羽咋教会 主日礼拝説教『内なる光』



<2003年7月20日 主日礼拝>
「ルカによる福音書」11章33節〜36節




  • ともし火について、さらに言うならば、「内なる光」について記されています。ここでは、主イエスの宣教そのものが光に喩えられます。そこから聴くものに対して、その光を、私たちがあるいはいたずらに、暗闇のなかにほおっておくようなことを警告しています。

  • 「あなたの体のともし火は目である。 」(「ルカによる福音書」11:34)

  • 主イエスの説教、また聖書の御言葉は、「人を救う光」、です。その主イエスの光を見ることができるのは、私たちの目です。それは心の目だけが見る事のできる光です。

  • 幼子の頃には澄んだ、綺麗な目をしていても、大人になるにつれて次第に濁ってしまいます。大人になると、幼子のもつ単純な心の目を、保つ事が困難になるからです。幼い子供のように、一途で、単純な心の目をもつことができなくなってしまうものです。

  • 自分の中にある心の目、体のともし火は目であり、その目が澄んでいれば、全身が明るいというのは すなわち信仰が輝いているかどうか、ということだと思うのです。信仰が曇ったり、霞んだり、濁っていたりしていないかどうか、常に調べなさいという警告を、主イエスがなされているのです。

  • 少しも濁ったり、暗い部分がないならば、心の目がすんでいるならば、あなたの全身が明るいというのは、主イエスが私たちを照らして下さるからです。私たちの内に有る光が主イエスによって照らされて輝く事ができるように、常に備えていなければならないのです。

  • その光そのものが自分の体の中に存在する、とされ「内なる光」として、目が喩えられています。また、当時の家庭におけるともし火は、生活において本当に不可欠なものであり、いつでも消えないように油を用意し、ともし続ける必要があったそうです。

  • 私たちにとって「内なる光」としての、心の目によって照らされる光を輝かせ続けるには、主の御言葉を油として備え、蓄えて置く事が必要なのではないかと思うのです。そのような「光」を内に秘めるような信仰を持つものとされたい、そのように思います。

  • 「内なる光」を灯し続け、全身が照らされて明るく光り輝き、
    主の御言葉としてのともし火を、世に掲げていきたいと思います。







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