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チベットからのお客様   

 2002年11月20日チベットからのお客様、ガワン・ワンドゥンさんをお迎えしました。

 アムネスティインターナショナル拷問廃止キャンペーンの一環として、

 チベットからの声  〜ヒマラヤを越えて〜
  尼僧ガワン・ワンドゥンさんに起こったこと


と題して、金沢で講演会が開かれました。

 翌21日、常讃寺に1泊されました。その晩のささやかな交流会の様子です。
 写真の下に、ガワン・ワンドゥンさんの簡単な紹介と、講演会のパンフレットから
引いたチベットの問題についての紹介を書いておきますので、そちらもご覧ください。
  
   

               
 
 
ガワン・ワンドゥンさん
 1977年、ラサの南、ロカ地方の農家に生まれ、13才の時にラサの尼僧院で出家。
 1992年、平和的なデモに参加し、拷問を受け、3ヶ月魔独房に入れられます。
後に3年の刑を宣告され、獄中で虐待や、強制労働に遭います。
 1995年出所後、一緒にデモを行ない、獄中で受けた虐待の後遺症に苦しみながら、
ヒマラヤ山脈を越えてインドへと亡命しました。現在は、チベット亡命政府のあるインド
北部のダラムサラで生活しています。
 良心の囚人として投獄された経験のあるチベット人難民のNGO「グチュスムの会」の
メンバーでもあります。
 とてもシャイでほがらかな方で、過酷な拷問や虐待をくぐり抜けた人とは思えませんでした。

 通訳をしてくださったのは、ルンタ・プロジェクトというNGOで働いている高橋明美さん
です。この団体は、チベット亡命政府のある北インドのダラムサラに展開している、
日本人によるチベット難民救援活動を行なっています。
 チベット語はまったくわからないのですが、通訳の様子から、なかなかの“達人”という
感じでした。




[アムネスティインターナショナル拷問廃止キャンペーン]パンフレットより引用

チベットの何が問題?                              

●政治的・宗教的自由を求めるチベット人
 現在は中華人民共和国の一部となっているチベットですが、以前は独自の政府を
持っていました。
 1951年、中国の軍事的脅威のもとで、かつてのチベット政府と中華人民共和国は
「17条の協定」に調印し、中国人民解放軍がチベットの首都ラサに進駐しました。
 この協定では、中国が他の地方で行なっていた共産主義による急激な改革を、
チベットには強制しないとされていました。しかし、実際には僧院を中心としたチベット
社会の仕組みは破壊され、チベット人の土地は勝手に分配され、遊牧民は定住を
強制されました。
 1959年にはラサでチベット人に大規模な反乱が起こり、ダライ・ラマ14世は、
インドへ亡命せざるをえなくなりました。60年代から70年代にかけては「文化
大革命」もあり、チベットのほとんどの寺院が破壊されました。中国による拷問や戦闘、
餓えのために死亡したチベット人は120万人にのぼるという統計もあります。

●破壊される民族のアイデンティティ
 「文化大革命」が終った970年代後半、中国が、これまでのチベット政策の失敗を
認めて、チベット文化の見直しや宗教の復活などを許した時期がありました。しかし、
それも一時のこと。チベット人によるデモは次第に大規模になり、1989年3月、ついに
ラサには戒厳令が敷かれてしまいます。
 1990年5月に戒厳令が解除されても、現在にいたるまで、中国は強行策を緩め
ていません。
 現在、僧院などの宗教施設は形だけは復活しました。しかし、僧侶の数には制限が
設けられ、共産党のチームが駐屯して「愛国教育」と称する授業を行なっています。
 嫌がるものは、僧籍を剥奪されて追い出されたり「分離主義者」といわれて拷問を
受けたりしています。ラサでは、96年ごろから公の場所でダライ・ラマ14世の写真を
掲げることが禁止され、現在では、個人的に所有することも許されなくなっています。

●わずか数分間のデモで長期の投獄
 チベットの自由を求めるデモなどは今も散発的に続いています。信仰心の篤い
仏教徒であるチベット人の運動は、決して暴力的なものではありません。ラサの
中心部で、わずか数分間、「ダライ・ラマ万歳」「チベットに自由を」などとさけんだ
だけで、拷問を受け、裁判もなしに刑務所に投獄され、労働矯正キャンプに送られて
しまうのです。

