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[大谷大学大学院 研究紀要 第4号]所収 1987年12月

未校正WEB版 
機の深信の射程 ―差別の顕在化の範疇―

                                博士後期課程二回生 藤場俊基

 一 はじめに(問題提起)

  現代の社会の中には数多くの差別事象や差別的状況がある。「部落」差別、「障害
者」差別、民族差別、公害患者差別、女性差別、被曝者差別、高齢者差別等、考え得
るあらゆる理由によって差別は作り出される。

  封建的身分制度が解体し、西欧流の近代主義の移入と相俟って、「差別はいけな
い」という考え方は、日本においても一応定着しているといえる。しかし、これらの差別
は、時に、「差別ではなくて区別である」として、差別であると一般的に認知されないケ
ースも少なくない。

  「差別はいけない」という考え方が共有されているならば、ある事象や状況が差別的
であることを認めることは、即座に変革を迫られることになる。差別的状況の変革は、
「差別する者」にとって、自らの「既得権」的優位の相対的低下につながるように感じら
れるため、差別的現状であることを認め、その状態の変革に同意することは容易でな
い。

  実際、歴史的にも、世界的にも、差別的状況の変革のための運動は、いずれも周
囲からの根強い抵抗に遭遇している。しかも、そこで交わされる議論は、多くの場合す
れ違っている。

  そうした混乱において、「差別はいけない」という考え方が共通認識としてあるか否
かが問題なのではなく、その事象や状況が差別的であるという認識が共有されるか否
かに問題の焦点がある。つまり、何が差別であるかの認識が異なっているならば、どれ
ほど「差別はいけない」と叫んでも、議論が成立するための根拠そのものをもたない。

  「差別とは何か」、この簡単な問いは、差別問題を考える場合の出発点にあると同
時に、問題の核心でもある。しかし、この問いはこれまで充分に整理されているとは言
いがたい。この小論では、この単純にして困難な問いを課題として、特に、差別がどの
ような形態をとって顕在化するかを中心にして考察してみたい。


  二 「差異」と「差別」

  差別には大きく分けて二種類ある。ひとつは差別者と被差別者との間に、生理機能、
あるいは任意に設定された基準に基づく能力差などのように、外見上の「差異」が存在
する場合と、もうひとつは、そのような顕著な外見上の「差異」が存在しない場合である。
「障害者」差別や女性差別などは前者に属し、後者に属する差別としては「部落」差別、
少数民族差別、在日韓国・朝鮮人差別などがあげられよう。

  個々の解放運動において、それぞれどのような論議が展開されているか詳しくは知
らないが、近年特にクローズアップされてきている女性解放運動の中で、「差異」と「差
別」の関係について、興味深い議論が展開されている。そこで、しばらく女性解放理論
を参照しながら、「差異」と「差別」の問題について整理してみたい。

  現在の女性解放論議の中で、いくつかふまえたほうがよりその意味が明確になる点
があると思われる。現在の女性解放運動の潮流の全体を概観することは、非常に困難
であるし、またその任でもないので、今はその中で特にこの小論に深く関係しており、ま
た他の「反差別」論争にはあまり見られない特徴的な主張であるといえる、エコロジカル
フェミニズムについて簡単に触れておきたい。

  エコロジカルフェミニズムは近年日本において大きな流れとなっている女性解放論
で、これほどの話題性は欧米では見られない日本的現象である。その名のとおり、自
然の生態系(エコロジカルシステム)と調和のとれた生活のしかたをめざすエコロジー
主義とフェミニズムが統合されたもので、その主張は、上野千鶴子氏によれば、およそ
次のような形で要約される。

