らくりんバンバン

〈 落 鱗 板 々 〉



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こんにちは 投稿者:渡海 難  投稿日:06月08日(木)20時03分11秒

 らくりんさんこんにちは。こちらは在野の親鸞ファンです。お初にお目にかかります。ご挨拶遅
れましたが、御本典研鑽集記でお噂をお伺いし、真宗BOARDを覗かせていただきました。面白そう
なお話が花盛りのようです。こちらは先生の御著作を拝読しない不作法者ですので、いささか輪の
中には入りにくい雰囲気があるようです。
 先生にはお教えいただきたくなるようなことがありそうです。よろしければ、ときどきここの
掲示板に書き込ませていただこうかと存じます。いかがでしょうか。
 今日はご挨拶だけということで、失礼します。島根県の方に御旅行とか、どうぞ元気で行って
らっしゃいませ。お帰りをお待ちいたしております。


明日からまた留守です。 投稿者:らくりん  投稿日:06月08日(木)09時15分59秒

Vitaさんにまた管理人代行を、お願いしました。

今日は、これから講義の準備をします。


滋賀県のびわこ 投稿者:松田 幸子  投稿日:06月08日(木)07時40分36秒

 世界の大学生が、集まって、観光船を、皆で、運営、監理管理、しています。
このような、ケイタイ、は、世界のあちこち、で見られます。沖縄の海洋牧場
 
 県では、新川牧場が、あります。
ここでは、牛さんを乳飲み子、から草を食べかけるときまで、若い学生さん立ちの力で
育て、そのあと、農家の人に、育ててもらいます。

 朝は、早いですよ。しかし、牧草は、機械で行います。とても、おもしろいですよ。


被害ほとんどなし、です。 投稿者:らくりん  投稿日:06月07日(水)18時00分48秒


お気遣いありがとうございます。
まだ夢見心地でしたが、飛び起きて、たんすを押さえてしまいました。
しかし、あとでよく考えると、押さえなければならない(より危ない)のはもう一つの
たんすの方でした。

家の中は特に別状ありませんでした。
県内でも、一番激しく揺れた小松で、学校の窓ガラスが割れたとかニュースで言って
いましたが、怪我した人は二人で、ホテルの消化器が倒れたというようなことがニュ
ースになる程度でした。

私のところも2番目(高2)が、2日前から沖縄へ修学旅行です。

2日前から、プリンストン大学の学生が2ヶ月間の予定でホームステイしています。
今年はシンガポールから留学している学生です。
プリンストン大学が、東部の大学の日本語を履修している学生を対象に夏期集中講義
を毎年金沢でやっていて、毎年40人ほどの学生がやってきます。私のところでもい
つも受け入れています。


地震大丈夫ですか 投稿者:大悲  投稿日:06月07日(水)09時53分38秒

今朝の地震、小松は震度5弱という事ですが、金沢はいかがですか。
ちょっと大きい地震があるとドキッとしますネ。
首相の所為で揺れているという噂があるとか無いとか。

6年生の長男が今日から修学旅行なのですが、昨日は、吐くは、熱出すわで
心配しました。なんとか無事出発しました。(私信モード)


つれづれに & お知らせ 投稿者:らくりん  投稿日:06月07日(水)09時41分19秒

ちょっと身辺があわただしいのと、意識が〈真宗BOARD〉と〈御本典研鑽集記〉
に向いてしまっていたりして、〈バンバン〉が留守になりがちです。
ネットに接続すると、一番最初にこの画面が飛び出して来るので、

全部見ているのですが、精神的な「ゆとり」がないためか、なんか、どう反応してい
いのか戸惑っちゃいますね。

ここは「裏坂」ですから、
まあ、適当にやって下さい。

そのうち、またヒートアップすることもあるかも知れませんし、
このまま黙りこくってしまうかも知れませんが、それは成り行き次第です。


Vitaさんの〈おきらく〉にも書きましたが、明後日6月9日から12日まで、
また留守にします。
今度は島根県浜田市、本願寺派の浜田組の1泊研修会です。
   (このところ、本願寺派づいちゃってます)
石川――島根は交通のアクセスがとても不便で、前泊・後泊しないと行けないようです。

北海道や博多、沖縄よりも、はるかに時間距離は遠い。
金沢からだと、一日一往復の飛行機がある鹿児島と同じような感覚です。

今回は、広島からバスに乗る予定でしたが、組内のご住職がたまたま広島に出られる
用があるそうで、そのお帰りに便乗させてもらえることになりました。


ohlyさんの家庭の留守番の事です 投稿者:松田 幸子  投稿日:06月06日(火)07時32分16秒

 なにかと、娘さん、大変かと、思いまして。
やはり、猫さんいるのかな?。


egz: 投稿者:松田 幸子  投稿日:06月06日(火)05時04分10秒

 8月ゴロ、庁はい、帰り、出きると、思います。その時は、ゆつくり、させてね。
親愛なる、まこさま、母上様、 松田サチコより                 。


児でんしゃ で、駆け巡る 投稿者:松田 幸子  投稿日:06月06日(火)04時58分40秒

 企業巡りと、電気屋、さん、めぐりです。
国体に、向かって、最後の、お願いに、回っています。巡りたびです。

 月の終わりには、50年の念願の、親探しの旅に出かけます。

 異国の地で去った、とも、の 弔い合戦です。 世界平和、永久平和、が、仏/?.


いきつけは 投稿者:ootubo  投稿日:06月06日(火)03時01分07秒

こころおきらく、真宗BOARD、らくりんバンバン、御本典研鑽集記、が真宗関係です。
Fast & First(www.cds-co.com/ff/)、今日の必ずトクする一言(www.tomoya.com/)が
一般です。
準巡回コースは、さんぽみち、銀杏通信、釋真智と交流しましょう(休憩中)、神通寺BBS、
新新ご芳名帳、IN PURE LAND Message Board、が真宗関係で、
ニュース・パソコン関係が一般です。
発言は、こころおきらく、真宗BOARD、らくりんバンバン、に絞ってますが
それでも少ないです。


ほとんど同じ巡回 投稿者:まこ  投稿日:06月06日(火)00時43分53秒

 参加メンバーが少しづつ異なるのか、特徴があっておもしろいですね。
 私の場合、西の関係の3つほどが加わります。
 私自身の掲示板は削除が連続したのと6・7月はホームヘルパー2級
講座を月・水・金で受講するので(町の主催)、ちょっと余裕がないこ
とも理由にして、6月はお休みにしています。
 掲示板はやりとりと取り上げているテーマの面白さに尽きますね。


私の場合 投稿者:らくりん  投稿日:06月05日(月)23時19分21秒

ストックよりもフロー
暇をもてあましているわけじゃないし、一度見て「そそられる」ものがないと、次に
またということにはならないでしょう。

となると、やはり蓄積されたストック情報よりも、常に応酬が展開していくフローが
おもしろい。それも、書いている人か書かれているトピックスに興味が持てないとつ
きあう気にならない。そんなもんでしょう。


レスありがとうございました 投稿者:Vita  投稿日:06月05日(月)21時17分00秒

私が見ている所と、そう変わらないんですね。意外でした。
真宗系(?)の掲示板とか参加者って、思ってたより少ないのかもしれませんね。
ではでは


出かける前に 投稿者:らくりん  投稿日:06月05日(月)18時12分09秒

今晩は、金沢・小松の若手僧侶の学習会、六道会です。

若い人には、話を聞くばかりではなく、自分で聖教を読んで、自分で受け止め、
自分でそれを人に向かって話すことをなるべくたくさんしてもらいたいと思います。

この会では、担当を決めて最初に発表をしてもらいます。それを受けて、皆で意見を
出し合い、私もそれに参加するという形で進められます。
私としては、90分の話の構成を自分で考え整理するという事前準備が必要ないので
比較的楽な気持ちで臨めます。

なかなかいい会になりつつあるのではないかと思います。


そうそう、思い出しました 投稿者:らくりん  投稿日:06月05日(月)13時13分38秒

そういえば、ちょっと前に、松田 幸造さんがいらしてましたね。
ようこそ。
旅の直後のグッタリ、バタバタした気分の時だったので、ごあいさつもしないまま
失礼いたしました。

「留守番役」感想は、私にではなく、Vitaさんにお尋ねになる方がいいのでは
ないかと思ったりもします。(林遊さんの口調が伝染してきたかな?)
それとも、「よくも大切な掲示板の留守を人任せにするな」という
おしかりだったのでしょうか?

ということは、幸造さんと幸子さんが父娘ということになるのでしょうか。
それとも、文体とか文字遣いからして、
ハンドルネームを使い分けて楽しんでいらっしゃるのかな、
とも思ったりもしています。

私は、『教行信証』なども
ほとんどパズル感覚で読んでいるような〈不届き〉な人間でして、
「詩情」あふれた「芸術的な文章」を読むのが苦手なものですから、
そんな不粋な管理人の頭を混乱させない程度によろしくおつき合いのほどを。


のんびりと 投稿者:らくりん  投稿日:06月05日(月)10時01分18秒

松田 幸子さん、ようこそ。
はじめまして、だったかしら(記憶が定かではありません)

Vitaさん、
アクセスした時に、ほとんど必ず開いているのは〈らくりんバンバン〉(ここをホー
ムに設定しています)、Vitaさんの〈真宗BOARD〉と〈こころおきらく〉、大悲
さんの〈さんぽみち〉です。
ちなみに、1日家にいるような場合の標準的なアクセスタイムは、朝仕事を始める前、
昼飯後のと夜の3回ぐらいです。オフラインでレスを書く時間も含めてそれぞれ30
分前後ですかね。ROMだけで10分の時もありますし、ロングレスで1時間ぐらい
かかってしまうこともあります。

それから、2〜3回のアクセスに1回ぐらいは
三吉さんの〈なんたらかんたら〉――名前をおぼえていませんごめんなさい、そして
〈御本典研鑽集記〉(最近は毎回チェックしてます)です。

その次に頻度が高いのは、
CITIBANK(昔の仕事の尾てい骨が残っています)、大学時代のESSサーク
ルの仲間のページです(ただ新規書き込みが少なくて)。
掲示板では、ほとんどROMだけですが、まこさんのところ(この掲示板なくなって
ますね)、RYUSENさん、神通寺さん、あたりも2〜3日に一度は覗いています。 
最近はYUYUさんとこもたまに行きます。

いきつけで、ばれるとまずいようなところはありません。
時間がたっぷりあって暇をもてあますようなことがれば、
あちこち探索することも、たまにはありますが……、
近ごろは時間に追われている気分が続き、そんなチャンスはめったにありません。


いきつけ 投稿者:Vita  投稿日:06月05日(月)08時18分05秒

らくりんフリークの一員として、どのへんがいきつけなのか教えていただけませんか。
無論、ロムしているのがばれると恥ずいところは結構です(笑)。
どうでもいいでしょうけど、私は、ここと御本典だけだったりします。


love 投稿者:松田 幸子  投稿日:06月05日(月)07時09分19秒

 スペースが あります。


愛、love hotel 投稿者:松田 幸子  投稿日:06月05日(月)07時07分15秒

 お父さんと、行きました。町内戒、の行事、のワープロうちです。

 あくまで、お父さんが、主役です。本とは、私のワープロの技術次第です。

 半日、温泉気分、お父さん、も、まんざらでは????????????。      、。・


裸婦ホテルでカラオケ 投稿者:松田 幸子  投稿日:06月05日(月)03時09分23秒

 内緒ですけど 5にんぐらいで、ホテルにいつて、
風呂とカラオケ歌いまくり、お一人様。1@500円です。

 ご婦人方は、頼もしい。です。です。はい。


なんでも歓迎 投稿者:らくりん  投稿日:06月04日(日)21時20分30秒

よそさまでは、マジな応答や、またけっこうしんどいやり取りが続いていたりで、
なかなか口を挟めないかもしれませんが、

その分ここは、ちょっとリラックスムードがただよってまいりました。
常連が重なっているのではないかと思われる関連掲示板が全部同じような調子になっ
ては肩がこりますから、それぞれ違った雰囲気が入れ替わって行くというのはなかな
かいいことではないかと思っています。

ここに対してよりつきがたい雰囲気があるなどとの感想をお寄せいただいた方もあり
ますが、
これを機に、これまで遠巻きにROMしてこられた方、一言お書きなってみませんか。

また、別の展開が始まるのも一興です。


朝枝さんへ 投稿者:らくりん  投稿日:06月04日(日)00時38分49秒

来週、お邪魔する、島根県浜田市の朝枝さんから、打ち合わせの内容の書き込みが
ありましたが、具体的な電話番号や住所が記載されており、また内容的にも事務的な
連絡事項がほとんどでしたので、掲示板にそのまま残す必要がないと判断いたしました
ので削除させていただきました。

お知らせいただいた広島別院での待ち合わせの件並びに宿泊先の件、そしてお問い合せの
資料の件につきましては、本日岳田組長さんと電話で確認して了解しております。

今後、この件につきましてはメールにてご連絡下さい。
アドレスは:fujiba@yu.incl.ne.jpです。
できれば、このアドレス宛に、朝枝さんのアドレスを教えていただければ、
あらためて、確認のメールをいれます。


(無題) 投稿者:らくりん  投稿日:06月03日(土)10時46分10秒

4日留守にしただけで、浦島太郎になった感じです。

とにかく机の上の、郵便物ですぐに対応しなければならないものだけ処理しました。
これから、今晩の美川の会の準備をします。

とりあえず、いきつけはさっとROMだけしてきました。

平常ペースに戻るにはもうちょっと時間が必要なようです。


おかえりなさいませ 投稿者:Vita  投稿日:06月03日(土)00時11分14秒

今回のお留守番役、終わらせていただきます。
今晩、美川の会、参加の予定です。楽しみにしています。


ひとまわり 投稿者:らくりん  投稿日:06月03日(土)00時07分11秒

いきつけをひとまわりしてきました。
テキストファイルに張り込んだだけで、まだ読んでいませんが、
今、〈御本典研鑽集記〉がおもしろい、ということころでしょうか。
いくつかの掲示板を議論が渡り歩いているという感じでおもしろいですね。

風呂に入って寝ます。
明日は美川の会です。
では、おやすみなさい。


帰ってきました。 投稿者:らくりん  投稿日:06月02日(金)23時55分13秒

さきほど帰ってきました。

三吉さんと二人だけのオフ会を楽しむこともできました。

Vitaさん、ありがとうございました。

とりあえず、今日はごあいさつけです。


お留守番役について 投稿者:松田 幸造  投稿日:06月02日(金)01時15分22秒

 らくりんさんへ 

 留守番役は、一番難しい、と思いますが、
いかが、おもいますか。


(無題) 投稿者:MANU.  投稿日:06月02日(金)00時47分22秒

久しぶりに私のHPを更新しました。
新しいコラムは、こちらにも参加されている
「Ryusen」さんの法話で感じたことと、
最近いろんな掲示板で(この掲示板からも影響受けてます)
やり取りしたことを通じて感じたことを元に書いています。
暇なときにでも覗いてやってください。

http://homepage1.nifty.com/MANU/index.htm

         MANU.(from KYOTO)

http://homepage1.nifty.com/MANU/index.htm


渡海 難氏について 投稿者:三吉  投稿日:05月30日(火)01時18分38秒

私はネットは3年ばかりになりますので随分前から名前は知ってました。
独自に勉強されている方らしいと愚推しております。
以下のアドレスは渡海氏が99年2月28日頃に佐倉氏のサイトに投稿されたものです。
ご参考までに。
教行信証に現代語訳はないと論じられております(笑)。
ですので、「中央公論社より、「中公バックス 日本の名著6 親鸞」に「教行信証」の現代語訳は
載っております。ちなみに、1500円です。編集責任は石田瑞麿氏です。 」と投稿しておきま
した。(笑)
「わたしも、近くの大学の図書館で、いくつかの翻訳を見つけました」と佐倉氏も応えられてまし
た。(笑)

http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism41.html


ちょっと暇つぶしに 投稿者:らくりん  投稿日:05月29日(月)23時00分38秒

さっきまでVitaさんといっしょにいました。日程が詰まっていてあまり
話はしませんでしたが。
明朝早いので風呂に入って、ROMだけして寝ようと思ったのですが、
一足先に娘が入ってしまったので、ちょっと順番待ちの間に書いています。

御本典研鑽集記
http://www62.tcup.com/6200/tune916.html
で、ちょっとややこしい話が進行していますね。

まあ、私の場合ハンドルネームはあってないようなものですが、ああいう形で名前を
出されるとどのように関わっていいものか、ちょっと戸惑ってしまいます。
御本典研鑽集記には以前ちょっとご迷惑をかけたこともありまして、
よけいに遠慮してしまいます。

実名がでたときにすぐにリアクションしようと思って、書き始めたのですが、
「ちょっと待てしばらくVitaさんの対応を見てみよう」かと思い、消してしまいました。
一度タイミングを外してしまうと、今度はなかなかチャンスがなくなってしまいます。
でるにしても、どの名前で出ようかとか、それなりに楽しみ方もあるかも知れません。
いずれ、そう遠くない時に、真宗BOARDやここにもお出ましになることでしょう
から、お話しするのはその時でもいいかという気持ちになっています。

わずか数千部とはいえ、本を出しているのですから、あちこちで話のタネ、酒の肴、
悪口のダシにされているであろうことは覚悟していますが、
他の人はみんな私が見ていることは意識している中で、当のご本人だけが知って
か知らずかあの調子でお書きになられています。
自分が見ている前で、ああいうやり取りが話が進んでいくのを見ているのは、
なんか変なものですね。これもネットならではの体験の一つではないかと思います。
もうしばらくこのまま楽しませてもらいましょうか。とは言っても明日からは本当に
しばらく見れなくなりますが。帰って来るのがまた楽しみです。

それにしても、林遊さんも以前「地獄へいけ」と書かれたとかなんとか書いていたか
と思いますが、ネット上のやり取りというのは、面と向かってだったら決して口にし
ないようなことでも平気で書けてしまうというのが怖いですね。
ということは、面と向かっている時は、言わなくても腹の中ではそう思っているとい
うことか、それもちょっと怖いものがあるなぁ。

いずれにしてもネットのやり取りはプラスにもマイナスにもイメージが増幅したやり
取りになって、すぐにエスカレートしてしまうようですね。

私の場合は、ほとんどすっぴんで参加しているようなものですから、これでも、あま
り無責任なことは書けないという自制がはたらかせているつもりですが、それでもや
っぱり、ちょっとエスカレートしてしまいます。

掲示板でしか知らない人は、どんなイメージを持って下さっているのか。
明日の広島別院はそんな人たちとのご対面ということになるかも知れません。
どうなることやら、楽しみです。

風呂が空いたようです。では、また。


よろしくお願い申し上げます 投稿者:Vita  投稿日:05月28日(日)20時53分29秒

留守番をさせていただいている間は、管理人のメールアドレスが変わります。ご了承下さい。


しばらく留守にします。 投稿者:らくりん  投稿日:05月28日(日)08時29分31秒

第W巻の発送がようやく終わり、ちょっと一息ついています。

連区の「同和」研修(これは参加できるか?)、広島〜久留米と日程が続き、
明日から、5日ほど留守にしますので、書き込みも読むこともできません。
その間、掲示板の管理をVitaさんにお願いしたところ、快くお引き受け下さいま
した。みなさん、管理人代行を困らせるようなことにならないようによろしくお願い
いたします。
これから、7月にかけて何度かこのようなことがありますが、いずれも同じくVitaさ
んにお願いしますので、ご了承下さい。

なんだか、この1週間バタバタして、掲示板はほとんどROM状態でした。
第W巻の到着が、予定より2日ほどずれ込んだのが痛かった。
久留米の4回連続講義の準備がまだちょっと充分ではありません。
ただ、こういうのはどれだけ準備しても充分ということはありませんし、準備したこ
とがまったく役に立たないような展開になることもしょっちゅうです。
準備といっても、けっきょく気休めのようなもので、最後は皆さんの前に立って、顔
を見てからしかし始まらないような気がします。


三吉さん、らくりんさん 投稿者:お留守居役様  投稿日:05月27日(土)13時02分46秒

>『末法灯明記』の引用をめぐって議論する
つもりはございません。
>親鸞は真俗二諦論なんて云いませんよ。
という指摘に対して、
少なくとも親鸞は「真」「俗」という言葉を知っていたと答えたまでです。
>「真諦・俗諦両輪論」を親鸞は主張している訳ではない。
との留保付きでも、「真俗二諦」を親鸞が云っていたことを
お認めいただいて満足しています。
>真諦・俗諦はあなたの論を傍証する箇所なのでしょうか。
傍証する箇所として
>思い浮か
べていたのは、『歎異抄』です。
例えば、俗では「悪人」だが、真では「正定聚」であるとか、
「人を千人殺してみよ」とかの弁証法です。
「真」が「俗」になり、「俗」が「真」になるという、
弁証法の法則である「否定の否定」が語られていると思っています。
「唯真論」に反対するのは、実存主義の教える「関係論」を支持しているからです。
関係が真理なのであって、真理は実体ではないと考えています。

らくりんさんには、わざわざお出ましいただいたのに
肩すかしのようで申し訳なく思っております。
ですが、前の『末法灯明記』の中の「無戒名字の比丘」に続いて、
最澄と親鸞の位置取りの違いについてのご教示をありがたく思います。


三吉さん、お留守居役様さん 投稿者:らくりん  投稿日:05月27日(土)09時48分16秒

お二人の議論に水を指すつもりはありませんが、
『末法灯明記』の引用をめぐって議論するなら
東西の真宗聖典のテキストはあまり信用しない方がいいです。

例えば、今お二人の間で焦点になっている
【しかればすなわち仁王・法王、たがいに顕れて物を開し、真諦・俗諦、たがいに
因って教を弘む。】(東360/西417)
の直前の、

【それ一如に範衛してもって化を流す者は法王、四海に光宅してもって風を垂るる者
は仁王なり。】(東360/西417)
は、東西どちらも「風を垂るる」となっていますが、坂東本「風二乗スル」となって
います。
「垂れる」は「訓辞を垂れる」というように、「上から下へ」のという方向を持ちま
す。「風を垂るる」は「上から下に向かって徳風を示して従うようにしむける」とい
うような意味になるかと思います。
「風に乗ずる」という訓み方の場合は、「風の流れに乗る」という意味になりますか
ら、その「流れ」は当然、直前の「一如に範衛してもって化を流す者は法王」の中の
「化を流す」、「仁王とは法王が教化する徳風に乗ずる者である」という意味になり
ます。
「垂れる」ならば、仁王と法王が車の両輪として対等・並列になりますが、
「乗ずる」ならば、主従の関係になっているわけです。

『末法灯明記』の書写の際に用いた原本がどのような字になっていたかわかりません。 
ただ、私が4つか5つぐらいのテキストを調べた限りでは、「乗」になっているもの
は見つかりませんでした。
「垂」を意図的に「乗」に換えたかどうかは断定できませんが、すくなくとも「乗」 
に「スル」と送れば、どういう意味になるかは意識していたはずです。

ちなみに、
東366・西426〜427に【もし檀越、将来末世に法尽きんとせんに垂んとして】
とあるところに「垂」という字がありますが、ここも坂東本は「乗」となっていまして、
訓み方は【もし檀越、将来末世に法乗尽きんとせむに】となるべく加点されています。

『教行信証』所引の『末法灯明記』のテキストを扱う場合には、東西どちらの聖典も
要注意です。せめて岩波の思想大系の「親鸞」か、岩波文庫の『教行信証』で確認ぐ
らいはしておかないと、足下をすくわれる可能性があります。

最澄の意図の中には「仁王・法王車の両輪」論が明確に意識されていますが、親鸞の
場合は、これ以降の展開の趣旨は、最後にいわゆる「後序」の、
【主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。……猥りがわしく死罪に坐す】
につながっていく展開が見通されています。
つまり、絶対的な権力者がくだした判断に対して、力を持たないものが「猥りがわし」
と言い得る根拠をいかにして獲得できるかという一点に、焦点が絞られて行きます。

