主日礼拝 説教断片  働いておられる神




2005年3月6日 主日礼拝説教
聖書箇所 「ヨハネによる福音書」 5章1節〜18節


  • 受難節になると、思い起こす記憶があります。言葉の記憶と申しましょうか。「イエス様が担った十字架に比べると、私達の受ける試練や苦しみなんて、軽いものだから、イエス様の十字架の苦しみを思えば試練も耐えられる」こういう言葉です。どこかで誰かによって述べられたこの言葉によって、幾たびかの試練を乗り越えてきたという記憶があるのです。

  • キリスト者には、十字架という苦難が与えられているのではありません。十字架によって、私達の苦難が「担われて」いるのです。受難節は、日毎に主イエスのそのような深い愛を、覚える時です。それでは、主イエスが何故に、そのような苦しみを受け、それに耐えることができたのでしょうか?それは、ひとえに神の力が働いておられたからであると思います。神様は今現在も働かれる神、であります。「わたしの父は今もなお働いておられる。」 (『ヨハネによる福音書』5章17節) と、主イエスご自身によって述べられている通りです。

  • エルサレムの「羊の門」と呼ばれる場所のそばに、「ベトザタ」と呼ばれる池がありました。この池は、口語訳の聖書では「ベテスダ」と呼ばれています。「ベテスダ」、というのは「憐れみの家」とか、「恵みの家」、「いつくしみの家」と言う意味にあたります。「憐れみの家」と呼ばれるこのベトザタの池で、大勢の人たちが横たわって何かを待ちかまえておりました。憐れみの家では、大勢の病人が待ちかまえていたのです。「癒されたい、治りたい」、こういう気持ちで待っていました。水の動くときに一番に池に入った者は、どのような病気にかかっていても癒されるという言い伝えがあったからです。

  • 大勢の人々のなかには、足の不自由な男がおりました。彼は、まさに十字架のような苦しみを背負って、たったひとりで38年間もそのことに耐えて、生きていました。彼に、主イエスが深い憐れみをもって声をかけられました。「良くなりたいか。」 (同書、5章6節) 

  • 良くなりたいのは当たり前です。必ず病が治るというこの池の水が動く時を、待っているのですから。治りたいという気持を、ベトザタの池にいた足の不自由な彼に、あえて質問するのはなぜでしょうか?真剣に良くなりたい、救われたい、という気持ちをもっているかどうか、ということを改めて問うておられるのです。
     
  • このベトザタの池について少し考えてみたいとおもいます。この池は、ベツサイダ、などと呼ばれ特に口語訳聖書ではベテスダという名前で記されています。ベト・エスダと呼ばれている一地域がある、という記述が今でも死海写本の一冊には残っているそうです。そのベト・エスダが後にベテスダに変わっていったのだそうです。

  • 特徴としましては、長方形の池で二つに区切られており、その池を囲むようにして回廊があったということが分かっています。このような池で人生に疲れ、不自由な足に重荷を感じて横たわっていた彼は、もう癒されるチャンスなどないのだろう、と肩を落としていたことでしょう。主イエスの問いかけに対して、次のように述べたのです。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」(同書、5章7節)
     
  • 足が不自由であった彼が述べた訴えは、「誰も池に入れてくれるものがいない」、「しかも私より先に降りていく」、という嘆きの言葉でした。まもなくすると、すぐ主イエスは言われました、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(同書、5章8節)

  • すると、起きあがることなどできなかった彼が起きあがり、歩けるようになったのです。絶望のなかで、あきらめ掛けていた救いが彼のところにやってきたのです。多くの人が先に入っていくのを見た、その癒しが、彼にも、もたらされたのです。それは、「床を担いで歩きなさい」という主イエスの言葉が表しているとおり、現実の重荷を担って、罪を担いで歩くということにほかなりません。しかし、彼は一人で歩くのではありません。主イエスに重荷を一緒に担って頂いて歩くのです。安息日に癒して下さったそのことによって、後にユダヤ人から咎めを受けることになります。イエスを殺そうという計画にまで至ります。

  • しかしそこには、主イエスの十字架の姿があります。十字架を担いで歩く主イエスは、私達の罪を背負って、すべてを引き受けて十字架に掛かられたからです。旧約聖書のイザヤ書には次のような御言葉があります。「あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(『イザヤ書46章3節』)

  • 床を担いで歩くことのできるようになった足の不自由であった彼には、このような神のみわざが働きました。神様によって背負われ、担われ、救い出されるという神のわざです。今、現実に生きている私達の間に働かれる神のみわざ、それは主イエス・キリストの十字架によって罪が担われ、赦されるという、救いのみわざです。

  • 主イエスの十字架による救いが、私達に神のみわざとして、今も、働いています。聖書に在るとおり、「わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。」神様が今も働いておれるということ、それは私達の重荷を全て担い、最後まで共に歩んで下さるという、主イエスを通して働かれるみわざなのです。足の不自由であった彼は、私達ひとりひとりなのではないでしょうか。

  • 罪の重荷に苦しんでいる不自由な魂が、主イエスによって罪が担われ、自由になって歩くことができるからです。今、私達にも主イエスの声が聞こえてきます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」その声に奮い立たされて、罪の束縛から自由になり、力強く起きあがって、主イエスと一緒に歩き出したいと思います。

    ベトザタの回廊 復元模型








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