主日礼拝 説教断片 主日礼拝説教 『イエスの涙』




2005年11月23日 主日礼拝説教
聖書箇所 「ヨハネによる福音書」 11章28節〜37節


  • 私達は、悲しみの時、喜びの時、また悔しい時、別れの時に、涙を流します。あるいは、本を読み、映画を見て、また人の話しに共感を覚えて感動の涙を流します。

  • このようにして、私達人間には、涙のない人生などあり得ないと言ってもよいでしょう。「1リットルの涙」という小説があります。1リットルという涙を流すには大変な時間と労力が費やされます。1リットルは小さなペットボトル1本分の涙です。そのような大容量の涙の背後には、 病気にかかっている一人の女性の存在があり、彼女のかけがえのない人生が綴られているのです。

  • しかし、私達が何度流したとしても到底その価値には及ばないような涙があります。 主イエスの涙です。聖書の中においてたった一度だけ、イエスが涙を流されたことが記されています。

  • 主イエスは、迫害を受けた時、十字架上の苦しみの時、あるいは復活されたとき、涙を流されたでしょうか。ご自身のためには、決して涙を流さなかったのです。主イエスは愛する友、ラザロの死について涙を流されました。ラザロのことをどれほど愛しておられたかということが、主イエスの涙によって知ることができます。

  • マルタとマリアの兄弟ラザロは、死んでしまいました。ラザロが亡くなる二日ほど前に、主イエスのところにはラザロが病気であることが知らされました。それから日数がたちここでは、死んで四日という日にちが経過していたのです。
  • 彼の死は完全なる死であったということが分かります。

  • 完全に死んで墓に葬られたそのラザロを目の前にして、ラザロの姉妹マルタは主イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われた言葉を信じました。マルタは家に帰ってから今度は姉妹のマリアに、主イエスがあなたを呼んでおられることを告げました。「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。」

  • 人びとは、彼女がイエスのところへ、泣きに行くのだろうと思っていたのです。しかし、急に立ち上がり、イエスの足下にひれふし、マリアはこう言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに・・・。」 聞き覚えのある言葉です。

  • 彼女はなんと、マルタと全く同じ言葉で、主イエスに訴えかけたのです。マルタと同じ言葉が告げられていることに、繰り返しマルタとマリアの悲しみを思い起こします。

  • この悲しみの場面を目の前にして、主イエスは憤りを覚え興奮したと、記されています。主イエスがこのように感情的になるというのは、聖書の中でも珍しい事であると思います。主イエスはなぜ憤られ、興奮されたのでしょうか?

  • 主イエスは一人の人間としてラザロの「死」を受けとめ、一緒に彼の死を悼んでおられたと受け取ることができます。けれども本当は、主イエスはマリアが既にラザロを葬ったというその「事実」に対して憤られ、涙を流されたのではないでしょうか。主イエスはこう述べられました。「どこに葬ったのか。」

  • 主イエスは既に葬られているラザロの姿を見て、涙を流されました。「イエスは涙を流された。」この一言の言葉には、多くの意味が含まれていると思います。けれども、なぜ涙を流されたのかは全く記されていないのです。この時主イエスは、葬られたラザロの遺体を見て憤られ、涙を流されたのではなく、そのような死の支配に対してただ嘆くばかりの人びとに対して、憤られ涙を流しておられたのです。ここで流された主イエスの涙は、私達のこの世に対しての涙なのではないでしょうか。

  • 私達はこのたった一度の主イエスの涙を、心の内において置かなければなりません。 たった一度きりの涙というのは、それだけで意味が深く私達には印象的なものです。愛する友ラザロの死を目の前にして、何もできずただ悲しむばかりのマリアに与えられたのは、死という悲しみの事実に服するばかりの弱さではありません。彼女に与えられたのは、イエスの熱い涙でした。

  • 旧約聖書には、嘆きの涙が幾度か記されています。なかでも、悲しみが表されている次のような箇所があります。「わたしの頭が大水の源となり わたしの目が涙の源となればよいのに。そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう 娘なるわが民の倒れた者のために。」

  • 昼も夜も泣くというのは本当に大変なことです。しかし、泣くという言葉を旧約聖書では、悲しみや嘆きの時に用いられるのがほとんどです。たとえば詩編80篇には、次のように記されています。「あなたは涙のパンをわたしたちに食べさせなお、三倍の涙を飲ませられます。」「涙のパンを食べる」「涙をのませられる」というのは、苦難と悲しみの内に過ごす人の姿を表現しています。

  • しかし、私達に与えられている涙は、悲しみばかりではありません。主イエスが十字架に掛かられて復活されるという出来事は、私達にとって涙でありまた喜びであります。その出来事を前にして描かれている「ラザロの復活物語」全体には、復活を信じることのできない人びとと、死のような支配に従って暗闇の道を歩んでいこうとする私達に対する「涙」が流されています。

  • この涙を私達は「信仰」という器で受け止めて、大切にしていかなければならないと思うのです。私達は、嘆きの涙ではなく、川のような大水の源のような涙ではなく、たった一筋の主イエスの純粋な涙を与えられ、神様の愛の内に生かされていきたいと思います。










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