だから、『教行信証』所引の『末法灯明記』を論ずる場合は、最澄の「ねらい」と、
親鸞の「意図」を混同しないように考える必要があると思います。

当時朝廷の宗教顧問とでも言うべき立場にいた最澄が、『末法灯明記』を書いた「ね
らい」はあくまでも、桓武天皇によって厳格化された「僧尼令」を、少し緩和するよ
うにとりはからってくれというものです。直接天皇に、そのような進言をできる立場
に最澄はいた。
一方親鸞は、同朋が死刑になり、自らは僧籍を剥奪されて、流罪になった。そのたち
ばから『末法灯明記』を引いている。だから両者では『末法灯明記』のメッセージは
まったく異なったものになります。
『末法灯明記』の中の「無戒名字の比丘」とは、最澄にとっては、擁護されるべきど
こかの誰かでありますが、親鸞にとっては他の誰でもない自分自身のことであるので
す。

『末法灯明記』を引き合いに出して真俗二諦論が語られることは少なくありませんが、
そのほとんどの場合は、最澄の立場から『末法灯明記』を見た意識で考えられている
ように、私は感じます。教団の学問とはかなり距離があるはずのお二人のやりとりを
みても、ベースとなっている感覚はかなり従来からの見方に影響を受けているように
思います。
処罰を受けたものが、処罰を科した者に対して「その処罰は猥りがわしき決定であ
る」と言い得る根拠をどこに求めることができるか。これが焦点だと思います。


訂正 投稿者:らくりん  投稿日:05月27日(土)09時45分08秒

Ryusenさんからご指摘がありました。「再会」金沢公演の
チケット料金が書き込みでは
18歳以下前売2,500円(当日2,000円)
となっていましたが
前売2,000円(当日2,500円)
の誤りです。訂正します。

Ryusenさんありがとうございました。


お留守居役さん おはよ 投稿者:三吉  投稿日:05月27日(土)06時21分03秒

>最澄の『末法燈明記』からの引用だから親鸞が云ったことにならないなどとの
>屁理屈は遠慮願います。

屁理屈?(笑)それはあなただろうと私は思う。

>親鸞の言う「真俗二諦」で思い浮かぶことは、「女犯肉食は、往生の妨げにならない」というこ
>とです。ならば「神祇礼拝」が往生の妨げになるはずがないと思います。
>神社にお参りしたり、お祭を見物したら往生できなくなるとは思えません。「本願」が「神祇」
>に負けるはずがないからです。

で、化身土のそこの真諦・俗諦はあなたの論を傍証する箇所なのでしょうか。

ちなみに「それ、もろもろの修多羅に拠って真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば、『涅槃経』(如来性品)に言わく、仏に帰依せば、終にまたその余の諸天神に帰依せざれ」とある。

引用の箇所は「真諦・俗諦は互いによって広まるが、時代と人の機というものに別があり、時と人
の機にあわして教法は説かれる」という論証の箇所で、明確に「当今、末法にしてこれ五濁悪世な
り。ただ浄土の一門ありて通入すべき路なり」を受けている箇所だと私は思います。
「浄土の一門ありて通入すべき路なり」が主題であって「真諦・俗諦両輪論」を親鸞は主張してい
る訳ではない。


読書会へのお誘い 投稿者:Vita  投稿日:05月26日(金)22時51分45秒

本日、富山教務所終業(?)間近にWをゲット。
教務所関連など、書店から直接発送された分は届いているようです。

来月より「真宗BOARD」にてWを一講ずつ読みすすめていきます。

今までより、ゆっくりと、綿密に教行信証を読んでいけると思います。

どうぞ、お気軽にご参加下さいませ。ありがとうございました。

http://member.nifty.ne.jp/vita/zen.html


re:真俗二諦論  投稿者:お留守居役様  投稿日:05月26日(金)22時27分12秒

>御留守居役さん  親鸞は真俗二諦論なんて云いませんよ。
お名指しなので、無視するのも失礼かと思い
>しかればすなわち仁王・法王、たがいに顕れて物を開し、
>真諦・俗諦、たがいに因って教を弘む。
(化身土巻)
最澄の『末法燈明記』からの引用だから
親鸞が云ったことにならないなどとの屁理屈は遠慮願います。


諸連絡 投稿者:らくりん  投稿日:05月26日(金)13時02分56秒

第W巻、到着が遅いので、明石書店に催促したら、どうもどこかの段階で発送作業が
ストップしてしまっていたようです。
私の手元に到着するのは明日27日になるとのことです。
お待たせして申し訳ありません。

Ryusenさん、
「再会」の件は、横井さんに確認しました。30日で間違いありません。

『読み解く』は、バックナンバーも含めて、私の方でも取り扱っています。
送料等すべて込みで、書店で購入するよりも若干割安になります。
ご希望の方は、下記の事項をメールにて申し込み下さい。
私のメールアドレスは: fujiba@yu.incl.ne.jp です

・お名前
・郵便番号
・ご住所 (本の送り先)
・電話番号
・メールアドレス
・希望される巻
・各巻の必要冊数
・第X巻の予約の有無


日程の件 投稿者:Ryusen  投稿日:05月26日(金)09時38分42秒

30日ということで承知いたしましたが、
横井さんは渡辺さんから29日と聞いたとおっしゃっていますので、
一度確認されたほうがよろしいかもしれません。
私も電話を入れてみたのですが、携帯が不通になってます。
金沢は実行委員の団結力が高そうですね。長門は私が頼りないこともあってヘナヘナです。

ところでWの購入はらくりんさんに直接申し込みもできるのでしょうか。
それとも書店に申し込んだほうがよろしいのでしょうか?

すみません↑いずれも業務連絡みたいですね。掲示板の流れを寸断してしまいました。

http://www.ymg.urban.ne.jp/home/jodoji/


「再会」金沢公演 投稿者:らくりん  投稿日:05月25日(木)23時53分22秒

は、10月30日で準備しています。
どういうことになっているのか、未確認ですが……。
こちらは渡辺さんと話を進めています。


再会の件再び 投稿者:Ryusen  投稿日:05月25日(木)23時34分44秒

長門公演実行委員会の簡単なホームページを作りました。
他の実行委員会との交流をはかりたいと思っています。
一度ご覧下さい。
それと「再会」の横井さんから金沢公演は29日とお聞きしましたがどちらが正しいのでしょう。

http://www.ymg.urban.ne.jp/home/jodoji/


まだ届かない 投稿者:らくりん  投稿日:05月25日(木)22時55分15秒

3000番いただきました。

今小松の、名前のない会から戻ってきました。

第W巻、まだ来ない。

なんでなんで?


親鸞の教行信証を読み解くW 投稿者:お留守居役様  投稿日:05月25日(木)19時12分54秒

購入いたしました。
なんだか他人が書いた本という気がしません。
目次を拝見したばかりですが、
早く読みたい気持ちを抑えて、心身共に整えて
大切に読みたいと思っております。


「再会」金沢公演 投稿者:らくりん  投稿日:05月25日(木)07時40分55秒

Ryusenさん、はじめまして、
IN PURELANDの掲示板を時々拝見させていただいております。

たしか、私が来週おじゃますることになっている広島の方では?
安芸教区布教団の研修は、気楽な気持ちでお引き受けしたのですが、
近づいて来るにしたがって、けっこうプレッシャーがかかってきます。
こんな気分を味わっているのは、久しぶりです。

「再会」金沢公演は、まだ正式な実行委員会が立ち上がっていませんが、
詳細がほとんど決まってしまっているという、変な状態です。

日時:2000年10月30日(月)、午後6時45分開演(6時開場)
場所:金沢市 文教会館
チケット 前売 3500円(当日4000円)
  18歳以下 前売 2500円(当日2000円)

準備会を2回開きましたが、いずれも参加者11人で、
内訳は、小学校の先生(昨年まで金沢市教組の専従執行委員)、日中友好協会員、
チケット売りの名人、印刷屋さん、「障害」児の通園施設の職員、
そして大谷派関係が6人
前半の人たちとは、これまでにもいろいろな活動やイベントをいっしょにやってきた
人たちです。気のおけない人ばかりで、なかなか頼もしいメンバーです。
この人たちとならなんでもできそうな気がします。
大谷派関係では、これまで教団外の人たちとそういうことをあまりやった経験がない
若手3人が関わってくれています。新しい出会いの機会になればと思い、声をかけたら
参加してくれました。

各自のつながりを通じて呼びかけて、正式な実行委員会を7月中旬に立ち上げ
るべく準備します。

第W巻、お待たせしております。
今日こそは届くと思います。お葬式で、発送準備にとりかかれそうもありません。


再会の件 投稿者:Ryusen  投稿日:05月24日(水)22時32分35秒

ここにははじめての書き込みになります。

> 今夜は遠縁のお通夜と「再会」の準備会、
「再会」の件少し教えてください。
上演の都市名と開催日時、チケットの料金などはどうなっているのでしょう。
それと実行委員会の人数やどういう方々かなど、教えていただければとても助かります。
山口県長門市は10月20日の6時半からと決めたのですが、
いかんせん実行委員会が上手く組織できずにいます。

> 第W巻がどさっと送り届けられてきそうです。
発売を楽しみにしています。

http://www.ymg.urban.ne.jp/home/jodoji/


待ちぼうけ 投稿者:らくりん  投稿日:05月24日(水)17時21分10秒

残念ながら、これまでのところは届きませんでした。


今日あたり、 投稿者:らくりん  投稿日:05月24日(水)06時55分47秒

第W巻がどさっと送り届けられてきそうです。

そうしたら、また発送作業。
今夜は遠縁のお通夜と「再会」の準備会、
明日お葬式で夜は小松のまだ名前のがない聞法会です。
またまた夜なべ仕事はできません。


>弁証法は、なくさなければならない「敵対的矛盾」となくしてはならない「調和的
>矛盾」があると教えています。
これって、たぶん第W巻、第X巻の副題の
「願われて在る逸脱」と「許すべからざる詐称」と同じようなことではないか
と思います。


真俗二諦論 投稿者:三吉  投稿日:05月24日(水)06時14分10秒

真宗の近代的な真俗二諦論は明治以降でしょう。
真は「念仏」。これは心の中。俗は天皇制。この二つとも大事だとする説です。
で、最終的には天皇は弥陀の化身というところにまで行き着きます。
これの根拠に使われたのが蓮如の「ことにまづ王法をもって本とし、仁義を先として、世間通途の
儀に順じて、当流安心をば内心にふかくたくはへて、外相に法流のすがたを他宗・他家にみえぬや
うに振る舞ふべし」という姿勢だろう。
天皇制と言う王法に従えということです。
さきのらくりん氏にやりとりから云えば「真俗二諦論」とは原理を二つもつということです。
そして現実には俗の原理が「ただ念仏」を押さえ込む。

御留守居役さん  親鸞は真俗二諦論なんて云いませんよ。
王法仏法両翼論を批判して、仏法がなにもかもに超越とした歴史的意義を持つのが専修念仏です。
時代の主流は「王法仏法二諦論」でした。だから専修念仏は弾圧されたのでしょう。


唯真論の批判 投稿者:お留守居役様  投稿日:05月24日(水)01時20分36秒

「真俗二元論」に対して「真俗一元論」はどうかな?と考えまして、
「唯真論」と言うべきと気づきました。
「真」以外の一切を認めない。
「真」は「偽」があっての「真」であることも認めない。
「真」と「偽」は矛盾しますが、この「矛盾」ということも、
「矛盾」はなくすべきであり、
なくしてはならない「矛盾」があるとは夢にも思わない。
しかし、弁証法は、なくさなければならない「敵対的矛盾」と
なくしてはならない「調和的矛盾」があると教えています。
スターリンや毛沢東は、敵対的矛盾だけが矛盾で、
調和的矛盾を認めませんでした。
毛沢東が言った「敵の敵は味方である」という言葉はこのことの象徴です。
弁証法を単純な敵・味方論にしてしまったのです。

親鸞の言う「真俗二諦」で思い浮かぶことは、
「女犯肉食は、往生の妨げにならない」ということです。
ならば「神祇礼拝」が往生の妨げになるはずがないと思います。
神社にお参りしたり、お祭を見物したら往生できなくなるとは思えません。
「本願」が「神祇」に負けるはずがないからです。

サルトルが言った「自由へと呪われている」は、
自由でありたくないと思っても自由であるべく強制されているということです。
例えば、禁酒や禁煙を決意したとしても、自由である人間は、
そのつど飲むか飲まないか、吸うか吸わないかを
決意し直さなくてはならないということです。
過去の決意に頼れないということです。過去の決意に対して自由だからです。
この不断の自由に耐えられなくなって、
過去の決意を変えないで、自分を何者かに固定しようとすること、
自ら自由を否定すること、
これを「自己欺瞞」とサルトルは呼びました。
ですから、過去の念仏で仏教徒「である」と思って安心していることも
自己欺瞞ということになります。
親鸞は、どちらかと言えば、「一念派」だと思うのですが、
この自己欺瞞の否定という意味で「多念派」を評価すべきかとも思います。
らくりんさんの言われる念仏者というのは、
不断に自己欺瞞を否定し続ける者という意味かとも解釈してみました。

ニーチェは「神は死んだ。全ては許されている。」といいましたが、
この言葉を受けてサルトルは「自由へと呪われている」と表現したのだと思います。
神の死が人間に自由をもたらしたのですが、
同時に、根拠がなくなってしまうということでもあって、
ニヒリズムになってしまうという意味でもあります。


油断、有り難うございます 投稿者:林遊  投稿日:05月23日(火)10時54分46秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

おかげさまで語源がわかりましたです。これで独り合点しなくて
すみましたです。感謝感謝。

	なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・称名相続


浄土真宗の「社会実践」論 投稿者:らくりん  投稿日:05月23日(火)09時12分49秒

ここのところ
なんだか、私も文章読解力に自信を喪失してしまいそうになっています(∞;)。


それでも、気を取り直して、ついていけていることだけフォローします。

MANUさんには、言いたいことは伝わっているようで、安心。

三吉さん、
>私とあなたがすれ違う根本は本願ではない。要は「機の自覚」云々です。
これは二種深信の裏表ですから、別のことではありません。
だから、議論はすれ違っていません。
これをすれ違いと思うところが、あなたの急所になっているのです。

Vitaさん
>いわゆる教学からの社会実践論の如きものを組み立て
というのを「行動指針」(かく行動すべし)というイメージで言われているのかも
知れませんが、私は、そういう方向で「社会実践論」なるものが出てきた時には
赤信号だと思っています。「そういう傾向に対しては批判的視点を持つ」というのが
私にとっての「実践論」である、と言おうと思えば言えるかも知れません。
「絶対的行動原理はないという行動原理」というのは、私は「社会実践」論として
言っているつもりなんですが……。

批判的視点を持つためには根拠が必要ですが、
それが「ただ念仏のみぞまこと」です。絶対的に関わるのは「ただ念仏」だけ。
それ以外の「絶対」を認めない。
絶対的な関係を持つ対象がこのような形で具体化されれば、それ以外の問題との関係
はすべて相対化されます。つまりそれによって、あらゆる「絶対的正しさを説得しよ
うとする試み」が相対化される。相対的存在(=凡夫)は(念仏以外の)絶対を選ぶ
ことはできませんが、一旦相対化されれば、相対的存在にも選択可能になります。

大谷派の「戦時下の教学会議」で、天皇と阿弥陀如来を並べてしまったことは、
絶対とすべきでない存在(天皇)を絶対と看做す(相対の絶対化)過ちを犯した。
と同時に、絶対として措定されるべき対象を相対と並べてしまうことによって、相対
化の根拠を失ってしまった(批判根拠の放棄)。こうなってしまえば暴走にブレーキ
をかけることは誰もできなくなる。

特定の「徴表」を持つものを「ひとくくり」にして、そこに何らかの共通規範を導き
出そうとする試みの「うさんくささ」と「あやうさ」を見逃さない智慧をいただく。

だから、自分の行動は自分と名号との関係のみから、自分の責任において判断し決定
していく。相対的な問題に対して相対的に関わる。これはりっぱな「社会実践」論で
はないか。

三吉さん、
がおっしゃっている理想主義的な「本願」は、第19願として願われている
事柄です。だから、法蔵の願の中に含まれていることは間違いありません。
ただ、それは第18願の精神とはちょっとずれている。
それは『観経』で韋提希が「我今楽生極楽世界 阿弥陀仏所(我いま極楽世界の
阿弥陀仏のみもとに生まれんと楽(ねが)う)」と述べているものと同じだと見てい
ます。
凡夫の「想念」の中に描かれた、浄土・本願・如来などはすべて「化」です。
しかし、それは否定すべき「化」ではない。
必要不可欠な「化」です。
それを私は「逸脱」であるけれども拒絶すべきではないという意味で、
『読み解く』第W巻の副題として「願われて在る逸脱」と称しています。


私の引用は「助正」=現実肯定です(笑)。 投稿者:林遊  投稿日:05月23日(火)08時00分45秒

ども、三吉さん、林遊@なんまんだぶつです。

>私の引用は助業=現実肯定です。

私の引用は「助正」=現実肯定です(笑)。

で、たぶんお互いが法然聖人のお言葉を反対に引用ごっこしてるのかなと(笑)。

ここんとこは最初に、弘願助正説たら方便助正説たら書きましたが、選択集二行章
に出る「助業」という名目から(助業って廃立の論理?)、選択集三輩章で語られ
るいわゆる廃立、「助正」、傍正への伏線にしようと企んでいたんですが、つい忘
れてしまって、すんませんです。

で、この御法義で実践なる名目を語るには、助正論って本線じゃないかと思います
けんど、大谷派にはこんな名目はないんじゃろかしらん?。
(それにしても林遊さんは何処の門徒じゃろ。困ったもんだ(笑))
    
   なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・称名相続


鈍くて((^^)) 爪尉そ河象 投稿者:Vita  投稿日:05月23日(火)07時20分45秒

>詭弁屋さん
ダウンロードして読ませていただきます。


一人合点してました。 投稿者:詭弁屋  投稿日:05月23日(火)01時19分25秒

 ええっ? 私、最初からそのつもりで書いてたんですけど。
 前に、信楽先生の教学はどんなものですか? みたいな問いかけがあったと
記憶していたので、ああ書けば、通じると思ってたっす。
 ですから、Vitaさんが信楽氏の自己紹介文とサルトル風親鸞思想解釈が重な
っても不思議ではないどころか、重なってもらわないと、私は心底、自分の文
章力と読解力を疑わなければならないっす。

 信楽氏の論文は以下のところで読めます。

http://www.terakoya.com/ronbun/shigaragi/


こんなことしか書けませんが 投稿者:MANU.  投稿日:05月23日(火)01時08分33秒

>『読み解く』を前提にしたような、物言いがでてくることもありますが、ご勘弁を。
ありがとうございます。「今の関わり方もありです」と言っていただいたと解
釈しました。
>一人でも多くの人に読んでいただきたいという気持ちはあります。
お気持ち受け取っております。ただ、私のレベルが低いのか『読み解く』とい
うイメージに尻込みしております。幸い、私が参加させて頂いている御法座で
は、御法話や座談会を通じて生身のかかわりを通じて多くのことを教えていた
だいております。御聖経に触れるときはいつも、「あぁあの方がおっしゃって
いたのはこのことなんだ」とあとから確認している次第でございます。

こんなものでも喜ばせていただけるお念仏の世界だからこそ、ありがたいと感
じております。
全ての方に働きかけている御本願ではありますが、「だからみんな大丈夫」と
は思えない私でございます。御本願をたてられたことで完結しているのなら、
もう十方衆生は残っていないはずです。聞き損ねているから迷いつづけている
、その中でやっと「今、私がここにいる事実」があるのですが、やはり頭での
理解の「お念仏」と腹底に響く「お念仏」の違いによって、往く先が違ってく
るのでしょうね。
お念仏を聞いているかどうかは「自称」でしかないのでしょうが、それがごま
かしかどうかは「自分自身」をかけて証明されるしかないのでしょうね。厳し
い世界です。

ただ「今、私がここにいる事実」と同時に「いつまでもここにいられない事実」
もあります。
まず私が聞かなければ、十方衆生にならない。他の方がどうあれ、「私」から
始まるしかないものでしょうね。

皆様のやりとりをご縁に、こんなことを感じていました。
南無阿弥陀仏


こりゃどうも 投稿者:Vita  投稿日:05月22日(月)23時40分20秒

>詭弁屋さん
我ながら、おかしな頭だと思っているのですが、らくりんさんが「真宗BOARD」
に書き込まれた「教化研究」の信楽峻麿先生の自己紹介が、
どっかに残っていたんですね。

> だから私の論文は、本願とか如来とか名号とか、そんな超越の側をテーマにして書
>いたものは無いんです。時には頼まれて書いたものはあるでしょうが、常に現実の
>側から我々にとって浄土とは何か、仏とは何か。そういう側に立って、一貫して私
>は思考を重ねてきたつもりです。

というお言葉が、詭弁屋さんの無神論サルトルを使った実践論に重なって見えた。
もちろん、どなたの理論なのかは、未だ、存じ上げないのですけれども。

私は今の、大谷派にはいわゆる教学からの社会実践論の如きものを組み立てている人はいないと思います。
還相回向論が語られたことがありましたが、一つのブームに終わったような。
落鱗さんもそうですが、「社会派」といわれる方も、結構、古くさいお話をされることよという
印象を持ちます。宗正元さんのお話を初めて聞いたときも、そう感じました。

その意味で、靖国問題やホスピスなどでがんばっていらっしゃるお西の方々の実践論に、
興味があることはあるのですよん。

ほんのちょっと、リップサービスが入ってます。


こんばんわ 投稿者:三吉  投稿日:05月22日(月)23時34分18秒

こんばんわ  らくりんさん

>私が本願だと〈思っている〉弥陀の本願は念仏者を生み出すはたらきにおいて本願である。

いやあなたは「あなたにも本願の〈はたらきかけ〉や〈うながし〉はあります。それはまちがいな
い。」とも言われている。広義で云えばこれも本願です。
「念仏者を生み出すはたらきにおいて本願である」は本願を矮小化しているだけでしょう。
本願はそんなに狭いものではない。(と私は思う)
私が本願と呼んでいるものは感違いかもしれない。それはそのとおりです。
なんの保証もない。だが私にはそういう種の保証は要らない。
私に重要なのは本願の精神に私の魂が感動すると言う事実だけです。
そして私の感動する事実は本願成就は仮設だと語ります。

私とあなたがすれ違う根本は本願ではない。要は「機の自覚」云々です。
「自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して火宅を出でずと信知す」
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることな
し」と信ず」
私は安田氏に言葉で言えば「理想主義」「菩薩主義」にあこがれているのでしょう。
自分を「煩悩成就」「罪悪生死」と言われて、反論できないが、それを受け止めることができない
清沢氏風に言えば「まだまだ私は自力を尽くしきっていない」。
あるいは「三界に流転して」「曠劫より已来、常に没し常に流転して」と親鸞はここにあること
自体、ずっーと解脱できなかった証拠じゃないかと語る。それは親鸞の主体的な自覚としては、
凄いとは思う。ただそれを私のこととしてうなづくことができない。なぜならば私は輪廻など
信じないし、そもそも思い上がっている。「自力増上慢」が私の姿でありましょう。
そこをクリアできない者になぜ「称名」が自分のテーマとなりましょうや。

私にとって大事なのはそんな私にも本願のうながしはある。
それが「聞不具足」であり「顛倒」です。

林遊さん こんばんわ

>ワケワカメになるんでありましょうね(笑)。

ワケワカメですか。これを多用される方がそーいえばネットでおられました。たぶん貴兄と
同年輩です。よくわかりませんが、「廃立」の論理を語った覚えはありません。
ただし当方健忘症です(笑)。貴兄の引用が廃立で、貴兄の助業の概念規定がイコール廃立という
ことならば理解できます。
私の引用は助業=現実肯定です。百姓が米を作る時に虫を殺したりして不殺生戒を犯すから、
農民は罪深いと不労所得者の貴族や坊さんが宗教的脅迫で民衆をマインドコントロールしていた
時代に法然が出て、そのマインドコントロールをぶち壊してしまったというお話しです。

>教団がええカッコしたくてサンガ論なんて事を持ち出されても、なんじゃそりゃあ?
>でありますです。

私はあほですから、ええカッコしたサンガ論にころっとイカレテシマイマス(笑)。
あなたのごとき慧眼はもちあわせておりませんので。
「念仏のサンガ=浄土」とか「自信教人信」とか「人類に捧げた教団」とか聞かされると、
おぉぉ凄い。それいいやん♪てなもんです。(笑)
「人類に捧げた」んならば、私は念仏者じゃないが人類の端くれですので、回りでうろちょろして
も問題ないだろうと自分勝手に決めてチョロチョロしております。(笑)
駄目ならば「看板下げろ」と心ひそかに思っております(笑)。

