『キリストの名において』

『キリストの名において』

<2003年6月10日 家庭礼拝説教>
「詩篇34編」2節〜4節、「コリントの信徒への手紙ニ」4章16節〜18節
〜P.T.フォーサイス「祈りの精神」より〜



・私たちがお祈りをするときに、神様からの祈りの答えを期待して祈るということはないでしょうか?願いをどのようにしてかなえて下さるか、また祈りを受け入れてくださるか、という祈りの答え、です。

・祈りそのものが神様の答えである、そのようなことを考えたことはあるでしょうか?キリストの名において祈るという意味はそこにあるのだ、とフォーサイスは言います。

・神様が、キリストによって、私たちに絶えず語りかけていてくださるので、私たちは絶えず祈らなければならないです。そして、キリストの名において、あらゆる恵みや賜物を頂いていることに答えることが、祈りであるというのです。

・「祈りは神の御手が魂の弦に触れるとき、打ちふるい、かなでだす魂の調べである。こうして、われわれは何をおいても、キリストの和解の十字架において、われわれのために祈られる神の祈りに答えるのである。」

・祈りとは魂の弦にふれて奏でる「魂の調べ」であり、「魂の旋律」であるということをフォーサイスは述べています。魂が神様に向かっているならば、魂の調べである祈りも、おのずと讃美の調べになっていくことと思います。

・祈りについて、語られている言葉があります。宗教改革者、マルチン・ルターの言葉です。「祈りにおける最善のものは信仰である。」 M.ルター

・この言葉に祈りにとって信仰がもっとも必要なことが示されているように思います。信仰のない祈り、キリストの名によらない祈りは、良くないものとなってしまうからです。

・神様の御前に謙遜になる、つまり、神様の光の中に自分をすべてさらけ出すこと、が重要なことです。それでも尚、自分自身のうちに神様と共に入ることのできない部屋というものを持つことがあるでしょうか?フォーサイスはこう述べています。「われわれは神を案内して人生の廊下を歩むとき、この部屋の前を急ぎ通りすぎて、整然とした客間だけを見せるのである。」

・自己満足の祈りなのではなく、神様の前で謙遜になってキリストの名においてすべてをさらけ出し、主イエス・キリストと深く交わるような祈りを、捧げられたらと思います。




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