうと、あるいはそんな気はないと言っても、それは差別側の
論理です。水平社宣言の用例を取るのであれば、林遊さんは蒙古の人なのですか。
蒙古の人を蔑視する言葉が語源であるから問題と言っているのです。
ぶりかえすつもりはありませんが、神社はいいが靖国はいかんと言っても
その境界は実に不明確で、結局なんでもいいようにスライドする危険があります。
差別語もそれと同様です。基幹運動本部も権威と位置付けられていますが、
私達推進員が指摘された場所を紹介したまでです。
真宗ではといったら、お東では言葉狩りはやっていないと
指摘がありましたので、訂正してたしかな出所を明記したまでです。
権威機関が言っていることは何でもかんでもけしからんとという
レッテルをはるのはいかがなものでしょうか。
レッテルはりの嫌いならくりんさん。
どなたかの言葉を引くと、すぐ権威主義と言われると
そのうちに親鸞が言っていると言ってもそれも権威主義と叱られそうです。
根に持つわけではありませんが、また、重箱の隅をつつくようですが
ご伝鈔の平太郎の話を以前出されましたが、あれって、かなり権威主義ではありませんか?
いずれにしても、今回も多くの私へのエールを送ってくださりありがとうございます。
人事評価のような格付け、レッテルまでもたくさん頂いてありがとうございます。
右翼より恐い伝統教学と言う権威に、またらくりんさんという権威に(怒らないで (¨;))
対抗するのには、揶揄的な表現も時には必要とするのです。
それに語彙のすくないために、尽くせない事が多いのですが、
これで元気が出て、またアグレッシブに書き込みをさせて頂けそうです。
いずれにしても、基幹運動本部に問い合わせると林遊さんが言っているのですから、
それをお待ちします。用法うんぬんをコピーして問い合わせることを提案されていますが、逃げるわけではありませんが
用法により可否を決めるべきと主張される林遊さんのすべき事です。
とにかく宣言されたのだから早急にお願いしたいことです。このまま啓蒙が市民権を得て
ここ繰り返し出てくるたびに、私はこころが痛みます。
追伸
いつ私の書き込みが削除されるかとびくついているのですが、今のところ削除されないことに
感謝します。


尽くせぬ思い2 投稿者:大願  投稿日:04月22日(土)04時06分28秒

らくりんさん。また、親切で、真心のこもった、長いレスをありがとうございます。
以前、Vitaさんの掲示板で、三吉さんと落鱗さんのあの忌憚ない書き込みを見ていて
羨ましくおもいました。憧れをもって眺めていました。三吉さんとらくりんさんの
なかよきやり取りを。
いま、落鱗さんの掲示板で、念願のそれに近い論争ができた事を嬉しく思います。
残念ながら、三吉さんに比較して、稚拙な論理展開しかできないのが悔しいのですが。
それをふくめて、最近は掲示板の限界を感じています。特に先日、Kさん、Nさんとお話したとき
落鱗さんとのやり取りの概ねをお話して、なぜらくりんさんがそういうスタンスで言われているかを
あくまで推測でお話してくださったのを聞いたのです。それですべての不審が取れた訳では
ありませんが、視点というか角度を考えながら、共に真剣に話すとき、掲示板とは違うものが
伝わってきます。らくりんさんとも掲示板でなく、面と向かったら、おそらくああした展開には
ならないだろうなと感じたことなのです。私が私の都合の良い質問や聞き方をしてきたかどうか、
何かのついでに彼らにお尋ね下さい。遅くとも7月には、彼らも私も京都に行きますので。

聴石の会の件、意識的に信楽先生から満足のいく見解を引き出したわけではないのですが、
化身土巻・方便・神祇不拝のお話がでましたので、タイムリーな質問としてお尋ねしただけです。
>信楽先生から肯定的なご意見をいただいたということを、
>「自慢気(私にはそう見えます)」に書き込んでおられる様子も、
>私にはとても権威主義的に映ります。
あたりです。鋭いですね。
お褒めに預かって恐縮です。尊敬する先生から、肯定的な意見を頂いて、嬉しくなっています。
総すかん(?)で、勇み足の私でしたが、そうではなかったことの確かめになりました。
らくりんさんの「真宗門徒となりたいと思っているか?」に、一歩近づけたような、
半分手をあげてみたいような嬉しさです。
らくりんさんから、こんなことを問題にするのは問題であると、門前払い的に排除されましたが
問題にしないほうが問題と受け取ることで、信楽先生とベクトルの一致を見て嬉しいのです。
結果的に、それでも論争にお相手下さったらくりんさんにも大いに感謝です。
「権威的」とのお褒め(?)を、素直に受けます。親鸞が七高僧の教えを引くことをも
まさか権威的とはおっしゃらないとおもいますが。
自由人であることが必要ですが、師として仰ぐ人に騙されて地獄に落ちてもいいとまで
親鸞は言っているではありませんか。
報告をRyusenさんの掲示板に書いたのがご不満なようですが、あれは、彼が急遽欠席であったために
簡単に報告したまでです。しかも信楽先生のお話をゼミOBであれば、曲解することもないし
言葉足らずであっても意を汲んでもらえる安心感からです。
同じ内容の書き込みをあちらにもこちらにも書きまくる元気がありません
ので、ご容赦ください。ただ、Ryusenさんの掲示板意書いたと報告ぐらいは入れるべきとの
ご指摘は、全くもってごもっともで、私の落ち度でした。済みません。
代わりに書き込んで頂いてありがとうございます。
それに、実は今回、覚如・蓮如の批判もありますので、またらくりんさんの逆鱗にふれ
一大論争になっても申し訳ありませんし。この点も、実は、肯定的意見を頂いて嬉しく
なっています。すみません。


「啓蒙」の用例点検 投稿者:らくりん  投稿日:04月22日(土)00時00分57秒

議論はすでに「初出」の文脈どうのこうのということではすまなくなってきていますが、
もし林遊さんの用法に問題があるとすれば、それを見落とした管理人にも責任があるこ
とになりますので、
気になって、この掲示板での「啓蒙」の語の出現箇所を確かめてみました。

>もっとも、自分の泥田圃の手入れ点検もせず、社会的行動を論ずる、エセ啓蒙主義者
>には辟易していますですが・・・・。
これが初出です。
この書き込みに反応して、私も何度か「エセ啓蒙主義者」という語を使っています。

私は、「啓蒙」という語の使用には、配慮が必要な場合があると思います。
しかし、文脈を無視して「差別語」だから、なんでもかんでもその語の使用はだめだと
いう短絡的な発想に与する気はありません。
「啓蒙」を用いることで問題が生じるような意味になることがあるとすれば、
それは、相手を「蒙」 と貶めるような意味に規定して、その「無知蒙昧性」を
「正してやる」というような使い方をする場合だと思います。
この「エセ啓蒙主義者」は許しがたいというような文脈は、その用法にはあたらないと
思います。むしろ、相手が人を見下したような態度をとるような姿勢を「啓蒙主義者」
に擬して、しかも「エセの」として、批判しているのですから、自らを見下される立場
に置いた視点からの使い方であると思います。
その意味では、それを擁護するような形で同じ語を使っている、私の用法の方が問題が
あるかも知れません。しかし、私の使い方も撤回しなければならないような問題がある
用法であるとは思いません。

次に
>世の啓蒙思想家は蒙を啓くと仰いますが、すくなくとも小生のような群萌は金輪際、
>坊主によって蒙を啓かれるなんてことはありませんです。
という形でも出て来ます。

この林遊さんの用法は、自分を「蒙」に位置付けて、さらにそれをも「蒙を啓かれるな
んてことはありません」という具合に否定する形をとっています。
この文脈も、私は何も問題だとは思いません。

このケースのような用法を否定するならば、
水平社宣言の
「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」とか
「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」というような、
被差別者が、おしつけられた差別の圧迫を跳ね返すために
自らに冠せられたレッテルを名のる形のような用法をも
否定しなければならなくなってしまいます。

文脈を無視して、本願寺派の基幹運動本部が、「啓蒙」は差別用語だから一律に使用す
べきではないと指導しているとしたら、それは完全に基幹運動本部の認識間違いだと私
は思います。おそらくそうではないだろうと思いますが……。

もしどうしても、林遊さんや私の書き込みに問題があると思われるのなら、
この書き込みをプリントアウトして、基幹運動本部に、判断を仰いでみたらいか
がかと思います。
もし、基幹運動本部の人が、この用法は問題だと判断されるのなら、
私はその方の人権問題に対する見識を疑います。


(無題) 投稿者:Vita  投稿日:04月21日(金)23時56分00秒

大願さんには実際にお会いしたことがあります。
林遊さんには旧FBUDにて、教えをいただきました。
共に、お世話になった方々であります。
勝手ながら、言葉を尽くしていただきたいと、思うばかりです。


尽くせぬ思い 投稿者:らくりん  投稿日:04月21日(金)20時44分26秒

あれこれ書いてしまって、複雑な思いで反芻しております。
尽くせぬ思いが残り、再びキーボードに向かっております。

私は、大願さんに「決めつけるのはよくない」「思い込みの傾向が強い」と
言いながら、自分でも、大願さんと林遊さんについて、
かなり一方的な評価をしてしまいました。それも、正反対の内容で、です。

林遊さんに対する、肯定的な評価は、憶測の部分が大きいです。
だから、本当のところはまったくわかりません。
しかし、よい評価をする場合は、かりにそれがまったくの見当外れだったとしても、
自分が失望するだけで、あまり、相手を傷つけずにすみます。

逆に、悪い評価の決めつけは、非常に相手を傷つけます。
特にネット上でのそれは、修復しがたいところにまで発展する可能性があります。
だから、私自身は慎重の上にも慎重でありたいと思っています。
私は、口数も字数も多いので、口や文字で災いを招くこと一再ではありません。

一方大願さんについては、まだまだ充分とは言えませんが、林遊さんと比較すれば
はるかに多くの情報を持っています。
その上で、かなり厳しいことを言っています。
それは、大願さんに対する、大きな期待の意味を込めて、
言わせてもらっているつもりです。
大願さんに対する厳しい言葉は、決してけなそうと思っているからではありません。
そこのところはどうか誤解しないで下さい。
ご迷惑かも知れませんが期待があるからこそ、言わせてもらわずにはいられない。

私は本当にどうしようもないと思った時には、まったく相手にしないのが常です。

林遊さんの書き込みには、一見「罵詈雑言」風の厳しいものが少なくありませんが、
決して特定の人物を想起させるような仕方では書かれてはいません。

ところが、私も個人名を挙げてクソ味噌に言う方なので、
大願さんのことを言えた義理ではないのですが、
〈自戒の意味も含めて〉言わせてもらいます。
この掲示板に限らず、私が見た範囲の他の掲示板の書き込みも含めて、
大願さんが人物を評価する場合は、誰のことを言っているのかがかなりはっきりしてい
ます。
しかもかなり「揶揄」的な含みが込められて。そういうやり方は、圧倒的な強者や権力
者に対しては必要なやり方だと思いますが、対等な立場で関われるネット上のやり取り
としてはちょっと考える必要があるのではないかと思います。

しかもその時「伝統教学者」「何々出身者」「何々に属する者」「何々経験者」……、
というようなレッテル貼りとか、「まるで何々のような」というの言い方がしばしば見
られます。(信楽ゼミOB、中央教修経験者、運動に取り組む者/教化者振る、石原知
事の如き、伝統教学者、反基幹運動派、恩寵主義者 etc.)
それは「くくり」の発想と言ってもいいと思います。前にも書きましたがそれは差別す
る時の常套手段です。差別ではなくても一方的なレッテルで「くくられる」ことは、
たいていの場合、くくられた側は「不本意」である場合が多い。

また、林遊さんに対して、「水戸黄門の見過ぎ」「権威を嵩に着た僧侶体質の典型だ」と
おっしゃっていますが、私は、
基幹運動を持ち出してその「権威」を利用しようとしたのは、
林遊さんではなく大願さんの方だと思います。

他の掲示板
http://www.ymg.urban.ne.jp/cgi-bin/jodoji/bbs/minibbs.cgi
http://ww2.enjoy.ne.jp/~chinei63/
などに書いてあった信楽先生の「聴石の会」の報告でも、
どのような質問の仕方をされたのかは知りませんが、「神祇不拝とお祭り」の問題を
質問されて、信楽先生から肯定的なご意見をいただいたということを、
「自慢気(私にはそう見えます)」に書き込んでおられる様子も、
私にはとても権威主義的に映ります。
少なくとも、この掲示板と〈神通寺BBS〉のログをすべて読んでいただいた上での話
ならまだしも、こういうやり方はちょっとアンフェアではないかと思います。
礼儀として、この問題の最初の土俵であった〈神通寺BBS〉には同じ報告を載せてお
くか、せめて書き込みをしたことのお知らせを書くぐらいの配慮はあってもいいのでは
ないかと思います。
またまた、尽くせぬ思いを残しながら……

掲示板の「読み」 投稿者:らくりん  投稿日:04月21日(金)18時12分33秒

>落鱗さんの書き込みに不審を拭いされずにいましたが……
KさんやNさんとお話しして、それがどのぐらい晴れたのかはわかりませんが、
電網掲示板の書き込みで、「不審」あるいは「不信」をどんどん自分の中だけ自己増殖
させていったら電網コミュニケーションは最後は「罵倒し合う」不幸な結末が待ってい
るのではないかと思います。

お互いに会ったこともない人間と、表情も口調も語気もわからない相手と対話している
わけですから、充分に慎重に、相手の人となりの判断は、話半分ぐらいに考えておくほ
うがいいのではないかと思います。

ここの来訪者の中にはご存知の方がいらっしゃると思いますが、
私も、ちょっと「おふざけ」のつもりで書いたことが引き金となって、
残念な結果になった経験があります。
だから、議論の相手を、善くも悪くもあまり早急に決めつけることは控えめにした方
がいいのではないかと思います。

大願さんとは、3度の顔を合わせたことがあって、数箇月間いくつかの掲示板を通じて
やり取りをしてきていますが、私はまだ大願さんの考え方や、人となりはよくわからな
い部分があります。
しかし、そうしたきわめて不十分な交流を通して推し量るに、大願さんは限られた情報
で、速断してしまう傾向があると言いますか、かなり「思い込み」の強い方であるよう
に思います。
相手の優柔不断さがもどかしいのかも知れませんが、ちょっと同意を求めることに性急
過ぎるのではないかと思います。

本願寺派の基幹運動について、私は詳しくは知りませんし、口を挟む筋合いではないの
ですが、この運動に対する大願さんの信頼の置き方にも、私は危ういものを感じており
ます。
そういう組織的な取り組みの重要性は否定しませんが、人間が作り出す組織的運動を、
あまり信頼し過ぎるのはどうかと思います。特に教団の制約を受けた中で行なわれるも
のに対してはなおさらのこと、慎重に関わらなければならないと思います。
私の個人的な位置取りとしては、常に批判的な眼差しを持ちながら、ケツを叩くという
スタンスのがいいのではないかと思っております。
本願寺派の基幹運動がどのような歴史を刻んできたか、詳しくは知らなくても、
こうしたことは一般論としてでも言えることではないかと思います。

具体的な問題は、大谷派のことについてだけにしますが、私は、教団的な取り組みとし
ては、大谷派の同和推進本部の水準はかなり高いのではないかと思っております。
私は大谷派の同和推進本部の取り組みを応援する気持ちは持っています。
しかし落胆させられたことは一度や二度ではありません。
それでも、つぶしてしまえなどとは思いません。
「もっとやれ、もっとやれ」という気持ちです。
そう言いながらも、
彼らの取り組みに対しては常に批判的視点を失ってはならないと思っています。
少なくとも、推進本部が言ったからどうのこうのという具合に、自分の主張の権威付け
のような形では使おうとは思いません。(権威に弱い人間にてっとりばやくに納得して
もらうために利用させてもらうことは時々ありますが)

>それを良いことにして、林遊さんのような僧侶が
は、わかっていてわざと書いているのかも知れませんが、
この掲示板の書き込みを読む限り、林遊さんは僧侶ではないことは明らかです。
そして、
林遊さんの、書き込みの語調や勢いと、「三河の坊さんの高圧的威し」とやらは、この
掲示板のこれまでの書き込みから私が判断する限り、まったく異質のものだろうと思い
ます。
林遊さんには、お目にかかったことがありませんが、
私の受けている印象では、尊敬すべき真宗門徒のお一人ではないかと推察しています。
これは、私にはかなり手ごたえのある直感です。
私の「読み」が間違っているかも知れませんが、
この直感が外れていないことを願っています。

掲示板は文字情報がすべてではありますが、しかしながらもう少し読みようがあるので
はないかと思います。画面に現われた文字情報を通して、もうちょっとこの方の書き込
みの意図を読んでいただいてもいいのではないかと思います。

大願さんとの私の間には、このような私の「手ごたえ」に対する信頼感を持っていだだ
けるような関係は、ないかも知れませんので、この書き込みによって、大願さんの私に
対する「不審」あるいは「不信」がさらに増幅するかも知れませんが、
それを覚悟の上で、書かずにはおれませんでした。

これは今回の一連の「お祭り」の議論や、この掲示板の書き込みを通して、
現在抱いている私の正直な感想です。
意を尽くせない点は多々ありますが、お汲み取り下さい。


「神祇不拝」について。「啓蒙」について。 投稿者:大願  投稿日:04月21日(金)16時19分24秒

落鱗さんの書き込みに不審を拭いされずにいましたが、昨日、落鱗さんと親交のある
大阪平野のKさん、泉大津のNさんと、この件に関して落鱗さんの真意は何かと言うことを
お話しました。様々な行き違いを掲示板書き込みでは限界を感じています。Kさんの解釈を
直接面と向かって聞かせていただくと、多くの気づきを頂きました。

再度「啓蒙」の差別性について
林遊さん。それって脅しですか。まさに石原発言の居直りにそっくりですね。
本願寺という権威に問い合わせると脅せば、私がしっぽを巻くとでもお思いですか。
あなたは、どれほど基幹運動について理解されているのですか。批判的な伝統教学者が
なにも確認せずに、脅すのは笑止です。
水戸黄門の見過ぎではないですか?
>差別なる意味を本当におわかりになっての、御発言でありましょうね。
この高圧的な発言こそ、権威を嵩に着た僧侶体質の典型です。
本願寺の基幹運動で学んだものの一人として、私も同意見だからこそ書いているのです。
啓蒙はよくて、三国人がなぜいけないのか判らないということです。

>もちろん小生としては、論義の公平をきするために、我が国の「一宗教団
>体」である浄土真宗本願寺派の一部門である、基幹運動本部に対し「啓蒙」
>なる語が差別用語であるか否かの問い合わせをするつもりです。

脅しているだけでなく、先にそれをやってから書き込んでください。
問い合わせた結果を歪曲することなく、必ず正直に明確に書いてください。国会答弁でなく。
それも即座にお願いしたい。
基幹運動への認識を改めて、見直して頂ければ幸いです。
因みに、中央教修128回で厳しく指摘された事ですので、問い合わせは
この中央教修での内容として質問されることを望みます。
他の回でもこの件が取り上げられているかどうかは不明です。
ま、実践が伴わないのが伝統教学の得意技ですが、あなたは拳を振り上げた以上
それをどうするか見物ですね。
今度はどんな言い訳で高圧的に出てくるかも、楽しみです。(^-^)

>そう考えると門徒も僧侶も同じ御同朋、御同行ではないでしょうか。
この言葉もよく聞きます。時にはヒンズーのバラモンのように高圧的になっておいて、
時にはこうした言い方をよくしますよね。昔から僧侶には一目置いて、檀家にさせてもらって
いることに感謝するという習慣が三河には有ります。僧侶に向かって返答を返す門徒は
殆どいないのです。(西では)
それを良いことにして、林遊さんのような僧侶がますます横柄に振る舞います。(西三河では)
そんなわけで林遊さんの高圧的脅しに慣れっこで、申し訳ないですが、それほど恐れません。