   「女性原理を強調する立場からは、男性的諸価値とは合理的・科学的・競争的・攻
  撃的なものだと考えられ、それに対して女性的諸価値というのは、直観的・神秘的・
  調和的・受容的なものだと考えられております。(中略)女性原理を強調する人々は、
  今や、こういう合理的・科学的・競争的・攻撃的な男性的諸価値に、直観的・神秘的・
  調和的・受容的な女性的な諸価値がとってかわるべきだと主張しております。男性 
  原理のおかげで行きつまり危機に瀕している地球を救うために男性原理にかわっ
  て今度は女性原理の出番だというふうに言うのです」。
      (「近代産業社会を越えるも  のとしてのフェミニズム」、『女は世界をどう変
       えるか』所収、朝日新聞社発行、一〇二頁)

  エコロジカルフェミニズムの主張の大きな特徴として「差異」の積極的価値づけがあ
るといえる。そのような論理展開がなぜ特徴的なのかといえば、たとえば「部落」差別の
場合、差別者と被差別者との間に、一見してわかるような外見上の「差異」があるとは
言いがたい。したがって、解放論においても、「差異」を積極的に強調することによって
解放を実現するという方向はありえない。また「障害者」差別の場合、目に見える形で
の「差異」は存在する場合が多いが、現在の能力主義的価値体系の社会において、そ
の「差異」を積極的に価値づけることによって解放運動を展開することは非常に困難な
状況にあるといえるし、そのような主張を聞くこともほとんどない。

  しかし、女性と男性の間には、生理機能上の明白な「差異」があることは否定できな
い。そして、その「差異」が多くの場合、現実にある「差別」の根拠であるかのように主張
されたり、あるいは、現実にある差別的状況は、「差別」なのではなく、単に男と女がそ
れぞれの特性に合った「得意」な仕事を「役割」として「分担」しているだけであるという
いわゆる「役割分担論」を生みだしている。その「役割分担論」は、「差別」が「差別」とし
て認識されることを非常に困難にする効果をもたらしている。しかし、このような「役割
分担論」は通常、性差別においては差別者である男性によって現状を維持するために
用いられる論理であり、決して両性の関係の変革に方向づけられているものではない
ということは論を待たない。

  ところが今問題にしているところのエコロジカルフェミニズムは、女性が「女性らしさ」
あるいは「母性性」をより強調することによって、女性自身の自己実現のみならず、「女
性性」と「男性性」が共に活き活きと息づいた社会を実現しようとするのであるから、こ
の「役割分担論」を女性のほうから積極的に主張しているのである。

  こうした一面的な見方はエコロジカルフェミニズム論の主張を充分に把握していない
からであるかもしれないが、フェミニズム論争におけるエコロジカルフェミニズム批判を
いくつか見るだけでも、このような理解はまったく的はずれなものであるとは思えない。
それは次のような言葉からも見ることができる、

   「エコロジカルフェミニズムの出現は、
  フェミニストの間に皮肉な波紋をもたらした。もともと日本のリブには反近代主義の
  心情が色濃くあったのだが、その彼女たちの多くでさえ、エコ・フェミにより反近代主
  義の具体像を突きつけられたことで、かえって迷いがふっ切れたかのように、次々
  と自分は近代主義陣営につくと宣言し始めたのだ。学生反乱の夢を追い続けてい
  る男性知識人たちがこぞってエコ・フェミを歓迎しているのとは、なんと対照的なの
  だろうか」。  (「フェミニズムの諸潮流」落合恵美子)

  また上野氏は、先にあげた講演の中で、男性原理と女性原理の相互に相い入れな
い性質を補完し合うこと(相反補足性)を「調和的と強調するならば、それはちょうど、
百姓が百姓らしく、殿様が殿様らしく振る舞ってともに幸せだった時代を調和的と主張
するに等しい」(前掲書一〇四頁)と述べている。

  従来「差異」に基づいて繰りひろげられることが多く、他の「差別」問題と共通の地平
を切りひらくことが困難であった性差別の問題について、江原由美子氏は、「『差別の
論理』とその批判」(『女性解放という思想』所収、勁草書房発行)において、

