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大谷大学自灯学寮 寮監在任中 短文集
  他者との出会い(1990年度 三寮合同研修会文集)
  実 態      (1990年度 三寮合同アルバム)
  悲喜こもごも  (1992年 大谷大学通信)
  エピローグ   (1991年度 三寮合同アルバム)




1990年度 大谷大学 三寮合同研修会文集 寄稿

 未校正WEB版 他者との出会い
                                自灯学寮 寮監  藤場 俊基

  自分のことは自分が一番よく知っている。

  本当だろうか。

 自分で自分のことを理解しようとしても、考えられた内容としての自分がわかるだけで、

それを考えている自分はそこには姿を見せない。

  自分で、自分はこんな人間だと思っていても、他人からはまったく違うように見られ

ていることもある。自分が思っている自分と、他人が見ている自分はどちらが本当の自

分だろうか。どちらも間違ってはいない。しかし、どちらもすべてではない。

  問題なのは、自分が知っている自分を本当の自分だと、そしてそれが自分のすべて

だと錯覚してしまうこと。自分が知っている自分、そんなものは本当の自分でも何でもな

いし、まして自分のすべてでもない。自分一人では決して気付くことのできない自分は

確かに在る、それも間違いなく自分の一部。

  いくら自分で自分のことを見つめてみても、本当の自分なんか決して見えてこない。

気付かなかった自分は、自分とは異質な他者との関係からしか見えてこない。他者は、

自分が知っている自分、そんな安易で不確実なものを否応なく打ち壊し、今の自分に

安住することを許さず、常に変革を迫ってくる刺激的な存在。

  自分一人では決して見えない自分を見せてくれる存在、親鸞はそれを“諸仏”と教え

てくれた。                                  (1991年2月1日)




      
1990年度 大谷大学 三寮合同アルバム 寄稿

 未校正WEB版  実 態   ―誰もいなくなった部屋―
                           大谷大学自灯学寮 寮監 藤場 俊基

  今日は二月一九日、明日は寮を閉めるので皆いなくなる。荷物もかたずいて、さぞ

どの部屋もきれいになっていることだろう、と、大きな期待と少しの不安を胸に見まわっ

た。

  どどどっと疲れた。

  ガムテープ新聞紙ビニール紐段ボール空きかん紙屑紙袋ゴミ袋タオル洋服は言う

におよばず、ヘルメット、わけのわからない布切れ、こたつ掃除機は出しっぱなし、こた

つ蒲団はそのまま床に乱れ舞い、化粧品の空きビン空きカン、思い出すのも面倒な程

いろいろな物たちがちらばっている。

  これはいったい誰がかたずけるのだろう?