続大願さんへ 投稿者:ootubo  投稿日:04月21日(金)06時11分25秒

 僧侶とは何か、仏弟子を名乗るもの。
 仏弟子であるという自覚は僧侶にならなくても持てます。
 あえて僧侶になるのは仏弟子の立場を明確にしたい人か、
寺院の維持管理に僧侶の資格が必要な人ではないでしょうか。
 そう考えると門徒も僧侶も同じ御同朋、御同行ではないでしょうか。


re:謄写版!! 投稿者:お留守居役様  投稿日:04月20日(木)12時15分47秒

>「ボールペン原紙」が出て来て、「鉄筆・やすり」とおさらば。
でも、やはり「鉄筆・やすり」の方が、仕上がりが良かったような。。。
同人雑誌を作ってましたが、両面印刷に頁を割り振るのが難しかったです。
活字印刷なんて夢のまた夢。あこがれでした。
後年、ワープロで印刷できたときは感激しました。
文字を書くこととその文字を印刷することの感動を忘れないようにしたいものです。

>輪転機は簡単に使える場所にはなかった。
輪転機は失敗が多かったので、手押しのローラーを使っていました。
どうしてもインクで汚れてしまうので、手のきれいなヤツと二人がかりでした。

>自分のノートを謄写版で刷って、友達に売って生活費の足しにしていたやつもいた。
幕末の勝海舟は、オランダ語の辞書を借りてきて、
写しを2冊作って、1冊を売って生活費に当てたことがあるそうです。

謄写版時代のことを思い出して、月並みですが、
初心忘るべからず、とシミジミ思いました。


謄写版!! 投稿者:らくりん  投稿日:04月20日(木)10時50分43秒

>これは、手動式の謄写版の原紙を鉄筆で切る(書く)仕事です。
「謄写版」「原紙」「鉄筆」「やすり」懐かしい響きがありますね。
中学校の卒業文集の時は、まだ使っていたように思います。
高校の時ぐらいに、「ボールペン原紙」が出て来て、「鉄筆・やすり」とおさらば。
大学1〜2年のころは、まだ、謄写版を使っていた。
その頃の作品がまだどこかにしまってあるはずだから間違いない。
輪転機は簡単に使える場所にはなかった。
コピーが学生街に登場し始めたのは、2〜3年生の頃。
しかし最初は一枚30円とか40円で、ラーメンが200円しない頃の話ですから、
今の物価感覚から言えば1枚100円以上かも。コピーはとても貴重品でした。
借りたノートは、まだ手で写していたように記憶しています。
だから、写すだけでもけっこう勉強になりました。
自分のノートを謄写版で刷って、友達に売って生活費の足しにしていたやつもいた。


大願さんへ 投稿者:ootubo  投稿日:04月20日(木)08時03分14秒

 私は、まこさんの発言は強要とも真宗の立場としても受け取ってはいません。
 一個人の発言として受け取りました。
 大願さんは、「門徒」と「僧侶」を区別されているのではないでしょうか。
 私は、門徒も僧侶も御同朋、御同行とおもっています。
 僧侶とは何か、仏弟子を名乗るもの。
 出勤時間がきましたのでここまで。


石原知事発言について 投稿者:まこ  投稿日:04月20日(木)04時15分58秒

 石原知事発言に関する私の抗議の呼びかけに対して批判が書かれていますので、
私の考えるところを書き込ませていただきます。

>以前、
>>石原知事発言に抗議しよう!
>と、あちこちに同じ文面の書き込みが有りましたが、この趣旨は何でしょうか。
 重大問題と受け止めて、抗議行動が必要だと思い、抗議先を紹介しました。

>抗議のカウンターを増やして、それを世論として築こうと言うのでしょうか?
>投稿の数を増やしてそれが何でしょうか。
 現実に石原知事発言を支持する声が過半を占めているらしいという状況は私に
は危機的状況だと思い、出来ることから始めてみたらという呼びかけです。数が
ものを言う世界も世間にはあります。

>抗議するか、しないかは、各人の念仏の立場からの決断で行うことで、何でもか
>んでも抗議せよと、教化者ぶるのはやめて頂きたい。
 教化者ぶってはいません。民主主義の危機としての呼びかけです。真宗系掲示
板で呼びかけたのは、私が現時点で巡回しているからであって、他意はありませ
ん。抗議するかどうかはもちろん各自が決めることで、それを逐一チェックする
ことはもちろんできないし、そのような考えもありません。

>それでは選挙に「○○党を入れるべき」と三色旗を振りながら
>公言してはばからないどこかの宗教集団と何も変わりません。
 そうですかね。私の呼びかけ方は創価学会と同じでしょうか?

>真宗の立場からすれば、石原発言は問題であるのは明らかかも知れないが、
>あの抗議文には真宗のことは何一つ書いてない。民主主義や憲法の立場から
>の記述のみであることに落胆します。これはいかに念仏が生活に密着してい
>ないかの一つの証明です。
 念仏者以前の民主主義者でしかない私の至らなさと懺悔するしかありません。

>また、抗議するかしないかは、個人個人の問題であり、みんなそうすべきであ
>るというPRはいかがなものか。真宗門徒はこぞって聖戦に協力すべきと旗を
>振ったあのときを思いだします。
 各自の問題ですが、抗議先を紹介することもいけないのでしょうか? 「みん
なそうすべきである」とは少なくとも主観的には書いてないつもりでした。

>マスコミに軽々に反応して、事実なにも把握しないうちから、決めつけて、
>数稼ぎの為にその抗議行動を他へ協力要請するかのごとき書き込みはいかが
>なものか。
 軽々には反応していません。翌日以降の新聞記事や歴史地理教育関係のML
から入手した情報を元に、急いで対応する必要があると判断して、私が関係す
る掲示板に転載・紹介しました。同じ文面を複数同時に投稿したことへの批判
であるならば、甘んじて受けます。

>因みに私は、石原発言には大いに憤りを感じていますが、それへの抗議を強
>要されると「待てよ」といいたくなります。それは民主国家や憲法以前の問
>題としての公憤です。
 どの点が「それへの抗議を強要」しているのでしょう。同時に同じ書き込み
をしたことが、「強要」にあたるのでしょうか。同じ書き込みを読まされて辟
易されたという意味でしょうか? それとも、私には抗議を呼びかける資格が
ないということを言いたいのでしょうか?

>神祇不拝では真俗二諦を器用に使い、この抗議勧誘では見事に教化者の威光
>を高く掲げている、この二元性には首を傾げてしまいます。口癖の「軸足」
>はどこに置いているのだろうか?
 高山祭り見学を神祇不拝に反するとする立場からは、私が真俗二諦を器用に
使い分けていると映るのかもしれませんが、不器用な私にはそのようなことは
できません。「教化者の威光」が私にあるのでしょうか? 私は生活者の視点
からものを考え、行動していきたいと思っています。なかなか仏法に定まらな
い軸足に悪戦苦闘していることをわかっていただけないのは残念です。

 大願さんは私に対していったい何を言いたいのですか? 大願さんは石原発
言に対してどのように行動なさる(なさった)のでしょうか?


らくりんさん、 投稿者:お留守居役様  投稿日:04月20日(木)01時40分00秒

お墓についての率直な書き込みに感嘆しております。
私は、人間社会の重層性ということから
必ずしもお墓を否定するつもりはなかったのですが、
行きがかり上、神祇とからめて問題にしたしだいです。
本日は乱文を連発してしまい失礼しました。
お休みなさいませ。


re:古書店を検索したら  投稿者:お留守居役様  投稿日:04月20日(木)01時15分13秒

三浦つとむさんは
1911年(明治44年)生まれで、
1989年(平成元年)にお亡くなりになっています。
今で言う高校中退で、以後は全くの独学です。
ガリ版製版で生計を立てていました。
これは、手動式の謄写版の原紙を鉄筆で切る(書く)仕事です。
コピー機もプリンターもなかった時代の職業です。
1950年(昭和25年)にスターリン言語学を批判したので、
1951年(昭和26年)に日本共産党を除名されています。
吉本隆明さんの友人であり、協力者でした。

先に紹介しました
『弁証法はどういう科学か』は、1955年
『日本語はどういう言語か』は、1956年
『レーニンから疑え』は、1964年に初版本が出版されています。
主著である
『認識と言語の理論』三部作は、
第1・2部が1967年、第3部が1972年に出版されています。


Re:「真宗では」使わないを、訂正します。  投稿者:林遊  投稿日:04月20日(木)00時45分31秒

大願さん、ども、越前の徒林遊(りんゆう)です。

大願さん、あなたさまは

>>
啓蒙を何の抵抗もなく使って開きなおる神経は、問題の石原発言と五十歩
百歩のような気がします
>>「改行位置変更」

なる書き込みが、小生の生きざまに対し、どのような意味を持っているか、
よ〜っく、ご承知の上で発言なさっておられるのでしょうね。

私信ならいざ知らず、公開された場での発言と言うことを重々ご存じの上
での発言でありましょうや。「啓蒙」なる語は小生の書き込みが初出であ
りますから、よもや間違いはないと思いますが、差別なる意味を本当にお
わかりになっての、御発言でありましょうね。

「本願寺派の基幹運動本部では」なく、お同行を恩寵主義者と批判なさる
あなたさまの、あなたさまによるご見解を是非ともお伺いいたしたく存じ
ます。
そして、小生の発言が、「問題の石原発言(石原氏個人ではない)と五十
歩百歩」なる根拠をお示しいただければ幸いです。

もちろん小生としては、論義の公平をきするために、我が国の「一宗教団
体」である浄土真宗本願寺派の一部門である、基幹運動本部に対し「啓蒙」
なる語が差別用語であるか否かの問い合わせをするつもりです。

すこしきつい表現かも知れませんが、「前に生れんものは後を導き、後に
生れんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲
す。無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり」との大願さんのお言葉ゆえ
あえてのお問い合わせです。

			なんまんだぶ    なんまんだぶ  称名相続 ...


三国人とはだれか 投稿者:お留守居役様  投稿日:04月20日(木)00時30分25秒

以下は一都民の立場からです。

保守派のホンネめかした発言に対して、
進歩派の杓子定規なタテマエ的な批判という構図は、
相変わらずのことだと思いました。
どちらも硬直していて、柔軟さや情緒的な含みがないと思います。

使っていけない言葉はないと思っています。
人を不愉快にしたり、差別したりする言葉も
不愉快にしたり、差別したいときに使うのは当然のことです。
憎み嫌う人を肉体的に傷つけることができないとき、
言葉で傷つけようとすることはよくあることです。
ただし相手を間違えてはいけません。
石原都知事は、相手を間違えていると思います。
また、言葉は抽象的・一般的に使われますから、
特定の対象だけを指しているつもりでも対象外ものまでも含んでしまいがちです。

さて、第三国人ですが、言葉の本来の抽象的な意味は、
当事者以外の国の人という意味です。
第三国というときは、
「紛争当事国に対して、第三国が調停に乗り出した」
というふうに使います。
しかし、第三国人・三国人という言葉には、歴史的に特定の意味があります。
それは、我が国の敗戦後に、日本という敗戦国と
主としてアメリカという戦勝国以外の国の人は、第三国人ということになりましたが、
この第三国人には経済的な特権が与えられました。
進駐軍という虎の威を借りて横暴な振る舞いをしたり、
特権的に利益を上げている人たちを第三国人のくせにと、
侮蔑的に呼んだのです。
敗戦国ではあっても、プライドを捨てきれなくてだと思います。
また、アメリカには負けたけれども、中国や朝鮮に負けたとは思わなかったのです。
肩で風を切って歩いている人を「あれは三国人だよ」と陰で言ったり、
「あの店は三国人の店だよ」などといいながら利用していました。
つまり第三国人・三国人という言葉には、
敗戦国民のねじれた、屈折した、うらみ、ねたみ、屈辱の心情が反映していたのです。
この心情は、醜くて、美しくはありません。
できれば持たない方がよいです。
けれども現実的な力に対抗できないとき、
せめて心情的に優位に立ちたいと思うのはやむを得ないことでもあります。
情けないし、悲しいことですけど。
このような不幸な情況がなくなったのちは、
三国人という言葉は、使われなくなったと思います。
つまり、三国人というのは、敗戦直後に特定の中国・朝鮮人を名指した言葉であって、
一般的に中国・朝鮮人を言う言葉ではなかったと思います。
端的に言えば、裕福な中国人を三国人と呼んだことはあっても、
貧しい中国人を三国人とは言わなかったと思います。

さて、石原都知事は、「不法滞在している三国人」と言っています。
犯罪を犯す外国人という意味で使ったつもりのようです。
第三国人と言うからには、当事者以外の第三者でなければなりません。
しいて言えば、日本人と良い外国人以外の
悪い外国人を第三国人と言いたいのでしょう。
これは正しい言葉の使い方とは言えないと思います。
あくまでも日本人と外国人がいて、
その外国人の中に良い外国人と悪い外国人がいるのですから。

また、この発言を批判しているマスコミも
三国人という言葉は、
一般的に中国・朝鮮人を差別して侮辱する言葉だと思っているようです。
これも間違いだと思います。
同様に、関東大震災のときの朝鮮人虐殺をいう人がいますが、
大正時代に「三国人」なんて言わなかったでしょう。
まだ戦争が始まっていませんから、戦争当事国がいないのに
第三国が存在するわけがありません。

さらに、石原都知事の発言を支持する、一般からの電話や投書があるそうですが、
これは、暴力スリ団やコンビニ強盗だけでなく、
騒音問題など傍若無人に振る舞う一部の外国人に対する反感が、
敗戦直後の「第三国人」に対する感情と共通するものがあるからではないでしょうか。
当時も、警察は「第三国人」には手が出せず、
暴力事件を取り締まれなかったと聞いています。
現在も警察は、なかなか取り締まってくれないという思いがあるようです。
この庶民感情は、それなりに正しいと思いますが、
一般的に外国人を三国人と名指すことによって、
差別意識を持つようになるおそれはあると思っています。
でも、第一と第二がないのに第三なんて言うはずがないと思うのですが。。。


re:石原発言で思い出しました。  投稿者:お留守居役様  投稿日:04月20日(木)00時19分08秒

>真宗の立場からすれば、石原発言は問題であるのは明らかかも知れないが、
>あの抗議文には真宗のことは何一つ書いてない。
>民主主義や憲法の立場からの記述のみであることに落胆します。

私の言う「コップの中で争うべきである」と同意見でうれしいです。
「真宗の立場を忘れるな」ということですね。


『啓蒙とは何か』 投稿者:お留守居役様  投稿日:04月20日(木)00時07分50秒

「啓蒙」を辞書で引かれたそうですが、
漢和辞典はごらんにならなかったのでしょうか。
「蒙」という文字は、草ぼうぼうからきていて
「くらい」という意味だそうです。
たしかに「蒙古」というのは、貶めた国名ですね。
「卑弥呼」や「奴国」と同じ中華思想の常套句ですね。
だからといって「蒙」の字を使うなというのは、
後先が逆で、乱暴な話じゃないでしょうか。
「蒙昧」とかもダメなのでしょうね。
とすると、「黒人」は差別用語だから今後一切
「黒」という言葉は使わないということになりますね。
「黒豆」は「白の反対色豆」とでも言うのでしょうか?
あっと、「白」も「白痴」とか危ない言葉ですね。

ドイツの哲学者カントは、当時文化的後進国であったドイツ国民に向かって、
フランス、イギリスなどの先進思想を「啓蒙思想」として紹介しました。
別の言い方をすれば、後進国ドイツを代表して先進思想を受容すべく書いたのが、
『啓蒙とは何か』です。
つまり、「啓蒙主義」とか「啓蒙思想」というのは、
後進国ドイツでの言い方です。
先進国ではガリレオ以来「新科学」と自称していました。
我が国でも福沢諭吉など啓蒙思想家と呼ばれていますが、
ドイツでも日本でも後進国である自国を「啓蒙」する主張だったのです。
ですから他国を貶めるときに「啓蒙」と言ったのではないのです。


古書店を検索したら 投稿者:らくりん  投稿日:04月20日(木)00時03分25秒

三浦つとむの本が9冊見つかりました。 ほとんど60年代の本ばかりでした。
新しいものを取り寄せてみます。

ありがとうさん。


あれ、 投稿者:大悲  投稿日:04月19日(水)23時14分58秒

カウンターが動かない(T_T)


499 投稿者:大悲  投稿日:04月19日(水)23時13分48秒

いや、500が欲しいだけ


三浦つとむさんの代表作 投稿者:お留守居役様  投稿日:04月19日(水)22時54分37秒
失礼しました。
三浦つとむさんは、
世界で最初にスターリン主義を批判した人ではなくて、
理論的に中ソ論争を予言した人でした。

一番のお奨めは

『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/Scripts/bookclub/bookslink/bookslink.idc?isbn=ISBN4-06-115559-8


言語学に興味がおありでしたら、入門書をよそおった名著

『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/Scripts/bookclub/bookslink/bookslink.idc?isbn=ISBN4-06-158043-4


絶版で手に入りにくい「レーニンから疑え」芳賀書店を収めた

『レーニン批判の時代』(三浦つとむ選集・勁草書房)
http://www.populus.est.co.jp/asp/booksearch/detail.asp?isbn=ISBN4-326-14815-2


開設1週間目のごあいさつと御礼 投稿者:らくりん  投稿日:04月19日(水)22時44分25秒

この掲示板がオープンしたのは4月12日の夜ですから、今日でまる1週間です。
〈真宗BOARD〉の常連さんがあいさつぐらいには来てくれるだろうとは思っていま
したが、そうした予想は2日目ぐらいに吹き飛んでしまいました。
わずか7日で書き込みは72件、来訪者カウンターも早500に近づいております。
次から次へと新手の来訪者や書き込み者も現われてくださり、
なんともはや賑やかなことで、管理人冥利につきます。

管理人としてのテクニカルな知識はほとんどありませんので、〈真宗BOARD〉と
〈おきらく〉の管理人のVitaさんに初歩的な質問をしながら、どうにかやっています。
今後とも、よろしくお付き合いのほどを。


「真宗では」使わないを、訂正します。 投稿者:大願  投稿日:04月19日(水)13時33分14秒

どうも、お東さんでは、問題ないと開き直られているようですので。
「真宗では」ではなく、「本願寺派の基幹運動本部では」ということに訂正させて頂きます。
経典にさかのぼって、難しい単語についてどうかと言われても、知識不足で返答できません。
ただ、啓蒙については、気づいたところからやめていこうという、基幹運動の姿勢を私は
否定したくありません。経典にも宗祖の書かれたものにも差別語は確かに有りますが、それはその
時代背景の限界である場合もあります。だから、現在の差別語は使っても良いのだとひとくくりにして
良いものかどうか……。啓蒙を何の抵抗もなく使って開きなおる神経は、
問題の石原発言と五十歩百歩のような気がします。
ま、差別教団が差別語を規制する前に、教団体質を問うべきだと反論されれば、
グーの音もでませんが……。


変化する言葉 投稿者:大悲  投稿日:04月19日(水)13時08分10秒

啓蒙について、「蒙古を啓するの義で差別語」との書き込みがありました。
けれども、言葉は変化します。
故事によって出来上がった言葉が、原義とは違う意味に使われるようになる事は珍しい事ではなく
現に一人歩きをはじめてしまったものを、元に戻す事は出来ません。
先日「アノ人は、切れる人だね」との言葉を「キレル」と聞いて勘違いしたことがありました。
また「目線」はすでに一般語になっています。「全然大丈夫」も耳慣れてしまいました。

さて、真宗では「啓蒙」は使わないとのことですが、
そういう「言葉狩り」をしないほうがいいと感じます。
現に林遊さんの書き込みも「門徒=教化される側」「僧侶=教化する側」という関係を
否定されての文章です。一緒に法を聞かせていただくのでございましたね。
一緒に仏徳を讃嘆させていただくのでございましたね。

