らくりんバンバン

〈 落 鱗 板 々 〉



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re再び、意味の呪縛 投稿者:ootubo  投稿日: 8月24日(木)05時34分43秒

 らくりんさん、林遊さんレスありがとうございます。

 たすかるということばには様々な意味があると思っています。
 「たすかるはずがない自身の現実を深く信じる」ことができればそれがたすかることではな
いでしょうか。
 「浄土に向かうという方向の発見・・・(親鸞の教行信証を読み解く2)」がたすかること
ではないでしょうか。
 親鸞の歩みを自分も決意して歩むことが、私にはたすかっていることです。
 本当にたすかっているかの確認は、「たすかることを期待する(=打算)」ことにおちいっ
てないか、歩みを止めていないか、眠っていないかを確かめることがです。
 ただなにもかもおまかせで自分は何もしなくてもたすけられているわけなら、聴聞したり聖
典を読む必要がないのではないでしょうか。


ootuboさんへ 投稿者:林遊  投稿日: 8月23日(水)10時33分19秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

背くもの

 信仰を特異の存在であるかのように思っている人達は、信仰の門にさえ佇めば、
容易になやみの絆は断ち切れて、みずからの欲するままに、慰安の光がかがやく
かのように思う。
 しさしながら、信仰は一つの奇跡ではない。
 宗教はまた気やすめの、力なき慰めでもない。信仰は荷せられた悩みを逃避す
るのではなく、悩みの肯定のうちに、救いの光にみちびかれるのである。
 多くの人達は、宗教の本質について、かなしき錯覚のもとに、法をもとめよう
としている。そして一様に、自らの想像する驚異の世界を発見することが出来ず
して、却っておしえの常凡なるに失望している。(九條武子:無憂華より)

おねんぶつなさいませ。闇夜の鉄砲でもかまいません、おねんぶつなさいませ。
お念仏は条件ではありませんが、お念仏に聞くしかありませんでしたね。

     なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


再び、意味の呪縛 投稿者:らくりん  投稿日: 8月23日(水)09時05分25秒

ただ一つはっきり言えることは
>本当にたすかっているかの確認
が必要だと「思っている」間は「たすかっていない」ということです。

「たすかっていることが確認」できるようならば、
「機の深信」(たすかるはずがない自身の現実を深く信じる)という言葉は、
その時点で不用・不要になってしまいます。
それではちょっと浄土教の救済原理とずれてしまうように思います。

「たすかることが確認できた」から一生懸命念仏し
「たすかることが確認できない」なら念仏しない
というような発想があるとしたら、
それって単なる「打算」にすぎないのではないですか。

>ただなにもかもおまかせで自分は何もしなくて
とおっしゃいますが、
「たすかろうがたすかるまいが」「ただ念仏もうさんとおもいたつ」というところに
もっとも積極的なこちら側の〈選び〉があるのではないか。

たすかることを期待する(=打算)の上になりたつような〈選び〉ならば、
取り引きでしょう。


re「意味」の呪縛 投稿者:ootubo  投稿日: 8月23日(水)01時30分07秒

 丁寧なお言葉ありがとうございました。

 確かに念仏の「利益・功徳」ってのは、衆生の「いただき方」や、何かをしたり、どうにか
なったりすることから生じるわけではありませんから、「いただこう」が「いただくまい」が
増えも減りもしません。
 しかし、いただいているときは力が生じます。
 いただいていないときは、力がなく、観念的です。
 こういうことをいうと、実はいただいてないのかもしれませんが。

 すなおに念仏がいただけることに、あこがれはないと思ってます。
 いただけるには、時というか業があると思っています。
 衆生の条件は一切関係なく、たまわる信心も如来の信心ですが、ただなにもかもおまかせで
自分は何もしなくてもたすけられているわけでなく、本当にたすかっているかの確認が重要で
あると思っています。


早速の回答ありがとうございます。 投稿者:三吉  投稿日: 8月22日(火)23時12分27秒

解かりやすい説明、ありがとうございます。

まあ、私のは議論とはいえず、世間話レベルでしょう。

おっしやるとおりですね、身にこたえます。
自分自身の問題としてというところが、たびたび、ご指摘いただいてなお今も、弱点です。
「焦点と腰の座った思索」を私はらくりん氏に感じますが、実に私はあちこちふらふらとうろつき回わってますね。スタイルかもしれません

「焦点と腰の座った思索」、しばし時間を頂きたい。思索という語にみあった思考かはともかく
もうちと、きちんと読まねばとは感じます。
どうも、解からないところは、読まないというか、目に入らないというか、飛ばして読んでいる
のが実感されてきました。はなはだ、頼りないことですが、現状はそんな感じです。

>「修多羅に拠って」

遅くなりましたが、
この観点はなるほどと思いましたので、いつもどおり窃みます。


暇もてあます身でもあるまいに 投稿者:らくりん  投稿日: 8月22日(火)09時34分26秒

「三重廃立(内外廃立・聖浄廃立・真仮廃立)」という名目(みょうもく)の立て方
自体は初めて聞きます。
 この用語から推測すれば、おそらく
「内外廃立」は、仏教と非仏教との選び(化身土巻の「末巻」、私の言い方では第二の教誡部分)
「聖浄廃立」は、聖道門と浄土門との選び(化身土巻の「本巻」、第一の教誡部分)
「真仮廃立」は、他力真宗の浄土教と定散自力の浄土教の選び(化身土巻、第一の教
誡の前まで)
を指して言われていることだろうと思います。

しかしながら、
こういうことを言うために、「廃立」という用語を使うことには疑問を感じます。

「廃立」とは、専修念仏の「専修」性(諸行を廃して、ただ念仏のみが選ばれる理
由)を明らかにするために立てられた名目ですから、安易に別の主張のために転用す
べきではないと思うからです。

「廃立」とは、もともと「なぜ余行を廃てて、唯だ念仏というや」という問いに対して
三つの意を立てて答えていることに対して使われる用語です。
三つとは
一「諸行を廃して、念仏に帰せしめんがために、しかも諸行を説く」
二「念仏を助成せんがために、しかも諸行を説く」
三「念仏と諸行との二門にやくして、おのおの三品を立てんがために、しかも諸行を
説く」(『選択集』三輩章)
です。
つまり、善導や法然の言うような「ただ念仏すべし」という結論が正しいのならなぜ、
『大無量寿経』において、仏は念仏以外の諸行を説かれているのかという反論の意を
込めた質問に答えるために言われているわけです。
ここで重要なことは、普通ならば「廃すべき」ことは「説かれる必要がない」となる
はずなのですが、「諸行は廃するためにではあるが、仏説の中にきちんと説かれてい
る」という点です。そこには、「なぜ仏は諸行を説かれているのか」という明確な問
題意識があります。

仏教と非仏教、聖道門仏教と浄土門仏教、定散浄土教(諸行を容認する浄土教)と専
修念仏、これらの三つの選びは、それぞれに別の道理と必然性があります。
それらを一まとめにして「廃立」という用語でくくってしまうことは、そうした選び
を明らかにしてきた歴史を、きわめて平板なものにしてしまうことになります。

まるで、○×式のテストで、「次の二つので、正しいものに○、間違っているものに
×をつけなさい」というような発想で考えているとしか思えません。
○○会は、「暗記教学」と言われているようですが、まさにその発想から出てきた
造語であろうかと思います。

「廃立」という名目が立てられていることの意味を考えようともしないで
転用しているだけではないかと思います。

しかし、三吉さん、あなたの仕事はそんな暇ではありませんでしょうに、
こんなこけおどしのようないい加減な用語を振り回しす人たちを相手に議論して
ご苦労様なことです。

よけいなお世話でしょうが、
もう少し、自分自身の問題として、焦点と腰の座った思索のために、エネルギーを注
がれたらどうかと思います。


質問です。 投稿者:三吉  投稿日: 8月22日(火)01時31分20秒

この御法義の言葉の通じないバカタレからの質問です。

某所で親鸞会の方と対話しているのですが、会員氏によると、教行信証は三重廃立を核心として
るそうです。
さて私はこの三重廃立(内外廃立・聖浄廃立・真仮廃立)が何か知りません。
どなたか、知っている方、よろしく。

想像がつくのは選択集から聖浄廃立くらいですね。
真仮廃立は仮門と、真門・真如門ということなのか。
あるいはこの三重は三願回転入に配当しているだけなのか・・・。
内外廃立は、仏教外から自力諸善の仏教にということなのか・・・。


欲と二人連れ 投稿者:林遊  投稿日: 8月21日(月)12時56分10秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

だいぶ昔の事でありましたか、外食が珍しい時代のことでした。家族でのお聴聞
の帰りに外で食事をすることになりました。駐車場に車を止め、さて何を食べよ
うかと車から降りましたが、ばあちゃん(母親)は嫌じゃと言って車から降りま
せん。

お腹の具合でも悪いんじゃろか、と家内と話しながらテーブルに就きましたがど
うも落ち着きません。そこで再び車に戻りばあちゃんに、一人じゃさびしいやろ
げ、一緒にご飯たべようさ、と言いました。するとばあちゃんが、

「欲と二人連れじゃもん、さびしいことはないわい」

と申しましたです。思わず吹き出してしまいましたが、息子に負担をかけまいと
しての、親なればこその心意気だったのでしょうね。

小欲・中欲・大欲と欲にも色々ありますが、どん欲な「大欲」がなければ、この
御法義は「聴」けないし「聞」こえないのかも知れませんね。

生きるとは何か?、死ぬとはどういうことか?、仏様とは何か?、自己自身がは
たして何者であるか?と、いうとんでもない命題を知りたいという「大欲」がな
ければ、お浄土とか阿弥陀さまといっても単なるおとぎ話で終わるのでしょう。

林遊は時々、この世だけなんてよぉそんな浅薄な考えでこの世を生きていけるも
んじゃなあ、と思ったりしますが、まっこと皆さん、ちまちまとした仲良しゴッ
コの娑婆の小欲だけで、どん欲な大欲がないのかも知れませんね。

えっ、林遊さんですか?、

「欲と二人連れじゃもん、さびしいことはないわい」

   なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


「意味」の呪縛 投稿者:らくりん  投稿日: 8月21日(月)09時33分32秒

Ootuboさんお久しぶり
>私は、「ただ念仏すべし」となかなかいただけません
とおっしゃっているということは、
Ootuboさんは、「いただける」か「いただけないか」によって、
に何か違いが生じると「想像」していることになるのではないでしょうか。
実は、その「想像」が邪魔なんですよね。

念仏の「利益・功徳」ってのは、Ootuboさんの「いただき方」や、
Ootuboさんが何かをしたり、どうにかなったりすることから生じるわけ
ではありませんから、
Ootuboさんが「いただこう」が「いただくまい」が増えも減りもしない。


>すなおに念仏がいただける人がいるとは不思議でなりません。

○○さんとか私とか、ああ言えばこう言うで、
なかなかすなおに「ウン」なんてことは言わない。
どうみたって根性がねじ曲がっいるとしか思えない。
Ootuboさんの中に、なんか「すなおさ」への「あこがれ」みたいなもんが
あるんじゃないかという気がします。
「すなおさ」なんてこととはあまり関係ないんですよ。
もちろん「すなお」がダメだというわけではありません。それがダメというなら、大
いに「関係ある」ということになりますから。プラスにもマイナスにも作用しないと
いうのが関係ないということです。
  ―ちょっと信じられないくらい「すなお」な念仏者にも出合います―

Ootuboさんの側の条件は一切関係してこない、
だから「個人の差異が無意味化」され、
「一切の衆生が同じく斉しく」ということが可能になる。

なんていうか「そこに身を投げ出す」とでも言えばいいのでしょうか、
自分自身の実感としてはどこまでも「無意味」としか思えないことに身を任せてしまう
そこに
求めて止まない、そして求めて得られない〈意味〉への渇仰、意味の呪縛から
解き放たれる道が開かれている。


金、かね、お金。 投稿者:松田 幸b  投稿日: 8月21日(月)07時53分21秒

 欲と2人づれですよ。
どん欲な欲がなければ、お念仏は
聞こえませんよ。
         念仏君より


念仏 投稿者:ootubo  投稿日: 8月21日(月)06時32分24秒

夏も終わりに近づきましたが、残暑見舞い申し上げます。

私は、「ただ念仏すべし」となかなかいただけません。
すなおに念仏がいただける人がいるとは不思議でなりません。


記憶の彼方の名残り 投稿者:らくりん  投稿日: 8月21日(月)00時35分58秒

私の場合は小さいころはほとんど「なんまんだぶつ」とは無縁といってもいいような
育ち方をしました。とは言っても、白山麓の村の寺に生まれ育ったわけですから、念
仏の声は周囲に溢れていましたし、法縁はいくらでもあったはずですが、私自身はそ
ういうお育てから逃げ回っていました。ただ、記憶の彼方に忘れようもなく染みつい
ております。そういう記憶は今となってはとても貴重な「相続」です。

しかしながら、自覚的にこの教えに向き合い始めたのは20代の後半からです。
それも、自分の中にある抜きがたい念仏への違和感・拒否感との格闘のような形で親
鸞聖人の聖教と向き合ってきました。そしてようやく、「ただ念仏すべし」
ということで間違いないという結論に達することができました。
私にとっては「疑謗を縁とする」という文言ほどリアリティがある言葉はありません。
そんなわけですから、念仏しておりましても我ながら「板についている」という感じ
がありません。
最初は、その「板についていない」自分が念仏する姿に対する、ある種のコンプレッ
クスるのようなものがありました。こんな「念仏の仕方ではダメだ」というような感
覚です。
しかし、そんなことに悩んでいたことも今はそれも懐かしい思い出いでになりました。
いまだに、自分の念仏する姿は、どうも染みついた習慣のようなものというよりも、
わざとらしさがありますが、それもそれで、一つのあり方です。
そんなことでとやかくおっしゃる阿弥陀さんではないはずです。

家の中や村の中に念仏の声が溢れているような中で記憶の奥底に染みつくような
「相続」というのが本当に大切だと思いますが、それを取り戻すことは
気の遠くなるような道のりであろうと思います。
一人や二人説教の上手な坊さんがいても話になりません。
そんなことばっかり言っていても始まりませんし、ないものをねだって嘆いてばかり
いても仕方がありませんから、及ばぬことは承知で、倦まず弛まず、お迎えがくるま
で、ない知恵を絞ってあれこれやっていこうと思い定めております。

それにしても、本願寺派の伝統教学にご縁の深い林遊さんではありますが、身に染み
ついたお育ての「名残り」なのでしょうか、ご示談の「芸風」はやっぱり大谷派的な
ものを感じます。


Re:暑厳しき候  投稿者:林遊  投稿日: 8月20日(日)23時35分40秒

ども、林遊@なんまんだぶつです。

暑い々々と言っておりますが、なんと今夕はアブラゼミに混じってヒグラシが
鳴いておりましたです。

夏に蝉の声を聴く度、(虫+恵)蛄(ケイコ)春秋を識らず、伊虫あに朱陽の
節を知らんや、の句を思い出すのですが、今年はばあちゃん(母親)が西方仏
国へ往生したせいなのか、蝉の声が生死無常を知らせなんまんだぶつのご催促
に聞こえたりすることもあります。

町から田舎へ嫁に来て、慣れないない田舎の生活に、一生涯煩悩の泥田んぼを
はいずりまわったばあちゃんでしたが、近郷近在に並ぶ人なき念仏者でありま
した。高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にいまし蓮華を生ず、といわ
れますが、まっこと煩悩の泥田んぼに、なんまんだぶつの大輪の華を咲かせて
往生浄土の御法義を、馬鹿息子にキッチリ相続して下さったばあちゃんであり
ました。

御開山は

○ 十方微塵世界の
  念仏の衆生をみそなはし
  摂取してすてざれば
  阿弥陀となづけたてまつる

と仰いましたが、今ははや、十方微塵世界に満ち満ちて、なんまんだぶつの行
となり、摂取不捨のご信心となって下さるばあちゃんではありました。

それにしても、近頃はこの御法義の言葉の通じない浄土真宗の僧俗がいること
が林遊には不思議なのですが、愚鈍な林遊に言わせればバカタレ以外の何者で
もないなどと思ったりしていますです(笑)。

   なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・・・・・・称名相続


残暑厳しき候 投稿者:らくりん  投稿日: 8月20日(日)20時24分10秒

〈らくりんバンバン〉は「詐称だ」というおしかりが聞こえてきそうです。
なんとなく気分が乗りませんのです。
夏の暑さの所為ということにしといてください。
それとも、
〈らくりんボチボチ〉に改名しようかしら。


森首相の式辞 投稿者:まこ  投稿日: 8月18日(金)05時35分55秒

 8月15日の全国戦没者追悼式(白木は長年「全国戦没者追悼之標」であったのが、1975年
から「全国戦没者之霊」と変えられた)における森首相の式辞は帰敬式を受けた浄土真宗門徒とし
てはふさわしくない表現が2箇所あった。
 1つは「ここにそのご冥福を心からお祈り申し上げます」で、そもそも三百万余の戦没者しか念
頭にないのはアジア全域での2000万以上の戦争犠牲者に対する冒涜の言葉でしかない。
 2つは「犠牲者の御霊を鎮めることとなると確信するものであります」とは神道そのものの考え
方であり、鎮護国家につながる思想で、ひいては靖国神社国家護持にもつながる論理で極めて危険
きわまりない。
 これらの問題点について、森首相に対してなんらかの「指導」がなされたのであろうか? 日頃
は門徒さんたちに真宗の教えに照らしての習俗の問題点を指摘してきているが、はたしてきちんと
受けとめられた(受けとめられなかった)ことははしなくも、森首相の式辞が示してくれている。
課題を明示してくれたという点ではありがたい式辞であったのかもしれないと私の怒りをようやく
鎮めるに至って、書き込むことができました。
 実は岐阜教区(西)の岐阜別院の黎明講座が毎年8月1日〜5日までの5日間行われてきたが、
ちょうど50年目になるということで、衆議院議員であり、岐阜別院総代である野田聖子元郵政大
臣が一昨年・昨年の靖国神社に「私的参拝」を行っており、今年はどうなるか注目の中での法話?
がどんなものかと注目していたら、篤信な門徒さんから住所宛に丁寧な文面での問題指摘のお便り
が届き、急いで当日のテープをその方から貸していただいたものの、前半が切れていて、セミの声
も大きくて、聞きにくくて、岐阜別院に問い合わせて、色々といきさつがあって、輪番より慎重な
扱いを求められ(要するにコピーしてばらまかないでほしいということであると確認した)、その
中味が神も仏も一緒であるかのごとき内容であって、テープ起こしする気力も失せるようなヒドイ
ものであることが聞いてみて判明する中で、何回も聞き直すうちに、これは野田聖子元郵政大臣だ
けの問題ではなくて、世間一般の宗教についての言動を代表しているのだと受けとめるに至った。
 森首相にせよ、野田元郵政大臣にせよ、真宗門徒であるからにはそれにふさわしい言動が求めら
れると思う。同時に新靖国法案の準備が進んできているとも漏れ聞く中で、真宗門徒として明確な
態度表明することを早急にしていただきたいと思う。おかげで、この1週間は野田元郵政大臣問題
で毎日のごとく別院に通わせていただきました(--)

http://gifu.cool.ne.jp/saijunji/


疑似体験 と 雷 防止 投稿者:松田 幸b  投稿日: 8月18日(金)03時22分16秒

 らくりん さん、
 私は若い頃(21)よく日立の設計と、よく 喧嘩 激論 したものです。
その人と縁会って、会いました。イメージとは、やはり違いました。1日に3時間も、仙台と富山
つなぎ放し、当時は、4秒で10円でした。

 今考えるとメーカーも、うちも、赤字です。 今通話明細とゆう、サービスがありますが、
これは、黒部の雷様が、おられる、現場で開発されました。アナログと、デジタル結ぶのに
 光で通信する
フォト カプラ 48ヶも使いました。ここまで、しないと、ノイズを防止することが、
できませんでした。

 当初は、雷と、ノイズでプリンターが暴走 紙が連続して でたり それは、開発には、
苦労しました。日立の仙台から物を8時間かけて 持ってきて、とんぼ返り、温泉でも入って
休むよう 言いましたが、そんな余裕なんかない。といって すぐ帰られました。

 らくりん さん の 雷対策は、合っています。これ以上やつていたら、自分も危ないと、
思ったら、縁を切ることです。

 しかし、我々プロは 切れないのです。金沢のある山の中に、日本の交換機を夜間指令統一
している、設備があります。 そこに 私の友人が、います。単身赴任で、
女のお子さんが4人 おられます。田圃は、3兆作っておられます。 

 電電公社 ntt には 珍しい タイプです。 事務所へは、連絡なし、日報 なし
痛烈な 自社非難 自分の会社を非難するなら、やめればとよく言われますが、

 それは、違うと思います。悪いとこを、徹底的にたたく、そして
自分をふるいたたせるのです。 彼は、12月28日の夜 7時30分には、必ず挨拶にこられました。 そんな、貴重面 な 所もありました。

 今どうしているかな、その人は1等航海士 に 成りたかったと 言われました。


ひと夏の経験 投稿者:らくりん  投稿日: 8月17日(木)22時27分03秒

この夏、お世話になったり、お目にかかった、常連書き込み者、ならびにROM者の
皆さんありがとうございました。
生「らくりん」、生「著者」さんはいかがでしたでしょうか。

今年の1月からネット交流に参加しはじめて、各地でネットを通じて知り合ったり、
あるいは一方的に知られた人に、オフでお目にかかるという、
私にとってある意味で初めての経験をした夏でした。
そんな経験を通して、考えさせられることも多々ありました。

そして、
ネットコミュニケーションの特殊性ということを考えずにはおられませんでした。

私は、〈真宗BOARD〉以外の掲示板では一応「らくりん」というハンドルネーム
を使ってはいますが、〈真宗BOARD〉に「著者」として参加している関係で、
事実上実名で参加しています。

掲示板でお馴染みの人から、別のお馴染みさんをハンドルネームで
紹介されたりすることは、それほど驚くことはないのですが、
一面識もない方から、
いきなり「らくりんさん」と呼びかけられたり
懇親会などで、お酒をつがれて一言「読んでますよ」とか「よくやりますね」
などと言われたり。
あるいは、
「掲示板の書き込みから想像していた人とはずいぶん印象が違いますね」
「……(∞;)」
そうなんです、ネット上で知り合った人って、結局この書き込みだけしか
情報がないわけなんですよね。
たったこれだけの書き込みだけで、人相風体から、性格、人当たり、思想傾向などなど
いろいろなことを想像されちゃっていて、こちらの方が面食らっちゃいました。
縁あって各地に寄せていただいて、ねっとでできあがっていたイメージを壊して
歩いていたようなものです。

その逆もありました。何年来の知り合いがこの掲示板を読んでくれて、
こんな一面があったのかと、驚かれちゃいました。
それもそうだろうと思います。(出合った年代や、状況にもよりますが)

そんなこんなで、オンネット情報とオフネット情報の乖離を感じながら
その間を行ったり来たりしながら、ちょっと不思議な体験をさせてもらいました。

ネット交流の最も大きな特徴の一つは「匿名性」にあるのではないかということを
あらためて思いました。

試しに、ここの訪問者とはあまり関係のないと思われる、
とある掲示板に完全に匿名で参加してみました。
その気楽なことと言ったらこの上もありません。
あれだったら何でも書けますよね、ほんとに。
素面で、けっこう神経を使いながら書いている、ここや真宗BOARDでの
書き込みとは雲泥の差です。

ひと夏のわずかな経験でしたが、
ネットとのつきあいかたを考え直す材料をたくさんいただきました。


てずくり・・・平和展でした 投稿者:毛坊主  投稿日: 8月17日(木)15時55分15秒

愛知の平和展に行きました。てづくりの展覧会でそれなりに意味がある気がしました。
戦時中の地図が展示されてました。地図すら軍事機密だったですネ。今はカーナビで
細かい建物まで掲載されてます。平和のあかしかも知れません。カーナビ(GPS)も
利用の方法では、精密誘導兵器になってしまう危険も同時にある気がします。少し
知識があれば、さほど難しい事でもない様な気がしました。平和利用と軍事利用まさ
に、紙一重の違いの様な気がしました。いずれの道具を使うのも、同じ人間なのです。

http://www.jiin.or.jp/


しまった!・・行き損ねた。 投稿者:毛坊主  投稿日: 8月16日(水)22時19分03秒

我が自坊の目と鼻の先です。本日参れば、ご両名さまにお会いできたかも?
明日にでも、見に行きます。

http://www.jiin.or.jp/


愛知の平和展へ行こう 投稿者:まこ  投稿日: 8月16日(水)06時04分42秒

 昨日から19日まで、名古屋駅前の愛知県中小企業センター(毎日新聞社の東側)
にて、愛知の平和展が開かれて、満州皇帝の衣類、大東さんたちの中国モンゴル調査
の遺物などの目玉展示の他に、今日の午前は戦争遺物の公開鑑定会、午後は戦争中の
紙芝居実演があるので、らくりんさんとおそろいの緑の非戦・南無阿弥陀仏・東西本
願寺を結ぶ非戦平和合同行動記念Tシャツを着ていきます。
 TシャツはLサイズが残っていて、黒・白・赤・緑の4色から選択できます。問い
合わせは、彌光庵(TEL&FAX 075−751−5045)までなさってみて
下さい。

http://www.mirai.ne.jp/~makotom/nishi.htm


立山 投稿者:松田 幸  投稿日: 8月12日(土)05時23分23秒

 女人禁制の山 
 らくりんさん 励みになります。
ありがとう ございます。


こんばんわ 投稿者:お留守居役様  投稿日: 8月11日(金)20時34分26秒

三吉様

>>たとえば、『一切衆生悉有仏性』を
>>一般には、全ての衆生に仏性が内在していると解されていますが、

>その根拠となる涅槃経は、「(省略)」と言っているように思います。
>松本氏の批判は的外れでしょう。


>>一般には
と申しているのに
>涅槃経は
と言われるあなたさま
>の批判は的外れでしょう。

おつきあいしかねますね。らくりんさんの期待には添えないですけど。
あなたさまは、わたくしめを言い負かしたいとお思いのご様子ですが、
だいぶ前にも申しましたけど、ディベートのお相手はしかねます。
ただ、涅槃経における仏性を別の問題として論じられるのはご自由ですよ。


故あって 投稿者:らくりん  投稿日: 8月11日(金)09時28分50秒

また、しばらく黙ります。
三吉さんと、お留守居役様さんのやりとりどう展開していくか楽しみにしています。


「猥りがわし」の根拠 投稿者:らくりん  投稿日: 8月11日(金)09時26分25秒


>で、わかとっらんから弾圧までしあがって、この野郎と続くのではと。(笑)。
こんな単純な「うっ憤をぶちまける」だけのような話ならつまらないのでは。
ただ単に「弾圧はけしからん」と息巻いているだけでは、
「負け犬の遠ぼえ」と大差なくなってしまいます。

何せ相手は、立法、行政、司法の三権を一手に掌握している立場にあるのですから。
そういう相手に対して、
あの処罰は「猥りがわし」き判断であったと言おうとする時には、
よほどその根拠と筋道がはっきりしていないと話になりません。

三吉さんの言葉で言えば「わかっとらんから」の、その「わかっとらなさ」は
どういう意味か、本当に相手は「わかっとらん」のかどうか。
相手は当然「わかっとるかわかっとらんか、それを決める権限はワシが持っている」
と言うわけですから。

弾圧された者が、弾圧した者に対して「不当だ」と物申す場合に、
最も大切なことは何か?
自分が拠って立つところの根拠を明らかにし、それを拠り所にすることが間違いでない
ということを明確にすることではないかと思います。

「修多羅に拠って」(東368/西429)ということがその根拠となり得るかどうか。
仏教者間の議論ならばそれは共通基盤として前提できますが、相手が非仏教者である
場合に仏説を根拠に議論することにどれほどの意味と意義があるか。
贔屓の引き倒し、我田引水にならず、
なおかつ仏教者として仏説を拠り所にして問題の本質を明らかにすることができるか

権限を持つ者がその権限を執行すること自体の問題ではなく、
その執行が「猥りがわしい」か否か、問うべきところはその一点しかない。
それを問にはやはり根拠と道理が必要なのです。


松本先生への言及 投稿者:らくりん  投稿日: 8月11日(金)08時44分11秒

があったことは憶えています。
ただ、
件の書き込みは、どなたかへのレスのような感じがしたものですから、
もしかしてと、思ったまでです。
他意はございませんので。


おはよ 投稿者:三吉  投稿日: 8月11日(金)07時44分24秒

らくりんさん

>星宿だとか、魔波旬とか梵天とか、鬼神、はては老子・荘子などと
>わけのわからんうっとうしいのが次々と登場してきて

「わけのわからんうっとうしいのが次々と」←ここは同じ思い(笑)。
つまり、あそこで親鸞さんは専修こそが仏教として当たり前。
神を大事にせよというお前らは仏教わかっとるのか?と聖道門諸氏を批判しているということで
いいのですか?
で、わかとっらんから弾圧までしあがって、この野郎と続くのではと。(笑)。

やはり北陸も夏は暑いか(笑)

お留守居役様

>たとえば、『一切衆生悉有仏性』を
>一般には、全ての衆生に仏性が内在していると解されていますが、

その根拠となる涅槃経は、「本当は仏性などないが未来に誰しもが成仏すると信じる大乗の立場からないと言っては駄目だ。つまり仏性とは可能性」と言っているように思います。
松本氏の批判は的外れでしょう。
親鸞は、仏性は自分ではない。それは如来だ。如来が我となって信となって称名さすんだと
言っているように思います。それが他力だと(笑)


re:?! 投稿者:お留守居役様  投稿日: 8月10日(木)19時11分37秒

遙か昔に松本先生の「道元思想論」を読んでいると
ここで申したような記憶がありますのですけど。。。
確かに、今となっては、
御本典研鑽集記との関連性の方が強そうに見えますね。

http://www62.tcup.com/6200/tune916.html


?! 投稿者:らくりん  投稿日: 8月10日(木)16時27分42秒

皆さん、ご無沙汰してます。管理人です。

お留守居役様さん、
なかなか刺激的な書き込みですが、話の流れから判断して、
どこか別のところに載せる書き込みだったのではないでしょうか?

