羽咋教会 主日礼拝説教『新しい契約』



<2004年7月4日 主日礼拝>
「ルカによる福音書」22章14節〜23節



  • 弟子のペトロとヨハネによって準備されたあといよいよ、主イエスと弟子達との間に、最後の晩餐においてパンと杯をかわす時がやってきます。 「これは私の体である」そして「これは私の血による新しい契約である」

  • それぞれパンと杯のことを意味しています。弟子達はその言葉をどのような心持ちで聞き、主イエスと食卓を共にしていたことでしょう。これらのことばは、聖餐の制定のことばです。はじめにパンを手にとって、感謝の祈りが主イエスによって捧げられています。そして、パンを裂き、使徒たちに与えて言われました。

    「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。」(「ルカによる福音書」22章19節)

  • ここで、裂かれるパンは、のちに十字架にかかられて裂かれた主イエスご自身の肉であり、「それを裂いて」という記述はそのことを、暗示する言葉でもあります。続いて「わたしを記念するために」このように行いなさい、という主イエスの言葉が述べられます。 この言葉は、すなわち「聖餐の記念」ということを意味してます。

  • 私達は日常の生活においてともすると、忘れがちになり、細かいことはいちいちメモをしていないと、記憶することができなかったりします。それが、私達人間であります。しかしここで忘れてはならないのは、主イエスの言われた言葉です。

  • 「わたしを記念するため行う」という言葉の中には、いつでも覚え、決して忘れないよう、心と体に刻みつけ、信仰をもって行いなさい、という意味が含まれているのです。

  • 従って聖餐における記念とは、神様を想起することであり、私達の単なる思い出ではありません。主イエス・キリストの過越の犠牲という神様の「記念」ということです。私達はいつでも、このパンを頂くことによって、キリストの受難を心に刻みつけ、共におられる主イエス・キリストを思い起こすことが赦されています。

  • 杯についても次のように述べられました。
    「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」

  • この杯というのは葡萄酒のことですが、この葡萄酒が、主イエスが十字架にかけられ、そこで流される私達のための贖いの血である、ということです。すなわちこれらの、最後の晩餐において前もって主イエスご自身が贖いの死と復活を暗示されていたということなのです。

  • こののちずっとそのことを覚え、行うことによって、贖いの死をいつでも心に思い起こし、主イエス・キリストが共にいて下さることを感謝することができるためです。こうして主イエスは、パンと葡萄酒をとり、祝福と感謝をし、パンをさくこと、食べそして飲むために、そのものを与えること、これらの四つの行為を行われました。それは、礼拝のなかで形式となって今に伝えられているものです。これは私達にとって記念であり、しるしであります。

  • 今日、礼拝において聖餐式を受けることが赦されている私達は、キリストのからだにあずかるものである、と言えます。そして、それはもはや死んでしまった過去としてではなく、今すでに、私達の間において、救いのためにふたたび存在し、生きているのです。

  • 弟子達と最後の晩餐において述べられた言葉とともに、主イエス・キリストが永遠に、共にいて下さいます。私達はその聖餐におけるキリストの肉と血とを、「新しい契約」として胸に刻み、主と共に生きるものとされたいと思います。






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