   「『差別』は『差異』を根拠にしていない」(七五頁)と言い切り、さらに「被差別者の
  怒りは直接にはその根源的な不当性とその非対称性(相互の代替が偏った形で抑
  制されていること)自体に向けられている」 (六五頁)

と主張することによって、「性差別」が「差異」基づいた「特殊」な「差別」なのではなく、根
底において他のあらゆる「差別」と同じ質の「差別」であることを明らかにしている。

  論文の中で江原氏は、従来の「差別」論の問題設定を次のように押えている。
@「差別」とは通常現実的な利益や不利益 の不平等分配と考えられてきた。しかし、
 現実に多くある不平等分配が「差別」であると批判されないこともある。 つまり、単に
 不平等分配のみが問題なのではない。多くの「差別」問題は、「現実 的」不平等を正
 当化する装置によってそもそもそれが不当なものであるという意識 をコンセンサスと
 して得られにくい構造を持っている。被差別者にとって「告発」 の論理を獲得すること
 は非常に困難なように「差別」は巧妙に仕組まれている。

A 現実的不平等以外の「差別」の側面は「差別意識」や「差別心理」、またアイデン
 ティティ問題として論じられてきた。しかし、この視点には、第一に「差別」は 必ずし
 も差別者側の「差別」しようとする意志を必要としない。第二に、被差別者 の側の問
 題を、アイデンティティ受容の問題として定義しがちであるが、被差別者 が自らの属
 性の積極的価値を自覚しそれを受容することによってアイデンティティ を確立すると
 いう論理は、「差別」の不当性に対する議論が欠落してしまう、とい う二つの問題点
 が指摘されている。

  「差別」を単に「現実的な」財の不平等や「心理的」な問題に還元してしまっては不十
 分である。「差別」は個人の心理的傾向によって生れるわけではない。それは「差別」
 を強化したり弱めたりすることはあっても、「差別」を心理的傾向に還元することはで
 きない。「差別」は差別者も被差別者も共有する社会的規範や社会意識に根拠を持
 っている。 (六三〜六九頁取意)

  氏はさらに、アルベール・メンミによる、

@ 現実上あるいは架空の差異の強調
A 被差別者に対して不利をもたらすような この差異の価値づけ
B 現実に存在する不平等の正当化

という、差別主義の定義を紹介している。(六九頁)そして、それに対応する「差別」
批判の論理として、

@ 差異の存在それ自体の否定
A 差異の存在は認めるが、被差別者の価値を低下させるような価値づけを批判
B 差異あるいは差異の価値づけにかかわらず、不平等な待遇は不当であると批判
                                              (七〇頁)

をあげるが、こうした「反差別」の論理は正当であるにもかかわらず有効な批判とは
なりにくいと結論している。その理由として、

(1)「不平等な待遇」が「不当」であると認識されにくい場合がある。なぜなら「不平等な
 待遇」が「不当」であると認識されない社会においては、一般に差別者と被差別者に
 は「差異」が存在しカテゴリーが別であるといううことが「常識」となっている。それゆ
 え反「差別」の言説は必ずその「差異」に言及せざるをえなくなる。

(2)ところが「差異」への言及は「差異の価値づけ」に関連せざるを得ない。なぜなら
 「常識」として共有されている「差異」は必ず特定の問題枠組により評価された「差異」
 だからである。

(3)Bの「不平等な待遇は不当である」という主張が成立つためには、まず差別者と被
 差別者の間にその待遇が「不当である」という共通認識が獲得されなければならない。
 しかし「不平等な待遇」が「不当である」と認識されるためには、「差異」がないか、ある
 いは「差異」はあってもその評価が「正当でない」ことのどちらか証明されなければな
 らない。つまり「反差別」の言説はすべて「差異」をめぐり展開してしまい、男と女は違
 うのか違わないのかという、被差別者の怒りそのものからかけはなれた論議になって
 しまう。