暑さで頭がぼーっとしてしまっているのと、
あれころと、いろんなことに追われて、
じっくり掲示板も楽しめません。

『読み解く』第五巻の原稿の仕上げも思うように捗りません。

去年の今頃はまだ未刊が3冊も残っているということで、
気持ちにもけっこうハリがあったのですが、
あと1冊だと思うと、「まあ、何とかなるだろう」ってなことで、
気分も弛みがちです。

それにしても、第二分冊第2の教誡、いわゆる化身土「末巻」ってやつですか、
星宿だとか、魔波旬とか梵天とか、鬼神、はては老子・荘子などと
わけのわからんうっとうしいのが次々と登場してきて、
とてもこの暑い盛りにつきあってられるような話じゃありませんね。
ったく、もう。


松本史朗「道元思想論」 投稿者:お留守居役様  投稿日: 8月10日(木)11時11分34秒

>結論として言えば、私(松本)は、「如来蔵思想」の中に、
>「仏性内在論」と「仏性顕在論」という二つの類型があると理解する。
>ここで「仏性内在論」とは
>“仏性は人間存在、特にその肉体の中に存在している”
>という説であり、
>「仏性顕在論」とは、
>“仏性は事物において全面的に顕れている”
>または、
>“事物そのものが、仏性の顕れである”
>という説である。

松本先生の主張は、「縁起説」が仏教(仏説)であって、
インドの如来蔵思想である「仏性内在論」と
中国で発展した如来蔵思想である「仏性顕在論」は、仏教ではない。
前期の道元は、「仏性内在論」を「仏性顕在論」によって批判した。
後期の道元は、「仏性顕在論」を縁起(因縁)説によって批判した。
ということと思われます。

たとえば、『一切衆生悉有仏性』を
一般には、全ての衆生に仏性が内在していると解されていますが、
前期の道元は、衆生は悉有であり、悉有は仏性であると読んで批判しています。
この悉有=仏性論は、仏性が全てに行き渡っているということですから、
「仏性顕在論」であり、いわば、汎神論であり、汎有論であると思われます。
差異とか変化を認めない無時間論であり、
縁起説ではないと言えると思います。

また、「山川草木悉皆成仏」ということも、
山川草木には仏性が内在しているから成仏する。
ということから
山川草木は、無情であり、迷いがないから、既に成仏している。
となり、さらには、
山川草木を学んで、山川草木に習って、山川草木によって、
有情(人)も山川草木と同じ無情になることで成仏する。
ということになると解されます。
このような考えが、一般に禅的な「悟り」と理解されていると思われます。
悉有・山川草木に修行してなることが「悟り」であり「成仏」であるという考えを
浄土教は、「浄土」と「往生」ということで分離して、
乗り越えたのではないかと、私は考えてみました。
ですから、「往生即成仏」とか「往生して成仏する」とかは、
後戻りではないかと思うのです。

ところで、後期の道元は、『四禅比丘』で、
>>山河大地・日月星辰・四倒三毒、みな如来の所証なり。
>>山河をみるは如来をみるなり、
>>三毒四倒、仏法にあらずということなし。
>>微塵をみるは法界をみるにひとし、
>>造次顛沛、みな三菩提なり。
>>これを大解脱といふ、(中略)

このようなことをいう人が多いが、

>おほよそ仏祖の道をしらざるなり。
>たとひ諸仏の所証となるとも、
>山河大地たちまちに凡夫の所見なかるべきにあらず。
>諸仏の所証となる道理をならはず、きかざるなり。
>なんぢ微塵をみるは法界をみるにひとしといふ、
>民の王にひとしといはんがごとし。

と批判しています。
この『四禅比丘』の巻は、中国における
仏教、孔子、老子は等しいという、いわゆる三教一致説を批判した文章です。
つまり、後期の道元は、
中国仏教である「仏性顕在論」を批判しているということです。


西本願寺から回答があったらしい 投稿者:まこ  投稿日: 8月 9日(水)02時50分27秒

 先日、問題講演の件で質問状が出ていることをお知らせしましたが、本山より回答が
あったそうですが、棚原さんの事情で掲載は16日以降になるそうです。取り急ぎ、お
断り申し上げます。
 問題講演を読んだ人の間では「アミダの森」の関係で困惑した状態にあると聞きます。

http://www3.justnet.ne.jp/~tanahara/


おばさん 投稿者:松田 幸子  投稿日: 8月 8日(火)05時27分36秒

 あんめるつ の 臭い、なんとなくね、痛ましいね。
こんなに、部品分解 なんとかね コネクタぐらい 組立して欲しいね。

 孫に、おばあーちゃん お仕事だからね。なんとね、そばで聞くのはね。

黙って、電ドル回し、聞く音 消す、空調制御盤。

 おじょうさん 暑い、暑いをね 連発  ただいまの温度 30度 


人を救う言葉 投稿者:松田 幸子  投稿日: 8月 6日(日)10時10分41秒

 私の好きな言葉

 涙をながした 人 の 微笑みは、美しい。


広辞苑によれば教誨師のようです 投稿者:まこ  投稿日: 8月 6日(日)01時24分46秒

 私も書きながら変換がいいのか迷って前の書き込みを踏襲しましたが、広辞苑第5版
によれば「教誨師」というのが法務省での呼び名のようです。
 私の知ってる教誨師は名誉職という感じではないまだ若い方ですけど、死刑廃止につ
いてどう思っているかは話したことがないので、機会があれば聞いてみます。
 教誨師、保護司、民生委員、教育委員など僧侶が関与する社会更正、社会福祉、教育
の仕事は少なくないですね。
 いずれにしても仕事の実際を知らないと議論が成り立ちにくいですね。


教戒か教誨か、文字が解りませんが。 投稿者:大願  投稿日: 8月 5日(土)01時28分00秒

>西本願寺の布教使に、何故死刑制度を反対しないのかを質問したら、
>反対すると、刑務所からお呼びがかからなくなり、教戒できなくなり、
>本も子も無くなるからだそうです。
と、以前書き込みましたが、これは、門徒推進員の教区研修会のQ&Aで
中央相談員に質問した時のことです。
教戒し(使か師か?も解りませんが、きょうかいしの話を聞くと師の方が納得します。)
って、一種の名誉職であるように聞こえます。伝統教学の布教使であることが条件であるかのような。
「死んで浄土へ」の2元論を何の躊躇もせずに布教できないと、免許を貰えないと
聞きました。確かなことではありませんが、近所の教戒しを見ているとさもあらんと思います。
これは西も東もおんなじような気もします。いえ、気がするだけで、断定はできませんが。
棚原さん、コピーをお願いします。住所をメールにてお知らせしますので。


死刑廃止論? 投稿者:棚原  投稿日: 8月 5日(土)00時01分53秒

 大願様

本願寺派では、今度の教誨通信15号で『「死刑制度」についての声を聞く』という
特集が組んで有ります。(よく解らない文も有りますが)
 ほんの少しでは有るようですが、死刑制度に着いての反対論を進めて行く動きは
有るようです。
コピーで良ければお送りいたします。
(とはいうものの住所知りませんが・・・)

http://www3.justnet.ne.jp/~tanahara/


大逆事件 投稿者:まこ  投稿日: 8月 3日(木)21時05分45秒

 先に不確かな書き込みをした大逆事件ですが、高木顕明に死刑判決が出たのは1911年
1月18日で、同時に大谷派はヒン斥に処したということです。(「同朋」に出ている真宗
ブックレットの広告より)今から、約90年前ということになります。
 真宗ブックレットとしては「死刑制度」が出ていても、教団内での議論はまだまだという
ことでしょうか。西の教戒使からは東にも教戒使がいるのによく死刑廃止の議論ができるな
あなどということを聞いたことがあります。教戒使ってそんなにうまみのある仕事なんでしょ
うか。以前、キリスト教の牧師の教戒使の話には納得できなかった死刑囚が、真宗の教戒使
の話に納得して死刑に臨むことができたという逸話を聞いたことがありますが、戦時教学と
同じような役割を教戒使は担っているのかもしれません。
 昨日、少年法の問題を弁護士から聞く機会が岐阜教区(西)の僧侶研修会でありましたが、
私も知らないことがありました。刑法、少年法について実際をよくよく知った上で議論しな
いといけないなと痛感しました。教戒使の実際についても知る必要がありますね。


問題講演 投稿者:毛坊主  投稿日: 8月 3日(木)07時29分30秒

大願さん、こんにちは。教区が違うとなかなか情報のみならず、交流がないですね。
ある意味では、遅れている組織や宗門の問題点かも知れません。

【一門徒として、即座にクレームが発せられるように、聴きたいと思うばかりです。

最近は、「差別や人権」の問題では、聞き手の責任と言う事も、問題になってきつつある様で
すが、ある意味では、まだまだ我が宗門人においては、依然潜在的な差別感や人権感覚に乏しい、
そんな方々が多いかも知れません。やはり誰かが、その折々(問題点が出てきたら)に指摘して
問題提議し、討論する、そうした地道な努力が必要ではないかと思います。

我が宗門も、色々な社会問題に対して、総長談話とか表明を出してます。『脳死』『ガイドライン法』『神の国発言』『死刑制度』などです。それぞれの問題では、少し小生と見解の相違のある
意見としての、総長談話とか見解も正直言うと、あります。されどこうしたもの(宗務総長の見解など)が出せる宗門になった事だけは、確かな様です。

『神の国』発言の頃、オウムの某被告に対しての、井上裁判官の判決文に「宗教などに逃げ込ま
ずに・・・」などと判決文を書いた裁判官がいました。むしろ、こちらの方を問題にすべきで、
ある意味では、「神の国」より発言より問題と思います。
「オウム」でなくて、この裁判官は、「宗教」と言ってます。むしろこの文言に対して、直ちに
宗教関係者は、不適当な表現の判決文と抗議すべきでは、なかつたか。そんな気がしました。

【西本願寺の布教使に、何故死刑制度を反対しないのかを質問したら、
反対すると、刑務所からお呼びがかからなくなり、教戒できなくなり、
本も子も無くなるからだそうです。これって、何か変じゃありませんか?本末転倒みたいで。】

ブラック・ジョークなら良いのだが、本音でそう答えたのか?。善意で解釈すれば、反対・容認
などと言う、確たる見解(意見)をお持ちでなかったのか?。
でも、小生も一応保護司をしてますが、全くのボランテアです。現在の法律が、罰より更生保護
を主眼としているので、小生も、この「死刑制度」には、少なからず疑問があります。死刑制度
については、ややもすれば、被害者感情や、社会的事件との関連で、短絡的な議論に流れやすの
ですが、廃止と言う前に、まず死刑制度そのものについての、議論や討論をする事から、始める
べきでは、ないかと思いますが。
少なくとも、教区では、死刑制度に関する、講演や討論会などを開いた事は聞いてませんが。あるいはあったかも知れませんが。・・・

でも我が教区でも、色々な講演会や学習会を開催してますが、いずれも、参加者が極めて少数
です。色々原因はあると思いますが、やはり開催時間が問題と思います。
 午後2時3時では、住職は、法務で、参加出来にくいし。ご門徒さも、それぞれ仕事をもって
みえる方は、参加できない。土曜日とか日曜日は、教務職員が休みで、施設(会場)が利用でき
ない。まだまだ問題点も多いです。


 

http://www.jiin.or.jp/


問題講演 投稿者:大願  投稿日: 8月 3日(木)00時33分21秒

毛坊主さん
はじめまして。
私は三河の門徒ですが、名古屋にも時々お邪魔していますので、どこかでお目にかかって
いるかも?。
私の近所の寺で、和歌山の事件を面白おかしく、誹謗中傷して布教しているお座に出会いました。
それも2度機会があって2度とも同じパターンで受けを狙っていました。
別の僧侶ですが、大阪で同様のお話をしていたら、聴衆のどなたから、即座にクレームがつきました。
ここらあたりが、聴くほうがどんなリアクションをするかが問われるところですね。
一門徒として、即座にクレームが発せられるように、聴きたいと思うばかりです。
西本願寺の布教使に、何故死刑制度を反対しないのかを質問したら、
反対すると、刑務所からお呼びがかからなくなり、教戒できなくなり、
本も子も無くなるからだそうです。これって、何か変じゃありませんか?本末転倒みたいで。
こうした問題をお東の教戒師さんはどう受け止めておられるのでしょうか?


問題講演テープ? 投稿者:毛坊主  投稿日: 8月 2日(水)22時22分48秒

まこさま ここで公開できる内容ではない様な気がしますので
直接メールしましたので、宜しくお願いします。

http://www.jiin.or.jp/


わかりました。 投稿者:らくりん  投稿日: 8月 2日(水)12時01分28秒

気合い入れていたのに。
それは冗談。

大悲さん、身体こわさないように。


欠席届 投稿者:Vita  投稿日: 8月 2日(水)11時37分02秒

どもです。暑中お見舞い申し上げます。
5日の美川の会ですが、「疎開」が縁で、東京の小学校の児童たちが宿泊に来るということで、欠席させて下さい。信巻第一回目のお話が聞けないのが、とても残念です。


朝法座 投稿者:大悲  投稿日: 8月 2日(水)09時27分20秒

ウチは、明日から三日間の予定です。
時間は朝5時半から、明日は、私が話をさせていただき、
あさって、しあさっては三明先生の予定です。

机座布団並べから、お茶だしまで自分でやるので、4時ごろには起きてます。
ところが、今晩は、FMのネプタ生中継のスタッフ(>_<)審査終了までの生放送!
最近、寝られる状態ならいつでも寝る習慣になりつつあります。


明日は暁天講座 投稿者:らくりん  投稿日: 8月 1日(火)20時49分58秒

大聖寺教務所
5時45分からお勤め、
私は、
4時半には家を出なければなりません。おやすみなさい。
と言ってはみたものの、こんな時間から眠れるかな〜?


ほったらかしですいません 投稿者:らくりん  投稿日: 7月29日(土)15時18分30秒

「うだるような暑さ」というのは、きっと今日のような日のためにある
言葉ではないかと思います。


問題講演 投稿者:まこ  投稿日: 7月28日(金)23時24分51秒

 教区での問題講演ですか。講演記録のテープはないでしょうか? 大谷派がこの間に
取り組んできた人権問題とのかかわりからして、記述された内容からも疑問が大きいで
すね。先月、新宮で人権フォーラムが開催されたようですが、それは50年前でなくて
約100年前の復権をめざした取り組みだと思いました。大逆事件って何年でしたっけ。
 大谷派は死刑廃止に取り組んでいるそうですが、このところの某教団事件での死刑判
決の連続についてはどう考えたらいいのでしょうか? 我々の人権感覚が鈍ってきてい
るようにも思います。
 さて、本願寺派でも問題講演が起きてまして、問題化しつつあります。砂漠緑化を大
東亜共栄圏の実現と公言してはばからない遠山氏の講演が本山の組活動推進者養成講座
で行われて、質問状が出ています。下記の同朋運動に講演記録と質問状があります。

http://www3.justnet.ne.jp/~tanahara/


頭にきてます・・・ 投稿者:毛坊主  投稿日: 7月28日(金)20時18分36秒

管理人様  本記述内容が、問題と思慮される場合には、削除してください。

ある組で、教区の正式行事の推進員養成講座が、開催されました。『王舎城の悲劇』がテキストで
す。その講演で、親殺しの悲劇・・・・想像を超えた犯罪が多発している云々で・・そんな文脈で

和歌山での有名な某事件の某女性被告の名前(実名)を出されて、説教調でさかんに、おもしろお
かしく講演(説教)されました。あれほど我が宗門差別とか同和問題を、宗門全体の問題として取
り上げてきたのに・・・・何だったのか?。なさけなくなりました。

しかもこの講師は、本山でのそれなりの要職を歴任された方なんです。そしてなおショックだった
のは、この講演(講座)を聞いた住職や門徒の方のほぼ全員が、ちょっと「おや・・・」と思った
が、何気なく聞き過ごしてしまう。宗門人の体質(自覚)なんです。

確かに井戸端会議では、多分某被告は、有罪=極悪非道な殺人鬼 そんな感覚はすんなりと受け入
れるかも知れませんし。多くの国民もそう思っているかも知れません。そういう下地があるので、
あの事件の被告の実名を聞いても、何の疑問も持たないのかも知れませんが・・・・

 まさにそこが、極めて危険で恐ろしい気がします。「○業」「悪人正機」などを説明する場合、
時局事件ネタを言うと、理解されやすいし。また聴衆にも受けやすいとは思いますが・・・・

裁判が必ずしも、正しいとは限らないし、冤罪だって皆無ではない、なおさら更生保護を主眼とす
る現行の法体系では、罰より更正、そして基本的人権の尊重。これが主眼と思うんです。

総理の「憲法違反発言」を批判する事は、逆に言えば、誰よりも宗門(人)は、憲法の基本理念を尊重する事だと思います。それは、被告の人権にとっても言えるのでは、憲法や法律は、逮捕・起
訴されただけでは、有罪ではないのが、原則なんですが、何で50年前の高木師の僧籍剥脱の件に
ついて先月だったか、和歌山でフォーラムを開催したのか?。まったく50年後も同じ体質ではな
いのか?

