主日礼拝 説教断片 主日礼拝説教『命をも捨てる羊飼い』




2005年7月24日 主日礼拝説教 小松教会にて
聖書箇所 「ヨハネによる福音書」 10章7節〜18節


  • 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。」(ヨハネによる福音書10章10節)

  • 羊とは、私達一人一人のことであります。私達一人一人をいつでも守り、養って下さるのは主イエス・キリストです。それでは、羊というのはどのような動物でしょうか?とてもか弱く、臆病な動物です。さらにいうと、迷いやすいという性質を持っています。しかし、羊は徹底して羊飼い達によって守られています。守られている羊は、のんびりと草をはみ、幸せに生きることができるのです。このように考えていくと、羊が私達で羊飼いは主イエスであることが分かると思います。私達は、主イエスによって、神様の守りの内に幸せに生きることができるのです。私達は御言葉によって養われ、正しい道へと導かれているからです。

  • 「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」(同書 10章11節)

    主イエスは、言われました。自分自身の命を投げ打って、犠牲にしてでも羊を守ろうとする羊飼いです。この言葉は、主イエスご自身のことを示しているといえます。十字架にかかり私達の罪の贖いのために、堂々と神様の御前に捨てられたキリストの命を表すしている、といえます。

  • 旧約聖書の詩編23篇には次のように書かれています。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」

  • 「死の陰の谷を行く時も、災いを恐れない。」この言葉は私達の実際の生活のなかに、ひしひしと伝わってきて、その言葉の重みが響いてきます。死の陰の谷を行くような辛く苦しい時にも、耐え難いような悲しみや孤独のうちにあるときも、信じて従う者には主イエスが共にいて下さるので、何も恐れる必要がないのです。

  • 主イエスは羊飼いであり、信じる私達を憩いの水のほとりへ、安らかな安住の場所へと導いて下さます。ですから、私達はいつでも安心して、安全なところで、幸福に満ちて生きることができます。また、私達の魂を青草の原に休ませて下さるので、疲れた魂に、元気を取り戻す事ができるのです。

  • 当時、羊飼いと呼ばれる職業は、当然ですが、羊の群れの世話を仕事する人びとのことをいいました。羊飼いは、イスラエルの歴史のなかで古くから存在していたものだそうです。特に旧約聖書に登場するアブラハム以下の先祖達がそうであったようです。彼らははじめ、天幕に住んで、草地を求めて移動をしていたのです。やがて定住の生活に入りその僕に羊の世話をさせて毎朝、羊の群れを牧場に導き夕方になると、おりに連れ帰ってくるという役割でした。遠い場所においては、仮小屋を建てて、しばしば牧者は野宿をして群れの番をしていたのです。そこには、羊を守る牧者の姿があります。

  • 主イエスは言われました。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」

  • 当時の羊飼いというのは、何千匹もいる羊の群れを、飼っていました。羊飼い達は特に、羊の1匹1匹をとてもよく知っており、とても大切に名前をつけて呼んだりしていました。羊たちもそのような飼い主の優しさに答えるようにして、飼い慣らされておりました。主イエスもまた同様です。私達一人一人をよくご存じで、大切にして下さいます。

  • 羊という動物は性質はおとなしく、迷いやすい動物でありますが、よい羊飼いに飼い慣らされている羊は、本当に幸せであったと思います。けれども、ここで気が付くことは、主イエスは普通の羊飼いのごとく、囲いにいる羊だけの番をし、その羊だけを導いているのではない、ということです。羊の囲いの中は、神の国です。羊たちは、主イエスを信じる私達です。主イエスによって、その囲いの外にいる人びとにも救いが与えられます。主イエスは、信じる者を誰もお見捨てにはならないのです。

  • 「わたしは羊のために命を捨てる。」(同書 10章15節)

    このようにおっしゃられた主イエスの言葉は、私達が誰よりもよく知っています。私達の群れの牧者は、主イエス・キリストであり、最も大いなる牧者は、この地上を納めておられる全能者、父なる神です。

  • 羊飼いである「この世の牧者」である牧師は神と主イエス・キリストの仲介人であり、主の僕であります。しかし、私達キリスト者全体の「牧者」は、主イエス・キリストただおひとりである、そのことを忘れてはなりません。私達は、羊飼いなる主イエスによって養われ、魂に元気を取り戻し、牧草地としての教会へと招かれているのです。

  • それだけでなく、羊飼いは私達のような羊一匹一匹のために命を捨てて下さるほど、一人一人を愛して下さるお方なのです。
    すべてを委ね信頼して、命を捨てて下さるほどの羊飼いなる主イエスに、従っていきたいと思います。









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