『御心ならば』



<2002年7月21日 主日礼拝>
「ルカによる福音書」5章12節〜16節



・さて、ここで登場してきます病は「らい病」です。最近の新しい聖書には、同じ新共同訳でも、「らい病」ではなく「重い皮膚病」と記されています。旧約聖書には「ツァーラート」という言語で記され、「むち、こらしめ」などの意味を持っています。この病気は神様から打たれたものと見られていたのです。口語訳では「らい病」と訳されていますが、それはどうも病理学的に間違った訳であるということで、のちの新共同訳では、「重い皮膚病」と改正されたのです。

・このように重い皮膚病を汚れたものとして、記されているのです。この皮膚病とは、現代医学では「ハンセン病」と呼ばれ、特に他の病とは区別されていました。この皮膚病にかかったものは、社会から阻害され、人里離れた場所で療養生活をすることを強いられていました。今では、良い薬も開発され、ハンセン病の裁判が勝訴であったということで、世間的にも社会的にもこの病が認められていることの証しがなされています。

・ここで、皮膚病であった患者は、主イエスに懇願しました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」

・「御心ならば」・・・・。このように述べています。心の底からの叫びのような思いを、主イエスに、懇願するように頼むのです。それでは、「御心」とはいったい何でしょうか?私たちは祈りを捧げるときにしばしば「御心ならば・・・」などというように祈ります。それでは、お祈りのときに「御心」とは、どのような意味を現して言っているのでしょうか。

・「御心」とは、人間にむけられた神様のご意志のことを指しています。神様が「御心に留める」という用法が旧約聖書にはよく記されています。創世記8章1節などには、「神は、ノアと彼と共に箱船にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め・・・」と記されています。新約聖書におきましては、主イエスの人格とその業を通して、御心が啓示されています。主の祈りでは、「御心が地にもおこなわれますように。」と祈ります。

・神様の究極の「御心」とは、人間を救うことにつながるのです。また、人間を救うことそのものであるということが聖書によって明らかにされているのです。

・それでは「御心」でなければ、癒されなくても良いのでしょうか。この言葉通りに解釈するならば、皮膚病が癒されることが神様の御心にかなわないのであれば、それでもよかったのです。神様にすべてをゆだねているからです。

・すると主イエスはその人に手で触れて、直接に触れて、「清くなれ」と言われました。ここで主イエスは伝染病である皮膚病に、うつることも気にせず、直接手で触れられたのです。「よろしい。清くなれ。」と命じられました。すると、たちまち重い皮膚病は去っていきました。主イエスの命令によって、罪に汚れた状態から、新しく、清い状態へと変えられたのです

・皮膚病とは恐ろしく、汚れている病気であるとされていました。主イエスは、一度だけ、「清くなれ」と言われ、その患者が「御心ならば」と言われたその言葉に込められた深い願いを受け止められたのです。

・遠藤周作の原作の映画作品で「愛する」という映画があります。原作の小説の題は「わたしが・棄てた・女」という原作です。その小説には、沖縄出身の男性と出会ったミツという少女の話しです。その少女はある日ハンセン病にかかったと診断され、男性とは別れて治療するために北アルプス山麓にある隔離治療所へ入ります。しかし、あとから、ハンセン病ということは誤診だったと分かるのです。その少女は、明るく、いつも患者を励まし、慰めながらみんなに希望の光を与えていました。その少女は、シスターたちや患者たちにとって自分が必要な存在だとわかり、病棟で一生を捧げ、患者と一生を共にすごすことを決意するのです。

・しかし、隔離治療所ということで、愛する男性とは離れて、その後、誤診だったということは知らされずに男性は過ごしているのです。そのようなお話しがあります。自分のためでなく、人のために生きようと決意することは、とても難しいことです。ひとつの愛を犠牲にして、この少女はこのような人生の選択をしたのです。

・御心とはそのような神様に従った人生の選択であり、犠牲をともなってでも救いへと至らしめるような、神様の御旨であるのです。主イエスは、「正しい人のためにではなく、罪人を招くために」、この世に神様によって送られた方だからです。「御心」という神様の示されるご意志に従って、癒され、私たちの汚れと共に清くされるからです。




前のページに戻る

日本基督教団 羽咋教会
e-mail