かなり、頭にきてます。時折この様な(事件や時局ネタ)を混ぜた法話や講演説教を耳にします。
実名こそ出ないのだが、極めて首を傾げたくなるアブナイ話しがある気がしてます。

http://www.jiin.or.jp/


早朝から3日間とは大変 投稿者:まこ  投稿日: 7月27日(木)20時16分44秒

 人を変えての暁天講座(岐阜の西別院では黎明講座)が数日に及ぶことは多いです
が、同じ人でしかも3日間拘束されるというのは、やりがいがあるでしょうけれど、
なかなか大変でしたね。
 知り合いの布教使で1週間連続の法座というのは聞いたことがありますが、早朝か
らというのはスゴイですね。それだけ話せるということもスゴイと思います。でも、
夏は早朝でないと聞く方もつらいのですよね。
 例年、岐阜教区(西)は8月1〜3日が僧侶の連続研修です。今年は1日目に中西
智海氏との案内が来ています。3日目は長良川河口堰などの見学ですが、案内者が賛
成派学者(人選を疑います)なのと大体が行ったことがある所なので私はパスします
が、80歳になっても好奇心旺盛な住職は参加するようです。


朝は一日の始まりで、その後 投稿者:らくりん  投稿日: 7月27日(木)09時16分26秒

暁天講座が3日間とかそれ以上あることは珍しくありませんが、
同じ人が続けるというのは、私が知っている範囲ではあまりありません。
永代祠堂経では、3日どころか5日とか1週間同じ人というのは聞いたことが
あります。私が経験したのは5日までですが。

暁天講座だけではありませんで、それが1日の日程の始まりで、
午前中は、座談会、午後一時から法要と法話です。
以前は午前中も法話があったそうです。
毎日10時ころになると、「寝なければ」と、時計が気になります。

暁天講座は、その時間までに目も頭も充分に覚ましておかなければいけないので、
起きてすぐというわけにはいきません。
朝3時ごろに目が覚めてしまい、もう一眠りしたいという思いと、
寝過ごしてはならないという思いで、
うつらうつらと朝を迎えてしまった日もあります。

私は苦手な時間帯です。せめて、暁天講座が1日だけならと思いますが……。


お帰りなさい 投稿者:まこ  投稿日: 7月27日(木)02時17分35秒

 3日間も暁天講座でしたか。3日間連続とは珍しくないですか?
 東では暁天講座、西では黎明講座という場合が多いのはなぜでしょう?
 暁天=黎明でしょうか?
 夜中に目がさめたので何とも言えませんが、できれば大垣別院での廣瀬しずか氏
の法話を聞きに行きたいところです。


おかえりなさいませ 投稿者:謎の留守番役  投稿日: 7月26日(水)22時56分49秒

ではでは。


帰ってきました。 投稿者:らくりん  投稿日: 7月26日(水)22時14分52秒

5時起床で、6時からの暁天講座で一日が始まる日程が3日間続きました。
最終日の今日は、ちょっと疲れちゃいました。
ということで、とりあえず、ごあいさつだけ。


今日の朝、かものお墓作り 投稿者:松田 幸子  投稿日: 7月26日(水)10時31分30秒

 工業団地の公園、ほらテニスコートのある。
草刈りで、焼け出された、卵を親鳥がね
抱いていたのですよ。

 あの世で、好きなとこ、自由に飛んでね・

今度は、水のある草むらで生んでね。


じゃり の 採集 土石 土木課 投稿者:松田 幸造  投稿日: 7月23日(日)10時38分01秒

 ダムのお陰でためた、土砂を利用して、骨材ができ、なまこん が、
でき、橋や、ビルが、できますね。

 ダム建設は、必要でしょうか?。


留守にします。 投稿者:らくりん  投稿日: 7月23日(日)09時27分47秒

今日の午後から、26日留守にします。
Vitaさん、またお願いします。
と言っても、Vitaさんのお帰りは、明日(24日)ですかね。

ま、と言うことです。


私は思う 投稿者:松田 幸造  投稿日: 7月19日(水) 5時12分50秒

 やがては、町には、住み難くなると、思いますよ。今ほとんどがストレスが、元因で、
病気で、解らなければ、ストレスです。と答えれば、まず、間違いありません。

 現に文化ホールは、田舎にたくさん、国の政策で建てられましたね。
さこで、なにを学ぶべきか、富山の利賀村では、真剣に、少ない村民で、夜なべ談義 数十年
前から、行っています。やはり、せっぱつまらなければ、重い腰は、あがらないと、思います。

 私は、思う、腰をあげるのは、国では、ないと思いますよ。そこに住まいする住民が一致協力して、数人でも、まず、立ち上がることでは、ないでしょうか。
その後押しを国が、するだけでは、ないでしょうか。

 私は、見てきました。日本は世界30数国に電話工事に派遣されています。
1カ所に多くて4人、少ないところは、1,2人なのですょ。

 そのわずかの人間で、戦後の後始末をしているのですよ。どうか、日立電子サービスの男性は、
クーデターが、おきて、命からがら、にげてきても、又 いくのですよ。

 悲しいかな、独身男性が、多いのですよ。深いご理解をとくに、女性の方にお願いするのは、
あまり、勝つ手すぎますかね。?


植林は人がやる 投稿者:まこ  投稿日: 7月19日(水) 0時11分34秒

 植林とその後の育成(の方がより大変)は植林した人がやっていくか、公共事業
として植林及び育成事業を無駄な公共事業を削った費用と人をまわしてややってい
くか、国土防衛の一番重要なこととして「自衛隊」が取り組んだらいかがでしょう
か?
 先に植林の方が大事だと書かれた方は、誰がやるのが現実的だと思いますか?
 かっては山村民が行っていたことを過疎化した現在、都市住民も無関係ではいら
れないと思いますが、専門の技術と体力が必要とされる訳で、草刈十字軍のような
取り組みが全国化するにはどうしたらよいのでしょうか?


草刈りの後 投稿者:松田 幸造  投稿日: 7月18日(火)10時 5分39秒

 鳥のたまごが、きになり、今朝 見に行きました。
そーと ちかずく と、親鳥がいました゜いました、たまごをしっかり
抱いていました。

 草刈りは、したけれど、気になって、気になって、やっと、安心しました。


口論ではなく、議論を 投稿者:松田 幸造  投稿日: 7月17日(月) 8時 1分45秒

 夕べは、今世紀最後の 皆既月食 妻と二人で草刈りした白岩川の土手から見る、
月は、なにか幻想的でした。
 
 さてと、本題ですが、植林はだれが、やるのですか。だれがやるのか、議論している間
災害は、待ってくれますか。そこに災害はしのびよつてきているのですよ。

 大昔洪水があつたので、近くで教育委員会が、遺跡を掘って、室町、鎌倉時代の研究をして
おられるのでは ないんでしょうか。


三河に居ながら 投稿者:大願  投稿日: 7月17日(月) 3時25分04秒

12日〜14日の日程を確認していたのですが、業務の都合でどうしても抜け出せなくて
聴聞できませんでした。碧海教会のお座は時間と場所を三河別院に電話して確認して、出かける
つもりでいたのですが…。
京都では、まこさん同様、あまりお話を聞く機会が無くて残念でしたので、安城でお話を聞かせて
頂こうと思っていたのに…。

ところで、京都のシンポで出た、「儀式」の強要について、考えさせられました。
君が代、日の丸を儀式で強要されるのはイヤなのに、公開講座や法要では、真宗宗歌や
恩徳讃や正信偈を、知らず知らずのうちに半ば強要していました。
儀式に参加しない人、したくない人の気持ちを、私は忘れていました。
その他にも、気付いていないことを多く聞かせて頂きました。
あの、シンポは時間延長したけれど、やっぱり時間不足の感がありました。
パネラーと聴衆の意見交換の時間がすくなかったと思います。


ご指名ですので 投稿者:まこ  投稿日:07月17日(月)00時28分54秒

 この掲示板での議論がふさわしくなければ削除してください。
 草刈十字軍のことは初期の頃から知っています。山を守るために大事な運動だと
思っています。除草剤を使わないのは環境への配慮からだと思います。人間教育の
意味ももちろん重要だとは思います。
 人工のダム建設に反対して、対案として山を守るための植林と手入れの重要性は
提案しています。「自然のダム」の方が人工のダムよりはるかに優れていることは
いうまでもないことです。
 少なくとも日本の人工のダムでは堆砂問題は解決がつかない大問題でして、よい
解決策があれば教えてください。出し平ダム、宇奈月ダムの排砂ゲートは愚の骨頂
です。


まこさんへ 投稿者:松田 幸造  投稿日:07月16日(日)13時23分40秒

 今日朝五時から、近くの上条工業団地の草刈りです。
田圃を一三兆 市へ提供 しましたが、市の誘致が進まず、地元で、毎年草刈りをしています。
汗が、吹き出ますよ。市から、多少お金は、でますが、金でこんな、きつい、作業できると、思いますか。草刈り十字軍とゆうの、ご存じですか、息子のいってる、県立大学の先生が、先頭に
たって、ヘリコプターでね、散布すれば、人では、いらないのですょ。なぜ、てでかるのですか。

 なぜ、若者が、このつらい、作業に従事できるのですか。全人類を救うと、ゆう、至誠心、なんですよ。お金では、全人類は、すくえないのですよ。救うのは、誠の心、お念仏しかないのです。

 ダム建設にね、はんたいすることより、木を一本、山に植えることでは、ないのでしょうか。
 私の意見が、間違っていれば、ご指摘ください。宜しく、お願いしますね。


碧海教会 投稿者:らくりん  投稿日:07月16日(日)08時12分48秒

安城市の碧海(へきかい)教会は、地域の寺院やご門徒が共同運営されている道場で、
かなり年季の入った、趣のある施設でした。
庭や境内も年輪を感じさせますし、
お御堂の柱、壁、天井のシミや傷跡の一つひとつに、南無阿弥陀仏の声が染み込んでいる
かのような雰囲気で、ただそこに居るだけで落ち着いた気分になれるようでした。
せっかちな私でも、ゆったりとした気持ちでお話しさせていただくことができました。
こういう雰囲気を醸し出す場所というのは本当に少なくなりました。
貴重なところだと思います。
ちなみに、「碧海」(あおみどりの海)というのは、昔そのあたりは
「碧海郡」と呼ばれていたところから付けられたそうです。この名前もいいですね。
安城の皆さん、大切にして下さい。


お疲れ様でした 投稿者:まこ  投稿日:07月15日(土)00時35分42秒

 12も14もホームヘルパー研修とぶつかって、三河方面にまではとても行けません
でした。先日の非戦平和行動では顔をあわせただけで、まともに話していませんし、で
きれば生の話も聞いてみたいのですが、機会がありません。
 いずれ大垣教区(岐阜教区は東西ともあまり期待できそうにない)あたりでお話を伺
う機会があるとありがたいなと思っています。4巻は先月末の池田勇諦氏の聖典学習会
の折に大垣教務所で購入してきて、住職の父が先に読み終わって、私の枕元に積読状態
で、申し訳ないです。


お帰りなさい 投稿者:ootubo  投稿日:07月14日(金)23時42分00秒

 12日は豊橋に行きたかったのですが、
過疎計画のヒアリングで県庁でした。
 期待の14日は午前午後併せて4時間たっぷりと聴聞させていただきました。
 主催者発表は約180名、お弁当の数だそうです。
 内約150名くらいがご老人でした。
 講題は「なぜ南無阿弥陀仏なのか」、親鸞の教行信証を読み解くに関係する箇所も多くあった
お話でした。
 会場は安城市の碧海教会の本堂で、畳に座って聞かせていただきましたが、
普段は机にイスというスタイルなので、講師には申し訳ないのですが、
聴聞する側も暑さも重なり疲れてしまいました。
 一番前の席でしたので、お話のじゃまにならないよう視線を合わせないようにしていた
のですが、時々視線が合ってしまい、たった1秒くらいだったのですが、妙に長く感じました。
 大変失礼しました。
 らくりんさんとはいつでも電脳上でお話しできるので、ご挨拶もせずに失礼しましたが、
生でお聞きするのは、著書や電脳上とも違ってまた格別の趣がありました。
 またお会いできるのを楽しみしています。
 お疲れさまでした。


帰ってきました 投稿者:らくりん  投稿日:07月14日(金)22時41分33秒

豊橋〜安城から帰ってきました。

Ootuboさん、ご挨拶もしないまま失礼いたしました。
話している間は、目が合うと笑っちゃいそうなので、視線を逸していました。
あの位置は……。

その他にも、この掲示板のROM者も何人かおられました。
皆さん
ありがとうございました。

続きはまた回復してから。


水はタダではない 投稿者:まこ  投稿日:07月14日(金)00時58分29秒

 水はタダと思っているのは幻想にすぎません。無謀で無駄なダム開発による水源開発
費用の負担は膨大なものになっていて、そのツケがすでに各地の水道料金の値上げと自
治体財政からの持ち出しということになっています。
 出し平ダム以上に、宇奈月ダムの抱える問題は大きく、とても手放しでは礼賛できま
せん。ダム神話から解放されないと、自然破壊とダム災害の危険を増大させるだけのこ
とにしかなりません。
 子孫にツケを回さないためにも、「ダムの時代は終わった」という欧米の経験に学ぶ
べき時だと思います。
 ところで、なぜこの掲示板でダムが問題になっているのでしょう? 日本最大規模の
徳山ダムに関しては別掲のホームページをご覧ください。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1214/


県のダム 投稿者:松田 幸子  投稿日:07月13日(木)04時37分08秒

 宇奈月ダム、が、30年で完成して、これから、本番、ですよ、関西電力の、石碑の前で、妻と、別々に
取った写真、自然な笑顔、そのものですよ。

 日本一の急流、洪水の歴史、番取り太鼓、白岩川の決壊、そんな、昔じゃないよね。
白岩川が、**したら、まず、老人ホームのお年寄り、避難しなければ、なりませぬ。

 おばすてやまに捨てた、両親が、−−−−、

 あくまで、農業用水のため池が、ベースですよ。でも、現実は、工業用水のほうが、多いのですね。

 それと、水が只で、飲めるのは、日本ぐらいかな、とくに、富山の水は、おいしい。

 じーちゃんが、海軍でね、船では、一杯の水がどんなに、貴重なものか、。

 富山では、日本海一の避難場所を建設省の地面で、今作りつつありますよ。

 田圃の近くでは、此の炎天下に、教育委員会の発掘調査が、行われていますよ。戦国室町時代
の生活、男のロマンなんですよ。

 私はね、田圃に志水を引き蛍と友に、稲の成長を見守り続けたいだけなのですよ。
グリーンベルト広大な土地を緑にして、悪い目を休めたいだけなのですよ。

 どうか、どうか、田圃の草取り、欲と二人づれなら、そんなに、腰の痛みもなんのその、子供へ、送る米なのですよ。

 そうそう、米一粒も、布一端も、自分一人では、作れないのです。 

                              大和通信 社長の手紙から
 松田、幸子 作品集より、、。。


演劇 再会 投稿者:松田 幸子  投稿日:07月12日(水)12時07分47秒

 私の勤めた会社の社長からの手紙 インパール作戦では、大勢の人が亡くなりました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 社長は、話も、通じない、青年を雇用されました。みんなは、役に立たないと、口々にいいました。社長の心境を考えると−−−−−。

 しかし、青年は、わからないまま、只 朝早くきて、わかることから、一生懸命、仕事をしました。亡き社長には、戦後は、終わっては、いない。

 私は、つらいときは、この手紙を何回も、読み返しました。社長の真意は、と、真剣に考えました。


明日から留守にします。 投稿者:らくりん  投稿日:07月11日(火)14時15分10秒

明朝から2泊3日、豊橋〜安城へ出かけます。

Vitaさん、また管理人代行よろしくお願いします(12日の朝から14日いっぱい)。

留守中、「こうるさい」管理人の目を気にせずに、この掲示板を活用して
存分にお楽しみ下さい。


お留守居役様さん 投稿者:らくりん  投稿日:07月11日(火)09時18分36秒

連れ合いの実家が府中だったり、学生時代の友人たちとの付き合いがけっこう続いて
いたりで、東京へは、プライベートで年に1〜2度は行く機会はあるのですが、
今のところ、聞法会や講義のために行く予定はありません。

1ヶ月ほど前に、お声をかけていただいたことがあるのですが、
ちょっと都合がつきそうもなかったのでご容赦願いました。

仕事で東京方面に最接近したのは、信州松本までです。
東京の方とは縁が薄いみたいです。


「自己」と「非自己」の識別 投稿者:らくりん  投稿日:07月10日(月)18時25分20秒

京都行きの前に、多田富雄『生命の意味論』新潮社を読み終えました。
以前同著者の『免疫の意味論』を読んで、妙に惹かれるものがあり、
マークしている人の一人です。

今回も慣れない記号や用語に苦労しながらも、最後まで読みました。

免疫の話を読んでいると、私たちの身体の中で日夜繰り返されている「自己」と「非
自己」の識別の仕組みがとても面白い。ちょっと自分の言葉で説明できるほど私の中
で熟(こな)れていないので、内容には触れません。
もう少し熟成させてから、言葉にしていけないものかなあ、と思っています。