>どっしりと「生活」に根を張った

田舎の婆様達の存在感も頼もしいでしょうが、若輩の私にも「どっぷりした」生活はありましょう
や。米は作っておりませんがね。まぁ、私は婆様爺様の前ではおとなしいものですが(笑)。


はからいと油断 投稿者:詭弁屋  投稿日:05月22日(月)22時56分24秒

 Vitaさん、ども。

 いえいえ、失礼なのは私の方でして、かなり一面的な見方で要約しています。
まあ、こうやって書いておけば、御門下の方々が「先生の教学をサルトルに擬す
とは何事か、先生の教学の真髄はこれであるぞよ」と詳しい書き込みをしてくだ
さるのではないかなと期待したのですけれど、邪悪(笑)な魂胆を見透かされて
いるみたいですし、私の書き方が悪くて教学自体が誤解されるのは本意ではあり
ませんから、このへんでやめといた方がいいかな、と。
 でも、御門下の方に出てきてもらって、Vitaさんがおっしゃるように「さらに
そこから何か演繹できることがあるのではないかしら」(取意)と話が展開すれ
ば、面白いのではないかなあ、とは今でも思ってます。


 P.S.
 真宗BOADにお邪魔しました。稲城選恵勧学和上も安芸門徒とうかがったことが
ありますけれど、それはそれとして、空華轍と石泉轍の違いを説明できるほどの
知識は私にはありませんです。お役に立てなくて申し訳ないっす。油断はたまた
ま知ってました。『大般涅槃経』巻の二十、高貴徳王菩薩品の二、

  善男子、たとへば、世間に諸の大衆二十五里に満つる有り。王一臣に勅す、
  「一つの油鉢を持し、中を経由し、過ぎて傾覆せしむることなかれ。もし
   一滴(サンズイ+帝)を棄てば當に汝が命を断つべし。」復一人を遣し、
  刀を抜きて後に在り、随ひて之を怖れしむ。臣王教を受け心を尽して堅く
  持し、爾所の大衆の中を経歴して、可意の五邪欲等を見ると雖も、心常に
  念言す、「我もし放逸して彼の邪欲に著せば、當に所持を棄てて命全済せ
  ざるべし。」是の人是の怖れの因縁を以ての故に、乃至一滴の油を棄てざ
  るが如く、菩薩摩訶薩も亦復是の如し。生死の中に於て念慧を失はず。不
  失を以ての故に、五欲を見ると雖も心に貪著せず。

 このあたりがネタ元とされているようです。

   如来涅槃を証して、永く生死を断ず
   若(もし)至心に聴くあらば、當に無量の楽を得ん


Re11:過去ログ  投稿者:林遊  投稿日:05月22日(月)11時05分12秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

	しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の
	志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすな
	はちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏
	はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(東161/西146)

うん。
		なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・称名相続


Re:らくりんさん おはよ 投稿者:林遊  投稿日:05月22日(月)11時04分40秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

>
ややこしくしてすいませんね。(笑)その場合の助業は「行」として修業でしようや。
生活の一つひとつとは語られているものがちゃいますね。(笑)
>

そそ、廃立の論理です。で三吉さんの仰る助業(社会的実践)の論理の中で「廃立」
を語るからワケワカメになるんでありましょうね(笑)。

>
ですね。でもサンガも組織でしょうや。サンガには願いがある。
「差別反対」を現代の課題としたとして余人は知らず、私は共感します。
それは差別心を持つものを排除するわけではなく、差別心を克服できない我等だから
こそ、そういう願いが本願から促されて出てきているのだろうと私には思えますがね。
>(改行位置変更)

ええ、おっしゃる事はわかります。一体三宝なんでしょうけど、仏法僧のどこに中
心を置くかということで微妙に立場が違ってくるんでしょうね。小生は、やはりこ
の御法義は、御開山の仰るように「仏宝」に重きをおく御法義だと思いますです。

サンガに中心を置き、サンガを尊敬し帰依していくのが、上座部仏教というもので
ありましょう。 厳しく修行し、戒律によって自己を律し、仏陀の教えに随って行く
人々の集団は、まさに人々の尊敬を受け帰依に値するのでありましょう。

でもまあ、残念ながら、何百年も当流は出家の反対に属する「在家の御法義」だと領
解してきた門徒衆に、突然、教団がええカッコしたくてサンガ論なんて事を持ち出さ
れても、なんじゃそりゃあ?でありますです。

毎月の在所のお講で、オットメ・お文拝読の後に、嫁の悪口や近所のうわさ話をくっ
ちゃべってる婆どものほうが、よっぽどサンガ(和合)なるものを知っているんであ
りましょうね(笑)。

「行動」を場とした意識からは自是/他非、善/悪、快/不快が出て来るんでしょう
が、このようなお講に参加する、どっしりと「生活」に根を張った婆どもからは、浅
ましいやっちゃのぉとか、生きる上でのどうしようもない悲しみとかが出てくるので
ありしょう。
そんなこんなの有象無象の為に、なんまんだぶつと阿弥陀様がご一緒して下さるので
しょうね。

	なんまんだぶ、なんまんだぶ・・称名相続		


Re7:真俗一元論 投稿者:林遊  投稿日:05月22日(月)11時03分53秒

ども、詭弁屋さん。林遊@なんまんだぶつです。

	了解でっす。

	なんまんだぶつ、なんまんだぶつ・・・・・称名相続


MANUさん 投稿者:らくりん  投稿日:05月22日(月)09時30分32秒

『読み解く』を前提にしたような、物言いがでてくることもありますが、ご勘弁を。

本内容のすべてを、掲示板に書くことはできませんので、
「詳しいことが知りたい場合はここにもうちょっと書いてありますよ」と、
参考文献を紹介しているという程度に、ご了承下さい。

参考文献の紹介は、どんな場合でもあるでしょう。
読む読まんは、その内容へのさらなる関心があるかどうかです。

らくりん@著者としては、一人でも多くの人に読んでいただきたいという
気持ちはあります。


語・義の同一性の根拠は? 投稿者:らくりん  投稿日:05月22日(月)09時20分05秒

三吉さん、
「ただ念仏すべし」ということが、本願の精神の核心です。
「念仏しない」者がどうして、その「本願を聞いた」ことになるのですか。
ただ「耳に入れた」というだけでは?
官僚の「ご批判は承っておきます」 とどこがちがうのか。

>法蔵の本願に共感しているのは誰がなんと云うと我が身の事実でしょうや。

あなたの「リアル」が「ほんとうにリアル」であるかどうかという問題です。
私たちは、何か大きな魅力に衝き動かされるようなことはいくらでもあります。
魅力的な女性に一目惚れして、追っかけ回すのも「衝動」ですし、
やくざの親分に憧れて、杯を交わすのも「衝動」です。
民衆のための社会を作りだそうと革命運動に身を投じるのも「衝動」です。

>私が、わざわざ本を読んだり、聞法に出掛けたりするのも「本願」の促しではない
>でしょうか?
これも本願からの〈うながしかも知れません〉が、あなたが「本願だと考えているこ
と」が「弥陀の本願である」という根拠はどこにあるのか。
従因向果的に(因から果を)予測することではなく、従果向因として信知(果から因
を確認)するという仕方でしか明らかにならない。つまり、それが本願でるあかどう
かは、あなたの言い方を借りれば、あなたが「本願を十全に聞い」たときにしかわか
らないことなのではないか。
あなたにも本願の〈はたらきかけ〉や〈うながし〉はあります。それはまちがいない。
ただ、「本願を十全に聞く」ということは「ただ念仏する者となる」こと以外にはな
い。違いますか?

あなたの言っていることだけでは、あなたの理想を本願という語にダブらせているだ
け(つまりあなたの独り合点、勘違い)かも知れないじゃないですか。
「語の同一性」は「義の同一性」を保証しない。

念仏は「無義」であることにおいて、
「語」が「ただ単なる語」として、いかなる場合でも同一性が保証されている。
だから「ただ念仏」なのです。「ただ」には「不二の義」と「無義の義」という二つ
の意味が込められています。「無義」である故に「不二」である。
いかなる形であっても念仏に「義」を付与したら、「ただ念仏」の同一性は失われて
しまう。
「弥陀の本願が、弥陀の本願である意義」は「ただ念仏」によってしか根拠付けられ
ない。
どうしてこんな単純明快なことが、わからないの?
現在のあなたの本願の了解が「勘違いでない」という根拠が、たんなるあなたの「好
み」でしかないのではないか。そうではないという根拠はどこにあるのか。

今のあなたの言い方では、「自分が本願だと思っていることが、弥陀の本願であって
ほしい」、あるいはせいぜいで「弥陀の本願であるはずだ」ということにしかならない。

私が本願だと〈思っている〉弥陀の本願は念仏者を生み出すはたらきにおいて本願で
ある。


(無題) 投稿者:Vita  投稿日:05月22日(月)08時20分46秒

詭弁家さんレスありがとうございました。
>で、じつは詭弁家さんが、(Re7:真俗一元論)  
以下は、カットして下さい。
「私自身がこの考え方をしているわけではありません。」とおっしゃっているのに、失礼しました。


Re10:過去ログ 投稿者:ootubo  投稿日:05月22日(月)07時55分35秒

林遊さんこんにちは。
「念仏」をとのように受け取っているかご返事がまだですが。
なぜ私の発言を疑問に思ったかを明確にしていただけなければ、
>具体的にこの「念仏」とは何なんですかとお聞きしているつもりです。
このご質問にも、あなたが納得のいく回答ができないと思います。


らくりんさん おはよ 投稿者:三吉  投稿日:05月22日(月)07時07分24秒

>あなたには「ただ念仏すべし」の教えは〈伝わった〉のですか

問題はここです。貴兄は「私はただ念仏する者として生きる」もしくは「生きたい」」との名告り
があってはじめて「教えが伝わった」と考えられている。
だが私はそうは思わない。「称」を生み出していない「聞」ですが、それもまた「聞」です。
法蔵の本願に共感しているのは誰がなんと云うと我が身の事実でしょうや。
参画が「称」へとつながらないのは、私が本願を十全に聞いていないことも事実でしょう。
だが、本願はそういう者も摂取している、予定されてると私は思います。
そのことの証明は「今、私がここにいる事実」でしょう。
私が、わざわざ本を読んだり、聞法に出掛けたりするのも「本願」の促しではないでしょうか?

>それでは具合悪いですか?

いえいえ、そういう姿勢に共感します。
私が云っていたのは「共通の行動原理」がないとしても「個人を突き動かす行動原理」はまさしく
あるし、あなたもまたそれに「突き動かされている」という事実です。
それもまた「本願」からの促しだろうと思ってます。

林遊さん  おはよ

>とも、法然聖人はおっしゃてますしね(笑)。

ややこしくしてすいませんね。(笑)その場合の助業は「行」として修業でしようや。
生活の一つひとつとは語られているものがちゃいますね。(笑)

>でもそれを組織の「行動原理」でやっちゃうとマズイんじゃないかと思ってたりします。

ですね。でもサンガも組織でしょうや。サンガには願いがある。
「差別反対」を現代の課題としたとして余人は知らず、私は共感します。
それは差別心を持つものを排除するわけではなく、差別心を克服できない我等だからこそ、
そういう願いが本願から促されて出てきているのだろうと私には思えますがね。


Re7:真俗一元論  投稿者:Vita  投稿日:05月22日(月)00時51分00秒

えっと、まあ、私、「十戒」みたいなことを連想し、「社会的実践」を強制する
荒ぶる神みたいなものまで、そのついでに妄想したみたことです。
ということで、人格神まで、書いちゃいましたが
私の拙い哲学の知識を思い出して、サルトルの実存主義というのは「無神論」に
基づいているのではなかったか。その意味で、神の不在を「呪われた」と
表現しているのでありましょうかね。で、いわゆる「超越」ということを立てずに
(原則みたいにして)あくまで、人間の側として話そうとする苦悩が表現されいるのかなあ
と味あわせていただいたことであります。

二種深信から真宗の「実践原理」を見いだしていくことは、私にとって、とっても魅力的なことです。
でもまあ、念仏以外の行では、どうにも救われ難い我が身だということだった
さらにそこから何かを演繹することはできるのかしらとは、思いました。

で、じつは詭弁家さんが、その昔お書きになった論文だった、なんてオチはないでしょうねぇ。どうひゃひゃっあ


言いたいことだけ言っときます 投稿者:MANU.  投稿日:05月21日(日)23時55分38秒

いろんな話題がクロスしてますね・・・
それぞれに色んなことを思わされるのですが、正直ついていけてません(苦笑)
ただその中で、「らくりん」さんと「三吉」さんのやり取りで、「らくりん」
さんの言葉に頷かされています。
>「私は、このように考えこのように行動する、あるいは行動しない」ということは
>あっても、「あなたはこのように行動すべきである、行動すべきでない」という
>ことにはならない。
とのお言葉は、常に感じていることですし、ついつい忘れてしまう自分でもあ
ります。

>私は、「ただ念仏すべし」という原理以外には縛られたくない、と思います。
>そして、それのみを原理として生きようとする人がもっともっと増えてほしい
>と思いながら、ない知恵をふり絞って「言葉」を吐き出し続けるだけです。
>そして、「待つ」。
「行動原理」などと言われますと、私はどうなのかということがうまくまとま
りませんが、このように言っていただけますと私は「ただ念仏すべし」という
お言葉をそのまま受け止めております。その「お念仏」についても色んな見方
の話題がありますが、私にとっては「信」に対する湧き上がるお念仏であって、
「私の口を通じて阿弥陀様が飛び出してくださる」というものです。(理論的
に検証されるこの板にはふさわしくない表現でしょうが)
南無阿弥陀仏

ところで、以前この板は「裏」であるということをおっしゃってましたが、先
の「祭り」の話題のときに別の板でこの板を紹介された縁で来ている私は、
「表」には参加せず、また管理人さんの著作も読まず、ただこの板の話題だけ
で参加してますが、このような参加形態は望ましくないんでしょうか?初期の
ころのように「次回作に書いてますのでお読みください」ということですと、
著作を読んでいるのが参加の前提になるのかもしれません。
まあ、「駄目」って言われても、私への良い刺激になるんでROMは続けるつ
もりですけどね。


Re6:真俗一元論 投稿者:詭弁屋  投稿日:05月21日(日)18時32分37秒

 Vitaさん、ども。

 人間は自由であるべく呪われている、というのが(たぶん)正確な引用になる
と思います。適当に書いてまいました(謝)。「人格神」はここでは関係しませ
ん。関係するのは、帰納法で導き出された体系(公理系)の伝授という場に於い
てだと私は思います(その時には、「呪われた」が効いてくるはずです)。
 それと、「行信同時・行信表裡」を最初に言っておかないと、わけわかんなか
ったっすね。信の階梯と行道の歩みは「同時・表裡」の関係になるというのが前
提です。
 二種深信は「信の二相」と捉えられています。如来の真実(無分別智)に照ら
されなければ、自己の非真実(分別智)に気づけなかっただろう、私=私の虚妄
で自己完結し、[自由]という人間の原理に目覚めることなどなかっただろう、
と考えるので、信には撞着の否定と超出の希求という二相があることになります。
行者の「信」を階梯的に深めていく=行道(行動・参加)を続行させる力は、二
種深信の二相構造からうみ出されている、と、まあ、そんな具合です。

 で、私はこの考え方を思想研究としては面白く読みましたが、私自身がこの考
え方をしているわけではありません。ひとつの「お味わい」として受け取ってい
るだけです。それから、誤解のないよう申し添えておきますが、基幹運動の活動
がこの考え方に支えられているわけでもありません。「信心の社会性」=「社会
的実践」を「自明」とされる方に採用されているだけです。「信心の社会性」と
言われても、多くの人にとっては、如来廻向の信心に「社会性」? 念仏者の社
会性のことじゃないの? 状態なのです。そりゃ、当然ですよね。如来廻向の信
心をいただこうがいただくまいが、人間が社会で生きていることにはかわりがな
いのですから。


 林遊さん、ども。

 Vitaさんあてにも書きましたけれど、単純化した上に配慮なんぞをいたしまし
たので、すっかりわけわかんないものになったと反省しております。
 前提条件がたくさんあるので長々と書かないと説明しきれないのですが、なん
だかそれをやるのも「手の込んだむなしさ」といった感じがしますので、この話
題はここらあたりでひと休みひと休みの一休さんにさせてください。

 >なにはともあれ、おや様がご一緒ですからありがたいこってす。

 なまんだぶ。


大事なことと蛇足 投稿者:らくりん  投稿日:05月21日(日)16時24分58秒

三吉さん、
大事なことを言い忘れました
>よく知りませんが。一から十まで、それこそ選挙の投票まで指示していただけるか
>も知れませんよ。
>あまりにひどすぎる偏見でしょう。私がそうされることを望んでいるとお思いか?
ほんの冗談のつもりでしたが、おっしゃる通り失礼なことを言いました。
謝ります。

あとは蛇足です。

>あなたは、決まった行動原理があるならば、それは強制でありファシズムだという
>論理です。
宗教を根拠にして、構成員に共通する「行動原理」が出されると、それはほぼ自動的
に信者にとっては強制になると思います。
熱心な信者であればあるほど、その原理に忠実に行動しようとすることになります。
そのような、集団を一定の方向に動かしていく思想を、全体主義と言うのではないか、
と私は理解していますが。

>できるだけ自分を縛るものを少なくしたいとの論です。
という「論」をお持ちのあなたが、なぜ、真宗に「行動原理」を見いだそうとするのか
私にはちょっと理解に苦しむものがあります。

ここで問題になっている「浄土真宗の行動原理」というのは、
「真宗門徒であろうとする私の個人的な行動原理」という意味ではなく、
「真宗門徒であろうとする者、すべてに共通する行動原理」という意味では
ないか、と私は理解しています。
もし「真宗門徒であろうとする者すべてに共通する行動原理」なるものがあるとした
ら、「真宗門徒であろうとする者すべて」がそのように行動しなければならないこと
になりませんか。
「原理」というのは、一定の強制力を持つことなのではないか。
無視しても構わないというのであれば、「原理」でもなんでもない。
だから、「行動原理」などというものは「自分を縛るもの」に他ならない。

私は、靖国神社に反対しない、反対できない「真宗門徒」がいることがあっても
不思議ではないと思っています。
それは矛盾でしかないわけですが、
さまざまな縁と行き掛かりで、そのようにしか考えられないということがある。
矛盾を抱えていながら、矛盾だと気づいてい人を、切り捨てるわけにはいかない。
そんなときに「靖国反対は、真宗門徒の行動原理である」としたら、
そういう矛盾をかかえた存在を切り捨ててしまうことになる。
原理というのはそういう単純な発想や結論を導くための便利な基準になってしまう
のです。
一旦原理として確定したら、「原理」は一人歩きします。
そして矛盾を抱える人を切り捨てることが「正しい行動」になってしまう。
私は、その時、切り捨てる行動はとりたくない。
だから「原理」という言葉を使いたくないのです。
それよりも「義なきを義とする」のもじりみたいになりますが
「〈原理はない〉という原理」の方が、より〈まし〉だと思います。

矛盾を抱える人に向き合う時にこそ「真宗門徒でありたいのか」
という問いが意味を持ってくる。
そこから「真宗門徒であるということはどういうことなのか」について、
言葉を尽くして語り合う(とても難しいことですが)。
そして「得心がいくのを待つ」。

私は、「ただ念仏すべし」という原理以外には縛られたくない、と思います。
そして、それのみを原理として生きようとする人がもっともっと増えてほしい
と思いながら、ない知恵をふり絞って「言葉」を吐き出し続けるだけです。
そして、「待つ」。

それ以外のことは、自分で考え、自分で判断し、自分で責任を取りたいと。
「こんな時親鸞さんならどうするかな」と、自問自答したりなんかしながら……。
それでは具合悪いですか?


Re9:過去ログ 投稿者:林遊  投稿日:05月21日(日)13時21分02秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

>
すでに、ただ念仏とお答えしましたが。
>

で、具体的にこの「念仏」とは何なんですかとお聞きしているつもりです。

			なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・称名相続


Re:ちなみに 投稿者:林遊  投稿日:05月21日(日)13時20分15秒

>
林遊さん 横レスです
>
はい、三吉さん、ども、林遊@なんまんだぶつです。

>
生きていることの一つ一つが実践でしょう。
法然さんは云ってます。生活の、衣食住の一つ一つがすべて「念仏」の助業であると。
念仏の妨げになるようなら止めてしまえと(笑)。
>

	本願の念仏には、ひとりだちをさせて助をささぬ也。助さす程の
	人は極楽の辺地にむまる。

とも、法然聖人はおっしゃてますしね(笑)。三吉さんの仰る「生きていること」、
「実践」という概念も相当広い幅を持ってますからややこしくなるんでしょうネ。

>
基幹運動も「助業」でしようや。妨げになるならばしなかったらよい。助業になると
思われる方が主体的にやっているのだから何の問題も無いと思います。
>(改行位置変更)

助正とやらは、著者さんのWでも取り上げられる?でしょうから、そこんとこで
お教えを乞えれば幸いです。「弘願助正説」たら「方便助正説」たら、小生には
なんじゃらほいとサッパリわからんですから。

>
ただ「呼びかけ」は願いでしようや。そういう願いが「念仏」から出てきているならば、逆に「その助業の呼びかけ」に感動して「念仏」に出遭うものがいるかもしれない。
>

ですね。でもそれを組織の「行動原理」でやっちゃうとマズイんじゃないかと思っ
てたりします。もちろん、個人の「生活原理」でやる分にはあたりまえですけど。
早い話が、まず身近な身内からってことですかね。で、まあこれが一番難しいので
ありましょうけんど(笑)。

	なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・称名相続
>
林遊さん 横レスです
>
はい、三吉さん、ども、林遊@なんまんだぶつです。

>
生きていることの一つ一つが実践でしょう。
法然さんは云ってます。生活の、衣食住の一つ一つがすべて「念仏」の助業であると。
念仏の妨げになるようなら止めてしまえと(笑)。
>

	本願の念仏には、ひとりだちをさせて助をささぬ也。助さす程の
	人は極楽の辺地にむまる。

とも、法然聖人はおっしゃてますしね(笑)。三吉さんの仰る「生きていること」、
「実践」という概念も相当広い幅を持ってますからややこしくなるんでしょうネ。

>
基幹運動も「助業」でしようや。妨げになるならばしなかったらよい。助業になると
思われる方が主体的にやっているのだから何の問題も無いと思います。
>(改行位置変更)

助正とやらは、著者さんのWでも取り上げられる?でしょうから、そこんとこで
お教えを乞えれば幸いです。「弘願助正説」たら「方便助正説」たら、小生には
なんじゃらほいとサッパリわからんですから。

>
ただ「呼びかけ」は願いでしようや。そういう願いが「念仏」から出てきているならば、逆に「その助業の呼びかけ」に感動して「念仏」に出遭うものがいるかもしれない。
>

ですね。でもそれを組織の「行動原理」でやっちゃうとマズイんじゃないかと思っ
てたりします。もちろん、個人の「生活原理」でやる分にはあたりまえですけど。
早い話が、まず身近な身内からってことですかね。で、まあこれが一番難しいので
ありましょうけんど(笑)。

	なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・称名相続


三吉さん、はずしてませんよ 投稿者:らくりん  投稿日:05月21日(日)08時55分44秒

>1私が本願に出遭ってないとどうしてあなたに断言できますか?
>2本願に出遭ってない者にも本願は働きつづけるのではないか?
>3あなたがどういう自覚であれ、あなたが腹が立とうが、あなたが「念仏」を広め
>られるはたらきをすれば、それは「還相」ではないのでしょうか。

私は別に腹を立ててなどいません。
私が念仏を広める努力をすることが「還相」ではありません。
〈念仏が伝わった人〉のところに「還相」という意味が生じるのです。
たとえ、私の言葉がきっかけになったとしても、伝える(=還相回向の)主体は如来
であり、私ではありません。
で、あなたには「ただ念仏すべし」の教えは〈伝わった〉のですか、ということです。

