主日礼拝 説教断片 主日礼拝説教 『弟子の足を洗う』




2006年2月5日 主日礼拝説教
聖書箇所 「ヨハネによる福音書」 13章1節〜11節


  • 主イエスが弟子の足を洗うという、洗足の場面です。当時、足を洗うという行為は、最高の謙遜を現していました。同時に、足を洗うというのは象徴的な愛の行為でもありました。弟子達を心から愛された主イエスの姿です。この出来事は、最後の晩餐の席で行われたものです。「夕食の時であった」と告げられている通りです。

    主イエスが十字架にかかられる直前のもので、最後の晩餐は、過ぎ越しの食事としてなされたものです。

  • ここで私達は、教会の暦のうち「洗足木曜日」と定められている日のことを、思い起こします。受難日の前日です。今年は、4月13日が洗足木曜日となっています。主イエスが弟子達の足を洗い、受難に向かわれたことを記念する日です。

  • この出来事のはじめに主イエスは、ご自身がこの世を去る時すなわち、神様のもとに帰る時が来たことを悟られました。

  • 「この上なく愛し抜かれた」というのは、「極限に至るまで、最も愛された・・・」

    という意味と、「最後まで愛し抜かれた・・」という意味の両方を含んでいます。主イエスは極限まで、そして最後まで弟子達を愛されたのだということを、ヨハネによる福音書は十字架の出来事の直前にこの出来事を描くことによって、示そうとしました。

  • 静かな夜、弟子達は知らずに楽しそうに食事をしています。これが、最後の晩餐だとは知りもしないで、和気藹々と食事をし、おしゃべりをしています。そのような普段と変わらない夕食の席で、主イエスが何の前触れもなく、弟子達の足を洗いました。ひとりまたひとりと、順番に弟子達すべての足を洗い始めました。腰にはてぬぐいをつけ、たらいに水をはって足下にしゃがみ込まれたことと思います。 静かな夕べに、足を洗うたらいの水の音だけが、響いています。

  • 私達はこの場面をイメージしたときに、主イエスが心を込めて弟子達に愛を現そうとされた、心のこもった行為をなされたことに感慨深くさせられます。主イエスは、足を洗うという奴隷の役目であった行為を、ご自身の弟子になさったのです。驚いたペトロは「足など決して洗わないで欲しい」と述べました。すると今度は主イエスが、こう告げられました。

  • 「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」

  • 何の関わりもないとなるとペトロはあわてて、「それでは手も頭も洗って下さい」、と述べるのです。しかし、主イエスは、体を洗った者は全身清いのだから・・これでよいと言われます。

  • 日常の言葉で「足を洗う」という言葉があります。人生で何か悪い道にはまっているときに、「足を洗う」という言葉によってその道から正された事を意味します。足を洗うというのは、裸足で修行のために歩いた修行僧が、泥足を自分で洗う事によって一日を終え、悪行から洗い清めるという意味で遣われたのが言葉の語源だそうです。

  • しかし、聖書では、足を洗われるのは主イエスご自身です。主イエスが私達ひとりひとりの汚れた足を洗って下さいます。私達は罪深く、汚れた愚かなものですが、このような罪に染まった私達の足を洗って下さるは、主イエスです。主イエス・キリストがみずからの手で私達の足を清めて、綺麗にして下さいます。私達はこの足で主の道を、歩いていくのです。

  • 主イエス・キリストがみずから、弟子達の足を洗われたという行為の中には、もうひとつの意味があります。それは僕の姿としてのキリストです。私達の間で最も低い者、「奴隷」のするような役目をみずからがなされた、私達の僕となって仕えて下さったキリストの姿がそこにあります。

  • 神様ご自身が、私達の足を洗って下さり、十字架という無惨な姿で僕として仕えて下さったこと、その愛はとても深い愛です。十字架によって僕の姿をとられたキリストは、復活によって栄光の姿に変えられました。すぐそばで触れていただき、みずからひまづいて弟子達の足を洗われたキリストは、そのことによって神様の愛を現して下さったのです。足を洗うということはまた、洗礼にも結びついています。

  • 「わたしがあなたがたを洗わないならば、何の関わりもないことになる。」といわれた主イエスは、私達を洗礼という洗い清めによって、信仰者の道を歩ませて下さいます。

  • こうして主イエスによって洗い清められた私達は、お互いに愛し合い仕え合うことの意味を知ることになります。主イエスご自身が洗って下さったように、神様の愛は私達と同じ目線で、僕の姿としてなされる愛であります。イスカリオテのユダの裏切りを知りつつも、最も愛と信頼に溢れた行為を、主イエス・キリストを通して神様が、みずからなされたのです。

  • 最も醜く汚い私達の足を洗って下さるのは、主イエス・キリストです。こうして神様によって罪を洗い清められた私達は、綺麗に洗われたこの足で主の道をまっすぐに、キリストとの深い関わりをもった信仰者として、歩んでいきたいと思います。











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