らくりんさんへ 投稿者:松田 幸子  投稿日:07月10日(月)10時36分58秒

 たつた一言が
       人の心を傷つける
 たつた一言が
       人の心を暖める。


雑感 投稿者:らくりん  投稿日:07月10日(月)09時09分39秒

私たち(人間)は、言葉によって傷つくこともあり、
言葉によって喜びをもたらされることもできます。

言葉なんていう、こんないい加減な道具なのに
人を生かしも殺しもする。だからこそ、大事にしなければ、と思います。

言葉だけが〈頼り〉のネット世界では、言葉の意味伝達力を信頼しなければ
徒労感だけが残ってしまいます。
言葉だけしか手段がないという緊張には、
けっこう神経をすり減らされるものがあります。
もう少し、気軽に楽しめればいいのかもしれませんが、
性分なのか、なかなかそうもいかないみたいです。


しんさん、お疲れ様でした。裏方さんのお仕事ご苦労様でした。
しんさんは、東西を結ぶという意味では得がたい存在であり、
今後ますます貴重な意味を持ってくる存在になるかもしれないなぁ〜、
などと思いながら、眺めておりました。

ああいう場は、言葉を交わさなくても、
その場に一緒にいるだけで何かを感じることができます。
その○○感がよくてやみつきになったりもします。
やっぱ臨場(ライブ)の力ですかね。

逆にその○○感が、大きな勘違いを生み出してしまったりもします。
臨場(ライブ)は、人をおし流していく力も持っています。

(○○にはどうにも適当な言葉が見つかりませんし、人によっても違う気がしますので
読んで下さる人の想像力と創造力にお任せします)


東西共同行動一考 投稿者:しん  投稿日:07月09日(日)22時17分54秒

本日、京都から帰ってきました。主催者発表200名のデモ行進でした。
私はこういうものに初めて出たので、いままでの経緯を知っておられる
方などは感慨深いものがあったのかも知れませんね。はじめの一歩かも
知れませんが、これからの大きな歩みの一歩となることを期待しますし、
担っていかないといけないなと思いました。
いろいろな考え方の違いを越えて、共闘して行くべきか、統一見解をもって
行動して行くべきか、仏教を前面に出すべきなのか、民主主義、憲法護持を
前面に出すべきなのか、考えさせられました。
反靖国ということについて、問題意識が薄いまま、おまつり的ノリで参加して
いたということ、恥ずかしい気持ちがしました。
今回の参加を機に、自分の中で、デモとは何か、表現するとはどういうことなのか、
など考えていきたいと思いました。
参加された方々、カンパされた方々、お疲れさまでした。
かったです。


ありがとう ございます。 投稿者:松田 幸子  投稿日:07月09日(日)04時23分04秒

 そう言って頂けると、ありがたいです。でも最近、お陰様とか、感謝とか、あまり聞かれないのが、残念です。当たり前の世界に、麻痺しているのですか。心のそこから喜びなければ、何のため此の世にうまれたのですか。?


松田幸子さん、 投稿者:らくりん  投稿日:07月07日(金)15時03分48秒

他では、そうはいかないかも知れませんが、ここでは、気になさらないでください。

言葉なんて、
誤字や脱字があっても、伝わる時には伝わりますし、

逆に、
誤字・脱字が一切なくても、伝わらない時には伝わらないし、

どんなに言葉を尽くしても、どうにも伝わらないこともあります。

私も、松田幸子さんほどではありませんが、脱字・誤字の名人です。

誤解も正解もいろんなことを取り混ぜて成り立っているのが、
コミュニケーションだろうと思います。特に、ネット上では。

だから、とっても疲れちゃいますけどね。




誤字、脱字 ごめんなさい。 投稿者:松田 幸子  投稿日:07月07日(金)10時40分47秒

 いつも、いっているですが、ゆうことを、聞かないのです。

話変わって
 中国の雑技団おもしろかった。隣に韓国の夫婦いましたよ。


しんさん、ようこそ。 投稿者:らくりん  投稿日:07月07日(金)06時51分42秒

私は、8日の朝家を出て、全日程参加の予定です。


東西本願寺を結ぶ共同行動 投稿者:しん  投稿日:07月06日(木)22時17分29秒

に出席するため、あす京都へ出ます。下準備から何か手伝うつもりです。
これをお読み皆さんも、メディア等で注目してみて下さい。
らくりんさんは、両日ご参加ですか?


それ以前の問題として 投稿者:傍観者  投稿日:07月06日(木)02時33分50秒

幸造さん、誤字、脱字 ひどすぎ〜 


どこでも、ドア 投稿者:松田 幸子  投稿日:07月06日(木)02時32分27秒

 最近、どらえもん の紙袋 買いました。
ちなみに、一〇〇円です。
みなさん もどうぞ、 高松ですよ。


法のきけぬ人 投稿者:幸造  投稿日:07月04日(火)06時16分46秒

 にわ 御念仏の話は、しませんよ。 ピエロになり島します。。
安い頭、軽く、下げますよ。

 ども ども のひと いたでしょ。


東奔西走 投稿者:お留守居役様  投稿日:07月04日(火)00時46分01秒

らくりんさんのご予定を拝見して、
東京に一番接近するのが岡崎で、
もうちょい、なんて勝手に思ってます。
会わぬが花ということもありますし、
不勉強なのでお会いできないということもありますし。
けど、
勉強してしまったらお会いする必要がなくなる
などということはあり得ないですけど、
微妙な心境です。


7月8日東西 共同行動 投稿者:幸造 幸子  投稿日:07月03日(月)14時25分10秒

 応援します、フレー フレー フレー 。


お留守居役様さん 投稿者:らくりん  投稿日:07月03日(月)10時01分34秒

“ホームラン王”ありがとうございます。

なんのこっちゃ。
皆さんがわからない「暗号文」ですみません。


忙しそうなことはカッコイイ? 投稿者:らくりん  投稿日:07月03日(月)09時44分10秒

昨日、拙寺の永代経法要・聞法会が終わって、ちょっと一息気分です。

しかし、ここのところ不本意ながら、
日程表に追われるような生活が続いています。

私自身のことは自分で種を蒔いた結果という面がありますからいたしかたがありませ
んから、
それはともかくとして、
どうして娑婆中がこんなにあせくらしく(忙しそうにうごきまわる)なったんだろう。

昔は、道端の石に腰掛けて、半日でもぼーっとすわっているようなじいちゃんばあち
ゃんがいた(ほんとはいなかったのかもしれないけれど、村の中にそんなのんびりし
た雰囲気が漂っていた)ような気がします。
忙しい時間帯とか時期はあっても、逆にけっこう時間の配分に融通がきいて、誰でも
彼でもが、年がら年中動き回ってあせくらしいというようなことはなかったのではな
いですか。

家事でも農事でも、工場でも会社でも「作業」を早く簡単に片付ける道具が増えて、
「作業」に取られる時間は確実に減ったはずなのに、

便利な道具と情報伝達手段と移動手段の発達は、「ゆとり」をもたらしたのではなく、
「空白時間強迫症」とでも言わなければならないような状態を加速度的に産みだし続
けているのではないか。まるで「何もしないこと」が犯罪的「行為」(?)であるかの
ように、あるいは「時間をうめる」ことにエネルギーを費やすことが、現代人の証し
であるかのように。

「暇であること」自体が嫌なのか、
「暇そうにしている」自分自身が嫌なのが、
「暇そうにしていると見られる」ことのが嫌なのか、

私の願望としては、
寺の住職はいつも「暇そうにしているように見られていたい」というのがあります。
坊主なら暇そうだから、ちょっと暇つぶしの相手でもしてやろうか、
とか、いつ行っても相談に乗ってもらえる、
というような「目」で見られていたいのですが、
現実はそれとは逆行しており、
残念ながら
どこへ行っても、相手に「お忙しいのに、すみません」
と気を遣わせている始末です。

そんなことを思いながらも、どうも人間が練れていないのか
人様から「お前暇そうやな〜」と言われたり、そんな目で見られると、
心中に穏やかならぬ気分が生じるのも事実です。
まことにやっかいなもんです。

明日は越後で、これからその準備です。


一区切り 投稿者:幸造  投稿日:07月03日(月)06時04分56秒

 パソコン 生きてるやつ3台
農業用パソコン、死んでるやつ 1台

 計                 4台  です。

 息子は、疲れて今日は、休みです。。

 私のパソコンも、利府烈士””


湿木・乾薪 投稿者:お留守居役様  投稿日:07月02日(日)16時56分32秒

らくりんさんから送っていただいた抜刷

藤場俊基著
『末法灯明記』の引用と親鸞

さっそく読みました。
本論からちょっとはずれるのですが、感心したのは、
『安楽集』にある比喩です。

>湿える木を攅(き)りて、以て火を求めんに、火得べからず、
>時に非ざるが故に。
>もし乾(かれ)たる薪を折りて、以て水を覓(もと)むるに、
>水得べからず、智なきが如きの故に
(『真宗聖典』358頁)

湿った木から火を求めても得られないのは、時節ではないからだ。
乾いた薪から水を探しても得られないのは、智恵がないからだ。

「湿木に火を求める」のも「乾薪に水を覓(もと)める」のも
ともに不可能なことの比喩ですが、
湿った木も時が経てば、乾燥して燃えるようになる。
その逆に乾燥した薪は、時が経っても水を生じることはない。
つまり、この対句は同一の句を並べて対比ししているのではなく、
時の不可逆性を言うもののようです。
時を失してはならない、と。

かなり、ひねった警句だと思います。
湿った木も乾燥すると薪になる。薪はもう湿っていない、
という意味で、
湿った木に火はない、乾いた薪に水はないといっても、
同じように非存在を言う「兎の角」とは違うわけです。

「湿った木」と言って「湿った薪」とは言わないなど、
よく考えられていると思いました。


確認 投稿者:松田 幸子  投稿日:07月01日(土)05時21分26秒

 曽我先生ですね。明治の親鸞と言われた、先生の*****先生です。
でも、さちこは、あきガラス先生のほうが、好きなのですよ。


??? 投稿者:大悲  投稿日:07月01日(土)03時10分53秒

下の書き込みで、松田幸子さんが、詳しいことは、ウチのHPを見て下さい
と書いておられますが、管理人は何のことをおっしゃっているのか解りかねます。
らくりんさんが、高森顕徹さんのことをおっしゃって、それに続くカキコなので
うちのHPに親鸞会についての記述があるような誤解があっては困りますので
確認させてください。

曽我先生・長谷川先生のお言葉はありますが、高森氏のものは一切ございません


西から東へお嫁にきました。 投稿者:松田 幸子  投稿日:07月01日(土)01時31分31秒

 西の門徒から、東の門徒へ、お嫁にきました。
東も西もわかりません。宜しくお願いします。
 
 今日の朝日は木があり、そばに人が立っていました。
人が朝日が登るにつれ、だんだん、消えていき、木がだんだん、おおきく育だって生きました。

 夕日はね、そばに 文のモジが、だんだん 消えていくように、見えましたよ。

 本当に、きれいでしたよ。


7月8・9日 投稿者:まこ  投稿日:07月01日(土)01時06分33秒

 らくりんさんの日程はつまってらして大変ですが、そんな時間をさいての東西
本願寺の平和行動への参加日程は私と一致するのでお会いできることを楽しみに
しています。それまでに『読み解く』を少しでも読み進まないといけないと思う
ものの、6・7月に思うところあって参加している町が主催のホームヘルパー2
級講座の講義はとにかく疲れて、積読状態です。今も目の前にはあるのですけど
ね。そんな訳で『読み解く』ではない話題になるだろうことをあらかじめお断り
しておきます。


アメニモマケズ 投稿者:お留守居役様  投稿日:06月30日(金)21時04分55秒

東京は、雨、風の強い日が続いたかと思うと
蒸し暑い日になったりとか、
さらには地震までもとか、不穏な日々が続いてます。
地震は、三宅島から伊豆地方にかけてのことですが、
東京でも震度3クラスの地震がありました。
1年遅れのハルマゲドンかなどと埒もないことを考えていましたところ、
らくりんさんからお約束の「増補」分が送られてきました。
しかも、ご丁寧なお手紙と共に「豪華おまけ」付きです。
それは、まさに親鸞教学の「抜刷」(←業界用語)
『末法灯明記』の引用と親鸞
でした。
思えば、築地本願寺から本郷東大前の仏教書専門店や
神保町の古書店を探しあぐねたものです。

深く感謝いたしまして、
悲喜の涙を抑えて由来の縁を記しました。


電話 投稿者:松田 幸子  投稿日:06月30日(金)07時04分49秒

 吉田興業の 黒部出張所 から、師匠の寺へ電話しました。
25年ぶりに、笑って、いいじゃないか、と、言われましたよ。
 でもね、その時は、真剣だったんです。
今だから、笑えるのです。それまでの、煩悶 口で言い著われませんよ。


詳しいことは? 投稿者:松田 幸子  投稿日:06月30日(金)02時46分53秒

 さんぽみち ひろまえ ホームページ (全面改装中)見てもらって下さい。
富山 の がっつ苑 で のべられた、言葉,見てください。

 これくらいで、かんべんしてください。ごめんなさい。
それと、飛騨の全盲の いのちの 旅路 の曲 が、私の人生そのものです。


c4c@4 投稿者:松田 幸子  投稿日:06月30日(金)02時31分43秒

 創造に、おまかせしますね。


松田幸子さん 投稿者:らくりん  投稿日:06月29日(木)19時50分46秒

いつも、関心を寄せて下さいましてありがとうございます。

突然、高森顕徹さんのことが出てきましたが、
どういう脈絡で出てきたのかはかりかねておりまして、
どうリアクションしたものか……?

>思い出しますね、20年間、念仏一途 富山で布教、でも、あまりできが良くあり
>ませんでしたよ、破門されました。 今は、謹慎中 の身ですよ。
これは、どなたのことなのでしょうか……??
高森さんが本願寺派から破門されたことなのか……?
それとも、もしかして、
松田幸子さんが親鸞会から「破門」されたということかしら?

>機会あつたら、合いたいですね。共にあゆまして、貰いましょうね。
これはよくわかります。


らくりんさんへ 投稿者:松田 幸子  投稿日:06月29日(木)06時04分44秒

 ご活躍ですね。
 さうさうつ、私の師匠は、親鸞会の、高森先生と、大學で、同期と、聞いて、おりますよ。
思い出しますね、20年間、念仏一途 富山で布教、でも、あまりできが良くありませんでしたよ、破門されました。 今は、謹慎中 の身ですよ。

 機会あつたら、合いたいですね。共にあゆまして、貰いましょうね。


今後の予定 投稿者:らくりん  投稿日:06月27日(火)14時07分54秒

私が出向く予定の、どなたでも参加できる会・行事予定を記します。
よろしかったら、ご参加下さい。

常讃寺 永代祠堂経法要・聞法会
  6月30日(金) 1時30分   法話:らくりん
  7月 1日(土) 1時30分   法話:拙寺 住職
  7月 2日(日) 10時     法話:佐野顕明 さん(加賀市 光闡坊)
           1時30分       同 上

7月1日(土)美川の会、会合はありますが講義はありません。

7月4日(火)午後2時〜5時/午後7時〜9時
     上越市浄泉寺、普等学舎(ふとうがくしゃ):化身土巻講義

7月8日(土)東西本願寺を結ぶ共同行動 午後1時30分東本願寺山門前集合
       午後2時枳殻邸にて、平和コンサート
       午後4時東本願寺山門前から 平和行進出発 
       市内巡回後 西本願寺前にて解散(午後6時頃)
7月9日(日)午前10時〜12時 シンポジウム
       西本願寺山門向い 同朋センター

7月12日(水)午後2時 岡崎教区第4組 東三河夏期講習(豊橋別院)
7月14日(金)午前10時/午後1時30分 岡崎教区17組 夏期講座(場所?)

