『教行信証』のこころ
【注 意】
※インターネット上への転載はご遠慮ください。
リンクはご自由にこちらへ → http://web2.incl.ne.jp/fujiba/rak.htm
※プリントアウトした上での転載・引用・コピー・配布、およびファイルとしての保存は
ご自由にどうぞ。ただし無償の利用・配布に限ります。
(有償配布、有償物への掲載はお断りという意味です)
※この原稿は未完成で、随時変更があります。ですから、今後この意訳には様々な
版が存在することになる可能性があります。したがって引用・転載する場合は、
必ず出典として意訳者名と日付とこの注意書きの全文を明記してください。
意訳 藤場 俊基 [2003年2月10日版]
浄土を明らかにする真実の教え・はたらきかけ・証しの文類
浄土を明らかにする
真実の教え・はたらきかけ・証しの文類の編集にあたって
およばずながら思いをめぐらしてみると、あらゆる人を必ずすくうという誓いは、人の思いがおよばないほど深い。それは荒海をゆく大船のように、ゆるぎない安心をもたらす。底知れぬ愚かさの闇を照らす光が仏教の智慧であり、それは人間にほんとうの明るさをもたらす。
その安心と明るさの源を浄土という。浄土とは、人間の憎しみや怒りや愚かさが渦巻くただ中においてこそ明らかになるものである(/され(/なら)なければならない)。もし、ダイバダッタとアジャセの謀略によって王舎城に悲劇が起こらなければ、釈尊は浄土の教えを明らかにする機縁を得られなかったかもしれない。子が父を殺す修羅場で悲嘆にくれたイダイケのような人のためにこそ浄土の教えが必要なのだ。だから、この出来事が起こったから、釈尊は浄土の教えを明らかにすることができ(/浄土の意味が明らかになっ)たとも言える。
このように生きることの重さにあえぐ人々をひとしく救われた釈尊の姿に大乗仏教の菩薩の精神を見る。その願いは深い悲しみの中から発せられるから、反逆する者や無関心の者をも決して見捨てることはない。
だからこそ知ることができる、浄土からのはたらきかけである如来の名号はいかなる悪の中にあっても救いの光をもたらす智慧であり、浄土をよりどころとする信頼はいかなる疑いも破り、生きることのたしかさをもたらすことを。
この教えに出あい、その道を歩むことは決して難しいことではない。むしろ、何のとりえもないと自分に自信をもてない人や、生きることに不器用な(/うまく立ち回れない/どんくさい)人のための近道である。釈尊が説き明かされた仏教とは、究極的には念仏の教えに尽きている。人間のみにくさや愚かしさを嫌いばかにして、美しさや賢さばかりを追い求め、てっとり早い解決法を手に入れようとして、かえってあふれる情報におぼれて何を信じていいかわからなくなっている人、あげくのはてにこれでいいのだろうかと思い悩み、まわりから取り残される不安が消えない人、そして過ちをくりかえす自分自身がどうしても好きになれない人、そういう人のためにこそ浄土の教えが必要なのである。だから迷うことなく、釈尊がイダイケ夫人にすすめたこの勝れた道を歩み、「ただ念仏すべし」という教えにすべてをたくして、本当に信頼できる〈たしかさ〉に出あうよろこびを知ってほしい。
思えば、私親鸞が身をもって通った道ではあるが、この教えは求めてえられるものではない。勧められても簡単にうなづけるものではない。浄土の教えの本当のすばらしさに気づくことはまさに至難である。だからこそ、千載一遇の機縁を得てこの教えに出あえるよろこびは何ものにも代えられない。もし疑いの網にとらわれつづけたならば、(せっかくの)人生のすべてを棒にふってしまうことになるであろう。
南無阿弥陀仏の六字はすべての人を摂め取って捨てない真実の言葉であることははっきりした。なぜなら名号とは、生まれて生きて死にゆく者に、生きる意義を見いださせようとする願いをあらわしているからである。生きることに迷い悩み苦しんだ人々がすでにいる、国を越え時代を超えて無数に。迷い悩み苦しむ人よ、それらの先達の歩みを尋ねていくことに何のためらいがあるのか。
私、愚禿釈親鸞は、仏教発祥の地インドや中央アジア諸国で生まれた仏教を伝える尊い経典や書物、そして中国や日本の尊敬すべき先達たちが著わされた導きの書物にめぐりあえた。それらは、探し求めて出あえるものではなく、聞こうとして聞ける教えではない。(なぜなら目の前にあってもそれと気付くことができないからだ。)それらの先達の導きに出あえ、聞き得たことは、この上ないよろこびである。