言わなくてもいいことかも知れませんが、最近「他力」の誤った用法に一々訂正を求める事に
疑問を感じ始めております。仏教語としての「他力」の用法はそうであったとしても、
「棚ぼた他力」は一体どこから来たのでしょうか。
私たちの言わずもがなの日暮らしが、ご信心を欠いた生活になっているから生まれた言葉です。
「依存他力」といわれても仕方がない生活を今までしてきているんですから。

それにしても石原東京都知事は、言葉を確信犯的に使っていますね。
今回の「三国人」にしても「シナ」にしても「他力」にしても。
言葉に自分なりの定義づけを一々しているのは、文章家として落第だとは思います。


お留守居役様さん、 投稿者:らくりん  投稿日:04月19日(水)08時04分38秒

ありがとうございます。
私は、「スターリン主義」という語は、聞いたことはあるという程度で意味するところ
はほとんど知りませんでした。だから「認識のずれ」というよりも、私の無知と言うほ
うが正確です。

>多元的な価値を認めず、一つの原理で至上命題に直結させる論理をいいます。
という意味であるなら、お留守居役様さんの指摘批判は「ごもっとも」であると言わざ
るを得ません。そして人格崇拝的信仰に限らず、信仰は少なからず「真理経験」とでも
言うべき陶酔的な状態を生み出すことは間違いありません。そしてそれは現実的現象と
しては、おそらくお留守居役様さんの言う意味での「スターリン主義」、原理主義的な
思考パターンと似通った問題を引き起こしてくるのではないかとと思います。

そして親鸞は、少なくとも人格崇拝的な信仰陶酔の問題性には気づいていたと思います。 
化身土巻で『阿弥陀経』の説法の意味と第20願に基づいて確かめているのではないか
と思います。その危険性を知りつつ、一方ではそれを勧めています。
毎度の逃げ口上で申し訳ありませんが、第W巻を待って下さい。

親鸞は、墓や先祖崇拝についてはほとんど何も言っていませんが、お留守居役様さんは
先刻ご存じの通り、「死んだら川に流せ」とか「亡き父母の供養のために念仏したこと
は一度もない」と言う語録が少し残っている程度です。
ですから、今日私たちがやっているような「死者産業」とでも言うべきあり方について
は厳しく批判することは間違いないだろうと思います。一言もございません。

私は苦し紛れの言い訳めいた、こじつけ的説明をすることがあります。この地方の真宗
のお墓の墓石には「○○家の墓」というような碑銘ではなく、「南無阿弥陀仏」と刻ま
れています。言うまでもなく私たちの本尊です。ですから、形式としては、墓参りは先
祖に向かって合掌礼拝するのではなく、本尊に向かって仕組みになっているわけです。
だから私たちの先輩たちは、子孫が先祖供養の習慣を持ち続けることをお見通しで、そ
れでも、墓石に本尊を刻むことで、本尊に合掌礼拝する形式を残して下さったのではな
いかと。
  これは、あくまでも私の苦しい「こじつけ」ですから、これについては根拠もあり
  ませんし、どちら様も、あまりつっこまないで下さい。
私はずっと、真宗の墓は全部「南無阿弥陀仏」と刻まれているものと思っていましたが、
近年あちこちに出向いた時にお墓を見て、必ずしもそうではないということに気づきま
したが、

親鸞は、現在の寺院の形態と運営の現状についても否定的な見方をされるだろうと思い
ます。
しかし、
「お寺参り」については、私は否定的には考えていません。
少なくとも私たちの地域では、「お寺にお参りにいく」ということは、「お説教を聞き
に行く」ということを意味する習慣がまだ少なからず残っているからです。
お寺は地域の中で聞法の場とか集会所という機能を果たしてきました。私の子どもの頃
はお寺とは言わずに「道場」と言う方が一般的でした。その機能は重要でしたし、今で
も北陸ではまだかろうじて残っています。その役割をもう一度取り戻すことは私にとっ
ての大切な課題の一つだと思っています。

三浦つとむさんの本、書名、出版社を教えて下さい。
すぐによめるかどうかわかりませんが、関心があります。


スターリン主義批判 投稿者:お留守居役様  投稿日:04月19日(水)00時30分05秒

三浦つとむさんは、世界で最初に純理論的に
マルクス主義の立場からスターリンの言語論を批判しました。
当時はまだマルクス−エンゲルス−レーニン−スターリンという系譜で
世界中のマルクス主義者からスターリンが尊敬されていた時代にです。

三浦さんの著作で、私が興味深く読んだのは、
「レーニンから疑え」のなかの真理論です。
「相対的真理が集まって絶対的真理となる」
というロシア・マルクス主義=スターリン主義の真理論は誤りであることを
主としてエンゲルスの「反デューリング論」を引いて批判しています。

真理は、ある条件下で成立するものなので、
その条件を無視して、度はずれに拡大すると、
真理は誤謬に転化してしまう。
真理は、それぞれ特定の次元の中で成立する。
別の次元では、誤謬になってしまう。
逆に言えば、誤謬も次元が異なれば真理となる。

なにかと評判の悪かったエンゲルスを三浦さんの紹介で読み直したものです。
わたしは、上野千鶴子さんよりも三浦さんをお奨めします。
マルクス主義ってこういう考えなんだと
目から鱗が落ちることを保証します。


(無題) 投稿者:林遊  投稿日:04月18日(火)23時50分46秒

大願さん、どうもはじめまして、越前の一門徒林遊(りんゆう)です。

小生の書いた、似非啓蒙主義者なる文言が貴兄の感情を害したことは
重々お詫びいたします。
しかし、蒙を拓くなる熟語が「差別用語」であるから使用を止めるよ
うにとの御発言には首肯し難きものを感じております。
婦人なる語が女+箒であるから「婦」と言う語の使用を止めるように
との事でありましょうか。また「如来」なる語の「如」が女は人の口
からの言葉に良く従うという意であるから「如」(ごとし)なる語の
使用を止めるようにとのことでありましょうか。

もっと直接的には、浄土真宗(教団名ではない為念)所依の教典に使
用されている、貧窮、乞人、厭悪女身、諸根闕陋なる語の使用も、差
別用語であるから止めるようにとのご指摘でありましょうか。

「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」という御法義であるのにも関わらず、
確かに末弟の馬鹿坊主アホ坊主の、血塗られた歴史があることは重々
承知しております。「寺族」なる摩訶不思議な生き物がいまだに棲息
していることも事実でありましょう。(こりゃあ差別だな「自戒」)

確かに戦時教学なるものは、なにおかいわんやではあります。しかし、
このように時流の嵐を堪え忍んでまで、この御法義を伝えようとしな
さった先人の苦労に想いを馳せるのも、一点曇りなき御法義を讃歎、
聴聞できる現在の小生達の楽しみごとではありませんでしょうか。

仏智深きがゆえに、己の想い、感情を軽しとする道もこの御法義には
用意がされているのでありましょう。

早い話が、馬鹿な坊主は放っておけばよいのです。我が浄土真宗(教
法名)には僧伽(サンガ)なるものはありません。
御開山聖人は「三宝といふは、一には仏宝、二には法宝、三には僧宝
なり。いまこの浄土宗は仏宝なり」(末灯鈔東派p604:西派P756)
と仰っていますね。

「依」るべき所は、弥陀であり、弥陀所証の真実報土・浄土を「帰」
する所を宗(むね)として名号、なんまんだぶつを称えて生きて来い
ということでありましょう。本願為宗、名号為体がこの御法義であ
りましたですね。

また、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人
がためなりけり。」(歎異抄)とも仰せのように、主体的自我なるも
のをひとりなる位相で本願海に没入・解体なさっていきなさったのが、
御開山でありましたですね。

我は何を為すべきかではなく、我は何を為されたかに着目して下さっ
たのが、祖師方であり浄土を「真」とする御法義でありましょう。
小生のくだらない経験を記せば、浄土と声になったなんまんだぶつを
自己のものとして受け入れた時、とてつもない如来の「信」の領域が
拓かれてくるのかも知れませんですね。

「寺は眠っていては駄目だ!。眠らせておく門徒も悪い!」と仰った
方がいらっしゃいましたが、せめて、行いによってではなく、生まれ
によって坊主とならなければならなかった方たちに「あわれみをなし
不便(ふびん)におもうて、念仏をもねんごろに申して」さしあげま
しょうよ。たとえ坊主といえ御同朋、御同行ではありませんか。

                なんまんだぶ    なんまんだぶ  称名相続 ...



「高山祭り見学」論争の感想 投稿者:まこ  投稿日:04月18日(火)23時36分10秒

 数日、不在の間に議論が沸騰していて、予想を超えた展開となっていました。
「高山祭り見学」問題の当事者として、議論に参加していただいた皆さんに感謝
いたします。議論はほぼ収束しているので、私の当初の書き込みに付け加えるこ
とはあまりありません。しかし、私のハンドルネームを引き合いに出しての大願
さんの批判には最低限の応答をさせていただきます。

>落隣さんとまこさんと華光会の方から総すかんかも知れませんが、
 私は積極的な反論をしないまま高山に出かけてしまい「すかん」をした覚えは
ありません。華光会をここで引き合いに出すのは筋違いということはすでに指摘
があった通りです。この掲示板には所属を問わない個人の立場での参加が望まし
いと私は思っています。

>勝ったとか負けたでなく、問題提起に皆さんがどれだけまじめに取り組むかな
>のです。
 そのつもりで私も恥をさらして「高山祭り見学」の是非を問題提起したつもり
です。

>まこさんの件は「真宗に帰依すれば、神社参拝の必要はない。良いとか悪いと
>かでなく、行けなくなるはず」と口で言っていて、それと実行面が異なってい
>るのは何故かと問いかけたものです。
 私がすでにそのように信心を獲得した段階にあるということは明言した覚えは
ありません。池田勇諦氏の口癖を大願さんに伝えたことはあるでしょうが、それ
だからといって、その通りに私が言行一致できていると受け取られたとすると、
私の表現力が不足していたことについて、反省させられます。

>私は個人的にまこさんを存じ上げているからお尋ねしたまでです。
 私の方も個人的に大願さんを存じ上げているので、つつかれるであろうことは
覚悟しつつ、「見学」することも許されないことなのかを疑問に思って問題提起
したつもりでいます。

>人のことをとやかく言うなとのことですが、僧侶の言行はかなりの影響力が有
>ることを自覚して頂きたいのです。少なくとも言行一致の姿勢をお願いしたい
>ものです。
 少なくともと簡単に書かれますが「言行一致」している方が僧俗問わずにいら
したら、ぜひお目にかかりたいです。僧侶である私の言行が大願さんにかなりの
影響力があったらしいことはわかりましたので、以後は私が出来ないことは私は
出来ないと書くようにします。

>言い訳に「煩悩具足の凡夫」と卑下慢に逃げ込むなんて、卑怯ですよ。
 「煩悩具足の凡夫」は決して卑下慢(ってどう言う意味ですか?)ではなくて
私たちの現実の姿だと思います。欠点のない人間、言行一致の人間がいたらお目
にかかりたいものです。

>相撲の儀式についても、ことあるごとに問題視して、指摘していくべきことです。
 相撲自体を否定すると言う意味でしょうか? 具体的にどのように相撲につい
て問題にされようとするおつもりなのか見えません。

>それは真宗門徒となりたいかどうかです。飯の種に影響有るから、黙っておこ
>うという僧侶に何を言っても馬耳東風です。まこさんがそうでない事を期待し
>たのが、あえて言えば「勇み足」でしょうか?
 私に何を期待されていたのかわかりませんが、勝手に期待しておいて、それに
裏切られたと書かれても困惑するしかありません。僧侶の資格を持ってたかだか
5年の私に過剰に期待されても困ります。私は私のペースで真宗門徒になってい
きたいと思っています。今は無理でも、明日は可能になっていくものと信じてい
ます。でなければ、僧侶なんてやってられません。

>真俗二諦の生活が先にあって、それに宗祖の教えを後付けするようでは、あま
>りに宗祖を狭小化してしまいます。まこさんの件が、なぜこの掲示板でこんな
>に論争になったのか不明ですが、まこさんが、あちこちで自らの正当性を書き
>んでおいでなのを、一番詳しくフォローされた掲示板がここだったと言うこと、
>不毛な議論になりました。
 断っておきますが、この件に関しては私は「あちこち」には書き込んでいませ
んし、ただ単に「問題になっていて困惑している」という意味での書きこみを3
つの掲示板(ここと神通寺と私のと)に書き込んだのが経緯です。ここで論争に
なったのは大願さんの問題提起が刺激的であったからであり、決して不毛な議論
であったとは思いません。「神祇不拝」を現実に貫くことがいかに大変であるか
を良く示した議論ではなかったでしょうか? 私が議論の火付けをしたことにな
るかもしれませんが、その後の展開にはいっさい関与していませんので、あえて
私を引き合いに出されていることの意図をはかりかねています。私に言いたいこ
と(書きたいこと)があるなら、私の掲示板か、メールでお願いします。

http://www.mirai.ne.jp/~makotom/nishi.htm


スターリン主義的仏教 投稿者:お留守居役様  投稿日:04月18日(火)23時26分55秒

コップの中で争うべきであるというのは、
仏教という立場を踏み外して、
国民や人類を代表すべきではないといったつもりです。
逆に言えば、
井の中の蛙も井の中を極めれば、大海を超えうる。
優れた国民文学にして初めて世界文学と言える。
というふうなことを念頭に置いていました。
言語は、国語としてしか実在しない。とか。

スターリン主義については、らくりんさんと認識が異なるようです。
スターリン主義は、確かに個人崇拝の意味もありますが、
私たちのサヨク常識では、
政治至上主義のプロレタリア文学論のような一元論を意味しています。
多元的な価値を認めず、一つの原理で至上命題に直結させる論理をいいます。
世界の重層的な構造を認めない思想とも言えると思います。
FF[で遊んだりするなんて、もってのほかと言われてしまうのでしょうね。

真宗は不廻向と聞いています。
一元論的に神祇不拝を言うのなら、
お墓参りやお寺参りをも批判すべきではないでしょうか。
さらに言えば、親鸞は、お寺やお墓についてどのようにいっているのでしょうか。

今回も論旨が錯綜していることをお詫びいたします。
私がどの様に考えているかよりも、
考えるきっかけやシゲキになればと思っています。


片鱗!? 投稿者:らくりん  投稿日:04月18日(火)15時16分23秒

坊さんなどには、一片の期待も持たずに、
それでもなお、坊さんのケツを叩き続けるというのがいいんじゃないですか?

嵐のようにやってきて、嵐のように去っていった林遊さんは、
最初は何者かよくわからず、警戒しましたが、
あれはどうも「照れやさん」なせるわざで、

「どうしようもないヤツらやなぁ。わしゃあ坊主なんかにゃなんも期待しとらん」と
言いながら、それでもなお「そんなことでどうする」とケツを叩き続ける、
林遊さんにはそういう姿勢を少なからず感じました。
私の知り合いの「最後の真宗門徒」を自称する大工さんの坊さん批判にも、
似たようなところがあります。
そうすることがまるで自分の使命であるかのように。
非常に奇特なことだとは思いませんか?

そこに愛情といいますか「大悲のほとばしり」と言いますか、そんなものを感じます。
ちょっと自虐的ですが、その芸風に、私はシビレるものがあります。

大願さんにも、少しだけほんの少しだけその片鱗を感じるのですが……


先の論争が不毛なのは 投稿者:大願  投稿日:04月18日(火)14時09分16秒

実は問題を感じながら曖昧なまま、現状肯定ばかりをしている人たちと、
宗祖の前で「真宗門徒となりたいと思う」かどうかをとい続ける人たちとの、すれ違いは
埋めるすべがないと言うことです。神祇不拝を否定して、みんな仲良く手を取り合っての方が
世渡りは波風が立ちませんから、僧侶もまた、そうであることはやむを得ないことなのでしょうね。
>当事者はかなり困惑して、もう少し強い表現をすれば辟易しておられたよう
>に推察しました。
そうかも知れません。でもあの方々は、以前からの書き込みでも判るように、恩寵主義に
座り込んでいるだけで、信心の社会性を否定されている方々です。私はそれらの方々に
向かって書き込むつもりはないのです。議論のすれ違いは事前に判明していますから。
三吉さん落隣さんのご指摘のとおり、僧侶に多くを望みすぎていて、その落胆をストレートに
書き込んだ私の反省するところです。僧侶に多くを望みすぎてしまうのは、悲しくも、やはり僧侶の
お取り次ぎによって仏法に出逢わせて頂くしか手法がないのです。
期待しなければ、僧侶は楽かもしれませんが、だったら、僧侶は何をする人なのでしょうか。
まさか葬式と先祖供養の法事だけでいい筈もありません。先に生まれた人は後に続くものを
導き、後に生まれたものは先に生まれた人の後に続く念仏相続が失われてしまいそうです。
後付のように
>「神社に参拝することと」と「神社に行くこと」は、全然意味が違います。そこを混同
>した議論をするから話がややこしくなるのです。
「李下に冠を正さず」です。門徒や檀家など周囲から視れば、同じように見えます。
少なくとも私はその区別が判りません。

>最後にそういう「捨て台詞」のようなこと言われた
>ら、まともに応答したくなくなってしまいます。

このお言葉は、そのまま落隣さんにお返しします。
議論の途中で「総すかん」と決めつけ、「化身土をきちんと読んでからものをいえ」というのは
私にとっては捨てせりふを投げつかられた思い、落ち込んでいるのですが……。
ま、これはお互い様と言うことですが……。

「エセ啓蒙主義者」
という言葉の書き込みがどなたかからありましたが、これは差別用語ですので、今後使われないように
お願いしたい。この「啓蒙」というのは、中華思想の中国の言葉ですが、わが中華に比べて
蒙古は後進国であるからと蒙古を蔑視した単語です。
辞書には
「無知な者に知識を与えて教え導く。」
「思想・学問などについて、知識の乏しい人々を新しい知識で導き、より知的な判断ができるようにすること。」
とあります。
細かいことですが、真宗では少なくとも使いません。

さて、今日は午後休暇を取って、信楽師のお話を聞きに行って来ます。


URLを 投稿者:大悲  投稿日:04月18日(火)12時46分27秒

書き込み用(内容)の下の部分のURLの枠内に書いてくださると
いっぺんに飛べるので、読むほうには、カット&ペーストしなくてすむ分便利です
よろしくお願いします


声に出して 投稿者:大悲  投稿日:04月18日(火)12時42分51秒

私のバヤイ、祖母のおかげで、口癖になってしまった。
「寝言で、お念仏してた」とは、若き日のくどき文句でしたが、
今は、息子が布団に入ってきます。布団を掛けてやりながらお念仏。
幼稚園の頃、息子の口から「なまんだぶつ」の声が聞こえたときは、ビックリして、
それから、嬉しい、って感情がでてきました。今は・・・・

私は、法要の終わりに合掌と「南無阿弥陀仏と、声に出して申しましょう」と呼びかけています。
ぱらぱらとですが「なまんだぶ」と一緒にお念仏してくださいます。


1ヵ所訂正 投稿者:らくりん  投稿日:04月18日(火)10時10分18秒

毎度のことながら、誤記・脱字が多くて申し訳ありません。
しかし、これは訂正しておかないと、文脈が通じないので訂正します。
「八百長」云々の段落の冒頭の「しかし」を「たしかに」に訂正します。
その他もろもろの誤記・脱字等は平にご容赦を。


お留守居役様さんお久しぶりです 投稿者:らくりん  投稿日:04月18日(火)09時53分12秒

身辺のお忙しさは、他の掲示板の書き込みで知っておりました。少しは落ち着かれたの
でしょうか。
それにしても、久しくお姿をお見せにならないので、あいそをつかされたかと心配して
おりました。

非常にすっきりした単純化で、おっしゃりたいことはおおむね理解できるように思いま
す。ただ、単純化は理解を助けるはたらきもありますが、逆に誤解を生む危険性もあり
ます。
(複雑な記述でも、わかりにくくて誤解を生む可能性がありますが)
非常に明快な点と、どのように理解していいのかわからない点もあります。

特に、1については、
1を、私なりに再解釈してみると(MANUさんと同じような意味になりますが)「靖
国神社も含めて神社信仰にも信教の自由が保障されなければならないから、仏教徒がと
やかく言うべきではない」ということになるかと思います。
しかし、仏教徒が自らが信仰する仏説を根拠に他の信仰を批判するという行為が、最初
から為にする八百長にしかならない可能性があることは間違いないと思います。そして
この問題は、最後の7と深く関わる論点だろうと思います。

2〜6の論点は、一応、私の理解が間違っていないという前提でですが、同意できる点
も異論はありますが、個々についてのコメントは省略します。(管理人としては、口数
が多過ぎるのではないかと、ちょっと反省してみたりして)

お留守居役様さんの提起の焦点は7に集約されるのではないかと思います。
7、については、「宗教的スターリン主義者」という語は、自分の意見の中に取り入れ
て使えるほど私にとってはこなれた用語ではないので確認したいのですが、「ライバル
を陥れてでも主導権を握ろうとする個人独裁的な覇権主義」というような意味に理解す
ればいいのでしょうか。

そうだとしての話ですが、考えなければならないのは、目の前にある「思想」が、非常
に危険な「宗教的スターリン主義」の色彩を持っている場合の問題ではないかと思いま
す。
しかも、スターリンがスターリンの顔をしていればまだ敵として認知しやすいけれども、
「仏陀」とか「神」の仮面をかぶったスターリンであったとしたら、どうか。
その場合は、相手がスターリンであることを見抜く視点を自らが持つことと、その危険
性を他の人にも理解してもらうため表現手段を持つ必要があるではないかと思います。

私の理解が間違っていなければ「宗教的スターリン主義」は非常に危険なものであると
思います。ですから、自覚的な信仰を持つ者も持たない者も
一人ひとりが、自らどのような、対応をするかを考えざるを得ないと思います。

言論による批判もできます。
相手が殴って来たらこちらも殴り返せばいい、というのも一つの対応策ですし。
右の頬を殴られたら、左の頬を出だせというのも、一つの道です。
左の頬は出さないで、非暴力、不服従というのも、選択肢です。etc.
そしてそれらの組み合わせも。

またのお越しをお待ちしています。


コップの中? 投稿者:Maro  投稿日:04月18日(火)01時02分47秒

 お留守居役様、コップの中の争いとは、仲間内の蛸壺的話し合いにとどめて置くという
意味ですか?
 もし、そうであるなら仏教徒として靖国を問うことは意味がないという意味ですか。?