7月16日(日)午前10時 常讃寺 化身土巻講義

7月24〜26日 午前6時〜/午後1時〜 久留米教区久留米組 安居

7月27日(木)午後7時30分 金沢 六道会 学習会:化身土巻講読

7月28日(金)午後8時 小松市勝光寺 小松聞響の会(仮称)聞法・座談会

7月30日(日)午後7時 常讃寺 心に刻む金沢集会
       事前学習会 ビデオ映画「悲情城話」(台湾)鑑賞

8月2日(水)午前6時 大聖寺教務所 暁天講座

8月5日(土)午後8時 美川の会 信巻講義

8月11日(金)午後6時 金沢市中央公民館 「心に刻む金沢集会」


『教行信証』の「仕掛け」 投稿者:らくりん  投稿日:06月27日(火)09時58分06秒

三吉さん、ご理解いただけたようで、

『教行信証』を、訓み下した文章だけでは、なかなかわからないことがたくさん
あります。

普段は、私も真宗聖典で見ておりますが、
『教行信証』は一応漢文作品ですから、少しでも不可解な点があると、必ず坂東本の
写真版で確認し、同時に、親鸞の『教行信証』以外の漢文テキストを確認するように
しています。私の場合、基本的には字句の出入りは大正蔵、訓読については『浄土宗
全書』を用いています。チェックしたことはありませんが、感触としてはこの二つで
全引文の80%以上はカバーできるのではないかと思います。

漢文というのは、和文よりも文法がきちんとしていますから、論理のあいまいさが入
り込む余地が少ない。そして、親鸞はしばしば原則を破っているわけですから、その
変則さに着目していくとずいぶんいろいろなことが読み取れるように思います。
その変則さを、「物知らずの非常識」とか「勘違い、写し間違い」と見るか、「メッ
セージが込められている注意喚起である」と見るかでは、えらい違いになります。
親鸞は、「こうしておけば必ず、〈あれなんか変だぞ〉と気づいてくれるはずだ」
というような、読者の心理きをかなり計算しながらこの書物を書いている、と私には
見えます。
読者の心理変動ばかりでなく、引文の展開やメッセージを伝えるための論理構成も驚
くばかりに緻密に練り上げられている、と私は感じています。
そして、この書の読者として想定されているのは、当時としてもかなり高度な仏教的
素養を身につけた人であると思われます。漢文の教養が前提されているのは言うまで
もありません。
そうした「前提」とも言うべき素養や教養をまったく欠いている現代人である私たち
が、この書を読もうとしたら、その部分を何かで補わないと読めるはずがないのでは
ないかと思います。
私は、そのように感じてから、坂東本と大正蔵や『浄土宗全書』の字・句をそれこそ
一字ずつ見比べるという、退屈窮まりない、しかしながら神経をすり減らすような作
業をやってきました。全体を隅々まで見終わってはいませんし、細かいことを一々憶
えてはいませから、今でも、重大なことを口にする前にはその手順を省略することは
ありません。ここは何か「仕掛け」があるなという匂いをかぎわける嗅覚のようなも
のはかなり発達してきたように思います。


Vitaさんへ 投稿者:松田 幸子  投稿日:06月27日(火)06時40分32秒

 言葉にチカラ あり、ありがたい、子とです。
でも、らく輪さん、の古都羽 の方が、ありがたいの!、ごめんなさい。

 親は、子どもからの、手紙がありがたいのです。
           ハガキ
 私も、子供からの,手紙(請求書)初めてきたとき、観様な、ものでした。
ありがたいような、ありがたくないような。

ま いいかー。


ありがとうございます。 投稿者:三吉  投稿日:06月27日(火)00時09分36秒

解かりやすい解説ありがとうございます。らくりんさん。

>ですから、原則通り訓めば、『浄土宗全書』の訓みが妥当だろうと思います。

なるほど。

>それを、親鸞は・・・「あに」を「同じ」にかけるのではなく「求める」にかけています。

そうだったのか、なるほど。

>したがって、「同じて」に特別な意味を持たせようとしたと考えるよりも反語の使い方を変えた
>結果浮いてしまった「同」の字を処理するための苦肉の策として、このような訓み方になったの
>ではないかと思います。

眼から鱗の想いです。謎が氷解しました。

>結論として、この「あに……求めんや」の繰り返しは、「求めることができようか、いやできな
>い」ということを強調したいためだろうと思います。
>「無念や、無生や、(法性)法身や、解脱を求めても無駄・無意味だから、念仏に徹しなさい」
>と。

なるほど、この部分の意味がすっきりします。この引用がここに配当されている意味が見えてきた
様に思います。
ここは、完璧に読めてませんでした。
というよりほとんどの箇所がかように読めてないのでしょうね、少し愕然としております。
しかし、私はなんというひどい読者なんだろうか、お恥ずかしい限りです。

>ですから「座禅して、ただ当に念仏すべし」であって、「ただ当に座禅して、念仏すべし」では
>ありません。

重ね重ねありがとうございます。そうですね、ここは真宗聖典でもそうなってます。
うーん、教行信証を如何にいい加減にしか見てないかの証左ですね。
まいった・・・。ちょっと穴があったら入りたいのですが、開き直ることにします。


三吉さんへ、つづき 投稿者:らくりん  投稿日:06月26日(月)13時42分25秒


それを、親鸞は
  あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。
  相好を離れて法身を求めんや。文を離れて解脱を求めんや。
と、「あに」を「同じ」にかけるのではなく「求める」にかけています。
しかも、反語に訓むのは一度だけではなく、4回出て来る「求」のすべてに「ムヤ」と
訓むべく送っています。つまり、すべてを反語に訓ませようとする意図が明白です。
一つしかない「豈に」を、このような形で複数回反語に使って訓む訓み方が、
漢文法的に可能なのかどうかは、私は知りません。(おそらく無理なのではないか)

おそらく親鸞は、無理してでも、この文章を「求め」を反語に訓ませようとする意図が
あったのではないかと思います。

「離念」を、後の三節と同じ形で「念を離れて」と「分かち」にしなかったのは、
「同じ」を反語に訓みたくなかったためにそのような形に訓む必要が生じたのだろう
と思います。
このように苦心して4回反語表現を取ったわけですから、この4句は同列に見ても差
し支えないと思います。だとすると、4句の前後の関係は
  離念に同じて←→無念を求める、ことができようか
  生を離れて ←→無生を求める、ことができようか
  相好を離れて←→法身を求める、ことができようか
  文を離れて ←→解脱を求める、ことができようか
となります。
 最初の句は、本来ならやはり「念を離れて、無念を求めんや」である方が通りが
いいわけですが、その形を崩してまでも、「同じからんや」とは訓みたくなかったと
考えざるを得ません。
したがって、「同じて」に特別な意味を持たせようとしたと考えるよりも反語の
使い方を変えた結果浮いてしまった「同」の字を処理するための苦肉の策として、
このような訓み方になったのではないかと思います。

>一般的な訳では「無念を求めるには、念を離れてはいけない」という意味になりま
>す。
とおっしゃっていますが、今の場合は「あに離れんや」ではなく、反語はあくまで
「求め」にかかって「あに求めんや」ですから、「求めることができない」と言うた
めの訓み方で、それを「無念を求めるには、念を離れてはいけない」とか「生を離れ
たら無念を得られる」と訓むのはかなり穿ちすぎで、一般的な解釈とは言えないと思
います。

結論として、この「あに……求めんや」の繰り返しは、「求めることができようか、
いやできない」ということを強調したいためだろうと思います。
「無念や、無生や、(法性)法身や、解脱を求めても無駄・無意味だから、
念仏に徹しなさい」と。

ちなみに「座禅但当念佛」ですから「当」の「まに〜すべし」の再読は「念仏」のみ
にかかります。ですから「座禅して、ただ当に念仏すべし」であって、「ただ当に座
禅して、念仏すべし」ではありません。


三吉さんへ、 投稿者:らくりん  投稿日:06月26日(月)13時20分13秒

かなりややこしい説明になるかもしれませんが、よく読んで下さい。
この部分は、おそらく親鸞の独自の訓みになっている部分であろうと私は考えています。

まず、坂東本を読む以前の問題として、坂東本の漢文と、大正蔵のテキストではかな
り字句の出入りがあります。坂東本とは異なっている部分を併記します。

(坂東本)然念佛三昧是真无上深妙門矣
(大正蔵)          【禅】門矣
  ※大正蔵は「禅門」→坂東本は「門」

(坂東本)以彌陀法王四十八願名号焉佛事願力度衆生(乃至)
(大正蔵)          【爲】
  ※大正蔵は「爲」→坂東本は「焉」

(坂東本)如來常於三昧海中擧細綿乎 謂父王曰 王今座禪但當念佛

(大正蔵)         【網】
  ※大正蔵は「網綿」(指の間の水掻きのような膜=仏の三十二相の第五)
   →坂東本は「細綿」

(坂東本)豈同離念求乎无念 離生求於无生乎 離相好求乎法身 離文 求 解脱
(大正蔵)             【生  離】      離文字求乎解脱
  ※「乎」の字の位置が違う。大正蔵は「文字」→坂東本「文」

おそらく、大正蔵のテキスト方が本来なのではないかと思います。
これらの異同が、親鸞が意図的に改変した結果なのか、見たテキストが粗雑なもので
あったためなどの、不可抗力に由来するのかは確定しかねます。

お尋ねの問題は、
反語の「豈に」が「同じ」にかかると読むか「求める」にかかると読むかという問題
に関係してくると思います。
「豈に〜に同じからんや」(どうして同じであろうか、いや同じであるはずがない)か
「豈に〜を求めんや」(どうして求められようか、いや求められるはずがない)
ですね。

それで、漢文の当該部分を見ると「豈同」と、「豈に」は「同」の直前にあります。
こういう場合は「豈に」は直後の動詞「同」にかかり、「豈に同じからんや」と訓む
のが普通です。
私が、『教行信証』の引文の訓み方を検討する際に、親鸞の変則的な訓み方をチェッ
クするための対校本として利用している『浄土宗全書』では、この部分を次のように
訓むべく加点してあります。
  王今座禅してまさに念仏すべし。豈に念を離れて無念を求め、生を離れて無生を
  求め、相好を離れて法身を求め、文字を離れて解脱を求むるに同じからんや。
  [王よ、あなたは座禅して、念仏しなさい。そうすることは、念を離れて無念を求
  めたり、……することなどと同じであろうか、いや同じではない。(念仏の功徳は
  それらとは比べものならないくらすぐれている)]
つまり、「豈」の字は一つだけしかありません。そしてその字が反語として使われる
のは、本来は「同」対して一度だけであると考えるべきでしょう。ですから、原則通
り訓めば、『浄土宗全書』の訓みが妥当だろうと思います。


らくりんさん、ちょっと質問です。 投稿者:三吉  投稿日:06月26日(月)00時37分21秒

聖典P178の「あに離念に同じて無念を求めんや。」との訳について某所で議論しているのですが
一般的にはここを「どうして念を離れて無念を求めることができるだろうか(できはしない)」と
訳するらしいのですが、私の読みでは「どうして離念に賛成して無念を求めるのかできはしない」
というもの。一般的な読みと180度意味が変わってきます。
ポイントは一般的な読みは「離念」だけを「念を離れて」と読み「無念」は名詞的に読む点。
「同じて」の訳が「賛成して」ではなく、「事を共にする」と訳するらしい。

一般的な訳では「無念を求めるには、念を離れてはいけない」という意味になります。
私の読みでは「離念を求める心で同時に無念を求めるのはおかしい」という意味になります。
「離念というのは、有念=囚われる心を離れようとする努力する姿勢でしょう。その姿勢もまた、
念であるので、そういう想いがあるうちは無念はわからないということでしょう」と解してます
一般的な意味では「無念という囚われない心を得るためには、自分の様々に起こってくる妄念から
目を逸らしてはいけない」という意味になるのかな・・・。

以下は確かに「生を離れて」「相好を離れて」「文を離れて」となってますし、その関連でいけば
「念を離れて」と読みのはわかりますが、ここだけが「念を離れて」となってなく、わざわざ、
「離念に同じて」という表現になってます。ここは修辞的な意味以上はないのでしょうか?
坂東本ではどうなっているのでしょうか?


もうしわけなくて 投稿者:大悲  投稿日:06月24日(土)10時09分57秒

「読み解く」を読ませて頂いて、阿弥陀経の話がこう結びついているのか、と
引き受けておきながら申し訳ない次第です。
私の“がら”ですが「やたらと謝らないでくださいよ」って
ラジオのミキサーさんに言われました。
あれもこれもと欲張って、周りに迷惑かけてます。


増補・言語にとってワカルとはなにか 投稿者:お留守居役様  投稿日:06月24日(土)07時06分42秒

「名詞」がワカルということは、
語り手が「何」を言っているかが解るということで、
「接続助詞」がワカルということは、
語り手が何を言いたいのか解るということになります。

漢文が分かりにくいのは、漢字には「助詞」がないので、
書き手の「意志」が分かりにくいからかと思います。
フリガナによって意味かワカリ
オクリガナによって意志がワカルと言えるかと思います。


言語にとってワカルとはなにか 投稿者:お留守居役様  投稿日:06月24日(土)00時59分33秒

指示表出性→→→→→→→→→→→→→→→→→自己表出性
名詞→代名詞→動詞→形容詞→副詞→助動詞→助詞→感動詞
(吉本隆明「言語にとって美とはなにか」より)

言語の語り手の主観性は、左から右へと強くなります。
その主観性に共感する性格は、理性的な共感から
感性的な共感へと並んでいると言えると思います。
大悲さんの言われる「接続語」ですが、
日本語には純然たる「接続詞」は少なくて、
「副詞」または「助詞」に分類されます。
上の表で言えば、真ん中から右側に位置します。
つまり、「名詞」がワカルということは、
語り手が「何」を言っているかが解るということで、
「接続助詞」がワカルということは、
語り手自身が解るということになります。

AはBである「が」、Cでもある。

ABCが分かることと「が」が分かることとの
違いがワカルでしょうか。


ちょっと一服気分なのです 投稿者:らくりん  投稿日:06月23日(金)12時06分11秒

第X巻の、原稿の見直しの第一回目が終わって、2回目への準備も一段落して、
ちょっと気分的に楽になっていますので、掲示板でちょっと遊んでいます。

二回目の準備というのは、次は、引用文献のチェックをしておこうと思い、
第X巻に出て来る引用文献のコピーを取って整理していました。
第X巻には、ちょっと変な文献をちょこちょこ使っています。
陰陽道関係、『老子』、『論語』などはいつも手元には置いていませんので、
それらをいちいち書庫まで取りにいくのがめんどくさそうですし、
そうしておけば、あとで、校正をお願いする人たちに送ることもできますので、
まとめてコピーをとってしまいました。


大悲さんお久しぶり 投稿者:らくりん  投稿日:06月23日(金)11時42分19秒

何を遠慮なさっているんですか。がらにもなく。
と言いながら大悲さんがどんな「がら」かは知らないのですが。

2年ほど前に
ちょっとした縁があって、阿部謹也さんを交えたシンポジウムの司会の真似事をした
ことがあります。
事前に、阿部さんの情報を仕入れようと2〜3冊かの本を読みました、他の本はあまり
ピンと来るものがなかったのですが、『自分のなかに歴史をよむ』(筑摩書房)は、
いろいろ「なるほど」と思える言葉や内容がありました。
その中に、「解るとはどういうことか」というこについて、自分が上原専禄さんのゼミ
で学んだこととして次のようなことを書いています。

  (上原)先生はいつも学生が報告をしますと、「それでいったい何が解った
  ことになるのですか」と問うのでした。それで私も、いつも何か本をよんだり
  考えたりするときに、それでいったい何が解ったことになるのかと自問するくせ
  が身についてしまったのです。そのように自問してみますと、一見解っている
  ように思われることでも、じつは何も解っていないということが身にしみて感じ
  られるのです。
  「解るということはいったいどういうことか」という点についても、先生がある
  とき、「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」と
  いわれたことがありました。それも私には大きなことばでした。……

