『服従する僕』

<2002年10月13日 主日礼拝>
「ルカによる福音書」7章1節〜10節



・10月13日の今日は、日本基督教団の教会暦において定められている、伝道献身者奨励日です。 神学校に献身する伝道者は、自分の生涯の全てを伝道のために捧げ、自分の命を賭けて伝道者として主イエスに従う僕である、そのように思います。

・新約聖書においては、イエス・キリストへの信頼が、信仰そのものが、従うという行動を伴っているとされています。それゆえに、従う覚悟のあるものだけが己を捨てて自分の十字架を背負って、「服従する」ということが、求められています。
 
・ルカによる福音書の今日の箇所においてこの百人隊長の部下が、病気にかかり、死にかかっていたのです。異邦人でありながら、部下に慕われていた百人隊長は、僕のために使者を遣わし、主イエスに頼みました。はじめに長老を、そして次に友達を遣わしました。

・僕を癒してほしい、と。友達である彼は、百人隊長に服従する自分達の部下のことを述べました。 主イエスは彼らの、そして百人隊長の何を感じ、読み取ったのでしょうか。それは、百人隊長の信仰であり、彼らの部下である僕の従順な、服従的な信仰だと思うのです。 「わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(「ルカによる福音書」7章8節)

・オランダの神学者であるファン・リューラーという学者は、服従について信仰における立場からこう述べています。 「主としてのイエスという特徴づけには、何か英雄的なものも含まれているでしょうか。・・・イエスはまさにあらゆる主たちの主であり、それゆえわたしたちは、彼にすべての畏敬と服従、すべての崇拝と尊敬を帰すわけです。・・・私たちは兵士達が彼らの王に仕え、服するように、イエスに仕え、服従するために召され、義務付けられています。」(『キリスト者は何を信じているか』ファン・リューラ著)

・この言葉は、彼が使徒信条について書いた本の中で、「われらの主、イエス・キリストを信ず。」の「われらの主」という部分を解説するときにこう述べています。私たちは、信仰を告白をするときに使徒信条を述べ、礼拝において、いつも共に、「われらの主」と呼び掛け、主イエス・キリストに対する服従を公に言い表し、告白をしているのです。主イエスに服従し、忠誠を誓っているのです。
 
・主イエスは、百人隊長の部下である僕の話しをきいて、これほどの信仰を見た事がない、このように述べられました。使者たちが家に帰ってみると、部下の病はよくなっており、癒されていたのです。主イエスの言葉によって、彼の信仰が受け止められたのです。

・献身する、召命を受けるということは神様に生涯かけて服従していく、ということです。私達は今、心から喜んで、主イエスに服従する僕となることができるでしょうか?




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