<2002年11月3日 墓前祈祷会>
「ヨハネによる福音書」21章17節〜19節
・主イエスは、私達人間の罪のために十字架におかかりになられる前、弟子のペテロに向って、次のようにおっしゃられました。 「ヨハネの子、シモン、私を愛しているか。」 このような同じ質問を三度されました。 「私を愛しているか」、と。 主イエスは、この弟子に対する問いと共に、御自分の働きにおいて、ヨハネを必要としていたに違い有りません。また、ペテロが主イエスを思う以上に、愛されていたのでしょう。
・主イエスの愛の深さがどれほど深いものであったのかは、この箇所におけるペテロに対する問いから伺えます。 「私を愛しているか。」
この問いを三度も繰り返されることによって、いかに主イエスが私達に対して、信仰をためされているかということも同時に思わされます。 ペテロが神の栄光を表すためにしたことは、その生涯をもって神の栄光を表した主イエスの十字架のみ苦しみに比べれば、とりに足りないと思われるかもしれません。しかし、だからこそ、この問いは、現代の私達にも同様に向けられている問いでもあると思うのです。
・ペテロが主イエスを愛していたことは当然のことであります。しかし、私達はペテロ以上に主イエスを愛し、その十字架の贖いによる恵みに対する応答を、からだでもって現わしていると言えるでしょうか。 信仰とは、主イエスの十字架と復活を信じること、また、その信仰をからだで現わし、神様に自分のからだを捧げるということです。 この憂いにも満ちた、また、愛情に満ちた主イエスの態度は、そのまま私達にも当てはまるのです。今一度、この主イエスの言葉を胸に思い起こし、それぞれの生活に当てはめてみるとよく分かることであります。 私達は、主イエスと共に十字架の苦しみを背負った生活をしているでしょうか。この兄弟は、まさに、主イエスの十字架と共に背負って生きた、信仰の人であったと思います。
・主イエスの福音を宣べ伝えるために、羽咋教会におけるお働きは、真に主イエスの愛を受けるにふさわしいものであると思います。たった一度の人生を、主イエスにお捧げするということは、それほど簡単なものではありません。日毎に主イエスによって、変えられ、神の似姿に変えられた、聖なる生活をされたと言っても過言ではないでしょう。 そのことは私達がその信仰に見倣うべき事であるのです。 ペテロは最後には、主イエスを知らないという告白によって、裏切りの行為をしていまいます。私達はそのような弱く罪深い人間なのです。 その罪を赦して、それでも愛して下さる主イエスを、心から信じて、救い主メシアであると告白したのが、この兄弟であります。
・日常の汚れや、弱さなどを自分の盾として、弱ければ弱いほど、恵みを頂いているということを私達に知らしめて下さったのです。このひとりの人生を私達の宝として、主イエスの言われた言葉を、また繰り返し現代に響かせるのです。 「わたしを愛しているか。」 この兄弟は天に昇られ、主のみそばにおいて、今、この問いにこたえていることでしょう。「主よ、あなたを心から愛しています。」と。今その栄誉を讚え、地味で弱い存在でありながら、力強く語り、信じる勇気と福音宣教の新しい道備えをして下さった羽咋教会の兄弟姉妹を、神のみもとに送り、天国において、主のみもとで羽咋教会を守っていて下さることを信じ、ここに祈りを捧げたいと思います。 どうか、主の愛に答え、キリストに従うその生涯を生き抜かれた兄弟姉妹に、心からの祝福を祈ります。
日本基督教団 羽咋教会
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