最後の部分は林竹二さんの「学ぶこととは変わることである」に通じるものがあります。

そんな準備をして、ご当人にお目にかかったのですが、なかなか素敵な「おじさま」
でした。もう一度どこかでゆっくり話を聞いてみたいと思った人物の一人です。

あまりピンとこなかった2冊とは
『「世間」とは何か』と『「教養」とは何か』いずれも講談社現代新書です。
ピンとこなかったというよりも、私にとっては目新しい内容ではなかった
というようなことかも知れません。


学生時代 投稿者:大悲  投稿日:06月23日(金)09時33分35秒

宮城先生から「わかる」ということは、接続語がわかる事だ、とお聞きした事があります。
・・しかし〜(・・と〜が「しかし」で結ばれる関係になることに納得できる)という事だと。
「…とは、〜ということである」えーー、何でそんな事になるの?私わかんない!
<あ、場所柄もわきまえず、失礼しました


突然ですが 投稿者:らくりん  投稿日:06月22日(木)18時19分49秒


話を聞いている時でも、本を読んでいる時でも「腑に落ちる」とか「得心がいく」
ということがないと気持ちが悪いもんです。

それは、言葉が理解できるとかできないとか、語の意味がわかるとかわからないとか
ということとはまた違う感じです。
もちろん語の意味がわからなかったり、勘違いしていれ場合はそれ以前の話ですが。

どれだけ、筋が通って、正しいように見える話でも
「ああ、こういうことを言いたいんだ」と言える時には、
その意見に賛成できるかどうかということは別にして、
妙に胸のつかえがおりるもんです。

「腑に落ちる」とか「得心がいく」というようなことは、
「この語や文言はどういう意味か」という問いに対する解として得られるのではなく、
「なぜそのことが問題になるのか」という問いに対するとして、いや、
事柄の枠組みが判然とするというようなことではないかと思います。
問題になっていることの意味が判明すると言っても言いかも知れません。

突然すぎて、腑に落ちないかも知れませんね。


調子悪かったみたいです 投稿者:らくりん  投稿日:06月22日(木)08時38分29秒

昨日は、TCUPの調子がおかしかったのか、何回やってもアクセスできませんでした。
ようやく、回復したようです。


どうも、ありがとうございました。 投稿者:Vita  投稿日:06月20日(火)13時05分24秒

異様な盛り上がりを見せた、研修会でした(笑)。
ありがとうございました。また、来年。。。


帰ってきました。 投稿者:らくりん  投稿日:06月20日(火)12時15分29秒

とりあえず。ちょっと一眠りします。


サンサイ ∩ とと(魚)ごち  投稿者:松田 幸子  投稿日:06月20日(火)07時19分21秒

 素朴な、味です。決して華やかではむ、ありません。

 脂肪ぶ鳥は、しません。

  電脳で、都会の徳に、大坂の医師む、に、診断をあをがれマス。
 普段は、近くの保健所の看護婦さん、にTVで、顔色、お話しながら、見てもらいます。

      息子 ∩ 娘 が 都会で 活躍 している ある 老人夫婦宅より。


山田村へ ようこそ 投稿者:松田 幸子  投稿日:06月20日(火)02時22分47秒

 一輪車 、で、む パソコン、運びました。
教師は、都会の大学生です。

 私の浪花電機の友達の故郷です。 女に振られた、あのね。


(無題) 投稿者:Vita  投稿日:06月19日(月)10時00分11秒

>らくりんさん

実態はよく存じませんが、「あの村」です。

そろそろ、出発します。

>松田さん

お気遣い、ありがとうございます。せいぜい、たらふく、呑んできます(笑)


松田 幸子さん 投稿者:らくりん  投稿日:06月19日(月)08時47分59秒

ありがとうございます。
お留守居役様さん、そんなに希望者はいらっしゃらないと思いますので、お気遣いなく。

今日は、これからVitaさんところの教区若手の1泊研修会で、山田村へ出かけます。

今朝思い至ったのですが、
山田村というのは、もしかして村民全員にパソコンを配って、
じいちゃんにもばあちゃんにもインターネットを教えたという、
有名な「あの村」では?


らくりん さんへ 投稿者:松田 幸子  投稿日:06月19日(月)05時18分26秒

 夜は、ゆつくりね。温泉に浸かってきてください。
さるにあったら、宜しくね。
 
 Vita さん、あまり、飲み過ぎないようにね。


業界用語で 投稿者:お留守居役様  投稿日:06月19日(月)00時07分05秒

何というのか忘れてしまいましたが、
畳半畳分くらいの紙に8枚分、裏表で16ページ分印刷して、
これを折り畳んで、3方をカットした物が本の最小単位になります。
ですから、本のページ数は16の倍数だと都合がよいわけです。
文庫本などがそうですけど、巻末に本の案内広告が印刷されているのは、
紙の枚数を調整するためです。
ちなみに、「読み解くW」は、2枚ばかり紙が余っていますね。
「弁正論」の場合は、余りは1枚でした。
ということは、増補分が18ページだと丁度良いことになります。
井上円さんの書評が少ない場合は、「増補版へのあとがき」とかを
書き下ろすことになるのでしょう。←お願いでもあります。

冗談半分に軽い気持ちで申したことで、
らくりんさんには大変なことになってしまい
申し訳なく思っています。
とは言え、内心では、喜んでたりして。。。。


「ここだけの話」 投稿者:らくりん  投稿日:06月18日(日)16時15分24秒

増補部分のためだけに、
あの本をもう一冊買っていただくのは忍びありません。

すでに『顕浄土方便化身土文類の研究 ―弁正論―』を、お買い求め下さった方(自
己申告で結構です)で件の「書評」がどうしても欲しい人は、私宛にメールを下さい。
(投稿者欄の、「らくりん」の部分をクリックして下さい。)

あまり大きな声では言えませんが、
私が個人的に対応したいと思います。

「書評」だけではあまり意味がありませんので「書評」だけ欲しいという方は
ご遠慮下さい。


増補版 投稿者:らくりん  投稿日:06月18日(日)08時28分44秒

というのは、これまで、値上げの口実か、再び欲しがらせるための本屋さんの陰謀だと
思っていました。
しかし、自分がその立場になってみると、これはどうしても付け加えておきたいと
思いました。本屋さんから言われたのではなく、私からの申し出です。
定価が変わるかどうかは、本屋さん任せです。
本当は、もう一つ1931(昭和6)年の、武内義雄さんの論文を載せたい気もした
のですが、遺族を探し出して許可をもらうのが面倒でやめました。

何冊か私のところにも送られて来る予定ですので、
届きましたらまたここでお知らせします。
送料その他込みで、書店で買うよりは割安にできると思います。

本当はその分だけでも、ネット上に公開すればいいんですよね。
(本屋さんにおこられるか?)


今日はこれから、自坊での化身土巻の講義です。
『末法灯明記』に入りました。


業界用語で、 投稿者:お留守居役様  投稿日:06月18日(日)01時45分45秒

増補分の「抜き刷り」が欲しいなどというのは反則ですね。
定価で購入すべく努力します。
書籍も
ソフトみたいにバージョンアップ版とかがあるといいのにと思います。
あるいは、下取り交換とか。


増補以外は、 投稿者:らくりん  投稿日:06月17日(土)23時36分04秒

出版に関わったことがある人なら、それがどういう意味かはわかっていただけると
思いますが、
校正がよほどしっかりしていたせいか、増補以外は、一字か二字の訂正を下程度で、
本文は、初版とほとんど変わっていません。


立ち読み可能な分量 投稿者:らくりん  投稿日:06月17日(土)23時26分26秒

ではありますけれども、文栄堂は仏教書専門の小さな書店ですので、
主要な書店の店頭に並ぶことはまずありません。

大谷大学出身者の友達を探して、コピーを依頼する方が話は早そうです。

申し訳ありません。


増補版『顕浄土方便化身土文類の研究 ―弁正論―』 投稿者:お留守居役様  投稿日:06月17日(土)22時01分06秒

その増補分が立ち読みできるくらいの分量だと良いのですが。
じつは、学問的研究書であるために主観が抑制されているためか、
目的とか方向性とかが見えなくて、読んでもよく解りませんでしたので、
ぜひとも書評を読みたいと思ってます。
立ち読みといえば、
関西系の大書店には、立ち読み用の椅子が置いてあります。
じっくり内容を確かめてから購入してもらいたいということのようです。
ちなみに、
古田武彦『親鸞思想』(富山房)は図書館で借りて読みました。
長いこと絶版になっていた上に版元が倒産してしまいました。
古書店を探しても見つかりませんでしたが、
明石書店から再版されたので即購入しました。
部分的にしか再読していませんけども。

なお、『読者』とか『版元』とか業界用語を知っているのは、
出版社でアルバイトをしたことがあるからです。


99年 投稿者:らくりん  投稿日:06月17日(土)11時40分35秒

に注文した人は、品切れだったとか。

今回は、大谷大学の『親鸞教学』に掲載された、井上円さん書評が増補されます。
書評と言うよりも、ほとんど論文です。
重要な指摘や知見があるのですが、
ちょっと手に入りにくいものなので、掲載させてもらうことにしました。


『顕浄土方便化身土文類の研究 ―弁正論―』 投稿者:お留守居役様  投稿日:06月17日(土)10時02分27秒

98年の夏のことでした。
まず在庫の確認と思い京都の文栄堂さんに電話しました。

私:東京の読者ですけど、藤場先生の
  『顕浄土方便化身土文類の研究 ―弁正論―』の在庫はありますでしょうか?

社員:『顕浄土方便化身土文類の研究 ―弁正論―』ですか。

私:はい、『顕浄土方便化身土文類の研究 ―弁正論―』です。

社員:ええっと、『顕浄土方便化身土文類の研究 ―弁正論―』なら
   在庫はありますけど。」

私:でしたら『顕浄土方便化身土文類の研究 ―弁正論―』を
  購入したいのですけど。
(以下略)

結局、郵送または書店で注文により入手できるとのことでした。
代金や送料の送金が煩わしかったので、近所の書店で取り寄せ注文しました。
その時も入品の連絡のときも上とほぼ同様のやりとりがありました。
まるで落語の『ジュゲム』でした。


巡回終了 投稿者:らくりん  投稿日:06月17日(土)08時42分32秒

昨晩から、いきつけは、どこもほとんど新規書き込みなし。でした。


品切れ前著、増刷決定 投稿者:らくりん  投稿日:06月16日(金)22時10分00秒


永らく「品切れ」になっておりました、拙著『顕浄土方便化身土文類の研究 ―弁正
論―』(文栄堂)が、この度ようやく増刷されることになりました。

これまでも、何人かの方から問い合せがありましたが、いつもお詫びするしかありま
せんでした。

『読み解く』X巻が刊行の運びとなれば、おそらくさらにこの書を希望される方が出
て来られるのではないか、と文栄堂店主に申し入れたところ快諾していただきました。

7月か8月頃にはできあがるのではないかと思います。


次回の美川の会 投稿者:らくりん  投稿日:06月16日(金)17時37分37秒


Vitaさん、Eさん、お二人が帰られてから決まったのですが、
7月1日の美川の会は、都合により講義は中止することになりました。
会合はあります。
お喋りをするだけになるか、誰かが何かを発題することになるかわかりません。
8月は予定通り5日です。いよいよ信巻に入ります。

メールでもよかったのですが、Eさんのアドレスがわからないものですから、
この掲示板でお伝えします。
Eさん、これを読んだら、確認とアドレスをいただいておくために
 fujiba@yu.incl.ne.jp 宛にメール下さい。

18日(日)午前10時から「化身土の会」
19〜20日は、Vitaさんのところの会にお邪魔します。

このところ留守がちだったものですから、なんか生活のリズムが狂っちゃいまして……、
ここの書き込みも、もう一つ調子が出ません。
まあ、ここはこれでもいいんですが……


ありがとうございました 投稿者:Vita  投稿日:06月14日(水)07時53分17秒

松田さん、北日本新聞の記事を読んでいただき、ありがとうございました。
私の力の限りの文章にて、お恥ずかしい限りです。
石川きょうけん(わたしも漢字が分かりません)さんは有名な説教師だったそうですね。
水橋町のお西のお寺のご住職でした。
らくりんさんのお話、しっかりお聞きしてきますね。

なお、わたしの実名をハンドル名に、訂正させていただきました。


Vitaさんへ 投稿者:松田 幸子  投稿日:06月14日(水)07時36分43秒

 私は、石川 きよゥ県 ? さんとゆう 偉いお坊さんが、水橋に、おられたと、
じーちゃん に奇異とおります。

 言葉にチカラ あり、ヨましていただきました。 菩薩の慈悲(やさしさ)
ほのぼのとしたものを感じ、大変ありがたことです 。

 でも、私 図書館 ボランテァ を生きる。の法がありがたいのです。ごめんなさい。

 病気で視力を失い、駅から転落した経験を,rバネに、盲人用ブロック改良にね精力をかたむけ、
---------------、退職し、自宅の庭に高齢者、障害者が、集まる場を作った、夫婦

 このキジ%見ると、涙か゛留めも無く流れるのです。 コンナ費とが、世の中にいるだよ、と
叫びたくなるのです。

 山田温泉にも、生きたいのです。 でもでも、今は、自分の生活で精一杯なのです。
影で声を張り上げ応援します。 どうか、どうか、らくりん、さんにもくれぐれもね宜しくお伝え下さい。


おはよ♪ 投稿者:三吉  投稿日:06月14日(水)07時15分39秒

>もう少し「自分の言葉に耳を傾けてもらう」ということを意識した表現の選択とか
>議論の仕方があってもいいのではないか

なるほど。とはいえなかなか難しいものです。意識してみます。


>なるべくフルネームで書かれた方がいい

気をつけます。


言わずもがなの追伸 投稿者:らくりん  投稿日:06月13日(火)19時58分33秒

この前の書き込みのほとんどは、言うまでもなく、〈御本典研鑽集記〉で
渡海 難さんとやり取りをされていた渡海 難さん以外の人にも言いたかった
ことでもあります。


渡海 難さん、 投稿者:らくりん  投稿日:06月13日(火)19時39分41秒

別に怒っているわけではありません。

正直言って、御本典研鑽集記のハイテンションにつきあっていくのはしんどいなぁ、
という気持ちはあります。
しかし、それはおつきあいしたくないという意味ではありません。
どうぞいつでもお越し下さい。

渡海 難さんの、親鸞のメッセージに向き合おうとする姿勢と熱意、
それから議論における切り返しのキレやつっこみなどには、
〈御本典研鑽集記〉に登場した時点から注目しています。

ただ、渡海 難さんの熱い思いが、どこに向けられているのか、
はかりかねているのも事実です。

渡海 難さんが『教行信証』にあれほどの熱意を持って読み込まれてきて思い至った
結論が、多くの人に伝わること、読まれること、共感を覚える人が現われることが願
いとしてあるのなら、よけいなおせっかいは重々承知の上ですが、もう少し「自分の
言葉に耳を傾けてもらう」ということを意識した表現の選択とか議論の仕方があって
もいいのではないかという気がします。

もし渡海 難さんに「伝えたいこと」「伝わってほしいこと」があって、その思いを
言葉に託しているのなら、その言葉がどういう〈意味〉を相手に生じているかという
ことをもっともっと大事にしていただきたいなぁという思いで、御本典研鑽集記を読
ませていただいております。どんなにすばらしいメッセージが込められていても、相
手が「耳を傾ける気持ち」にならなかったら、伝わりようがないのでは。
相手が理解しようが、そっぽを向こうかかまわないという気持ちで書いているのなら
そういう芸風も「あり」かと思いますが、おそらくそうではないだろうと願っています。

よけいなお世話ですし、〈御本典研鑽集記〉に書くべきことなのかも知れませんが、
せっかくここにお越しいただいたので、少し思うところを書かせていただきました。

それから、渡海 難さんと議論されている方に言いたいことがあります。
これも〈御本典研鑽集記〉に書き込むべきことなのですが、おそらく議論に参加され
ている方の大半はここも読んで下さっていると思いますので、ついでにここで書きま
す。
「渡海 難」さんのハンドルネームは当然のことながら「難度海」のもじりでしょう
から、三文字で意味をなしているものと思われます。ですから、なるべくフルネーム
で書かれた方がいいのではないかと思います。