こんばんは 投稿者:三吉  投稿日:04月18日(火)00時50分50秒

面白そうなHP発見
「菩提心考」
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/8857/gsk/bodaishikou/index.html

何はともあれ、私は大願さんを支持する。

「神社に参拝することと」と「神社に行くこと」は違うでしょうし、
大願氏が多くを僧侶に望みすぎているとも思う。
でも、大願氏の問い掛けは、勇み足であったとしても、そんなにはずしているとも思えない。


開店祝いの七箇条 投稿者:お留守居役様  投稿日:04月18日(火)00時29分47秒

ご挨拶が遅れました。
私ごとき者の出番がないくらいににぎわっていて、
陰ながら喜んでおります。
身辺多忙につき箇条書きで失礼いたします。
戯言を並べてみました。ご笑読ください。

1 神祇不拝とヤスクニ問題を仏教徒が言う場合は、
  コップの中の争いに徹するべきである。
2 仏教と神道のどちらが優位なのかという党派的争いに限定すべきである。
3 廃仏毀釈の仕返しに廃神毀社を主張すべきである。
4 平和憲法、民主主義、政教分離、基本的人権など
  元来の教義にないことを根拠にすべきではない。
5 仏教は無我説であり、霊魂の存在を否定する。
  この立場で、戦死者の鎮魂を批判すべきである。
6 祖先崇拝、先祖礼拝は、神祇思想であり、仏教ではない。
  例えば、墓は神祇で、塔が仏教である。
7 上記の1,2,4に反対する者は、宗教的スターリン主義者である。


黙っていてもいいのですが・・・ 投稿者:MANU  投稿日:04月18日(火)00時20分31秒

展開が早いですね。出張先からモバイルで追いかけるには辛いものがあります。

「大願」さんの書き込みに
>また、「みんなから総すかんを食らった」という、みんなとは誰の事でしょうか?
>落隣さんとまこさんと華光会の方から総すかんかも知れませんが、それをみんなと
>仰有っているのでしょうか?
とのお言葉がありましたが、「大願」さんのお考えから行くと、私ともう一人
の華光会に縁のある者の言葉を「華光会」とくくるのはいかがなものかと思い
ます。ご自身も
>そのみんなとは、いつもせいぜい2,3人です
と仰っていますよね。それを「みんな」とくくることに疑問をもたてれている
と受け取っておりますが・・・。
別の板にも書きましたが、華光会で御聴聞していますが、一個人として発言し
ているつもりです。ましてや、こちらの板では、拝見した旨をひとこと書き込
んだだけです。そこに「華光会」の名前を引き合いにされますと、他の参加者
の皆様には事情がわからないと、ご迷惑をかけてしまいます。

ついでに書きますと、真宗の現状を真剣に考え、問題提議されるお姿には、い
つも感心させられています。ただ、その(攻撃的な)口調により真意が伝わら
ないという損をされている気がします。私としては、すれ違う部分もあります
が「全否定」ではありません。「大願」さんのお考えに頷かされることも多々
あります。今後の成り行きも興味を持って拝見させていただきます。

正直なところ、メディアに中途半端に華光会の名前を出されてから、ナーバス
になっています。「らくりん」さんも本の内容紹介の折にかかれていましたが、
簡潔には伝えきれないものもあります。かといって黙っておけない・・・。
難しさを感じています。興味があればご質問ください。

「私は、あなたが私に何を伝えたいかを私が理解したと、あなたが認めてくれ
るまで、私の発言をしません。」
真宗カウンセリングの師の言葉です。コミュニケーションの理想だと思ってい
ます。現実は難しいですが、すれ違いが起こるときに思い出す言葉です。

http://homepage1.nifty.com/MANU/


林遊さん 投稿者:らくりん  投稿日:04月17日(月)18時46分19秒

>弥陀の大悲深ければこその二十願でありますが、マインドコントロールとやらからの
>覚醒を用意してないと、危ないことになりそうですね。
そうですね。一人の人間に対する心酔とか信仰的陶酔は、本当に危ういものだと思います。
親鸞は、化身土巻の中ではこの辺もきちんと見据えていると思います。

>それにしても、大谷派のご法座では不思議なことに講師も門徒もなんまんだぶつを称
>えませんですね。ここいらへんが不思議だったりしますです。
同感です。それについては最近になってやっと私も、おかしなことになってしまったと
思っています。
何とか「声としての念仏」を取り戻さなければならない、と心を痛めております。
私は、そんなお説教もけっこうするんですが、こればっかりはなかなか思うようには……。

>このような御和讃を称え、なんまんだぶつを称え喜んできた、ばあちゃんやじいちゃ
>んに失礼でありましょう
これは一部だけ同感です。
靖国問題の場合、このような念仏に生きたばあちゃんじいちゃん、おっちゃんおばちゃ
ん、ねえちゃんあんちゃんたちを、「神」の名のもとにだまくらかして利用するような
ことは決して許してはならないという問題ではないか、と私は思っています。
だまくらかすために「政治で神様」をこしらえてしまったのが靖国神社だったと。

>で、まあこれ以上は、この掲示板の「空気」にふさわしくないようなので
そんなこともないと思います。たしかになかなかスリリングな登場で、最初はかなり
緊張しました。ありがたく思っています。

>ちょっと一服しますです。
これに懲りずに、またちょくちょくお越し下さい。


Re:ちょと失礼 投稿者:林遊  投稿日:04月17日(月)15時39分06秒

ootuboさん、どもです、林遊@なんまんだぶつです。

ご忠告有り難うございます。

小生は別に「神」なるものを全面否定しているわけではありません。
もし全面否定するなら、アッラーやヤハゥエなどの神を信じ、神と
ともに生き神とともにある文化そのものをも否定することになっち
まいます。

ただ御開山の神祇観(善神護法説)を良く理解せずに、一方的に
反靖国のためだけに、化巻の引文を利用して欲しくないだけです。

        南無阿弥陀仏をとなふれば
           梵王・帝釈帰敬す
       諸天善神ことごとく
           よるひるつねにまもるなり

        天神・地祇はことごとく
            善鬼神となづけたり
       これらの善神みなともに
           念仏のひとをまもるなり
                (現世利益和讃 大谷派聖典p487〜)

このような御和讃を称え、なんまんだぶつを称え喜んできた、ばあ
ちゃんやじいちゃんに失礼でありましょう。

超能力?をもつ神といえども仏教から言えば迷いの存在である。し
かしそのような神々も善神としてなんまんだぶつの行者を護って下
さるとは、なんとありがたいこちゃなあちゅうんでありましょうね。

                なんまんだぶ    なんまんだぶ  称名相続 ...



Re:大盛況  投稿者:林遊  投稿日:04月17日(月)15時38分07秒

どもです、林遊@なんまんだぶつです。

あらら、見つかっちゃった。いえなに、FBAUDが暇なもんですからつい。
そのうち、ひとりボケとツッコミでもやろうか等と思ってたりしますです。

なにはともあれ、こちらこそヨロシクです。

				なんまんだぶ    なんまんだぶ  称名相続 ...


Re:やはり 投稿者:林遊  投稿日:04月17日(月)14時53分13秒

どもです、林遊@なんまんだぶつです。

マインドコントロールと二十願、靖国と御開山の神祇観等々が頭の中で
錯綜して訳の判らないことを書いちまったようです(笑)。

小生はマインドコントロールなるものを、集団の中の「空気」のように
思ってたりしますです。件の上官と部下の話は戦犯として、部下は「お
前は上官の命令もないのに、お前自身が判断し実行したのだから有罪」
となり、上官は命令を発していない故に無罪になるという、部下にとっ
ては???となる集団における「空気」についての話だったりします。

靖国を論じないやつは保守であるという「空気」。靖国の国家護持に反
対する者こそが真宗念仏者であるという「空気」があったりしますしね。
「空気」であるから捉えどころがなくて困ったりもしますですね。で、
まあ小生のような者が水をぶっかけるとか(笑)。

>>
むしろ私たち真宗門徒はもっとマインドコントロールということをもっともっと明確に
意識して、弥陀の本願を凡夫が伝えることはできなくても、自力のはからいと言われよ
うがそんな雑音に惑わされずに、なんとか本願の精神が伝わってほしいと精一杯のはか
らいをしていく必要があるのではないかと思っています。
>>

小生に言わせれば、これこそが御恩報謝でありましょう。ご本願から逃
げ回っている時には、大慈大悲の親様でありますが、ひとたび仏智に気
づかせて頂いてからは、あくなき仏恩報謝の道が用意されていると思っ
ております。もっとも小生はこれが苦手で困ったもんです。
(信前、信後という表現は嫌いなんですが、どっちにしても御恩報謝の
努力でありましょうね。)

>>
私は浄土真宗の門徒は家庭の中で子や孫たちにマインドコントロールをしてきたし、そ
れはとても大切な伝承だったと思うのです。そのようなやり方を、親鸞は第20願の役
割としておさえています
>>

	法蔵比丘、世饒王仏の所にましまして、菩薩の道を行じたまひしとき、
	四十八願を発して、一一の願にのたまはく、《もしわれ仏を得たらん
	に、十方の衆生、わが名号を称して、わが国に生ぜんと願ぜん、下十
	念に至るまで、もし生ぜずは正覚を取らじ》〉(大谷派聖典P318)

弥陀の大悲深ければこその二十願でありますが、マインドコントロールと
やらからの覚醒を用意してないと、危ないことになりそうですね。

それにしても、大谷派のご法座では不思議なことに講師も門徒もなんまん
だぶつを称えませんですね。ここいらへんが不思議だったりしますです。

で、まあこれ以上は、この掲示板の「空気」にふさわしくないようなので
(笑)、ちょっと一服しますです。

				なんまんだぶ    なんまんだぶ  称名相続 ...


「勝ち負けですか?」 投稿者:らくりん  投稿日:04月17日(月)14時18分17秒

それを決める必要はありますか。
たとえ必要があったとしても、当事者は冷静かつ公平にはできるとは思いません。
読んだ人がどのように受けとめるかということまでは指図できません。

私は、今回の件については、あまりとやかく言う必要のないこと問題について、
大願さんが、かなり執拗に言い続けたのではないかと思っています。
それを「勇み足」と表現しました。

>「みんなから総すかんを食らった」という、みんなとは誰の事でしょうか?
というのは、「〈神通寺BBS〉でこの論議に加わった人たち」をさしています。
もともとの土俵がそこですから。
「みんな」というのが適切ではないとおっしゃるのなら、上記のように訂正いたします。
そちらの掲示板では、掲示板にそのことをあえて表明される方が2〜3人現われたとい
うことは、当事者はかなり困惑して、もう少し強い表現をすれば辟易しておられたよう
に推察しました。(あくまでも私の印象で、ご当人たちがどのように感じておられたかは
確かめたわけではありません)

>「真宗に帰依すれば、神社参拝の必要はない。良いとか悪いとかでなく、行けなくな
>るず」と口で言っていて、それと実行面が異なっているのは何故かと問いかけたもの
>です。
「神社に参拝することと」と「神社に行くこと」は、全然意味が違います。そこを混同
した議論をするから話がややこしくなるのです。
「参拝の必要がなければ、行けなくなる」というのは、まこさんが常々おっしゃってい
ることなのですか。

>まこさんがそうでない事を期待したのが、あえて言えば「勇み足」でしょうか?
自分が勝手に期待して、勝手に裏切られたと思って、一方的に相手を非難することが
「勇み足」なのでは。期待されて、その期待通りに行動しなかったことで裏切り者呼ば
わりされるのは迷惑でしょう。

>まこさんの件が、なぜこの掲示板でこんなに論争になったのか不明ですが、まこさん
>が、あちこちで自らの正当性を書き込んでおいでなのを、一番詳しくフォローされた
>掲示板がここだったと言うことで、不毛な議論になりました。
私としては興味深い大切な問題だと思ったから踏み込んでいったので、ここで「一番詳
しくフォローしたことで不毛な議論になった」と言われると、ちょっと心外です。
そう言われてしまったら、一生懸命考えて書いていた私が物笑いの種じゃないですか。
一生懸命に応答していた者に対して最後にそういう「捨て台詞」のようなこと言われた
ら、まともに応答したくなくなってしまいます。
それに、私はそんな不毛な議論だったとは思いませんが。

>きちんと読めば祭りは問題ないことが書いてあるので有れば、「読み解く4」にはそ
>の箇所が明確になるのでしょうね。楽しみにしています。
直接的に祭りがどうのこうのというようなことは書いてありませんが、人間の素朴な宗
教心の芽のようなものを必ずしも全面的に否定していないことは述べたつもりです。
「神祇不拝」の問題は第X巻です。しかしそこから祭りの問題が大願さんに納得がいく
ようになるかどうかはわかりません。

「参拝・礼拝」と、「見物・見学」とは違うということは大願さんもわかっていらっし
ゃるのでしょう。祭り見物、神社見学をどうしてそんなに目の敵のようにおっしゃるの
かどうも私には理解できません。その行為は神祇不拝の教えに抵触するなどとは思いま
せん。

>法要の読経の件も、今回の祭りの件も、議論のすれ違いは有るけれど決して「勇み
>足」とは思いません。
はおっしゃる通り儀式の役割についての見解の相違(すれ違い)であって、「勇み足」 
なんかではありませんし、そんなことは言っていません。


「勇み足」??? 投稿者:大願  投稿日:04月17日(月)12時47分28秒

エール有り難うございます。
でも
>今回の「お祭り」論争は、大願さんの「勇み足」ではないかと思っています。
>みんなから総すかんを食らった形になってしまいましたが、

それは落隣さんが論争に勝ったということでしょうか?
化身土巻をきちんと読まないものが、発言を控えろという意味のことを
言われれば、返す言葉がありません。
この論議って、どこかの掲示板でも有りましたね。
きちんと読めば祭りは問題ないことが書いてあるので有れば、「読み解く4」には
その箇所が明確になるのでしょうね。楽しみにしています。

また、「みんなから総すかんを食らった」という、みんなとは誰の事でしょうか?
落隣さんとまこさんと華光会の方から総すかんかも知れませんが、それをみんなと
仰有っているのでしょうか?
よく子供が「みんなが持っているから、私も欲しい」という、決まり文句を言いますが、
そのみんなとは、いつもせいぜい2,3人です。なんかそれを思い出して苦笑しています。
勝ったとか負けたでなく、問題提起に皆さんがどれだけまじめに取り組むかなのです。
以前問題にした、法要の読経の件も、今回の祭りの件も、議論のすれ違いは有るけれど
決して「勇み足」とは思いません。
所詮、自らの保身のために、まあまあでやり過ごしている僧俗も、気づいているけれど
踏み込まないだけなのでしょう?
落隣さんの「真宗門徒となりたいか」という問いかけこそが、エールであり、
勇み足と決めつけられることは、私にとっては、決してエールではありません。
まこさんの件は
「真宗に帰依すれば、神社参拝の必要はない。良いとか悪いとかでなく、行けなくなるはず」と
口で言っていて、それと実行面が異なっているのは何故かと問いかけたものです。
普段から神祇崇拝を容認している僧侶に問いかけることは不毛な議論になるだけです。
私は個人的にまこさんを存じ上げているからお尋ねしたまでです。
ですから、私の周りの伝統教学の僧侶が同じ行動をとっても、別に違和感は感じられません。
人のことをとやかく言うなとのことですが、僧侶の言行はかなりの影響力が有ることを
自覚して頂きたいのです。少なくとも言行一致の姿勢をお願いしたいものです。
言い訳に「煩悩具足の凡夫」と卑下慢に逃げ込むなんて、卑怯ですよ。
相撲の儀式についても、ことあるごとに問題視して、指摘していくべきことです。
それは真宗門徒となりたいかどうかです。飯の種に影響有るから、黙っておこうという
僧侶に何を言っても馬耳東風です。まこさんがそうでない事を期待したのが、あえて言えば
「勇み足」でしょうか?
真俗二諦の生活が先にあって、それに宗祖の教えを後付けするようでは、あまりに宗祖を狭小化して
しまいます。まこさんの件が、なぜこの掲示板でこんなに論争になったのか不明ですが、
まこさんが、あちこちで自らの正当性を書き込んでおいでなのを、一番詳しくフォローされた
掲示板がここだったと言うことで、不毛な議論になりました。

>平太郎の逸話一つで、『御伝鈔』全体を評価しようとするつもりはありません。
>逆に一つの問題箇所の存在で、ある作品の全体を否定するつもりもありません。

『御伝鈔』の創作は、これ一つではありません。
「得度の場所と時期」「信の座、行の座」もまた、歴史的事実とは異なっています。
宗祖の生まれが藤原家であるという権威をまず冒頭に持ってきているのも、そんな権威が
なぜ必要なのかも疑問です。報恩講でこれが読まれるときには、私は最近退席はしませんが
眠る事にしています。詳しく読んで、その欺瞞性を追求したいのですが、それこそ不毛ですので
今後は退席してしまおうかとおもっています。


大盛況 投稿者:大悲  投稿日:04月17日(月)11時14分09秒

いやいや、すごい書き込みですね。
林遊さん、最近お見かけしないと思っておりましたら、此方にお越しとは!