「はたらきづづける」ことと、そのはたらきに気づくことは別です。気づくことと受
けとめること、すなわち「聞」別です。「聞」は「称」の主体を生み出します。
それが「信」です。「称」を生み出さない「聞」は、「聞」とは言えない。
で、あなたは称名念仏する者となったのですか?
あなたの口から「私はただ念仏する者として生きる」もしくは「生きたい」という、
明確な意思表示、宣言をまだ私は聞いていないし、あなたの表現する言葉からそれを
聞けていると思えないからです。

>判断するのはあなたではなく、受け取る側です。あなたの側ではない。
「受けとる側にはつねに誤解する自由がある」、だからどう受け取ろうと自由ですが、
あなたが、「念仏者として生きる」という選択が明確にならない限り、あなたがそう
思っている相手が「還相の菩薩である」という根拠は何もない。浄土のはたらきはす
べて「ただ念仏」を根拠にしてしか成り立たない。それを根拠にしない「想い」は
「幻想」でしかない。
相手が誤解していると思うことに対しては、自分が感じていることを返すのも親切の
一つです。人はそれを「よけいなお世話」と言いますが。

あなたとのやりとりは、いつも同じところにいってしまいますが、
「あなたはただ念仏する者として生きよう」とするのかどうか、
そこのところをはっきりと聞かせてもらいたいものです。

「行動原理」について
浄土真宗から導かれる、行動原理がないことはありません。
しかしそれはどこまでも「私一人(いちにん)」にとってのものです。
である限り、それは常に私の「煩悩」のバイアス(色眼鏡)を通した判断でしかない。
だからそれは決して「正しい判断」であるとは言えません。
そこからもう一つ重要な原理が出てきますが、
私が浄土真宗から教えていただく「行動原理」は決してあなたのものにはならない。
個々の問題について、判断する時は、
「私は、このように考えこのように行動する、あるいは行動しない」ということは
あっても、「あなたはこのように行動すべきである、行動すべきでない」という
ことにはならない。
たとえ、死刑制度に賛成する「真宗門徒」がいても、その人と教えの受け止め方に
ついて話し合うことができても、相手の考え方をねじ曲げるわけにはいかない。
言葉を尽くして語りあったあとは、相手がどのように得心するかはただ
「待つ」ばかりです。
他者に対して勧めることはあっても、同調を強要はできません。
真宗に「行動原理」あるとすれば如上のような、「行動原理」を欲しがる人にとって
はまことにあてにならない「原理」です。
欲しがる人に対して言う時には、「行動原理がある」というよりも「行動原理はない」
という方が事柄の性格を的確に表わしていると思います。少なくとも誤解が少ない。

だから、誰かから「浄土真宗の行動原理を教えてくれ」と尋ねられれば
「そんなものはない」と答えるか、世自在王仏が法蔵比丘尼に言ったように
「汝自らまさに知るべし」と答えるしかないのです。つまり自分のケツは自分で拭けと。


Re8:過去ログ 投稿者:ootubo  投稿日:05月21日(日)06時47分42秒

>で、この念仏とは、仏を念ずる観法のことでありますか?。
林遊さんには、念仏とは何でしょうか。仏を念ずる観法のことでありますか。

>至心 信楽 欲生我国 乃至十念、のどこにootuboさんの仰る社会的実践な
>ることのお奨めが説かれているんですか?。
すでに、ただ念仏とお答えしましたが。

>私が真仮偽を分別するのであれば、阿弥陀様のご本願にも、御開山親鸞聖人
>のご著書にも用事がなくなりますね。
すでに、なにが真で、なにが仮で、なにが偽であるか問われています、とお答えしました。
念仏に出会わなければ問われていません。

林遊さんは念仏と関係なしに発言されているのですか。
>小生はこのような姑息なヤリカタが好かんので、ぐちゃぐちゃと文句を垂れて
>いるだけでありますです。
念仏に出会ったので真仮偽を分別し発言されているのではないのですか。

私はインターネット上での活動も社会的実践の一つと思っていますので、
林遊さんは非常に活発に社会的実践をされているように見えますが。






ちなみに 投稿者:三吉  投稿日:05月21日(日)01時49分31秒

>それか、この際、宗旨変えして、お題目を唱えたらどうですか

念のため云っておきますが、我が家の宗旨は「日蓮法華宗」です。
日蓮や法華経を学ぶのは家の宗旨がたまたまそうであったからです。

仏教に関心をはじめてもったのは、小学校の時「亀井勝一郎氏の「信仰について」で語られたのが
親鸞であった。それが最初の親鸞との出逢いです。私は当時プロテスタントの信仰を持ってました
ので親鸞については最初は違和感がありましたが、基本的なスタンスはここから学んだと思います
で、高校の時、一般教養として禅関係や華厳の解説をちらちらと読んだ。
大学がたまたま大谷で、親鸞や仏教に関心をもった。卒後8年にして、すこし勉強し出した。
で、その勉強の中で一義的には親鸞さんや大乗仏教に関心があるが、家の宗旨は日蓮であった。
日蓮についてはまったく関心が無かったので少しは勉強しておこうとしてちらちら見ているわけ
です。私は結婚式は仏式で、真宗の寺院でやりましたが、このままほっておけば私は法華宗門徒で
す。
ですから宗旨がえというのはあたりません。墓参りに行けば、法事に行けば題目ですから。
私が念仏を称えるならば「宗旨がえ」が現実の問題となるのです。
それはたぶんあなたが考えられている以上に親戚の問題とか色々あります。
祖母などは「宗旨がえすれば、何代か祟られる」とかいう迷信を生きておりますしね。

勿論ここであなたがいわんとしているのはそういう理想主義・菩薩主義なら題目が似合っている。
それは真宗ではないということでしょう。
しかしながら、真宗のサンガで具体的に基幹運動が勧められ、同朋運動がやられていた。
私はその願いに共感するといっているわけです。それは「念仏」が根拠だと感ずると。

あなたがた院生諸氏が「差別ビラ事件」に取り組んだ。私はそこに「真宗的な何か」を感じた。
その「何か」とはなんだと「教行信証」の学習会をやった。しかしそれも卒業と同時に忘れた。
で8年経ってまた思い出した。そして私はここにいるわけです。

林遊さん 横レスです

>いまだかって自分の食い物を自分でつくったことのない奴には、
>実践なんてのを論じて欲しくないような

生きていることの一つ一つが実践でしょう。
法然さんは云ってます。生活の、衣食住の一つ一つがすべて「念仏」の助業であると。
念仏の妨げになるようなら止めてしまえと(笑)。
基幹運動も「助業」でしようや。妨げになるならばしなかったらよい。助業になると思われる方
が主体的にやっているのだから何の問題も無いと思います。
ただ「呼びかけ」は願いでしようや。そういう願いが「念仏」から出てきているならば、
逆に「その助業の呼びかけ」に感動して「念仏」に出遭うものがいるかもしれない。


Re5:真俗一元論   投稿者:林遊  投稿日:05月21日(日)01時26分52秒

どもです、詭弁屋 さん、二度めまして(笑)。林遊@なんまんだぶつです。

>
 これで、めでたく伝統教学の結託と思われることでしょう(笑)
>

うん、でも小生の場合は伝統聴聞のやからはらからでありまして、教学な
んてそんなおっとろしいもん知りませんですよん。

>
一人)、その際に「如来廻向」と受け取ることで行者内部で発生・相続する
(であろう)作用を無視するのはいかがなものかと私は思います。「回心」
にも関係するのですがそれはおいといても、「聞即信」というテレビ画面に
向かっての力道山(あるいは橋本、あるいは小川)いけそこだ、よっしゃ、
みたいな阿弥陀さまの御活躍に対する我を忘れたこぶし握り締め状態は、果
たして「階梯」という概念でクリアできるのだろうか、と愚昧な私は疑問に
思います。
>

ここんとこは仰っていることを、小生は見事に誤解錯覚してましたですね。

でもまあ泥タンボで米つくってきた実践を重んじる百姓の端くれとしては、
野良仕事でくたくたになった身体を、御法座へ運び、いっけ〜、空手チョッ
プ、やったらんかいちゅう、我を忘れた鬱憤不満の精神的エネルギーの解
放には役にたちましたですね。

で、いまだかって自分の食い物を自分でつくったことのない奴には、実践
なんてのを論じて欲しくないような、あるような(笑)でありますです。
なにはともあれ、おや様がご一緒ですからありがたいこってす。

	なんまんだぶつ、なんまんだぶつ・・・・称名相続


らくりんさん はずしてますよ 投稿者:三吉  投稿日:05月21日(日)00時48分56秒

>あなたがもし自覚的に真宗門徒として生きることを選びとったとして、あなたが信頼する人か
>ら、「これが浄土真宗の行動原理だ」と言われたらそれに従って、唯々諾々と行動するのです
>か。

「親鸞ならどうするか」と考えることと誰か現実の偉いさんの言ったとおりに行動するのとは、
違うのでは?摩り替えられてます。

>答えがでないときもあるし、たとえそうやって、答えが出たとしてもその通りに行動するとは限
>らない、できるかもわからない。

だが、例えば「ただ念仏」には随順されているし「死刑制度」にも反対されているのでは?
自分の家族が殺されて、その「死刑制度反対」に感情がうなづくことができずに、逸脱したとして
も、やはり「死刑反対」は「念仏の智慧」でしょう。
あなたの「死刑反対」は「念仏」とまったく無関係にそう考えているのか?

>それは、必然的に自分で考え自分の責任で行動するしかないという結論になります

ただ呼びかけることはできるし、必要なのでは?

>自分の行動のケツを「浄土真宗」に拭いてもらおうなんて、ふにゃけた気持ちで真宗に惹かれる
>なら、顔を洗って出直して下さい。

で、私が真宗に私のけつを拭いてくれと言うとお思いか?

>よく知りませんが。一から十まで、それこそ選挙の投票まで指示していただけるかも
>知れませんよ。

あまりにひどすぎる偏見でしょう。私がそうされることを望んでいるとお思いか?
あなたは、決まった行動原理があるならば、それは強制でありファシズムだという論理です。
できるだけ自分を縛るものを少なくしたいとの論です。


>本願に出会っていない者が、どうして還相の菩薩が見えるのですか。勘違いも甚だしい。
>それは単なる「あなたの幻想の菩薩」 です。

1私が本願に出遭ってないとどうしてあなたに断言できますか?
2本願に出遭ってない者にも本願は働きつづけるのではないか?
3あなたがどういう自覚であれ、あなたが腹が立とうが、あなたが「念仏」を広められる
はたらきをすれば、それは「還相」ではないのでしょうか。
判断するのはあなたではなく、受け取る側です。あなたの側ではない。


Re4:真俗一元論  投稿者:Vita  投稿日:05月20日(土)23時47分20秒

なんだかな、と思いつつ、初めまして詭弁家さんにレスです。

「呪われた存在」というのは己の選びを示さなければならないという、
人格神との契約に基づいた脅迫の如きでございます。

そもそも、二種深信は階梯ではなく「信の二相」ではないのでしょうか。

そいで、できますればこちらにもおいで下さいやし。

http://www.tcup4.com/444/masaho.html


幻想の菩薩と勘違いでは? 投稿者:らくりん  投稿日:05月20日(土)23時32分47秒

>おいおい。ほんとかな?親鸞さんならこの場合どーするかとか、そういうのを持た
>れているようにお見受けしますが、それは私の感違い?
>「親鸞さんならこの場合どーするか」というのは立派な行動原理でしょう。
三吉さん、
あなたがもし自覚的に真宗門徒として生きることを選びとったとして、
あなたが信頼する人から、「これが浄土真宗の行動原理だ」と言われたら
それに従って、唯々諾々と行動するのですか。
そんなんじゃ「指示待ち人間」と何も変わらないじゃないか。
それは、真宗の名のもとの全体主義にしかなっていかないでしょう。
そんな全体主義の真似事のようななものを浄土真宗に求めているんですか。
あなたはそんなこともわからずに、創価学会の人たちに偉そうなことを
言っているんですか。

私も、こんなとき「親鸞ならどうするか」を考えることはあります。
答えがでないときもあるし、
たとえそうやって、答えが出たとしてもその通りに行動するとは限らない、
できるかもわからない。

「仏弟子(=真宗門徒)であるかいなかは、自称のみが根拠です」それは第X巻の
『末法灯明記』の結論です。
その具体性は「ただ念仏する」という形での「意思表示」しかありません。
それ以外のいかなる条件も根拠とはならない。
だとすると
「仏弟子=真宗門徒」としての行動は、いかなる「くくり」にも属さないことになり
ます。
それは、必然的に自分で考え自分の責任で行動するしかないという結論になります。

あなたは、この行動原理を貫くいき方の厳しさに気づくことができていない。
「ただ念仏」ということを舐めている証拠です。
自分が舐めているものを信頼できないのは当然です。
これは往生一大事だけは一切を弥陀に託する(その結果が地獄であってもです)、
それは、裏返せば
それ以外のあらゆる行動の責任を自分以外のなにものにも転嫁しないということです。

自分のケツぐらいは自分で拭け。その覚悟を賜ることを信心というんです。

自分の行動のケツを「浄土真宗」に拭いてもらおうなんて、ふにゃけた気持ちで真宗
に惹かれるなら、顔を洗って出直して下さい。
それか、この際、宗旨変えして、お題目を唱えたらどうですか、そうしたらすばらし
い行動原理を頂戴できるかも知れませんよ。よく知りませんが。
一から十まで、それこそ選挙の投票まで指示していただけるかも知れませんよ。

>「念仏」は自分だけで称えて自分だけが浄土に行くというものではないでしょうし
>ね。
いまごろそんなことを問い掛けてきて、何を寝惚けたことを言っているんですか。
そうやってだだをこねてみせて、浄土にあこがれているのあなたの方だということで
しょう。
そんな甘ったれた救済幻想をふっ切れていないから、あなたはいつまでたっても
「本願の成就」を信じられないんです。
「本願の成就」を信じられない、念仏を舐めている人から「還相の菩薩」などと
呼ばれてもうれしくも何ともありません。
そんな「しゃれた言葉」せめて、私は今日から「ただ念仏する者として生きます」と
宣言してから言ってもらいたいものです。本願に出会っていない者が、どうして還相
の菩薩が見えるのですか。勘違いも甚だしい。
それは単なる「あなたの幻想の菩薩」 です。

信巻の阿闍世は「我常に阿鼻地獄に在りて、無量劫の中にもろもろの衆生のために苦
悩を受けしむとも、もって苦とせず」という言葉で救われていくのでしょう。
親鸞も「地獄は一定すみかぞかし」と。私も何度も繰り返していっているはずです。
浄土真宗の救済は「浄土へ往生すること」によってでも「往生が確定」することによ
ってでもなく、「救済の断念」として成立する、と。
一体これまで何を読んできたのですか。
自分の気に入るところしか目に入っていないのではないか。

数打ちゃ当たるとでも言わんばかりの、散弾銃の打ち合いのような議論ばかりして
いるから、事柄の本質・急所を見抜く眼が曇ってしまうのではないか。
スナイパーのように、一発で急所を打ち抜くような議論の腕を磨いて下さい。


らくりん氏は私からしたら「還相の菩薩」 投稿者:三吉  投稿日:05月20日(土)20時39分48秒

>真宗の教えから、個々の問題について「この問題にはかく行動すべき」というような「行動原
>理」は出てこないように思います。

おいおい。ほんとかな?親鸞さんならこの場合どーするかとか、そういうのを持たれているように
お見受けしますが、それは私の感違い?
「親鸞さんならこの場合どーするか」というのは立派な行動原理でしょう。
死刑制度にある国に生まれたら、「浄土にゃあ死刑制度が無かった」と批判できるのはなぜか?
真宗の教法がかく言わしめているのではないでしょうか?
十全にできるかどうかはともかく、「本願の全員解放」の精神に共感し参画しようとする時の
参画にはきっちりと「行動原理」があると思います。それは「念仏」でしょうが、
「念仏」は自分だけで称えて自分だけが浄土に行くというものではないでしょうしね。
で自分だけでないならば他者との関係は含有してますし、「念仏」は自己へ閉じたものではなく、
他者へと開いていくものでしょう。それが行動原理でしょう。
そもそも「念仏」というのは何のためでしょうか?浄土に行くと言うのは中間目標にすぎません。
自己関心しかないものが、自利利他同一の地平に、つまり還相の菩薩になるためのものでしょう。
それは成仏と等同です。


Re3:真俗一元論 投稿者:詭弁屋  投稿日:05月20日(土)18時43分29秒

 林遊さん、どもです。はじめまして、ではなくて、お久しぶりです。
 これで、めでたく伝統教学の結託と思われることでしょう(笑)

 くさそうですか、「信」の階梯。浄土真宗と大乗仏教の関係(「大乗の至
極」と言われのは、なぜか?)を明らかにしようとした時に行者の「信」に
着目するのは順当だとして(伝統的にもあります。石泉派の僧叡さんもその
一人)、その際に「如来廻向」と受け取ることで行者内部で発生・相続する
(であろう)作用を無視するのはいかがなものかと私は思います。「回心」
にも関係するのですがそれはおいといても、「聞即信」というテレビ画面に
向かっての力道山(あるいは橋本、あるいは小川)いけそこだ、よっしゃ、
みたいな阿弥陀さまの御活躍に対する我を忘れたこぶし握り締め状態は、果
たして「階梯」という概念でクリアできるのだろうか、と愚昧な私は疑問に
思います。
 まあ、私が読んだのは古い論文ですし、そののち思考は深められ、また優
秀な御門下の方々が問題意識を継承されより精緻な論理体系を構築されてい
ることでありましょう。


 お留守居役様さん、どもです。はじめまして。

 「真俗一元論」はまぎらわしいですね。意味不明です(笑)
 けれど、うっかり「俗一元論」なんてミスタイプしてしまうと、私、フク
ロにされるかもしれませんので、曖昧にわかりにくくどうとでも詭弁が使え
るようにしておきました。ごめんなさいです。
 「真俗二諦」は、龍樹菩薩の「勝義諦/世俗諦」まで遡れると聞いたこと
がありますが、真宗教理史的には覚如上人の『改邪鈔』の「遁世のかたちを
こととし……」の項にある、

  それ出世の法においては五戒と称し、世法にありては五常となづくる
  仁・義・礼・智・信をまもりて、内心には他力の不思議をたもつべき
  よし、師資相承したてまつるところなり。
                     (東 すいません 西 P920)

 をその源と考えるようです。
 これを「修身」(→忠君愛国)の押しつけと読むと、教団は保身のために
国家権力の手先となって信者をマインドコントロールしている、となるので
しょう。そのように使われたことは歴史的な事実としてありますし、今でも
そのように使う人(教化者)はいるんじゃないかと思います。
 五戒→五常であって、五常→五戒ではないのですが、顛倒は起こり易いで
す(なぜ顛倒が起こり易いのか、を考えると、龍樹菩薩まで遡ることになる
のかもしれません)。「他力の不思議」を「内心」にたもつことで念仏者の
内面にどのような変化がもたらされるのか、が考えられた上で、「御恩報謝」
が具体的な社会生活の場で念仏者にどのように開かれるのか、を「五常」で
例示したとも言えるのではないかと思います。
 そのような側面からは、仏教の「戒律」をどう考えるのかの問題が引き出
されるでしょうし、今風には、たとえば、柄谷行人さんの『倫理21』の問題
意識に思想としての浄土真宗はどうこたえるのかといったようなことも考え
られるかと思います。より具体的には少年法の改正で期待されている犯罪抑
止効果の限界を浄土真宗の教えは超えられるのか、超えられるとしたらそれ
はどのような仕方によってなのかといった問題にもつながるとは思います。

 しかし、『存在と無』を三度も通読されるとは凄いですねぇ。私はめくっ
た程度です。サルトルで思い出すのは、古書店で全集本(欠巻あり)を手に
入れ、ちょっと細工して別の古書店に持っていき、差額で安い肉と酒を買っ
て友だちとすき焼きパーティをしたことくらいです。貧乏学生だったっす。
ちなみに、私の書籍ブローカーとしての大当たりは、地方の小さな本屋さん
で見つけた渋澤龍彦さんの初版単行本(美品)です。定価で買って古書相場
で売り飛ばして焼き肉食べました。ジョン・ダニングの世界ですね(笑)


第3日曜日は化身土巻の会 投稿者:らくりん  投稿日:05月20日(土)18時24分49秒

明日は、第3日曜日(午前10時〜12時)、「坊さんは来るなと言わんばかりの日時
設定」の、自坊での化身土巻の講義の日です。会費は300円。

『親鸞の教行信証を読み解く』を生み出した、ホームグランドの一つです。

今回でちょうどまる7年になりますが、いよいよ『末法灯明記』に入っていきます。
『末法灯明記』は、読みにくい部分があるのですが、付き合いが長く「気心が知れた」
という感じが持てる引文の一つです。

近所のおばちゃんたちに、化身土巻を話し続けてきたことが、
いや逆だな、彼女たちが我慢して聞き続けて下さることが、
私にとって一番勉強になります。本当にこの会には鍛えられました。

坊さんは、ちょっと勿体つけた話をするとかえって有り難がってくれることが
ありますが、彼女たちは正直ですから、
私自身が、自分で得心がいっていないことは、どれだけ勿体をつけて話しても
見破られてしまいます。
その前に、いい加減なことを言っていたらすぐにそっぽをむかれてしまいます。

逆に、伝えたいことがある時には、こなれていない話からでも、
話し手の「つもり」以上のことを聞きとってもらえることがあります。

「教えとは、話す者のところにではなく、聞く者のところにある」(如是我聞)、
ということをつくづく感じさせられる、私にとっては厳しい会です。


Re2:真俗一元論 投稿者:お留守居役様  投稿日:05月20日(土)11時55分12秒

「真俗二諦」ということが解りませんでした。
皆さんが何を言おうとしているのか、何が言いたいのか解りませんでした。
「真俗二諦」を肯定されるのか、否定されているのか、立場が解りませんでした。
少しは弁証法的思考方法を会得しているつもりでしたが、
やはり業界用語は部外者には解らないものかとあきらめていました。
ご説明により「真俗一元論」なる立場があることを知りました。
「真俗二諦」と「神祇不拝」の関係もなんとなく解りました。
でも「真俗二元論」とは言っても「真俗一元論」というのはおかしいと思います。
「真一元論」では何のことか解りませんけども。

世の中は多様で、世界は多重構造をなしており、
重層的価値観があり得ると思っている者にとっては、
真俗一元論や独裁や国粋などの右へならえの統制論を
認めるわけにはいかないと決意を新たにしました。
なお「真俗二諦」も唯一の基準ではなく、「真善美」とかもありますし、
たくさんある基準の一つに過ぎないと申し添えておきたいと思います。

わたくし、自慢ではありませんが、サルトル「存在と無」を3回通読しました。
翻訳でですし、だいぶ前のことですけども。。。


Re:真俗一元論 投稿者:林遊  投稿日:05月20日(土)11時36分40秒

詭弁屋 さん、はじめまして?。林遊@なんまんだぶつです。

なんかよおワカランですが、「「信」の階梯」たらちゅうのが
くさそうですね。と林遊は思う。

	なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・称名相続


Re7:過去ログ 投稿者:林遊  投稿日:05月20日(土)11時22分05秒

林遊@なんまんだぶつです

ちょっと意地悪かもしれませんですが、御同行として、

>
>で、阿弥陀様は、ootuboさんに一心一行の外に、どのような実践行をお求め
>になっていらっしゃいますでしょうや。
なにも求めてはいません。ただ念仏です。
>

で、この念仏とは、仏を念ずる観法のことでありますか?。

>
なにが真で、なにが仮で、なにが偽であるか問われています。
そして、行動するなとはいわず、むしろ関わっていきなさいといわれます。
>

	たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜん
	と欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗
	正法とをば除く。(偶然にも東西両派とも十八願は十八頁)