真宗、すなわち浄土を明らかにする真実の教え・はたらきかけ・証しに出あい、私ははじめて人間が真に信頼すべきものが何であるかを知った。無数の先達がそれを〈如来の恩徳〉と呼び敬い、受け継いできた。その教えは間違いなくこの私にまで届いてきた。このことを心からよろばずにはおれない。
教えに対する信頼とは、それを受け継ぎ伝えてきた歴史の中に対する信頼である。だから私は、本願の教えを伝えてきた歴史に対する感謝と称讃をこの書に刻みたい。
[藤場 俊基 試訳 2003年2月5日版]
顕浄土真実教行証文類の試訳
浄土を明らかにする真実の教え・はたらきかけ・証しの文類
浄土を明らかにする真実の教え・はたらきかけ・
証しの文類の編集にあたって
心静かに浄土真宗の教えに思いをめぐらしてみると、あらゆる人を必ずすくうという誓いは、人の思いがおよばないほど深い。それは(荒)海をゆく大船のように、ゆるぎない安心をもたらす。底知れぬ愚かさ(の闇)を照らす光こそが仏教の智慧であり、人間にほんとうの明るさをもたらす。
その安心と明るさの源を浄土という。浄土とは、人間の憎しみと怒りと愚かさのただ中においてこそ明らかにならなければならない。だから、ダイバダッタとアジャセの謀略によって王舎城に悲劇が起こらなければ、釈尊は浄土の教えを明らかにされる機縁を得られなかったかもしれない。親子がいのちを傷つけあう修羅場の中で悲嘆にくれたイダイケのような人間のためにこそ浄土の教えが必要なのである。だから、この出来事が起こったからこそ、釈尊は浄土の教えを明らかにすることができたとも言える。 このように苦悩にあえぐ人々をひとしく救われた釈尊のお姿に大乗仏教の菩薩の精神を見る。
その願いは深い悲しみの中から発せられるから、反逆する者や無関心の者も決して見捨てることはない。
だからこそ知ることができる、浄土からのはたらきかけである如来の名号はいかなる悪の中にあっても救いの光をもたらす智慧であり、浄土を拠りどころとする信頼はいかなる疑いをも消しさり、生きることのたしかさをもたらすことを。
この教えに出あい、その道を歩むことは決して難しいことではない。むしろ自分に自信をもてなくて悩み苦しむ人や、生きることにむなしさおぼえる人のためにこそこの道がある。釈尊が説き明かされた仏教とは、究極的にはこの念仏の教えに尽きている。人間のみにくさや愚かしさを嫌いばかにして、美しさや賢さばかりを追い求め、てっとり早い解決法を手に入れようとして、かえってあふれる情報におぼれて何を信じていいかわからなくなっている人、あげくのはてにこれでいいのだろうかと思い悩み、まわりから取り残される不安が消えない人、そして過ちをくりかえす自分自身がどうしても好きになれない人、そういう人のためにこそ浄土の教えが必要なのである。だから迷うことなく、釈尊がイダイケ夫人にすすめたこの勝れた道を歩み、「ただ念仏すべし」という教えにすべてをたくして、本当に信頼できる〈たしかさ〉に出あうよろこびを知ってほしい。
思えば、私親鸞が身をもって通った道ではあるが、この教えは求めてえられるものではない。勧められても簡単にうなづけるものではない。浄土の教えの本当のすばらしさに気づくことはまさに至難である。だからこそ、千載一遇の機縁を得てこの教えに出あえるよろこびは何ものにも代えられない。もし疑いの網にとらわれつづけたならば、(せっかくの)人生のすべてを棒にふってしまうことになるであろう。
南無阿弥陀仏の六字はすべての人を摂め取って捨てない真実の言葉であることははっきりした。なぜなら名号とは、生まれて生きて死にゆく者に、生きる意義を見いださせようとする願いをあらわしているからである。生きることに迷い悩み苦しんだ人々がすでにいる、国を越え時代を超えて無数に。迷い悩み苦しむ人よ、それらの先達の歩みを尋ねていくことに何のためらいがあるのか。
私、愚禿釈親鸞は、仏教発祥の地インドや中央アジア諸国で生まれた仏教を伝える尊い経典や書物、そして中国や日本の尊敬すべき先達たちが著わされた導きの書物にめぐりあえた。それらは、探し求めて出あえるものではなく、聞こうとして聞ける教えではない。(なぜなら目の前にあってもそれと気付くことができないからだ。)それらの先達の導きに出あえ、聞き得たことは、この上ないよろこびである。
真宗、すなわち浄土を明らかにする真実の教え・はたらきかけ・証しに出あい、私ははじめて人間が真に信頼すべきものが何であるかを知った。無数の先達がそれを〈如来の恩徳〉と呼び敬い、受け継いできた。その教えは間違いなくこの私にまで届いてきた。このことを心(の底)からよろばずにはおれない。
教えに対する信頼とは、それを受け継ぎ伝えてきた歴史の中に対する信頼である。だから私は、本願の教えを伝えてきた歴史に対する感謝と称讃(の気持ち)をこの書物に刻みたい。