収穫感謝日礼拝説教『メシアに出会う』



<2004年11月21日 収穫感謝日礼拝>
「ヨハネによる福音書」1章35節〜42節



  • ヨハネは歩かれる主イエスを見つめてその言葉を言いました。見つめるという行為は、重要であります。ここでは「知る」こと「信じる」こと同様にして、この「見る」という言葉の中にある、深い意味を重んじているからです。

  • ただ単に、表面的に主イエスを「見た」というのでは、ないのです。それはメシアとしての主イエスの真相を、真実を「見る」、という意味であるからです。ヨハネの言った、「見よ、神の小羊だ。」 この証言によって、ヨハネの弟子であった二人の弟子は、主イエスに従うものとなりました。

  • したがった二人の弟子を振り返り、主イエスは言われました、あなた方はいったい何を求めて私についてくるのか・・・。

  • 彼らは、主イエスの「来なさい」という言葉に従い主イエスと共に、宿に泊まったということが分かります。イエスと一緒に泊まった結果、主イエスが何者かが分かり、彼らは主イエスを信じる、信仰の告白をすることができるのです。彼らは主イエスを「油を注がれたもの」と告白しました。つまり、メシア、です。彼らは主イエスをメシア、と呼び信仰を言いあらわしたのです。

  • では「油を注がれたもの」、とは一体どのような意味なのでしょうか?詩篇にそのことが記されています。

  • 「わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」
    (「詩編23篇5節〜6節」)

  • [油を頭に注ぐ]という行為は、旧約聖書において、王や祭司の任職式の際に行われていた行為であったそうです。
    この地上の王なるキリストが来られるということを表現するのが、メシアであります。

    ・このメシアについての考え方には、聖書の中でも歴史的な変遷があります。ダビデのうちに神が約束されたという、永続的な王国継承という見方が、サムエル記において記され、そのことが貫かれています。メシアがダビデの子孫のうちより生まれ出ること、そのことが約束され、彼は世を治め、公平と正義を行い、民を救う
    ということ、です。

  • 主イエスに従っていった二人の弟子は、この「メシア」に出会ったということを告白しています。メシアに出会い、二人の内のひとり、シモンと呼ばれる弟子のひとりは、「ケファ」という名前に変えられます。ケファは、「岩」という意味です。

  • この一連の出来事のなかで、ひとつ大切な行為があります。それは、二人の弟子がメシアであるイエスと出会って、イエスのもとに泊まった、というこの行為です。泊まる、という言葉のもともとの意味は「留まる」という意味です。すなわち、「イエスのもとに留まる、イエスの愛の内に留まる、神の愛のうちに留まることになる」、こういう意味をもっているのです。

  • ヨハネによる福音書の15章には、ぶどうの木の譬えがあります。そこに記される言葉にもこの留まる、という意味の新約聖書の言葉が使われています。それは「つながる」という言葉です。イエスのうちに留まる、ということは、ぶどうの木の枝として、主イエスにしっかりとつながっている、というその状態を指すのです。

  • つながっているというのは、楽なことではありません。しかし私達は、人生の途上において、メシアである主イエスに出会い、そして、教会において、礼拝に与ることによって、主イエスのもとに
    留まり、神様の愛のうちに生かされています。

  • メシアと出会うという出来事は、私達にその現実を確かに示して下さいます。メシアと出会って、私達は人生が神様のものとなり、新しく変えられることで、新たに生きる力を、神様から頂くものと
    なるのです。







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