らくりんさんへ 2    投稿者:渡海 難  投稿日:06月13日(火)12時33分29秒

>当の拙著は「読む気になれない」と受け取れるような発言をされておきながら、拙著の読書会の掲示板の書き込みを、ここに「飛ばし」てくるというのは私にはちょっと解せません。「お前の言うことには関心がないが、お前はわしの意見に耳を傾けろ」ということにはなりませんでしょうか。

 お怒りごもっともです。仰っているような意思ではなかったのですが、そう取られてもやむを得ないでしょう。こちらに失礼があったのは事実でしょうから。

>「聞く耳持たぬ」と言っている人に、多言を費やすほど私は暇をもてあましてはおりません。

 聞く耳持たぬと言っている訳ではないのですけどね。ホームページの中だけでおつきあいできた
らいいと思ったのですが、こちらの意思に伝わりにくさがあったようです。大変ご立腹のご様子で
す。当方に失礼があったようです。

>私の『教行信証』の読み方に興味・関心があるのなら、すでに公にされてある拙著の方にも関心
を向けていただいてもよろしいのではないでしょうか。東京近辺では拙著は国会図書館と早稲田大
学の図書館に寄贈してありますので、お買い求めいただかなくても、ご覧いただけるかと思います。
     お誘い感謝します。

>もし、私の『教行信証』の領解にまったく関心がないのであれば、この掲示板や〈真宗BOAR
D〉で渡海 難さんが私に質問やコメントを求めてくることの意図は『教行信証』の領解について
意見を交換したり互いに触発し合って、領解をより深めていこうとするところにあるとは思えない
ような気がするのですが、いかがでしょうか。

 そうですね。私の思いとそちらの感情とにズレが起きたようです。全て当方の手落ちに基因する
ものでしょう。仰ることは逐一ごもっともと存じます。

>もし、ご自分の領解を、相手に認めさせて、自分の「正しさ」をネット上にアピールすることが
目的ならば、ご自分のHPをお持ちなのですからそこで好きなだけやられたらいいでしょう。
      仰られる前に、私自身はそのようにしてきたつもりです。

>もし議論の「相手」の不十分さ、未熟さを指摘して黙らせることが目的であるならば、あまり有
意義な議論になるとは思えません。

 他人からはよく見えるのかも知れません。また、自分で気が付いて無かった面をご指摘いただい
たのかも知れません。十分気をつけなければいけません。

>お書きいただいたことについては、もう少し渡海 難さんとの話をしてからここで続けるか、真
宗BOARDに戻るか考えてみてはどうでしょうか。

 いずれにしても当方に失礼があったようです。出会いにはいろいろな形があると思います。今回
は何も言わずに退散いたします。
 御本典研鑽集記にお見えになることもあるそうですね。そのときはまたお教えいただくことも多
いことと存じます。ご健康をお祈り致します。


らくりんさんへ 1   投稿者:渡海 難  投稿日:06月13日(火)12時30分19秒

> 私は、一応各掲示板での議論の流れや、それを読んでいる人の関心を意識していますし、でき
るだけ大事にしたいと思います。
     なるほど。お気持ちは分かる気がします。

>〈真宗BOARD〉が、拙著の読書会ということで、「しきい」が高く設定されていることに対
するご不満があるのかも知れません。
     お察し感謝します。

>よその掲示板の書き込みや議論についてコメントするようなことは、私もしばしばやります。し
かし、直接的な話題についてこのような形で「掲示板飛ばし」をやることは、あまり好きではあり
ません。
     お気持ちは分かります。軽率だったかも知れませんね。

>密接な関係にあるからと言って、話題や議論の流れをごちゃまぜにしてもいいというものではな
いと思います。むしろ、密接に関係するからこそ私としては、双方の流れを大事にしたいと思いま
す。
     お気持ちは分かります。こちらが迂闊だったようですね。

>これは私と林遊さんとの間で行なわれていた議論に深く関わっています。〈真宗BOARD〉で
の議論の当事者を無視するかのような形は望むところではありません。
     よく分かります。

>もう一つ、言いたいことがあります私は渡海 難さんのHPを訪問して、「親鸞の思想と『教行
信証』」をダウンロードして、読もうとしました。非常な熱意と精力を傾けられた結果であろうこ
とは容易に推測できました。
     恐れ入ります。

>「称名念仏」の重要さの指摘、「信心正因」にたいする批判的な姿勢については、私も一定共感
できる部分があります。
     嬉しいです。

>しかし、化身土巻の読み方や、その中に示されている善導・曇鸞批判という視点には、まったく
賛同できません。「ああ、そういう読み方をされる人もいるのだな」という思いです。だから、「渡
海 難さんがそのように読んだ」という結果は尊重したいと思いますが、私自身はその視点から触
発されるものはほとんどありませんでした。

 恐れ入ります。ここはもっともっと今後、議論があっていいと思っています。私の考えに反対論
的な考えを持つ方は多いと思います。ご賛同いただけない方に、わずかでもお読みいただけたこと
は光栄です。

>したがって、何はさておいてもすべてを読もうとするほどの「興味」は沸いてきませんでしたの
で、完読はしていません。
     お気持ちは分かる気がします。私にも完読できない本はたくさんあります(笑)。

>渡海 難さんに『教行信証』の読み方や意味について質問したいことや確認したいこともほとん
どありません。
     なるほど。それだけおっしゃていただけただけでもこちらは感謝すべきでしょうね。


渡海 難さんの質問は、 投稿者:らくりん  投稿日:06月13日(火)11時33分07秒

すべて私が〈真宗BOARD〉に書いたことです。
ここは、特に話題の領域を限定していませんから、何を書いていただいても構わない
ですし、おそらく、この掲示板の訪問者の多くは〈真宗BOARD〉の訪問者と重な
っていると思いますので、話の流れは分かっている人も多いだろうとと思います。
しかし、そうでない人もいます。
私は、一応各掲示板での議論の流れや、それを読んでいる人の関心を意識しています
し、できるだけ大事にしたいと思います。

〈真宗BOARD〉が、拙著の読書会ということで、「しきい」が高く設定されてい
ることに対するご不満があるのかも知れません。
よその掲示板の書き込みや議論についてコメントするようなことは、私もしばしばや
ります。しかし、直接的な話題についてこのような形で「掲示板飛ばし」をやること
は、あまり好きではありません。
特に、〈真宗BOARD〉とこの掲示板は、誕生の由来や、運用の形態(独自の表紙
を持たず、リンクについては特に何も言っていませんが、問い合せがある場合は真宗
BOARDの方へお願いしています)から言っても、表・裏と言ってもいいような関
係にあります。密接な関係にあるからと言って、話題や議論の流れをごちゃまぜにし
てもいいというものではないと思います。むしろ、密接に関係するからこそ私として
は、双方の流れを大事にしたいと思います。
これは私と林遊さんとの間で行なわれていた議論に深く関わっています。
〈真宗BOARD〉での議論の当事者を無視するかのような形は望むところではあり
ません。

もう一つ、言いたいことがあります私は渡海 難さんのHPを訪問して、「親鸞の思
想と『教行信証』」をダウンロードして、読もうとしました。非常な熱意と精力を傾
けられた結果であろうことは容易に推測できました。おっしゃっていることにしまし
ても、「称名念仏」の重要さの指摘、「信心正因」にたいする批判的な姿勢について
は、私も一定共感できる部分があります。
しかし、化身土巻の読み方や、その中に示されている善導・曇鸞批判という視点には、
まったく賛同できません。「ああ、そういう読み方をされる人もいるのだな」という
思いです。だから、「渡海 難さんがそのように読んだ」という結果は尊重したいと
思いますが、私自身はその視点から触発されるものはほとんどありませんでした。
したがって、何はさておいてもすべてを読もうとするほどの「興味」は沸いてきませ
んでしたので、完読はしていません。
渡海 難さんに『教行信証』の読み方や意味について質問したいことや確認したいこ
ともほとんどありません。
 逆に、渡海 難さんは、私の『教行信証』の読み方について公刊した書物について
議論している掲示板での私の書き込みに関心を持たれて、それについてコメントを求
めているわけですが、当の拙著は「読む気になれない」と受け取れるような発言をさ
れておきながら、拙著の読書会の掲示板の書き込みを、ここに「飛ばし」てくるとい
うのは私にはちょっと解せません。「お前の言うことには関心がないが、お前はわし
の意見に耳を傾けろ」ということにはなりませんでしょうか。そうしますと、先の
渡海 難さんの質問はいったいなんのために出てきたのでしょう。最初から「聞く耳
持たぬ」と言っている人に、多言を費やすほど私は暇をもてあましてはおりません。
私の『教行信証』の読み方に興味・関心があるのなら、すでに公にされてある拙著の
方にも関心を向けていただいてもよろしいのではないでしょうか。東京近辺では拙著
は国会図書館と早稲田大学の図書館に寄贈してありますので、お買い求めいただかな
くても、ご覧いただけるかと思います。
もし、私の『教行信証』の領解にまったく関心がないのであれば、この掲示板や〈真
宗BOARD〉で渡海 難さんが私に質問やコメントを求めてくることの意図は『教
行信証』の領解について意見を交換したり互いに触発し合って、領解をより深めてい
こうとするところにあるとは思えないような気がするのですが、いかがでしょうか。

もし、ご自分の領解を、相手に認めさせて、自分の「正しさ」をネット上にアピール
することが目的ならば、ご自分のHPをお持ちなのですからそこで好きなだけやられ
たらいいでしょう。
もし議論の「相手」の不十分さ、未熟さを指摘して黙らせることが目的であるならば、
あまり有意義な議論になるとは思えません。
繰り返しになりますが、
拙著を読む気がしないというほど、私の『教行信証』の読み方に関心がないのなら、
私の方には、渡海 難さんと議論すること自体に「そそられるもの」がありません。
お書きいただいたことについては、もう少し渡海 難さんとの話をしてからここで続
けるか、真宗BOARDに戻るか考えてみてはどうでしょうか。


お帰りなさい。 投稿者:渡海 難  投稿日:06月13日(火)08時40分39秒

 らくりんさんお帰りなさい。お疲れさまでした。

>「死後」を実体的に考えることはもはやとうていできないことは否定できません。

 死後を実体的に考えることはできない。生前(現世)はどうなんでしょうね。生前は実体的に考
えることはできるんでしょうか、できないんでしょうか。「実体」とは何か。概念がいまいち分か
りにくいです。
 死後を考えることができないということでしょうか。実体的に考えることはできないということ
でしょうか。どっちの意味が本当は強いんでしょうね。

>あたかもそれを見てきたかのように語っている。

 あたかもそれを見てきたかのように語っているとは、どこの部分を指しておられますか。

>無責任に「死後」を「在るとか無いとか」語ることはしてはならないと思います。

 生前はあるのでしょうか。「在るとか無いとか」は生前についても語ってはいけないのでしょう
か。語ってもいいものなんでしょうか。

>浄土の「体」については言及しないで、「用」において、それを考えようとしています。

 言及しないとはどういうことでしょうか。自分は能力が無いから言及できないということでしょ
うか。言及することは宗教的にタブーであるということでしょうか。言及すると他の部分と論理的
に矛盾を起こすから言及しないということでしょうか。それとも、体は無いけど、無いというと信
者さんが混乱するから、一時的に言うのは控えておくということでしょうか。


(無題) 投稿者:Vita  投稿日:06月12日(月)23時36分08秒

ありがとやんした。


帰って来ました。 投稿者:らくりん  投稿日:06月12日(月)23時01分40秒

Vitaさん、お留守番ありがとうございました。

エネルギーを放出してきたので、通常モードに戻るまで、少し時間がかかります。

とにかくまず、明日にでも、机の上の郵便物を処理し、
いきつけの掲示板を読んでからです。
今日はこれで失礼します。お休みなさい。


Vita さんへ   投稿者:渡海 難  投稿日:06月11日(日)12時48分47秒

 お誘い感謝します。
 最近は忙しくて現代人の仏教書を読むのがいささか面倒くさくなっています。仏教書は、教行信
証を一冊読めばもう、十分でしょう。他はいりません(笑)。私は禅の本も読まない横着者です。
真宗BOARDの議論は、気が向いた時に横で拝見させていただきます。
 ところで座禅念仏が、修諸功徳の願と何か関係ありそうですか(笑)。


渡海さん おいでませ、と、お誘い 投稿者:Vita  投稿日:06月11日(日)07時05分28秒

御本典研鑽集記にて、面白い議論をさせていただいています。

今、「真宗BOARD」ではWの第十六講を読んでいますが、
第十九願、いわゆる「修諸功徳の願」についての論題が該当範囲に入っています。

おっしゃっている「座禅念仏」と直接関わる部分です。
ぜひとも、「真宗BOARD」にも、ご参加下さいませ。


富山にもいらっしゃいます 投稿者:Vita@お留守番役様  投稿日:06月11日(日)06時44分31秒

>机の上に、東・西の聖典を置きながら、各ページ数をいわれて、講義は進みました。

先日、お会いしたときは東の聖典に、お西の聖典のページ数を書き込んで
いらっしゃいましたが、いよいよそれでは間に合わなくなりましたかね(笑)。

著者をお迎えして、富山で共学研修会の一泊研修会を開催いたします。
参加ご希望の方がいらっしゃいましたら、私にメール(qyf@nifty.com)を下さい。
詳細をおしらせします。

テーマ「仮と偽」

 会場 山田温泉 玄猿楼

 日程 19日  2時〜  問題提起
        2時半〜 講義
        4時半〜 質疑応答
        6時〜  懇親会

    20日  9時〜  講義    
        10時〜  総会
        11時   解散

 会費 12,000円

締め切りは16日です。


らくりん氏来県 投稿者:しん  投稿日:06月11日(日)01時12分13秒

ども、久しぶりの書き込みです。しんです。
らくりん氏、本日、来県していただき、『仏弟子の名のり』というテーマのもと、講義を
していただきました。明日も午前と午後、ご縁を頂くことになります。
机の上に、東・西の聖典を置きながら、各ページ数をいわれて、講義は進みました。
会場には、東・西本願寺派の僧侶がいたためですが、これってかなり珍しいことじゃ
ないでしょうか?
合計6時間の講義ですが、らくりん氏、12時間分は考えてこられたとのこと、明日も楽しみです。


渡海 難 さんへ 投稿者:松田 幸子  投稿日:06月10日(土)10時29分20秒

 らくりん さん、カエるまで 待ちましょう。
田圃には、おたまじゃくし、かえる、タニシ、
最近、増えました。しかし、800件で34おくえん程かかりましたょ。

 しかし、加入率は、低いのですよ。


ムスメサンヘ 投稿者:松田 幸子  投稿日:06月10日(土)03時17分44秒

 ルス チュウ ハ、 タンスニ、ゴン、デスカ?


渡海 難さんようこそ、 投稿者:らくりん  投稿日:06月08日(木)23時23分58秒


〈御本典研鑽集記〉は、ROMさせていただいておりました。
実名がでた時点で、ごあいさつしようかとも思いましたが、
なりゆきを見ているうちに、機を逸してしまいました。

「先生」と呼ばれるのはあまり好きではありませんので、ネット上ではハンドルネー
ムで呼んでいただければと思います。〈真宗BOARD〉だけは「著者」としてほぼ
実名で出ておりますが、あとは「落鱗」ないしは「らくりん」で、その他の名前は今
のところつかっておりません。
渡海 難さんだけではなく、その他の訪問者の方も、もし、どこかでお目にかかるよ
うなことがありましたら、名前に「さん」付けぐらいで呼んでいただければ充分です。

本を出した縁で、ご招待をいただくことが多くなりましたが、
田舎の寺の住職見習いというのが一番実態を言い当てているかと思います。

HPに掲載されていた「親鸞の思想と『教行信証』」は、ダウンロードさせていただ
いて、一部(教巻までと化身土巻の冒頭)だけ読ませていただきました。全部は読ん
でおりません。

ここは〈真宗BOARD〉上では、ちょっと解説の趣旨に外れるかなと思うようなこ
とを、気楽に書こうと思って開いた、いわばプライベート裏板というようなところで
す。
ここでよければ、お楽しみ下さい。

では、しばらくのおいとまです。

留守中も、適当にやっていてください。


以上は、現在登録されている新着順31番目から60番目までの記事です。

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