羽咋教会 墓前祈祷会 『死んでも生きる命』



<2003年11月2日 墓前祈祷会 於:教会墓地>
「ヨハネによる福音書」11章25節〜27節



・初代教会の人々は、「霊魂不滅」というある知識階層の人々の思想を抜きにしたら、命には終りがあり、死がそれである、と考えていました。すなわち、死をもって終りとする命です。しかし、天に召された兄弟姉妹が、この世から去ったとしても、その兄弟姉妹が私たちの記憶から、薄らいだり、遠退いてしまうというようなことが、私たちには、あるでしょうか?天に召された兄弟姉妹は、逆に、年月をおうごとに、より鮮やかに私たちの胸のうちに刻まれているのではないでしょうか?

・なぜならばそれは、聖書において、こう教えられているからです。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
(「ヨハネによる福音書」11章25節)

主イエスが復活であり、命である、と、ここでは、マルタという婦人に向かって言われました。そして、さらに主イエスはラザロに向かって言われました。

「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(「ヨハネによる福音書」11章26節)

・生きていてわたしを信じるもの、すなわち、私たちキリスト者は、死んでもキリストともに、復活し、生き長らえることができるのです。それは、「永遠の命」であることを意味しています。また聖書においてこう記されてています。「すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」(「創世記」28章12節)

・創世記の28章です。ここでヤコブは、天まで達する階段を天使が昇り降りするのを見たのです。夢によって、です。そののちヤコブは、その階段が天の門、神の家に達する階段だと分かります。

・復活であり命である主イエス・キリストに従って、天の階段を上り下りした兄弟姉妹がここにいます。こうしてここにいる私たちも、やがて天にのぼっていきます。そしてその架け橋があること知っています。天と地との架け橋とは、主イエス・キリストです。主イエス・キリストによって、私たちは永遠の命を与えられているのです。

・今、私たちにも主イエスの声が聞こえてきます。

「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(「ヨハネによる福音書」11章26節)

・私たちは今この問いかけに、ラザロのように信仰をもって、はっきりと、答えることができるでしょうか。「あなたは神の子、救い主メシアです」という答えを、信仰をもって答えることができるでしょうか?

・兄弟姉妹が、そして、ここにいる私たちひとりひとりが死んでも生きる復活と命であることを覚えながら、共に祈りを合わせたいと思います。






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