らくりんさんに言わせると、今や、メダカ的存在の北陸のお同行でいらっしゃいますので
先が楽しみです。
「ありがたいこっちゃ、もったいないこっちゃ」とお念仏申していた祖母に育てられ、
林遊さんの文章には思わず頷いてしまいます。
ただ、私自身は、申し訳なき事ながら、何とか自分の腹に落ち着くように
こういうことか、どういうことかと分別から逃れられずにおります。
とはいえ、最近はますます怠けております。
ここでお会いできた事を大変嬉しく感じています。また、ヨロシクお願いします


やはり、 投稿者:らくりん  投稿日:04月17日(月)07時51分37秒

林遊さんはマインドコントロールという語についてかなり誤解されているようです。
>貴様ァそんなこともワカランのかとどやされた下士官
の上官と部下の関係とか
>マインドコントロールを正太郎少年に操られる鉄人28号(古いっ(笑))
というような関係は、これは命令する者とされる者、支配と被支配の関係で、マインド
コントロールの関係とは言わないんです。
鉄人28号はマインド(心)を持っていませんから、マインドコントロールされるはず
がありません。あれはただ「コントロール」されているだけです。鉄腕アトムなら心を
持っていますから、マインドコントロールの対象にはなり得ます。
マインドコントロールとは、本当はやらされているにもかかわらず、やらされている側
がやらされているという意識は持っていないのです。「そうすることが当然」とか「自
分ですすんでやっている」という意識を持っているのです。
鉄腕アトムなら、「正義のためにたたかわなければならない」という使命感を持ってい
る点が、彼(?)に対するマインドコントロールの結果です。

ですから、林遊さんの書き込みの中からマインドコントロールに近いものを探すと
〈「大御心」=上官の想い、だから逆らえない〉と上官も部下も思い込んでいること
なのです。二人とも同じようにマインドコントロールされているのです。

そしてもう一つ、この点についての誤解を一番用心しているので、あまりこういう掲示
板でちょこちょとっと書いてしまいたくなかったのですが、起こらないで下さい。
>越前の同行は古来、信心をご信心とよびならわしてきました。己のものでないからこ
>その<御信心>でありました。 他力の中の自力とは、いつもご恩が喜べて、ビクとも
>動かぬ信心が凡夫の腹にあるという凡夫の自力をもうすなり
というのも、これは広い意味でマインドコントロールなのです。
親鸞聖人はそのことをはっきりと意識しておられたはずです。そのことに気づいた時、
私は本当に親鸞という人はすごいと思いました。
信心や信仰というのも基本的にはマインドコントロールの一種なのです。
そして私はマインドコントロールというのは、必ずしも悪いことばかりだとは思いません。
むしろ私たち真宗門徒はもっとマインドコントロールということをもっともっと明確に
意識して、弥陀の本願を凡夫が伝えることはできなくても、自力のはからいと言われよ
うがそんな雑音に惑わされずに、なんとか本願の精神が伝わってほしいと精一杯のはか
らいをしていく必要があるのではないかと思っています。
私は浄土真宗の門徒は家庭の中で子や孫たちにマインドコントロールをしてきたし、そ
れはとても大切な伝承だったと思うのです。そのようなやり方を、親鸞は第20願の役
割としておさえています。

>「本当に詳しく知る」(信知)することが件の書で出来るのでありましょうや。
林遊さんが件の書で「信知」なさることができるかどうかは、私の推し量れることでは
ありません。それを「出来る」と言えるほど思い上がってはいないつもりです。
しかし、少なくともここにちょこちょこっと書いたことよりは、そういう点をもう少し
詳しく丁寧に述べてあるつもりです。

>靖国問題をぐちゃぐちゃ言うている間に、国立戒壇云々という人たちが、政(まつり
>ごと)を担う一翼になってしまった事に気をつけんといかんのでありましょうにねぇ。
私は、これは充分に靖国問題であると考えています。
ただし、今の状況では国立戒壇の設置法案より前に、「新靖国国家護持法案」のような
ものが浮上して来る可能性の方がはるかに切迫していると思います。これはそう遠くな
いないうちにおそらく出て来るのではないかと思います。ですから、そんな悠長な話で
はない、と私は思っています。

>お前の言うことは実行するけど、あんたが小生の信心の領域まで干渉するようになれ
>ば、殴りぶっ飛ばし反抗しまっせぇ、というのが小生の生き方だったりします。
私には、「他人の命令で人殺しをさせられたくない」ということも干渉されたくない領
域です。林遊さんは命令されたら「実行してしまう」ようなマインドコントロールを現
在も受けているのですか?
そしておそらく「信心の領域」への干渉は「殺人者になれ」という干渉よりも先にやっ
て来ると思います。


ちょと失礼 投稿者:ootubo  投稿日:04月17日(月)06時46分45秒

林遊さん今日は。ootuboと申します。

>同朋会で靖国問題を語る坊主が、説教の場で教団職員の女の子からク
>リスマスプレゼントを貰った事を自慢するような坊主が越前にはいた
>りしますから、アホらしくて仕方なかったりしますです。
 私は地方公務員ですが、2年前まで職員の研修担当をしていました。
 講師はすぐ本題にはいるのでなく、また講義の最中でも受講者をリラックス
させる技術が必要です。
 その場にいたわけではないのでわかりませんが、みなさんをリラックスさせ
るために言われたのでないでしょうか。
 また、物事を批判的に見ることは非常に重要ですが、それとともにその立場
に立って考えることが重要ではないでしょうか。
 生意気なことを言って失礼しました。
 


re:林遊さん  投稿者:林遊  投稿日:04月17日(月)00時10分32秒

どもです、林遊@なんまんだぶつです。

>マインドコントロールはもう少し巧妙で、受けている側は自分の意志でそうしているの
>だと思い込んでいる状態で、当人は操作されているなどとは思っていないのです。
>ですから、戦地で上官の命令によって人を殺さなければならなかったという場合の関係
>においては、マインドコントロールなどというややこしい問題は持ち出す必要はありま
>せん。この場合は階級に応じた責任を負わなければならないのだと思います。そして上
>官の命令に基づいてやったのならば、私は責任は上官の方が重いと思います。しかし、
>自責の念は命令された方に重くのしかかるのではないかと推察します。
>いずれにしてもおっしゃるような場合は、マインドコントロールとは言いません。この
>ような場合は命じた方も命じられた方もマインドコントロールを受けている側と言わな
>ければなりません。

おっしゃるようなことどももあるんでしょうが、上官に捕虜の処分をど
うしましょうかと問う部下に、貴様ァそんなこともワカランのかとどや
された下士官はどうするんでしょうね。いわゆる「大御心」=上官の想
いを、慮って処置するのでありましょうか。

マインドコントロールを正太郎少年に操られる鉄人28号(古いっ(笑))
のように理解なされているようですが、少なくとも操られる側には一寸の
虫のも五分の魂ぐらいはありますです。
世の啓蒙思想家は蒙を啓くと仰いますが、すくなくとも小生のような群萌
は金輪際、坊主によって蒙を啓かれるなんてことはありませんです。
小生等は小生等の分斉、持ち分をきっちり果たして生き死んでいくだけで
ありますです。

>信仰は時としてそういう状態を作り出すことがあるという意味で両刃の剣のような危険
>性があります。そのような問題について親鸞は第20願によって確かめています。
>繰り返しになりますが、本当に詳しくお知りになりたければ、あまりご自分で勝手にお
>決めにならずにもう一月待って、拙著をお読みいただければと思います。

越前の同行は古来、信心をご信心とよびならわしてきました。己のもので
ないからこその<御信心>でありました。
他力の中の自力とは、いつもご恩が喜べて、ビクとも動かぬ信心が凡夫の
腹にあるという凡夫の自力をもうすなり、などと越前の先達は教えて下さ
いましたが、「本当に詳しく知る」(信知)することが件の書で出来るの
でありましょうや。少しく言い過ぎかも知れませんが、在野の一門徒の戯
れ言と領受いただければ幸いです。

>私の理解力では「靖国神社を大切にすることと真宗の信心とは矛盾するものではなく、
>両立する」という意味にもとれますし、「真宗の信心を持つものからすれば、靖国神社
>を批判することは当然のことである」という意味にもとれます。
>そして、真宗門徒の中にはそのどちらの立場の人もお見かけします。林遊さんはどちら
>の意味おっしゃっているのでしょうか。

御開山の神祇観(現世利益和讃)とも関連するのでしょうが、靖国問題は
また違う視点から論じたほうが良さそうですね。
ニヒリズムとエゴイズムの支配する「現代」(いつでも現代ですが)ちゃ
あ、ややこらしくも、物言えるだけ有り難い世ではありますね。
で、靖国なんですが林遊の場合にはな〜んにも考えてなかったりします。
俎上に上らないというか、料理するべき材料が小生の周りに無かったりし
ますです。ただ、お前の言うことは実行するけど、あんたが小生の信心の
領域まで干渉するようになれば、殴りぶっ飛ばし反抗しまっせぇ、という
のが小生の生き方だったりします。
靖国問題をぐちゃぐちゃ言うている間に、国立戒壇云々という人たちが、
政(まつりごと)を担う一翼になってしまった事に気をつけんといかん
のでありましょうにねぇ。

>腹は立ちませんが、ネット上で、存じ上げない方からこのような尋ね方をされるのはあ
>まり気持ちがいいものではありません。

それはそれはまことにスマンことではあります。ごめんして下さいまし。
小生これでもかなり押さえた文章の書き方をしてたりするんですが、貴
兄に不愉快な想いをさせた事は、まことにあいすまんことです。	

                なんまんだぶ    なんまんだぶ  称名相続 ...




寝る前のもう一言 投稿者:らくりん  投稿日:04月16日(日)23時36分05秒

看板に偽りなしという感じで、思いつくことを吐き出すように書いています。
もうこれは完全に掲示板中毒症状ですね。
「誰かオレを黙らせてくれぇ〜」

オープンからまだ4日目ですがこのボリューム、我ながら驚きます。
それから、すでに古い友人が何人か訪ねて来てくれています。
新聞紙上を賑わしている企業の社員であったり、自分で事業を起こした人間であったり、
アメリカの大学で博士号をとった人であったりです。彼らとの関係もそれだけに限れば、
過去の一時期を共有したと言うだけの超タコツボ関係なのですが、
今の私とこの掲示板にとっては、世界につながって行く大きな風穴です。
彼らの目の前でどれだけのことが言っていけるか、そして肥大化しようとして止まない
自意識のたれ流しをどこまで自制しながら書いて行けるか、
その意味でこの掲示板は、私自身による私自身に対する「教育的挑発」であるのかも
知れません。
そんなこんなですから、古い友人たちの皆さんも、
「何をばかなことをほざいているんだ」ということなど、忌憚のないところで参加して
下さい。
もちろんネットで知り合った友人たちも、タコツボ論議になりそうな話題でも、
「教育的挑発」でも可能な限り受けて立ちます。
タコツボ的話題をどこまで開いたものとして取り上げられるか、それこそがこの掲示板
の大きな課題の一つでもあるのですから、これまでと同様にお付き合い下さい。


報告 投稿者:らくりん  投稿日:04月16日(日)23時32分27秒

林遊さんメールの返事ありがとうございます。
プライベートなメールですのでここに掲載するわけにはいきませんが、
なんとなくですが、林遊さんのこだわりの背景のようなものを伺うことができたような
気がして、少々安心しております。
今後とも、叱咤激励のほどよろしくお願いいたします。

訪問者の中にも、気にかけて下さっている人もいるかもしれませんので、報告まで。


インターネットはからっぽの洞くつか? 投稿者:らくりん  投稿日:04月16日(日)20時15分03秒

林遊さんの書き込みがあったので、後になりましたが、
ひと歩きしてきました。歩きながら考えたことです。

私がメディアとしてのインターネットを考えるようになったのは、
クリフォード・ストールの『インターネットはからっぽの洞くつ』(草思社1997年2200
円)を読んだことが大きなきっかけです。それ以前からなんとなく「そうじゃないかな」
という思いがあったところに、「やっぱりそうか」という駄目押しをしたような本でし
た。
新しい物が決して嫌いではない私がインターネットへの参加を見合わせていたのは、こ
の本の影響がなかったとはいえません。一番大きな原因はいまだにMSーDOSワープ
ロに呪縛されていることですが。

著者は本職は天文学者なのですが、おそらく天体の軌道計算などに必要だったからでし
ょうが、早い時期からコンピュータプログラマとしても有名だったようです。それとイ
ンターネットの草創期からも深く関わっていたようです。1991年に出た『カッコウ
はコンピュータに卵を産む』上下(草思社)の著者でもあり、こちらは国際的ハッカーを
追跡して突き止めるという、スパイ映画を地でいくような実話です。

『からっぽの洞くつ』の方は、そういうインターネットの生みの親の一人と言っても言
い過ぎではない、裏の裏まで知りつくした人の、インターネット論です。もちろん全面
否定しているわけではありませんが、それがもたらすマイナス面にも目を向けた、イン
ターネット狂想曲真っ只中とも言える現状に警鐘を鳴らしている本です。
これからこのメディアとつきあって行かざるを得ない私たちにとって、一度目を通して
おいても損はないのではないかと思います。

ネットコミュニケーションのタコツボ化は、当然の成り行きであって、それが悪いなど
と言うつもりは毛頭ありません。
数ヶ月の間、ネット上の無数のホームページの一部かいま見ただけですが、そこで進行
している事態は、これまで文筆を生業とする人や、放送メディアに登場できるごく少数
の人間にしか手にしていなかった、不特定多数の前に「おのれ」をさらけ出す手段、を
ごく普通の人間が手に入れた時に何が起こるかということをまざまざと見せつけていま
す。
大月隆寛は「自制心を失った化け物、自意識肥大のたれ流しのような代物」と言ってい
ますが、それは的を射ていると思います。
インターネット以前は、不特定多数を対象としたメディアに登場することは、一定の訓
練を積み、メディア業者の厳しい選抜を潜りぬけ、さらには受信者の評価を受け続ける
ことができる者だけに許された、いわば「特権」でした。

インターネットの登場は、特権階級にしか許されなかったメディアが家庭の中の机の上
にやって来たわけです。家族の写真、日記、自作の絵や詩や音楽などの作品、趣味の自
慢、自分の業績。そしてこの〈バンバン〉のような掲示板を開けば、好むと好まざると
に関わらず見知らぬ他人と意見のやりとりが始まる。
私自身もその「危険性」を感じつつも、こうして掲示板中毒の症状を呈し始めていると
言わざるを得ません。ただでさえキーボードに向かって自分の考えを打ち込んでいる時
間が長かい私は、反応する相手がいなくても同じことをやっていたのですから、ネット
上で対話の相手を得ればそうなることは当然の結果なのだろうと思います。

少なくとも、私〈真宗BOARD〉という、最初からタコツボ化を意図した掲示板に、
我が物顔で出入りすることをしていますので、二つ目の自前の掲示板では、そうした自
己完結的な議論のタコツボ化はできるだけ避けたいと思っています。
もちろんこれは私自身に対する自戒であって、来訪者が何をどのように書くかについて
は、とりあえずとやかく言うつもりはありませんので、私がどこまで我慢できるか試し
てみて下さい。
実際には、どうなっていくかはわかりませんが……。


林遊さん 投稿者:らくりん  投稿日:04月16日(日)20時02分31秒

マインドコントロールはもう少し巧妙で、受けている側は自分の意志でそうしているの
だと思い込んでいる状態で、当人は操作されているなどとは思っていないのです。
ですから、戦地で上官の命令によって人を殺さなければならなかったという場合の関係
においては、マインドコントロールなどというややこしい問題は持ち出す必要はありま
せん。この場合は階級に応じた責任を負わなければならないのだと思います。そして上
官の命令に基づいてやったのならば、私は責任は上官の方が重いと思います。しかし、
自責の念は命令された方に重くのしかかるのではないかと推察します。
いずれにしてもおっしゃるような場合は、マインドコントロールとは言いません。この
ような場合は命じた方も命じられた方もマインドコントロールを受けている側と言わな
ければなりません。
信仰は時としてそういう状態を作り出すことがあるという意味で両刃の剣のような危険
性があります。そのような問題について親鸞は第20願によって確かめています。
繰り返しになりますが、本当に詳しくお知りになりたければ、あまりご自分で勝手にお
決めにならずにもう一月待って、拙著をお読みいただければと思います。

>なお、小生の例示した靖国云々は、きっちり学んでから門徒の前で語り、そして実践
>して欲しいということであって、付和雷同的に坊主の暇つぶしのおもちゃにしなさん
>な、という事です。それが御法義のプロでありましょうや。
これはその通りだと思います。ですから、頭ごなしに意欲を削いでしまうのではなく、
しつこく叱咤激励したり励ましたりていただければ、と切に思います。

>小生は、<信心をもって本>とする御法義では、靖国問題は仏徳讃歎の御恩報謝の営
>みごとと思っていたりします。恩徳讃のような粉骨砕身まではイヤですけど(笑)。
林遊さんが真宗門徒であるという以外には、どういうお考えをお持ちの方か、いささか
量りかねておりますので、「靖国問題は仏徳讃歎の御恩報謝の営みごと」というのは、
私の理解力では「靖国神社を大切にすることと真宗の信心とは矛盾するものではなく、
両立する」という意味にもとれますし、「真宗の信心を持つものからすれば、靖国神社
を批判することは当然のことである」という意味にもとれます。
そして、真宗門徒の中にはそのどちらの立場の人もお見かけします。林遊さんはどちら
の意味おっしゃっているのでしょうか。

>PS
>ところで噴飯もので怒らないで欲しいのですが、落鱗さんの自坊って何処にあるんで
>したっけ?。
腹は立ちませんが、ネット上で、存じ上げない方からこのような尋ね方をされるのはあ
まり気持ちがいいものではありません。
住所、連絡先については、メールさせていただきます。



Re:第20願とマインドコントロール 投稿者:林遊  投稿日:04月16日(日)16時43分45秒

どもです、林遊@なんまんだぶつです。

仏の十号に「調御丈夫」というのがありますから、たしかにコントロールちゅう
意味もあるんでしょうね。「不断煩悩得涅槃」と煩悩を断ずるのではなく、煩悩
をコントロールして煩悩の質的転換をはかるんでしょうか。煩悩を無くしたら、
ただのふぬけになっちまいますからして。B-)

>>
その信仰的確信は、非常に重大な問題を引き起こしてしまったわけです。その時に日本
人の責任を考える場合でも、マインドコントロールをかけた者とかけられて操作された
者のそれを同列に論じるわけにはいかない、と言いたかったわけです。
>>

知り合いに戦時中、南方で憲兵をしていた人がおりました。自己の戦争責任について、
命じられた事だから仕方がない。自分には責任はないと長年思っていたそうです。
しかし、首切り朝右衛門のエピソードを読んでから、心の向きが変わったと仰ってい
ましたです。

ある坊主に、命じた者と命じられた者の、どちらに責任があるかと朝右衛門が問うた
ところ、庭の竹に積もっている雪を落とすように命じ、落ちた雪は命じた者に掛かっ
たか、それとも実行者に掛かったか問い返されたという話です。

もちろん命令者に責任が無いわけではありませんが、小生は実行者も同列に論じたい
と思っていたりしますです。

なお、小生の例示した靖国云々は、きっちり学んでから門徒の前で語り、そして実践
して欲しいということであって、付和雷同的に坊主の暇つぶしのおもちゃにしなさん
な、という事です。それが御法義のプロでありましょうや。

小生は、<信心をもって本>とする御法義では、靖国問題は仏徳讃歎の御恩報謝の営
みごとと思っていたりします。恩徳讃のような粉骨砕身まではイヤですけど(笑)。

それにしても化巻は難しいですね。<すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せ
り>なんでしょうが、小生のような文字のこころも知らない田舎門徒には、さっぱり
解りませんです。B-<

PS
ところで噴飯もので怒らないで欲しいのですが、落鱗さんの自坊って何処にあるんで
したっけ?。

                なんまんだぶ    なんまんだぶ  称名相続 ...


