『シメオンの信仰』

<2002年5月5日 主日礼拝>
「ルカによる福音書」2章22節〜35節



・幼子イエスの両親は、旧約聖書の規定にあるモーセの律法に定められている<彼らの清めの期間>が過ぎた時、主に捧げるために、エルサレムへと向かいました。そこで、信仰厚いシメオンと出会うのです。

・ここでは、「主に捧げられた聖なる者」として、の幼子イエスが書かれています。『生まれる者は聖霊による、従って聖なる者と呼ばれる。』という事柄を指しています。生まれた子は、「聖別される」ために、捧げられました。聖なる者になること、それはすべて聖霊によることです。さて、ここではその事を、心から信じ、待ち望んでいた人物がおりました。シメオンという人物です。

・シメオンは、神様から、御告げを受けていたからです。「主が遣わすメシアに会うまでは、決して死なない。」というものでした。また彼はイスラエルの慰められるのを待ち望んでおり、何よりも<聖霊>が彼にとどまっていた、とはっきりと記されています。また、シメオンは、<正しい人で信仰があつい>ものであった、ということも記されています。

・シメオンは、まさに<霊>に導かれてきた通り、神殿の境内で幼子イエスと出会ったのです。シメオンはその子を腕に抱き、神様を賛美しました。また、このルカによる福音書には、ヨセフとマリア以外の登場人物は、旧約聖書の信仰を写し出しているかのような、古い世代の人間ばかりで、しかもとても信仰深いものたちばかりが、登場してくるのです。ずっと待ち望んでいた、旧約聖書の信仰が、今、この時、実現するという預言の成就の強調をしているからです。

・「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」シメオンは、幼子イエスの姿を見て、待ち望んでいた救い主メシアであると、確信をしたのでした。<万民のための救い>であり、<誉れ>であり、<啓示の光>である、このようにたたえています。

・信じるものには、救いであるし、そうでないものには、倒されるためのものであり、そのことは、<剣が心をさし貫かれる>ほどの痛みとなる、分裂であることを、預言しています。シメオンは、賛美と祝福のすぐあとに、このような受難を預言するような言葉を述べているのです。

・これはすべて「多くの人の心にある思いがあらわにされるため」であるのです。また一方、年老いていた女預言者アンナが登場します。昼も夜も神に仕えていた信仰厚い預言者です。神殿で、彼女は神様を賛美し、エルサレムの救いとしての、幼子イエス・キリストについて、待ち望んでいる人々に向かって話し出したのでした。

・「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
・シメオンの信仰は、まさに、この言葉にあてはまります。待ち望んでいた救い主メシアを、その目で見、確認したのです。また、見るまえから事実としてその事を確信していました。その確信を、幼子イエスの姿を神殿において見るだけでなく、抱いて、賛美し、その事実を祝福をもって確認したのでした。まさしく、これは、シメオンの信仰による事柄であり、私達にもそのような信仰を持つことを、求められているのです。




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