主日礼拝説教『永遠の命に至る水』




2005年2月6日 主日礼拝説教
聖書箇所 「ヨハネによる福音書」 4章1節〜26節


  • 「永遠の命」という言葉を聞き、私達は思います。「永遠の命」そんな命が存在するのであろうか−。このように思うに違いないのです。

  • フロイトという心理学者は、人間の命について「あらゆる生(命)あるものの目ざすところは死である。」こう述べています。けれども、私達キリスト者は、人間の命を「限りあるもの」として捉えてはいません。そうではなく、死ということのその先にあるものを与えられているのです。死のその先にあるもの、それは「永遠の命」です。

  • 「永遠の命」を賜っているキリスト者として、私達はそのことをどう捉え、受けとめたらよいのでしょう。私達が頂くことのできる水、それは真実で、清く、いつでも新鮮で、決して乾くことのない清らかな生命の水、生ける水、です。その水を得ることによって、永遠の命を賜るものであるからです。永遠の命に至る水とは一体どのようなものなのでしょうか。

  • 今日お読みした箇所には、主イエスとサマリヤの女性との出会いによって、まことの礼拝をするものとされることが、記されています。主イエスの弟子達が、ヨハネよりも多くの人々に洗礼を授けている、ということがファリサイ派の人々の耳に入りました。そのことを知った主イエスは、その土地を離れようとユダヤを去ってガリラヤへと向かわれました。

  • しかし、ガリラヤへ行くには、険しく寂しい「サマリヤ」という地を通らなければなりませんでした。サマリヤ、という地を行く途中で、ヤコブがその子ヨセフに与えた、シカルというサマリヤの町を通ることになりました。このヤコブの事柄は、旧約聖書の創世記に記されています。旅に疲れた主イエスが休んでおられるとサマリヤの女性が井戸へ水を汲みにやって来ました。暑い昼間であったのでしょう。真夏の太陽が照り返すような日差しのなか、身も心も渇き、井戸に水を求めてやってきたのです。

  • 当時、正午の真昼の時間に女性が水を汲みにやってくるということは、珍しいことだったそうです。当時の人々は朝起きたらまず、井戸へ行って水を汲みに行きます。そして足りない場合には、夕方も井戸へ水を汲みに出かけたのです。日中の暑いパレスチナ地方では、朝と晩が井戸へ水を汲みに行く時間であったようです。ですから、正午に水を汲みに来るというのは、人に知られないようにして水くみにきたと考えられます。「水を飲ませて下さい」という主イエスご自身の言葉によって、この出来事が始まりを告げています。

  • この女性は「五人の夫がいて、今連れ添っているのは夫ではない」という程の女性です。人々から白い目で見られて生活をしていたことでしょう。従ってこのサマリヤの女性は、人目を避けるようにして生活し、人々から仲間はずれのような状態で、生活をしていたのではないでしょうか。

  • ある神学者の解釈ではこの箇所における、サマリヤの女性「五人の夫をもっていた」とは、多くの神様に仕えていた、ということをさし、主イエスにより生きた水をもらうことによって、ひとりの神様に仕えるようになったということであると解釈をされています。正午に水を汲みに来たということ以外にも、注目するに値する事があります。それは当時のパレスチナの地域には、一つの町や村に井戸が一つしかなかったので、水を得るということが困難な状況にあったということです。その貴重な水を得ると言うことは、明日生きていくことができるかどうか、ということです。生きるか死ぬかの問題です。そこから、命の問題を問うということと、本当の意味で人間の存在に必要な水を汲むということが深く関わり、その意味が問われているのです。

  • 水を飲ませてください、といった主イエスに対して、その女性は言いました。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(「ヨハネによる福音書」4章9節)

    ユダヤ人とサマリヤ人とが交際をしない間柄であったということを示しています。「この深い井戸からその生きた水を一体どのように汲むのでしょうか」彼女は物理的にその水をどこから手に入れるのか、と問いました。目に見える、存在としての「水」について、愚かな質問をしたのです。

  • 「私達の父ヤコブよりも偉いのでしょうか」(同書、4章12節) 当時、サマリヤ人たちは、彼らの存在の根拠がヤコブの井戸にある、と考えていたからです。この女性が、わざわざ正午に、ここに汲みに来たその水よりももっと、素晴らしい水を与えることができるというのです。ならばあなたは、ヤコブよりも偉いのですか-、こういう意味になります。

  • イスラエルの歴史を考えますと、ヤコブの十二人の子どものうち、ヨセフとその子孫がサマリヤ、北王国イスラエルの担い手となっています。また、ヤコブの他の兄弟のうちユダとベニヤミンといった子孫は、南王国の担い手となっています。要するにヤコブは両方の王国における先祖として、父として崇められていたのです。創世記には、ヤコブという人物がイスラエルという名前に変えられるという箇所があります。

  • やがてサマリヤの女性は主イエスのほうに、その、生きた水を求めることとなります。すると主イエスは言われました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(同書、4章13節)

  • 女性は、「主よ、その水を下さい」水を求めました。主イエスは更に、告げました。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(同書、4章24節)

  • 実は、この言葉の中に、「永遠の命に至る水」「生きた水」を得ること本当の意味が記されています。「永遠の命に至る水」は、霊と真理をもってまことの礼拝を捧げるときにこそ、与えられるものであるからです。与えられる水は、私達の御言葉という「命の水」です。御言葉という泉から、水を飲むことによって、私達は永遠の命を得ることができるのです。

  • 永遠の命に至る水、それはまことの礼拝に与ることによって得られる御言葉の恵みです。真実の礼拝を守ることによって、人は魂の乾きを潤し、癒されていくからです。そこで癒されていくのはほかでもない、礼拝している私達です。魂と心が潤っていると自然と生活が潤ってきます。神の豊かさによって生きるものとなることができるからです。

  • 身も心も渇ききっていたサマリヤの女性。この女性が得た水は、真の礼拝を捧げる事によって得ることのできる、御言葉の水から与えられる「永遠の癒し」です。これこそが、永遠に乾くことなく魂を潤し、人を生かす命の水であると言えるのです。






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