メディアの公開性 投稿者:らくりん  投稿日:04月16日(日)15時19分26秒

「しん」さん、ようこそ

午前中の化身土巻の講義(今は、末法燈明記の直前のあたりです)も終わり、ちょっと
気が抜けています。

真宗BOARDの「著者」は、『親鸞の教行信証を読み解く』の読書会の看板を揚げて
もらっている以上、ハンドルネームでは無責任だろうと思ってそうしています。

他のところへ出没する時は、別人になりすまそうかと浅知恵をはたらかせたのですが、
すぐに見破られてしまいました。別の名前を考えるのも面倒ですし、「まぁいいっか」 
ということで、ネットでは「落鱗」で通しています。「落鱗」では、なんて読むのとい
うご質問を受けたり、見た目にも堅いのでちょとだけでもソフトにならないかと思って
「らくりん」にしてみましたが、書き込みの「芸風」自体はどうもあまり代わり映えし
ませんね。

息抜きのつもりで始めた〈らくりんバンバン〉が、開店早々最もシビアーな部類の問題
でホットに盛り上がり、予期せぬ展開に内心少々戸惑いながらも、望むところと張り切
っております。ちょっとばかり疲れますが。

ほとんど同時期にメールアドレスを変更しましたので、メルアドがわかっている人全部
に変更のお知らせと、URL開設のお知らせを一斉発信しましたので、学生時代からの
付き合いの「真宗業界」にほとんど無縁の人なんかも、すでに覗きに来てくれています。
そんな人たちはこの掲示板の話題をどんな具合に読んでくれているのかななどとちょっ
と気を回しながら、彼らと同じ時間を生きた頃から過ぎ去った、20年以上の歳月を振
り返っています。「あっこれは自分のことを言われているな」と思う人は、正直な感想
などを一言書き込んで下さい。そうしてもらえるとありがたい。

私が物を書いたり、話したりする時に常に意識しているのは、学生時代や銀行員時代を
一緒に過ごした友人・知人たちに、今自分が表現していることは通じるだろうかどうか
ということです。それは使っている用語についても、言おうとしている内容についても
意識しています。しかし、それはとても難しいことで、いつも自己採点は惨憺たるもの
になってしまいます。ここの私の書き込みもそういう点から見ると、内容・話題はまだ
しも、使っている用語はちょっとひどいなあ。
若干形ばかりの解説めいた言葉を付け加えているような部分もありますが、それではわ
からない人には何の足しにもならないし、わかる人にはまどろこしい文章になっている
かも知れません。
ちょっとした小手先の工夫はできても、その場に臨むと、やはりどうしても目の前の聞
き手、書き込みの論争相手の反応が意識の大半を占めてしまい。この相手に伝わればい
いという表現に流れてしまいます。  (それでもなかなか伝わりませんが)
もちろんそれは一番大事なことなのですが、そればかりでは「タコツボ議論」に陥って
しまうだろうと思います。
インターネットであちこちのサイトや掲示板を訪ねてみて、メディアとしてはこれ以上
ない公開性がありながら、そこで繰り広げられているやり取りの多くは、きわめて内輪
の話に終始しているものが少なくないように思います。メディアですから誰がどういう
具合に使おうとそれは他人がとやかく言う筋合いではありません。またこの公開性ゆえ
に似通った関心を持つ人が簡単に意見交換の場を共有できるということですから、無数
の「タコツボ」ができるのは当然のなりゆきだろうと思います。
私自身も、その片隅に参加してみて、このメディアの可能性の大きさと限界のようなも
のを少しばかり実感しつつあります。

この掲示板を、昔の友人・知人たちに紹介したのは、その人たちが来る来ないは別とし
て、私自身の中では、常に彼らが読むということを意識しておくための「担保」のよう
なものを確保しようとしていたのかも知れません。

そろそろ〈真宗BOARD〉に戻って、「真面目に」やらなければ……。
http://member.nifty.ne.jp/vita/zen.html
そこの管理人は私ではありませんが、私自身はそこがメインページのつもりでいます。
ただ、これはどこでもそうですが、どうしても相手が現われたところで反応してしまい
ますので、相手がいないとキーボードも湿りがちになってしまいます。「タコツボ」好
みの人はそちらへもどうぞ。
またそこでは、「超タコツボ」議論も辞さないつもりですので、訪れる人は、その点は
覚悟してご来場下さい。


バンバン訪問しました 投稿者:しん  投稿日:04月16日(日)11時32分11秒

どうも、久方ぶりに書き込みをします。
山陰のしんです。真宗ボードでは「著者」、バンバンでは「らくりん」と使い分けて
おられますね。自前の掲示板開設、おめでとうございます。
さて、大願さんが盛り上げたお祭りの件も、ヤスクニの件も、天皇制についても、
やはり思想的な射程が明確でないと、なかなかうまく言えないものですね。
うまく言えたとしても、自分の感情を他者にぶつけるだけで、失敗することがよくあります。
(話が出来なくなるとか、気まずくなるとか・・・)
何とかならんものかなあと真宗ボード、バンバンと見させてもらって勉強しています。


大願さんにエール 投稿者:らくりん  投稿日:04月16日(日)08時32分28秒

もう一つ大事なことを忘れていました。

私は、今回の「お祭り」論争は、大願さんの「勇み足」ではないかと思っています。
しかし同時に、大願さんのその「意気込みは」とても大切で尊いものだと思っています。
みんなから総すかんを食らった形になってしまいましたが、
こんなことでへこたれずに、これからもあちこち飛び回ってご聴聞して下さい。
そして、「エセ坊主」「エセ坊主予備軍」の尻を叩いてあるいて下さい。


林遊さんへ追伸 投稿者:らくりん  投稿日:04月16日(日)08時20分02秒

親鸞聖人は、まちがいなく化身土巻で靖国問題を取り上げています。
親鸞聖人でさえ、あれだけ大部な『教行信証』を書いて、充分に念入りにおさえてから
でなければ、この問題には触れられなかったのです。それほど、難しくてデリケートな
問題なのです。
その問題について語ることを「失敗」したからといって、それを責めることはできない
と思います。むしろ、誰もが聞きたくない、だれもが目を背けたい問題であること重々
承知しながら、なお語らずにおれない「エセ啓蒙主義者」たちの発意がどこからでてく
るのかを少しでも考えてみてほしいと思います。
靖国問題に取り組もうとする人を一方的に責め立てることは、親鸞聖人が最も大事にさ
れた課題を否定することにつながります。

まがりなりにも『教行信証』を最初から最後まで読んでみた結果、
私としてはむしろ、その課題を見てみぬ振りをして来たことに、今日の浄土真宗の
「堕落」の大きな一因があるのではないか、と私は考えております。


第20願とマインドコントロール 投稿者:らくりん  投稿日:04月16日(日)08時10分06秒

MANUさん林遊さんはじめまして

マインドコントロールというと、今日では、オウム真理教やその他の極めて問題の多い
カルト的な宗教教団や、自己啓発セミナーなどの専売特許のように思われているかも知
れませんが、私は基本的には、宗教や教育に限らず、政治、企業運営、スポーツ、その
他あらゆる人間の活動において、精神や考え方が問題になるような局面でそれが伝えら
れていくことによって価値観が形成されて行くことを広い意味で「マインドコントロー
ル」と呼んでもいいと考えています(もともとはそういう意味で使われていたものが、
特にカルト的活動を指すようになってしまった)。

浄土真宗の信仰の伝達においても、よい意味でも悪い意味でもマインドコントロールの
要素とは無関係ではありません。
伝統的に、家庭の中でじいちゃんやばあちゃんのヒザの上でお念仏を聞いて育った子ど
もたちが、浄土真宗の教えや生活習慣を受け継いできた形も、マインドコントロールの
形であるというわけです。私はそうした伝承は、『阿弥陀経』において仏陀によって実
践されているような形であって、それはよいマインドコントロールと言ってもいいと思
います。
そのような形で信が伝わるのを善導は「就人立信」(じゅにんりっしん:人について信
を立つ)と言いました。つまり、信仰というのは人を信頼する形で伝わるということで
す。
それが『教行信証』の中では第20願として願われている逸脱の問題として、確かめら
れています。親鸞は、そうしたあり方は逸脱であるとしながらも基本的には「勧めて」 
います。

しかし、その同じ手法を悪い意図や目的の為にも利用する使うことができます。浄土真
宗では、善知識絶対主義として、きつくいましめられています。
それが極端な形で現われると、オウム真理教のような暴走を生み出してしまいます。
そして、それと同じ現象が国家的なレベルで起こったのが、15年戦争に至るまでの国
家主義的の嵐でした。天皇を現人神として、有無を言わさずそれを「信仰」させられた
わけです。
あれは間違いなく「信仰的〈確信〉」と言わなければならないような精神状態です。
その現象を、浄土真宗の教義の中から説明しようと思ったら第20願であると思います。 
原理的にはほとんど同じです。
その信仰的確信は、非常に重大な問題を引き起こしてしまったわけです。その時に日本
人の責任を考える場合でも、マインドコントロールをかけた者とかけられて操作された
者のそれを同列に論じるわけにはいかない、と言いたかったわけです。

来月5月10日頃に、拙著『親鸞の教行信証を読み解く』第W巻が発刊される予定です。 
その中に、上記の問題についてもう少し丁寧に述べてありますので、できればそちらを
ご覧いただきたいと思います。
この問題は、簡単に説明しようとすると、かえって誤解を生ずる可能性がありますので、
せめて上記第W巻が出てから始めたかったのですが、ことの成り行き上、一応簡単に述
べてしまいました。

>同朋会で靖国問題を語る坊主が、説教の場で教団職員の女の子からクリスマスプレゼ
>ントを貰った事を自慢するような坊主が越前にはいたりしますから、アホらしくて仕
>方なかったりしますです。
>もっとも、自分の泥田圃の手入れ点検もせず、社会的行動を論ずる、エセ啓蒙主義者
>には辟易していますですが・・・・。
お言葉を返すようですが「靖国問題を語らない坊主」でも、「クリスマスプレゼントを
もらったことを説教の場で自慢したり」「自分の泥田の手入れ点検をしない」「エセ啓
蒙主義者」の坊主はたくさんいます。それも越前だけでなく、全国に。
林遊さんの、「靖国を語る坊主」と「エセ啓蒙主義者」の関連づけの仕方は非常に恣意
的であるように私には思われます。自分の好みを結びつけているように見うけられます。
私は、むしろ浄土真宗の坊主が、靖国問題をきちんと語り切らないからおかしなことに
なってしまっているのではないかと考えています。中途半端だからおかしなことになる。

しかし現実的には、この問題が引き起こしてしまった感情的な行き違いは議論だけでは
納まり切らないものがあります。
本当にこの問題は難しいです。

今日は、10時から自坊で化身土巻の講義です。毎月、第3日曜日の午前10時からや
っております。この時間設定は、日曜日が一番忙しい坊さんには来るなというような設
定ですが、発起人さんたちと来聴される人のほとんどが坊さんではないので、こうなっ
ています。
よろしかったら、こちらにもお越し下さい。


お邪魔します 投稿者:MANU.  投稿日:04月16日(日)00時16分55秒

「あさと」さんの掲示板にてここを知り、件の「お祭り問題」に関心があったので
(と言うより当事者の一人でもありますが)訪問させていただきました。

今後もちょくちょくお邪魔させていただきます。

http://homepage1.nifty.com/MANU/index.htm


http://www.mitene.or.jp/~rinyou/ 投稿者:林遊  投稿日:04月15日(土)21時24分26秒

どもです、越前の国の住人、林遊@なんまんだぶつともうしますです。
	
久しぶりにネットを徘徊していましたら、どうもこちらへ迷い込んで
しまったようです。

>国家主義体勢への加担の問題は
>加担させたものと加担させられたものは同罪ではない、特に信仰的〈確信〉がからんで
>くる場合は。今日ではそれをマインドコントロールと言っていますが、親鸞は第20願
>の問題としておさえています。これは化身土巻前半のハイライトの問題です。

ここんとこがチョット解らないんですが、自らの<確信>に依って善本
(なんまんだぶ)を修習する事の誡めが、なんで命じた者と命じられた
者は同罪ではないちゅう事になるんでしょう。よぉワカランです。
お念仏を称えるという「相」の上では同じだが、仏果においては雲泥の
差があるちゅう事の譬喩なんでしょうか。

同朋会で靖国問題を語る坊主が、説教の場で教団職員の女の子からク
リスマスプレゼントを貰った事を自慢するような坊主が越前にはいた
りしますから、アホらしくて仕方なかったりしますです。
もっとも、自分の泥田圃の手入れ点検もせず、社会的行動を論ずる、
エセ啓蒙主義者には辟易していますですが・・・・。


                なんまんだぶ    なんまんだぶ  称名相続 ...

                         越前の国の住人         林遊(KEH00433)
                         E-mail: rinyou@mitene.or.jp
                         阿弥陀さまが、ごいっしょです
                         HomePage: http://www.mitene.or.jp/~rinyou/


通販のCD 投稿者:らくりん  投稿日:04月15日(土)12時47分23秒

「こんなに懐かしくて、いいんだろうか。恋すれど廃盤ベストコレクション」
というキャッチフレーズに惹かれて、注文してしまった通販のCDが12枚
今日届きました。ほとんど歌謡曲。
付録の本の書き出しは
  「久しく便りもなかった旧友に街角でばったり
  出会ったような、そんな懐かしさと楽しさを知る」
まさにそのとおりの感じです。
やっぱ年取ったんだなぁと、しみじみしてみたりして。

以前買ったフォークソング集だと20年から30年ぐらい前ですけれど
○白い色は恋人の色(ベッツィ&クリス)○白い蝶のサンバ(森山加代子)……
○若い季節……○夏の日の思い出(日野てる子)……とくると
もう一昔前の、30年から40年ぐらい前の世界へ連れ戻されてしまいます。

まったく聞いたこともない歌は数えるほどしかなく、
歌詞を見なくても1コーラスぐらいは歌える歌の連続で、
近ごろの若いもんにカラオケでバカにされているおじさんとしては、
なんだか無性に嬉しくなります。

この年ごろの時に聞いた曲って、その歌とつながった人や場所、
情景がよみがえってくるものですね。

いつも読書や仕事をする時のBGMは、ボーカルのないものが多いのですが、
これはもう、歌やそれにまつわる想念の方が意識のフォアグランドに
踊り出してきて、とても仕事が手につきません。
休憩の時か、第W巻の発送準備でもしながら聞くしかないなぁ。

明日の、化身土巻の講義の準備をしなくてはならないのに……


やあやあ依田さん 投稿者:らくりん  投稿日:04月15日(土)10時36分46秒

やってきましたね。
ちょっと、いつもの会社とは違った雰囲気を味わって下さい。
今は、こんなことを考えたりしています。

一緒にやっていたころとはえらい違いでしょう。


すごい掲示板ですね 投稿者:依田  投稿日:04月15日(土)10時09分16秒

ホームページ開設おめでとうございます。皆さんの投稿を拝見させていただきましたが、充実した内容に驚きました。また、見させていただきます。


アクセスが楽しみです 投稿者:らくりん  投稿日:04月15日(土)10時00分42秒

次は何が出てくるやら、いつもアクセスが楽しみです。
この手の話題に限らず、いろんな話題大歓迎ですから、
遠慮なさらずに、怖がらずに、お書き下さい。

三吉さん
>だったら、らくりん氏に浄土真宗の信仰は必要ないのでは?
残念ながら、いや残念じゃなく、ありがたいことに、私も人間としての弱さや葛藤は
存分に持ち合わせておりますので、ご心配なく。
きっと雰囲気を和らげて下さろうという配慮から、ご愛嬌に書いて下さったのだろうと
思いますが……、ちょっと揚げ足とり的ですねぇ。


大願さん、
国家主義体勢への加担の問題は
加担させたものと加担させられたものは同罪ではない、特に信仰的〈確信〉がからんで
くる場合は。今日ではそれをマインドコントロールと言っていますが、親鸞は第20願
の問題としておさえています。これは化身土巻前半のハイライトの問題です。
麻原彰晃+幹部たちの罪と、彼らに操られた一般信者を同罪とするわけにはいかない。
だから、靖国・護国神社・忠魂碑(学校の敷地にもあります)と地域の神社とを一括り
にしてしまう見方には簡単に同意できません。

平太郎の逸話一つで、『御伝鈔』全体を評価しようとするつもりはありません。
逆に一つの問題箇所の存在で、ある作品の全体を否定するつもりもありません。
平太郎の逸話は、「お祭り」問題の本質がきわめて集約的に現われている問題だ
と私は思って取り上げました。

>これは、私自身に対してで、他に強要しているのではないのですが、真宗を世渡りの
>道具にしたくありません。強いとか弱いと言うのでなく、それしかできない不器用な
>ものです。
あなたがなさったことは、「自分に対して」いい聞かせたというようなことではなく、
他人がお祭り見物に行くことについて「とやかく言う」発言だったように思いますが、
もし大願さんご自身の自戒ということだけだったのなら、この議論はこれ以上必要ない
かと思います。
しかし、今回の「お祭り」の議論で問題になったのは大願さん個人の問題だけではなか
ったはずです。
信仰の問題は、基本的には個人の問題に帰する領域です。だから人がどういう信仰・信
条を持っていようが基本的には他人がとやかく言うべきことではありません。
これが大原則です。
オウム真理教関係者だからと言って、なんでもかんでも袋叩きにすればいいというもの
ではありません。
しかし、どうしても他人の信仰や信念に口を出さなければならない状況があるとしたら
それはどういう状況の場合、どういう条件において必要なのか。
その一つは、信仰・思想・信条の自由が侵害される場合。つまり特定の信仰・思想・信
条が、強大な圧力によって強要される場合です。
その強要圧力の限度の見極めは必要だし、非常に重要だと思います。
靖国問題を取り上げて行く場合も、そうした信仰・思想・信条のきわめてデリケートな
部分を見極めてなされなければならないと思います。だから、味噌もクソも一緒にして
しまったら、どんなに正当なことを言っているつもりでもだれも耳を貸しません。
もっとも、「他人が耳を貸そうが貸すまいが、言うだけのことは言うんだ」という姿勢
もありますが。

>『他人に「化身土巻を読め」と』どこかで言いまいたっけ?
たしかに「読め」とはおっしゃっていなかったと思いますが、「化身土巻を読んでいな
い」という書き込みは、2ヵ所ほど見たように記憶しています。
そしてそういう言い方は、私は「もっときちんと読め」という意味になると思います。
少なくとも私が誰かに向かって「あなたは化身土巻をきちんと読んでいない」という言
葉を向ける場合は、「きちんと読め」と受け止めてもらいたいと思って言います。


だったら 投稿者:三吉  投稿日:04月15日(土)04時50分36秒

>「それは神祇不拝の教義に反するからやめる」と平然と言える強さを持った人間には、
>浄土真宗の信仰なんかあまり必要ないのではないかと思います。


だったら、らくりん氏に浄土真宗の信仰は必要ないのでは?
「私は、神社で礼拝したり、合掌またはかしわ手を打ったり、
まして称名念仏したりはいたしません。
する必要もないし、したくもないし、させられたくもない。」
といわれてますから。


似て非であっても… 投稿者:大願  投稿日:04月15日(土)04時01分00秒

昼休みに書き込んだら、落麟さんとほぼ同時でした。
貴重な時間を割いて、貴重で、長文のレスを下さり恐縮です。
神祇不拝とヤスクニは、しかし今、重要な問題のような気がしますので
勝手ながら、再度書き込ませて頂きます。オニューの掲示板を
独占してしまう失礼と雑言をお許しください。

浄土の三部経と『御伝鈔』を並列でならべるのはどうかと思います。
私は、親鸞教を宗祖のお言葉をよりどころにしたいのです。
覚如や存覚の著書を、ご本典や三部経と同列とかそれ以上にして頂こうとは思いません。
群賊悪獣とまでは言いませんが、宗祖の教えを曲げているような気がしてならないのです。
真宗門徒になりたいと思えば思うほど、その思いが最近強くなってきています。
平太郎の件、その時代背景から、やむなく熊野もうでをしたと言うことを、覚如はどこから
聞いてきて書いたのか知れませんが、百歩ゆずって、そうだとしても、平太郎の事情を
現代の祭り見物に当てはめるには無理があるように思えますが…。
これは、私自身に対してで、他に強要しているのではないのですが、真宗を世渡りの道具に
したくありません。強いとか弱いと言うのでなく、それしかできない不器用なものです。
宗祖はそういう不器用な凡愚のために弥陀一佛、念仏一行を開いて下さったのでは?