  そして、そのような論議において、「差異」を内容的に分節して論じようとする指
向が生じる。つまり、

@ 身体的・自然的な差異
A 社会的・文化的に構成されたところの「差異」
B 支配的集団の偏見としての「差異」

などのような分節を行い、AやBは否定するが、@人間の多様性と関係における豊か
さを生みだす契機として積極的に承認する。(七〇〜七三頁取意)それが、先に述べた
エコロジカルフェミニズムの主張として展開されるわけである。
 そこで江原氏は、問いを提起する。

◎「実在的」な「差異」は「差別」の根拠であるか?
◎「実在的」な「差異」など存在するのか?もし「差異」が「差別」の根拠でないならば「差
 異」を内容的に論じることは「差別」を明らかにすることにはならない。  (七四頁)

 ここに至って、江原氏は、フェミニズム論争の行き詰まりを打開するという実践的
要請の帰結そして「『差別』は『差異』を根拠としていない」(七五頁)と結論する。

  そして、差別の本質について、
  「『差別』とは本質的に『排除』行為である。『差別』意識とは単なる『偏見』なのでは
  なく、『排除』行為に結びついた『偏見』なのである。『排除』とはそもそも当該社会の
  『正当な』成員として認識しないということを意味する。それゆえ『差別』は差別者の
  側に罪悪感をいだかせない。なぜならわれわれが他者に対する『不当な』行為に対
  して罪悪感をいだくのは、他者を正当な他者として認識した時であるからである」。
                                             (八四頁)
と述べている。

  性差別のように外見上の明白な「差異」がある場合でも、「差別」は、その「差異」が、
「差別」の根拠となっているのではなく、男性社会から女性を「排除」することが、あたか
も正当であるかのように見せ掛けるための理由として、「差異」が利用されているだけで
ある。つまり、「差別」は、「差別される側」に「差別」されるべき当然な理由があるので
はなく、「差別する側」の論理によって作りだされ、それが「差別される側」に押しつけら
れたものであるということである。

  男性と女性の「待遇の不平等」等は生理機能や運動能力の「差異」に基づく「区別」
であるから「差別」には当たらない場合がある、というような一般的認識を覆す、新しい
視点が提起されている。この転換には、従来、ある状況における「待遇の差が不当で
あり、差別的である」ことの立証責任が被差別者に押しつけられた形になっていた関係
を逆転し、その「待遇の差が不当でなく、差別的でない」ことの立証責任を差別者に投
げ返したものであるといえる。


  三 「排除」としての「差別」

  「差別」の本質を「排除」としている江原氏の規定は、女性解放運動の実践的困難さ
の中から生み出された理論であり、実証的研究の結果として導き出されたものではな
い。それは、今日的な意味での女性解放運動が比較的最近になって始まったものであ
り、歴史的な評価を下すことが難しいことによると思われる。しかし、そのことは、「差別」
の本質は「排除」である、という結論を少しも損なうものではない。

  ここで視点を変えて、近年の部落史研究の成果に基づいて、さらに跡づけてみたい。

  上杉聰氏は「歴史における身分について」「解放令」研究を通して(『部落解放研究』
第三十三号所収)において、いわゆる「解放令」についての実証的研究に基づく結論を
展開している。
氏は、

  「まず第一に、賤民制廃止令が対象としたのは、たんに穢多・非人だけでなく、雑賤
  民と呼ばれる人々を含む広範な賤民層」 (一三七頁)

であることを、史料によって明らかにしている。さらに第二として、その賤民一般を括る
共通概念について、

  「雑賤民の各々を調べてみますと、性格はまったく不統一であり、職業的にも、身分
  的地位とか、様々な諸制限を含めて、すべて違うといっていいと思います。(中略)
  そうすると、中味から賤民全体の共通項を見つけ出すのは、まず不可能ではないか
  と思います。しかし、なおかつそういう中で、共通項を見つけ出そうとすると、それは
  各賤民身分の内部にではなくて、反対に、その外側、すなわち一般社会の側の対
  応が同一である点に求めるしかありません」(一三九頁)

