主日礼拝説教『主イエスの十字架』



<2004年9月5日 主日礼拝>
「ルカによる福音書」23章26節〜43節



  • 十字架刑、とは、十文字に組み合わされた木片を、死刑のための道具として、当時用いられていた当時の処刑方法です。この処刑の方法は多くの古代諸国に存在していたようですが、ペルシャ人とユダヤ人以外のセム族やローマ人によって用いられていたそうです。大体は奴隷や身分の低いもの、あるいは、ローマの市民権をもたないものに対してなされました。

  • 処刑の際は、罪人を十字架に結びつけ、そのまま放置し、餓死するまで放置するのが常であったようです。考えるだけでも、本当に恐ろしい、十字架刑です。

  • 当時は死刑囚に十字架を背負わせて、刑場まで歩かせるのが慣習であったそうです。主イエスの背中には、大きな十字架が担がれています。十字架を担いで足をひきずりながら、その重みに苦しみながらも、ただ黙って、十字架を背負われていたことと思います。

  • しかし、主イエス・キリストは恐怖と闇に覆われた、死に打ち勝つお方であることを、私達は知っています。普通の死よりも何倍も苦しみと恐怖とが共にある、十字架。死に打ち勝つ勝利、それは十字架によって信じるすべてのものが罪赦され、贖われるということです。とうとう主イエスは十字架につけられ、十字架の上でこう述べられました。

  • 「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」「ルカによる福音書」23章34節

  • 十字架刑という、苦しみの極みのさなかにあって、どうしてこのように祈ることができるのでしょうか。そのような中にあって人々に嘲られ罵られました。しかし最後に、十字架に共にかけられる犯罪人の一人が、主イエスにこう言うのです。

  • 「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出して下さい」「ルカによる福音書」23章42節

  • 犯罪人のこの言葉に対して主イエスは「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と言われました。楽園とは、つまり、犯罪人は神様の祝福と救いの喜びにあずかる、ということです。罪人がこの瞬間に「今ここでわれわれがいるのは、自分でやったことの報いである」とその罪を悔い、回心したことによって今日このときにも、彼に救いが実現し、罪が赦されたのです。

  • 『復活』という小説を書いたロシアの「トルストイ」という小説家がいます。彼の著書で『人は何で生きるか』というタイトルの本があります。「人はパンのみにて生くるにあらず。神の言葉によって生きるのである。」という御言葉を思い起こします。私達は何によって生きることができるのでしょうか?彼は著書の中で、人はだれでも思い煩うことによってではなく、「愛」によって生きるのだということを述べています。

  • そして、自分自身が生き残ることができたのは、自分で自分のことを考えたからなのではなく、とおりすがりの人とその妻の中に愛があったから、私を憐れみ愛してくれた。つまり、どのような人々も自分で生きたのではなく、人々の中に愛があったからこそ生きることができたのだ、というのです。その結果、次のように述べています。

  • 「今、わたしはさとった--人間が生きているのは、自分のことに心をくばっているからだというのは、ただ人間がそう思いこんでいるだけにすぎない。人間はただ愛によってのみ生きるのだ。愛の中にいる者は、神のなかにおり、神がその人の中にいる。なぜなら、神は愛にほかならないからだ。」 (トルストイの民話『人はなにで生きるか』)

  • トルストイは、人々は何で生きるか、それは愛によって生きる、と主張します。それでは私達キリスト者が「真に生きる」のは、何によってでしょうか?生かされているというべきかもしれません。私達は主イエス・キリストが苦しまれた「十字架の愛」によって生かされています。主イエス・キリストの十字架は、神様が私達の罪のためにこの世にお送り下さった、大いなる愛の賜物であり、愛の出来事であります。私達は十字架のみ苦しみによって義とされ、罪が赦される、その救いの出来事である「十字架の愛」によって、生かされるものであるのです。

  • 私達も共に十字架を担ぐことで、苦しみの時に主イエスと共に歩いて頂くのです。そして代わりにその愛によって罪が赦され、生かされているのです。







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