	至心 信楽 欲生我国 乃至十念、のどこにootuboさんの仰る社会的実践な
   ることのお奨めが説かれているんですか?。

>
それは、教団や真宗門徒としてではなく、私が真仮偽を分別して関わりなさいと。
しかし、その勧めにもなかなか行動できないのが今の私です。
>

私が真仮偽を分別するのであれば、阿弥陀様のご本願にも、御開山親鸞聖人
のご著書にも用事がなくなりますね。

          なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・称名相続


靖国=アクセラレーター論 投稿者:らくりん  投稿日:05月20日(土)09時39分16秒

私が、靖国信仰と産土信仰、基本的な理念や思想性はほとんど同じものではないかと
思っています。
それをあえて区別して考えようとしているのは、靖国信仰はすでにあった産土信仰
(生地に対する愛着心を求心力にした信仰)を、国家レベルに適用して、日本国に対
する愛着心の形成するために利用した。地域ナショナリズムを、国家ナショナリズム
に拡大転用して、薩摩の人間と加賀の人間が「心を一つ」にして戦争できるシステム
を作り上げた。

これを、譬えれば
ベースクロック(産土信仰)だけでは、トロすぎてとても実用にはならないマシンに、
超高速CPUアクセラレーター(国家神道)を装着することによってメチャメチャ快
適なマシンに変身させるようなものではないかと思います。
基本的なハード思想は変わらなくても、実用性(危険性)は格段に違います。私は、
ベースクロックを問題にする必要はないと言うつもりはありません。しかし、ほんと
うに危険視しておかなければならないのは、アクセラレーターの方ではないかと言い
たいのです。アクセラレーターさえ外せば暴走の危険性は格段に低下するのではと。

アクセラレーター機能は人を惹きつける求心力ですからどの宗教や信仰でも
持っています。
もちろん浄土真宗も例外ではありません。
まったくアクセラレーター機能を有しない宗教なんか、すぐに消滅します。

産土信仰と国家神道の相性はメチャメチャよかったけれども、
ヨガ・ベースモデルにオウム製アクセラレーターをのせればあの通りです。
オウム真理教が事件を起こしたからといって、ヨガ全部を否定するわけにはいかない
のではないでしょうか。

警戒しなければならないのは、思想や信仰がアクセラレーター機能を悪用しようと
することに対してであって、ベースモデルそのものではないと思います。
ベースになる信条や心情を一律に「邪悪」と決めつけることは
逆の意味で危険なアクセラレーターになっていく可能性があると思います。

『教行信証』化身土巻の「第二の教誡」部分の批判のやり方は、
単純に「外道」批判をしているのではなく、
アクセラレーター機能の悪用について問題にしているように思います。


真俗二諦 投稿者:ootubo  投稿日:05月20日(土)07時59分04秒

 真俗二諦について私は、念仏は世間を超越しているが、念仏者は法律や道徳、習慣などを
無視するべきでないと受けとめていますが、他の解釈またはご意見をください。


Re6:過去ログ 投稿者:ootubo  投稿日:05月20日(土)07時46分11秒

>で、阿弥陀様は、ootuboさんに一心一行の外に、どのような実践行をお求め
>になっていらっしゃいますでしょうや。
なにも求めてはいません。ただ念仏です。
なにが真で、なにが仮で、なにが偽であるか問われています。
そして、行動するなとはいわず、むしろ関わっていきなさいといわれます。
それは、教団や真宗門徒としてではなく、私が真仮偽を分別して関わりなさいと。
しかし、その勧めにもなかなか行動できないのが今の私です。


真俗一元論 投稿者:詭弁屋  投稿日:05月20日(土)01時12分01秒

 らくりんさん、どうも。突然の乱入失礼いたしました。

 「真俗二諦」に対する戒めは基幹運動の方で喧しく言われています。
 人によって用法が異なるので、靖国神社と鎮守の杜を区別して考えるのも
「真俗二諦」と言われる場合もあります。メチャクチャ粗い議論になるじゃ
ないかと思われるでしょうが、その通りです。粗いです。一部ですよ、一部。

 「真俗二諦」の否定は基本的には真宗を真諦としてそれ以外を俗諦に配す
る二元論から出発します。でもって、真諦を正(真)、俗諦を邪(偽)とし
て俗諦を否定して一元論にするわけです(真俗一元論の完成)。お気づきで
しょうが、この論法は単純なトートロジーです。「私が正しいから正しい」。

 やっかいなのは、「私の正しさ」の保証に阿弥陀如来の「真実」が使われ
ることです。嘘こけ、詭弁屋、と思われるかもしれませんが、これを支える
「教学」たらゆうものがあるのですねぇ。どういうことかざっと説明します
れば、阿弥陀如来の「本願」との遭遇を「真実体験」とします。本願に出会
うことで、行者(宗教的主体)は如来の「真実」性に目覚めます。ところが、
行者は「真実」ではない存在です(如来ではありませんから)。行者は阿弥
陀如来の「真実」と自己の非「真実」に引き裂かれます。これが、二種深信
です。これらの出来事を「信」の初位(能入)と捉えます。行者は行道を歩
むことで「信」の階梯を究竟位(能度)にまで深めていきます。行道とは、
真実と非真実の矛盾を乗り越えるための、状況への身の投げ出しです。人間
は状況に投げ出された存在ですから、身の投げ出し、つまり、投企は状況の
否定・批判という行動として現れます。そうでない自己を得るための身の投
げ出し(投げ出してみなければ、そうでない自己がなになのかはわからない)
を可能にし続けるのが、自己が抱える真実/非真実の矛盾とそこから生まれ
る自己同一性(真実)の希求です。人間は自由であるべく呪われた存在だと
言ったのはサルトルですが、「信」の階梯をのぼるべく呪われた存在が本願
の行者ということになります。ですから、「社会的実践」は行道であり、投
企であり、行者に必然的に求められるものです。しかも、実践は現実社会を
「そらごとたわごと」と否定・批判していくものでなければならないのです。
「信心の社会性」=「社会的実践」はこのようにして成り立ちます。わざと
改行せずに読みにくくしましたが、目をまじまじさせてごめんなさいです。

 伝統教学に馴染んでいるせいで、「信心の社会性」の意味がよくわからな
い本派の方々、J・P・サルトルを読みましょう(笑)


Re:横入り、ごめん 投稿者:林遊  投稿日:05月19日(金)21時57分50秒

ども、林遊@なんまんだぶつです

表現方法は違いますが、たぶん、らくりん師と同じような事を言っているん
だと、小生は思います。「愛と怒りのボランティア」と題したご法話を聴聞
したことがありますが、まさに、被害者への「愛」ゆえ、なんじゃこりゃぁ
と、立ち上がり、行政への「怒り」ゆえに、わりゃあ何考えとんじゃぁ、と
自らの煩悩の、炎を燃やすのでありましょう。これはこれ、まっこと尊い事
じゃと思うております。

で、仏の十号に調御丈夫ちゅうのがありますですが、このような煩悩のエネ
ルギーをたらを、どのように発揮利用したらよかろうかちゅうのが、マハー
ヤーナたらちゅう大乗仏教ではないかと密かに思うちょりますです。

たぶん、大乗仏教運動ちゅうのは、しかめっ面しい顔して煩悩を滅して我悟
れり、ちゅう長老部のおっさんに対する、若いアンチャン、もしくは小生の
ようなバカタレが、煩悩ちゃあエネルギーの固まりじゃんけ、この煩悩のエ
ネルギーをもっとうまく使わんかいィという、アンチ涅槃(大涅槃ではあり
ません)運動じゃなかろうかと思っていますです。

で、この御法義では、愛とか怒りという動的なエネルギーを、ストレートに
発散するのではなく、仏の調御丈夫のよろしき調教により、静的な静かなエ
ネルギーに変換していくという事があるのかも知れませんですね。

おひおひ、林遊さんは抑えているんですかぁ、ちゅう問いにはこれでも精一
杯、優しく抑えているんですよん、とお答えしたく存知ましますです。

>
「自負」の「匂い」を感じる会合で、そういうことをしょっぱなに聞いてみます。
>

うん、いったんこの御法義に入った浄土真宗門徒と名乗る奴は、殴ろうが蹴り
廻そうが口業による教化でありましょうがお好きになさいませ。
小生なんぞは、なんまんだぶつせんかいとはり倒してやりますです。それが本
当の親切、超高齢女性心でありましょうやねえ。

          なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・称名相続


横入り、ごめん 投稿者:らくりん  投稿日:05月19日(金)15時20分55秒

>なんまんだぶつの御法義はどんなにひねくり廻しても、「社会的実践」なる「行動
>原理」は出て来ません。
林遊さんのおっしゃる意味と同じかどうか、その点は心許ないものがありますが、私
も、真宗の教えから、個々の問題について「この問題にはかく行動すべき」というよ
うな「行動原理」は出てこないように思います。
そのような「行動原理」を教えから導き出そうとすることは、歴史が語るように、宗
教教団が歯止めを失って破滅的な道を暴走してしまうことになります。
だから、「真宗門徒として正しい」という理由をつけて行動することには、私は極力、
慎重でありたいと思っています。
と同時に逆も真であって「かく行動すべからず」という「不行動原理」も出てこない
のではないかと愚考する次第です。
林遊さんには、「馬鹿なクソ坊主」とおしかりを受けることになるのでしょうが、
煩悩のおもむくままに、やったりやらなかったりしております。


>小生は、「私は真宗門徒と名のれるか」などという事は、浄土真宗門徒は対外的表
>現に使用すべきではないと思っております。
まったく真宗の「し」の字も関係ない人に向かってそんなことを訪ねることはあ
りません。
「真宗になんのこだわり」ない人に、そんな質問をしても、「なんのこっちゃいな」
で軽くいなされてしまうだけです。話にも何にもなりません。
私がこの問い掛けをするのは、真宗の坊さんを対象とした研修会とか、「推進員なん
とか研修会」、あるいは教務所主催の「なんたら講座」というような、「自負」の
「匂い」を感じる会合で、そういうことをしょっぱなに聞いてみます。


Re5:過去ログ  投稿者:林遊  投稿日:05月19日(金)11時45分11秒

ども、ootuboさん、林遊@なんまんだぶつです。

なにやらぐちゃぐちゃすまんこってす。でチョット視点を変えてみます。

小生は、「私は真宗門徒と名のれるか」などという事は、浄土真宗門徒は
対外的表現に使用すべきではないと思っております。まして世俗の事象に
対して使用すべきではないと考えております。もちろん自分が自分に語る
場合は別でありますが・・・・。

もっとも、真宗門徒なる語が特定の「組織」を指し示しているならば、お
好きになさいませませ、ではありますけんど(笑)。

>
 阿弥陀様のご本願を受け入れているつもりですが、
>

で、阿弥陀様は、ootuboさんに一心一行の外に、どのような実践行をお求め
になっていらっしゃいますでしょうや。

>
 暇つぶしの「社会的実践」なるものにも興味を持っている自分に気づかされます。
>

ですから気づいちゃいけないんですって。門徒を騙そうとする坊主にマインド
コントロールされちゃうじゃないですか(笑)。

なんまんだぶつの御法義はどんなにひねくり廻しても、「社会的実践」なる
「行動原理」は出て来ません。時代に迎合する一部の学者や坊主が、社会に
対して自己の存在理由を死守するために「社会的実践」なるプロパガンダを
叫んでいるだけです。

こんな「行動原理」に騙されていたら、越前の小生の先輩方のように、また
一向一揆を起こして人殺しをしなきゃならなくなるじゃないですか。

御当流には御恩報謝という「生活原理」に根ざした、立派な名目があるのに
ねぇ。

	なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・称名相続



つづき、 投稿者:らくりん  投稿日:05月19日(金)09時54分22秒

神棚と仏壇が同じ部屋にならんでいても、何も不思議でないという感覚を持ってしま
っていることに対して、「あなたは、真宗門徒でありたいのか」という問い掛けをし
ていく以外にはないと思っています。
MANUさん、その時の「真宗門徒」とは「本願寺末寺の檀家」という意味ではあり
ませんので、ご安心下さい。
話は、その点がはっきりしてからの問題ではないか。そこをすっとばして、「あんた
は真宗門徒の家に生まれたから、真宗門徒である。真宗門徒は、かくかくしかじかす
べきで、これこれはすべきではない」と一方的に決めつけるような、乱暴な議論は慎
まなければならないと思います。

おそらく大谷派の「社会派」的な人たちの行動には、そういう「先走り」的な傾向が
あったことは、私は否定しません。それは、現状認識の甘さだったと思います。
「それを言う前にもっとはっきりさせんなんことはあるだろう」という苛立ちをおぼ
えたご門徒さんたちがたくさん、いただろうと思います。

私は、縁があればさまざまな「社会問題」に首をつっこんでおります。
それは私の「煩悩の所為」であると思っています。「さるべき業縁のもよおせばいか
なるふるまいもすべし」の「いかなるふるまいも」の範疇に含まれる行為としてです。
それは、弥陀の報土への往生においては「たすけ」にも「さわり」にもならない行為
であります。往生の一大事だけは「ただ念仏すべし」です。

「善悪のふたつそうじてもってぞんじせざるなり」ときかされておりながら、「善
悪」に拘ってしまう愚かしさを捨て切れません。
その時に「造悪無碍」をひっくり返して「造〈善〉無碍」ということも言えるだろう
と独り合点して、「煩悩のもよおしにうながされて」あれこれやっております。
もし、

私自身の日常は、「ただ念仏すべし」以外のことについては、「悪」と言われてやら
ずにおれるものでもないし、「善」と言われて励めるものでもない。それと同時に、
「悪」と言われればできるだけやらないように気を付けたり、「善」と言われれば、
真似事ぐらいしてみようかなどと、「さまざまな業縁」に触れて、揺れ動いておりま
す。そういう姿こそが凡夫の凡夫たる所以ではないかなどと自分自身に言い訳しなが
ら。
そして、その「揺れ動き」について、また「さまざまな縁」によってお導きいただき、
それでさらにまた「揺れ動いてしまう」そういうことを繰り返しているような気がし
ます。
その姿を、「真俗二諦」だと切り捨てることは容易かも知れませんが、私は浄土真宗
は人間の弱さ、愚かさを否定しているものではないと思います。
「過ちを犯す」生き物であることは大前提です。

ついでに「真俗二諦」論で、いわゆる「戦時教学」を切り捨てる論法は単純すぎるの
ではないかと思っております。せめて「〈誤った真俗二諦説〉とか〈真俗二諦説の悪
用〉して、教団やご門徒を誤った方向に導いた」、と言うぐらいの言葉に対する繊細
さは必要なのではないかと思っています。
「真諦・俗諦」を厳格に分離して考えること自体は誤っているとは思いません。
私などは「真俗合体」説とか「真俗一諦」説などということを言われる方が、もっと
おそろしく感じます。幸いに、真宗門徒を自称される方が、そういう主張をされるの
にはまだ出会っておりませんが。
件の森首相の発言は真俗一諦の発想ですし、創価学会の「国立戒壇」も根っこの発想
は同じだと考えてもいいのではないかと思います。
森首相の家は代々真宗門徒であったはずですが、ご自身は「門徒を自称」するつもり
はいないようですね。幸か不幸か、私は彼の選挙区の住人です。前回の選挙では、盤
石だったはずの彼の地盤を脅かして、冷や汗をかかせるような選挙結果だったのです
が(とは言ってもその時の対立候補は、比例区で当選して、まだ小沢さんの党に残っ
ている代物なのですが。とても貴重な1票を投じたくなる人物ではありません)。
さて今回は、私の「清き一票」をどのように行使しようか。

こういう時に「マイナス投票」という制度があったらなあと思います。
森氏に「マイナス1票」とすると、得票が1票減るというやり方です。
そういう選挙が実現したら、マイナス票の少なさを争うことになって
「森喜郎、マイナス23,453票、当選確実」などという
選挙速報が流れることになるんでしょうね。


産土信仰 投稿者:らくりん  投稿日:05月19日(金)09時53分34秒

三吉さん、
またいつもの軽いジャブですね。
創価学会の論客との激しいやり取りにつかれて、当掲示板に息抜きにやってきて下さ
ったのでしょうね。
まあ、ここを「息抜き」程度に使っていいるのは三吉さんぐらいかも知れません。

産土(うぶすな)信仰と靖国神社は、土地(領土)を基盤にしたナショナリズム的な
求心力を、信仰の原理にしている点は両者の類似点です。それは私も否定していません。
しかしそれが同時に両者の相違点も生み出しています。

町内会費に組み込んで神社の維持費を集めているところはたくさんあります。
三吉さんの補足のように、それを拒否したために、町内会を除名されたことを不当である
と訴えた、裁判が争われています。
しかし、一方で人の移動が激しくなり、旧来の土地と人との結びつきの関係も多様化し
ています。
私の、周辺の自治会だけでも、
氏子費相当分を支払わないことが了承される地域もありますし、
旧住民と新住民の町内会費に差をつけているところもあります。
また、神社の扱いだけが理由ではありませんが、旧住民と新住民との考え方の違いから
町内会が二つに別れたところもあります。

このように、狭い地域での強要を生み出す原理は、対応の地域差、つまりバラバラさを
生み出す理由ことにもなります。したがって、個人的な対応の余地が残されています。

靖国神社は、個々の家まで集金には来ませんが、祭神として祭られる条件を満たせば
ほぼ自動的に合祀されます。それは拒否しようとしてもできません。(すでに最高裁判
決まで出てしまっています)
ですから、靖国神社は「戦争に行きますか、それとも日本人やめますか」という選択
をせまってくる存在であるのです。

私は、浄土真宗のご門徒が、鎮守の森の神社にお参りすることを「好ましいこと」だ
とは、決して思いません。
ただ、生まれた家が代々浄土真宗の門徒だったからという理由だけで、
その人を真宗門徒と「看做す」ということは、産土信仰と大差ないのではないか。


捕捉 投稿者:三吉  投稿日:05月19日(金)06時52分52秒

>鎮守の森を国家体制の中に組み込もうとするなどというのは、「失笑」の対象です。
>問題は、特定の宗教や信仰が、それを望まない人に強要する事態が発生した時に生じるのです。

かような問題が鳥栖市で現に起こっており、法廷で争われてます。
町内会費から自動的に氏子費が払われているがそれはおかしいという裁判です。
町内会はたぶん、国家体制の末端を民間委託という国と形式的には切り離し、実質は国の末端とで
もいうべき組織です。で論理は戦前と同じ、玉串と同じ、地域に昔から神社はあり、慣習であっ
て、宗教じゃないという論理ですわ。
私は神社の氏子になるのは慣習ではなく、宗教だと。つまり自発的な意志の確認が必要だと
思うのですが、現在はそこに住んだら自動的じゃないでしょうか。
これは寺側もある意味やってます。地蔵盆とかがそうでしょう。子供会とか校区の子供たちは
強制だったと思います。(私は楽しかったが(笑))


らくりんさん 投稿者:三吉  投稿日:05月19日(金)06時36分04秒

>靖国神社と鎮守の森の神社との違いを明確にしようとするものです。

ならば鎮守の森は、町内会を利用して、我々住民につきあいを強制してます。
町内会費から自動的に氏子費が引かれてりしますから。
一度町内会費の支出明細を調査下さい。


re:くだんのメール 投稿者:お留守居役様  投稿日:05月19日(金)00時34分14秒

>聞く耳を持たない人々に向かって、どんなに言葉を尽くしても、
>返ってくる反論は屁理屈の域を脱していないところでの、
>徒労を繰り返す愚行を戒めて下さいました。

ずいぶんとひどいことを言うものだと思います。
それはともかくとして、これは事実に反しています。
らくりんさんの点検を始めとして、多くの人が「語源」を調べてくださいました。
それに比べて大願さんが、「啓蒙」を説明されたのは、
>蒙古の人を蔑視する言葉が語源であるから問題と言っているのです。
この1行だけです。
ですから、聞く耳を持たない大願さんに向かって、
どんなにか言葉を尽くしたのは、私たちだと思っています。
ところで、
『聞く耳を持たない』の「語源」をご存じでしょうか。

「聞く耳のある者は聞くがよい」

マルコによる福音書第4章第9節など、新約書にたびたび登場するイエスの言葉です。

さらに。

>もうそろそろ真宗門徒の私たちも、目覚めても良い頃ではないかと思います。

と言われていますが、この『目覚め』もキリスト教の言葉だと思います。
バッハの曲で「目覚めよと呼ぶ声のして」はご存じですね。
「語源」は、マタイによる福音書第25章の
花婿を迎えるのに目を覚ましていなければならいというところです。
その意味は「目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、
あなたがたには、わからないからである。」(第24章第42節)

このことをもってして、「語源」を知らないことを追求しようとするのでも、
大願さんがキリスト教徒だと言いたいのでもありません。
『聞く耳』も『目覚め』もともに
『聞く耳を持たない者』と『眠っている者』を否定し、排除する教義です。
仲間か敵かの論理です。昔は、これを党派制の論理と言ってました。
大願さんは、運動の決定に従い、本願寺の命名に従って、
疑うことを知らないようで、
すでに「公は私に優先する」という逆立ちをされているように思われます。
「共同幻想は自己幻想に逆立する」のは自然過程ですが、
この過程を逆転して(疑って)自己を取り戻されることを願っています。
でないと、マインドコントロールされている人が、
いくら「目覚めよ」とプロパガンダしても
庶民には地に足がついていないと見抜かれてしまうと思います。


Re4:過去ログ 投稿者:ootubo  投稿日:05月18日(木)23時40分34秒

林遊さんこんにちは
 丁寧な回答ありがとうございました。
 しかし、
 <反対概念として「実践」なる語を使用いたしました、
 これ以下のご説明が私には理解できません。
  特に
 >姑息なヤリカタが
 私にはそのように思えませんが、にぶいのでしょうか。

 ご質問ですが、答えはおわかりと思いますが、
 阿弥陀様のご本願を受け入れているつもりですが、
 暇つぶしの「社会的実践」なるものにも興味を持っている自分に気づかされます。


re:浄土真宗国教化 投稿者:お留守居役様  投稿日:05月18日(木)21時51分04秒

サヨク系知識人の端くれとして、

浄土真宗が国教化する前に、国家を廃絶する

と誓っておきます。


re:浄土真宗国教化、賛成?反対? 投稿者:MANU.  投稿日:05月18日(木)20時27分14秒

その対象が浄土真宗であろうと、他宗であろうと、
政治による決定事項の対象になることには反対です。
それが、守る方向でも排除する方向であってもです。
オウム教団や法の華教団にしても、宗教として位置付けするなら、
政治や権力によってその存在を決定する権利をもたせることに反対です。
ただ、犯罪集団としてみる場合は別です。

また、それが国教に指定されようがされまいが、
私と浄土真宗の関係は変わりません。
浄土真宗を縁として、御本願に気付かせていただいたものとして
「真宗門徒」とするならば、私は「真宗門徒でありたい」と言います。
ただ、浄土真宗末寺に籍を置くことが「真宗門徒」とするならば、
こだわりません。
ただ、それは他人が判断するものではないと感じています。


浄土真宗国教化、賛成?反対? 投稿者:らくりん  投稿日:05月18日(木)14時28分45秒

みなさん、
特に「真宗門徒でありたい」と思っておられる方にお尋ねします。
むろん、そのように思っていない方のお考えもうかいたいと思います。

質問
「浄土真宗が日本の国の〈国教〉とすべきであるという話が政治日程に浮上したとしたら、
あなたはそれに賛成しますか反対しますか。」


こんな質問はばかげていると思われるかも知れませんが、

この質問の意図は、
大願さんとのやり取りで、靖国神社と鎮守の森の神社との違いを
明確にしようとするものです。

このように書くと、答えを誘導してしまうことになりますが、

私の考えは、
もし仮に、浄土真宗が日本の「国教」となって、その信仰が日本国民に強要される
ような事態になるようであったら、私はそれに反対します。

靖国神社の信奉者は、あの神社を「国立神社」にしたいのです。
「国家(天皇)防衛のために死んだ」と看做された者を英霊(神)として祀り、崇める
という靖国神社は設立の趣旨からして、本質的に「国立」でなければその趣旨を完全に
実現できない神社であるからです。

その違いを明確にしないと、神道が邪悪であるからダメだけれども、浄土真宗は
「正しい宗教」であるから「国教」にすべきだということになります。

私は、浄土真宗の門徒として生きたいと思っておりますが、それが「国教」として
国民に強要されるような事態には断固反対します。

靖国神社に反対するのは、それが本質的に、戦争の賛美と信仰の強要を「宗是」として
しか成り立たない宗教であるからです。


「匿名希望改め詭弁屋」さん、 投稿者:らくりん  投稿日:05月18日(木)09時30分46秒

あらためまして、ようこそ。

大願さん、
「靖国神社と鎮守の森を同じだ」と言いたいのは、向こう側が両者は同じぐらい「安
全で」「自然な」宗教心に基づく宗教施設だと思わせたいのは、向こう側の論理です。