>これは第20願の問題です。
>と言ったら大願さん、何のことだかピンときますか?

先日、名古屋でお聞かせ頂いた阿弥陀経のこころでしょうか?
苦悩の大衆である私のために、自力の念仏を否定せず、浄土を仮設されたと。
よく17願を引き合いに神祇肯定する先生がおいでですが、
20願も関連するのですね。

神道と国家神道の件、
>しかしそれだけを理由に両者を完全に同一視することは間違いだと思います。
>歴史的にも今日的にも担っている役割が完全に違います。
完全に同一視するのでなく、明治国家以降、国家神道にからめとられ、国家神道の出先と言うか
下部組織に組み込まれ、それ以降の歴史は今も関連付けが払拭されたとは思えません。
忠魂社や忠魂碑の殆どは神社の境内に建てられたままです。そこは村の靖国として現存しています。
私たち基幹運動はヤスクニとカタカナで呼び、ヤスクニ問題として取り組んでいます。
例えば、私の町内では、先の天皇の病気平癒祈願を町内会・神官が取り仕切って村の神社で行いました。
祭神そのものが違っていようがいまいが、国家や行政が利用できるものを利用しようとするとき
いつか来た道と同質の危うさを包含していることは否めません。油断大敵なのです。
神道と国家神道の明治以降の関係を問題にしているのであって、その起源を問題に
しているのではありません。起源はおっしゃる通りでしょうが、危うさは現状がどうなっているかです。
だから、明恵の仏教と親鸞(法然)の仏教との関係との比較はしっくりしません。
神道と国家神道の相違点を一つ一つ挙げていって、それを吟味するのが狙いでなく、
明治以降国家の都合で同化されてしまった名残を問題にしているのであって、これを
とらえて、差別発言と同じと言うご指摘は受けようとは思いませんでした (¨;)。
ま、俗信こそが本来の宗教だという意味のことを最近言っている学者がいますが、
俗信で助かる人は俗信で行けば良いかもしれませんが、
「共に歩む」教義を否定する意味では、やはりヤスクニ体質です。
最近の情勢がきな臭くなっていますので、反靖国連の私としては、ナーバスになっています。
取越し苦労で済めば良いのだけれど。

>一部の共通点や似た特徴を取り上げて、それでお前らは結局同じだ
>と決めつけてしまうのは、「部落の人間は……」「在日朝鮮人は……」「女は……」
>「障害者は……」とレッテルを貼りつけて差別するやり方と同じ発想です。
このご指摘が国家神道と神道のことをおっしゃっているのならば、前述弁解の通りです。
真俗二諦の西の宗門体質の事で有れば、そうかもしれません。どうもすみません。
>他人に「化身土巻を読め」と言うのならば、少なくとも
>その前にご自分できちんと読んでからにしてください。
『他人に「化身土巻を読め」と』どこかで言いまいたっけ?。神祇不拝をしつこく言うから
でしょうか?。I先生の講義が淡白だったのに落胆したと書いたからでしょうか?
きちんと読んでみたいと思っていますが、自分の都合にあわせて、拾い読みした限り、
どうしても神祇不拝の個所ばかりが目に飛び込んできて、真俗二諦を勧めるような記述に
出会えていません。また、敢えてそれを探そうとも思いませんし…。
これって、宗祖を自分勝手に利用しているだけと、また叱られそうですね。 (¨;)


似て非なるもの 投稿者:らくりん  投稿日:04月14日(金)15時24分53秒

>『御伝鈔』の多くは、野心家覚如の創作が多いのですが、ここの部分は特にそんな臭
>いがしませんか?
実話かどうかは知りませんが、もし仮にこれが野心家の創作だとしても、ここに描か
れた親鸞と平太郎のやり取りはおかしなものだとは思いません。(後代の創作だからと
いう理由だけで意味がないというのならば、浄土の三部経も含めて大乗経典のほとんど
は捨てなければならないことになってしまうのではないか)
自分の立場上、どうしても熊野へ代理として参拝しなければならなかった平太郎が、そ
うすることは自分の信仰に対する裏切りになるのではないかという葛藤の前に立たされ
た。これは〈いとおしい〉くらいに人間的で、誠実な葛藤だと思います。
「それは神祇不拝の教義に反するからやめる」と平然と言える強さを持った人間には、
浄土真宗の信仰なんかあまり必要ないのではないかと思います。
そういう、ある意味で「ささいで、つまらない」ことにまで悩まなければならないほど、
弱くて愚かな人間だからこそ、大切な同行なのではないですか。
そして、私はそ葛藤を親鸞に質問できた二人の関係はとてもいいものだと思いますし、
それを頭ごなしに否定しなかった親鸞の対応もとてもいいと思います。

>「ご本典」をひいてのご指導をお願いします。
ということであれば、これは第20願の問題です。
と言ったら大願さん、何のことだかピンときますか?
親鸞は第20願を基本的には否定していません。むしろそれを勧めています。
詳しくは、5月の連休空けに第W巻が出るのをお待ち下さい。

>また、靖国と鎮守の神を分けて見るべきだと言うことも理解できません。
>「イエ、ムラ、クニ」の繁栄のみを祈る宗教は、必ず排他がつきまといます。
>「村八分、非国民」を生むのです。
排他性という点では靖国神社と鎮守の神様とは同質のものがあります。
しかしそれだけを理由に両者を完全に同一視することは間違いだと思います。
歴史的にも今日的にも担っている役割が完全に違います。
第一祭神そのものも、その意味も全然違います。

神道と国家神道とは似て非なるものです。国家神道は、古来の神道の都合のいい部分
だけを取り入れて、その機能を極端に強化して利用したものです。
それを同じだというのは、明恵の仏教と親鸞の仏教が、
どちらも仏教なんだから大して違わないだろうと言うのと変わりません。
似ている点があるからと言って味噌もクソも同一視するような杜撰な姿勢を、
親鸞は取っていません。
むしろ親鸞は、似ている部分の中にある違いを非常に厳密に見極めていこうとする
姿勢を貫いています。
そして似ているものの中に違いや逸脱を見出し、
逸脱の中にも、必要にして不可欠な「願われて在る逸脱」と、
許すべからざる詐称をきっちりと区別しています。
それが化身土巻の姿勢です。

大願さんのように、一部の共通点や似た特徴を取り上げて、それでお前らは結局同じだ
と決めつけてしまうのは、「部落の人間は……」「在日朝鮮人は……」「女は……」
「障害者は……」とレッテルを貼りつけて差別するやり方と同じ発想です。
そのように相手を十把一からげにして否定するやり方は、
おそらく大願さんが大嫌いな「和」の思想を裏返しにしただけのもので、
同じぐらい排他的な考え方です。

>「イエ、ムラ、クニ」の繁栄のみを祈る宗教
は、それだけならば悪しきものとして否定するわけにはいかないと思います。
たとえそれが極めて排他的な機能を持ってしまうとしても、人間の集団が排他的である
というだけでは、それを悪だというわけにもいきません。(好き嫌いは言えますが)
この問題は、『教行信証』では第19願の問題です。
これも願である以上「そうあれかし」と願われているということで、
これも親鸞は、完全に否定しているわけではありません。第W巻を待って下さい。

私は、鎮守の神様にはお参りはしませんし、ご門徒にも勧めはしません。
お付き合いも極力避けています。しかし、それらがない方がいいとまでは思いません。
けれども、靖国神社のような軍事的な意味を持つ宗教的施設はない方がいいと
思っています。

違いを明らかにしようとせずに十把一からげにしてしまうような大ざっぱな
ものの見方しかしないならば化身土巻のような厳密な確かめは必要ありません。
大願さんは
あっちこっちで「化身土を読んでいない」と書き込んでいらっしゃいますが、
他人に「化身土巻を読め」と言うのならば、少なくとも
その前にご自分できちんと読んでからにしてください。


『御伝鈔』の熊野詣でを 投稿者:大願  投稿日:04月14日(金)12時19分18秒

実話とお思いですか?
受け売りとまた叱られるかも知れませんが、
『御伝鈔』の多くは、野心家覚如の創作が多いのですが、ここの部分は特にそんな臭いがしませんか?
平太郎と覚如が直接出逢って話を聞いたという史実はないと聞きました。
『御伝鈔』を本に真宗を説くと、あの真俗二諦の教義、ポストモダンの教義が全て正統と
なってしまいます。信用できない『御伝鈔』でなく、「ご本典」をひいてのご指導をお願いします。
個人的に『御伝鈔』には興味が有りませんし、これによって真宗に出逢いたいとは思いません。
ま、宗門には都合の良い書物でしょうが。

繰り返しますが、お祭りを見に行くことを良いとか、悪いとか言うのでなく、その必要が
何故あるかをお尋ねしただけです。「あこがれ」をもってまで。
「清め塩」や「忌」の問題を取り上げている一方で、それを問題とすべきではないと
仰有っている僧侶も多いのですか、そのたぐいかも知れません。
落隣さんは、池田師同様、蓮如の真俗二諦を肯定されているのでしょうか?
そうで有れば、仰有っていることは一貫していますので、何となく理解できます。
そう言う意味で有れば、この地の西の僧侶と落隣さんとまこさんの仰有っていることは、一枚岩です。
覚如、存覚、蓮如の巧みな真俗二諦に疑問を持っている私には、素直に受け取れないだけです。

もう一つ、混同が有ります。
神社や他宗を信仰する人を、敬うことを否定してはいません。信仰する人を敬うのと、神社や他宗の神を
敬うと言うこととは違うという事です。信仰する人を、敬うからと、その神を崇拝して参拝する必要など
ないはずです。

また、靖国と鎮守の神を分けて見るべきだと言うことも理解できません。
「イエ、ムラ、クニ」の繁栄のみを祈る宗教は、必ず排他がつきまといます。
「村八分、非国民」を生むのです。そしてこれでは現前の私の救いはなく、
そこには「共に歩む」思想は出てきません。「共に歩む」働きを強制的に置き忘れさせる
機能を持ち合わせています。そして、いつでも靖国と一体化してしまう危険性が有るのです。
先の戦争でそのことは証明済みですし、真宗までが戦時教学を編み出してしまった悲劇を
忘れることができません。

>そのことに不都合があるとは思いません。
>どうしてその程度のことが問題になるのか、その方が不思議な気がします。
確かに「念仏と生活」を切り離せば、問題にはなりません。いまはこれが主流です。 (¨;)
何でもありで、世俗にすり寄った宗門の結果の一つが、戦時教学ではなかったのか。
穢れや差別を温存し、助長する習俗を無批判に受け入れて行くことが、私のはからいにすぎませんが
私にはできなのです。問題にならないことの方が、私には判りません。
「靖国国家護持推進の人たちも、『平和を願う』気持ちはおなじ
みんな仲良く暮らしましょう」ということなのでしょうか。
これもまた、西の真宗の主流ですが、私はあえて反主流に生きたいだけです。


再論「お祭り」論争 投稿者:らくりん  投稿日:04月14日(金)12時09分29秒

「お祭り」問題は他の掲示板の論争が、ここに飛び火してきましたので話がのみこめない
人がいると思います。この問題が気掛かりになる方は〈神通寺BBS〉
http://www.hidatakayama.net/asato/bbs/minibbs.cgi
へ飛んでみて下さい。

開店早々かなりハードな問題になって、メールで知って初めて訪れて下さる、
古くからの友人・知人たちは驚いているかも知れませんね。
まあ、私の近況報告だと思って、読んでみて下さい。

私は、神社で礼拝したり、合掌またはかしわ手を打ったり、
まして称名念仏したりはいたしません。
する必要もないし、したくもないし、させられたくもない。

それは神社だけではなく、どのような対象に対してであっても
礼拝や敬意を表することを強要されたくはありません。

礼拝や敬意は、完全に「主体的な選び」に委ねられるべきであると思います。
そして、信仰というのは、
そうした主体的な選び「のみ」が問題になる領域であると思っています。
そして、特に浄土真宗はその指向がきわめて強い信仰であるとも思います。
しかし浄土真宗は、本尊への礼拝や合掌を決して他者に強要はしません。

私の本の前書きを書いてくれた、菱木さんから教えてもらったのですが、
神社で合掌して念仏を称える姿は、「上野駅から九段まで〜♪」で有名な
『九段の母』の3番に
  両手あわせて ひざまずき   おがむはずみの おねんぶつ
  はっと気づいて うろたえました  せがれゆるせよ 田舎もの
とある歌詞を思い出させます。
おそらく熱心な真宗門徒であろうと思われるこの母親の姿を、
私たちは嗤うことはできませんし、決して嗤ってはならないと思います。
だからと言って、それを誉めたり、自分もそうしていると自慢するようなこと
でもないと思います。ましてそれを人に勧めるような事柄でもありません。

「日の丸」「君が代」の問題にしても、
 A:血塗られた歴史性から生ずる〈意味〉の問題と、
 B:対象が何であれ、それへの礼拝や敬意を〈強要〉することの問題
という二つのレベルの問題があると思います。

礼拝や敬意の強要は、きわめて宗教問題です。
「日の丸」「君が代」の問題も、それと同質の宗教問題として私は考えています。
国旗(象徴)や国歌(口称儀式)が制定されること自体にまでは反対しませんが、
それが、今日学校現場において進行しているような形で強要されるような事態には
信教の自由・思想の自由という観点から見るだけでも、とうてい賛同できません。


infowebのドメイン名について 投稿者:らくりん  投稿日:04月14日(金)10時52分24秒

メールアドレスの変更をお知らせしようとしたのですが、infoweb宛てのものがすべて
返送されてきました。ニフティとの統合のためにドメイン名が変更になったのではないかと
思うのですが、何かご存知の方がありましたら、教えて下さい。


「お祭り」の問題 投稿者:らくりん  投稿日:04月14日(金)09時28分56秒

ほとんど何も気にせずに私はお祭り見物をしております。
靖国神社にも、参拝ではなく見学には参ります。今年の正月あけには、美川の会の学習会
のメンバーと伊勢神宮の元祖だという元伊勢神宮(天橋立の近く)にも見学に行ってきま
した。そのことに不都合があるとは思いません。
どうしてその程度のことが問題になるのか、その方が不思議な気がします。
また、それに一々律儀に反応する、大願さんも大願さんだとも思いますが、……

神社に行くと言ったって参詣、見物、観光、冷やかし、調査、それぞれ全然意味が違い
ますし、
祭りだって、御神輿を担ぐ人、その上にのる人、それを見て興奮している人、
その興奮する雰囲気を見物する人、夜店・出し物を見にいく人全部関わり方が違うのでは?

こんな例を引く必要もないかも知れませんが、親鸞の教えを直接受けた平太郎という熱
心な門徒が、主人の言い付けで熊野神社に参詣に行かなければならないことがありまし
た。平太郎は、熊野に参詣してもよいものかどうか心配になり、親鸞に「事のよし(悪
し)をたずね」たところ、親鸞は、
  本願を信ずる人が、公務や領主の言い付けで、神社に参詣しなければならないようなこ
  ともあろうが、「更に自心の発起するところにあらず」(自分の心から信仰心がおこっ
  てきたことから参詣するわけではないだろう)
と、答えています。(『御伝鈔』真宗聖典735)

逆に考えればはっきりします。
本願寺の報恩講の時に、本願寺を観光・見物に来た人が「浄土真宗に染まっている」と
考える人なんかどこにもいないでしょう。

「男の沽券に関わる」と「男子厨房に入らず」というようなことを自慢気に言う人は最
近では少なくなりました。しかし、その程度のプライドを捨て切れない人はまだまだた
くさんいます。私はそういう人を見ると、
「あんたの男の沽券とやらは、台所に入って料理したり、皿洗いをした程度で傷付いてし
まうほどヤワなものなのか。その程度の沽券なんてものは私はうらやましくもなんともな
い」
と言ってやりたくなります。
自分が信仰しなくても、他人の真摯な信仰には敬意を払わなくてはならないと思います。
クリスチャンの信仰者に敬意を払ったからといって、私の信仰は何も傷つきません。
その点は真摯な神道信者との関係においても、成り立つ関係だと思います。

靖国神社の信仰に問題があるのは、その当然な相互敬意を完全に踏みにじってしまうこと
が、つまり、戦死した人本人やその遺族の意向をまったく無視して祭神にしてしまうこと
です。
強要を前提にした信仰であるということが、一点と、
もう一つの問題点は、
靖国神社の教義あるいは信仰は、戦争の存在と切っても切り離せない関係にある点です。
非常に戦争を前提にしなければなりたたない信仰は、人々に死を強要する装置となります。
その点で、私は、靖国神社の信仰や教義、つまりそうした信仰や施設が存在すること自体
にも好意を持つことも敬意を払うことができません。
この点では、鎮守の神様と靖国の神様は区別して考えなければならないかも知れません。
鎮守の神様には強要の要素(お付き合いをことわりにくい、断れば仲間外れになる)は
ありますが、必ずしも本質的に好戦的な信仰だとは言えないのではないかと思います。


都知事への抗議文 投稿者:まこ  投稿日:04月14日(金)02時52分14秒

                       2000年4月14日
 石原都知事殿
                       岐阜県在住 三浦 真智

 初めまして。東京には大学以来、20数年も住んでいた者として(現在は
岐阜在住)、今回の石原都知事の一連の言動には強い憤りと懸念を表明せざ
るをえません。

 「三国人」は手元の辞書には掲載されていませんが、戦後、在日韓国朝鮮
人をさして使われていた蔑称であることは明らかです。この事実を知りなが
ら、あえて使用された意図がはかりかねます。大災害の時を引き合いに話さ
れていることを考えると、関東大震災の時のデマによる朝鮮人・中国人など
の虐殺行為をも想起させる、極めて危険で民主主義に反する言動です。

 自衛隊は日本国憲法第9条のもとで「軍隊」ではないとされてきました。
実態が「軍隊」である重大な段階にあることを問題にすべきであって、あえ
て災害時の治安維持のための出動を求めるのは都知事の権限の著しい逸脱で
あり、公務員の憲法尊重義務に反する言動です。

 以上、一連の石原都知事の発言の問題点を指摘し、発言の撤回と謝罪に加
えて、都知事の辞職を強く求めます。


石原知事発言に抗議しよう! 投稿者:まこ  投稿日:04月14日(金)00時23分10秒

 次の転載を依頼されましたので、よろしくお願いいたしますm(__)m

Yuriko YOKOYAMA さんは書きました:
>神奈川歴史教育者協議会の横山百合子ともうします。
>4月12日午後1時過、ニュース(NTV)を見ていたら、石原知事の12日記者会
>見報道があり、その中で、都庁に寄せられた反応の紹介がありました。36%が知事
>支持の反響だとのことでした。アナウンサーも、36%の支持があるのですねと
>ちょっと意外だというニュアンスで報道していました。
>ところが、同日の夕方には、数字は逆転し、読売新聞HPによる報道(4月13日午
>前1時18分付)では、1000件以上の反響の中で、抗議・反対が35.8%(3
>68件)、石原支持が60.9%(628件)に逆転しています。
>このような数字が、おそらく計算尽くで発言しているであろう石原知事に力を与える
>のではと、おそれています。早速、都庁に抗議の電話をし、発言の撤回と謝罪を要求
>しましたが、世論の包囲という点で、この数字を緊急に変えることは、重要だと思い
>ます。このメールをごらんになったみなさんが、1通メールを書いて下さるだけで、
>数%は支持率を下げることができるかもしれません。
>このメールを見られた方は、短い抗議でも結構ですので、よろしくお願いいたしま
>す。
>
>抗議先  
>電話:03−5321−1111(東京都庁代表、抗議電話の旨をはなせばすぐ担当
>に代わってもらえます)
>メール:東京都庁HPの「都政に対する御意見・御提言・苦情・要望」宛先
>governor@metro.tokyo.jp
>詳しくは、東京都庁HP http://www.metro.tokyo.jp/

 都民の声が一番でしょうが、全国から注目されているということをアピール
することも大事だと思います。それにしても、危険な数字です(--)


高山祭り&祇園祭り 投稿者:まこ  投稿日:04月14日(金)00時20分39秒

 「祭り」自体が神道であることは承知の上で、伝統技能・伝統芸能をきちんと
実物を見た上で評価していくことは必要なことだと思っています。率直な心情を
わざわざ掲示板に書き込むのは、それに対する疑問も内面的に持っているからで
あって、自慢したいどころか、煩悩具足の私であることをあえてさらけ出してい
るつもりです。それが開き直りだと受け取られても、今のコミュニケーション?
状態ではやむおえないかなと思います。ある時点からボタンの掛け違いが起きて
いて、皆さんに不愉快な思いをさせているとしたら、私の不徳の致すところです。

 大願さんの論理?によると、相撲を見ることも避けるべきであるということで
しょうか? 日常的な神道的(非真宗的ないし反真宗的)な習俗に対してどのよ
うに真宗者として対処するのかは、各自が考えて、決断し、行動するべきことが
らです。人に向かって、いいとか、悪いとか、言えないのではないでしょうか?

