押水集会より〜「バベルの塔」



<2002年4月18日 於:押水集会>
「創世記」11章1節〜9節



・旧約聖書におけるこのバベルの塔の箇所は、教会に来ている人でなくてもよく知られ、歴史的、考古学また、映画や美術などにもよく出て来るところです。ブリューゲルという画家の作品で、「バベルの塔」という絵画があるのが有名です。まだ、世界中が同じ言葉を使い、同じように話していたころのことでした。東の方から移動してきた人々は、シンアルというところに住み着きました。そこに住み着いた人々は、石のかわりにれんがをたて、また、しっくいの代わりにアスファルトをたて、天まで届く塔のある町を建てようとしました。ヘブライ語で、<バベル>とは、バビロンのことを指しています。

・創世記10章10節や11章9節以下におきましては、すべて、「バビロン」と訳されています。バベルとは、シナルという町に古代からあった町であり、10章の8節には「ニムロド」という人が出てきますが、その人によって、この王国の首都が建設されたとされています。この箇所に出て来るバベルの塔は、バビロンのジグラト<高塔神殿>を背景にした物語であると考えられます。

・もともとの言葉では、<天地の基なる家>という意味です。その塔の高さが本当に天に届くような高いものであったのだろう、と想像します。天まで届かせようとして建てられた塔の高さ、長さは、一体どのくらいだったのでしょうか。その底辺の一辺は、91.5mであり、高さは、98.5mであったとある書物に記されています。

・この11章1-9節において、よく見られる特徴的な表現があります。4節と8節と9節とにそれぞれ出て来る、「散らす」あるいは「散らされる」という言葉です。最初は人間の提案として、さらに神様の行為として、最後に結末として記されています。最初の4節においては、「散らされる」ことの恐怖が著されています。それはすなわち、被造物である神様の意図への反抗でもあります。

・人間は、同じ仲間同士で群がり、集団で行動し、その中に安全性を見い出します。ここで特徴的なのは、統合することが、神様の目的であり、散らされるということが神様の審判であるかのように考えられていることです。それぞれが、すべて神様の意図による拡散であり、統合でなければならないのに、人間的な思いによって、散らされることが神様に反すると解釈をしているようです。神様によって散らされるということもありうるのです。

・また、さらに、神様の人間に対する意志とは、三位一体ということであり、人間は混乱の状態にあるべきではない、ということです。人間がつくろうとした塔とは、神様のいる天にまで届くくらいの欲望をあらわしているのである、という解釈をするものもいます。人間の欲望は、神様にまで達しようとする傲慢な心からくるものであるからです。

・私達の傲慢な心、欲深さは、背の高い塔のようで天まで達しているので、神様はそのことに裁きを加えられたと考えられるのです。それは、いつの時代にも自由を求める人間の心と同じです。真の意味での自由ではありません。

・この箇所に記されている、統合されることと散らされることは、個人の問題に当てはめることもできます。自己分裂と自己統合という事柄です。すべては神様の主権により、福音という統一によって、私達は生かされていることを、求めているのです。

・次に問題にされているのは、言語についてです。言語は人間のコミュニケーションにおいて、大切なものです。そのコミュニケーションによって、信頼というものが生まれるからです。
 
・この11章のバベルの塔の記事は、散らされることで終っています。バベルの塔を建てようとする人間、自由を求め、傲慢な気持ちを持ち、神様にまで達しようとした人間を、混乱させ、神様によって、この全知に散らされました。

・それは、神様の言葉をこの全世界に宣べ伝えるためだったのです。







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日本基督教団 羽咋教会
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