と述べ、「賤民一般の共通概念は『社会外』」であり、その規定なくしては「もはや賤民が
賤民として成り立ちえないような根本的な性質ではないか」(一四五頁)と結論している。

  部落史の実証的研究からも、「差別」は「差別される側」に「差別されるべき根拠」が
あるのではなく、「差別する側」の「排除」によって作り出されているという結果が導き出
されているのである。

  先に、「差別」を、外見上の「差異」があるかないかによって二種類に大別したが、そ
の両極にあるといえる、女性差別と部落差別において、「差別」の本質について同じ結
論に達しているわけである。そのことをふまえるならば、「差異」の有無に基づいて、「差
別」を分類すること自体が、「差別される側」に「差別される根拠」があることを前提した
ものであり、それは、その前提においてすでに「差別」の本質を見誤っていると言わなけ
ればならない。


  四 差別の顕在化の範疇

  以上見てきたように、「差別」は「差別される側」に「差別される根拠」があるのではな
く、「差別する側」の「問題」としてとらえるべきであることがわかった。

  どのような解放運動や反差別運動に対しても、しばしば「差別される側にも問題が
ある」という指摘がなされることがあるが、それは「差別」の「結果として押しつけられた
状況」から派生する問題であり、本質的には「差別する側の問題」であることに変わり
はない。したがって、「差別」が顕在化する形態の分析は「差別する側」において考察さ
れることが第一義的に要請される。

  以下、この小論の主題である、「差別」の顕在化の形態について考察したい。
  まず以後使用する言葉の定義をしておきたい。「言動」とは実際に表現された発言、
文書または動作を指し、「行為」は、すべての行動を指す。したがって「行為」には「言動」
をしないことも含まれる。

  「差別」の顕在化の形態を分類するにあたって、差別「行為」を規定するいくつかの
基準を考えなければならない。

  第一の要素としては、直接的「言動」による差別「行為」と、「言動」を伴わない差別
「行為」が考えられる。

  「言動」による差別「行為」については説明を要しないと思うが、この中には、意識的・
意図的に行なう差別「行為」と、無意識的に行なう差別「行為」の二つがある。

  「言動」を伴わない差別「行為」とは、差別的「言動」を目撃しながら、その差別性に
気付かなかったり、また気付いてもそれを放置し静観するという「行為」が念頭にある。
また、差別的「言動」に対してまったく無関心である場合もこれに含まれる。

  この「言動」を伴わない「行為」が「差別」であると言い得るか否かは議論の余地が
ある。一般に、差別「行為」という場合、前者の「言動」による「行為」だけを指すものと
考えられている。

  しかし、「差別」の本質が「排除」であることを思い起こすならば、そのような一般的
認識は誤りであると言わなければならない。「排除する者」には「排除」しようという意志
を必要としない。「排除する者」は、自分の領域が侵害される時にのみ、抗議すればよ
いのであって、その侵害の可能性すらない時には自ら「排除」していることを意識し続け
たり、自発的に広言する必要はないのである。

  例をあげて説明すれば、ある行事において、女性の参加が認められていないことが
当然のこととして参加者全員に共通認識としてある場合、その行事の執行者は、わざ
わざ「女人禁制」という看板をあげたり、その理由を事前に関係者に対して説明する必
要はない。たまたま一人の勇気ある女性が、自主的にその行事に参加しようとした時、
初めて行事執行者は、その女性の参加を押し止どめ、そしてその抑止が当然であるこ
との「正当な理由」を説明しなければならなくなる。

  こうした場合、その行事執行者は、抑止「行為」を行なった時に初めて「排除」的に
成ったのではなく、たまたま、それまで排除「行為」必要とする状況に遭遇しなかっただ
けなのである。排除「行為」の可能性は、以前には「当然である」という意識として保持さ
れていた。その「当然である」という意識とは、日常的には「当然であるということ」を意
識する必要すらないほどに当然のこととしてある。