 お祭りへの対処は皆さんも悩まれているこtぽではないかと思いますので、で
きれば多様な実践をお聞かせいただくとありがたいです。


田んぼの匂い 投稿者:らくりん  投稿日:04月13日(木)18時13分06秒

常晃さんお待ちしていました、
もちろん、世俗まみれの書き込み大歓迎です。
その為に開いたようなものです。

歩いてきました。今日は、本当に一日のんびり過ごしました。
私は家にいる時は、ほとんど欠かさず約1時間のウォーキングに出かけます。
1年半前に、生活習慣病の痛風が発症し、ほぼ同時期に高脂血症の数値も天井知らずに
跳ね上がり、「痩せろ」という医者の警告で、必要に迫られて始めたのですが、現在で
は、楽しみな習慣になっています。
歩いている最中にいろいろなことを思いつきます。メモを取っておきたいようなことも
あるのですが、面倒なのと、そういうすけべ心を持って歩いては、精神衛生によくない
かと思い、今のところはメモは持ち歩かないようにしています。家に帰ってから、おぼ
えていることだけをメモしています。忘れてしまうことはたいしたことじゃなかったん
だろうと諦めます。でもけっこう大事なことも忘れてしまったような気もしますが…… 
しょうがありません。
あと風呂の中と車の運転中に、大事なことを思いつきますが、これもメモができない状
況で、逃がした魚は大きいのか、どうもそういう時に思いついて忘れ去ってしまったこ
とは、何かとても重要なことだったような気がしてなりません。

ウォーキングコースは、田んぼの用水沿いの遊歩道が中心で、コースの7〜8割以上が
田んぼの横を歩いている感じです。
(現在土地整理事業が進行中で4、5年もすれば様変わりしてしまうでしょう)
今の時期は田起こしが始まっています。それで風邪の強い日は、土埃が舞い上がり、口
の中がいがらっぽくなってしまいます。

そんなことを思いながら歩いていると、気になることに思い至りました。
どうも最近の田んぼや畑は〈匂い〉がないのです。
昔、あぜ道でふきのとうやのびるを摘んだりしたこの時期は、どこへ行っても下肥や堆
肥の「かぐわしい匂い」がありました。
祖母に頼まれて、畑の粗起こしをした時、長靴が蒸れるのが嫌いで、裸足で畑に入り鍬
を振り下ろしたものです。あの土の感触はとても気持ちがいいものでした。しかし、今
歩いている横にある田んぼや畑にはとても裸足で入る気になれません。

掘り起こされた土塊の表面は金属のようにのっぺりしていて、まるで粘土のようで、
裸足で入った畑の、あのホクホクした土の柔らかさが感じられません。

やっぱりこれは、化学肥料と農薬を多用する農業が土を殺しているのだろうと思います。
唯一匂いがあるのはキウイ畑の横を通る時です。これは、伸び過ぎた枝を切り落し、そ
れを細かいチップにして畑の横に積み上げてあるのが腐っている匂いです。
だから堆肥の醗酵臭とは違いちょっと嫌な匂いの部類になります。


おめでとう! 投稿者:常晃  投稿日:04月13日(木)16時47分24秒

らくりんバンバンというネーミングがいいですね。
世俗にまみれた書き込みでもいいんでしょうか?
落鱗さんは、FM(さあ、何の略でしょう?)だから、許してもらえるかな?
じわじわ行きますね。


みなさんようこそ。 投稿者:らくりん  投稿日:04月13日(木)16時12分30秒

ichikawaさん、藤田さん、
でも、メールアドレス変更のお知らせににリアクションして、
はるばる飛んできてくれてありがとう、
ネットで「はるばる」というのもちょっと変かも知れませんが、
ちょっと場違いかなと思われたかも知れないなという意味を込めて、です。
これにこりずに、たまにはお越し下さい。


大悲さん、
あちこちに、一気に大ブレイクですね。今後ともよろしく。

大願さん、
相変わらず、お元気で。今度は「お祭り論争」ですね。
次々と、おもしろい問題が出てきて話題のタネが尽きませんね。


おめでとうございます 投稿者:藤田 祐治  投稿日:04月13日(木)15時40分43秒

ホームページ開設
おめでとうございます。
ますますのご発展をお祈り申し上げます


「ニュース23」で 投稿者:大悲  投稿日:04月13日(木)15時29分09秒

夕べの「ニュース23」で「弱者とはだれのことか」の著者と、近畿大学の教授で解放同盟の方が
「争論」コーナーで、差別問題について話し合っていましたが、
どうも考えが近くて争論になりませんでした。

タブーにして先送りしているから何も解決しない、という趣旨はわかりましたが、
予定されていた堺屋氏を先送りしてまで放送した意図がわかりませんでした。

手話コーラスの勉強をする中で、壁の厚さを感じました。
手話はろうの方々の生活言語です。それをステージの上にのせて表現する事にろうの方々には
複雑な思いがあったらしい。
文部省は聾学校では口話(こうわ)教育(唇の動きを読んで理解し、発音によって表現する事)
を勧めて、手話は出来るだけ使わせない。手話を使う事で、いじめられたりすることもあり、
ろうの方々は「手話を使う事は恥ずかしい」と思ってきた。
しかし、厚生省は、手話のボランティアを薦め、その中に手話コーラスもある。
自分たちが、恥ずかしい事だと思ってきた事を、健常者がステージで堂々と行っている。
そのことで、私たちのコーラスに参加している方を同じろうの方から認めないと
いうこともあったようだ。

現在の手話コーラスは言ってみれば<逐語訳>けれども大事な事は何を伝えるか、
ということ、と永六輔さんが先日のコンテストの講評で話しておられた。
「「青い空」を<青い><空>の手話をするのではなく、青く澄み切った<空>が表現されていれば
<青い>は必要ない」と、

相手にどんな思いを伝えようとしているのか、相手がどんな思いでその言葉をうけとるのか
都知事なんか、言葉の定義づけ云々言ってましたが、
「第三国の人は混乱に乗じて騒ぎを起こすに違いない」と思ってる事は
ちゃんと全世界に伝わりました


掲示板オープン、おめでとうございます。 投稿者:大願  投稿日:04月13日(木)11時53分02秒

先先日、名古屋でお会いしたときに、掲示板開設を熱く語られていたとおもったら、
早速実現ですね。
>喜劇、人権、差別、憲法、「日の丸」「君が代」、なんていう硬派のテーマで
>バンバン日本人の精神を抉っていきます。
と、宣言しての開設に、嬉しくなってしまっています。

>感情的な記述も、きちんとあるべきところにその位置がおさまっている。
>だから、のべつまくなしに感動したという生の感覚をぶつけられる時に感ずるようなヌ
>メヌメとしたねばりのようなものは微塵も感じられません。

静かな音楽が流れているところに、突然思い切りピアノの鍵盤を思い切りたたくかのような
あの『感情的な記述』が、私はとっても好きで、スクリーンセーバーに本典総序の一部を
書き込ませて頂いています。
私たちの感性は危ういかも知れませんが、感性を麻痺させての恩寵主義に甘んじていることを
うまく利用してきた伝統教学から、もうそろそろ脱却しなければ。

>今の日本の世の中ちょっと変だぞと思い始めている人
と、仰有って頂きましたので、もう一言。
高山祭を見に行くのが良いのとか、悪いのとか言っているのでなく、真宗に出遇えば、
神社参拝の必要などないし、まして、それに「あこがれる」こともないのではないのかと
いうことです。我々門徒に神祇不拝を説きながら、自ら高山祭りにあこがれていくという
表裏は、真俗二諦とどこが異なるのかをお尋ねしただけですよ。
まさか、また、高山祭に行くのは「非」であって、「反」ではないから、問題ないと
宗祖の仰せでもないことを、仰せとかのように言いくるめられてしまうのではないかと
危惧します。僧侶・寺族の言動は、われら門徒に大きな影響力が有ることを理解して頂きたい。
高山祭にそれほど「あこがれて」おいでであれば、あえて制止などはしませんが、わざわざ掲示板に
「あこがれ」を公言して行くような事ではないのではないかと、疑問に思っています。
祇園祭に三度行った事を誇りのように居直られるのも、とまどってしまいます。
西の基幹運動が「靖国」から「ヤスクニ」問題へと、カタカナ表示になったのは、
鎮守の神までも問題視しようという動きからだった筈です。
これは、真宗の原理主義へ回帰しようという一つの取り組みのような気がします。

すみません。挨拶だけのつもりが、最初から長くなってしまいました。 (¨;)


ごあいさつ 投稿者:ichikawa  投稿日:04月13日(木)11時20分48秒

ちょっと寄りました。

合掌

http://www.winwin.ne.jp/~ichikawa/


フェルメール展顛末記 投稿者:らくりん  投稿日:04月13日(木)10時56分19秒

〈真宗BOARD〉
http://www.tcup4.com/444/masaho.html (よかったらこちらもお立ち寄り下さい)
に書いたフェルメール展、

わざわざ行ったのに、残念ながら休館日でした。
大阪市立美術館などという公共施設は、月曜休館が多いのでもしかしたらと思い、
毎日新聞の記事で、休みの日はいつかなと気を付けて見たけれど何も書いていないので、
無休だと考えてしまったのがバカでした。
電話を一本入れればすんだ話なのに、グスッ。

憤懣やるかたなく、せめてもの腹いせにと
「おい、毎日新聞自分とこが主催する展覧会なんだから、休みの日ぐらいは書いておけ。
4月4日のオープンの大々的な宣伝記事を見て全国から、フェルメールを見にくる人が
いるんだぞ。しっかりしてくれ」と、苦情電話をかけました。
もちろん、姫路へ行ったついでなどとは言わず、わざわざ石川県から朝一番でやってきて、
門の前で守衛さんに追い返されたと言ってです。
向こうは、平謝りでした。
そのお詫びにということなんでしょうが、招待券を送ってくれるということでした。
こんなこと書いてもいいのかなぁ。

7月2日までの開催期間中には、まだ何回か「ついで」がありそうなので、
ぜひとも次回は月曜日をさけてと思っています。

思う存分ネット散歩を楽しんだので、これからサウナでも行ってきます。


感動することと、それが伝わるということ 投稿者:らくりん  投稿日:04月13日(木)10時23分35秒

先日小松で発足した会の顔合わせの席上「自分は念仏の教えに感動したその感動を伝え
たいと思って、話したが、うまく伝わらなかった」というような発言がありました。
彼はとにかく「感動」を強調しました。『教行信証』も感動の書だと。
それを聞きながら、ちょっと違和感をおぼえていました。
その違和感が何なのか整理がつかなかったのですが、少し考えてみたい問題です。

たしかに、『教行信証』は感動の書という一面はあります。しかし、私は全体として
『教行信証』という書物は、非常に論理的な書物だと思っています。
構想と構成がきちんとしている。
まるで、クロスワードパズルかジグソウパズルのように、一つひとつのパーツがきちん
と役割をもっていて、一つでも位置がずれると全体がガタガタになってしまう。

そしてそれらが、できのいい推理小説のように組み立てられている。
伏線と結末が複雑にからみあって、出された疑問はどこかで必ずああそういうことだっ
たのかと得心がいくように仕組まれている。

感情的な記述も、きちんとあるべきところにその位置がおさまっている。
だから、のべつまくなしに感動したという生の感覚をぶつけられる時に感ずるようなヌ
メヌメとしたねばりのようなものは微塵も感じられません。

そこで一言思い浮かんだのですが、
「人は誰でも感動することはできる。しかし感動を伝えることは容易ではない」
私は、その学習会の席では、後半部分を
「感動を伝えるのは技術が必要だ」と言ったのですが、それでは不十分ですし誤解され
る可能性があります。
「笑うことは誰でもできるけれども、笑わせることは難しい」と言った方がわかりやす
いかも知れません。自分たちが笑っている万歳や、バラエティーなんかがちっとも面白
くないのと同じで、
自分が感動したことを「感動した」という言葉でどれだけ繰り返しても、
そういう生の感情をぶつけられたら、聞いている方は、感動を共有するどころか、
かえって鼻白んで引いてしまう。

映画でも物語でも、感動してしまう作品や、笑ってしまう作品は、やはりきちんとした
計算の上に作られている。
それでも、受け方は造り手の計算通りには反応しないことはしばしばです。
受け手には受け手の事情があり、〈誤解する自由〉も持っているからです。

親鸞はその辺の問題を、往相(おうそう)還相(げんそう)という二回向(にえこう)という
ようなことばで言い表そうとしているのではないかと思っています。
感動することは「往相」(うけとめ)で、感動が伝わることが「還相」(はたらきか
け)です。そのはたらきかけの作用を「回向(はたらきがむけられる)」と言うと。ある
いは「他力(他なるはたらき)」と。

感動とか共鳴という感情は、必ずしもそれを引き起こしたものが真実であるということを
保証していない。自分がこれだけ感動したんだから、まちがいなくこれは本物だという
ことにはならないということです。
私たちは、虚構にも感動しますし。詐欺師の言葉にも感動してしまえます。
それほど私たちの感性というのは危うい。


開店おめでとうございます 投稿者:ootubo  投稿日:04月13日(木)04時41分08秒

 私で20人目ですが、発言もにぎやかですねえ。
 ホームページも開いてください、楽しみにしています。
 
 『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』は読み終えました。
 あんなにたくさん勉強しているとはお見それしましたという感じです。
 自分は徹夜で勉強したことは学生時代には無く、大谷派の教師試験を受けたとき
一度しただけですが、それを定期的に行っているとは。


掲示板開設、おめでとう? 投稿者:まこ  投稿日:04月13日(木)03時49分12秒

 といってよいのかどうか。開設されたご本人が一番に喜んでおられるようなので、
文字通り、バンバンの書き込みを期待しております。
 私の場合、パソコン通信経験が10年になるので、改めての感激とまではいきま
せんが、各自が掲示板を持ち、HPを持つ時代になるとは予想できませんでした。
 「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」は新聞?の書評を見て、また数人の方々の
感想を掲示板などで拝見して、先日、名古屋の地下の三省堂で購入してきてあるの
ですが、うまく時間がとれないで積読です。高山祭りの往復の車中で読破したいと
す。できれば感想を書けるとよいのですが、このところめっきり読書量が急減して
います。(買い込むことはかなり大量に買い込んでいる)
 ところで、私が高山祭りを見に行くことについて、神祇不拝を貫けていない世法
に埋没した行為であるとの批判をある掲示板で受けました。祇園祭には3回通うな
ど確かにしていますが、真宗者としてはお祭りを見たり写真撮影することも行って
はならないことなのでしょうか? 未見のお祭りに対する興味=煩悩ということな
のでしょうか? まだまだ軸足が仏法に定まっていない私であります。

http://www.mirai.ne.jp/~makotom/nishi.htm


お三方 投稿者:落鱗  投稿日:04月13日(木)01時26分59秒

いやいや、三吉さん、Vitaさん、Maroさん、さっそくお立ち寄り下さいまして、
ありがとうございます。今後ともよろしくお引き立てのほどを。

 都知事殿は、他人がどんなに嫌がっても、自分の〈正しい〉考えを押しつける
ことは当然だと考えているようですね。
あれだけ、トンチンカンな逆ギレする人は、一対一で向き合った時には相当な
覚悟をしていないと相手はビビリまくるだろうと思います。
小沢一郎とか、そのた大勢、
日本の政治家にはああいう形で「凄み」を効かせながら、相手を威圧していく人が
多いようですね。なんかの拍子にちらっとその仮面の下の素顔が露になってしまう。

でも、
「三国人」の辞書の定義なんかを引っ張ってきて、自分の発言を一生懸命正当化しよう
としている姿はちょっと滑稽で、なんか哀れなものがありました。
ああいう人は本当はけっこう臆病なんじゃないか、と思いつつ見ておりました。


(無題) 投稿者:Maro  投稿日:04月13日(木)01時06分03秒

一層のご活躍を念じ上げます。

 それにしても、都知事はどうなっているのでしょう。言い訳ではなく、ひらきなおりですね。
あの一言で、何人が傷ついたのでしょうか。
 また、あの首相交代は何なんでしょうか。誰のための政治でしょうか。どうして、政治不信に
油を注ぐかな?

 本当に一票の重さを再確認しました。


おめでとうございます 投稿者:Vita  投稿日:04月13日(木)00時27分02秒

タイトルで笑っちゃいましたヨ。
シュリはとうとう、見に行けませんでした。残念。
一人に一つ掲示板。そんな時代になるんでしょうねエ。
なんとか、私も、がんばります。今後とも、よろしくおねがい申し上げます。


掲示板開設おめでとうございます。  投稿者:三吉  投稿日:04月13日(木)00時16分41秒

HPですか。期待しております。
最近ちょっこと、オフでの野暮用が増えてまして、真宗ボードはロムだけになってます。

私で4人目みたいです。
しかし、不思議なものですね。学生時代にはネットでやりとりなど思いもしてませんでした。

そうそう実は私も掲示板を持ってます。
今のところ、ログを保存しているだけですが・・・・。
まあ、希望としては仏教全般を視野に入れてと・・・。
http://www.aaacafe.ne.jp/free/sankichi/main.bbs


とりあえず、自分でバンバン  投稿者:落鱗  投稿日:04月12日(水)23時33分32秒

今、「哲学する芸人」マルセ太郎の『記憶は弱者にあり』(森正 編著 明石書店)
を読んでいます。姫路への行き帰りの電車の中でだいぶん読み進みました。

編著者の森正さんのインタビュー形式で進んでいきます。

数年前マルセ太郎のスクリーンの無い映画会で『泥の川』を見て以来、この人はただの
コメディアンじゃないぞとは思っていましたが、これほどまで哲学している人だとは
思ってもみませんでした。

喜劇、人権、差別、憲法、「日の丸」「君が代」、なんていう硬派のテーマで
バンバン日本人の精神を抉っていきます。
今の日本の世の中ちょっと変だぞと思い始めている人にはちょっとお勧め。

日本がどうなったってボクの知ったことかっていう人は、好きにして下さい。

映画『シュリ』
『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(筑摩書房)
に続く、お買い得、いやお読み得経験でした。 


掲示板オープン 投稿者:落鱗  投稿日:04月12日(水)23時08分20秒

真宗BOARDに参加し始めて、電網界にデビューしてからから、早3ヵ月あまり。
けっこうはまってしまいました。

真宗BOARDは、『親鸞の教行信証を読み解く』の読書会ということで、
あれでも、
書き込み内容にちょっと気を使っている部分がありまして、

Vitaさんの〈おきらく〉を真似て
自分で掲示板をオープンしました。

これで、まあ、遠慮なく硬軟取り混ぜて、独り言のようなことも書いていけるかな。

電網世界ではまだまだ、よくわからないことがありますので、いろいろと教えて下さい。

いずれ、時間ができたら、HPもオープンしようかな、と考えています。

訪問して下さった人は、あいさつぐらいはしていって下さい。


以上は、現在登録されている新着順31番目から60番目までの記事です。

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