【参考資料】

田 鶴 浜 と 長 氏
 

 戦国時代、能登の勇将として名高い長 連龍は、田鶴浜発展の基を築いた功績者である。長氏が能登に入国したのは文治2年(1186)長谷部信連の頃と伝えられている。

長 連龍は長谷部家18代続連の3男として、天文15年(1546)8月穴水城に生まれ、幼名を万松といった。 長氏と田鶴浜が密接な関係で結ばれるのは、天正年間後期領地鹿島半郡31,000石の行政の中心となる「田鶴浜館」が建設されてからである。その頃までは、人家の少ない海辺の村であった田鶴浜に、連龍によって建設の第一歩が進められたのである。

                                         
                                                                                     
 まず、日和が丘の突端に連龍の母の菩提寺「花渓寺」(現在の「東嶺寺」)が建てられ、赤蔵山に近い丘陵の端に悦叟寺を配した。また、両寺の間を一直線の道路と水路を結び、ほぼその中心から山手へ直角に入った場所に「田鶴浜館」を構えている。この館跡は現在の得源寺の敷地である。館に至る道路の両側には、家臣の住居が立ち並んでいたと伝えられ、現在もこのあたりを殿町と呼んでいる。連龍は慶長11年(1606)に剃髪して、如庵と号し田鶴浜に閑居した。以降2子連頼の後見人として、また、鹿島半郡の本格的な支配をし、41度にわたる攻城で数々の戦功をあげ、元和5年(1619)2月3日、74歳の高齢で田鶴浜館において卒去した。

法名は「東嶺良せん顓庵主」で、東嶺寺の名の起こりであり、長家墓所に祀られている。

長 連頼は、慶長9年(1604)11月9日、連龍の2男として生まれた。

慶長16年、兄好連の死亡によってわずか8歳で長家第23代の家督を継いだ。(赤蔵山講堂棟札には22代とある。)のちに前田利常の養女を夫人に迎えている。(実父は前田の重臣不破彦三光昌)連頼は、長家当主としての期間が歴代の中でも特に長く60年間に亘っている。その間には、建設事業も多かったが、加賀藩政史の中でも大事件であった浦野事件が起きている。
 
建設事業で現在も田鶴浜に遣っているものでは、慶安3年(1650)に父連龍の菩提のため東嶺寺を大改修し、境内の丘には宏大な墓所を造成している。当時は殿堂の荘厳さ、墓所の結構ともに地方に類がないといわれていた。この寺は規模広大にして、前方には石垣を築き、幅9尺(.7m)の堀を巡らして城郭にも似た構えを備えている。
 
万治2年(1659)5月には赤蔵権現講堂を建立した。この建物は間口8間(14.4m)、奥行6間(10.8m)あり、材質は槇木で屋板は方桁造である。棟札によれば大工坂上嘉澄嫡子源嘉清作と記されている。また、明暦2年(1656)には赤蔵山鐘楼堂及び大梵鐘寄進。寛文2年(1662)、牛ケ鼻観音堂を建立し番人に長助(白浜観音良策氏先祖)を任命し、観音堂坂下に屋敷を与えている。
 
寛文4年には赤蔵権現奥の院及び二王門を建立した。奥の院は間口3間(5.4m)、奥行2間(3.6m)で材質は草槇を使用し、三間社流造である。たばさみの牡丹獅子、蛙股の間の山鳥の彫刻は寛文以前の作といわれている。これは以前にあった堂のものを使用したと伝えられる。二王門は間口3間半(6.3m)、奥行2間(3.6m)で材質は欅である。
 
赤蔵山にはこのほかにも白山堂、神明堂、三重の塔があったと記録されており、これらも連頼によってたてられたと推定される。
 
寛文9年(1669)には東嶺寺の梵鐘が寄進されている。この梵鐘の銘文は東嶺寺住職小比丘鑑心の作である。そのほか年代は不明であるが、赤蔵山栄春院及び亀山天神堂も建立している。また、悦叟寺境内において長 綱連や七尾城で戦死した一族の碑も建立している。
 
長 連頼は浦野事件が落着して3年後の寛文11年(1671)3月24日、67歳の生涯を閉じた。亡骸は東嶺寺に葬られ、法号は乾徳院鉄山良剛老居士と称し、父連龍の横に墓碑が建立されている。
 
かくて長氏は、天正8年(1580)に織田信長より鹿島半郡を受けて以来90年間にしてお家存亡の危機を迎え、第24代尚連のとき前田家の命令のまま寛文11(1671)金沢へ引き上げていった。
 
長氏が浦野事件の後田鶴浜から引き上げて300年あまりになるが、今だに「長さま」を知らないものは田鶴浜の者でないと言われるくらいである。
 
現在でも東嶺寺では毎年秋に長 連龍公をはじめ、一族の霊を弔う法要が厳修されている。また、住吉神社の春祭りに曳かれる山車は、長氏が田鶴浜に居館を構えた折、住民がこれを祝った行事が伝えられ、今日も盛大に行われている。 
 
さらに、町の特産「建具」も長氏によって始められたものであり、これを記念して毎年建具業者が集まり、長氏一族の法要を営んでいることなども長氏を偲ぶあらわれであろう。
 
これらのことを綜合してみれば、長氏への尊敬はまだまだ深いものと感じられる。明治維新後、長氏が一時金沢から田鶴浜の日和が丘に居館を構えたのも、住民の厚い信頼があったなればこそと思われる。

                                                                                                                                             
注: 建具技術の伝来

慶安3年(1650)、長 連頼は、先々代連龍の菩提を弔うため、東嶺寺の堂宇を改築した。(当時「花渓寺」と言われた東嶺寺は、この改修により翌年東嶺寺と改称されている。)

 この改築の折、戸障子、欄間等の作成に当たり、尾張国(愛知県)から指物工2名を招いて作成にあたらしめた。当時この2人の技術が非常に優れており、村民はその技術を学ぶために競って寺へ弟子入りしたのである。これがきっかけで本町の建具製造が始まり、特産物となって今日まで連綿と続いているのである。
「本文は田鶴浜町 町史(現:七尾市)より引用」