説教ノートより〜祈りの本性



  〜P.T.フォーサイスの「祈りの精神」より
「テサロニケの信徒への手紙一」5章16節〜22節



・果たして私たちは「絶えず」祈っているでしょうか。そしてその祈りが、本当に形として「祈り」となっているでしょうか。自己満足や自分のためだけの「祈り」に、なっていないでしょうか?私の最近読んでいる本の中で、この祈りに関して良い答えをくれた、素晴らしい本があります。

・P.T.フォーサイスという人の本で「祈りの精神」というお祈りについてとても分かりやすく、深く書かれたこの本を基に「祈り」について、考え、共に祈っていけたらと思います。お祈りにはさまざまな、祈りの形態があります。特にフォーサイスは、祈りをいくつかの種類に分けて、考えています。祈りの本性、粘り強い祈り、不断の祈り、とりなしの祈り、時にかなった祈り、祈りと道徳的精神、祈りの自然性、この七つで、本の構成がなされています。今日は特に、「祈りの本性」についてお話ししたいと思います。

・まず、最悪の罪は、祈らないことであると述べています。キリスト者の中でも、明らかな犯罪や、言動の不一致、また罪に陥っているものを見ることは、それほど多くはなく、意外なことでもあります。しかしそれは、「祈らない」ことの結果であって、祈らないための罪なのである、ということです。祈りは、神との交わりであると同時に、行為でもあるのです。神様が父と呼ばれ、他人が兄弟として登場します。祈るときに人は、神様に愛される者として認められ、神様のために生きる者とされるのです。その祈りがたとえ最初は自分だけのための祈りであっても、祈りは性質上、自己を越えて、祈る者を神と人へと導いてゆくものなのです。個人の祈りもそういった意味において連帯の祈りであると言えるのです。祈りのなかにおいては、神様と交わりを持ち、人との和合が生まれるのです。そのときには、神様を父と呼び、人は神様に愛される者となり、他人が兄弟となります。祈りはまた、食物と同様に、新鮮な力と健康な感覚をもたらします。精神も肉体も、常に生きた神を求め叫んでいるのです。

・フォーサイスはまた、祈りは力であり、祈りは労働である、と述べています。私たちは生きていくために労働をします。祈りは単なる願いなのではなく、意志を携えて神様求める、行動的な神様に向かい、行動へと送り出されることだからです。より強く神様を求める力が与えられるようになり、熟達した祈りの人へと成長していきたいものです。また、真の祈りは「あなたのみこころが成りますように」という祈りである、これこそ特別な祈りであるとも述べています。先週の礼拝では、「御心ならば、清くしていただけるのですが」と、主イエスにより頼み、癒して頂いた、ひとりの皮膚病患者のお話をしました。その中で、「御心」について申し上げました。「御心がなりますように」という祈りは、主の祈りの中にも含まれています。祈りのすべてのなかで、すでに「御心」である、神様のご意志を行い始めているのである、というのです。 また祈りは、人を引き上げるものであり、求めることよりも賜物を、罪意識よりも恵みをよく確実に意識させるようになると言われています。

・私たちは悲しみのときに祈り、喜びのときに祈ります。悲しみのときには嘆願の祈りをし、喜びのときには感謝に満ちた祈りをするのです。私たち祈る魂は、祈りがかなえられなくても、恵みに満たされているのです。祈るときは自分自身が神様と向き合っているときであり、神様と交わりをもつ時でもあります。また、神様からの語りかけに耳を傾け、静かに祈るときをもつことが大切なのではないでしょうか。神様は礼拝の対象でありますから、神様と対等になって祈るというわけではありません。神様に、自分自身の貧しさを通して、礼儀正しく、自尊心をもって、祈るのです。そのときは、最敬礼して礼拝をし、礼拝を捧げるのです。第二コリント書の5章20節には、次のように記されています。「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させて頂きなさい。」祈りは神との和解でもあると言えるのではないでしょうか。祈りの内容もそうですが、祈りの姿勢、また祈り続けるということによってその祈りの心は、神様へと届く真の祈りになっていくのです。





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