そして、大願さんが「靖国神社と鎮守の森を同じだ」と言おうとする場合は、両者は
同じぐらい「危険で」「悪質だ」ということになります。
こういう粗っぽい同一視は、相手側に「靖国神社に反対する者は、村のお宮さんを
焼き払えというような危険な考えの持ち主だ」という具合に決めつける口実を与えるだ
けです。
相手側が両者を同等と見せかけようとする言葉を、批判する側が自分の主張の正当性
の根拠として転用するのはあまり賢いやり方ではないと思います。
これは、明治時代に真宗者が「神道非宗教」説を提唱して、それを逆手に取られて、
結果的に「神道は超宗教」として、まったく別枠扱いしてしまう方向の露払いをさせ
られてしまったようなことと似た構造になります。

靖国神社と鎮守の森は、似通った思想性があることは私も承知しています。
しかし、批判対象として見る場合には、本当に批判すべき部分を見誤ると大きな間違
いを犯すことになると思います。
両者は成立の歴史的背景も、思想的にも、現実的に果たしている役割においてもまっ
たく異質な部分があります。
私は、同行衆に「靖国神社は危険な宗教施設だ」ということを説明することはできま
す(納得してもらえるかどうかは別として)が、「お宮さんへお参りすることが、危
険だ」と説明しようとは思いません。
だからといって、それを勧めたり自分がお参りするということではありません。
(すぐに、いっしょくたにされてしまいそうなので、くれぐれも誤解なきよう)
争う必要がない人を、無理矢理ケンカの相手に名指しするのはばかげていると思います。

批判対象としての靖国神社と鎮守の森の最も大きな違いは、
国家という権力装置を背景にして信仰の強要と拒否者の排除がおしつけられてくるこ
とです。
それは靖国神社が戦争という国家的事業と不可分の関係にあることから出てくる本質
です。ですから、信仰の強要と従わない者対する排除が国家レベルで行なわれる
ことになるのです。

宗教施設としての靖国神社の特異性は、有無を言わせず民衆を戦争という国家事業に
動員するための宗教的軍事施設であるという点にある、と私は考えています。

靖国神社を国家的施設として国が管理しようとする動きは、ずっと続いていますが、
鎮守の森を国家体制の中に組み込もうとするなどというのは、「失笑」の対象です。

鎮守の森を信仰する人がいても、その人を批判する必要はないと思います。論争や議
論は必要ですが。
鎮守の森の信仰を広めようとする活動をする人がいても、私的領域で行なわれる限り
は何ら問題行為ではありません。それは仏教教団が「仏法流通」のために活動するこ
とと等価と言わなければならないと思います。
伝道とか布教活動というのは、最初は何の関心も持っていなかった人に信仰を勧める
行為ですから、どこかで食い違いや衝突が起こることもあります。その程度のことは、
布教活動には不可避です。

問題は、特定の宗教や信仰が、それを望まない人に強要する事態が発生した時に生じ
るのです。しかも、靖国神社はそれを、国家が行なおうとする。戦争が国家的事業と
して行なわれる以上、靖国信仰は本質的に国家による信仰の強制という形をとらざる
を得ないところに問題がある、と私は思います。

鎮守の森信仰が文部省の教育指針に盛り込まれて、鎮守の森への参拝が公立学校に強
要されてくるとしたら、その時に靖国と鎮守は同じ意味で批判していく必要が生じま
す。
創価学会が、一宗教団体として「国立戒壇設立」を叫んでいるだけならば、さほど問
題視する必要がないと思います。しかし、公明党が政権与党に入って「国立戒壇」設
立などということを推進し始めたら、それは靖国神社と同じ様な機能を果たして行く
ことになりますから、非常に危険です。


森クンと遊ぼう 投稿者:匿名希望改め詭弁屋  投稿日:05月18日(木)00時45分01秒

 みなさん、こんにちは。匿名希望改め詭弁屋です。
 白熱した議論の息抜きに、森クンと遊びましょう。

 <日本は天皇を中止…ん? にした紙の国です>

 象徴天皇制をやめて、官僚のリストラを断行し、役所の効率化・ペーパー
レス化を進め、小さな政府を作りたい、というホンネが漏れた発言。

 <鎮守の森やお宮さんを中心にした教育改革>

 鎮守の森とは残された自然のこと。自然環境を大切にする、自然との共生
を目指す教育をしよう、という意味。お宮さんは、当然、「金色夜叉」のお
宮さん。お金が第一という拝金主義・経済至上主義をやめて、人と人との愛
情、いのちの尊厳を大切にする教育をしよう、という意味。男性中心主義社
会への批判も込められている。ネットバブルへの懸念もなくはない。

 <神社中心の地域社会の繁栄>

 豪華な公共施設を税金で建てて村おこしをするのはやめて、伝統行事など
の地方色豊かなありものを使って(リサイクルの考え方で)地域社会の活性
化をはかりましょう、という意味。竹下政権のばらまき行政への婉曲な批判。
神社中止…ん? だと最初と同じになるのでやめたけれど、こっちの方が真
宗門徒ウケするかも。

 <教育直後の採用>

 核家族化が進み、共働き世帯が増えているので、学校の授業が終わってか
らも幼児・児童・生徒を公共施設で無料で預かり、お年寄りとの交流をおこ
なうなど地域ぐるみで次世代を担う子供を育てていこう、という意味。頻発
する少年犯罪や独居老人問題等への対応を地域社会を大家族に見立てておこ
なおうとする試み。

 <いのちはカミ様からいただいたもの>

 愛犬「いのち」は加美さん(仮名)からもらったという報告。政治資金に
関しては一点の曇りなく公開していく、という決意の表明。

 <噂の真相>

 森さんに詭弁ライターとして雇ってもらおうと思ってしこしこ書いたのに、
似たようなことを「弁明」で言われてしまった。しくしく。

 <陳謝>

 「真面目な掲示板にふざけた書き込みをするんじゃない」
 「ごめんなさ〜い」


Re3:過去ログ  投稿者:林遊  投稿日:05月17日(水)23時10分37秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

>
鋭いお言葉ですが、なぜ実践、真宗門徒以外という言葉が出てくるのでしょうか。
そういわれることが私には理解できません。
私は自分勝手に、「私は真宗門徒と名のれるか」ということは、森さん、大悲さん、
そしてこの私と受け止めましたが。
>

リップサービスの反対概念として「実践」なる語を使用いたしましたです。
で、「私は真宗門徒と名のれるか」の問いが、なんまんだぶつを称える以外の
どんな実践(人が履「行」すること)が、浄土門という御法義に必要なんです
かという問いを発したつもりです。
実践なる語が、倫理的行動の意味「だけ」で使われるのは如何なものかという
問いのつもりでありましたですね。

>
「私は真宗門徒と名のれるか」という事と「浄土真宗の門徒に、称名以外の助業、
または社会的実践なる雑行をお奨めでありましょうか」ということが私には結びつきませんが
>

誰に向かって「私は真宗門徒と名のれるか」という問いを発するんですか。ま
さかインタの世界の限られた人々に対するプロパガンダじゃありませんでしょ
う。
問い掛けなるプロパガンダはマインドコントロールの常套手段じゃありません
か。事実、ootuboさんは、「そしてこの私と受け止め」てしまった訳でありま
しょうや。
小生はこのような姑息なヤリカタが好かんので、ぐちゃぐちゃと文句を垂れて
いるだけでありますです。

で、ootubo さんは、阿弥陀様のご本願を受け入れていらっしゃるお方でありま
しょうか。それとも暇つぶしの「社会的実践」なるものに興味をお持ちのお方
なんでありましょうか。

		なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・称名相続


ReRe:過去ログ 投稿者:ootubo  投稿日:05月17日(水)21時50分20秒

林遊さんこんにちは
いつも発言を楽しみにさせていただいております。

>で、「私は真宗門徒と名のれるか」ちゅうのはリップサービスではないのですか。
>どのような実践が「私は真宗門徒と名のれる」のでありましょうか。
>ひょっとして真宗門徒以外は人権も言論の自由も信仰の自由もないのでありましょうか。
>阿弥陀様の摂取不捨の光明は届いていないのでありましょうか。よおわからんです。
鋭いお言葉ですが、なぜ実践、真宗門徒以外という言葉が出てくるのでしょうか。
そういわれることが私には理解できません。
私は自分勝手に、「私は真宗門徒と名のれるか」ということは、森さん、大悲さん、
そしてこの私と受け止めましたが。

>で、ここが判らないんですが、何でどっかの○○タレ発言と「真宗門徒と名
>のる事」ことがリンクするんでしょうか。
>ひょっとして、浄土真宗の門徒に、称名以外の助業、または社会的実践なる
>雑行をお奨めでありましょうか。よおワカランです。
「私は真宗門徒と名のれるか」という事と「浄土真宗の門徒に、称名以外の助業、
または社会的実践なる雑行をお奨めでありましょうか」ということが私には結びつきませんが。


Re:過去ログ 投稿者:林遊  投稿日:05月17日(水)20時52分22秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

>
<我々が本願を信じるのでない。阿弥陀様が私たちを信じていてくださるんだ>とか
<キリスト教徒だろうと、イスラム教徒だろうと大悲にの中にある>とか
発言して、とっちめられたことを、御存知ですよね。
>

とっちめられたと受け取るか、お育てだったと受け取るか、こればっかりは
大悲さん次第でしょうから、小生には何とも言えません。
お示しになられた文章も「約仏」で語られたのか「約生」で語られたのかに
よって、趣旨が変わるのでありましょう。

>
森発言を、娘にしたら、江戸時代の檀家制度以降、真宗寺院の檀家である事と、
真宗門徒であることとは別のことでしょうが、と、言われた。
>

まさにお嬢さんの仰有るとおりです。

既成仏教を「聖道門」とし、自らを「浄土門」と呼称し門徒と自称してきた
のが、この御法義の先人ではありましたです。
(聖道門という呼称は、浄土門の側から勝手に?言っているだけですから、聖
道門の門徒なるものは存在しません。多分(笑))

御法義のお取り次ぎをする坊主と門徒(単数)との組織関係が、江戸時代の
寺請・宗門改などにより葬儀や法事を中心とし、過去帳がつくられ、御法義
の取り次ぎをする坊主は、寺の住「職」となり、門徒(複数)を檀「家」と
する「寺/檀家」関係に変質してきたのでしょう。

葬儀や法事は、坊主と門徒(単数)との関係に「家」概念を持ち込み、本来
ならなんまんだぶつの御法義に生きる、御同朋・御同朋の呼称である「門・
徒」(複数)なる概念を矮小化してしまったのかも知れませんです。

現に、家(ウチ)は浄土真宗ですと言われる方は多いですが、私は浄土真宗
ですと仰有る方はまれですもんね。

>
今朝の新聞で(こっちは夕刊がないんです)全文を読みました。
「神様も仏さまも、親鸞さんだって日蓮さんだってちゃんと言っている」と
本人の弁明。
>

小生はここ数ヶ月、新聞もTVも見てないのでよう分かりませんが、○○は
放っておくしか仕方ないのかも知れませんね。それにしても、新聞もTVも
見ないと、如何に情報に振り回されてたかが良く分かったりしますですね。

>
私(大悲)が真宗に遇わせて頂いたことに、勿体無いと感じ
真宗門徒と名のる事に、勿体無い事であったと慙愧。
>

で、ここが判らないんですが、何でどっかの○○タレ発言と「真宗門徒と名
のる事」ことがリンクするんでしょうか。

ひょっとして、浄土真宗の門徒に、称名以外の助業、または社会的実践なる
雑行をお奨めでありましょうか。よおワカランです。

   なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・称名相続


過去ログ 投稿者:大悲  投稿日:05月17日(水)16時58分05秒

林遊さんとは、他のところでもお話させていただいたので、
<我々が本願を信じるのでない。阿弥陀様が私たちを信じていてくださるんだ>とか
<キリスト教徒だろうと、イスラム教徒だろうと大悲にの中にある>とか
発言して、とっちめられたことを、御存知ですよね。

森発言を、娘にしたら、江戸時代の檀家制度以降、真宗寺院の檀家である事と、
真宗門徒であることとは別のことでしょうが、と、言われた。
「私は真宗門徒と名のれるか」というフレーズは、私にとって慙愧の言葉。
今朝の新聞で(こっちは夕刊がないんです)全文を読みました。
「神様も仏さまも、親鸞さんだって日蓮さんだってちゃんと言っている」と
本人の弁明。

私(大悲)が真宗に遇わせて頂いたことに、勿体無いと感じ
真宗門徒と名のる事に、勿体無い事であったと慙愧。


ただ今帰りました、 投稿者:らくりん  投稿日:05月17日(水)12時12分43秒

転載メール削除の件、理解いただけて何よりです。

放出してきたエネルギー充電のために、ちょっと寡黙モードします。


Re:森氏は確信犯 投稿者:林遊  投稿日:05月17日(水)02時22分55秒

ども、大悲さん、林遊@なんまんだぶつです。
なんちゅうかまたしても(笑)問題発言なのかも知れませんが、

>
今までも随分口をすべらせていますので、リップサービスのつもりで、
本音を吐いたのでしょうね。
「私は真宗門徒と名のれるか」
>

で、「私は真宗門徒と名のれるか」ちゅうのはリップサービスではない
のですか。
どのような実践が「私は真宗門徒と名のれる」のでありましょうか。

ひょっとして真宗門徒以外は人権も言論の自由も信仰の自由もないので
ありましょうか。阿弥陀様の摂取不捨の光明は届いていないのでありま
しょうか。よおわからんです。

(国家<どうでもいいけど>が特定宗教に関与してはならないという原
則は、馬鹿な林遊でも知ってますので、この件に関するツッコミはしな
いように。マキビシ、マキビシ(笑))

     なんまんだぶつ、なんまんだぶつ・・・・・・称名相続


森氏は確信犯 投稿者:大悲  投稿日:05月17日(水)01時16分14秒

小松教区の500回御遠忌のパーティに出席しているところがビデオに写ってました。
同じ小松のH先生が「森氏だけは首相にしたくない」とおっしゃっていたとか。
今までも随分口をすべらせていますので、リップサービスのつもりで、
本音を吐いたのでしょうね。
「私は真宗門徒と名のれるか」


くだんのメール転載は削除して頂きたく 投稿者:大願  投稿日:05月16日(火)19時35分22秒

よろしくお願いします。
例のメールは5月3日にメールを頂きながら、受信箱を開くのが遅れて5月8日に拝見しました。
メールの掲載許可は頂いていません。匿名で転記掲載はあくまで私の独断でした。
匿名またはHNでの掲載が多いのですが、それはそれでレスを書き込み
論争ができますが、本人不在のままでの論争は思いがけない方向へ行ってしまうおそれは
確かにあります。今回らくりんさんがそこに気づいてくださった事は、
実に適切な措置で感謝しています。
メール発信者への誹謗中傷が有ったとしても、かれはおそらく何の反論もされないと思います。
そうした議論の不毛さを忠告下さった訳ですから。
聞く耳を持たない人々に向かって、どんなに言葉を尽くしても、返ってくる反論は屁理屈の域を
脱していないところでの、徒労を繰り返す愚行を戒めて下さいました。
聞く耳を持つ人には、理屈を越えて何か感じて頂けるものであるけれど……。
その通りだと、噛みしめながら、
その旨を皆さんにお伝えする為に、苦肉の策としてくだんのメールの転載を断行してしまいました。
その意味で、私信の公表は、全く私の「勇み足」でした。
私へのエールにお応えしたつもりが、とんでもない勇み足になりました。
この件に限らず、議論の為の議論になってしまう事への一般的な忠告でもありました。
メールを下さった方は、らくりんさんと同じく、どちらかといえば議論好きで、
深夜までをもいとわず議論につきあって下さる方なのですが。「言行を慎み、世法を守る」事に
批判的な方ですが。

ところで、神祇不拝論の蒸し返しをするつもりはありませんが、
先日の森総理(真宗門徒で総代とかいう噂もありますが、本当ですか?)の発言をどう思われますか。
靖国はダメだが、鎮守の森の神は構わないという大勢(?)のご意見でしたが、それを簡潔明瞭に
言い当てていると拍手喝采なのでしょうか?
「天皇中心の神の国」「鎮守の森やお宮さんを中心にした教育改革」「神社中心の地域社会の繁栄」
「教育勅語の採用」等々の一連の発言を見ていて、それでも鎮守の森は容認していいなどと
平然と言い切る事ができる真宗門徒(僧侶も含む)って、本当にうまく真俗二諦を泳いでいると
思いませんか。門徒の総理がああした発言を臆面もなく言い放つことができるのは、天皇教や
靖国指示派の人たちばかりでなく、真宗門徒が総じて神祇崇拝を容認しているからでしょうね。
「鎮守の森」はOkとタカをくくっているうちに、向こうさんはどんどん外堀を埋めて、
この手の攻勢を強めて来るのです。
もうそろそろ真宗門徒の私たちも、目覚めても良い頃ではないかと思います。
こんな危機感の中であるからこそ、演劇「再会」も「東西本願寺統一行動」も
我々門徒で盛り上げて行かねばならない時なのですね。


re:国名論の危険性 投稿者:お留守居役様  投稿日:05月16日(火)18時23分32秒

>我が国のように日出ずる国日本、神国日本は、
>素晴らしいというのと同じになりかねないと思います。
と述べましたが、絶妙のタイミングで、
「日本は、天皇を中心とした神の国である」
と内閣総理大臣が発言したそうです。

「神の国」ではなくて「神々の国」というほうが正しいと思いますが、
「天皇を象徴とした民の国である」と言えば、
日本国憲法に違反しない表現になるかと思います。
また、アメリカ合衆国やイスラエルは、
神の意志にかなう国であると言っていたと思います。
同様に我が国も「八百万の神々の国」であると言えると思います。
そもそも信教の自由というのは、
国家の宗教に係わらず国民各々の信教の自由を保障するというものです。
すなわち、
「日本は、象徴天皇を中心とした八百万の神々の国である」
と発言すれば良かったのではないでしょうか。
「神の国」とか「神国」というと排他的ですが、
「神々の国」というのは、土着の神々がいる国ということで、
この神々は、親鸞も言うように仏教を護るものともなります。
日本国憲法は「国教」を禁止していますが、
この神々は、宗教上の神ではなくて、風俗習慣的民俗上の神々のことです。

ディベート的に発言を擁護してみましたが、この程度が精一杯のところです。
逆説的に内閣総理大臣の思想性の狭さを指摘したつもりです。
やはり「天皇中心」と「神の国」を直結したのが、問題を増幅したと思われます。


菜都奈さん、 投稿者:らくりん  投稿日:05月16日(火)08時04分08秒

さっそくのお越し、ありがとうございます。

そんな噂になるほど「有名」な掲示板になっているとは露知りませんでした。

これを機にちょくちょくお越し下さい。
知り合いの、皆さんにも宣伝して下さい。


はじめまして 投稿者:寺本 菜都奈  投稿日:05月16日(火)02時36分31秒

噂には聞いておりましたが、やはり本当にあったのですね。感動っっ。

先日、同朋会館の補導で、「親鸞聖人御旧跡参拝奉仕団」を担当しました。
その名のとおり、比叡山や六角堂にいきました。

私としては「生死出いずべき道」が課題だったのですけれども、
御旧跡を歩いてもぴぴんとくるものはなく・・・

親鸞が山を降りたのが、二十九歳、
私も六月に二十九歳になります。
「雑行を棄てて本願に帰す」べき時がきたのかなぁ。
愛車のRX−7と、ヴィトンを棄てなければならないのかしら・・・
そういうのって、へんかな。            合掌


「再会」金沢、準備会 投稿者:らくりん  投稿日:05月16日(火)01時11分05秒

本日、拙寺にて、「再会」金沢講演、準備会が開催されました。

公演日程は10月30日、午後6時45分開演です。
以上です。

明日は上越ゆきで、1日留守します。
管理人不在の間、また、おきらくにお楽しみ下さい。


追伸、大願さん 投稿者:らくりん  投稿日:05月15日(月)14時34分40秒

メール転載の、承諾が得られているのでしたら、
すぐに再アップいたしますが、その際には、メールの日付をお知らせ下さい。

それから、明日午前10時ごろ出かけて、1泊留守をしますので、
確認レスをいただいた時点では、私の方ですぐに対応できるかどうかわかりません。

もし、私の帰宅を待てないようでしたら、

確認が取れた旨を書いていただいた上で、
メールの日付とメール本文を再度アップして下さい。

以上よろしくお願いいたします。


大願さん、至急確認レスを!! 投稿者:らくりん  投稿日:05月15日(月)14時30分03秒

転載した、基幹運動中央相談員の方のメールは、ご本人に転載の承諾を得たものなの
でしょうか。
もし、そうであればいいのですが、このような私信をご本人の承諾なしに、
公開されたとすれば、それはちょっと問題があるように思います。

掲示板訪問者の皆さん、
発信者のご承諾を得ているかどうか、確認がとれるまで、
管理者の独断によって、
転載部分だけ、
一時、削除させていただきたいと思います。

確認が取れ次第、サイド私が責任を持ってアップいたします。

すでにお読みになった方は、転載の承諾が得られているかどうかの確認がとれるまで、
「転載メール」の内容についてのコメントは控えて下さい。

私の書き込みの直前の書き込みは、
大願さんのオリジナルの書き込みの部分だけをアップしたものです。
大願さん至急、メール発信者の承諾の有無をお知らせ下さい。


再度のエール、有り難うございます。 投稿者:らくりん  投稿日:05月15日(月)14時26分52秒

 投稿者:大願  投稿日:05月15日(月)13時31分40秒

以前にも、書き込んだと思いますし、名古屋でオフ会の時にもお話したとも
思いますが、三吉さんとらくりんさんの、手荒い歓迎というか、忌憚ないやりとりを
拝見していて、うらやましい限りであると。
そして、私に対しても同様のレスで歓迎して下さっていることを重々承知しています。
そんな訳で、めげている訳でもないし、らくりんさんや皆さんがかくも真剣に
レスして下さることに感謝しています。
しかしながら、基幹運動の尊敬する師からのアドバイスに従い、静観させて頂いた訳です。
そのアドバイス(メール)の一部を転記させていただきます。
自分の言葉で言えと、またお叱りを受けるのを覚悟で……。 (¨;)
今、この師のお言葉を噛みしめているところです。


大願さんへのメッセージ 投稿者:らくりん  投稿日:05月15日(月)11時49分31秒

最近元気がないですね。
あれこれ言われて、ちょっと落ちこんでいるのではないですか?

