企画特集 |
[「聖戦とは」]
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「聖戦とは」 (2)
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沖縄県糸満市に立つ「ひめゆりの塔」のそばで、「ひめゆり学徒隊」の生存者16人が自らの体験を証言し続けている。先の戦争で、住民が動員された唯一の地上戦が繰り広げられた沖縄戦。
「あの戦争は決して『聖戦』ではなかった」と、語り部の1人は訴える。石川護国神社(金沢市)の「大東亜聖戦大碑」に寄付者として「少女ひめゆり学徒隊」の名が刻まれていることに、無念さをにじませる。
米軍が沖縄に迫っていた45年3月23日の夜。沖縄師範学校女子部1年だった宮良(みやら)ルリさん(74)=那覇市は、生徒・職員計240人とともに南風原(はえばる)陸軍病院に動員された。
病院と言っても急ごしらえの壕(ごう)の中。食事運びや水くみ、汚物処理、死体埋葬が主な仕事だった。戦闘が激しくなると睡眠時間もなくなった。
5月25日、本島南部への撤退命令が出た。重症患者は置いていくという。壕の中にこだまする「連れていってくれ」と叫ぶ声。脚のない患者がはいずって入り口に出てきた。
「重症患者は衛生兵が運ぶから安心しろ」。兵士の言葉を信じた。しかし移動先で、後から来た学徒隊の1人から、残った患者が青酸カリ入りのミルクを飲まされ毒殺されたと聞かされた。「軍国少女にとってもそれは大変なショックだった」
軍が住民を追い出して南部の壕に入った。学徒隊以外も含め100人近い人が10メートルの深さのガマ(天然の洞くつ)の中で、すし詰めになったまま息をひそめた。明かりもなく、脚も伸ばせない。隣り合った友人と衣服が白くなるほどのシラミをつぶしながら、3週間を過ごした。
6月18日夜、壕に司令部から「解散」命令が伝えられた。19日の明け方、地上から何度もたどたどしい日本語で「出てこい」と呼び掛ける米兵の声が聞こえたが、だれ1人出ていかなかった。すると、「ダーン」というごう音とともに「ガスだー」という叫び声。一瞬にして白い煙が立ちこめ、目も開けられなくなった。「のどがぎゅーっと締め付けられるようになって気を失った」
気が付くと、友人たちの死体の山の中に倒れていた。3日間、気を失っていたのだった。放心状態のまま、わずかな生存者とともに壕にいたが、4日後、死体からウジ虫がわき出した。死臭に耐えられなくなって壕を脱出。米兵に発見された時、一緒にいた看護婦が手榴弾(しゅりゅうだん)で自殺を図ったが、不発。捕虜となった。
「本当はみんな生きたかったのに、捕虜になると辱めを受けて戦車でひき殺されると言われ、信じていた。ただそれが怖かった」
大碑に団体名を無断刻印されたとして、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の卒業生約3000人で組織する「沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会」(本部・那覇市)が建立委員会(完成後に解散)の実行委員長あてに抗議の手紙を送って半年余り。今のところ、委員長側から同窓会に返事はない。
建立委員会は、5万円以上の寄付をした団体名を刻んだとしている。しかし、団体名を使って寄付した東京都在住の男性(77)は沖縄戦に動員された学生とは無関係で、独断で「少女ひめゆり学徒隊」「少年鉄血勤皇隊」の名前を使ったという。
男性は「勝手にやったのは事実だが、善意でやった」と話し、削除するつもりはないとしている。抗議については、「自分は死んだ人のために名前を入れてあげたのに、生きている人間が何を言うか」という。
大碑に反対する石川の市民団体のメンバーらは今月下旬、沖縄を訪ねる。県平和運動センターが主催する「沖縄ピースツアー」で、計約20人が参加する。現地では、ひめゆり学徒隊の語り部たちとの交流会も計画している。「平和の大切さを五感を通じて学びたい」という。
語り部の1人はいう。「私たちが証言していくことで、戦争を美化するような動きを1人でも多くの人が見抜けるようになってほしい」
ひめゆり学徒隊
沖縄戦で動員された沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒・職員323人のうち、米軍の攻撃や自決などで219人が死亡した。
両校の校友会誌の名前から戦後、「ひめゆり」の名がついた。46人が最期を迎えた壕の跡が残る糸満市伊原に「ひめゆりの塔」と「ひめゆり平和祈念資料館」がある。
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