  「排除」とは、日常的には、このような意識する必要もないほどの「当然さ」として行な
われている。そしてその「当然さ」は「排除する者」全員に共有されているからこそ機能
する。意識されることもないほどに、共同体の構成員に共有されている「当然さ」に意義
を唱えるものは、調和を乱す者として、逆に非難される。これこそが「排除」に他ならな
い。

  「排除」としての「差別」は、「言動」した者だけの「行為」としては成り立たない。「言
動」者の「当然さ」の意識を裏づける共同体の共通認識によってこそ成り立つ。その意
味でこの行事の参加者は、実際に抑止「行為」に手を下さなかったとしても、行事執行
者の抑止「行為」に、違和感や不自然さを感じないならば、行事執行者の「当然さ」を共
有していることになり。排除「行為」の当事者であると言わなければならない。それと同
様に、差別「言動」を目撃して、その「言動」の差別性に気付かなかった者も、共同体と
しての「当然さ」の認識を共有しているといえ、「排除」としての「差別」の当事者である。

  では、差別「言動」のその場で気付いて何もせず、事態を静観した者はどうであろう
か。この場合も、何もしなかったという結果においては、気付かなかった者と同じである。
彼が気付いたことを何かの形で表現しない限り、どの時点で差別性に気付いたかとい
うことはほとんど意味をもたない。したがって、その場で気付いていたという理由によっ
て彼は免責されない。むしろ、何もしなかったということが、意識された選択であること
において、気付かなかった者より「差別」に対する責任は重いといえる。

  差別「行為」の分析基準の第二として、差別「言動」のその場での「行為」であるか、
その「言動」の事後の対応における「行為」であるかという、いわゆる「行為」の時期をを
あげたい。

  差別「言動」は、ただそれが為されたというだけで、その「言動」を見聞きした者から
何も指摘されなけれは、問題とされることはない。その「言動」の差別性が指摘された
時点から、問題ないしは事件として取りあげられることになる。

  「言動」の差別性が指摘された場合、「言動」の当事者にはいくつかの特徴的な対
応形態がある。

  第一に、自分の「言動」が「差別」には当たらないと主張する場合がある。これは、
差別性を告発した人とは別の基準を立てて、その基準によれば「差別」ではないと言
い、逆に告発者のほうが非常識であると反論するような形になる。このようなケースを
「詭弁的反論」と名付けておく。男女間の「役割分担論」や、信仰に立てばそれは「差
別」とは言えないと反論する場合などがこれに該当するといえる。

  こうした反論においては、一見もっともらしい主張が展開されているように見えるが、
その「言動」によって差別され傷付いた人の痛みは無視され、自分の正当性だけが強
調される場合が多い。

  第二は、「開直り的反論」と名付けるが、これは「言動」の内容が差別的であること
は認めるが、その「言動」が意味する「差別」が正当であると主張するものである。

  こうした反論は、解放運動の初期にしばしば見られる。部落解放運動の歴史におい
ては「解放令反対一揆」の論理がその典型である。また女性解放運動では、「女のくせ
になまいきだ」「女は家でおとなしくしていればいい」などの言葉が平然とフェミニストに
投げかけられる場合がいまだに多く見られるが、これなども「開直り的反論」に該当す
る。

  第三は、「これが差別だとは知らなかった、知っていればこんな発言はしなかった」
とか、「ついうっかりして、口がすべったもので、別に悪気はなかった」などと言い逃れ、
責任を回避しようとする場合で、これは「逃避的反論」と名付けられるであろう。