  ぜひ、各部屋の実態を写してアルバムに載せて欲しかった。

●一号室(M・A、M・A、T・M)みんなそれぞれマイペース。このメンバーならそこそこき

 れいになっているだろうな、そんな風に感じさせるものがあった。それほど噂にのぼる

 こともなかった。だが案外猫をかぶっていたのかもしれない。

●二号室(M・A、M・O、H・O、A・K)一番きれいだと自慢していた。約一名、部屋がよ

 ごれてくるとがまんできなくなり「そうじしてもいい?」と、掃除機片手に一仕事、だそう

 だ。約一名、このペースについていくのがしんどかった人もいるようだが。

●三号室(M・A、M・I、Y・K、K・M)窓が少なく暗い部屋。廊下がなくて洗濯物は部屋

の中。重過ぎて洗濯ロープを止めていたフックがねじ曲ってしまった。洗濯物をかいくぐっ

て歩き回り、洗濯物を仰ぎ見て寝たそうだ。

●四号室(S・K、R・T、K・S、Y・H)知る人ぞ知る四号室。聞くだにも恐ろしい寮監禁制

 の部屋。洗濯ロープを直してくれと言われていたが、部屋がかたずいてからと待たさ 

 れて、結局直せずに終った。誰に聞いても満場一致で最高の部屋だった。だがぼくは

 真相を知らない。ここだけでもぜひアルバムに残しておいて欲しかった。

●五号室(M・S、M・T、H・O、M・H)一度何かの時に入った。四号室はこれ以上だと

 聞いてダブルショック。例外もいるようだが、一人ひとりを思い浮べれば、けっこうきれ

 いになっていてもよさそうなのだがなあ。そういえばこたつを置くスペースがないと言っ

 ていたなあ。

●六号室:もれ聞くところによるとここも相当だったらしい。もう寮にはいないはずだが、

 昨日見た時はまだ居るのかと錯覚するくらいいろいろな物たちが居座っていた。きっ

 ともう一度かたずけに来るつもりなんだろう、と、善意に解釈しておこう。

●七号室:勤行に行く時に、時々戸が開いていることがあった。一人部屋らしく、だいた

 いいつもかたずいていた。他の部屋も見習ってもらいたいものだと思った。もっともち

 らかっている時は戸が開いていなかったのかもしれないのだが。

   寮監一年にして悟った。「自主性」とは君たちにとって「何もしないことだったのだ」。

   こんどは厳しくしようかな、と、心によぎる。

   ありがとう、そしてさよならみんな。一人暮しになったら思う存分にどうぞ。
                                     (1991年2月19日)




     
 「大谷大学通信」 1992年 寄稿
 
 未校正WEB版 悲喜こもごも
                                自灯学寮 寮監  藤場 俊基

  午後十一時。

  この時刻は大谷大学の寮生、とりわけ自灯学寮の寮生にとっては、きわめて重大な

意味をもつ。

  学寮の門限である。

  大学が運営する学寮として、この時刻が、門限として早すぎるか遅すぎるかという問

題は今は置くとして、高校時代、おそらくほとんどの人は午後一一時は、家の中で過ご

していたのではないかと思う。そして入寮案内の書類でこの門限時刻を知って、以外に

遅いと感じた人も少なくないことであろう。

  しかし、多くの寮生がこの時刻を”疎ましく“感じるようになるまでには一ヵ月もあれ

ば充分である。授業が終り、部活動を終えてからすぐに寮に帰り予習・復習をし、本を

読んだり音楽を聞いたりする日々を繰り返すには、大学生の生活は刺激に満ち過ぎて

いる。

  そんな中で最初の一年を、自由で気ままなアパートやマンション生活ではなく、寮に

入ることを選んだ寮生には、格安の費用で食と住が確保され、京都に出てきたその日

から二〇人以上の友達ができる。その他にも朝夕の勤行、日常生活の各種の当番や

委員、寮運営のための会合、寮や大学の宗教行事への参加、研修会、学園祭参加、

学寮報恩講、卒寮旅行など、好むと好まざるとに関わらず、寮生でなければ経験できな

い多くの”特典“がある。この”特典“故に我慢ををしなければならないこともある。

  若い人の二〇人以上の共同生活だから、恋愛に心を焦がし夜の更けるのも忘れて

語り合ったり、また寮内の人間関係に悩んだり、楽しいことも多いけれど、窮屈なこと、

やっかいなことも少なくない。

  とにもかくにも、学寮での一年間はきわめて密度の濃い時間である。

  人と人とが徹底してつきあう関係を結ぶことがますます難しくなりつつある今日、学

寮という、嫌でも他者と面と向き合わざるを得ない環境は、数少ない貴重な場であるの

かも知れない。                            (1992年2月2日)




      
1991年度 大谷大学三寮合同アルバム 寄稿

  未校正WEB版 エピローグ
                            大谷大学自灯学寮 寮監 藤場 俊基

  昨日「発寮式」が終った。一年間の寮生活の余韻を味わうかのように寮生が残って

いる。そして一人減り二人減り、二十日間かけてフェードアウトしていく。

  五色豆とはうまく言ったものだ。

  個性的な人が集って、それぞれがそれぞれの生き方を守って崩さなかったから、五

色豆は次から次へと自分の色を主張し、不協和音を発する時もあった。バラバラな豆

は全体としての方向性がなかなか見えてこなかった、それは寮監という立場から見てい

るともどかしくもあり、また危なっかしくもあった。

  でも五色豆が馴れ合って、グチャグチャに混じり合ってしまったら目も当てられない。

僕は、ネバネバ糸を引く納豆のような関係や、どれをとっても代わり映えのしない大豆

のような画一的集団より、五色豆がはるかに素晴らしいと思う。

  五色豆であり続けることはそんなに簡単じゃないかもしれない。でもほんのちょっと

の智慧と勇気があればそんなに難しくないことかもしれない。

  たとえ小さくてもいい、一つ一つが自分色の光を放つ豆であり続けてほしい。

  五色豆が、二十色の大輪の花を咲かせた姿を見てみたいものだ。

  人の世に熱あれ。

  人間に光あれ。
                                     (1992年2月3日)

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