『よみがえられた主イエス』

<2003年4月20日 イースター礼拝>
「ルカによる福音書」24章1節〜12節



・十字架上で苦しみを受けられ、私達の罪のために死なれた主イエスは、その三日目に復活されました。香料を持って遺体に塗るために主イエスを見届けた婦人たちは、墓を訪れました。恐らく、主イエスの死を心から悲しみ、安息日を過していたことでしょう。明け方早く出かけた墓が、空っぽであるのをみて驚きました。

・「途方に暮れていると」、とありますが、信じがたい出来事に、恐ろしくなったことでしょう。すると二人の輝く衣を着た人が現れたのです。そして言いました。「生きておられる方をなぜ死者の中に捜すのですか?」婦人たちは、「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、」という言葉を思い出しました。すでに主イエスがガリラヤにおいて、御自身の死と復活を預言されていたのです。

・彼女たちは、使徒たちにこの喜びを知らせました。しかし使徒たちはすぐには信じなかったのです。ぺトロは、主イエスのことを確認するために墓に向かいました。しかし、空っぽの墓に主イエスが見当たらないのを見て、驚きながら、家に帰っていきました。

・「本当に主は復活して」このように使徒たちとそ仲間達はこの後に証言しています。その言葉は私達の信仰の中心でもあるように思うのです。バッハの教会カンタータにM.ルターの「復活祭」という詞の曲があります。「キリストは死の縛めうけて」という曲です。そこにはこう歌われています。

・「それはくすしき戦であった。死と生命とが取っ組み合った。生命のほうが勝利を得、死をまるごと呑み込んだ。・・・死はあざけりとなりはてた、ハレルヤ!」復活の喜びがM.ルターの書いた歌詞に、荒々しい言葉尻ですが、本当によく表されているように思うのです。

・見えない事実としての主イエスの復活を信じることは、信仰そのものであると思います。私達の信仰は、復活の希望の中にこそあるからです。なぜならば、「本当に主は復活された。」からです。




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日本基督教団 羽咋教会
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