押水集会より〜「主の御名を呼ぶ」

<2004年4月15日 於:押水集会>
「創世記」26章15節〜25節



  • この物語は井戸をめぐる争いを描いています。それは、いわば水利権にあたります。また、このお話が当時の現実を反映しているものであろうとも、言われています。

  • ペリシテの人々は、アブラムの僕たちが掘った井戸をことごとく土に埋め、アビメレクはイサクに、町を出て行くよう、命じました。こう述べています。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」

  • こうしてついにイサクは、町を出て行きました。しかし、今度はゲラルという谷に天幕をはり、滞在することにしました。しかしそこでも、父アブラムが掘らせた井戸は、ペリシテ人によってふさがれてしまいました。

  • そこでイサクは再び、僕たちによって井戸を掘ることにし、父アブラムがつけた通りの名前を付けました。しかし、イサクの羊飼いたちと、ゲラルの羊飼いたちとが、井戸をめぐって争奪戦をおこすことになったのです。そこで最初の井戸の名前を「エセク」(争い)と名付けました。

  • 井戸には、いくつかの名前がつけられていました。「エセク(争い)から、シトナ(敵意)へ、そしてとレホボト(広い場所)と、「ベエル・シェバ」です。最終的に、「ベエル・シェバ」(誓いの井戸)となったということがわかります。

  • なぜならば、昇っていった「ベエル・シェバ」という場所では、主の御名を呼んで礼拝し、最後にはそこで井戸を掘ったからです。最後に争うことなく井戸を掘ることができたのです。私たちは、人生において先を見ることができません。そして、井戸をめぐる争いのような憎しみや争いごとのたえない生活の中にあるかもしれません。

  • しかし、私たちは「礼拝」に預かることによって、神様の恵みの泉から、水を得ることができるのです。水利権という井戸をめぐっての争いが、そのことを私たちに示しています。つきない泉からわき出る永遠の命の水を、主の御名を呼ぶこの「礼拝」によって与えられ、新しい命に生きるものとされたいと思います。







前のページに戻る

日本基督教団 羽咋教会
e-mail