真宗大谷派 常讃寺 沿革
○『石川縣能美郡誌』[大正12(1923)年11月発行]992頁
本覚寺支坊(常讃寺)
字桑島に在り、真宗大谷派に属し、通称を中道場といふ、但し政府の公許を受けた
るものにあらず、この支坊は本覚寺(小松市)支坊北道場の支族にして、其檀家を分ち、
天台宗の一宇を創建したるに起る、後ち新兵衛に至り、文明三(1471)年四月十八日蓮
如を吉崎に訪ひ、改宗して法名を常照と授けられ、六字名號を受く文明六(1474)年三月
廿五日吉崎道場の火災に罹るや、常照之を訪ひ、再び六字名號を授けられる、之を虎
尾名號と称す、蓋し火災に因りて机を失ひ、荒筵の上に紙を展べて毫を揮ひしに、墨痕
虎斑の如くなりしによる、明治五(1872)年道場の称を廃せらるるに及び、本覚寺支坊た
らんことを請ひしも許されず、今は単に本山の認許を有するのみ、今の堂宇は明治
三十九(1906)年の改築に係る。
蓮如上人御筆二幅
数珠切の名号:文明三年(1471)4月18日
虎の尾の名号:文明六年(1474)3月25日
○『白峰村史』上巻 [昭和37(1962)年1月1日発行]322頁
常讃寺
桑島(東島)ニノ四六番地。真宗大谷派。住職は藤場氏。通称は「中道場」または
「新兵衛さん(しんべい)」。寺伝によれば、北道場の門徒七戸ををうけて別宅した天台
寺院であったが、文明三年(1471)蓮如の教化で浄土真宗に転じたもので、初代道場主
を常照とするという。しかし、おそらく北道場から分れ出たという伝に本寺の伝承が結び
ついて作られたものと思われる。北道場から分れた時期・原因はともに不明であるが、
聖覚寺には中道場が分れたのは元禄年間(1688〜1703)だという伝があり、中道場の
所伝では貞享五(1688)年に本尊が下賜されたといわれているから、江戸初期に大家道
場におくれて成立した真宗道場とするのが妥当であろう。天明四(1784)年に焼失した時
に道場主六兵衛は本覚寺から遠慮を申付けられているから、早くから本覚寺末の道場
であったことは確実である。またその時、六兵衛の名代として庄屋とともに本覚寺へ注
進しているのが、北道場主新左衛門であるところをみると中道場と北道場の関係は、大
家道場の場合とは違って円満であったのではなかろうか。(下巻606頁)
明治五(1872)年廃号になったが、同十二(1879)年には本覚寺説教場、同二十三
(1890)年には本覚寺支坊、昭和十七(1942)年には本覚寺教会と本寺本覚寺との関係
は変らなかった。寺号公称は昭和二十八年(1953)であるが、桑島地区の道場の中では
もっとも早い。
※注:初代新兵衛が受けたと伝えられる、蓮如上人直筆の名号二幅は今日も伝
わる。しかし、その拝受の時期(1471/1474年)と、中道場(現 常讃寺)に
本尊が下賜された時期(1688)、あるいは北道場(現 聖覚寺)から中道場
が分かれたとされる元禄年間(1688〜1703) とでは約二百年の開きがある。
その事情は不祥。
○『小松本覚寺史』 [昭和57(1982)年11月発行]172頁
嶋村中道場 石川郡白峰村桑島(東島)現 常讃寺 住職 藤場常清
伝承では、嶋村北道場(現 真宗大谷派聖覚寺:野々市町中林)から、本覚寺門徒
七戸を預かって分立したという。その時期について、中道場では本尊下付の年代を
貞享五(1688)年と伝え、北道場では分立を元禄期と伝えており、明確でないが、大家道
場よりも後に分立したと見るべきであろう。天明四(1748)年に焼失しており、このとき、
嶋村庄屋の本屋(おもや)新右衛門と中道場の道場役六兵衛の代理として北道場の道
場役新左衛門(覚正)が小松本覚寺に注進し、道場役の六兵衛は火災の責任を問わ
れて、本覚寺から遠慮を申し付けられている。のち明治一二(1879)年に本覚寺説教場、
明治二三(1890)年に本覚寺支坊を称し、現代になって真宗大谷派常讃寺の寺号を公
称した(1953年)。
昭和五三(1978)年に、手取川ダムの建設によって桑島の集落が水没したために、
平野部の石川県石川郡野々市町三納(現在地)に移転した。
(注:移転上棟は1977年7月21日)
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