ここではどんどん遠慮なく暴れて下さい。
大願さんの芸風は「ケンカ腰」だと煙たがられることもあるかも知れませんが、
その芸風でやるんなら、この程度でめげないで、
もっとタフにしなやかにその芸風に磨きをかけてほしいと思います。

たしかにこの掲示板に書いて下さる人は「手荒い歓迎」をしますが、
私はそれは彼らの「親切」だと思っています。
それは「無視」や「締め出し」を仄(ほの)めかすよりは、
はるかに「歓迎」のメッセージであるのではないか。

私の芸風も、決して万人に「受け」がいいものではありませんので、
「不歓迎」のメッセージを直接的・間接的に受けることがしばしばあります。
しかし、
私は「議論は最高のもてなし」だと思っておりますので、
とことんやってもいいのではないかと思います。
言葉は人を傷つけることがありますが、
それを癒すことができるのも言葉ではないか。
中途半端なケンカが一番よくない。
徹底的に議論し話し合って、
それで、関係が修復できないくらいにこじれてしまうならば、
最初からその程度の間柄だったということです。
人間のつきあいが、どうなっていくかはなりゆきに任せるしかないと思います。
議論の種を残したまま覆い隠して、〈気持ちいのいいおつきあい〉を装って
みたってしょうがないでしょう。

私は、そんな遠慮や会釈を必要とするような関係を維持することに
大切な時間や労力を費やしたくはありません。

同じ時間と労力を使うなら、〈たましいの奥底〉に触れていくような方向に
使いたいと思います。
たとえそれが自分自身も痛くて苦しいことになったとしても、
またそれが徒労に終わったとしても、姿勢としてはそうありたい。
  (それができるかできないかは、また別の問題ですが。)

一人の人間と〈たましいの奥底に届く出遇い〉のために、万人との
〈おつきあい〉がお座なりになっても、
私は前者を求めていきたいと思います。

まあ、そんな姿勢はあちこちで「衝突」します。
精神的にはたしかに疲れますから、たまには〈休憩〉や〈トーンダウン〉
なんかも必要な場合があるかもしれません。

また、私もつきあい切れないこともあって、
ちょっと休憩というようなこともあるかもしれませんが、
それは私も人間ですから、
そうなったら、皆さんしばらく〈やさしく〉見守って下さい。

明日の準備が手につかない……(∞;)


拙寺、緊急役員会 投稿者:らくりん  投稿日:05月15日(月)09時29分57秒

昨日、役場担当者と土地区画整理事業組合理事長を呼んで緊急役員会を開きました。

拙寺の目の前に、役場が移転してくるという話が、昨年末から旧浮上してきました。
拙寺は北向きの迎拝(本堂正面)が県道に面しているだけで、のこり三方はすべて田
んぼです。東側に土地区画整理事業で東側の農道が20メートル道路に変身すること
は拙寺が現在地に移転してきた20年前から分かっていました。

もともとの計画では拙寺境内は、舗道用の隅切りとして角地の三角形が削られる程度
ということで了承していたのですが。役場がそれに付録としてついてくる話が出てき
てから計画が大幅に見直されて、拙寺正面前の県道に右折レーンを設けたいという話
が出始めました。まだ計画は確定していないのですが、最悪の場合、鐘楼の移転のみ
ならず、迎拝の端口あたりに舗道が通ることにもなりかねません。
それはとんでもないということで、役員会を開いた次第です。

拙寺は約20年前に、旧所在地の村が、手取川ダム建設のため全村約200軒が移転
しなければならない目にあっております。拙寺もその時に現在地に移転しました。

その時点で、道路拡張計画は分かっておりましたので、予定地を外して、敷地を譲りう
けたはずだったのですが、役場移転話は出現は大きな誤算でした。
昨日、役場担当者と土地区画整理事業組合理事長を呼んで緊急役員会を開きました。

県道はちょっとうるさいものの、田んぼの中の静かな環境を安住の地と思い定めてい
ました。役場が来ればその環境が一転して、数年を経ずして町の中心部に様変わりし
ていくことは必至です。

私が生まれてから、拙寺は旧所在地で国道拡張事業で境内地を削られ、ダムで移転、
そしてまたぞろ道路拡張です。
長期展望を欠いた都市計画の迷惑をこうむるのはもう勘弁願いたい。

明日16日は、上越市の化身土巻の講義です。前回は、東352/西406の『涅槃経』の
善知識論から聞不具足・信不具足、そしてまた涅槃・華厳両経の善知識論へと展開し
ていくところまで話しました。御本典研鑽集記で善知識問題が話題になっていますが、
『教行信証』では、第20願、『阿弥陀経』そしてここへの展開が善知識論の中心に
なります。(第W巻、あと10日です)
新潟方面から出没する電網人はあまりおみかけしないように思いますが、お知らせまで。

そう言えば、富山・石川は人口あたりの携帯電話・ネット普及率が全国1、2を争っ
ているとかなんとか、地元新聞が「自慢」している記事を見たような記憶があります。
富山のお隣の新潟はそうでもないのかしら。
私が知人がやっていないだけで、そんなことはないわなあ〜。


井上幹堂さん 投稿者:らくりん  投稿日:05月14日(日)20時11分45秒

はじめまして、ようこそ。管理人の「らくりん」です。

管理人としては
ここは〈真宗BOARD〉という、拙著『親鸞の教行信証を読み解く』の読書会の
「裏」掲示板という具合に考えておりますので、
「表」の真宗BOARDの方もあわせて、ご覧いただけたらと思います。

http://www.tcup4.com/444/masaho.html


仏法不変の原理 投稿者:お留守居役様  投稿日:05月14日(日)16時47分12秒

>親鸞の末法観:衰退史観としての残りカス末法史観批判
をヒントに考えてみました。まだ思いつきの域を出ていません。

「仏法そのものは衰退しない」ということは、
アインシュタインの相対性理論の
『光速度不変の原理』で理解すべきかと思いました。
ニュートン物理学では理解できない。

列車の中を走る人を地上で観察すると、
列車の速さ+人の速さになり、
人の見かけの速さは早くなりますが、
光の場合は、速さは変わらないということです。
人が、徒歩、自動車、電車、飛行機などで移動した場合は、
到着時間に差が出ます。
でも、光くんが乗った場合は、光の速度は常に等しいのです。
光は、乗り物の分早くなるということはないのです。
文字通り光の速度は不変であるということです。
光は光以上に早くも遅くもならない。
別の言い方をすれば、光よりも早いモノは存在しない
と言うと解りやすいかと思います。
このことは、解りにくいですけど、
長さが縮み、時間が延びるということを意味しています。
光=仏法とすると、
時代が変わっても、また乗り物が大乗であろうと小乗であろうと
不変であると言えるかと思います。
仏法=光という考え方の難点は、
仏法を実体と見なしやすくなるというところです。
それ故に、この原理のよってきたる理論が、
相対性理論であること銘記すべきであると思います。


どこから来て、どう生きて、どこへ行くのか? 投稿者:井上幹堂(かんどう)  投稿日:05月14日(日)15時45分23秒

「どこから来て、どう生きて、どこへ行くのか?」
わたくしは、父や母の縁によって生まれてきましたが、
自分が生まれたということは知りません。
わたくし を含めて、誰か、生まれたということを知っている人がおられるでしょうか。
ところが、気付いた時には、地球の上にいました。生活しています。
同様に、死んだということもわたくしではわからないでしょう。
どう生きて?どう生きてと言われても、もうすでに、心臓は動いていますし、
呼吸も休みなくしています。こう説明出来ます。
「なすべき事をなし、すべき事をしています。」なんの不思議がありましょうか?
 既に生きているのに、どのように生きていこうというのでしょうか?
考える以前に生きているんですから不思議です。
生きていることに精一杯にならないといけないんじゃないでしょうか。

http://member.nifty.ne.jp/shinran-yobikou/


国名論の危険性 投稿者:お留守居役様  投稿日:05月14日(日)10時29分08秒

『国』は、肉や魚、机や椅子といった実在するモノではなくて、
人々の共通の意識であり、観念です。
ですから入れ込みすぎると「私より公が大事」などど
逆さまになってしまう危険性があります。
らくりんさんの言葉で言えば、『国』を実体化してはならない、
過敏かつ過剰に反応するべきでないと思います。
中華思想を批判しているつもりが、
いつの間にか国粋主義になってしまうことがあると思います。
『蒙古』は蔑称である。モンゴル国は文化的な国である。
ということもあまりに強調しすぎると、
我が国のように日出ずる国日本、神国日本は、
素晴らしいというのと同じになりかねないと思います。
国の問題は、もっと軽くというか、いいかげんに扱うべきかと思っています。
ちなみに聖徳太子の手紙にある「日出ずる国」というのは、
太陽が去っていなくなってしまった暗い国という意味で卑下している。
逆に「日没する国」と太陽が常に輝いている素晴らしい国と尊称したので、
隋の国王も喜んだという説を聞いたことがあります。
考えてみれば、日が没するのを眺めているこちらの国は暗くなる国であり、
日が没する先の国は明るくなるのが道理です。
こちらの日没は、あちらの夜明けになります。
また、太子は両国共に満足させるように書いたのだとする
うがった見方もあるようです。
そもそも「明るい」とか「暗い」というのは比喩です。
実態ではありません。
このような飾りの言葉に惑わされることはないと思います。
太宰治「右大臣実朝」に
>平家は明るい。明るさは亡びの姿であろうか。
>人も家も暗い内は亡びない。
(原文はカタカナ表記だったかと思います。手元にないので、すいません。)


報告 投稿者:三吉  投稿日:05月14日(日)05時50分05秒

>中国で蒙古に対する蔑称として使われた(使われている)という典拠があれば
>示していただきたいと思う。

さて、これは私の中では常識となっていた。そこで中国故事成語辞典(角川)
や世界大百科辞典(平凡社)を見たが載ってませんね。
私は誰から、どこからこの説を聞いたのであろうか・・・。

故事成語辞典によると、
「蒙を発き落を振るう」というのが語源で、史記汲鄭列伝が出典だそうだ。
意味は、「蒙」はものを覆い隠した布切れ。「落」は落ち葉。
ものの上の覆いを取り除き、枯れ葉をふるい落とすことは簡単だ。主に敵をたやすく撃破すること
から言うそうだ。
ただこれは「啓蒙」ではなく「発蒙」だ。

平凡社によると、啓蒙思想はヨーロッパでは「偏見の打破」、具体的には宗教的な信仰の自由を
背景にキリスト教権力の異端弾圧阻止として生まれ、カントなどは、理性宗教であるべきと主張
したみたいだ。理性に合致しないのは「迷信だ」と。
考え様によっては「人間様の分別が信仰により大事」ということであるから、浄土教の逆の立場で
あろう。
日本の啓蒙思想は江戸期と明治期にあったそうだ。蒙昧を啓いて明るいものを作るという意味だ
そうだ。思想的には易の「開物成務」から来ているそうだ。
皆川(サンズイ+其)園や佐藤信淵の「開物学」。こういう啓蒙思想の日本的根源は、安藤昌益や
山片蝙桃などの無神論運動がねっこにあるそうだ。

さて、「蒙古」の項を引くと、蒙古族は、文字を遅くまで持たず、文字を持った後も、漢字になじ
まず、ウイグル語とその変形の蒙古語をもったそうだ。
宗教的にも仏教や儒教になじまず、(輸入された時期もある)シャーマニズム色の強い民族宗教を
護持していたそうな。民間に広まった仏教もシャーマニズムとの混交らしい。
此の辺に「啓蒙」の根拠があるのかもしれないが、今のところ文証は発見できず。
まぁ、しかしながら中華思想の中国が他民族や他国に卑字を当てるのが大好きだったのは常識では
とも思う。
モンゴル人は、蒙古人と呼ばれて、嬉しいのであろうか、聞いてみたいところではある。
あるいは「啓蒙」という語に侮蔑を感じるとモンゴル方が云ったら、使うのを止めるという姿勢で
よいのであろうか?
では、身体障害者の方が「耳なき人」「眼なき人」は削除しろといえば、するのだろうか?
あるいは、「耳なき人」「眼なき人」も差別的な意図をもってないので問題ないひょうげんなので
あろうか?

つまり私は具体的に抗議の声が無いと差別ではなく、問題が無いという思想性がわからん。
おそらくそういうことを云われているのではなく、当事者が具体的にいないのではないかという
主張なのだろうと思うが、だったら、モンゴル人を連れてこいというような姿勢には疑問を
覚える。


・・・ 投稿者:MANU.  投稿日:05月14日(日)05時34分22秒

率直なところ、どうも噛み合わないようなので、困っているのですが・・・。
私が書き込みに参加しはじめた意図は、「エセ啓蒙主義者」ということへの扱
いに特定化したつもりはないのですが、皆様の思いはそこをクリアにしないと
受け入れてもらえないようですね。何度かご指摘いただいたように、私の思い
は「一般論」でくくられるようですので、個別のものではないと言えます。
「エセ啓蒙主義者」に特定した論争は私の意図ではないので、ちょっと様子見
させていただきます。

で、ここしばらくのやり取りをご縁として感じた今の気持ちを書かせていただ
きます。

「昭和の日」が出来るようです。「昭和」と言う時代にいろんな思いをもたれ
ている方々がいるという話も聞いています。「日の丸や君が代」がほとんど
「強制」と言う形で使われようとしています。その象徴するところに、いろん
な思いをもたれている方々がいるという話も聞いています。身体的特徴を示す
言葉が慣用句となって使われていることがあります。その言葉の使われ方とは
別に、その言葉を目にするだけでドキッとしてしまう方々がいるという話を聞
いています。いずれも、新聞やインターネットの情報から得たものなので直接
私が体現したものではありません。だから本当はそんな人はいないのかもしれ
ません。でも私はいないとは思えない。他にも知らないだけで、同様のことが
あるんだと思います。

ご指摘されるように、「過敏かつ過剰な反応」であり「情緒的側面だけを強調
するのは、非常に危うい」ものなのかもしれません。そのことはしっかり受け
止めさせていただきます。

私は「南無阿弥陀仏」に出会わせていただいてから、知っているようでなにも
知らなかった自分と言うものを気付かされました。人の痛みを共感できないか
ら、そこに痛みはないとは思えないんです。世間一般の理屈だけでは言い表せ
ないものだと感じています。私としては「配慮」は「一般論」ではなく、自己
を見つめた上での、本願に照らされたものの「せざるをえない」自然なものと
受け取っています。それでも、つい配慮を忘れているのが自性ではありますが。

おそらく、皆様ほど理路整然と思いを伝えるのが出来ないんだと思っています。
ついつい感覚的な思いをつづるだけになってしまいます。困ったもんです。


学研漢和大辞典にみる「蒙」 投稿者:まこ  投稿日:05月14日(日)03時20分46秒

 定評ある藤堂明保編「学研漢和大辞典」によると、1)くらい、上からおお
われてくらい。光がくらい。もやもやしてみわけがつかないさま。2)くらい、
道理にくらい。おろかである。また、幼くて物事の道理がわからない。また、
もの知らずの子ども。「啓蒙=蒙を啓く」 3)おおう、おかす、上からかぶ
せる。おおいかくす。また、かぶさったものを自ら進んでおしのける。4)こ
うむる、ある事を身にうける。また、かぶる。5)周易の六十四卦の一つ。お
おおわれてくらい状態をあらわす。6)蒙古(モンゴル)の略。
 解字からは、日(もう)は冒の源字で、上からワ型のおおいをかぶせたさ
ま。蒙(のくさかんむりない字)は豚(の月のない字)+日から成り、ぶたの
上におおいをかぶせたことを示す。蒙は「くさかんむり+もう)の会意兼形
声文字で、草がおおいかぶさるの意。
 蒙古に対する蔑称であるとの説明はどこにも書いていない。中国で蒙古
に対する蔑称として使われた(使われている)という典拠があれば示してい
ただきたいと思う。




姫路から帰ってきました。 投稿者:らくりん  投稿日:05月13日(土)23時33分14秒

ちょっと留守をしたら、驚くべきにぎやかさで、管理人不在の方が議論が盛り上がるの
ではと、ちょっと置いてきぼりをくった感じです。
「匿名希望」さん、はじめまして、ようこそ。

「啓蒙」問題については、ずいぶん煮詰まってきたようで、今のところ私が新たに付
け加えたいことはありません。

姫路の「老いについて」というテーマで、この掲示板でご意見を聞かせていただきま
したが、事前にネタばれになってしまうことを避けるために、発言を控えてきました
が、どうにか役目を果たして参りましたので、例によって、予定した通りの展開には
なりませんでしたが、話の骨子を、記してお礼と報告に代えたいと思います。

1,テーマ所感
  45歳の私は「老い」を語るには若すぎるという途惑い
  仕掛け人の「教育的挑発」を受けて立った
  『教行信証』には直接的には課題になっていない(末燈鈔八 東605)
2,私にとっての「老い」
  両親や知り合いの人=観察の対象でしかない。自分自身の事としては語れない
  未経験の事を考えたり語ることは無意味ではない(死は未経験でも死を語れる)
  各年代に応じた、「老い」観があってもよいのではないか。
  40代の私が「老い」を考えることには、充分意味があると思う。

3,『阿弥陀経』に、死後世界とと理解されてもしかたがないような形で、極楽世界
の  荘厳が語られていることの意味。(未刊『読み解く』第X巻参照)

4,正高信男『老いはこうしてつくられる』中公新書の要点紹介
  ・「老い」と「加齢」は同義ではない
  ・身体機能の衰えは精神機能の衰えとイコールではない。
  ・伝統社会では、高齢者は誤解されつつも「それなりの地位」を占める存在だった
  ・居場所と役割を失った高齢者
  ・年寄り扱いすることで、「年寄り」は生まれる。
    ――「年寄り殺そうと思ったら何もさせんこっちゃ」(先輩の言葉)

5,『涅槃経』寿命品の課題
  仏弟子たちは、生身の如来の入滅を縁として常住の法身を求めた。そして永遠不滅
  の法身を各人の衆生の中に求めたのが「仏性」思想。
   肉身の釈尊と仏法の継承の関係―→釈尊の入滅とともに仏法は滅びるのか
   肉身の仏なき時の仏法とは―→末法の世の仏法
   ―→化身土巻への展開

6,親鸞の末法観:衰退史観としての残りカス末法史観批判
   ――形式の堕落と仏法の継承は無関係――
      (1月16日ごろの真宗BOARD三吉さんとの議論を参照)
  通常の末法史観は、時代とともに仏法が衰退するという考え方に立つ
  しかし、親鸞はそのような衰退史観を容認しない。
  なぜなら、自分が法然との出会いを通して邂逅した仏法は残りカスではない。
  まちがいなく、仏教の精神は一点の狂い自分のところにまでいたり届いた
  形式性の変容は、仏法の精神性の衰退を意味しない。形式性に左右されない。
  むしろ、形式性へのこだわりが残っていた時には見えなかったもの(浄土教)が、
  はっきりその役割が輝き出す時こそが末法なのではないか。
  浄土教は、釈尊在世の時から「濁悪の群萌を斉しく悲引」してきた。しかし聖道
  の諸教が機能していると思えている間は、その輝きに目を奪われて、浄土教
  の意義に気づかない。浄土教は聖道の諸教がすべて輝きを失った時、つまり
  末法を待って輝き始める。
  末法とは釈尊の人格的カリスマの影響が消える時。釈尊への思慕が絶たれる時形
  式性へのこだわりが消え去った時(仏法の肉体が衰えた時)に、なお残る仏教の
  意義こそが、夾雑物を取り  去った中身ではないか。
  そこから、末法と「老い」をアナロジーでつなげ、結びへ

  以上です。いろいろとご意見ありがとうございました。


問題を代えて考えてみましょう。 投稿者:三吉  投稿日:05月13日(土)16時05分41秒

私は学生時代、「大谷大学新聞」で「エイズのごとく機動隊がやってきた」というタイトルに
ゴーを出しました。発案者の某君はゴーサインを出した後、少し問題はないかと心配されてました
が、その時の私の論理は「エイズ罹患者」を差別する意図は私どもにはない。
免疫不全というのを大学自治の「自浄能力不全」にかけ、「機動隊の導入」はまさしく、
大学の自治能力の低下を象徴的に顕しているというものでした。

当時の私の知識として、私は病院の事務当直のアルバイトをしていた関係からエイズの簡単な
マニュアルなどは読んでおり、一般の方よりは知っていたと思います。
日本国内では、どちらかというと血液製剤による「血友病」が当時は一般的でした。

で、このような方々を傷つける意図は私にはありませんでした。
また、読まれてきづつかれた方がおられたかもしれませんが、直接罹患者からのクレームもあり
ませんでした。

みなさんは、この例で「エイズのごとく機動隊がやってきた」で、問題はないと思われますか?

ちなみに「〜のごとく」という表現は一般的に「差別」の特徴とされてます。


辞書の啓蒙 投稿者:お留守居役様  投稿日:05月13日(土)15時22分23秒

>私は「傷つく人がいる」と思っています。

と言われるのなら、その理由をお示しくださいと申したつもりです。
やはり
>私はその必要を感じていません
のでしょうか?
らくりんさんは、個別に具体的に「点検」(検証ではありませんでした)されて
「エセ啓蒙主義者」に差別する意図はなく、
傷つく人はいないと結論されていたと思います。

啓蒙と蒙古の関係については、大願さんが言われたことが正しいと思います。
>蒙古の人を蔑視する言葉が語源であるから問題と言っているのです。
つまり「蒙」が「啓蒙」の語源でもあり、「蒙古」の語源でもあるということです。
これは正しいと思っています。
けれども「蒙」が「啓蒙」にも「蒙古」にも共通しているから、
「啓蒙」を使うなということは、「蒙」という文字を使うなということになり、
賛成できないと申したのです。
一方、ootuboさんは、
>啓蒙の語源は、
>啓は「教える」、蒙は「知恵が足りない」と「蒙古の略」
と言われたので、
啓蒙の語源は「蒙古」であるというのは違うのではないかと思ったのです。
それで、
>多くの国語辞典にものってない
語源についてお尋ねしたところ、

>「文化が低く、物事のすじみちにくらい(蒙古の)者を教える」

というお返事をいただきました。
これは「語源」ではないと思いますが、「語感」の相違でしょうか。
ただ、
>多くの国語辞典にものってない
のは「文化が低く」と「(蒙古の)者」いうところです。
これはootuboさんか岐阜県上矢作町の方の新説かと思われます。
「蒙」を拡大解釈すれば、「文化が低」いという意味にもなりそうですが、
「文化」というと「集団」のことになって、
「個人」という意味合いが薄くなると思います。
啓蒙の対象は、国や社会などの集団だけでなく個人も含まれると思います。
また、
>(蒙古の)者
と啓蒙の対象が特定されていると言われるのは、
>「蒙」は「蒙古の略」
という理由からだと思われます。
これは、
>多くの国語辞典にものってない
のではなくて、
>角川漢和中辞典
に記載されていたそうです。
私が見た諸橋轍次先生の「大漢和辞典」によれば、
蒙を蒙古の略称とすると清国「行政汎論」にあるとのことです。
これは、アメリカ合衆国の略称を米国とするというのと同じことかと思います。
つまり、啓蒙の蒙は蒙古の蒙ではないということです。
なぜなら、宋の儒学者の朱子に「易学啓蒙」という著書があるからです。
ちなみに、この「大漢和辞典」によれば、
啓蒙は、蒙昧を啓発する。童蒙を教え導く。
とのことです。
ちなみに、「蒙」は、「こうむる」の意味で、「おおう」、「かくす」から
「くらい」、「おろか」となったようです。
ですから
「蒙祐」=神のたすけをこうむる
「蒙恩」=恩をこうむる
という言葉もあるそうです。
前に
>「蒙」は「蒙古」の略ではなくて、
>「蒙古」は、「蒙」と「古」の熟語かと思うのですが。
というのは間違いで、やはり蒙古は、モンゴルのあて字で、
古くは、「蒙瓦」「蒙古里」などと表記していたそうです。
ちなみに、別の辞典によれば、
モンゴルというのは、銀を意味するムングからきているそうです。


啓蒙と無明 投稿者:匿名希望  投稿日:05月13日(土)13時00分14秒

 ちょっと失礼いたします。一ROM者の感想です。

 最初の発言にあるのは、「エセ啓蒙主義者」であって、「啓蒙」が単独で
使われているわけではありません。「啓蒙主義」は特定の思想運動を指すタ
ームですし、文意からも、エセ「啓蒙主義」者と取るのが妥当でしょう。

 「エセ啓蒙主義者」から「啓蒙」だけを抜き出して「差別語」だと指摘さ
れたことに対して、林遊氏は「貴兄の感情を害したことは重々お詫びします」
と書かれ、その上で「啓蒙」について「小生のような群萌は金輪際、坊主に
よって蒙を啓かれるなんてことはありませんです」とお書きです。これを読
めば、林遊氏の「蒙」は仏教語としての「愚痴(モーハ)」→「無明」の義
で使われていることがわかります。( cf 無明の闇を破するゆゑ 智慧光仏
と名づけたり)

 啓蒙の蒙が「蒙古」を指したり、「蒙古」を差別する用例が中国であった
としても、林遊氏の文中においては、そのような用例は切り捨られています。
つまり、語に付着する差別性を義の再定義によって抜いているわけです。

 「啓蒙」には中国での差別的な用例があるから使わないようにする、とい
う判断は個人が個人の責任において自由におこなえばいいことですが、その
場合、もし論理的な一貫性を保持しようとするならば、「無明」も使わない
ようにすることになるでしょう(差別的な用例が中国にありますから)。

 その点に関して個人ではさほど問題にされなくても、たとえば、基幹運動
のような組織活動では論理的な一貫性は求められるはずです。基幹運動本部
の「差別語」に対する見解では論理的一貫性が保持できない(本願寺派の浄
土真宗聖典は基幹運動の一環として発刊されていますし、聖典の中に「差別
語」があるのは衆知の事実です)のですから、本部相談員が「徒労」として
回答を拒絶した以上、なにを「差別語」としなにを「差別語」としないのか
は、まったく「恣意的」に判断されていると考えざるを得ません(本派の末
端の僧分としては非常に残念ではありますが)。

 文脈で判断すると「差別語」が野放しにされる、というナイーブな論法で
は、「差別語」を一切使わずに書かれた「差別」を意図する文章には対応で
きません(野放しにしてしまいます)。

 この言葉で「傷つく人」がいるかもしれない、と考えることは大切ですが、
「傷つく人」のイメージを対象者に固定してしまえば、新たな差別がうまれ
ます。「傷つかない人」がいる、と考える場合でも同じです。傷つく人もい
れば、傷つかない人もいるわけですから(ひとくくりにしてレッテルを貼る
と、個人が全体に包摂されて、個人の独自性が抹消されてしまいます。全体
の名のもとでの一元化→大政翼賛会/スターリン主義)。

 傷つくモンゴルの人がいる。モンゴルの人が傷つく。モンゴルの人は傷つ
く。傷つかないモンゴルの人はいない。モンゴルの人はみんな傷つく。傷つ
かないモンゴルの人はモンゴルの人ではない。

 と、展開していったなら、それは新たな「中華思想」の発生です。
 善意が原理に転化された時に発生する新たな差別(構造)を考えないで、
マスイメージとしての「傷つく人」が感じる「痛みや悲しみ」への「共感」
といった情緒的側面だけを強調するのは、非常に危ういと私は思います。

 だからこその「なんまんだぶつ」なのですよ、と林遊さんはおっしゃりた
いのだと私は思うのですけどねぇ。なんまんだぶ。


私が問題をややこしくしてるんでしょうか? 投稿者:MANU.  投稿日:05月13日(土)10時37分24秒

>では、無実であっても有罪だと言うことですね。
>なので、らくりんさんの「検証」も無視されたのですね。
無実だとか有罪だとかの判断を問題にしているつもりはないのですが?