  第四は、差別性の指摘を受け、追及を逃れるためにれ、謝罪する場合で、これは
「保身的謝罪」の名が妥当であろう。

  以上のような、「言動」の当事者の事後の対応の他に、第三者においても、無関心、
無視、放置、静観などのようなケースがあげられる。

  差別「言動」の有無と「行為」時期の二つの要素を座標軸として、差別の顕在化の形
態を整理したのが(表ー1)である。
  ※テキストスタイルで(表ー1)が表示できないので箇条書きにする
  表ー1は、「差別的言動の有無」を縦軸に「行為の時期」横軸にして
  それぞれを以下の二つずつに分けた
   ・「言動」の有無:「言動」による差別「行為」/「言動」を伴わない差別「行為」
   ・「行為」の時期:差別「言動」時/事後の対応における差別「行為」

【表ー1に代えて】
範疇1[「言動」による差別「行為」]であって[差別「言動」時]
  @意識的差別「言動」
  A無意識的差別「言動」

範疇2[「言動」による差別「行為」]であって[事後の対応における差別「行為」]
  B詭弁的反論(@Aの「言動」は差別には当たらないと主張)
  C開き直り的反論(@Aの「言動」の差別は正当であると主張)
  D逃避的反論(言訳によって責任を認めず回避する)
  E保身的謝罪(責任の追求から逃れるために謝罪する)

範疇3[「言動」を伴わない差別「行為」]であって[差別「言動」時]
  F「言動」の差別性を見抜けない

範疇4[「言動」を伴わない差別「行為」]であって[事後の対応における差別「行為」]
  G無関心
  H閉塞的自己正当化(放置・静観)

  この表において、@の「意識的差別言動」とAの「無意識的差別言動」が、またBの
「詭弁的反論」とCの「開直り的反論」とDの「逃避的反論」とEの「保身的謝罪」の四項
目が、そしてGの「無関心」とHの「閉塞的自己正当化」が、それぞれ同じ範疇に属して
いる。しかし、これらはその性格がかなり異なっており、それらを的確に分類するため
には、さらに別の基準を設ける必要がある。

  「意識的差別言動」と「無意識的差別言動」の違いについては次のように考えられる。
前者は、自分の「言動」がどのような効果をもたらすか十分知りながら行なうものである。
つまり、自分が間違ったことをしているという認識はほとんどなく、むしろ自分の「行為」
の「正当性」を確信しているいわば「確信犯」的であるのが前者である。それに対して後
者は、自分の「行為」の意味に対する認識が欠如しているか、または誤っている状態で
行われる「行為」である。前者が「確信的」であるというならば、後者は「非確信的」であ
るといえる。

  この基準を他の項目に当てはめてみると、「詭弁的反論」と「開直り的反論」は、自
分の「行為」の「正当性」を主張するのであるから「確信的」の範疇に属し、それ以外の
「逃避的反論」「保身的謝罪」「無関心」「閉塞的自己正当化」は後者に該当する。

  次に、Gの「無関心」とHの「閉塞的自己正当化」(放置・静観)の違いを考えてみる
と、後者は、@またはAの「言動」が差別的であることに気付きながら、それに対して何
もしないということになるが、前者の「無関心」は、その@・Aの「言動」の差別性に気付
く以前の状態である。

  この@・Aの「言動」の差別性に対する認識または承認の有無という基準に基づけ
ば、「詭弁的反論」は「言動」が差別とは言えないと主張するのであるから「気付かない、
認めない」の範疇に該当する。「開直り的反論」は「この差別は当然、差別して何が悪
い」と主張するのであるから、それが不当であることは認めていないが、差別性そのも
のには「気付いており、認めている」ことになる。

  「逃避的反論」と「保身的謝罪」の区別は微妙であるが、「逃避的」である場合、差別
性には「気付いている」こともあるかもしれないが、「逃避的」である限りにおいて、「言
動」の差別性をまだ「認めていない」責任回避の段階といえる。しかし、「逃避的反論」
が、「言動」の差別性を「認める」ならば、おそらくそれは「保身的謝罪」に移行していくで
あろう。