●獄中での拷問・虐待
 チベットの獄中での拷問や虐待も大きな問題になっています。デモに参加する
チベット人の多くは、家族に迷惑をかける心配のない、僧や尼僧です。
 中国当局は、抵抗する術のない囚人たちを拷問にかけ、時には、ダライ・ラマ14世
を称える歌を獄中で歌ったというだけのことで何時間も拷問を繰り返し、刑を延長したり
しています。
 標高3500メートルを越える高地に位置するラサの気温は、冬には零下10度にも
なります。そのような過酷な環境の中で、殴る蹴るはもちろんのこと、食事を与え
なかったり、長時間真っ暗な独房に入れたり、表に立たせて繰り返し足元に水を
かける、後手に縛って吊るすなどの拷問が報告されています。
 多くの囚人が、からだを壊しますが、医者に診てもらえることはまれです。瀕死の
状態になってはじめて、家族の元に帰ることが許されるのです。

●環境破壊
 中国は、チベットに核実験場をつくり、核廃棄物・産業廃棄物の捨て場にし、また、
貴重な野生動物を乱獲しています。森林の豊富な東チベットでの乱伐は、98年の
揚子江水害の原因にもなりました。

●緩やかに進む「民族浄化」
 人口が希薄なチベットに、人口過密な中国本土から大量の人口を移動させる動き
も盛んです。移住者は税金面で優遇を受け、高い給料をもらう一方、地元のチベット人
から仕事を奪います。
 このままでは現在「チベット族自治区」「チベット族自治州」などと名前がついている
地域でさえ、チベット人が少数派になってしまうでしょう(すでに多くの地域でそう
なっています)。
 ダライ・ラマ14世は亡命して以来、非暴力主義をつらぬき、国際社会にチベット
問題を訴え続け、中国に対して話し合いを求め続けてきました。しかし、状況はむしろ
悪化しているような印象さえ受けます。
 中国当局による監視の目をくぐりぬけ、ヒマラヤ山脈を越えて毎年2,000人以上
ものチベット人がインドやネパールに難民として逃れてきます。数週間にも及ぶ国境
越えの途中で、今も多数のチベット人が命を落としています。



【転載――掲示板〈YY-Y’s〉より】     (2002年)
ガワン・ワンドゥンさんのこと 投稿者:ミネ  投稿日:11月23日(土)22時11分20秒

 ガワンさんに会ったのは20日の夕方のこと。場所は金沢にある石川県教育会館。
えんじ色の尼僧さんの衣をまとっていたガワンさんは、日本にきて3週間が過ぎ、
髪が少し伸びて5ミリほどになっていた。

 25才の彼女の口からは、中国政府当局から受けた苛酷な拷問の様子が次々に
語られた。
 標高3500メートルを越える高地に位置する主都のラサの気温は冬には
零下10度にもなるが、そのような中で、殴る蹴るはもちろんのこと食事を与え
られなかったり、長時間真っ暗な独房に入れられたりしたという。肥だめに腰
までつかり、素手でくみだす作業もさせられたとか。

 彼女がしたのはたった5分間のデモ。ダライ・ラマ14世の写真を飾ることを
禁じられ、宗教の自由が弾圧されている状況で、「チベットに自由を!」と
言っただけなのに。デモに参加するチベット人の多くは、家族に迷惑をかける
心配のない僧や尼僧が多いのだそうです。ガワンさんは仲間とヒマラヤを越えて
チベットに亡命したけれど、拷問にあい、いのちを落とした若い尼僧さんがいる
ことも話してくれました。

 チベットに関して詳しくは、↓のらくりんさんのHPの「写真+?」を覗いて
みてください。翌日、私の家にガワンさんと通訳の高橋さんが泊まった時に
行われた茶話会の写真も見られます。
http://web2.incl.ne.jp/fujiba/rak.htm 
「写真+α」 
    (※今ご覧になっている頁のことです)

 夜、我が家の台所でガワンさんと私はかたことの英語で2人で話しました。
その時、私が簡衣・輪袈裟を来て数珠を手に持ち、僧侶らしい格好をしたら、
彼女はとても喜んでくれました。私が普段している腕輪念珠と同じものが
チベットにもあるということや、儀式の時に首に巻く白い布の話もしてくれた。
「私たちは同じ仏教徒なんだね」と言って笑い合った。

 拷問の後遺症で体調がすぐれない彼女だが、これからは英語の勉強をして、
チベットのことを世界の人々に伝えたい。そしてなにより仏教の勉強をしっかり
やりたいと語ってくれた。

 「仏教を守りたい」というガワンさんの気持ちが、私の心にズシンと響いた。


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