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真宗大谷派 井波別院 瑞泉寺

 富山県井波町は彫刻の街です。そこに真宗大谷派の井波別院があります。広々とした境内に、
東本願寺ほどの大きさではありませんが、歴史を感じさせるたたずまいの両堂(本堂と正徳太子
堂)は、東本願寺に勝るとも劣らない格調高い風格を醸し出しています。彫刻の街の寺院建築ら
しく、山門前の参道の両側には彫り物師の作業場が軒をならべており、鑿を打つ音が聞こえてき
ます。まだ見習い中と思われる若い人たちの姿も目に入ります。

 そうした門前街を持つ別院にふさわしく、御堂の随所にみごとな彫刻がほどこされていました。

瑞泉寺は、明徳元年(1390年)に本願寺5代綽如上人によって創建されましたが、幾度か
焼失し、その都度再建されてきました特に宝暦・安永年間(1763年〜1774年)の再建の
おり、京都本願寺の御用彫刻師前川三四郎が派遣され、井波拝領地大工がこれについて習ったのが、
その起源とされています。


  ※なお、瑞泉寺の建物内部はほとんど撮影禁止になっておりますので、外観の写真だけしかありません。


山門にいたる参道は両側に、昔の名残りをたっぷり残した家並みが続きます。

 ちょっとのぞいてみたくなるようなお店が並ぶ中に作業風景が見える彫刻師の作業場が
 いくつもあります。

   

  



参道のつきあたりに、お城かと見まがうばかりの石垣があり、石段を上がると、
 大きな山門が目に入ります。

   山門は、享和元年(1801)に京都の大工柴田新八郎が棟梁となって再建した総欅(けやき)
 の重層伽藍造り。
楼上には、東本願寺の山門と同じく、釈迦三尊の木像が安置されているそうです。

   



○山門の屋根組と、彫り物。この彫り物もなかなかのものですが、これぐらいで驚いては
 いけません。

   


    



山門をくぐると、かなたに正面に本堂がそびえています。屋根は瓦ではなく、
 銅板葺きです。
明治18年(1885)に再建され、間口25間(46m)、奥行き
 23.5間(43m)、総面積約590坪(1,950?)、単層入母屋造り(いりもやづくり)の
 北陸地方最大の大伽藍だそうです。



○本堂の向拝(正面階段の上の張り出した屋根)に入って見上げると、彫り物が目に飛び込んで来ます。
 ただの装飾ではなく、ちゃんと屋根を支える構造材としてのはたらきも果たしています。
 まだこれで驚いちゃいけません。こちらが豪快な彫り物だとすれば聖徳太子堂のは華麗・繊細です。

   


○太子堂は本堂に向かって左側にあります。東本願寺の配置でいえば阿弥陀堂(本堂)の位置です。
 こちらは大正時代に立て直したものだそうです。

    



太子堂の向拝の彫り物の細工は下から見るだけでも圧倒されます。よく見てください全部違います。

  


   


   



○太子堂の奥には宝物殿があります。一つひとつはそれなりに由緒がありそうな品が、
 けっこう無造作にガラスケースの中に展示されています。



○瑞泉寺は本願寺第五世綽如(しゃくにょ)上人の開創ですが、後小松天皇の勅願所であるために、
 こういう石碑が立っています。

   
○勅願寺となった由来は、中国から送られてきた国書が難解を極め、誰も解読することが
 できなかったものを、綽如上人が解読した。天皇は大変喜び、一寺寄進を申し出たが、
 綽如は、多数念仏信者の浄財による建立を希望した。そこで、天皇は勧進状を認(したた)
 める料紙を贈り、勅願所として当寺を建立することを許可した、とのこと。
  
明徳元年(1390)越中へ帰った綽如は、直ちに「勧進状」(明治38年国宝に指定)を
 作り、広く加賀・能登・越中・越後・信濃・飛騨・6カ国の有縁の人々から浄財を募り
 この寺が建立された。



勅願寺であるためか、菊の紋章がついた勅使門(天皇の使者が使う門)がありました。
  こんなことまで東本願寺と同じになっているんです。
     ※今は開かずの扉になっているようでした。

    



宝物殿の前から山門と鐘楼を臨む。          ○本堂に向かって右側に庫裏があります。

          その前には歴史を感じさせる柳の大木が。

    

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