  「確信的」であるか否か、そして@・Aの「言動」の差別性に対する認識・承認の有
無という二つの要素を新たに加えたが、この二要素を加味して(表ー1)を修正すると
(表ー2)のようになる。

  ※表ー2は、表ー1にさらに「差別性の認識の有無」と行為者における「行為」
   そのものに対する確信の有無(いわゆる「確信犯」か否か)
  ・自分の「行為」を正当であると考える=[確信的]
  ・自分の「行為」の意味に対する認識の欠如=[非確信的]
  ・@Aが差別「言動」であると気付かないまたは認めない=[差別性の認識無し]
  ・@Aが差別「言動」であると気付いている=[差別性の認識有り]

【表ー2に代えて】
範疇1[「言動」による差別「行為」]であって[差別「言動」時]
 [確信的]で[差別性の認識無し]
  @意識的差別「言動」
 [非確信的]で[差別性の認識無し]
  A無意識的差別「言動」

範疇2[「言動」による差別「行為」]であって[事後の対応における差別「行為」]
 [確信的]で[差別性の認識無し]
  B詭弁的反論(@Aの「言動」は差別には当たらないと主張)
 [確信的]で[差別性の認識有り]
  C開き直り的反論(@Aの「言動」の差別は正当であると主張)
 [非確信的]で[差別性の認識無し]
  D逃避的反論(言訳によって責任を認めず回避する)
 [非確信的]で[差別性の認識有り]
  E保身的謝罪(責任の追求から逃れるために謝罪する)

範疇3[「言動」を伴わない差別「行為」]であって[差別「言動」時]
 [非確信的]で[差別性の認識無し]
  F「言動」の差別性を見抜けない

範疇4[「言動」を伴わない差別「行為」]であって[事後の対応における差別「行為」]
 [非確信的]で[差別性の認識無し]
  G無関心
 [非確信的]で[差別性の認識有り]
  H閉塞的自己正当化(放置・静観)

  これらの範疇の中で、通常、差別問題として取り上げられることが多いのは「意識
的差別言動」「無意識的差別言動」と、それに伴う事後の対応としての「詭弁的反論」
「開直り的反論」「逃避的反論」である。

  「保身的謝罪」については、その謝罪が追及から逃れるためのものか、もしくは、差
別問題への反省が、自身の自己変革の契機として受けとめられていくという意味をもつ
かどうかが、以後の差別問題に対する取組みによってその「謝罪」の質が問われる。

  こうした、「言動」による差別「行為」の指摘や抗議行動が容易なものであると言うつ
もりではないが、それらの差別「行為」には「発言」や「動作」として表現された形がある
ために、その問題性を指摘することは比較的容易である。むしろより困難なのは、「差
別を見抜けない」「無関心」そして、気付きながら事態を静観し放置する「閉塞的自己正
当化」の範疇に属する「言動」なき「行為」における問題である。

  「言動」を伴わない「行為」については、「差別を温存・助長する土壌」とか、「すべて
の人間がもっている差別意識」というような一般化された表現での指摘は、これまでし
ばしばなされているが、「何もしないこと」が差別「行為」そのものであるということは、必
ずしも一般的に共有された認識であるとは言いがたい。また「何もしないこと」を差別
「行為」であると指摘し批判することは、先にも述べたように、共同体に共有されている
「当然さ」に対する批判という意味をもつために、非常な困難を伴う。しかし、事象として
の差別「言動」は、そのような共同体の共通認識なしにはありえないものであり、その共
同体の共通認識なるものを、たんに「土壌」とか「差別意識」というように一般化するの
ではなく、それこそが「差別」であるというところ以外に解放への出発点はないのではな
かろうか。

  最後に、この表に示されたそれぞれの行為形態において、真宗の、いわゆる「信心」
や「教義」が、これまで果たしてきた役割についての批判的検討を今後の課題とし提示
しておきたい。   以上               (一九八七年三月二七日 筆了)

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