『少年イエス』

<2002年5月12日 主日礼拝>
「ルカによる福音書」2章39節〜52節



・この物語は、主イエス・キリストが少年時代の頃のお話しです。両親とイエスは、過越祭のときにエルサレムへと上っていきました。その頃のイスラエルにおきましては、男子が13歳になると、エルサレム神殿へ参拝するのが、当然でありました。つまり、当時、成年に達したすべてのユダヤ人は、民族の三大祭りであります、過越祭、除酵祭、仮庵祭、をエルサレムにある、民族教団と共に祝わなければならなかったからです。

・祭りの期間が終ってからのち、帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残ったままで、両親は歩いて行きました。両親、ヨセフとマリアはイエスが残ったままでいる、そのことには、気が付かなかったのでした。イエスが道連れの中にいると思いながら、一日分の道のりを歩み進めてしまってからいないことに気がつき、必死に親類と知人の間を捜しまわりました。

・ようやく見つけだされた少年イエスは、ここで両親が捜しているとも知らずに、神殿の境内にいたのでした。なぜならば、その境内にいて、学者たちと、話しをしたり、質問をしたりしていた、というのです。

・「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」この言葉によって、マリアはどれほどの衝撃を受けたでしょうか。その衝撃は、父親であるヨセフにもあてはまります。少年が口にした言葉、「自分の父」とは、ヨセフのことではなかったのです。少年が将来は、ヨセフとマリアのもとにはいない、家族とは別れるということの必然性が、既に語られているからです。

・少年が「自分の父の家」と言っているのは「神殿」のことであり、従って、「自分の父」とは、神様のことであるのです。ヨセフとマリアがどれほど心配になって、必死で捜したことでしょうか。

・のちになっても、母マリアは、「これらのことをすべて心に納めていた」と言います。「これらのこと」とは、少年の神殿での出来事だけなのではありません。あのように強く、自分を示したイエスが、今はこんなに自分たちに仕えてくれている、ということにおいて、心に納めるべき事柄だったのです。忘れようとしたのではないのです。心に納め、そのことを母として重く受け止め、当時は意味の分からなかった少年の言葉を、たびたび思っていたのです。

・少年であったイエスと日々を共に過したマリアは、一日たりとも、神殿での出来事を忘れなかったのかもしれません。町や村の中をしきりに捜し回ったあの日、少年は、この世的な世俗の中にいたのではなく、神の言葉を語り、聞き、賛美し、礼拝をする場所にいたのでした。

・この世の家族や肉身の絆の中に信仰があるのではなく、神の家に、神の言葉の中に信仰があるのです。私たちも、あの日の少年の姿を、捜し、見つけだしたヨセフとマリアのように、神様のみもとを捜し求めて、信仰を見出すことが大切なのではないでしょうか。




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日本基督教団 羽咋教会
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