羽咋教会 主日礼拝説教『闇が力をふるう時』



<2004年8月1日 主日礼拝>
「ルカによる福音書」22章47節〜53節



  • 聖書の中には闇の部分があります。その闇は、いわば光の裏側として、存在しています。この箇所も、ある意味で闇の部分に属する箇所であると思います。しかし闇があってこそ光が美しく輝くというのもまた、事実であります。私達の心にも闇があり、光があるのと同じです。

  • 弟子のひとりであるユダは、群衆の先頭にたって主イエスに近づき、親愛のしるしの接吻をしようとしました。主イエスは最後の晩餐において、まえもって彼にユダの裏切りについて、警告をしていたにもかかわらず臆せずに・・・。

  • ユダが近づいてきたら、主イエスの周りの人々がいいました。
    「主よ、剣で切りつけましょうか」

    ユダは、他の者たちと共に、主イエスを何とかして捕らえようと企んでいたからです。ユダはある者によって右の耳が、とうとう切り落とされてしまいました。

  • しかし、ユダは耳が切り落とされてからすぐに、主イエスによって癒されました。癒しの奇跡の行為であり、まさしく「闇」の中にある「光」の部分です。主イエスを殺そうと計画をしていた彼らに対して、「今は闇の力がふるっている」と言われました。

  • 闇は光りを輝かせる。そして光りは闇がなければ存在できない。光と表裏一体として闇の力があるのならば、その闇が、どれほど光を輝かせることでしょうか。

  • 日本の文学者、和辻哲郎という人は「心の闇」について、それを捉えることができた自分の経験を、小説や哲学に記しています。聖書における特に、今日共にお読みした箇所に記される闇というのは、いわば、このように「心の闇」として、悲しみ、苦しみ、あるいは罪深い愚かさ、というようなものに相当する闇である、と言えると思います。

  • 私達は耳で聞き、あるいは目で読み、そして、心で感じることのできる「光」を与えられています。それは「キリストの光」です。いつ、どのような時にも私達には主イエス・キリストという光が共にあるということを、信じることができるでしょうか?闇の力が振るうような時にも、襲いかかるような不安や恐怖に襲われる時にも、必ずや「光の時」があるのです。

  • こののち、身震いするような恐ろしい、主イエスの十字架による死が待ち受けています。しかし、主イエスは御自分の体を敵の手に任せて、すべてを神様の御手に委ねられるのです。それはつまり、主イエスご自身が身をもって、「恐ろしい闇」である十字架上の苦しみに飛び込んでいき、経験されるということです。

  • 主イエスが自ら「闇の力」を経験されることによって私達には、どの世界にもないような、「光」を与えられるのです。それは、主イエス・キリストによる究極の愛の犠牲です。

  • その犠牲を、私達は忘れてはなりません。心を砕いて、私達を愛して下さった主イエス・キリストのみが、私達を「真実の光」へと導いて下さるということを。







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