繰り返しになってしまいますがもう一度書いておきます。
 私は「傷つく人がいる」と思っています。
 (個別に証明せよといわれると出来ません。)
 そのことを話し合いされている皆さんがどのように感じているか疑問でした。
 「らくりん」さんは、そのことは共有済みの考えであり、そういうベースの
問題ではないとおっしゃってくださいました。
 私の目的は「傷つく人」ということを再認識して欲しいというのが願いでし
たので、共有済みならそれで結構ですという立ち位置です。
 ですから、「らくりん」さんの書き込みを無視したつもりはありません。

これで、通じますでしょうか。

で、前の書き込みで「配慮に欠ける」と発言したのは、「お留守居役様」さん
の05月12日(金)20時03分39秒 の書き込みで
>是非ともお教えいただいて私どもの〜
>あの岩波書店がねえ〜
という言い方に対してのものであり、疑問に対して質問されている行為をさし
たものではありません。補足しておきます。

>ちょっとした勘違いとして笑ってすまそうと配慮
とのことですが、私にはそのように聞こえませんでした。
雰囲気を和らげるために冗談めかして言う場合があるのは承知していますが、
表情の見えないテキストベースではむずかしいですね。

すいません。攻撃しているつもりはないのですが、私の書き方もそのように
受け取られかねないものだとは承知しております。

今の私の気持ちとしては、05月11日(木)06時12分07秒 の「ootubo」さ
んの書き込みをどのように受け取られたか、他の方のお気持ちを知りたいと
思っています。ちなみに「お留守居役様」さんはもうしゃべるなということ
ではありません。そのままご意見・ご指摘はしていただきたいです。


Re啓蒙の語源 投稿者:ootubo  投稿日:05月13日(土)06時51分44秒

啓蒙の語義は「無知な者に知識を与える」ですが、
その語源には「文化が低く、物事のすじみちにくらい(蒙古の)者を教える」という
意味もあったということです。

広辞苑、学研・角川・三省堂・ぎょうせいの国語辞典等では「啓蒙」に
「文化が低く、物事のすじみちにくらい(蒙古の)者を教える」ということは
のってませんでした。

>「蒙古」が「蒙」の語源であるとすると、
>「蒙古」のほうが「蒙」よりも前にあった言葉ということでしょうか。
>「蒙」は「蒙古」の略ではなくて、
>「蒙古」は、「蒙」と「古」の熟語かと思うのですが。
このことについてはしりませんが、角川漢和中辞典には「蒙」は「蒙古の略」と
記載されています。







いろんな方の弁明 投稿者:お留守居役様  投稿日:05月13日(土)03時20分50秒

>「お留守居役様」さんの書かれていることは配慮に欠けるように感じ

られてしまったのは残念です。
わたしは、ちょっとした勘違いとして笑ってすまそうと
配慮してのことでしたのですが、ご理解いただけなくて残念です。

「多くの国語辞典にものってない語源」
というのは変だなとお思いになりませんでしたでしょうか。
それで、ootuboさんが示された
>私が聞いた啓蒙の語源
は「多くの国語辞典にものって」いることでした。
ただし、「語源」ではなくて「語義」だとは思うのですが。


Re啓蒙の語源 投稿者:お留守居役様  投稿日:05月13日(土)02時22分45秒

>啓は「教える」、蒙は「知恵が足りない」
>「無知な者に知識を与える」と
>「文化が低く、物事のすじみちにくらい(蒙古の)者を教える」

このご説明は、「語源」ではなくて「語義」つまり「語の意味」かと思います。
おたずねしたのは、「啓蒙」の「語源」、語の源(みなもと)なのですが。

>蒙は「知恵が足りない」と「蒙古の略」

「蒙古」が「蒙」の語源であるとすると、
「蒙古」のほうが「蒙」よりも前にあった言葉ということでしょうか。
「蒙」は「蒙古」の略ではなくて、
「蒙古」は、「蒙」と「古」の熟語かと思うのですが。


re:いろんな方がいるのは承知の上ですが 投稿者:お留守居役様  投稿日:05月13日(土)02時01分34秒

>>検証すべきかと考えます。
>という問いかけには、私はその必要を感じていません。

では、無実であっても有罪だと言うことですね。
なので、らくりんさんの「検証」も無視されたのですね。


Re啓蒙の語源 投稿者:ootubo  投稿日:05月13日(土)01時48分04秒

私が聞いた啓蒙の語源は、
啓は「教える」、蒙は「知恵が足りない」と「蒙古の略」で、
「無知な者に知識を与える」と「文化が低く、物事のすじみちにくらい(蒙古の)者を教える」
という意味で中国で使われたということです。

どういうお気持ちで質問されたのかよく理解できないので、とりあえず。


いろんな方がいるのは承知の上ですが 投稿者:MANU.  投稿日:05月13日(土)01時14分17秒

「お留守居役様」さんの書き込みを読ませていただきました。
まず、私への語り掛けに関してのですが、どうも私の思いとかけ離れてきてい
るように感じています。
>検証すべきかと考えます。
という問いかけには、私はその必要を感じていません。出来るかどうかも疑問
です。
また、こういう問いかけかたをされますと、
「では傷ついた人がいないと言い切れるのか?傷ついていないという判断は正
しいのか?」と問い返したくなります。 これでは、いままでの繰り返しにな
りますし、私の望むところではありません。こういうやり取りを望まれる方が
居られましたら、お続け下さい。

私のところでは、「らくりん」さんが書かれた
>議論の前提として共有されている
>そういうベースでの議論の域はすでに出ている
ということがみなさんの意識に再確認されていれば、もう申しあげることはな
いという立場です。

ただ、「共有されている」とするならば、「ootubo」さんの書き込みに
対して「お留守居役様」さんの書かれていることは配慮に欠けるように感じる
のですが・・・これは私だけでしょうか?
主張されたいことは以前から貫かれているので分かるのですが、その伝え方に
別の方法がないのだろうかと思ってしまいます。

自分の意見を主張することと、相手を茶化すことの違いについて、我が身を振
り返っています。私も同じ間違いをしていないとは言い切れませんので。


啓蒙の語源 投稿者:お留守居役様  投稿日:05月12日(金)20時03分39秒

ootuboさん、こんばんわ

>多くの国語辞典にものってないので語源は知らずに、
>いい言葉と思って使っているのだと話すそうです。

わたくし、迂闊にも
「啓蒙」に語源があることを知りませんでした。
>多くの国語辞典にものってないので語源は知ら
なくてもお許しいただけるようですね。
また、
>多くの国語辞典にものってない
「語源」をご存じとのことですので、
是非ともお教えいただいて私どもの蒙を開いてくださればと思います。

ちなみに『本を探す』
http://www.trc.co.jp/trc-japa/search/trc_www.asp
で書名の「蒙」を検索しましたら、123冊みつかりました。
なかには
岩波講座 世界歴史 16 主権国家と啓蒙
なんてのがありまして、あの岩波書店がねえ、と感慨深いものがありました。

MANU.さん、こんばんわ

>傷つく人がいる
ということを検証すべきかと考えます。
1 傷つく人が実際にいるのか?
2 傷ついたという判断は正しいのか?
また、傷ついたと称する人は、被害者で絶対的に正しいのでしょうか。


追記 投稿者:MANU.  投稿日:05月12日(金)00時26分11秒

以前、引用にそれらの言葉を使うことが指摘されたこともあったと思います。
だとすれば、私の発言も問題でしょうね。
でも、引用しないと会話にならないという気持ちがあるので使いました。
このことも御指摘があるのならばお受けします。
また、よい方法があればお教えください。

自分自身の言っていることとやっていることの矛盾があるだろうなとは認識
しています。私自身はその程度の者です。
だからこそ、常に問いつづけたいとは思っています。


RE:個別的な議論として再点検 投稿者:MANU.  投稿日:05月12日(金)00時20分03秒

>議論の前提として共有されていると私は思っているのですが。
ということならば良いのですが・・・。「一般論的な議論」という認識が私に
なかったことと、皆さんが「受け手の方」を考えてくださっているかどうか不
安だったものですから、書きこんだ次第です。

>「啓蒙」論争に参加している人の中には、そのことに一般論として反対して
>いる人はいないと思っています。
>啓蒙論争はそういうベースでの議論の域はすでに出ていると思います。
ということでしたら、私はもう申し上げることはありません。「啓蒙」をはじ
め、話題になっている言葉に関しては、私は「知らずに使っていた」事実を認
識し、使わないようにする・違う表現方法を心がけるということで完結します。
あとは、皆様それぞれの認識にお任せします。

>あの林遊さんの発言が「差別発言」であったとしたら
に関しては、私はそうは思っていなかったのですが、そのように感じる方が居
られたという事を知り、その事実を受け取ることと、そのことをご縁としてい
ろんな考え方を聞かせていただいたことを大事にしていきます。

また、「発言を削除」することに関しては、発信者が認めた場合は必要でしょ
うが、できるだけ今回のようにその是非について議論することは必要だと思い
ます。まあ、その議論の仕方については色々あるようですが・・・。その上で
最終判断は管理者になるんでしょうね。削除するにしてもしないにしても、そ
の根拠を示していただいた上で判断してくださればいいと思います。だから、
>私は、まったくその必要がないと考えております。
というお話と、後に続くまとめでよいと思います。(あくまで私は、というこ
とですが)

これはあくまで私の受けた感じなんですが、話の流れが「個別的」というもの
を飛び出して枝葉が広がっていたと感じたものですから、「受け手」がはっき
り見えなくなってしまいました。だから「受け手」のことも考えに入れてくだ
さっているのでしたら結構です。私としては「一般論」と片付けるのではなく、
常に意識しつづけていかなければならないことだと思ってますので。

また、そのことが
>差別問題に対する過敏かつ過剰な反応だと思います。
と受けられたのでしたら、そうかもしれません。私自身はどこまでが普通で、
どこからが過敏なのか判断がつかないものですから、そのご指摘を受け止め
てみます。
>あまりにも過敏で過剰な〜
以下のお言葉にかんしては、「同和」という問題に関しては、私は「同和」
という言葉で全てくくることに疑問を感じていますので、また、おそらく認
識が足りないので、今双方の話をできるだけ聞いていこうというところにお
りますので、今はコメントを避けます。

 最後の問題を含めて、このような態度自体が問題になるのかもしれません。
が、今の気持ちです。
               MANU.(from KYOTO)


個別的な議論として再点検 投稿者:らくりん  投稿日:05月11日(木)09時31分37秒

>「そういうつもりで使っていないからいいじゃないか」というのは、受け手の方に
>は通らない理屈じゃないかなとも思います。あとで、その意味を説明してその意思
>がなかったことを納得してもらったとしても、「傷ついた」という事実は消すこと
>が出来ません。
というような一般論的な議論は、議論の前提として共有されていると私は思っている
のですが。

ですから、一般論としてではなく、林遊さんの文脈での「エセ啓蒙主義者」云々とい
う発言が問題発言であるかどうかという議論であると思っています。

>「使い手」の意思とは別のところで、「その言葉で傷つく人も居るんじゃないだろ
>うか」ということを気にしています。
そういう気遣いは大切だと思いますし、「啓蒙」論争に参加している人の中には、そ
のことに一般論として反対している人はいないと思っています。
啓蒙論争はそういうベースでの議論の域はすでに出ていると思います。

もし、あの林遊さんの発言が「差別発言」であったとしたら、それを削除しなかった
管理人としての責任を問われる問題でもあります。私がネット掲示板に参加してから
も、「発言の削除」が行なわれたケースは少なくとも2度はありました。管理人にそ
ういう忠告を発した書き込みもありました。しかし、今回は当掲示板に対しては、
「削除」を考えなければならないというようなアドバイスはいただいておりません。
私は、まったくその必要がないと考えております。

一般論ではなく、
今回の林遊さんの発言が、「削除」すべき発言かどうかという問題として考えてみて
いただきたいと思います。
私も、簡単にもう一度振り返ってみます。

事の発端であった林遊さんの「04月15日(土)21時24分26秒」の
>もっとも、自分の泥田圃の手入れ点検もせず、社会的行動を論ずる、エセ啓蒙主義
>者には辟易していますですが・・・・。
という書き込みに対して
大願さんが04月18日(火)14時09分16秒
>「エセ啓蒙主義者」
>という言葉の書き込みがどなたかからありましたが、これは差別用語ですので、今
>後使われないようにお願いしたい。この「啓蒙」というのは、中華思想の中国の言
>葉ですが、わが中華に比べて蒙古は後進国であるからと蒙古を蔑視した単語です。
>辞書には「無知な者に知識を与えて教え導く。」
>「思想・学問などについて、知識の乏しい人々を新しい知識で導き、より知的な判断
>ができるようにすること。」とあります。
>細かいことですが、真宗では少なくとも使いません。
と批判したことが妥当かどうかという問題として議論になっているわけです。
一般論としてならそれほどもめる必要はありません。

林遊さんの発言には三人の「人」が登場します。
まず、直接の批判対象である「自分の泥田圃の手入れ点検もせず、社会的行動を論ず
る」僧侶たちに対する批判として「相応しくない程度に悪質な発言」であるかどうか
そして、「エセ」と冠されて引き合いにだされた「啓蒙主義者」(自分は啓蒙主義者
だと自認している人がいたとして)に対して失礼になるか。この語で「傷つき痛みを
感ずる人」がいるだろうか。
この二つはほとんど誰も問題にしていませんでした。
そして最後が一番議論の分かれ目になるところですが、「啓蒙」という語の「蒙」
が「蒙古」を意味し、それによって「モンゴル人」が[「傷ついた」という事実]
があるだろうか。あるいは「傷つくかもしれない」という気遣いをしなければなら
ないだろうか。
林遊さんが、
>大相撲の旭鷲山が抗議してくればすぐ謝りますけど(笑)
と、モンゴル出身力士を引き合いに出したのは、非常に具体的にその問題を問うてい
るわけです。

それでもしMANUさんが一般論としてではなく、最初の林遊発言が個別的に見ても
>「その言葉で傷つく人も居るんじゃないだろうか」ということを気にし
なければならないようなケースだとおっしゃっているなら、私は差別問題に対する過
敏かつ過剰な反応だと思います。
あまりにも過敏で過剰な「おもいやり」や「気遣い」は、「エセ同和行為」をはびこ
らせる土壌の肥しになっていくのではないかと思います。


Re Re:こちらは改行付です 投稿者:ootubo  投稿日:05月11日(木)06時12分07秒

林遊さん こんにちは

 言葉狩りではないですが、
私の近隣の岐阜県上矢作町にモンゴル村が4月にオープンしました。
 ここは中学生が毎年モンゴルに行って交流している町です。
 上矢作町役場の職員と話した機会がありますが、言葉には注意しているそうです。
 とうぜん「啓蒙」という言葉は使わない。
 使ってしまった場合は、多くの国語辞典にものってないので語源は知らずに、
いい言葉と思って使っているのだと話すそうです。
 しかし、日本の中に「啓蒙」という名前の公共施設があるなら、
モンゴルと交流している町にとって悲しいことだとおもいます。

>越前の啓蒙保育園出身者、啓蒙小学校卒業者、並びに啓蒙公民館に参集する同行
>衆の名誉の為にもお聞きしたいところです。


毛坊主さん 投稿者:らくりん  投稿日:05月11日(木)00時49分49秒

あいさつが遅くなってしまいましたが、ようこそお越し下さいました。

毛坊主さんの、HPも一部ですが拝見いたしました。
JAVAに出迎えていただき、〈おきらく〉の書き込みを思い出しました。
名古屋別院には先月3日に「人生講座」?だったかに寄せていただきました。

教区会は、誰に聞かれても、どんな形で読まれても恥ずかしくない話し合いをしても
らいたいものですね。
インターネットで事前の議論を重ねて、議論がだいたい出つくしたところで集まって、
最後の部分を詰める会議でやるというぐらいの発送になればもうちょっと実りある
話し合いができるかもしれませんね。

私は、このレンタル掲示板だけしか持っていませんので、自前のHPを作ろうと考え
ているのですが、なかなか思うように捗りません。


表現べたで、もどかしいでしょうが・・・ 投稿者:MANU.  投稿日:05月11日(木)00時44分45秒

「らくりん」さん、「林遊」さん、RESありがとうございます。
お二人のお言葉をもとに、私の書き込みを読み返して、どのように書けばより
伝わるのか考えています。まずは、補足してみます。

>使い方に関係なく無条件に「傷つく人がいる言葉」などはない
これは分かる気がします。

>「エセ啓蒙主義者」なる用語例が「差別語」だとおっしゃるんでありますか?
これも、上と同じ視点でのご指摘だと受け止めています。

その上で、私の思いとしては、「差別語」あるいは「絶対的差別語」という括
りを問題にしているのではなく、「使い手」の意思とは別のところで、「その
言葉で傷つく人も居るんじゃないだろうか」ということを気にしています。

「そういうつもりで使っていないからいいじゃないか」というのは、受け手の
方には通らない理屈じゃないかなとも思います。あとで、その意味を説明して
その意思がなかったことを納得してもらったとしても、「傷ついた」という事
実は消すことが出来ません。(納得するプロセスで、理解が深まるということ
はあるでしょうけど)

「じゃあ、怖くて何もいえなくなるじゃないか」となってしまうかもしれませ
んが、まずは「知らされた」ことから繰り返さないように努力するしか、私に
は思いつきません。そういう意味では「ようやく一段落」のタイトルの書き込
みに「らくりん」さんが書かれていた
>ミスにしても差別問題にしても、それに気づいてからの対応が重要ですね。
ということじゃないかと思います。

「誰かが使って良い言葉と悪い言葉を決めるのか」ということではなく、私に
おいては「傷つく人がいる」のならその方の気持ちを尊重する。別の表現をす
ることを努める。その言葉で傷つく人がある事実を、周りの方にお教えするこ
とによって、自らに言い聞かせる。
これが問題の根本解決にはつながらないかもしれませんが、垂れ流すことは避
けられるはずです。

こうしてあらためて書いてみると、「差別」ということを問題にされている皆
様と、「受けての気持ち」ということを問題にしている私とで、次元のずれが
あるようにも感じます。

で、私の主張をまとめると、
>どんな言葉であっても人を傷つける使い方をするのはよくない
ではなく、
「傷つく人もいるという事実を忘れないで下さい。」
ということでしょうか。これなら分かってくださいますか?。
「その上でどうのような対応が必要なのか」
はめいめいの考えのもので、統一したり強制したりするものではないと思いま
す。できうれば、真宗でつながっているものだからこそ、お念仏の教えに立っ
たところで、通じ合えていければと願っています。


棚原さんようこそ、 投稿者:らくりん  投稿日:05月11日(木)00時25分50秒

ええっと、たしか「還浄問題」の資料をいただいたホームページの管理人さんでしたね。

姫路の日時と会処は、

5月12日午後1時〜5時、姫路市砥堀 真行寺さんです。

会の名目は「山陽教区第7組 門徒総会研修会」ですが、
この組には、これまで二度僧侶対象の研修会に寄せていただきましたが、
会の名目というのは、まったくの名目だけで、
僧俗問わずどなたでも参加しておられるようです。
前回4月の時は、聴聞者の前に立って会場を見回した時、事前に聞いていた趣旨から
想像していた参加者のイメージがまったく違って、「おいおい事前に聞いていた話と
ちょっと違うんでないかい」という感じで、しょっぱなから起動修正を余儀なくさせ
られました。
主催者はそんなことお構いなしという感じで平然としていました。

そんな感じですから、どなたが座っていても、まったく問題ないと思います。

もっと詳しい情報が必要であれば、明日中に、メールを下さい。


始めまして 投稿者:棚原  投稿日:05月10日(水)23時49分30秒

始めまして。
らくりん様いつぞやは拙BBSにカキコありがとう御座いました。

>明後日は件の「老いについて」のテーマの姫路行きで、
>少しは考えをまとめておかなければ。
姫路?これは出不精の私にも行ける距離です。もしオープンな場で誰が行っても
良いのならば、場所等お知らせ下さい。

http://www3.justnet.ne.jp/~tanahara/


Re:こちらは改行付です  投稿者:林遊  投稿日:05月10日(水)22時39分55秒

ども。はじめましてMANUさん。林遊@なんまんだぶつです。

で、あなた様はマジで「エセ啓蒙主義者」なる用語例が「差別語」だとおっしゃ
るんでありますか?。

越前の啓蒙保育園出身者、啓蒙小学校卒業者、並びに啓蒙公民館に参集する同行
衆の名誉の為にもお聞きしたいところです。

で、まあ大相撲の旭鷲山が抗議してくればすぐ謝りますけど(笑)

PS
MANUさんにはキツイ表現かも知れませんが、無邪気な「言葉狩り」のハン
ターよりははるかに小生の意をくんで下さるようでResしましたです。不悪。

				なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・称名相続


ようやく、一段落 投稿者:らくりん  投稿日:05月10日(水)15時07分51秒

本を梱包したり、それをまた開いたり、というのは単純作業ですから、時間さえかけ
ればなんとかなります。それから何ヶ所か自分でお届けしたところに回収にうかがったり、
そんなこんなで二日間バタバタしてしまいました。
ようやく、一段落しました。

ミスは誰にもあるものです。それを責めてもしょうがありませんし、
起こってしまった以上、その時点で最善と思える方法でカバーしていくしかありません。
ミスが見つかってから明石書店の担当者の対応は好感のもてるものでした。
ミスにしても差別問題にしても、それに気づいてからの対応が重要ですね。
そういうトラブルがあった時にこそ人格や品性が露わになるのではないかと思います。
そういう意味では、
ミスの処理を通じて一緒に仕事をしている人たちとの信頼関係を深めていくというこ
ともできると思います。

とは言っても、
発送作業は、でき上がった本を読者のもとに届ける作業ですから、それなりに心はず
むものもありますが、それをまた開く作業はやはり軽やかな気持ちとはいきませんで
した。

それから、本の到着とあい前後して、拙寺の長老のお葬式の知らせがあり、昨晩仮通
夜、今晩本通夜、明日葬儀となったものですから、梱包・開封という夜なべ仕事に持
って来いの作業を、その時間帯にできなくなったこともちょっとバタバタに拍車をか
けました。
明後日は件の「老いについて」のテーマの姫路行きで、少しは考えをまとめておかな
ければ。


以上は、現在登録されている新着順31番目から60番目までの記事です。

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