『罪の赦し、愛の大きさ』

<2002年11月10日 主日礼拝>
「ルカによる福音書」7章36節〜50節



・罪深いとはどういうことなのか、ということを私自身考えさせられます。今日与えられました聖書の箇所は、ある一人の罪深い女性の、罪が赦されたというお話なのですが罪が深い、ということまではっきりと記されているからです。罪深い女性が、どのようにして赦されるに至ったのでしょうか?

・ファリサイ派の人が、主イエスと食事をしてほしいと、食事の席に招かれた、とあります。出来事は、その食事の席に着いた時におこります。ある一人の罪深い女が、主イエスがファリサイ派の人の家に食事にやってくることを知り、主イエスのところへやって来るのです。主イエスがファリサイ派の人の家に招かれて食事をするということは、珍しいことではありませんでした。

・また、この女性の示した愛の大きさについても、記されています。多く愛したから、彼女の主イエスへの愛が大きかったから、罪が深くても赦されたのである、そのように理解することもできるでしょう。
 
・その女性は、石膏の壺をもってやって来ました。香油の入った石膏の壺を持ってなんと、主イエスに泣きながら近寄ってきたのです。更に、自分の涙で主イエスの足をぬらし、髪の毛でぬぐいました。さらに、足に接吻して、香油を塗りました。この行為は何を表すのでしょうか。当時、足に接吻して香油を塗るのは、その人に対する深い尊敬のしるしであり、感謝のしるしとされていた行為なのです。

・では、なぜ、彼女が示した愛の大きさが罪の赦しにつながったのでしょうか?この箇所は、言い換えるならば、次のように言う事ができます。「この人が多くの罪を赦されたのは、彼女がたくさん愛したからである。」 愛が大きかったために罪が赦された、ということになります。その逆に考えるならばどうでしょうか。罪が赦されたから、彼女は多く愛した、というように・・・。果たして、罪の赦しと愛とは、比例しているものなのでしょうか?私達はここで疑問を持たされます。

・主イエスに対する女性の行為を見て、ファリサイ派のシモンは思いました。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」
 
・赦されないかもしれないのに、赦されることを期待せずに、彼女のほうから先に近寄って言って、主イエスの足に接吻して止まなかったからです。髪の毛でぬぐい、香油を塗った。この行為は、シモンがやらなかった行為です。主イエスは、罪深い女性に、はっきりと罪の赦しを告げています。その点シモンは、本当に預言者であるのか、という疑いまでかけていたのです。

・罪深い女性とシモンとの間にある違いは、愛の表明です。愛を表さなかったシモンには、罪の赦しがありません。神の子である主イエスは、罪を赦す権威をお持ちになるお方であり、女性がしたこと、主イエスの足に油を塗ったというのは、神様に対する愛を表しているのです。女性は、赦されたから愛したのではなく、赦しにかかわらず主イエスを、神様を愛する者であったのです。

・この箇所では名もなき罪深い女性が、主イエスによって罪が赦されました。そのことは、女性が表した、愛の大きさ、すなわちその女性の信仰によって救われたのです。主イエスを通して、神様をより多く愛したから、罪が赦されたと記されているこの女性は、神様の愛を受けることを期待せず、罪が赦されるかどうかということも、気にとめる事なく、ただ愛を表したにすぎないのです。罪深い女性が赦されるのは赦される以前から、信仰をもって主イエスに愛を表したからなのです。

・私達は、この女性のように、神様によって罪が赦される前から、愛する者となることができるでしょうか?




前のページに戻る

日本基督教団 羽咋教会
e-mail